埴輪はにわというのは、元来はその言葉の示している通り、埴土で作った素焼き円筒のことである。それはたぶん八百度ぐらいの火熱を加えたものらしく、赤褐色を呈している。用途は大きい前方後円墳の周囲の垣根であった。が、この素焼きの円筒の中には、上部をいろいろな形象に変化させたものがある。その形象は人間生活において重要な意味を持っているもの、また人々が日ごろれ親しんでいるものを現わしている。家とか道具とか家畜とか家禽とか、特に男女の人物とかがそれである。伝説では、殉死の習慣を廃するために埴輪人形を立て始めたということになっているが、その真偽はわからないにしても、とにかく殉死と同じように、葬られる死者を慰めようとする意図に基づいたものであることは、間違いのないところであろう。そういう埴輪の形象の中では、人物、動物、鳥などになかなかおもしろいのがある。それをわれわれは、わが国の古墳時代の造形美術として取り扱うことができるのである。
 わが国の古墳時代というと、西暦紀元の三世紀ごろから七世紀ごろまでで、応神、仁徳朝の朝鮮関係を中心とした時代である。あれほど大きい組織的な軍事行動をやっているくせに、その事件が愛らしい息長帯姫おきながたらしひめの物語として語り残されたほどに、この民族の想像力はなお稚拙であった。が、たとい稚拙であるにもしろ、その想像力が、一方でわが国の古い神話や建国伝説などを形成しつつあった時に、他方ではこの埴輪の人物や動物や鳥などを作っていたのである。言葉による物語と、形象による表現とは、かなり異なってもいるが、しかしそれが同じ想像力の働きであることを考えれば、いろいろ気づかされる点があることと思う。
 神々の物語にしても、この埴輪の人物にしても、前に言ったようにいかにも稚拙である。しかし稚拙ながらにも、あふれるように感情に訴えるものを持っていることは、否むわけに行かない。それについてまず第一にはっきりさせておきたいことは、この稚拙さが、原始芸術に特有なあの怪奇性と全く別なものだということである。わが国でそういう原始芸術に当たるものは、縄文土器やその時代の土偶などであって、そこには原始芸術としての不思議な力強さ、巧妙さ、熟練などが認められ、怪奇ではあっても決して稚拙ではない。それは非常に永い期間に成熟して来た一つの様式を示しているのである。しかるにわが国では、そういう古い伝統が、定住農耕生活の始まった弥生式文化の時代に、一度すっかりと振り捨てられたように見える。土器の形も、模様も、怪奇性を脱して非常に簡素になった。人物や動物の造形は、銅鐸どうたくや土器の表面に描かれた線描において現われているが、これは縄文土器の土偶に比べてほとんど足もとへもよりつけないほど幼稚なものである。こういう弥生式文化の時代が少なくとも三世紀ぐらい続いたのちに、初めて古墳時代が現われてくるのであるから、埴輪が縄文土器の伝統と全く独立に作り始められたものであることはいうまでもない。しかもその出発よりよほど後に、たぶん五世紀の初めごろに、人物の埴輪が現われ出たとなると、この埴輪の稚拙さが日本の原始芸術の怪奇性と全く縁のないものであることは、一層明らかであろう。
 埴輪人形の稚拙さについて第二に注目すべき点は、この造形が必ずしも人体を写実的に現わそうなどと目ざしていないという点である。それは埴輪の円筒形に「意味ある形」をくっつけただけであって、埴輪本来の円筒形を人体に改造しようとしたのではない。このことは四肢の無雑作な取り扱い方によく現われている。両足は無視されるのが通例であり、両腕も、この人物が何かを持っているとか、あるいは踊っているのだとか、ということを示すためだけに付けられるのであって、肩や腕を写実的に表現しようなどという意図は全然見られない。しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑かっちゅう」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとは全く段違いの細かな注意をもって表現されている。甲冑の材料である鉄板の堅い感じ、その鉄板をつぎ合わせているびょうの、いかにもかっちりとして並んでいる感じ、そういう感じまでがかなりはっきりと出ているのである。それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。甲冑のほかには首飾りの曲玉まがたまや、頭の飾りなどのような装飾品も、「意味ある形」として重んぜられていたらしい。しかし何と言っても「意味ある形」のなかには、「顔面」の担っている意味よりも重い意味を担っているものはない。その点から考えると、埴輪人形の顔面が体の他の部分と著しく異なった印象を与えるのは、いかにも当然のことなのである。
 顔面は、眼、鼻、口、ほおあごまゆひたい、耳など、一通り道具がそろっているが、中でも眼、鼻、口、特に眼が非常に重大な意味を担っている。原始的な造形において眼がそういう役目を持っていることは、フロベニウスに言わせると、南フランスの洞窟の動物画以来のことであって、なにも埴輪人形に限ったことではないのであるが、しかし埴輪人形において特にこのことを痛感せしめられるということも、軽く見るわけには行かない。埴輪人形の一番の特色は眼である。あの眼が、あの稚拙な人物像を、異様に活かせているのである。
 と言ってもあの眼は、無雑作に埴土をくりぬいて穴をあけただけのものである。通例はその穴がしい形の、横に長い楕円形になっていて、幾分眼の形を写そうとした努力のあることを思わせるが、しかしそれ以外には眼を写実的に現わそうとした点は少しもない。時にはその穴がまん丸であることさえもある。しかしそういう無雑作な穴が二つ並んであいていることによって、埴輪の上部に作られた顔面に生き生きとした表情が現われてくることを、古墳時代の人々はよく心得ていたようにみえる。二つの穴は、魂の窓としての眼の役目を十分に果たしているのである。
 古墳時代の人々がどうしてそれに気づいたかを考えてみるためには、埴輪人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、時には二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼は実に異様な生気を現わしてくるのである。もしこの眼が写実的に形作られていたならば、少し遠のけばはっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくり抜いた空洞の穴に過ぎないのであるが遠のけば遠のくほどその粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きが現われれば、顔面は生気を帯び、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、またそういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。
 こう考えてくると埴輪の人形の持っているあの不思議な生気のなぞが解けるかと思う。埴輪人形の製作者は人体を写実的に作ろうとしたのではない。ただ意味ある形を作ろうとしただけである。しかし意味ある形のうちの最も重要なものが人の顔面であったがゆえに、ああいう埴輪の人形ができあがったのである。その造形の技術はいかにも稚拙であるが、しかし「人」を顔面によって捕えようとする態度は、技術と同じに稚拙とはいえない。技術を学び取れば、それに乗って急にあふれ出ることのできるようなものが、その背後にある、と私は感ぜざるを得ない。従って、これらの稚拙な埴輪人形を作っていた民族が、わずかに一、二世紀の後に、彫刻として全く段違いの推古仏すいこぶつを作り得るに至ったことは、私にはさほど不思議とは思えないのである。

底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「世界」
   1956(昭和31)年1月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
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