真澄はもう一本の銚子を皆無にしてしまって二本目の銚子を飲んでいたが、なるたけ長く楽しみたいので、一度注いだ盃は五口にも六口にもそれを甞めるようにして飲んだ。そして、思い出したように銚子を持ちあげて見てその重みを量っていた。
それは秋のはじめでもう十二時近かった。叔母の跫音だけには何時も注意を置いていたが、その叔母ももうとうに寝ていることが判っているので、ほとんど持ち前の暢気をさらけ出して眼をつむってとりとめのないことを考えてみたり、時とするとすこし開けてある中敷の障子の間から外の方を見たりした。外にはうす月が射して灰色の明るみがあった。そこには二三本の小松がひょろひょろと立っており、その根元にはそこここに萩の繁りが見えて虫の声がいちめんに聞えていた。
真澄は盃を持ったなりにまたおもい出したように、斜に見えている母屋の二階の簷に眼をやった。そこには叔母の好みで夏から点けている岐阜提燈の燈があった。何時も寝る時には消すことになっている提燈の燈が、その晩に限って点いているので彼は不思議に思った。火の始末のやかましい叔母も客の疲れで寝たものであろうか、そうだとすると己が往って消して来なくてはならないと思ったが、座を起つのがおっくうであるから、そのうちには蝋燭がなくなって消えるだろう、消えてしまえばべつに危険なこともないから、飲みながら消えるのを待とうとずるいことを考えながらまたそのほうへ眼をやった。と、その提燈は何人かつるしてある釘から除ったように、燈の点いたなりにふわふわと下へ落ちて来た。真澄はしまったと思って盃を置いた。
提燈はそのまま屋根の上へ落ちたが足でもあって歩くように、屋根瓦の上をつるつると滑ってそして下へ落ちた。真澄は不思議に思って提燈を見つめた。その時提燈の燈はちらちらと数瞬するように消えてしまったが、それといっしょに一疋の白い犬の姿がそこに見えた。真澄は眼をひかずにそれを見た。
白い犬の姿はゆっくりと背延びをするように体をのびのびとさしたが、やがて歩きだして中敷の前を掠めて裏門の方へ往った。真澄は彼奴おかしな奴だなひとつ見とどけてやれと思った。彼は起ちあがって中敷の障子を体の出られるぐらいに開け、そこからそっと庭へおりて、裸足のままで冷びえした赭土を踏んで往った。
白い犬は裏門の傍にその姿を見せていた。真澄は怪しい犬に悟られまいと思って、跫音のしないように足を爪だてて歩いた。そして小松のある処ではその下の方を歩いた。そこは阪急線の別荘地に新築した住宅で、裏門の外は、庭の小松といっしょの小松の生えたまだ自然のままの丘であった。その丘と庭の境には丸竹の透し垣をして、それに三条のとげを拵えた針金を引いてあった。
犬の姿はすぐ見えなくなった。真澄はコールターで塗った裏門の扉をそっと開けて、前方を透して見た後に裏門を出て歩いた。
小松林の中には芒の繁りや萩の繁りがあった。芒の軟かな穂が女の子の手のように見える処があった。白い犬はその芒の中に姿を消すことがあった。
すぐなだらかになった丘の上が来た。そこに横穴の古墳の崩れのような大きな石が土の中から覗いている処があった。石の周囲には芒や荊棘が繁っていた。白い犬はその石の傍へまで往くと見えなくなった。真澄は立ち止った。
十六七に見える小柄の女の姿がふと見えた。微黄ろな衣服を着て紅をつけたような赤い唇まではっきり見える。
真澄は眼をってそれを見つめた。と、女の姿は消えてしまった。
真澄は盃を持っている己の姿に気が注いた。気が注くとともに今のは夢であったのかと思った。夢にしては余りに記憶がはっきりしている。提燈の落ちたこと白い犬になったこと中敷から裸足でおりたこと、裏門を開けたこと丘の上の石のことそれから壮い女のこと、皆順序だって思い出されるが、ただ丘の上から室の中へ帰って来た記憶がない。暢気な彼はもうすぐ夢にしてしまって、酒の方へ心を移してまたちびちびとやりだしたが、やがて点滴もなくなったので蒲団を引き出して寝てしまった。
「もし、もし」
枕頭で己を起しているような女の声がするので、真澄は何か用事が出来て婢が起しに来たのではないかと思って眼を開けてみた。それは丘の上で見つけた壮い女であった。真澄はそれが別に不思議でもなかった。
「君はさっきの岐阜提燈だね」
女は笑って聞いていた。
「ぜんたい、君はなんだね」
「べつになんでもありませんよ、あなたのような独身者ですよ」
「同じ独身者にしても、君の方はいろいろの芸を持ってるが、僕の方は、酒を飲むより他に芸はないのだ」
「あなたは、お酒がすきなの」
「好きだけれども、台所の残り酒しか飲まれないのだ」
「あなたは、暢気ね」
「暢気じゃないが、しかたがないよ」
「暢気が好いのですよ、私好きよ、まだお酒が飲みたいのですか」
「飲みたいね」
「じゃ、おあがりなさいよ、あなたにあげようと思って持って来たのですから」
「そうか、そいつはありがたいな」
真澄が起きあがってみると女の傍には膳があって、その上に一本の四合罎と三皿の肴が置いてあった。
「さあ、おあがりなさいよ、私がお酌をしてあげましょう」
女は四合罎の口を抜いて真澄の持った盃に注いだ。
「あなたは、ぜんたい何人ですか」
「何人でもありませんよ、そんなことは好いから、おあがりなさいよ」
「それじゃ聞くまい、聞いたところで、食客ではなんにもならないから」
「そうですよ、聞いたってなんにもなりませんから、聞かずにいらっしゃい、私が時どきお酒を持って来てあげますから」
「そいつはありがたい」
真澄はそれから女を対手にして飲んでいたが、何時の間にか睡ってしまって、朝早く眼を覚ましてみると、いっしょに寝たはずの女もいなければ、正宗の罎も膳もなにもなかった。ただ台所から貰って来た二本の銚子と皿だけが机の上に乗っていた。暢気な真澄は昨夜は変な夢ばかり見たものだと思った。
その夜は客がなかったので酒にありつけなかった。真澄は台所をうろうろして隙があったら樽の口をひねろうと思って隙を見ていたが、婢と叔母の眼が始終あったのでしかたなしに諦めて寝たが、睡っているとまた肩を揺って起す者がある。
「お起きなさいよ、お起きなさいよ」
真澄が眼を開けてみると昨夜の女が来て坐っていた。
「今晩もお酒を持って来ましたよ」
「酒、そいつはありがたいな」
真澄は起きて枕頭に坐った。やはり昨夜のような膳へ四合罎と三皿ぐらいの肴を添えてあった。
「おあがりなさいよ、お酌いたしましょう」
真澄は女に酌をして貰ってその酒を飲んでいい気もちになって寝たが、朝になってみると女もいなければ膳も正宗の罎もなかった。真澄はまた夢を見たものだと思った。
女はその晩もまたやって来て真澄に酒を飲ましたが、朝になって見ると同じように女も酒の器もなかった。しかし、真澄はもう夢とは思わなかった。夢とは思わないが不思議に女の素性とか、きちんと締めてある戸締をどうして開けて来るだろうかと云うような現実的な疑問はおこらなかった。
女は毎晩のように来た。真澄はもう宵に酒を飲む必要がなくなった。半月ばかりしたところである日叔母の室へ呼ばれた。
「真澄さん、あんたは、近比体でも悪くはないかね」
「べつに悪くはありません」
「でも、あんたは、この比、夜が来ると、独言を云ってるそうじゃないか」
「そんなことはありませんよ」
「でも叔父さんが昨夜遅く便所へ往ったついでに、あんたの室の前まで往って覗いてみると、あんたは蒲団の上へ坐って、何か云ってたと云うじゃないかね、どこか悪いでしょう、おかしいじゃないかね」
真澄は女のことが知れたのではないかと思った。叔母も叔父も知っていて、己の気を引くためにこんなことを云ってるのだから、なまじっか隠しだてをしないが好いと思った。
「叔母さん、隠したってだめらしいから云いますが、この比、毎晩僕の処へ女がやって来るのですよ」
叔母は不思議そうな顔をして真澄の顔を見つめた。
「真澄さんは、すこし変だね、あんたが寝床の上に起きあがって、独言を云ってるのは、私がさきに見つけて、叔父さんに云ったのですよ、あんたは、すこし体が悪いよ、明日あたり大阪へ往って医者に見て貰ったら、どう」
真澄は叔母が女のことに一瞥をくれずに己を病人扱いにしているのが癪であった。
「病気じゃありませんよ、女が毎晩ごちそうを持って来てくれるから、話しているのですよ」
「あんたなんかの処へ、何人が酔狂にごちそうまで持って来るものかね、ほんとにあんたは、どうかしてるよ」
「叔母さんこそ、どうかしてるのですよ、嘘と思や、今晩十二時比に来てごらんなさい、きっと来てますから」
「往かなくったって好いよ、あんたは独言を云ってるから、それがほんとなら、今晩来た時に、その方から証拠になるものを貰っておきなさいよ」
「櫛か、指環か、なんか貰っておきますよ」
「でもおかしいのだね、ほんとにあんたは病気じゃない」
「病気じゃありませんよ、大丈夫ですよ」
その晩女が来て酒を飲みはじめたところで、真澄は叔母と約束したことを思い出して、銚子を持っている女の指に眼をやった。白い小さな指にはめた指環の青い玉が光っていた。
「その指環を、僕に貸してくれないかね」
女はちょっと指に眼をやって後に真澄の顔を見た。
「指環、私の指環」
「ああ、その指環だ、一晩貸して貰えば好い、明日の晩には返すよ」
「指環をどうするの」
「叔母が、君と毎晩こうして話しているのを聞いて、病気で独言を云ってると、怪しからんことを云うから、君のことを打ち開けたが、それでもほんとうにしないから、証拠に、君から櫛か指環かを借りて、それを見せてやると云ってあるのだ」
「そんな、つまらんことは好いじゃありませんか、ほんとうにしなけりゃしない方が、今のうちはかえって好いじゃありませんか」
「叔母が失敬なことを云うから、見せてやろうと思うのだ、一晩貸して貰おう、好いだろう、一晩ぐらい、売って酒を飲むようなことはないよ」
真澄は笑いながら盃を口へ持って往った。
「では、明日の晩まで待って頂戴、明日の晩、好い方のを持って来ますから、これは駄目ですから」
「明日の晩じゃいけない、今晩でないと、叔母がばかにするから、好いだろう、証拠になりゃなんでも好い」
女は銚子を置いて左の指で指環の玉をいじりながら困った顔をした。真澄はつと手を出して女の右の手を掴んで己の方へ引き寄せた。
「好いじゃないか、何人かに叱られるのかね」
女は体をずらしてぴったりと真澄に寄り添うた。
「そんなことはないのですけど、これは、すこし理があって、ちょっとでも抜かれないのですもの」
「お願でもしているのか」
「そんなことはありませんよ」
「じゃ、好いだろう、貸しておくれよ」
真澄は好奇心も手伝って右の指を女の指環にかけてとっさにそれを抜こうとした。
「厭よ、厭よ、許して頂戴よ」
女は抜かせまいとして手を引こうとした。真澄はやめなかった。
「厭よ、厭ですよ、あなたは、何時ものようじゃないのですわ、あれ、厭ですよ」
指環は抜けかけた。真澄は小声で笑いながら一思いに抜こうとした。
「厭」
女は叫ぶように云って真澄を突き除けて起ちあがるなり、ひらひらと中敷の方へ走って往ったがそのまま姿が見えなくなった。真澄の開けた覚えのない中敷の戸が二尺ぐらい開いているのが見えた。
女はその晩限り来なくなった。そのうちに正月が来て三日となった。真澄は上福島にいる友人の家へ年賀に往って非常に酔い、夜の十時比阪急線の電車に乗ってやっと花屋敷まで帰って来た。
そこでは真澄の他に四五人の者がおりた。真澄はその人といっしょにプラットホームに立ったところで、眼の前に壮い女の立っているのが見えた。それはあの女であった。
「ああ、君だね」
女はにっと笑った。
「あれからさっぱり来なくなったが、憤ったかね」
「憤りはしないのですが、あなたと別れる時期が来ましたから、もう往かなかったのですよ、でも、今晩は、お名残りに、私の家へ往って話しましょう」
「往っても好いかね」
「好いのですよ、何人も他にいないのです、私、一人ですから」
「じゃ、往こう、遠いかね」
「すぐですよ、いらっしゃい」
女は前に立って線路を横切って別荘地の方へ往った。真澄は酔った足を引きずって後から跟いて往った。
女はすぐ右側にある家の格子戸を開けて入った。
「ここですから、後を締めてください」
二人は玄関をあがって右手の電燈の明るい室へ入った。
「まあ、お酒を出しましょうね」
「今日はもう好い、うんと酔ってるから」
「では、また後にあげましょう、今晩はお名残に泊っていらっしゃい」
真澄は女と他愛のないことを話していたが、何時の間にか女が友禅模様のついたきれいな布団を敷いたのでそのまま横になった。
一睡りした真澄は非常に寒いので眼を覚した。彼は叔父の家の裏手になった丘の上の石の傍で寝ていた。
底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第一巻」改造社
1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年3月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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