然らばそれまでにどんな焼物が生れてゐたかと言ふに、先づ漢窯から唐三彩、それから宋になつては青磁だとか赤絵だとか、又は中には鉅鹿といふ頗るつきの名陶器もあつたのであるが、此等は何れも概してその作意が重く、釉類釉法も亦決して無審判ではなかつたが、然し新生の染付のやうに腹の底をわつて見せたといふ処へは、まだなかなか行く事が出来なかつた。
染付が初めて完成してその顔を見せた時、当時の支那の人はこれをどんなに驚き且つ喜んで迎へたであらう。それ迄とて何れはどこかの一部でこれが完成の為の研究がしつかりと積まれて行つてゐたであらうが、その出来上つての効果が、まさかこんなに立派であらうとは夢想だもしなかつたに違ひない。
今迄に夢想だもしなかつた染付のあかるくてさつぱりとした美しさ、然もそれは高火度の磁質のもので、その光沢、その釉色、とても今迄の焼物には求められなかつた処のもの――といふ以外に、好むがままの形、すきなやうな模様が、殆どいくらでも無限的に、至つて気やすく作られる染付――実際人によつては感激、興奮、殆どその度を知らなかつたであらう。
そしてその驚喜と讃嘆とは独り支那だけに止らなかつた。忽として海外へ、国外への輸出となつた。勿論その東隣のわが日本へも好まれ、無数に送つてよこされた。それには明の帝室を始め時の人の上下が挙つて出来るだけ勢ひをつけた。
染付を見る事によつて時の人の心持は一段にあかるく朗かだつた。それは丁度夜から引出された昼の、忽然たる相そのものではなかつたか。乃至は明けても暮れてもただ鬱然たる山をだけしか見る事の出来なかつた人の前に、図らずも開けた青海原のそれであつたかもわからなかつた。
かくして明に起つた染付は、明でそれ自体を完成させた。まことに染付の生命は明一代を限つたのである。明の一代三百年の間に生れた染付は、その後のいかなる染付のそれよりもあらゆる点に於て一番立派で芸術的であつた。清朝になつてからも盛んにこれの復興が企図され実行された。康煕年代、乾隆年代、何れも一生懸命なものが作つて出された。がそれは畢竟するに、他のすべての芸術が左様であるやうに、因襲にとらはれて、技巧内だけのせま苦しい発展、即ちただ技巧に技巧を重ねた処の、無精神的の形式化を示したに止つた。そしてこの結果は芸術的に浅薄な外人、といふよりはむしろ理智的な白人の喜びを購ふに過ぎなかつた。
わが国に於てもこれが造は幾度か企てられた。九州の有田の如き、伊万里の如き、加賀の九谷の如き、乃至京窯の如き、その後を追ひながら、要するに国民性の相違と、原料難と、年代の相違とから、遂にその右に出る事が出来なかつた。染付は明代のものにはかなはない――との嘆声は、もらされる事なしに然も人の心に響きわたつた。
此の間に在つて、多少にてもこれが染付の真実の心持を解し得たと思はれるのは、木米・保全など、あはれ二三人者に過ぎなかつた。
もつともペルシヤに於ては、明の染付より些し時代を前にして、品質、作意をこそ異にすれ、同じくコバルトを用ひて以て明の染付と、ややその美的観量を争ふに足るかと思はれる程のものを作り出してゐる。が然しこれは直ちに以て明の染付と対比す可き性質のものではない。即ち最初からその作品のねらひを聊かながら異にしてゐるのである。
明の時代の染付、これを通常古染付と呼ぶ。そこで話題をかへして、その古染付とは一体どういふ種類のものであるか――といふ処に置く。
処で私は由来文献を楯にして物を観るといふ事を嫌つてゐる一人である。一気に物の核心をつかまうとする場合、事実文献はあまり役に立たない。否多くの場合は、文献を楯に取るといふ事が、却つて物に対して働きかける大事な心眼をくらませるかに思ふのである。そこで文献を楯に取るといふ事は、それがよく行つて、つまり物の核心をつかむ為の方便とか、技巧とかいつたものにしかならない。折角指月の指も、その指に見取られてしまつては肝心の月のわからう筈はない。私のこの解説、或は知らず識らずの間に飛んでもない独断、或は許し難い不遜を敢てしてゐるやうな事になつてゐるかも知れないが、それかといつて、私には別に何等他意はないのである。ただどうかして物の中心生命に触れて見度いといふ迄の事である。従つて例へばここに眼前山中商会の宮氏の秘蔵にかかる唐の太宗の銘のある染付の香炉を何か然る可き文献と共につきつけられても、私には唐代に已に染付の焼成が示されてあつたとは、なかなか軽々には思はない。それ又或は然らんか――とでもして、合点の行くまでそれを注視するばかりなのである。
で私は古染付とは――その問に答へる為には、訳もなく明の時代に作られた青華磁器がそれであるとしたい。たとへ鉄分の顔料を以て描き、それが茶褐色に染つて単に青華と色の相違に過ぎないまでに行つたとて、或はたとへ材料関係や製法がどんなに同じであつても、染付といふ言葉の中からは断然これをはじき出したい。別にむづかしくなく、ただわが国で昔から言つてゐるとほりの概念を、そのまま些し強くはつきりしさへすれば(即ち明代青華磁器に限るといつたやうに)それでよいと思ふ。そして私は古染付の作品に接した場合、往々にしてこれは明初である、これは明末であるなどといふ観賞的断案の言葉をつかふが、それに対しては大抵の場合客観的の証拠材料を有してゐる訳ではなく、それこそ類推的に一つ一ついはゆる左様に私の経験がにらみを利かしたまでの事であるが、然し物には一つとして偶然の発生、発達、変化、終滅はない。そこには必ず因果の支配を受くるに最も従順なる内実の心があつて、それがその経過をどこ迄も合理的なものにして行く。古染付の初、中、末と言つた期別の如き、実はそれ自体非常にハツキリとして居て、恰も子供から青年へ、青年から大人と、一人の人間の生涯を見るやうに感ぜられるのである。で敢て古染付が生命的に明の一代を限つてゐるのだと言ふ所以であつて、まことに明一代にいはゆるわが古染付はその万丈の気焔をあげた。そして主としてそれが焼かれた処は景徳鎮、それも帝室の御器窯を中心にしてであつた。
従つてこれが原土は何れその遠からざる処より得たに違ひないが、問題は顔料であるが、地のものを「呉州」、ペルシヤの回々教徒の手を通じて入れられたと言ふコバルトを「回春」、ボルネオやスマトラ辺から輸入したのを「蘇泥勃青」といつたとかそれらの考証は素より文献軽視の癖ある私の能くす可き処でもなく、又今更それがわかつた処で、どうにも大した問題とはならないが、何せ明一代三百年の間の事である、そのコバルトの鉱石も、或は地から(現在は雲南省から出るといふが)、或はペルシヤから、或はボルネオから、或は安南から、或はスマトラから持ちはこばれたであらう。勿論それにはそれ、上質、下質、いろいろあつたであらう。又その鉱石のつぶし方や発色にしても、曰く呉州は粗くて発色は黒ずむ、回春はこまかくて、呈色はあざやかだつた――など言はれるのであるが、これらは何れも材料そのものを眼の前にしての話ではなく、伝世の古染付の作品を見てのいはゆる逞ましい想察に過ぎない儚ない文献を杖にしての歩みに他ならないのである。
ところが私の製陶経験で言へば、焼成の呈色は、全く窯中の熱度の高低、火焔の緩急、その他の関係から種々に変化を見せるのであつて、窯変の呈色を切離して、単独なものにして、そこからだけで原釉を考察するといふ事は、時に事実を往々にして思ひがけない処に運び去つてしまひはせぬかと考へるのである。然れば私はそれよりももつと一実的に作品に接近して行つて枝葉末節に喰ひつかず、その精髄に触れる事の大事さを、何よりも大事に思ふ者である。
次に私はついでに私のいはゆる、
「虫食の弁」
なるものに就て一筆しなければならない。古染付を手にせられた人々は何れもその器の縁又は角々等に虫の喰つた痕のやうに、上釉が剥落して居る事に気がつかれるであらう。必ずしも古染付の全部がとは言はないが、その大多数は先づこの虫喰ひから免かれないのである。
そこで察するのに、明代染付の大部分といふものは、素地に用ゆる石生地(焼成の暁は陶でなく、磁となる質のもの)が粗悪であつて、例へば現在わが九州の有田で用ひてゐるやうな純白な美しい無鉄分の原料土の産出有る無く、これを若しそのままで素器をつくり、そして直ちに釉薬をかけて焼くとすれば、恐らく焼成の器は、その焼上りの色がその含有鉄分の為に青黒く表現され、願ふ処の純白の結果が得られない事になる。
そこで丁度天ぷらに衣をつけるやうに、他から無鉄分の白土を取つて来て、ドロドロに溶き、その素器の上に化粧掛けといふのをする。ここで器を一旦乾燥させると、おしろいを塗つたやうになる、そこへ今度は改めて釉薬をかけ、初めて窯に入れて焼く、といふ方法でやつて来られたのである。
この方法でやる他は無かつたからやつたのはよい。成程、色は全体に白くあがるがこの場合、困つた事には、中身の素地になる土と、化粧掛けの土とは、それぞれ質が違つて、熱に対する収縮の度に些少ながら開きを見せる。そこで広く平かな面は別状はないが、縁まはりだとか、口づくりだとか、角のある角作りだとか言つた処に於て化粧土が素地を離れて少しづつ浮び上る。それが又いつの間にか物に触れてポリと剥落するのである。これさへ無かつたらと明人は如何に悩んだか知れない所のものである。
これは如何にも古染付であると言ふ一つの証拠にはなるも、又一寸雅致がないでもないが、所詮は無きに如かずであつて、現に高価な扱ひを受けて居る染付形物香合の如きは、殆どこのほつれが無いのである。製作上から言へば、化粧掛けの苦労と面倒さと、それによつて生ずる破損は、実際製陶者の抱く大きな悩みでなければならない。之れは要するに粗末な胎土しかなかつた悲しさで、それ故に二重三重の手間をかけ又苦労をした所以。若しこれが現在京都あたりで用ひてゐる九州の天草の原料石のやうなものが、当時の支那に発見されてゐたならば、この古染付は必ずやもつともつと立派に仕上げられてゐて、その美観驚くに堪へたるものがあつたに相違ない。
然し日本で造する偽物其他の染付などには、態々この剥落の虫食ひをつくる可く苦心を払ふ者さへある。をかしな話である。
それから支那の染付は、釉が生掛けだと言つてゐるその証拠は裏面の高台であるが古染付のそれを仔細に点検するとき、高台を削つた跡が、釉薬と一緒にけづられてゐる。これは何でもない事のやうであるが、日本の染付には見られない図である(日本では生掛けをしない習慣であるから)。
これは何でも支那では素地で形をつくる場合、円形であればロクロでつくり(高台及びその付近は仕上げないままで)、一旦乾燥させ若しそれが皿であるならば、皿の上にあたる表面に白い化粧土をかけ(素焼しない生素地に)、又再び乾燥させ、次に裏面をロクロにかけて仕上げ(但し高台の中を除き)、それに裏側全部化粧掛けをしそれを又乾燥させる。その表裏共に化粧掛けしたのが乾燥し切つた時、更にその上に灰質釉薬(透明にさす可き)を表裏一時にかけるか、或は物によつては表裏又もや中外二重にくすり掛けしてこれを乾燥し、そこで又々ロクロに載せグルグル廻し乍ら高台の中の仕上げ削りと言ふのをするのである。
此際素器の土と掛けた釉薬とが一緒に削れるのである。そしてこの痕跡は日本で造した染付には全く見られないものである。なぜならば、日本でのこれが製作は、ロクロの上で素器を完成させてしまひ、且つ化粧掛けの必要がない為に、直ちにそれを素焼し、素焼したものに釉薬を一時に両面ともにかけるやうにしてゐる関係から、高台の縁づくりは釉薬と素地が一緒に仕上げられて居る事はないのである。
蛇足ながら上述を以て序に代へた。
(昭和六年『古染付百品集』上巻より 原文のまま)