本当に惚れることが出来るか、これが問題である。下手ものにでも自分が真剣に惚れるなら、そのものの持ち味だけはわかるだろう。多くは他動的である。他人の言葉に引きずりこまれることが多い。甚だしいのは美に見えなくて金に見える。また、半分美に見えて、半分金に見えるというのもある。
各自の眼には程度がある。各自の力の範囲だけしかわからぬ。従って、百人のうち一人の偉大な評価力をもったものがわかると、他の九十九人の人の見る美はムダになる。とかく世間にはでたらめが多い。自分ではそう感じなくてもでたらめである。
ものの美を見るのは、単に眼慰みか、それとも心の友だちとするのか。心の友だちとすることは魂と魂との交流がなくてはならぬ。そうなれば本物であり、極楽の世界である。ちょうど、この頃の絵慰みのように、客向きや展覧会をねらったもののなかには美はない。どうも心臓を剖られるというわけにはいかぬのが今の絵画だ。
作品が無心に作られたものであり、無我の境において作られたものであれば心打たれる。だがなかなか無我の境地にはなれない。それには修行が必要だ。多くは虚栄心に動かされて仕事をする。これではいいものが出来るわけがない。信仰の的となる仏画は、これ最初、無落款であった。のちに落款を入れるようになった。
こうなると信仰的崇高さは失われて玩具的になる。自分が口を極めて言うことは、とかく世間とは反対になる。美術界には掘り出しということがある。これも計らざる掘り出しをしてもらいたいものだ。掘り出しをやる人には、美が見えなくて金高が見えることが多い。それではいかぬ。
また、いいものばかりある店で、その中からいいものを求めることは容易である。安物の中から更に値切って求めるような行き方をする人の根性は、汚なくて、いいものは集まらない。
鍋島、柿右衛門には工芸美術的なよさはあるが、精神力には欠けている。そこへ行くと古九谷には道楽気があって、芸術味が含まれている。無我夢中になってやった仕事には魂が入っている。古九谷と鍋島には町人と武士の違いがある。町人の道楽には案外面白いところがある。
要するに魂を刳る美が欲しい、ということである。
(昭和二十二年)