小説や戯曲の標題について、いろいろ知つてゐることを書けといふ註文で、これは恐らく試験ならば応用問題に属するのであらうが、私は、創作科の一学生として、今から与へられた枚数の答案を作つてみるつもりである。
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 標題とは、つまり、作品の名刺みたいなものである。名刺といふものは、当人の自己紹介に役立つものであるが、それは決して肩書のみがものをいふのではなく、型の大小、紙質、活字の選択配列などが、すべての「人柄」を語り、或は勿体ぶつて滑稽に見え、或は凝りすぎて気障になり、或は無頓着が却つて奥床しく思はれるなど、なかなかデリケエトな性質をもつたものである。
 ジュウル・ルナアルの「朗読」といふ短篇の中で、劇作家エロアが自作の脚本を友人のウィレムに朗読して聞かせた後、ウィレムの批評を聴くところであるが、ウィレムは、その脚本を激賞した後、かういふのである。
「一つ留保をしておかう。それもはつきりさうだといへないが、僕は、標題が少し、いひ表はす範囲が狭いと思ふ。用心しすぎてゐると思ふ。いぢけてゐると思ふ。僕はもつと、それが、旗印のやうに広く、堂々としてゐる方がいいと思ふ。これからの模倣者に途を遮ることにもなり、君が決定的に実現したものを、再び繰り返さうといふ無法な慾望を頓挫させることにもなる。が、それは、僕が間違つてるかもわからない。約束は小さく、実行は大きい方がいいかもわからない。その方が目覚ましい驚嘆を喚び起すかもわからない」
 この脚本の標題が明かでないのは残念だが、エロアはルナアル自身のことに相違なく、ウィレムとはエドモン・ロスタンであらうから、この二人の「標題のつけ方」を比較してみると、成る程と合点が行くのである。
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 ルナアルのやうな芸術家は、作品の「一破片」をそのまま標題とすることに満足し、ロスタンのやうな作家は、標題に作品の豪華な全貌を打ち込まうと努力するのである。前者が「にんじん」とか「フイリツプ一家の家風」とか「日々の麺麹」とかいふ標題をつけ、後者が例の「シラノ・ド・ベルジユラツク」「遥なる王女」「暁の歌」などといふ題を選ぶゆゑんだ。
 そこで問題は、作品の「調子」に関係して来るのだが、好んで大声で語る作品、何らかの気負ひを示す作品の標題には、一種煽動的な大がかりな響が含まれることは自然であらう。そこから、ある場合には、いはゆる「大衆的」「通俗的」標題が生れ、ある場合には近ごろのやうな「宣伝文学的」標題の型が作り出されるのである。
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 標題の選択は一つに作家の「好み」によることは勿論であるが、また、時代の文学的傾向が、その時代の変つた「標題技巧」を生むといふやうなことがある。その極端な例は、日本の歌舞伎劇の長つたらしい標題「浦里時次郎明烏花濡衣」の如き類だ。
 作品の主要人物の名をそのまま標題とすることは東西ともに行はれてゐることで、それがたまたま男女一対の名を組み合せたものは、それだけで恋愛物語を想像させるのだからこの標題技巧は相当考へたものだが、それについて面白いのは、日本では、女の名が先で男の名を後にくつつけ、西洋ではそのあべこべだといふことである。別に深い意味があるのではなく、単に語呂の関係に違ひないけれど、いま、その例外を考へてみてもなかなか思ひつかない。ただし、この種の標題はなんといつても浪漫主義的で、近代の作品にはあまり見かけない。
 西洋では「ロミオとジユリエット」「トリスタンとイソルデ」「ペレアスとメリザンド」「ポオルとヴィルジニイ」などがあり、日本では「お染久松」「お半長右衛門」「お国と五平」等々……。
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 標題そのものから、古風な感じや、新時代的な印象を受けるといふことは、いろいろな連想が絡まるからであらうが、時によると、一見、古風な標題が、なんとなく新鮮な生命をもち、また反対に、いかにも現代的らしい標題が、その実、陳腐、卑俗な型に陥つてゐるやうなことがあるのは、何れも文学の本質に触れた問題であらう。近頃では佐藤春夫氏の「武蔵野少女」などは好い題であつた。
 いかに商品化した文学とはいへ、現今のヂヤアナリズムが好んで取りあげる標題は、多く後者の部類で、物欲しさうといふか、作者の腹が見え透いて、誠に気恥かしいやうなのが間々ある。
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 作品を離れて、標題だけの是非を論じることは無意味のやうであるが、しかし、作者は作品の内容に一番「ぴつたり」する標題を捜しながら、知らず識らず、標題それ自身の「効果」を専ら気にするのが常であるから、やはり、そこには、一つの技術が存すると見て差支あるまい。従つて、「標題のつけ方」に上手下手といふ問題が起り、更に標題が作品を活かし、その価値をある程度まで左右し得ると考へられるのである。
 標題などは、いはば、どうでもいいもので、作品の番号みたいなものであるといふ意見もたしかに一つの意見で、さういふ態度から何気ない風でつけられてゐる標題に、たまたま実に感じの好い「効果的な」ものがあることを思へば、結局、これも消極的な厳密さが標題選択の上に加へられたといふべきであつて、要するに、作者の感覚が「標題」といふ意識の異つた面に働きかけた結果なのである。
 これに反して、むつかしい標題、凝つた標題、奇抜な標題、などといふものになると、作者のポーズが眼に浮かぶだけ、なるほど、一と通りの効果はうなづけるにせよ、こいつを批評するとなると、相当文句がいひたくなる。技術が表面に表はれるといふことは、それが余程の「巧さ」にしても、先づ、素人だましといはれるのが落ちであらう。そこでほんたうに「好い」標題といふものは、工夫があつてしかも工夫の跡が見えず、独立した意味をもちながら、なほ且つその裏に十分な拡がりを感じさせ、言葉の配列と所謂語呂の上に特殊の魅力を発揮し、といふやうな条件が備はつてゐなければなるまい。
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 いろいろな作品を通じて、その標題を吟味するのも面白いが、どうも、古今の傑作といふやうなものになると、その作品の価値が総てを引上げてしまふのか、なんでもないやうな標題までが、もう、一種犯すべからざる威厳、格式をもつてしまつて、どうすることもできないのである。イプセンの「人形の家」とか「海の夫人」などは、時代が割に近いせいか、少しく鼻につく類であるが、シェイクスピアになると「ヴェニスの商人」「ウィンザアの陽気な女房達」など、なかなか、今日でも気のきいた題だ。フロオベェルの「ボヴァリイ夫人」はその時代に新しい標題であつたらうと思はれる。この「ボヴァリイ」といふ姓の選び方が既に写実の黎明を告げるものである。ゲェテの「ファウスト」は、やはり、巨大な文学的狼火に応はしい響きをもち、トルストイの「戦争と平和」は、功利文学のトツプを切る題名と称すべきだ。ダヌンチオは「死の勝利」とか「廃都」などといふ今日ならば二流映画のやうな標題をつけて得々としてゐたところ、誠にある時代の文学青年を思はせるが、「ジヨコンダ」となると、歴史的固有名詞といふものは、どうしてかう常に堂々と標題向きであるかを不思議に思はせる。
 翻訳すると原名の味が消えてしまふやうなものもある。反対に、日本語の気障な題が、外国語に直していふと、それほどでもなくなるのがある。言葉のもつイメェジといふものは妙なものだ。
 日本の現代作家で、標題に人一倍苦心もし、またそれだけ効果をあげてゐるのは横光利一氏だが、氏の作品のもつ風格は、常にあの警抜で、しかも重厚な標題のうちに漂つてゐる。そして、これも翻訳し難きものの一つであらう。
 標題で思ひ出したが、ラビッシユといふフランスの劇作家は、それほど大した作品を書いてゐるわけではないが、ただある作品の標題が妙に私の記憶に残り、それだけで、この作家の作品集を買つてみたことがある。その題は「イタリイの麦藁帽子」!(一九三三・五)

底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
   1936(昭和11)年11月15日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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