今日もいそがしき故、薩州やしきへ参りかけ、朝六ツ時頃より此ふみしたゝめました。当時私ハ京都三条通河原町一丁下ル車道酢屋(すや)に宿申候。
清二郎ニ御頼の御書同人より受取拝見仕候。同人も兼而(かねて)御申越ニてよろしき人物とてよろこび候所、色※(二の字点、1-2-22)(はなし)聞候所何もをもわくのなき人ニて、国家の御為命すてるにくろふ(苦労)ハせぬ位なものニて、当時私ハ諸生五十人(ばかり)ハつれており候得ども、皆一稽古(ひとけいこ)も出来(ママ)候ものニて、トモニ国家の咄しが出来候。清二郎ハたゞつれてあるく位の事ニて、今すこし人物なれバよろしい、又ハまあすこし何かげい(芸)でも出来れバよろしいと存じ、此上すいきよふ(酔狂)すれバ、実ニ御蔵のにわとりとやらにて御座候。今一、二年もくろふ致し候得バ、すこしハやくにたち可申か、まあ今の所でハ何もしよふ(仕様)のなき人ニて御座候。
当時他国ニホネおり候人ニハなんぼあほふ(阿呆)と云人でも、お国の並※(二の字点、1-2-22)の人の及所でハこれなく、先日大坂のおやしきニ行て御用人やら小役人ニであい候所、證判役シヨヲハンヤク小頭役コガシラヤクとやら云もののつらがまへ京都キヨヲト関白クワンパクさんの心もちにて、きのどくにもありおかしくもあり、元より私ハ用向と申てハなし。ものも不申候得ども、あまりおかしく候故、後藤庄次郎ニも申候所、同人も云にハ私しハあのよふなものおつかハねばならぬ、此うるさいことおさつ(察)して下ダされ、おまへがたハ実ニうらやましいと申候て、わらい申候。坂本清次郎も右よふのばけもの(化物)よりハよほどよく候。
○先頃より段※(二の字点、1-2-22)の御手がみ被下候。おゝせこされ候文ニ、私を以て利をむさぼり、天下国家の事おわすれ候との御見付のよふ存ぜられ候。
○又、御国の姦物役人カンブツヤクニンニだまされ候よふ御申こし。
右二ヶヂヨヲハありがたき御心付ニ候得ども、およバずながら天下ニ心ざしおのべ候為とて、御国よりハ一銭一文のたすけおうけず、諸生シヨセイの五十人もやしない候得バ、一人ニ付一年どふしても六十両位ハいり申候ものゆへ、利を求メ申候。○又御国の為ニ力を尽すとおゝせらるゝが、是ハ土佐で生レ候人が、又外の国につかへ候てハ、天下の大(ママ)論をするに諸生ニまで二君ニつかへ候よふ申され、又女の二夫ニつかへ候よふ申て、自身の(ママ)論が貫らぬきかね候故ニ、浪人しつけるに、又ハ御国をたすけるに致さねバ、ゆかぬものニて候。
夫で御国よりいで候人※(二の字点、1-2-22)ハ、皆私が元トにあつまりおり申候ゆへ、もふ土佐からハおかまいハなく、らくにけいこ(稽古)致しおり候。此頃私しも京へ出候て、日※(二の字点、1-2-22)国家天下の為、義論ギロン(ママ)致しまじハり致候。御国の人※(二の字点、1-2-22)ハ後藤庄次郎、福岡藤次郎、佐々木三四郎、毛利荒次郎、石川清之助(此人ハ私同よふの人。)又望月清平(これハずいぶんよきおとこナリ。)
中にも後藤ハ実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニハあるまいと存候。そのほかの人※(二の字点、1-2-22)は皆少※(二の字点、1-2-22)づゝハ、人がら(柄)がくだり申候。清二郎(ママ)が出かけてきたニ付て、此人ニも早※(二の字点、1-2-22)に内達致し、兄さん(権平)の家にハきずハ付ハすまいかと、そふだん致し候所、夫レハ清次郎が天下の為に御国の事ニ付て、一家の事を忘れしとなれバ兄さんの家ニハきずハ付まいと申事なり、安心仕候。かれこれの所御かんがへ被成、姦物役人にだまされ候事と御笑被下まじく候。私一人ニて五百人や七百人の人お引て、天下の御タメするより廿四万石を引て、天下国家のの(ママ)御為致すが甚よろしく、おそれながらこれらの所ニハ、乙様の御心ニハ少し心がおよぶまいかと存候。
○御病気がよくなりたれバ、おまへさんもたこく(他国)に出かけ候御つもりのよし。
右ハ私が論があります。
今出てこられてハ実ニ龍馬の名と云ものハ、もはや諸国の人※(二の字点、1-2-22)しらぬものもなし。
そのあねがふじゆうおして出て来たと云てハ、天下の人ニたいしてもはづかしく、龍馬も此三、四年前ニハ、人もしらぬヤツコなれバよろしく候得ども、今ハどふもそふゆうわけニハまいらず、もしおまへさん出かけたれバ、どふしても見すてゝハおかれぬ。又せわ(世話)おせんならん。其セ話おするくらいなれバ、近日私しが国にかへる時、後藤庄次郎へも申候て、蒸気船より長崎へ御つれ申候。兼而後藤も老母と一子とがあるとやら
ニて、是も長崎へつれだすこのへんのことハとて色々咄合仕候ごくない/\。私しハ妻一人ニのことなり、て留守の時に実ニこまり候から、御かんがへ被成べく候。いやでも乙様お近日私し※(二の字点、1-2-22)(じきじき)に、蒸気船より御とも致し候。短銃タンボヲおこせとのこと御申、是ハ妻ニも一ツつかハしこれあり。
長サ六寸(ばかり)発込ハツコミクハイ剣よりハちいさけれども、人おうつに五十間位へた(ママ)ゞりてハ打殺すことでき申候。其つれが今手もとにこれあり候得ども、さしあげ不申候。其故ハ今御国のことお思ふニ、なにぶん何も、ものしらぬやつらがやかましくきんのふ(勤王)とやら、そんのふ(尊王)とやら天下の事おぬれてゞ粟つかむよふいゝちらし、そのものらが云ことおまことゝおもい、池のかゝさんや杉やのごけ(後家)さんや、又ハおまへさんやが、おもいおり候よふす、又兄さんハ島の真次郎や佐竹讃次郎やとつきあい候よふすなり。
おまへさんがたたこく(他国)へでれバどふでもして世渡りができるよふニおも(思)ハしやるろふが、なか/\女一人のよわたりハ、どのよふくらしても一トとふりハ一年中ニ、百二十両もなけれバ参り不申。
私しハ妻一人のみならず、おまへさん位ハおやしない致すことハやすいことなれども、女の天下の為ニ(土佐)を出と云わけにハまいらぬものゆへ、ぜひ兄さんの○しつぽんしたれバお家にかゝり申候あいだ、私しの御国にかへるまで死でも御まち可成候。
後藤らとも内※(二の字点、1-2-22)わ、はなし合ておきます。
○そして当時ハ戦のはじまるまへなれバ、実ニ心せわしく候中ニ、又あね(姉)さんが出かけ候得バ、清次郎一人でさへ此頃のしゆつぽんハ、よほどはなぐずなれども、おとこであるきに、まあをさまりハ付申べし。前後御察し(つかはさるべく)候。
小高坂(高知城西)ヘンのむすめまで、きんのふ(勤王)とか国家の為とか、あわて(ママ)さがし夫が為ニ女の道おうしない、わかき男とくらがり咄ししたがり、此頃ハ大坂の百文でチヨツトねるそふか(惣嫁)と申女郎のよふなもんぢやと申ことニて御座候。此ことお小高坂辺ニて心ある人※(二の字点、1-2-22)ニハ御申聞被成べく候。
○私しらの妻ハ日※(二の字点、1-2-22)申聞候ニハ、龍馬ハ国家の為骨身ホネミをくだき申べし、しかれバ此龍馬およくいたわりてくれるが国家の為ニて、けして天下の国家のと云ことハいらぬことと申聞在之候。夫で日※(二の字点、1-2-22)ぬいもの(縫物)はりもの(張物)致しおり候。そのひまニハじぶんにかけ候ゑりなどのぬいなど致しおり候。そのひまニハ本よむこといたせと申聞候。
此頃(ピストヲルたんぽふ)ハ大分よくウチ申候。誠ニみよふな女ニて候得ども、私しの云ことよく聞込ミ又敵お見て白刃をおそるゝことふしみのことなどおもいあわせたまふべし。おしらぬものニて、べつにりき(力)みハせねども、又いつかふ(一向)へいぜい(平生)とかわりしことなし。これハおかしきものにて御座候。
かしこ
六月廿四日
龍馬
姉上様
おやべ様
追白、はるいがかんざし(簪)おこ(寄越)してくれよと申来りたれども、おつと(夫)しゆつぽん(出奔)致し候時ニあたりて、かんざしなにものぞ、清次郎ニ小遣でもやりてくれよとでもいゝそふなもんなり。たゞきのどくなるハあに(兄)さんなり。
酒がすぎれバ長命ハできまい。又あとハよふし(養子)もあるまい。龍馬がかへるおまてバ清次郎ハつがふ(都合)よくだしてやるものを、つまらぬでよふ(出様)おした。
七月頃はたけ(畑)にはへた、おくればへのまうりや、きうりの如し。
あわれむ人少なし、
かしこ/\。

底本:「龍馬の手紙」宮地佐一郎、講談社学術文庫、講談社
   2003(平成15)年12月10日第1刷発行
   2008(平成20)年9月19日第7刷発行
※底本手紙の写真のキャプションに、(京都国立博物館蔵)とあります。
※丸括弧付きの語句は、底本編集時に付け加えられたものです。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※直筆の手紙の折り返しに合わせた改行は、省いて入力しました。
※「つれだす」からの三つの注記は「このへんのことハごくない/\のことなり、」という一つの文章です。
入力:Yanajin33
校正:Hanren
2010年8月27日作成
2011年6月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。