あれはもう何年前か。とにかく晩春だった。陛下をかこんでおはなしする会が皇居内の花陰亭でもよおされた。文化人四、五名お招きうけてである。――その雑談中のことであったが
『陛下。陛下はマル干シを召上がったことがおありですか』と獅子文六がきいた。『マル干シ?』と陛下はけげんなお顔をなされた。『さあ、どうでしょうな』と、そばから徳川夢声。すこし間をおいて、入江侍従が『おそらく御存知ありますまい』とつけ加えた。味覚の説明はむずかしい。わけてマル干シの味境などをご理解に訴えるなどは至難であるからこの話題はしぜん花が咲くにいたらなかった。ただ獅子文六はちらと『ご不幸だな、やっぱり』と言いたげな顔つきだった。このあと、火野葦平が鰻のはなしをもちだしたが、うなぎについては、われら以上おくわしい。もっとも蒲焼のタレだの味だのという面からではなく、もっぱら、ご専門の生物学のほうから仰っしゃるうなぎであった。
 その後秋山徳蔵に会ったとき、このことを言ったら『いやそんなはずはない、ずいぶん広いはんいの物はさしあげている。ただ片手に箸、片手で茶漬茶わんをおいたその指でマル干シの尻尾をつまんでくわえるといったようなマル干シはさし上げていないだけのことだよ』と、弁明していた。なるほどそうであろう。下世話の味はやはりゲテの姿でなければそれ本物とは申されまい。マル干シ二、三尾、チョンチョンと首を切って、きれいな器でもったいらしく出されたって、それが料亭のツキ出しなればこそ、黙ってたべているが、家庭だったら『よしゃアがれ』と、台所へ突っ返したくなってしまう。
 このあいだも金田中で食べた吸物椀で糸昆布(刻ミ昆布ともいうだろうか)にたらを合わせた一ト品が出た。板前としては凝った物だし、美味うまくもあったが、それがどうも私にはぴったりこない。食べながら考えてみたらこの“タラコブ”とよぶ汁は私などの幼年時代によく母がおかずにこさえたものである。鱈も安いもんだったし糸こぶなどはなお安い。だから貧乏世帯で子沢山には持ってこいのお惣菜であったのである。汁かげんもシタジの勝った、いわゆる“ショッパ”めな汁だった。いまでも私の家庭では冬など時々これをやらせるが、しかし金田中の蒔絵椀でこれが御料理となってみると、もうわたしの覚えにある“タラコブ”の味ではなかった。
 むかしの貧乏は、現今の貧乏とはまた一だん違う世帯繰りのせまさや底の深さがあったから、主婦の食生活にそそぐ苦労にもなみたいていでない工夫があったように思う。なにしろぎこぼしの米粒の幾粒すらも流し元から逃がさぬように一ツ一ツざるへ拾っていた母の指を覚えている。そんなだから、たとえばさけのおかずといっても切身は買わず、一ト山いくらで滅法安い鮭のあらをよく買ったものである。ところがその中に交じっている荒巻の鎌(アゴ)とよぶところは鮭の全身のなかではいちばん美味い。極く尻尾の端のとこもまたほかの部分の肉よりもはるかにおいしい。ひそかに貧者へ与えられていた貧者の味にはそんな余徳があったのである。
 いぜんにはよく天ぷら屋の鍋台の横では、揚ゲ玉というのを売っていた。これもただみたいに安かった。朝、小松菜の実か何かの味噌汁へそれを一トつまみずつ落すと大家内がみな天ぷらを食べたような気分になる。うどんにも入れ、ただとろりと煮とかして熱いごはんへかけたりもする。どうしてだが、この頃は売っているのを見かけない。銀座のハゲ天へ立ちよったとき、帰りがけにそれをねだったら『どうなさるんです?』と笑われた。
 人がかえりみなくなった物で、ひそかにこちらでは悦に入っている物にかつおの中落ちというやつがある。あの血アイの肉のついている骨。これは季節どきでも魚屋へいうと、いくらでも届けてくれる。なぜあれを世間さまでは捨てるのだろうか。浜作や鶴の家などでも、あら煮とかたいのかぶと煮などというものはよく売れるらしいが、鰹の中落ちを箸でセセリ食うおもしろさと味にはしょせんかなうまい。
 どうも貧乏育ちのせいか、総じてわたしなどは、茶懐石でも料亭の物でも、うまいといつ迄もおぼえていて、あとあと、又の邂逅かいこうを舌が待ちかねるというほどな物にはめったにお目にかかっていず、かえって貧窮時代に母がくるしさの余りに作ったおかしな安惣菜などが、ふと、この年になっても郷愁されてくるのはどういうわけのものだろうか。
 たとえば、大豆をりつぶしたものへ刻ミ葱を加えて味噌汁とした“ごじる”と呼ぶものなど、もっとりと重い味だが、なかなか捨てがたい。あれこれ味噌汁の添えに飽いた一ト朝など、ふとよいものである。そういえば、豆腐屋でただみたいに売っていたおからもこの頃は兎の飼料にでもなって行くのか、人の家では食べられてはいないようだ。けれどわたしはこれも時々家内へ註文する。油いためにキザミ葱、でなければ近海の生きたかにを煮たあとの汁。もちろん栄養価はあるまいが、自分のような弱腸の者にでもこれなら飯にまぶして頬ばれる。
 野菜椀のうちによく合せてあるふきなどにしても、ああイヤ甘い薄味なのよりは、惣菜味の“ショッパイ”煮方のほうがいい。どうも東京の下町人の舌にも近ごろはそのショッパイ味覚がさっぱり忘れられてきた。まだ戦前までは不忍ノ池に亭欄を張り出していた岡田というのが、その江戸いらいのショッパ味を持ちささえていたが、あの家などがさいごの東京の下町料理であったかもわからない。
 蕗といえば、茎ばかりでなく、あの蕗の葉までを細かに刻んで、母は佃煮にしてたべさせた。珍重はできないが、そうまずいものではない。浅草の仲見世には、そのキャラ蕗と山椒の佃煮だけを、まげものの容器で売っていた代々の小店が――それこそ気づかないような小店があったが――やりきれません、と言ってつい二年ほど前に店をやめてしまった。こんな特有な古舗は上方でもずいぶん失くなっているのだろうか。せめて思い出しては家庭でやらしてみるしかない。だが毎年、季節になると大原の寂光院の小松智光尼が、じぶんで作った山椒の佃煮を忘れず送ってくださるが、これはひどく芽のこまい丹精なものである。そして東京のそれとはちがう京都の辛味がべつな趣きをもっている。
 なんのかのと言ってみるが、要するにこっちの舌もすさんでいるのだ。日に煙草を六、七十本も吸う舌で食を語るなどはおこがましい。それと老舌は童味を恋う、ということもありはしまいか。『どうもいまの女はいけませんよ、ヒジキの煮方一つ知りゃあしない。ばかにするけれど、あのヒジキなんて物もどうして捨てがたい惣菜ですからな』とは或る日の文六先生が述懐でもあった。また、川奈ホテルの朝の食堂ではよくキャプテン・エチケットのお愛想をこぼしている大倉喜七郎翁の姿をお見かけするが、あるとき私が翁の耳元へそっと『いったい毎日、ご自分のお部屋では、何をいちばん好むおかずとして召上ってますか』と訊いたところ、翁もまた声を低め『てへ、へ、へ。ひじきとあぶらげです』と、仰っしゃった。
 老舌の持ち主はどうやらみんなこんな風らしい。夏の細根大根が出はじめると、わたしは大根の茎のぬかみそ漬を好んでお新香に添えさせる。大根では茎がいちばん美味い。それなのに冬大根の出盛りなどには八百屋はみんな茎は切って店頭に捨ててしまう。わたしの子供時分にはただでもくれた。そして細かに刻んだのを飯にまぶしては掻っ込んだ。その童味が忘れられないのである。
 抹茶の菓子にも、あれこれほとほと上菓子には飽きてきて、近ごろはまま子供の頃によく食べた“蜜パン”なるもので一服やったりしている。食パンに黒蜜をなすッたものである。ところがその蜜にまたいいのが少ない。そこで葛餅くずもちでは古舗の名のある亀戸の船橋屋から蜜だけ時々もらってそれをやる。クズモチ屋の古舗へ蜜だけくれというのも何だかわるい気がするのであるが、じつは或る年の正月、その船橋屋の屋根看板をつい書かされてしまったことがあるのである。たたみ一畳よりもっと大きな看板だった。もちろん素面ならひきうけるはずもないが、三※[#小書き片仮名ガ、452-上-1]日のうちだったので、こっちは屠蘇機嫌か何かだったにちがいない。あとではどんな字をぬたくッたやら覚えてもいなかった。また気味が悪くて自分では以後見にも行っていない。然し一場のそんな酒のうえの業が、蜜となったかと思うと、おかしくもあり、蜜パンの味もまた、わたくし独りにはかくべつな風味がある。結局、人の根性は童心に、舌の苦情も童味におちつくものとでも言えるのだろうか。
(昭和三十五年)

底本:「吉川英治全集・47 草思堂随筆」講談社
   1970(昭和45)年6月20日第1刷
初出:「あまから」
   1960(昭和35)年5月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年5月4日作成
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