最近私は学生や青年の問題について、書くことを注文されたり意見を徴されたりすることが非常に多い。何が問題になっているのだろうか。何かが見えない動機となってそういう問題を提出させるに相違ない。その匿れた暗礁は何か。
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 学生にとって最近最も切実な関心となっているものは第一に、就職と入学試験とである。前者は専門学校、大学の学生生徒の生活をスッかり引き浚って行って了っているし、後者は小学校から始めて中学校、高等学校の生徒達の生活を殆んど完全に支配して了っている。そして入学試験の問題の最後の関心は云うまでもなく就職への関心だ。
 私は之に就いて良いとか悪いとか云う勇気をもはや持っていない。入学試験の弊害位は制度の改革によって矯正出来そうに想像されるかも知れないが、夫が決してそうではない。第一制度そのものの改革が決して短い時間の内に実行される底のものではない。教育関係当局は、入学試験の弊害を実は口で云う程重大視しているのではない。それよりも大切なのは教育の精神であったり「精神教育」のことであったりする。教育制度(学校の年限短縮や延長のことに過ぎなくても)の改革云々となると、入学難とか何とかいう民衆の立場からする関心などはどこかへ飛んで了って、すぐ様教育の「精神」だ。真面目に民衆のために教育を考えてなどいない。又仮に教育制度が適当に改革された処で、入学難の根本的解決などは出来るものではない。なぜかと云うに、入学難の背景へは、母親の虚栄心や小学校の校長さんの世渡り術などより遥に重大な動力として、将来の就職という目標が作用しているのだからだ。
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 そこで就職問題の解決だが、之が抑々今日の社会問題の隨一に困難なものの一つである事は云うまでもない。之は学校の先生達の卒業生売込運動や卒業生の各種のヒロイズムでも解消しないし、「世間雑話」的な世渡り精神でも役に立たぬ。そうした種類の粒々たる心労も、例えば軍需景気の一寸した上下の作用で、声のない虫のように、ひねりつぶされて了う。就職問題など一にかかって、支配者の腹具合にあると云うべきだろう。併しそう云っても銘々は喰わねばならぬ。責任は支配者にはなくて、学生の場合なら、卒業生の銘々やその親や親戚にある。之が所謂「就職」問題なるものの意義だ。
 こうして入学試験の問題を就職問題へ解消して考えると、結局学生の最も切実な問題と云ったものは決して学生だけに特有な問題なのではない。今日誰だって喰うに困っているか喰うに困ることを恐れているからだ。その一群の民衆が偶々学生と云うものにすぎぬ。親の資産で喰ってゆけるものは就職などは体面の問題にすぎぬ、学生であろうとなかろうと変りはない。従って又、食えないとなると学生であろうがなかろうが、又変りはないのだ。ただ学生の方は卒業までは何とか食えるという条件の下に置かれている多少恵まれた一群の民衆で、卒業を機会に「就職」の時期が家庭と社会とから指定されている人間達に他ならない。
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 就職問題が併し何か学生生活にとって切実な関心となっている、と云い立てられる意味は、勿論一般の失業問題がやかましく云い立てられる意味とは、多少違ったものを持っている。学生の就職問題の場合には、夫が学生生活を歪めるから悪いという点が、論じる人の意識の上では相当重きをなしてはいないか。純真なるべき学生の精神や、学生の好学心や、其他……を傷けると考えるから就職難問題が何か学生に特有な問題にもなるのである。そういう意味から現代の学生は学生らしくなくなったとか、勉強しなくなったとか、或は享楽的になっていると云うことさえの事実(之は何と云っても事実だろう)の責任を、この就職難問題へ持ってゆくのである。
 併し勿論就職難は学生をいつもこのように無気力な学生に仕立てるとは限らなかった。一頃世間は学生の赤化の原因はさし当り就職難にあるとも云っていたものである。でそう考えて来ると、学生生活を歪曲しつつあるものはもはや決してただの就職問題=就職難だけではない。それから来る単なる条件反射のような意識だけでもない。之を通して学生は、社会に対する、或いは寧ろ未来の社会に対する、希望と期待とを失って了っているのだ。それが今日の学生生活の歪曲を齎している、と云うべきだろう。之は今日誰でも云っている処だ。
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 学生は青年であり、即ち時代の新しい矛盾の下に発育して来た者だから、この矛盾が醸す各種のイデオロギーに著しく動かされる。と云うのは、学生にとってはイデオロギーなるものの作用は極めて現実的なのだ。学生はイデオロギーに多分の信頼を置いている。既成社会の現実よりも遙かに多く、学生はイデオロギーに期待する。現実を踏み越えるイデオロギー、或いは寧ろ良い意味に於けるユートピアと云ってもよいが、この観念物や思想物に動かされる。青年の夢と呼ばれるものが之だ。処がこの現実を踏み越えようとするイデオロギーが社会的に一時通用しなくなると、もはや学生には何等希望の特権がなくなって了う。現実に対する計画者としての学生は最も無能な民衆の一群だ。ここに学生生活の歪曲なるものが発生する。
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 そこで学生生活のこの歪曲をどうしたらば良いか、という問題になるのである。尤も社会の支配層にとっては、この状態は大して学生生活の歪曲でもないと考えられるかも知れない。学生が学生の本分を忘れて、学生運動をやったり労働運動に働きかけたり、又啓蒙運動に携わったりするよりも今の方がまだしも学生らしくて都合がいいと考えているのが、かくれた事実だ。誰もそんな事は口には出さぬが、支配層の言動を総合するとそう診断せざるを得ない。社会の支配層は民衆のための教育に就てなど、真面目に考えてはいないと言ったが、本当に学生生活について真面目に考えている人間は当局に椅子は占め得ない、いや社会に於ても足の四つある椅子には腰かけていられないのである。そこで学生生活のこの歪曲をどうしたらばよいか、併しどの点が一体歪曲された学生生活なのか学生が著しく享楽的になったからか、だが実を云うと享楽ということは少しも悪い事ではあるまい。学生は学生の生活を楽しまねばならぬ。野球がよく軍事教練がよいなら、ダンスもよければ喫茶店でレコードを聴くのもよい筈だ。もしダンスやコーヒーやレコードが学生の本分外ならば、凡そ今日の野球程学生の本分を踏み出したものはないと私は信じる。そして若し学生生活を何等かの手段に化すことが悪いならば、就職運動で馬鹿となるのが歪曲だと同じに他の運動や教練だって歪曲だ、併し学生生活の本分をそんなに狭く理解すべきものではない。学生の本分は何であるかなどということを決め得る人間はどこにもいないのである。夫は学生自身が事実上決めて行くものなのである。少くとも生活を楽しくし生活の幅をつけるということは、人生の上で大事なことだ。問題は凡ての民衆が一般的に夫をなし得ないからこそ起きるのだ。
 生活を楽しむためのチャンスが多いという点で、今日の学生は過去の学生よりも幸福であり、且又却って学生らしいのである、これ自体は学生生活の歪曲でも何でもない。それよりも要点は、学生が勉強しなくなったということらしい。――処がこの点でも無条件に片づかないものが含まれている。一体現在の学生はどう言う意味で勉強しなくなったか。私は寧ろその逆の場合の方に出会う事が多い。学生は仲々よく勉強する。ノート勉強をやるのである。教授の云うことを割合善良に信じるようになっているのである。就職のためにはこうした勉強は必至なのだ。して見ると之も普通の意味では学生生活の歪曲ではなくて、却ってノルマルな学生生活に還ったと云う事に過ぎぬ。
 社会科学の勉強は、丁度文学科の学生の文学勉強のように「学生」なるものの本分(?)を踏みはずしたものであったに相違ない、「学生」と云うこの社会の馴致されたカテゴリーからいって、今日の学生生活は大して歪曲はされていない。学生と云う馴致されたカテゴリーは、今日こういう学生生活を要求しているのである。
 だから私は云うのである、学生が学生である限り、即ち「学生」と云うこの社会機構の承認されたる一環を以て自ら任じる限り、即ち又そういうものとして社会の民衆から自分達を区別する限り、今日の学生生活は殆ど何等歪曲などされていない。夫れを批判したり何かする資格をその学生は持たぬのである。学生が「学生」に止まる限り、何も問題はない。あれでいいのである。だが学生が単なる「学生」ではなくて、民衆の一群であり、而も圧迫され踏みにじられた世間の大衆の或る一群だとなると、学生の問題は全く別な角度から光を当てられる。
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 学生は一般大衆から色々な点で区別されている。なる程彼等は第一に知能分子である。それと云うのも社会的に多少は経済上の余裕があって、相当高等の教育を受けることが出来たからだ。だがそれと同時にこう云うことも忘れてはならぬ。日本の教育制度は云うまでもなく、有産者的な制度と方針と内容とのものであり、学生も多少とも有産者の層の出身であるが、併し例えばイギリスの学生のように特殊な貴族層の出ではなくて、実は勤労大衆の或る程度以上の層の凡てから出ていると云うことだ。プロレタリアや貧農出身ではないが、大衆的な勤労層は之によって代表されているのである。その限り学生の社会的位置は決して選ばれた好いものでも何でもなくて、大体に於て貧窮している。夫は一般の勤労大衆が貧窮しているからなのだ。
 尤も同じく貧窮していても、子供を専門学校や大学へ送り得る親達自身は(たといいかに無理算段して一つの投資のつもりでやるにしても)勤労層の比較的上部のものだ。全体の極めて少いパーセンテージに過ぎない処の上部のものだ。併し学生自身にはこの点はそのままあて嵌らない。学生は彼等の次のゼネレーションである、そして親達は自分達の次のゼネレーションの生活までも保証出来る程に、有産者ではない。そうでなければこそ子供には教育を与えて、出世もさせたいというのであった。従って学生層は平均してその親達よりもズット社会的に経済生活の劣った層であり、又そうした層を約束されているわけで、そこに就職問題の真剣な意義もあったわけだ。
 単に学生がその親達よりも経済的に低い社会層をなし、又約束されているだけではない。社会的待遇も亦学生は極めて最近降下して来た。学生であるが故に許されるという特権は形式的に残っているが、併し学生であるが故に許されないものの方が実質的には比重が大きい。学生は寧ろ一人前の大人となって来た(学生らしくなくなった)のであるが、その大人たるや道徳的に最も抑圧された層の大人としてしか通用しなくなった。之は云わば婦人の位置と似たようなものとなって来た。或はもっと本質的な類似を持って来るなら、学生は無産大衆化し、更にプロレタリア的な位置におかれるようになって来た。学生運動は労働運動と近接のつながりがあったが、又そうしたつながりのあるものとして取り締られた。
 かくて経済的な能力から言って又道徳的な権利から言って、学生層は決して特権層とも比較的な特権層とも云う事は出来ぬ。寧ろプロレタリアになぞらえられるような無産大衆の内での、或る特別な層だと云うべきなのである。だから学生を単なる中間層とか小市民であるとか、又そういう意味に於てインテリゲンチャであるとか云うのは、一応本当ではあるにしても、それで以て学生というカテゴリーを片づけ得たと思うなら、大きな誤りだ。
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 問題は学生生活の今日のような歪曲を如何にするかということだったが、今まで云って来たことで、この問題は結局、勤労大衆に属し、又プロレタリアになぞらえられるような、学生という或る特別な層に於ける、生活の歪曲を何うするか、ということになった。夫は第一に勤労大衆層乃至プロレタリア層に準じて考察されるべき内容のものだ。そこでは単なる学生の問題も、単なる学生生活の問題も実はないのである。この点は「学生問題」を提出するに当って第一に大切な点だと思う。――だが第二に学生は夫にも拘らず学生であって一般の無産勤労大衆自身やプロレタリア自身ではないことは云うまでもない。だが第二に或る特別な民衆だ。と云うのは知能の高い民衆であるということだ。或はもっと正確に云うと比較的高い知能を期待出来る処の民衆だと云うのである、なぜなら学校教育だけが知能や教養を与えるのでもないし、又学校教育が却って知能を低めたり教養を妨げたりすることも事実だからである。
 要するに簡単に云うと学生は知能(インテリジェンス)に於て一般の民衆から区別される事が本質的な点なのである。学生は他の一切の規定によってその特性を規定することが出来る。だが今は、学生生活の歪曲を如何にするかという問題だ。この問題にとってはこのインテリジェンスが根本的な観点だ。――つまり学生生活の歪曲は他でもないので知能という人間の普遍的に日常必要な一つの技能を当然最もよく訓練されてあるべき学生がその技能の習得に於て障害を受けていると云う事が何よりの学生生活の歪曲なのであって、この歪曲を矯正することはだから当然、知能という技能によって社会的特性を与えられている処のこの学生という「社会的」位置をハッキリさせることに他ならず、学生の一種の技能者技術者としての社会的使命を自覚することなのである。之が学生という「社会的カテゴリー」に忠実なる所以なのだ。
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 学生に関する学生自身にとっての一切の問題は終局に於てこの「知能的技能者としての学生」というカテゴリーから見て解決されねばならぬと私は信じる。この意味に於ても「技術の獲得」ということは、学生の社会大衆的な使命だ、学生はそのためには願ってもない境遇だ。大衆は学生に対して(馬鹿書生は別として)この知能的技能者を求めている、大衆自身の未来の社会のために、この要求の前に学生生活の見透しとモラルとは明々白々ではないかと思う。
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 以上、私は方々で書いたり云ったりして来たことであるが、最後に一つのことを之につけ加えたい。夫は学生にとっての自意識大衆性との結びつきである。と云う意味はこうだ。学生は一種の知能分子である。知能=インテリジェンスの特色は、夫が最も自覚され易いと云うこと、自意識を必然的に随伴するということだ、かくてインテリゲンチャにとっては自意識なるものがいつも正面に押し出される。だからかつて「知識階級論」が行われた頃、文士達は自意識と云うもので作品の人間的知能を云い現わそうとしたものだ。それはそれでよいのだが、併し自意識に於ける自分、自我と云うものが何かが分っていなければ危険この上もないのである。朕は国家であると云ったルイ十四世のようなのも自我なら、一切の事実は自分の観念に過ぎぬと考えたバークリも自我だ。自意識も大切だが自分を自覚するこの自分が抑々如何なる自分かがもっと大切だ。学生はインテリゲンチャとして、自意識が濃厚だ、併し学生の「自分」は何か。
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 だが実はそのことは先程述べたのである。学生の身分は、学生という社会層は民衆にぞくするものである、無産勤労大衆乃至プロレタリアに準ずるものであると云った、夫がこの「自分」の説明である。学生の自覚は、自分を大衆として自覚することだ。
 大衆の足場、眼、以外に学生の立つべき又持つべき足場も眼もあり得ない、学生と云う特別な層があって夫が独自な足場や観点を提供すると思うなら恐らくそういう学生はこの支配者社会に於て最もよく飼い馴された処の「学生の本分」を専門とする処のものだろう。夫は学生が「自分」を失うことだ、学生問題が消えて無くなることだ。
(一九三六・七)

底本:「戸坂潤全集 別巻」勁草書房
   1979(昭和54)年11月20日第1刷発行
初出:「関西学院新聞」
   1936(昭和11)年8月8日
入力:矢野正人
校正:Juki
2012年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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