※(ローマ数字1、1-13-21)

 暖かな宵の口であった。微赤うすあかい月の光が浅緑あさみどりをつけたばかりの公孫樹いちょう木立こだちの間かられていた。浅草観音堂の裏手の林の中は人通ひとどおりがすくなかったが、池の傍の群集の雑沓ざっとうは、活動写真の楽器の音をまじえて騒然たるひびきを伝えていた。
 被官稲荷ひかんいなりの傍の待合まちあいを出た一人の女は、浅草神社の背後うしろを通って、観音堂の横手に往こうとして、右側のみちぶちに立った大きな公孫樹の処まで往くと、その幹の陰に隠れていたらしい中折帽なかおれぼうわかい男が、ひらひらと蝙蝠こうもりのように出て来てその女とれ違った。と、その拍子に女はコートの右のそでに男の手がさわったように思った。で、鬼魅きみ悪そうに体を左にらしながら足早に歩いて往った。
 壮い男の往った方には女の出た待合のがわになった蕎麦屋そばやの塀のかどがあった。月の光はその塀に打った「公園第五区」と書いたふだのまわりを明るく照らしていた。
「山西じゃないか」と、横合よこあいから声をかけた者があった。わかい男は耳なれた声を聞いて足を止めた。鳥打帽とりうちぼうた小柄な男が立っていた。
「岩本か、どこへ往く」
「どこと云うこともない、このへんを歩いていたところだ、君は」
「俺か、俺はやつう約束があって、やって来たが、すこし具合の悪いことが出来て、よして他へ往くところだ」
「そうじゃなかろう、投げ込みができなかったろう」
「どうして、子守もりっこを追っかけてる人なんかにゃ、想像はできないよ」
「よせよ、よく山の上のベンチの傍へ来る、老婆ばあさんだろう」
「野釣りなんかじゃないよ」
「じゃ、造花屋か」
「そんな下等な者じゃないと云うに、まあ好い、これから倶楽部くらぶへ往ってビールでも飲みながら話そう」
 二人は笑いながられだって仁王門におうもんから出て、区役所のほうへ折れて往き、その傍にある小さなバーへ入った。六箇ばかりえた食卓テーブルに十人ばかりの客がとびとびに向っていた。二人は左手のすみ食卓テーブルについてビールを注文すると、顔馴染かおなじみふとった給仕女が二つの洋盃コップを持って来た。
「話してもらおうかね、今の、おっそろしい広告の物品しなものは何だね」と岩本は冷笑ひやかすように云った。
咽喉のどしめしておいてから……」と、山西は一口飲んで、隣の食卓テーブル正宗まさむねびんを二三本並べているひげの黒い男を気にしながら、「もとは柳橋やなぎばしにいた奴だよ、今は、駒形堂こまがたどうの傍に、船板塀ふないたべい見越みこしまつと云う寸法だ、しかも、それがすこぶるの美と来てるからね」と小声で云って笑顔わらいがおをした。
「好いかい、また、そんな者を追っかけてて、留置場の御厄介になろうと云うのじゃないか、昨夜ゆうべ千束町せんぞくちょうの方で、あの出っ歯の刑事にあったら、山西は近比ちかごろどうだって、君のことを聞いてたぜ」と、岩本も小声で云った。
「先方からおでなすったら、しかたがないじゃないか」
「春になっても留置場は寒いよ」
「どういたしまして、燃えるような緋縮緬ひぢりめん夜着よぎがありますよ」二人の洋盃コップにビールが無くなっているので、山西はかわりを注文して、それに口をけながら、「もう十日待てよ、うらやましいところを見せてやるから」
「そんなことを云うが、ほんとうかい」山西の話が平生いつもの話と違っているので、岩本はおひゃらかしをやめて来た。
「ほんとうとも」
「じゃ映画フィルムの説明をしてもらいたいな」
 二人はビールに咽喉をうるおしながら夢中になって女のことを話した。この二人は浅草公園を徘徊はいかいする不良ので、岩本は千束町に住んで活動写真の広告のビラをるのが商売、山西は馬道うまみち床屋とこやせがれであった。
 次第に客がたて込んで二人の食卓テーブルにも洋服を着た客が来た。岩本はそれに気がいて、体をねじ向けて帳場ちょうばの上の柱にかかった八角時計に眼をやった。
「や、もう十時半になった、出かける処がある」
「網を張ってるのは、どの方角だい」
「今晩は商用だよ」と云って、にやりと面疽あばたのある口元で笑って、帽子をなおしながら、「ありがとう」
 岩本が出て往くと、山西は給仕女を呼んでビール代を払って、そこを出ようとしたが、入口に垂れた青いかあてんをかかげながら、観音堂の裏手で投げ込んだ手紙のことを浮かべて、あの女はもう見たろうかと思った。

※(ローマ数字2、1-13-22)

 戸外そとはきれいな月の光にいろどられていた。もう活動や芝居がはねかけているので、人通りが多くなっていた。山西は伝法院でんぽういんの塀に添うて並んだ夜店の前を通って、池の方へ往った。
 彼は歩きながら、明日あすの晩あたりすぐ来るかも判らないぞ、……八時から九時の間……岩本などが来ていると、うらやましてやるがなあ、などと、女の来るのを想像していた。彼はじぶんの店に来る客から、区会議員をしている質屋の主人にかこわれている女が、芸人と関係して媾曳あいびきしていると云うことを聞いたので、それを脅迫して手に入れるつもりでその場所を突きとめ、その帰りを待っていて脅迫状を投げ込んだところであった。
 ……明日あすから十日以内に、夜の八時から九時の間に浅草区役所の傍の×××バーへ来てください、目標めじるしには赤いリボンを羽織はおりひもにつけております、もし来ない時には、貴方あなたの旦那に密告するとともに、「浅草公報」に書かします。と書いた脅迫状の文句を浮めてみて、これには困ってきっと来るだろうと思った。
 風のない静かなであった。池の周囲まわりの柳のは枝をまっすぐに垂れていた。闇のには燃えるように見える池のむこうの活動写真のイルミネーションは、月の光にぼやけて見えた。
 歩くともなしに土橋どばしの上まで歩いて往った山西は、ふと橋のむこうから※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれい小女こむすめの来るのを見た。それは友禅ゆうぜん模様の鮮麗あざやかな羽織を着た十六七の色の白い女であった。
 山西の眼は小女こむすめに引きつけられた。小女こむすめは散歩でもしているように、ゆっくりした足どりで歩いて来て、山西とれちがったが、擦れちがう拍子に、眉と眼の間の晴ばれとした黒いうるおいのある眼で山西の顔をうっとりと見た。……れはと、小女こむすめうしろを注意したが、三四人の酔った労働者が来るばかりで、その伴れらしい者は見当らなかった。
 不良な山西の心が首をもたげて来た。彼は労働者の群をやり過しておいて、引返して小女こむすめあとをつけて往った。労働者の群は小女こむすめを追い越しながら、り返って何か云い云い往ってしまった。
 小女こむすめは左へ曲って林の中へ入った。微暗うすくら木立こだちの間にはそこここに瓦斯燈ガスとうともって、ぽつぽつ人が通っていた。白粉おしろいをつけた怪しい女も通って往った。そのあたりにとびとびにえたベンチには、腰をかけている人の細ぼそと話す声もしていた。中には蛍火ほたるびのような煙草の火で鼻のさきを赤く見せている者もあった。小女こむすめはその間を通って静かに茶店ちゃみせの方へ往った。山西は一けんばかりの距離を置いてゆっくりと、そしてあたりに注意して歩いた。それは小女こむすめを驚かさないためと、一つは公園を徘徊はいかいしている刑事ににらまれないためであった。
 小女こむすめ羽織はおり友禅ゆうぜん模様は、蒼白あおじろい光の燃えついているように、暗い中にはっきりと見えていた。眼をすえて好く見ると、その模様は従来見なれた花鳥かちょうの模様ではなかった。それは細かな線で海ののような、また見ようによっては水の渦巻のような物をえがいたものであった。
 茶店の前を過ぎて水族館の裏手の藤棚ふじだなの処まで往くと、傍を通っている人もないので、山西は距離をちぢめて往って声をかけた。
「もし、もし」
 小女こむすめは歩きながら白い隻頬かたほを見せた。
「どこへ往くの」
 山西は努めて優しい声で云った。小女こむすめの白い隻頬がまた見えて、それがっと笑っているように思われた。山西はもう小女こむすめをぐっとつかんだように思った。
「いっしょに歩かない」
 小女こむすめはまたしても隻頬を見せながら歩いた。山西はもう刑事のことも忘れてすぐ背後うしろうて歩いた。
 小女こむすめは観音堂を右にして裏手の方へ足を向けた。山西は暗い方へじぶんから往くぞ、もうめたぞ、と思った。
「君の家はどこ」
 山西はますますなれなれしく口をいた。小女こむすめは男の口から一歩進んだいざないを待っているかのように、体をしんなりとさして歩いた。
「君の家を云っても好いじゃないの」
 小女こむすめはちょっと足を止めるようにしたが、すぐ歩き出した。山西はその右の手にじぶんの手をかけようとした。と、二三人の歌妓げいしゃらしい女伴おんなづれがむこうの方から来たので、出そうとした手をひっ込めた。
 二人はもう噴水の前に来ていた。水の噴出をやめた毘沙門びしゃもんの像が月の光にさらされてきいろく立っていた。山西は見るともなしにその毘沙門に眼をやりながら、右側に並んだようになった小女こむすめの手を握ろうとすると、そこには手がなかった。……おや、と思いながら眼をやると、小女こむすめの姿はもうなかった。山西は驚いた。ぐるぐる体をまわして四辺あたりを見たが、小女こむすめの姿はどこにも見えなかった。
「おかしいぞ」
 山西は堂の裏手の方へ走ったが、そこにも小女こむすめの姿は見えなかった。彼はまた噴水の処へ戻って来てその周囲まわりを走るように探して歩いた。
「どこへ往ったんだ、彼奴あいつ
 山西はその附近の林の中をぐるぐると探して歩いたが、どうしても見つからなかった。それでも彼はあきらめられないので、仁王門におうもんの方へも往き、池の周囲まわりにも往って探したが、とうとう見つからなかった。

※(ローマ数字3、1-13-23)

 山西は区役所の傍の×××バーで脅迫した女の尋ねて来るのを待っていた。帳場ちょうばの上にかかった八角時計の針の遅遅ちちとして動いて往くのに注意したり、入口の青いかあてんを開けて入って来る客に注意したりした。時計の長針は十時の処を指していた。
 ……もうあと十分だぞ、やって来るかなあ、と、彼は考えながら無意識に胸元むねもとに眼をやった。絹大島きぬおおしま羽織はおりけた茶の平紐ひらひもの右の附け根に結びつけた赤いリボンが花のように見えた。彼はその眼をまた入口の方へやった。セルのはかま穿いた背の高い学生が出て往くところであった。……ついすると、待合まちあいへ往っていて、じょちゅうでも呼びによこすかも判らないぞ、と、彼はまた思った。
 昨夜ゆうべ噴水のそばで見失った小女こむすめのことがまたしても浮んで来た。彼の心は往くともなしにそのほうへ往った。青いかあてんにするような友禅ゆうぜん模様の羽織と、くっきりと白い顔が見えるように思われた。……それにしても、どうしていなくなったのだろう、まさか消えて無くなったではあるまいが、と、彼は不意に消えたようにいなくなった小女こむすめの奇怪な挙動を考えてみた。
 彼は椅子の手擦てすりもたせた隻手かたての甲の上に、口元に黄金きんを光らしたほおななめに凭せるようにしていた。と、時計が九時を打った。……もう九時になったか、と、時計の方へやった眼をまた入口の方へやった。青いかあてんだるそうに垂れて、土室どまの中に漂うた酒と煙草のにおいを吸うていた。
「山西さんどうしたの、今晩はいやにすましてるじゃないの」と唇の厚い給仕女が前の方から云った。
 彼は給仕女を見たなりで何も云わなかった。彼は女の来ないのがまちどおしかった。彼はももじりになって入口の方を見ていた。二人づれの客があったが女の姿は見えなかった。
 時計は五分と過ぎ十分と過ぎた。……まだすぐは来ないかも判らないぞ、と、彼は思って来た。……もう一晩二晩待って来ないようなら、も一度投げ込みをやる必要があるぞ……。
 小女こむすめのことがまた浮んだ。……今晩もいるかも判らない、そう思いだすと、小女こむすめいたくなって来た。彼は急いで勘定かんじょうをすまして戸外そとへ出た。戸外そとには昨夜ゆうべのような月があった。
 彼は月の下をぞろぞろと歩いている人の中を注意して、池の傍へ往った。伝法院でんぽういんの塀をはなれて池のふちへ出たところで、左の方から来る人群ひとむれの中に、友禅ゆうぜん模様の羽織はおりを着た小女こむすめ見出みいだした。彼はしずかにその方へ寄って往って、その顔をじっと見ながら微笑を送った。
 小女こむすめもその顔を見返すようにしてうっとりとした眼をした。……今晩こそ見失わないぞ。
昨夜ゆうべ何時いつの間に逃げたの」と云って、山西はその顔をのぞき込むようにした。
 小女こむすめにっと笑った顔を向けただけで何も云わなかった。
「名は何と云うの」と、山西はまた云った。
「みなわと云うのよ」と、小女こむすめは小さな声で云った。
「みなわ、みなわさんだね」山西は小女こむすめが可愛くてたまらなかった。
「君はどこだね」
 小女こむすめは笑顔を向けるだけであった。
「いっしょに歩こうじゃないの」
 傍をれちがうものがじぶんの顔をのぞいて往くのに気がいた。彼はちょっと黙って歩いた。
 小女こむすめ土橋どばしを渡って山へあがって往った。山西は上のベンチで話ができると思ったのでよろこんでいて往った。
「ここで休もうじゃないの」
 小女こむすめは黙って山を右におりて、小さな池の中にけた橋の方へ往った。月の光は木立こだちさえぎられて四辺あたりは暗かった。
 橋の上に往くと山西はするすると寄って往って、その手を握ろうとした。と、何時いつの間にか小女こむすめの姿はなかった。
 山西はあわててその周囲まわりを探した。橋を渡って来た男と女の二人づれが、橋の上できょろきょろしている山西の顔を見い見い通って往った。

※(ローマ数字4、1-13-24)

 山西は池の周囲まわりを歩いていた。彼はその晩も×××バーで脅迫してある女を待っていたが、十時近くになってもその姿を見せないので、また小女こむすめを探しに出たのであった。
 そのうちに公園内の興行物こうぎょうものが皆はねてしまった。池の周囲まわりの人影はすくなくなって来たが、小女こむすめは姿を見せなかった。彼は山の上のベンチや林の中のベンチに腰をかけて、疲れた足を休めなどした。
 ……今晩はだめだぞ、彼は江川えがわ玉乗たまのりの前を歩きながらつぶやいた。彼はもう池の傍をまわるのをあきらめて帰りかけたが、すぐ我家うちへ帰って寝る気になれないので、郵便局の傍の肉屋にいる女のことを考えながら歩いた。
 そのは空に薄雲うすぐもがあって月の光が朦朧もうろうとしていた。人通りはますますすくなくなって、物売る店ではがたがたと戸を締める音をさしていた。仲店なかみせ街路とおり大半おおかた店を閉じて微暗うすぐらかった。山西は石畳いしだたみになった仲店の前を下駄げた引摺ひきずるようにして、電車通りの方へ歩いていた。
 ちょうど仲店の街路とおり中央なかほどになったところで、右側の横町から折れて来て眼の前に来た女の子があった。それはかの小女こむすめであった。青光あおびかりのするような友禅ゆうぜん模様の羽織はおりの模様がはっきり見えた。
「よ」と、山西は声をかけた。
 小女こむすめは立ちどまるようにして白い顔を見せた。
「みなわさん、昨夜ゆうべもまたまいたね」
 小女こむすめにっと笑った。
「これからどこへ往くの」
 小女こむすめは電車通りの方へ顔をやってみせた。
「いっしょに往っても好いの」
 小女こむすめうなずくようにしながら歩いた。山西もいて歩いた。歩きながら、彼は……今晩こそ逃さないぞ、と、女に眼をはなさなかった。
 小女こむすめは仲店の前を出はずれると、吾妻橋あづまばしの方へ向いて車道のへりを歩いた。もうおしまいになりかけた電車には、ぼつぼつ人が乗り降りしていた。山西はふと小女こむすめじぶんの知っている花川戸はなかわど安宿やすやどれ込もうと思いだした。
「私の知った処へ寄らない、饗応ごちそうするよ」
 小女こむすめにっと笑って見返ったが、
「あっちへ往きましょう」
「往く処があるの」
 小女こむすめうなずいてずんずん歩いた。山西は、……この女はどうした者だろう、まさか野釣のづりでもあるまいが、と思った。不審であったが、いて云っては、女を恐れさすと思ったので、女の云うなりになって往った。
 二人は吾妻橋のたもとの交番の前を通って往った。入口に立っていた一人の巡査は、小女こむすめわかい男の姿をじろじろと見ていた。山西はそれがうす鬼魅きみ悪かった。
「足が痛くないの」と、山西は巡査に怪しい者でないと云うことを見せるために、いて親しそうな口をいた。
 二人は橋の左側を通って往った。下駄げたの音がからころと響いて聞えた。橋の下にはねずみ色の絨氈じゅうたんを敷いたような隅田川の水が、夢の世界を流れている河のように流れていた。
 橋の行詰ゆきづめにも交番があって、巡査は入口にもたれて眠るようにしていた。山西は安心した。小女こむすめはそのたもとを左に折れて河岸かしぶちを歩いた。右側にビール会社の煉瓦れんがの建物がからびた血のような色をしてそびえていた。そこはもう人通りが無くなっていた。山西はふと小女こむすめはべつに往く処はないが、人のいる処が恥かしいので、それで人通りのない方へあてもなく歩くのではあるまいかと思った。
「まだ遠いの」と云うと、小女こむすめは、「もうぐよ」と云うような顔をして男の顔を見返った。
「君の家」
 小女こむすめは頭をった。二人は枕橋まくらばしたもとへ曲ろうとするかどの処へ来ていた。そこには河岸かしぶちに寄って便所があった。その前へ往くと小女こむすめは不意に河岸ぶちの石垣の処まで走って往った。山西はまた逃げられてはならないとおもったので、あとからいて往った。石垣の下にはもう満ちきった河水かわみずが満満とたたえていた。小女こむすめ友禅ゆうぜん模様の羽織はおりそでをひらひらとさせながら、いきなり水の中へ飛び込んだが、少しも水の音はしなかった。山西は石垣の上に立ちすくんで、女の体の水の中に消えて往くのを見せられるばかりで、どうすることもできなかった。飛ぶ時に乱れ髪になっていた女の頭髪かみも見えなくなった。女の体をんでしまった大川おおかわの水は、何のこだわりもないようにぼかされた月の光の下を溶溶ようようとして流れた。
 山西は石垣の上を右に左にけ歩いて、今に女の姿が見えるか見えるかと、水のおもてのぞきながら両手を腰にやって兵子帯へこおびを解き解きしていた。
 女の姿は二度と見えなかった。と、山西は小女こむすめに水の中へ飛び込まれてあわてているじぶんに気がいた。彼は人に見つかったら大変だ、と思いだした。彼はおのれの責任を忘れて、きょろきょろと四辺あたりを見廻したのちに、解きかけていた帯をそこそこに締直しめなおして、枕橋の方へ曲って往った。

※(ローマ数字5、1-13-25)

 山西は恐ろしいので翌日から外出をやめて、家の中に小さくなりながら、店へっている二三種の新聞に眼をとおしたり、我家うちへ来る客の話に耳を傾けたりして、じぶんの追い込んだような結果になった水死の小女こむすめの噂に注意していたが、四五日してもそんな噂はなかった。彼はやや安心して、それは死骸が海の方へ流れて往ったので、それで判らなくなったのだろう、そうなれば別に心配することもないと思いだした。それに身の周囲まわりに気をつけて見ると、夜も昼も出歩いて女をあさっていた者が、急に家に引籠ひきこもっているのが、人の嫌疑を増すようにも思われて来たので、六日目のになってこわごわ外へ出た。
 そして、歩いているうちに千束町せんぞくちょうの造花屋のことを思いだしたので、仁王門におうもんから入って公園の中を横切り、猿之助横丁えんのすけよこちょうと云われている路次ろじの中へ往った。路次の中へ路次が通じて迷図めいずのように紛糾した処には、一二年前まで私娼のいた竹格子たけごうしの附いた小家こいえが雑然とのきを並べていたが、今は皆禁止せられて、わずかに残った家は、造花屋と云う怪しい看板をかけて店の小棚こだな種種いろいろの造花を並べていた。
 山西の往こうとする処は、路次から路次に曲って二三軒往った処であった。そのかどには赤い提燈ちょうちんを釣るしたおでん屋があった。一時間ばかり宵闇よいやみをこしらえて出た赤い月の光がその簷にあった。山西はここで一つ景気をつけたいと思ったので、その暖簾のれんに首を突っ込んだ。学生風の男が一人おでんをっていた。
「一本つけて貰おうか」と、山西は顔馴染かおなじみの老人の顔を見て云った。
 老人は右の棚から壜入びんいりの酒をとってその口を開け、それを背後うしろの方へやって、「ほい、おかんだ」と云った。
 そこには銅壺どうこえた長火鉢ながひばちがあって、これまでついぞ見たことのない小女こむすめが坐っていた。
「あいよ」小女こむすめは手早く老人の出した壜をって銅壺の中へけた。
「おさかなは何にしましょう」と、老人は長い箸を持ちながら云った。
烏賊いかがあるなら、烏賊をもらおうか」
「烏賊はおあいにくさま、がんもどきならありますが」
「じゃ、がんもどきと、はんぺんにしてもらおう」
 老人が鍋の中からがんもどきとはんぺんを挟んで山西の前へ出し、それからさかずきも出したところで、もうお燗が出来た。山西は台の上に俯向うつむいて、肴をい酒を飲んだが酒はすぐ無くなった。
「お爺さん、酒のかわりだ」
 老人は新香しんこうをちょきちょき切っていた。彼はちょっと手が放せないので、背後うしろり返るようにして云った。
「……みなわ、お酒のおかわりだ、乃公おれはちょっと手が放せない、お前がってくれ」
 みなわ、と云ったことばに、山西はびっくりして蒸気ゆげ濛濛もうもうと立っている鍋越しに小女こむすめの方を見た。小女こむすめって棚の方へ往こうとして、ちらりと客の方を見て笑った。それは眼と眉の間の晴ばれとした、そして、眼にしっとりとしたうるおいのある水の中へ飛びこんだ小女こむすめであった。その羽織はおり鮮麗あざやか青光あおびかりのする友禅ゆうぜん模様の羽織はおりであった。彼は箸をり落した。
「お爺さん、もう好い、いくらだ」と、彼はふるえながら云った。
「じゃ、お酒はよしますか」
「好い、好い、いくらだ」
「二十銭いただきます」
 山西は手をふるわして蟇口がまぐちから十銭さつを二枚出すと、投げるように置いてあたふたと逃げだした。そして、造花屋のことなどは忘れて、人通りの多いにぎやかな方へ賑やかな方へと往ったが、気が顛倒てんとうしているので方角が判らない。同じ路次ろじへ入ったり出たりしたのちに、やっと人通りの多い賑やかな街路とおりへ出て、やや心を落つけることができた。……それにしても、水の中へ飛びこんだ女がじぶんの前に姿を見せるのは、たしかに己に恨みがあるからだ、と思った。彼はたまらなく恐ろしかった。
 と、電燈の明るいバーが眼にいた。彼は急いでその中へ入った。二条ふたすじ三条みすじかに寒水石かんすいせき食卓テーブルえた店には、数多たくさんの客が立て込んでいた。彼はその右側へ往って腰をかけた。
何人たれか来てください、お客さんですよ」
 左側の一人の客の前へ立って会計をしていた給仕女が、帳場ちょうばの方を見ながら云った。と、一人の給仕女がどこからともなく来て山西の前へ立った。
「何を持ってまいりましょう」
「ビールを持って来てもらおう」山西はそう云い云い女の顔を見た。それは眼と眉の間の晴ばれとした今の小女こむすめの顔であった。山西の頭には血が登った。彼はいきなりちあがって戸外そとへ逃げだした。
「おい、どうした、何をそんなにきょときょとしているのだ」と背後うしろから来て肩に手をかけた者があった。
 山西はびっくりして立ちどまった。手をかけた者は岩本であった。
「ばかにびくびくしてるが、また、何かやったのかい」と、岩本は笑った。
 山西は黙ってきょときょとした眼を岩本の顔へやった。
「どうした、奥山おくやまきつねにでもつままれたのか」と、岩本はまた笑った。
 山西はやっと気がいて来た。
「なに、すこし、心配筋しんぱいすじがあってね」と、冗談を云ったが、その声は咽喉のどにひっかかって聞えた。
「まァ好いや、×××バーに往こう」
 岩本が云うと山西は×××バーなら大丈夫だろう、と思った。二人はれだって区役所の傍へ往ったが、山西はまだ安心のできないところがあるので、さきへ立ってバーの入口が入れなかった。彼は岩本のうしろからこわごわ入って、四五人いる給仕女の顔を一わたり見廻したが、平生いつものとおりの知己しりあいの女ばかりで、べつに怪しい顔は見えなかった。
「なにをそんなに、きょろきょろ見ているのだ」
 岩本に注意せられて山西ははじめて腰をかけた。
「ビールにしようか」と、岩本が云った。
「俺はウイスキーにする」山西はうんと酔って心を大きく持ちたかった。
 やがて岩本の前にビールが来、山西の前にウイスキーが来た。
「四五日見えなかったが、どうしていたのだ」
「店がいそがしいものだから出なかった」
「いやに殊勝しゅしょうなことを云うぜ、また、刑事から注意でもせられたのだろう、駒形堂こまがたどうの傍の船板塀ふないたべいとかんとか、変なことを云ってたから……」
「いや、ほんとうに店がいそがしかったよ」
「いやに弁解するところを見ると、お目出たくないことがきっとあったね」
 山西はこんなことから罪悪が発覚してはならないと思ったので、極力弁解した。
「ますます弁解が苦しいが、朋友ともだち交誼よしみに、店がいそがしかったと云うことにしておいてやろう」と、岩本は始終しょっちゅう笑っていた。
「山西さん、お客さんですよ」と、給仕女の呼ぶ声がした。
 山西はびっくりして顔をあげた。入口の処に小間使こまづかい風のわかい女が用ありそうに立っていた。山西はまた怪しい小女こむすめではないかと思って好く見たが、それは十八九に見える円顔まるがおの女であった。
「山西さん、貴郎あなたよ」と、給仕女が延びあがるようにして山西を見た。
 ……あのめかけからではあるまいか、と山西はおもった。彼は急いで椅子を離れて入口の方へ往って、女の顔を見て立った。
「貴郎は、山西時次ときじさんでございましょうか」と、女が笑顔をした。
「そうです、私が山西時次ですが」と、山西は云った。
 女はそれを聞くとしずかふところから青い封筒の手紙をだして、それを差しだした。
「これを御覧になって、すぐ御返事をいただきとうございます」
 山西は封を切って読んだ。……いろいろお話いたしたいことがございますから、使つかいの者とごいっしょに、眼だたないようにそっとおでを願います……などと書いてあった。それは駒形こまがたの女から来たものであった。
「じゃ、ちょっと待っていてください、あすこをすまして来ますから」と、山西はじぶんの席へ帰って往って、眼をまるくして見ていた岩本の耳元でささやいた。「ちょっと出かけるから、あとでいっしょに払っといてくれ」と、彼は蟇口がまぐちから五十銭札を二枚出した。
「いよいよ駒形か」と、岩本はうらやましそうに聞いた。
「まあ、そこらあたりさ」山西はさっさと往って女といっしょに出て往った。
 岩本は羨ましいうえに好奇ものずきも手伝って、どこへ往くか見たくなったので、己も急いで山西の置いて往った金に幾等いくらかの金を足して、食卓テーブルの上へ投げだして、
「おい、ここに一円二十銭ある、足りなかったら翌日あすの晩だ」と、云って急いで戸外そとへ出た。
 戸外そとにはもやが出て月の光がぼやけていた。岩本は駒形と云うので、ずバーの前を右の方へ往って見ると、十けんばかりさきを女と山西が並んで何か話しながら歩いていた。女は小柄な青い友禅ゆうぜん模様の羽織はおりを着ていた。……小間使にしては※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいな女だぞ、と彼は思った。
 二人は広小路ひろこうじへ出ると、電車通を横切って、むこう側の歩道を駒形の方へ曲って往った。岩本も十間ばかりの距離を置いてそのあとからいて往った。灰白色かいはくしょくもやが女の姿を折おり包んで見えた。
 駒形堂の前まで往くと、二人は電車の線路を足早に横切って堂の手前からおりて往った。岩本は知られないようにつけながら、……いよいよあの女らしいが、彼奴あいつどうしてものにしたろう、と、うらやましくてたまらなかった。
 二人は裏通うらどおりに出て左の方へ五六けん戻ったが、黒い裏門らしい扉をあけて山西の姿がさきにかくれた。女は半身はんしんを入れて門の扉を締めながら、白い小さな顔を岩本の方へ見せて隠れた。……畜生ちくしょう、いよいよ入りやがったな、と舌打したうちしながらその方へ歩いて往った。船板塀ふないたべいをした二階家があって、耳門くぐりにした本門ほんもん簷口のきぐちに小さな軒燈けんとうともり、その脇の方に「山口はな」と云う女名前の表札がかかっていた。……俺もただは見逃さないぞ、と、岩本は表札の文字もんじを二度も三度も読みかえした。

※(ローマ数字6、1-13-26)

 それから五六日して、山西の母親は千束町せんぞくちょうの岩本の家へ来てせがれがいなくなったと云った。家を出た日を聞いてみると、それは駒形の女の家へ往った晩であった。岩本はしかたなくそのの事情を話して二人で駒形の山口はなと云う家へ往った。
 婆やらしい年とった女が取次に出て、そのあとから二十五六に見える円髷まるまげ女主人おんなあるじが出て来た。
「伜がこちら様へあがっておりはしますまいか」と、母親は云った。
「伜って、どなたですか」と、女主人おんなあるじは不審そうに云った。
「山西時次でございます」
「……山西時次……、そんなかたは知りませんでございます」
「そうでございましょうか、四五日前からせがれがいなくなりましたから、ここにいらっしゃる伜のお朋友ともだちの、岩本さんに聞きますと、伜のいなくなった晩に、×××バーにいた伜の処へ、こちらのおじょちゅうさんが見えて、伜をれて往かれましたのを、この岩本さんが、好奇ものずきにつけて来て、裏門からたしかに入るのを見たと申しますから」
 女主人おんなあるじあきれたようにして聞いていたが、
「それは何かのまちがいじゃありますまいか、裏門から人をお伴れするにしても、私の家の裏門は、河に向っておりますので、船からでなくちゃ入れませんし、そして、我家うちの婢と云うのは、どんな女でしたでしょう」と、岩本の方を向いて云った。
「十六七の色の白い、友禅ゆうぜん模様のような羽織はおりを着ておりました」と岩本が云った。
「……そう、それじゃ、いよいよ私の家じゃありません、私の家には、今お取次した、婆やより他に、婢を置いたことがありません」と、女主人おんなあるじは云いきった。
 二人はつぎほがないのですごすごとそこを出たが、二人の裏門を入る姿をまざまざと見ている岩本は、どうもに落ちないので、門の左側になった裏門らしい処へ往ってみた。コールタで塗った門の扉がたしかにあるので、そっと手をかけてみると扉のくるまはすぐ落ちた。そこはその傍の問屋といや荷揚場にあげばらしい処で、左側に山口家の船板塀ふないたべいがあり、右側に隣の家の煉瓦塀れんがべいがあった。二人はその中へ入って往った。
 行詰ゆきづめに石垣に寄せて縁側えんがわのようにした一幅ひとはば桟橋さんばしがかかっていて、その下には大川の水が物の秘密を包んでいるように満満まんまんたたえていた。二人は河のおもてを見入ったのちに黙って顔を見合して衝立つったった。

 それから間もなく奇怪な水魔すいまの噂がつたわるようになった。
 山西の行方ゆくえは今に判らないと云うことであるが、恐らく永久に判らないだろう。

底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会
   1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第一巻」改造社
   1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年5月22日作成
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