シェイクスピイヤ作、坪内逍遥博士訳「ハムレット」五幕二十場の演出である。
 番付を見るとかう書いてある――
「ハムレット劇の全曲上演といふことは、沙翁時代を去つて以来、世界の舞台で嘗て演ぜられたことを聞かない。五幕二十場の全場面全場景をノオカットで敢て上演するに至つたわれわれの意図は、要するに、多分に演劇的に沙翁の『ハムレット』に対する現在演劇意識による演劇価値の再認識といふところにある。だから敢て主役ハムレットといふ人物の個人的な立場を偏重することなく、あらゆる場面の劇的要素を集成して『ハムレット』劇の持つ広さ、深さ、面白さを内面的に盛り現はしてみようと努力した所に特色を持つ。沙翁の偉大さが再批判される時沙翁劇の正しい上演こそ、わが新劇振興の上に大きい拍車ともならうことを固く信ずる」……
 演出者久米正雄氏は、もともと英文学専攻の士であり、わけても「ハムレット」の研究に関しては自他共に許す一家の見識をもつてをられるらしく、その点、われわれも勉強になつたやうに思ふが、この公演を観る上に、一番識つておかなければならないことは、誰がこれを思ひつき、どんな範囲で人を集め、如何なる方法で準備を進めたかといふことである。言ひ換へれば、可能か不可能かを考へる余地すらなく、これをやることに決めてから、ともかく、出来るだけのことをしおふせたのだといふことである。従つて、その根本の問題にまで遡ることは、ここでは無益である。ただ「ハムレット」のいはゆる「演劇価値」といひ、「沙翁の偉大さ」といひ、ともにこれを伝へるためには、まだまだ肝心なものが欠けてゐて、これが大半の原因は、俳優の肉体的条件、文学的教養、就中その台詞に対する感覚的訓練の相違にあるといひ得よう。
 が、翻つて、この公演の意義を他に求めれば、築地改築記念の儀式的公演として十分重みもあり華やかでもあり、劇場の宣伝としてはもつとも時宜に適し、その上、実際を観ると多少一般に受け容れられないところもあるにはあるが、総じて真剣な当事者一同の道楽味によつて、この舞台が、専門家にいろいろな問題を提供し、大衆には、珍しく品のいいスペクタクルを与へることに成功してゐることだ。
 忌憚なくいへば、現代においてシェイクスピイヤ劇の真の魅力は、これを劇場に求めることは困難になりつつある。欧洲諸国においてさへ然りである。例へば「ハムレット」のいはゆる「演劇価値」が再認識される前に、いはゆる「現代演劇意識」なるものの再批判が必要になつて来る。
「沙翁の偉大」を論ずる資格が、今日のわれわれにありやなしやは別として、極東における「ハムレット」劇演出の記録としては、これがまづ望み得るすべてであらう。(一九三三・一〇)

底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「東京朝日新聞」
   1933(昭和8)年10月11日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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