文化勲章受領者の九氏については、誰と云って文句のつくべき人はないだろう。自然科学者の本多光太郎長岡半太郎木村栄の三氏は国際的な大科学者であり、夫々斯界の長老であり、そして現役の大物であることに於て、正に適切だと云わねばならぬ。日本画家の横山大観竹内栖鳳も動かぬ処である。洋画家で藤島武二岡田三郎助の両氏もまず洋画から選ぶとすれば不思議でない。幸田露伴佐佐木信綱の二氏も大いにいいだろう。
 ただ世間でこの顔振れを見て、何か物足りない観を懐くのは多少事実ではないだろうか。まず文学者の代表という意味でなら、幸田露伴や佐佐木信綱の他に、之に並ぶべき人物はいくらでもある筈である。例えば島崎藤村は今日は押しも押されもしない大作家の定評がある。年齢のことを問題にしないならば菊池寛も作家としての国民的功労があるかも知れない。それに、洋画で和田英作が漏れているのも少し不公平のようだし、日本画で川合玉堂の貫禄を見落すことは出来ぬ筈。
 処がこうして均衡を保つまでに人を殖やして行くと、例えば画家と他の人達との均衡が著しく失われて来るのである。ただでさえ、九人の内の四人が画家であるということはどう考えても変である、日本の画家が作家其他の文学者の二倍に相当するという比重は、日本の社会の常識が許さぬ処だ。そればかりではない。一人の医者も一人の哲学者も這入っていないのは、決して日本の文化に忠実なものではないだろう。そして俳優や音楽家などがまるで選ばれなかったのはなぜだろうか。
 こう疑問を提出して行くと、疑問は重なる一方である。私はなぜ社会科学者が選ばれなかったか、というような野暮な質問は止めよう。社会科学は日本では若い学問だから、斯会の長老というものは本当の意味ではいない。まして現役の長老はいない。すでに時代おくれで、多少滑稽な存在であるような老大家か、そうでなければ政府が国民の模範として押し立てることの出来ないような若い思想の縁故者である。そして少しでも思想的な価値を有っている人間は、文化勲章には適当でないのである。長谷川如是閑氏も駄目なら、西田幾多郎氏でさえ適切でない。徳富蘇峰氏も一種の言論家である限り困る。思想というような形のものは結局、日本文化の伝統に於ては何か異なものと見えるからである。と共に、充分年をとらない人間も尤もらしくなくて不適当だ。なぜなら自然科学などでもそうだが特に人文的な世界では年の功がおのずから貫禄を有って来るので、之は評価に於て最も常識的で間違いがないように思われるからだ。
 九人の人物はどれも国家的な存在だ。自然科学の三人は国際学界の巨頭であるということによって国家的存在だが、二人の日本画家は世界に類がないという意味で国家的存在である。又二人の文学者は、日本の伝統に就いての最も深い知識の所有者であるか、それとも日本の伝統的文化の保存者であるという意味で、国家的存在である。二人の洋画家に就いての説明は少し苦しいが、日本にもこういう偉い洋画家があるぞ、という見本として矢張国家的存在であるのだろう。
 思想所有の問題、年齢の問題、国家的存在の問題、を顧慮してもなお、人文世界からのこの代表者達に就いての疑問は消えない。――だが少くとも之によって文化勲章なるものの意義の一班が多少世間にも判ったと云うことは出来る。というのは文化勲章とは、必ずしも日本の文化的代表者へ与えられるものではなくて、何か或る特定な尺度によって決められた代表者にだけ与えられるものだということが、見当がつくのである。ただ、ではどういう尺度かというと、一見常識的に判るようでもあるが、少し考えて見ると又、常識でも判らないものなのだ。でとに角文化勲章でいう「文化」というものは、無邪気な社会人が想像するような「文化」というものとは可なり別のものだということを、覚えておかねばならぬ。だからまた、文化勲章は日本文化を象徴するものとは限らないのである。私がここで云いたいことは、現代のような文化的対立が色々の形で現われている社会では、文化という意味にも色々あるものだ、ということだ。文化勲章で云う「文化」は、偶々その一つに過ぎない。

 吾々は出来たら一つ、民間の文化勲章を制定して之を然るべき人間に均衡的に授与したい、というような気にもなる。之が巧く行けば日本の知能を象徴するという程度の役目は、果すだろう。
 私はここで話を自然科学関係の人に限ろう。それから、自然科学関係の人でもその専門の業績如何ということよりも、思想的に如何いう意味を有つかという点から、事柄を見て行きたい。尤もそう云ったからと云って、決して科学者の専門外の余技や道楽が目安なのではない。自然科学界の最近の根本動向の一つは、それが著しく思想的な意義を帯びて来たということにある。特に若いジェネレーションに於てはそうだ。之は自然科学界が発達して、根が社会の地につき始めれば当然起こる現象だが、この科学分科と思想との交流交錯の内に、自然科学の純技術的専門的な価値と思想的哲学的な価値との分裂、という反面も含まれているわけだ。科学の専門家と思想家哲学者などが、日本で今日程接近したこともないが、又その対抗が今日ほど深刻な意味を有ったことも、之までなかったのである。吾々はこういう着眼点から、日本に於ける自然科学的知能を点検しなければならぬ。
 文化勲章受領者で、云わば必要にして充分という感じを与えるものは、自然科学者のトリオである。この三人のつり合いもよく、この三人と他の自然科学者達との対照も呑みこめる。つまり三人とも物理学者乃至物理学的工学者であるが、この世界ではこのトリオは極めて尤もらしいのだ。
 本多光太郎博士は人も知る東北帝大の金属材料研究所所長である。かねてより総長である。業績として物理学では磁気の研究、冶金学では鉄・銅・其他の合金の基礎的研究が有名である。博士の研究が今日主として軍需的重工業の基礎に直接していることを吾々は見落してはならぬ。金属材料研究所全体の仕事の多くはこの一点へ集中されていると見ていい。例えば寒い上空に於ける合金の属性変化の研究は、軍事用の航空材料の研究に必要なので特に、低温研究が試みられるというようなわけであり、博士の発明になる新KS磁石鋼(住友吉左衛門氏の研究費寄贈を記念してK・Sと名づけた)や防弾鋼などを見ても、この点は明らかだ。
 勿論博士自身は極めて着実な典型的科学者であるらしい。併し博士の存在は、現代のような準戦時体制下の科学産業生産にとっては、或る特有な重大意義のあることである。この点博士は社会に於ける一科学者として、どの程度の自覚を持っているのか、吾々の知りたい処だ。
 長岡半太郎博士は、或る意味に於て本多博士よりも派手な存在である。明治三十六年に発表された原子構造論は古くから有名なもので、ボーアの原子モデルの先駆をなすと云われている。磁気の研究に於ける権威は著名なもので、本多博士も亦之を承けて鉄の研究に這入ったと云われている。最近の元素転換の実験は広く社会に紹介された処だ。理論物理学者・実験物理学者として、世界的な業績に富むこと、当代第一級の人物だから、文化勲章の受領者として、之ほど適切な人はないだろう。だがこの間『科学知識』の事実投票によると、勲章受領者の第一位は本多博士の方で、長岡博士は第六位かであった。本多博士の方が、産業上のリアリティーを持っているからかも知れないと思われて、一寸面白い。
 長岡博士は極めて実際的な自然科学者だ。博士ほど頭の働く突進的な科学者は珍しいそうだ。と共に、博士ほど哲学を語ることの少ない理論物理学の大家も少ないのである。かつて大学に於ける研究の精神について語った珍しい文章を見たが、そこにあるものは思想というよりも一種の気骨か気魄のようなものだ。この気骨か気魄かが、博士を驚くべき科学者となし、又一種ガムシャラな手腕家としているらしい。かつて東北帝大理学部が新設される時、石原純博士・日下部四郎太博士等を初めとして新進気鋭の物理学者の群を率いて東大を飛び出そうとしたのは博士である。大阪帝大が出来た時、総長として又理学部の設立者として、横暴と見るまでに思った通りの陣営を造り上げたのも博士だ。
 長岡博士の自信には学術上の実力が伴っている。思い切った政治家的手腕を振うことの出来るのも尤もである。だがガムシャラな手腕家は結局あまり大した政治家ではないのが常だ。学術振興会・学術研究会議・学士院・貴族院・等に於ける半政治的な仕事では大きなファクターであるが、本質は不覊奔放な研究家という処にあるだろう。令息達や女婿を合わせて、物理学者の一族である。
 木村栄博士は昨年まで水沢の緯度観測所所長として、国際天文連盟の緯度変化委員会委員長、及び中央局局長であった。珠算が子供の時から上手だったことが、大変助けになったと云われている。廿五年間、毎夜夜中に四時間ずつ緯度変化の観測を続けたというから、並大抵な辛抱ではなかろう。博士が日露戦争を知らなかったというようなデマが、博士のこの恐るべき生態から生じて来るのは、自然だ。Z項の発見は有名である。
 さて前にも云ったように、文化勲章のこの三人は、国際的な大科学者で、現に現役の筆頭で、且つ斯界の長老としての功労があるというわけで、甚だ勲章受領の必然性があるわけだが、併し同時に、あの勲章の性質から云って、この三人の自然科学者が、今日の一つの根本動向である自然科学界の云わば思想家という現象と、あまり関係ないということが、大切な特色だ。例えば、宇宙線の研究やサイクロトロンの設計で有名な理化学研究所の仁科芳雄博士などもこの部類に数えられるかも知れない。だが仁科博士は一面に於て最もよい意味に於ける啓蒙家であることを特色とする。氏の啓蒙的な科学論文はまことに平明明晰であって、論理的思索の力と文筆の才能とが並々ならぬことを示している。一体にこの頃の若いジェネレーションの自然科学者は、云わば文化的な教養が進んでいるせいか、文章が上手になっている。文筆の素質に於ては敢えて文士に譲らぬ者も少くない。これに較べて見ても、仁科博士の文章は水際立っているようだ。この点石原純博士と好一対であるかも知れぬ。ただ仁科氏はその原子構造に関する解説をなすにも、当然因果律其他の哲学的問題に触れても、之を思想的に一般化しない。氏の啓蒙は全く自然科学の領域内に制限された啓蒙である。
 同じく物理学の啓蒙家として名のあるのは、工大助教授の竹内時男博士であるが、その啓蒙家たる所以は、仁科氏の場合に較べてずっと通俗的なのである。と云うのは竹内氏は科学の啓蒙、通俗化、というようなことを、何か素人に対する知能の分譲か、ニュースの提供とでも考えているようだ。之また科学者の一つの大切な役割ではあるが、併し之だけによっては科学は決して通俗化されるものではない。科学の通俗化、啓蒙には、相当思想的な地盤がいるものだろうと思う。
 数学の世界で多少とも啓蒙的、思想的意義を有っている人は高木貞治博士や園正造博士だろう。東大名誉教授高木貞治博士の代数学に於ける世界的功績は代数の学術的教科書などを見ると出て来る。そして『過渡期の数学』などという本は仲々教養の視野の広い学者であることを示している。京大の園正造博士もやはり代数学者であるが、ずっと抽象的な哲学に相応わしい習慣を持っている。認識論的な業績を有っている数学者の一人だ。かつては『改造』などで論文を発表したが、今ではジャーナリズムとあまり関係がなくなったようだ。寧ろ高木博士の方がボツボツ物を書いている。
 理想的に又文筆的に一番高い価値を持っている数学者は小倉金之助博士である。家に資産がある博士なのに、何と思ったか大学へ行かずに物理学校へ入学することによって、その反逆的な学究生活の第一歩を始めた。やがて東北帝大で数学の教授になる処を、見込がなくなったので、東北を飛び出して塩見理化学研究所の所長となった。阪大が出来る時当然理学部の主座たるべき処を、長岡総長か誰かが承知しないので、今は勅任教授待遇の講師の身である。初等数学や実用数学の価値を評価すること高く、統計数学に於ける国際的な学者であるが、最近の仕事は、特に数学史である。数学の階級性論は曽つて著名なものだった。
 博士は哲学が大きらいである。氏に云わせると東京の某私大の哲学教授である某博士と知り合いになってから、哲学が嫌いになったのだそうだ。独り哲学者に限らず、少し間抜けたことを云う学者はまことに気の毒なほど適切に、諷刺の止めをさされて了う。――博士の本質は実証家にある、そこから歴史的研究に進む。そしてそこから社会科学的認識を深めて行く。普通のアカデミーの科学者には見られない思い切りよく斬新で傍若無人な進歩的思想家である。
 自然科学史に関係の深い物理学者には、大体二つ又は三の系統がある。一つはこの小倉博士の系統で、云わば物理学校系だ。岡邦雄氏は一面この系統にぞくする。と共に岡氏は九州帝大の桑木※(「或」の「丿」に代えて「彡」、第3水準1-84-30)雄博士の科学史を学んだものなのだ。でここに一つ又は二つの系統があるわけだが、もう一つは故寺田寅彦博士の系統で今日では矢島祐利氏がいる。岡氏に就いてはすでに方々で論じられている。唯物論研究会を中心として同氏の活動は私の口から云う必要はない位いだ。大宅壮一氏に云わせると、岡氏は本来、文学青年でヒューマニストで理想主義者であるらしい。この規定は当らずとも遠からずだろう。私に云わせると、同氏には一種文壇的とも云うべき或るニュアンスがある。夫が氏を好ましい思想家にもし、又時々その思想の論理的な弱点を暴露もするのである。
 桑木※(「或」の「丿」に代えて「彡」、第3水準1-84-30)博士は桑木厳翼博士の令弟で、その風貌は見境いのつかぬほど似ているのである。(謡曲は※(「或」の「丿」に代えて「彡」、第3水準1-84-30)雄博士の方が少し上手だとかいうことだが。)併し似ているのは風貌だけではなくて、その学術の風貌も似ているのだ。厳翼博士に於ける哲学の風貌は、そのまま※(「或」の「丿」に代えて「彡」、第3水準1-84-30)雄博士の科学史をつづる思索の風貌である。と云うのは極めて円滑で角のない学術的リベラリズムと云えば、何か判るような、そうした風貌なのである。
 小倉・岡の系統が唯物論的であり、桑木博士の系統がリベラリスト的だとすれば、寺田・矢島の系統は、云わば貴族的で※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊的だとでも云おうか。或いは文学的な風貌を具えていると云ってもよい。「科学文学」というものを連想させる或るものを含んでいるのである。医学史では富士川游石川日出鶴丸の諸博士を初めとして、相当数が多い。生理学史家の多いことは特色だ。それから科学史研究で独特な位置を占めている天文学の新城新蔵博士(上海自然科学研究所)を忘れてはならぬ。京大総長としてはあまり名総長ではなく、宣誓式に唯物弁証法の否定をやって笑われたが、天文学研究と迷信打破運動では著名である。尤も迷信というものが自然科学的啓蒙で治ると思っているのは、如何にも之までの自然科学者らしい迂濶さだが。
 物理学者で思想的に今日最も活動しているのは、石原純博士である。石原博士の東北帝大在職時代は、正に世界一流の物理学者であったろう。相対性原理論の独創的研究家としてかくれもない人だ。その後大学を退いて岩波書店の『科学』の編集を担当することになったが、今日では寧ろ科学的ジャーナリストを以てその専門と目すべきだろう。詩人であり歌人である博士は、物を考えるタイプの自然科学者である。それだけに今日の日本文化のファッショ化、非合理化には耐え得ない人の随一だ。だが又博士は、判然と反ファッショ的思想体系に足を踏み立てることも躊らいがちだ。博士は前から見ると、或る程度まで著しく唯物論的傾向を現わして来た。だが矢張唯物論者に対して大きい不満をもつ大抵の人間の、物理学者的一例であるようだ。博士の最近の評論は、以前程の鋭さを持たぬようになったと思うが、何かその言説が弁明的な立場に立つからではないだろうか。
 工学者で最も異色のあるのは、子爵、元東大教授、元貴族院議員(研究会)、大河内正敏博士である。元来の専門は造兵科で造兵の教授であり、腔外弾道学の大家だという話しだが、今日では理化学研究所の所長で理化学興業会社取締役で、農村工業化論の中心頭脳である。農村の農村的水準に於ける低賃銀を利用して、農村に軍需用重工業を興こすならば、天下の利益にとって一挙両得であるという説で、輿論の一角を代表する専門家的卓見であるが、「産業の発達」と「国民生活の安定」とが巧く一致するかどうかは、ブルジョア社会に於ける理研コンツェルンを代表する工業技術家的政治家のこの典型的人物にとって、あまりピンと来る問題ではないらしい。内燃機関の研究と電気分解による純鉄採取との研究が大河内研究室の仕事だ。上総大竜の藩主であるこの堂々たる長躯の殿様は、卓越した科学者であり経営者であり政治家であると共に、陶器の造詣に於ては他人の追随を許さぬもののあるのは周知の事実だ。惜むらくは、この種の教養が殆んど思想内容の栄養とならぬことだ。かつてのプロレタリア科学研究所の小川信一君は子爵の長子であり、今は総州に理研系統の天然瓦斯会社を営んでいる。父子爵も亦、時代の新しい動きはよく知っているものと私は想像している。
 生物学の世界に這入ると、小泉丹博士がいる。坊間では進化学者として有名であるが、専門は微生物学で、慶応大学医学部の豫防医学の教授である。ジャーナリズムを馬鹿にする以上にジャーナリストとしての才能に富んでいる。その筆致は重厚な威容を持っている。単に随筆級の文筆ではない。博士も亦、最も高級な段階に於ける啓蒙家である。だがこの人も亦、思想や哲学というものを毛嫌いする。夫は小倉博士の哲学嫌いとは全く別な意味に於てだ。と云うのは小泉氏によると、科学は思想となることによって科学であることを止めるというのだから。氏の進化学説が、科学的な慎重か公平の名の下に、一向どこに帰結があるか判らないと同様に、氏の思想は一種のニヒリズムを表面に現わしているようだ。なお美学者で土俗学者である小泉鉄氏は博士の令弟である。サムナー・メーンの『古代法律』の訳があったと思う。
 奇怪な人物は和歌山県田辺町の南方熊楠氏である。その奇人振りはあまりに有名で、裸かで人に会ったり床の中に這入って人と応対したり、気に入らぬ奴には反吐をかけたり、人間わざでない大酒をあおったり、馬鹿馬鹿しく記憶がよかったり、睡眠は四時間程であったり、甚だ非凡な人物であるが、結局に於て相当常識的な俗物なのではないか、というような気がする。博覧強記で土俗学から印度哲学から言語学から何から何まで行くとして可ならざるなき底の学者であるが、専門は粘菌の分類である。粘菌の大半の種類は氏の発見にかかる。――思想的にはフィロローグ(文献家)ではあっても思想家ではないようだ。この二つのものの区別を想定しないと、こういう不思議な学者の偉さの本当の程度が巧く測定出来ないものである。
 生物学者には寺尾新氏や西村真琴氏など、随筆家や本職のジャーナリストがいる。寺尾博士(水産講習所)の随筆は、之まであまり認められていないが、良質なものである。産業という実際問題から出発したエッセイだから、坊間風をなすあの「随筆」というもののカテゴリーでは片づかない。
 生理学で最も哲学を好む士は、東大教授で一高校長を兼任する橋田邦彦博士である。氏は日本の生理学者の筆頭であるが、そこから一種の哲学体系を造り上げている。下地は仏教で上ぬりは西田哲学である。その中間にマッハ主義や機械論やの批判が這入る。全機性という全体原理が生命現象の本質をなす、というもので、要点はホールデンの思想を受け継いだものだろう。併し実在の真の姿は主客未分で、主観を含まない客観は自然と雖もあり得ないというようなことを云う時、博士の思索は可なり心細いものであることを率直に告白せねばならぬ。だが生理学者で、之ほど現代哲学のことを利用出来る人は少ないのは事実だ。
 慶応大学医学部の加藤元一博士とその一番弟子である林髞博士も亦、生理学者だ。加藤博士はその所謂不減衰学説の実験を以てソヴィエト・ロシアを驚かせたが、それが氏を「東洋のアインシュタイン」(九州に学会があった時新聞にはかつてそう書いてあった)となしたかどうか私は知らぬ。林博士はパヴロフの門をくぐったことで有名であり、そこから条件反射学に基いた一種の世界観を用意してもいるようだ。感触の新しい生理学者である。直木賞を貰った木々高太郎は、氏の才気横溢たる処を示している。
 医者で文化的に最も大きな存在は内科医入沢達吉博士だろう。その弟子三千人、孔門に匹敵するとみずから称している。停年制の有名な主張者であったが、その主張をみずから実行して東大教授をやめてから、侍医頭となった。後対支文化活動のため奔走した。スケールの大きなこと、日本医学の大御所と云うべき処で、リベラリストとしての名も高い。真鍋嘉一郎学士は漱石の門下で博士にならぬので有名である。内科の物療科が十年目にやっと認められて万年講師から一躍勅任教授となった不遇を以て鳴る大家である。学生の時には長与、島薗を常に抜いていた秀才だったのだ。だが学士は仲々社交的な手腕に富んでいるようである。かつての浜口首相との因縁は、浜口首相が蔵相だった時に物療科の予算を通したことから始まり、遭難後の加療に及ぶ。浜口氏は学士に研究費として二万円を送ったこともあるという。物療科には久原房之助氏の寄付があった筈だ。芝居には詳しい。そして故寺田寅彦博士は何と思ったかこの友人に診察して貰うことを遂に承知しなかったという[#「承知しなかったという」は底本では「承知しなかったいう」]逸話がある。
 社会医学的関心の強い医者の思想家には、太田武夫、安田徳太郎、暉峻義等、それから式場隆三郎の諸氏がいる。太田武夫氏は社会運動に関係があったとかなかったとかいうので、今だに文部省が学位記をよこさない。金のない吾々には好都合なことだ。尤も婦人科で、性科学の建設に邁進中であるが、避妊法の問題で当局の干渉を蒙ったり何かしている。医学も今日では一個の思想問題であることを思わせる。安田徳太郎氏は内科の博士で山本宣治の従弟であるが、今では気軽で痛快な町医者となっている。医学部の博士製造のカラクリは氏に聞くべきであろう。フロイトの訳が系統的に出ている。其他氏の軽妙な文筆は高く買われる価値がある。
 暉峻義等博士の労働科学の研究は、今日では広く知られているだろう。倉敷にあった研究所は大原氏の手を離れて東京へ来て、日本労働科学研究所となり、やがて財団法人になるとこの所長は云っている。博士の研究が労働問題に対して有つ重要性は極めて大きいが、日本の労働政策にはその成果がまだ殆んど取り入れられていないらしい。取り入れようとしても社会条件が許さない部分があったかも知れぬ。今後はドシドシ用いられることになるらしいが、医学と社会条件との間に摩擦が生じないという保証は、誰にも出来ないことだろう。――精神病院長の式場隆三郎博士は、今日では『科学ペン』の仕事で最もよく注目されているかも知れない。新潟医大を卒業してから、ファン・ホッホやバーナード・リーチ其他の精神病理的研究を発表して文化批評家としての特色を発揮した。進歩的な社会医学者の一人である。柳宗悦氏の民芸研究にも多大の共感を寄せている。
 段々専門が文学者に近くなるのだが、鳥居竜蔵博士の人類学と土俗学、文化史の研究を忘れることは出来ない。日本民族、蒙古、契丹、等に関するその博大な世界的研究は云うまでもないが、博士の存在で吾々の興味を惹く点の一つは、博士の独学苦学振りだ。そして弟子の松村瞭氏の論文審査をボイコットされたことにからんで東大助教授の職をなげ打ったことだ。夫は独学の異分子がアカデミーで出会う運命の一つであったらしい。それまでになるにはおでん屋から氷水屋までやったという。もう一つは一家六人ともが博士を中心とする研究者だという点である。特に夫人は蒙古研究に造詣が深い。令息はフランスへ研究に、令嬢はアメリカへ資料集めに、という次第だ。
 さて最後に、自然科学の若いジェネレーションが、今日、思想化的動向を示しているということを、もう一遍繰り返しておきたい。このジェネレーションが充分に成長する頃は、日本の科学界も、その思想的キャパシティーに於て今日より遙かに豊かになるだろう。この点文化史的に云って極めて大きな要処であると云わねばならぬ。文化というものの言葉の意味も、今日とは少し別なものにならざるを得ないだろうと思う。
(一九三七・五)

底本:「戸坂潤全集 別巻」勁草書房
   1979(昭和54)年11月20日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1937(昭和12)年6月号
入力:矢野正人
校正:Juki
2012年7月13日作成
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