芸術家擁護の現行法

「芸術」と「法律」とはそんなに縁の遠いものではないといふことを、私は近頃いろいろな機会に感じるのであるが、この両者の接近が、どうかすると、一国の精神文化の水準を示してゐるのではないかとさへ思はれることがある。
 これは決して、芸術家にも法律の知識が必要であるとか、法律家も芸術に対するひと通りの鑑賞眼を具へてゐてもよからうとかいふやうな問題ではなく、一国一時代の民族的活動が、芸術なる部門に於いて如何に組織化され、合理化されてゐるかにあるのだ。ここで法律といふ言葉は、無論、政治を含んでゐるものと解して欲しい。
 さしづめ、具体的な例を挙げれば、国民の芸術教育に関する施設、一般芸術的事業に対する国費の割当、検閲制度、著作及び出版、興行に関する法規並にその運用等に現はれた国家の意志とその動向が、理想主義的であると、また現実主義的であるとを問はず、一個の文化表象として、国際的矜恃を示すに足るものであるといふ事実を無視するわけには行かぬと思ふ。
 わが国についてこれをみると、早くから、美術と音楽に限つて、官立の学校もあり、官営官選の奨励機関など備はつて、これだけはほぼ近代国家としての面目を保つてゐるやうであるが、文芸殊に演劇に関しては、大学における若干の「学問的研究」を除いては、国民の創造的欲求乃至努力に対して、まだ何等国家的インテレストを示してゐないのである。(先年文楽座に対し若干の補助金をだすことになつたぐらゐのものである)
 が、それはそれとして、今ここで問題にしたいのは、芸術家を含む一般「著作者」なるものの権利擁護に関する現行法律が、昭和六年の改正後、やや必要な補足を見たとはいふものの、まだ、その条文の用語が甚だ「原始的」であるために根本の精神に対してさへ、法律的疑義を生じるといふ不都合が存在してゐることである。
 もつとも重要な一例として、著作権法の第一条を挙げる。
 ――文書演述図画建築彫刻模型写真演奏歌唱其の他文芸学術若くは美術(音楽を含む以下之に同じ)の範囲に属する著作物の著作者は其の著作物を複製するの権利を専有す
 以上の文句で、「文書」うんぬんから「歌唱」に至る一般著作物の分類は、今日からみて、なんとしても時代離れがしてゐるのみならず、「演述」とは何を指すかといふと、「浪花節など」を指すのだといふことであるから、これは実に法律の尊厳にも拘はる話だ。
 さうなると、疑問はいくらでも起つてくる。一昨々年、貴族院における本法改正案の特別委員会で、三島通陽子爵が政府委員に質問をしてをられるが、それに対する答はどうも腑に落ちないものが多い。例へば、舞台装置の著作権は、その範囲が具体的の場合でないと決定が困難だといふのはよろしいとして、舞台監督の台帳即ち演出者の「フットノオト」の如きものは今度の改正案中に含まれてゐないやうだが、将来は著作物として保護を受けるやうになるかどうかといふ質問に対し、「ただ今のお話の問題もこの現行法の第一条文芸学術若くは美術の範囲に属する著作物の著作者と申しましても、非常に漠然と広い範囲で規定いたしてをりますので、保護の著作物なりや否やと申しますことは、この言葉の解釈に入る訳であります」から「抽象的には決め兼ねるかと思ひます」といふのは甚だ要領を得ぬ。
 更に同じく三島氏の「舞踊譜」に関する質問に対し、当局は「……脚本でありませぬ、唯舞踊の手振りといふ実際の実演芸術に付てはまだ保護がございませぬうんぬん」と答へてゐるのは、音楽の演奏を認める以上明かな自家撞着で、映画の記録的役割をも無視した雑駁な解釈ではないかと思ふ。
 なぜかういふ問答が行はれるかといふと、そのよつて来るところは、同じく貴族院議員水野錬太郎氏の次の演説でわかると思ふ。

     著作権法第一条の字句

 水野氏は政府提出の著作権法中改正法律案の修正案を提出されたのであるが、その演説の一部を示せば、
 まづ第一に第一条の第一項中に『文芸学術若くは美術の範囲』といふ字がありますが、その美術といふ字の下にカッコをしてその下に『音楽を含む以下これに同じ』斯ういふ修正であります。其理由は音楽の著作者はどこに入るのであるか、音楽著作物は世間に段々出て来るのであるが、どうも著作権法の中に明かになつて居らぬのであるから、果して保護を受くべき著作物の中に入るのであるかどうかといふことで疑を持つ者があるのであります。(中略)従来はこの音楽著作物といふものは美術著作物の中に入るといふ解釈になつて居るのであります。又条約においてもさういふやうな意味になつて居るのであります。それでありますから、極く厳格に解釈を致しますれば、現行法の美術著作物の中に入ると申して差支ない。然しながらさういふ疑義があります以上は、これを明かにして置くといふことは法律を制定する上に必要でありますから……(後略)
 因に水野氏はベルヌ条約にわが代表として出席され、日本における著作権法の起草者であり、またこの道の権威であることはいふまでもない。
 そこで、右のやうな経過に徴しても、この第一条は可なり法律家の頭を悩まし、また今後も悩ますであらうことは明かであつて、一切の新規な問題は、この一項の解釈如何によつて決せられるともいへるのである。
 そもそも、演劇や音楽の問題が、一国の最高知識を集めた議場で、かくの如く面倒な結果になるといふのは、世の中が日に日に進むからでもなく、また当局の立法技術に欠陥があるからだともいへない。これはわれわれ日本人の文化的教養が、その質と範囲に於いて、各種の社会部門を通じ、極端に分裂し、対立し、食ひ違つてゐるからだと思ふ。
 例へば、同じ知識階級の中でも、職業や専門が違ふと、一般生活事象に対する認識批判はもちろん、日常用語のなかに含まれる「言語的感覚」に至るまで、しばしば不思議なくらゐ疎通を欠いてゐるのである。その根本理由は、過渡期の目前主義を反映する国民教育と政治的理想の変則的状態に存するとみるより外なく、ここにもまた、日本現代文明の傾向が暴露されてゐるのだと思ふ。
 この点についてはいづれ別の機会に詳しく論じたいと思ふが、今試みに、わが著作権法の種本たるベルヌ条約の第一条から、以上問題となつた「文芸学術若ハ美術ノ範囲ニ属スル著作物」といふ文句に相当する原文を拾つてみると、これは、疑ひもなく「oeuvres litt※(アキュートアクセント付きE小文字)raires, scientifiques et artistiques」であつて、この最後の artistiques なるフランス語を翻訳する際、これに「美術の」といふ日本語を当てたのである。これが今日、面倒な問題を惹起するただ一つの原因ではないかと思ふ。
 なぜなら、明治三十二年頃の日本語には、或は、他に適当な訳語がなかつたかもしれぬが、現在の日本語では、この場合 artistique を「芸術ノ」と訳するのは、ほとんど常識になつてゐるからである。従つて、この条文を「文芸学術若ハ芸術ノ範囲」とするか、或は寧ろ、「文学科学若ハ芸術ノ範囲」とすれば、美術(音楽ヲ含ム以下コレニ同ジ)などといちいちしなくても、「芸術」なら、誰が考へても、美術は固より、音楽も含めば演劇も含み、その他一切の進化途上にある美的創造物を含み得るわけであつて、条文の解釈上、原則的な疑義を生じる恐れはまづないと思ふ。
 法律文の誤訳指摘をしてゐるやうで、いささか気がさすが、実はこんな単純な「見落し」を、却つて専門の法律家なるが故に発見し得ず、そのために個々の問題の適用に当り、法の精神を逸して、条文解釈上の昏迷を来たしてゐるのだとしたら、一日も早く字句の改正をして欲しい。或はまた「芸術」といふ言葉に対する不安、つまり「語義」乃至「語感」の不徹底が、この改正を躊躇させるのであるとしたら、それこそ、帝国大学あたりの専門家に質されんことを希望する。

     俳優演技の著作権

 最近ちよつと問題になりかけたいはゆる「演出者」の著作権の如きは、三島通陽氏の貴族院に於ける質問通り、現行の法文に照すと、やや拠りどころがないやうに見えるが、それが「芸術的」創作物の範囲に含まれる以上、精神に於いて、当然、本法の保護を受くべきものであり、現に、フランスなどは、法廷記録として「演出」(mise en sc※(グレーブアクセント付きE小文字)ne)に関する幾多の判例をもつてゐるやうである。
 ところで、三島氏の舞台装置に関する質問に対し、当局は明確な返答ができなかつたやうであるが、すると、本法最初の起草者たる水野錬太郎氏が、該質問を補足し、「パノラマ」の如きは如何と追究を試みてをられる。すると、政府委員は『「パノラマ」ノヤウナ一ツノ纏ツタモノデアリマスレバ、是ハ疑ナク著作物ト認メラレルカト思フ』と答へてゐる。私はその速記録を読んで、現在、著作物として法律的に保護せらるべき「パノラマ」とはどんなものか、これは恐らく、三十年前の著作権法解説には好都合な一例であつたかもしれぬと、微笑を禁じ得なかつた次第である。
 然しながら、「パノラマ」の著作権を認めるなら、単なる想念(id※(アキュートアクセント付きE小文字)e)としてでなく、一つの「形態」(forme)として記録し得る限り、「動き、かつしやべるパノラマ」の著作権も当然認められていい筈だと私は信じ、かつ、舞台芸術の組織に関する常識を、この際、立法に携はる諸家が一応はもつてゐて欲しいものだと希望するのである。
 参考のために、現代演劇を構成する一々の要素を挙げれば、
 一、脚本(作者)
 二、演出(演出家或は舞台監督)
 三、装置(装置家、場合によつて照明、音響効果、衣裳等の考案者もこれに列る)
 四、演技(俳優)
 五、時として舞踊振付並に伴奏音楽
 大体、以上の如き専門家の協力乃至統制的機構によつて、演劇は、一個の「芸術的著作物」となるのである。
 この場合、それぞれの分担領域が明瞭に「独創性」(この言葉は本法第二十二条に使用されてある)を有するかどうかは、一に専門家の鑑定にまつべきであらうと思ふ。
 そのうち、俳優の演技のみは、今日まで著作物と見なすために困難な事情にあつたが、それでもなほ、日本の歌舞伎劇や西洋の古典劇に於いて、例の「型」なるものは、何代目何某の「型」とか、英国俳優アア※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ングのハムレット第何場の「型」などと称へ、暗にその「著作者」の人格権を認めて来たのである。
 近代演劇は、脚本作家と俳優、この両者の協同以外に、演出家(metteur en sc※(グレーブアクセント付きE小文字)ne)といふ専門家の出現を促した。(従来は、俳優中の座頭若くは興行主、又は作者自ら舞台全体の考案乃至統一指揮に任じてゐたが、脚本の進化及び演劇理論の発達と共に、舞台効果を目指す特殊技術が要求されはじめた結果である)
 この点、演劇よりも映画に於いて、いはゆる「監督」なるものの職能が、一般に知れわたつてゐる。

     演出家の権利擁護

 そこで、再び演出家の問題に還るが、現在「演出」なる仕事の領域は、まだ理論的にも実際的にも、限定されてゐないのである。言ひ換へれば、「演出」の範囲といふものは「演出家」次第で、いろいろに変化する。演出家が脚本を「改竄」し、俳優に命令し、装置家を助手扱ひにするといふ極端な「演出法」もあり、また一方では、演出家が、脚本の指定を墨守し、俳優の註文に応じ、装置家の工夫した装置に従つて「動き」をつけるといふ消極的な「方法」さへあるのである。
 が、要するに、その職能を原則的に示せば、「先づ脚本の解釈に標準を与へ、その精神を具象化するために最も有効な機械的設備を考案し、その製作を監督する一方、俳優相互の有機的関係を誘導規整することによつて舞台全体の統一調和を計る」にあるのである。
 フランス語で、Mise en sc※(グレーブアクセント付きE小文字)ne なる語は、しばしば、「舞台装置」なる狭義の意に解される例もあるが、これは、装置の考案が、「演出」の主要な部分を占める場合に限られるやうである。
 然しながら、現在、日本の商業劇場に於いても、興行政策として舞台監督(演出者)の名を、作者のそれと並べて出し、装置家の名も挙げてゐるくらゐで、ある舞台が甲の「演出」であるといふことは、乙の「演出」と異る何物かを予想させ、また、事実、さういふ結果を示すと考へて差支ないのであつて、かかる地位を占める以上、当然、演出家はその「演出」の「独創性」によつて、完全に著作権法の保護を受け、如何なる契約によるにもせよ、少くともその人格権は飽くまでもこれを主張すべきものであると、私は信じる。
 即ち興行者が、某演出家にある脚本の演出を依頼した場合、雇傭関係によつてその興行権を興行者が所有すると否とに拘はらず、その興行者は、以後に於ける同一脚本の同一上演に当り、該演出家の許可を得べきはもちろん、「ソノ同意ナクシテ」当人の氏名を「隠匿する」ことはできないのである。況んや、多少の「改竄」を加へて、他人の名義とするなどは、立派に著作権侵害である。
 序に、フランスに於ける面白い判例を挙げれば、初演の際、某演出家にその脚本の演出を委ねた作者は、その脚本を、別の興行者の手によつて再演せしめる場合、同じ演出によるとしても、その演出家の同意を得る必要なく、また、作者として金銭上の義務を負はなくてもよいといふのである。もちろん、同意を得る必要がないだけで、この演出家の氏名を発表すべきであらうが、この点、興行者と演出家との関係、作者と演出家との関係に、何等かフランス流な解釈がひそんでゐるやうに思はれる。
 要するに、演出家に限らず、一般著作者の人格権に関しては、これを法文によつて詳細に規定することは困難であるとされてゐるので、その場合場合に応じて、有効な判例を残すべきものであらうと思ふ。
 それ故、著作権者対興行者の問題は、十分に隔意なき両者間の折衝によつて、もつとも合理的な協定に到達する以外、進んで、法廷に黒白を争ふことも亦、将来に禍根を残さぬ明朗な態度であると同時に、わが国の文化水準を多少とも高めることに役立ちはせぬかと、私は考へる。
 序に述べておきたいことは、著作者と出版者の間には、現在、さほど面倒な問題は起らぬやうであるが、興行者(職業的なると否とを問はず)との間には、絶えず悶着が繰り返され、多数の劇場乃至劇団は一種の著作権侵害常習犯の観があるのである。これは無論、当事者の法律的知識が足りないところからも来てゐるが、第一に、劇場組織が合理化されず、興行主と著作者とを連結する機関が完備してゐないのである。従つて、興行者自身が、実は知らぬ間に、著作者の権利を蹂躙してゐるやうな場合が多い。畢竟、責任者たるべき某々使用人の怠慢乃至単純な忠義立てから生じた結果なのである。そこで、「すべきことはする」といふ内外に向つての興行者の紳士的宣言は、必ず、この種の紛争を少くし得ると思ふ。これまた、日本の文化のために是非、興行者側の反省を促したいものである。(一九三四・三)

底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「東京朝日新聞」
   1934(昭和9)年3月14、15、16、17日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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