女とは京都からの相乗である。乗つた時から三四郎の眼に着いた。第一色が黒い。三四郎は九州から山陽線に移つて、段
京大坂へ近付いてくるうちに、女の色が次第に白くなるので何時の間にか故郷を遠退く様な憐れを感じてゐた。それで此女が車室に這入つて来た時は、何となく異性の味方を得た心持がした。此女の色は実際九州色であつた。三輪田の御光さんと同じ色である。国を立つ間際迄は、御光さんは、うるさい女であつた。傍を離れるのが大いに難有かつた。けれども、斯うして見ると、御光さんの様なのも決して悪くはない。
唯顔立から云ふと、此女の方が余程上等である。口に締りがある。眼が判明してゐる。額が御光さんの様にだゞつ広くない。何となく好い心持に出来上つてゐる。それで三四郎は五分に一度位は眼を上げて女の方を見てゐた。時々は女と自分の眼が行き中る事もあつた。爺さんが女の隣りへ腰を掛けた時などは、尤も注意して、出来る丈長い間、女の様子を見てゐた。其時女はにこりと笑つて、さあ御掛けと云つて爺さんに席を譲つてゐた。夫からしばらくして、三四郎は眠くなつて寐て仕舞つたのである。
其寐てゐる間に女と爺さんは懇意になつて話を始めたものと見える。眼を開けた三四郎は黙つて二人の話を聞いて居た。女はこんな事を云ふ。――
小供の玩具は矢っ張り広島より京都の方が安くつて善いものがある。京都で一寸用があつて下りた序に、蛸薬師の傍で玩具を買つて来た。久し振で国へ帰つて小供に逢ふのは嬉しい。然し夫の仕送りが途切れて、仕方なしに親の里へ帰るのだから心配だ。夫は呉に居て長らく海軍の職工をしてゐたが戦争中は旅順の方に行つてゐた。戦争が済んでから一旦帰つて来た。間もなくあつちの方が金が儲かると云つて、又大連へ出稼ぎに行つた。始めのうちは音信もあり、月々のものも几帳面と送つて来たから好かつたが、此半歳許前から手紙も金も丸で来なくなつて仕舞つた。不実な性質ではないから、大丈夫だけれども、何時迄も遊んで食てゐる訳には行かないので、安否のわかる迄は仕方がないから、里へ帰つて待てゐる積だ。
爺さんは蛸薬師も知らず、玩具にも興味がないと見えて、始めのうちは只はい/\と返事丈してゐたが、旅順以後急に同情を催ふして、それは大いに気の毒だと云ひ出した。自分の子も戦争中兵隊にとられて、とう/\彼地で死んで仕舞つた。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の好い時分に出稼ぎなどゝ云ふものはなかつた。みんな戦争の御蔭だ。何しろ信心が大切だ。生きて働らいてゐるに違ない。もう少し待つてゐれば屹度帰つて来る。――爺さんはこんな事を云つて、頻りに女を慰めて居た。やがて汽車が留つたら、では御大事にと、女に挨拶をして元気よく出て行つた。
爺さんに続いて下りたものが四人程あつたが、入れ易つて、乗つたのはたつた一人しかない。固から込み合つた客車でもなかつたのが、急に淋しくなつた。日の暮れた所為かも知れない。駅夫が屋根をどし/\踏んで、上から灯の点いた洋燈を挿し込んで行く。三四郎は思ひ出した様に前の停車場で買つた弁当を食ひ出した。
車が動き出して二分も立つたらうと思ふ頃例の女はすうと立つて三四郎の横を通り越して車室の外へ出て行つた。此時女の帯の色が始めて三四郎の眼に這入つた。三四郎は鮎の煮浸の頭を啣へた儘女の後姿を見送つてゐた。便所に行つたんだなと思ひながら頻りに食つてゐる。
女はやがて帰つて来た。今度は正面が見えた。三四郎の弁当はもう仕舞掛である。下を向いて一生懸命に箸を突込んで二口三口頬張つたが、女は、どうもまだ元の席へ帰らないらしい。もしやと思つて、ひよいと眼を挙げて見ると矢っ張り正面に立つてゐた。然し三四郎が眼を挙げると同時に女は動き出した。只三四郎の横を通つて、自分の座へ帰るべき所を、すぐと前へ来て、身体を横へ向けて、窓から首を出して、静かに外を眺め出した。風が強くあたつて、鬢がふわ/\する所が三四郎の眼に這入つた。此時三四郎は空になつた弁当の折を力一杯に窓から放り出した。女の窓と三四郎の窓は一軒置の隣であつた。風に逆つて抛げた折の蓋が白く舞ひ戻つた様に見えた時、三四郎は飛んだ事をしたのかと気が付いて、不途女の顔を見た。顔は生憎列車の外に出てゐた。けれども女は静かに首を引っ込めて更紗の手帛で額の所を丁寧に拭き始めた。三四郎は兎も角も謝まる方が安全だと考へた。
「御免なさい」と云つた。
女は「いゝえ」と答へた。まだ顔を拭いてゐる。三四郎は仕方なしに黙つて仕舞つた。女も黙つて仕舞つた。さうして又首を窓から出した。三四人の乗客は暗い洋燈の下で、みんな寐ぼけた顔をしてゐる。口を利いてゐるものは誰もない。汽車丈が凄じい音を立てゝ行く。三四郎は眼を眠つた。
しばらくすると「名古屋はもう直でせうか」と云ふ女の声がした。見ると何時の間にか向き直つて、及び腰になつて、顔を三四郎の傍迄持つて来てゐる。三四郎は驚ろいた。
「さうですね」と云つたが、始めて東京へ行くんだから一向要領を得ない。
「此分では後れますでせうか」
「後れるでせう」
「あんたも名古屋へ御下で……」
「はあ、下ります」
此汽車は名古屋留りであつた。会話は頗る平凡であつた。只女が三四郎の筋向ふに腰を掛けた許である。それで、しばらくの間は又汽車の音丈になつて仕舞ふ。
次の駅で汽車が留つた時、女は漸く三四郎に名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内して呉れと云ひだした。一人では気味が悪いからと云つて、頻りに頼む。三四郎も尤もだと思つた。けれども、さう快よく引き受ける気にもならなかつた。何しろ知らない女なんだから、頗る
躇したにはしたが、断然断わる勇気も出なかつたので、まあ好い加減な生返事をして居た。其うち汽車は名古屋へ着いた。大きな行李は新橋迄預けてあるから心配はない。三四郎は手頃なズツクの革鞄と傘丈持つて改札場を出た。頭には高等学校の夏帽を被つてゐる。然し卒業したしるしに徽章丈は
ぎ取つて仕舞つた。昼間見ると其処丈色が新らしい。後から女が尾いて来る。三四郎は此帽子に対して少々極りが悪かつた。けれども尾いて来るのだから仕方がない。女の方では、此帽子を無論たゞの汚ない帽子と思つて居る。九時半に着くべき汽車が四十分程後れたのだから、もう十時は過つてゐる。けれども暑い時分だから町はまだ宵の口の様に賑やかだ。宿屋も眼の前に二三軒ある。たゞ三四郎にはちと立派過ぎる様に思はれた。そこで電気燈の点いてゐる三階作りの前を澄して通り越して、ぶら/\歩行いて行つた。無論不案内の土地だから何所へ出るか分らない。只暗い方へ行つた。女は何とも云はずに尾いて来る。すると比較的淋しい横町の角から二軒目に御宿と云ふ看板が見えた。之は三四郎にも女にも相応な汚ない看板であつた。三四郎は鳥渡振り返つて、一口女にどうですと相談したが、女は結構だと云ふんで、思ひ切つてずつと這入つた。上がり口で二人連ではないと断わる筈の所を、入らつしやい、――どうぞ御上り――御案内――梅の四番抔とのべつに喋舌られたので、已を得ず無言の儘二人共梅の四番へ通されて仕舞つた。
下女が茶を持つてくる間二人はぼんやり向ひ合つて坐つてゐた。下女が茶を持つて来て、御風呂をと云つた時は、もう此婦人は自分の連ではないと断わる丈の勇気が出なかつた。そこで手拭をぶら下げて、御先へと挨拶をして、風呂場へ出て行つた。風呂場は廊下の突き当りで便所の隣りにあつた。薄暗くつて、大分不潔の様である。三四郎は着物を脱いで、風呂桶の中へ飛び込んで、少し考へた。こいつは厄介だとぢやぶ/\遣つてゐると、廊下に足音がする。誰か便所へ這入つた様子である。やがて出て来た。手を洗ふ。それが済んだら、ぎいと風呂場の戸を半分開けた。例の女が入口から「ちいと流しませうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、
「いえ沢山です」と断わつた。然し女は出て行かない。却つて這入つて来た。さうして帯を解き出した。三四郎と一所に湯を使ふ気と見える。別に恥づかしい様子も見えない。三四郎は忽ち湯槽を飛び出した。そこそこに身体を拭いて座敷へ帰つて、坐蒲団の上に坐つて、少なからず驚ろいてゐると、下女が宿帳を持つて来た。
三四郎は宿帳を取り上げて、福岡県京都郡真崎村小川三四郎二十三年学生と正直に書いたが、女の所へ行つて全く困つて仕舞つた。湯から出る迄待つて居れば好かつたと思つたが、仕方がない。下女がちやんと控えてゐる。已を得ず同県同郡同村同姓花二十三年と出鱈目を書いて渡した。さうして頻りに団扇を使つてゐた。
やがて女は帰つて来た。「どうも、失礼致しました」と云つてゐる。三四郎は「いゝや」と答へた。
三四郎は革鞄の中から帳面を取り出して日記をつけ出した。書く事も何にもない。女がゐなければ書く事が沢山ある様に思はれた。すると女は「一寸出て参ります」と云つて部屋を出て行つた。三四郎は益日記が書けなくなつた。何所へ行つたんだらうと考へ出した。
そこへ下女が床を延べに来る。広い蒲団を一枚しか持つて来ないから、床は二つ敷かなくては不可ないと云ふと、部屋が狭いとか、蚊帳が狭いとか云つて埒が明かない。面倒がる様にも見える。仕舞には只今番頭が一寸出ましたから、帰つたら聞いて持つて参りませうと云つて、頑固に一枚の蒲団を蚊帳一杯に敷いて出て行つた。
夫から、しばらくすると女が帰つて来た。どうも遅くなりましてと云ふ。蚊帳の影で何かしてゐるうちに、がらん/\といふ音がした。小供に見舞の玩具が鳴つたに違ない。女はやがて風呂敷包を元の通りに結んだと見える。蚊帳の向ふで「御先へ」と云ふ声がした。三四郎はたゞ「はあ」と答へた儘で、敷居に尻を乗せて、団扇を使つてゐた。いつそ此儘で夜を明かして仕舞ふかとも思つた。けれども蚊がぶん/\来る。外ではとても凌ぎ切れない。三四郎はついと立つて、革鞄の中から、キヤラコの襯衣と洋袴下を出して、それを素肌へ着けて、其上から紺の兵児帯を締めた。それから西洋手拭を二筋持つた儘蚊帳の中へ這入つた。女は蒲団の向ふの隅でまだ団扇を動かしてゐる。
「失礼ですが、私は疳性で他人の布団に寐るのが嫌だから……少し蚤除の工夫を遣るから御免なさい」
三四郎はこんな事を云つて、あらかじめ、敷いてある敷布の余つてゐる端を女の寐てゐる方へ向けてぐる/\捲き出した。さうして布団の真中に白い長い仕切りを拵らへた。女は向へ寐返りを打つた。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、其上に細長く寐た。其晩は三四郎の手も足も此幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかつた。女とは一言も口を利かなかつた。女も壁を向いた儘凝として動かなかつた。
夜はやう/\明けた。顔を洗つて膳に向つた時、女はにこりと笑つて、「昨夜は蚤は出ませんでしたか」と聞いた。三四郎は「えゝ、難有う、御蔭さまで」と云ふ様な事を真面目に答へながら、下を向いて、御猪口の葡萄豆をしきりに突つつき出した。
勘定をして宿を出て、停車場へ着いた時、女は始めて、関西線で四日市の方へ行くのだと云ふ事を三四郎に話した。三四郎の汽車は間もなく来た。時間の都合で女は少し待ち合せる事となつた。改札場の際迄送つて来た女は、
「色々御厄介になりまして、……では御機嫌よう」と丁寧に御辞儀をした。三四郎は革鞄と傘を片手に持つた儘、空た手で例の古帽子を取つて、只一言、
「左様なら」と云つた。女は其顔を凝と眺めてゐたが、やがて落付いた調子で、
「あなたは余つ程度胸のない方ですね」と云つて、にやりと笑つた。三四郎はプラツト、フオームの上へ弾き出された様な心持がした。車の中へ這入つたら両方の耳が一層熱り出した。しばらくは凝つと小さくなつてゐた。やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果から果迄響き渡つた。列車は動き出す。三四郎はそつと窓から首を出した。女はとくの昔に何処かへ行つて仕舞つた。大きな時計ばかりが眼に着いた。三四郎は又そつと自分の席に返つた。乗合は大分居る。けれども三四郎の挙動に注意する様なものは一人もない。只筋向ふに坐つた男が、自分の席に返る三四郎を一寸見た。
三四郎は此男に見られた時、何となく極りが悪かつた。本でも読んで気を紛らかさうと思つて、革鞄を開けて見ると、昨夜の西洋手拭が、上の所にぎつしり詰つてゐる。そいつを傍へ掻き寄せて、底の方から、手に障つた奴を何でも構はず引き出すと、読んでも解らないベーコンの論文集が出た。ベーコンには気の毒な位薄つぺらな粗末な仮綴である。元来汽車の中で読む了見もないものを、大きな行李に入れ損なつたから、片付ける序に提革鞄の底へ、外の二三冊と一所に放り込んで置いたのが、運悪く当選したのである。三四郎はベーコンの二十三頁を開いた。他の本でも読めさうにはない。ましてベーコン抔は無論読む気にならない。けれども三四郎は恭しく二十三頁を開いて、万遍なく頁全体を見廻してゐた。三四郎は二十三頁の前で一応昨夜の御浚をする気である。
元来あの女は何だらう。あんな女が世の中に居るものだらうか。女と云ふものは、ああ落付いて平気でゐられるものだらうか。無教育なのだらうか、大胆なのだらうか。それとも無邪気なのだらうか。要するに行ける所迄行つて見なかつたから、見当が付かない。思ひ切つてもう少し行つて見ると可かつた。けれども恐ろしい。別れ際にあなたは度胸のない方だと云はれた時には、喫驚した。二十三年の弱点が一度に露見した様な心持であつた。親でもあゝ旨く言ひ中てるものではない。……
三四郎は此所迄来て、更に悄然て仕舞つた。何所の馬の骨だか分らないものに、頭の上がらない位打された様な気がした。ベーコンの二十三頁に対しても甚だ申訳がない位に感じた。
どうも、あゝ狼狽しちや駄目だ。学問も大学生もあつたものぢやない。甚だ人格に関係してくる。もう少しは仕様があつたらう。けれども相手が何時でもあゝ出るとすると、教育を受けた自分には、あれより外に受け様がないとも思はれる。すると無暗に女に近付いてはならないと云ふ訳になる。何だか意気地がない。非常に窮屈だ。丸で不具にでも生れた様なものである。けれども……
三四郎は急に気を易へて、別の世界の事を思ひ出した。――是から東京に行く。大学に這入る。有名な学者に接触する。趣味品性の具つた学生と交際する。図書館で研究をする。著作をやる。世間が喝采する。母が嬉しがる。と云ふ様な未来をだらしなく考へて、大いに元気を回復して見ると、別に二十三頁の中に顔を埋めてゐる必要がなくなつた。そこでひよいと頭を上げた。すると筋向ふにゐたさつきの男がまた三四郎の方を見てゐた。今度は三四郎の方でも此男を見返した。
髭を濃く生やしてゐる。面長の瘠ぎすの、どことなく神主じみた男であつた。たゞ鼻筋が真直に通つてゐる所丈が西洋らしい。学校教育を受けつゝある三四郎は、こんな男を見ると屹度教師にして仕舞ふ。男は白地の絣の下に、丁重に白い繻絆を重ねて、紺足袋を穿いてゐた。此服装から推して、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。大きな未来を控へてゐる自分から見ると、何だか下らなく感ぜられる。男はもう四十だらう。是より先もう発展しさうにもない。
男はしきりに烟草をふかしてゐる。長い烟りを鼻の穴から吹き出して、腕組をした所は大変悠長に見える。さうかと思ふと無暗に便所か何かに立つ。立つ時にうんと伸をする事がある。さも退屈さうである。隣に乗り合せた人が、新聞の読み殻を傍に置くのに借りて看る気も出さない。三四郎は自から妙になつて、ベーコンの論文集を伏せて仕舞つた。外の小説でも出して、本気に読んで見様とも考へたが面倒だから、已めにした。それよりは前にゐる人の新聞を借りたくなつた。生憎前の人はぐう/\寐てゐる。三四郎は手を延ばして新聞に手を掛けながら、わざと「御明きですか」と髭のある男に聞いた。男は平気な顔で「明いてるでせう。御読みなさい」と云つた。新聞を手に取つた三四郎の方は却つて平気でなかつた。
開けて見ると新聞には別に見る程の事も載つてゐない。一二分で通読して仕舞つた。律義に畳んで元の場所へ返しながら、一寸会釈すると、向でも軽く挨拶をして、
「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた。
三四郎は、被つてゐる古帽子の徽章の痕が、此男の眼に映つたのを嬉しく感じた。
「えゝ」と答へた。
「東京の?」と聞き返した時、始めて、
「いえ、熊本です。……然し……」と云つたなり黙つて仕舞つた。大学生だと云ひたかつたけれども、云ふ程の必要がないからと思つて遠慮した。相手も「はあ、さう」と云つたなり烟草を吹かしてゐる。何故熊本の生徒が今頃東京へ行くんだとも何とも聞いて呉れない。熊本の生徒には興味がないらしい。此時三四郎の前に寐てゐた男が「うん、成程」と云つた。それでゐて慥かに寐てゐる。独言でも何でもない。髭のある人は三四郎を見てにや/\と笑つた。三四郎はそれを機会に、
「あなたは何方へ」と聞いた。
「東京」とゆつくり云つた限である。何だか中学校の先生らしく無くなつて来た。けれども三等へ乗つてゐる位だから大したものでない事は明らかである。三四郎はそれで談話を切り上げた。髭のある男は腕組をした儘、時々下駄の前歯で、拍子を取つて、床を鳴らしたりしてゐる。余程退屈に見える。然し此男の退屈は話したがらない退屈である。
汽車が豊橋へ着いた時、寐てゐた男がむつくり起きて眼を擦りながら下りて行つた。よくあんなに都合よく眼を覚ます事が出来るものだと思つた。ことによると寐ぼけて停車場を間違へたんだらうと気遣ひながら、窓から眺めてゐると、決してさうでない。無事に改札場を通過して、正気の人間の様に出て行つた。三四郎は安心して席を向ふ側へ移した。是で髭のある人と隣り合せになつた。髭のある人は入れ換つて、窓から首を出して、水蜜桃を買つてゐる。
やがて二人の間に果物を置いて、
「食べませんか」と云つた。
三四郎は礼を云つて、一つ食べた。髭のある人は好きと見えて、無暗に食べた。三四郎にもつと食べろと云ふ。三四郎は又一つ食べた。二人が水蜜桃を食べてゐるうちに大分親密になつて色々な話を始めた。
其男の説によると、桃は果物のうちで一番仙人めいてゐる。何だか馬鹿見た様な味がする。第一核子の恰好が無器用だ。且つ穴だらけで大変面白く出来上つてゐると云ふ。三四郎は始めて聞く説だが、随分詰らない事を云ふ人だと思つた。
次に其男がこんな事を云ひ出した。子規は果物が大変好きだつた。且ついくらでも食へる男だつた。ある時大きな樽柿を十六食つた事がある。それで何ともなかつた。自分抔は到底子規の真似は出来ない。――三四郎は笑つて聞いてゐた。けれども子規の話丈には興味がある様な気がした。もう少し子規の事でも話さうかと思つてゐると、
「どうも好なものには自然と手が出るものでね。仕方がない。豚抔は手が出ない代りに鼻が出る。豚をね、縛つて動けない様にして置いて、其鼻の先へ、御馳走を並べて置くと、動けないものだから、鼻の先が段
延びて来るさうだ。御馳走に届く迄は延びるさうです。どうも一念程恐ろしいものはない」と云つて、にやにや笑つてゐる。真面目だか冗談だか、判然と区別しにくい様な話し方である。「まあ御互に豚でなくつて仕合せだ。さう欲しいものゝ方へ無暗に鼻が延びて行つたら、今頃は汽車にも乗れない位長くなつて困るに違ない」
三四郎は吹き出した。けれども相手は存外静かである。
「実際危険い。レオナルド、ダ、
ンチと云ふ人は桃の幹に砒石を注射してね、其実へも毒が回るものだらうか、どうだらうかと云ふ試験をした事がある。所が其桃を食つて死んだ人がある。危険い。気を付けないと危険い」と云ひながら、散
食ひ散らした水蜜桃の核子やら皮やらを、一纏めに新聞に包んで、窓の外へ抛げ出した。今度は三四郎も笑ふ気が起らなかつた。レオナルド、ダ、
ンチと云ふ名を聞いて少しく辟易した上に、何だか昨夕の女の事を考へ出して、妙に不愉快になつたから、謹しんで黙つて仕舞つた。けれども相手はそんな事に一向気が付かないらしい。やがて、「東京は何所へ」と聞き出した。
「実は始めてで様子が善く分らんのですが……差し当り国の寄宿舎へでも行かうかと思つてゐます」と云ふ。
「ぢや熊本はもう……」
「今度卒業したのです」
「はあ、そりや」と云つたが御目出たいとも結構だとも付けなかつた。たゞ「すると是から大学へ這入るのですね」と如何にも平凡であるかの如くに聞いた。
三四郎は聊か物足りなかつた。其代り、
「えゝ」と云ふ二字で挨拶を片付た。
「科は?」と又聞かれる。
「一部です」
「法科ですか」
「いゝえ文科です」
「はあ、そりや」と又云つた。三四郎は此はあそりやを聞くたびに妙になる。向ふが大いに偉いか、大いに人を踏み倒してゐるか、さうでなければ大学に全く縁故も同情もない男に違ない。然しそのうちの何方だか見当が付かないので此男に対する態度も極めて不明瞭であつた。
浜松で二人とも申し合せた様に弁当を食つた。食つて仕舞つても汽車は容易に出ない。窓から見ると、西洋人が四五人列車の前を往つたり来たりしてゐる。其うちの一組は夫婦と見えて、暑いのに手を組み合せてゐる。女は上下とも真白な着物で、大変美くしい。三四郎は生れてから今日に至るまで西洋人と云ふものを五六人しか見た事がない。其うちの二人は熊本の高等学校の教師で、其二人のうちの一人は運悪く脊虫であつた。女では宣教師を一人知つてゐる。随分尖がつた顔で、鱚又は
に類してゐた。だから、かう云ふ派出な奇麗な西洋人は珍らしい許りではない。頗る上等に見える。三四郎は一生懸命に見惚れてゐた。是では威張るのも尤もだと思つた。自分が西洋へ行つて、こんな人の中に這入つたら定めし肩身の狭い事だらうと迄考へた。窓の前を通る時二人の話を熱心に聞いて見たが些とも分らない。熊本の教師とは丸で発音が違ふ様だ。所へ例の男が首を後ろから出して、
「まだ出さうもないですかね」と言ひながら、今行き過ぎた、西洋の夫婦を一寸見て、
「あゝ美くしい」と小声に云つて、すぐに生欠伸をした。三四郎は自分が如何にも田舎ものらしいのに気が着いて、早速首を引き込めて、着坐した。男もつゞいて席に返つた。さうして、
「どうも西洋人は美くしいですね」と云つた。
三四郎は別段の答も出ないので只はあと受けて笑つてゐた。すると髭の男は、
「御互は憐れだなあ」と云ひ出した。「こんな顔をして、こんなに弱つてゐては、いくら日露戦争に勝つて、一等国になつても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いづれも顔相応の所だが、――あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあつたものなんだから仕方がない。我々が拵へたものぢやない」と云つて又にや/\笑つてゐる。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢ふとは思ひも寄らなかつた。どうも日本人ぢやない様な気がする。
「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡びるね」と云つた。熊本でこんな事を口に出せば、すぐ擲ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる。三四郎は頭の中の何処の隅にも斯う云ふ思想を入れる余裕はない様な空気の裡で生長した。だから、ことによると自分の年齢の若いのに乗じて、他を愚弄するのではなからうかとも考へた。男は例の如くにや/\笑つてゐる。其癖言葉つきはどこ迄も落付いてゐる。どうも見当が付かないから、相手になるのを已めて黙つて仕舞つた。すると男が、かう云つた。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸切つたが、三四郎の顔を見ると耳を傾けてゐる。
「日本より頭の中の方が広いでせう」と云つた。「囚はれちや駄目だ。いくら日本の為めを思つたつて贔負の引き倒しになる許りだ」
此言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出た様な心持ちがした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であつたと悟つた。
其晩三四郎は東京に着いた。髭の男は分れる時迄名前を明かさなかつた。三四郎は東京へ着きさへすれば、此位の男は到る所に居るものと信じて、別に姓名を尋ね様ともしなかつた。
三四郎が東京で驚ろいたものは沢山ある。第一電車のちん/\鳴るので驚ろいた。それから其ちん/\鳴る間に、非常に多くの人間が乗つたり降りたりするので驚ろいた。次に丸のうちで驚ろいた。尤も驚ろいたのは、何処迄行つても東京が無くならないと云ふ事であつた。しかも何処をどう歩るいても、材木が放り出してある、石が積んである、新らしい家が往来から二三間引っ込んでゐる、古い蔵が半分取り崩されて心細く前の方に残つてゐる。凡ての物が破壊されつゝある様に見える。さうして凡ての物が又同時に建設されつつある様に見える。大変な動き方である。
三四郎は全く驚ろいた。要するに普通の田舎者が始めて都の真中に立つて驚ろくと同じ程度に、又同じ性質に於て大いに驚ろいて仕舞つた。今迄の学問は此驚ろきを預防する上に於て、売薬程の効能もなかつた。三四郎の自信は此驚ろきと共に四割方減却した。不愉快でたまらない。
此劇烈な活動そのものが取りも直さず現実世界だとすると、自分が今日迄の生活は現実世界に毫も接触してゐない事になる。洞※[#濁点付き小書き平仮名か、293-12]峠で昼寐をしたと同然である。それでは今日限り昼寐をやめて、活動の割前が払へるかと云ふと、それは困難である。自分は今活動の中心に立つてゐる。けれども自分はたゞ自分の左右前後に起る活動を見なければならない地位に置き易へられたと云ふ迄で、学生としての生活は以前と変る訳はない。世界はかやうに動揺する。自分は此動揺を見てゐる。けれどもそれに加はる事は出来ない。自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んで居りながら、どこも接触してゐない。さうして現実の世界は、かやうに動揺して、自分を置き去りにして行つて仕舞ふ。甚だ不安である。
三四郎は東京の真中に立つて電車と、汽車と、白い着物を着た人と、黒い着物を着た人との活動を見て、かう感じた。けれども学生々活の裏面に横はる思想界の活動には毫も気が付かなかつた。――明治の思想は西洋の歴史にあらはれた三百年の活動を四十年で繰り返してゐる。
三四郎が動く東京の真中に閉ぢ込められて、一人で鬱ぎ込んでゐるうちに、国元の母から手紙が来た。東京で受取つた最初のものである。見ると色々書いてある。まづ今年は豊作で目出度と云ふ所から始まつて、身体を大事にしなくつては不可ないと云ふ注意があつて、東京のものはみんな利口で人が悪いから用心しろと書いて、学資は毎月月末に届く様にするから安心しろとあつて、勝田の政さんの従弟に当る人が大学校を卒業して、理科大学とかに出てゐるさうだから、尋ねて行つて、万事よろしく頼むがいゝで結んである。肝心の名前を忘れたと見えて、欄外と云ふ様な所に野々宮宗八どのとかいてあつた。此欄外には其外二三件ある。作の青馬が急病で死んだんで、作は大弱りでゐる。三輪田の御光さんが鮎をくれたけれども東京へ送ると途中で腐つて仕舞ふから、家内で食べて仕舞つた。等である。
三四郎は此手紙を見て、何だか古ぼけた昔から届いた様な気がした。母には済まないが、こんなものを読んでゐる暇はないと迄考へた。それにも拘はらず繰り返して二返読んだ。要するに自分がもし現実世界と接触してゐるならば、今の所母より外にないのだらう。其母は古い人で古い田舎に居る。其外には汽車の中で乗り合はした女がゐる。あれは現実世界の稲妻である。接触したと云ふには、あまりに短かくつて且あまりに鋭過ぎた。――三四郎は母の云ひ付通り野々宮宗八を尋ねる事にした。
あくる日は平生よりも暑い日であつた。休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君は居るまいと思つたが、母が宿所を知らせて来ないから、聞き合せ旁行つて見様と云ふ気になつて、午後四時頃、高等学校の横を通つて弥生町の門から這入つた。往来は埃が二寸も積つてゐて、其上に下駄の歯や、靴の底や、草鞋の裏が奇麗に出来上つてる。車の輪と自転車の痕は幾筋だか分らない。むつとする程堪らない路だつたが、構内へ這入ると流石に樹の多い丈に気分が晴
した。取っ付の戸をあたつて見たら錠が下りてゐる。裏へ廻つても駄目であつた。仕舞に横へ出た。念の為めと思つて推して見たら、旨い具合に開いた。廊下の四っ角に小使が一人居眠りをしてゐた。来意を通じると、しばらくの間は、正気を回復する為めに、上野の森を眺めてゐたが、突然「御出かも知れません」と云つて奥へ這入つて行つた。頗る閑静である。やがて又出て来た。「御出でやす。御這入んなさい」と友達見た様に云ふ。小使に食つ付いて行くと四っ角を曲がつて和土の廊下を下へ居りた。世界が急に暗くなる。炎天で眼が眩んだ時の様であつたが少時すると瞳が漸く落ち付いて、四辺が見える様になつた。穴倉だから比較的涼しい。左の方に戸があつて、其戸が明け放してある。其所から顔が出た。額の広い眼の大きな仏教に縁のある相である。縮の襯衣の上へ脊広を着てゐるが、脊広は所々に染がある。脊は頗る高い。瘠せてゐる所が暑さに釣り合つてゐる。頭と脊中を一直線に前の方へ延ばして、御辞儀をした。「此方へ」と云つた儘、顔を室の中へ入れて仕舞つた。三四郎は戸の前迄来て室の中を覗いた。すると野々宮君はもう椅子へ腰を掛けてゐる。もう一遍「此方へ」と云つた。此方へと云ふ所に台がある。四角な棒を四本立てて、其上を板で張つたものである。三四郎は台の上へ腰を掛けて初対面の挨拶をする。それから何分宜敷願ひますと云つた。野々宮君は只はあ、はあと云つて聞いてゐる。其様子が幾分か汽車の中で水蜜桃を食つた男に似てゐる。一通り口上を述べた三四郎はもう何も云ふ事がなくなつて仕舞つた。野々宮君もはあ、はあ云はなくなつた。
部屋の中を見廻すと真中に大きな長い樫の机が置いてある。其上には何だか込み入つた、太い針線だらけの器械が乗つかつて、其傍に大きな硝子の鉢に水が入れてある。其外にやすりと小刀と襟飾が一つ落ちてゐる。最後に向の隅を見ると、三尺位の花崗石の台の上に、福神漬の缶程な込み入つた器械が乗せてある。三四郎は此缶の横腹に開いてゐる二つの穴に眼をつけた。穴が蟒蛇の眼玉の様に光つてゐる。野々宮君は笑ひながら光るでせうと云つた。さうして、斯う云ふ説明をして呉れた。
「昼間のうちに、あんな準備をして置いて、夜になつて、交通其他の活動が鈍くなる頃に、此静かな暗い穴倉で、望遠鏡の中から、あの眼玉の様なものを覗くのです。さうして光線の圧力を試験する。此年の正月頃から取り掛つたが、装置が中々面倒なのでまだ思ふ様な結果が出て来ません。夏は比較的堪へ易いが、寒夜になると、大変凌ぎにくい。外套を着て襟巻をしても冷たくて遣り切れない。……」
三四郎は大いに驚ろいた。驚ろくと共に光線にどんな圧力があつて、其圧力がどんな役に立つんだか、全く要領を得るに苦しんだ。
其時野々宮君は三四郎に、「覗いて御覧なさい」と勧めた。三四郎は面白半分、石の台の二三間手前にある望遠鏡の傍へ行つて、右の眼をあてがつたが、何にも見えない。野々宮君は「どうです、見えますか」と聞く。「一向見えません」と答へると、「うんまだ蓋が取らずにあつた」と云ひながら、椅子を立つて望遠鏡の先に被せてあるものを除けて呉れた。
見ると、ただ輪廓のぼんやりした明るいなかに、物差の度盛がある。下に2の字が出た。野々宮君がまた「どうです」と聞いた。「2の字が見えます」と云ふと、「今に動きます」と云ひながら向へ廻つて何かしてゐる様であつた。
やがて度盛が明るい中で動き出した。2が消えた。あとから3が出る。其あとから4が出る。5が出る。とう/\10迄出た。すると度盛がまた逆に動き出した。10が消え、9が消え、8から7、7から6と順々に1迄来て留つた。野々宮君は又「どうです」と云ふ。三四郎は驚ろいて、望遠鏡から眼を放して仕舞つた。度盛の意味を聞く気にもならない。
丁寧に礼を述べて穴倉を上がつて、人の通る所へ出て見ると世の中はまだかん/\してゐる。暑いけれども深い呼息をした。西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂上の両側にある工科の建築の硝子窓が燃える様に輝やいてゐる。空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果から焼ける火の焔が、薄赤く吹き返して来て、三四郎の頭の上迄熱つてゐる様に思はれた。横に照り付ける日を半分脊中に受けて、三四郎は左りの森の中へ這入つた。其森も同じ夕日を半分脊中に受けて入る。黒ずんだ蒼い葉と葉の間は染めた様に赤い。太い欅の幹で日暮しが鳴いてゐる。三四郎は池の傍へ来てしやがんだ。
非常に静かである。電車の音もしない。赤門の前を通る筈の電車は、大学の抗議で小石川を回る事になつたと国にゐる時分新聞で見た事がある。三四郎は池の端にしやがみながら、不図此事件を思ひ出した。電車さへ通さないと云ふ大学は余程社会と離れてゐる。
たま/\其中に這入つて見ると、穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしてゐる野々宮君の様な人もゐる。野々宮君は頗る質素な服装をして、外で逢へば電燈会社の技手位な格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念に遣つてゐるから偉い。然し望遠鏡のなかの度盛がいくら動いたつて現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかも知れない。要するに此静かな空気を呼吸するから、自からあゝ云ふ気分にもなれるのだらう。自分もいつその事気を散らさずに、活きた世の中と関係のない生涯を送つて見様かしらん。
三四郎が凝として池の面を見詰めてゐると、大きな木が、幾本となく水の底に映つて、其又底に青い空が見える。三四郎は此時電車よりも、東京よりも、日本よりも、遠く且つ遥かな心持がした。然ししばらくすると、其心持のうちに薄雲の様な淋しさが一面に広がつて来た。さうして、野々宮君の穴倉に這入つて、たつた一人で坐つて居るかと思はれる程な寂寞を覚えた。熊本の高等学校に居る時分も是より静かな龍田山に上つたり、月見草ばかり生えてゐる運動場に寐たりして、全く世の中を忘れた気になつた事は幾度となくある。けれども此孤独の感じは今始めて起つた。
活動の劇しい東京を見たためだらうか。或は――三四郎は赤くなつた。汽車で乗り合はした女の事を思ひ出したからである。――現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界は危なくて近寄れない気がする。三四郎は早く下宿に帰つて、母に手紙を書いてやらうと思つた。
不図眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立つてゐる。女のすぐ下が池で、池の向ふ側が高い崖の木立で、其後ろが派出な赤錬瓦のゴシツク風の建築である。さうして落ちかゝつた日が、凡ての向ふから横に光を透してくる。女は此夕日に向いて立つてゐた。三四郎のしやがんでゐる低い陰から見ると岡の上は大変明るい。女の一人はまぼしいと見えて、団扇を額の所に翳してゐる。顔はよく分らない。けれども着物の色、帯の色は鮮かに分つた。白い足袋の色も眼についた。鼻緒の色はとにかく草履を穿いてゐる事も分つた。もう一人は真白である。是は団扇も何も持つて居ない。只額に少し皺を寄せて、対岸から生ひ被さりさうに、高く池の面に枝を伸した古木の奥を眺めてゐた。団扇を持つた女は少し前へ出てゐる。白い方は一歩土堤の縁から退がつてゐる。三四郎が見ると、二人の姿が筋違に見える。
此時三四郎の受けた感じは只奇麗な色彩だと云ふ事であつた。けれども田舎者だから、此色彩がどういふ風に奇麗なのだか、口にも云へず、筆にも書けない。たゞ白い方が看護婦だと思つた許りである。
三四郎は又見惚れてゐた。すると白い方が動き出した。用事のある様な動き方ではなかつた。自分の足が何時の間にか動いたといふ風であつた。見ると団扇を持つた女も何時の間にか又動いてゐる。二人は申し合せた様に用のない歩き方をして、坂を下りて来る。三四郎は矢っ張り見てゐた。
坂の下に石橋がある。渡らなければ真直に理科大学の方へ出る。渡れば水際を伝つて此方へ来る。二人は石橋を渡つた。
団扇はもう翳して居ない。左りの手に白い小さな花を持つて、それを嗅ぎながら来る。嗅ぎながら、鼻の下に宛てがつた花を見ながら、歩くので、眼は伏せてゐる。それで三四郎から一間許の所へ来てひよいと留つた。
「是は何でせう」と云つて、仰向いた。頭の上には大きな椎の木が、日の目の洩らない程厚い葉を茂らして、丸い形に、水際迄張り出してゐた。
「是は椎」と看護婦が云つた。丸で子供に物を教へる様であつた。
「さう。実は生つてゐないの」と云ひながら、仰向いた顔を元へ戻す、其拍子に三四郎を一目見た。三四郎は慥かに女の黒眼の動く刹那を意識した。其時色彩の感じは悉く消えて、何とも云へぬ或物に出逢つた。其或物は汽車の女に「あなたは度胸のない方ですね」と云はれた時の感じと何所か似通つてゐる。三四郎は恐ろしくなつた。
二人の女は三四郎の前を通り過ぎる。若い方が今迄嗅いで居た白い花を三四郎の前へ落して行つた。三四郎は二人の後姿を凝と見詰めて居た。看護婦は先へ行く。若い方が後から行く。華やかな色の中に、白い薄を染め抜いた帯が見える。頭にも真白な薔薇を一つ挿してゐる。其薔薇が椎の木陰の下の、黒い髪の中で際立つて光つてゐた。
三四郎は茫然してゐた。やがて、小さな声で「矛盾だ」と云つた。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの眼付が矛盾なのだか、あの女を見て、汽車の女を思ひ出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二途に矛盾してゐるのか、又は非常に嬉しいものに対して恐を抱く所が矛盾してゐるのか、――この田舎出の青年には、凡て解らなかつた。たゞ何だか矛盾であつた。
三四郎は女の落して行つた花を拾つた。さうして嗅いで見た。けれども別段の香もなかつた。三四郎は此花を池の中へ投げ込んだ。花は浮いてゐる。すると突然向ふで自分の名を呼んだものがある。
三四郎は花から眼を放した。見ると野々宮君が石橋の向ふに長く立つてゐる。
「君まだ居たんですか」と云ふ。三四郎は答をする前に、立つてのそ/\歩いて行つた。石橋の上迄来て、
「えゝ」と云つた。何となく間が抜けてゐる。けれども野々宮君は、少しも驚ろかない。
「涼しいですか」と聞いた。三四郎は又
「えゝ」と云つた。
野々宮君は少時池の水を眺めてゐたが、右の手を隠袋へ入れて何か探し出した。隠袋から半分封筒が食み出してゐる。其上に書いてある字が女の手蹟らしい。野々宮君は思ふ物を探し宛てなかつたと見えて、元の通りの手を出してぶらりと下げた。さうして、かう云つた。
「今日は少し装置が狂つたので晩の実験は已めだ。是から本郷の方を散歩して帰らうと思ふが、君どうです一所にあるきませんか」
三四郎は快よく応じた。二人で坂を上がつて、岡の上へ出た。野々宮君はさつき女の立つてゐた辺で一寸留つて、向ふの青い木立の間から見える赤い建物と、崖の高い割に、水の落ちた池を一面に見渡して、
「一寸好い景色でせう。あの建築の角度の所丈が少し出てゐる。木の間から。ね。好いでせう。君気が付いてゐますか。あの建物は中々旨く出来てゐますよ。工科もよく出来てるが此方が旨いですね」
三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚ろいた。実を云ふと自分には何方が好いか丸で分らないのである。そこで今度は三四郎の方が、はあ、はあと云ひ出した。
「それから、此木と水の感じがね。――大したものぢやないが、何しろ東京の真中にあるんだから――静かでせう。かう云ふ所でないと学問をやるには不可ませんね。近頃は東京があまり八釜間敷なり過ぎて困る。是が御殿」とあるき出しながら、左手の建物を指して見せる。「教授会を遣る所です。うむなに、僕なんか出ないで好いのです。僕は穴倉生活を遣つてゐれば済むのです。近頃の学問は非常な勢で動いてゐるので、少し油断すると、すぐ取り残されて仕舞ふ。人が見ると穴倉のなかで冗談をしてゐる様だが、是でも遣つてゐる当人の頭の中は劇烈に働いてゐるんですよ。電車より余っ程烈しく働らいてゐるかも知れない。だから夏でも旅行をするのが惜しくつてね」と言ひながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光りが乏しい。
青い空の静まり返つた、上皮に、白い薄雲が刷毛先で掻き払つた痕の様に、筋違に長く浮いてゐる。
「あれを知つてますか」と云ふ。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。
「あれは、みんな雪の粉ですよ。かうやつて下から見ると、些とも動いて居ない。然し、あれで地上に起る颶風以上の速力で動いてゐるんですよ。――君ラスキンを読みましたか」
三四郎は憮然として読まないと答へた。野々宮君はたゞ
「さうですか」と云つた許りである。しばらくしてから、
「此空を写生したら面白いですね。――原口にでも話してやらうかしら」と云つた。三四郎は無論原口と云ふ画工の名前を知らなかつた。
二人はベルツの銅像の前から枳殻寺の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、此銅像はどうですかと聞かれて三四郎は又弱つた。表は大変賑やかである。電車がしきりなしに通る。
「君電車は煩さくはないですか」と又聞かれた。三四郎は煩さいより凄まじい位である。然したゞ「えゝ」と答へて置いた。すると野々宮君は「僕もうるさい」と云つた。然し一向煩さい様にも見えなかつた。
「僕は車掌に教はらないと、一人で乗換が自由に出来ない。此二三年来無暗に殖えたのでね。便利になつて却つて困る。僕の学問と同じ事だ」と云つて笑つた。
学期の始まり際なので新らしい高等学校の帽子を被つた生徒が大分通る。野々宮君は愉快さうに、此連中を見てゐる。
「大分新らしいのが来ましたね」と云ふ。「若い人は活気があつて好い。時に君は幾何ですか」と聞いた。三四郎は宿帳へ書いた通りを答へた。すると、
「それぢや僕より七つ許り若い。七年もあると、人間は大抵の事が出来る。然し月日は立ち易いものでね。七年位直ですよ」と云ふ。どつちが本当なんだか、三四郎には解らなかつた。
四っ角近くへ来ると左右に本屋と雑誌屋が沢山ある。そのうちの二三軒には人が黒山の様にたかつてゐる。さうして雑誌を読んでゐる。さうして買はずに行つて仕舞ふ。野々宮君は、
「みんな狡猾いなあ」と云つて笑つてゐる。尤も当人も一寸太陽を開けて見た。
四っ角へ出ると、左手の此方側に西洋小間物屋があつて、向側に日本小間物屋がある。其間を電車がぐるつと曲つて、非常な勢で通る。ベルがちん/\ちん/\云ふ。渡りにくい程雑沓する。野々宮君は、向ふの小間物屋を指して、
「あすこで一寸買物をしますからね」と云つて、ちりん/\と鳴る間を馳け抜けた。三四郎も食つ付いて、向ふへ渡つた。野々宮君は早速店へ這入つた。表に待つてゐた三四郎が、気が付いて見ると、店先の硝子張の棚に櫛だの花簪だのが列べてある。三四郎は妙に思つた。野々宮君が何を買つてゐるのかしらと、不審を起して、店の中へ這入つて見ると、蝉の羽根の様なリボンをぶら下げて、
「どうですか」と聞かれた。三四郎は此時自分も何か買つて、鮎の御礼に三輪田の御光さんに送つてやらうかと思つた。けれども御光さんが、それを貰つて、鮎の御礼と思はずに、屹度何だかんだと手前勝手の理窟を附けるに違ないと考へたから已めにした。
それから真砂町で野々宮君に西洋料理の御馳走になつた。野々宮君の話では本郷で一番旨い家ださうだ。けれども三四郎にはたゞ西洋料理の味がする丈であつた。然し食べる事はみんな食べた。
西洋料理屋の前で野々宮君に別れて、追分に帰る所を丁寧にもとの四っ角迄出て、左りへ折れた。下駄を買はうと思つて、下駄屋を覗き込んだら、白熱瓦斯の下に、真白に塗り立てた娘が、石膏の化物の様に坐つてゐたので、急に厭になつて已めた。それからうちへ帰る間、大学の池の縁で逢つた女の、顔の色ばかり考へてゐた。――其色は薄く餅を焦がした様な狐色であつた。さうして肌理が非常に細かであつた。三四郎は、女の色は、どうしてもあれでなくつては駄目だと断定した。
学年は九月十一日に始まつた。三四郎は正直に午前十時半頃学校へ行つて見たが、玄関前の掲示場に講義の時間割がある許で学生は一人も居ない。自分の聴くべき分丈を手帳に書き留めて、それから事務室へ寄つたら、流石に事務員丈は出て居た。講義はいつから始まりますかと聞くと、九月十一日から始まると云つてゐる。澄ましたものである。でも、どの部屋を見ても講義がない様ですがと尋ねると、それは先生が居ないからだと答へた。三四郎は成程と思つて事務室を出た。裏へ廻つて、大きな欅の下から高い空を覗いたら、普通の空よりも明かに見えた。熊笹の中を水際へ下りて、例の椎の木の所迄来て、又しやがんだ。あの女がもう一遍通れば可い位に考へて、度々岡の上を眺めたが、岡の上には人影もしなかつた。三四郎はそれが当然だと考へた。けれども矢張りしやがんでゐた。すると午砲が鳴つたんで驚ろいて下宿へ帰つた。
翌日は正八時に学校へ行つた。正門を這入ると、取突の大通りの左右に植ゑてある銀杏の並木が眼に付いた。銀杏が向ふの方で尽きるあたりから、だら/\坂に下がつて、正門の際に立つた三四郎から見ると、坂の向ふにある理科大学は二階の一部しか出てゐない。其屋根の後ろに朝日を受けた上野の森が遠く輝やいてゐる。日は正面にある。三四郎は此奥行のある景色を愉快に感じた。
銀杏の並木が此方側で尽きる右手には法文科大学がある。左手には少し退がつて博物の教室がある。建築は双方共に同じで、細長い窓の上に、三角に尖つた屋根が突き出してゐる。其三角の縁に当る赤錬瓦と黒い屋根の接目の所が細い石の直線で出来てゐる。さうして其石の色が少し蒼味を帯びて、すぐ下にくる派出な赤錬瓦に一種の趣を添へてゐる。さうして此長い窓と、高い三角が横にいくつも続いてゐる。三四郎は此間野々宮君の説を聞いてから以来、急に此建物を難有く思つてゐたが、今朝は、此意見が野々宮君の意見でなくつて、初手から自分の持説である様な気がし出した。ことに博物室が法文科と一直線に並んでゐないで、少し奥へ引つ込んでゐる所が不規則で妙だと思つた。こんど野々宮君に逢つたら自分の発明として此説を持ち出さうと考へた。
法文科の右のはづれから半町程前へ突き出してゐる図書館にも感服した。よく分らないが何でも同じ建築だらうと考へられる。其赤い壁に添けて、大きな棕櫚の木を五六本植ゑた所が大いに好い。左り手のずつと奥にある工科大学は封建時代の西洋の御城から割り出した様に見えた。真っ四角に出来上つてゐる。窓も四角である。只四隅と入口が丸い。是は櫓を片取つたんだらう。御城丈に堅牢してゐる。法文科見た様に倒れさうでない。何だか脊の低い相撲取に似て居る。
三四郎は見渡す限り見渡して、此外にもまだ眼に入らない建物が沢山ある事を勘定に入れて、何所となく雄大な感じを起した。「学問の府はかうなくつてはならない。かう云ふ構があればこそ研究も出来る。えらいものだ」――三四郎は大学者になつた様な心持がした。
けれども教室へ這入つて見たら、鐘は鳴つても先生は来なかつた。其代り学生も出て来ない。次の時間も其通りであつた。三四郎は疳癪を起して教場を出た。さうして念の為めに池の周囲を二遍許り廻つて下宿へ帰つた。
夫から約十日許立てから、漸く講義が始まつた。三四郎が始めて教室へ這入て、外の学生と一所に先生の来るのを待つてゐた時の心持は実に殊勝なものであつた。神主が装束を着けて、是から祭典でも行はうとする間際には、かう云ふ気分がするだらうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。実際学問の威厳に打たれたに違ない。それのみならず先生が号鐘が鳴つて十五分立つても出て来ないので益予期から生ずる敬畏の念を増した。そのうち人品のいゝ御爺さんの西洋人が戸を開けて這入つて来て、流暢な英語で講義を始めた。三四郎は其時 answer と云ふ字はアングロ、サクソン語の and-swaru から出たんだと云ふ事を覚えた。それからスコツトの通つた小学校の村の名を覚えた。いづれも大切に筆記帳に記して置いた。其次には文学論の講義に出た。此先生は教室に這入つて、一寸黒板を眺めてゐたが、黒板の上に書いてある、Geschehen と云ふ字と Nachbild と云ふ字を見て、はあ独乙語かと云つて、笑ひながらさつさと消して仕舞つた。三四郎は之が為めに独乙語に対する敬意を少し失つた様に感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下した定義を凡そ二十許り列べた。三四郎は是も大事に手帳に筆記して置いた。午後は大教室に出た。其教室には約七八十人程の聴講者が居た。従つて先生も演説口調であつた。砲声一発浦賀の夢を破つてと云ふ冒頭であつたから、三四郎は面白がつて聞いてゐると、仕舞には独乙の哲学者の名が沢山出て来て甚だ解しにくゝなつた。机の上を見ると、落第と云ふ字が美事に彫つてある。余程閑に任せて仕上げたものと見えて、堅い樫の板を奇麗に切り込んだ手際は素人とは思はれない。深刻の出来である。隣の男は感心に根気よく筆記をつゞけてゐる。覗いて見ると筆記ではない。遠くから先生の似顔をポンチにかいてゐたのである。三四郎が覗くや否や隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。画は旨く出来てゐるが、傍に久方の雲井の空の子規と書いてあるのは、何の事だか判じかねた。
講義が終つてから、三四郎は何となく疲労した様な気味で、二階の窓から頬杖を突いて、正門内の庭を見下してゐた。只大きな松や桜を植ゑて其間に砂利を敷いた広い道を付けた許であるが、手を入れ過ぎてゐない丈に、見てゐて心持が好い。野々宮君の話によると此所は昔はかう奇麗ではなかつた。野々宮君の先生の何とか云ふ人が、学生の時分馬に乗つて、此所を乗り廻すうちに、馬が云ふ事を聞かないで、意地を悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引つかゝる。下駄の歯が鐙に挟まる。先生は大変困つてゐると、正門前の喜多床と云ふ髪結床の職人が大勢出て来て、面白がつて笑つてゐたさうである。其時分には有志のものが醵金して構内に厩をこしらへて、三頭の馬と、馬の先生とを飼つて置いた。所が先生が大変な酒呑で、とう/\三頭のうちの一番好い白い馬を売つて飲んで仕舞つた。それはナポレオン三世時代の老馬であつたさうだ。まさかナポレオン三世時代でも無からう。然し呑気な時代もあつたものだと考へてゐると、さつきポンチ画をかいた男が来て、
「大学の講義は詰らんなあ」と云つた。三四郎は好加減な返事をした。実は詰るか詰らないか、三四郎には些とも判断が出来ないのである。然し此時から此男と口を利く様になつた。
其日は何となく気が鬱して、面白くなかつたので、池の周囲を回る事は見合せて家へ帰つた。晩食後筆記を繰り返して読んで見たが、別に愉快にも不愉快にもならなかつた。母に言文一致の手紙をかいた。――学校は始まつた。是から毎日出る。学校は大変広い好い場所で、建物も大変美くしい。真中に池がある。池の周囲を散歩するのが楽しみだ。電車には近頃漸く乗り馴れた。何か買つて上げたいが、何が好いか分からないから、買つて上げない。欲しければ其方から云つて来て呉れ。今年の米は今に価が出るから、売らずに置く方が得だらう。三輪田の御光さんにはあまり愛想を善くしない方が好からう。東京へ来て見ると人はいくらでもゐる。男も多いが女も多い。と云ふ様な事をごた/\並べたものであつた。
手紙を書いて、英語の本を六七頁読んだら厭になつた。こんな本を一冊位読んでも駄目だと思ひ出した。床を取つて寐る事にしたが、寐つかれない。不眠症になつたら早く病院に行つて見て貰はう抔と考へてゐるうちに寐て仕舞つた。
翌日も例刻に学校へ行つて講義を聞いた。講義の間に今年の卒業生が何所其所へ幾何で売れたと云ふ話を耳にした。誰と誰がまだ残つてゐて、それがある官立学校の地位を競争してゐる噂だ抔と話してゐるものがあつた。三四郎は漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せる様な鈍い圧迫を感じたが、それはすぐ忘れて仕舞つた。寧ろ昇之助が何とかしたと云ふ方の話が面白かつた。そこで廊下で熊本出の同級生を捕まへて、昇之助とは何だと聞いたら、寄席へ出る娘義太夫だと教へて呉れた。夫から寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあると云ふ事迄云つて聞かせた上、今度の土曜に一所に行かうと誘つて呉れた。よく知つてると思つたら、此男は昨夜始めて、寄席へ這入つたのださうだ。三四郎は何だか寄席へ行つて昇之助が見度なつた。
昼飯を食ひに下宿へ帰らうと思つたら、昨日ポンチ画をかいた男が来て、おい/\と云ひながら、本郷の通りの淀見軒と云ふ所に引つ張つて行つて、ライスカレーを食はした。淀見軒と云ふ所は店で果物を売つてゐる。新らしい普請であつた。ポンチを画いた男は此建築の表を指して、是がヌーボー式だと教へた。三四郎は建築にもヌーボー式があるものかと始めて悟つた。帰り路に青木堂も教はつた。矢張り大学生のよく行く所ださうである。赤門を這入つて、二人で池の周囲を散歩した。其時ポンチ画の男は、死んだ小泉八雲先生は教員控室へ這入るのが嫌で講義が済むといつでも此周囲をぐる/\廻つてあるいたんだと、恰も小泉先生に教はつた様な事を云つた。何故控室へ這入らなかつたのだらうかと三四郎が尋ねたら、
「そりや当り前ださ。第一彼等の講義を聞いても解るぢやないか。話せるものは一人もゐやしない」と手痛い事を平気で云つたには三四郎も驚ろいた。此男は佐々木与次郎と云つて、専門学校を卒業して、ことし又撰科へ這入つたのださうだ。東片町の五番地の広田と云ふうちに居るから、遊びに来いと云ふ。下宿かと聞くと、なに高等学校の先生の家だと答へた。
それから当分の間三四郎は毎日学校へ通つて、律義に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席して見た。それでも、まだ物足りない。そこで遂には専攻課目に丸で縁故のないもの迄へも折々は顔を出した。然し大抵は二度か三度で已めて仕舞つた。一ヶ月と続いたのは少しも無かつた。それでも平均一週に約四十時間程になる。如何な勤勉な三四郎にも四十時間はちと多過ぎる。三四郎は断へず一種の圧迫を感じてゐた。然るに物足りない。三四郎は楽しまなくなつた。
或日佐々木与次郎に逢つて其話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、眼を丸くして、「馬鹿々々」と云つたが、「下宿屋のまづい飯を一日に十返食つたら物足りる様になるか考へて見ろ」といきなり警句でもつて三四郎を打しつけた。三四郎はすぐさま恐れ入つて、「どうしたら善からう」と相談をかけた。
「電車に乗るがいゝ」と与次郎が云つた。三四郎は何か寓意でもある事と思つて、しばらく考へて見たが、別に是と云ふ思案も浮ばないので、
「本当の電車か」と聞き直した。其時与次郎はげら/\笑つて、
「電車に乗つて、東京を十五六返乗り回してゐるうちには自から物足りる様になるさ」と云ふ。
「何故」
「何故つて、さう、活きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちや、助からない。外へ出て風を入れるさ。其上に物足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩で且尤も軽便だ」
其日の夕方、与次郎は三四郎を拉して、四丁目から電車に乗つて、新橋へ行つて、新橋から又引き返して、日本橋へ来て、そこで下りて、
「どうだ」と聞いた。
次に大通りから細い横町へ曲つて、平の家と云ふ看板のある料理屋へ上がつて、晩食を食つて酒を呑んだ。其所の下女はみんな京都弁を使ふ。甚だ纏綿してゐる。表へ出た与次郎は赤い顔をして、又
「どうだ」と聞いた。
次に本場の寄席へ連れて行つてやると云つて、又細い横町へ這入つて、木原店と云ふ寄席へ上がつた。此所で小さんといふ話し家を聞いた。十時過ぎ通りへ出た与次郎は、又
「どうだ」と聞いた。
三四郎は物足りたとは答へなかつた。然し満更物足りない心持もしなかつた。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。
小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものぢやない。何時でも聞けると思ふから安つぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合せである。今から少し前に生れても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。――円遊も旨い。然し小さんとは趣が違つてゐる。円遊の扮した太鼓持は、太鼓持になつた円遊だから面白いので、小さんの遣る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞ふ。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したつて、人物は活溌々地に躍動する許りだ。そこがえらい。
与次郎はこんな事を云つて、又
「どうだ」と聞いた。実を云ふと三四郎には小さんの味ひが善く分らなかつた。其上円遊なるものは未だ嘗て聞いた事がない。従つて与次郎の説の当否は判定しにくい。然し其比較のほとんど文学的と云ひ得る程に要領を得たには感服した。
高等学校の前で分れる時、三四郎は、
「難有う、大いに物足りた」と礼を述べた。すると与次郎は、
「是から先は図書館でなくつちや物足りない」と云つて片町の方へ曲がつて仕舞つた。此一言で三四郎は始めて図書館に這入る事を知つた。
其翌日から三四郎は四十時間の講義を殆んど、半分に減して仕舞つた。さうして図書館に這入つた。広く、長く、天井が高く、左右に窓の沢山ある建物であつた。書庫は入口しか見えない。此方の正面から覗くと奥には、書物がいくらでも備へ付けてある様に思はれる。立つて見てゐると、時々書庫の中から、厚い本を二三冊抱へて、出口へ来て左へ折れて行くものがある。職員閲覧室へ行く人である。中には必要の本を書棚から取り卸して、胸一杯にひろげて、立ちながら調べてゐる人もある。三四郎は羨やましくなつた。奥迄行つて二階へ上つて、それから三階へ上つて、本郷より高い所で、生きたものを近付けずに、紙の臭を嗅ぎながら、――読んで見たい。けれども何を読むかに至つては、別に判然した考がない。読んで見なければ分らないが、何かあの奥に沢山ありさうに思ふ。
三四郎は一年生だから書庫へ這入る権利がない。仕方なしに、大きな箱入りの札目録を、こゞんで一枚々々調べて行くと、いくら捲つても後から後から新らしい本の名が出て来る。仕舞に肩が痛くなつた。顔を上げて、中休みに、館内を見廻すと、流石に図書館丈あつて静かなものである。しかも人が沢山ゐる。さうして向ふの果にゐる人の頭が黒く見える。眼口は判然しない。高い窓の外から所々に樹が見える。空も少し見える。遠くから町の音がする。三四郎は立ちながら、学者の生活は静かで深いものだと考へた。それで其日は其儘帰つた。
次の日は空想をやめて、這入ると早速本を借りた。然し借り損なつたので、すぐ返した。後から借りた本は六※[#濁点付き小書き平仮名つ、319-10]かし過ぎて読めなかつたから又返した。三四郎はかう云ふ風にして毎日本を八九冊宛は必ず借りた。尤も会には少し読んだのもある。三四郎が驚ろいたのは、どんな本を借りても、屹度誰か一度は眼を通して居ると云ふ事実を発見した時であつた。それは書中此所彼所に見える鉛筆の痕で慥かである。ある時三四郎は念の為め、アフラ、ベーンと云ふ作家の小説を借りて見た。開ける迄は、よもやと思つたが、見ると矢張り鉛筆で丁寧にしるしが付けてあつた。此時三四郎はこれは到底遣り切れないと思つた。所へ窓の外を楽隊が通つたんで、つい散歩に出る気になつて、通りへ出て、とう/\青木堂へ這入つた。
這入つて見ると客が二組あつて、いづれも学生であつたが、向ふの隅にたつた一人離れて茶を飲んでゐた男がある。三四郎が不図其横顔を見ると、どうも上京の節汽車の中で水蜜桃を沢山食つた人の様である。向ふは気がつかない。茶を一口飲んでは烟草を一吸すつて、大変悠然構へてゐる。今日は白地の浴衣を已めて、背広を着てゐる。然し決して立派なものぢやない。光線の圧力の野々宮君より白襯衣丈が増しな位なものである。三四郎は様子を見てゐるうちに慥かに水蜜桃だと物色した。大学の講義を聞いてから以来、汽車の中で此男の話した事が何だか急に意義のある様に思はれ出した所なので、三四郎は傍へ行つて挨拶を仕様かと思つた。けれども先方は正面を見たなり、茶を飲んでは、烟草をふかし、烟草をふかしては茶を飲んでゐる。手の出し様がない。
三四郎は凝と其横顔を眺めてゐたが、突然手杯にある葡萄酒を飲み干して、表へ飛び出した。さうして図書館に帰つた。
其日は葡萄酒の景気と、一種の精神作用とで例になく面白い勉強が出来たので、三四郎は大いに嬉しく思つた。二時間程読書三昧に入つた後、漸く気が付いて、そろ/\帰る支度をしながら、一所に借りた書物のうち、まだ開けて見なかつた、最後の一冊を何気なく引つぺがして見ると、本の見返しの空いた所に、乱暴にも、鉛筆で一杯何か書いてある。
「ヘーゲルの伯林大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化一致せる時、其説く所、云ふ所は、講義の為めの講義にあらずして、道の為めの講義となる。哲学の講義は茲に至つて始めて聞くべし。徒らに真を舌頭に転ずるものは、死したる墨を以て、死したる紙の上に、空しき筆記を残すに過ぎず。何の意義かこれあらん。……余今試験の為め、即ち麺麭の為めに、恨を呑み涙を呑んで此書を読む。岑々たる頭を抑へて未来永劫に試験制度を呪咀する事を記憶せよ」
とある。署名は無論ない。三四郎は覚えず微笑した。けれども何所か啓発された様な気がした。哲学ばかりぢやない、文学も此通りだらうと考へながら、頁をはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」余程ヘーゲルの好きな男と見える。
「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方より伯林に集まれる学生は、此講義を衣食の資に利用せんとの野心を以て集まれるにあらず。唯哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝ふると聞いて、向上求道の念に切なるがため、壇下に、わが不穏底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現に外ならず。此故に彼等はヘーゲルを聞いて、彼等の未来を決定し得たり。自己の運命を改造し得たり。のつぺらぽうに講義を聴いて、のつぺらぽうに卒業し去る公等日本の大学生と同じ事と思ふは、天下の己惚なり。公等はタイプ、ライターに過ぎず。しかも慾張つたるタイプ、ライターなり。公等のなす所、思ふ所、云ふ所、遂に切実なる社会の活気運に関せず。死に至る迄のつぺらぽうなるかな。死に至る迄のつぺらぽうなるかな」
と、のつぺらぽうを二遍繰返してゐる。三四郎は黙然として考へ込んでゐた。すると、後から一寸肩を叩いたものがある。例の与次郎であつた。与次郎を図書館で見掛けるのは珍らしい。彼は講義は駄目だが、図書館は大切だと主張する男である。けれども主張通りに這入る事も少ない男である。
「おい、野々宮宗八さんが、君を探してゐた」と云ふ。与次郎が野々宮君を知らうとは思ひがけなかつたから、念の為め理科大学の野々宮さんかと聞き直すと、うんと云ふ答を得た。早速本を置いて入口の新聞を閲覧する所迄出て行つたが、野々宮君が居ない。玄関迄出て見たが矢っ張り居ない。石階を下りて、首を延ばして其辺を見廻したが影も形も見えない。已を得ず引き返した。元の席へ来て見ると、与次郎が、例のヘーゲル論を指して、小さな声で、
「大分振つてる。昔しの卒業生に違ない。昔の奴は乱暴だが、どこか面白い所がある。実際此通りだ」とにや/\してゐる。大分気に入つたらしい。三四郎は
「野々宮さんは居らんぜ」と云ふ。
「先刻入口に居たがな」
「何か用がある様だつたか」
「ある様でもあつた」
二人は一所に図書館を出た。其時与次郎が話した。――野々宮君は自分の寄寓してゐる広田先生の、元の弟子でよく来る。大変な学問好きで、研究も大分ある。其道の人なら、西洋人でもみんな野々宮君の名を知つてゐる。
三四郎は又、野々宮君の先生で、昔し正門内で馬に苦しめられた人の話を思ひ出して、或はそれが広田先生ではなからうかと考へ出した。与次郎に其事を話すと、与次郎は、ことによると、家の先生だ、そんな事を遣りかねない人だと云つて笑つてゐた。
其翌日は丁度日曜なので、学校では野々宮君に逢ふ訳に行かない。然し昨日自分を探してゐた事が気掛になる。幸ひまだ新宅を訪問した事がないから、此方から行つて用事を聞いて来様と云ふ気になつた。
思ひ立つたのは朝であつたが、新聞を読んで愚図々々してゐるうちに午になる。午飯を食べたから、出掛様とすると、久し振に熊本出の友人が来る。漸くそれを帰したのは彼是四時過ぎである。ちと遅くなつたが、予定の通り出た。
野々宮の家は頗る遠い。四五日前大久保へ越した。然し電車を利用すれば、すぐに行かれる。何でも停車場の近辺と聞いてゐるから、探すに不便はない。実を云ふと三四郎はかの平野家行以来飛んだ失敗をしてゐる。神田の高等商業学校へ行く積りで、本郷四丁目から乗つた所が、乗り越して九段迄来て、序でに飯田橋迄持つて行かれて、其所で漸く外濠線へ乗り換へて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸を数寄屋橋の方へ向いて急いで行つた事がある。それより以来電車は兎角物騒な感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗つた。
大久保の停車場を下りて、仲百人の通りを戸山学校の方へ行かずに、踏切りからすぐ横へ折れると、ほとんど三尺許りの細い路になる。それを爪先上りにだら/\と上ると、疎な孟宗藪がある。其藪の手前と先に一軒づゝ人が住んでゐる。野々宮の家は其手前の分であつた。小さな門が路の向に丸で関係のない様な位置に筋違に立つてゐた。這入ると、家が又見当違の所にあつた。門も入口も全く後から付けたものらしい。
台所の傍に立派な生垣があつて、庭の方には却つて仕切りも何にもない。只大きな萩が人の脊より高く延びて、座敷の縁側を少し隠してゐる許である。野々宮君は此縁側に椅子を持ち出して、それへ腰を掛けて西洋の雑誌を読んでゐた。三四郎の這入つて来たのを見て、
「此方へ」と云つた。丸で理科大学の穴倉の中と同じ挨拶である。庭から這入るべきのか、玄関から廻るべきのか、三四郎は少しく
躇してゐた。すると又「此方へ」と催促するので、思ひ切つて庭から上る事にした。座敷は即ち書斎で、広さは八畳で、割合に西洋の書物が沢山ある。野々宮君は椅子を離れて坐つた。三四郎は、閑静な所だとか、割合に御茶の水迄早く出られるとか、望遠鏡の試験はどうなりましたとか、――締りのない当座の話をやつたあと、
「昨日私を探して御出だつたさうですが、何か御用ですか」と聞いた。すると野々宮君は、少し気の毒さうな顔をして、
「何実は何でもないですよ」と云つた。三四郎はたゞ「はあ」と云つた。
「それでわざ/\来て呉れたんですか」
「なに、さう云ふ訳でもありません」
「実は御国の御母さんがね、悴が色々御世話になるからと云つて、結構なものを送つて下さつたから、一寸あなたにも御礼を云はうと思つて……」
「はあ、さうですか。何か送つて来ましたか」
「えゝ赤い魚の粕漬なんですがね」
「ぢやひめいちでせう」
三四郎は詰らんものを送つたものだと思つた。しかし野々宮君はかのひめいちに就いて色々な事を質問した。三四郎は特に食ふ時の心得を説明した。粕共焼いて、いざ皿へ写すと云ふ時に、粕を取らないと味が抜けると云つて教へてやつた。
二人がひめいちに就て問答をしてゐるうちに、日が暮れた。三四郎はもう帰らうと思つて挨拶をしかける所へ、どこからか電報が来た。野々宮君は封を切つて、電報を読んだが、口のうちで、「困つたな」と云つた。
三四郎は澄してゐる訳にも行かず、と云つて無暗に立入つた事を聞く気にもならなかつたので、たゞ、
「何か出来ましたか」と棒の様に聞いた。すると野々宮君は、
「なに大した事でもないのです」と云つて、手に持つた電報を、三四郎に見せて呉れた。すぐ来てくれとある。
「何所かへ御出になるのですか」
「えゝ、妹が此間から病気をして、大学の病院に這入つてゐるんですが、其奴がすぐ来てくれと云ふんです」と一向騒ぐ気色もない。三四郎の方は却つて驚ろいた。野々宮君の妹と、妹の病気と、大学の病院を一所に纏めて、それに池の周囲で逢つた女を加へて、それを一どきに掻き廻して、驚ろいてゐる。
「ぢや余程御悪いんですな」
「なに左様ぢやないんでせう。実は母が看病に行つてるんですが、――もし病気の為なら、電車へ乗つて馳けて来た方が早い訳ですからね。――なに妹の悪戯でせう。馬鹿だから、よくこんな真似をします。此所へ越してからまだ一遍も行かないものだから、今日の日曜には来ると思つて待つてゞもゐたのでせう、それで」と云つて首を横に曲げて考へた。
「然し御出になつた方が可いでせう。もし悪いと不可ません」
「左様。四五日行かないうちにさう急に変る訳もなささうですが、まあ行つて見るか」
「御出になるに若くはないでせう」
野々宮は行く事にした。行くと極めたに就ては、三四郎に依頼があると云ひ出した。万一病気の為めの電報とすると、今夜は帰れない。すると留守が下女一人になる。下女が非常に臆病で、近所が殊の外物騒である。来合せたのが丁度幸だから、明日の課業に差支がなければ泊つて呉れまいか、尤も只の電報ならば直帰つてくる。前から分つてゐれば、例の佐々木でも頼む筈だつたが、今からではとても間に合はない。たつた一晩の事ではあるし、病院へ泊るか、泊らないか、まだ分らない先から、関係もない人に、迷惑を掛けるのは我儘過ぎて、強ひてとは云ひかねるが、――無論野々宮はかう流暢には頼まなかつたが、相手の三四郎が、さう流暢に頼まれる必要のない男だから、すぐ承知して仕舞つた。
下女が御飯はと云ふのを、「食はない」と云つた儘、三四郎に「失敬だが、君一人で、後で食つて下さい」と夕食迄置き去りにして、出て行つた。行つたと思つたら暗い萩の間から大きな声を出して、
「僕の書斎にある本は何でも読んで可いです。別に面白いものもないが、何か御覧なさい。小説も少しはある」
と云つた儘消えてなくなつた。縁側迄見送つて三四郎が礼を述べた時は、三坪程な孟宗藪の竹が、疎な丈に一本宛まだ見えた。
間もなく三四郎は八畳敷の書斎の真中で小さい膳を控へて、晩食を食つた。膳の上を見ると、主人の言葉に違はず、かのひめいちが附いてゐる。久し振で故郷の香を嗅いだ様で嬉しかつたが、飯は其割に旨くなかつた。御給仕に出た下女の顔を見ると、是も主人の言つた通り、臆病に出来た眼鼻であつた。
飯が済むと下女は台所へ下がる。三四郎は一人になる。一人になつて落ち付くと、野々宮君の妹の事が急に心配になつて来た。危篤な様な気がする。野々宮君の馳け付け方が遅い様な気がする。さうして妹が此間見た女の様な気がして堪らない。三四郎はもう一遍、女の顔付と眼付と、服装とを、あの時あの儘に、繰り返して、それを病院の寝台の上に乗せて、其傍に野々宮君を立たして、二三の会話をさせたが、兄では物足らないので、何時の間にか、自分が代理になつて、色々親切に介抱してゐた。所へ汽車が轟と鳴つて孟宗藪のすぐ下を通つた。根太の具合か、土質の所為か座敷が少し震へる様である。
三四郎は看病をやめて、座敷を見廻した。いか様古い建物と思はれて、柱に寂がある。其代り唐紙の立附が悪い。天井は真黒だ。洋燈許が当世に光つてゐる。野々宮君の様な新式な学者が、物数奇にこんな家を借りて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格である。物数奇ならば当人の随意だが、もし必要に逼られて、郊外に自を放逐したとすると、甚だ気の毒である。聞く所によると、あれ丈の学者で、月にたつた五十五円しか、大学から貰つてゐないさうだ。だから已を得ず私立学校へ教へに行くのだらう。それで妹に入院されては堪るまい。大久保へ越したのも、或はそんな経済上の都合かも知れない。……
宵の口ではあるが、場所が場所丈にしんとしてゐる。庭の先で虫の音がする。独りで坐つてゐると、淋しい秋の初である。其時遠い所で誰か、
「あゝあゝ、もう少しの間だ」
と云ふ声がした。方角は家の裏手の様にも思へるが、遠いので確かりとは分らなかつた。また方角を聞き分ける暇もないうちに済んで仕舞つた。けれども三四郎の耳には明らかに、此一句が、凡てに捨てられた人の、凡てから返事を予期しない、真実の独白と聞えた。三四郎は気味が悪くなつた。所へ又汽車が遠くから響いて来た。其音が次第に近付いて孟宗藪の下を通るときには、前の列車より倍も高い音を立てゝ過ぎ去つた。座敷の微震がやむ迄は茫然としてゐた三四郎は、石火の如く、先刻の嘆声と今の列車の響とを、一種の因果で結び付けた。さうして、ぎくんと飛び上がつた。其因果は恐るべきものである。
三四郎は此時、凝と座に着いてゐる事の極めて困難なのを発見した。脊筋から足の裏迄が疑惧の刺激でむづ/\する。立つて便所に行つた。窓から外を覗くと、一面の星月夜で、土手下の汽車道は死んだ様に静かである。それでも竹格子の間から鼻を出す位にして、暗い所を眺めてゐた。
すると停車場の方から提燈を点けた男が鉄軌の上を伝つて此方へ来る。話し声で判じると三四人らしい。提燈の影は踏切りから土手下へ隠れて、孟宗藪の下を通る時は、話し声丈になつた。けれども、其言葉は手に取る様に聞えた。
「もう少し先だ」
足音は向ふへ遠退いて行く。三四郎は庭先へ廻つて下駄を突掛けた儘孟宗藪の所から、一間余の土手を這ひ下りて、提燈のあとを追掛けて行つた。
五六間行くか行かないうちに、又一人土手から飛び下りたものがある。――
「轢死ぢやないですか」
三四郎は何か答へやうとしたが一寸声が出なかつた。其うち黒い男は行き過ぎた。是は野々宮君の奥に住んでゐる家の主人だらうと、後を跟けながら考へた。半町程くると提燈が留つてゐる。人も留つてゐる。人は灯を翳した儘黙つてゐる。三四郎は無言で灯の下を見た。下には死骸が半分ある。汽車は右の肩から乳の下を腰の上迄美事に引き千切つて、斜掛の胴を置き去りにして行つたのである。顔は無創である。若い女だ。
三四郎は其時の心持を未だに覚えてゐる。すぐ帰らうとして、踵を回らしかけたが、足がすくんで殆んど動けなかつた。土堤を這ひ上つて、座敷へ戻つたら、動悸が打ち出した。水を貰はうと思つて、下女を呼ぶと、下女は幸ひに何にも知らないらしい。しばらくすると、奥の家で、何だか騒ぎ出した。三四郎は主人が帰つたんだなと覚つた。やがて土手の下ががや/\する。それが済むと又静かになる。殆んど堪え難い程の静かさであつた。
三四郎の眼の前には、あり/\と先刻の女の顔が見える。其顔と「あゝあゝ……」と云つた力のない声と、其二つの奥に潜んで居るべき筈の無残な運命とを、継ぎ合はして考へて見ると、人生と云ふ丈夫さうな命の根が、知らぬ間に、ゆるんで、何時でも暗闇へ浮き出して行きさうに思はれる。三四郎は慾も得も入らない程怖かつた。たゞ轟と云ふ一瞬間である。其前迄は慥かに生きてゐたに違ない。
三四郎は此時不図汽車で水蜜桃を呉れた男が、危ない/\、気を付けないと危ない、と云つた事を思ひ出した。危ない/\と云ひながら、あの男はいやに落付いて居た。つまり危ない/\と云ひ得る程に、自分は危なくない地位に立つてゐれば、あんな男にもなれるだらう。世の中にゐて、世の中を傍観してゐる人は此所に面白味があるかも知れない。どうもあの水蜜桃の食ひ具合から、青木堂で茶を呑んでは烟草を吸ひ、烟草を吸つては茶を呑んで、凝つと正面を見てゐた様子は、正に此種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家と云ふ字を使つて見た。使つて見て自分で旨いと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しやうかと迄考へ出した。あの凄い死顔を見るとこんな気も起る。
三四郎は室の隅にある洋机と、洋机の前にある椅子と、椅子の横にある本箱と、其本箱の中に行儀よく並べてある洋書を見廻して、此静かな書斎の主人は、あの批評家と同じく無事で幸福であると思つた。――光線の圧力を研究する為に、女を轢死させる事はあるまい。主人の妹は病気である。けれども兄の作つた病気ではない。自から罹つた病気である。抔と夫から夫へと頭が移つて行くうちに、十一時になつた。中野行の電車はもう来ない。或は病気がわるいので帰らないのかしらと、又心配になる。所へ野々宮から電報が来た。妹無事、明日朝帰るとあつた。
安心して床に這入つたが、三四郎の夢は頗る危険であつた。――轢死を企てた女は、野々宮に関係のある女で、野々宮はそれと知つて家へ帰つて来ない。只三四郎を安心させる為に電報だけ掛けた。妹無事とあるのは偽はりで、今夜轢死のあつた時刻に妹も死んで仕舞つた。さうして其妹は即ち三四郎が池の端で逢つた女である。……
三四郎は明日例になく早く起きた。
寐慣ない所に寐た床のあとを眺めて、烟草を一本吸んだが、昨夜の事は、凡て夢の様である。縁側へ出て、低い廂の外にある空を仰ぐと、今日は好い天気だ。世界が今朗らかに成つた許りの色をしてゐる。飯を済まして茶を飲んで、縁側に椅子を持ち出して新聞を読んでゐると、約束通り野々宮君が帰つて来た。
「昨夜、そこに轢死があつたさうですね」と云ふ。停車場か何かで聞いたものらしい。三四郎は自分の経験を残らず話した。
「それは珍らしい。滅多に逢へない事だ。僕も家に居れば好かつた。死骸はもう片付けたらうな。行つても見られないだらうな」
「もう駄目でせう」と一口答へたが、野々宮君の呑気なのには驚ろいた。三四郎は此無神経を全く夜と昼の差別から起るものと断定した。光線の圧力を試験する人の性癖が、かう云ふ場合にも、同じ態度であらはれてくるのだとは丸で気が付かなかつた。年が若いからだらう。
三四郎は話を転じて、病人の事を尋ねた。野々宮君の返事によると、果して自分の推測通り病人に異状はなかつた。只五六日以来行つてやらなかつたものだから、それを物足りなく思つて、退屈紛れに兄を釣り寄せたのである。今日は日曜だのに来て呉れないのは苛いと云つて怒つてゐたさうである。それで野々宮君は妹を馬鹿だと云つてゐる。本当に馬鹿だと思つてゐるらしい。此忙しいものに大切な時間を浪費させるのは愚だと云ふのである。けれども三四郎には其意味が殆んど解らなかつた。わざ/\電報を掛けて迄逢ひたがる妹なら、日曜の一晩や二晩を潰したつて惜しくはない筈である。さう云ふ人に逢つて過ごす時間が、本当の時間で、穴倉で光線の試験をして暮す月日は寧ろ人生に遠い閑生涯と云ふべきものである。自分が野々宮君であつたならば、此妹の為めに勉強の妨害をされるのを却つて嬉しく思ふだらう。位に感じたが、其時は轢死の事を忘れてゐた。
野々宮君は昨夜よく寐られなかつたものだから茫然して不可ないと云ひ出した。今日は幸ひ午から早稲田の学校へ行く日で、大学の方は休みだから、それ迄寐やうと云つてゐる。「大分遅く迄起きてゐたんですか」と三四郎が聞くと、実は偶然高等学校で教はつた、もとの先生の広田といふ人が妹の見舞に来て呉れて、みんなで話をしてゐるうちに、電車の時間に後れて、つい泊る事にした。広田のうちへ泊るべきのを、又妹が駄々を捏ねて、是非病院に泊れと云つて聞かないから、已を得ず狭い所へ寐たら、何だか苦しくつて寐つかれなかつた。どうも妹は愚物だ。と又妹を攻撃する。三四郎は可笑くなつた。少し妹の為に弁護しやうかと思つたが、何だか言ひ悪いので已めにした。
其代り広田さんの事を聞いた。三四郎は広田さんの名前を是で三四遍耳にしてゐる。さうして、水蜜桃の先生と青木堂の先生に、ひそかに広田さんの名を付けてゐる。それから正門内で意地の悪い馬に苦しめられて、喜多床の職人に笑はれたのも矢張り広田先生にしてある。所が今承つて見ると、馬の件は果して広田先生であつた。それで水蜜桃も必ず同先生に違ないと極めた。考へると、少し無理の様でもある。
帰るときに、序でだから、午前中に届けて貰ひたいと云つて、袷を一枚病院迄頼まれた。三四郎は大いに嬉しかつた。
三四郎は新らしい四角な帽子を被つてゐる。此帽子を被つて病院に行けるのが一寸得意である。冴々しい顔をして野々宮君の家を出た。
御茶の水で電車を降りて、すぐ俥に乗つた。いつもの三四郎に似合はぬ所作である。威勢よく赤門を引き込ませた時、法文科の号鐘が鳴り出した。いつもなら手帳と印気壺を以て、八番の教室に這入る時分である。一二時間の講義位聴き損なつても構はないと云ふ気で、真直に青山内科の玄関迄乗り付けた。
上り口を奥へ、二つ目の角を右へ切れて、突当りを左へ曲ると東側の部屋だと教つた通り歩いて行くと、果してあつた。黒塗の札に野々宮よし子と仮名でかいて、戸口に懸けてある。三四郎は此名前を読んだ儘、しばらく戸口の所で佇んでゐた。田舎者だから敲するなぞと云ふ気の利いた事はやらない。
「此中にゐる人が、野々宮君の妹で、よし子と云ふ女である」
三四郎は斯う思つて立つてゐた。戸を開けて顔が見度もあるし、見て失望するのが厭でもある。自分の頭の中に往来する女の顔は、どうも野々宮宗八さんに似てゐないのだから困る。
後ろから看護婦が草履の音を立てゝ近付いて来た。三四郎は思ひ切つて戸を半分程開けた。さうして中にゐる女と顔を見合せた。(片手に握りを把つた儘)
眼の大きな、鼻の細い、唇の薄い、鉢が開いたと思ふ位に、額が広くつて顎が削けた女であつた。造作は夫丈である。けれども三四郎は、かう云ふ顔だちから出る、此時にひらめいた咄嗟の表情を生れて始めて見た。蒼白い額の後に、自然の儘に垂れた濃い髪が、肩迄見える。それへ東窓を洩れる朝日の光が、後から射すので、髪と日光の触れ合ふ境の所が菫色に燃えて、活きた暈を脊負つてる。それでゐて、顔も額も甚だ暗い。暗くて蒼白い。其中に遠い心持のする眼がある。高い雲が空の奥にゐて容易に動かない。けれども動かずにも居られない。たゞ崩れる様に動く。女が三四郎を見た時は、かう云ふ眼付であつた。
三四郎は此表情のうちに嬾い憂鬱と、隠さゞる快活との統一を見出した。其統一の感じは三四郎に取つて、最も尊き人生の一片である。さうして一大発見である。三四郎は握りを把つた儘、――顔を戸の影から半分部屋の中に差し出した儘、此刹那の感に自己を放下し去つた。
「御這入りなさい」
女は三四郎を待ち設けた様に云ふ。其調子には初対面の女には見出す事の出来ない、安らかな音色があつた。純粋の小供か、あらゆる男児に接しつくした婦人でなければ、かうは出られない。馴々しいのとは違ふ。初から旧い相識なのである。同時に女は肉の豊でない頬を動かしてにこりと笑つた。蒼白いうちに、なつかしい暖味が出来た。三四郎の足は自然と部屋の内へ這入つた。其時青年の頭の裡[#ルビの「うら」はママ]には遠い故郷にある母の影が閃めいた。
戸の後へ廻つて、始めて正面に向いた時、五十あまりの婦人が三四郎に挨拶をした。此婦人は三四郎の身体がまだ扉の影を出ない前から席を立つて待つてゐたものと見える。
「小川さんですか」と向から尋ねて呉れた。顔は野々宮君に似てゐる。娘にも似てゐる。然したゞ似てゐるといふ丈である。頼まれた風呂敷包を出すと、受取つて、礼を述べて、
「どうぞ」と云ひながら椅子をすゝめた儘、自分は寝台の向側へ回つた。
寝台の上に敷いた蒲団を見ると真白である。上へ掛けるものも真白である。それを半分程斜に捲ぐつて、裾の方が厚く見える所を、避ける様に、女は窓を背にして腰を掛けた。足は床に届かない。手に編針を持つてゐる。毛糸のたまが寝台の下に転がつた。女の手から長い赤い糸が筋を引いてゐる。三四郎は寝台の下から毛糸のたまを取り出してやらうかと思つた。けれども、女が毛糸には丸で無頓着でゐるので控へた。
御母さんが向側から、しきりに昨夜の礼を述べる。御忙がしい所を抔と云ふ。三四郎は、いゝえ、どうせ遊んでゐますからと云ふ。二人が話をしてゐる間、よし子は黙つてゐた。二人の話が切れた時、突然、
「昨夜の轢死を御覧になつて」と聞いた。見ると部屋の隅に新聞がある。三四郎が、
「えゝ」と云ふ。
「怖かつたでせう」と云ひながら、少し首を横に曲げて、三四郎を見た。兄に似て頸の長い女である。三四郎は怖いとも怖くないとも答へずに、女の頸の曲り具合を眺めてゐた。半分は質問があまり単純なので、答へに窮したのである。半分は答へるのを忘れたのである。女は気が付いたと見えて、すぐ頸を真直にした。さうして蒼白い頬の奥を少し紅くした。三四郎はもう帰るべき時間だと考へた。
挨拶をして、部屋を出て、玄関正面へ来て、向を見ると、長い廊下の果が四角に切れて、ぱつと明るく、表の緑が映る上り口に、池の女が立つてゐる。はつと驚ろいた三四郎の足は、早速の歩調に狂が出来た。其時透明な空気の画布の中に暗く描かれた女の影は一歩前へ動いた。三四郎も誘はれた様に前へ動いた。二人は一筋道の廊下の何所かで擦れ違はねばならぬ運命を以て互ひに近付いて来た。すると女が振り返つた。明るい表の空気のなかには、初秋の緑が浮いてゐる許である。振り返つた女の眼に応じて、四角のなかに、現はれたものもなければ、これを待ち受けてゐたものもない。三四郎は其間に女の姿勢と服装を頭のなかへ入れた。
着物の色は何と云ふ名か分らない。大学の池の水へ、曇つた常磐木の影が映る時の様である。それを鮮やかな縞が、上から下へ貫ぬいてゐる。さうして其縞が貫ぬきながら波を打つて、互に寄つたり離れたり、重なつて太くなつたり、割れて二筋になつたりする。不規則だけれども乱れない上から三分一の所を、広い帯で横に仕切つた。帯の感じには暖味がある。黄を含んでゐるためだらう。
後を振り向いた時、右の肩が、後へ引けて、左の手が腰に添つた儘前へ出た。手帛を持つてゐる。其手帛の指に余つた所が、さらりと開いてゐる。絹の為だらう。――腰から下は正しい姿勢にある。
女はやがて元の通りに向き直つた。眼を伏せて二足許三四郎に近付いた時、突然首を少し後に引いて、まともに男を見た。二重瞼の切長の落付いた恰好である。目立つて黒い眉毛の下に活きてゐる。同時に奇麗な歯があらはれた。此歯と此顔色とは三四郎に取つて忘るべからざる対照であつた。
今日は白いものを薄く塗つてゐる。けれども本来の地を隠す程に無趣味ではなかつた。濃やかな肉が、程よく色づいて、強い日光に負げない様に見える上を、極めて薄く粉が吹いてゐる。てら/\照る顔ではない。
肉は頬と云はず顎と云はずきちりと締つてゐる。骨の上に余つたものは沢山ない位である。それでゐて、顔全体が柔かい。肉が柔らかいのではない、骨そのものが柔らかい様に思はれる。奥行の長い感じを起させる顔である。
女は腰を曲めた。三四郎は知らぬ人に礼をされて驚ろいたと云ふよりも、寧ろ礼の仕方の巧みなのに驚ろいた。腰から上が、風に乗る紙の様にふわりと前に落ちた。しかも早い。それで、ある角度迄来て苦もなく確然と留つた。無論習つて覚えたものではない。
「一寸伺ひますが……」と云ふ声が白い歯の間から出た。きりゝとしてゐる。然し鷹揚である。たゞ夏のさかりに椎の実が生つてゐるかと人に聞きさうには思はれなかつた。三四郎はそんな事に気のつく余裕はない。
「はあ」と云つて立ち留つた。
「十五号室はどの辺になりませう」
十五号は三四郎が今出て来た室である。
「野々宮さんの室ですか」
今度は女の方が「はあ」と云ふ。
「野々宮さんの部屋はね、其角を曲つて突き当つて、又左へ曲がつて、二番目の右側です」
「其角を……」と云ひながら女は細い指を前へ出した。
「えゝ、つい其先の角です」
「どうも難有う」
女は行き過ぎた。三四郎は立つたまゝ、女の後姿を見守つてゐる。女は角へ来た。曲がらうとする途端に振り返つた。三四郎は赤面する許りに狼狽した。女はにこりと笑つて、此角ですかと云ふ様な相図を顔でした。三四郎は思はず首肯いた。女の影は右へ切れて白い壁の中へ隠れた。
三四郎はぶらりと玄関を出た。医科大学生と間違へて室の番号を聞いたのかしらんと思つて、五六歩あるいたが、急に気が付いた。女に十五号を聞かれた時、もう一辺よし子の室へ後戻りをして、案内すればよかつた。残念な事をした。
三四郎は今更取つて帰す勇気は出なかつた。已を得ず又五六歩あるいたが、今度はぴたりと留つた。三四郎の頭の中に、女の結んでゐたリボンの色が映つた。其リボンの色も質も、慥かに野々宮君が兼安で買つたものと同じであると考へ出した時、三四郎は急に足が重くなつた。図書館の横をのたくる様に正門の方へ出ると、どこから来たか与次郎が突然声を掛けた。
「おい何故休んだ。今日は以太利人がマカロニーを如何にして食ふかと云ふ講義を聞いた」と云ひながら、傍へ寄つて来て三四郎の肩を叩いた。
二人は少し一所にあるいた。正門の傍へ来た時、三四郎は、
「君、今頃でも薄いリボンを掛けるものかな。あれは極暑に限るんぢやないか」と聞いた。与次郎はアハヽヽと笑つて、
「○○教授に聞くがいゝ。何でも知つてる男だから」と云つて取り合はなかつた。
正門の所で三四郎は具合が悪いから今日は学校を休むと云ひ出した。与次郎は一所に跟いて来て損をしたと云はぬ許りに教室の方へ帰つて行つた。
三四郎の魂がふわつき出した。講義を聞いてゐると、遠方に聞える。わるくすると肝要な事を書き落す。甚しい時は他人の耳を損料で借りてゐる様な気がする。三四郎は馬鹿々々しくつて堪らない。仕方なしに、与次郎に向つて、どうも近頃は講義が面白くないと言ひ出した。与次郎の答はいつも同じ事であつた。――
「講義が面白い訳がない。君は田舎者だから、今に偉い事になると思つて、今日迄辛防して聞いてゐたんだらう。愚の至りだ。彼等の講義は開闢以来こんなものだ。今更失望したつて仕方がないや」
「さう云ふ訳でもないが……」と三四郎は弁解する。与次郎のへら/\調と、三四郎の重苦しい口の利き様が、不釣合で甚だ可笑しい。
かう云ふ問答を二三度繰り返してゐるうちに、いつの間にか半月許り経過た。三四郎の耳は漸々借りものでない様になつて来た。すると今度は与次郎の方から、三四郎に向つて、
「どうも妙な顔だな。如何にも生活に疲れてゐる様な顔だ。世紀末の顔だ」と批評し出した。三四郎は、此批評に対しても依然として、
「さう云ふ訳でもないが……」を繰り返してゐた。三四郎は世紀末抔と云ふ言葉を聞いて嬉しがる程に、まだ人工的の空気に触れてゐなかつた。またこれを興味ある玩具として使用し得る程に、ある社会の消息に通じてゐなかつた。たゞ生活に疲れてゐるといふ句が少し気に入つた。成程疲れ出した様でもある。三四郎は下痢の為め許りとは思はなかつた。けれども大いに疲れた顔を標榜するほど、人生観のハイカラでもなかつた。それで此会話はそれぎり発展しずに済んだ。
そのうち秋は高くなる。食慾は進む。二十三の青年が到底人生に疲れてゐる事が出来ない時節が来た。三四郎は能く出る。大学の池の周囲も大分廻つて見たが、別段の変もない。病院の前も何遍となく往復したが普通の人間に逢ふ許りである。又理科大学の穴倉へ行つて野々宮君に聞いて見たら、妹はもう病院を出たと云ふ。玄関で逢つた女の事を話さうと思つたが、先方が忙しさうなので、つい遠慮して已めて仕舞つた。今度大久保へ行つて緩くり話せば、名前も素性も大抵は解る事だから、焦かずに引き取つた。さうして、ふわ/\して諸方歩いてゐる。田端だの、道灌山だの、染井の墓地だの、巣鴨の監獄だの、護国寺だの、――三四郎は新井の薬師迄も行つた。新井の薬師の帰りに、大久保へ出て、野々宮君の家へ廻らうと思つたら、落合の火葬場の辺で途を間違へて、高田へ出たので、目白から汽車へ乗つて帰つた。汽車の中で見舞に買つた栗を一人で散々食つた。其余りは翌日与次郎が来て、みんな平げた。
三四郎はふわ/\すればする程愉快になつて来た。初めのうちは余り講義に念を入れ過ぎたので、耳が遠くなつて筆記に困つたが、近頃は大抵に聴いてゐるから何ともない。講義中に色々な事を考へる。少し位落しても惜しい気も起らない。よく観察して見ると与次郎始めみんな同じ事である。三四郎は此位で好いものだらうと思ひ出した。
三四郎が色々考へるうちに、時々例のリボンが出て来る。さうすると気掛りになる。甚だ不愉快になる。すぐ大久保へ出掛けて見たくなる。然し想像の連鎖やら、外界の刺激やらで、しばらくすると紛れて仕舞ふ。だから大体は呑気である。それで夢を見てゐる。大久保へは中々行かない。
ある日の午後三四郎は例の如くぶら付いて、団子坂の上から、左へ折れて千駄木林町の広い通りへ出た。秋晴と云つて、此頃は東京の空も田舎の様に深く見える。かう云ふ空の下に生きてゐると思ふ丈でも頭は明確する。其上野へ出れば申し分はない。気が暢び/\して魂が大空程の大きさになる。それで居て身体惣体が緊つて来る。だらしのない春の長閑さとは違ふ。三四郎は左右の生垣を眺めながら、生れて始めての東京の秋を嗅ぎつゝ遣つて来た。
坂下では菊人形が二三日前開業したばかりである。坂を曲る時は幟さへ見えた。今はたゞ声丈聞える。どんちやん/\遠くから囃してゐる。其囃の音が、下の方から次第に浮き上がつて来て、澄み切つた秋の空気のなかへ広がり尽すと、遂には極めて稀薄な波になる。其又余波が三四郎の鼓膜の傍迄来て自然に留る。騒がしいといふよりは却つて好い心持である。
時に突然左りの横町から二人あらはれた。その一人が三四郎を見て、「おい」と云ふ。
与次郎の声は今日に限つて、几帳面である。其代り連がある。三四郎は其連を見たとき、果して日頃の推察通り、青木堂で茶を飲んでゐた人が、広田さんであると云ふ事を悟つた。此人とは水蜜桃以来妙な関係がある。ことに青木堂で茶を飲んで烟草を呑んで、自分を図書館に走らしてよりこのかた、一層よく記憶に染みてゐる。いつ見ても神主の様な顔に西洋人の鼻を付けてゐる。今日も此間の夏服で、別段寒さうな様子もない。
三四郎は何とか云つて、挨拶をしやうと思つたが、あまり時間が経つてゐるので、どう口を利いていゝか分らない。たゞ帽子を取つて礼をした。与次郎に対しては、あまり丁寧過ぎる。広田に対しては、少し簡略すぎる。三四郎は何方付かずの中間に出た。すると与次郎が、すぐ、
「此男は私の同級生です。熊本の高等学校から始めて東京へ出て来た――」と聴かれもしない先から田舎ものを吹聴して置いて、それから三四郎の方を向いて、
「是が広田先生。高等学校の……」と訳もなく双方を紹介して仕舞つた。
此時広田先生は「知つてる、/\」と二返繰り返して云つたので、与次郎は妙な顔をしてゐる。然し、何故知つてるんですか抔と面倒な事は聞かなかつた。たゞちに、
「君、此辺に貸家はないか。広くて、奇麗な、書生部屋のある」と尋ねだした。
「貸家はと……ある」
「どの辺だ。汚なくつちや不可ないぜ」
「いや奇麗なのがある。大きな石の門が立つてゐるのがある」
「そりや旨い。どこだ。先生、石の門は可いですな。是非それに仕様ぢやありませんか」と与次郎は大いに進んでゐる。
「石の門は不可ん」と先生が云ふ。
「不可ん? そりや困る。何故不可です」
「何故でも不可ん」
「石の門は可いがな。新らしい男爵の様で可いぢやないですか、先生」
与次郎は真面目である。広田先生はにや/\笑つてゐる。とう/\真面目の方が勝つて、兎も角も見る事に相談が出来て、三四郎が案内をした。
横町を後へ引き返して、裏通りへ出ると、半町ばかり北へ来た所に、突き当りと思はれる様な小路がある。其小路の中へ三四郎は二人を連れ込んだ。真直に行くと植木屋の庭へ出て仕舞ふ。三人は入口の五六間手前で留つた。右手に可なり大きな御影の柱が二本立つてゐる。扉は鉄である。三四郎が是だと云ふ。成程貸家札が付いてゐる。
「こりや恐ろしいもんだ」と云ひながら、与次郎は鉄の扉をうんと推したが、錠が卸りてゐる。「一寸御待ちなさい聞いてくる」と云ふや否や、与次郎は植木屋の奥の方へ馳け込んで行つた。広田と三四郎は取り残された様なものである。二人で話を始めた。
「東京は如何です」
「えゝ……」
「広い許で汚ない所でせう」
「えゝ……」
「富士山に比較する様なものは何にもないでせう」
三四郎は富士山の事を丸で忘れてゐた。広田先生の注意によつて、汽車の窓から始めて眺めた富士は、考へ出すと、成程崇高なものである。たゞ今自分の頭の中にごた/\してゐる世相とは、とても比較にならない。三四郎はあの時の印象を何時の間にか取り落してゐたのを恥づかしく思つた。すると、
「君、不二山を翻訳して見た事がありますか」と意外な質問を放たれた。
「翻訳とは……」
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けて仕舞ふから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」
三四郎は翻訳の意味を了した。
「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩には、自然が毫も人格上の感化を与へてゐない」
三四郎はまだあとが有るかと思つて、黙つて聞いてゐた。所が広田さんは夫で已めて仕舞つた。植木屋の奥の方を覗いて、
「佐々木は何をしてゐるのか知ら。遅いな」と独り言の様に云ふ。
「見て来ませうか」と三四郎が聞いた。
「なに、見に行つたつて、それで出て来る様な男ぢやない。それより此所に待つてる方が手間が掛らないでいゝ」と云つて枳殻の垣根の下に跼がんで、小石を拾つて、土の上へ何か描き出した。呑気な事である。与次郎の呑気とは方角が反対で、程度が略相似てゐる。
所へ植込の松の向から、与次郎が大きな声を出した。
「先生々々」
先生は依然として、何か描いてゐる。どうも燈明台の様である。返事をしないので、与次郎は仕方なしに出て来た。
「先生一寸見て御覧なさい。好い家だ。この植木屋で持つてるんです。門を開けさせても好いが、裏から廻つた方が早い」
三人は裏から廻つた。雨戸を明けて、一間々々見て歩いた。中流の人が住んで恥づかしくない様に出来てゐる。家賃が四十円で、敷金が三ヶ月分だと云ふ。三人はまた表へ出た。
「何で、あんな立派な家を見るのだ」と広田さんが云ふ。
「何で見るつて、たゞ見る丈だから好いぢやありませんか」と与次郎は云ふ。
「借りもしないのに……」
「なに借りる積で居たんです。所が家賃をどうしても弐十五円にしやうと云はない……」
広田先生は「当り前さ」と云つた限である。すると与次郎が石の門の歴史を話し出した。此間迄ある出入りの屋敷の入口にあつたのを、改築のとき貰つて来て、直あすこへ立てたのだと云ふ。与次郎丈に妙な事を研究して来た。
それから三人は元の大通りへ出て、動坂から田端の谷へ下りたが、下りた時分には三人ともただ歩いてゐる。貸家の事はみんな忘れて仕舞つた。ひとり与次郎が時々石の門の事を云ふ。麹町からあれを千駄木迄引いてくるのに、手間が五円程かゝつた抔と云ふ。あの植木屋は大分金持らしい抔とも云ふ。あすこへ四十円の貸家を建てゝ、全体誰が借りるだらう抔と余計なこと迄云ふ。遂には、今に借手がなくつて屹度家賃を下げるに違ないから、其時もう一遍談判して是非借りやうぢやありませんかと云ふ結論であつた。広田先生は別に、さういふ料簡もないと見えて、かう云つた。
「君が、あんまり余計な話ばかりしてゐるものだから、時間が掛つて仕方がない。好加減にして出て来るものだ」
「余程長くかゝりましたか。何か画をかいてゐましたね。先生も随分呑気だな」
「何方が呑気か分りやしない」
「ありや何の画です」
先生は黙つてゐる。其時三四郎が真面目な顔をして、
「燈台ぢやないですか」と聞いた。画手と与次郎は笑ひ出した。
「燈台は奇抜だな。ぢや野々宮宗八さんを画いて入らしつたんですね」
「何故」
「野々宮さんは外国ぢや光つてるが、日本ぢや真暗だから。――誰も丸で知らない。それで僅ばかりの月給を貰つて、穴倉へ立籠つて――、実に割に合はない商買だ。野々宮さんの顔を見る度に気の毒になつて堪らない」
「君なぞは自分の坐つてゐる周囲方二尺位の所をぼんやり照らす丈だから、丸行燈の様なものだ」
丸行燈に比較された与次郎は、突然三四郎の方を向いて、
「小川君、君は明治何年生れかな」と聞いた。三四郎は単簡に、
「僕は二十三だ」と答へた。
「そんなものだらう。――先生僕は丸行燈だの、雁首だのつて云ふものが、どうも嫌ですがね。明治十五年以後に生れた所為かも知れないが、何だか旧式で厭な心持がする。君はどうだ」と又三四郎の方を向く。三四郎は、
「僕は別段嫌でもない」と云つた。
「尤も君は九州の田舎から出た許だから、明治元年位の頭と同じなんだらう」
三四郎も広田も是に対して別段の挨拶をしなかつた。少し行くと古い寺の隣りの杉林を切り倒して、奇麗に地平をした上に、青ペンキ塗の西洋館を建てゝゐる。広田先生は寺とペンキ塗を等分に見てゐた。
「時代錯誤だ。日本の物質界も精神界も此通りだ。君、九段の燈明台を知つてゐるだらう」と又燈明台が出た。「あれは古いもので、江戸名所図絵に出てゐる」
「先生冗談云つちや不可ません。なんぼ九段の燈明台が旧いたつて、江戸名所図絵に出ちや大変だ」
広田先生は笑ひ出した。実は東京名所と云ふ錦絵の間違だと云ふ事が解つた。先生の説によると、こんなに古い燈台が、まだ残つてゐる傍に、階行社と云ふ新式の錬瓦作りが出来た。二つ並べて見ると実に馬鹿気てゐる。けれども誰も気が付かない、平気でゐる。是が日本の社会を代表してゐるんだと云ふ。
与次郎も三四郎も成程と云つた儘、御寺の前を通り越して、五六町来ると、大きな黒い門がある。与次郎が、此所を抜けて道灌山へ出様と云ひ出した。抜けても可いのかと念を押すと、なに是は佐竹の下屋敷で、誰でも通れるんだから構はないと主張するので、二人共其気になつて門を潜つて、藪の下を通つて古い池の傍迄来ると、番人が出て来て、大変に三人を叱り付けた。其時与次郎はへい/\と云つて番人に詫まつた。
それから谷中へ出て、根津を廻つて、夕方に本郷の下宿へ帰つた。三四郎は近来にない気楽な半日を暮した様に感じた。
翌日学校へ出て見ると与次郎が居ない。午から来るかと思つたが来ない。図書館へも這入つたが矢っ張り見当らなかつた。五時から六時迄純文科共通の講義がある。三四郎はこれへ出た。筆記をするには暗過ぎる。電燈が点くには早過ぎる。細長い窓の外に見える大きな欅の枝の奥が、次第に黒くなる時分だから、室の中は講師の顔も聴講生の顔も等しくぼんやりしてゐる。従つて暗闇で饅頭を食ふ様に、何となく神秘的である。三四郎は講義が解らない所が妙だと思つた。頬杖を突いて聴いてゐると、神経が鈍くなつて、気が遠くなる。これでこそ講義の価値がある様な心持がする。所へ電燈がぱつと点いて、万事が稍明瞭になつた。すると急に下宿へ帰つて飯が食ひたくなつた。先生もみんなの心を察して、好い加減に講義を切り上げて呉れた。三四郎は早足で追分迄帰つてくる。
着物を脱ぎ換えて膳に向ふと、膳の上に、茶碗蒸と一所に手紙が一本載せてある。其上封を見たとき、三四郎はすぐ母から来たものだと悟つた。済まん事だが此半月あまり母の事は丸で忘れてゐた。昨日から今日へ掛けては時代錯誤だの、不二山の人格だの、神秘的な講義だので、例の女の影も一向頭の中へ出て来なかつた。三四郎は夫で満足である。母の手紙はあとで緩くり覧る事として、取り敢ず食事を済まして、烟草を吹かした。其烟を見ると先刻の講義を思ひ出す。
そこへ与次郎がふらりと現はれた。どうして学校を休んだかと聞くと、貸家探しで学校所ぢやないさうである。
「そんなに急いで越すのか」と三四郎が聞くと、
「急ぐつて先月中に越す筈の所を明後日の天長節迄待たしたんだから、どうしたつて明日中に探さなければならない。どこか心当りはないか」と云ふ。
こんなに忙しがる癖に、昨日は散歩だか、貸家探しだか分らない様にぶら/\潰してゐた。三四郎には殆んど合点が行かない。与次郎は之を解釈して、それは先生が一所だからさと云つた。「元来先生が家を探すなんて間違つてゐる。決して探した事のない男なんだが、昨日はどうかしてゐたに違ない。御蔭で佐竹の邸で苛い目に叱られて好い面の皮だ。――君何所かないか」と急に催促する。与次郎が来たのは全くそれが目的らしい。能く/\原因を聞いて見ると、今の持主が高利貸で、家賃を無暗に上げるのが、業腹だと云ふので、与次郎が此方から立退を宣告したのださうだ。それでは与次郎に責任がある訳だ。
「今日は大久保迄行つて見たが、矢っ張りない。――大久保と云へば、序に宗八さんの所へ寄つて、よし子さんに逢つて来た。可哀さうにまだ色光沢が悪い。――辣薑性の美人――御母さんが君に宜しく云つて呉れつてことだ。しかし其後はあの辺も穏やかな様だ。轢死もあれぎりないさうだ」
与次郎の話はそれから、それへと飛んで行く。平生から締りのない上に、今日は家探しで少し焦き込んでゐる。話が一段落つくと、相の手の様に、何所かないか/\と聞く。仕舞には三四郎も笑ひ出した。
そのうち与次郎の尻が次第に落ち付いて来て、燈火親しむべし抔といふ漢語さへ借用して嬉しがる様になつた。話題は端なく広田先生の上に落ちた。
「君の所の先生の名は何と云ふのか」
「名は萇」と指で書いて見せて、「艸冠が余計だ。字引にあるか知らん。妙な名を付けたものだね」と云ふ。
「高等学校の先生か」
「昔から今日に至る迄高等学校の先生。えらいものだ。十年一日の如しと云ふが、もう十二三年になるだらう」
「子供は居るのか」
「小供どころか、まだ独身だ」
三四郎は少し驚ろいた。あの年迄一人で居られるものかとも疑つた。
「何故奥さんを貰はないのだらう」
「そこが先生の先生たる所で、あれで大変な理論家なんだ。細君を貰つて見ない先から、細君はいかんものと理論で極つてゐるんださうだ。愚だよ。だから始終矛盾ばかりしてゐる。先生、東京程汚ない所はない様に云ふ。それで石の門を見ると恐れを作して、不可ん/\とか、立派過ぎるとかいふだらう」
「ぢや細君も試みに持つて見たら好からう」
「大いに佳しとか何とかいふかも知れない」
「先生は東京が汚ないとか、日本人が醜いとか云ふが、洋行でもした事があるのか」
「なにするもんか。あゝ云ふ人なんだ。万事頭の方が事実より発達してゐるんだから、あゝなるんだね。其代り西洋は写真で研究してゐる。巴理の凱旋門だの、倫敦の議事堂だの沢山持つてゐる。あの写真で日本を律するんだから堪らない。汚ない訳さ。それで自分の住んでる所は、いくら汚なくつても存外平気だから不思議だ」
「三等汽車へ乗つて居つたぞ」
「汚ない/\つて不平を云やしないか」
「いや別に不平も云はなかつた」
「然し先生は哲学者だね」
「学校で哲学でも教へてゐるのか」
「いや学校ぢや英語丈しか受持つてゐないがね、あの人間が、自から哲学に出来上つてゐるから面白い」
「著述でもあるのか」
「何にもない。時々論文を書く事はあるが、ちつとも反響がない。あれぢや駄目だ。丸で世間が知らないんだから仕様がない。先生、僕の事を丸行燈だといつたが、夫子自身は偉大な暗闇だ」
「どうかして、世の中へ出たら好ささうなものだな」
「出たら好ささうなものだつて、――先生、自分ぢや何にも遣らない人だからね。第一僕が居なけりや三度の飯さへ食へない人なんだ」
三四郎は真逆と云はぬ許に笑ひ出した。
「嘘ぢやない。気の毒な程何にも遣らない人でね。何でも、僕が下女に命じて、先生の気に入る様に始末を付けるんだが――そんな瑣末な事は兎に角、是から大いに活動して、先生を一つ大学教授にして遣らうと思ふ」
与次郎は真面目である。三四郎は其大言に驚ろいた。驚ろいても構はない。驚ろいた儘に進行して、仕舞に、
「引越をする時は是非手伝に来て呉れ」と頼んだ。丸で約束の出来た家が、とうからある如き口吻である。さうして直帰つた。
与次郎の帰つたのは彼是十時近くである。一人で坐つて居ると、何処となく肌寒の感じがする。不図気が付いたら、机の前の窓がまだ閉てずにあつた。障子を明けると月夜だ。目に触れるたびに不愉快な檜に、蒼い光りが射して、黒い影の縁が少し烟つて見える。檜に秋が来たのは珍らしいと思ひながら、雨戸を閉てた。
三四郎はすぐ床へ這入つた。三四郎は勉強家といふより寧ろ
徊家なので、割合書物を読まない。其代りある掬すべき情景に逢ふと、何遍もこれを頭の中で新たにして喜こんでゐる。其方が命に奥行がある様な気がする。今日も、何時もなら、神秘的講義の最中に、ぱつと電燈が点く所などを繰返して嬉しがる筈だが、母の手紙があるので、まづ、それから片付始めた。手紙には新蔵が蜂蜜を呉れたから、焼酎を混ぜて、毎晩盃に一杯づゝ飲んでゐるとある。新蔵は家の小作人で、毎年冬になると年貢米を二十俵づゝ持つてくる。至つて正直ものだが、疳癪が強いので、時々女房を薪で擲る事がある。――三四郎は床の中で新蔵が蜂を飼ひ出した昔の事迄思ひ浮べた。それは五年程前である。裏の椎の木に蜜蜂が二三百疋ぶら下がつてゐたのを見付けて、すぐ籾漏斗に酒を吹きかけて、悉く生捕にした。それから之を箱へ入れて、出入りの出来る様な穴を開けて、日当りの好い石の上に据ゑてやつた。すると蜂が段々殖えて来る。箱が一では足りなくなる。二つにする。又足りなくなる。三つにする。と云ふ風に殖して行つた結果、今では何でも六箱か七箱ある。其うちの一箱を年に一度づゝ石から卸して蜂の為に蜜を切り取ると云つてゐた。毎年夏休みに帰るたびに蜜を上げませうと云はない事はないが、ついに持つて来た例がなかつた。が今年は物覚が急に善くなつて、年来の約束を履行したものであらう。
平太郎が親爺の石塔を建てたから見に来て呉れろと頼みにきたとある。行つて見ると、木も草も生えてゐない庭の赤土の真中に、御影石で出来てゐたさうである。平太郎は其御影石が自慢なのだと書いてある。山から切り出すのに幾日とか掛つて、それから石屋に頼んだら十円取られた。百姓や何かには分らないが、貴所のとこの若旦那は大学校へ這入つてゐる位だから、石の善悪は屹度分る。今度手紙の序に聞いて見て呉れ、さうして十円も掛けて親爺の為に拵へてやつた石塔を賞て貰つてくれと云ふんださうだ。――三四郎は独りでくす/\笑ひ出した。千駄木の石門より余程烈しい。
大学の制服を着た写真を寄こせとある。三四郎は何時か撮つて遣らうと思ひながら、次へ移ると、案の如く三輪田の御光さんが出て来た。――此間御光さんの御母さんが来て、三四郎さんも近々大学を卒業なさる事だが、卒業したら宅の娘を貰つて呉れまいかと云ふ相談であつた。御光さんは器量もよし気質も優しいし、家に田地も大分あるし、其上家と家との今迄の関係もある事だから、さうしたら双方共都合が好いだらうと書いて、そのあとへ但し書が付けてある。――御光さんも嬉しがるだらう。――東京のものは気心が知れないから私はいやぢや。
三四郎は手紙を巻き返して、封に入れて、枕元へ置いた儘眼を眠つた。鼠が急に天井で暴れ出したが、やがて静まつた。
三四郎には三つの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎の所謂明治十五年以前の香がする。凡てが平穏である代りに凡てが寐坊気てゐる。尤も帰るに世話は入らない。戻らうとすれば、すぐに戻れる。たゞ、いざとならない以上は戻る気がしない。云はゞ立退場の様なものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、此立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さへ此所に葬つたかと思ふと、急に勿体なくなる。そこで手紙が来た時丈は、しばらく此世界に
徊して旧歓を温める。第二の世界のうちには、苔の生えた錬瓦造りがある。片隅から片隅を見渡すと、向ふの人の顔がよく分らない程に広い閲覧室がある。梯子を掛けなければ、手の届きかねる迄高く積み重ねた書物がある。手摺れ、指の垢、で黒くなつてゐる。金文字で光つてゐる。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それから凡ての上に積つた塵がある。此塵は二三十年かゝつて漸く積つた貴とい塵である。静かな月日に打ち勝つ程の静かな塵である。
第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしてゐる。あるものは空を見て歩いてゐる。あるものは俯向いて歩いてゐる。服装は必ず穢ない。生計は屹度貧乏である。さうして晏如としてゐる。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚からない。このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅を逃れるから幸である。広田先生は此内にゐる。野々宮君も此内にゐる。三四郎は此内の空気を略解し得た所にゐる。出れば出られる。然し折角解し掛けた趣味を思ひ切つて捨てるのも残念だ。
第三の世界は燦として春の如く盪いてゐる。電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つ三鞭の盃がある。さうして凡ての上の冠として美くしい女性がある。三四郎はその女性の一人に口を利いた。一人を二遍見た。此世界は三四郎に取つて最も深厚な世界である。此世界は鼻の先にある。たゞ近づき難い。近づき難い点に於て、天外の稲妻と一般である。三四郎は遠くから此世界を眺めて、不思議に思ふ。自分が此世界のどこかへ這入らなければ、其世界のどこかに陥欠が出来る様な気がする。自分は此世界のどこかの主人公であるべき資格を有してゐるらしい。それにも拘はらず、円満の発達を冀ふべき筈の此世界が、却つて自らを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞いでゐる。三四郎にはこれが不思議であつた。
三四郎は床のなかで、此三の世界を並べて、互に比較して見た。次に此三の世界を掻き混ぜて、其中から一つの結果を得た。――要するに、国から母を呼び寄せて、美くしい細君を迎へて、さうして身を学問に委ねるに越した事はない。
結果は頗る平凡である。けれども此結果に到着する前に色々考へたのだから、思索の労力を打算して、結論の価値を上下しやすい思索家自身から見ると、夫程平凡ではなかつた。
たゞかうすると広い第三の世界を眇たる一個の細君で代表させる事になる。美くしい女性は沢山ある。美くしい女性を翻訳すると色々になる。――三四郎は広田先生にならつて、翻訳と云ふ字を使つて見た。――苟しくも人格上の言葉に翻訳の出来る限りは、其翻訳から生ずる感化の範囲を広くして、自己の個性を完からしむる為に、なるべく多くの美しい女性に接触しなければならない。細君一人を知つて甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にする様なものである。
三四郎は論理を此所迄延長して見て、少し広田さんにかぶれたなと思つた。実際の所は、これ程痛切に不足を感じてゐなかつたからである。
翌日学校へ出ると講義は例によつて詰らないが、室内の空気は依然として俗を離れてゐるので、午後三時迄の間に、すつかり第二の世界の人となり終せて、さも偉人の様な態度を以て、追分の交番の前迄来ると、ぱつたり与次郎に出逢つた。
「アハヽヽ。アハヽヽ」
偉人の態度は是が為に全く崩れた。交番の巡査さへ薄笑ひをしてゐる。
「なんだ」
「なんだも無いものだ。もう少し普通の人間らしく歩くがいゝ。丸で浪漫的アイロニーだ」
三四郎には此洋語の意味がよく分らなかつた。仕方がないから、
「家はあつたか」と聞いた。
「その事で今君の所へ行つたんだ――明日愈引越す。手伝に来て呉れ」
「何所へ越す」
「西片町十番地への三号。九時迄に向へ行つて掃除をしてね。待つてゝ呉れ。あとから行くから。いゝか、九時迄だぜ。への三号だよ。失敬」
与次郎は急いで行き過ぎた。三四郎も急いで下宿へ帰つた。其晩取つて返して、図書館で浪漫的アイロニーと云ふ句を調べて見たら、独乙のシユレーゲルが唱へ出した言葉で、何でも天才と云ふものは、目的も努力もなく、終日ぶら/\ぶら付いて居なくつては駄目だと云ふ説だと書いてあつた。三四郎は漸く安心して、下宿へ帰つて、すぐ寐た。
翌日は約束だから、天長節にも拘はらず、例刻に起きて、学校へ行く積りで西片町十番地へ這入つて、への三号を調べて見ると、妙に細い通りの中程にある。古い家だ。
玄関の代りに西洋間が一つ突き出してゐて、それと鉤の手に座敷がある。座敷の後ろが茶の間で、茶の間の向が勝手、下女部屋と順に並んでゐる。外に二階がある。但し何畳だか分らない。
三四郎は掃除を頼まれたのだが、別に掃除をする必要もないと認めた。無論奇麗ぢやない。然し何と云つて、取つて捨てべきものも見当らない。強ひて捨てれば畳建具位なものだと考へながら、雨戸丈を明けて、座敷の縁側へ腰を掛けて庭を眺めて居た。
大きな百日紅がある。然し是は根が隣りにあるので、幹の半分以上が横に杉垣から、此方の領分を冒してゐる丈である。大きな桜がある。是は慥かに垣根の中に生えてゐる。其代り枝が半分往来へ逃げ出して、もう少しすると電話の妨害になる。菊が一株ある。けれども寒菊と見えて、一向咲いて居ない。此外には何にもない。気の毒な様な庭である。たゞ土丈は平らで、肌理が細かで甚だ美くしい。三四郎は土を見てゐた。実際土を見る様に出来た庭である。
そのうち高等学校で天長節の式の始まる号鐘が鳴り出した。三四郎は号鐘を聞きながら九時が来たんだらうと考へた。何もしないでゐても悪いから、桜の枯葉でも掃かうかしらんと漸く気が付いた時、箒がないといふ事を考へ出した。また縁側へ腰を掛けた。掛けて二分もしたかと思ふと、庭木戸がすうと明いた。さうして思も寄らぬ池の女が庭の中にあらはれた。
二方は生垣で仕切つてある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎は此狭い囲の中に立つた池の女を見るや否や、忽ち悟つた。――花は必ず剪つて、瓶裏に眺むべきものである。
此時三四郎の腰は縁側を離れた。女は折戸を離れた。
「失礼で御座いますが……」
女は此句を冒頭に置いて会釈した。腰から上を例の通り前へ浮かしたが、顔は決して下げない。会釈しながら、三四郎を見詰めてゐる。女の咽喉が正面から見ると長く延びた。同時に其眼が三四郎の眸に映つた。
二三日前三四郎は美学の教師からグルーズの画を見せてもらつた。其時美学の教師が、此人の画いた女の肖像は悉く※[#濁点付き片仮名オ、369-5]ラプチユアスな表情に富んでゐると説明した。※[#濁点付き片仮名オ、369-5]ラプチユアス! 池の女の此時の眼付を形容するには是より外に言葉がない。何か訴へてゐる。艶なるあるものを訴へてゐる。さうして正しく官能に訴へてゐる。けれども官能の骨を透して髄に徹する訴へ方である。甘いものに堪え得る程度を超えて、烈しい刺激と変ずる訴へ方である。甘いと云はんよりは苦痛である。卑しく媚びるのとは無論違ふ。見られるものの方が是非媚びたくなる程に残酷な眼付である。しかも此女にグルーズの画と似た所は一つもない。眼はグルーズのより半分も小さい。
「広田さんの御移転になるのは、此方で御座いませうか」
「はあ、此所です」
女の声と調子に較べると、三四郎の答は頗るぶつきら棒である。三四郎も気が付いてゐる。けれども外に云ひ様がなかつた。
「まだ御移りにならないんで御座いますか」女の言葉は明確してゐる。普通の様に後を濁さない。
「まだ来ません。もう来るでせう」
女はしばし逡巡つた。手に大きな籃を提げてゐる。女の着物は例によつて、分らない。ただ何時もの様に光らない丈が眼についた。地が何だかぶつ/\してゐる。夫に縞だか模様だかある。その模様が如何にも出鱈目である。
上から桜の葉が時
落ちて来る。其一つが籃の蓋の上に乗つた。乗つたと思ふうちに吹かれて行つた。風が女を包んだ。女は秋の中に立つてゐる。「あなたは……」
風が隣りへ越した時分、女が三四郎に聞いた。
「掃除に頼まれて来たのです」と云つたが、現に腰を掛けてぽかんとしてゐた所を見られたのだから、三四郎は自分でも可笑しくなつた。すると女も笑ひながら、
「ぢや私も少し御待ち申しませうか」と云つた。其云ひ方が三四郎に許諾を求める様に聞えたので、三四郎は大いに愉快であつた。そこで「あゝ」と答へた。三四郎の料簡では、「ああ、御待ちなさい」を略した積である。女はそれでもまだ立つてゐる。三四郎は仕方がないから、
「あなたは……」と向で聞いた様な事を此方からも聞いた。すると、女は籃を椽の上へ置いて、帯の間から、一枚の名刺を出して、三四郎に呉れた。
名刺には里見美禰子とあつた。本郷真砂町だから谷を越すとすぐ向である。三四郎が此名刺を眺めてゐる間に、女は椽に腰を卸した。
「あなたには御目に掛りましたな」と名刺を袂へ入れた三四郎が顔を挙げた。
「はあ。いつか病院で……」と云つて女も此方を向いた。
「まだある」
「それから池の端で……」と女はすぐ云つた。能く覚えてゐる。三四郎はそれで云ふ事がなくなつた。女は最後に、
「どうも失礼致しました」と句切りをつけたので、三四郎は、
「いゝえ」と答へた。頗る簡潔である。両人は桜の枝を見てゐた。梢に虫の食つた様な葉が僅ばかり残つてゐる。引越の荷物は中々遣つて来ない。
「何か先生に御用なんですか」
三四郎は突然かう聞いた。高い桜の枯枝を余念なく眺めて居た女は、急に三四郎の方を振り向く。あら喫驚した、苛いわ、といふ顔付であつた。然し答は尋常である。
「私も御手伝に頼まれました」
三四郎は此時始めて気が付いて見ると、女の腰を掛けてゐる椽に砂が一杯たまつてゐる。
「砂で大変だ。着物が汚れます」
「えゝ」と左右を眺めた限である。腰を上げない。しばらく椽を見廻はした眼を、三四郎に移すや否や、
「掃除はもうなすつたんですか」と聞いた。笑つてゐる。三四郎は其笑の中に馴れ易いあるものを認めた。
「まだ遣らんです」
「御手伝をして、一所に始めませうか」
三四郎はすぐに立つた。女は動かない。腰を掛けた儘、箒やハタキの在家を聞く。三四郎は、たゞ空手で来たのだから、どこにもない。何なら通りへ行つて買つて来やうかと聞くと、それは徒費だから、隣で借りる方が好からうと云ふ。三四郎はすぐ隣へ行つた。早速箒とハタキと、それから馬尻と雑巾迄借りて急いで帰つてくると、女は依然として故の所へ腰をかけて、高い桜の枝を眺めてゐた。
「あつて……」と一口云つた丈である。
三四郎は箒を肩へ担いで、馬尻を右の手にぶら下げて、「えゝ、ありました」と当り前の事を答へた。
女は白足袋の儘砂だらけの縁側へ上がつた。あるくと細い足の痕が出来る。袂から白い前垂を出して帯の上から締めた。其前垂の縁がレースの様に縢つてある。掃除をするには勿体ない程奇麗な色である。女は箒を取つた。
「一旦掃き出しませう」と云ひながら、袖の裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へ担いだ。奇麗な手が二の腕迄出た。担いだ袂の端からは美くしい襦袢の袖が見える。茫然として立つてゐた三四郎は、突然馬尻を鳴らして勝手口へ廻つた。
美禰子が掃くあとを、三四郎が雑巾を掛ける。三四郎が畳を敲く間に、美禰子が障子をはたく。どうかかうか掃除が一通り済んだ時は二人共大分親しくなつた。
三四郎が馬尻の水を取り換に台所へ行つたあとで、美禰子がハタキと箒を持つて二階へ上つた。
「一寸来て下さい」と上から三四郎を呼ぶ。
「何ですか」と馬尻を提げた三四郎が、楷子段の下から云ふ。女は暗い所に立つてゐる。前垂だけが真白だ。三四郎は馬尻を提げた儘二三段上つた。女は凝としてゐる。三四郎は又二段上つた。薄暗い所で美禰子の顔と三四郎の顔が一尺許りの距離に来た。
「何ですか」
「何だか暗くつて分らないの」
「何故」
「何故でも」
三四郎は追窮する気がなくなつた。美禰子の傍を擦り抜けて上へ出た。馬尻を暗い縁側へ置いて戸を明ける。成程桟の具合が善く分らない。そのうち美禰子も上がつて来た。
「まだ開からなくつて」
美禰子は反対の側へ行つた。
「此方です」
三四郎はだまつて、美禰子の方へ近寄つた。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れる所で、馬尻に蹴爪づいた。大きな音がする。漸くの事で戸を一枚明けると、強い日がまともに射し込んだ。眩[#ルビの「まぼ」はママ]しい位である。二人は顔を見合せて思はず笑ひ出した。
裏の窓も開ける。窓には竹の格子が付いてゐる。家主の庭が見える。鶏を飼つてゐる。美禰子は例の如く掃き出した。三四郎は四つ這になつて、後から拭き出した。美禰子は箒を両手で持つた儘、三四郎の姿を見て、
「まあ」と云つた。
やがて、箒を畳の上へ抛げ出して、裏の窓の所へ行つて、立つた儘外面を眺めてゐる。そのうち三四郎も拭き終つた。濡れ雑巾を馬尻の中へぼちやんと擲き込んで、美禰子の傍へ来て、並んだ。
「何を見てゐるんです」
「中てゝ御覧なさい」
「鶏ですか」
「いゝえ」
「あの大きな木ですか」
「いゝえ」
「ぢや何を見てゐるんです。僕には分らない」
「私先刻からあの白い雲を見て居りますの」
成程白い雲が大きな空を渡つてゐる。空は限りなく晴れて、どこ迄も青く澄んでゐる上を、綿の光つた様な濃い雲がしきりに飛んで行く。風の力が烈しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い地が透いて見える程に薄くなる。あるひは吹き散らされながら、塊まつて、白く柔らかな針を集めた様に、さゝくれ立つ。美禰子は其塊を指さして云つた。
「駝鳥の襟巻に似てゐるでせう」
三四郎はボーアと云ふ言葉を知らなかつた。それで知らないと云つた。美禰子は又、
「まあ」と云つたが、すぐ丁寧にボーアを説明してくれた。其時三四郎は、
「うん、あれなら知つとる」と云つた。さうして、あの白い雲はみんな雪の粉で、下から見てあの位に動く以上は、颶風以上の速度でなくてはならないと、此間野々宮さんから聞いた通りを教へた。美禰子は、
「あらさう」と云ひながら三四郎を見たが、
「雪ぢや詰らないわね」と否定を許さぬ様な調子であつた。
「何故です」
「何故でも、雲は雲でなくつちや不可ないわ。かうして遠くから眺めてゐる甲斐がないぢやありませんか」
「さうですか」
「さうですかつて、あなたは雪でも構はなくつて」
「あなたは高い所を見るのが好の様ですな」
「えゝ」
美禰子は竹の格子の中から、まだ空を眺めてゐる。白い雲はあとから、あとから、飛んで来る。
所へ遠くから荷車の音が聞える。今、静かな横町を曲つて、此方へ近付いて来るのが地響でよく分る。三四郎は「来た」と云つた。美禰子は「早いのね」と云つた儘凝としてゐる。車の音の動くのが、白い雲の動くのに関係でもある様に耳を澄してゐる。車は落付いた秋の中を容赦なく近付いて来る。やがて門の前へ来て留つた。
三四郎は美禰子を捨てゝ二階を馳け降りた。三四郎が玄関へ出るのと、与次郎が門を這入るのとが同時同刻であつた。
「早いな」と与次郎が先づ声を掛けた。
「遅いな」と三四郎が応へた。美禰子とは反対である。
「遅いつて、荷物を一度に出したんだから仕方がない。それに僕一人だから。余は下女と車屋許でどうする事も出来ない」
「先生は」
「先生は学校」
二人が話を始めてゐるうちに、車屋が荷物を卸し始めた。下女も這入つて来た。台所の方を下女と車屋に頼んで、与次郎と三四郎は書物を西洋間へ入れる。書物が沢山ある。並べるのは一仕事だ。
「里見の御嬢さんは、まだ来てゐないか」
「来てゐる」
「何所に」
「二階にゐる」
「二階に何をしてゐる」
「何をしてゐるか、二階にゐる」
「冗談ぢやない」
与次郎は本を一冊持つた儘、廊下伝ひに階子段の下迄行つて、例の通りの声で、
「里見さん、里見さん。書物を片付るから、一寸手伝つて下さい」と云ふ。
「たゞ今参ります」
箒とハタキを持つて、美禰子は静かに降りて来た。
「何をして居たんです」と下から与次郎が焦き立てる様に聞く。
「二階の御掃除」と上から返事があつた。
降りるのを待ち兼ねて、与次郎は美禰子を西洋間の戸口の所へ連れて来た。車力の卸した書物が一杯積んである。三四郎が其中へ、向ふむきに跼がんで、しきりに何か読み始めてゐる。
「まあ大変ね。是をどうするの」と美禰子が云つた時、三四郎は跼がみながら振り返つた。にや/\笑つてゐる。
「大変も何もありやしない。これを室の中へ入れて、片付けるんです。今に先生も帰つて来て手伝ふ筈だから訳はない。――君、跼がんで本なんぞ読み出しちや困る。後で借りて行つて緩くり読むがいゝ」と与次郎が小言を云ふ。
美禰子と三四郎が戸口で本を揃へると、それを与次郎が受取つて室の中の書棚へ並べるといふ役割が出来た。
「さう乱暴に、出しちや困る。まだ此続きが一冊ある筈だ」と与次郎が青い平たい本を振り廻す。
「だつて無いんですもの」
「なに無い事があるものか」
「有つた、有つた」と三四郎が云ふ。
「どら、拝見」と美禰子が顔を寄せて来る。「ヒストリー、オフ、インテレクチユアル、デ※[#濁点付き片仮名エ、380-5]ロツプメント。あら有つたのね」
「あら有つたも無いもんだ。早く御出しなさい」
三人は約三十分許根気に働いた。仕舞にはさすがの与次郎もあまり焦つ付かなくなつた。見ると書棚の方を向いて胡坐をかいて黙つてゐる。美禰子は三四郎の肩を一寸突つ付いた。三四郎は笑ひながら、
「おい如何した」と聞く。
「うん。先生もまあ、斯んなに入りもしない本を集めて如何する気かなあ。全く人泣かせだ。今之を売つて株でも買つて置くと儲かるんだが、仕方がない」と嘆息した儘、矢っ張り壁を向いて胡坐をかいてゐる。
三四郎と美禰子は顔を見合せて笑つた。肝心の主脳が動かないので、二人共書物を揃へるのを控へてゐる。三四郎は詩の本をひねくり出した。美禰子は大きな画帖を膝の上に開いた。勝手の方では臨時雇の車夫と下女がしきりに論判してゐる。大変騒
しい。「一寸御覧なさい」と美禰子が小さな声で云ふ。三四郎は及び腰になつて、画帖の上へ顔を出した。美禰子の髪で香水の匂がする。
画はマーメイドの図である。裸体の女の腰から下が魚になつて、魚の胴が、ぐるりと腰を廻つて、向ふ側に尾だけ出てゐる。女は長い髪を櫛で梳きながら、梳き余つたのを手に受けながら、此方を向いてゐる。背景は広い海である。
「人魚」
「人魚」
頭を擦り付けた二人は同じ事をさゝやいだ。此時胡坐をかいてゐた与次郎が何と思つたか、
「何だ、何を見てゐるんだ」と云ひながら廊下へ出て来た。三人は首を鳩めて画帖を一枚毎に繰つて行つた。色々な批評が出る。みんな好加減である。
所へ広田先生がフロツクコートで天長節の式から帰つて来た。三人は挨拶をするときに画帖を伏せて仕舞つた。先生が書物丈早く片付様といふので、三人が又根気に遣り始めた。今度は主人公がゐるので、さう油を売る事も出来なかつたと見えて、一時間後には、どうか、かうか廊下の書物が、書棚の中へ詰つて仕舞つた。四人は立ち並んで奇麗に片付いた書物を一応眺めた。
「あとの整理は明日だ」と与次郎が云つた。是で我慢なさいと云はぬ許である。
「大分御集めになりましたね」と美禰子が云ふ。
「先生是丈みんな御読みになつたですか」と最後に三四郎が聞いた。三四郎は実際参考の為め、この事実を確めて置く必要があつたと見える。
「みんな読めるものか、佐々木なら読むかもしれないが」
与次郎は頭を掻いてゐる。三四郎は真面目になつて、実は此間から大学の図書館で、少し宛本を借りて読むが、どんな本を借りても、必ず誰か目を通してゐる。試しにアフラ、ベーンといふ人の小説を借りて見たが、矢っ張りだれか読んだ痕があるので、読書範囲の際限が知りたくなつたから聞いて見たと云ふ。
「アフラ、ベーンなら僕も読んだ」
広田先生の此一言には三四郎も驚ろいた。
「驚ろいたな。先生は何でも人の読まないものを読む癖がある」と与次郎が云つた。
広田は笑つて座敷の方へ行く。着物を着換へる為だらう。美禰子も尾いて出た。あとで与次郎が、三四郎にかう云つた。
「あれだから偉大な暗闇だ。何でも読んでゐる。けれども些とも光らない。もう少し流行るものを読んで、もう少し出娑婆つて呉れると可いがな」
与次郎の言葉は決して冷評ではなかつた。三四郎は黙つて本箱を眺めてゐた。すると座敷から美禰子の声が聞えた。
「御馳走を上げるから、御二人とも入らつしやい」
二人が書斎から廊下伝ひに、座敷へ来て見ると、座敷の真中に美禰子の持つて来た籃が据ゑてある。蓋が取つてある。中にサンドヰツチが沢山這入つてゐる。美禰子は其傍に坐つて、籃の中のものを小皿へ取り分けてゐる。与次郎と美禰子の問答が始つた。
「能く忘れずに持つて来ましたね」
「だつて、わざ/\御注文ですもの」
「其籃も買つて来たんですか」
「いゝえ」
「家にあつたんですか」
「えゝ」
「大変大きなものですね。車夫でも連れて来たんですか。序でに、少しの間置いて働らかせれば可いのに」
「車夫は今日は使に出ました。女だつて此位なものは持てますわ」
「あなただから持つんです。外の御嬢さんなら、まあ已めますね」
「さうでせうか。夫なら私も已めれば可かつた」
美禰子は食物を小皿へ取りながら、与次郎と応対してゐる。言葉に少しも淀がない。しかも緩くり落付いてゐる。殆んど与次郎の顔を見ない位である。三四郎は敬服した。
台所から下女が茶を持つてくる。籃を取り巻いた連中は、サンドヰツチを食ひ出した。少しの間は静であつたが、思ひ出した様に与次郎が又広田先生に話しかけた。
「先生、序だから一寸聞いて置きますが先刻の何とかベーンですね」
「アフラ、ベーンか」
「全体何です、そのアフラ、ベーンと云ふのは」
「英国の閨秀作家だ。十七世紀の」
「十七世紀は古過ぎる。雑誌の材料にやなりませんね」
「古い。然し職業として小説に従事した始めての女だから、それで有名だ」
「有名ぢや困るな。もう少し伺つて置かう。どんなものを書いたんですか」
「僕はオルノーコと云ふ小説を読んだ丈だが、小川さん、さういふ名の小説が全集のうちにあつたでせう」
三四郎は奇麗に忘れてゐる。先生に其梗概を聞いて見ると、オルノーコと云ふ黒ん坊の王族が英国の船長に瞞されて、奴隷に売られて、非常に難義をする事が書いてあるのださうだ。しかも是は作家の実見譚だとして後世に信ぜられてゐたといふ話である。
「面白いな。里見さん、どうです、一つオルノーコでも書いちやあ」と与次郎は又美禰子の方へ向つた。
「書いても可ござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」
「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でも可いぢやありませんか。九州の男で色が黒いから」
「口の悪い」と美禰子は三四郎を弁護する様に言つたが、すぐあとから三四郎の方を向いて、
「書いても可くつて」と聞いた。其眼を見た時に、三四郎は今朝籃を提げて、折戸からあらはれた瞬間の女を思ひ出した。自から酔つた心地である。けれども酔つて竦んだ心地である。どうぞ願ひます抔とは無論云ひ得なかつた。
広田先生は例によつて烟草を呑み出した。与次郎は之を評して鼻から哲学の烟を吐くと云つた。成程烟の出方が少し違ふ。悠然として太く逞ましい棒が二本穴を抜けて来る。与次郎は其烟柱を眺めて、半分背を唐紙に持たした儘黙つてゐる。三四郎の眼はぼんやり庭の上にある。引越ではない。丸で小集の体に見える。談話も従つて気楽なものである。たゞ美禰子丈が広田先生の蔭で、先生がさつき脱ぎ棄てた洋服を畳み始めた。先生に和服を着せたのも美禰子の所為と見える。
「今のオルノーコの話だが、君は疎忽しいから間違へると不可ないから序に云ふがね」と先生の烟が一寸途切れた。
「へえ、伺つて置きます」と与次郎が几帳面に云ふ。
「あの小説が出てから、サヾーンといふ人が其話を脚本に仕組んだのが別にある。矢張り同じ名でね。それを一所にしちや不可ない」
「へえ、一所にしやしません」
洋服を畳んで居た美禰子は一寸与次郎の顔を見た。
「その脚本のなかに有名な句がある。Pity's akin to love といふ句だが……」それ丈で又哲学の烟を熾に吹き出した。
「日本にもありさうな句ですな」と今度は三四郎が云つた。外のものも、みんな有りさうだと云ひ出した。けれども誰にも思ひ出せない。では一つ訳して見たら好からうといふ事になつて、四人が色々に試みたが一向纏まらない。仕舞に与次郎が、
「これは、どうしても俗謡で行かなくつちや駄目ですよ。句の趣が俗謡だもの」と与次郎らしい意見を呈出した。
そこで、三人が全然翻訳権を与次郎に委任する事にした。与次郎はしばらく考へてゐたが、
「少し無理ですがね、かう云ふなどうでせう。可哀想だた惚れたつて事よ」
「不可ん、不可ん、下劣の極だ」と先生が忽ち苦い顔をした。その云ひ方が如何にも下劣らしいので、三四郎と美禰子は一度に笑ひ出した。此笑ひ声がまだ已まないうちに、庭の木戸がぎいと開いて、野々宮さんが這入つて来た。
「もう大抵片付いたんですか」と云ひながら、野々宮さんは縁側の正面の所迄来て、部屋のなかにゐる四人を覗く様に見渡した。
「まだ片付きませんよ」と与次郎が早速云ふ。
「少し手伝つて頂きませうか」と美禰子が与次郎に調子を合せた。野々宮さんはにや/\笑ひながら、
「大分賑やかな様ですね。何か面白い事がありますか」と云つて、ぐるりと後向に縁側へ腰を掛けた。
「今僕が翻訳をして先生に叱られた所です」
「翻訳を? どんな翻訳ですか」
「なに詰らない――可哀想だた惚れたつて事よと云ふんです」
「へえ」と云つた野々宮君は縁側で筋違に向き直つた。「一体そりや何ですか。僕にや意味が分らない」
「誰にだつて分らんさ」と今度は先生が云つた。
「いや、少し言葉をつめ過たから――当り前に延ばすと、斯うです。可哀想だとは惚れたと云ふ事よ」
「アハヽヽ。さうして其原文は何と云ふのです」
「Pity's akin to love」と美禰子が繰り返した。美くしい奇麗な発音であつた。
野々宮さんは、縁側から立つて、二三歩庭の方へ歩き出したが、やがて又ぐるりと向き直つて、部屋を正面に留つた。
「成程旨い訳だ」
三四郎は野々宮君の態度と視線とを注意せずには居られなかつた。
美禰子は台所へ立つた。茶碗を洗つて、新らしい茶を注いで、縁側の端迄持つて出る。
「御茶を」と云つた儘、其所へ坐つた。「よし子さんは、どうなすつて」と聞く。
「えゝ、身体の方はもう回復しましたが」と又腰を掛けて茶を飲む。それから、少し先生の方へ向いた。
「先生、折角大久保へ越したが、又此方の方へ出なければならない様になりさうです」
「何故」
「妹が学校へ行き帰りに、戸山の原を通るのが厭だといひ出しましてね。それに僕が夜実験をやるものですから、遅く迄待つてゐるのが淋しくつて不可ないんださうです。尤も今のうちは母が居るから構ひませんが、もう少しして、母が国へ帰ると、あとは下女丈になるものですからね。臆病もの二人では到底辛抱し切れないのでせう。――実に厄介だな」と冗談半分の嘆声を洩らしたが、「どうです里見さん、あなたの所へでも食客に置いて呉れませんか」と美禰子の顔を見た。
「何時でも置いて上げますわ」
「何方です。宗八さんの方をですか、よし子さんの方をですか」と与次郎が口を出した。
「何方でも」
三四郎丈黙つてゐた。広田先生は少し真面目になつて、
「さうして君はどうする気なんだ」
「妹の始末さへ付けば、当分下宿しても可いです。それでなければ、又何所かへ引越さなければならない。一層学校の寄宿舎へでも入れ様かと思ふんですがね。何しろ小供だから、僕が始終行けるか、向ふが始終来られる所でないと困るんです」
「それぢや里見さんの所に限る」と与次郎が又注意を与へた。広田さんは与次郎を相手にしない様子で、
「僕の所の二階へ置いて遣つても好いが、何しろ佐々木の様なものがゐるから」と云ふ。
「先生、二階へは是非佐々木を置いてやつて下さい」と与次郎自身が依頼した。野々宮君は笑ひながら、
「まあ、どうかしませう。――身長ばかり大きくつて馬鹿だから実に弱る。あれで団子坂の菊人形が見たいから、連れて行けなんて云ふんだから」
「連れて行つて御上げなされば可いのに。私だつて見たいわ」
「ぢや一所に行きませうか」
「えゝ是非。小川さんも入らつしやい」
「えゝ行きませう」
「佐々木さんも」
「菊人形は御免だ。菊人形を見る位なら活動写真を見に行きます」
「菊人形は可いよ」と今度は広田先生が云ひ出した。「あれ程に人工的なものは恐らく外国にもないだらう。人工的によく斯んなものを拵らへたといふ所を見て置く必要がある。あれが普通の人間に出来て居たら、恐らく団子坂へ行くものは一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四五人は必ずゐる。団子坂へ出掛けるには当らない」
「先生一流の論理だ」と与次郎が評した。
「昔し教場で教はる時にも、よく、あれで遣られたものだ」と野々宮君が云つた。
「ぢや先生も入らつしやい」と美禰子が最後に云ふ。先生は黙つてゐる。みんな笑ひ出した。
台所から婆さんが「どなたか一寸」と云ふ。与次郎は「おい」とすぐ立つた。三四郎は矢っ張り坐つてゐた。
「どれ僕も失礼しやうか」と野々宮さんが腰を上げる。
「あらもう御帰り。随分ね」と美禰子が云ふ。
「此間のものはもう少し待つて呉れ玉へ」と広田先生が云ふのを、「えゝ、宜うござんす」と受けて、野々宮さんが庭から出て行つた。其影が折戸の外へ隠れると、美禰子は急に思ひ出した様に「さう/\」と云ひながら、庭先に脱いであつた下駄を穿いて、野々宮の後を追掛た。表で何か話してゐる。
三四郎は黙つて坐つてゐた。
門を這入ると、此間の萩が、人の丈より高く茂つて、株の根に黒い影が出来てゐる。此黒い影が地の上を這つて、奥の方へ行くと、見えなくなる。葉と葉の重なる裏迄上つて来る様にも思れる。夫程表には濃い日が当つてゐる。手洗水の傍に南天がある。是も普通よりは脊が高い。三本寄つてひよろ/\してゐる。葉は便所の窓の上にある。
萩と南天の間に縁側が少し見える。縁側は南天を基点として斜に向ふへ走つてゐる。萩の影になつた所は、一番遠いはづれになる。それで萩は一番手前にある。よし子は此萩の影にゐた。縁側に腰を掛けて。
三四郎は萩とすれ/\に立つた。よし子は縁から腰を上げた。足は平たい石の上にある。三四郎は今更その脊の高いのに驚ろいた。
「御這入りなさい」
依然として三四郎を待ち設けた様な言葉遣である。三四郎は病院の当時を思ひ出した。萩を通り越して縁鼻迄来た。
「御掛けなさい」
三四郎は靴を穿いてゐる。命の如く腰を掛けた。よし子は座布団を取つて来た。
「御敷きなさい」
三四郎は布団を敷いた。門を這入つてから、三四郎はまだ一言も口を開かない。此単純な少女はたゞ自分の思ふ通りを三四郎に云ふが、三四郎からは毫も返事を求めてゐない様に思はれる。三四郎は無邪気なる女王の前に出た心持がした。命を聴く丈である。御世辞を使ふ必要がない。一言でも先方の意を迎へる様な事をいへば、急に卑しくなる。唖の奴隷の如く、さきの云ふが儘に振舞つてゐれば愉快である。三四郎は小供の様なよし子から小供扱ひにされながら、少しもわが自尊心を傷けたとは感じ得なかつた。
「兄ですか」とよし子は其次に聞いた。
野々宮を尋ねて来た訳でもない。尋ねない訳でもない。何で来たか三四郎にも実は分からないのである。
「野々宮さんはまだ学校ですか」
「えゝ、何時でも夜遅くでなくつちや帰りません」
是は三四郎も知つてる事である。三四郎は挨拶に窮した。見ると縁側に絵の具函がある。描きかけた水彩がある。
「画を御習ひですか」
「えゝ、好きだから描きます」
「先生は誰ですか」
「先生に習ふ程上手ぢやないの」
「一寸拝見」
「是? 是まだ出来てゐないの」と描き掛を三四郎の方へ出す。成程自分のうちの庭が描き掛けてある。空と、前の家の柿の木と、這入り口の萩丈が出来てゐる。中にも柿の木は甚だ赤く出来てゐる。
「中々旨い」と三四郎が画を眺めながら云ふ。
「是が?」とよし子は少し驚ろいた。本当に驚ろいたのである。三四郎の様なわざとらしい調子は少しもなかつた。
三四郎は今更自分の言葉を冗談にする事も出来ず、又真面目にする事も出来なくなつた。何方にしても、よし子から軽蔑されさうである。三四郎は画を眺めながら、腹のなかで赤面した。
縁側から座敷を見廻すと、しんと静かである。茶の間は無論、台所にも人はゐない様である。
「御母さんはもう御国へ御帰りになつたんですか」
「まだ帰りません。近いうちに立つ筈ですけれど」
「今、入つしやるんですか」
「今一寸買物に出ました」
「あなたが里見さんの所へ御移りになると云ふのは本当ですか」
「何うして」
「何うしてつて――此間広田先生の所でそんな話がありましたから」
「まだ極りません。事によると、さうなるかも知れませんけれど」
三四郎は少しく要領を得た。
「野々宮さんは元から里見さんと御懇意なんですか」
「えゝ。御友達なの」
男と女の友達といふ意味かしらと思つたが、何だか可笑しい。けれども三四郎はそれ以上を聞き得なかつた。
「広田先生は野々宮さんの元の先生ださうですね」
「えゝ」
話しは「えゝ」で塞へた。
「あなたは里見さんの所へ入らつしやる方が可いんですか」
「私? さうね。でも美禰子さんの御兄いさんに御気の毒ですから」
「美禰子さんの兄さんがあるんですか」
「えゝ。宅の兄と同年の卒業なんです」
「矢っ張り理学士ですか」
「いゝえ、科は違ひます。法学士です。其又上の兄さんが広田先生の御友達だつたのですけれども、早く御亡くなりになつて、今では恭助さん丈なんです」
「御父さんや御母さんは」
よし子は少し笑ひながら、
「ないわ」と云つた。美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽であると云はぬ許である。余程早く死んだものと見える。よし子の記憶には丸でないのだらう。
「さう云ふ関係で美禰子さんは広田先生のうちへ出入をなさるんですね」
「えゝ。死んだ兄さんが広田先生とは大変仲善だつたさうです。それに美禰子さんは英語がすきだから、時々英語を習ひに入らつしやるんでせう」
「此方へも来ますか」
よし子は何時の間にか、水彩画の続きを描き始めた。三四郎が傍にゐるのが丸で苦になつてゐない。それでゐて、能く返事をする。
「美禰子さん?」と聞きながら、柿の木の下にある藁葺屋根に影をつけたが、
「少し黒過ますね」と画を三四郎の前へ出した。三四郎は今度は正直に、
「えゝ、少し黒過ます」と答へた。すると、よし子は画筆に水を含ませて、黒い所を洗ひながら、
「入らつしやいますわ」と漸く三四郎に返事をした。
「度々?」
「えゝ度々」とよし子は依然として画紙に向つてゐる。三四郎は、よし子が画のつゞきを描き出してから、問答が大変楽になつた。
しばらく無言の儘、画の中を覗いてゐると、よし子は丹念に藁葺家根の黒い影を洗つてゐたが、あまり水が多過ぎたのと、筆の使ひ方が中/\不慣なので、黒いものが勝手に四方へ浮き出して、折角赤く出来た柿が、蔭干の渋柿の様な色になつた。よし子は画筆の手を休めて、両手を伸ばして、首をあとへ引いて、ワツトマンを成るべく遠くから眺めてゐたが、仕舞に、小さな声で、
「もう駄目ね」と云ふ。実際駄目なのだから、仕方がない。三四郎は気の毒になつた。
「もう御廃しなさい。さうして、又新らしく御描きなさい」
よし子は顔を画に向けた儘、尻眼に三四郎を見た。大きな潤のある眼である。三四郎は益気の毒になつた。すると女が急に笑ひ出した。
「馬鹿ね。二時間許り損をして」と云ひながら、折角描いた水彩の上へ、横縦に二三本太い棒を引いて、絵の具函の蓋をぱたりと伏せた。
「もう廃しませう。座敷へ御這入りなさい、御茶を上げますから」と云ひながら、自分は上へあがつた。三四郎は靴を脱ぐのが面倒なので、矢っ張り縁側に腰を掛けてゐた。腹の中では、今になつて、茶を遣るといふ女を非常に面白いと思つてゐた。三四郎に度外れの女を面白がる積は少しもないのだが、突然御茶を上げますと云はれた時には、一種の愉快を感ぜぬ訳に行かなかつたのである。其感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかつた。
茶の間で話し声がする。下女は居たに違ない。やがて襖を開いて、茶器を持つて、よし子があらはれた。其顔を正面から見たときに、三四郎は又、女性中の尤も女性的な顔であると思つた。
よし子は茶を汲んで縁側へ出して、自分は座敷の畳の上へ坐つた。三四郎はもう帰らうと思つてゐたが、此女の傍にゐると、帰らないでも構はない様な気がする。病院では曾て此女の顔を眺め過ぎて、少し赤面させた為めに、早速引き取つたが、今日は何ともない。茶を出したのを幸ひに縁側と座敷で又談話を始めた。色々話してゐるうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞き出した。それは、自分の兄の野々宮が好か嫌かと云ふ質問であつた。一寸聞くと丸で頑是ない小供の云ひさうな事であるが、よし子の意味はもう少し深い所にあつた。研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である。人情で物をみると、凡てが好き嫌ひの二つになる。研究する気なぞが起るものではない。自分の兄は理学者だものだから、自分を研究して不可ない。自分を研究すればする程、自分を可愛がる度は減るのだから、妹に対して不親切になる。けれども、あの位研究好の兄が、この位自分を可愛がつて呉れるのだから、それを思ふと、兄は日本中で一番好い人に違ないと云ふ結論であつた。
三四郎は此説を聞いて、大いに尤もな様な、又何所か抜けてゐる様な気がしたが、偖何所が抜けてゐるんだか、頭がぼんやりして、一寸分らなかつた。それで表向此説に対しては別段の批評を加へなかつた。たゞ腹の中で、これしきの女の云ふ事を、明瞭に批評し得ないのは、男児として腑甲斐ない事だと、いたく赤面した。同時に、東京の女学生は決して馬鹿に出来ないものだと云ふ事を悟つた。
三四郎はよし子に対する敬愛の念を抱いて下宿へ帰つた。端書が来てゐる。「明日午後一時頃から菊人形を見に参りますから、広田先生のうち迄入らつしやい。美禰子」
其字が、野々宮さんの隠袋から半分食み出してゐた封筒の上書に似てゐるので、三四郎は何遍も読み直して見た。
翌日は日曜である。三四郎は午飯を済ましてすぐ西片町へ来た。新調の制服を着て、光つた靴を穿いてゐる。静かな横町を広田先生の前迄来ると、人声がする。
先生の家は門を這入ると、左り手がすぐ庭で、木戸をあければ玄関へかゝらずに、すぐ座敷の縁へ出られる。三四郎は要目垣の間に見える桟を外さうとして、ふと、庭のなかの話し声を耳にした。話しは野々宮と美禰子の間に起りつゝある。
「そんな事をすれば、地面の上へ落ちて死ぬ許りだ」是は男の声である。
「死んでも、其方が可いと思ひます」是は女の答である。
「尤もそんな無謀な人間は、高い所から落ちて死ぬ丈の価値は充分ある」
「残酷な事を仰しやる」
三四郎は此所で木戸を開けた。庭の真中に立つてゐた会話の主は二人とも此方を見た。野々宮はたゞ「やあ」と平凡に云つて、頭を首肯かせた丈である。頭に新らしい茶の中折帽を被つてゐる。美禰子は、すぐ、
「端書は何時頃着きましたか」と聞いた。二人の今迄遣つてゐた会話は、これで中絶した。
縁側には主人が洋服を着て腰を掛けて、相変らず哲学を吹いてゐる。是は西洋の雑誌を手にしてゐた。傍によし子がゐる。両手を後ろへ突いて、身体を空に持たせながら、伸ばした足に穿いた厚い草履を眺めてゐた。――三四郎はみんなから待ち受けられてゐたと見える。
主人は雑誌を抛げ出した。
「では行くかな。とう/\引張り出された」
「御苦労様」と野々宮さんが云つた。女は二人で顔を見合せて、他に知れない様な笑を洩らした。庭を出るとき、女が二人つゞいた。
「脊が高いのね」と美禰子が後から云つた。
「のつぽ」とよし子が一言答へた。門の側で並んだ時、「だから、なり丈草履を穿くの」と弁解をした。三四郎もつゞいて、庭を出様とすると、二階の障子ががらりと開いた。与次郎が手欄の所迄出て来た。
「行くのか」と聞く。
「うん、君は」
「行かない。菊細工なんぞ見て何になるものか。馬鹿だな」
「一所に行かう。家に居たつて仕様がないぢやないか」
「今論文を書いてゐる。大論文を書いてゐる。中々それ所ぢやない」
三四郎は呆れ返つた様な笑ひ方をして、四人の後を追掛た。四人は細い横町を三分の二程広い通りの方へ遠ざかつた所である。此一団の影を高い空気の下に認めた時、三四郎は自分の今の生活が、熊本当時のそれよりも、ずつと意味の深いものになりつゝあると感じた。曾て考へた三個の世界のうちで、第二第三の世界は正に此一団の影で代表されてゐる。影の半分は薄黒い。半分は花野の如く明かである。さうして三四郎の頭のなかでは此両方が渾然として調和されてゐる。のみならず、自分も何時の間にか、自然と此経緯のなかに織り込まれてゐる。たゞそのうちの何所かに落ち付かない所がある。それが不安である。歩きながら考へると、今さき庭のうちで、野々宮と美禰子が話してゐた談柄が近因である。三四郎は此不安の念を駆る為めに、二人の談柄を再び剔抉出して見たい気がした。
四人は既に曲り角へ来た。四人とも足を留めて、振り返つた。美禰子は額に手を翳してゐる。
三四郎は一分かゝらぬうちに追付いた。追付いても誰も何とも云はない。只歩き出した丈である。しばらくすると、美禰子が、
「野々宮さんは、理学者だから、なほそんな事を仰しやるんでせう」と云ひ出した。話しの続きらしい。
「なに遣らなくつても同じ事です。高く飛ばうと云ふには、飛べる丈の装置を考へた上でなければ出来ないに極つてゐる。頭の方が先に要るに違ないぢやありませんか」
「そんなに高く飛びたくない人は、それで我慢するかも知れません」
「我慢しなければ、死ぬ許ですもの」
「さうすると安全で地面の上に立つてゐるのが一番好い事になりますね。何だか詰らない様だ」
野々宮さんは返事を已めて、広田先生の方を向いたが、
「女には詩人が多いですね」と笑ひながら云つた。すると広田先生が、
「男子の弊は却つて純粋の詩人になり切れない所にあるだらう」と妙な挨拶をした。野々宮さんはそれで黙つた。よし子と美禰子は何か御互の話を始める。三四郎は漸く質問の機会を得た。
「今のは何の御話しなんですか」
「なに空中飛行器の事です」と野々宮さんが無造作に云つた。三四郎は落語のおちを聞く様な気がした。
それからは別段の会話も出なかつた。又長い会話が出来かねる程、人がぞろ/\歩く所へ来た。大観音の前に乞食が居る。額を地に擦り付けて、大きな声をのべつに出して、哀願を逞しうしてゐる。時々顔を上げると、額の所丈が砂で白くなつてゐる。誰も顧るものがない。五人も平気で行き過ぎた。五六間も来た時に、広田先生が急に振り向いて三四郎に聞いた。
「君あの乞食に銭を遣りましたか」
「いゝえ」と三四郎が後を見ると、例の乞食は、白い額の下で両手を合せて、相変らず大きな声を出してゐる。
「遣る気にならないわね」とよし子がすぐに云つた。
「何故」とよし子の兄は妹を見た。窘める程に強い言葉でもなかつた。野々宮の顔付は寧ろ冷静である。
「あゝ始終焦つ着いて居ちや、焦つ着き栄がしないから駄目ですよ」と美禰子が評した。
「いえ場所が悪いからだ」と今度は広田先生が云つた。「あまり人通りが多過ぎるから不可ない。山の上の淋しい所で、あゝいふ男に逢つたら、誰でも遣る気になるんだよ」
「其代り一日待つてゐても、誰も通らないかも知れない」と野々宮はくす/\笑ひ出した。
三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が今日迄養成した徳義上の観念を幾分か傷けられる様な気がした。けれども自分が乞食の前を通るとき、一銭も投げてやる料簡が起らなかつたのみならず、実を云へば、寧ろ不愉快な感じが募つた事実を反省して見ると、自分よりも是等四人の方が却つて己れに誠であると思ひ付いた。又彼等は己れに誠であり得る程な広い天地の下に呼吸する都会人種であるといふ事を悟つた。
行くに従つて人が多くなる。しばらくすると一人の迷子に出逢つた。七つ許りの女の子である。泣きながら、人の袖の下を右へ行つたり、左りへ行つたりうろ/\してゐる。御婆さん、御婆さんと無暗に云ふ。是には往来の人もみんな心を動かしてゐる様に見える。立ち留るものもある。可哀想だといふものもある。然し誰も手を付けない。小供は凡ての人の注意と同情を惹きつゝ、しきりに泣き号んで御婆さんを探してゐる。不可思議の現象である。
「これも場所が悪い所為ぢやないか」と野々宮君が小供の影を見送りながら云つた。
「今に巡査が始末をつけるに極つてるから、みんな責任を逃れるんだね」と広田先生が説明した。
「私の傍迄来れば交番迄送つてやるわ」とよし子が云ふ。
「ぢや、追掛て行つて、連れて行くがいゝ」と兄が注意した。
「追掛るのは厭」
「何故」
「何故つて――こんなに大勢人がゐるんですもの。私に限つた事はないわ」
「矢っ張り責任を逃れるんだ」と広田がいふ。
「矢っ張り場所が悪いんだ」と野々宮がいふ。男は二人で笑つた。団子坂の上迄来ると、交番の前へ人が黒山の様に集つてゐる。迷子はとう/\巡査の手に渡つたのである。
「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて云つた。よし子は「まあ可かつた」といふ。
坂の上から見ると、坂は曲つてゐる。刀の切先の様である。幅は無論狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分遮ぎつてゐる。其後には又高い幟が何本となく立ててある。人は急に谷底へ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、路一杯に塞がつてゐるから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見てゐると眼が疲れるほど不規則に蠢いてゐる。広田先生は此坂の上に立つて、
「是は大変だ」と、さも帰りたさうである。四人はあとから先生を押す様にして、谷へ這入つた。其谷が途中からだら/\と向へ廻り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛の小屋を、狭い両側から高く構へたので、空さへ存外窮屈に見える。往来は暗くなる迄込み合つてゐる。其中で木戸番が出来る丈大きな声を出す。「人間から出る声ぢやない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それ程彼等の声は尋常を離れてゐる。
一行は左りの小屋へ這入つた。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着てゐる。たゞし顔や手足は悉く木彫りである。其次は雪が降つてゐる。若い女が癪を起してゐる。是も人形の心に、菊を一面に這はせて、花と葉が平らに隙間なく衣装の恰好となる様に作つたものである。
よし子は余念なく眺めてゐる。広田先生と野々宮君はしきりに話しを始めた。菊の培養法が違ふとか何とかいふ所で、三四郎は外の見物に隔てられて、一間ばかり離れた。美禰子はもう三四郎より先にゐる。見物は概して町家のものである。教育のありさうなものは極めて少ない。美禰子は其間に立つて、振り返つた。首を延ばして、野々宮のゐる方を見た。野々宮は右の手を竹の手欄から出して、菊の根を指しながら、何か熱心に説明してゐる。美禰子は又向をむいた。見物に押されて、さつさと出口の方へ行く。三四郎は群集[#ルビの「〔くん〕じゆ」はママ]を押し分けながら、三人を棄てゝ、美禰子の後を追つて行つた。
漸くの事で、美禰子の傍迄来て、
「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹の手欄に手を突いて、心持首を戻して、三四郎を見た。何とも云はない。手欄のなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に斧を指した男が、瓢簟を持つて、滝壺の傍に跼んでゐる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるか殆んど気が付かなかつた。
「どうかしましたか」と思はず云つた。美禰子はまだ何とも答へない。黒い眼を左も物憂さうに三四郎の額の上に据ゑた。其時三四郎は美禰子の二重瞼に不可思議なある意味を認めた。其意味のうちには、霊の疲れがある。肉の弛みがある。苦痛に近き訴へがある。三四郎は、美禰子の答へを予期しつゝある今の場合を忘れて、此眸と此瞼の間に凡てを遺却した。すると、美禰子は云つた。
「もう出ませう」
眸と瞼の距離が次第に近づく様に見えた。近づくに従つて、三四郎の心には女の為に出なければ済まない気が萌して来た。それが頂点に達した頃、女は首を投げる様に向ふをむいた。手を青竹の手欄から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐ後から跟いて出た。
二人が表てゞ並んだ時、美禰子は俯向て右の手を額に当てた。周囲は人が渦を捲いてゐる。三四郎は女の耳へ口を寄せた。
「どうかしましたか」
女は人込のなかを谷中の方へ歩き出した。三四郎も無論一所に歩き出した。半町ばかり来た時、女は人の中で留つた。
「此所は何所でせう」
「此方へ行くと谷中の天王寺の方へ出て仕舞ひます。帰り路とは丸で反対です」
「さう。私心持が悪くつて……」
三四郎は往来の真中で扶なき苦痛を感じた。立つて考へてゐた。
「何所か静かな所はないでせうか」と女が聞いた。
谷中と千駄木が谷で出逢ふと、一番低い所に小川が流れてゐる。此小川を沿ふて、町を左りへ切れるとすぐ野に出る。河は真直に北へ通つてゐる。三四郎は東京へ来てから何遍此小川の向側を歩いて、何遍此方側を歩いたか善く覚えてゐる。美禰子の立つてゐる所は、此小川が、丁度谷中の町を横切つて根津へ抜ける石橋の傍である。
「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いて見た。
「歩きます」
二人はすぐ石橋を渡つて、左へ折れた。人の家の路次の様な所を十間程行き尽して、門の手前から板橋を此方側へ渡り返して、しばらく河の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。
三四郎は此静かな秋のなかへ出たら、急に※舌[#「口+堯」、U+5635、411-6]り出した。
「どうです具合は。頭痛でもしますか。あんまり人が大勢ゐた所為でせう。あの人形を見てゐる連中のうちには随分下等なのがゐた様だから――何か失礼でもしましたか」
女は黙つてゐる。やがて河の流れから、眼を上げて、三四郎を見た。二重瞼にはつきりと張りがあつた。三四郎は其眼付で半ば安心した。
「難有う、大分好くなりました」と云ふ。
「休みませうか」
「えゝ」
「もう少し歩けますか」
「えゝ」
「歩ければ、もう少し御歩きなさい。此所は汚ない。彼所迄行くと丁度休むに好い場所があるから」
「えゝ」
一丁許来た。又橋がある。一尺に足らない古板を造作なく渡した上を、三四郎は大股に歩いた。女もつゞいて通つた。待ち合せた三四郎の眼には、女の足が常の大地を踏むと同じ様に軽く見えた。此女は素直な足を真直に前へ運ぶ。わざと女らしく甘へた歩き方をしない。従つて無暗に此方から手を貸す訳に行かない。
向ふに藁屋根がある。屋根の下が一面に赤い。近寄つて見ると、唐辛子を干したのであつた。女は此赤いものが、唐辛子であると見分けのつく所迄来て留つた。
「美くしい事」と云ひながら、草の上に腰を卸した。草は小河の縁に僅かな幅を生えてゐるのみである。夫すら夏の半の様に青くはない。美禰子は派出な着物の汚れるのを、丸で苦にしてゐない。
「もう少し歩けませんか」と三四郎は立ちながら、促がす様に云つて見た。
「難有う。是で沢山」
「矢っ張り心持が悪いですか」
「あんまり疲れたから」
三四郎もとう/\汚ない草の上に坐つた。美禰子と三四郎の間は四尺許離れてゐる。二人の足の下には小さな河が流れてゐる。秋になつて水が落ちたから浅い。角の出た石の上に鶺鴒が一羽とまつた位である。三四郎は水の中を眺めてゐた。水が次第に濁つて来る。見ると河上で百姓が大根を洗つてゐた。美禰子の視線は遠くの向ふにある。向ふは広い畠で、畠の先が森で、森の上が空になる。空の色が段々変つて来る。
たゞ単調に澄んでゐたものの中に、色が幾通りも出来てきた。透き徹る藍の地が消える様に次第に薄くなる。其上に白い雲が鈍く重なりかゝる。重なつたものが溶けて流れ出す。何所で地が尽きて、何所で雲が始まるか分らない程に嬾い上を、心持黄な色がふうと一面にかゝつてゐる。
「空の色が濁りました」と美禰子が云つた。
三四郎は流れから眼を放して、上を見た。かう云ふ空の模様を見たのは始めてゞはない。けれども空が濁つたといふ言葉を聞いたのは此時が始めてゞある。気が付いて見ると、濁つたと形容するより外に形容しかたのない色であつた。三四郎が何か答へやうとする前に、女は又言つた。
「重い事。大理石の様に見えます」
美禰子は二重瞼を細くして高い所を眺めてゐた。それから、その細くなつた儘の眼を静かに三四郎の方に向けた。さうして、
「大理石の様に見えるでせう」と聞いた。三四郎は、
「えゝ、大理石の様に見えます」と答へるより外はなかつた。女はそれで黙つた。しばらくしてから、今度は三四郎が云つた。
「かう云ふ空の下にゐると、心が重くなるが気は軽くなる」
「どう云ふ訳ですか」と美禰子が問ひ返した。
三四郎には、どう云ふ訳もなかつた。返事はせずに、又かう云つた。
「安心して夢を見てゐる様な空模様だ」
「動く様で、なか/\動きませんね」と美禰子は又遠くの雲を眺め出した。
菊人形で客を呼ぶ声が、折々二人の坐つてゐる所迄聞える。
「随分大きな声ね」
「朝から晩迄あゝ云ふ声を出してゐるんでせうか。豪いもんだな」と云つたが、三四郎は急に置き去りにした三人の事を思ひ出した。何か云はうとしてゐるうちに、美禰子は答へた。
「商買ですもの。丁度大観音の乞食と同じ事なんですよ」
「場所が悪くはないですか」
三四郎は珍らしく冗談を云つて、さうして一人で面白さうに笑つた。乞食に就て下した広田の言葉を余程可笑しく受けたからである。
「広田先生は、よく、あゝ云ふ事を仰やる方なんですよ」と極めて軽く独り言の様に云つたあとで、急に調子を更へて、
「かう云ふ所に、かうして坐つてゐたら、大丈夫及第よ」と比較的活溌に付け加へた。さうして、今度は自分の方で面白さうに笑つた。
「成程野々宮さんの云つた通り、何時迄待つてゐても誰も通りさうもありませんね」
「丁度好いぢやありませんか」と早口に云つたが、後で「御貰をしない乞食なんだから」と結んだ。是は前句の解釈の為めに付けた様に聞えた。
所へ知らん人が突然あらはれた。唐辛子の干してある家の影から出て、何時の間にか河を向へ渡つたものと見える。二人の坐つてゐる方へ段々近付いて来る。洋服を着て髯を生やして、年輩から云ふと広田先生位な男である。此男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎と美禰子を睨め付けた。其眼のうちには明らかに憎悪の色がある。三四郎は凝と坐つてゐにくい程な束縛を感じた。男はやがて行き過ぎた。其後ろ影を見送りながら、三四郎は、
「広田先生や野々宮さんは嘸後で僕等を探したでせう」と始めて気が付いた様に云つた。美禰子は寧ろ冷かである。
「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」
「迷子だから探したでせう」と三四郎は矢張り前説を主張した。すると美禰子は、なほ冷やかな調子で、
「責任を逃れたがる人だから、丁度好いでせう」
「誰が? 広田先生がですか」
美禰子は答へなかつた。
「野々宮さんがですか」
美禰子は矢っ張り答へなかつた。
「もう気分は宜くなりましたか。宜くなつたら、そろ/\帰りませうか」
美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰を又草の上に卸した。其時三四郎は此女にはとても叶はない様な気が何所かでした。同時に自分の腹を見抜かれたといふ自覚に伴ふ一種の屈辱をかすかに感じた。
「迷子」
女は三四郎を見た儘で此一言を繰返した。三四郎は答へなかつた。
「迷子の英訳を知つて入らしつて」
三四郎は知るとも、知らぬとも云ひ得ぬ程に、此問を予期してゐなかつた。
「教へて上げませうか」
「えゝ」
「迷へる子――解つて?」
三四郎は斯う云ふ場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、あゝ云へば好かつた、斯うすれば好かつたと後悔する。と云つて、此後悔を予期して、無理に応急の返事を、左も自然らしく得意に吐き散らす程に軽薄ではなかつた。だから只黙つてゐる。さうして黙つてゐる事が如何にも半間であると自覚してゐる。
迷へる子といふ言葉は解つた様でもある。又解らない様でもある。解る解らないは此言葉の意味よりも、寧ろ此言葉を使つた女の意味である。三四郎はいたづらに女の顔を眺めて黙つてゐた。すると女は急に真面目になつた。
「私そんなに生意気に見えますか」
其調子には弁解の心持がある。三四郎は意外の感に打たれた。今迄は霧の中にゐた。霧が晴れゝば好いと思つてゐた。此言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。
三四郎は美禰子の態度を故の様な、――二人の頭の上に広がつてゐる、澄むとも濁るとも片付かない空の様な、――意味のあるものにしたかつた。けれども、それは女の機嫌を取るための挨拶位で戻せるものではないと思つた。女は卒然として、
「ぢや、もう帰りませう」と云つた。厭味のある言ひ方ではなかつた。たゞ三四郎にとつて自分は興味のないものと諦めた様に静かな口調であつた。
空は又変つて来た。風が遠くから吹いてくる。広い畠の上には日が限つて、見てゐると、寒い程淋しい。草からあがる地意気で身体は冷えてゐた。気が付けば、こんな所に、よく今迄べつとり坐つて居られたものだと思ふ。自分一人ならとうに何所かへ行つて仕舞つたに違ない。美禰子も――美禰子はこんな所へ坐る女かも知れない。
「少し寒むくなつた様ですから、兎に角立ちませう。冷えると毒だ。然し気分はもう悉皆直りましたか」
「えゝ、悉皆直りました」と明かに答へたが、俄かに立ち上がつた。立ち上がる時、小さな声で、独り言の様に、
「迷へる子」と長く引つ張つて云つた。三四郎は無論答へなかつた。
美禰子は、さつき洋服を着た男の出て来た方角を指して、道があるなら、あの唐辛子の傍を通つて行きたいといふ。二人は、その見当へ歩いて行つた。藁葺の後に果して細い三尺程の路があつた。其路を半分程来た所で三四郎は聞いた。
「よし子さんは、あなたの所へ来る事に極つたんですか」
女は片頬で笑つた。さうして問返した。
「何故御聞きになるの」
三四郎が何か云はうとすると、足の前に泥濘があつた。四尺許りの所、土が凹んで水がぴた/\に溜つてゐる。其真中に足掛りの為に手頃な石を置いたものがある。三四郎は石の扶を藉らずに、すぐに向へ飛んだ。さうして美禰子を振り返つて見た。美禰子は右の足を泥濘の真中にある石の上へ乗せた。石の据りがあまり善くない。足へ力を入れて、肩を揺つて調子を取つてゐる。三四郎は此方側から手を出した。
「御捕まりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑つてゐる。手を出してゐる間は、調子を取る丈で渡らない。三四郎は手を引込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、身体の重みを托して、左の足でひらりと此方側へ渡つた。あまりに下駄を汚すまいと念を入れ過ぎた為め、力が余つて、腰が浮いた。のめりさうに胸が前へ出る。其勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「迷へる子」と美禰子が口の内で云つた。三四郎は其呼吸を感ずる事が出来た。
号鐘が鳴つて、講師は教室から出て行つた。三四郎は印気の着いた洋筆を振つて、帳面を伏せ様とした。すると隣りにゐた与次郎が声を掛けた。
「おい一寸借せ。書き落した所がある」
与次郎は三四郎の帳面を引き寄せて上から覗き込んだ。stray sheep といふ字が無暗にかいてある。
「何だこれは」
「講義を筆記するのが厭になつたから、いたづらを書いてゐた」
「さう不勉強では不可ん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか云つたな」
「どうだとか云つた」
「聞いてゐなかつたのか」
「いゝや」
「全然 stray sheep だ。仕方がない」
与次郎は自分の帳面を抱へて立ち上がつた、机の前を離れながら、三四郎に、
「おい一寸来い」と云ふ。三四郎は与次郎に跟いて教室を出た。階子段を降りて、玄関前の草原へ来た。大きな桜がある。二人は其下に坐つた。
此所は夏の初めになると苜蓿が一面に生える。与次郎が入学願書を持つて事務へ来た時に、此桜の下に二人の学生が寐転んでゐた。其一人が一人に向つて、口答試験を都々逸で負けて置いて呉れると、いくらでも唄つて見せるがなと云ふと、一人が小声で、粋な捌きの博士の前で、恋の試験がして見たいと唄つてゐた。其時から与次郎は此桜の木の下が好になつて、何か事があると、三四郎を此所へ引張り出す。三四郎は其歴史を与次郎から聞いた時に、成程与次郎は俗謡で pity's love を訳す筈だと思つた。今日は然し与次郎が事の外真面目である。草の上に胡坐をかくや否や、懐中から、文芸時評といふ雑誌を出して開けた儘の一頁を逆に三四郎の方へ向けた。
「どうだ」と云ふ。見ると標題に大きな活字で「偉大なる暗闇」とある。下には零余子と雅号を使つてゐる。偉大なる暗闇とは与次郎がいつでも広田先生を評する語で、三四郎も二三度聞かされたものである。然し零余子は全く知らん名である。どうだと云はれた時に、三四郎は、返事をする前提として一先づ与次郎の顔を見た。すると与次郎は何にも云はずに其扁平な顔を前へ出して、右の人指し指の先で、自分の鼻の頭を抑へて凝としてゐる。向に立つてゐた一人の学生が、此様子を見てにや/\笑ひ出した。それに気が付いた与次郎は漸く指を鼻から放した。
「己が書いたんだ」と云ふ。三四郎は成程さうかと悟つた。
「僕等が菊細工を見に行く時書いてゐたのは、是か」
「いや、ありや、たつた二三日前ぢやないか。さう早く活版になつて堪るものか。あれは来月出る。これは、ずつと前に書いたものだ。何を書いたものか標題で解るだらう」
「広田先生の事か」
「うん。かうして輿論を喚起して置いてね。さうして、先生が大学に這入れる下地を作る……」
「其雑誌はそんなに勢力のある雑誌か」
三四郎は雑誌の名前さへ知らなかつた。
「いや無勢力だから、実は困る」と与次郎は答へた。三四郎は微笑はざるを得なかつた。
「何部位売れるのか」
与次郎は何部売れるとも云はない。
「まあ好いさ。書ゝんより増しだ」と弁解してゐる。
段々聞いて見ると、与次郎は従来から此雑誌に関係があつて、閑暇さへあれば殆んど毎号筆を執つてゐるが、其代り雅名も毎号変へるから、二三の同人の外、誰れも知らないんだと云ふ。成程さうだらう。三四郎は今始めて、与次郎と文壇との交渉を聞いた位のものである。然し与次郎が何の為に、悪戯に等しい慝名を用ひて、彼の所謂大論文をひそかに公けにしつつあるか、其所が三四郎には分らなかつた。
幾分か小遣取の積で、遣つてゐる仕事かと無遠慮に尋ねた時、与次郎は眼を丸くした。
「君は九州の田舎から出た許だから、中央文壇の趨勢を知らない為に、そんな呑気な事を云ふのだらう。今の思想界の中心に居て、その動揺のはげしい有様を目撃しながら、考のあるものが知らん顔をしてゐられるものか。実際今日の文権は全く吾
青年の手にあるんだから、一言でも半句でも進んで云へる丈云はなけりや損ぢやないか。文壇は急転直下の勢で目覚しい革命を受けてゐる。凡てが悉く揺いて、新気運に向つて行くんだから、取り残されちや大変だ。進んで自分から此気運を拵らへ上げなくつちや、生きてる甲斐はない。文学々々つて安つぽい様に云ふが、そりや大学なんかで聞く文学の事だ。新らしい吾々の所謂文学は、人生そのものゝ大反射だ。文学の新気運は日本全社会の活動に影響しなければならない。又現にしつゝある。彼等が昼寐をして夢を見てゐる間に、何時か影響しつゝある。恐ろしいものだ。……」三四郎は黙つて聞いてゐた。少し法螺の様な気がする。然し法螺でも与次郎は中々熱心に吹いてゐる。すくなくとも当人丈は至極真面目らしく見える。三四郎は大分動かされた。
「さう云ふ精神でやつてゐるのか。では君は原稿料なんか、どうでも構はんのだつたな」
「いや、原稿料は取るよ。取れる丈取る。然し雑誌が売れないから中々寄こさない。どうかして、もう少し売れる工夫をしないと不可ない。何か好い趣向はないだらうか」と今度は三四郎に相談を掛けた。話が急に実際問題に落ちて仕舞つた。三四郎は妙な心持がする。与次郎は平気である。号鐘が烈しく鳴り出した。
「兎も角此雑誌を一部君にやるから読んで見てくれ。偉大なる暗闇と云ふ題が面白いだらう。此題なら人が驚ろくに極つてゐる。――驚ろかせないと読まないから駄目だ」
二人は玄関を上つて、教室へ這入つて、机に着いた。やがて先生が来る。二人とも筆記を始めた。三四郎は「偉大なる暗闇」が気にかかるので、帳面の傍に文芸時評を開けた儘、筆記の相間々々に、先生に知れない様に読み出した。先生は幸ひ近眼である。のみならず自己の講義のうちに全然埋没してゐる。三四郎の不心得には丸で関係しない。三四郎は好い気になつて、此方を筆記したり、彼方を読んだりして行つたが、もと/\二人でする事を一人で兼ねる無理な芸だから仕舞には「偉大なる暗闇」も講義の筆記も双方ともに関係が解からなくなつた。たゞ与次郎の文章が一句丈判然頭へ這入つた。
「自然は宝石を作るに幾年の星霜を費やしたか。又此宝石が採掘の運に逢ふ迄に、幾年の星霜を静かに輝やいてゐたか」といふ句である。其他は不得要領に終つた。其代り此時間には stray sheep といふ字を一つも書かずに済んだ。
講義が終るや否や、与次郎は三四郎に向つて、
「どうだ」と聞いた。実はまだ善く読まないと答へると、時間の経済を知らない男だといつて非難した。是非読めといふ。三四郎は家へ帰つて是非読むと約束した。やがて午になつた。二人は連れ立つて門を出た。
「今晩出席するだらうな」と与次郎が西片町へ這入る横町の角で立ち留つた。今夜は同級生の懇親会がある。三四郎は忘れてゐた。漸く思ひ出して、行く積りだと答へると、与次郎は、
「出る前に一寸誘つて呉れ。君に話す事がある」と云ふ。耳の後へ洋筆軸を挟んでゐる。何となく得意である。三四郎は承知した。
下宿へ帰つて、湯に入つて、好い心持になつて上がつて見ると、机の上に絵端書がある。小川を描いて、草をもぢや/\生やして、其縁に羊を二匹寐かして、其向ふ側に大きな男が洋杖を持つて立つてゐる所を写したものである。男の顔が甚だ獰猛に出来てゐる。全く西洋の絵にある悪魔を模したもので、念の為め、傍にちやんとデ
ルと仮名が振つてある。表は三四郎の宛名の下に、迷へる子と小さく書いた許である。三四郎は迷へる子の何者かをすぐ悟つた。のみならず、端書の裏に、迷へる子を二匹描いて、其一匹を暗に自分に見立てゝ呉れたのを甚だ嬉しく思つた。迷へる子のなかには、美禰子のみではない、自分ももとより這入つてゐたのである。それが美禰子の思はくであつたと見える。美禰子の使つた stray sheep の意味が是で漸く判然した。与次郎に約束した「偉大なる暗闇」を読まうと思ふが、一寸読む気にならない。しきりに絵端書を眺めて考へた。イソツプにもない様な滑稽趣味がある。無邪気にも見える。洒落でもある。さうして凡ての下に、三四郎の心を動かすあるものがある。
手際から云つても敬服の至である。諸事明瞭に出来上てゐる。よし子の描いた柿の木の比ではない。――と三四郎には思はれた。
しばらくしてから、三四郎は漸く「偉大なる暗闇」を読み出した。実はふわ/\して読み出したのであるが、二三頁来ると、次第に釣り込まれる様に気が乗つてきて、知らず/\の間に、五頁六頁と進んで、ついに二十七頁の長論文を苦もなく片付けた。最後の一句を読了した時、始めて是で仕舞だなと気が付いた。眼を雑誌から離して、あゝ読んだなと思つた。
然し次の瞬間に、何を読んだかと考へて見ると、何にもない。可笑しい位何にもない。たゞ大いに且つ熾んに読んだ気がする。三四郎は与次郎の技倆に感服した。
論文は現今の文学者の攻撃に始まつて、広田先生の讃辞に終つてゐる。ことに大学文科の西洋人を手痛く罵倒してゐる。早く適当の日本人を招聘して、大学相当の講義を開かなくつては、学問の最高府たる大学も昔の寺小屋同然の有様になつて、錬瓦石のミイラと撰ぶ所がない様になる。尤も人がなければ仕方がないが、こゝに広田先生がある。先生は十年一日の如く高等学校に教鞭を執つて、薄給と無名に甘んじて居る。然し真正の学者である。学海の新気運に貢献して、日本の活社会と交渉のある教授を担任すべき人物である。――煎じ詰めると是丈であるが、其是丈が、非常に尤もらしい口吻と、燦爛たる警句とによつて前後二十七頁に延長してゐる。
その中には「禿を自慢にするものは老人に限る」とか「
ーナスは波から生れたが、活眼の士は大学から生れない」とか「博士を学界の名産と心得るのは、海月を田子の浦の名産と考へる様なものだ」とか色々面白い句が沢山ある。然しそれより外に何にもない。殊に妙なのは、広田先生を偉大なる暗闇に喩へた序に、他の学者を丸行燈に比較して、たか/″\方二尺位の所をぼんやり照らすに過ぎない抔と、自分が広田から云はれた通りを書いてゐる。さうして、丸行燈だの雁首抔は凡て旧時代の遺物で吾々青年には全く無用であると、此間の通りわざ/\断わつてある。能く考へて見ると、与次郎の論文には活気がある。如何にも自分一人で新日本を代表してゐる様であるから、読んでゐるうちは、つい其気になる。けれども全く味がない。根拠地のない戦争の様なものである。のみならず悪く解釈すると、政略的の意味もあるかも知れない書方である。田舎者の三四郎にはてつきり其所と気取る事は出来なかつたが、たゞ読んだあとで、自分の心を探つて見て何所かに不満足がある様に覚えた。また美禰子の絵端書を取つて、二匹の羊と例の悪魔を眺め出した。すると、此方のほうは万事が快感である。此快感につれて前の不満足は益著しくなつた。それで論文の事はそれぎり考へなくなつた。美禰子に返事を遣らうと思ふ。不幸にして絵がかけない。文章にしやうと思ふ。文章なら此絵端書に匹敵する文句でなくつては不可ない。それは容易に思ひ付けない。愚図々々してゐるうちに四時過になつた。
袴を着けて、与次郎を誘ひに、西片町へ行く。勝手口から這入ると、茶の間に、広田先生が小さな食卓を控へて、晩食を食つてゐた。傍に与次郎が畏まつて御給仕をしてゐる。
「先生何うですか」と聞いてゐる。
先生は何か硬いものを頬張つたらしい。食卓の上を見ると、袂時計程な大きさの、赤くつて黒くつて、焦げたものが十ばかり皿の中に並んでゐる。
三四郎は座に着いた。礼をする。先生は口をもが/\させる。
「おい君も一つ食つて見ろ」と与次郎が箸で撮んで出した。掌へ載せて見ると、馬鹿貝の剥身の干したのをつけ焼にしたのである。
「妙なものを食ふな」と聞くと、
「妙なものつて、旨いぜ食つて見ろ。是はね、僕がわざ/\先生に見舞に買つて来たんだ。先生はまだ、これを食つた事がないと仰しやる」
「何所から」
「日本橋から」
三四郎は可笑しくなつた。かう云ふ所になると、さつきの論文の調子とは少し違ふ。
「先生、どうです」
「硬いね」
「硬いけれども旨いでせう。よく噛まなくつちや不可ません。噛むと味が出る」
「味が出る迄噛んでゐちや、歯が疲れて仕舞ふ。何でこんな古風なものを買つて来たものかな」
「不可ませんか。こりや、ことによると先生には駄目かも知れない。里見の美禰子さんなら可いだらう」
「何故」と三四郎が聞いた。
「あゝ落ち付いてゐりや、味の出る迄屹度噛んでるに違ない」
「あの女は落ち付いて居て、乱暴だ」と広田が云つた。
「えゝ乱暴です。イブセンの女の様な所がある」
「イブセンの女は露骨だが、あの女は心が乱暴だ。尤も乱暴と云つても、普通の乱暴とは意味が違ふが。野々宮の妹の方が、一寸見ると乱暴の様で、矢っ張り女らしい。妙なものだね」
「里見のは乱暴の内訌ですか」
三四郎は黙つて二人の批評を聞いてゐた。何方の批評も腑に落ちない。乱暴といふ言葉が、どうして美禰子の上に使へるか、それからが第一不思議であつた。
与次郎はやがて、袴を穿いて、改まつて出て来て、
「一寸行つて参ります」と云ふ。先生は黙つて茶を飲んでゐる。二人は表へ出た。表はもう暗い。門を離れて二三間来ると、三四郎はすぐ話しかけた。
「先生は里見の御嬢さんを乱暴だと云つたね」
「うん。先生は勝手な事をいふ人だから、時と場合によると何でも云ふ。第一先生が女を評するのが滑稽だ。先生の女に於る知識は恐らく零だらう。ラツヴをした事がないものに女が分るものか」
「先生はそれで可いとして、君は先生の説に賛成したぢやないか」
「うん乱暴だと云つた。何是」
「何う云ふ所を乱暴と云ふのか」
「何う云ふ所も、斯う云ふ所もありやしない。現代の女性はみんな乱暴に極つてる。あの女ばかりぢやない」
「君はあの人をイブセンの人物に似てゐると云つたぢやないか」
「云つた」
「イブセンの誰に似て居る積なのか」
「誰つて……似てゐるよ」
三四郎は無論納得しない。然し追窮もしない。黙つて一間許歩いた。すると突然与次郎がかう云つた。
「イブセンの人物に似てゐるのは里見の御嬢さん許ぢやない、今の一般の女性はみんな似てゐる。女性ばかりぢやない。苟しくも新らしい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似た所がある。たゞ男も女もイブセンの様に自由行動を取らない丈だ。腹のなかでは大抵かぶれてゐる」
「僕はあんまり、かぶれてゐない」
「ゐないと自ら欺むいてゐるのだ。――どんな社会だつて陥欠のない社会はあるまい」
「それは無いだらう」
「無いとすれば、その中に生息してゐる動物は何所かに不足を感じる訳だ。イブセンの人物は、現代社会制度の陥欠を尤も明らかに感じたものだ。吾々も追々あゝ成つて来る」
「君はさう思ふか」
「僕ばかりぢやない。具眼の士はみんなさう思つてゐる」
「君の家の先生もそんな考か」
「うちの先生? 先生は解らない」
「だつて、先刻里見さんを評して、落ち付いてゐて乱暴だと云つたぢやないか。それを解釈して見ると、周囲に調和して行けるから、落ち付いてゐられるので、何所かに不足があるから、底の方が乱暴だと云ふ意味ぢやないのか」
「成程。――先生は偉い所があるよ。あゝいふ所へ行くと矢っ張り偉い」と与次郎は急に広田先生を賞め出した。三四郎は美禰子の性格に就てもう少し議論の歩を進めたかつたのだが、与次郎の此一言で全くはぐらかされて仕舞つた。すると与次郎が云つた。
「実は今日君に用があると云つたのはね。――うん、夫より前に、君あの偉大なる暗闇を読んだか。あれを読んで置かないと僕の用事が頭へ這入り悪い」
「今日あれから家へ帰つて読んだ」
「どうだ」
「先生は何と云つた」
「先生は読むものかね。丸で知りやしない」
「さうさな。面白い事は面白いが、――何だか腹の足にならない麦酒を飲んだ様だね」
「それで沢山だ。読んで景気が付きさへすれば可い。だから慝名にしてある。どうせ今は準備時代だ。かうして置いて、丁度宜い時分に、本名を名乗つて出る。――夫は夫として、先刻の用事を話して置かう」
与次郎の用事といふのは斯うである。――今夜の会で自分達の科の不振の事をしきりに慨嘆するから、三四郎も一所に慨嘆しなくつては不可ないんださうだ。不振は事実であるから外のものも慨嘆するに極つてゐる。それから、大勢一所に挽回策を講ずる事となる。何しろ適当な日本人を一人大学へ入れるのが急務だと云ひ出す。みんなが賛成する。当然だから賛成するのは無論だ。次に誰が好からうといふ相談に移る。其時広田先生の名を持ち出す。其時三四郎は与次郎に口を添えて極力先生を賞賛しろと云ふ話である。さうしないと、与次郎が広田の食客だといふ事を知つてゐるものが疑を起さないとも限らない。自分は現に食客なんだから、どう思はれても構はないが、万一煩ひが広田先生に及ぶ様では済まん事になる。尤も外に同志が三四人はゐるから、大丈夫だが、一人でも味方は多い方が便利だから、三四郎も成るべく※舌[#「口+堯」、U+5635、435-4]るに若くはないとの意見である。偖愈衆議一決の暁には、総代を撰んで学長の所へ行く、又総長の所へ行く。尤も今夜中に其所迄は運ばないかも知れない。又運ぶ必要もない。其辺は臨機応変である。……
与次郎は頗る能弁である。惜しい事に其能弁がつる/\してゐるので重みがない。ある所へ行くと冗談を真面目に講釈してゐるかと疑はれる。けれども本来が性質の好い運動だから、三四郎も大体の上に於て賛成の意を表した。たゞ其方法が少しく細工に落ちて面白くないと云つた。其時与次郎は往来の真中へ立ち留つた。二人は丁度森川町の神社の鳥居の前にゐる。
「細工に落ちると云ふが、僕のやる事は、自然の手順が狂はない様にあらかじめ人力で装置をする丈だ。自然に背いた没分暁の事を企てるのとは質が違ふ。細工だつて構はん。細工が悪いのではない。悪い細工が悪いのだ」
三四郎はぐうの音も出なかつた。何だか文句がある様だけれども、口へ出て来ない。与次郎の言草のうちで、自分がいまだ考へてゐなかつた部分丈が判然頭へ映つてゐる。三四郎は寧ろ其方に感服した。
「それもさうだ」と頗る曖昧な返事をして、又肩を並べて歩き出した。正門を這入ると、急に眼の前が広くなる。大きな建物が所々に黒く立つてゐる。其屋根が判然尽きる所から明かな空になる。星が夥しく多い。
「うつくしい空だ」と三四郎が云つた。与次郎も空を見ながら、一間許歩いた。突然、
「おい、君」と三四郎を呼んだ。三四郎は又さつきの話しの続きかと思つて、「なんだ」と答へた。
「君、かう云ふ空を見て何んな感じを起す」
与次郎に似合はぬ事を云つた。無限とか永久とかいふ持ち合せの答へはいくらでもあるが、そんな事を云ふと与次郎に笑はれると思つて、三四郎は黙つてゐた。
「詰らんなあ我々は。あしたから、斯んな運動をするのはもう已めにしやうか知ら。偉大なる暗闇を書いても何の役にも立ちさうにもない」
「何故急にそんな事を云ひ出したのか」
「此空を見ると、さう云ふ考になる。――君、女に惚れた事があるか」
三四郎は即答が出来なかつた。
「女は恐ろしいものだよ」と与次郎が云つた。
「恐ろしいものだ、僕も知つてゐる」と三四郎も云つた。すると与次郎が大きな声で笑ひ出した。静かな夜の中で大変高く聞える。
「知りもしない癖に。知りもしない癖に」
三四郎は憮然としてゐた。
「明日も好い天気だ。運動会は仕合せだ。奇麗な女が沢山来る。是非見にくるがいゝ」
暗い中を二人は学生集会所の前迄来た。中には電燈が輝やいてゐる。
木造の廊下を回つて、部屋へ這入ると、早く来たものは、もう塊まつてゐる。其塊りが大きいのと小さいのと合せて三つ程ある。中には無言で備付の雑誌や新聞を見ながら、わざと列を離れてゐるのもある。話は方々に聞える。話の数は塊まりの数より多い様に思はれる。然し割合に落付いて静かである。烟草の烟の方が猛烈に立ち上る。
其中だん/\寄つて来る。黒い影が闇の中から吹き曝しの廊下の上へ、ぽつりと現はれると、それが一人々々に明るくなつて、部屋の中へ這入つて来る。時には五六人続けて、明るくなる事もある。やがて人数は略揃つた。
与次郎は、さつきから、烟草の烟りの中を、しきりに彼方此方と往来してゐた。行く所で何か小声に話してゐる。三四郎は、そろ/\運動を始めたなと思つて眺めて居た。
しばらくすると幹事が大きな声で、みんなに席へ着けと云ふ。食卓は無論前から用意が出来てゐた。みんな、ごた/\に席へ着いた。順序も何もない。食事は始まつた。
三四郎は熊本で赤酒許り飲んでゐた。赤酒といふのは、所で出来る下等な酒である。熊本の学生はみんな赤酒を呑む。それが当然と心得てゐる。たま/\飲食店へ上がれば牛肉屋である。その牛肉屋の牛が馬肉かも知れないといふ嫌疑がある。学生は皿に盛つた肉を手攫みにして、座敷の壁へ抛き付ける。落ちれば牛肉で、貼付けば馬肉だといふ。丸で呪見た様な事をしてゐた。其三四郎に取つて、かう云ふ紳士的な学生親睦会は珍らしい。悦んで肉刀と肉叉を動かしてゐた。其間には麦酒をさかんに飲んだ。
「学生集会所の料理は不味いですね」と三四郎の隣りに坐つた男が話しかけた。此男は頭を坊主に刈つて、金縁の眼鏡を掛けた大人しい学生であつた。
「さうですな」と三四郎は生返事をした。相手が与次郎なら、僕の様な田舎者には非常に旨いと正直な所をいふ筈であつたが、其正直が却つて皮肉に聞えると悪いと思つて已めにした。すると其男が、
「君は何所の高等学校ですか」と聞き出した。
「熊本です」
「熊本ですか。熊本には僕の従弟も居たが、随分ひどい所ださうですね」
「野蛮な所です」
二人が話してゐると、向ふの方で、急に高い声がし出した。見ると与次郎が隣席の二三人を相手に、しきりに何か弁じてゐる。時々ダーター、フアブラと云ふ。何の事だか分らない。然し与次郎の相手は、此言葉を聞くたびに笑ひ出す。与次郎は益得意になつて、ダーター、フアブラ我々新時代の青年は……とやつてゐる。三四郎の筋向に坐つてゐた色の白い品の好い学生が、しばらく肉刀の手を休めて、与次郎の連中を眺めてゐたが、やがて笑ひながら、Il a le diable au corps(悪魔が乗り移つてゐる)と冗談半分に仏蘭西語を使つた。向ふの連中には全く聞えなかつたと見えて、此時麦酒の洋盃が四つ許り一度に高く上がつた。得意さうに祝盃を挙げてゐる。
「あの人は大変賑やかな人ですね」と三四郎の隣りの金縁眼鏡を掛けた学生が云つた。
「えゝ。よく※舌[#「口+堯」、U+5635、439-14]ます」
「僕はいつか、あの人に淀見軒でライスカレーを御馳走になつた。丸で知らないのに、突然来て君淀見軒へ行かうつて、とう/\引張つて行つて……」
学生はハヽヽと笑つた。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーを御馳走になつたものは自分ばかりではないんだなと悟つた。
やがて

が出る。一人が椅子を離れて立つた。与次郎が烈しく手を敲くと、他のものも忽ち調子を合せた。立つたものは、新らしい黒の制服を着て、鼻の下にもう髭を生やしてゐる。脊が頗る高い。立つには恰好の好い男である。演説めいた事を始めた。
我々が今夜此所へ寄つて、懇親の為めに、一夕の歓をつくすのは、それ自身に於て愉快な事であるが、此懇親が単に社交上の意味ばかりでなく、それ以外に一種重要な影響を生じ得ると偶然ながら気が付いたら自分は立ちたくなつた。此会合は麦酒に始つて

に終つてゐる。全く普通の会合である。然し此麦酒を飲んで
を飲んだ四十人近くの人間は普通の人間ではない。しかも其麦酒を飲み始めてから
を飲み終る迄の間に既に自己の運命の膨脹を自覚し得た。政治の自由を説いたのは昔の事である。言論の自由を説いたのも過去の事である。自由とは単に是等の表面にあらはれ易い事実の為めに専有されべき言葉ではない。吾等新時代の青年は偉大なる心の自由を説かねばならぬ時運に際会したと信ずる。
吾々は旧き日本の圧迫に堪へ得ぬ青年である。同時に新らしき西洋の圧迫にも堪へ得ぬ青年であるといふ事を、世間に発表せねば居られぬ状況の下に生きて居る。新らしき西洋の圧迫は社会の上に於ても文芸の上に於ても、我等新時代の青年に取つては旧き日本の圧迫と同じく、苦痛である。
我々は西洋の文芸を研究するものである。然し研究は何所迄も研究である。その文芸のもとに屈従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文芸に囚はれんが為に、これを研究するのではない。囚はれたる心を解脱せしめんが為に、これを研究してゐるのである。此方便に合せざる文芸は如何なる威圧の下に強ひらるゝとも学ぶ事を敢てせざるの自信と決心とを有して居る。
我々は此自信と決心とを有するの点に於て普通の人間とは異つてゐる。文芸は技術でもない、事務でもない。より多く人生の根本義に触れた社会の原動力である。我々は此意味に於て文芸を研究し、此意味に於て如上の自信と決心とを有し、此意味に於て今夕の会合に一般以上の重大なる影響を想見するのである。
社会は烈しく揺きつゝある。社会の産物たる文芸もまた揺きつゝある。揺く勢に乗じて、我々の理想通りに文芸を導くためには、零砕なる個人を団結して、自己の運命を充実し発展し膨脹しなくてはならぬ。今夕の麦酒と

は、かゝる隠れたる目的を、一歩前に進めた点に於て、普通の麦酒と
よりも百倍以上の価ある貴とき麦酒と
である。演説の意味はざつと斯んなものである。演説が済んだ時、席に在つた学生は悉く喝采した。三四郎は尤も熱心なる喝采者の一人であつた。すると与次郎が突然立つた。
「ダーターフアブラ、沙翁の使つた字数が何万字だの、イブセンの白髪の数が何千本だのと云つてたつて仕方がない。尤もそんな馬鹿げた講義を聞いたつて囚はれる気遣はないから大丈夫だが、大学に気の毒で不可ない。どうしても新時代の青年を満足させる様な人間を引張つて来なくつちや。西洋人ぢや駄目だ。第一幅が利かない。……」
満堂は又悉く喝采した。さうして悉く笑つた。与次郎の隣りにゐたものが、
「ダーターフアブラの為に祝盃を挙げやう」と云ひ出した。さつき演説をした学生がすぐに賛成した。生憎麦酒がみな空である。よろしいと云つて与次郎はすぐ台所の方へ馳けて行つた。給仕が酒を持つて出る。祝盃を挙げるや否や、
「もう一つ。今度は偉大なる暗闇の為に」と云つたものがある。与次郎の周囲にゐたものは声を合して、アハヽヽヽと笑つた。与次郎は頭を掻いてゐる。
散会の時刻が来て、若い男がみな暗い夜の中に散つた時に、三四郎が与次郎に聞いた。
「ダーターフアブラとは何の事だ」
「希臘語だ」
与次郎はそれより外に答へなかつた。三四郎も夫より外に聞かなかつた。二人は美しい空を戴いて家に帰つた。
あくる日は予想の如く好天気である。今年は例年より気候がずつと緩んでゐる。殊更今日は暖かい。三四郎は朝のうち湯に行つた。閑人の少ない世の中だから、午前は頗る空いてゐる。三四郎は板の間に懸けてある三越呉服店の看板を見た。奇麗な女が画いてある。其女の顔が何所か美禰子に似てゐる。能く見ると眼付が違つてゐる。歯並が分らない。美禰子の顔で尤も三四郎を驚かしたものは眼付と歯並である。与次郎の説によると、あの女は反つ歯の気味だから、あゝ始終歯が出るんださうだが、三四郎には決してさうは思へない。……
三四郎は湯に浸つてこんな事を考へてゐたので、身体の方はあまり洗はずに出た。昨夕から急に新時代の青年といふ自覚が強くなつたけれども、強いのは自覚丈で、身体の方は元の儘である。休になると他のものよりずつと楽にしてゐる。今日は午から大学の陸上運動会を見に行く気である。
三四郎は元来あまり運動好きではない。国に居るとき兎狩を二三度した事がある。それから高等学校の端艇競争のときに旗振の役を勤めた事がある。其時青と赤と間違へて振つて大変苦情が出た。尤も決勝の鉄砲を打つ掛りの教授が鉄砲を打ち損なつた。打つには打つたが音がしなかつた。これが三四郎の狼狽た源因である。それより以来三四郎は運動会へ近づかなかつた。然し今日は上京以来始めての競技会だから是非行つて見る積である。与次郎も是非行つて見ろと勧めた。与次郎の云ふ所によると競技より女の方が見に行く価値があるのださうだ。女のうちには野々宮さんの妹がゐるだらう。野々宮さんの妹と一所に美禰子もゐるだらう。其所へ行つて、今日はとか何とか挨拶をして見たい。
午過になつたから出掛けた。会場の入口は運動場の南の隅にある。大きな日の丸と英吉利の国旗が交叉してある。日の丸は合点が行くが、英吉利の国旗は何の為だか解らない。三四郎は日英同盟の所為かとも考へた。けれども日英同盟と大学の陸上運動会とはどう云ふ関係があるか、頓と見当が付かなかつた。
運動場は長方形の芝生である。秋が深いので芝の色が大分褪めてゐる。競技を看る所は西側にある。後ろに大きな築山を一杯に控へて、前は運動場の柵で仕切られた中へ、みんなを追ひ込む仕掛になつてゐる。狭い割に見物人が多いので甚だ窮屈である。幸ひ日和が好いので寒くはない。然し外套を着てゐるものが大分ある。其代り傘をさして来た女もある。
三四郎が失望したのは婦人席が別になつてゐて、普通の人間には近寄れない事であつた。それからフロツクコートや何か着た偉さうな男が沢山集まつて、自分が存外幅の利かない様に見えた事であつた。新時代の青年を以て自から居る三四郎は少し小さくなつてゐた。それでも人と人の間から婦人席の方を見渡す事は忘れなかつた。横からだから能く見えないが、此所は流石に奇麗である。悉く着飾つてゐる。其上遠距離だから顔がみんな美くしい。その代り誰が目立つて美くしいといふ事もない。只総体が総体として美くしい。女が男を征服する色である。甲の女が乙の女に打ち勝つ色ではなかつた。そこで三四郎は又失望した。然し注意したら、何所かにゐるだらうと思つて、能く見渡すと、果して前列の一番柵に近い所に二人並んでゐた。
三四郎は眼の着け所が漸く解つたので、先づ一段落告げた様な気で、安心してゐると、忽ち五六人の男が眼の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子が坐つてゐる真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見詰めてゐた三四郎の視線のうちには是非共是等の壮漢が這入つて来る。五六人はやがて十二三人に殖えた。みんな呼吸を喘ませてゐる様に見える。三四郎は是等の学生の態度と自分の態度とを比べて見て、其相違に驚ろいた。どうして、あゝ無分別に走ける気になれたものだらうと思つた。然し婦人連は悉く熱心に見てゐる。そのうちでも美禰子とよし子は尤も熱心らしい。三四郎は自分も無分別に走けて見たくなつた。一番に到着したものが、紫の猿股を穿いて婦人席の方を向いて立つてゐる。能く見ると昨夜の親睦会で演説をした学生に似てゐる。あゝ脊が高くては一番になる筈である。計測掛が黒板に二十五秒七四と書いた。書き終つて、余りの白墨を向へ抛げて、此方をむいた所を見ると野々宮さんであつた。野々宮さんは何時になく真黒なフロツクを着て、胸に掛員の徽章を付けて、大分人品が宜い。手帛を出して、洋服の袖を二三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切つて来た。丁度美禰子とよし子の坐つてゐる真前の所へ出た。低い柵の向側から首を婦人席の中へ延ばして、何か云つてゐる。美禰子は立つた。野々宮さんの所迄歩いて行く。柵の向ふと此方で話しを始めた様に見える。美禰子は急に振り返つた。嬉しさうな笑に充ちた顔である。三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守つてゐた。すると、よし子が立つた。又柵の傍へ寄つて行く。二人が三人になつた。芝生の中では砲丸抛が始つた。
砲丸抛程腕の力の要るものはなからう。力の要る割に是程面白くないものも沢山ない。たゞ文字通り砲丸を抛げるのである。芸でも何でもない。野々宮さんは柵の所で、一寸此様子を見て笑つてゐた。けれども見物の邪魔になると悪いと思つたのであらう。柵を離れて芝生の中へ引き取つた。二人の女も元の席へ復した。砲丸は時々抛げられてゐる。第一どの位遠く迄行くんだか殆んど三四郎には分らない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。それでも我慢して立つてゐた。漸やくの事で片が付いたと見えて、野々宮さんは又黒板へ十一メートル三八と書いた。
それから又競走があつて、長飛があつて、其次には槌抛げが始まつた。三四郎は此槌抛に至つて、とう/\辛抱が仕切れなくなつた。運動会は各自勝手に開くべきものである。人に見せべきものではない。あんなものを熱心に見物する女は悉く間違つてゐると迄思ひ込んで、会場を抜け出して、裏の築山の所迄来た。幕が張つてあつて通れない。引き返して砂利の敷いてある所を少し来ると、会場から逃げた人がちらほら歩いてゐる。盛装した婦人も見える。三四郎は又右へ折れて、爪先上りを岡の頂点迄来た。路は頂点で尽きてゐる。大きな石がある。三四郎は其上へ腰を掛けて、高い崖の下にある池を眺めた。下の運動会場でわあといふ多勢の声がする。
三四郎はおよそ五分許石へ腰を掛けた儘ぼんやりしてゐた。やがて又動く気になつたので腰を上げて、立ちながら、靴の踵を向け直すと、岡の上り際の、薄く色づいた紅葉の間に、先刻の女の影が見えた。並んで岡の裾を通る。
三四郎は上から、二人を見下してゐた。二人は枝の隙から明らかな日向へ出て来た。黙つてゐると、前を通り抜けて仕舞ふ。三四郎は声を掛けやうかと考へた。距離があまり遠過ぎる。急いで二三歩芝の上を裾の方へ下りた。下り出すと好い具合に女の一人が此方を向いて呉れた。三四郎はそれで留つた。実は此方からあまり御機嫌を取りたくない。運動会が少し癪に障つてゐる。
「あんな所に……」とよし子が云ひ出した。驚ろいて笑つてゐる。この女はどんな陳腐なものを見ても珍らしさうな眼付をする様に思はれる。其代り、如何な珍らしいものに出逢つても、やはり待ち受けてゐた様な眼付で迎へるかと想像される。だから此女に逢ふと重苦しい所が少しもなくつて、しかも落ち付いた感じが起る。三四郎は立つた儘、これは全く、この大きな、常に濡れてゐる、黒い眸の御蔭だと考へた。
美禰子も留つた。三四郎を見た。然し其眼は此時に限つて何物をも訴へてゐなかつた。丸で高い木を眺める様な眼であつた。三四郎は心の裡で、火の消えた洋燈を見る心持がした。元の所に立ちすくんでゐる。美禰子も動かない。
「何故競技を御覧にならないの」とよし子が下から聞いた。
「今迄見てゐたんですが、詰らないから已めて来たのです」
よし子は美禰子を顧みた。美禰子はやはり顔色を動かさない。三四郎は、
「夫より、あなた方こそ何故出て来たんです。大変熱心に見て居たぢやありませんか」と当た様な当ない様な事を大きな声で云つた。美禰子は此時始めて、少し笑つた。三四郎には其笑ひの意味が能く分らない。二歩ばかり女の方に近付いた。
「もう家へ帰るんですか」
女は二人とも答へなかつた。三四郎は又二歩ばかり女の方へ近付いた。
「何所かへ行くんですか」
「えゝ、一寸」と美禰子が小さな声で云ふ。よく聞えない。三四郎はとう/\女の前迄下りて来た。しかし何所へ行くとも追窮もしないで立つてゐる。会場の方で喝采の声が聞える。
「高飛よ」とよし子が云ふ。「今度は何メートルになつたでせう」
美禰子は軽く笑つた許である。三四郎も黙つてゐる。三四郎は高飛に口を出すのを屑しとしない積である。すると美禰子が聞いた。
「此上には何か面白いものが有つて?」
此上には石があつて、崖がある許りである。面白いものがあり様筈がない。
「何にもないです」
「さう」と疑を残した様に云つた。
「一寸上がつて見ませうか」とよし子が、快く云ふ。
「あなた、まだ此所を御存じないの」と相手の女は落ち付いて出た。
「宜いから入つしやいよ」
よし子は先へ上る。二人は又跟いて行つた。よし子は足を芝生の端迄出して、振り向きながら、
「絶壁ね」と大袈裟な言葉を使つた。「サツフオーでも飛び込みさうな所ぢやありませんか」
美禰子と三四郎は声を出して笑つた。其癖三四郎はサツフオーがどんな所から飛び込んだか能く知らなかつた。
「あなたも飛び込んで御覧なさい」と美禰子が云ふ。
「私? 飛び込みませうか。でも余まり水が汚ないわね」と云ひながら、此方へ帰つて来た。
やがて女二人の間に用談が始つた。
「あなた、入らしつて」と美禰子がいふ。
「えゝ。あなたは」とよし子がいふ。
「何うしませう」
「どうでも。なんなら私一寸行つてくるから、此所に待つて入らつしやい」
「さうね」
中々片付かない。三四郎が聞いて見ると、よし子が病院の看護婦の所へ、序だから、一寸礼に行つてくるんだと云ふ。美禰子は此夏自分の親戚が入院してゐた時近付になつた看護婦を訪ねれば訪ねるのだが、是は必要でも何でもないのださうだ。
よし子は、素直に気の軽い女だから、仕舞にすぐ帰つて来ますと云ひ捨てゝ、早足に一人丘を下りて行つた。止める程の必要もなし、一所に行く程の事件でもないから、二人は自然後に遺る訳になつた。二人の消極な態度から云へば、遺るといふより、遺されたかたちにもなる。
三四郎は又石に腰を掛けた。女は立つてゐる。秋の日は鏡の様に濁つた池の上に落ちた。中に小さな島がある。島にはたゞ二本の樹が生えてゐる。青い松と薄い紅葉が具合よく枝を交し合つて、箱庭の趣がある。島を越して向側の突き当りが蓊鬱とどす黒く光つてゐる。女は丘の上から其暗い木蔭を指した。
「あの木を知つて入らしつて」といふ。
「あれは椎」
女は笑ひ出した。
「能く覚えて入らつしやる事」
「あの時の看護婦ですか、あなたが今訪ねやうと云つたのは」
「えゝ」
「よし子さんの看護婦とは違ふんですか」
「違ひます。是は椎――といつた看護婦です」
今度は三四郎が笑ひ出した。
「彼所ですね。あなたがあの看護婦と一所に団扇を持つて立つてゐたのは」
二人のゐる所は高く池の中に突き出してゐる。此丘とは丸で縁のない小山が一段低く、右側を走つてゐる。大きな松と、御殿の一角と、運動会の幕の一部と、なだらな芝生が見える。
「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とう/\堪へ切れないで出て来たの。――あなたは又何であんな所に跼がんで入らしつたの」
「熱いからです。あの日は始めて野々宮さんに逢つて、それから、彼所へ来てぼんやりして居たのです。何だか心細くなつて」
「野々宮さんに御逢ひになつてから、心細く御成になつたの」
「いゝえ、左う云ふ訳ぢやない」と云ひ掛けて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。
「野々宮さんと云へば、今日は大変働らいてゐますね」
「えゝ、珍らしくフロツクコートを御着になつて――随分御迷惑でせう。朝から晩迄ですから」
「だつて大分得意の様ぢやありませんか」
「誰が。野々宮さんが。――あなたも随分ね」
「何故ですか」
「だつて、真逆運動会の計測掛になつて得意になる様な方でもないでせう」
三四郎は又話頭を転じた。
「先刻あなたの所へ来て何か話してゐましたね」
「会場で?」
「えゝ、運動場の柵の所で」と云つたが、三四郎は此問を急に撤回したくなつた。女は「えゝ」と云つた儘男の顔を凝と見てゐる。少し下唇を反らして笑ひ掛けてゐる。三四郎は堪らなくなつた。何か云つて紛らかさうとした時に、女は口を開いた。
「あなたは未だ此間の絵端書の返事を下さらないのね」
三四郎は迷付ながら「上げます」と答へた。女は呉れとも何とも云はない。
「あなた、原口さんといふ画工を御存じ?」と聞き直した。
「知りません」
「さう」
「何うかしましたか」
「なに、その原口さんが、今日見に来て入らしつてね。みんなを写生してゐるから、私達も用心しないと、ポンチに画ゝれるからつて、野々宮さんがわざ/\注意して下すつたんです」
美禰子は傍へ来て腰を掛けた。三四郎は自分が如何にも愚物の様な気がした。
「よし子さんは兄さんと一所に帰らないんですか」
「一所に帰らうつたつて帰れないわ。よし子さんは、昨日から私の家にゐるんですもの」
三四郎は其時始めて美禰子から野々宮の御母さんが国へ帰つたと云ふ事を聞いた。御母さんが帰ると同時に、大久保を引払つて、野々宮さんは下宿をする、よし子は当分美禰子の宅から学校へ通ふ事に、相談が極つたんださうである。
三四郎は寧ろ野々宮さんの気楽なのに驚ろいた。さう容易く下宿生活に戻る位なら、始めから家を持たない方が善からう。第一鍋、釜、手桶抔といふ世帯道具の始末はどう付けたらうと余計な事迄考へたが、口に出して云ふ程の事でもないから、別段の批評は加へなかつた。其上、野々宮さんが一家の主人から、後戻りをして、再び純書生と同様な生活状態に復するのは、取も直さず家族制度から一歩遠退いたと同じ事で、自分に取つては、目前の疑惑を少し長距離へ引き移した様な好都合にもなる。其代りよし子が美禰子の家へ同居して仕舞つた。此兄妹は絶えず往来してゐないと治らない様に出来上つてゐる。絶えず往来してゐるうちには野々宮さんと美禰子との関係も次第次第に移つて来る。すると野々宮さんが又いつ何時下宿生活を永久に已める時機が来ないとも限らない。
三四郎は頭の中に、かう云ふ疑ある未来を、描きながら、美禰子と応対をしてゐる。一向に気が乗らない。それを外部の態度丈でも普通の如く繕ふとすると苦痛になつて来る。其所へ旨い具合によし子が帰つて来て呉れた。女同志の間には、もう一遍競技を見に行かうかと云ふ相談があつたが、短かくなりかけた秋の日が大分回つたのと、回るに連れて、広い戸外の肌寒が漸く増してくるので、帰る事に話が極まる。
三四郎も女連に別れて下宿へ戻らうと思つたが、三人が話しながら、ずる/\べつたりに歩き出したものだから、際立つて、挨拶をする機会がない。二人は自分を引張つて行く様に見える。自分も亦引張られて行きたい様な気がする。それで二人に食つ付いて池の端を図書館の横から、方角違ひの赤門の方へ向いて来た。其時三四郎は、よし子に向つて、
「御兄いさんは下宿をなすつたさうですね」と聞いたら、よし子は、すぐ、
「えゝ。とう/\。他を美禰子さんの所へ押し付けて置いて。苛いでせう」と同意を求める様に云つた。三四郎は何か返事をしやうとした。其前に美禰子が口を開いた。
「宗八さんの様な方は、我々の考ぢや分りませんよ。ずつと高い所に居て、大きな事を考へて居らつしやるんだから」と大いに野々宮さんを賞め出した。よし子は黙つて聞いてゐる。
学問をする人が煩瑣い俗用を避けて、成るべく単純な生活に我慢するのは、みんな研究の為め已を得ないんだから仕方がない。野々宮の様な外国に迄聞える程の仕事をする人が、普通の学生同様な下宿に這入つてゐるのも必竟野々宮が偉いからの事で、下宿が汚なければ汚ない程尊敬しなくつてはならない。――美禰子の野々宮に対する讃辞のつゞきは、ざつと斯うである。
三四郎は赤門の所で二人に別れた。追分の方へ足を向けながら考へ出した。――成程美禰子の云つた通である。自分と野々宮を比較して見ると大分段が違ふ。自分は田舎から出て大学へ這入つた許りである。学問といふ学問もなければ、見識と云ふ見識もない。自分が、野々宮に対する程な尊敬を美禰子から受け得ないのは当然である。さう云へば何だか、あの女から馬鹿にされてゐる様でもある。先刻、運動会はつまらないから、此所にゐると、丘の上で答へた時に、美禰子は真面目な顔をして、此上には何か面白いものがありますかと聞いた。あの時は気が付かなかつたが、今解釈して見ると、故意に自分を愚弄した言葉かも知れない。――三四郎は気が付いて、今日迄美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返して見ると、どれも是もみんな悪い意味が付けられる。三四郎は往来の真中で真赤になつて俯向いた。不図、顔を上げると向ふから、与次郎と昨夕の会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を竪に振つたぎり黙つてゐる。学生は帽子を脱つて礼をしながら、
「昨夜は。何うですか。囚はれちや不可ませんよ」と笑つて行き過ぎた。
裏から回つて婆さんに聞くと、婆さんが小さな声で、与次郎さんは昨日から御帰りなさらないと云ふ。三四郎は勝手口に立つて考へた。婆さんは気を利かして、まあ御這入りなさい。先生は書斎に御出ですからと云ひながら、手を休めずに、膳椀を洗つてゐる。今晩食が済んだ許の所らしい。
三四郎は茶の間を通り抜けて、廊下伝ひに書斎の入口迄来た。戸が開いてゐる。中から「おい」と人を呼ぶ声がする。三四郎は敷居のうちへ這入つた。先生は机に向つてゐる。机の上には何があるか分らない。高い脊が研究を隠してゐる。三四郎は入口に近く坐つて、
「御勉強ですか」と丁寧に聞いた。先生は顔丈後へ捩ぢ向けた。髭の影が不明瞭にもぢや/\してゐる。写真版で見た誰かの肖像に似てゐる。
「やあ、与次郎かと思つたら、君ですか、失敬した」と云つて、席を立つた。机の上には筆と紙がある。先生は何か書いてゐた。与次郎の話に、うちの先生は時々何か書いてゐる。然し何を書いてゐるんだか、他の者が読んでも些とも分らない。生きてゐるうちに、大著述にでも纏められゝば結構だが、あれで死んで仕舞つちやあ、反古が積る許だ。実に詰らない。と嘆息してゐた事がある。三四郎は広田の机の上を見て、すぐ与次郎の話を思ひ出した。
「御邪魔なら帰ります。別段の用事でもありません」
「いや、帰つてもらふ程邪魔でもありません。此方の用事も別段の事でもないんだから。さう急に片付ける性質のものを遣つてゐたんぢやない」
三四郎は一寸挨拶が出来なかつた。然し腹のうちでは、此人の様な気分になれたら、勉強も楽に出来て好からうと思つた。しばらくしてから、斯う云つた。
「実は佐々木君の所へ来たんですが、居なかつたものですから……」
「あゝ。与次郎は何でも昨夜から帰らない様だ。時々漂泊して困る」
「何か急に用事でも出来たんですか」
「用事は決して出来る男ぢやない。たゞ用事を拵へる男でね。あゝ云ふ馬鹿は少ない」
三四郎は仕方がないから、
「中々気楽ですな」と云つた。
「気楽なら好いけれども。与次郎のは気楽なのぢやない。気が移るので――例へば田の中を流れてゐる小川の様なものと思つてゐれば間違はない。浅くて狭い。しかし水丈は始終変つてゐる。だから、する事が、ちつとも締りがない。縁日へひやかしになど行くと、急に思ひ出した様に、先生松を一鉢御買ひなさいなんて妙な事を云ふ。さうして買ふとも何とも云はないうちに値切つて買つて仕舞ふ。其代り縁日ものを買ふ事なんぞは上手でね。あいつに買はせると大変安く買へる。さうかと思ふと、夏になつてみんなが家を留守にするときなんか、松を座敷へ入れたまんま雨戸を閉てて錠を卸して仕舞ふ。帰つて見ると、松が温気で蒸れて真赤になつてゐる。万事さう云ふ風で洵に困る」
実を云ふと三四郎は此間与次郎に弐十円借した。二週間後には文芸時評社から原稿料が取れる筈だから、それ迄立替てくれろと云ふ。事理を聞いて見ると、気の毒であつたから、国から送つて来た許りの為替を五円引いて、余りは悉く借して仕舞つた。まだ返す期限ではないが、広田の話を聞いて見ると少々心配になる。しかし先生にそんな事は打ち明けられないから、反対に、
「でも佐々木君は、大いに先生に敬服して、蔭では先生の為に中々尽力してゐます」と云ふと、先生は真面目になつて、
「どんな尽力をしてゐるんですか」と聞き出した。所が「偉大なる暗闇」其他凡て広田先生に関する与次郎の所為は、先生に話してはならないと、当人から封じられてゐる。やり掛けた途中でそんな事が知れると先生に叱られるに極つてるから黙つて居るべきだといふ。話して可い時には己が話すと明言してゐるんだから仕方がない。三四郎は話を外らして仕舞つた。
三四郎が広田の家へ来るには色々な意味がある。一つは、此人の生活其他が普通のものと変つてゐる。ことに自分の性情とは全く容れない様な所がある。そこで三四郎は何うしたらあゝなるだらうと云ふ好奇心から参考の為め研究に来る。次に此人の前へ出ると呑気になる。世の中の競争があまり苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣はあるが、世外の功名心の為めに、流俗の嗜慾を遠ざけてゐるかの様に思はれる。だから野々宮さんを相手に二人限で話してゐると、自分も早く一人前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まない様な気が起る。焦慮いて堪らない。そこへ行くと広田先生は太平である。先生は高等学校でたゞ語学を教へる丈で、外に何の芸もない――と云つては失礼だが、外に何等の研究も公けにしない。しかも泰然と取り澄ましてゐる。其所に、此呑気の源は伏在してゐるのだらうと思ふ。三四郎は近頃女に囚れた。恋人に囚はれたのなら、却つて面白いが、惚れられてゐるんだか、馬鹿にされてゐるんだか、怖がつて可いんだか、蔑んで可いんだか、廃すべきだか続けべきだか訳の分らない囚はれ方である。三四郎は忌々敷なつた。さう云ふ時は広田さんに限る。三十分程先生と相対してゐると心持が悠揚になる。女の一人や二人どうなつても構はないと思ふ。実を云ふと、三四郎が今夜出掛けて来たのは七分方此意味である。
訪問理由の第三は大分矛盾してゐる。自分は美禰子に苦しんでゐる。美禰子の傍に野々宮さんを置くと猶苦しんで来る。その野々宮さんに尤も近いものは此先生である。だから先生の所へ来ると、野々宮さんと美禰子との関係が自から明瞭になつてくるだらうと思ふ。これが明瞭になりさへすれば、自分の態度も判然極める事が出来る。其癖二人の事を未だ曾て先生に聞いた事がない。今夜は一つ聞いて見やうかしらと、心を動かした。
「野々宮さんは下宿なすつたさうですね」
「えゝ、下宿したさうです」
「家を持つたものが、又下宿をしたら不便だらうと思ひますが、野々宮さんは能く……」
「えゝ、そんな事には一向無頓着な方でね。あの服装を見ても分る。家庭的な人ぢやない。其代り学問にかけると非常に神経質だ」
「当分あゝ遣つて御出の積なんでせうか」
「分らない。又突然家を持つかも知れない」
「奥さんでも御貰になる御考へはないんでせうか」
「あるかも知れない。佳いのを周旋して遣り玉へ」
三四郎は苦笑をした。余計な事を云つたと思つた。すると広田さんが、
「君はどうです」と聞いた。
「私は……」
「まだ早いですね。今から細君を持つちやあ大変だ」
「国のものは勧めますが」
「国の誰が」
「母です」
「御母さんの云ふ通り持つ気になりますか」
「中々なりません」
広田さんは髭の下から歯を出して笑つた。割合に奇麗な歯を持つてゐる。三四郎は其時急になつかしい心持がした。けれども其なつかしさは美禰子を離れてゐる。野々宮を離れてゐる。三四郎の眼前の利害には超絶したなつかしさであつた。三四郎は是で、野々宮抔の事を聞くのが恥づかしい気がし出して、質問を已めて仕舞つた。すると広田先生が又話し出した。――
「御母さんの云ふ事は成べく聞いて上げるが可い。近頃の青年は我々時代の青年と違つて自我の意識が強過ぎて不可ない。吾々の書生をして居る頃には、する事為す事一として他を離れた事はなかつた。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であつた。それを一口にいふと教育を受けるものが悉く偽善家であつた。その偽善が社会の変化で、とう/\張り通せなくなつた結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎて仕舞つた。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。――君、露悪家といふ言葉を聞いた事がありますか」
「いゝえ」
「今僕が即席に作つた言葉だ。君も其露悪家の一人――だかどうだか、まあ多分さうだらう。与次郎の如きに至ると其最たるものだ。あの君の知つてる里見といふ女があるでせう。あれも一種の露悪家で、それから野々宮の妹ね。あれはまた、あれなりに露悪家だから面白い。昔しは殿様と親父丈が露悪家で済んでゐたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。尤も悪い事でも何でもない。臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切つてゐる。形式丈美事だつて面倒な許だから、みんな節約して木地丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫としてゐる。所が此爛漫が度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段
高じて極端に達した時利他主義が又復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮して行くものと思へば差支ない。さうして行くうちに進歩する。英国を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチエも出ない。気の毒なものだ。自分丈は得意の様だが、傍から見れば堅くなつて、化石しかゝつてゐる。……」三四郎は内心感心した様なものゝ、話が外れて飛んだ所へ曲がつて、曲がりなりに太くなつて行くので、少し驚ろいてゐた。すると広田さんも漸く気が付いた。
「一体何を話してゐたのかな」
「結婚の事です」
「結婚?」
「えゝ、私が母の云ふ事を聞いて……」
「うん、左う/\。なるべく御母さんの言ふ事を聞かなければ不可ない」と云つてにこ/\してゐる。丸で小供に対する様である。三四郎は別に腹も立たなかつた。
「我々が露悪家なのは、可いですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういふ意味ですか」
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「えゝ、まあ愉快です」
「屹度? 僕はさうでない、大変親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式丈は親切に適つてゐる。然し親切自身が目的でない場合」
「そんな場合があるでせうか」
「君、元日に御目出度と云はれて、実際御目出たい気がしますか」
「そりや……」
「しないだらう。それと同じく腹を抱へて笑ふだの、転げかへつて笑ふだのと云ふ奴に、一人だつて実際笑つてる奴はない。親切も其通り。御役目に親切をして呉れるのがある。僕が学校で教師をしてゐる様なものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だらう。之に反して与次郎の如きは露悪党の領袖だけに、度々僕に迷惑を掛けて、始末に了へぬいたづらものだが、悪気がない。可愛らしい所がある。丁度亜米利加人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為程正直なものはなくつて、正直程厭味のないものは無いんだから、万事正直に出られない様な我々時代の小六づかしい教育を受けたものはみんな気障だ」
此所迄の理窟は三四郎にも分つてゐる。けれども三四郎に取つて、目下痛切な問題は、大体にわたつての理窟ではない。実際に交渉のある或格段な相手が、正直か正直でないかを知りたいのである。三四郎は腹の中で美禰子の自分に対する素振をもう一遍考へて見た。所が気障か気障でないか殆んど判断が出来ない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなからうかと疑がひ出した。
其時広田さんは急にうんと云つて、何か思ひ出した様である。
「うん、まだある。此二十世紀になつてから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位で充たすと云ふ六※[#濁点付き小書き平仮名つ、467-5]かしい遣口なんだが、君そんな人に出逢つたですか」
「何んなのです」
「外の言葉で云ふと、偽善を行ふに露悪を以てする。まだ分らないだらうな。ちと説明し方が悪い様だ。――昔しの偽善家はね。何でも人に善く思はれたいが先に立つんでせう。所が其反対で、人の感触を害する為めに、わざ/\偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思はれない様に仕向けて行く。相手は無論厭な心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善其儘で先方に通用させ様とする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語は飽迄も善に違ないから、――そら、二位一体といふ様な事になる。此方法を巧妙に用ひるものが近来大分殖えて来た様だ。極めて神経の鋭敏になつた文明人種が、尤も優美に露悪家にならうとすると、これが一番好い方法になる。血を出さなければ人が殺せないといふのは随分野蛮な話だからな君、段々流行らなくなる」
広田先生の話し方は、丁度案内者が古戦場を説明する様なもので、実際を遠くから眺めた地位に自からを置いてゐる。それで頗る楽天の趣がある。恰も教場で講義を聞くと一般の感を起させる。然し三四郎には応へた。念頭に美禰子といふ女があつて、此理論をすぐ適用出来るからである。三四郎は頭の中に此標準を置いて、美禰子の凡てを測つて見た。然し測り切れない所が大変ある。先生は口を閉ぢて、例の如く鼻から哲学の烟を吐き始めた。
所へ玄関に足音がした。案内も乞はずに廊下伝ひに這入つて来る。忽ち与次郎が書斎の入口に坐つて、
「原口さんが御出になりました」と云ふ。只今帰りましたといふ挨拶を省いてゐる。わざと省いたのかも知れない。三四郎には存在な目礼をした許ですぐに出て行つた。
与次郎と敷居際で擦れ違つて、原口さんが這入つて来た。原口さんは仏蘭西式の髭を生やして、頭を五分刈にした、脂肪の多い男である。野々宮さんより年が二つ三つ上に見える。広田先生よりずつと奇麗な和服を着てゐる。
「やあ、暫く。今迄佐々木が宅へ来てゐてね。一所に飯を食つたり何かして――それから、とう/\引張り出されて、……」と大分楽天的な口調である。傍にゐると自然陽気になる様な声を出す。三四郎は原口と云ふ名前を聞いた時から、大方あの画工だらうと思つてゐた。夫にしても与次郎は交際家だ。大抵な先輩とはみんな知合になつてゐるから豪いと感心して硬くなつた。三四郎は年長者の前へ出ると硬くなる。九州流の教育を受けた結果だと自分では解釈してゐる。
やがて主人が原口に紹介して呉れる。三四郎は丁寧に頭を下げた。向ふは軽く会釈した。三四郎はそれから黙つて二人の談話を承はつてゐた。
原口さんは先づ用談から片付けると云つて、近いうちに会をするから出て呉れと頼んでゐる。会員と名のつく程の立派なものは拵らへない積だが、通知を出すものは、文学者とか芸術家とか、大学の教授とか、僅かな人数に限つて置くから差支はない。しかも大抵知り合の間だから、形式は全く不必要である。目的はたゞ大勢寄つて晩餐を食ふ。それから文芸上有益な談話を交換する。そんなものである。
広田先生は一口「出やう」と云つた。用事は夫で済んで仕舞つた。用事は夫で済んで仕舞つたが、それから後の原口さんと広田先生の会話が頗る面白かつた。
広田先生が「君近頃何をしてゐるかね」と原口さんに聞くと、原口さんがこんな事を云ふ。
「矢っ張り一中節を稽古してゐる。もう五つ程上げた。花紅葉吉原八景だの、小稲半兵衛唐崎心中だのつて中々面白いのがあるよ。君も少し遣つて見ないか。尤もありや、余り大きな声を出しちや、不可ないんだつてね。本来が四畳半の座敷に限つたものださうだ。所が僕が此通り大きな声だらう。それに節廻しがあれで中々込み入つてゐるんで、何うしても旨く不可ん。今度一つ遣るから聞いて呉れ玉へ」
広田先生は笑つてゐた。すると原口さんは続をかう云ふ風に述べた。
「それでも僕はまだ可いんだが、里見恭助と来たら、丸で片無しだからね。どう云ふものか知らん。妹はあんなに器用だのに。此間はとうとう降参して、もう唄は已める、其代り何か楽器を習はうと云ひ出した所が、馬鹿囃を御習ひなさらないかと勧めたものが有つてね。大笑ひさ」
「そりや本当かい」
「本当とも。現に里見が僕に、君が遣るなら遣つても好いと云つた位だもの。あれで馬鹿囃には八通り囃かたがあるんださうだ」
「君、遣つちや何うだ。あれなら普通の人間にでも出来さうだ」
「いや馬鹿囃は厭だ。それよりか鼓が打つて見たくつてね。何故だか鼓の音を聞いてゐると、全く二十世紀の気がしなくなるから可い。どうして今の世にあゝ間が抜けてゐられるだらうと思ふと、それ丈で大変な薬になる。いくら僕が呑気でも、鼓の音の様な画はとても描けないから」
「描かうともしないんぢやないか」
「描けないんだもの。今の東京にゐるものに悠揚な画が出来るものか。尤も画にも限るまいけれども。――画と云へば、此間大学の運動会へ行つて、里見と野々宮さんの妹のカリカチユアーを描いて遣らうと思つたら、とうとう逃げられて仕舞つた。こんだ一つ本当の肖像画を描いて展覧会にでも出さうかと思つて」
「誰の」
「里見の妹の。どうも普通の日本の女の顔は歌麿式や何かばかりで、西洋の画布には移が悪くつて不可ないが、あの女や野々宮さんは可い。両方共画になる。あの女が団扇を翳して、木立を後に、明るい方を向いてゐる所を等身に写して見様かしらと思つてる。西洋の扇は厭味で不可ないが、日本の団扇は新しくつて面白いだらう。兎に角早くしないと駄目だ。今に嫁にでも行かれやうものなら、さう此方の自由に行かなくなるかも知れないから」
三四郎は多大な興味を以て原口の話を聞いてゐた。ことに美禰子が団扇を翳してゐる構図は非常な感動を三四郎に与へた。不思議の因縁が二人の間に存在してゐるのではないかと思ふ程であつた。すると広田先生が、「そんな図はさう面白い事もないぢやないか」と無遠慮な事を云ひ出した。
「でも当人の希望なんだもの。団扇を翳してゐる所は、どうでせうと云ふから、頗る妙でせうと云つて承知したのさ。何わるい図どりではないよ。描き様にも因るが」
「あんまり美くしく描くと、結婚の申込が多くなつて困るぜ」
「ハヽヽぢや中位に描いて置かう。結婚と云へば、あの女も、もう嫁に行く時期だね。どうだらう、何所か好い口はないだらうか。里見にも頼まれてゐるんだが」
「君貰つちや何うだ」
「僕か。僕で可ければ貰ふが、どうもあの女には信用がなくつてね」
「何故」
「原口さんは洋行する時には大変な気込で、わざ/\鰹節を買ひ込んで、是で巴理の下宿に籠城するなんて大威張だつたが、巴理へ着くや否や、忽ち豹変したさうですねつて笑ふんだから始末がわるい。大方兄からでも聞いたんだらう」
「あの女は自分の行きたい所でなくつちや行きつこない。勧めたつて駄目だ。好な人がある迄独身で置くがいゝ」
「全く西洋流だね。尤もこれからの女はみんな左うなるんだから、それも可からう」
夫から二人の間に長い絵画談があつた。三四郎は広田先生の西洋の画工の名を沢山知つてゐるのに驚ろいた。帰るとき勝手口で下駄を探してゐると、先生が階子段の下へ来て「おい佐々木一寸下りて来い」と云つてゐた。
戸外は寒い。空は高く晴れて、何処から露が降るかと思ふ位である。手が着物に触ると、触つた所だけが冷りとする。人通りの少ない小路を二三度折れたり曲つたりして行くうちに、突然辻占屋に逢つた。大きな丸い提灯を点けて、腰から下を真赤にしてゐる。三四郎は辻占が買つて見たくなつた。然し敢て買はなかつた。杉垣に羽織の肩が触る程に、赤い提燈を避けて通した。しばらくして、暗い所を斜に抜けると、追分の通へ出た。角に蕎麦屋がある。三四郎は今度は思ひ切つて暖簾を潜つた。少し酒を飲む為である。
高等学校の生徒が三人ゐる。近頃学校の先生が午の弁当に蕎麦を食ふものが多くなつたと話してゐる。蕎麦屋の担夫が午砲が鳴ると、蒸籠や種ものを山の様に肩へ載せて、急いで校門を這入つてくる。此所の蕎麦屋はあれで大分儲かるだらうと話してゐる。何とかいふ先生は夏でも釜揚饂飩を食ふが、どう云ふものだらうと云つてゐる。大方胃が悪いんだらうと云つてゐる。其外色々の事を云つてゐる。教師の名は大抵呼び棄にする。中に一人広田さんと云つたものがある。それから何故広田さんは独身でゐるかといふ議論を始めた。広田さんの所へ行くと女の裸体画が懸けてあるから、女が嫌なんぢやなからうと云ふ説である。尤も其裸体画は西洋人だから当にならない。日本の女は嫌かも知れないといふ説である。いや失恋の結果に違ないと云ふ説も出た。失恋してあんな変人になつたのかと質問したものもあつた。然し若い美人が出入するといふ噂があるが本当かと聞き糺したものもあつた。
段々聞いてゐるうちに、要するに広田先生は偉い人だといふ事になつた。何故偉いか三四郎にも能く解らないが、兎に角此三人は三人ながら与次郎の書いた「偉大なる暗闇」を読んでゐる。現にあれを読んでから、急に広田さんが好になつたと云つてゐる。時々は「偉大なる暗闇」のなかにある警句抔を引用して来る。さうして盛んに与次郎の文章を賞めてゐる。零余子とは誰だらうと不思議がつてゐる。何しろ余程よく広田さんを知つてゐる男に相違ないといふ事には三人共同意した。
三四郎は傍に居て成程と感心した。与次郎が「偉大なる暗闇」を書く筈である。文芸時評の売れ高の少ないのは当人の自白した通であるのに、例々しく彼の所謂大論文を掲げて得意がるのは、虚栄心の満足以外に何の為になるだらうと疑つてゐたが、是で見ると活版の勢力は矢張り大したものである。与次郎の主張する通り、一言でも半句でも云はない方が損になる。人の評判はこんな所から揚がり、又こんな所から落ちると思ふと、筆を執るものゝ責任が恐ろしくなつて、三四郎は蕎麦屋を出た。
下宿へ帰ると、酒はもう醒めて仕舞つた。何だか詰らなくつて不可ない。机の前に坐つて、ぼんやりしてゐると、下女が下から湯沸に熱い湯を入れて持つて来た序に、封書を一通置いて行つた。又母の手紙である。三四郎はすぐ封を切つた。今日は母の手蹟を見るのが甚だ嬉しい。
手紙は可なり長いものであつたが、別段の事も書いてない。ことに三輪田の御光さんについては一口も述べてないので大いに難有かつた。けれども中に妙な助言がある。
御前は小供の時から度胸がなくつて不可ない。度胸の悪いのは大変な損で、試験の時なぞにはどの位困るか知れない。興津の高さんは、あんなに学問が出来て、中学校の先生をしてゐるが、検定試験を受けるたびに、身体が顫へて、うまく答案が出来ないんで、気の毒な事に未だに月給が上がらずにゐる。友達の医学士とかに頼んで顫への留る丸薬を拵らへて貰つて、試験前に飲んで出たが矢っ張り顫へたさうである。御前のはぶる/\顫へる程でもない様だから、平生から治薬に度胸の据る薬を東京の医者に拵らへて貰つて飲んで見ろ。癒らない事もなからうと云ふのである。
三四郎は馬鹿々々しいと思つた。けれども馬鹿

しいうちに大いなる慰藉を見出した。母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。其晩一時頃迄かゝつて長い返事を母に遣つた。其なかには東京はあまり面白い所ではないと云ふ一句があつた。三四郎が与次郎に金を借した顛末は、斯うである。
此間の晩九時頃になつて、与次郎が雨の中を突然遣つて来て、冒頭から大いに弱つたと云ふ。見ると、例になく顔の色が悪い。始めは秋雨に濡れた冷たい空気に吹かれ過ぎたからの事と思つてゐたが、座に就いて見ると、悪いのは顔色ばかりではない。珍らしく銷沈してゐる。三四郎が「具合でも好くないのか」と尋ねると、与次郎は鹿の様な眼を二度程ぱちつかせて、かう答へた。
「実は金を失くなしてね。困つちまつた」
そこで、一寸心配さうな顔をして、烟草の烟を二三本鼻から吐いた。三四郎は黙つて待つてゐる訳にも行かない。どう云ふ種類の金を、どこで失くなしたのかと段々聞いて見ると、すぐ解つた。与次郎は烟草の烟の、二三本鼻から出切る間丈控へてゐたばかりで、その後は、一部始終を訳もなくすら/\と話して仕舞つた。
与次郎の失くした金は、額で弐拾円、但し人のものである。去年広田先生が此前の家を借りる時分に、三ヶ月の敷金に窮して、足りない所を一時野々宮さんから用達つて貰つた事がある。然るに其金は野々宮さんが、妹に
イオリンを買つて遣らなくてはならないとかで、わざ/\国元の親父さんから送らせたものださうだ。それだから今日が今日必要といふ程でない代りに、延びれば延びる程よし子が困る。よし子は現に今でも
イオリンを買はずに済ましてゐる。広田先生が返さないからである。先生だつて返せればとうに返すんだらうが、月々余裕が一文も出ない上に、月給以外に決して稼がない男だから、つい夫なりにしてあつた。所が此夏高等学校の受験生の答案調を引き受けた時の手当が六十円此頃になつて漸く受け取れた。それで漸く義理を済ます事になつて、与次郎が其使を云ひ付かつた。「その金を失くなしたんだから済まない」と与次郎が云つてゐる。実際済まない様な顔付でもある。何所へ落したんだと聞くと、なに落したんぢやない。馬券を何枚とか買つて、みんな無くなして仕舞つたのだと云ふ。三四郎も是には呆れ返つた。あまり無分別の度を通り越してゐるので意見をする気にもならない。其上本人が悄然としてゐる。是を平常の活溌々地と比べると、与次郎なるものが二人居るとしか思はれない。其対照が烈し過ぎる。だから可笑いのと気の毒なのとが一所になつて三四郎を襲つて来た。三四郎は笑ひ出した。すると与次郎も笑ひ出した。
「まあ可いや、どうかなるだらう」と云ふ。
「先生はまだ知らないのか」と聞くと、
「まだ知らない」
「野々宮さんは」
「無論、まだ知らない」
「金は何時受取つたのか」
「金は此月始りだから、今日で丁度二週間程になる」
「馬券を買つたのは」
「受け取つた明る日だ」
「夫から今日迄其儘にして置いたのか」
「色々奔走したが出来ないんだから仕方がない。已を得なければ今月末迄此儘にして置かう」
「今月末になれば出来る見込でもあるのか」
「文芸時評社から、どうかなるだらう」
三四郎は立つて、机の抽出を開けた。昨日母から来たばかりの手紙の中を覗いて、
「金は此所にある。今月は国から早く送つて来た」と云つた。与次郎は、
「難有い。親愛なる小川君」と急に元気の好い声で落語家の様な事を云つた。
二人は十時過雨を冒して、追分の通りへ出て、角の蕎麦屋へ這入つた。三四郎が蕎麦屋で酒を飲む事を覚えたのは此時である。其晩は二人共愉快に飲んだ。勘定は与次郎が払つた。与次郎は中々人に払はせない男である。
夫から今日に至る迄与次郎は金を返さない。三四郎は正直だから下宿屋の払を気にしてゐる。催促はしないけれども、どうかして呉れれば可いがと思つて、日を過すうちに晦日近くなつた。もう一日二日しか余つてゐない。間違つたら下宿の勘定を延ばして置かう抔といふ考はまだ三四郎の頭に上らない。必ず与次郎が持つて来て呉れる――と迄は無論彼を信用してゐないのだが、まあどうか工面して見様位の親切気はあるだらうと考へてゐる。広田先生の評によると与次郎の頭は浅瀬の水の様に始終移つてゐるのださうだが、無暗に移る許で責任を忘れる様では困る。まさかそれ程の事もあるまい。
三四郎は二階の窓から往来を眺めてゐた。すると向から与次郎が足早にやつて来た。窓の下迄来て仰向いて、三四郎の顔を見上げて、「おい、居るか」と云ふ。三四郎は上から、与次郎を見下して「うん、居る」と云ふ。此馬鹿見た様な挨拶が上下で一句交換されると、三四郎は部屋の中へ首を引込める。与次郎は階子段をとん/\上がつて来た。
「待つてゐやしないか。君の事だから下宿の勘定を心配してゐるだらうと思つて、大分奔走した。馬鹿気てゐる」
「文芸時評から原稿料を呉れたか」
「原稿料つて。原稿料はみんな取つて仕舞た」
「だつて此間は月末に取る様に云つてゐたぢやないか」
「さうかな。夫は聞違だらう。もう一文も取るのはない」
「可笑しいな。だつて君は慥かに左う云つたぜ」
「なに、前借をしやうと云つたのだ。所が中中貸さない。僕に貸すと返さないと思つてゐる。怪しからん。僅か二十円許の金だのに。いくら偉大なる暗闇を書いて遣つても信用しない。詰らない。厭になつちまつた」
「ぢや金は出来ないのか」
「いや外で拵らへたよ。君が困るだらうと思つて」
「さうか。それは気の毒だ」
「所が困つた事が出来た。金は此所にはない。君が取りに行かなくつちや」
「何所へ」
「実は文芸時評が可けないから、原口だの何だの二三軒歩いたが、何所も月末で都合がつかない。それから最後に里見の所へ行つて――里見といふのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。美禰子さんの兄さんだ。あすこへ行つた所が、今度は留守で矢っ張り要領を得ない。其うち腹が減つて歩くのが面倒になつたから、とう/\美禰子さんに逢つて話しをした」
「野々宮さんの妹が居やしないか」
「なに午少し過ぎだから学校に行てる時分だ。それに応接間だから居たつて構やしない」
「さうか」
「それで美禰子さんが、引受けてくれて、御用立て申しますと云ふんだがね」
「あの女は自分の金があるのかい」
「そりや、何うだか知らない。然し兎に角大丈夫だよ。引き受けたんだから。ありや妙な女で、年の行かない癖に姉さんじみた事をするのが好きな性質なんだから、引き受けさへすれば、安心だ。心配しないでも可い。宜しく願つて置けば構はない。所が一番仕舞になつて、御金は此所にありますが、あなたには渡せませんと云ふんだから驚ろいたね。僕はそんなに不信用なんですかと聞くと、えゝと云つて笑つてゐる。厭になつちまつた。ぢや小川を遣しますかなと又聞いたら、えゝ小川さんに御手渡し致しませうと云はれた。どうでも勝手にするが可い。君取りに行けるかい」
「取りに行かなければ、国へ電報でも掛けるんだな」
「電報はよさう。馬鹿気てゐる。いくら君だつて借りに行けるだらう」
「行ける」
是で漸く弐拾円の埒が明いた。それが済むと、与次郎はすぐ広田先生に関する事件の報告を始めた。
運動は着々歩を進めつゝある。暇さへあれば下宿へ出掛て行つて、一人一人に相談する。相談は一人一人に限る。大勢寄ると、各自が自分の存在を主張しやうとして、稍ともすれば異を樹てる。それでなければ、自分の存在を閑却された心持になつて、初手から冷淡に構へる。相談はどうしても一人、一人に限る。其代り暇は要る。金も要る。それを苦にしてゐては運動は出来ない。それから相談中には広田先生の名前を余り出さない事にする。我々の為の相談でなくつて、広田先生の為の相談だと思はれると、事が纏まらなくなる。
与次郎は此方法で運動の歩を進めてゐるのださうだ。それで今日迄の所は旨く行つた。西洋人許では不可ないから、是非共日本人を入れて貰はうといふ所迄話は来た。是から先はもう一遍寄つて、委員を撰んで、学長なり、総長なりに、我々の希望を述べに遣る許である。尤も会合丈はほんの形式だから略しても可い。委員になるべき学生も大体は知れてゐる。みんな広田先生に同情を持つてゐる連中だから、談判の模様によつては、此方から先生の名を当局者へ持ち出すかも知れない。……
聞いてゐると、与次郎一人で天下が自由になる様に思はれる。三四郎は尠からず与次郎の手腕に感服した。与次郎は又此間の晩、原口さんを先生の所へ連れて来た事に就いて、弁じ出した。
「あの晩、原口さんが、先生に文芸家の会をやるから出ろと、勧めてゐたらう」と云ふ。三四郎は無論覚えてゐる。与次郎の話によると、実はあれも自身の発起に係るものださうだ。其理由は色々あるが、まづ第一に手近な所を云へば、あの会員のうちには、大学の文科で有力な教授がゐる。其男と広田先生を接触させるのは、此際先生に取つて、大変な便利である。先生は変人だから、求めて誰とも交際しない。然し此方で相当の機会を作つて、接触させれば、変人なりに附合つて行く。……
「左う云ふ意味があるのか、些とも知らなかつた。それで君が発起人だと云ふんだが、会をやる時、君の名前で通知を出して、さう云ふ偉い人達がみんな寄つて来るのかな」
与次郎は、しばらく真面目に、三四郎を見てゐたが、やがて苦笑ひをして傍を向いた。
「馬鹿云つちや不可ない。発起人つて、表向の発起人ぢやない。たゞ僕がさう云ふ会を企だてたのだ。つまり僕が原口さんを勧めて、万事原口さんが周旋する様に拵へたのだ」
「さうか」
「さうかは田臭だね。時に君もあの会へ出るが可い。もう近いうちに有る筈だから」
「そんな偉い人ばかり出る所へ行つたつて仕方がない。僕は廃さう」
「又田臭を放つた。偉い人も偉くない人も社会へ頭を出した順序が違ふ丈だ。なにあんな連中、博士とか学士とか云つたつて、会つて話して見ると何でもないものだよ。第一向がさう偉いとも何とも思つてやしない。是非出て置くが可い。君の将来の為だから」
「何所であるのか」
「多分上野の西洋軒になるだらう」
「僕はあんな所へ這入つた事がない。高い会費を取るんだらう」
「まあ弐円位だらう。なに会費なんか、心配しなくつても可い。無ければ僕が出して置くから」
三四郎は忽ちさきの弐拾円の件を思ひ出した。けれども不思議に可笑しくならなかつた。与次郎は其上銀座の何所とかへ天麩羅を食ひに行かうと云ひ出した。金はあると云ふ。不思議な男である。云ひなり次第になる三四郎も是は断わつた。其代り一所に散歩に出た。帰りに岡野へ寄つて、与次郎は栗饅頭を沢山買つた。これを先生に見舞に持つて行くんだと云つて、袋を抱へて帰つていつた。
三四郎は其晩与次郎の性格を考へた。永く東京に居るとあんなになるものかと思つた。それから里見へ金を借りに行く事を考へた。美禰子の所へ行く用事が出来たのは嬉しい様な気がする。然し頭を下げて金を借りるのは難有くない。三四郎は生れてから今日に至る迄、人に金を借りた経験のない男である。其上貸すと云ふ当人が娘である。独立した人間ではない。たとひ金が自由になるとしても、兄の許諾を得ない内証の金を借りたとなると、借りる自分は兎に角、あとで、貸した人の迷惑になるかも知れない。或はあの女の事だから、迷惑にならない様に始から出来てゐるかとも思へる。何しろ逢つて見やう。逢つた上で、借りるのが面白くない様子だつたら、断わつて、少時下宿の払を延ばして置いて、国から取り寄せれば事は済む。――当用は此所迄考へて句切りを付けた。あとは散漫に美禰子の事が頭に浮んで来る。美禰子の顔や手や、襟や、帯や、着物やらを、想像に任せて、乗けたり除つたりしてゐた。ことに明日逢ふ時に、どんな態度で、どんな事を云ふだらうと其光景が十通りにも廿通りにもなつて色々に出て来る。三四郎は本来から斯んな男である。用談があつて人と会見の約束などをする時には、先方が何う出るだらうといふ事許り想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で云つて遣らう抔とは決して考へない。しかも会見が済むと後から屹度其方を考へる。さうして後悔する。
ことに今夜は自分の方を想像する余地がない。三四郎は此間から美禰子を疑つてゐる。然し疑ふばかりで一向埒が明かない。さうかと云つて面と向つて、聞き糺すべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決抔は思ひも寄らぬ事である。もし三四郎の安心の為に解決が必要なら、それはたゞ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、好い加減に最後の判決を自分に与へて仕舞ふ丈である。明日の会見は此判決に欠くべからざる材料である。だから、色々に向を想像して見る。しかし、どう想像しても、自分に都合の好い光景ばかり出て来る。それでゐて、実際は甚だ疑はしい。丁度汚ない所を奇麗な写真に取つて眺めてゐる様な気がする。写真は写真として何所迄も本当に違ないが、実物の汚ない事も争はれないと一般で、同じでなければならぬ筈の二つが決して一致しない。
最後に嬉しい事を思ひ付いた。美禰子は与次郎に金を貸すと云つた。けれども与次郎には渡さないと云つた。実際与次郎は金銭の上に於ては、信用し悪い男かも知れない。然し其意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑はしい。もし其意味でないとすると、自分には甚だ頼母しい事になる。たゞ金を貸して呉れる丈でも充分の好意である。自分に逢つて手渡しにしたいと云ふのは――三四郎は此所迄己惚て見たが、忽ち、
「矢っ張り愚弄ぢやないか」と考へ出して、急に赤くなつた。もし、ある人があつて、其女は何の為に君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎は恐らく答へ得なかつたらう。強ひて考へて見ろと云はれたら、三四郎は愚弄其物に興味を有つてゐる女だからと迄は答へたかも知れない。自分の己惚を罰する為とは全く考へ得なかつたに違ない。――三四郎は美禰子の為に己惚しめられたんだと信じてゐる。
翌日は幸ひ教師が二人欠席して、午からの授業が休みになつた。下宿へ帰るのも面倒だから、途中で一品料理の腹を拵らへて、美禰子の家へ行つた。前を通つた事は何遍でもある。けれども這入るのは始てゞある。瓦葺の門の柱に里見恭助といふ標札が出てゐる。三四郎は此所を通る度に、里見恭助といふ人はどんな男だらうと思ふ。まだ逢つた事がない。門は締つてゐる。潜りから這入ると玄関迄の距離は存外短かい。長方形の御影石が飛び々々に敷いてある。玄関は細い奇麗な格子で閉て切つてある。電鈴を押す。取次の下女に、「美禰子さんは御宅ですか」と云つた時、三四郎は自分ながら気恥かしい様な妙な心持がした。他の玄関で、妙齢の女の在否を尋ねた事はまだない。甚だ尋ね悪い気がする。下女の方は案外真面目である。しかも恭しい。一旦奥へ這入つて、又出て来て、丁寧に御辞儀をして、どうぞと云ふから尾いて上がると応接間へ通した。重い窓掛の懸つてゐる西洋室である。少し暗い。
下女は又、「暫らく、どうか……」と挨拶をして出て行つた。三四郎は静かな室の中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さい暖炉がある。其上が横に長い鏡になつてゐて、前に蝋燭立が二本ある。三四郎は左右の蝋燭立の真中に自分の顔を写して見て、又坐つた。
すると奥の方で
イオリンの音がした。それが何所からか、風が持つて来て捨てゝ行つた様に、すぐ消えて仕舞つた。三四郎は惜い気がする。厚く張つた椅子の脊に倚りかゝつて、もう少し遣れば可いがと思つて耳を澄ましてゐたが、音は夫限で已んだ。約一分も立つうちに、三四郎は
イオリンの事を忘れた。向ふにある鏡と蝋燭立を眺めてゐる。妙に西洋の臭ひがする。それから加徒力の連想がある。何故加徒力だか三四郎にも解らない。其時
イオリンが又鳴つた。今度は高い音と低い音が二三度急に続いて響いた。それでぱつたり消えて仕舞つた。三四郎は全く西洋の音楽を知らない。然し今の音は、決して、纏つたものゝ一部分を弾いたとは受け取れない。たゞ鳴らした丈である。その無作法にたゞ鳴らした所が、三四郎の情緒によく合つた。不意に天から二三粒落ちて来た、出鱈目の雹の様である。三四郎が半ば感覚を失つた眼を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子が何時の間にか立つてゐる。下女が閉てたと思つた戸が開いてゐる。戸の後に掛けてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写つてゐる。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑つた。
「入らつしやい」
女の声は後で聞えた。三四郎は振り向かなければならなかつた。女と男は直に顔を見合せた。其時女は廂の広い髪を一寸前に動かして礼をした。礼をするには及ばない位に親しい態度であつた。男の方は却つて椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬ風をして、向ふへ廻つて、鏡を脊に、三四郎の正面に腰を卸した。
「とう/\入らしつた」
同じ様な親しい調子である。三四郎には此一言が非常に嬉しく聞えた。女は光る絹を着てゐる。先刻から大分待たしたところを以て見ると、応接間へ出る為にわざわざ奇麗なのに着換へたのかも知れない。それで端然と坐つてゐる。眼と口に笑を帯びて無言の儘三四郎を見守つた姿に、男は寧ろ甘い苦しみを感じた。凝として見らるゝに堪へない心の起つたのは、其癖女の腰を卸すや否やである。三四郎はすぐ口を開いた。殆んど発作に近い。
「佐々木が……」
「佐々木さんが、あなたの所へ入らしつたでせう」と云つて例の白い歯を露した。女の後には前の蝋燭立が暖炉台の左右に並んでゐる。金で細工をした妙な形の台である。是を蝋燭立と見たのは三四郎の臆断で、実は何だか分らない。此不可思議の蝋燭立の後に明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛に遮ぎられて、充分に這入らない。其上天気は曇つてゐる。三四郎は此間に美禰子の白い歯を見た。
「佐々木が来ました」
「何と云つて入らつしやいました」
「僕にあなたの所へ行けと云つて来ました」
「左うでせう。――夫で入らしつたの」とわざわざ聞いた。
「えゝ」と云つて少し躊躇した。あとから「まあ、左うです」と答へた。女は全く歯を隠した。静かに席を立つて、窓の所へ行つて、外面を眺め出した。
「曇りましたね。寒いでせう、戸外は」
「いゝえ、存外暖かい。風は丸でありません」
「さう」と云ひながら席へ帰つて来た。
「実は佐々木が金を……」と三四郎から云ひ出した。
「分つてるの」と中途でとめた。三四郎も黙つた。すると
「何うして御失くしになつたの」と聞いた。
「馬券を買つたのです」
女は「まあ」と云つた。まあと云つた割に顔は驚ろいてゐない。却つて笑つてゐる。すこし経つて、「悪い方ね」と附け加へた。三四郎は答へずにゐた。
「馬券で中るのは、人の心を中るより六※[#濁点付き小書き平仮名つ、491-13]かしいぢやありませんか。あなたは索引の付いてゐる人の心さへ中て見様となさらない呑気な方だのに」
「僕が馬券を買つたんぢやありません」
「あら。誰が買つたの」
「佐々木が買つたのです」
女は急に笑ひ出した。三四郎も可笑しくなつた。
「ぢや、あなたが御金が御入用ぢやなかつたのね。馬鹿々々しい」
「要る事は僕が要るのです」
「本当に?」
「本当に」
「だつて夫ぢや可笑いわね」
「だから借りなくつても可いんです」
「何故。御厭なの?」
「厭ぢやないが、御兄いさんに黙つて、あなたから借りちや、好くないからです」
「何ういふ訳で? でも兄は承知してゐるんですもの」
「左うですか。ぢや借りても好い。――然し借りないでも好い。家へさう云つて遣りさへすれば、一週間位すると来ますから」
「御迷惑なら、強ひて……」
美禰子は急に冷淡になつた。今迄傍にゐたものが一町許遠退いた気がする。三四郎は借りて置けば可かつたと思つた。けれども、もう仕方がない。蝋燭立を見て澄してゐる。三四郎は自分から進んで、他の機嫌を取つた事のない男である。女も遠ざかつたぎり近付いて来ない。しばらくすると又立ち上がつた。窓から戸外をすかして見て、
「降りさうもありませんね」と云ふ。三四郎も同じ調子で、「降りさうもありません」と答へた。
「降らなければ、私一寸出て来やうかしら」と窓の所で立つた儘云ふ。三四郎は帰つてくれといふ意味に解釈した。光る絹を着換たのも自分の為ではなかつた。
「もう帰りませう」と立ち上がつた。美禰子は玄関迄送つて来た。沓脱へ下りて、靴を穿いてゐると、上から美禰子が、
「其所迄御一所に出ませう。可いでせう」と云つた。三四郎は靴の紐を結びながら、「えゝ、何うでも」と答へた。女は何時の間にか、和土の上へ下りた。下りながら三四郎の耳の傍へ口を持つて来て、「怒つて入らつしやるの」と私語いだ。所へ下女が周章ながら、送りに出て来た。
二人は半町程無言の儘連れ立つて来た。其間三四郎は始終美禰子の事を考へてゐる。此女は我儘に育つたに違ない。それから家庭にゐて、普通の女性以上の自由を有して、万事意の如く振舞ふに違ない。かうして、誰の許諾も経ずに、自分と一所に、往来を歩くのでも分る。年寄の親がなくつて、若い兄が放任主義だから、斯うも出来るのだらうが、是が田舎であつたら嘸困ることだらう。此女に三輪田の御光さんの様な生活を送れと云つたら、何うする気かしらん。東京は田舎と違つて、万事が明け放しだから、此方の女は、大抵斯うなのかも分らないが、遠くから想像して見ると、もう少しは旧式の様でもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのも成程と思ひ当る。但し俗礼に拘はらない所丈がイブセン流なのか、或は腹の底の思想迄も、さうなのか。其所は分らない。
そのうち本郷の通へ出た。一所に歩いてゐる二人は、一所に歩いてゐながら、相手が何所へ行くのだか、全く知らない。今迄に横町を三つ許曲つた。曲るたびに、二人の足は申し合せた様に無言の儘同じ方角へ曲つた。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。
「何処へ入らつしやるの」
「あなたは何所へ行くんです」
二人は一寸顔を見合せた。三四郎は至極真面目である。女は堪へ切れずに又白い歯を露はした。
「一所に入らつしやい」
二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間程行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子は其前に留つた。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、
「御願ひ」と云つた。
「何ですか」
「是で御金を取つて頂戴」
三四郎は手を出して、帳面を受取つた。真中に小口当座預金通帳とあつて、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎は帳面と印形を持つた儘、女の顔を見て立つた。
「三拾円」と女が金高を云つた。恰も毎日銀行へ金を取りに行き慣けた者に対する口振である。幸ひ、三四郎は国にゐる時分、かう云ふ帳面を以て度々豊津迄出掛けた事がある。すぐ石段を上つて、戸を開けて、銀行の中へ這入つた。帳面と印形を掛のものに渡して、必要の金額を受取つて出て見ると、美禰子は待つてゐない。もう切り通しの方へ二十間許歩き出してゐる。三四郎は急いで追い付いた。すぐ受取つたものを渡さうとして、隠袋へ手を入れると、美禰子が、
「丹青会の展覧会を御覧になつて」と聞いた。
「まだ覧ません」
「招待券を二枚貰つたんですけれども、つい閑がなかつたものだから、まだ行かずにゐたんですが、行つて見ませうか」
「行つても可いです」
「行きませう。もう、ぢき閉会になりますから。私、一遍は見て置かないと原口さんに済まないのです」
「原口さんが招待券を呉れたんですか」
「えゝ。あなた原口さんを御存じなの?」
「広田先生の所で一度会ひました」
「面白い方でせう。馬鹿囃を稽古なさるんですつて」
「此間は鼓を稽ひたいと云つてゐました。夫から――」
「夫から?」
「夫から、あなたの肖像を描くとか云つてゐました。本当ですか」
「えゝ、高等モデルなの」と云つた。男は是より以上に気の利いた事が云へない性質である。それで黙つて仕舞つた。女は何とか云つて貰ひたかつたらしい。
三四郎は又隠袋へ手を入れた。銀行の通帳と印形を出して、女に渡した。金は帳面の間に挟んで置いた筈である。然るに女が、
「御金は」と云つた。見ると、間にはない。三四郎は又衣嚢を探つた。中から手摺のした札を攫み出した。女は手を出さない。
「預かつて置いて頂戴」と云つた。三四郎は聊か迷惑の様な気がした。然しこんな時に争ふ事を好まぬ男である。其上往来だから猶更遠慮をした。折角握つた札を又元の所へ収めて、妙な女だと思つた。
学生が多く通る。擦れ違ふ時に屹度二人を見る。中には遠くから眼を付けて来るものもある。三四郎は池の端へ出る迄の路を頗る長く感じた。それでも電車に乗る気にはならない。二人共のそ/\歩いてゐる。会場へ着いたのは殆んど三時近くである。妙な看板が出てゐる。丹青会と云ふ字も、字の周囲についてゐる図案も、三四郎の眼には悉く新らしい。然し熊本では見る事の出来ない意味で新らしいので、寧ろ一種異様の感がある。中は猶更である。三四郎の眼には只油絵と水彩画の区別が判然と映ずる位のものに過ぎない。
それでも好悪はある。買つてもいゝと思ふのもある。然し巧拙は全く分らない。従つて鑑別力のないものと、初手から諦らめた三四郎は、一向口を開かない。
美禰子が是は何うですかと云ふと、左うですなといふ。是は面白いぢやありませんかと云ふと、面白さうですなといふ。丸で張合がない。話しの出来ない馬鹿か、此方を相手にしない偉い男か、何方かに見える。馬鹿とすれば衒はない所に愛嬌がある。偉いとすれば、相手にならない所が悪らしい。
長い間外国を旅行して歩いた兄妹の画が沢山ある。双方共同じ姓で、しかも一つ所に並べて掛けてある。美禰子は其一枚の前に留つた。
「※[#濁点付き片仮名エ、498-10]ニスでせう」
是は三四郎にも解つた。何だか※[#濁点付き片仮名エ、498-11]ニスらしい。画舫にでも乗つて見たい心持がする。三四郎は高等学校に居る時分画舫といふ字を覚えた。それから此字が好になつた。画舫といふと、女と一所に乗らなければ済まない様な気がする。黙つて蒼い水と、水の左右の高い家と、倒さに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とを眺めてゐた。すると、
「兄さんの方が余程旨い様ですね」と美禰子が云つた。三四郎には此意味が通じなかつた。
「兄さんとは……」
「此画は兄さんの方でせう」
「誰の?」
美禰子は不思議さうな顔をして、三四郎を見た。
「だつて、彼方の方が妹さんので、此方の方が兄さんのぢやありませんか」
三四郎は一歩退いて、今通つて来た路の片側を振り返つて見た。同じ様に外国の景色を描いたものが幾点となく掛つてゐる。
「違ふんですか」
「一人と思つて入らしつたの」
「えゝ」と云つて、呆やりしてゐる。やがて二人が顔を見合した。さうして一度に笑ひ出した。美禰子は、驚ろいた様に、わざと大きな眼をして、しかも一段と調子を落した小声になつて、
「随分ね」と云ひながら、一間ばかり、ずん/\先へ行つて仕舞つた。三四郎は立ち留つた儘、もう一遍※[#濁点付き片仮名エ、499-13]ニスの堀割を眺め出した。先へ抜けた女は、此時振り返つた。三四郎は自分の方を見てゐない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向から三四郎の横顔を熟視してゐた。
「里見さん」
出し抜に誰か大きな声で呼んだ者がある。
美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間許離れて、原口さんが立つてゐる。原口さんの後に、少し重なり合つて、野々宮さんが立つてゐる。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二三歩後戻りをして三四郎の傍へ来た。人に目立ぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。さうして何か私語いた。三四郎には何を云つたのか、少しも分らない。聞き直さうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返して行つた。もう挨拶をしてゐる。野々宮は三四郎に向つて、
「妙な連と来ましたね」と云つた。三四郎が何か答へやうとするうちに、美禰子が、
「似合ふでせう」と云つた。野々宮さんは何とも云はなかつた。くるりと後ろを向いた。後ろには畳一枚程の大きな画がある。其画は肖像画である。さうして一面に黒い。着物も帽子も背景から区別の出来ない程光線を受けてゐない中に、顔ばかり白い。顔は瘠せて、頬の肉が落ちてゐる。
「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに云つた。原口は今しきりに美禰子に何か話してゐる。――もう閉会である。来観者も大分減つた。開会の初めには毎日事務へ来てゐたが、此頃は滅多に顔を出さない。今日は久し振りに、此方へ用があつて、野々宮さんを引張つて来た所だ。うまく出つ食はしたものだ。此会を仕舞ふと、すぐ来年の準備にかゝらなければならないから、非常に忙がしい。何時もは花の時分に開くのだが、来年は少し会員の都合で早くする積りだから、丁度会を二つ続けて開くと同じ事になる。必死の勉強をやらなければならない。それ迄に是非美禰子の肖像を描き上げて仕舞ふ積である。迷惑だらうが大晦日でも描ゝして呉れ。
「其代り此所ん所へ掛ける積です」
原口さんは此時始めて、黒い画の方を向いた。野々宮さんは其間ぽかんとして同じ画を眺めてゐた。
「どうです。※[#濁点付き片仮名エ、501-10]ラスケスは。尤も模写ですがね。しかも余り上出来ではない」と原口が始めて説明する。野々宮さんは何にも云ふ必要がなくなつた。
「どなたが御写しになつたの」と女が聞いた。
「三井です。三井はもつと旨いんですがね。此画はあまり感服出来ない」と一二歩退がつて見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、旨く行かないね」
原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げた所を見てゐた。
「もう、皆見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子に許話しかける。
「まだ」
「どうです。もう廃して、一所に出ちや。西洋軒で御茶でも上げます。なに私は用があるから、どうせ一寸行かなければならない。――会の事でね、マネジヤーに相談して置きたい事がある。懇意の男だから。――今丁度御茶に好い時分です。もう少しするとね、御茶には遅し晩餐には早し、中途半端になる。どうです。一所に入らつしやいな」
美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでも可い顔をしてゐる。野々宮は立つた儘関係しない。
「折角来たものだから、皆見て行きませう。ねえ、小川さん」
三四郎はえゝと云つた。
「ぢや、斯うなさい。此奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それ丈見て、帰りに西洋軒へ入らつしやい。先へ行つて待つてゐますから」
「難有う」
「深見さんの水彩は普通の水彩の積で見ちや不可ませんよ。何所迄も深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になつてゐると、中々面白い所が出て来ます」と注意して、原口は野々宮と出て行つた。美禰子は礼を云つて其後影を見送つた。二人は振り返らなかつた。
女は歩を回らして、別室へ入つた。男は一足後から続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列に懸つてゐる深見先生の遺画を見ると、成程原口さんの注意した如く殆んど水彩ばかりである。三四郎が著るしく感じたのは、其水彩の色が、どれも是も薄くて、数が少なくつて、対照に乏しくつて、日向へでも出さないと引き立たないと思ふ程地味に描いてあるといふ事である。其代り筆が些とも滞つてゐない。殆んど一気呵成に仕上た趣がある。絵の具の下に鉛筆の輪廓が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間抔になると、細くて長くて、丸で殻竿の様である。こゝにも※[#濁点付き片仮名エ、503-9]ニスが一枚ある。
「是も※[#濁点付き片仮名エ、503-10]ニスですね」と女が寄つて来た。
「えゝ」と云つたが、※[#濁点付き片仮名エ、503-11]ニスで急に思ひ出した。
「さつき何を云つたんですか」
女は「さつき?」と聞き返した。
「さつき、僕が立つて、彼方の※[#濁点付き片仮名エ、503-14]ニスを見てゐる時です」
女は又真白な歯を露はした。けれども何とも云はない。
「用でなければ聞かなくつても可いです」
「用ぢやないのよ」
三四郎はまだ変な顔をしてゐる。曇つた秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなつてくる。観覧人は極めて少ない。別室の中には、只男女二人の影があるのみである。女は画を離れて、三四郎の真正面に立つた。
「野々宮さん。ね、ね」
「野々宮さん……」
「解つたでせう」
美禰子の意味は、大濤の崩れる如く一度に三四郎の胸を浸した。
「野々宮さんを愚弄したのですか」
「何んで?」
女の語気は全く無邪気である。三四郎は忽然として、後を云ふ勇気がなくなつた。無言の儘二三歩動き出した。女は縋る様に付いて来た。
「あなたを愚弄したんぢや無いのよ」
三四郎は又立ち留つた。三四郎は脊の高い男である。上から美禰子を見下した。
「それで宜いです」
「何故悪いの?」
「だから可いです」
女は顔を背けた。二人共戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子に互の肩が触れた。男は急に汽車で乗り合はした女を思ひ出した。美禰子の肉に触れた所が、夢に疼く様な心持がした。
「本当に宜いの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向ふから二三人連の観覧者が来る。
「兎も角出ませう」と三四郎が云つた。下足を受取つて、出ると戸外は雨だ。
「西洋軒へ行きますか」
美禰子は答へなかつた。雨の中を濡れながら、博物館前の広い原の中に立つた。幸ひ雨は今降り出した許である。其上烈しくはない。女は雨の中に立つて、見廻しながら、向ふの森を指した。
「あの樹の蔭へ這入りませう」
少し待てば歇みさうである。二人は大きな杉の下に這つた[#「這つた」はママ]。雨を防ぐには都合の好くない樹である。けれども二人とも動かない。濡れても立つてゐる。二人共寒くなつた。女が「小川さん」と云ふ。男は八の字を寄せて、空を見てゐた顔を女の方へ向けた。
「悪くつて? 先刻のこと」
「可いです」
「だつて」と云ひながら、寄つて来た。「私、何故だか、あゝ為たかつたんですもの。野々宮さんに失礼する積ぢやないんですけれども」
女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎は其瞳の中に言葉よりも深き訴を認めた。――必竟あなたの為にした事ぢやありませんかと、二重瞼の奥で訴へてゐる。三四郎は、もう一遍、
「だから、可いです」と答へた。
雨は段々濃くなつた。雫の落ちない場所は僅かしかない。二人は段々一つ所へ塊まつて来た。肩と肩と擦れ合ふ位にして立ち竦んでゐた。雨の音の中で、美禰子が、
「さつきの御金を御遣ひなさい」と云つた。
「借りませう。要る丈」と答へた。
「みんな、御遣ひなさい」と云つた。
与次郎が勧めるので、三四郎はとう/\西洋軒の会へ出た。其時三四郎は黒い紬の羽織を着た。此羽織は、三輪田の御光さんの御母さんが織つて呉れたのを、紋付に染めて、御光さんが縫ひ上げたものだと、母の手紙に長い説明がある。小包が届いた時、一応着て見て、面白くないから、戸棚へ入れて置いた。それを与次郎が、勿体ないから是非着ろ/\と云ふ。三四郎が着なければ、自分が持つて行つて着さうな勢であつたから、つい着る気になつた。着て見ると悪くはない様だ。
三四郎は此出立で、与次郎と二人で西洋軒の玄関に立つてゐた。与次郎の説によると、御客は斯うして迎へべきものださうだ。三四郎はそんな事とは知らなかつた。第一自分が御客の積でゐた。かうなると、紬の羽織では何だか安つぽい受附の気がする。制服を着て来れば善かつたと思つた。其うち会員が段々来る。与次郎は来る人を捕まへて屹度何とか話しをする。悉く旧知の様にあしらつてゐる。御客が帽子と外套を給仕に渡して、広い階子段の横を、暗い廊下の方へ折れると、三四郎に向つて、今のは誰某だと教へて呉れる。三四郎は御蔭で知名な人の顔を大分覚えた。
其内御客は略集つた。約三十人足らずである。広田先生もゐる。野々宮さんもゐる。――是は理学者だけれども、画や文学が好だからと云ふので、原口さんが、無理に引つ張り出したのださうだ。原口さんは無論ゐる。一番先へ来て、世話を焼いたり、愛嬌を振り蒔いたり、仏蘭西式の髯を撮んで見たり、万事忙がしさうである。
やがて着席となつた。各自勝手な所へ坐る。譲るものもなければ、争ふものもない。其内でも広田先生はのろいにも似合はず一番に腰を卸して仕舞つた。たゞ与次郎と三四郎丈が一所になつて、入口に近く座を占めた。其他は悉く偶然の向ひ合せ、隣り同志であつた。
野々宮さんと広田先生の間に縞の羽織を着た批評家が坐つた。向ふには庄司と云ふ博士が座に着いた。是は与次郎の所謂文科で有力な教授である。フロツクを着た品格のある男であつた。髪を普通の倍以上長くしてゐる。それが電燈の光で、黒く渦を捲いて見える。広田先生の坊主頭と較べると大分相違がある。原口さんは大分離れて席を取つた。彼方の角だから、遠く三四郎と真向になる。折襟に、幅の広い黒繻子を結んだ先がぱつと開いて胸一杯になつてゐる。与次郎が、仏蘭西の画工は、みんなあゝ云ふ襟飾を着けるものだと教へて呉れた。三四郎は肉汁を吸ひながら、丸で兵児帯の結目の様だと考へた。其うち談話が段々始まつた。与次郎は麦酒丈飲む。何時もの様に口を利かない。流石の男も今日は少々謹しんでゐると見える。三四郎が、小さな声で、
「些と、ダーター、フアブラを遣らないか」と云ふと、「今日は不可ない」と答へたが、すぐ横を向いて、隣りの男と話を始めた。あなたの、あの論文を拝見して、大いに利益を得ましたとか何とか礼を述べてゐる。所が其論文は、彼が自分の前で、盛んに罵倒したものだから、三四郎には頗る不思議の思ひがある。与次郎は又此方を向いた。
「其羽織は中々立派だ。能く似合ふ」と白い紋を殊更注意して眺めてゐる。其時向ふの端から、原口さんが、野々宮に話しかけた。元来が大きな声の人だから、遠くで応対するには都合が好い。今迄向ひ合せに言葉を換してゐた広田先生と庄司といふ教授は、二人の応答を途中で遮ぎる事を恐れて、談話をやめた。其他の人もみんな黙つた。会の中心点が始めて出来上つた。
「野々宮さん光線の圧力の試験はもう済みましたか」
「いや、まだ中々だ」
「随分手数が掛ゝるもんだね。我々の職業も根気仕事だが、君の方はもつと劇しい様だ」
「画はインスピレーシヨンで直ぐ描けるから可いが、物理の実験はさう旨くは不可ない」
「インスピレーシヨンには辟易する。此夏ある所を通つたら婆さんが二人で問答をしてゐた。聞いて見ると梅雨はもう明けたんだらうか、どうだらうかといふ研究なんだが、一人の婆さんが、昔は雷さへ鳴れば梅雨は明けるに極まつてゐたが、近頃ぢや左うは不可ないと不平してゐる。すると一人が何うして、/\[#「何うして、/\」はママ]雷位で明ける事ぢやありやしないと憤慨してゐた。――画も其通り、今の画はインスピレーシヨン位で描ける事ぢやありやしない。ねえ田村さん、小説だつて、左うだらう」
隣りに田村といふ小説家が坐つて居た。此男が自分のインスピレーシヨンは原稿の催促以外に何にもないと答へたので、大笑ひになつた。田村は、それから改たまつて、野々宮さんに、光線に圧力があるものか、あれば、どうして試験するかと聞き出した。野々宮さんの答は面白かつた。――
雲母か何かで、十六武蔵位の大きさの薄い円盤を作つて、水晶の糸で釣して、真空の中に置いて、此円盤の面へ弧光燈の光を直角にあてると、此円盤が光に圧されて動く。と云ふのである。
一座は耳を傾けて聞いてゐた。中にも三四郎は腹の中で、あの福神漬の缶のなかに、そんな装置がしてあるのだらうと、上京の際、望遠鏡で驚ろかされた昔を思ひ出した。
「君、水晶の糸があるのか」と小さな声で与次郎に聞いて見た。与次郎は頭を振つてゐる。
「野々宮さん、水晶の糸がありますか」
「えゝ、水晶の粉をね。酸水素吹管の焔で溶かして置いて、かたまつた所を両方の手で、左右へ引つ張ると細い糸が出来るのです」
三四郎は「左うですか」と云つたぎり、引つ込んだ。今度は野々宮さんの隣にゐる縞の羽織の批評家が口を出した。
「我々はさう云ふ方面へ掛けると、全然無学なんですが、そんな試験を遣つて見様と、始め何うして気が付いたものでせうな」
「始め気が付いたのは、何でも瑞典か何処かの学者ですが。あの彗星の尾が、太陽の方へ引き付けられべき筈であるのに、出るたびに何時でも反対の方角に靡くのは変だと考へ出したのです。それから、もしや光の圧力で吹き飛ばされるんぢやなからうかと思ひ付いたのです」
批評家は大分感心したらしい。
「思ひ付きも面白いが、第一大きくて可いですね」と云つた。
「大きい許ぢやない、罪がなくつて愉快だ」と広田先生が云つた。
「それで其思ひ付が外れたら猶罪がなくつて可い」と原口さんが笑つてゐる。
「否、どうも中つてゐるらしい。光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力の方は半径の三乗に比例するんだから、物が小さくなればなる程引力の方が負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片から出来てゐるとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされる訳だ」
野々宮は、つい真面目になつた。すると原口が例の調子で、
「罪がない代りに、大変計算が面倒になつて来た。矢っ張一利一害だ」と云つた。此一言で、人々は元の通り麦酒の気分に復した。広田先生が、斯んな事を云ふ。
「どうも物理学者は自然派ぢや駄目の様だね」
物理学者と自然派の二字は少なからず満場の興味を刺激した。
「それは何う云ふ意味ですか」と本人の野々宮さんが聞き出した。広田先生は説明しなければならなくなつた。
「だつて、光線の圧力を試験する為に、眼丈明けて、自然を観察してゐたつて、駄目だからさ。彗星でも出れば気が付く人もあるかも知れないが、それでなければ、自然の献立のうちに、光線の圧力といふ事実は印刷されてゐない様ぢやないか。だから人巧的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母だのと云ふ装置をして、其圧力が物理学者の眼に見えるやうに仕掛けるのだらう。だから自然派ぢやないよ」
「然し浪漫派でもないだらう」と原口さんが交ぜ返した。
「いや浪漫派だ」と広田先生が勿体らしく弁解した。「光線と、光線を受けるものとを、普通の自然界に於ては見出せない様な位地関係に置く所が全く浪漫派ぢやないか」
「然し、一旦さういふ位地関係に置いた以上は、光線固有の圧力を観察する丈だから、それからあとは自然派でせう」と野々宮さんが云つた。
「すると、物理学者は浪漫的自然派ですね。文学の方で云ふと、イブセンの様なものぢやないか」と筋向ふの博士が比較を持ち出した。
「左様、イブセンの劇は野々宮君と同じ位な装置があるが、其装置の下に働らく人物は、光線の様に自然の法則に従つてゐるか疑はしい」是は縞の羽織の批評家の言葉であつた。
「左うかも知れないが、斯う云ふ事は人間の研究上記憶して置くべき事だと思ふ。――即ち、ある状況の下に置かれた人間は、反対の方向に働らき得る能力と権利とを有してゐる。と云ふ事なんだが。――所が妙な習慣で、人間も光線も同じ様に器械的の法則に従つて活動すると思ふものだから、時々飛んだ間違が出来る。怒らせやうと思つて装置をすると、笑つたり。笑はせやうと目論んで掛ゝると、怒つたり。丸で反対だ。然しどつちにしても人間に違ない」と広田先生が又問題を大きくして仕舞つた。
「ぢや、ある状況の下に、ある人間が、どんな所作をしても自然だと云ふ事になりますね」と向の小説家が質問した。広田先生は、すぐ、
「えゝ、えゝ。どんな人間を、どう描いても世界に一人位はゐる様ぢやないですか」と答へた。「実際人間たる吾々は、人間らしからざる行為動作を、何うしたつて想像出来るものぢやない。たゞ下手に書くから人間と思はれないのぢやないですか」
小説家は夫で黙つた。今度は博士が又口を利いた。
「物理学者でも、ガリレオが寺院の釣り洋燈の一振動の時間が、振動の大小に拘はらず同じである事に気が付いたり、ニユートンが林檎が引力で落ちるのを発見したりするのは、始めから自然派ですね」
「さう云ふ自然派なら、文学の方でも結構でせう。原口さん、画の方でも自然派がありますか」と野々宮さんが聞いた。
「あるとも。恐るべきクールベエと云ふ奴がゐる。v
rit
vraie、何でも事実でなければ承知しない。然しさう猖獗を極めてゐるものぢやない。たゞ一派として存在を認められる丈さ。又左うでなくつちや困るからね。小説だつて同じ事だらう、ねえ君。矢っ張りモローや、シヤ
ンヌの様なのもゐる筈だらうぢやないか」「居る筈だ」と隣の小説家が答へた。
食後には卓上演説も何もなかつた。たゞ原口さんが、しきりに九段の上の銅像の悪口を云つてゐた。あんな銅像を無暗に立てられては、東京市民が迷惑する。それより、美くしい芸者の銅像でも拵らへる方が気が利いてゐるといふ説であつた。与次郎は三四郎に九段の銅像は原口さんと仲の悪い人が作つたんだと教へた。
会が済んで、外へ出ると好い月であつた。今夜の広田先生は庄司博士に善い印象を与へたらうかと与次郎が聞いた。三四郎は与へたらうと答へた。与次郎は共同水道栓の傍に立つて、此夏、夜散歩に来て、あまり暑いから、此所で水を浴びてゐたら、巡査に見付かつて、擂鉢山へ馳け上がつたと話した。二人は擂鉢山の上で月を見て帰つた。
帰り路に与次郎が三四郎に向つて、突然借金の言訳をし出した。月の冴えた比較的寒い晩である。三四郎は殆んど金の事などは考へてゐなかつた。言訳を聞くのでさへ本気ではない。どうせ返す事はあるまいと思つてゐる。与次郎も決して返すとは云はない。たゞ返せない事情を色々に話す。其話し方のほうが三四郎には余程面白い。――自分の知つてる去る男が、失恋の結果、世の中が厭になつて、とう/\自殺を仕様と決心したが、海もいや河もいや、噴火口は猶いや、首を縊るのは尤もいやと云ふ訳で、已を得ず短銃を買つて来た。買つて来て、まだ目的を遂行しないうちに、友達が金を借りに来た。金はないと断わつたが、是非どうかして呉れと訴へるので、仕方なしに、大事の短銃を借して遣つた。友達はそれを質に入れて一時を凌いだ。都合がついて、質を受出して返しに来た時は、肝心の短銃の主はもう死ぬ気がなくなつて居た。だから此男の命は金を借りに来られた為に助かつたと同じ事である。
「さう云ふ事もあるからなあ」と与次郎が云つた。三四郎には只可笑しい丈である。其外には何等の意味もない。高い月を仰いで大きな声を出して笑つた。金を返されないでも愉快である。与次郎は、
「笑つちや不可ん」と注意した。三四郎は猶可笑しくなつた。
「笑はないで、よく考へて見ろ。己が金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りる事が出来たんだらう」
三四郎は笑ふのを已めた。
「それで?」
「それ丈で沢山ぢやないか。――君、あの女を愛してゐるんだらう」
与次郎は善く知つてゐる。三四郎はふんと云つて、又高い月を見た。月の傍に白い雲が出た。
「君、あの女には、もう返したのか」
「いゝや」
「何時迄も借りて置いてやれ」
呑気な事を云ふ。三四郎は何とも答へなかつた。しかし何時迄も借りて置く気は無論無かつた。実は必要な弐拾円を下宿へ払つて、残りの拾円を其翌日すぐ里見の家へ届けやうと思つたが、今返しては却つて、好意に背いて、よくないと考へ直して、折角門内に這入られる機会を犠牲にして迄、引き返した。其時何かの拍子で、気が緩んで、其十円をくづして仕舞つた。実は今夜の会費も其内から出てゐる。自分の許ではない。与次郎のもその内から出てゐる。あとには、漸やく二三円残つてゐる。三四郎は夫で冬襯衣を買はうと思つた。
実は与次郎が到底返しさうもないから、三四郎は思ひ切つて、此間国元へ三十円の不足を請求した。充分な学資を月々貰つてゐながら、たゞ不足だからと云つて請求する訳には行かない。三四郎はあまり嘘を吐いた事のない男だから、請求の理由に至つて困却した。仕方がないからたゞ友達が金を失くして弱つてゐたから、つい気の毒になつて貸してやつた。其結果として、今度は此方が弱る様になつた。どうか送つて呉れと書いた。
直返事を出して呉れゝば、もう届く時分であるのにまだ来ない。今夜あたりは殊によると来てゐるかも知れぬ位に考へて、下宿へ帰つて見ると、果して、母の手蹟で書いた封筒がちやんと机の上に乗つてゐる。不思議な事に、何時も必ず書留で来るのが、今日は三銭切手一枚で済ましてある。開いて見ると、中は例になく短かい。母としては不親切な位、用事丈で申し納めて仕舞つた。依頼の金は野々宮さんの方へ送つたから、野々宮さんから受取れといふ差図に過ぎない。三四郎は床を取つて寐た。
翌日も其翌日も三四郎は野々宮さんの所へ行かなかつた。野々宮さんの方でも何とも云つて来なかつた。さうしてゐる内に一週間程経つた。仕舞に野々宮さんから、下宿の下女を使に手紙を寄こした。御母さんから頼まれものがあるから、一寸来て呉れろとある。三四郎は講義の隙を見て、又理科大学の穴倉へ降りて行つた。其所で立談の間に事を済ませやうと思つた所が、左う旨くは行かなかつた。此夏は野々宮さん丈で専領してゐた部屋に、髭の生えた人が二三人ゐる。制服を着た学生も二三人ゐる。それが、みんな熱心に、静粛に、頭の上の日の当る世界を余所にして、研究を遣つてゐる。其内で野々宮さんは尤も多忙に見えた。部屋の入口に顔を出した三四郎を、一寸見て、無言の儘近寄つて来た。
「国から、金が届いたから、取りに来て呉れ玉へ。今此所に持つてゐないから。それからまだ外に話す事もある」
三四郎ははあと答へた。今夜でも好いかと尋ねた。野々宮は少し考へてゐたが、仕舞に思ひ切つて、宜ろしいと云つた。三四郎は夫で穴倉を出た。出ながら、流石に理学者は根気の能いものだと感心した。此夏見た福神漬の缶と、望遠鏡が依然として故の通りの位地に備へ付けてあつた。
次の講義の時間に与次郎に逢つて是々だと話すと、与次郎は馬鹿だと云はない許に三四郎を眺めて、
「だから何時迄も借りて置いてやれと云つたのに。余計な事をして年寄には心配を掛ける。宗八さんには御談義をされる。是位愚な事はない」と丸で自分から事が起つたとは認めてゐない申分である。三四郎も此問題に関しては、もう与次郎の責任を忘れて仕舞つた。従つて与次郎の頭に掛つて来ない返事をした。
「何時迄も借りて置くのは、厭だから、家へさう云つて遣つたんだ」
「君は厭でも、向ふでは喜ぶよ」
「何故」
此何故が三四郎自身には幾分か虚偽の響らしく聞えた。然し相手には何等の影響も与へなかつたらしい。
「当り前ぢやないか。僕を人にしたつて、同じ事だ。僕に金が余つてゐるとするぜ。左うすれば、其金を君から返して貰ふよりも、君に貸して置く方が善い心持だ。人間はね、自分が困らない程度内で、成る可く人に親切がして見たいものだ」
三四郎は返事をしないで、講義を筆記し始めた。二三行書き出すと、与次郎が又、耳の傍へ口を持つて来た。
「おれだつて、金のある時は度々人に貸した事がある。然し誰も決して返したものがない。夫だからおれは此通り愉快だ」
三四郎は真逆、左うかとも云へなかつた。薄笑ひをした丈で、又洋筆を走らし始めた。与次郎も夫からは落付いて、時間の終る迄口を利かなかつた。
号鐘が鳴つて、二人肩を並べて教場を出るとき、与次郎が、突然聞いた。
「あの女は君に惚れてゐるのか」
二人の後から続々聴講生が出て来る。三四郎は已を得ず無言の儘階子段を降りて横手の玄関から、図書館傍の空地へ出て、始めて与次郎を顧みた。
「能く分らない」
与次郎は暫らく三四郎を見てゐた。
「左う云ふ事もある。然し能く分つたとして。君、あの女の夫になれるか」
三四郎は未だ曾て此問題を考へた事がなかつた。美禰子に愛せられるといふ事実其物が、彼女の夫たる唯一の資格の様な気がしてゐた。云はれて見ると、成程疑問である。三四郎は首を傾けた。
「野々宮さんならなれる」と与次郎が云つた。
「野々宮さんと、あの人とは何か今迄に関係があるのか」
三四郎の顔は彫り付けた様に真面目であつた。与次郎は一口、
「知らん」と云つた。三四郎は黙つてゐる。
「まあ野々宮さんの所へ行つて、御談義を聞いて来い」と云ひ棄てゝ、相手は池の方へ行き掛けた。三四郎は愚劣の看板の如く突立つた。与次郎は五六歩行つたが、又笑ひながら帰つて来た。
「君、いつそ、よし子さんを貰はないか」と云ひながら、三四郎を引つ張つて、池の方へ連れて行つた。歩きながら、あれなら好い、あれなら好いと、二度程繰り返した。其内又号鐘が鳴つた。
三四郎は其夕方野々宮さんの所へ出掛けたが、時間がまだ少し早過ぎるので、散歩かた/″\四丁目迄来て、襯衣を買ひに大きな唐物屋へ入つた。小僧が奥から色々持つて来たのを撫でゝ見たり、広げて見たりして、容易に買はない。訳もなく鷹揚に構へてゐると、偶然美禰子とよし子が連れ立つて香水を買ひに来た。あらと云つて挨拶をした後で、美禰子が、
「先達ては難有う」と礼を述べた。三四郎には此御礼の意味が明らかに解つた。美禰子から金を借りた翌日もう一遍訪問して余分をすぐに返すべき所を、一先見合せた代りに、二日ばかり待つて、三四郎は丁寧な礼状を美禰子に送つた。
手紙の文句は、書いた人の、書いた当時の気分を素直に表はしたものではあるが、無論書き過ぎてゐる。三四郎は出来る丈の言葉を層々と排列して感謝の意を熱烈に致した。普通のものから見れば殆んど借金の礼状とは思はれない位に、湯気の立つたものである。然し感謝以外には、何にも書いてない。夫だから、自然の勢、感謝が感謝以上になつたのでもある。三四郎は、此手紙を郵函に入れるとき、時を移さぬ美禰子の返事を予期してゐた。所が折角の封書はたゞ行つた儘である。夫から美禰子に逢ふ機会は今日迄なかつた。三四郎はこの微弱なる「此間は難有う」といふ反響に対して、確乎した返事をする勇気も出なかつた。大な襯衣を両手で眼の先へ広げて眺めながら、よし子が居るからあゝ冷淡なんだらうかと考へた。それから此襯衣も此女の金で買うんだなと考へた。小僧はどれになさいますと催促した。
二人の女は笑ひながら傍へ来て、一所に襯衣を見て呉れた。仕舞に、よし子が「是になさい」と云つた。三四郎はそれにした。今度は三四郎の方が香水の相談を受けた。一向分らない。ヘリオトロープと書いてある罎を持つて、好加減に、是はどうですと云ふと、美禰子が、「それに為ませう」とすぐ極めた。三四郎は気の毒な位であつた。
表へ出て分れやうとすると、女の方が互に御辞儀を始めた。よし子が「ぢや行つて来てよ」と云ふと、美禰子が「御早く……」と云つてゐる。聞いて見て、妹が兄の下宿へ行く所だといふ事が解つた。三四郎は又奇麗な女と二人連で追分の方へ歩くべき宵となつた。日はまだ全く落ちてゐない。
三四郎はよし子と一所に歩くよりは、よし子と一所に野々宮の下宿で落ち合はねばならぬ機会を聊か迷惑に感じた。いつその事今夜は家へ帰つて、又出直さうかと考へた。然し、与次郎の所謂御談義を聞くには、よし子が傍に居て呉れる方が便利かも知れない。まさか人の前で、母から、斯ういふ依頼があつたと、遠慮なしの注意を与へる訳はなからう。ことに依ると、たゞ金を受取る丈で済むかも解らない。――三四郎は腹の中で、一寸狡い決心をした。
「僕も野々宮さんの所へ行くところです」
「さう。御遊びに?」
「いえ、少し用があるんです。あなたは遊びですか」
「いゝえ、私も御用なの」
両方が同じ様な事を聞いて、同じ様な答を得た。しかも両方共迷惑を感じてゐる気色が更にない。三四郎は念の為め、邪魔ぢやないかと尋ねて見た。些とも邪魔にはならないさうである。女は言葉で邪魔を否定した許ではない。顔では寧ろ何故そんな事を質問するかと驚ろいてゐる。三四郎は店先の瓦斯の光で、女の黒い眼のなかに、其驚きを認めたと思つた。事実としては、たゞ大きく黒く見えた許である。
「
イオリンを買ひましたか」「何うして御存じ」
三四郎は返答に窮した。女は頓着なく、すぐ、斯う云つた。
「いくら兄さんに左う云つても、たゞ買つてやる、買つてやると云ふ許で、些とも買つて呉れなかつたんですの」
三四郎は腹の中で、野々宮よりも広田よりも、寧ろ与次郎を非難した。
二人は追分の通りを細い露路に折れた。折れると中に家が沢山ある。暗い路を戸毎の軒燈が照らしてゐる。其軒燈の一つの前に留つた。野々宮は此奥にゐる。
三四郎の下宿とは殆んど一丁程の距離である。野々宮が此所へ移つてから、三四郎は二三度訪問した事がある。野々宮の部屋は広い廊下を突き当つて、二段ばかり真直に上ると、左手に離れた二間である。南向に余所の広い庭を殆んど縁の下に控へて、昼も夜も至極静かである。此離座敷に立て籠つた野々宮さんを見た時、成程家を畳んで、下宿をするのも悪い思付ではなかつたと、始めて来た時から、感心した位、居心地の好い所である。其時野々宮さんは廊下へ下りて、下から自分の部屋の軒を見上げて、一寸見給へ藁葺だと云つた。成程珍らしく屋根に瓦を置いてなかつた。
今日は夜だから、屋根は無論見えないが、部屋の中には電燈が点いてゐる。三四郎は電燈を見るや否や藁葺を思ひ出した。さうして可笑しくなつた。
「妙な御客が落ち合つたな。入口で逢つたのか」と野々宮さんが妹に聞いてゐる。妹は然らざる旨を説明してゐる。序に三四郎の様な襯衣を買つたら好からうと助言してゐる。夫から、此間の
イオリンは和製で音が悪くつて不可ない、買ふのを是迄延期したのだから、もう少し良いのと買ひ易へて呉れと頼んでゐる。責めて美禰子さん位のなら我慢すると云つてゐる。其外似たり寄つたりの駄々をしきりに捏ねてゐる。野々宮さんは別段怖い顔もせず、と云つて、優しい言葉も掛けず、たゞ左うか/\と聞いてゐる。三四郎は此間何にも云はずにゐた。よし子は愚な事ばかり述べる。且つ少しも遠慮をしない。それが馬鹿とも思へなければ、我儘とも受取れない。兄との応対を傍にゐて聞いてゐると、広い日当の好い畠へ出た様な心持がする。三四郎は来るべき御談義の事を丸で忘れて仕舞つた。其時突然驚ろかされた。
「あゝ、私忘れてゐた。美禰子さんの御言伝があつてよ」
「左うか」
「嬉しいでせう。嬉しくなくつて?」
野々宮さんは痒い様な顔をした。さうして、三四郎の方を向いた。
「僕の妹は馬鹿ですね」と云つた。三四郎は仕方なしに、たゞ笑つてゐた。
「馬鹿ぢやないわ。ねえ、小川さん」
三四郎は又笑つてゐた。腹の中ではもう笑ふのが厭になつた。
「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行つて頂戴つて」
「里見さんと一所に行つたら宜からう」
「御用が有るんですつて」
「御前も行くのか」
「無論だわ」
野々宮さんは行くとも行かないとも答へなかつた。又三四郎の方を向いて、今夜妹を呼んだのは真面目な用のあるのだのに、あんな呑気ばかり云つてゐて困ると話した。聞いて見ると、学者丈あつて、存外淡泊である。よし子に縁談の口がある。国へさう云つてやつたら、両親も異存はないと返事をして来た。夫に就て本人の意見をよく確める必要が起つたのだと云ふ。三四郎はたゞ結構ですと答へて、成るべく早く自分の方を片付けて帰らうとした。そこで、
「母からあなたに御面倒を願つたさうで」と切り出した。野々宮さんは、
「何、大して面倒でもありませんがね」とすぐに机の抽出から、預かつたものを出して、三四郎に渡した。
「御母さんが心配して、長い手紙を書いて寄こしましたよ。三四郎は余義ない事情で月々の学資を友達に貸したと云ふが、いくら友達だつて、さう無暗に金を借りるものぢやあるまいし、よし借りたつて返す筈だらうつて。田舎のものは正直だから、さう思ふのも無理はない。それからね、三四郎が貸すにしても、あまり貸し方が大袈裟だ。親から月々学資を送つて貰ふ身分でゐながら、一度に弐拾円の三十円のと、人に用立てるなんて、如何にも無分別だとあるんですがね――何だか僕に責任が有る様に書いてあるから困る。……」
野々宮さんは三四郎を見て、にや/\笑つてゐる。三四郎は真面目に「御気の毒です」といつた許である。野々宮さんは、若いものを、極め付ける積で云つたんで無いと見えて、少し調子を変へた。
「なに、心配する事はありませんよ。何でもない事なんだから。たゞ御母さんは、田舎の相場で、金の価値を付けるから、三拾円が大変重くなるんだね。何でも参拾円あると、四人の家族が半年食つて行けると書いてあつたが、そんなものかな、君」と聞いた。よし子は大きな声を出して笑つた。三四郎にも馬鹿気てゐる所が頗る可笑しいんだが、母の言条が、全く事実を離れた作り話でないのだから、其所に気が付いた時には、成程軽卒な事をして悪かつたと少しく後悔した。
「さうすると、月に五円の割だから、一人前一円二十五銭に当る。それを三十日に割り付けると、四銭ばかりだが――いくら田舎でも少し安過る様だな」と野々宮さんが計算を立てた。
「何を食べたら、その位で生きてゐられるでせう」とよし子が真面目に聞き出した。三四郎も後悔する暇がなくなつて、自分の知つてゐる田舎生活の有様を色々話して聞かした。其中には宮籠といふ慣例もあつた。三四郎の家では、年に一度づゝ村全体へ十円寄附する事になつてゐる。其時には六十戸から一人づゝ出て、其六十人が、仕事を休んで、村の御宮へ寄つて、朝から晩迄、酒を飲みつゞけに飲んで、御馳走を食ひつゞけに食ふんだといふ。
「それで十円」とよし子が驚ろいてゐた。御談義は是で何所かへ行つたらしい。それから少し雑談をして一段落付いた時に、野々宮さんが改めて、斯う云つた。
「何しろ、御母さんの方ではね。僕が一応事情を調べて、不都合がないと認めたら、金を渡して呉れろ。さうして面倒でも其事情を知らせて貰ひたいといふんだが、金は事情も何にも聞かないうちに、もう渡して仕舞つたしと、――何うするかね。君慥か佐々木に貸したんですね」
三四郎は美禰子から洩れて、よし子に伝はつて、それが野々宮さんに知れてゐるんだと判じた。然し其金が巡り巡つて
イオリンに変形したものとは兄妹とも気が付かないから一種妙な感じがした。たゞ「左うです」と答へて置いた。「佐々木が馬券を買つて、自分の金を失くなしたんだつてね」
「えゝ」
よし子は又大きな声を出して笑つた。
「ぢや、好加減に御母さんの所へさう云つて上げやう。然し今度から、そんな金はもう貸さない事に為たら好いでせう」
三四郎は貸さない事にする旨を答へて、挨拶をして、立ち掛けると、よし子も、もう帰らうと云ひ出した。
「先刻の話をしなくつちや」と兄が注意した。
「能くつてよ」と妹が拒絶した。
「能くはないよ」
「能くつてよ。知らないわ」
兄は妹の顔を見て黙つてゐる。妹は、また斯う云つた。
「だつて仕方がないぢや、ありませんか。知りもしない人の所へ、行くか行かないかつて、聞いたつて。好でも嫌でもないんだから、何にも云ひ様はありやしないわ。だから知らないわ」
三四郎は知らないわの本意を漸く会得した。兄妹を其儘にして急いで表へ出た。
人の通らない軒燈ばかり明らかな露地を抜けて表へ出ると、風が吹く。北へ向き直ると、まともに顔へ当る。時を切つて、自分の下宿の方から吹いてくる。其時三四郎は考へた。此風のなかを、野々宮さんは、妹を送つて里見迄連れて行つて遣るだらう。
下宿の二階へ上つて、自分の室へ這入つて、坐つて見ると、矢っ張り風の音がする。三四郎は斯う云ふ風の音を聞く度に、運命といふ字を思ひ出す。ごうと鳴つて来る度に竦みたくなる。自分ながら決して強い男とは思つてゐない。考へると、上京以来自分の運命は大概与次郎の為めに製へられてゐる。しかも多少の程度に於て、和気靄然たる翻弄を受ける様に製らへられてゐる。与次郎は愛すべき悪戯ものである。向後も此愛すべき悪戯ものゝ為に、自分の運命を握られてゐさうに思ふ。風がしきりに吹く。慥かに与次郎以上の風である。
三四郎は母から来た三拾円を枕元へ置いて寐た。此三拾円も運命の翻弄が産んだものである。此三拾円が是から先どんな働らきをするか、丸で分らない。自分はこれを美禰子に返しに行く。美禰子がこれを受取るときに、又一煽り来るに極つてゐる。三四郎は成るべく大きく来れば好いと思つた。
三四郎はそれなり寐付いた。運命も与次郎も手を下し様のない位すこやかな眠に入つた。すると半鐘の音で眼が覚めた。何所かで人声がする。東京の火事は是で二返目である。三四郎は寐巻の上へ羽織を引掛けて、窓を明けた。風は大分落ちてゐる。向ふの二階屋が風の鳴るなかに、真黒に見える。家が黒い程、家の後の空は赤かつた。
三四郎は寒いのを我慢して、しばらく此赤いものを見詰てゐた。其時三四郎の頭には運命があり/\と赤く映つた。三四郎は又暖かい布団のなかに潜り込んだ。さうして、赤い運命のなかで狂ひ回る多くの人の身の上を忘れた。
夜が明ければ常の人である。制服を着けて、帳面を持つて、学校へ出た。たゞ三拾円を懐にする事だけは忘なかつた。生憎時間割の都合が悪い。三時迄ぎつしり詰つてゐる。三時過に行けば、よし子も学校から帰つて来てゐるだらう。ことに依れば里見恭助といふ兄も在宅かも知れない。人がゐては、金を返すのが、全く駄目の様な気がする。
又与次郎が話し掛けた。
「昨夜は御談義を聞いたか」
「なに御談義といふ程でもない」
「左うだらう、野々宮さんは、あれで理由の解つた人だからな」と云つて何所へ行つて仕舞つた。二時間後の講義のときに又出逢つた。
「広田先生の事は大丈夫旨く行きさうだ」と云ふ。どこ迄事が運んだかと聞いて見ると、
「いや心配しないでも好い。いづれ緩くり話す。先生が君がしばらく来ないと云つて、聞いてゐたぜ。時々行くが好い。先生は一人ものだからな。吾々が慰めて遣らんと、不可ん。今度何か買つて来い」と云ひつ放して、それなり消えて仕舞つた。すると、次の時間に又何処からか現れた。今度は何と思つたか、講義の最中に、突然、
「金受取たりや」と電報の様なものを白紙へ書いて出した。三四郎は返事を書かうと思つて、教師の方を見ると、教師がちやんと此方を見てゐる。白紙を丸めて足の下へ抛げた。講義が終るのを待つて、始めて返事をした。
「金は受取つた。此所にある」
「左うか夫は好かつた。返す積りか」
「無論返すさ」
「それが好からう。早く返すが好い」
「今日返さうと思ふ」
「うん午過遅くならゐるかもしれない」
「何所かへ行くのか」
「行くとも、毎日々々画に描かれに行く。もう余っ程出来たらう」
「原口さんの所か」
「うん」
三四郎は与次郎から原口さんの宿所を聞き取つた。
広田先生が病気だと云ふから、三四郎が見舞に来た。門を這入ると、玄関に靴が一足揃へてある。医者かも知れないと思つた。いつもの通り勝手口へ回ると誰もゐない。のそ/\上り込んで茶の間へ来ると、座敷で話し声がする。三四郎はしばらく佇んでゐた。手に可なり大きな風呂敷包を提げてゐる。中には樽柿が一杯入つてゐる。今度来る時は、何か買つてこいと、与次郎の注意があつたから、追分の通で買つて来た。すると座敷のうちで、突然どたり、ばたりと云ふ音がした。誰か組打を始めたらしい。三四郎は必定喧嘩と思ひ込んだ。風呂敷包を提げた儘、仕切りの唐紙を鋭どく一尺許明けて屹と覗き込んだ。広田先生が茶の袴を穿いた大きな男に組み敷かれてゐる。先生は俯伏の顔を際どく畳から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑ひながら、
「やあ、御出」と云つた。上の男は一寸振り返つた儘である。
「先生、失礼ですが、起きて御覧なさい」と云ふ。何でも先生の手を逆に取つて、肘の関節を表から、膝頭で圧さへてゐるらしい。先生は下から、到底起きられない旨を答へた。上の男は、それで、手を離して、膝を立てゝ、袴の襞を正しく、居住居を直した。見れば立派な男である。先生もすぐ起き直つた。
「成程」と云つてゐる。
「あの流で行くと、無理に逆らつたら、腕を折る恐れがあるから、危険です」
三四郎は此問答で、始めて、此両人の今何をしてゐたかを悟つた。
「御病気ださうですが、もう宜しいんですか」
「えゝ、もう宜しい」
三四郎は風呂敷包を解いて、中にあるものを、二人の間に広げた。
「柿を買つて来ました」
広田先生は書斎へ行つて、小刀を取つて来る。三四郎は台所から庖丁を持つて来た。三人で柿を食ひ出した。食ひながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話を始めた。生活難の事、紛擾の事、一つ所に長く留つてゐられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄の台を買つて、鼻緒は古いのを、着げ更へて、用ひられる丈用ひる位にしてゐる事、今度辞職した以上は、容易に口が見付かりさうもない事、已を得ず、それ迄妻を国元へ預けた事――中々尽きさうもない。
三四郎は柿の核を吐き出しながら、此男の顔を見てゐて、情なくなつた。今の自分と、此男と比較して見ると、丸で人種が違ふ様な気がする。此男の言葉のうちには、もう一遍学生生活がして見たい。学生生活程気楽なものはないと云ふ文句が何度も繰り返された。三四郎は此文句を聞くたびに、自分の寿命も僅か二三年の間なのか知らんと、盆槍考へ始めた。与次郎と蕎麦などを食ふ時の様に、気が冴えない。
広田先生は又立つて書斎に入つた。帰つた時は、手に一巻の書物を持つてゐた。表紙が赤黒くつて、切り口の埃で汚れたものである。
「是が此間話したハイドリオタフヒア。退屈なら見てゐ玉へ」
三四郎は礼を述べて書物を受け取つた。
「寂寞の罌粟花を散らすや頻なり。人の記念に対しては、永劫に価すると否とを問ふ事なし」といふ句が眼に付いた。先生は安心して柔術の学士と談話をつゞける。――中学教師抔の生活状態を聞いて見ると、みな気の毒なもの許の様だが、真に気の毒と思ふのは当人丈である。なぜといふと、現代人は事実を好むが、事実に伴ふ情操は切り棄てる習慣である。切り棄てなければならない程、世間が切迫してゐるのだから仕方がない。其証拠には新聞を見ると分る。新聞の社会記事は十の九迄悲劇である。けれども我々は此悲劇を悲劇として味はう余裕がない。たゞ事実の報道として読む丈である。自分の取る新聞抔は、死人十何人と題して、一日に変死した人間の年齢、戸籍、死因を六号活字で一行づゝに書く事がある。簡潔明瞭の極である。又泥棒早見と云ふ欄があつて、何所へどんな泥棒が入つたか、一目に分る様に泥棒がかたまつてゐる。是も至極便利である。すべてが、この調子と思はなくつちや不可ない。辞職もその通り。当人には悲劇に近い出来事かも知れないが、他人には夫程痛切な感じを与へないと覚悟しなければなるまい。其積りで運動したら好からう。
「だつて先生位余裕があるなら、少しは痛切に感じても善ささうなものだが」と柔術の男が真面目な顔をして云つた。此時は広田先生も三四郎も、さう云つた当人も一度に笑つた。此男が中々帰りさうもないので三四郎は、書物を借りて、勝手から表へ出た。
「朽ちざる墓に眠り、伝はる事に生き、知らるる名に残り、しからずは滄桑の変に任せて、後の世に存せんと思ふ事、昔より人の願なり、此願のかなへるとき、人は天国にあり。去れども真なる信仰の教法より視れば、此願も此満足も無きが如くに果敢なきものなり。生きるとは、再の我に帰るの意にして、再の我に帰るとは、願にもあらず、望にもあらず、気高き信者の見たる明白なる事実なれば、聖徒イノセントの墓地に横はるは猶埃及の砂中に埋まるが如し。常住の吾身を観じ悦べば、六尺の狭きもアドリエーナスの大廟と異なる所あらず。成るが儘に成るとのみ覚悟せよ」
是はハイドリオタフヒアの末節である。三四郎はぶら/\白山の方へ歩きながら、往来のなかで、此一節を読んだ。広田先生から聞く所によると、此著者は有名な名文家で、此一篇は名文家の書いたうちの名文であるさうだ。広田先生は其話をした時に、笑ひながら、尤も是は私の説ぢやないよと断わられた。成程三四郎にも何処が名文だか能く解らない。只句切りが悪くつて、字遣が異様で、言葉の運び方が重苦しくつて、丸で古い御寺を見る様な心持がした丈である。此一節丈読むにも道程にすると、三四町も掛つた。しかも判然とはしない。
贏ち得た所は物寂びてゐる。奈良の大仏の鐘を撞いて、其余波の響が、東京にゐる自分の耳に微かに届いたと同じ事である。三四郎は此一節の齎す意味よりも、其意味の上に這ひかゝる情緒の影を嬉しがつた。三四郎は切実に生死の問題を考へた事のない男である。考へるには、青春の血が、あまりに暖か過ぎる。眼の前には眉を焦す程な大きな火が燃えてゐる。其感じが、真の自分である。三四郎は是から曙町の原口の所へ行く。
小供の葬式が来た。羽織を着た男がたつた二人着いてゐる。小さい棺は真白な布で巻いてある。其傍に奇麗な風車を結ひ付けた。車がしきりに回る。車の羽瓣が五色に塗つてある。それが一色になつて回る。白い棺は奇麗な風車を断間なく揺かして、三四郎の横を通り越した。三四郎は美くしい葬だと思つた。
三四郎は他の文章と、他の葬式を余所から見た。もし誰か来て、序に美禰子を余所から見ろと注意したら、三四郎は驚ろいたに違ない。三四郎は美禰子を余所から見る事が出来ない様な眼になつてゐる。第一余所も余所でないもそんな区別は丸で意識してゐない。たゞ事実として、他の死に対しては、美しい穏やかな味があると共に、生きてゐる美禰子に対しては、美しい享楽の底に、一種の苦悶がある。三四郎は此苦悶を払はうとして、真直に進んで行く。進んで行けば苦悶が除れる様に思ふ。苦悶を除る為めに一歩傍へ退く事は夢にも案じ得ない。これを案じ得ない三四郎は、現に遠くから、寂滅の会を文字の上に眺めて、夭折の憐れを、三尺の外に感じたのである。しかも、悲しい筈の所を、快よく眺めて、美くしく感じたのである。
曙町へ曲ると大きな松がある。此松を目標に来いと教はつた。松の下へ来ると、家が違つてゐる。向ふを見ると又松がある。其先にも松がある。松が沢山ある。三四郎は好い所だと思つた。多くの松を通り越して左へ折れると、生垣に奇麗な門がある。果して原口といふ標札が出てゐた。其標札は木理の込んだ黒つぽい板に、緑の油で名前を派出に書いたものである。字だか模様だか分らない位凝つてゐる。門から玄関迄はからりとして何にもない。左右に芝が植ゑてある。
玄関には美禰子の下駄が揃へてあつた。鼻緒の二本が右左で色が違ふ。それで能く覚えてゐる。今仕事中だが、可ければ上れと云ふ小女の取次に尾いて、画室へ這入つた。広い部屋である。細長く南北に延びた床の上は、画家らしく、取り乱れてゐる。先づ一部分には絨氈が敷いてある。それが部屋の大きさに較べると、丸で釣り合が取れないから、敷物として敷いたといふよりは、色の好い、模様の雅な織物として放りだした様に見える。離れて向に置いた大きな虎の皮も其通り、坐る為の、設けの座とは受け取れない。絨氈とは不調和な位置に筋違に尾を長く曳いてゐる。砂を錬り固めた様な大きな甕がある。其中から矢が二本出てゐる。鼠色の羽根と羽根の間が金箔で強く光る。其傍に鎧もあつた。三四郎は卯の花縅しと云ふのだらうと思つた。向ふ側の隅にぱつと眼を射るものがある。紫の裾模様の小袖に金糸の刺繍が見える。袖から袖へ幔幕の綱を通して、虫干の時の様に釣るした。袖は丸くて短かい。是が元禄かと三四郎も気が付いた。其外には画が沢山ある。壁に掛けたの許でも大小合せると余程になる。額縁を附けない下画といふ様なものは、重ねて巻いた端が、巻き崩れて、小口をしだらなく露はした。
描かれつゝある人の肖像は、此彩色の眼を乱す間にある。描かれつゝある人は、突き当りの正面に団扇を翳して立つた。描く男は丸い脊をぐるりと返して、調色板を持つた儘、三四郎に向つた。口に太い烟管を啣へてゐる。
「遣つて来たね」と云つて烟管を口から取つて、小さい丸卓の上に置いた。燐寸と灰皿が載つてゐる。椅子もある。
「掛け給へ。――あれだ」と云つて、描き掛けた画布の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はたゞ、
「成程大きなものですな」と云つた。原口さんは、耳にも留めない風で、
「うん、中々」と独言の様に、髪の毛と、背景の境の所を塗り始めた。三四郎は此時漸く美禰子の方を見た。すると女の翳した団扇の陰で、白い歯がかすかに光つた。
それから二三分は全く静かになつた。部屋は煖炉で温めてある。今日は外面でも、さう寒くはない。風は死に尽した。枯れた樹が音なく冬の日に包まれて立つてゐる。三四郎は画室へ導かれた時、霞の中へ這入つた様な気がした。丸卓に肘を持たして、此静かさの夜に勝る境に、憚りなき精神を溺れしめた。此静かさのうちに、美禰子がゐる。美禰子の影が次第に出来上りつゝある。肥つた画工の画筆丈が動く。夫も眼に動く丈で、耳には静かである。肥つた画工も動く事がある。然し足音はしない。
静かなものに封じ込められた美禰子は全く動かない。団扇を翳して立つた姿その儘が既に画である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写してゐるのではない。不可思議に奥行のある画から、精出して、其奥行丈を落して、普通の画に美禰子を描き直してゐるのである。にも拘はらず第二の美禰子は、この静さのうちに、次第と第一に近づいて来る。三四郎には、此二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれてゐる様に思はれた。其時間が画家の意識にさへ上らない程音無しく経つに従つて、第二の美禰子が漸やく追ひ付いて来る。もう少しで双方がぴたりと出合つて一つに収まると云ふ所で、時の流れが急に向を換へて永久の中に注いで仕舞ふ。原口さんの画筆は夫より先には進めない。三四郎は其所迄跟いて行つて、気が付いて、不図美禰子を見た。美禰子は依然として動かずに居る。三四郎の頭は此静かな空気のうちで覚えず動いてゐた。酔つた心持である。すると突然原口さんが笑ひ出した。
「又苦しくなつた様ですね」
女は何にも云はずに、すぐ姿勢を崩して、傍に置いた安楽椅子へ落ちる様にとんと腰を卸した。其時白い歯が又光つた。さうして動く時の袖と共に三四郎を見た。其眼は流星の様に三四郎の眉間を通り越して行つた。
原口さんは丸卓の傍迄来て、三四郎に、
「何うです」と云ひながら、燐寸を擦つて、先刻の烟草に火を付けて、再び口に啣へた。大きな木の雁首を指で抑へて、二吹許り濃い烟を髭の中から出したが、やがて又丸い脊中を向けて画に近付いた。勝手な所を自由に塗つてゐる。
絵は無論仕上つてゐないものだらう。けれども何処も彼所も万遍なく絵の具が塗つてあるから、素人の三四郎が見ると、中々立派である。旨いか無味いか無論分らない。技巧の批評の出来ない三四郎には、たゞ技巧の齎らす感じ丈がある。それすら、経験がないから、頗る正鵠を失してゐるらしい。芸術の影響に全然無頓着な人間でないと自を証拠立てる丈でも三四郎は風流人である。
三四郎が見ると、此画は一体にぱつとしてゐる。何だか一面に粉が吹いて、光沢のない日光に当つた様に思はれる。影の所でも黒くはない。寧ろ薄い紫が射してゐる。三四郎は此画を見て、何となく軽快な感じがした。浮いた調子は猪牙船に乗つた心持がある。それでも何処か落ち付いてゐる。剣呑でない。苦つた所、渋つた所、毒々しい所は無論ない。三四郎は原口さんらしい画だと思つた。すると原口さんは無雑作に画筆を使ひながら、こんな事を云ふ。
「小川さん面白い話がある。僕の知つた男にね、細君が厭になつて離縁を請求したものがある。所が細君が承知をしないで、私は縁あつて、此家へ方付いたものですから、仮令あなたが御厭でも私は決して出て参りません」
原口さんは其所で一寸画を離れて、画筆の結果を眺めてゐたが、今度は、美禰子に向つて、
「里見さん。あなたが単衣を着て呉れないものだから、着物が描き悪くつて困る。丸で好加減にやるんだから、少し大胆過ぎますね」
「御気の毒さま」と美禰子が云つた。
原口さんは返事もせずに又画面へ近寄つた。「それでね、細君の御尻が離縁するには余り重くあつたものだから、友人が細君に向つて、斯う云つたんだとさ。出るのが厭なら、出ないでも好い。何時迄でも家にゐるが好い。其代り己の方が出るから。――里見さん一寸立つて見て下さい。団扇は何うでも好い。ただ立てば。さう。難有う。――細君が、私が家に居つても、貴方が出て御仕舞になれば、後が困るぢやありませんかと云ふと、何構はないさ、御前は勝手に入夫でもしたら宜からうと答へたんだつて」
「それから、何うなりました」と三四郎が聞いた。原口さんは、語るに足りないと思つたものか、まだ後をつけた。
「何うもならないのさ。だから結婚は考へ物だよ。離合聚散、共に自由にならない。広田先生を見給へ、野々宮さんを見給へ、里見恭助君を見給へ、序に僕を見給へ。みんな結婚をしてゐない。女が偉くなると、かう云ふ独身ものが沢山出来て来る。だから社会の原則は、独身ものが、出来得ない程度内に於て、女が偉くならなくつちや駄目だね」
「でも兄は近々結婚致しますよ」
「おや、左うですか。すると貴方は何うなります」
「存じません」
三四郎は美禰子を見た。美禰子も三四郎を見て笑つた。原口さん丈は画に向いてゐる。「存じません。存じません――ぢや」と画筆を動かした。
三四郎は此機会を利用して、丸卓の側を離れて、美禰子の傍へ近寄つた。美禰子は椅子の脊に、油気のない頭を、無雑作に持たせて、疲れた人の、身繕に心なき放擲の姿である。明らさまに襦袢の襟から咽喉頸が出てゐる。椅子には脱ぎ捨てた羽織を掛けた。廂髪の上に奇麗な裏が見える。
三四郎は懐に三拾円入れてゐる。此三拾円が二人の間にある、説明しにくいものを代表してゐる。――と三四郎は信じた。返さうと思つて、返さなかつたのも是が為である。思ひ切つて、今返さうとするのも是が為である。返すと用がなくなつて、遠ざかるか、用がなくなつても、一層近付いて来るか、――普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びてゐる。
「里見さん」と云つた。
「なに」と答へた。仰向いて下から三四郎を見た。顔を故の如くに落ち付けてゐる。眼丈は動いた。それも三四郎の真正面で穏やかに留つた。三四郎は女を多少疲れてゐると判じた。
「丁度序だから、此所で返しませう」と云ひながら、釦を一つ外して、内懐へ手を入れた。女は又、
「なに」と繰り返した。故の通り、刺激のない調子である。内懐へ手を入れながら、三四郎は何うしやうと考へた。やがて思ひ切つた。
「此間の金です」
「今下すつても仕方がないわ」
女は下から見上げた儘である。手も出さない。身体も動かさない。顔も元の所に落ち付けてゐる。男は女の返事さへ能くは解し兼ねた。其時、
「もう少しだから、何うです」と云ふ声が後で聞えた。見ると、原口さんが此方を向いて立つてゐる。画筆を指の股に挟んだまゝ、三角に刈り込んだ髯の先を引っ張つて笑つた。美禰子は両手を椅子の肘に掛けて、腰を卸したなり、頭と脊を真直に延ばした。三四郎は小さな声で、
「まだ余程掛りますか」と聞いた。
「もう一時間ばかり」と美禰子も小さな声で答へた。三四郎は又丸卓に帰つた。女はもう描かるべき姿勢を取つた。原口さんは又烟管を点けた。画筆は又動き出す。脊を向けながら、原口さんが斯う云つた。
「小川さん。里見さんの眼を見て御覧」
三四郎は云はれた通りにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を向いて硝子越に庭を眺めてゐる。
「不可ない。横を向いてしまつちや、不可ない。今描き出した許だのに」
「何故余計な事を仰しやる」と女は正面に帰つた。原口さんは弁解をする。
「冷かしたんぢやない。小川さんに話す事があつたんです」
「何を」
「是から話すから、まあ元の通りの姿勢に復して下さい。さう。もう少し肘を前へ出して。夫で小川さん、僕の描いた眼が、実物の表情通り出来てゐるかね」
「何うも能く分らんですが。一体斯うやつて、毎日毎日描いてゐるのに、描かれる人の眼の表情が何時も変らずにゐるものでせうか」
「それは変るだらう。本人が変るばかりぢやない、画工の方の気分も毎日変るんだから、本当を云ふと、肖像画が何枚でも出来上がらなくつちやならない訳だが、さうは行かない。又たつた一枚で可なり纏つたものが出来るから不思議だ。何故と云つて見給へ……」
原口さんは此間始終筆を使つてゐる。美禰子の方も見てゐる。三四郎は原口さんの諸機関が一度に働らくのを目撃して恐れ入つた。
「かう遣つて毎日描いてゐると、毎日の量が積り積つて、しばらくする内に、描いてゐる画に一定の気分が出来てくる。だから、たとひ外の気分で戸外から帰つて来ても、画室へ這入つて、画に向ひさへすれば、ぢきに一種一定の気分になれる。つまり画の中の気分が、此方へ乗り移るのだね。里見さんだつて同じ事だ。自然の儘に放つて置けば色々の刺激で色々の表情になるに極つてゐるんだが、それが実際画の上に大した影響を及ぼさないのは、あゝ云ふ姿勢や、斯う云ふ乱雑な鼓だとか、鎧だとか、虎の皮だとかいふ周囲のものが、自然に一種一定の表情を引き起す様になつて来て、其習慣が次第に他の表情を圧迫する程強くなるから、まあ大抵なら、此眼付を此儘で仕上げて行けば好いんだね。それに表情と云つたつて……」
原口さんは突然黙つた。何所か六※[#濁点付き小書き平仮名つ、549-4]かしい所へ来たと見える。二歩許立ち退いて、美禰子と画を頻に見較べてゐる。
「里見さん、何うかしましたか」と聞いた。
「いゝえ」
此答は美禰子の口から出たとは思へなかつた。美禰子はそれ程静かに姿勢を崩さずにゐる。
「それに表情と云つたつて」と原口さんが又始めた。「画工はね、心を描くんぢやない。心が外へ見世を出してゐる所を描くんだから、見世さへ手落なく観察すれば、身代は自から分るものと、まあ、さうして置くんだね。見世で窺へない身代は画工の担任区域以外と諦らめべきものだよ。だから我々は肉ばかり描いてゐる。どんな肉を描いたつて、霊が籠らなければ、死肉だから、画として通有しない丈だ。そこで此里見さんの眼もね。里見さんの心を写す積で描いてゐるんぢやない。たゞ眼として描いてゐる。此眼が気に入つたから描いてゐる。此眼の恰好だの、二重瞼の影だの、眸の深さだの、何でも僕に見える所丈を残りなく描いて行く。すると偶然の結果として、一種の表情が出て来る。もし出て来なければ、僕の色の出し具合が悪かつたか、恰好の取り方が間違がつてゐたか、何方かになる。現にあの色あの形そのものが一種の表情なんだから仕方がない」
原口さんは、此時又二歩ばかり後へ退つて、美禰子と画とを見較べた。
「何うも、今日は何うかしてゐるね。疲れたんでせう。疲れたら、もう廃しませう。――疲れましたか」
「いゝえ」
原口さんは又画へ近寄つた。
「それで、僕が何故里見さんの眼を択んだかと云ふとね。まあ話すから聞き給へ。西洋画の女の顔を見ると、誰の描いた美人でも、屹度大きな眼をしてゐる。可笑しい位大きな眼ばかりだ。所が日本では観音様を始めとして、お多福、能の面、もつとも著るしいのは浮世絵にあらはれた美人、悉く細い。みんな象に似てゐる。何故東西で美の標準がこれ程違ふかと思ふと、一寸不思議だらう。所が実は何でもない。西洋には眼の大きい奴ばかりゐるから、大きい眼のうちで、美的淘汰が行はれる。日本は鯨の系統ばかりだから――ピエルロチーといふ男は、日本人の眼は、あれで何うして開けるだらうなんて冷かしてゐる。――そら、さう云ふ国柄だから、どうしたつて材料の寡ない大きな眼に対する審美眼が発達しやうがない。そこで撰択の自由の利く細い眼のうちで、理想が出来て仕舞つたのが、歌麿になつたり、祐信になつたりして珍重がられてゐる。然しいくら日本的でも、西洋画には、あゝ細いのは盲目を描いた様で見共なくつて不可ない。と云つて、ラフアエルの聖母の様なのは、天でありやしないし、有つた所が日本人とは云はれないから、其所で里見さんを煩はす事になつたのさ。里見さんもう少時ですよ」
答はなかつた。美禰子は凝としてゐる。
三四郎は此画家の話を甚だ面白く感じた。とくに話丈聴きに来たのならば猶幾倍の興味を添へたらうにと思つた。三四郎の注意の焼点は、今、原口さんの話の上にもない、原口さんの画の上にもない。無論向に立つてゐる美禰子に集まつてゐる。三四郎は画家の話に耳を傾けながら、眼丈は遂に美禰子を離れなかつた。彼の眼に映じた女の姿勢は、自然の経過を、尤も美くしい刹那に、捕虜にして動けなくした様である。変らない所に、永い慰藉がある。然るに原口さんが突然首を捩つて、女に何うかしましたかと聞いた。其時三四郎は、少し恐ろしくなつた位である。移り易い美さを、移さずに据ゑて置く手段が、もう尽きたと画家から注意された様に聞えたからである。
成程さう思つて見ると、何うかしてゐるらしくもある。色光沢が好くない。眼尻に堪へ難い嬾さが見える。三四郎は此活人画から受ける安慰の念を失つた。同時にもしや自分が此変化の源因ではなからうかと考へ付いた。忽ち強烈な個性的の刺激が三四郎の心を襲つて来た。移り行く美を果敢なむと云ふ共通性の情緒は丸で影を潜めて仕舞つた。――自分はそれ程の影響を此女の上に有して居る。――三四郎は此自覚のもとに一切の己れを意識した。けれどもその影響が自分に取つて、利益か不利益かは未決の問題である。
其時原口さんが、とう/\筆を擱いて、
「もう廃さう。今日は何うしても駄目だ」と云ひ出した。美禰子は持つてゐた団扇を、立ちながら、床の上に落した。椅子に掛けた、羽織を取つて着ながら、此方へ寄つて来た。
「今日は疲れてゐますね」
「私?」と羽織の裄を揃へて、紐を結んだ。
「いや実は僕も疲れた。また明日元気の好い時に遣りませう。まあ御茶でも飲んで、緩なさい」
夕暮には、まだ間があつた。けれども美禰子は少し用があるから帰るといふ。三四郎も留められたが、わざと断わつて、美禰子と一所に表へ出た。日本の社会状態で、かう云ふ機会を、随意に造る事は、三四郎に取つて困難である。三四郎は成るべく此機会を長く引き延ばして利用しやうと試みた。それで、比較的人の通らない、閑静な曙町を、一廻り散歩しやうぢや無いかと女を誘つて見た。所が相手は案外にも応じなかつた。一直線に生垣の間を横切つて、大通りへ出た。三四郎は、並んで歩きながら、
「原口さんも左う云つてゐたが、本当に何うかしたんですか」と聞いた。
「私?」と美禰子が又云つた。原口さんに答へたと同じ事である。三四郎が美禰子を知つてから、美禰子はかつて、長い言葉を使つた事がない。大抵の応対は一句か二句で済ましてゐる。しかも甚だ単簡なものに過ぎない。それでゐて、三四郎の耳には、一種の深い響を与へる。殆んど他の人からは、聞き得る事の出来ない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がつた。
「私?」と云つた時、女は顔を半分程三四郎の方へ向けた。さうして二重瞼の切れ目から男を見た。其眼には暈が被つてゐる様に思はれた。何時になく感じが生温く来た。頬の色も少し蒼い。
「色が少し悪い様です」
「左うですか」
二人は五六歩無言であるいた。三四郎は何うともして、二人の間に掛かつた薄い幕の様なものを裂き破りたくなつた。然し何と云つたら破れるか、丸で分別が出なかつた。小説などにある甘い言葉は遣いたくない。趣味の上から云つても、社交上若い男女の習慣としても、遣い度ない。三四郎は事実上不可能の事を望んでゐる。望んでゐる許ではない、歩きながら工夫してゐる。
やがて、女の方から口を利き出した。
「今日何か原口さんに御用が御有りだつたの」
「いゝえ、用事は無かつたです」
「ぢや、たゞ遊びに入らしつたの」
「いゝえ、遊びに行つたんぢやありません」
「ぢや、何んで入らしつたの」
三四郎は此瞬間を捕へた。
「あなたに会ひに行つたんです」
三四郎は是で云へる丈の事を悉く云つた積りである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、例の如く男を酔はせる調子で、
「御金は、彼所ぢや頂けないのよ」と云つた。三四郎は落胆した。
二人は又無言で五六間来た。三四郎は突然口を開いた。
「本当は金を返しに行つたのぢやありません」
美禰子はしばらく返事をしなかつた。やがて、静かに云つた。
「御金は私も要りません。持つて入らつしやい」
三四郎は堪へられなくなつた。急に、
「たゞ、あなたに会ひたいから行つたのです」と云つて、横に女の顔を覗き込んだ。女は三四郎を見なかつた。其時三四郎の耳に、女の口を洩れた微かな溜息が聞えた。
「御金は……」
「金なんぞ……」
二人の会話は双方共意味を成さないで、途中で切れた。それなりで、又小半町程来た。今度は女から話し掛けた。
「原口さんの画を御覧になつて、どう御思ひなすつて」
答へ方が色々あるので、三四郎は返事をせずに少しの間歩いた。
「余り出来方が早いので御驚ろきなさりやしなくつて」
「えゝ」と云つたが、実は始めて気が付いた。考へると、原口が広田先生の所へ来て、美禰子の肖像を描く意志を洩らしてから、まだ一ヶ月位にしかならない。展覧会で直接に美禰子に依頼してゐたのは、夫より後の事である。三四郎は画の道に暗いから、あんな大きな額が、何の位な速度で仕上られるものか、殆んど想像の外にあつたが、美禰子から注意されて見ると、余り早く出来過ぎてゐる様に思はれる。
「何時から取掛つたんです」
「本当に取り掛つたのは、つい此間ですけれども、其前から少し宛描いて頂だいてゐたんです」
「其前つて、何時頃からですか」
「あの服装で分るでせう」
三四郎は突然として、始めて池の周囲で美禰子に逢つた暑い昔を思ひ出した。
「そら、あなた、椎の木の下に跼がんでゐらしつたぢやありませんか」
「あなたは団扇を翳して、高い所に立てゐた」
「あの画の通りでせう」
「えゝ。あの通りです」
二人は顔を見合はした。もう少しで白山の坂の上へ出る。
向から車が走けて来た。黒い帽子を被つて、金縁の眼鏡を掛けて、遠くから見ても色光沢の好い男が乗つてゐる。此車が三四郎の眼に這入つた時から、車の上の若い紳士は美禰子の方を見詰めてゐるらしく思はれた。二三間先へ来ると、車を急に留めた。前掛を器用に跳ね退けて、蹴込みから飛び下りた所を見ると、脊のすらりと高い細面の立派な人であつた。髭を奇麗に剃つてゐる。それでゐて、全く男らしい。
「今迄待つてゐたけれども、余り遅いから迎に来た」と美禰子の真前に立つた。見下して笑つてゐる。
「さう、難有う」と美禰子も笑つて、男の顔を見返したが、其眼をすぐ三四郎の方へ向けた。
「何誰」と男が聞いた。
「大学の小川さん」と美禰子が答へた。
男は軽く帽子を取つて、向から挨拶をした。
「早く行かう。兄さんも待つてゐる」
好い具合に三四郎は追分へ曲るべき横町の角に立つてゐた。金はとう/\返さずに分れた。
此頃与次郎が学校で文芸協会の切符を売つて回つてゐる。二三日掛かつて、知つたものへは略売り付けた様子である。与次郎はそれから知らないものを捕まへる事にした。大抵は廊下で捕まへる。すると中々放さない。どうか、斯うか買はせて仕舞ふ。時には談判中に号鐘が鳴つて取り逃す事もある。与次郎は之を時利あらずと号してゐる。時には相手が笑つてゐて、何時迄も要領を得ない事がある。与次郎は之を人利あらずと号してゐる。或時便所から出て来た教授を捕まへた。其教授は手帛で手を拭きながら、今一寸と云つた儘急いで図書館へ這入つて仕舞つた。夫ぎり決して出て来ない。与次郎は之を――何とも号しなかつた。後影を見送つて、あれは腸加答児に違ないと三四郎に教へて呉れた。
与次郎に切符の販売方を何枚托まれたのかと聞くと、何枚でも売れる丈托まれたのだと云ふ。余り売れ過ぎて演芸場に這入り切れない恐れはないかと聞くと、少しは有ると云ふ。それでは売つたあとで困るだらうと念を推すと、何大丈夫だ、中には義理で買ふものもあるし、事故で来ないものもあるし、それから腸加答児も少しは出来るだらうと云つて、澄ましてゐる。
与次郎が切符を売る所を見てゐると、引き易に金を渡すものからは無論即座に受け取るが、さうでない学生には只切符丈渡してゐる。気の小さい三四郎が見ると、心配になる位渡して歩く。あとから思ふ通り金が寄るかと聞いて見ると、無論寄らないといふ答だ。几帳面に僅か売るよりも、だらしなく沢山売る方が、大体の上に於て利益だから斯うすると云つてゐる。与次郎は之をタイムス社が日本で百科全書を売つた方法に比較してゐる。比較丈は立派に聞えたが、三四郎は何だか心元なく思つた。そこで一応与次郎に注意した時に、与次郎の返事は面白かつた。
「相手は東京帝国大学々生だよ」
「いくら学生だつて、君の様に金に掛けると呑気なのが多いだらう」
「なに善意に払はないのは、文芸協会の方でも八釜敷は云はない筈だ。何うせ幾何切符が売れたつて、とゞの詰りは協会の借金になる事は明らかだから」
三四郎は念の為、それは君の意見か、協会の意見かと糺して見た。与次郎は、無論僕の意見であつて、協会の意見であると都合のいゝ事を答へた。
与次郎の説を聞くと、今度の演芸会を見ないものは、丸で馬鹿の様な気がする。馬鹿の様な気がする迄与次郎は講釈をする。それが切符を売る為だか、実際演芸会を信仰してゐる為だか、或はたゞ自分の景気を付け、かねて相手の景気をつけ、次いでは演芸会の景気をつけて、世上一般の空気を出来る丈賑やかにする為だか、そこの所が一寸明晰に区別が立たないものだから、相手は馬鹿の様な気がするにも拘はらず、あまり与次郎の感化を蒙らない。
与次郎は第一に会員の練習に骨を折つてゐる話をする。話通りに聞いてゐると、会員の多数は、練習の結果として、当日前に役に立たなくなりさうだ。それから背景の話をする。其背景が大したもので、東京にゐる有為の青年画家を悉く引き上げて、悉く応分の技倆を振はした様な事になる。次に服装の話をする。其服装が頭から足の先迄古実づくめに出来上つてゐる。次に脚本の話をする。それが、みんな新作で、みんな面白い。其外幾何でもある。
与次郎は広田先生と原口さんに招待券を送つたと云つてゐる。野々宮兄妹と里見兄妹には上等の切符を買はせたと云つてゐる。万事が好都合だと云つてゐる。三四郎は与次郎の為に演芸会万歳を唱へた。
万歳を唱へた晩、与次郎が三四郎の下宿へ来た。昼間とは打つて変つてゐる。堅くなつて火鉢の傍へ坐つて寒い寒いと云ふ。其顔がたゞ寒いのでは無いらしい。始めは火鉢へ乗り掛ゝる様に手を翳してゐたが、やがて懐手になつた。三四郎は与次郎の顔を陽気にする為めに、机の上の洋燈を端から端へ移した。所が与次郎は顎をがつくり落して、大きな坊主頭丈を黒く灯に照らしてゐる。一向冴えない。何うかしたかと聞いた時に、首を挙げて洋燈を見た。
「此家ではまだ電気を引かないのか」と顔付には全く縁のない事を聞いた。
「まだ引かない。其内電気にする積ださうだ。洋燈は暗くて不可んね」と答へてゐると、急に、洋燈の事は忘れたと見えて、
「おい、小川、大変な事が出来て仕舞つた」と云ひ出した。
一応理由を聞いて見る。与次郎は懐から皺だらけの新聞を出した。二枚重なつてゐる。其一枚を剥がして、新らしく畳み直して、此所を読んで見ろと差し付けた。読む所を指の頭で抑へてゐる。三四郎は眼を洋燈の傍へ寄せた。見出に大学の純文科とある。
大学の外国文学科は従来西洋人の担当で、当事者は一切の授業を外国教師に依頼してゐたが、時勢の進歩と多数学生の希望に促がされて、今度愈本邦人の講義も必須課目として認めるに至つた。そこで此間中から適当の人物を人撰中であつたが、漸く某氏に決定して、近々発表になるさうだ。某氏は近き過去に於て、海外留学の命を受けた事のある秀才だから至極適任だらう。と云ふ内容である。
「広田先生ぢや無かつたんだな」と三四郎が与次郎を顧みた。与次郎は矢っ張り新聞の上を見てゐる。
「是は慥なのか」と三四郎が又聞いた。
「何うも」と首を曲げたが、「大抵大丈夫だらうと思つてゐたんだがな。遣り損なつた。尤も此男が大分運動をしてゐると云ふ話は聞いた事もあるが」と云ふ。
「然し是丈ぢや、まだ風説ぢやないか。愈発表になつて見なければ分らないのだから」
「いや、それ丈なら無論構はない。先生の関係した事ぢやないから、然し」と云つて、又残りの新聞を畳み直して、標題を指の頭で抑へて、三四郎の眼の下へ出した。
今度の新聞にも略同様の事が載つてゐる。そこ丈は別段に新らしい印象を起しやうもないが、其後へ来て、三四郎は驚ろかされた。広田先生が大変な不徳義漢の様に書いてある。十年間語学の教師をして、世間には杳として聞えない凡材の癖に、大学で本邦人の外国文学講師を入れると聞くや否や、急に狐鼠々々運動を始めて、自分の評判記を学生間に流布した。のみならず其門下生をして「偉大なる暗闇」などと云ふ論文を小雑誌に草せしめた。此論文は零余子なる慝名の下にあらはれたが、実は広田の家に出入する文科大学生小川三四郎なるものゝ筆である事迄分つてゐる。と、とう/\三四郎の名前が出て来た。
三四郎は妙な顔をして与次郎を見た。与次郎は前から三四郎の顔を見てゐる。二人共しばらく黙つてゐた。やがて、三四郎が、
「困るなあ」と云つた。少し与次郎を恨んでゐる。与次郎は、そこは余構つてゐない。
「君、これを何う思ふ」と云ふ。
「何う思ふとは」
「投書を其儘出したに違ない。決して社の方で調べたものぢやない。文芸時評の六号活字の投書に斯んなのが、いくらでも来る。六号活字は殆んど罪悪のかたまりだ。よくよく探つて見ると嘘が多い。目に見えた嘘を吐いてゐるのもある。何故そんな愚な事をやるかと云ふとね、君。みんな利害問題が動機になつてゐるらしい。それで僕が六号活字を受持つてゐる時には、性質の好くないのは、大抵屑籠へ放り込んだ。此記事も全くそれだね。反対運動の結果だ」
「何故、君の名が出ないで、僕の名が出たものだらうな」
与次郎は「左うさ」と云つてゐる。しばらくしてから、
「矢っ張り何だらう。君は本科生で僕は撰科生だからだらう」と説明した。けれども三四郎には、是が説明にも何にもならなかつた。三四郎は依然として迷惑である。
「全体僕が零余子なんて稀知な号を使はずに、堂々と佐々木与次郎と署名して置けば好かつた。実際あの論文は佐々木与次郎以外に書けるものは一人もないんだからなあ」
与次郎は真面目である。三四郎に「偉大なる暗闇」の著作権を奪はれて、却つて迷惑してゐるのかも知れない。三四郎は馬鹿々々しくなつた。
「君、先生に話したか」と聞いた。
「さあ、其所だ。偉大なる暗闇の作者なんか、君だつて、僕だつて、どつちだつて構はないが、事先生の人格に関係してくる以上は、話さずにはゐられない。あゝ云ふ先生だから、一向知りません、何か間違でせう、偉大なる暗闇といふ論文は雑誌に出ましたが、慝名です、先生の崇拝者が書いたものですから御安心なさい位に云つて置けば、さうかで直済んで仕舞ふ訳だが、此際左うは不可ん。どうしたつて僕が責任を明らかにしなくつちや。事が旨く行つて、知らん顔をしてゐるのは、心持が好いが、遣り損なつて黙つてゐるのは不愉快で堪らない。第一自分が事を起して置いて、あゝ云ふ善良な人を迷惑な状態に陥らして、それで平気に見物がして居られるものぢやない。正邪曲直なんて六※[#濁点付き小書き平仮名つ、564-12]かしい問題は別として、たゞ気の毒で、痛はしくつて不可ない」
三四郎は始めて与次郎を感心な男だと思つた。
「先生は新聞を読んだんだらうか」
「家へ来る新聞にやない。だから僕も知らなかつた。然し先生は学校へ行つて色々な新聞を見るからね。よし先生が見なくつても誰か話すだらう」
「すると、もう知つてるな」
「無論知つてるだらう」
「君には何とも云はないか」
「云はない。尤も碌に話をする暇もないんだから、云はない筈だが。此間から演芸会の事で始終奔走してゐるものだから――あゝ演芸会も、もう厭になつた。已めて仕舞はうかしらん。御白粉を着けて、芝居なんかやつたつて、何が面白いものか」
「先生に話したら、君、叱られるだらう」
「叱られるだらう。叱られるのは仕方がないが、如何にも気の毒でね。余計な事をして迷惑を掛けてるんだから。――先生は道楽のない人でね。酒は飲まず、烟草は」と云ひかけたが途中で已めて仕舞つた。先生の哲学を鼻から烟にして吹き出す量は月に積ると、莫大なものである。
「烟草丈は可なり呑むが、其外に何にも無いぜ。釣をするぢやなし、碁を打つぢやなし、家庭の楽があるぢやなし。あれが一番不可ない。小供でもあると可いんだけれども。実に枯淡だからなあ」
与次郎は夫で腕組をした。
「たまに、慰め様と思つて、少し奔走すると、斯んな事になるし。君も先生の所へ行つて遣れ」
「行つて遣る所ぢやない。僕にも多少責任があるから、謝罪つて来る」
「君は謝罪る必要はない」
「ぢや弁解して来る」
与次郎は夫で帰つた。三四郎は床に這入つてから度々寐返りを打つた。国にゐる方が寐易い心持がする。偽りの記事――広田先生――美禰子――美禰子を迎に来て連れて行つた立派な男――色々の刺激がある。
夜中からぐつすり寐た。何時もの様に起きるのが、ひどく辛かつた。顔を洗ふ所で、同じ文科の学生に逢つた。顔丈は互に見知り合ひである。失敬と云ふ挨拶のうちに、此男は例の記事を読んで居るらしく推した。然し先方では無論話頭を避けた。三四郎も弁解を試みなかつた。
暖かい汁の香を嗅いでゐる時に、又故里の母からの書信に接した。又例の如く長かりさうだ。洋服を着換へるのが面倒だから、着たまゝの上へ袴を穿いて、懐へ手紙を入れて、出る。戸外は薄い霜で光つた。
通りへ出ると、殆んど学生許歩いてゐる。それが、みな同じ方向へ行く。悉く急いで行く。寒い往来は若い男の活気で一杯になる。其中に霜降の外套を着た広田先生の長い影が見えた。此青年の隊伍に紛れ込んだ先生は、歩調に於て既に時代錯誤である。左右前後に比較すると頗る緩漫に見える。先生の影は校門のうちに隠れた。門内に大きな松がある。巨人の傘の様に枝を拡げて玄関を塞いでゐる。三四郎の足が門前迄来た時は、先生の影が、既に消えて、正面に見えるものは、松と、松の上にある時計台許であつた。此時計台の時計は常に狂つてゐる。もしくは留つてゐる。
門内を一寸覗き込んだ三四郎は、口の内で、「ハイドリオタフヒア」と云ふ字を二度繰り返した。此字は三四郎の覚えた外国語のうちで、尤も長い、又尤も六※[#濁点付き小書き平仮名つ、567-9]かしい言葉の一つであつた。意味はまだ分らない。広田先生に聞いて見る積でゐる。かつて与次郎に尋ねたら、恐らくダーターフアブラの類だらうと云つてゐた。けれども三四郎から見ると、二つの間には大変な違がある。ダーターフアブラは躍るべき性質のものと思へる。ハイドリオタフヒアは覚えるのにさへ暇が入る。二返繰り返すと歩調が自から緩慢になる。広田先生の使ふために古人が作つて置いた様な音がする。
学校へ行つたら、「偉大なる暗闇」の作者として、衆人の注意を一身に集めてゐる気色がした。戸外へ出様としたが、戸外は存外寒いから廊下にゐた。さうして講義の間に懐から母の手紙を出して読んだ。
此冬休みには帰つて来いと、丸で熊本にゐた当時と同様な命令がある。実は熊本にゐた時分にこんな事があつた。学校が休みになるか、ならないのに、帰れと云ふ電報が掛かつた。母の病気に違ないと思ひ込んで、驚ろいて飛んで帰ると、母の方では此方に変がなくつて、まあ結構だつたと云はぬ許に喜こんでゐる。訳を聞くと、何時迄待つてゐても帰らないから、御稲荷様へ伺を立てたら、こりや、もう熊本を立つてゐるといふ御託宣であつたので、途中で何うかしはせぬだらうかと非常に心配してゐたのだと云ふ。三四郎は其当時を思ひ出して、今度も亦伺ひを立てられる事かと思つた。然し手紙には御稲荷様の事は書いてない。たゞ三輪田の御光さんも待つてゐると割註見た様なものが付いてゐる。御光さんは豊津の女学校をやめて、家へ帰つたさうだ。又御光さんに縫つて貰つた綿入が小包で来るさうだ。大工の角三が山で賭博を打つて九十八円取られたさうだ。――其顛末が委しく書いてある。面倒だから好い加減に読んだ。何でも山を買ひたいといふ男が三人連で入り込んで来たのを、角三が案内をして、山を廻つてあるいてる間に取られて仕舞つたのださうだ。角三はうちへ帰つて、女房に何時の間に取られたか分らないと弁解した。すると、女房がそれぢや御前さん眠り薬でも嗅がされたんだらうと云つたら、角三が、うん左う云へば何だか嗅いだ様だと答へたさうだ。けれども村のものはみんな賭博をして巻き上げられたと評判してゐる。田舎でも斯うだから、東京にゐる御前なぞは、本当によく気を付けなくては不可ないと云ふ訓戒が付いてゐる。
長い手紙を巻き収めてゐると、与次郎が傍へ来て、「やあ女の手紙だな」と云つた。昨夕よりは冗談をいふ丈元気が可い。三四郎は、
「なに母からだ」と、少し詰らなささうに答へて、封筒ごと懐へ入れた。
「里見の御嬢さんからぢやないのか」
「いゝや」
「君、里見の御嬢さんの事を聞いたか」
「何を」と問ひ返してゐる所へ、一人の学生が、与次郎に、演芸会の切符を欲しいといふ人が階下に待つてゐると教へに来てくれた。与次郎はすぐ降りて行つた。
与次郎は夫なり消えてなくなつた。いくら捕まへやうと思つても出て来ない。三四郎は已を得ず精出して講義を筆記してゐた。講義が済んでから、昨夕の約束通り広田先生の家へ寄る。相変らず静かである。先生は茶の間に長くなつて寐てゐた。婆さんに、どうか為すつたのかと聞くと、左うぢや無いのでせう、昨夕余り遅くなつたので、眠いと云つて、先刻御帰りになると、すぐ横に御成りなすつたのだと云ふ。長い身躯の上に小夜着が掛けてある。三四郎は小さな声で、又婆さんに、どうして、さう遅くなつたのかと聞いた。なに何時でも遅いのだが、昨夕のは勉強ぢやなくつて、佐々木さんと久しく御話をして御出だつたのだといふ答である。勉強が佐々木に代つたから、昼寐をする説明にはならないが、与次郎が、昨夕先生に例の話をした事丈は是で明瞭になつた。序でに与次郎が、どう叱られたか聞いて置きたいのだが、それは婆さんが知らう筈がないし、肝心の与次郎は学校で取り逃して仕舞つたから仕方がない。今日の元気の好い所を見ると、大した事件には成らずに済んだのだらう。尤も与次郎の心理現象は到底三四郎には解らないのだから、実際どんな事があつたか想像は出来ない。
三四郎は長火鉢の前へ坐つた。鉄瓶がちん/\鳴つてゐる。婆さんは遠慮をして下女部屋へ引き取つた。三四郎は胡坐をかいて、鉄瓶に手を翳して、先生の起きるのを待つてゐる。先生は熟睡してゐる。三四郎は静かで好い心持になつた。爪で鉄瓶を敲いて見た。熱い湯を茶碗に注いでふう/\吹いて飲んだ。先生は向をむいて寐てゐる。二三日前に頭を刈つたと見えて、髪が甚だ短い。髭の端が濃く出てゐる。鼻も向ふを向ひてゐる。鼻の穴がすうすう云ふ。安眠だ。
三四郎は返さうと思つて、持つて来たハイドリオタフヒアを出して読み始めた。ぽつぽつ拾ひ読をする。中々解らない。墓の中に花を投げる事が書いてある。羅馬人は薔薇を affect すると書いてある。何の意味だか能く知らないが、大方好むとでも訳するんだらうと思つた。希臘人は Amaranth を用ひると書いてある。是も明瞭でない。然し花の名には違ない。夫から少し先へ行くと、丸で解らなくなつた。頁から眼を離して先生を見た。まだ寐てゐる。何で斯んな六づかしい書物を自分に借したものだらうと思つた。それから、此六※[#濁点付き小書き平仮名つ、571-6]かしい書物が、何故解らないながらも、自分の興味を惹くのだらうと思つた。最後に広田先生は必竟ハイドリオタフヒアだと思つた。
さうすると、広田先生がむくりと起きた。首丈持上げて、三四郎を見た。
「何時来たの」と聞いた。三四郎はもつと寐て御出なさいと勧めた。実際退屈ではなかつたのである。先生は、
「いや起る」と云つて起きた。それから例の如く哲学の烟を吹き始めた。烟が沈黙の間に、棒になつて出る。
「難有う。書物を返します」
「あゝ。――読んだの」
「読んだけれどもよく解らんです。第一標題が解らんです」
「ハイドリオタフヒア」
「何の事ですか」
「何の事か僕にも分らない。兎に角希臘語らしいね」
三四郎はあとを尋ねる勇気が抜けて仕舞つた。先生は欠を一つした。
「あゝ眠かつた。好い心持に寐た。面白い夢を見てね」
先生は女の夢だと云つてゐる。それを話すのかと思つたら、湯に行かないかと云ひ出した。二人は手拭を提げて出掛けた。
湯から上つて、二人が、板の間に据ゑてある器械の上に乗つて、身長を測つて見た。広田先生は五尺六寸ある。三四郎は四寸五分しかない。
「まだ延びるかも知れない」と広田先生が三四郎に云つた。
「もう駄目です。三年来この通です」と三四郎が答へた。
「左うかな」と先生が云つた。自分を余っ程小供の様に考へてゐるのだと三四郎は思つた。家へ帰つた時、先生が、用が無ければ話して行つても構はないと、書斎の戸を開けて、自分が先へ這入つた。三四郎は兎に角、例の用事を片付ける義務があるから、続いて這入つた。
「佐々木は、まだ帰らない様ですな」
「今日は遅くなるとか云つて断わつてゐた。此間から演芸会の事で大分奔走してゐる様だが、世話好きなんだか、馳け回る事が好きなんだか、一向要領を得ない男だ」
「親切なんですよ」
「目的丈は親切な所も少しあるんだが、何しろ、頭の出来が甚だ不親切だものだから、碌な事は仕出かさない。一寸見ると、要領を得てゐる。寧ろ得過ぎてゐる。けれども終局へ行くと、何の為に要領を得て来たのだか、丸で滅茶苦茶になつて仕舞ふ。いくら云つても直さないから放て置く。あれは悪戯をしに世の中へ生れて来た男だね」
三四郎は何とか弁護の道がありさうなものだと思つたが、現に結果の悪い実例があるんだから、仕様がない。話を転じた。
「あの新聞の記事を御覧でしたか」
「えゝ、見た」
「新聞に出る迄は些とも御存じなかつたのですか」
「いゝえ」
「御驚ろきなすつたでせう」
「驚ろくつて――夫は全く驚ろかない事もない。けれども世の中の事はみんな、彼んなものだと思つてるから、若い人程正直に驚ろきはしない」
「御迷惑でせう」
「迷惑でない事もない。けれども僕位世の中に住み古るした年配の人間なら、あの記事を見て、すぐ事実だと思ひ込む人許もないから、矢っ張若い人程正直に迷惑とは感じない。与次郎は社員に知つたものがあるから、其男に頼んで真相を書いて貰ふの、あの投書の出所を探して制裁を加へるの、自分の雑誌で充分反駁を致しますのと、善後策の了見で下らない事を色々云ふが、そんな手数をするならば、始めから余計な事を起さない方が、いくら好いか分りやしない」
「全く先生の為を思つたからです。悪気ぢやないです」
「悪気で遣られて堪るものか。第一僕の為めに運動をするものがさ、僕の意向も聞かないで、勝手な方法を講じたり、勝手な方針を立てた日には、最初から僕の存在を愚弄してゐると同じ事ぢやないか。存在を無視されてゐる方が、どの位体面を保つに都合が好いか知れやしない」
三四郎は仕方なしに黙つてゐた。
「さうして、偉大なる暗闇なんて愚にも付かないものを書いて。――新聞には君が書いたとしてあるが、実際は佐々木が書いたんだつてね」
「左うです」
「昨夜佐々木が自白した。君こそ迷惑だらう。あんな馬鹿な文章は佐々木より外に書くものはありやしない。僕も読んで見た。実質もなければ、品位もない、丸で救世軍の太鼓の様なものだ。読者の悪感情を引き起す為めに、書いてるとしか思はれやしない。徹頭徹尾故意だけで成り立つてゐる。常識のあるものが見れば、何うしても為にする所があつて起稿したものだと判定がつく。あれぢや僕が門下生に書ゝしたと云はれる筈だ。あれを読んだ時には、成程新聞の記事は尤もだと思つた」
広田先生は夫で話を切つた。鼻から例によつて烟を吐く。与次郎は此烟の出方で、先生の気分を窺ふ事が出来ると云つてゐる。濃く真直に迸しる時は、哲学の絶高頂に達した際で、緩く崩れる時は、心気平穏、ことによると冷かされる恐れがある。烟が、鼻の下に
徊して、髭に未練がある様に見える時は、冥想に入る。もしくは詩的感興がある。尤も恐るべきは孔の先の渦である。渦が出ると、大変に叱られる。与次郎の云ふ事だから、三四郎は無論当にはしない。然し此際だから気を付けて烟りの形状を眺めてゐた。すると与次郎の云つた様な判然たる烟は些とも出て、来ない。其代り出るものは、大抵な資格をみんな具へてゐる。三四郎が何時迄立つても、恐れ入つた様に控えてゐるので、先生は又話し始めた。
「済んだ事は、もう已めやう。佐々木も昨夜悉く詫まつて仕舞つたから、今日あたりは又晴々して例の如く飛んで歩いてるだらう。いくら蔭で不心得を責めたつて、当人が平気で切符なんぞ売つて歩いて居ては仕方がない。夫よりもつと面白い話を仕様」
「えゝ」
「僕がさつき昼寐をしてゐる時、面白い夢を見た。それはね、僕が生涯にたつた一遍逢つた女に、突然夢の中で再会したと云ふ小説染みた御話だが、其方が、新聞の記事より、聞いてゐても愉快だよ」
「えゝ。何んな女ですか」
「十二三の奇麗な女だ。顔に黒子がある」
三四郎は十二三と聞いて少し失望した。
「何時頃御逢ひになつたのですか」
「廿年許前」
三四郎は又驚ろいた。
「善く其女と云ふ事が分りましたね」
「夢だよ。夢だから分るさ。さうして夢だから不思議で好い。僕が何でも大きな森の中を歩いて居る。あの色の褪めた夏の洋服を着てね、あの古い帽子を被つて。――さう其時は何でも、六づかしい事を考へてゐた。凡て宇宙の法則は変らないが、法則に支配される凡て宇宙のものは必ず変る。すると其法則は、物の外に存在してゐなくてはならない。――覚めて見ると詰らないが、夢の中だから真面目にそんな事を考へて森の下を通つて行くと、突然其女に逢つた。行き逢つたのではない。向は凝と立つてゐた。見ると、昔の通りの顔をしてゐる。昔の通りの服装をしてゐる。髪も昔しの髪である。黒子も無論あつた。つまり二十年前見た時と少しも変らない十二三の女である。僕が其女に、あなたは少しも変らないといふと、其女は僕に大変年を御取りなすつたと云ふ。次に僕が、あなたは何うして、さう変らずに居るのかと聞くと、此顔の年、此服装の月、此髪の日が一番好きだから、かうして居ると云ふ。それは何時の事かと聞くと、二十年前、あなたに御目にかゝつた時だといふ。それなら僕は何故斯う年を取つたんだらうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、其時よりも、もつと美くしい方へ方へと御移りなさりたがるからだと教へて呉れた。其時僕が女に、あなたは画だと云ふと、女が僕に、あなたは詩だと云つた」
「それから何うしました」と三四郎が聞いた。
「それから君が来たのさ」と云ふ。
「二十年前に逢つたと云ふのは夢ぢやない、本当の事実なんですか」
「本当の事実なんだから面白い」
「何所で御逢ひになつたんですか」
先生の鼻は又烟を吹き出した。其烟を眺めて、当分黙つてゐる。やがて斯う云つた。
「憲法発布は明治二十三年だつたね。其時森文部大臣が殺された。君は覚えてゐまい。幾年かな君は。さう、それぢや、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であつた。大臣の葬式に参列するのだと云つて、大勢鉄砲を担いで出た。墓地へ行くのだと思つたら、さうではない。体操の教師が竹橋内へ引張つて行つて、路傍へ整列さした。我々は其所へ立つたなり、大臣の柩を送る事になつた。名は送るのだけれども、実は見物したのも同然だつた。其日は寒い日でね、今でも覚えてゐる。動かずに立つてゐると、靴の下で足が痛む。隣の男が僕の鼻を見ては赤い赤いと云つた。やがて行列が来た。何でも長いものだつた。寒い眼の前を静かな馬車や俥が何台となく通る。其中に今話した小さな娘がゐた。今、其時の模様を思ひ出さうとしても、ぼうとして迚も明瞭に浮んで来ない。たゞこの女丈は覚えてゐる。夫も年を経つに従つて段々薄らいで来た。今では思ひ出す事も滅多にない。今日夢に見る前迄は、丸で忘れてゐた。けれども其当時は頭の中へ焼き付けられた様に、熱い印象を持つてゐた。――妙なものだ」
「それから其女には丸で逢はないんですか」
「丸で逢はない」
「ぢや、何処の誰だか全く分らないんですか」
「無論分らない」
「尋ねて見なかつたですか」
「いゝや」
「先生は夫で……」と云つたが急に痞へた。
「夫で?」
「夫で結婚をなさらないんですか」
先生は笑ひ出した。
「それ程浪漫的な人間ぢやない。僕は君よりも遥かに散文的に出来てゐる」
「然し、もし其女が来たら御貰ひになつたでせう」
「さうさね」と一度考へた上で、「貰つたらうね」と云つた。三四郎は気の毒な様な顔をしてゐる。すると先生が又話し出した。
「その為に独身を余儀なくされたといふと、僕が其女の為に不具にされたと同じ事になる。けれども人間には生れ付いて、結婚の出来ない不具もあるし。其外色々結婚のしにくい事情を持つてゐるものがある」
「そんなに結婚を妨げる事情が世の中に沢山あるでせうか」
先生は烟の間から、凝と三四郎を見てゐた。
「ハムレツトは結婚したく無かつたんだらう。ハムレツトは一人しか居ないかも知れないが、あれに似た人は沢山ゐる」
「例へばどんな人です」
「例へば」と云つて、先生は黙つた。烟がしきりに出る。「例へば、こゝに一人の男がゐる。父は早く死んで、母一人を頼に育つたとする。其母が又病気に罹つて、愈息を引き取るといふ、間際に、自分が死んだら誰某の世話になれといふ。子供が会つた事もない、知りもしない人を指名する。理由を聞くと、母が何とも答へない。強ひて聞くと、実は誰某が御前の本当の御父だと微かな声で云つた。――まあ話だが、さういふ母を持つた子がゐるとする。すると、其子が結婚に信仰を置かなくなるのは無論だらう」
「そんな人は滅多にないでせう」
「滅多には無いだらうが、居る事はゐる」
「然し先生のは、そんなのぢや無いでせう」
先生はハヽヽヽと笑つた。
「君は慥か御母さんが居たね」
「えゝ」
「御父さんは」
「死にました」
「僕の母は憲法発布の翌年に死んだ」
演芸会は比較的寒い時に開かれた。歳は漸く押し詰つて来る。人は二十日足らずの眼の先に春を控えた。市に生きるものは、忙しからんとしてゐる。越年の計は貧者の頭に落ちた。演芸会は此間に在つて、凡ての長閑なるものと、余裕あるものと、春と暮の差別を知らぬものとを迎へた。
それが、幾何でもゐる。大抵は若い男女である。一日目に与次郎が、三四郎に向つて大成功と叫んだ。三四郎は二日目の切符を持つてゐた。与次郎が広田先生を誘つて行けと云ふ。切符が違ふだらうと聞けば、無論違ふと云ふ。然し一人で放つて置くと、決して行く気遣がないから、君が寄つて引張出すのだと理由を説明して聞かせた。三四郎は承知した。
夕刻に行つて見ると、先生は明るい洋燈の下に大きな本を拡げてゐた。
「御出になりませんか」と聞くと、先生は少し笑ながら、無言の儘、首を横に振つた。小供の様な所作をする。然し三四郎には、それが学者らしく思はれた。口を利かない所が床しく思はれたのだらう。三四郎は中腰になつて、ぼんやりしてゐた。先生は断わつたのが気の毒になつた。
「君行くなら、一所に出様。僕も散歩ながら、其所迄行くから」
先生は黒い廻套を着て出た。懐手らしいが分らない。空が低く垂れてゐる。星の見えない寒さである。
「雨になるかも知れない」
「降ると困るでせう」
「出入りにね。日本の芝居小屋は下足があるから、天気の好い時ですら大変な不便だ。それで小屋の中は、空気が通はなくつて、烟草が烟つて、頭痛がして、――よく、みんな、彼で我慢が出来るものだ」
「ですけれども、真逆戸外で遣る訳にも行かないからでせう」
「御神楽は何時でも外で遣つてゐる。寒い時でも外で遣る」
三四郎は、こりや議論にならないと思つて、答を見合せて仕舞つた。
「僕は戸外が好い。暑くも寒くもない、奇麗な空の下で、美くしい空気を呼吸して、美くしい芝居が見たい。透明な空気の様な、純粋で単簡な芝居が出来さうなものだ」
「先生の御覧になつた夢でも、芝居にしたらそんなものが出来るでせう」
「君希臘の芝居を知つてゐるか」
「能く知りません。慥か戸外で遣つたんですね」
「戸外。真昼間。嘸好い心持だつたらうと思ふ。席は天然の石だ。堂々としてゐる。与次郎の様なものは、さう云ふ所へ連れて行つて、少し見せてやると好い」
又与次郎の悪口が出た。其与次郎は今頃窮屈な会場のなかで、一生懸命に、奔走し且つ斡旋して大得意なのだから面白い。もし先生を連れて行かなからうものなら、先生果して来ない。会には斯う云ふ所へ来て見るのが、先生の為には何の位好いか分らないのだのに。いくら僕が云つても聞かない。困つたものだなあ。と嘆息するに極つてゐるから猶面白い。
先生はそれから希臘の劇場の構造を委しく話して呉れた。三四郎は此時先生から、Theatron, Orch
stra, Sk
n
, Prosk
nion などゝ云ふ字の講釈を聞いた。何とか云ふ独乙人の説によると亜典の劇場は一万七千人を容れる席があつたと云ふ事も聞いた。それは小さい方である。尤も大きいのは、五万人を容れたと云ふ事も聞いた。入場券は象牙と鉛と二通りあつて、何れも賞牌見たやうな恰好で、表に模様が打ち出してあつたり、彫刻が施こしてあると云ふ事も聞いた。先生は其入場券の価迄知つてゐた。一日丈の小芝居は十二銭で、三日続の大芝居は三十五銭だと云つた。三四郎がへえ、へえと感心してゐるうちに、演芸会場の前へ出た。盛んに電燈が点いてゐる。入場者は続々寄つて来る。与次郎の云つたよりも以上の景気である。
「どうです、折角だから御這入になりませんか」
「いや這入らない」
先生は又暗い方へ向いて行つた。
三四郎は、しばらく先生の後影を見送つてゐたが、あとから、車で乗り付ける人が、下足の札を受け取る手間も惜しさうに、急いで這入つて行くのを見て、自分も足早に入場した。前へ押されたと同じ事である。
入口に四五人用のない人が立つてゐる。そのうちの袴を着けた男が入場券を受け取つた。其男の肩の上から場内を覗いて見ると、中は急に広くなつてゐる。且つ甚だ明るい。三四郎は眉に手を加へない許にして、導かれた席に着いた。狭い所に割り込みながら、四方を見廻すと、人間の持つて来た色で眼がちら/\する。自分の眼を動かすから許ではない。無数の人間に付着した色が、広い空間で、絶えず各自に、且つ勝手に、動くからである。
舞台ではもう始まつてゐる。出て来る人物が、みんな冠を被つて、沓を穿いて居た。そこへ長い輿を担いで来た。それを舞台の真中で留めたものがある。輿を卸すと、中から又一人あらはれた。其男が刀を抜いて、輿を突き返したのと斬合を始めた。――三四郎には何の事か丸で分らない。尤も与次郎から梗概を聞いた事はある。けれども好加減に聞いてゐた。見れば分るだらうと考へて、うん成程と云つてゐた。所が見れば毫も其意を得ない。三四郎の記憶にはたゞ入鹿の大臣といふ名前が残つてゐる。三四郎はどれが入鹿だらうかと考へた。それは到底見込が付かない。そこで舞台全体を入鹿の積で眺めてゐた。すると冠でも、沓でも、筒袖の衣服でも、使ふ言葉でも、何となく入鹿臭くなつて来た。実を云ふと三四郎には確然たる入鹿の観念がない。日本歴史を習つたのが、あまりに遠い過去であるから、古い入鹿の事もつい忘れて仕舞つた。推古天皇の時の様でもある。欽明天皇の御代でも差支ない気がする。応神天皇や称武天皇では決してないと思ふ。三四郎はたゞ入鹿じみた心持を持つてゐる丈である。芝居を見るには夫で沢山だと考へて、唐めいた装束や背景を眺めてゐた。然し筋はちつとも解らなかつた。其うち幕になつた。
幕になる少し前に、隣りの男が、其又隣りの男に、登場人物の声が、六畳敷で、親子差向ひの談話の様だ。丸で訓練がないと非難してゐた。そつち隣りの男は登場人物の腰が据らない。悉くひよろ/\してゐると訴へてゐた。二人は登場人物の本名をみんな暗んじてゐる。三四郎は耳を傾けて二人の談話を聞いてゐた。二人共立派な服装をしてゐる。大方有名な人だらうと思つた。けれどももし与次郎に此談話を聞かせたら定めし反対するだらうと思つた。其時後の方で旨い/\中々旨いと大きな声を出したものがある。隣の男は二人とも後を振り返つた。それぎり話を已めて仕舞つた。そこで幕が下りた。
彼所、此所に席を立つものがある。花道から出口へ掛けて、人の影が頗る忙がしい。三四郎は中腰になつて、四方をぐるりと見廻した。来てゐる筈の人は何処にも見えない。本当を云ふと演芸中にも出来る丈は気を付けてゐた。それで知れないから、幕になつたらばと内々心当にしてゐたのである。三四郎は少し失望した。已を得ず眼を正面に帰した。
隣の連中は余程世間が広い男達と見えて、右左を顧みて、彼所には誰がゐる、茲所には誰がゐると頻りに知名な人の名を口にする。中には離れながら、互に挨拶をしたのも一二人ある。三四郎は御蔭で此等知名な人の細君を少し覚えた。其中には新婚した許のもあつた。是は隣の一人にも珍しかつたと見えて、其男はわざ/\眼鏡を拭き直して、成程々々と云つて見てゐた。
すると、幕の下りた舞台の前を、向ふの端から此方へ向けて、小走に与次郎が走けて来た。三分の二程の所で留つた。少し及び腰になつて、土間の中を覗き込みながら、何か話してゐる。三四郎はそれを見当に覘を付けた。――舞台の端に立つた与次郎から一直線に二三間隔てゝ美禰子の横顔が見えた。
其傍にゐる男は脊中を三四郎に向けてゐる。三四郎は心のうちに、此男が何かの拍子に、どうかして此方を向いて呉れゝば好いと念じてゐた。旨い具合に其男は立つた。坐り疲びれたと見えて、枡の仕切に腰を掛けて、場内を見廻し始めた。其時三四郎は明らかに野々宮さんの広い額と大きな眼を認める事が出来た。野々宮さんが立つと共に、美禰子の後にゐたよし子の姿も見えた。三四郎は此三人の外に、まだ連が居るか居ないかを確めやうとした。けれども遠くから見ると、たゞ人がぎつしり詰つてゐる丈で、連と云へば土間全体が連と見える迄だから仕方がない。美禰子と与次郎の間には、時々談話が交換されつゝあるらしい。野々宮さんも折々口を出すと思はれる。
すると突然原口さんが幕の間から出て来た。与次郎と並んでしきりに土間の中を覗き込む。口は無論動かしてゐるのだらう。野々宮さんは相図の様な首を竪に振つた。其時原口さんは後から、平手で、与次郎の脊中を叩いた。与次郎はくるりと引つ繰り返つて、幕の裾を潜つて何所かへ消え失せた。原口さんは、舞台を降りて、人と人の間を伝はつて、野々宮さんの傍迄来た。野々宮さんは、腰を立てゝ原口さんを通した。原口さんはぽかりと人の中へ飛び込んだ。美禰子とよし子のゐる辺で見えなくなつた。
此連中の一挙一動を演芸以上の興味を以て注意してゐた三四郎は、此時急に原口流の所作が羨ましくなつた。あゝ云ふ便利な方法で人の傍へ寄る事が出来やうとは毫も思ひ付かなかつた。自分も一つ真似て見様かしらと思つた。然し真似ると云ふ自覚が、既に実行の勇気を挫いた上に、もう入る席は、いくら詰めても、六づかしからうといふ遠慮が手伝つて、三四郎の尻は依然として、故の席を去り得なかつた。
其うち幕が開いて、ハムレツトが始つた。三四郎は広田先生のうちで西洋の何とかいふ名優の扮したハムレツトの写真を見た事がある。今三四郎の眼の前にあらはれたハムレツトは、是と略同様の服装をしてゐる。服装ばかりではない。顔迄似てゐる。両方共八の字を寄せてゐる。
此ハムレツトは動作が全く軽快で、心持が好い。舞台の上を大いに動いて、又大いに動かせる。能掛りの入鹿とは大変趣を異にしてゐる。ことに、ある時、ある場合に、舞台の真中に立つて、手を広げて見たり、空を睨んで見たりするときは、観客の眼中に外のものは一切入り込む余地のない位強烈な刺激を与へる。
其代り台詞は日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。節奏もある。ある所は能弁過ぎると思はれる位流暢に出る。文章も立派である。それでゐて、気が乗らない。三四郎はハムレツトがもう少し日本人じみた事を云つて呉れゝば好いと思つた。御母さん、それぢや御父さんに済まないぢやありませんかと云ひさうな所で、急にアポロ抔を引合に出して、呑気に遣つて仕舞ふ。それでゐて顔付は親子とも泣き出しさうである。然し三四郎は此矛盾をたゞ朧気に感じたのみである。決して詰らないと思ひ切る程の勇気は出なかつた。
従つて、ハムレツトに飽きた時は、美禰子の方を見てゐた。美禰子が人の影に隠れて見えなくなる時は、ハムレツトを見てゐた。
ハムレツトがオフェリヤに向つて、尼寺へ行け尼寺へ行けと云ふ所へ来た時、三四郎は不図広田先生の事を考へ出した。広田先生は云つた。――ハムレツトの様なものに結婚が出来るか。――成程本で読むと左うらしい。けれども、芝居では結婚しても好ささうである。能く思案して見ると、尼寺へ行けとの云ひ方が悪いのだらう。其証拠には尼寺へ行けと云はれたオフェリヤが些とも気の毒にならない。
幕が又下りた。美禰子とよし子が席を立つた。三四郎もつゞいて立つた。廊下迄来て見ると、二人は廊下の中程で、男と話をしてゐる。男は廊下から出入りの出来る左側の席の戸口に半分身体を出した。男の横顔を見た時、三四郎は後へ引き返した。席へ返らずに下足を取つて表へ出た。
本来は暗い夜である。人の力で明るくした所を通り越すと、雨が落ちてゐるやうに思ふ。風が枝を鳴らす。三四郎は急いで下宿に帰つた。
夜半から降り出した。三四郎は床の中で、雨の音を聞きながら、尼寺へ行けと云ふ一句を柱にして、其周囲にぐる/\
徊した。広田先生も起きてゐるかも知れない。先生はどんな柱を抱いてゐるだらう。与次郎は偉大なる暗闇の中に正体なく埋つてゐるに違ない。……明日は少し熱がする。頭が重いから寐てゐた。午飯は床の上に起き直つて食つた。又一寐入すると今度は汗が出た。気がうとくなる。そこへ威勢よく与次郎が這入つて来た。昨夕も見えず、今朝も講義に出ない様だから何うしたかと思つて訪ねたと云ふ。三四郎は礼を述べた。
「なに、昨夕は行つたんだ。行つたんだ。君が舞台の上に出て来て、美禰子さんと、遠くで話をしてゐたのも、ちやんと知つてゐる」
三四郎は少し酔つた様な心持である。口を利き出すと、つる/\と出る。与次郎は手を出して、三四郎の額を抑へた。
「大分熱がある。薬を飲まなくつちや不可ない。風邪を引いたんだ」
「演芸場があまり暑過ぎて、明る過ぎて、さうして外へ出ると、急に寒過ぎて、暗過ぎるからだ。あれは可くない」
「可けないたつて、仕方がないぢやないか」
「仕方がないたつて、可けない」
三四郎の言葉は段
短かくなる、与次郎が好加減にあしらつてゐるうちに、すう/\寐て仕舞つた。一時間程して又眼を開けた。与次郎を見て、「君、其所にゐるのか」と云ふ。今度は平生の三四郎の様である。気分はどうかと聞くと、頭が重いと答へた丈である。
「風邪だらう」
「風邪だらう」
両方で同じ事を云つた。しばらくしてから、三四郎が与次郎に聞いた。
「君、此間美禰子さんの事を知つてるかと僕に尋ねたね」
「美禰子さんの事を? 何処で?」
「学校で」
「学校で? 何時」
与次郎はまだ思ひ出せない様子である。三四郎は已を得ず、其前後の当時を詳しく説明した。与次郎は、
「成程そんな事が有つたかも知れない」と云つてゐる。三四郎は随分無責任だと思つた。与次郎も少し気の毒になつて、考へ出さうとした。やがて斯う云つた。
「ぢや、何ぢやないか。美禰子さんが嫁に行くと云ふ話ぢやないか」
「極つたのか」
「極つた様に聞いたが、能く分らない」
「野々宮さんの所か」
「いや、野々宮さんぢやない」
「ぢや……」と云ひ掛けて已めた。
「君、知つてるのか」
「知らない」と云ひ切つた。すると与次郎が少し前へ乗り出して来た。
「何うも能く分らない。不思議な事があるんだが。もう少し立たないと、何うなるんだか見当が付かない」
三四郎は、其不思議な事を、すぐ話せば好いと思ふのに、与次郎は平気なもので、一人で呑み込んで、一人で不思議がつてゐる。三四郎は少時我慢してゐたが、とう/\焦れつたくなつて、与次郎に、美禰子に関する凡ての事実を隠さずに話して呉れと請求した。与次郎は笑ひ出した。さうして慰藉の為か何だか、飛んだ所へ話頭を持つて行つて仕舞つた。
「馬鹿だなあ、あんな女を思つて。思つたつて仕方がないよ。第一、君と同年位ぢやないか。同年位の男に惚れるのは昔の事だ。八百屋御七時代の恋だ」
三四郎は黙つてゐた。けれども与次郎の意味は能く分らなかつた。
「何故と云ふに。廿前後の同じ年の男女を二人並べて見ろ。女の方が万事上手だあね。男は馬鹿にされる許だ。女だつて、自分の軽蔑する男の所へ嫁に行く気は出ないやね。尤も自分が世界で一番偉いと思つてる女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮すより外に方法はないんだから。よく金持の娘や何かにそんなのがあるぢやないか、望んで嫁に来て置きながら、亭主を軽蔑してゐるのが。美禰子さんは夫よりずつと偉い。其代り、夫として尊敬の出来ない人の所へは始から行く気はないんだから、相手になるものは其気で居なくつちや不可ない。さう云ふ点で君だの僕だのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」
三四郎はとう/\与次郎と一所にされて仕舞つた。然し依然として黙つてゐた。
「そりや君だつて、僕だつて、あの女より遥かに偉いさ。御互に是でも、なあ。けれども、もう五六年経たなくつちや、其偉さ加減が彼の女の眼に映つて来ない。しかして、かの女は五六年凝としてゐる気遣はない。従つて、君があの女と結婚する事は風馬牛だ」
与次郎は風馬牛と云ふ熟字を妙な所へ使つた。さうして一人で笑つてゐる。
「なに、もう五六年もすると、あれより、ずつと上等なのが、あらはれて来るよ。日本ぢや今女の方が余つてゐるんだから。風邪なんか引いて熱を出したつて始まらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。実は僕にも色々あるんだが。僕の方であんまり煩いから、御用で長崎へ出張すると云つてね」
「何だ、それは」
「何だつて、僕の関係した女さ」
三四郎は驚ろいた。
「なに、女だつて、君なんぞの曾て近寄つた事のない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌の試験に出張するから当分駄目だつて断わつちまつた。所が其女が林檎を持つて停車場まで送りに行くと云ひ出したんで、僕は弱つたね」
三四郎は益驚いた。驚ろきながら聞いた。
「それで、何うした」
「何うしたか知らない。林檎を持つて、停車場に待つてゐたんだらう」
「苛い男だ。よく、そんな悪い事が出来るね」
「悪い事で、可哀想な事だとは知つてるけれども、仕方がない。始から次第

に、そこ迄運命に持つて行かれるんだから。実はとうの前から僕が医科の学生になつてゐたんだからなあ」「なんで、そんな余計な嘘を吐くんだ」
「そりや、又それ/″\事情のある事なのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼まれて困つた事もある」
三四郎は可笑しくなつた。
「其時は舌を見て、胸を叩いて、好い加減に胡魔化したが、其次に病院へ行つて、見て貰ひたいが好いかと聞かれたには閉口した」
三四郎はとう/\笑ひ出した。与次郎は、
「さう云ふ事も沢山あるから、まあ安心するが好からう」と云つた。何の事だか分らない。然し愉快になつた。
与次郎は其時始めて、美禰子に関する不思議を説明した。与次郎の云ふ所によると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それ丈ならば好いが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのださうだ。
三四郎も少し馬鹿にされた様な気がした。然しよし子の結婚丈は慥かである。現に自分が其話を傍で聞いてゐた。ことによると其話を美禰子のと取り違へたのかも知れない。けれども美禰子の結婚も、全く嘘ではないらしい。三四郎は判然した所が知りたくなつた。序だから、与次郎に教へて呉れと、頼んだ。与次郎は訳なく承知した。よし子を見舞に来る様にしてやるから、直に聞いて見ろといふ。旨い事を考へた。
「だから、薬を飲んで、待つて居なくつては不可ない」
「病気が癒つても、寐て待つてゐる」
二人は笑つて別れた。帰りがけに与次郎が、近所の医者に来て貰ふ手続をした。
晩になつて、医者が来た。三四郎は自分で医者を迎へた覚がないんだから、始めは少し狼狽した。そのうち脈を取られたので漸く気が付いた。年の若い丁寧な男である。三四郎は代診と鑑定した。五分の後病症はインフルエンザと極つた。今夜頓服を飲んで、成る可く風に当らない様にしろと云ふ注意である。
翌日眼が覚めると、頭が大分軽くなつてゐる。寐てゐれば、殆んど常体に近い。たゞ枕を離れると、ふら/\する。下女が来て、大分部屋の中が熱臭いと云つた。三四郎は飯も食はずに、仰向に天井を眺めてゐた。時々うと/\眠くなる。明らかに熱と疲とに囚はれた有様である。三四郎は、囚はれた儘、逆らはずに、寐たり覚たりする間に、自然に従ふ一種の快感を得た。病症が軽いからだと思つた。
四時間、五時間と経つうちに、そろ/\退屈を感じ出した。しきりに寐返りを打つ。外は好い天気である。障子に当る日が、次第に影を移して行く。雀が鳴く。三四郎は今日も与次郎が遊びに来て呉れゝば好いと思つた。
所へ下女が障子を開けて、女の御客様だと云ふ。よし子が、さう早く来やうとは待ち設けなかつた。与次郎丈に敏捷な働きをした。寐た儘、開け放しの入口に眼を着けてゐると、やがて高い姿が敷居の上へあらはれた。今日は紫の袴を穿いてゐる。足は両方共廊下にある。一寸這入るのを
躇した様子が見える。三四郎は肩を床から上げて、「入らつしやい」と云つた。よし子は障子を閉てゝ、枕元へ坐つた。六畳の座敷が、取り乱してある上に、今朝は掃除をしないから、猶狭苦しい。女は、三四郎に、
「寐て入らつしやい」と云つた。三四郎は又頭を枕へ着けた。自分丈は穏かである。
「臭くはないですか」と聞いた。
「えゝ、少し」と云つたが、別段臭い顔もしなかつた。「熱が御有なの。何なんでせう、御病気は。御医者は入らしつて」
「医者は昨夕来ました。インフルエンザださうです」
「今朝早く佐々木さんが御出になつて、小川が病気だから見舞に行つて遣つて下さい。何病だか分らないが、何でも軽くはない様だ。つて仰やるものだから、私も美禰子さんも吃驚したの」
与次郎が又少し法螺を吹いた。悪く云へば、よし子を釣り出した様なものである。三四郎は人が好いから、気の毒でならない。「どうも難有う」と云つて寐てゐる。よし子は風呂敷包の中から、蜜柑の籃を出した。
「美禰子さんの御注意があつたから買つて来ました」と正直な事を云ふ。どつちの御見舞だか分らない。三四郎はよし子に対して礼を述べて置いた。
「美禰子さんも上る筈ですが、此頃少し忙しいものですから――どうぞ宜しくつて……」
「何か特別に忙がしい事が出来たのですか」
「えゝ。出来たの」と云つた。大きな黒い眼が、枕に着いた三四郎の顔の上に落ちてゐる。三四郎は下から、よし子の蒼白い額を見上げた。始めて此女に病院で逢つた昔を思ひ出した。今でも物憂げに見える。同時に快活である。頼になるべき凡ての慰藉を三四郎の枕の上に齎らして来た。
「蜜柑を剥いて上げませうか」
女は青い葉の間から、果物を取り出した。渇いた人は、香に迸しる甘い露を、したゝかに飲んだ。
「美味いでせう。美禰子さんの御見舞よ」
「もう沢山」
女は袂から白い手帛を出して手を拭いた。
「野々宮さん、あなたの御縁談はどうなりました」
「あれ限りです」
「美禰子さんにも縁談の口があるさうぢやありませんか」
「えゝ、もう纏りました」
「誰ですか、先は」
「私を貰ふと云つた方なの。ほゝゝ可笑いでせう。美禰子さんの御兄いさんの御友達よ。私近い内に又兄と一所に家を持ちますの。美禰子さんが行つて仕舞ふと、もう御厄介になつてる訳に行かないから」
「あなたは御嫁には行かないんですか」
「行きたい所がありさへすれば行きますわ」
女は斯う云ひ棄てゝ心持よく笑つた。まだ行きたい所がないに極つてゐる。
三四郎は其日から四日程床を離れなかつた。五日目に怖々ながら湯に入つて、鏡を見た。亡者の相がある。思ひ切つて床屋へ行つた。其明る日は日曜である。
朝食後、襯衣を重ねて、外套を着て、寒くない様にして、美禰子の家へ行つた。玄関によし子が立つて、今沓脱へ降りやうとしてゐる。今兄の所へ行く所だと云ふ。美禰子はゐない。三四郎は一所に表へ出た。
「もう悉皆好いんですか」
「難有う。もう癒りました。――里見さんは何所へ行つたんですか」
「兄さん?」
「いゝえ、美禰子さんです」
「美禰子さんは会堂」
美禰子の会堂へ行く事は始めて聞いた。何処の会堂か教へて貰つて、三四郎はよし子に別れた。横町を三つ程曲ると、すぐ前へ出た。三四郎は全く耶蘇教に縁のない男である。会堂の中は覗いて見た事もない。前へ立つて、建物を眺めた。説教の掲示を読んだ。鉄柵の所を往つたり来たりした。ある時は寄り掛かつて見た。三四郎は兎も角もして、美禰子の出てくるのを待つ積である。
やがて唱歌の声が聞へた。讃美歌といふものだらうと考へた。締切つた高い窓のうちの出来事である。音量から察すると余程の人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌は歇んだ。風が吹く。三四郎は外套の襟を立てた。空に美禰子の好な雲が出た。
かつて美禰子と一所に秋の空を見た事もあつた。所は広田先生の二階であつた。田端の小川の縁に坐つた事もあつた。其時も一人ではなかつた。迷羊。迷羊。雲が羊の形をしてゐる。
忽然として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世へ帰る。美禰子は終りから四番目であつた。縞の吾妻コートを着て、俯向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いと見えて、肩を窄めて、両手を前で重ねて、出来る丈外界との交渉を少なくしてゐる。美禰子は此凡てに揚がらざる態度を門際迄持続した。其時、往来の忙しさに、始めて気が付いた様に顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の眼に映つた。二人は説教の掲示のある所で、互に近寄つた。
「何うなすつて」
「今御宅迄一寸出た所です」
「さう、ぢや入らつしやい」
女は半ば歩を回しかけた。相変らず低い下駄を穿いてゐる。男はわざと会堂の垣に身を寄せた。
「此所で御目に掛かればそれで好い。先刻から、あなたの出て来るのを待つてゐた」
「御這入りになれば好いのに。寒かつたでせう」
「寒かつた」
「御風邪はもう好いの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色が好くない様ね」
男は返事をしずに、外套の隠袋から半紙に包んだものを出した。
「拝借した金です。永々難有う。返さう/\と思つて、つい遅くなつた」
美禰子は一寸三四郎の顔を見たが、其儘逆らはずに、紙包を受け取つた。然し手に持つたなり、納はずに眺めてゐる。三四郎もそれを眺めてゐる。言葉が少しの間切れた。やがて、美禰子が云つた。
「あなた、御不自由ぢや無くつて」
「いゝえ、此間から其積で国から取り寄せて置いたのだから、何うか取つて下さい」
「さう。ぢや頂いて置きませう」
女は紙包を懐へ入れた。其手を吾妻コートから出した時、白い手帛を持つてゐた。鼻の所へ宛てゝ、三四郎を見てゐる。手帛を嗅ぐ様子でもある。やがて、其手を不意に延ばした。手帛が三四郎の顔の前へ来た。鋭どい香がぷんとする。
「ヘリオトロープ」と女が静かに云つた。三四郎は思はず顔を後へ引いた。ヘリオトロープの壜。四丁目の夕暮。迷羊。迷羊。空には高い日が明らかに懸る。
「結婚なさるさうですね」
美禰子は白い手帛を袂へ落した。
「御存じなの」と云ひながら、二重瞼を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、却つて遠くにゐるのを気遣い過ぎた眼付である。其癖眉丈は明確落ちついてゐる。三四郎の舌が上顎へ密着て仕舞つた。
女はやゝしばらく三四郎を眺めた後、聞兼る程の嘆息をかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加へて、云つた。
「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」
聞き取れない位な声であつた。それを三四郎は明らかに聞き取つた。三四郎と美禰子は斯様にして分れた。下宿へ帰つたら母からの電報が来てゐた。開けて見ると、何時立つとある。
原口さんの画は出来上がつた。丹青会は之を一室の正面に懸けた。さうして其前に長い腰掛を置いた。休む為でもある。画を見る為でもある。休み且つ味ふ為でもある。丹青会はかうして、此大作に
徊する多くの観覧者に便利を与へた。特別の待遇である。画が特別の出来だからだと云ふ。或は人の目を惹く題だからとも云ふ。少数のものは、あの女を描たからだと云つた。会員の一二は全く大きいからだと弁解した。大きいには違ない。幅五寸に余る金の縁を付けて見ると、見違へる様に大きくなつた。原口さんは開会の前日検分の為一寸来た。腰掛に腰を卸して、久しい間烟管を啣へて眺めてゐた。やがて、ぬつと立つて、場内を一順丁寧に回つた。夫から又故の腰掛へ帰つて、第二の烟管を緩くり吹かした。
「森の女」の前には開会の当日から人が一杯集つた。折角の腰掛は無用の長物となつた。たゞ疲れたものが、画を見ない為に休んでゐた。それでも休みながら「森の女」の評をしてゐたものがある。
美禰子は夫に連れられて二日目に来た。原口さんが案内をした。「森の女」の前へ出た時、原口さんは「何うです」と「二人」を見た。夫は「結構です」と云つて、眼鏡の奥からじつと眸を凝らした。
「此団扇を翳して立つた姿勢が好い。流石専門家は違ますね。能く茲所に気が付いたものだ。光線が顔へあたる具合が旨い。陰と日向の段落が確然して――顔丈でも非常に面白い変化がある」
「いや皆御当人の御好みだから。僕の手柄ぢやない」
「御蔭さまで」と美禰子が礼を述べた。
「私も、御蔭さまで」と今度は原口さんが礼を述べた。
夫は細君の手柄だと聞いて左も嬉しさうである。三人のうちで一番鄭重な礼を述べたのは夫である。
開会後第一の土曜の午過には大勢一所に来た。――広田先生と野々宮さんと与次郎と三四郎と。四人は余所を後廻しにして、第一に「森の女」の部屋に這入つた。与次郎が「あれだ、あれだ」と云ふ。人が沢山集つてゐる。三四郎は入口で一寸
躇した。野々宮さんは超然として這入つた。大勢の後から、覗き込んだ丈で、三四郎は退ぞいた。腰掛に倚つてみんなを待ち合はしてゐた。
「素敵に大きなもの描いたな」と与次郎が云つた。
「佐々木に買つて貰ふ積ださうだ」と広田先生が云つた。
「僕より」と云ひ掛けて、見ると、三四郎は六づかしい顔をして腰掛にもたれてゐる。与次郎は黙つて仕舞つた。
「色の出し方が中々洒落てゐますね。寧ろ意気な画だ」と野々宮さんが評した。
「少し気が利き過ぎてゐる位だ。是ぢや鼓の音の様にぽん/\する画は描けないと自白する筈だ」と広田先生が評した。
「何ですぽん/\する画と云ふのは」
「鼓の音の様に間が抜けてゐて、面白い画の事さ」
二人は笑つた。二人は技巧の評ばかりする。与次郎が異を樹てた。
「里見さんを描いちや、誰が描いたつて、間が抜けてる様には描けませんよ」
野々宮さんは目録へ記号を付ける為に、隠袋へ手を入れて鉛筆を探した。鉛筆がなくつて、一枚の活版摺の端書が出て来た。見ると、美禰子の結婚披露の招待状であつた。披露はとうに済んだ。野々宮さんは広田先生と一所にフロツクコートで出席した。三四郎は帰京の当日此招待状を下宿の机の上に見た。時期は既に過ぎてゐた。
野々宮さんは、招待状を引き千切つて床の上に棄てた。やがて先生と共に外の画の評に取り掛る。与次郎丈が三四郎の傍へ来た。
「どうだ森の女は」
「森の女と云ふ題が悪い」
「ぢや、何とすれば好いんだ」
三四郎は何とも答へなかつた。たゞ口の内で迷羊、迷羊と繰り返した。