あらすじ
北大路魯山人は、長年陶芸に携わってきた経験から、日本の陶芸史における名だたる陶工たちの作品を独自の視点で分析し、その真髄を探ろうとします。単なる鑑賞にとどまらず、彼らの個性や時代背景、そして作品に込められた精神を深く理解しようと試みるのです。魯山人にとって、名品と呼ばれる茶碗は単なる器ではなく、作り手の息吹や時代の香りが漂う、生きた芸術作品なのです。彼は、鑑賞者に対し、先入観を捨て、作品と対話し、そこに秘められた真実を見抜くことの大切さを説きます。
 長次郎(安土、桃山時代)……日本陶芸史上唯一の芸術家。

 本阿弥光悦(安土、桃山から江戸初期)……多趣味多能にして広範囲の美術鑑賞眼をもつ道楽者。

 長次郎三代 のんこう(江戸初期)……のんこうには長次郎にみられる強さはない。豊かさに於ても格段に劣る。

 野々村仁清(江戸初期)……陋習の中国趣味を捨て去り、純日本美を陶器に移し、優雅極まりなき日本固有の美術表現に終始せし一大創作家、衣冠束帯を身にまといながら自由にふるまいし作家。

 尾形乾山(江戸初期)……陶画家で陶器家ではなかった乾山。光悦に優るとも劣らぬ点が身上である。

 奥田穎川(江戸中期)……不幸日本美の優雅を知らず中国趣味に走った点は穎川の落度。

 青木木米(江戸中期から後期)……惜しいかな木米も茶の美(日本美)を識らなかった。だが師穎川の程度を遥かに離して特異の天分を発揮した。(陶芸家)

 仁阿弥道八(江戸後期)……これより職人芸はじまる。(名人)

 永楽保全(江戸末期)……(職人芸)

 真葛長造(江戸末期)……(職人芸)

 夕顔棚に身を縛りつけ、涼を取らんとするが如き現今の一部作家。

 私は大分長い間製陶研究をやってまいりましたので、製陶の上では少々は知っておるわけですが、陶器の話というのはなかなかむずかしくて、口では容易に言い表わせない恨みがあります。陶器のことを親切に説明した人に、この間逝くなった大河内正敏さん、高橋箒庵などという人があります。親切にこまごまと説明してありますが、製陶の経験をお持ちになっておられないものですから、私から言いますと、ああいう人たちの臆測は往々歯がゆい結果になることがあります。その点が私どもの少し頼みにしているところなので、製陶といってもいろいろな陶種を研究してみますと、古い昔の作品を見るのに便利なことがたくさんあります。たとえば釉薬ですが、今田中さんが話しておられたことで、たいへん勉強したのですが、灰を掛けるとか、釉薬のことになって来ると、製陶経験がないために怪しくなって来るのです。
「それはこうならなくてはならぬのだよ」と言いたいことがたくさん発見されます。あれだけ熱心であり、茶道具の品評をたくさん書いたり、『大正名器鑑』をつくったりして説明した大河内子爵とか高橋箒庵などという人でも、悲しいかな製陶経験がないために、うんと行き届いた陶器の見方とか、あり方を表現するにはちょっと不自由なのです。そこでこちらは意を強うしました次第で、三十数年の作陶研究の体験で、長次郎を見ましても、光悦を見ましても、少し見方が違うと思うのです。
 長次郎と言いますと、茶人なんかの立場では、とにかく非常にありがたいものになってしまっている。長次郎が箱無しでそこに出たら一目でわかるというほどの鑑賞家はないのかも知れないと私は思っておるのです。ですから大概はその話が漠然としておって、長次郎が出ても光悦が出ても、何でも、
「結構だ、結構だ」
「何とも言えぬ」
 で通っておるのです。
「長次郎というのはすごいね。何とも言えない」
 で片がついているのですが、何とも言えぬということはありはしない。これは将来は何とか言えるようにならなければならぬと思っておるのです。そうでないと物の見方が進歩しない。陶器の場合には、固より陶器だけになるのですが、有名な陶器とは何ぞやと言っても、なかなか答えが出て来ないのです。この点、暗中模索でごそごそと永年探って来たのですが、最初のうちはとても困ったものでした。本を見ただけではわからない。最初は品物を見てもわからないので、どうもしようがない。私どものこういう時代と同じような人が今でもたくさんお出と思いますが、最初はやはりそんなふうなものです。
 長次郎でも光悦でもよろしいが、茶碗のかけらでも何でも、持って見ないとわからないものです。それを持たないで、ただ人の声だけで信心するのですから無理な話です。そこで長次郎を見て、ただ何とも言えぬだけで感心していないで、もっと直視して、長次郎というものはどういうものだ、長次郎の茶碗は一体どこがどういいのかということを、根掘り葉掘り極めて行きますと、しまいには長次郎という人間が浮彫りになって来ると思うのです。ただ無暗にありがたがらないでよいと思います。たかが四、五百年前、信長か秀吉時代に生まれた眼のあたりの陶工を、遠い遠いところに置いて、霞を隔てて金銅仏でも拝んでいるような気にならないで、もっと具体的に見て行きますと、長次郎と話が出来ると思うのです。長次郎と話をしようなどと思う所無く、いきなり無条件に信心して、善男善女的信仰に陥ってしまって、ありがたいありがたいの一点張りで長次郎を見ているのでは、長次郎はなかなか友だちになって話をしてくれないのです。
 従来の世間は陶器という別の美術があるかに見て取っているのですが、絵の場合の美と同じことなのです。美術的価値がある彫刻とも同じことなので、茶碗の場合、土でこういう(手で茶碗の形をつくる)形が出来ておるまでなのです。花鳥とか人物を絵で表現するという美術の心に帰着するので、美的価値がなかったら、陶器と雖も、絵画と雖も何の価値もないことになります。しかし、長次郎の茶碗は美的価値をもっています。他の個人作家に比べて、特にこの点秀れていると見るのです。
「陶器のことは全然わからんね」
 なんと言う人がおりますが、陶器だって絵だって同じなのです。陶器がわからなければ絵もわからない。絵がわからなければ陶器を見たってわかりはしない。同じ美の観点から出発していますが、美というものがはっきり掴めていないとその意義ある区別がわからないのです。南画が出れば南画で感心しているし、木米が出れば木米で感心しているし、保全が出ても穎川が出ても、何でも感心しておる。程度で言うと、その美しさの位置付けはどうなのだと言っても、なかなかそれが答えられない。大観も栖鳳もみなうまいと言う。それではどれが一番うまいのだかわからない。一番値の高いのが一番うまいとして安心しているらしい。これは現存している人にはいろいろ情実がありますから、そう簡単には決めかねるのです。そこで事が面倒になるのですが、長次郎と雖も、そう大層に考えないで、五十の人を六つか七つ重ねると、その時代が出て来るのです。五十の人を七つ重ねると言ったら若いものでしょう。ついこの間のことで、何程のことでもないのです。それを遥か遠い向うに置いて、霞をかけて金色の模様でも見るように盲目的信仰に陥ってしまうと、自分の眼は失われ、いい茶碗か悪い茶碗か、肝心の問題がどこかに行ってしまうことになる。
 昔と言っても私が若いときですが、当時京都の東本願寺の法主は素行上時々脱線した人でありまして、京の祇園あたりに遊び暮し、朝早く馬車で帰って来るのが常習でありました。本願寺の法主というと、宗教家でありますが、実は宗教家でも何でもありません。この頃の坊さんは徒らにお経をあげたり、仏さまの前で朝から何やらお勤めしたりするけれども、宗教学者じゃありません。宗教家ではないが、宗教家の家に生まれただけのことで、不当に飯を食っているという有様が多く見られます。その人々の一人として法主がおしろいくさい匂いをさして、毎朝祇園の町から馬車でいかめしく帰って来たものです。それとは知らないで、本願寺の前には善男善女が幾十人と土下座していて、法主の顔など見ようともせず、はっとひれ伏してありがたがっておるという光景を、事実知っておるのですが、茶器を見る人にもそういう傾向があるのです。光悦やのんこうをお茶人が茶室の中で取扱っている様子は、滑稽なくらい「ははっ」とやっている。その結果、
「とてもありがたい」
「この高台が何とも言えぬ」
「この縁造りが何とも言えぬ」
 何とも言えぬ、何とも言えぬばかりだ。何とか言えるはずなのです。しかし、それくらいわかりにくいものと決めこんでおるし、またそういうふうに物を観る教育を茶の上で受けて来たのです。多くの茶人的鑑賞家は道具屋教育でたいがいのことを覚える。道具屋というのは、物を売るために必要な知識だけを詰め込んでいる。道具屋口調というのは、おきまり文句で誰がやっても同じ文句で人を感心させます。
「この縁造りがどうだの」
「のんこうの釉薬は格別ですね、これはほかの茶碗では見られない」
 とか、長次郎はその数があまりたくさんありませんが、それでも、
「長次郎のこれはいい」
 とか、光悦に至っては、
「これは光悦に限る」
 とか、
「どうです、この不二の釉具合は……」
 とかいう高の知れたことを道具屋という者は勿体らしく言うに決っているのです。ほんとうですよ。それを紳士淑女が無条件にみな覚えるのです。芸術というものはこの頃ではある一部でははっきりしておるようですが、芸術というものの研究に決め手が出来ていなかったお茶人たちは、彼の高橋箒庵などでも芸術とは皆目関係のないことに興味をもっておる。たわいもない浅見で、その茶碗のよさを説明するとか、伝説を語るとか、何から何まですべてが道具屋口調で物を伝えています。持物だったら、
「この紫印金のすばらしさはどうです」
 と言うようなことを主にして俗耳に入れる。どうです、どうですと言ったって、紫印金がいいと言ったところが、やはり裂地に金模様が置いてあって、時代が古いから誰だっていいと思うだけです。それをうんと誇張して、
「これはもう他にはありません」
 というようなことを言う。
「これだけ金が使ってあるのはめったにないぞ」
 などと言って喜ばしておるのです。そういう伝説ずくめで物を見て行く物の見方は、我々から言うと、あまり感心できないのです。
 よく道具屋教育ということを悪く言いますが、益田鈍翁など、あれほどの名器を買って偽物を使わない人ですが、それでいて芸術がわからぬというのはどういうことかと思うのです。美術教育の根本が出来ていないからです。洋画を持って行ったってわかりませんよ。
「洋画は私はわからない」
 と遠慮なしに言うのですが、本来そんなことはないはずです。芸術でありますかぎり、人間の精神と美的趣味と思想によって出来上がったものですから、いずれも同じように、弁えていいと私どもは思うのです。
 さて脇道に入っていないで今少し茶碗のことによりをもどしますと、メモに書いておきました長次郎でありますが、長次郎のよさは、芸術に欠くべからざる品のよさとか、暖かさとかが備わり、無理が少しもないとか、ことんとした貫禄が物を言っているとか、これは絵画でも彫刻でも建築でも名高き芸術は皆そうです。しかし、長次郎と雖も、信長時代から桃山期という近世の人ですから、貴びはしますものの、高が知れているのですが、もっと古い弥生式土器などを見ますと、その天真なる巧妙さ、その線の美しさは、たまらないものです。楽々したスケールの大きさ、そういうものから見ますと、長次郎と申しても後代的作為がありますが、茶碗としては高級な作為に属します。どんなものだって人間が作ったものであります以上、作為のないものはない。
 それを半可通に見せますと、
「作為があるね」
 とか、
「山道がおかしい、こんなことをしないで、まっすぐがいい」
 とか、右だとか左だとか言うのですが、まっすぐだったらいいというわけでもなし、でこぼこがあるからと言っても、それが悪いと限ったわけでもありません。それはその人の作為で出来ておるのですから、人次第となります。その作為が何を物語っているかが問題であります。ただいい作為と悪い作為と二種ありますから、いい作為をもっておるものが名作となる、こういうことだと私は信じておるのです。そういう意味での長次郎の茶碗は、難癖をつけるところが先ずないのです。しかし、室町とか桃山とかいう時代のよさで、豊かな相をもっています。時代というものは、先に行けば先に行くほどよくなって来ています。これも限度がありますが、美術は五百年先よりも千年先にいいものがたくさん出来ていますし、千年先よりも二千年先に行くと貫禄のあるものとか、素晴らしく美しいものがたくさん出来ておる。要するに美しさというものは、遠くへ遡って行かないと調子の高いものはないわけです。そういう点で個人作家として、長次郎というのは第一番のものであると私は思うのです。
 もう一つ申しますと、茶碗というものは、ただあれだけの細工物ですから、ほかの絵や染色や蒔絵とかいうような複雑な手数も研究もいらないのです。たったこれだけの(手で茶碗の恰好)簡単なものを拵えて、それに精神と高い趣味を詰めこむことが出来ましたらいいのです。絵だったらそうは行きません。なかなかいろいろなことを研究しなければならぬ。茶碗のような簡単なわけには行きません。そこで長次郎という人が、茶をのむ人から茶碗を拵えてくれ、と言われてつくったまでの何でもない極めて単純な器、それだけのものに脇目もしないで悟るところの精神を集中する、そこが長次郎の天分であり、偉いところです。
 利休が長次郎を指導したということは何にでも書いてありますが、私は利休というのはそんなに世間で言う程偉くないと思うのです。利休の書跡を見ますと、相当頑固なところがあります。それから練達の結果、強引に押すところがある。こなれた達筆であります。利休はいかにもしっかり者だったには違いない、よっぽどしっかりした人間だというような感じがいたします。しかし、長次郎は見ても、こいつはしっかり者だなというところはありません。ただ暖かい、まどかな、感じのいい楽に付き合える人間のようです。そうして貫禄では劣りません。朝鮮茶碗の中で井戸茶碗というのが有名ですが、なぜ井戸茶碗がいいのかというと、品格がよくて、貫禄という重さがあるのです。ほかのものでは名作ながら、何か軽々しいところがありますが、そういうよさでは長次郎が個人作家としては一番秀れた人だと言っても間違いないと思うのです。利休が指導したというのは、利休が茶碗に不自由して長次郎にこういう大きさで高さはこれくらいにしてつくって貰えまいかということは言ったでしょう。自分が使ってみたいのですから……。しかし、利休の指導によって出来たということはあり得ないと思うのです。指導で人間の力はそんなにたやすくかわるものではありません。教育というものは菜園で言えば肥料みたいなもので、瓜の蔓に茄子はならぬと言いますが、瓜になんぼこやしをやったって茄子に変化するものでもなし、茄子が瓜に変ったりはしません。ただ少しうまそうな上等な瓜が出来るまでのものです。
「これはいい艶の茄子だね」
 という程度のことは肥料の教育で出来ます。人間だってそうだと思います。教育は人間の肥料だと言ってよいでしょう。だから人間の場合教育を受けぬよりは受けた方がましだとは言えます。しかし、受けたからといって瓜が茄子になったりすることは決してありません。天才というのはそういうところで、秀れたものというのは、やはり持って生まれた天才でありましょう。天才というと個性ともなるのですが、個性と言っても一人一人いろいろな個性があります。大きさもあり、高さもあり、いろいろな性質があります。しかし、茄子に生まれた以上茄子になるよりしようがないのです。そこで上等の茄子になれば勉強したことになります。これが個性発揮だと私は言うのです。利休の指導によって、長次郎のような立派ないい茶碗が生まれたということは、芸術に弁えのない話で、断固是正していいと思うのです。決して利休の力ではないので、長次郎が生まれつき芸術的天分高い所から、利休がちょっと言うと、利休が思っていたように楽茶碗の完成を見たのでありましょう。利休のつくった茶杓を見ましても、竹筒を切った切り口を見ましても、長次郎のような落ち着きはらったところはありません。所詮、覇気のあるもので、のびのびした豊かさはありません。その性格が太閤様のご機嫌を悪くしたりすることも出て来たのだろうと思います。
 それから二代目常慶でありますが、これは現物をあまり見たことがないので批評は出来ませんが、『大正名器鑑』にその写真が出ていますが、そんなものくらいしか私は知らないのですが、これは時代が時代ですから、桃山らしいふくよかな、薄作りながら力のあるものです。しかし、長次郎のような格高い貫禄、重みのあるものではありません。桃山時代というものは、何でもふくよかな時代ですから、大きさがいかにもおおらかな、ああいう茶碗が出来たのでしょう。ことにその先代に長次郎というのがいるのですから、あとの仕事は楽です。
 その次がのんこうとか光悦になるのですが、光悦というのは素晴らしく器用な風雅趣味の広い点で、群を抜いています。あの人にありそうで伝わっていないのは、食道楽ですが、食道楽がきっとあったに違いないと思うのです。あれだけ多趣味であっては、うまいもの食いでなければ恰好がつかぬのですが、それは聞いておりません。従ってあるいは食道楽でなかったかも知れないという見方も出来るのですが、彼のつくったのは茶碗ばかりで食器がない。食い道楽だと食器をつくりたくなるのです。ものをうまく食うには、いい容れ物に入れなければ気の済まぬものなのです。お茶だって名碗の中で茶を点てて飲んでこそ、まるきり目のない人では駄目ですが、長所のわかる人ならば、芸術価値ある容れ物のために茶は尋常の茶ではないようにありがたくなってしまう。今茶道が流行しているのはその魅力を狙ってのことだと思うのです。ところがデパートあたりで売っている、職人作の駄茶碗でけいこしたり、茶会をやっている人がありますが、それでは何も茶碗から学ぶところがない。一つの名茶碗からはどれくらい水準高い趣味を学ぶか。ありがたさを感じるものです。仮りに常慶なら常慶として、その人を察し、趣味のほどを考え、まれに見る人物であった、非常に人格者であったということを推求し、我々は学ぶ所が多いのです。名もないがらくた茶碗で飲む茶は、名古屋あたりに行くと、八百屋の店先でもどこででも出してくれるでしょう。こんながらくた茶碗で飲んだって、苦いだけ損したことになります。それからコーヒー茶碗で抹茶を飲んだって、ただ茶というだけで、しようがないものでしょう。それが長次郎とか光悦でなくても、そこそこ一流のものでもよろしいが、先ず名碗と言われているところの茶碗で、かれこれした席に入れて、感動に価いする掛物をかけてくれて、いい名釜がかかっておって、炉縁もなかなかのものだということになって来ると、茶道の功徳もわかって来るというものでしょう。
 そうでなしに、近ごろ場末の茶人のやっておるような茶碗では、茶でも何でもない。茶の粉末をかきまわして飲んでいるだけの話で学びようはありません。ただ飲んでいるだけならよろしいが、それが茶道だなどということを言って、自分は高雅な趣味をもっているような気になっておられては、大間違いだと思うのです。
 光悦は刀の鑑定などをする家に生まれたので、きっと相当な家でしょうから坊ちゃんで、絵も描く、字も書くという器用で多趣味な人ですから、茶碗も拵えてみようという気になった。そのころには、もう手本があり、長次郎とか常慶とかのんこうというのが、そこら辺にうようよしているのですから、器用な人ならあれだけできるのはあたりまえでしょう。しかし、これはおっちょこちょいでなくて、光悦という人が物事に真剣になれる人ですから、打ってつけの仕事になったのでしょう。しかし、長次郎、のんこうなどから見たら、格付けの上で大分低級なものです。何となしに貫禄が足りない。それでも彼は刀の鑑定は出来るし、字はうまいと称されるし、絵もある程度描けるし、蒔絵もやる。螺鈿の中に鉛をはめ込んだり、青貝とか金粉をつけて金蒔絵の硯箱などをつくっているのを見ましても、皆芸術的にうまいものです。しかし、光悦は光悦としての作為があります。その作評判になっています。もっとその上手に行くと、光悦でもなんでもないのです。専門職工になります。その下が至らないところが光悦の長所と言えましょう。それにまた年代というものには大きな力がありまして、これには勝てないのです。真葛長造とか永楽保全というように、徳川末期まで下って来ると、年代の低下が災いしておって、どんな天分を持つ人間でもりっぱなものが生まれません。木米が桃山期に生まれたら、もっと豊かなものにしたことと思われます。日本趣味も知ったことでしょう。
 野々村仁清で感心することは、あの時代に中国にも朝鮮にもよらないで、中国と朝鮮をうっちゃってしまったことです。これはまた大胆不敵なものだったのです。そしてその一心不乱というものは偉いものです。細々とした模様をつけて、熟視しておると、時代が桃山だからでしょうが、実に豊かなものです。遠く慶長ごろの織物とか染物のような模様をうまく拾って、きちんとした模様をつけているのですが、中国にも朝鮮にもよらず、日本の九谷、伊万里とも全然違うのです。慶長美術のようなものをそこにくっつけてしまったのです。そのころの職人仕事で特に秀れておるのは、伊豆蔵人形とか嵯峨人形とかで、嵯峨人形にはものすごいものがあります。嵯峨人形の秀れたものと仁清と比べると、仁清がずっと劣っています。深刻な点では嵯峨人形の方がずっと上手に行っており、そうして美しい。
 陶器は火の力を借りるので、人間の及ばない一役が加わっておるのです。絵でも火に燃やすとよくなって来るのです。自然の力を借りるということで、陶器はたいへんな得をしておるのです。これは燃やさなければ出来ないことですから、借りぬわけには行かぬのですが、非常に儲けものをしておる。今でも夏の鎌倉海岸あたりに行くと、楽焼に絵を描いたりするのをあちこちで見かけるでしょう。自分で描いたのがとてもいいように見えるのです。絵描きの方は、絵が生ですから、そのまま自然の力を借りるわけには行かない。千年も経つと古くなって、古色蒼然として来て、出来たてよりもよくなるということはあります。これも自然の力です。古いものがすべてよく見えるというのは、自然の力が加わって来るからです。人間の力ではそれほどでもないものが、古くなるとよくなる。例えば、陶器のように自然の力を借りて出来たものが、また古くなって手ですれたり、しみがついたりすると、思いがけないほどよくなるものです。
 そういう点が仁清も得をしておるところではありますが、私は仁清が紙に描いた絵も持っておって、しばらく熟視しましたが、絵描きというと失敬だけれども、古径あたりの力では、とても出来ないうまさがあるのです。殊に名人と称されるものに感心するのは、光悦は道楽だからよろしいが、仁清みたいに商売的に陶器を拵えておるものでも、絵がそれほどうまくても絵描きにならない。乾山も兄の光琳よりももっと力強い男性的な絵が描けるほど達者なものです。ところがこれが絵描きにならないで、陶器が好きだからといって陶器をやっておる。木米も素晴らしく南画がうまいのです。また世間がよく知っておって、高い金で売買されておるのですが、それほど絵がうまいのに、絵描きにならないで陶器師になっておる。これは商売上から考えると損な仕事です。絵を描いていた方が体裁がいいし、金もとれたかも知れないが、絵描きにならないで陶器をやっておる。夢中になって遊んでいるところにいいところがあるし、またいい陶器ができる所以は、そこにあると思うのです。趣味であり道楽であるし、また生まれがよい。光琳は呉服屋さんか何か金持の家で親が死んで、兄弟の光琳と乾山が財産を二つに分け合ったとか言うのですから裕福なのです。人間が豊かに出来ておるに違いない。出がいいということが言えます。ですからあれだけ豊かな仕事が出来、のんびりした美しさが生まれたと思うのです。木米の先生の穎川にしましても、京都の質屋の旦那で、絵は達者ですが、道楽に絵をやっておった。赤絵をやったのです。赤絵というのはあまりないのですが、魁丼などは素敵にうまい達者なもので、金気釉だって旦那芸ですから、いやしくなく、また強い。木米の先生で、たくさんの弟子もあったようです。そういう人でありますから、もとより職人肌ではないわけですが、職人でないために、あれだけ後に残るだけの陶器が出来たのです。しかし、仁清が中国を一擲して日本の陶器をつくったのと相反して、魁丼みたいに中国一点張りな趣味を持ったところは、時代とは言いながら情ない話で、穎川は日本を知らない。青木木米も日本を知らない。日本趣味というものがどこにも発見されないのです。日本人ですから、どこかに日本人の何か味があるにはあるのですが、木米のような人間が日本の茶道も知らないし、日本の書画でも古いところに趣味をもたない。これは頼山陽などが災いして、無暗に中国中国と言ったに違いない。文化・文政のころは、この節のアメリカかぶれみたいに、中国かぶれであったに違いない。ですから日本の茶道はその時分には衰えてしまっておる。中国流のきちんとした字を書かないと字でないように思われた。山陽の書など、宿屋の帳場などにたくさん出ていますが、あんなものを額に入れて喜んでいた人間が、ついこの間まであったかと思うと情ないものです。山陽というのは俗物だったに違いないのですが、漢字を知っておるとばかに偉そうに見える。この節、外語を知っておると、その人が偉そうに見えて買い被ってしまう。そういうことが山陽を買い被った所以ですが、それに『日本外史』や何かを書いて有名になった。それに穎川などがかぶれてしまって、たいへんな損をしたわけです。竹田でも、あれだけの絵が描けて、初めから日本趣味だったら、たいした絵が残ると思うのですが、惜しいことに中国一点張りで来た。中国というのは、日本のような優雅とか情味がないのです。いつでもお手本は中国なのですが、中国を手本にして日本人が何か真似すると、中国より何でもえらくなっているのです。ずっと古いところに行くと、鎌倉彫りというのは、近ごろやかましく言っておりますが、あれは鎌倉の町で出来るから鎌倉彫りだぐらいに、売る人も買う人も思っているようですが、宋時代に盛んになったもので、漆をたくさん積み重ねて、それに彫刻すると、彫刻したはだに漆の層が見える。楊成とかが牡丹などを彫ったものがあるのですが、それははなはだしく精巧なもので、日本人がそれに感じ入ってしまってこれをやろうとした。ところがその時分の日本人もやはりイミテーションをやっておるわけです。漆を重ねたりすることは日本人はあまり手法を知らないし、得意でないし、手間がかかるので、木に牡丹を彫ってそこに漆を塗ったらいいじゃないか、そうしたら同じことだというのでイミテーションをやった。そのイミテーションをやった人間が中国人だったら三文の価値もないでしょうが、日本人であったために、そこから素晴らしい芸術が生まれてしまった。今日見ると、本物よりもイミテーションの方がいいものになってしまった。お茶人が「何とも言えない」というような味があるのです。その味が鎌倉彫りの名を高からしめたのですが、このごろは、鎌倉彫りは鎌倉で彫れるから鎌倉彫りだという概念をもっている人も少しはありそうです。
 そこで有名な乾山ですが、これは乾山の陶器と言うぐらいだから、陶器師だと皆は思っているのです。ところが、私は自分で製作した体験があるのでよくわかるのですが、乾山は陶器をやらないと言ってもいいくらいです。絵が上手だったから、四角い皿などに達者に描いておるのですが、楽焼なのです。それで皆が感心したのです。デザインがちょっとハイカラで、オランダのものなどを大分写したりしているくらいですから、その当時でも乾山の画道には近代的感覚があったのです。先年ピカソの陶器がしきりに宣伝されて陳列されたようですが、ピカソの絵と陶器とは何も関係がないのです。ただ職人が拵えた素焼の西洋皿に、上絵を描いただけのことです。私が見たところ土をいじっていない。だからピカソの陶画と言えばいいのですが、陶器とは言えない。乾山も陶画家で、陶工と言うとちょっと怪しくなる。乾山は何者だと言えば、あれは陶画家だ。しかし、彼は少しは気になるところもあると見えて、根津美術館にあるような絵皿は、職人に皿を拵えさせておいて、それをちょっと栂指で押しているのです。そうすると土がでこぼこになって、乾山の生命がその中に少し入って来る。あの絵皿は有名なだけあって、なかなかうまいものです。人のつくったものを、やわらかい間に手でひねっておくだけで乾山の生命が入って来る。ところが、四角い皿に乾山に絵を描かしたりしているのですが、こんなものは乾山と縁もゆかりもない。裏を見ると何か乾山の字が書いてあります。その字の出来の悪いのが、そこの博物館にあります。乾山は本格的に字を習っておりません。良寛は本格的に字を学んだのですが、そのような本格的なところは少しもありません。お手本が中途半端なものです。ですから良寛のようにたまらぬというようなところはありません。しかし、達者なもので画賛をした皿はたくさんありますが、それはみな枯れたものです。しかし、惜しいことには、土の仕事にあまり手を下さなかった。鉢などにはいいものがあって、例えば女郎花とか桔梗が描いてある。長尾欽弥氏が持っておった乾山は模様を描いて透かしてある。三角とか四角とか、絵に従って穴をあけて中が見えるようになっている鉢がちょいちょいありますが、穴だけは自分でやっているけれども、轆轤は自分で仕上げられなかったに違いない。だから職人にやらしておるのです。上のでこぼこのところは模様に従って縁をぎざぎざ彫っておりますが、ひっくり返すと高台などはなっていない。それに職人がしたので、乾山にはどうにもなすすべがなかったらしいのです。ぼくがついていたら注意してやったのだけれども……、そこまで土に従っていない。やらぬことはないが本焼きはやっていないで、たいがいは楽焼です。しかし、絵のうまさで言うと、光琳に優るとも劣らないところがありますが、乾山はなかなか豪快で、男性的です。人間が弟の方は男性的で、兄の光琳の方がどちらかと言えば女性的で、片方はたくさんまとまった絵を描く歴史的な絵描きであるし、片方は歴史的な陶工なのです。
 次は奥田穎川ですが、先刻申し上げましたように仁清が中国を棄てて日本を拾ったのに、穎川は質屋の旦那だけれども、日本をケロリと棄ててしまって、中国だけを拾った。それも下手物のような安物の赤絵を拾い上げた。今から見ると、そこに彼の失態がある。穎川の鉢を使っている人もあるでしょうが、茶席になんか入れても固くてマッチしないのです。感心するほどうまいのだけれども味が足りないのです。
 仁阿弥道八という人は、趣味で人形とか猫とか福助とかを彫刻するのが非常にうまく、人形つくりだと言ってもいいくらいです。そのころ木彫家にも五郎兵衛とかたくさんおるのですが、仁阿弥ほどうまく彫れた人はありません。陶器師だのにそれほどうまい。しかし、仁阿弥道八まで来ると職人芸になってしまって、今までお話ししたような芸術家の中に入らない。腕ばかりの技能家だから、道八の雲錦手の鉢とか、いろいろ立派なものが残されています。小さなものも大きなものもありますし、色のものも土のものもありますが、そうたいして重きを置くものはありません。けれどもわかりやすいから、世間では割合に信者があるのです。これは大衆向きで調子が低い。光悦でも、あんなに有名なのは、高い水準ではあるけれども、大衆向き的なわかりやすいところもあるのです。そう調子の高いものじゃない。長次郎みたいになって来るとなかなかわからないのです。おまけに絵も描いてないし、まっ黒けな茶碗だけですから、箱も何もなしに出しておいて素敵だということはめったにないと思うのです。そういうものはいろいろ箱書きに時代と歴史がついておるから、一も二もなしにたいへんな金を出す人があります。落して粉にしてしまったら、三文の値打ちもないものですが、まとまっておると何百万円です。純金で茶碗をつくったって、今の金で五十万か百万円で出来るのです。ところが片方の茶碗は土の固まりですが、この方が純金の茶碗よりも、もっと高い。
 もし長次郎が純金で茶碗をつくっておったら、これまたすばらしいことに違いない。これは珍品だということで土よりももっと高いに違いない。またよさもあるし、金で出来ておるし、形から味からりっぱなものが出来るでしょう。しかし、純金ならつぶしたら何にでもなるが、土だと落して粉にしたら三文の値打ちもないし、そんなにないから何百万円もする、こういうことが考えられるのです。
 結局芸術の力というものは大したものです。土でも芸術家がつくるとそういう評価をされる。しかし、それもみな人間がつくるのですから、人間が出来ていなくちゃいかぬ。人間が芸術家に出来ていなければならないし、人格者でなければいかぬ。人間が高い水準の趣味家でなければならぬ。そういう条件が人間にたくさん入ってなければ価値がない。要は人間の問題である。
 それからもう一つは時代の問題である。木米でも、穎川でも、道八でも、室町時代に生まれていたら、周辺の環境がいいから相当いいものにしたに違いない。徳川末期になって来ると周辺の環境が悪いから、浮世絵を除いたら何もありはしない。狩野派の絵描きなどは、問題にならぬでしょう。
 徳川末期に入ってから永楽保全という人がありますが、これも器用な人で、金襴手など、金をごつく使ったもので、立派なものが出来ていますが、立派は立派だけれども、その性質は職人芸で、我々が永楽ぐらいどうでもいいじゃないかというのはそれなのです。しかし、きれいですから、その子孫がつくるものでさえも、今日もなお流行して盛んに製作されています。
 真葛長造などというのは、まだそれよりも下で、東京にも来ていたことがあるようですし、横浜にもちょっと来たことがあるようです。これはいよいよ下って来て、もう他愛もないものです。しかし、今の五条坂の職人がやっておるよりはましで、それよりは趣味があり、純粋なところがある。けれども天分が足らなすぎる。
 人の悪口を言って悪いようですが、近ごろは民芸派という一派がありまして、これが何でも民芸に限るということを主張をするし、したがるのです。しかし、どんなことでも何に限るということは、めったに言えたものではない。そんなことを言うと、そういうことに捉われて自由がきかなくなる。イデオロギーというのは、あるものによってはいいことでしょうが、もっと視野を広くして、自由自在の振舞いが出来るのがいいと思うのです。茶碗はのんこうに限るというようなことを言うのは、夕顔棚に体を縛りつけて涼をとらんとする人のようだと私は思うのです。夕涼みというものは、素っ裸でむしろの上に寝ころんでおるから涼がとれる。自由だから涼がとれる。しかし、なんぼ夕顔棚の下でも、イデオロギーに縛りつけられておったのでは、まず涼はとれぬのじゃないか。だから、そういうものに縛られないように、自由な境地に自分を置くことが必要だと思うのです。
 まとまりがつかないことを、あちこちとしゃべりましてすみませんでした。私の言うような話を少々製陶家みたいな人が聞くと、何か少しは参考になると思うのですが、みなさんのような鑑賞家だったら、あまり役に立たないかも知れません。いろいろなことを、ひとりごといたしまして失礼いたしました。
(昭和二十八年 東京国立博物館講堂に於て)

底本:「魯山人陶説」中公文庫、中央公論社
   1992(平成4)年5月10日初版発行
   2008(平成20)年11月25日12刷発行
底本の親本:「魯山人陶説」東京書房社
   1975(昭和50)年3月
入力:門田裕志
校正:雪森
2014年10月13日作成
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