○一九二二年の暮れ、モスコオ芸術座の一行が初めて巴里を訪れ、シャン・ゼリゼエ劇場の大舞台で、その華々しい上演目録の中から、特に純露西亜の作品数篇を選んで、旅興行の蓋をあけた。
 ○『桜の園』はその一つであつた。
 ○僕は露西亜語がわからない。そこで、仏訳の『桜の園』を三度繰り返して読んだ。どの人物が、どこで、どんな台詞をいふといふことまでおほかた空で覚えた。殊に、全篇を流れる情調と場面場面の雰囲気、あの匂やかな機智の閃きと、心理的詩味の波動とを、自分のイメージとして、しつかり頭の中に描いて行つた。
 ○勿論、それぞれの人物は完全な一個の存在として一人一人僕の心の中に活きてゐた。
 ○われわれ日本人は、仏蘭西人の多くよりも露西亜人を識つてゐる――露西亜人の生活、その感情、わけてもその「夢」を識つてゐると思ふがどうだらう。
 ○『桜の園』の幕があいた。
 ○スタニスラフスキイは、開演の前夜、一行歓迎会の席上で、自由劇場の創始者老アントワアヌ及びヴィユウ・コロンビエ座の首脳コポオの挨拶に答へて、「わたくし共が、露西亜語で演じる劇は、露西亜語のおわかりにならない方にも七分通りはおわかりになるだらうと思ひます。それは、わたくし共は常々露西亜語以外に、万国共通の言語によつて劇を演じることを心掛けてゐるからであります」と云つた。
 ○少し言ひ過ぎはしないかと、僕は思つた。今でもさう思つてゐる。
 ○が、『桜の園』は――準備を勘定に入れて――七分通りまでわかつたと断言し得る。なぜなら「見た芝居」が「読んだ芝居」のイメージをぶち毀さないことは甚だ稀れである。
 ○それどころか、僕は、驚嘆すべきラアネフスカヤを見た。その裾さばきに、そのハンケチのひろげ方に、その珈琲の飲み方に、殊にその耳の傾け方と、肩の捻ぢ向け方に、彼女の一切を語らせてゐるところのラアネフスカヤを見た。――クニッペル・チェーホヴァ夫人の涙はそのまゝ凋落と離別の詩だ。
 ○ガアエフは感傷的な男に違ひない。然し、そのセンチメンタリズムは決して外にまで燃え上らないセンチメンタリズムである。その感激は、必ずしも空虚ではないが、屡々機械的である。じめじめはしてゐない。朗らかである。然し、玩具の笛の如く調子外れである。調子外れであるが、わざとらしくない。寧ろ頗る自然である。スタニスラフスキイのおほまかな、素直な、どつしりした芸風が、ぴつたり、そこに嵌つてゐた。
 ○ロパアヒンは善良な「俗物」である。が、そのことは彼が一つのプリンシプルを有つてゐることを妨げない、――そのプリンシプルが彼を聡明にしてゐる。聡明にはしても、「インテリゲンツィア」にはしない。そこに此の人物の面白さがある。医者にも、学者にも、弁護士にも「俗物」がある。殊に「大学出の実業家」と称する俗物もある。さう云ふ俗物になつてはいけない。それにはレオニドフのロパアヒンを見なければならない。
 ○『桜の園』の人物は――チェホフの人物はと云つてもいゝ――彼等は常に話しかける、或る時は彼等の周囲に、或る時は彼等自身に、そして屡々彼等の「幻」に……。沈黙に耳を澄ますことを知らなければ、彼等の言葉は空虚である。
 同時に、その「幻」を完全に描き出すことが出来れば、その演出は成功である。
 ○いちいちの役割について、今、あの時の印象を述べることは無駄な気がする。僕の読んだ仏語訳に十分の信用が置けるものとして、また、僕の「戯曲を読む術」がそれほど怪しいものでないと云ふ自惚れを土台にして、モスコオ芸術座の演じた『桜の園』は、たしかに僕の最初描いてゐたイメージ、それ以上の光彩と深さとをもつて僕の脳裡に刻みつけられてゐる。
 ○チェホフの戯曲を、モスコオ芸術座以外の劇団が演じる時に、必ずしも、範を前者に取るべきだとは云へない。そんな馬鹿な話はない。現に、ピトエフは、ピトエフの『鴎』と『ワアニャ叔父』とをもつてゐる。その演出が、若しスタニスラフスキイに及ばないとしても、それは、決してピトエフがその旧師を真似ないからではない。
 ○モスコオフインの扮するエピホオドフでさへ、あれを見て、誰があれ以上のエピホオドフを想像し得ないだらう。
 ○旅興行の不自由さからであらうが、シモオフとクリモフとの考案に基くグレミフラフスキイの舞台装飾は、決して無条件に感心すべきものではなかつた。
 ○若し、僕に露西亜語がわかつたら――さうだ、わかつたら――もつと、あらが見えたに違ひない。
 もつと、もつといゝところがわかつたらう――と云はれてもしかたがないが……。
 ○たまたま、日本の――と断わることを許して下さい。話がごつちやになりさうだから――日本の新劇協会が、帝国ホテル演芸場と云ふ仮劇場で、『桜の園』を上演した。
 ○僕は誰からも頼まれず、誰からも勧められずに観に行つた。
 ○『桜の園』の幕が明いた――嘗て、シャン・ゼリゼエの舞台でのやうに。たゞ、「白い鴎」の浮き出た幕が、さうでないだけの違ひ。
 ○皮肉でなく、お世辞でなく、僕は新劇協会の『桜の園』を非常に面白く観た。
 ○上演者は、たしかにモスコオ芸術座の『桜の園』が、どんなものであるかも知つてゐるだらう、少くとも或る程度まで研究してゐると僕は思つた。この態度は誠に頼母しい態度である。――誤解されては困る。真似る真似ないは別問題だ。
 ○真似てもいゝ。真似以上のことが出来ないと思つたら、潔く真似るがいゝ。真似が、さう楽に出来るものかどうか。
 ○外のものなら兎も角、この『桜の園』でほんたうにオリヂナルな演出を、誰にでも望むことは、望む方が無理である。失礼な言ひ分かも知れないが、若し新劇協会がモスコオ芸術座以上の、少くとも、それ以外の演出法を試みようと企図したならば、その演出は、恐らく、大なる失敗に終つたであらう。
 ○これだけのことをいつて置いて、扨て、新劇協会が、果して、『桜の園』を正しく、――言葉がわるければダンチェンコ及びスタニスラフスキイの解釈した如く解釈してゐるかどうかを考へて見よう。
 ○僕は、大体に於て、その解釈の近いことを欣ぶものである。各人物の性格表現に、どうかすると「はてな」と思はれる節もあるが、それは、「技芸」殊に「柄」の問題を除外して論じることは不当のやうに思はれる。ラアネフスカヤ、ガアエフ、ロパアヒンについて、前に述べたことは、直接、此の点に触れたつもりである。
 ○当夜、かういふ考へが、一寸、僕の頭をかすめた。チェホフの『桜の園』と云ふ戯曲は、もうちやんと僕の頭の中で舞台が出来上つてゐる。殆ど理想的な舞台が出来上つてゐる。で、今眼の前で、誰かゞ、『桜の園』を演じてゐるといふ一つの想念、或は、たゞ、あの椅子に腰をかけてゐるのがラアネフスカヤで、今、何かしやべつてゐるのがガアエフだといふ、たゞそれだけの事実が、僕の心の中に常々ひそんでゐる『桜の園』の幻影を再び浮び出させるのではあるまいかと。
 ○たとへ、さうであつても、その幻影は、実際、眼に映じ耳に響く不快な影と響とで容赦なくぶち毀さるべき性質のものである。
 ○それが、さうでなく、その幻影を、そのまゝ活かすとまでは行かないでも、決して、台なしにしてくれなかつたことは、何と云つても新劇協会に感謝すべきであらうと思ふ。
 これは、まさしく、新劇協会の演出が、真摯で、控へ目で、大きく羽目を外してゐない証拠である。
 ○それならば、新劇協会は『桜の園』の上演に成功したか。待つて下さい。失敗しなかつたことは、成功したことにならない。しかし、もの事によつて、それに失敗しないと云ふことは、ある事に成功したと云ふことよりも尊く、意義があり、名誉であり、意を強くすべきことである。
 ○此の種の劇団に対しては、「未来」と云ふことを考へずにかれこれ批評をしてはならない。
 ○それだけに、「未来」がないと云はれることは、此の種の試みに取つて致命的な痛手である。この『桜の園』を見て、新劇協会は失敗したと云ふものがあるかも知れない。しかし、それ以上のことを言つてはならない。
 ○僕はたゞ此の劇団の首脳に信頼する。情実と名利を棄て、「初めから始める」ことによつて、「存在の欲求」を満たしてほしい。現在の日本に於ては、それが許される。

底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「我等の劇場」新潮社
   1926(大正15)年4月24日発行
初出:「演劇新潮 第一年第六号」
   1924(大正13)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2006年2月20日作成
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