青春を通り越したというのでしきりに残り惜しく感じている人があるようですが、私はまだその残り惜しさをしみじみ感ずるほどな余裕をもっていません。それよりも、やっと自分がハッキリしかかって来たということで全心が沸き立っているのです。時々自分の青春を振り返ってみる時にはそこに自分の歩かなければならなかった道と、いかにも「うかうかしていた」自分の姿とを認めるきりで、とても過ぎ去った歓楽を追慕するような心持ちなどにはなれません。もう少し年を取ったらどうなるかわかりませんが、今のところでは回顧するたびごとにただ後悔に心臓を噛まれるばかりです。
 しかし私は青春と名のつく時期を低く評価してはおりません。恐らくそれは、人生の最も大きい危機の一つであるだけに、また人生の最も貴い時期の一つでしょう。その貴さは溌剌たる感受性の新鮮さの内にあります。その包容力の漠然たる広さの内にあります。またその弾性のこだわりのないしなやかさの内にあります。それは青春期の肉体のみずみずしさとちょうど相応ずるものです。そうして年とともに自然に失われて、特殊の激変に逢わない限り、再び手に入れることのむずかしいものです。
 この時期には内にあるいろいろな種子が力強く芽をふき始めます。ちょうど肉体の成長がその絶頂に達するころで、余裕のできた精力は潮のように精神的成長の方へ押し寄せて来るのです。で、この時期に萌えいでた芽はたとえそれが生活の中心へ来なくても、一生その意義を失わないものだと聞きました。たとえば芸術家の晩年の傑作などには、よく青春期の幻影が蘇生し完成されたのがあるそうです。また中年以後に起こる精神的革命なども、多くはこの時期に萌え出て、そうして閑却されていた芽の、突然な急激な成長によるということです。それほどこの時期の精神生活は、漠然とはしていても、内容が豊富なのです。
 しかし危険はこれらの一切が雑然としている所にあります。そこには全体を支配し統一するテエマがありません。従ってすべてがバラバラです。つまらない芽を大きくするためにいい芽がたくさん閑却されても、それを不当だとして罰する力はないのです。
 実を言えばそのテエマは、おのおの独特な形で、あらゆる人間の内にひそんでいるのであります。そうしてそれがハッキリと現われて来れば、雑然としていたものはおのおのその所を得て、一つの独特な交響楽を造り出すのであります。しかしそれは何人といえども予見し得るものではありません。特に青春の時期にある当人にとっては、それは全然見当のつかない、また特別の意義がありそうにも思えない、未知数に過ぎないのです。それが初めから飲み込めているほどなら、青春は危機ではありません。その代わり新緑のような溌剌としたいのちもないでしょう。
 そこでこの青春を、心の動くままに味わいつくすのがいいか、あるいは厳粛な予想によって絶えず鍛練して行くのがいいか、という問題になります。
 青春は再び帰って来ない。その新鮮な感受性によって受ける全身を震駭するような歓楽。その弾性に充ちた生の力から湧き出て来る強烈な酣酔。それはやがて永遠に我々の手から失われるだろう。一生の仕事は先へ行ってもできる。青春は今きりだ。これを逸すれば悔いを永久に残すに相違ない。味わえるだけの歓楽を味わいつくそうではないか。こういう心持ちになる時期のあることは、誰でもまぬかれ難い所だろうと思います。恋、女、酒あるいは芸術、そういうものは猛烈に我々を誘惑にかかるのです。時にはそのためにすべての顧慮を捨てて、底まで溺れ切ろうという気も起こります。それが何となく英雄的にさえも感ぜられるのです。
 これは一方から言えばいい事に相違ありません。生の享楽を知らないものは死んでいるのも同然です。底まで味わおうとしないのは生に対する卑怯です。もとより享楽に走るものはいろいろな過失に陥りはしますが、ゲエテも言ったように、
Wer nicht mehr liebt und nicht mehr irrt,
Der lasse sich begraben.
です。頭がぐらぐらしたり心が沸き立ったりするような目に逢うのも、生きがいがあるというものです。
 しかしここには見のがすことのできない危険があります。それは歓楽に身をまかせることによって、他のさまざまな欲望を鈍らせることです。理想が何だ、道徳が何だ、人生が何だ、といったようなのんきな心持ちになることです。ゲエテのように、「全的」に、「充満」の内に生きることを心がけていた人なら、「過去を悔いず未来を楽しまずただ常に現前を味わえ」、という法則を自己の生活の上に掲げても、別に危険はなかったでしょう。しかし青春の時期にあるものは、この全的に生きるということを最も解していないのです。どこか一方へ偏すればそれきり他の方面を無価値に見てしまうほど、彼らの内のすべてのことの根が浅いのです。現前を味わっている内に、成長すべきものが成長せず、いつか人格がいびつになって行きます。そうして、ほんとうの生の頽廃まで行かないにしても、とにかく道義的脊骨を欠いた、生に対して不誠実な、なまこのような人間になってしまいます。これは確かに大きい危険です。
 それでは青春を厳格に束縛し鍛錬して行くのがいいか。――もちろんそれはいい事です。青春期に道義的情熱をあおり立てるのは、どの他の時期よりも有効です。しかしこの事は多くの場合に方法を誤られていると思います。なぜなら、道義的情熱は内から必然に湧いて出なければ何の意味もない。型にはめるように外から押しつけるのでは、ただ内にある生命を窒息させるばかりです。恋をしてはいけない、女に近づいてはいけない、小説を読んではいけない、芝居を見てはいけない、――要するに生を味わってはいけない! それでどんな人間ができますか。乾干ひからびた、人間知のない、かかしのような人間です。鼻先から出る道徳に塗り固められて何事も心臓でもって理解することができず、また何事も心臓から出て行為することのできない、死人のような人間です。ゲエテも言ったように、迷うということは生きる証拠です。道義の力は迷った後にほんとうに理解せられる。まず生かしてみないでほんとうの生を獲得させようというのは、もともと無理なのです。そんな型にはめるような鍛練は、害こそあれ益はありません。今の青年教育は大概この弊に陥っています。ただ、性格のしっかりした青年は、反抗心によってこの教育の害悪から救われているのです。
 私は右の二つの態度のいずれをも肯定し、いずれをも否定しました。ではどうしろというのか。私はこのことについて一つのモットオを持っています。それは「すべてを生かせよ、一切の芽をつちかえ」というのです。いわば自然に成長するままに、歪にならないようにして、放任しておこうというのです。そうしてただ、その芽の成長を助ける滋養分だけを、与えようというのです。その成長が自分の希望するような人格を造り上げて行かなくても、それは仕方がありません。それは宿命ですから。人力のいかんともしがたいものですから。しかし私は、その成長が歪になることだけを、非常に恐れています。一切の芽がその当然成長すべきだけ成長しないのは、確かに罪悪です。それは当人の罪であるばかりでなく、また傍にいて救いの手を貸してやらない者も、責めを負わねばなりません。
 ここに私は困難な、そうして興味ある問題を見いだします。なぜなら、青春期に我々の内に萌えいでた芽は、その滋養を要する点で一々異なっているからです。またその滋養が機械的に与えられるものではないからです。
 たとえば青春期に著しい恋愛の憧憬や性慾の発動には、それを刺激し強める種類の滋養は必要でありません。なぜなら、そういう種類の滋養はわざわざ与えるまでもなく、日常の生活にありあまるほどあるからです。街を歩く。そこに美しい女がいます。その流動する眼や、ふっくりと持ち上がった頬や、しなやかな頸や、――それはいや応なしに眼にはいって来ます。友人に逢う。恋の悩みを聞かされます。その甘い苦しみが人を刺激しないではいません。この種類の刺激はとても数えきれないのです。ことに餓えたるものにとっては、些細な見聞も実に鋭敏な暗示として働きます。しかも恋愛や性慾が人間の性質の内で特にこのように刺激されなければならないわけはないのです。それは刺激されなくとも必要なだけには成長するのです。で、この方面にはむしろ鎮静剤が必要なくらいです。特に恋愛の深いまじめな意味に対する感受性を鈍らせないために、性慾の暴威を打ちひしぐ必要があります。そのためには人格内の他の芽を力強く成長させなくてはならないのです。ワレンス夫人がルッソオに与えたような親切な救助も、あるいは一法かも知れませんが、しかしあれはすべての人に望むわけには行きません。やはり人は自ら救わなくてはなりません。
 私は恋愛や性慾に身を委せるのがいきなり悪いと言うのではありません。ただそういう方面の芽は自分で生かせようと努めないでもどんどんのびて行くものだというのです。そうしてそののびて行くことはいいことなのです。しかし「すべてを生かせよ、一切の芽を培え」という以上、それだけがのびればいいと言うわけには行きません。もっと他の美的な、道義的な宗教的な、さまざまな芽に対しても、十分のびるだけの滋養を与えなくてはなりません。時には残忍とか狡猾とか盗心とかいうものに対してまでも滋養を与えなくてはならないかも知れません(しかしこれらは性慾などと同じく直接的な人間の欲望で、培養するまでもなく人間の内に生きているのでしょう。そうしてそれ以上に強められる必要もないでしょう。なぜなら他の欲望がそれを押えつけようとしていますから)。で、青春の時期に最も努むべきことは、日常生活に自然に存在しているのでないいろいろな刺激を自分に与えて、内に萌えいでた精神的な芽を培養しなくてはならない、という所に集まって来るのです。
 これがいわゆる「一般教養」の意味です。数千年来人類が築いて来た多くの精神的な宝――芸術、哲学、宗教、歴史――によって、自らを教養する、そこに一切の芽の培養があります。「貴い心情」はかくして得られるのです。全的に生きる生活の力強さはそこから生まれるのです。それは自分をある道徳、ある思想によって縛ることではありません。むしろ自分の内のすべてを流動させ、燃え上がらせ、大きい生の交響楽を響き出させる素地をつくるのです。
 この「教養」は青春期においては、その感覚的刺激の烈しくない理由によって、きわめて軽視されやすいものです。しかしその重大な意義は中年になり老年になるに従ってますます明らかに現われて来ます。青春の弾性を老年まで持ち続ける奇蹟は、ただこの教養の真の深さによってのみ実現されるのです。
 元来肉体の老衰は、皮膚や筋肉がだんだん弾性を失って行くという著しい特徴によって、わりに人の目につきやすいようですが、精神の力の老衰は一般に繊細な注意を脱れているように見えます。しかしわが国では、文芸家や思想家の多くは、四十を越すか越さないころからもう老衰し始めています。これはおもに青春期の「教養」を欠いたからです。彼らは青春期の不養生によって、人間としての素質を鞏固ならしめることができませんでした。頭と心臓がすぐに硬くなりました。人間の成長がすぐ止まりました。彼らの内に萌え出た多くの芽は芽の内に枯れてしまいました。そこへ行くと夏目先生はやはり偉かったと思います。先生の教養の光は五十を越してだんだん輝き出しそうになっていました。若々しい弾性はいつまでも消えないでいました。
 私は誤解をふせぐために繰り返して言います。この「教養」とはさまざまの精神的の芽を培養することです。ただ学問の意味ではありません。いかに多く知識を取り入れても、それが心の問題とぴったり合っているのでなくては、自己を培うことにはなりません。私はただ血肉に食い入る体験をさしているのです。これはやがて人格の教養になります。そうして、その人が「真にあるはずの所へ」その人を連れて行きます。その人の生活のテエマをハッキリと現われさせ、その生活全体を一つの交響楽に仕上げて行きます。すべての開展や向上が、それから可能になって来るのです。
 この「教養」は青春の歓楽を味わいつくす態度や、厳粛に自己を鞭うって行こうとする態度と必ずしも相容れないものではありません。人それぞれにその素質に従って、いずれの態度をとる事もできるでしょう。しかしいずれの態度をとるにしても、「教養」は人を堕落から救います。そうして人をその真の自己へ導いてゆきます。

底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
   2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1917(大正6)年4月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
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