宮本武蔵(03 水の巻)
目次
明日は知れないきょうの生命
また、信長も謡った――
人間五十年、化転のうちをくらぶれば、夢まぼろしの如くなり
そういう観念は、ものを考える階級にも、ものを考えない階級にもあった。――戦が熄んで、京や大坂の街の灯が、室町将軍の世盛りのころのように美わしくなっても、
(いつまたこの灯が消えることか?)
と、人々の頭の底には、永い戦乱に滲みこんだ人生観が、容易に脱けきれないのであった。
慶長十年。
もう関ヶ原の役も五年前の思い出ばなしに過ぎない。
家康は将軍職を退き、この春の三月には二代将軍を継承した秀忠が、御礼のため上洛するのであろうと、洛内は景気立っている。
だが、その戦後景気をほんとの泰平とは誰も信じないのである。江戸城に二代将軍がすわっても、大坂城にはまだ、豊臣秀頼が健在だった。――健在であるばかりでなく、諸侯はまだそこへも伺候しているし、天下の浪人を容れるに足る城壁と金力と、そして秀吉の植えた徳望とを持っている。
「いずれ、また、戦さ」
「時の問題だ」
「戦から、戦までの間の灯だぞ、この街の明りだぞ、人間五十年どころか、あしたが闇」
「飲まねば損か、何をくよくよ」
「そうだ、唄って暮せ――」
ここにも、そういう考えのもとに、今の世間に生きている連中の一組があった。
西洞院四条の辻からぞろぞろ出て来た侍たちである。その横には、白壁で築いた長い塀と宏壮な腕木門があった。
ちょうど、街に灯がつくころになると、この門から、溢れるように若い侍が帰ってゆく。一日も、休みということはないようだ、木太刀を交ぜて、三本の刀を腰に横たえているのもあるし、本身の槍をかついで出て来る者もある。戦となったら、こういう連中が誰より先に血を見るのだろうと思われるような武辺者ばかりだった。颱風の卵のように、どれを見ても、物騒な面だましいをそなえているのである。
それが、八、九人、
「若先生、若先生」
と、取巻いて、
「ゆうべの家は、ごめん蒙りたいものだ。なあ、諸公」
「いかんわい。あの家の妓どもは若先生ひとりに媚びて、俺たちは眼の隅にもおいてない」
「きょうは、若先生の何者であるかも、俺たちの顔も、まったく知らない家へ行こうじゃないか」
そのことそのこと――とばかり動揺めくのだった。加茂川に沿って、灯の多い街だった。永いあいだ、乱世の顔みたいに、焼け跡のまま雑草にまかされていた空地も、ついに地価があがって、小屋同様な新しい仮家が建ち、紅や浅黄の暖簾がかけられ、白粉を下手に塗った丹波女が鼠鳴きをしたり、大量に買われてきた阿波女郎が、このごろ世間にあらわれ始めた三味線というものを、ポツン、ポツン、戯れ唄に交ぜて、弾いたりなどしていた。
「藤次、笠を買え、笠を」
色街の近くまで来ると、若先生と呼ばれている背のたかい黒茶の衣服に三つおだまきの紋を着けている吉岡清十郎が、連中を顧みていった。
「笠。――編笠で?」
「そうじゃ」
「笠など、おかぶりにならないでもよいではござりませぬか」
弟子の祇園藤次がいうと、
「いや、吉岡拳法の長男が、こんな所を歩いているぞと、人に振りかえられるのは嫌だ」
「あははは、笠なしでは、色ざとを歩かれぬと仰っしゃるわ。――そういう坊ンちのようなことをいうので、とかく若先生は女子にもてて困るのじゃ」
藤次は、揶揄うような、また、おだてるようなことをいって、連中の一人へ、
「おい編笠を求めてこい」
といいつけた。
酔っているものや、影絵のようなぞめきの人々と、灯を縫うてひとりは編笠茶屋へ走ってゆく。
その笠が来ると、
「こうかむれば、誰にも、わしとはわかるまいが」
清十郎は、顔をかくして、やや大びらに歩みだした。
藤次は、うしろから、
「これはまた伊達者に見える。若先生、いちだんと風流姿でございますぞ」
すると、他のものまで、
「あれ、妓たちが皆、暖簾口から見ているわ」
などと、幇間をたたいた。
しかし、門下達のことばは、あながちそら世辞ではなかった。清十郎は背が高くて、帯びている大小は綺羅びやかだし、年は三十前後の男の花の頃だし、名家の子として恥かしくない気品も実際あった。
で――軒から軒の浅黄暖簾や、紅ン殻色の出格子のうちから、
「そこへ行く、美い男さま」
「おすましの編笠さん」
「ちょっとお寄りなさいませ」
「笠のうち、一目、見せて」
と、籠の鳥が、囀り抜く。
清十郎は、よけいにとり澄ました。弟子の祇園藤次にそそのかされて、遊里に足を入れはじめたのも近頃であるが、元来が父に吉岡拳法という有名な人物を持ち、幼少から金の不自由も知らず、世間の底も知らず、まったく、坊ンち育ちに出来ているので、多分に、見栄坊なところがある。――弟子たちのお幇間や妓たちのそういう声が、甘い毒のように、彼の心を酔わしていた。
すると、一軒の茶屋から、
「あれ、四条の若先生、いけませんよ、顔をかくしても、わかっておりますよ」
と、妓が、黄いろい声でさけんだ。
清十郎は、得意な気もちをかくし、わざと驚いたように、
「藤次、どうしてあの妓は、わしを吉岡の嫡子と知っているのだろう」
と、その格子先で佇んだ。
「はてな?」
藤次は、格子のうちで笑っている白い顔と、清十郎を見くらべて、
「諸公、怪しからぬ事なござるぞよ」
「なんじゃ、何事ぞや」
連中は、わざと騒めく。
藤次は遊蕩の気分を醸るために、道化た手ぶりをして、
「初心じゃとばかり思っていたら、うちの若先生は、どうして隅へはおけない。――あの妓と、とうにお馴染であるらしい」
指さすと、妓は、
「あれ、それは嘘」
清十郎も、大げさに、
「何を申すか、わしは、この家など上がったことはない」
真面目になって、弁解するのを、藤次は、百も承知していながら、
「では、なぜ、笠で顔をかくしているあなたを、四条の若先生と、あの妓がいいあてたか、不審では、ござりませぬか。――諸公、これが不審でないと思われるか」
「怪しいものでござりますぞ」
囃したてると、
「いいえ、いいえ」
妓は、白粉の顔を格子へつけて、
「もし、お弟子さん方、それくらいなことがわからないでは客商売はできませんよ」
「ほ。えらく、広言を吐くの――。ではどこで、それがわかったか」
「黒茶のお羽織は、四条の道場にかようお武家衆好み。この遊里まで、吉岡染というて、流行っているではございませんか」
「でも、吉岡染は、誰も着る、若先生だけとは限らぬ」
「けれど、ご紋が三つおだまき」
「あ、これはいかん」
清十郎が、自分の紋を見ているまに、格子の中の白い手は、その袂をつかまえていた。
「顔をかくして、紋かくさずだ。参った! 参った!」
藤次は清十郎へ、
「若先生、こうなっては、ぜひないこと、上がっておやりなさるほか、策はありますまい」
「どうなとせい。それより、はやくわしのこの袂をはなさせてくれ」
当惑顔をすると、
「妓、上がってやると仰っしゃるから、はなせ」
「ほんとに」
妓は、清十郎の袂をはなした。
どやどやと、連中は、そこの暖簾をわけて入った。
ここも、急ごしらえの安普請である。落ちつくに堪えない部屋に、俗悪な絵だの花だのを、無智に飾りたててある。
だが、清十郎と藤次をのぞいては、そういう神経などはまるで持てない人々だった。
「酒を持て、酒を」
と、威張る。
酒が来ると、
「肴を持て」
と、いうのがいる。
肴がくると、植田良平という藤次に肩をならべるこの道の豪の者が、
「はやく、妓を持て」
と、怒鳴ったので、
「あははは」
「わははは」
「妓を持てはよかった。植田老が御意召さるぞ、はよう妓を持て!」
と、皆で真似た。
「それがしを、老とは怪しからぬ」
良平老は、若いものを、酒杯ごしに睥睨して、
「なるほど、それがしは、吉岡門では、古参に相違ないが、まだ鬢辺の糸は、このとおり黒い」
「斎藤実盛にならって、染めてござるらしい」
「何奴じゃ、場所がらをわきまえんで。――これへ出よ、罰杯をくれる」
「ゆくのは面倒、投げてくれい」
「参るぞ」
杯が飛ぶ。
「返すぞ」
また飛ぶ。
「誰ぞ、踊れ」
と、藤次がいう。
清十郎もやや浮いて、
「植田、お若いところで」
「心得てそうろう、若いといわれては、舞わずにおれん」
と、縁のすみへ出て行ったと思うと、仲居の赤い前だれを、頭のうしろに結び、その紐へ、梅の花をさし、箒をかついで、
「やよ、各
、飛ン騨踊りじゃ。――藤次どの、唄たのむ」
「よしよし、皆も唄え」
箸で皿をたたく、火ばしで火桶のふちをたたく。
「飲めんのか、こればしの酒が」
「あやまる」
「武士たるものが」
「何を。じゃあ、俺が飲んだら、貴様も飲むか」
「見事によこせ」
牛のように飲むことをもって酒飲みの本領と心得ている徒輩が、口端から、しずくをこぼしてまで我慢して、飲みくらをしている。
やがて、嘔吐をつく奴がいる。目をすえて、飲み仲間をジロジロ睨めまわしている奴がある、またふだんの慢心に火をそそいで、あるものは、
「京八流のわが吉岡先生をのぞいて、天下に、剣のわかる人間が一匹でもいるか。いたらば、拙者が先に、お目にかかりたいもんだ。……ゲ、げーい」
すると、清十郎を挟んで、その隣に、同じく、これも食べ酔って、シャックリばかりしていた男が、笑いだした。
「若先生がいると思って、見えすいたおべッかをいう奴だ。天下に剣道は、京八流だけではないぞ。また、吉岡一門ばかりが、随一でもあるまい。たとえば、この京都だけにも、黒谷には、越前浄教寺村から出た富田勢源の一門があるし、北野には小笠原源信斎、白河には、弟子はもたぬが、伊藤弥五郎一刀斎が住んでおる」
「それがどうした」
「だから、一人よがりは、通用せぬというのだ」
「こいつ! ……」
と、高慢の鼻を弄られた男は膝をのりだして、
「やい、前へ出ろ」
「こうか」
「貴様は、吉岡先生の門下でありながら、吉岡拳法流をくさすのか」
「くさしはせぬが、今は、室町御師範とか、兵法所出仕といえば、天下一に聞え、人もそう考えていた先師の時代とちがって、この道に志す輩は雲のごとく起り、京はおろか、江戸、常陸、越前、近畿、中国、九州の果てにまで、名人上手の少なくない時勢となっている。それを、吉岡拳法先生が有名だったから、今の若先生やその弟子も、天下一だと己惚れていたら間違いだと俺はいったんだ。いけないか」
「いかん、兵法者のくせに、他を怖れる、卑屈な奴だ」
「おそれるのではないが、いい気になっていてはならんと、俺は誡めたいのだ」
「誡める? ……貴さまに他人を誡める力がどこにあるか」
どんと、胸いたを突く。
あっと一方は、杯や皿のうえに手をついて、
「やったな」
「やったとも」
先輩の祇園と植田の二人は、あわてて、
「こら野暮をするな」
双方を、もぎはなして、
「まアいい、まアいい」
「わかったよ、貴さまの気持はわかっておる」
と、仲裁して、また飲ませると、一方はなおさかんに怒号するし、一方は、植田老の首にからみついて、
「おれは、真実、吉岡一門のためを思うから、直言するんだ。あんな、おべッか野郎ばかりいては、先師拳法先生の名も廃ると思うんだ……ついに廃ると……」
と、おいおい泣き出している。
妓たちは、逃げてしまうし、鼓や酒瓶は、蹴とばされている。
それを怒って、
「妓ども! ばか妓!」
罵って、ほかの部屋を、歩いているのがあると思うと、縁がわに、両手をついて、蒼ざめたのが、友人に背なかを叩いてもらっている。
清十郎は、酔えなかった。
その様子に、藤次が、
「若先生、面白くないでしょう」
と、囁くと、
「これで、彼奴らは、愉快なのであろうか」
「これが、面白いのでしょうな」
「あきれた酒だ」
「てまえが、お供をいたしますから、若先生には、どこか他の静かな家へ、おかわりになっては如何で」
すると清十郎は、救われたように、藤次の誘いに乗って、
「わしは、昨夜の家へ、参りたいが」
「蓬の寮ですか」
「うむ」
「あそこは、ずんと茶屋の格がようございますからな。――初めから、若先生も、蓬の寮へお気が向いていることは分っていたのでござるが、何せい、この有象無象がくッついて来たのでは滅茶ですから、わざと、この安茶屋へ寄ったので」
「藤次、そっと、抜けてゆこう。あとは植田にまかせて」
「厠へ立つふりをして、あとから参ります」
「では、戸外で待っているぞ」
清十郎は、連中を措いて、器用にすがたを消した。
白い踵を浮かして、つま先で立っていた。風に消された掛け行燈にあかりを入れ直し、軒へ背のびをしている洗い髪の年増女だった。なかなか釘へかからないのである。さし上げている白い肱に、燈りの影と黒髪がさやさやとうごいて、二月の晩のゆるい風には、どこか梅の薫りがしていた。
「お甲。掛けてやろうか」
うしろで、誰か、不意にいう。
「あら、若先生」
「待て」
と、側へ来たのは、その若先生の清十郎ではなくて、弟子の祇園藤次、
「これでいいのか」
「どうもおそれ入ります」
よもぎの寮
と書いてある行燈をながめ、すこし曲っているナとまた掛け直してやる。家庭ではおそろしく不精でやかましやの男が、色街へ来ると、案外親切で小まめで、自分で窓の戸をあけたり、敷物を出したり、働きたがる男というものはよくあるものだ。
「やはりここは落着く」
清十郎は、坐るとすぐいった。
「ずんと、静かだ」
「開けましょうか」
藤次は、もう働く。
せまい縁に、欄がついている。欄の下には、高瀬川の水がせせらいでいた。三条の小橋から南は、瑞泉院のひろい境内と、暗い寺町と、そして茅原だった。まだ世人の頭に生々しい記憶のある殺生関白秀次とその妾や子たちを斬った悪逆塚も、ついそのあたりに近いのである。
「はやく、女でも来ぬと、静かすぎますな。……他に今夜は客もないらしいのに、お甲のやつ、何をしているのか、まだ、茶も来ない」
しないでもよい気働きがやたらに出て来て、坐っていられない性とみえる。茶でも催促に行こうというのか、のこのこ奥へ通う細廊下へ出てゆくと、
「あら」
出会いがしらに、蒔絵の盆を持った鈴の音がした。少女である。鈴は、その袂の袖口で鳴るのだった。
「よう、朱実か」
「お茶がこぼれますよ」
「茶などどうだっていい。おまえの好きな清十郎様が来ていらっしゃるのだ。なぜ早く来ないか」
「あら、こぼしてしまった。雑巾を持っていらっしゃい、あなたのせいですから」
「お甲は」
「お化粧」
「なんだ、これからか」
「でも今日は、昼間がとても忙しかったのですもの」
「昼間。――昼間、誰が来たのか」
「誰だっていいじゃありませんか、退いて下さいよ」
朱実は、部屋へ入って、
「おいで遊ばせ」
気のつかない顔をして横をながめていた清十郎は、
「あ……おまえか、ゆうべは」
と、てれる。
千鳥棚のうえから、香盒に似た器へ、鍔のついている陶器口の煙管をのせ、
「あの、先生は、莨をおすいになりますか」
「莨は、近ごろ、御禁制じゃないか」
「でも、皆さんが隠れておすいになりますもの」
「じゃあ、吸ってみようか」
「おつけしましょうね」
青貝もようの綺麗な小箱から莨の葉をつまんで、朱実は、陶器煙管の口へ白い指でつめ、
「どうぞ」
と清十郎へ吸口を向けた。
馴れない手つきで、
「辛いものだのう」
「ホホホ」
「藤次は、どこへ行った?」
「また、お母さんの部屋でしょう」
「あれは、お甲が好きらしいな。どうも、そうらしい。藤次め、時々わしを措いて、一人で通っているにちがいない」
「――な、そうだろう」
「いやなお人。――ホ、ホ、ホ」
「何がおかしい。そなたの母も、うすうす藤次に思いを寄せているのだろうが」
「知りません、そんなこと」
「そうだぞ、きっと。……ちょうどよいではないか、恋の一対、藤次とお甲、わしとそなた」
そしらぬ顔をしながら、朱実の手の上へ手をかさねると、
「いや」
と、朱実は潔癖な弾みを与えて、膝から振り退けた。
振りのけられた手は、かえって清十郎を強くさせた。起ちかけた朱実の小がらな体を抱きすくめ、
「どこへ行くか」
「いや、いや。……離して」
「まあ、居やれ」
「お酒を。……お酒を取って来るんですから」
「酒などは」
「お母あさんに叱られます」
「お甲は、あちらで、藤次と仲よく話しおるわ」
埋め込む朱実の顔へ顔をすり寄せると、ぱっと火でもついたような熱い頬が必死に横を向いて、
「――誰か来てえっ。お母あさん! お母あさん!」
と、ほん気で叫んだ。
離した途端に、朱実は、袂の鈴を鳴らして、小鳥みたいに奥へかくれた。彼女の泣きこんだ辺りで、大きな笑い声がすぐ聞えた。
「ちッ……」
自分の置き場を失ったように、清十郎は、さびしい、苦い、何ともいえない面もちを持って、
「帰る!」
独りでつぶやいて、廊下へ出た、歩きだすと、その顔は、ぷんぷん怒っていた。
「おや、清さま」
見つけて、あわてて抱きとめたのはお甲であった。髪も束ね、化粧は先刻よりは直っていた。抱きとめておいて、藤次を加勢に呼びたてた。
「まあ、まあ」
やっと元の座敷に坐らせたのである。すぐ酒を運ぶ、お甲が機嫌をとる、藤次が、朱実を引っぱッて来る。
朱実は、清十郎の沈んでいるのを見ると、くすりと、笑靨を下に向けた。
「清さまへお酌をなさい」
「はい」
と、銚子をつきつける。
「これですもの、清さま、どうしてこの娘は、いつまで、こう子どもなんでしょう」
「そこがいいのさ、初桜は」
藤次も、わきから座を持った。
「だって、もう二十一にもなっているのに」
「二十一か、二十一とは見えんな、ばかに小粒だ――やっと十六か、七」
朱実は、小魚みたいに、ぴちぴちした表情を見せて、
「ほんと? 藤次さん。――うれしい! 私、いつまでも、十六でいたい、十六の時に、いいことがあったから」
「どんなこと」
「誰にもいえないこと。……十六の時に」
と、胸を抱いて、
「わたし、何処の国にいたか、知っている? 関ヶ原の戦のあった年」
お甲は、不意にいやな顔して、
「ぺちゃぺちゃ、くだらないお喋べりをしていないで、三味線でも持っておいで」
つんと答えずに、朱実は起った。――そして三味線をかかえると、客を娯しませようとするよりは、自分ひとりの思い出でも娯しむように、
「ウム、もう一曲」
「ひと晩じゅうでも、弾いていたい――」
それまで、沈湎と額づえついていた清十郎が、どう気をとり直したか、唐突に、
「朱実、一杯ゆこう」
杯を向けると、
「ええ、頂戴」
悪びれもせず、うけて、
「はい」
と、すぐ返す。
「つよいの、そちは」
清十郎もまた、すぐあけて、
「も一杯」
「ありがと」
朱実は、下へ置かないのである。杯が小さいと見えて、ほかの大きな杯で酌しても、あッけないくらいなものだった。
体つきでは、十六、七の小娘としか見えないし、まだ男の唇によごされていない唇と、鹿みたいに羞恥みがちな眸をもっているくせに、いったい、この女のどこへ、酒が入ってしまうのだろうか。
「だめですよ、この娘は、お酒ならいくら飲ませたって酔わないんですから。三味線を持たせておくに限るんです」
お甲がいうと、
「おもしろい」
清十郎は、躍起に酌ぐ。
すこし雲ゆきがおかしいぞと懸念して、藤次が、
「どうなすったので。――若先生今夜は、ちと飲け過ぎまする」
「かまわぬ」
凡ではない、案のじょう、
「藤次、わしは今夜は、帰れぬかも知れぬぞ」
と、断って飲みつづける。
「ええ、お泊りなさいませ幾日でも。――ネ、朱実」
と、お甲は、調子づける。
藤次は眼くばせをして、お甲をそっと他の部屋へ拉して行った。――困ったことになったぞと密め声で囁くのである。あの執心ぶりでは是が非でも、朱実になんとか得心させなければ納まるまいが、本人よりは母親であるおまえの考えのほうが肝腎、金のところはどのくらいだと、真面目になってかけ合うのだった。
「さ? ……」
と、お甲は暗い中で、厚化粧の頬へ、指をついて考え込む。
「何とかせい」
藤次は、膝をつめ寄せ、
「わるくない話じゃないか、兵法家だが、今の吉岡家には、金はうんとある。先代の拳法先生が、何といっても、永年、室町将軍の御師範だった関係で、弟子の数も、まず天下第一だろう。しかも清十郎様はまだ無妻だし、どう転んだって、行く末わるい話ではないぞ」
「私は、いいと思いますが」
「おまえさえよければ、それで文句のありようはない。じゃあ今夜は、二人で泊るがいいか」
灯りのない部屋である。藤次は臆面もなくお甲の肩へ手をかけた。すると襖のしまっている次の間でがたんと物音がした。
「あ。ほかにも、客がいたのか」
お甲は、黙ってうなずいた。そして藤次の耳へ、湿っぽい唇をつけた。
「後で……」
男女は、さりげなく、そこを出た、清十郎はもう酔いつぶれて横になっている。部屋をわけて、藤次も寝た。――寝つつも眠らずに訪れを待っていたのであろう。しかし、皮肉なことだった。夜が明けても、奥は奥で、ひっそりと寝しずまった限りだし、二人の部屋へは、衣ずれの音もしなかった。
ばかな目を見た顔つきで、藤次はおそく起き出した。清十郎はもう先に起きて川沿いの部屋でまた飲んでいる。――取り巻いているお甲も朱実も今朝は、けろりと冴えていて、
「じゃあ、連れて行ってくださる? きっと」
と、何か約束している。
四条の河原に、阿国歌舞伎がかかっている、その評判をもちだしているのだった。
「うむ、参ろう。酒や折詰のしたくをしておけ」
「じゃあ、お風呂もわかさなければ」
「うれしい」
朱実とお甲と、今朝は、この母娘ばかりがはしゃいでいた。
出雲巫子の阿国の踊りは、近ごろ、町のうわさを風靡していた。
それを真似て、女歌舞伎というものの、模倣者が、四条の河原に、何軒も掛床をならべ、華奢風流を争って、各
が、大原木踊りとか、ねんぶつ舞とか、やっこ踊りとか、独創と特色を持とうとしている。
佐渡島右近、村山左近、北野小太夫、幾島丹後守、杉山主殿などとまるで男のような芸名をつけた遊女あがりの者が、男扮装で、貴人の邸へも、出入りするのを見かけられるのも、近ごろの現象だった。
「まだか、支度は」
もう陽は午刻をすぎている。
清十郎は、お甲と朱実が、その女歌舞伎を見にゆくために、念入りなお化粧をしている間に、体がだるくなって、また、浮かない気色になった。
藤次も、ゆうべのことが、いつまでも頭にこびりついていて、彼独特な調子も出ないのである。
「女を連れてまいるもよいが、出際になって、髪がどうの、帯がなんの、あれが、実に男にとっては、小焦れッたいものでござる」
「やめたくなった……」
川を見る。
三条小橋の下で、女が布を晒していた。橋の上を、騎馬の人が通ってゆく。清十郎は、道場の稽古を想い出した。木太刀の音や槍の柄のひびきが耳についてくる。大勢の弟子が、きょうは自分のすがたが見えないのを何といっているだろう。弟の伝七郎もまた舌うちしているに違いない。
「藤次、帰ろうか」
「今になって、左様なことを仰っしゃっては」
「でも……」
「お甲と朱実をあんなに欣しがらせておいて、怒りますぞ。早くせいと、急がせて参りましょう」
藤次は出て行った。
鏡や衣裳の散らかっている部屋をのぞいて、
「あれ? 何処じゃろ」
次の部屋――そこにもいない。
布団綿のにおいが陰気に閉まっている陽あたりの悪い一間がある。何気なく、そこも、がらりと開けていた。
いきなり藤次はその顔へ、
「誰だッ」と、怒鳴られて面食らった。
思わずひと足退いて、うす暗い――表の客座敷とは較べものにならない湿々した古畳のうえを見た。やくざな性を遺憾なく身装にあらわした二十二、三歳の牢人者(註・牢ハ淋シムノ意、牢愁ナドノ語アリ。当時ノ古書ミナ牢人ノ文字ヲ用ウレド、後ノ浪人ト同意味ナリ)――が、大刀のつばを腹の上に飛び出させたまま、大の字なりに寝ころんで、汚い足の裏をこっちに向けているのである。
「ア……。これは粗相、お客でござったか」
藤次がいうと、
「客ではないッ」と天井へ向って、その男は、寝たまま怒鳴る。
ぷーんと、酒のにおいが、その体からうごいてくる。誰か知らぬが、触らないにかぎると、
「いや、失礼」
立ち去ろうとすると、
「やいっ」
むッくり起きて呼び返した。
「――後を閉めてゆけ」
「ほ」
気をのまれて、藤次が、いわれた通りにしてゆくと、風呂場の次の小間で、朱実の髪をなでつけていたお甲がどこの御寮人かとばかり、こってり盛装したすがたをすぐその後から見せて、
「あなた、何を怒ってるんですよ」
と、これまた、子どもでも叱りつけるような口調でいう。
朱実が、うしろから、
「又八さんも行かない?」
「どこへ」
「阿国歌舞伎へ」
「べッ」
本位田又八は、唾でも吐くように、唇をゆがめてお甲へいった。
「どこに、女房のしりに尾きまとう客の、そのまたしりに尾いて行く亭主があるかっ」
化粧きぬいて、盛装して――女の外出は浮いた感傷に酔っている、それを、掻き乱された気がしたのであろう。
「何ですって」
お甲は眼にかどを立てた。
「私と藤次様と、どこが、おかしいんですか」
「おかしいと、誰がいった」
「今、いったじゃありませんか」
「…………」
「男のくせに――」
と、お甲は、灰をかぶせたように黙ってしまった男の顔をにらんで、
「嫉いてばかりいるんだから、ほんとに、嫌になっちゃう!」
そして、ぷいと、
「朱実、気ちがいに関ってないで行こう」
又八は、その裳へ、腕をのばした。
「気ちがいとは、何だっ。――良人をつかまえて、気ちがいとは」
「なにさ」
お甲は振り退けて、
「亭主なら、亭主らしくしてごらん。誰に食わせてもらっていると思うのさ」
「な……なに……」
「江州を出て来てから、百文の金だって、おまえが稼いだことがあるかえ。私と、朱実の腕で暮して来たんじゃないか。――酒をのんで、毎日ぶらぶらしていて、どう文句をいう筋があるえ」
「だ……だから俺は、石かつぎしても、働くといっているんだ。それをてめえが、やれ、まずい物は食えないの、貧乏長屋はいやだのと、自分の好きで、俺にも働かせず、こんな泥水稼業をしているんじゃねえか。――やめてしまえッ」
「何を」
「こんな商売」
「やめたら、あしたから食べるのをどうするのさ」
「お城の石かつぎしても、俺が食わしてみせる。なんだ、二人や三人の暮しぐらい」
「それ程、石かつぎや、材木曳きがしたいなら、自分だけここを出て、独り暮しで土方でも何でもしたらいいじゃないか。おまえさんは、根が作州の田舎者、そのほうが生れ性に合っているのでしょ。何も無理にこの家にいてくれと拝みはしませんからね、どうか、いやなら何時でもご遠慮なく――」
くやし涙を溜めている又八の眼の先から、お甲も去り、朱実も去った。――そうして二人のすがたが眼の前からいなくなっても、又八は、一方をにらみつけていた。
ぼろぼろと湯のわくように涙が畳へ落ちる。今にして悔やむことはすでに遅いが、関ヶ原くずれの身を、あの伊吹山の一軒家に匿まわれたことは、一時は、人の情けの温かさに甘え、生命びろいをした幸運に似ていたが、実はやはり敵の手に擒人となってしまったも同じであった。――正々堂々、敵に捕われて軍門に曳かれた結果と、多情な後家のなぐさみものになって、生涯男がいもなく悶々と陽かげの悩みと侮蔑の下に生きているのと、いったいどっちが幸福であった? ――あの人魚を食ったようにいつまでも若くて、飽くなき性の脂と白粉と、虚慢ないやしさを湛えているすべた女に、これからという男の岐れ道をこうされて。
「畜生……」
又八は身をふるわした。
「畜生め」
涙が滲む。骨の髄から泣きたくなる。
なぜ! なぜ! おれはあの時宮本村の故郷へ帰らなかったろうか。お通の胸へ帰らなかったか。
あのお通の純な胸へ。
宮本村には、おふくろもいる。分家の聟、分家の姉、河原の叔父貴――みんな温ッたかい!
お通のいる七宝寺の鐘はきょうも鳴っているだろう。英田川の水は今もながれているだろう、河原の花も咲いていよう、鳥も春を歌っているだろう。
「馬鹿。馬鹿」
又八は、自分の頭を、自分の拳で撲った。
「この馬鹿ッ」
ぞろぞろと連れ立って、今、家を出かけるところらしい。
お甲、朱実、清十郎、藤次。――ゆうべから流連けの客二人に母娘二人。
はしゃぎ合って、
「ほう、戸外は春だの」
「すぐ、三月ですもの」
「三月には、江戸の徳川将軍家が、御上洛という噂。おまえ達はまた稼げるな」
「だめ、だめ」
「関東侍は遊ばぬか」
「荒っぽくて」
「……お母さん、あれ、阿国歌舞伎の囃子でしょう。……鐘の音が聞えてくる、笛の音も」
「ま――。この娘は、そんなことばかりいって、魂はもう芝居へ飛んでいるのだよ」
「だって」
「それより、清十郎様のお笠を持っておあげ」
「はははは、若先生、おそろいでよう似合いますぞ」
「嫌っ。……藤次さんは」
朱実が後ろを振り向くと、お甲は袂の下で、藤次の手に握られていた自分の手をあわててもぎはなした。
――その跫音や声は、又八のいる部屋のすぐ側を流れて行ったのである。
窓一重の往来を。
「…………」
又八の怖い眼が、その窓から見送っていた。青い泥を顔へ塗ったように、押しつつんでいる嫉妬である。
「何だッ」
暗い部屋へ、ふたたび、どかっと坐って、
「――何のざまだっ、意気地なしめ、このざまは、このベソは」
それは自分を罵っているのである。――腑がいない、小癪にさわる、浅ましい――すべて自分に対する自分の憤懣を発している所作なのだった。
「――出ろと、あの女めがいうのだ。堂々と、出て行けばいい。何をこんな家に、こんな歯ぎしり噛んでまでいなければならない理がある。まだ、俺だって二十二だ。――いい若い者が」
がらんと急に静かになった留守の家で、又八は独りで声を出していった。
「その通りだ、それを」
いても起ってもおれなくなる。なぜだ! 自分にもわからない。混沌と頭がこんがらかるばかりだ。
この一、二年の生活で、頭が悪くなったことを又八は自分でも認めている。たまッたものではない、自分の女が、よその男の席へ出てかつて自分へしたような媚態をほかへ売っているのだ。夜も眠れない。昼も不安で外へ行く気も出ない。そしては悶々と、陽かげの部屋で、酒だ、酒である。
あんな年増女に!
彼は忌々しさを知っている。目前の醜いものを蹴とばして、大空へ青年の志望を伸ばすことが、せめて遅くとも、過誤の道をとり返す打開であることもわかっている。
だが……さてだ。
ふしぎな夜の魅惑がそれを引きとめる。どうした粘力だろう。あの女は魔か。――出て行けの、厄介者のと、癇だかく罵ったことばも、深夜になればそれは皆、悪戯ごとのようにあの女の快楽の蜜に変ってしまうのだ。四十に近い年になっても、娘の朱実に劣らない臙脂を紅々と溶かしている唇。
――それもある。また。
いざとなると、此処を出ても、お甲や朱実の目にふれるところで石担ぎをやる勇気も又八は持ち合せていない。こういう生活も五年となれば、彼の体にも怠けぐせが沁みこんでいることは勿論だった。肌に絹を着、灘酒と地酒の飲みわけがつくようになっては、宮本村の又八もはや、以前の質朴や剛毅さのあった土くさい青年とはちがう。殊にまだ二十歳前の未熟なうちから、年上の女と、こういう変則な生活をして来た青春が、いつのまにか、青年らしい意気に欠け、卑屈に萎み、依怙地に歪んでしまったのも、当り前だった。
だが! だが! 今日こそは。
「畜生、後であわてるな」
憤然と、自分を打って、彼は起った。
「出てゆくぞ、おれは」
いってみたところで、家は留守である、誰も止め人はない。
こればかりは遉に離さない大きな刀を、又八は腰にさし、そして独りで唇を噛みしめた。
「俺だって、男だ」
表の暖簾口から大手を振って出ても決して差しつかえないものを、平常の癖である、台所口から汚い草履を突っかけて、ぷいと外へ出た。
出たが――
「さて?」
足がつかえたように、白々と吹く春先の東風の中に、又八は目瞬いていた。
――何処へ行くか?
世間というものが途端に渺茫として頼りない海騒のように思えた。経験のある社会といえば、郷里の宮本村と、関ヶ原の戦のあった範囲よりほか知らないのである。
「そうだ」
又八は、また、犬のように台所口をくぐって家の中へ戻った。
「――金を持って行かなければ」
と、気がついたのである。
お甲の部屋へ入った。
手筥だの、抽斗だの、鏡立てだの、手あたり次第に掻き廻してみた。しかし、金はみつからなかった。あらかじめこういう悪心は行き届いている女である。又八は気を挫いて、取りちらした女の衣裳の中へ、がっかり坐り込んでしまった。
紅絹や、西陣や、桃山染や、お甲のにおいが陽炎のように立つ。――今頃は河原の阿国踊りの小屋で、藤次と並んで見ているだろうと、又八はその姿態や肌の白さを眼にえがく。
「妖婦め」
しんしんと脳の髄から滲み出るものは、ただ悔いの苦い思い出だった。
今さらではあるが、痛烈に、思われる人は、故郷元へ捨てたままの許婚――お通であった。
彼は、お通を忘れ得なかった。いや日の経つほど、あの土くさい田舎に自分を待つといってくれた人の清純な尊さがわかって来て、掌を拝せて詫びたいほど恋しくなっていた。
だが、お通とも、今は縁も切れたし、こッちから顔を持ってゆけた義理でもない。
「それも、彼婦のためだ」
今、眼が醒めても遅いが、あの女に、お通という女性が故郷にあることを正直に洩らしたのがわるかった。お甲は、その話を聞く時は、婀娜な笑くぼをたたえて、至って無関心に聞いていたが、心のうちでは深い嫉妬をもったらしく、やがて何かの時に、それを痴話喧嘩にもちだして、何でも縁切り状を書けと迫り、しかも自分の露骨な女文字までわざと同封して、あの何も知らずにいる故郷のお通へ宛てて、飛脚で出してしまったものである。
「――ああ、どう思ってるだろうなあ? お通は……お通は」
狂わしく又八は呟いた。
「今頃は? ……」
悔いの瞼に、お通が見える。恨めしげなお通の眼が見える。
故郷の宮本村にも、そろそろ春が訪れていよう。きょうも、なつかしいあの川、あの山々。
又八は、ここから叫びたくなった。そこにいるお母、そこにいる縁者たち、みんな温ッたかい! 土までもぽかぽか温ッたかい!
「二度と、もうあの土は踏めないのだ。――それもみんな、こいつのためだ」
お甲の衣裳つづらを打ちまけて、又八は、手当り次第に引ッ裂いた。裂いては、家中へ蹴ちらかした。
と、――さっきから表の暖簾口で、訪れている者があった。
「ごめん。――四条の吉岡家の使いでござるが、若先生と、藤次殿が参っておりませぬか」
「知らぬっ」
「いや、参っているはずでござる。隠れ遊びの先へ、心ない業とは承知しておりますが、道場の一大事――吉岡家の名にもかかわること――」
「やかましい」
「いや、お取次でもよろしい。……但馬の士宮本武蔵という武者修行の者、道場へ立ち寄り、門弟たちに立ち対える者一人もなく、若先生のお帰りを待とうと、頑として、動かずにおりますゆえ、すぐお帰りねがいたいと」
「な、なにッ、宮本?」
吉岡家にとって、きょうはなんという悪日か。
この西洞院西ノ辻に、四条道場が創まって以来の汚辱を兵法名誉の家門に塗ったものとして、今日を胆に銘記しなければならない――と、心ある門人たちは、沈痛きわまる面をして、もういつもならそれぞれ黄昏れを見て帰り途へちらかる時刻の道場に、まだ、暗然たる動揺を無言にもって或る群れは板敷きの控えにかたまり、或る群れは一室のうちに、墨のごとく残っていた。一人も帰らずに残っていた。
門前で、駕でも止ったような物音がすると、
「お帰りか」
「若先生か」
人々は、暗い無言をやぶって、立ちかけた。
道場の入口で、憮然と、柱によりかかって立っていた一人が、
「ちがう」
と、首を重く振る。
そのたびごとに、門人たちは、沼のような憂暗にかえった。或る者は、舌うちを鳴らし、或る者は、そばの者に聞えるような嘆息をし、忌々しげな眼を、夕闇の中に、ぎらぎらさせていた。
「どうしたのだ? いったい」
「きょうに限って」
「まだ若先生の居所はわからんのか」
「いや、手分けして方々へ捜しに走らせているから、もう追ッつけ、お帰りになるだろう」
「ちいッ」
――その前を、奥の部屋から出て来た医者が、黙々と門人たちに見送られて玄関へ出て行った。医者が帰ると、その人たちはまた無言で一室へ退いた。
「燈火をつけるのも忘れていやがる。――誰か、あかりを灯けんのかっ」
と、腹だたしげに呶鳴る者がある。自分たちの汚辱に対して、自分たちの無力を怒る声だった。
道場の正面にある「八幡大菩薩」の神だなに、ぽっと、神あかしが灯った。しかし、その燈明さえ、晃々とした光がなかった。弔火のように眼に映って、不吉な暈がかかっている気がするのである。
――そもそもが、ここ数十年来、吉岡一門というものは、余りに順調でありすぎたのではあるまいか。古い門人のうちでは、そうした反省もしていた。
先代――この四条道場の開祖――吉岡拳法という人物は、今の清十郎やその弟の伝七郎とはちがって、たしかに、これは偉かったに違いない。――根は一介の染物屋の職人に過ぎなかったが、染型をつける紺屋糊のあつかいから太刀使いを発明して、鞍馬僧の長刀の上手に仕いたり、八流の剣法を研究したりして、ついに、一流をたて、吉岡流の小太刀というものは、時の室町将軍の足利家で採用するところとなり、兵法所出仕の一員に加えられるまでになった。
(お偉かったな、やはり)
今の門下も、何かにつけ、追慕するのは、亡き拳法の人間とその徳望であった。二代目の清十郎その弟の伝七郎、共に父に劣らない修業はさずけられていたが、同時に、拳法の遺して行った尠からぬ家産と、名声をもそのまま貰っていた。
(あれが禍いだ)
と、或る者はいった。
今の弟子も、清十郎の徳についているのではない、拳法の徳望と吉岡流の名声についているのである。吉岡で修業したといえば、社会で通りがよいから殖えている門生なのであった。
足利将軍家が亡んだので、禄はもう清十郎の代になってからはなかったが、身に娯みをしなかった拳法の一代に、財産は知らないまにできていた。それに宏壮な邸はあり、弟子の数は何といっても、日本一の京都において、随一といわれるほどあって、その内容はともかく、外観では、剣をつかい剣に志す社会を風靡している。
――が、時代はこの大きな白壁の塀の外において、塀の内の人間が、誇ったり、慢じ合ったり、享楽したりしている数年の間に、思い半ばに過ぎるような推移をとげていた。
それが、きょうの暗澹たる汚辱にぶつかり慢心の眼がさめる日となってきたのだ。――宮本武蔵という、まだ聞いたこともない田舎者の剣のために。
事件の起りはこうである。
――作州吉野郷宮本村の牢人宮本武蔵という者ですが。
と、今日玄関へ来て訪れた田舎者があるという取次の言葉であった。居合わせた連中が興がって、どんな男かと訊ねると、取次のいうには、年の頃はまだ二十一か二、背は六尺に近く、暗やみから曳きだした牛のようにぬうとしている、髪は一年も櫛など入れたことがないらしく赤くちぢれたのを無造作に束ね、衣服などは、無地か小紋か、黒か茶か、分らないほど雨露に汚れていて、気のせいか臭いような気さえする。それでも背中には、俗に武者修行袋とよぶ紙撚網に渋をひいて出来ている重宝包みを斜めに背負いこんでいる所、やはり近頃多い武者修行を以て任じているらしくあるが、何としても間が抜けた若者だ――ということであった。
それもいい。お台所で一食のおめぐみにとでもいうことか、この広大な門戸を見て、人もあろうに当流の吉岡清十郎先生に試合をねがいたいという希望だと聞いたから、門人たちは吹きだしてしまった。追ッ払え、という者もあったが、待て待て何流で誰を師にして学んだか訊いてやれという者もあって、取次が面白半分に往復すると、その返辞がまた振っている。
――幼少の時、父について十手術を習いました。それ以後は、村へ来る兵法者について、誰彼となく道を問い、十七歳にして、郷里を出、十八、十九、二十の三ヵ年は故あって学問にのみ心をゆだね、去年一年はただ独り山に籠って、樹木や山霊を師として勉強いたしました。されば自分にはまだこれという師もなく流派もありません。将来は、鬼一法眼の伝を汲み、京八流の真髄を参酌して、吉岡流の一派をなされた拳法先生のごとく、自分も至らぬ身ながら一心に励んで、宮本流を創てたいのが望みでございます。
と、いかにも世間摺れない正直さはあるが、訛りのある廻らぬ舌で、咄々と答えたといって、取次が、またその口真似をして伝えたので、さあみんな、再び笑いこけてしまった。
天下一の四条道場へ、のそのそやって来るのさえ、既によほど戸惑った奴でなければならんのに、拳法先生のごとく一流を創てたいなどとは、身のほど知らずも、ここまでになれば珍重してよろしい。いったい、死骸の引取人はあるのかないのか聞いて来いと、さらに、からかい半分に取次へいってやると、
(死骸の儀なれば、万一の場合は鳥辺山へお捨て下さろうとも、加茂川へ芥と共にお流し下さろうとも、決して、おうらみには存じませぬ)
と、これはぬうとしているに似げないさッぱりした返辞だという。
(上げろ)
と一人が口を切ったのが始まりであった。道場へ通して、片輪ぐらいにして抛り出すつもりであったのだ。ところが、最初の立合いに、片輪は道場側の方に出来てしまった。木剣で腕を折られたのだ、折られたというより
がれたといったほうがあたっている。皮膚だけで手首がぶら下がっているほどな重傷だった。
次々に立ち上がった者が、ほとんど同様な重傷を負うか惨敗を舐め尽してしまったのである。木剣とはいえ床には血さえ滴った。凄愴な殺気はみなぎって、たとえ吉岡の門人が一人のこらず斃れるまでも、この無名の田舎者に誇りを持たせたまま生かして帰すことはならなくなった。
(――無益であるからこの上は清十郎先生に)
と当然な乞いのもとに、武蔵はもう立たないのであった。やむなく、彼には一室を宛てがって待たせておき、清十郎の行く先へは使いを走らせ、一方では医者を迎えて、重体の傷負い数名を、奥で手当てしていた。
その医者が帰ると間もなく、燈火のついた奥の部屋で傷負いの名をよぶ声が二、三度聞えた。道場の者が、駈け寄ってみると、そこに枕をならべている六名の者のうちで、二人はもうこときれて死んでいた。
「……だめか」
死者の枕元をかこんだ同門の者たちの顔は、一様に蒼くにごって、重くるしい息をのんだ。
そこへ、あわただしい跫音が、玄関から道場へ通り、道場から奥へ入って来た。
祇園藤次を連れた吉岡清十郎であった。――
二人とも、水から上がって来たような醒めた顔いろを湛えていた。
「どうしたのだ! この態は」
藤次は吉岡家の用人格でもあり、また道場では古参の先輩でもあった。従ってその言葉つきは場合にかまわず、いつも権柄であった。
死人の枕元で、涙ぐんでいた多感らしい門人が、途端に憤ッとした眼を上げて、
「何をしていたとはあなたがたのことだ。若先生を誘惑いあるいて、馬鹿も程にしたがよいッ」
「何だと」
「拳法先生のご在世中には、一日たりとも、こんな日はなかったんだぞ!」
「たまたまのお気ばらしに、歌舞伎へお出でになったくらいのことが、なんで悪いか。若先生をここにおいて、なんだその口は。出過ぎ者め」
「女歌舞伎は、前の晩から泊らなければ行けないのか。拳法先生のお位牌が、奥の仏間で、泣いてござるわっ」
「こいつ、いわしておけば」
その二人をなだめて別室へ分けるために、そこはしばらくがやがやしていた。――すると、直ぐ隣室の暗やみで、
「……や……やかましいぞっ……人の苦痛も知らずに……ウーム……ウーム」
呻く者があると思うと、
「そんな内輪喧嘩より、若先生が帰って来たなら、早く、今日の無念ばらしをしてくれっ。……あの……奥に待たせてある牢人めを、生かして、ここの門から出しては駄目だぞっ。……いいかっ、たのむぞ」
蒲団のうちから、畳をたたいて喚いている者もある。
死に至るほどではなかったが、武蔵の木剣の前に立って、脚や手を打ち砕かれた怪我人組の、それは興奮であった。
(そうだ!)
誰もが、叱咤された気がした。今の世の中で農、工、商のほかに立つ人間が、最も日常に重んじあっているものは「恥」ということだった。恥と道づれなれば、いつでも死のうとこの階級は競う気持すらあった。時の司権者は、軍にばかり追われて来たので、まだ天下に泰平を布く政綱もなかったし、京都だけの市政にしてからずいぶん不備で大ざっぱな法令で間にあわせられているのであるが、士人のあいだに、恥辱を重く考えるという風がつよいので、百姓にも町人にも、自らその意気が尊ばれ、社会の治安にまで及ぼしているので、法令の不完全も、こういう市民の自治力で償われて余りあるのであった。
吉岡一門の者にしても、まだその恥を知ることにおいては、決して、末期の人間のような厚顔は持たなかった。一時の狼狽と、敗色から甦ると、すぐ恥というものが頭へいっぱいに燃えた。
(師の恥)
とばかり、小我を捨てると、一同は道場に集まった。
清十郎を取り巻いてである。
だが、その清十郎の面は、きょうに限って、ひどく闘志がない。ゆうべからのつかれが、今になって眉にただよっていた。
「――その牢人者は」
清十郎は、革だすきをかけながら訊ねた。門人の出した二本の木剣を選んで、その一本を右手に提げた。
「お帰りを待とうという彼奴のことばにまかせて、あの一室に、控えさせてあります」
と、一人が庭に向っている書院脇の小部屋を指した。
「――呼んで来い」
清十郎の乾いた唇から出た言葉である。
挨拶をうけてやろうというのだった。道場から一段高い師範の座に腰をかけ、木剣を杖に立って、清十郎はいった。
「は」
三、四人が答えて、すぐ道場の横から草履を穿き、庭づたいに、書院の縁へ走ろうとするのを、祇園藤次や植田などの古参が、その勢い込む袂をつかまえて、
「待て待て、逸まるな」
それからの囁きは、すこし離れて見ている清十郎の耳には聞えなかった。吉岡家の家人、縁者、古参を中心として、一かたまりになりきれない程なあたま数が、幾組にもわかれて、額をよせ集め、何か、異論と主張と、評議紛々たるものがあった。
――が、相談はすぐ決まったらしい。吉岡家を思い、清十郎の実力をよく知る大勢の者の考えとして、奥に待っている無名の牢人を呼び出して、ここで無条件に清十郎へ立ち対わせることは、何としても不得策である。すでに、幾名かの死者と怪我人を出している上に、万一清十郎までが敗れたら吉岡家の重大事であって、危険極まるというのが、その人たちの危惧であった。
清十郎の弟、伝七郎がいるならば、そういう心配はまずないものと人々は思う。ところが生憎とその伝七郎までが、きょうは早朝からいないのだ、先代拳法の天分は、兄よりはこの弟のほうに多分によい質があると人々は見ているのだが、責任のない次男坊の立場にあるので、至って暢気者だ。きょうも友達と伊勢へ行くとかいって、帰る日も告げずに家を出ているのだった。
「ちょっと、お耳を」
藤次はやがて、清十郎のそばへ行って、何か囁いていた。――清十郎の面は堪え難い辱しめをうけたように汚れた。
「――騙し討ちに?」
「…………」
叱っと、藤次は眼をもって、清十郎の眼を抑えた。
「……そんな卑怯なことをしては、清十郎の名が立たぬ。たかの知れた田舎武芸者に、怖れをなして、多勢で打ったと世間にいわれては」
「ま……」
藤次は、強いて毅然と装う清十郎のことばへ圧しかぶせて、
「吾々にまかせて下さい。吾々の手に」
「そち達は、この清十郎が、奥にいる武蔵とやらいう人間に、敗けるものと思うているのか」
「そういう理ではありませぬが、勝って、名誉な敵ではなし、若先生が手を下すには、勿体ない、と一同が申すのでござる。――何も外聞にかかわるほどなことでもありますまい。……とにかく生かして返しては、それこそ、御当家の恥を、世間に撒きちらされるようなものですからな」
そんなことをいっている間に、道場に充ちている人間は、半数以上も減っていた。――庭へ、奥へ、また玄関から迂回して裏門のほうへと、蚊の立つように音もなく闇へ紛れてゆくのであった。
「あ。……もう猶予はなりません、若先生」
藤次は、そこの灯を、ふっと吹き消してしまった。――そして下緒を解いて袂をからげた。
清十郎は腰かけたままながめていた。ほっとした気持がどこかでしないでもない。しかし、決して愉快ではなかった、自分の力が軽視された結果にほかならないのだ。父の死後、怠って来た修業のあとを省みて、清十郎は暗い気持だった。
――あれほどな門下や家人が、どこへ潜んでしまったか、道場には、もう彼一人しか残っていなかった。そして、井戸の底に似た物音のない暗さと冷たさが、邸のうちを占めた。
――じっとしていられないものが、清十郎の腰を起たせた。窓からのぞいてみると、灯の色が映しているのは、武蔵という客を待たせてある一室だけで、そのほかに何物も見えなかった。
障子のうちの燈火は、時々、静かな瞬きをしていた。
縁の下、廊下、隣の書院など、その仄かな灯影のゆれている一室の他は、すべて暗かった。徐々と、無数の眼が、蟇のようにその闇を這い寄っていた。
息をころし、刃を伏せて、
「…………」
じっと、燈火のさす内の気はいを、身体じゅうで訊き澄ます。
(はてな?)
藤次は、ためらった。
他の門人たちも、疑った。
――宮本武蔵とやら、名まえこそ都で聞いたこともない人間だが、とにかくあれほどつかう腕の持主である。それが、しいんとしているのはどういうものだろう、多少なり兵法に心をおく人間ならば、いくら上手に忍び寄ろうが、これだけの敵が室外に迫って来るのを気づかずにいるはずはない。今の世を兵法者で渡ろうという者が、そんな心がまえであったら、月に一ツずつ生命があっても足らないことになる。
――(寝ているな)
一応は、そう考えられた。
かなり長い時間であったから、待ちしびれを切らして、居眠っているのではあるまいかと。
だが、思いのほか相手が曲者とすると、或は、こっちの空気を早く察しながら、襷股立ちの身こしらえまで十分にしておいて、わざと燈心の丁字を剪らずに、来らば――と鳴りをひそめているのかもわからない。
(そうらしい……いや、そうだ)
どの体も硬ばってしまう。自分の殺気でまず自分が先に打たれているのだ。誰か先に捨て身にならないかと味方のほうへも気を配るのである。ゴクリと喉の骨が鳴ったりする。
「宮本氏」
ふすま隣から、藤次が気転でこう声をかけた。
「――お待たせいたした。ちょっと、お顔を拝借ねがいたいが」
相変らずしいんとしたものである。いよいよ敵には用意がある。藤次はそう考えて、
(抜かるな!)
と、眼合図を左右の者に投げておいて、どんと、襖の腰を蹴った。
途端に、中へ躍りこむはずの人影が、無意識にみな身を退いた。――襖の一枚は脚を外して閾から二尺ほど股をひらいている。それッと、誰か叱咤した。四方の建具がぐわらぐわらと一度に鳴りを立てて暴れた。
「やっ?」
「いないぞっ」
「いないじゃないか」
急に強がった声が揺れている燈火の中で起った。つい今し方、ここへ燭台を門人が運んで来た時はまだきちんと坐っていたというその敷物はある、火桶はある、また飲まないまま冷えている茶もあるのだ。
「逃がした」
一人が縁へ出て庭へ伝える。
庭の暗がりや床下から、むらむら寄って来た人影が皆、地だんだを踏み、見張人の不注意を罵った。
見張をいいつかっていた門人たちは、口を揃えて、そんなはずはないという。いちど厠へ立つ姿は見たが、すぐ部屋へもどったきり、武蔵は断じてこの部屋を出ていないといって不審かる。
「風ではあるまいし……」
その抗弁を嘲殺していると、
「あっ、ここだ」
戸棚へ首を突っこんだ者が、剥がれている床の穴を指さした。
「燈火がついてからといえば、まだそう遠くへは走っていないぞ」
「追え、追打ちに」
敵の弱身を測って急に奮いだした武者ぶるいが、小門、裏門をどっと押して、外へ散らかった。
すると直ぐ――いたッと叫ぶ声がながれた。表門の袖塀の蔭から弾かれたように一つの影が、往来を横ぎって向うの小路へ隠れたのを、声と共に、誰も見た。
まるで脱兎の逃げ足だった。突当りの築土を、その男の影は蝙蝠のように掠めて、横へ外れた。
大勢のみだれた跫音が、あッちだこッちだと、その後から追い捲くって行く、前へもまわってゆく。
空也堂と本能寺の焼け跡とが道路を挟んでいる薄暗い町まで来ると、
「卑怯者」
「恥知らずが」
「よくも、よくも、最前は」
「さあ、もどれ」
捕まえたのだ。ひどい乱打と足蹴の下に、捕われた男は大きな呻きを発したが、それが逃げるだけ逃げ廻っていたこの人間の猛然と立ち直った挑戦であったとみえ、中の襟がみを取って曳きずるように踏ン張っていた二、三名の者は同時に大地へたたきつけられていた。
「あっ」
「こいつがッ」
すでに血になろうとするその旋風へ、
「待った、待った!」
「人違いだ」
誰からともなく叫び出した。
「やっ、なるほど」
「武蔵じゃない」
唖然として気抜けしている所へ遅れ走せに加わった祇園藤次が、
「捕まえたか」
「捕まえることは捕まえたが……」
「オヤ、その男は」
「ご存知か」
「よもぎの寮という茶屋の奥で――。しかも今日、会ったばかり」
「ほ? ……」
いぶかしげに見る大勢の眼が、黙然と、こわれた髪や衣紋を直している又八の足の先まで撫でまわして、
「茶屋の亭主?」
「いや亭主ではないと、あそこの内儀がいった、懸人だろう」
「うさんな奴だ。何だって、御門前にたたずんで、覗き込んでなどおったのか」
藤次は、急に足を移して、
「そんな者にかまっていては、相手の武蔵を逸してしまう。早く手分けをして、せめて、彼の泊っている宿先でも」
「そうだ、宿を突きとめろ」
又八は本能寺の大溝へ向いて、黙然と首を垂れていたが、わらわら駈け去ってゆく跫音へ、何思ったか、
「あ、もしっ、しばらく」
と、呼びとめた。
最後の一人が、
「なんだ」
足を止めると、又八のほうからも足を運んで、
「きょう道場へ来た武蔵とかいう者は、幾歳くらいの男でした」
「年などはしらん」
「てまえと、同年くらいじゃございませんか」
「ま、そんなものだ」
「作州の宮本村と申しましたか、生国は」
「左様」
「武蔵とは、武蔵と書くのでございましょうな」
「そんなことを訊いてどうするのだ。そちの知人か」
「いえ、べつに」
「用もない所をうろついていると、また、今のような災難にあうぞ」
いい捨てると、その一人も闇へ駈け去った。又八は、暗い溝に沿って、とぼとぼ歩きだした。時々、星を仰いでは立ちどまっている。何処へという目的もないような容子なのである。
「……やっぱり、そうだった。武蔵と名をかえて、武者修行に出ているとみえる。……今会ったら、変っているだろうな」
両手を、前帯へ突っこんで、草履の先で石を蹴る。その石の一つ一つに、彼は友達の顔を、眼にえがいた。
「……間がわるいな、どう考えても、今会うのは面目ない。おれにだって、意地はある。あいつに見蔑げられるのは業腹だ。……だが吉岡の弟子たちに見つかったら生命はあるまい。……何処にいるのか、知らしてやりたいものだが」
石ころの多い坂道に沿い、行儀の悪い歯ならびのように、苔の生えた板廂が軒を並べていた。
くさい塩魚を焼くにおいがどこかでする。午ごろの陽ざしが強い、不意に、一軒のあばら屋のうちで、
「嬶や餓鬼を、乾ぼしにしておいて、どの面さげて帰って来たかっ、この呑ンだくれの、阿呆おやじがっ」
癇だかい女の声が聞え、それとともに一枚の皿が往来へ飛んで来て、真ッ白に砕けたと思うと、つづいて五十ぢかい職人ていの男が、抛り出されたように転び出した。
裸足で、ちらし髪で、牝牛のような乳ぶさを胸からはだけ放している女房が、
「この、ばかおやじ、何処へ行くっ」
飛び出して来て、おやじの髷をつかみ、ぽかぽかと撲る、喰いつく。
火のつくように子は泣いている。犬はきゃんきゃんいう、近所からの仲裁が駈けて出る。
――武蔵は振り向いた。
笠の裡で、苦笑して見ていた。彼は、先刻からその軒つづきの陶器師の細工場の前に立ち、子供のように何事も忘れて、轆轤や箆の仕事に見恍れていたのであった。
「…………」
ふり向いた眼はまたすぐ細工場のうちへ戻っている。武蔵は、見とれていた。しかし、そこで仕事をしている二人の陶器師は、顔も上げなかった。粘土の中にたましいが入っているように、三昧になりきっていた。
路傍にたたずんで見ているうちに、武蔵は、自分もその粘土を捏ねてみたくなった。彼には、何かそういうことの好きな性質が幼少い時からあった。――茶碗くらい出来るような気がする。
だが、その一人のほうの六十ぢかい翁が、箆と指のあたまで、今、一個の茶碗になりかけている粘土をいじっているのを見ると、武蔵は、自分の不遜な気持がたしなめられた。
(これは、たいへんな技だ、あれまで行くには)
このごろの武蔵の心には、ままこういう感動を抱くことがあった。人の技、人の芸、何につけ優れたものに持つ尊敬である。
(自分には、似た物もできない)
はっきりと今も思う。見れば、細工場の片隅には、戸板をおいてそれへ皿、瓶、酒盃、水入れのような雑器に、安い値をつけて、清水詣での往来の者に傍ら売っているのである。――これほどな安焼物を作るにも、これほどな良心と三昧とをもってしているのかと思うと、武蔵は自分の志す剣の道が、まだまだ遠いものの気がした。
――実は、ここ二十日あまり、吉岡拳法の門を始め、著名な道場を歩いてみた結果、案外な感じを抱き、同時に自分の実力が、自分で卑下しているほど拙いものではないという誇りも大いに持っていた折なのである。
府城の地、将軍の旧府、あらゆる名将と強卒のあつまるところ、さだめし京都にこそは、兵法の達人上手がいるだろうと思って訪れて行って、その床に心から礼儀を施して帰るような道場が、一軒でもあったろうか。
武蔵は、勝っては、その度に、淋しい気もちを抱いて、そこらの兵法家の門を出た。
(俺が強いのか、先が弱いのか)
彼にはまだ、判然としない。もし今日まで歩いて来たような兵法家が、今の代表的な人々だとしたら、彼は、実社会というものを疑いたいと思った。
しかし――
うっかり、それで思い上がることは出来ないぞということを、彼は今、見せられていた。わずか二十文か百文の雑器を作る翁にさえ、じっと見ていると、武蔵は、怖いような三昧境の芸味と技を感じさせられる。――それで生活を見れば食うや食わずの貧しい板屋囲いではないか。社会がどうして甘いものであろうはずはない。
「…………」
武蔵は、だまって、心のうちだけで、粘土まみれの翁に、頭を下げてそこの軒を離れた。坂を仰ぐと清水寺の崖道が見える――
「御牢人。――御牢人」
三年坂を、武蔵が登りかけた時である。誰か呼ぶので、
「わしか」
振り向いてみると、竹杖一本手に持って、空脛に腰きりの布子一枚、髯の中から顔を出しているような男、
「旦那は、宮本様で」
「うむ」
「武蔵とおっしゃるんで」
「む」
「ありがとう」
尻を向けると、男は茶わん坂の方へ、降りて行った。
見ていると、茶店らしい軒へ入った。その辺には、今のように駕かきが、陽なたに沢山群れていたのを、武蔵も今しがた見て通って来たのであるが、自分の姓名を訊ねさせたのは一体誰なのか。
――次には、その本人が出て来るであろうと、しばらく佇んでいたが、何者も見えない。
彼は、坂を登りきった。
千手堂とか、悲願院とか、その辺りの棟を一巡して、武蔵は、
(故郷に独りいる姉上の息災をまもらせたまえ)
と祈り、
(鈍愚武蔵に、苦難を与えたまえ、われに、死を与えたもうか、われに天下一の剣を与えたまえ)
と、祈った。
神、仏を礼拝した後は、何かすがすがと洗ったような心になることを、彼は沢庵から無言に教えられ、その後、書物による知識のうらづけも持っていた。
崖のふちに、笠を捨てる。笠のそばへ腰を投げた。
京洛中は、ここから一望だった。膝を抱いている身のそばには、土筆があたまをそろえていた。
(偉大な生命になりたい)
単純な野望が、武蔵の若い胸を膨らませた。
(人間と生れたからには――)
うららかな春のそこここを歩いている参詣人や遊山の客とは、およそ遠い夢を武蔵はそこで描いているのだった。
天慶の昔――つくり話にちがいないが――平の将門と藤原純友というどっちも野放しの悍馬みたいな野望家が、成功したら日本を半分わけにしようと語り合ったとかいう伝説を――彼は何かの書物で見た時は、その無智無謀が、よほどおかしく感じられたものだが、今の自分にも、笑えない気がした。それとは違うが、似た夢をおもう。青年だけが持ちうる権利として、かれは彼の道を創作するように夢みていた。
(信長は――)
と考える。
(秀吉だって)
と、思う。
だが、戦乱は、もう過去の人の夢だった。時代は久しく渇いていた平和をのぞんでいる。その待望へこたえた家康の長い長い根気を考えると、正しく夢をもつことも難しいなと思う。
だが。
慶長何年というこの時代は、これからという生命を持って、おれは在るのだ。信長を志してはおそいだろうし、秀吉のような生き方を目がけてはむりであろうが。――夢を持てだ、夢を持つことには、誰の拘束もない。今去った駕かきの子でも、夢を持てる。
だが――と、武蔵はもういッぺんその夢を頭の外へおいて、考え直してみる。
剣。
自分の道は、それにある。
信長、秀吉、家康もいい。社会はこの人々が生きて通った傍らで旺な文化と生活をとげた。しかし、最後の家康は、もう荒っぽい革新も躍進も必要としないまでの仕上げをやってしまった。
こう見ると、東山から望むところの京都は、関ヶ原以前のように、決して風雲は急でないのであった。
(ちがっている。――世の中はもう、信長や秀吉を求めた時勢とはちがっているのだ)
武蔵は、それから、
剣とこの社会と。
剣と人生と。
何でも、自分の志す兵法に自分の若い夢を結びつけて、恍惚と、思い耽っていた。
すると、先刻の木像蟹のような駕かきが、再び崖の下に、顔を見せ、
「や。あそこにいやがる」
と、竹杖で、武蔵の顔を指した。
武蔵は、崖の下をにらみつけた。
駕かきの群れは、下で――
「おや、睨めつけやがった」
「歩きだしたぞ」
と、騒ぐ。
ぞろぞろ崖を這って尾いて来るし、気にしまいとして、歩み出せば、前にも同類らしい者が、腕ぐみしたり、竹杖をついたり、遠巻きに立ちふさぐ形をとる。
武蔵は足をとめた。
「…………」
彼が、振向くと、駕かきの群れも足をとめ、そして、白い歯を剥いて、
「あれ見や、額なんか見ていやがる」
と笑う。
本願堂の階前に立って武蔵は、そこの古びた棟木に懸かっている額を仰いでいるのである。
不愉快だ、よほど、大声で一つ呶鳴ってやろうかとは思うが、駕かきを相手にしてもつまらないし、何か間違いならそのうちに散ってしまうであろうと怺えて、懸額の「本願」の二文字を、なお、じっと仰いでいると、
「あ。――お出でなすった」
「ご隠居様がお見えだ」
と、駕かきたちが、ささやき合って遽に色をなし始めた。
ふと見ると!
もうその頃は、この清水寺の西門のふところは、人でいっぱいだった。参詣人や、僧や、物売りまで何事かと眼をそばだてて武蔵を遠く取り巻いている駕かきの背後を、また二重三重に囲んで、これからの成り行きに、好奇な眼を光らせているのである。
ところへ――
「わッしゃ」
「おっさ」
「わっしゃ」
「おッさ」
三年坂の坂下と思しき辺りから威勢のよい懸け声が近づいて来たのである。と思うと間もなく、境内の一端にあらわれたのは、一人の駕かきの背中に負ぶさった六十路とも見える老婆だった。――そのうしろには、これも五十をとうに越えている――、余り颯爽としない田舎風の老武士が見えた。
「もうええ、もうええ」
老婆は、駕かきの背で、元気のよい手を振った。
駕かきが、膝を折って地へしゃがむと、
「大儀」
と、いいながら、ぴょいと背中を離れて、うしろの老武士へ、
「権叔父よ、抜かるまいぞ」
と、意気込みをふくんでいう。
お杉ばばと淵川権六なのである。二人とも、足ごしらえから身支度まで、死出の旅路を覚悟のようにかいがいしくして、
「何処にじゃ」
「相手は」
と、刀の柄に湿りをくれながら、人垣を割って入った。
駕かき達は、
「ご隠居、相手はこちらでござります」
「お急ぎなさいますなよ」
「なかなか、敵は、しぶとい面をしておりますぜ」
「十分、お支度なすッて」
と、寄り集って、案じたり、宥わったりする。
見ている人々は驚いた。
「あのお婆さんが、あの若い男へ、果し合いをしようというんでしょうか」
「そうらしいが……」
「助太刀も、よぼよぼしている。何か理があるんでしょうな」
「あるんでしょうよ」
「あれ、何か、連れの者へ怒ッていますぜ。きかない気の老婆もあるものだ」
お杉ばばは今、駕かきの一人が、何処からか駈け足で持ってきた竹柄杓の水をごくりと一口飲んでいた。それを、権叔父へ渡して、
「――何を、あわてていなさるぞ。相手は、多寡の知れた鼻たれ小僧、少々ぐらい、剣のつかいようを学んだとて、程が知れておるわいの。気を落ちつけなされ」
――それから。
自分が先に立って、本願堂の階段の前にすすみ、ぺたりと坐りこんだと思うと、懐中から数珠を取り出して、彼方に立っている当の相手の武蔵もよそに――また大勢の環視をよそに――ややしばらく何か口のうちで祷っていた。
お杉ばばの信仰をまねて、権叔父も掌をあわせた。
悲壮を過ぎて、滑稽を感じたのであろう、群衆はそれを見ると、クスリと笑った。
「誰だい、笑うやつは」
駕かきの一人が、それへ向って、怒るように呶鳴った。
「――何がおかしいんだ、笑いごッちゃねえぞ、このご隠居様は、遠い作州から出て来なすって、自分の息子の嫁を奪って逃げた野郎を討つために、先ごろからこの清水寺へ日参をしておいでなさるんだ。――きょうがその五十幾日目で、計らずも、茶わん坂で――そこにいる野郎よ――その相手の野郎が通るのを見つけたンだ」
こう一人が説明すると、また一人が、
「さすがに侍の筋というものは、違ったもんじゃねえか、あの年でよ、故郷にいれば、孫でも抱いて、楽なご隠居でいられる身を、旅に出て、息子のかわりに、家名の恥を雪ごうッていうんだから、頭が下がらあ」
――すぐほかの者がまた、
「俺たちだって、何もご隠居から毎日、酒代をいただいているからの、ごひいきになっているからのと、そんなケチな量見で加勢するわけじゃねえ。――あの年で、若い牢人を相手に、勝負しようっていう心根が、堪らねえんだ。――弱いほうにつくのは人情、当りめえだろう。もし、ご隠居のほうが負けたら、おれたち総がかりであの牢人へ向うよ、なあみんな」
「そうだとも」
「老婆を討たせて堪るものか」
駕かき達の説明を聞くと、群衆も、熱をおびて、騒めきだした。
「やれ、やれ」
と、けしかける者もあるし、
「――だが、婆さんの息子はどうしたんだ」
と、訊ねる者もある。
「息子か」
それは駕かきの仲間は誰も知らないらしく、多分死んでしまったのだろうという者もいるし、いやその息子の生死も旁
さがしているのだと識ったふうに説いている者もある。
――その時、お杉ばばは、数珠をふところへしまっていた。駕かきも群衆も、同時に、ひっそりした。
「――武蔵!」
ばばは、腰の小脇差へ左の手を当てて、こう呼びかけた。
先刻から武蔵はそこに黙然と立っていた。――およそ三間ほどの距離をおいて――棒のように立っていた。
権叔父も、隠居のわきから、足構えして、首を前へ伸ばし、
「やいっ」
と、呼ぶ。
「…………」
武蔵は、答える言葉も知らないもののようだった。
姫路の城下で、袂をわかつ時に沢庵から注意された記憶は今思い出されたが、駕かき達が、群衆へ向っていいふらしていた言葉は、心外にたえない。
そのほか、その以前から、本位田一家の者に、恨みとして含まれていることも、自分にとってはそのまま受けとりにくいものである。
――要するに、せまい郷土のうちの面目や感情にすぎないのだ。本位田又八がここにいさえすれば明らかに解けることではないかと思う。
しかし武蔵は今は当惑していた。――この目前の事態をどうするかである。このよぼよぼな婆と老い朽ちた古武者の挑戦に、彼は、殆ど当惑する。――じっと守っている無言は、唯、迷惑きわまる顔でしかなかった。
駕かきどもは、それを見て、
「ざまをみろ」
「竦んでしまやがった」
「男らしく、ご隠居に、討たれちまえ」
と、口ぎたなく、応援する。
お杉ばばは、癇のせいか、眼をバチバチとしばたたいて、強く顔を振った。――と思うと、駕かきどもを振り向いて、
「うるさいッ、お汝らは、証人として立会うてくれれば済む。――わしらが二人討たれたら、骨は、宮本村へ送ってくだされよ。頼んでおくはそれだけじゃ。そのほかは、いらざる雑言、助太刀無用になされ」
と、小脇差の鍔をせり出して、さらに一歩、武蔵をにらんで、前へ出た。
「武蔵っ――」と、ばばは、呼び直した。
「汝れは元、村では武蔵といい、この婆などは、悪蔵と称んでいたものじゃが、今では、名を変えているそうじゃの、宮本武蔵と。――えらそうな名わいの。……ホ、ホ、ホ」
と、皺首を振って、まず、刀を抜く前に、言葉から斬ってかかった。
「――名さえ変えたら、この婆にも、捜し当てられまいと思うてかよ! 浅慮な! 天道様は、この通り、おぬしが逃げ廻る先とても照らしてござるぞよ。……さ、見事、婆の首取るか、おぬしが生命をもらうか、勝負をしやれ」
権叔父も、次に、皺がれ声をしぼった。
「汝れが、宮本村を逐電して以来、指折り数うればもう五年、どれほど捜すに骨を折ったことか。清水寺へ日参のかいあって、ここでわれに会うたることのうれしさよ。老いたりといえども淵川権六まだまだ、汝れが如き小僧におくれは取らぬ。さあ、覚悟」
ぎらりと、太刀を抜いて、
「婆、あぶないぞや。うしろへ避けておれ」
と、庇うと、
「なにをいう!」
ばばは、却って権叔父を叱咤し、
「おぬしこそ、中風を病んだ揚句じゃによって、足もとを気をつけなされ」
「なんの、われらには、清水寺の諸菩薩が、お護りあるわ」
「そうじゃ権叔父、本位田家のご先祖さまも、うしろに助太刀していなさろう。怯むまいぞ」
「――武蔵っ、いざッ」
「いざッ」
二人は遠方から切っ先をそろえてこう挑んだ。しかし、当の武蔵は、それに応じて来ないのみか、唖のように沈黙しているので、お杉ばばは、
「怯じたかよッ! 武蔵っ」
ちょこちょこと、横のほうへ駈け廻って斬り入ろうとしたのである。ところが、石にでも躓いたとみえ、両手をついて、武蔵の足もとへ転んでしまったので、
「あっ、斬られるぞ」
周囲の人垣が、俄然、噪ぎ立って、
「早く、助けてやれっ」
叫んだが、権叔父すら度を失って、武蔵の顔を窺がっているにとどまる。
――だが気丈な婆だ。抛り出した刀を拾って持つと、自分で起き上がり、権叔父のそばへ跳んで返って、すぐ構えを武蔵に向け直した。
「阿呆よッ、その刀は、飾りものか、斬る腕はないのか!」
仮面のように無表情であった武蔵は、初めて、その時、
「ないっ」
と、大きな声でいい放った。
そして、彼が歩き出して来たので、権叔父と、お杉ばばは、両方へ跳びわかれ、
「ど、どこへ行きやる、武蔵ッ――」
「ないっ」
「待ていっ、汝れ、待たぬかよ!」
「ない」
武蔵は、三度も同じ答えを投げた。横も向かないのである。真っ直に、群衆の中を割って歩み続けた。
「それ、逃げる」
隠居が、あわてると、
「逃がすな」
駕かき達は、どっと、駈け雪崩れて、先廻りに、囲みを作った。
「……あれ?」
「おや?」
囲いは作ったが、もうその中に、武蔵はいなかった。
――後で。
三年坂や茶わん坂を、ちりぢりに帰る群衆のうちで、あの時、武蔵のすがたは、西門の袖塀の六尺もある築土へ、猫のように跳び上がって、すぐ見えなくなったのだ――と取沙汰する者もあったが、誰も信じなかった。権叔父やお杉ばばは、なお信じるはずもない。御堂の床下ではないか、裏山へ逃げたのではないかと、陽の暮れるまで、狂奔していた。
どすっ、どすっ……と藁を打つ鈍い杵の音が細民町を揺すっている。雨はそこらの牛飼の家や、紙漉きの小屋を秋のように、腐らせていた。北野も、この辺は場末で、黄昏れとなっても、温かい炊飯の煙がただよう家は稀れだ。
き、ち、ん。
と笠へ仮名で書いたのが軒端にぶら下げてある、そこの土間先につかまって、
「爺さん! 旅籠の爺さん! ……留守かい」
元気のいい、身長よりも大きな声で、いつも廻って来る居酒屋の小僧が、怒鳴っていた。
やっと、年は十か十一。
雨に光っている髪の毛は、蓬々と耳にかぶさって、絵に描いた河っ童そのままだ。筒袖の腰きりに、縄の帯、背中まで泥濘の跳ねを上げている。
「城か」
奥で木賃の親爺がいう。
「あ、おらだ」
「きょうはの、まだ、お客様が帰えらねえだから、酒はいらぬよ」
「でも、帰えれば要るんだろう。いつもだけ持ッて来とこうや」
「お客様が飲がるといったら、わしが取りにゆくからいい」
「……爺さん、そこで、何しているんだい」
「あした鞍馬へのぼる荷駄へ、手紙を頼もうと思って、書き始めたが、一字一字、文字が思い出せねえで肩を凝らしているところじゃ、うるさいから、口をきいてくれるな」
「ちぇッ、腰が曲りかけているくせに、まだ字を覚えねえのか」
「このチビが、また小賢しいこといいさらして、薪でも食らうな」
「おらが、書いてやるよ」
「ばか吐かせ」
「ほんとだッてば! アハハハハそんな芋という字があるものか、それじゃ竿だよ」
「やかましいッ」
「やかましくッても、見ちゃいられねえもの。爺さん、鞍馬の知人へ、竿を届けるのかい」
「芋を届けるのだ」
「じゃ、強情を張らないで、芋と書いたらいいじゃないか」
「知っているくらいなら、初めからそう書くわ」
「あれ……だめだぜ、爺さん……この手紙は、爺さんのほかには誰にも読めないぜ」
「じゃあ、汝、書いてみろ」
筆を突きつけると、
「書くから、文句をおいい、お文句をさ……」
上がり框に腰をかけて、居酒屋の城太郎は、筆を持った。
「馬鹿よ」
「なんだい、無筆のくせに、人を馬鹿とは」
「紙へ、鼻汁が垂れたわ」
「ア、そうか。これは駄賃――」
その一枚を揉んで、鼻汁をかんで捨てて――
「さ。どう書くんだい」
筆の持ち方はたしかであった。木賃のおやじがいう言葉を、その通りさらさらと書いてゆく。
……ちょうどその折であった。
今朝、雨具を持たずに出た此宿の客は、泥田のような道を、びしょびしょと重い足で帰って来た。かぶって来た炭俵を、軒下へ投げやって、
「――ああ。梅もこれでおしまいだな」
毎朝目を娯ませてくれた門口の紅梅を見あげながら、袂を絞って呟く。
武蔵であった。
もうこの木賃へは二十日の上も泊っているので、彼は、わが家へ帰って来たような安堵を覚える。
土間へ入って、ふと見ると、いつも、御用を聞きに来る居酒屋の少年が、おやじと首を寄せ合っている。武蔵は、何をしているのかと、黙って、その背後からのぞいていた。
「あれ。……人が悪いなあ」
城太郎は、武蔵の顔へ気がつくと、あわてて筆と紙とを、背中へ廻してしまった。
「見せい」
武蔵が、からかうと、
「いやだい!」
城太郎は、顔を振って、
「アカといえば」
と、あべこべに揶揄してかかる。武蔵は、濡れた袴を解いて、木賃の老爺に渡しながら、
「ははは、その手は喰わん」
すると、城太郎は、言下に、
「手を喰わんなら、足喰うか」
と、いった。
「足喰えば、章魚じゃ」
城太郎は響きに答えるように、
「章魚で酒のめ。――小父さん、章魚で酒飲め。持って来ようか」
「なにを」
「お酒を」
「ははは、こいつは、うまく引っかかったの。また、小僧に酒を売りつけられたぞ」
「五合」
「そんなにいらん」
「三合」
「そんなに飲めん」
「じゃあ……いくらさ、ケチだなあ、宮本さんは」
「貴様に会ってはかなわんな、実をいえば小費が乏しいからだよ、貧乏武芸者だ。そう悪く申すな」
「じゃあ、おらが桝を量って、安くまけて持って来ようね。――そのかわりに、小父さん、またおもしろい話を聞かせておくれね」
雨の中へ、元気に、城太郎は駈けて行った。武蔵は、そこへ残されてある手紙を見て、
「老爺、これは今の少年が書いたのか」
「左様で。――呆れたものでございますよ、あいつの賢いのには」
「ふーむ……」
感心して見入っていたが、
「おやじ、何か着がえがないか、なければ、寝衣でもよいが、貸してくれい」
「濡れてお戻りと存じまして、ここへ出しておきました」
武蔵は、井戸へ行って水を浴び、やがて着かえて、炉のそばに坐った。
その間に、自在かぎへは、鍋がかかる、香の物や、茶碗も揃う。
「小僧め、何をしているのか、遅うござりまする」
「幾歳だろう、あの少年は」
「十一だそうで」
「早熟ているな、年のわりには」
「何せい、七歳ぐらいからあの居酒屋へ奉公しておりますので、馬方やら、この辺の紙漉きやら、旅の衆に、人中で揉まれておりますでな」
「しかし――どうして左様な稼業のうちに、見事な文字を書くようになったろうか」
「そんなに上手いので?」
「元より子どもらしい稚拙はあるが、稚拙のうちに、天真といおうか何というか……左様……剣でいうならば、おそろしく気に暢びのある筆だ。あれは、ものになるかもしれぬ」
「ものになるとは、何になるので」
「人間にだ」
「へ?」
おやじは、鍋の蓋を取って覗きながら、
「まだ来ないぞ、あいつまた、どこぞで道ぐさしているのかも知れぬ」
ぶつぶついいながら、やがて、土間の穿物へ足をおろしかけると、
「爺さんッ、持って来たよ」
「何をしているのだ、旦那様が待っているのに」
「だってネ、おらが、酒を取りにゆくと、店にもお客があったんだもの。――その酔っぱらいがね、また、おらをつかまえて、執こくいろんなことを訊くんだ」
「どんなことを」
「宮本さんのことだよ」
「また、くだらぬお喋舌りをしたのだろう」
「おらが喋舌らなくても、この界隈でおとといの清水寺のことを知らない者はないぜ。――隣のおかみさんも前の漆屋の娘も、あの日お詣りに行ってたから、小父さんが、大勢の駕かきに囲まれて難儀をしたのを、みんな見ていたんだよ」
武蔵は黙然と炉のまえに、膝をかかえていたが、頼むように――
「小僧、もうその話は、やめにせい」
眼ざとく、その顔いろを覚って、城太郎は武蔵からいわれる先に、
「おじさん、今夜は遊んでいってもいいだろ?」
と、足を洗いにかかる。
「うム。家はよいのか」
「あ、店はいいの」
「じゃあ、おじさんと一緒に、御飯でもお喰べ」
「そのかわり、おらが、お酒の燗をしよう。お酒の燗は、馴れているから」
炉のぬく灰に、壺を埋けて、
「おじさん、もういいよ」
「なるほど」
「おじさん、酒好きかい」
「好きだ」
「だけど、貧乏じゃ、飲めないね……」
「ふム」
「兵法家っていうのは、みんな大名のお抱えになって、知行がたくさん取れるんだろう。おら、店のお客に聞いたんだけど、むかし塚原卜伝なんかは、道中する時にはお供に乗換馬を曳かせ、近習には鷹を拳にすえさせて、七、八十人も家来をつれて歩いたんだってね」
「うむ、その通り」
「徳川様へ抱えられた柳生様は江戸で、一万一千五百石だって。ほんと?」
「ほんとだ」
「だのに、おじさんはなぜそんなに、貧乏なんだろ」
「まだ勉強中だから」
「じゃあ、幾歳になったら、上泉伊勢守や、塚原卜伝のように、沢山お供をつれて歩くの」
「さあ、おれには、そういう偉い殿様にはなれそうもないな」
「弱いのかい、おじさんは」
「清水で見た人々が噂しておるだろうが、なにしろおれは、逃げて来たのだからな」
「だから近所の者が、あの木賃に泊っている若い武者修行は、弱い弱いって、この界隈じゃ評判なんだよ。――おら、癪にさわって堪らねえや」
「ははは、おまえがいわれておるのではないからよかろう」
「でも。――後生だからさ、おじさん。あそこの塗師屋の裏で、紙漉きだの桶屋の若い衆たちが集まって、剣術をやっているから、そこへ試合に行って、一度、勝っておくれよ」
「よしよし」
武蔵は、城太郎のいうことには、何でも頷く、彼は少年が好きなのだ。いや自分がまだ多分に少年であるゆえに、すぐ同化することができるのだった。また、男の兄弟がなかったせいもあろうし、家庭のあたたかさを殆ど知らなかったことなども、その一因といってよい。常に何かでそれに似た愛情のやり場を求めて、孤独を慰めようとする気持が無意識にひそんでいた。
「その話、もうよそう、――ところでこんどはおまえに訊くが、おまえ、故郷はどこだ」
「姫路」
「なに、播州」
「おじさんは作州だね、言葉が」
「そうだ、近いな。――して姫路では何屋をしていたのか、お父さんは」
「侍だよ、侍!」
「ほ……」
そうだろう! 意外な顔はしたが、武蔵は、果たして――というように頷いてもいた。それから父なる人の名を糺すと、
「お父っさんは、青木丹左衛門といって、五百石も取ってたんだぜ。けれど、おらが六ツの時に、牢人しちゃって、それから京都へ来てだんだん貧乏しちまったもんだから、おらを、居酒屋へあずけて、自分は、虚無僧寺へ入ッちまったんだよ」
と述懐する。
「だから、おら、どうしても、侍になりたいんだ。侍になるには、剣道が上手になるのが一番だろう。おじさん。お願いだから、おらをお弟子にしてくれないか――どんなことでもするから」
いい出したら肯かない眸をしている。しかしあわれに少年は縋るのだった。――武蔵はそれに諾か否かを答えるよりも、あのどじょう髯の――青木丹左という者の成れの果てを思いもかけず、思い遣っていた。兵法の上では、斬るか斬られるかの命がけを、朝夕に賭している身ではあるが、こういう人生の流転を目に見せつけられると、それとはべつな寂しさに、酔いも醒めて心を蝕まれるのであった。
これは飛んでもない駄々ッ子だ、なんと賺しても肯くどころか、木賃の老爺が、口を酢くして、叱ったり宥めたりすれば、却って、悪たれをたたき、一方の武蔵へは、よけいに執こくなって、腕くびをつかむ、抱きついて強請む、しまいには泣いてしまう。持てあまして、武蔵は、
「よし、よし、弟子にしてやろう。――だが、今夜は帰って、主人にもよく話した上、出直して来なければいけないぞ」
それで城太郎は、やっと得心して帰った。
翌る朝――
「おやじ、永いこと世話になったが、奈良へ立とうと思う。弁当の支度をしてくれ」
「え、お立ちで」
老爺はその不意なのに驚いて、
「あの小僧めが、飛んでもないことをおせがみしたので、急にまあ……」
「いやいや、小僧のせいではない。かねてからの宿望、大和にあって有名な宝蔵院の槍を見にまいる。――後で、小僧が参って、そちを困らすだろうが、何分たのむ」
「なに、子どものこと、一時はわめいても、すぐケロリとしてしまうに違いございませぬ」
「それに、居酒屋の主人も、承知はいたすまいし」
武蔵は、木賃の軒を出た。
泥濘には、紅梅が落ちていた。今朝は拭ったように雨もあがり、肌にさわる風の味もきのうとちがう。
水かさが増した濁流の三条口には、仮橋のたもとに沢山な騎馬武者がいて、武蔵ばかりでなく、往来人はいちいち止めて検めていた。
聴けば、江戸将軍家の上洛が近づき、その先駆の大小名がきょうも着くので、物騒な牢人者を、ああして取りしまっているのだという噂。
問われることへ、無造作に答えて、何の気もなく通って来たが、武蔵はいつのまにか、自分が大坂方でもなく、また徳川方でもない、無色無所属のほんとの一牢人になっていることに、改めて気づいた。
――今顧みるとおかしい。
関ヶ原の役に、槍一本かついで出かけたあの時の向う見ずな壮気。
彼は、父の仕えていた主君が大坂方であったし、郷土には、英雄太閤の威勢が深く浸みこんでいたし、少年のころ、炉べりに聞かされた話にも、その英雄の現存と偉さとを深く頭に植えこまれて来たので、今でも、
(関東へつくか、大坂か)
と問われれば、血液的に、
(大坂)
と、答えるにためらわない気持だけは、心のどこかに遺っていた。
――だが、彼は、関ヶ原で習んだ。歩卒の組に交じって槍一本を、あの大軍の中でどう振り廻したって、結局、それが何ものも動かしていないし、大いなる奉公にもなっていないということをである。
(わが思う主君にご運あれ)
と念じて、死ぬならばいい。それで死ぬことも立派に意義もある。――だが、武蔵や又八のあの時の気持はそうでない。燃えていたのは、功名だった、資本いらずに、禄を拾いに出たに過ぎない。
その後、生命は珠、と沢庵から訓われた。よく考えてみると、資本いらずどころではない、人間最大の資本を提げて、わずかな禄米を――それも籤を引くような僥倖をたのんで行ったことになる。――今考えると、その単純さが、武蔵はおかしくなるのである。
「――醍醐だな」
肌に汗をおぼえたので、武蔵は足をとめた。いつのまにか、かなり高い山道を踏んでいる。すると遠くで、
――おじさアん……
しばらく間を措いて、
――おじさアアん
とまた聞える。
「あっ?」
武蔵は、河っ童に似た少年の顔が風を衝いて走ッてくる態を、すぐ眼にうかべた。
案のじょう、やがてその城太郎の姿が、道の彼方にあらわれて、
「嘘つきッ。おじさんの嘘つき!」
口では罵り、顔には、今にも泣きだしそうな血相をもって、息も喘ぎ喘ぎ追いついて来るのであった。
――来たな、とうとう。
武蔵は、当惑そうな裡に、明るい笑くぼを顔にのぼせ、振向いて待っている。
迅い。とても迅い。
こっちの姿を目がけて、むこうから素ッ飛んで来る城太郎の影は、ちょうど烏天狗の雛子というところだ。
近づくに従って、その猪口才なかっこうを明らかに眺め、武蔵はまた唇のあたりに微苦笑を加えた。――着物はゆうべのとは違って、お仕着せらしいのを着かえているが、もちろん腰も半分、袖も半分、帯には身長より長い木刀を横たえ、背には、傘ほどもある大きな笠を背負いこんでいる。そして、
「――おじさんっ!」
いきなり、武蔵のふところへ飛びこんで来ると、
「嘘つきッ」
と、しがみついて、同時に、わっと泣いてしまったのである。
「どうした、小僧」
優しく抱えてやっても、ここは山の中だと承知の上で泣くように城太郎は、声をかぎりにおいおい泣く。
「泣く奴があるか」
武蔵が、遂にいうと、
「知らねえやい、知らねえやい」
身を揺すぶッて、
「――大人のくせに、子供を騙していいのかい! ゆんべ、弟子にしてやるといったくせに、おらを置いてきぼりにして、そんな……大人があっていいのかい」
「悪かった」
謝ると、今度は、泣き声を変えて、甘えるように、わあん、わあんと、鼻汁をたらして泣く。
「もう黙れ。……騙す気ではなかったが、貴様には、父があり主人がある。その人達の承知がなくては連れて行かれぬから、相談して来いと申したのだ」
「そんなら、おらが返事にゆくまで、待っていればいいじゃないか」
「だから、謝っておる。――主人には、話したか」
「うん……」
やっと黙って、側の木から、木の葉を二枚むしり取った。何をするのかと思うと、それでチンと鼻をかむ。
「で、主人は何と申したか」
「行けって」
「ふム」
「てめえみたいな小僧は、とても当り前な武芸者や道場では、弟子にしてくれる筈がねえ。あの木賃宿にいる人なら、弱いので評判だ。てめえには、ちょうどいい師匠だから、荷持ちに使って貰えッて……。餞別にこの木剣をくれたよ」
「ハハハハ。おもしろい主人だの」
「それから、木賃の爺さんの所へ寄ったら、爺さんは留守だったから、あそこの軒に掛かっていたこの笠を貰って来た」
「それは、旅籠の看板ではないか。きちんと書いてあるぞ」
「書いてあってもかまわないよ。雨がふると、すぐ困るだろ」
もう師弟の約束も何もかも、仕済ましたりとしているのである。武蔵も観念してしまった。これは止めようがない――
しかしこの子の父、青木丹左の失脚や、自分との宿縁を思うと、武蔵は、みずからすすんでもこの少年の未来を見てやるのがほんとではないかとも考えた。
「あ、忘れていた。……それからね、おじさん」
城太郎は、安心がつくと、急に思い出したように、懐中をかき廻し、
「あッた。……これだよ」
と、手紙を出した。
武蔵は、いぶかしげに、
「なんだ、それは」
「ゆんべ、おじさんの所へ、おらが酒を持って行く時に、店で飲んでいた牢人があって、おじさんのことを、いやに執こく訊いていたといったろう」
「ム、そんな話であったな」
「その牢人が、おらが、あれから帰ってみると、まだベロベロに酔っぱらっていて、また、おじさんの様子を訊くんだ。途方もない大酒飲みさ、二升も飲んだぜ。――そのあげく、この手紙を書いて、おじさんに渡してくれと、置いて行ったんだよ」
「? ……」
武蔵は、小首を傾げながら、封の裏を返してみた。
封の裏には、なんと――
本位田又八
乱暴な字でぶつけてあるのだ、書体までが酔っぱらっている姿である。
「や……又八から……」
急いで封を切って見る。武蔵は、なつかしむような、悲しむような、複雑な気持のうちに読み下した。
二升も飲んだ揚句といえば、字の乱脈はぜひもないが、文言も支離滅裂で、ようやく読み判じてみると、
そんな意味なのである。
先は友情のつもりらしいが、この忠告のうちにも、多分な又八のひがみが滲んでいた。
武蔵は、暗然として、
(なぜ――やあ久し振だなあ――そんなふうに、彼は呼びかけてくれなかったのか)
と、思った。
「城太郎。おまえは、この人の住所を聞いたか」
「聞かなかった」
「居酒屋でも、知らぬか」
「知らないだろ」
「何度も来た客か」
「ううん、初めて」
――惜しい。武蔵は、彼の居所がわかるなら、これから京都へ戻ってもと思うのであったが、その術もない。
会って、もいちど、又八の性根をたたき醒ましてやりたい気がする。彼を、現在の自暴自棄から引ッぱり出してやろうとする友情を、武蔵は今も失っていない。
又八の母のお杉に、誤解を解いてもらうためにも――
黙々と、武蔵は先に歩いて行く。道は醍醐の下りになって、六地蔵の四つ街道の追分が、もう眼の下に見えて来た。
「城太郎、早速だが、おまえに頼みたいことがあるが、やってくれるか」
武蔵は、不意にいい出した。
「なに? おじさん」
「使いに行ってほしいが」
「どこまで」
「京都」
「じゃあ、折角、ここまで来たのに、また戻るの」
「四条の吉岡道場まで、おじさんの手紙を届けに行ってもらいたい」
「…………」
城太郎はうつ向いて、足もとの石を蹴っていた。
「嫌か」
武蔵が顔をのぞくと、
「ううん……」
曖昧に首を振りながら――
「嫌じゃないけど、おじさん、そんなことをいってまたおらを置いてきぼりにするつもりだろう」
疑いの眼に射られて、武蔵はふと恥じた。その疑いは誰が教えたか――と。
「いや、武士は決して、嘘はいわないものだ。きのうのことは、ゆるせ」
「じゃあ、行くよ」
六阿弥陀の追分茶屋へ入って、茶をもらい二人は弁当をつかった。武蔵はその間に手紙を認めた。
――吉岡清十郎宛に。
文面は、ざっと、こうである。――聞くところによれば、貴下はその後御門下を挙って拙者の居所をお尋ねの由であるが、自分は今大和路にあり、これから約一年を伊賀、伊勢その他を修業に遊歴するつもりで予定をかえる気持にはなれない。しかし、先ごろお留守中を訪問して、貴眉に接しないことはこちらも同様に遺憾としているところであるから、明春の一月か二月中には必ず再度の訪れを固くお約束しておこう。――勿論、そちらも御勉励おさおさ怠りはあるまいが、自分もここ一年のあいだには、いちだん鈍剣を磨いておたずね申す考えである。どうか、先頃お立合い申したような惨敗が二度と栄ある拳法先生の門を見舞わぬよう、折角の御自重を蔭ながら祈っている。
――こう鄭重のうちに気概も仄めかせて、
新免宮本武蔵政名
と署名し、先の名宛には
吉岡清十郎どの
他御門中
と、書き終っている。
城太郎は預かって、
「じゃあこれを、四条の道場へ抛りこんで来ればいいんだね」
「いや、ちゃんと、玄関から訪れて、取次に慥と渡して来なければいけない」
「あ。わかってるよ」
「それから、も一つ頼みがある。……だが、これはちとおまえには難しかろうな」
「何、何」
「わしに、手紙をよこした昨夜の酔っぱらい、あれは、本位田又八というて、昔の友達なのだ。あの人に会ってもらいたいのだが」
「そんなこと、造作もねえや」
「どうして捜すか」
「酒屋を聞いて歩くよ」
「ははは。それもよい考えだが、書面の様子で見ると、又八は、吉岡家のうちの誰かに知り人があるらしい。だから吉岡家の者に、訊いてみるに限る」
「分ったら?」
「その本位田又八におまえが会って、わしがこういったと伝えてくれ。来年一月の一日から七日まで、毎朝五条の大橋へ行って拙者が待っているから、その間に、五条まで一朝出向いてくれいと」
「それだけでいいんだね」
「む。――ぜひ会いたい。武蔵がそういっていたと伝えるのだぞ」
「わかった。――だけど、おじさんは、おらが帰って来る間、何処に待ってるの」
「こういたそう。わしは奈良へ先に行っている。居所は、槍の宝蔵院で聞けばわかるようにいたしておく」
「きっと」
「はははは、まだ疑っているのか、こんど約束を違えたら、わしの首を打て」
笑いながら茶店を出る。
そして武蔵は奈良へ。――城太郎はまた京都へ。
四つ街道は、笠や、燕や、馬のいななきで混み合っている。その間から城太郎が振り返ると、武蔵もまだ立ちどまっていた。二人はニコと遠い笑いを見交わして別れた。
「おばさん、歌がうまいね」
朱実は振向いて、
「誰?」
長い木刀を横にさし、大きな笠を背負っている侏儒のような小僧である。朱実がにらむと、まるッこい眼をぐりぐりうごかし、人馴っこい歯を剥いてにやりとした。
「おまえ何処の子、人のことをおばさんだなンて、私は娘ですよ」
「じゃあ――娘さん」
「知らないよ。まだ年もゆかないチビ助のくせにして、今から女なんか揶揄うものじゃないよ、洟でもおかみ」
「だって、訊きたいことがあるからさ」
「アラアラ、おまえと喋舌っていたおかげで洗濯物を流してしまったじゃないか」
「取ッて来てやろう」
川下へ流れて行った一枚の布を、城太郎は追いかけて行って、こういう時には役に立つ長い木刀で、掻きよせて拾って来た。
「ありがと。――訊きたいッて、どんなこと」
「この辺に、よもぎの寮というお茶屋がある?」
「よもぎの寮なら、そこにある私の家だけれど」
「そうか。――ずいぶん捜しちゃった」
「おまえ、何処から来たの」
「あっちから」
「あっちじゃ分らない」
「おらにも、何処からだか、よく分らないんだ」
「変な子だね」
「誰が」
「いいよ」――朱実はクスリと笑いこぼして、「いったい何の用事で、わたしの家へ来たの」
「本位田又八という人が、おめえんちにいるだろう。あすこへ行けば分るって、四条の吉岡道場の人に聞いて来たんだ」
「いないよ」
「嘘だい」
「ほんとにいないよ。――前には家にいた人だけれど」
「じゃあ、今どこ?」
「知らない」
「ほかの人に訊いてくれやい」
「おっ母さんだって知らないもの。――家出したんだから」
「困ったなあ」
「誰の使いで来たの」
「お師匠様の」
「お師匠様って?」
「宮本武蔵」
「手紙か何か持って来たの」
「ううん」
城太郎は、首を横に振って、行き迷れたような眼を足もとの水の渦におとした。
「――来た所も分らないし、手紙も持たないなんて、ずいぶん妙な使いね」
「言伝てがあるんだ」
「どういう言伝て。もしかして――もう帰って来ないかも知れないけど、帰って来たら、又八さんへ、私からいっといて上げてもいいが」
「そうしようか」
「私に相談したって困る、自分で決めなければ」
「じゃあ、そうするよ。……あのね、又八って人に、ぜひとも、会いたいんだって」
「誰が」
「宮本さんがさ。――だから、来年一月の一日から七日までの間、毎朝、五条大橋の上で待っているから、その七日のうちに、一朝そこへ来てもらいたいというのさ」
「ホホホ、ホホホホ……。まあ! 気の長い言伝てだこと。おまえのお師匠さんていう人も、おまえに負けない変り者なんだね。……アアお腹が痛くなっちゃった!」
城太郎は、ぷっと膨れて、
「何がおかしいのさ。おたんこ茄子め」
と、肩をいからせた。
びっくりした途端に、朱実は、笑いが止まってしまった。
「――あら、怒ったの」
「当り前だい、人が、叮嚀にものを頼んでいるのに」
「ごめん、ごめん。もう笑わないから――そして今の言伝ては、又八さんが、もし帰って来たら、屹度しておくからね」
「ほんとか」
「え」
また、こみあげる微笑を噛みころすように頷いて――
「だけど……何といったっけ……その言伝てを頼んだ人」
「忘れっぽいな。宮本武蔵というんだよ」
「どう書くの、武蔵って」
「武は――武士の武……」
といいかけて、城太郎は足もとの竹の小枝をひろい、河原の川砂へ、
「こうさ」
と書いて見せた。
朱実は、砂に書かれた字を、じっと眺めて、
「あ……それじゃあ、武蔵というんじゃないの」
「武蔵だよ」
「だって武蔵とも訓める」
「強情だな!」
彼の抛った竹の小枝が、川の面をゆるく流れて行く。
朱実は、いつまでも、川砂の文字へ眼を吸いよせられたまま、そして眼じろぎもせずに、何か想い耽っていた。
やがて、その眸を、足もとから城太郎の顔へ上げ、もいちど、改めて彼の姿をつぶさに見直しながら嘆息のように訊ねた。
「……もしや、この武蔵というお方は、美作の吉野郷の人ではないかえ」
「そうだよ、おらは播州、お師匠さんは宮本村、隣り国なんだ」
「――そして、背の高い、男らしい、そうそう髪はいつも月代を剃らないでしょう」
「よく知ッてるなあ」
「子どものとき、頭に、疔という腫物をわずらったことがあって、月代を剃ると、その痕が醜いから、髪を生やしておくのだと、いつか私に話したことを思い出したの」
「いつかって、何日?」
「もう、五年も前。――関ヶ原の戦があったあの年の秋」
「そんな前から、おめえは、おらのお師匠様を知ってんのか」
「…………」
朱実は答えなかった。答える余裕もなく彼女の胸はその頃の思い出の奏でに高鳴っていた。
(……武蔵さんだ!)
身もおろおろと会いたさに駆られてくるのである。母のすることを見――又八の変り方を見て来て――彼女は自分が最初から心のうちで、武蔵の方を選んでいたことが間違いでなかったことに、愈
信頼を深くしていた。ひそかに自分の独り身を誇っていた――あの人は、やはり又八とはまるで違うと。
そして、処女ごころは、茶屋がよいの幾多の男性を見るにつけ、自分の行くすえは、こんな群れにはないものときめ、それらの気障な男たちを冷蔑し、五年前の武蔵の面影を、ひそかな胸の奥において、口誦む歌にも、ひとりで末の夢を楽しんでいた。
「――じゃあ、頼んだぜ。又八って人が、見つかったら、屹度、今の言伝てをしといておくれ」
用が済むと、先を急ぐように城太郎は、河原の堤へ駈け上がった。
「あっ、待って!」
朱実は、追いすがった。彼の手をつかまえて、何をいおうとするのか、城太郎の眼にも眩ゆいほどその顔は、美しい血でぽっと燃えていた。
「あんた、何ていう名?」
熱い息で、朱実が訊く。
城太郎は――城太郎と答えて、彼女の悩ましげな昂ぶりを、変な顔して見上げていた。
「じゃあ、城太郎さん、あんたは何日も武蔵さんと一緒にいるのね」
「武蔵様だろう」
「あ……そうそう武蔵様の」
「うん」
「わたし、あのお方に、ぜひ会いたいのだけれど、どこにお住まいなの」
「家かい、家なンかねえや」
「あら、どうして」
「武者修行してるんだもの」
「仮のお旅宿は」
「奈良の宝蔵院に行って訊けばわかるんだよ」
「ま……。京都にいらっしゃると思ったら」
「来年くるよ。一月まで」
朱実は何かつきつめた思案に迷っているらしかった。――と、すぐ後ろのわが家の勝手口の窓から、
「朱実っ、いつまで、何をしているんだえ! そんなお菰の子を相手に油を売ってないで、はやく用を片づけておしまい!」
お甲の声であった。
朱実は、母に抱いている平常の不満が、こんな時、すぐ言葉つきに出た。
「この子が、又八さんを尋ねて来たから、理を話しているんじゃありませんか。人を奉公人だと思ってる」
窓に見えるお甲の眉は焦だっていた、また病気が起っているらしい。そういう口をたたくまでに誰が大きく育てて来てやったのか――といいたげに、白い眼を投げて。
「又八? ……又八がどうしたっていうのさ、もうあんな人間は、家の者じゃなし、知らないといっておけばいいんじゃないか! 間がわるくって、戻れないもんだから、そんなお菰の餓鬼に頼んで何かいってよこしたんだろう。相手におなりでない」
城太郎、呆っ気にとられ、
「馬鹿にすんない。おら、お菰の子じゃねえぞ」
と、呟いた。
お甲は、その城太郎と朱実の話を監視するように、
「朱実っ、お入りっ」
「……でも、河原にまだ洗い物が残っていますから」
「後は、下婢におさせ。おまえはお風呂に入って、お化粧をしていなければいけないでしょ。また不意に、清十郎様でも来て、そんな姿を見たら、愛想をつかされてしまう」
「ちッ……あんな人。愛想をつかしてくれれば、オオ嬉しい! だ」
――朱実は不平を顔に漲らせて、家の内へ、嫌々駈けこんでしまった。
それと共に、お甲の顔もかくれた。――城太郎は閉まった窓を見上げて、
「けっ。ばばあのくせに、白粉なんかつけやがって、ヘンな女!」
と、悪たれた。
すぐ、その窓がまた開いた。
「なんだッて、もういちどいってごらん!」
「あっ、聞えやがった」
あわてて逃げ出す頭へ、後ろから――ざぶりっと、うすい味噌汁みたいな鍋の水をぶちかけられて、城太郎は、狆ころみたいに身ぶるいした。
襟くびにくッついた菜っぱを、妙な顔をしながら摘んで捨て、忌々しさを、ありッたけな声に入れて、唄いながら逃げ出した――
米俵か小豆か、とにかく裕福な檀家の贈りものとみえ、牛車に山と積まれてゆく俵の上には、木札が差し立ててあり、
興福寺寄進
と墨黒く記してある。
奈良といえば興福寺――興福寺といえばすぐ奈良が思い出されるのである。城太郎も、その有名な寺だけは知っていたらしく、
「しめた、うまい車が行くぞ――」
牛車へ追いついて、車の尻へ、飛びついた。
後ろ向きになると、ちょうどよく腰掛けられるのだった。贅沢なことには、俵へ背中まで寄りかけられるではないか。
沿道には、丸い茶の木の丘、咲きかけている桜、今年も兵や軍馬に踏まれずに無事に育ってくれと祈りながら麦を鋤く百姓。野菜を川で洗うその土民の女衆。――飽くまでのどかな大和街道だった。
「こいつは、暢気だ」
城太郎は、いい気もちだった。居眠ッているまに奈良へ着いてしまう気でいる。時々、石へ乗せかけた轍がぐわらっと車体を強く揺す振るのも愉快でたまらない。動く物――動くばかりでなく進む物に――身を乗せているということだけで、少年の心臓は無上な楽しみにおどる。
(……あら、あら、どこかで鶏が噪いでいるぞ、お婆さんお婆さん、鼬が卵を盗みに来たのに、知らずにいるのか。……どこの子か、往来で転んで泣いているよ。向うから馬も来るよ)
眼の側を流れてゆく事々が、城太郎にはみな感興になる。村を離れて、並木にかかると、路傍の椿の葉を一枚むしり、唇に当てて吹き鳴らした。
「おや?」
振向いたが、何も見えないのでまたそのまま歩みだした。
「この野郎」
「ア痛っ」
「なんだって車の尻になど乗ってけつかるか」
「いけないの」
「当りめえだ」
「おじさんがひっぱるわけじゃないからいいじゃないか」
「ふざけるなっ」
城太郎の体は鞠みたいに地上へ弾んで、ごろんと、並木の根まで転がった。
嘲笑うように牛車の轍は彼を捨てて行った。城太郎は腰をさすって起き上がったが、ふと妙な顔して地上をきょろきょろ見まわし始めた――何か紛失し物でもしたような眼で。
「あれ? ないぞ」
武蔵の手紙を届けた吉岡道場から、これを持って帰れと渡されて来た返辞である。大事に竹筒へ入れて、途中からは、紐で首へかけて歩いていたのが――今気がついてみると、それがない。
「困った、困った」
城太郎の探す眼の範囲はだんだん拡がって行った。――と、その態を見て笑いながら近づいて来た旅装いの若い女性が、
「何か落したのですか」
と、親切に訊ねてくれる。
城太郎は、額ごしに、ちらと市女笠のうちの女の顔を見たが、
「うん……」
うつつに頷いたきりでまた、すぐ眼は地上を辿って、頻りに首を傾げていた――
「お金?」
「う、う、ん」
何を訊いても、城太郎の耳には、うわの空であった。
旅の若い女は微笑んで、
「――じゃあ、紐のついている一尺ぐらいな竹の筒ではありませんか」
「あっ、それだ」
「それなら、先刻そなたが、万福寺の下で、馬子衆の繋いでおいた馬に悪戯をして呶鳴られたでしょう」
「ああ……」
「びっくりして逃げ出した時に、紐が切れて往来へ落ちたのを、その時、馬子衆と立話しをしていたお侍が拾っていたようですから、戻って訊いてごらん」
「ほんと」
「え。ほんと」
「ありがと」
駈け出そうとすると、
「あ、もしもし、戻るにも及びません。ちょうど彼方から、そのお侍様が、見えました。野袴をはいて、にやにや笑いながら来るでしょう。あの人です」
女の指さす方を見て、
「あの人」
城太郎は、大きな眸で、じっと待っていた。
四十がらみの偉丈夫である。黒い顎髯を蓄え、肩の幅、胸幅も、常人よりずっと広くて、背も高い。革足袋に草履穿きのその足の運びが、いかにも確かに大地を踏んでいるというように見えて立派である。――どこかの大名の名ある家臣にちがいないと城太郎にも思えたので、ちょっと、馴々しく言葉がかけ難いのであった。
すると、幸いに、
「小僧」
と、向うから呼んでくれた。
「はい」
「お前だろう、万福寺の下で、この状入れを落したのは」
「ああ、あったあった」
「あったもないものじゃ、礼をいわんか」
「すみません」
「大事な返書ではないか。かような書面を持つ使いが、馬に悪戯したり、牛車の尻に乗ったり、道草をしていては主人に相済むまいが」
「お武家さん、中を見たね」
「拾い物は、一応中を検めて渡すのが正しいのだ。しかし、書面の封は切らん。おまえも中を検めて受け取れ」
城太郎は、竹筒の栓を抜いてから、中をのぞいた。吉岡道場の返書はたしかに入っている。やっと安心して、また頸へかけながら、
「もう落さないぞ」
と呟いた。
眺めていた旅の若い女は、城太郎の欣ぶのを共に欣んで、
「ご親切に、有難うございました」と、彼のいい足らない気持を、彼に代って礼をいった。
髯侍は、城太郎やその女性と、歩調をあわせて歩みながら、
「お女中、この小僧は、あなたのお連れか」
「いいえ、まるで知らない子でございますけれど」
「ははは、どうも釣り合いが取れぬと思った。おかしな小僧だの、笠のきちんが振っておる」
「無邪気なものでございますね、何処まで行くのでございましょう」
二人の間に挟まって城太郎はもう得々と元気に返っていて、
「おらかい? おらは、奈良の宝蔵院まで行くのさ」
そういって、ふと、彼女の帯の間から、見えている古金襴の袋をじっと見つめ――
「おや、お女中さん、おまえも状筒を持っているんだね、落さないようにした方がいいよ」
「状筒を」
「帯に差しているそれさ」
「ホホホホ。これは、手紙を入れる竹筒ではありません。横笛です」
「笛――」
城太郎は、好奇な眼をひからかして、無遠慮に女の胸へ顔を近づけた。そして何を感じたものか、次には、その人の足もとから髪まで見直した。
童心にも、女の美醜は映るとみえる。美醜はともあれ、清純か不純かを率直に感じるに違いない。
城太郎は、改めて美麗な人だなあ、と眼の前の女性に尊敬をもった。こんな美麗な女の人と道づれになったのは、何か、飛んでもない幸福にぶつかったようで、急に、動悸がしたり、気がふわふわして来た。
「笛かあ、なるほど」
独りで、感心して、
「おばさん、笛吹くの?」
と訊いた。
だが、若い女に対して、おばさんと呼んで、この間、よもぎの寮の娘に怒られたことを城太郎は思い出したのだろう、またあわてて、
「お女中さん、なんという名?」
突拍子もなく違った問題を、しかし、なんのこだわりもなく、急に訊き出すのである。
旅の若い女は、
「ホホホホホ」
城太郎には答えないで、彼の頭越しに顎髯の侍のほうを見て笑った。
熊のような髯のあるその武家は、白い丈夫そうな歯を見せて、これは大きく哄笑した。
「このチビめ、隅には置けんわい。――人の名を問う時は、自分の名から申すのが礼儀じゃ」
「おらは城太郎」
「ホホホ」
「狡いな、俺にだけ名のらせておいて。――そうだ、お武家さんがいわないからだ」
「わしか」
と、これも困った顔をして、
「庄田」――といった。
「庄田さんか。――下の名は」
「名は勘弁せい」
「こんどは、お女中さんの番だ、男が二人まで名をいったのに、いわなければ、礼儀に欠けるぜ」
「わたくしは、お通と申します」
「お通様か」
と、それで気が済んだのかと思うと、城太郎は口を休めずに、
「なんだって、笛なんか帯に差して歩いているんだね」
「これは私の糊口すぎをする大事な品ですもの」
「じゃあ、お通様の職業は、笛吹きか」
「え……笛吹きという職業があるかどうかわかりませんが、笛のおかげで、こうして長い旅にも困らず過ごしておりますから、やはり、笛吹きでしょうね」
「祇園や、加茂宮でする、神楽の笛?」
「いいえ」
「じゃあ、舞の笛」
「いいえ」
「じゃあ何ンだい一体」
「ただの横笛」
庄田という武家は、城太郎が腰に横たえている長い木剣に眼をつけて、
「城太郎、おまえの腰にさしているのは何だな」
「侍が木剣を知らないのかい」
「なんのために差しているのかと訊くのじゃ」
「剣術を覚えるためにさ」
「師匠があるのか」
「あるとも」
「ははあ、その状筒の内にある手紙の名宛の人か」
「そうだ」
「おまえの師匠のことだからさだめし達人だろうな」
「そうでもないよ」
「弱いのか」
「あ。世間の評判では、まだ弱いらしいよ」
「師匠が弱くては困るだろ」
「おらも下手だからかまわない」
「少しは習ったか」
「まだ、なンにも習ってない」
「あはははは、おまえと歩いていると、道が飽きなくてよいな。……してお女中は、どこまで参られるのか」
「わたくしには、何処という的もございませぬが、奈良にはこの頃多くの牢人衆が集まっていると聞き、実は、どうあっても巡り会いたいお人を多年捜しておりますので、そんな儚い噂をたよりに、参る途中でございまする」
宇治橋のたもとが見えてくる。
通円ヶ茶屋の軒には、上品な老人が茶の風呂釜をすえて、床几へ立ち寄る旅人に、風流を鬻いでいた。
庄田という髯侍の姿を仰ぐと、馴染みとみえて、茶売りの老人は、
「おお、これは小柳生の御家中様一服おあがり下さいませ」
「やすませて貰おうか――その小僧に、何ぞ、菓子をやってくれい」
菓子を持つと、城太郎は、足を休めていることなどは退屈に堪えないらしく、裏の低い丘を見上げて、駈上がって行った。
お通は茶を味わいながら、
「奈良へはまだ遠うございますか」
「左様、足のお早いお方でも、木津では日が暮れましょう。女子衆では、多賀か井手でお泊りにならねば」
老人の答えをすぐ引き取って、髯侍の庄田がいった。
「この女子は、多年捜している者があって、奈良へ参るというのだが、近ごろの奈良へ若い女子一人で行くのは、どうであろうか。わしは心もとなく思うが」
聞くと、眼を瞠って、
「滅相もない」
茶売りの老人は、手を振った。
「おやめなされませ、尋ねるお方が、確かにいると分っているならば知らぬこと、さものうて、なんであんな物騒ななかへ――」
口を酢くして、その危険であることの、実例をいろいろ挙げて引き止めるのだった。
奈良といえばすぐさびた青丹の伽藍と、鹿の目が連想され、あの平和な旧都だけは、戦乱も飢饉もない無風帯のように考えられているが、事実は、なかなかそうでない。――と茶売りの老人は自分も一服のんで説く。
なぜならば――関ヶ原の役の後は、奈良から高野山にかけて、どれほど、沢山な敗軍の牢人たちが隠れこんだかわからない。それが皆、西軍に加担した大坂方だ。禄もなし、他の職業につく見込みもない人々だ。関東の徳川幕府が、今のように隆々と勢力を加えてゆく現状では、生涯、大手を振って陽なたを歩くこともできない連中なのだ。
何でも、世間一般の定説によると、関ヶ原の役では尠くも、そういう扶持離れの牢人者が、ここ五年ほどでざっと十二、三万人は出来ているだろうとのことである。
あの大戦の結果、徳川の新幕府に没収された領地は六百六十万石といわれている。その後、減封処分で、家名の再興をゆるされた分を引いても、まだ取りつぶしを食った大名は八十家に余るし、その領土の三百八十万石というものは改易されている。ここから離散して、諸国の地下に潜った牢人者の数を、仮に百石三人とし、本国にいた家族や郎党などを加算すると、どう少なく見積っても、十万人は下るまいという噂。
ことに、奈良とか、高野山とかいう地帯は、武力の入り難い寺院が多いために、そういう牢人たちにとっては、屈強のかくれ場所となり得るので、ちょっと指を折っても、九度山には真田左衛門尉幸村、高野山には南部牢人の北十左衛門、法隆寺の近在には仙石宗也、興福寺長屋には塙団右衛門、そのほか御宿万兵衛とか、小西牢人の某とか、ともかく、このまま日蔭では白骨になりきれない物騒な豪の者が、ふたたび天下が大乱となることを旱に雨をのぞむように待っているという状態である。
まだまだそこらの名のある牢人は、それぞれ、隠栖しても一かどの権式も生活力も持っているが、これが奈良の裏町あたりへゆくと、ほとんど、腰の刀の中身まで売りはたいたような、ほんとの無職武士がうようよいて、半分は自暴になって風紀をみだし、喧嘩を漁り、ただ徳川治下の世間をさわがせて一日もはやく大坂の方に、火の手があがればよいと祈っている連中ばかりが、巣を作しているような有様であるから、そんな所へ、あなたのような美しい女子が一人で行くことは、まるで袂へ油を入れて火の中へ入るようなものだと、茶売りの老人は、お通を止めてやまないのであった。
そう聞かされてみると奈良へ行くのも、甚だ不気味なことになる。
お通は考えこんでしまった。
奈良に、微かな手懸りでもあるならば、どんな危険をも厭うことではないが――
そういう心当りは、彼女には今の所まるでないのである。ただ漠然と――姫路城下の花田橋の袂からあのまま数年の月日を――旅から旅へ、的なく、彷徨って来たに過ぎない。今も、その儚い流浪の途中に過ぎない――
「お通どのと申されたの――」
彼女の迷っている顔いろを見て、髯侍の庄田が、
「どうであろう、最前から、申しそびれていたが、これから奈良へ行かれるより、わしと共に、小柳生まで来てくれないか」
といい出した。
そこで、その庄田が自分の素姓を明かしていうことに、
「わしは小柳生の家中で、庄田喜左衛門と申す者だが、実は、もはや八十にお近い自分の御主君は、このところお体もお弱くて毎日、無聊に苦しんでおられる。そなたが、笛を吹いて糊口すぎをいたしておるというので思いついたことだが、或は、そうした折ゆえ、大殿のよいお慰みになろうか知れぬ。どうだな、来てくれまいか」
茶売りの老人は、側にあって、それはよい思いつきと喜左衛門と共に頻りにすすめた。
「お女中、ぜひお供して行かっしゃれ。知ってでもあろうが、小柳生の大殿とは、柳生宗厳様のこと、今では、御隠居あそばして、石舟斎と申しあげているお方じゃ、若殿の但馬守宗矩様は、関ヶ原の戦からお帰りあそばすとすぐ、江戸表へ召されて、将軍家の御師範役。またとない御名誉なお家がらじゃ、そうしたお館へ、召されるだけでもまたとない果報、ぜひぜひお供なされませ」
有名な兵法の名家、柳生家の家臣と聞いて、お通は喜左衛門の物腰が、只人とは思えなかったことが、さてこそと、心のうちに、頷かれた。
「気がすすまぬか」
喜左衛門が、諦めかけると、
「いいえ、願うてもないことでございますが、拙い笛、さような御身分のあるお方の前では」
「いやいや、ただの大名衆のように思うては、柳生家では、大きにちがう。殊に石舟斎様と仰せられて、今では、簡素な余生を楽しんでいられる茶人のようなお方だ、むしろ、そういう気がねはお嫌いなさる」
漫然と奈良へゆくより、お通はこの柳生家の方に一つの希望をつないだ。柳生家といえば、吉岡以後の兵法第一の名家、さだめし諸国の武者修行が訪れているに違いない。そして、門を叩いた者の名を載せた芳名帳を備えているかも知れない。――そのうちにはもしかしたら自分の探し歩いている――宮本武蔵政名――の名があるかも知れない。もしあったらどんなに欣しいか。
「では、おことばに甘えて、お供いたしまする」
急に明るくいうと、
「え、来てくれるとか、それは辱い」
喜左衛門は欣んで、
「そう決まれば、女子の足では夜にかけても、小柳生まではちと無理、お通どの、馬に乗れるか」
「はい、厭いませぬ」
喜左衛門は軒を出て、宇治橋の袂のほうへ手をあげた。そこに屯していた馬方が飛んで来る。お通だけを乗せて、喜左衛門は歩いた。
すると茶屋の裏山へ上っていた城太郎が見つけて、
「もう行くのかあいっ」
「おお出かけるぞ」
「お待ちようっ」
宇治橋の上で、城太郎は追いついた。何を見ていたのかと喜左衛門が訊くと、丘の林の中に、大勢の大人が集まって、何か知らないが面白い遊び事をしていたから見ていたのだという。
馬子は笑って、
「旦那、そいつあ牢人が集まって、博奕を開帳しているんでさ。――食えねえ牢人が旅の者を引っ張りあげては、裸にして追っ払うんだから凄うがすぜ」
と、いった。
馬の背には、市女笠の麗人、城太郎と髯の庄田喜左衛門とが、その両側に歩み、前には日の永い顔をして馬子が行く。
宇治橋をこえ、やがて木津川堤にかかる。河内平の空は雲雀に霞んで、絵の中を行く気がする。
「うむ……牢人どもが博奕をしているか」
「博奕などはまだいい方なんで――押し借りはする、女はかどわかす、それで、強いと来ているから手がつけられませんや」
「領主は、黙っているのか」
「御領主だって、ちょっとやそっとの牢人なら召捕るでしょうが――河内、大和、紀州の牢人が合体になったら、御領主よりゃあ強いでしょう」
「甲賀にもいるそうだの」
「筒井牢人が、うんと逃げこんでいるんで、どうしても、もう一度戦をやらなけれやあ、あの衆は、骨になりきれねえとみえる」
喜左衛門と馬子の話に、ふと、耳をとめて城太郎が口を出した。
「牢人牢人っていうけれど、牢人のうちでも、いい牢人だってあるんだろ」
「それは、あるとも」
「おらのお師匠さんだって牢人だからな」
「ははは、それで不平だったのか、なかなか師匠思いだの。――ところでおまえは宝蔵院へ行くといったが、そちの師匠は宝蔵院にいるのか」
「そこへ行けば分ることになっているんだ」
「何流をつかうのか」
「知らない」
「弟子のくせに、師匠の流儀を知らんのか」
すると、馬子がまた、
「旦那、この節あ、剣術流行りで猫も杓子も、武者修行だ。この街道を歩く武者修行だけでも一日に五人や十人はきっと見かけますぜ」
「ほう、左様かなあ」
「これも、牢人が殖えたせいじゃございませんか」
「それもあろうな」
「剣術がうめえッてえと、方々の大名から、五百石、千石で、引っ張りだこになるってんで、みんな始めるらしいんだね」
「ふん、出世の早道か」
「そこにいるおチビまでが木剣など差して、撲り合いさえ覚えれば、人間になれると思っているんだから空怖しい。こんなのが沢山できたら、行く末なんで飯を喰うつもりか思いやられますぜ」
城太郎は、怒った。
「馬子っ、なんだと、もう一ぺんいってみろ」
「あれだ――蚤が楊子を差したような恰好をしやがって、口だけは一人前の武者修行のつもりでいやがる」
「ははは、城太郎、怒るな怒るな。また、頸にかけている大事な物を落すぞ」
「もう、大丈夫だい」
「おお、木津川の渡舟へ来たからおまえとはお別れだ。――もう陽も暮れかかるゆえ、道くさをせず、急いで行けよ」
「お通様は」
「わたしは、庄田様のお供をして小柳生のお城へ行くことになりました。――気をつけておいでなさいね」
「なんだ、おら、独りぽッちになるのか」
「でもまた、縁があれば、どこかで会う日があるかも知れません――城太郎さんも旅が家、わたしも尋ねるお人に巡り会うまでは旅が住居」
「いったい、誰をさがしているの、どんな人?」
「…………」
お通は答えなかった。馬の背からにっこと別れの眸を与えただけであった。河原を駈け出して、城太郎は、渡舟の中へ飛び乗っていた。この舟が夕陽に赤く隈どられて、河の中ほどまで流れだした頃、振り返ると、お通の駒と喜左衛門の姿は木津川の上流が遽かにその辺りから狭くなっている渓谷の笠置寺道を、山蔭の早い夕べに影をぼかして、とぼとぼと、もう提灯を燈して歩いてゆくのが見えた。
およそ今、天下に虻や蜂ほど多い武芸者のうちでも、宝蔵院という名は実によく響いている。もしその宝蔵院を単なるお寺の名としか弁えないで話したり聞いたりしている兵法者があるとしたら、すぐ、
(こいつ潜りだな)
と、扱われてしまうほどにである。
この奈良の地へ来ては、なおさらのことであった。奈良の現状では、正倉院が何だか知らないものはほとんどだが、槍の宝蔵院とたずねれば、
「あ、油坂のか」
と、すぐ分る。
そこは興福寺の天狗でも棲んでいそうな大きな杉林の西側にあたっていて、寧楽朝の世の盛りを偲ばせる元林院址とか、光明皇后が浴舎を建てて千人の垢を去りたもうた悲田院施薬院の址などもあるが、それも今は、苔と雑草の中からわずかに当時の石が顔を出しているに過ぎない。
油坂というのはこの辺りと聞いては来たが武蔵は、
「はて?」
と、見まわした。
寺院は幾軒も見て来たが、それらしい山門はない。宝蔵院という門札も見えない。
冬を越して、春を浴びて、一年中でいちばん黒ずんでいる杉のうえから、今が妙齢の采女のように明るくてやわらかい春日山の曲線がながれていて、足もとは夕方に近づいていたが、彼方の山の肩にはまだ陽が明るかった。
其処か、此処かと、寺らしい屋根を仰いでゆくうちに、
「お」
武蔵は足を止めた。
――だが、よく見ると、その門に書いてあるのは、甚だ宝蔵院と紛らわしい名で「奥蔵院」としてあるのである。頭字が一つ違っている。
それに山門から奥を覗くと日蓮宗の寺らしく見える。宝蔵院が日蓮宗の檀林であるということはかつて、武蔵も聞かない話であるから、これはやはり宝蔵院とは全く別な寺院に違いない――
ぼんやり山門に立っていた。すると、外から帰ってきた奥蔵院の納所が、うさん臭い者を見るような眼で、武蔵をじろじろながめて通りかけた。
武蔵は笠を脱って、
「お訊ねいたしますが」
「はあ、なんじゃね」
「当寺は、奥蔵院と申しますか」
「はあ、そこに書いてある通り」
「宝蔵院は、やはりこの油坂と聞きましたが他にございましょうか」
「宝蔵院は、この寺と、背中あわせじゃ。宝蔵院へ、試合に行かれるのか」
「はい」
「それなら、よしたらどうじゃの」
「は? ……」
「折角、親から満足にもろうた手脚を、片輪を癒しに来るなら分っているが、何も遠くから、片輪になりに来るにも及ぶまいに」
この納所にも、凡の日蓮坊主ではないような骨ぐみがある、武蔵を見下して意見するのである。武芸の流行もけっこうだが、このごろのように、わんさわんさと押しかけて来られては宝蔵院でも実にうるさい。大体、宝蔵院そのものは、名の示すがように法燈の寂土であって、何も槍術が商売でない。商売というならば宗教が本職で、槍術は内職とでもいおうか、先代の住持、覚禅房胤栄という人が、小柳生の城主柳生宗厳のところへ出入りしたり、また宗厳の交わりのある上泉伊勢守などとも昵懇にしていた関係から、いつの間にか武芸に興味をもち、余技としてやりだしたのが次第にすすんで、槍のつかいようにまで工夫を加え、誰いうとなく宝蔵院流などと持て囃してしまったのであるが、その物好きな覚禅房胤栄という先代は、もう本年八十四歳、すっかり耄碌してしまって、人にも会わないし、会ったところで、歯のない口をふにゃふにゃ動かすだけで、話もわからなければ、槍のことなどは、すっかり忘れてしまっている。
「だから、無駄じゃよ、行ったところで」
と、この納所は、武蔵を追っ払おうとするのが肚か、いよいよ膠も素っ気もない。
「そういうことも、噂に聞いて、承知してはおりますが」
と武蔵は、弄られているのを承知の上で、
「――しかし、その後には、権律師胤舜どのが、宝蔵院流の秘奥をうけ、二代目の後嗣として、今もさかんに槍術を研鑽して、多くの門下を養い、また訪う者は拒まずご教導も下さるとか伺いましたが」
「あ、その胤舜どのは、うちのお住持の弟子みたいなものでね、初代覚禅房胤栄どのが、耄碌されてしまったので、折角、槍の宝蔵院と天下にひびいた名物を、つぶしてしまうのも惜しいと仰っしゃって、胤栄から教わった秘伝を、うちのお住持がまた、胤舜に伝え、そして宝蔵院の二代目にすえたのだ」
何か、ぐずねたいい方をすると思ったら、この奥蔵院の日蓮坊主は、要するに、今の宝蔵院流の二代目は、自分の寺の住持が立ててやったもので、槍術も、その二代目胤舜よりは、日蓮寺の奥蔵院の住持のほうが系統も正しく本格なのだぞ――ということを、暗に外来の武芸者にほのめかせたい気持であったらしい。
「なるほど」
武蔵が一応うなずくと、それを以て満足したらしく、奥蔵院の納所は、
「でも、行って見るかね?」
「せっかく参りましたものゆえ」
「それもそうだ……」
「当寺と、背中あわせと申すと、この山門の外の道を、右へ曲りますか、左へ参りますか」
「いや、行くなら、当寺の境内を通って、裏を抜けて行きなさい、ずッと近い」
礼をいって、教えられた通りに武蔵は歩いた。庫裡の側から寺の地内を裏手へ入ってゆく。するとそこは薪小屋だの味噌蔵だのがあって、五反ほどの畑が展けている。ちょうど田舎の豪農の家囲いのように。
「……あれだな」
畑の彼方に、また一寺が見える。武蔵は、よく肥えている菜や大根や葱のあいだの柔らかい土を踏んで行った。
と――そこの畑に、一人の老僧が鍬をもって百姓をしていた。背中に木魚でも入れたぐらい猫背である。黙然と、鍬の先に俯向いているので、真っ白な眉だけが植えたように額の下から浮き出して見える。鍬を下ろすたびにするカチという石の音だけが、ここの広い閑寂を破っていた。
(この老僧も日蓮寺のほうの者だな)
武蔵は、挨拶をしようと思ったが、土に他念のない老僧の三昧ぶりに憚られて、そっと側を通りかけると、これは何ということだ、下を向いている老僧の眸がジイッと眼の隅から自分の脚もとを射ている。――そして形や声にこそ現われてはいないが、なんともいえないすさまじい気が――心体から発しるものとは思われない――今にも雲を破って搏たんとする雷気のようなものが、びくりと武蔵の全身に感じられた。
はっ――と竦んだ時、武蔵は老僧の静かなすがたを、二間ほど先から振向いていた。迅い槍を跨いだ程度に武蔵の体はぼっと熱くなっていた。傴僂のように尖った老僧の背は後ろを向けたままで、カチ、カチ、と土へ鍬を入れている調子に少しも変りはなかった。
「何者だろう?」
武蔵は大きな疑いを抱きながら、やがて宝蔵院の玄関を見つけた。そこに立って取次を待つ間も、
(ここの二代目胤舜は、まだ若いはずであるし、初代胤栄は、槍を忘れてしまったというほど耄碌していると今聞いたが……)
いつまでも頭の隅に気になっている老僧であった。それを払い退けるように、武蔵はさらに、二度ほど大声で訪れたが、四辺の樹木に木魂するばかりで、奥深そうな宝蔵院の内からは、なかなか取次の答がない。
ふと見ると、玄関の横手に、大きな銅鑼の衝立が備えてある。
(ははあ、これを打つのだな)
武蔵が、それを鳴らすと、おおうと、遠くですぐ返辞が聞えた。
出て来たのは、叡山の僧兵にすればさしずめ旗頭にもなれそうな骨格の大坊主である。武蔵のような身装の来訪者は、毎日あつかい馴れている調子である。じろっと一瞥くれて、
「武芸者か」
「はい」
「何しに?」
「ご教授を仰ぎたいと存じて」
「上がんなさい」
右へ指をさす。
足を洗えというのらしい。筧の水が盥に引いてある。摺り切れた草鞋が十足もそこらに脱ぎちらしてあった。
真っ黒な一間廊下を、武蔵は従いて行った。芭蕉の葉が窓に見える一室に入って控えている。取次の羅漢の殺伐な動作をのぞけば、他はどう眺めてもただの寺院にちがいない。燻々と香のにおいすらするのである。
「これへ、どこで修行したか、流名と自身の姓名を誌けて」
子どもへいうように、以前の大坊主が来て一冊の帳面と硯箱とをつきつける。
見ると、
「兵法は誰について習ったのか」
「我流でございます。――師と申せば、幼少の折、父から十手術の教導をうけましたが、それもよう勉強はせず、後に志を抱きましてからは、天地の万物を以て、また天下の先輩を以て、みなわが師と心得て勉強中の者でござります」
「ふム……。そこで承知でもあろうが、当流は御先代以来、天下に鳴りわたっている宝蔵院一流の槍じゃ。荒い、激しい、仮借のない槍術じゃ。一応、その授業芳名録のいちばんはじめに認めてある文を読んでからにいたしてはどうだな」
気づかなかったが、そういわれて武蔵は下へ置いた一冊を持ち直して繰ってみると、なるほど書いてある。――当院において授業をうける以上は、万一、五体不具になっても死を招いても苦情は申し上げない、という誓約書である。
「心得ております」
武蔵は微笑してもどした。武者修行をして歩くからには、これは何処でもいう常識だからである。
「じゃあこっちへ――」
と、また奥へ進む。
大きな講堂でもつぶしたのか恐ろしく広い道場であった。寺だけに、太い丸柱が奇異に見えるし、欄間彫の剥げた金箔だの胡粉絵具なども、他の道場には見られない。
自分ひとりかと思いのほか、控え席には、すでに十名以上の修行者が来ている。そのほか法体の弟子が十数名もいるし、ただ見物しているという態の侍たちも相当に多く、道場の大床には今、槍と槍をあわせている一組の試合が行われていて、みな固唾をのんでそれへ見入っているのである。――で武蔵がそっとその一隅へ坐っても、誰ひとり振向いてみる者はない。
望みの者には、真槍の試合にも応じる――と道場の壁には書いてあるが、今立ち合っている者の槍は、単なる樫の長い棒に過ぎない。それでも突かれるとひどいとみえ、やがて一方が刎ねとばされて、すごすご席へ戻って来たのを見ると、太股がもう樽のように腫上がって、坐るにも耐えないらしく、肘をついて、片方の脚を投げ出しながら苦痛を怺えている容子だった。
「さあ、次っ」
法衣の袂を背で結んで、脚も腕も肩も額も瘤で出来あがっているかのように見える傲岸な法師が、一丈余もある大槍を立てて、道場のほうから呼んでいた。
「では、それがしが――」
一人が席から起った。これも今日、宝蔵院の門をたたいた武者修行の一人らしい。革だすき綾どって道場の床へすすんでゆく。
法師は、不動の姿勢で突っ立っていたが、次に出て来た相手が、壁から選み把った薙刀を持って、自分の方へ向って、挨拶をしかけると真っ直に立てていた槍を、
「うわッ!」
いきなり山犬でも吠えたような声を出して、相手の頭へ撲り落して行った。
「――次っ」
すぐまた、平然と大槍を立てて元の姿勢に返っているのである。撲られた男は、それきりだった。死んだ容子はないが、自分の力で顔を上げることも出来ないのだ。それを二、三人の法師弟子が出て来て、袴腰をつかんでずるずると席のほうへ引っ張り込む、その後に血の交じった涎が糸をひいて床を濡らしている。
「次は?」
突っ立っている法師はあくまで傲岸だ。武蔵は初め、その法師が宝蔵院二代目の胤舜かと思って見ていたが、側の者に訊いてみると、彼は阿巌という高弟の一人であって胤舜ではない、たいがいな試合でも、宝蔵院七足といわれる七人の弟子で間に合っているので、胤舜が自身で立合うなどという例はまずないというのである。
「もうないのか」
法師は、槍を横にした。授業者の名簿をもって、先刻、取次にあらわれた坊主が、帳面とそこらの顔を照らし合せ、
「其許は」
と、顔をさしていう。
「いや……いずれまた」
「そちらの人は」
「ちと、きょうは気が冴えんので――」
なんとなく皆、怯み渡ってしまった気ぶりである。幾番目かに武蔵が顎を向けられて、
「おてまえはどうする?」
武蔵は、頭を下げ、
「どうぞ」
といった。
「どうぞとは?」
「お願い申す」
起つと、一同の眼が武蔵を見た。不遜な阿巌という当の法師はもう引っ込んで、他の法師たちの中でげらげら何か笑っているのであったが、道場へ次の相手が出たので振向いた。しかしもう厭気がさしてしまったらしく、
「誰か、代れ」
と不性を極め込んでいる。
「まあ、もう一人じゃないか」
そういわれて、彼は、渋々また出て来た。つかい馴れているらしい真っ黒に艶の出ている前の槍を持ち直すとその槍を構え、武蔵へは尻を向けて、人もいない方へ、
ヤ、ヤ、ヤ、ヤッ!
と怪鳥の叫ぶような気合いを発したかと思うと、いきなり槍もろとも駈けだして行って、道場の突当りの板へどかんとぶつけた。
そこは日ごろ彼らの槍を鍛える稽古台にされているとみえ、一間四方ほど新しい板に張り代えてあるのに、彼の真槍でもないただの棒は、鋭い穂で貫いたようにぶすッとそこを突き抜いていた。
――えおっッ!
奇態な声を発しながら槍を手繰り返すと阿巌は、舞うように、武蔵のほうへ向って躍り返った。節くれ立ったその体からは精悍な湯気がのぼっていた。そして彼方に木剣を提げて、いささか呆れたかのように立っている武蔵のすがたを遠くから睨んで、
「――行くぞっ」
羽目板を突きぬく気をもって踵をすすみかけた時である。窓の外から誰か笑っていう者があった。
「――馬鹿よ、阿巌坊の大たわけよ、よく見よ、その相手は、羽目板とちと違うぞ」
槍を構えたまま、阿巌は横を向いて、
「――誰だっ?」
と、呶鳴った。
窓の際には、まだ笑いやまない声がくすくすいっている。骨董屋の手にかけたような照りのある頭と白い眉がそこから見えた。
「阿巌、無駄じゃよ、その試合は。――明後日にせい。胤舜がもどってからにせい」
老僧は止めるのであった。
「あ?」
武蔵は思い出した。先刻ここへ来る途中、宝蔵院の裏の畑で鍬をもって百姓仕事をしていたあの老僧ではないか。
そう思うまに、老僧の頭は、窓の際から消えていた。阿巌は老僧の注意で一度は槍の手をゆるめたが、武蔵と眸をあわせると、途端にそのことばを忘れてしまったように、
「何をいうかっ」
と、すでにそこにいない者を罵って、また槍を持ち直した。
武蔵は、念のために、
「よろしいか」
といった。
阿巌の憤怒を煽るには十分であった。彼は、左の拳の中に槍をふかく吸い入れて、床から身を浮かした。筋肉のすべてが鉄のような重厚さを持っているのに、床と彼の脚とは、着いているとも見えるし、浮いているとも見えて、波間の月のように定まりがない。
武蔵は、固着していた、一見そう見える。
木剣は真っ直に両手で持っているというほか、べつだん特異な構えではなかった。むしろ六尺に近い背のために、間の抜けたようにさえ思われるのである。そして筋肉は、阿巌のように節くれ立っていなかった。ただ、鳥のように瞠ったままの眼をしている。その眸はあまり黒くなかった。眸の中に血がにじみ込んでいるように、琥珀色をして透き徹っている。
阿巌はぴくと顔を振った。
汗のすじが額を縦に通ったので、それを払うつもりであったのか、老僧の言葉が耳に残っていて邪魔になるので、それを意識から払おうとしたのか、とにかく焦立っていることは事実である。頻りと、位置を換える。まったく動かないでいる相手に対して、絶えず誘いをかけ、また自分から窺うことを怠らない。
――いきなり突いて行ったと見えた時は、ぎゃッという声が床へたたきつけられていた。武蔵は木剣を高くあげてその一瞬にもう跳び退いているのだ。
「どうしたッ?」
どやどやと阿巌のまわりには同門の法師たちが駈け寄って真っ黒になっていた。阿巌の抛り出した槍を踏んづけて転げた者があるほどな狼狽であった。
「薬湯、薬湯っ、薬湯を持って来い――」
起って叫ぶ者の胸や手には血しおがついていた。
いちど窓から顔を消した老僧は、玄関から廻ってここへ入って来たが、その間にこの始末なので、苦りきって傍観していた。そしてあたふた駈け出す者を止めていった。
「薬湯をどうするか、そんなものが間に合うほどなら止めはせん。――馬鹿者っ」
誰も彼を止める者はなかった。武蔵はむしろ手持ちぶさたを感じながら、玄関へ出て、わらじを穿きかけていた。
すると、例の猫背の老僧が、追って来て、
「お客」
と、後ろで呼んだ。
「は。――拙者?」
肩越しに答えると、
「ごあいさつ申したい。もいちどお戻りくだされい」
という。
導かれて、ふたたび奥へ入ったが、そこは前の道場よりはまた奥で、塗籠といってもよい真四角で一方口の部屋だった。
老僧は、ぺたと坐って、
「方丈があいさつに出るところじゃが、つい昨日摂津の御影まで参ってな、まだ両三日せねば帰らぬそうじゃ。――で、わしが代ってごあいさつ申す仕儀でござる」
「ごていねいに」
と、武蔵も頭を下げ、
「きょうは計らずも、よいご授業をうけましたが、ご門下の阿巌どのに対しては、なんともお気の毒な結果となり、申し上げようがござりませぬ」
「なんの」
老僧は打ち消して、
「兵法の立合いには、ありがちなこと。床に立つまえから、覚悟のうえの勝敗じゃ。お気にかけられな」
「して、お怪我のご様子は?」
「即死」
老僧のそう答えた息が、冷たい風のように武蔵の顔を吹いた。
「……死にましたか」
自分の木剣の下に、きょうも一つの生命が消えたのである。武蔵は、こうした時には、いつもちょっと瞑目して、心のうちで称名を唱えるのが常であった。
「お客」
「はい」
「宮本武蔵と申されたの」
「左様でござります」
「兵法は、誰に学ばれたか」
「師はありませぬ。幼少から父無二斎について十手術を、後には、諸国の先輩をみな師として訪ね、天下の山川もみな師と存じて遍歴しておりまする」
「よいお心がけじゃ。――しかし、おん身は強すぎる、余りに強い」
賞められたと思って、若い武蔵は顔の血に恥じらいをふくんだ。
「どういたしまして、まだわれながら未熟の見えるふつつか者で」
「いや、それじゃによって、その強さをもすこし撓めぬといかんのう、もっと弱くならにゃいかん」
「ははあ?」
「わしが最前、菜畑で菜を耕っておると、その側をおてまえが通られたじゃろう」
「はい」
「あの折、おてまえはわしの側を九尺も跳んで通った」
「は」
「なぜ、あんな振舞をする」
「あなたの鍬が、私の両脚へ向って、いつ横ざまに薙ぎつけて来るかわからないように覚えたからです。また下を向いて、畑の土を掘っていながら、あなたの眼気というものは、私の全身を観、私の隙をおそろしい殺気でさがしておられたからです」
「はははは、あべこべじゃよ」
老僧は、笑っていった。
「お身が、十間も先から歩いて来ると、もうおてまえのいうその殺気が、わしの鍬の先へびりッと感じていた。――それほどに、お身の一歩一歩には争気がある、覇気がある。当然わしもそれに対して、心に武装を持ったのじゃ。もし、あの時わしの側を通った者が、ただの百姓かなんぞであったら、わしはやはり鍬を持って菜を耕っているだけの老いぼれに過ぎんであったろう。あの殺気は、つまり、影法師じゃよ、はははは、自分の影法師に驚いて、自分で跳び退いたわけになる」
果たしてこの猫背の老僧は凡物でなかったのである。武蔵は、自分の考えがあたっていたことを思うとともに、初対面のことばを交わす前から、すでにこの老僧に負けている自分を見出して、先輩の前に置かれた後輩らしく膝を固くせずにはいられなかった。
「ご教訓のほど、有難く承りました。して、失礼ですが、貴僧はこの宝蔵院で、何と仰っしゃるお方ですか」
「いやわしは、宝蔵院の者ではない。この寺の背中あわせの奥蔵院の住持日観というものじゃが」
「あ、裏の御住職で」
「されば、この宝蔵院の先代の胤栄とは、古い友達での、胤栄が槍をつかいおるので、わしもともに習うたものだが、ちと考えがあって、今では一切、手に取らんことにしておる」
「では、当院の二代目胤舜どのは、あなたの槍術を学んだお弟子でございますな」
「そういうことになるかの。沙門に槍など要らぬ沙汰じゃが、宝蔵院という名が、変な名前を世間へ売ってしもうたので、当院の槍法が絶えるのは惜しいと人がいうので胤舜にだけ伝えたのじゃ」
「その胤舜どのがお帰りの日まで院の片隅へでも、泊めておいて貰えますまいか」
「試合うてみる気か」
「せっかく、宝蔵院を訪れたからには、院主の槍法を、一手なりと、拝見したいと思いますので」
「よしなさい」
日観は、顔を振って、
「いらぬこと」
と、たしなめるように重ねていう。
「なぜですか」
「宝蔵院の槍とは、どんなものか、今日の阿巌の技で、お身はたいがい見たはずじゃ。あれ以上の何を見る必要があるか。――さらに、もっと知りたくば、わしを見ろ、わしのこの目を見ろ」
日観は肩の骨を尖らして、武蔵と睨めっこするように、顔を前へつき出した。くぼんでいる中の眼球が飛び出して来るように光った。じっと見つめ返すと、その眼は、琥珀色になったり暗藍色になったりいろいろに変って光る気がするのである。武蔵は、遂に眼が痛くなって、先にひとみを外してしまった。
日観は、カタカタと板を鳴らすように笑った。後ろへ、ほかの坊主が来て、何か訊ねているのである。日観は顎をひいて、
「ここへ」
と、その坊主へいった。
すぐ高脚の客膳と飯びつが運ばれて来た。日観は、茶碗へ山もりに飯を盛って出した。
「茶漬けを進ぜる。お身ばかりでなく、一般の修行者にこれは出すことになっておる。当院の常例じゃ。その香の物の瓜は、宝蔵院漬というて、瓜の中に、紫蘇と唐辛子を漬けこんであって、ちょびと美味い。試みなされ」
「では」
武蔵が箸を取ると、日観の眼をまたぴかりと感じる。向うから発する剣気か、自分から出る剣気が相手に備えさせるのか、武蔵は、その間の微妙な魂の躍動が、どっちに原因するとも判断がつかないのであった。
下手に、瓜の漬物などを噛みしめていると、かつての沢庵和尚のように、いきなり拳が飛んでくるか、長押の槍が落ちてくるかも分らないのだ。
「どうじゃの、お代りは」
「十分、いただきました」
「ところで宝蔵院漬の味は、いかがでござった?」
「結構でした」
しかし武蔵は、その時そうは答えたものの、唐辛子の辛さが舌に残っているだけで、ふた切れの瓜の風味は外に出ても思い出せなかった。
「敗けた。おれは敗れた」
暗い杉林の中の小道を、武蔵はこう独り呟きながら帰って行く。
時折、杉の木蔭を、迅い影が横に跳ぶ。彼の跫音におどろいて駈ける鹿の群れだった。
「強いことにおいておれは勝っている。――しかし敗けたような気持を負って宝蔵院の門を出てきた。――形では勝ったが敗けている証拠ではないか」
甘んじられない容子なのである。むしろ無念らしく、未熟者未熟者と、自分を罵りながら歩いているかのように、うつつに歩いていた。
「あ」
何か思い出したのであろう、立ちどまって振り向いた。宝蔵院の灯は、まだ後ろに見えていた。
駈け戻って、今出て来た玄関に立ち、
「ただ今の、宮本でござるが」
「ほう」
と、玄関坊が顔を出し、
「なんぞお忘れ物か」
「明日か明後日あたり、私をたずねて、当院へ聞きに参る者があるはずですが、もしその者が見えたときは、宮本は当所の猿沢の池のあたりにわらじを解いているゆえ、あの辺の旅籠の軒を見て歩け、とお伝えを願いたいのです」
「ああ、左様か」
うわの空な返辞なので、武蔵は心もとなく思い、
「ここへ後から尋ねて来る者は、城太郎と申して、まだ年端のゆかぬ少年ですから、どうぞ慥とお伝え願いまする」
いいおいて、元の道をまた大股に引き返しながら、武蔵はつぶやいた。
「やはり、敗けているのだ。――城太郎の言伝てをいい忘れて出て来ただけでも、おれはあの老僧の日観に敗けを負わされて戻っている!」
どうしたら天下無敵の剣になれるか。武蔵は、寝ても醒めても、病のように取り憑かれているのである。
この剣、この一剣。
勝って帰る宝蔵院から、どうして、この苦い自分の未熟さが、こびりついて来るのだろう。
何としても、楽しめない気持らしい。
怏々と、惑いながら、彼の脚はもう猿沢の池畔へ出ていた。
この池を中心に、狭井川の下流へかけて、天正ごろから殖えた新しい民家が乱雑に建てこんでいた。つい近年、徳川家の手代大久保長安が、奈良奉行所を設けた一廓も近くであるし、中華の帰化人で林和靖の後裔だという者が店をひらいた宗因饅頭もよく売れるとみえ、池へ向って店をひろげている。
そこらのまばらな宵の燈を見ると、武蔵は足をとめて、どこに泊ったものか、旅籠に迷った。旅籠はいくらもあるらしいが、路銀の都合もあるし、そうかといって、あまり場末や路地の木賃では、後から捜して来る城太郎にわかりにくかろう。
今し方、宝蔵院で接待にあずかって来たばかりであるが、宗因饅頭の前を通ると、武蔵は食慾をおぼえた。
腰かけへ立ち寄って、饅頭を一盆とってみる。饅頭の皮には「林」の字が焼いてあった。ここで食べる饅頭の味は、宝蔵院で食べた瓜漬の味のように舌にわからないことはなかった。
「旦那さま、今夜はどちらへお泊りでございますか」
そこの茶汲み女に話しかけられたのを幸いに、わけを話して計ってみると、それなら店の身寄りの者が内職に宿屋をしているちょうどよい家があります、ぜひそこへ泊っていただきたい、ただ今主人を呼んで参りますからと、まだ武蔵が泊るとも何ともいわないうちに、もう奥へ走って、青眉の若女房を呼び出して来た。
宗因饅頭の店からそう遠くもない、しかも静かな小路の素人家。
案内して来た青眉の女房は、小門の戸をほとほとたたいて、中の答えを聞いて後、武蔵を振り向いて、静かにいう。
「わたくしの姉の家でございますから、お心づけなども、ご心配なく」
小女が出て来て、女房と何か囁いていたが、すべて心得ているらしく武蔵を先へ二階へ通し、女房はすぐ、
「では、ごゆるり遊ばせ」
と帰ってしまった。
旅籠にしては、部屋も調度も上等すぎる、武蔵はかえって落着かなかった。
食事はすんでいるので、風呂に入ると、寝るよりほかはない。そう生活に困るでもないらしいこの家構えを持って、何で旅人などを泊めるのか、武蔵は、寝るにも気がかりであった。
小女にわけを訊いても、笑っていて答えないのである。
翌日になって、
「後から連れが尋ねて来るはずゆえ、もう一両日泊めてもらいたいが」
というと、
「どうぞ」
小女が階下の主に告げたのであろう、やがて、その女主人があいさつに見えた。三十ぐらいな肌目のよい美人である。武蔵がさっそく不審をただすと、その美人が笑って話すにはこうであった。
実は自分は、観世なにがしと呼ぶ能楽師の後家であるが、この奈良には今、素姓の知れない牢人がたくさん住んでいて、風紀の悪いことはお話にならない。
そうした牢人たちのために、木辻あたりには、いかがわしい飲食店や白粉の女が急激にふえているが、不逞な牢人たちは、そんなところではほんとに娯まない。土地の若い者などを語らって、毎晩のように「後家見舞」と称して、男気のない家を襲ってあるくことが流行っている。
関ヶ原以後は、すこし戦がやんでいる形にあるが、年々の合戦で、どこの地方にも、浮浪人の数がおびただしく増している。そこで、諸国の城下に、悪い夜遊びが流行ったり窃盗沙汰だの強請者が横行している。こんな悪風は、朝鮮役後からの現象で、太閤様が生んだものだと恨んでいる声もあるとか。とにかく、全国的に今は悪い風紀が漲っている。――それと関ヶ原牢人のくずれが入り込んで来たため、この奈良の町でも、新任の奉行などでは取締りようもない有様だというのである。
「ははあ、それで拙者のような旅人を、魔除けにお泊めなさるわけだな」
「男気がないものですから」
と、美人の後家が笑った、武蔵も苦笑がやまない。
「そんなわけですから、どうぞ幾日でも」
「心得た、拙者のいるうちは、安心なさるがよい。しかし連れの者が、追ッつけここへ捜して来ることになっている。門口へ、何か目印を出してもらいたいが」
「よろしゅうございます」
後家は魔除け札のように、
宮本様お泊
と紙きれに書いて外へ貼った。
その日も、城太郎は来なかった。すると次の日である。
「宮本先生に拝顔したい」
と三名づれの武芸者が入って来た。断ってもただ帰りそうもない風態だというので、ともかく上げて会ってみると、それは宝蔵院で武蔵が阿巌を仆した折に、溜りの中にいて見物していた者達で、
「やあ」
と、旧知のように馴々しく、彼を囲んで坐りこんだ。
「いやどうも、なんとも驚き入ったわけです」
坐るとすぐ、その三名は、誇張したもののいい方で、武蔵をおだて抜くのであった。
「おそらく、宝蔵院を訪れた者で、あそこの七足と呼ぶ高弟を一撃で仆したなどという記録は、今までにないことでござろう。殊に、あの傲岸な阿巌が、うんと呻ったきり、血涎れを出して参ってしまうなどは、近ごろ愉快きわまることだ」
「吾々のうちでも、えらい評にのぼっておる。一体、宮本武蔵とは何者であろうなど、当地の牢人仲間では、寄るとさわると、貴公のうわさであるし、同時に、宝蔵院もすっかり看板へ味噌をつけてしまったというておる」
「まず、尊公のごときは、天下無双といってもさしつかえあるまい」
「年ばえもまだお若いしな」
「伸びる将来性は、多分に持っておられるし」
「失礼ながら、それほどな実力を持ちながら、牢人しておらるるなどとは、勿体ない」
茶が来れば茶をガブ飲みにし、菓子がくれば菓子の屑を膝にこぼしてボリボリむさぼる。
そして、賞められている当人の武蔵が顔のやり場に困るほど、口を極めて称揚するのである。
おかしくも、擽ぐッたくもないような顔をして、武蔵は相手が黙るまで喋舌らせておいたが、果てしがないので、
「して各
は?」
姓名を訊ねると初めて、
「そうそう、これは失礼をしておった。それがしは、もと蒲生殿の家人で、山添団八」
「此方は大友伴立と申し、卜伝流を究め、いささか大志を抱いて、時勢にのぞまんとする野望もある者でござる」
「また、てまえは、野洲川安兵衛といい織田殿以来、牢人の子の牢人者で。……ははははは」
これで一通り素姓は分ったが、何のために自分の貴重な時間をつぶして他人の貴重な時間を邪魔しに来たのか、それも武蔵の方から聞かないうちは埒があかないので、
「時に、御用向きは何であるか」
話のすきを見ていうと、
「そうそう」
と、それも今さら気がついたように、実は、折入っての相談でやって来たのだがと、遽に、膝をすすめていう。
――ほかでもないが、この奈良の春日の下で、自分たちで今、興行をもくろんでいる。興行というと能芝居や人寄せの見世物とお考えになるだろうが、さにあらず、大いに民衆のうちへ武術を理解させるための賭試合である。
今、小屋を掛けさせつつある所だが、前人気はなかなかよい。だが、三人では実はすこし手が足りない気がするし、いかなる豪の者が出て来て、せっかくの利益を一勝負でさらわれてしまわないとも限らないので――実は、其許に一枚入ってもらえまいかと、談合にやって来たわけである。承知してくれれば、利益は勿論山分け、その間の食費、宿料も一切こっちで持とう。ひと儲けして、次の旅へ向われる路銀をおこしらえになってはいかが?
――頻りとすすめるのを、武蔵はにやにや聞いていたが、もう飽々したという態で、
「いや、そういう御用なら、長座は無用、ごめんをこうむる」
あっさり断ると、三名の方では、むしろ意外とするらしく、
「なぜで?」
とたたみかけて来る。
そこまで至ると、武蔵はすこし憤かついて来て、青年の一徹を示し、昂然といった。
「拙者は、ばくち打ちではない。また、飯は箸で食う男で、木剣では食わん男だ」
「なに、なんだと」
「わからんか、宮本は痩せても枯れても、剣人をもって任じておるのだ、馬鹿、帰れっ」
ふふんと、一人は冷笑を唇の辺にながし、一人は赤い怒気を顔にふき出して、
「忘れるな」
それが、捨て科白だった。
自分たちが束になっても、勝ち目のないことをその三名はよく心得ている。かなり苦い顔つきと、腹の中のものを抑えて、ただ跫音と態度にだけ、
(これだけで帰るのでないぞ)
の意思を示し、どやどや外へ出て行ったのである。
この頃は毎晩が肌ぬるいおぼろ夜だった。階下の若い御寮人は、武蔵が泊っているうちは安心だといって一方ならない馳走をするのであった。きのうも今宵も、武蔵は階下でもてなされて、快く酔ったからだを長々と、灯りのない二階の一間に横たえて、思うさま若い手脚をのばしていた。
「残念だ」
またしても、奥蔵院の日観のことばが頭にうかぶ。
自分の剣で打負かした者はみな、たとえそれが半死にさせた者でも、武蔵は次々に泡沫のように頭からその人間を忘れてしまうのであったが、少しでも、自分よりは優れた者――自分が圧倒を感じた者――そういう他人に対しては、いつまでも執着を断つことができない。生き霊のように、その相手に勝つことを忘れることが出来ないのである。
「残念だ」
寝まろびたまま、髪の毛をぎゅっと掴む。どうしたら日観のうえに立つことが出来るか、あの不気味なひとみから何の圧伏も感じない自分になれるだろうか。
きのうも今日も、悶々と、彼はそれから離れることが出来なかった。残念という呟きは、自分へ向っていう呻きであって、人を呪うため息ではない。
時々、彼はまた、
(おれは駄目かな?)
と、自己の才分を疑わざるを得なかった。日観のような人間に出あうと、あれまで行けるかどうかが自分で疑われて来るのである。元々、自分の剣というものは、師について、法則的な修行を受けたものでないだけに、彼には、自分の力がどの程度のものか、自分ではよく分っていなかった。
それに、日観は、
(強すぎる、もうすこし、弱くなるがよい)
といった。
あの言葉なども、武蔵には、どうもまだよく呑みこめないのだ。兵法者である以上、強いということは、絶対の優越であるべきであるのに、なぜ、それらが欠点になるのか。
待てよ、あの猫背の老僧が、何をいうか、それも疑問だ。こっちを若年者と見て、真理でもないことを、真らしく説いて、煙に巻いて帰してやったなどと、後で笑っているという手もないとは限らない――
(書なども、読むがいいか悪いか知れたものではない)
武蔵は、近ごろになって、時々それを考える。どうもあの姫路城の一室で三年間も書を読んだ後の自分というものは、前とちがって、何かにつけ、物事を理で解こうとする癖がついているようだ。自己の理智をとおして頷けることでないと、心から承認することが出来ない人間になっている。剣のことばかりでなく、社会の観方、人間の観方、すべてが一変していることは慥かである。
そのために、自分の勇猛というものは、少年時代から見れば、ずっと弱まっていると考えられるのに、あの日観は、まだ強すぎるというのだ。それは腕の強さをいうのではなく、自分の天分にある野性と争気を指していっていることだけは、武蔵にもわかっている。
「兵法者に、書物などは要らない智恵だ。生半可、ひとの心や気もちのうごきに敏感になったから、かえって、こっちの手が怯れるのだ。日観なども、眼をとじて一撃を揮り落せば、実は脆い土偶みたいなものかも知れないのだ」
誰かここへ上がって来るらしく、その時、彼の手枕に、梯子だんの跫音が伝わって来た。
階下の小女が顔を出し、その後からすぐ城太郎が上がって来たのである。城太郎の黒い顔は、旅の垢でよけいに黒くなり、河っ童のような髪の毛は埃で白くなっていた。
「おう、来たか。よく分ったな」
武蔵が、胸をひろげて迎えてやると、城太郎はその前に、汚れた足を投げ出して坐った。
「ああくたびれた」
「探したか」
「探したとも。とッても、探しちまッたい」
「宝蔵院で訊ねたであろうが」
「ところが、あそこの坊さんに訊いても知らないというんだもの。おじさん、忘れていたのだろう」
「いや、くれぐれも、頼んでおいたのだが。――まあよいわ、ご苦労だった」
「これは吉岡道場の返辞」
と城太郎は、首にかけて来た竹筒から、返書を出して武蔵にわたし、
「――それから、もう一つのほうの使い、本位田又八という人には、会えなかったから、そこの家の者に、おじさんの言伝てだけをよく頼んで帰って来たよ」
「大儀大儀。――さあ風呂へでも入れ、そして階下で御飯を食べてこい」
「ここは宿屋?」
「む。宿屋のようなものだ」
城太郎が降りて行った後で、武蔵は、吉岡清十郎からの返書を開いて見た。――再度の試合は当方の望むところである。もし約束の冬まで来訪がない時は、臆病風にふかれて踪跡をくらましたものと見なし、貴公の卑劣を天下に笑ってやることにするから、そのつもりでおられたい。
代筆とみえ、文辞も拙く、ただこんなふうに気負った言葉が書きつらねてある。武蔵は手紙を裂くと、それを燭にかざして焼いてしまった。
蝶の黒焼みたいな灰がふわふわと畳にこぼれてうごいている。試合とはいえ、この手紙のやり取りは、果し合いの約束に近い。この冬、この手紙から、誰がこういう灰になるのか。
武蔵は、兵法者の生命というものが、朝に生れて夕には分らないものであるという覚悟だけは、常に持っていた。――しかしそれは心がまえだけで、ほんとに今年の冬までしかない生命であるとしたら、彼の精神は、決して穏かでいられなかった。
(したいことがたくさんある! 兵法の修行もそうだが、人間としてやりたいことを、おれはまだ何もやっていない)
卜伝や上泉伊勢守のように、一度は多くの従者に鷹をすえさせ、駒をひかせて、天下の往来も歩いて見たい。
また、恥かしくない門戸のうちに、よき妻をもち、郎党や家の子を養って、自分には幼少から恵まれないところの家庭というものの温かさのうちに、よい主人ともなってみたい。
いや。
そういう人生の型に入る前には、ひそと、世の女性にも触れてみたいのだ。――今日までは明けても暮れても、念々兵法のほかに頭が外れないので、不自然なく童貞をたもって来ているが、このごろ時折、往来を歩いていても、京都や奈良の女性がはっと美しく眼に――というよりは肉感にひびいて来る時がある。
そんな時、彼はいつも、
(お通)
をふと思い出すのであった。
遠い過去の人であるような気がしながら、実は常に近くむすばれているような気のするお通。
――武蔵はただ漠然と、彼女を考えることだけで、時にはさびしい孤独と流浪を、どれ程、自分でも無意識の間に、慰められているか知れないのであった。
いつの間にか、そこへ戻って来ていた城太郎は、風呂に入り、腹を満たし、そして自分の使いも果した安心とで、すっかり草臥れが出たのであろう、小さいあぐらを組んで、両手を膝の間に突っこんだまま、涎をながして心地よげに居眠りしていた。
朝――
城太郎はもう雀の声といっしょに刎ね起きている。武蔵も、今朝は早く奈良を立つつもりと、階下の女主人へも告げてあるので、旅装いにかかっていると、
「まあ、お急ぎですこと」
能楽師の若い後家は、すこし恨めしげに、抱えて来た一かさねの小袖をそこへ出して、
「失礼でございますが、これは私が、お餞別のつもりで一昨日から縫いあげた小袖と羽織、お気に入りますまいが、お召しになってくださいませ」
「え、これを」
武蔵は、眼をみはった。
旅籠の餞別に、こんな物をもらう理由がない。
断ると、後家は、
「いいえ、そんな大した品ではございません、宅には、古びた能衣裳やら男物の古い小袖が、役にも立たず押しこんであるので、せめて、あなたのような御修行中の若いお方に着ていただければと思って、丹精してみたのでございます。せっかく、おからだに合せて縫ったのに、着ていただけないと無駄な物になってしまいますから、どうぞ……」
うしろへ廻って、いやおうなく武蔵の体へ、着せかけてくれる。
迷惑なほど、それは贅沢な品だった。わけても袖無羽織は、舶載の織物らしく、豪華な模様に金襴の裾べりを縫い、裏には羽二重をつけ、紐にまで細かい気をつけて、葡萄染めの革がつかってある。
「ようお似あいになります」
後家と共に、城太郎も見惚れていたが、無遠慮に、
「おばさん、おらには、何をくれるの」
「ホホホ。だって、あなたはお供でしょう、お供はそれでいいじゃありませんか」
「着物なんか欲しくねえさ」
「何か望みがあるんですか」
「これをくれないか」
次の間の壁に掛けてあった仮面をいきなり外して来て、もうゆうべ一目見た時から欲しくてならなかったもののように、
「これを、おくれ」
と自分の頬へ、仮面の頬をすりつけていった。
武蔵は、城太郎の眼のするどさに驚いた。実は彼も、ここに寝た晩から心をひかれていた仮面なのである。誰の作かわからないが、時代は室町ではない、少なくも鎌倉期の作品であって、やはり能につかわれた物らしく、鬼女の顔が、すごいほど鑿の先で彫り出されている。
それだけなら、まだそう心を奪われもすまいが、この仮面には、他のありふれた能仮面とちがって、不思議な表現が打ちこめてある。ふつうの鬼女の仮面は、およそ青隈で塗られた奇怪なものだが、この仮面の鬼女は、甚だ端麗であり、色白で上品な顔をしてどう眺めても美人なことである。
ただ、その美人が、おそろしい鬼女に見える点は、笑っている唇元だけにあった。三日月形に顔の左の方へ向ってキュッと鋭く彫りあげている唇の線が、どんな名匠の瞑想から生れたものか、何ともいえない凄味をふくんでいるのだった。明らかにこれはほんとに生きていた狂女の笑いを写し取ったものに違いない。――武蔵もそういう考えを下して見ていた品である。
「あっ、それはいけない」
この家の若い後家にとっても、それは大事な物とみえ、あわてて彼の手から奪り上げようとすると、城太郎は、頭の上に仮面をかざし、
「いいじゃないか、こんな物、いやだといっても、おいらは貰ッたアと!」
踊りながら逃げ廻って、何といっても返さない。
調子にのると子どもは止まりがない。武蔵が、後家の迷惑を察して、
「これっ、なぜそんなことを」
と叱っても、城太郎は浮かれ調子をやめないで、こんどは仮面をふところに入れ、
「いいね、おばさん。おいらにおくれね、いいだろ、おばさん」
梯子を降りて階下へ逃げてしまう。
若い後家は、
「いけない、いけない」
といいつつ、子供のする振舞なので、怒れもせず、笑いながら追いかけて行ったが、そのまましばらく階下から上がって来ないがと思っていると、やがて城太郎だけが、みしみしと、梯子段をのろく上がって来る様子。
来たら叱ってやろう。――武蔵がそう考えて、上がり口のほうに向って厳しい膝を向けて坐っていると、そこから不意に、
「――ばあア!」
鬼女の笑い仮面が、伸びた体の、先っぽに見えた。
びくっと、武蔵は筋肉をひきしめ、膝がすこし動いたくらいだった。何でそんな衝撃をうけたか、かれにもわからない。――しかしながら薄ぐらい梯子段の口元に手をついている笑い仮面を眺めてすぐ解けた。それは仮面にこもっている名匠の気魄である。白い顎の上から左の耳へかけてきゅっと笑っている三日月形の唇元にただよっている妖美にかくれているものだった。
「さ、おじさん、出かけましょう」
と城太郎はそこでいう。
武蔵は起たず、
「まだお返しせぬか。左様なもの、欲しがってはならん」
「だって、いいといったんだよ、もう、くれたんだよ」
「よいとはいわぬ。階下のお方へおもどしして来い」
「ううん、階下で返すといったら、こんどは、あのおばさんの方から、そんなに欲しければ上げる、その代りに大事に持ってくれますかというから、きっと大事に持っていると約束して、ほんとに貰ったんだ」
「困った奴」
この家にとり、大事そうな仮面やら小袖まで、こうして理由なく貰って立つことが、武蔵は何となく気がすまない。
何か気持だけでも礼をのこしてゆきたいと思う。しかし金銭には困らない家らしいし、代りに与える品とても持っていないので、階下へ降りて、改めて、城太郎のぶしつけな強請みを詫びて、それを戻させようとすると、若い後家は、
「いえ、考え直してみますと、あの仮面は、却って私の家にないほうが、私の気が楽々するかも知れません。それに、あのように欲しがるものゆえ、どうぞ叱らないでくださいませ」
そういう言葉を聞けば、よけいにあの仮面には何か歴史のある物らしく思われるので、武蔵はなお固辞したが、城太郎はもう大得意の態で、草鞋を穿いて、先に門の外へ出て待ちかまえている。
仮面よりも、若い後家は、武蔵に対してほのかに名残りを惜しみながら、この奈良へ来た時は、ぜひまた幾日でも泊ってもらいたいと繰返していう。
「では」
と、ついに何もかも先の好意に甘えて、武蔵が草鞋の緒をむすびかけていると、
「おう、お客さま、まだいらっしゃいましたか」
この家の親戚という宗因饅頭の女房が息をきって門へ入って来た。そして武蔵と、自分の姉になる後家の主へむかい、
「だめですよ、お客さま、お立ちどころではありません、たいへんです、とにかくもう一度二階へおもどりなさいませ」
何か怖ろしいことに、背を脅かされてでもいるように、歯の根の合わない声音でいうのであった。
武蔵は、草鞋の緒を、両足ともに結んでしまってから、静かに顔をあげた。
「何ですか、大変とは」
「あなたが、今朝ここを立つのを知って、宝蔵院のお坊さま達が、槍を持って、十人余も連れ立ち、般若坂のほうへ行きました」
「ほ」
「その中には、院主の宝蔵院の二代様も見え、町の衆の眼をそばだたせました。何か、よほどな事が起ったのであろうと、宅の主が、その中の懇意なお坊さまをとらえて訊いてみると、おまえの親戚の者の家に四、五日前から泊っている宮本という男が、きょう奈良を離れるらしいから、途中で待ちうけるのだと申すではございませんか」
宗因饅頭の女房は、青眉のあとを顫かせて、今朝奈良を立つことは、生命をすてに立つようなものであるから、二階へかくれて、夜を待って、抜け出したほうがよいと、こうしている間も、気の縮むように告げるのであった。
「ははあ」
武蔵は、そこの上がり框に腰を掛けたまま、門へ出ようともせず、二階へ戻ろうともしない。
「般若坂で、拙者を待ちうけるのだろうと、いっていましたか」
「場所はよう分りませぬが、その方角へ行きました。宅の主もびっくりして、町の衆がいううわさを問い糺してみると、宝蔵院のお坊さまばかりでなく、所々の辻口に、奈良の牢人衆がかたまって、きょうは宮本という男を捕まえて、宝蔵院へ渡すのだといっているそうです。――何かあなたは、宝蔵院の悪口をいって歩きましたか」
「そんな覚えはない」
「でも、宝蔵院のほうでは、あなたが人をつかって、奈良の辻々に落首を書いて貼らせたと、ひどく怒っているそうです」
「知らんな、人違いだろう」
「ですから、そんなことで、お命を落しては、つまらないではございませんか」
「…………」
答えるのを忘れて、武蔵は軒ごしに空を見ていた。思いあたるところがある。きのうだったか一昨日だったか、彼の頭にはもう遠いことみたいに忘れていたが、春日下で賭試合の興行をやるから仲間に入らないかとすすめに来た牢人者の三名連れ。
たしか一人は山添団八といい、後二人は野洲川安兵衛に大友伴立とかいった。
察するところ、あの折、いやに凄みをふくんだ表情で帰って行ったのは、後にこのことをもって、思い知らしてやるという肚黒い考えであったかも知れない。
自分には覚えのない宝蔵院の悪口をいいふらしたとか、落首を書いて辻々にはったとかいう所為も、彼らの仕業と思えないことはない。
「行こう」
武蔵は立って、旅づつみの端を胸の前で結び、笠を持って、宗因饅頭の女房と、観世の若い後家へ向い、くれぐれ好意を謝して、門を踏みだした。
「どうしても」
観世の後家は、涙ぐんでいるかのような眼で、外まで従いて来た。
「夜を待っていれば、必ずお宅に禍いがかかります。ご親切をうけたり、迷惑をかけたりしては申しわけがない」
「かまいません、私のほうは」
「いや、立ちましょう。――城太郎、お礼をいわんか」
「おばさん」
と、呼んで、城太郎は頭を下げた。にわかに彼も元気がない。それは別れを惜しむためとは見えないのである。思うに城太郎はまだ武蔵の本当を知らないし、京都にいたころから弱い武者修行と聞かされているので、自分の師匠の行く先に、音に聞えた宝蔵院衆が、槍をつらねて待っていると聞き、子供心にも、一抹の不安を覚えて、悲壮になっているのであろう。
「城太郎」
足を止めて、武蔵が振向く。
「はい」
城太郎は眉をびりっとさせた。
奈良の町はもう後ろだった。東大寺ともかけ離れている。月ヶ瀬街道は杉木立のあいだを通って、その杉の樹の縞のあいだから見えるものは、やがて近い般若坂にかかるなだらかな春野の傾斜と、それを裾にして右手の空にふくらんで乳房を持っているような三笠山の胸のあたりがここからは近い感じである。
「なんですか」
ここまで、七町あまり、ニコともしないで、黙々と尾いて来た城太郎であった。一歩一歩が、冥途とやらへ近くなる気持なのだ。さっき、湿々として、うす暗い東大寺の横を通って来た時、襟元にポタリと落ちた雫にも、きゃっと思わずいってしまいそうな驚きをしたし、人間の跫音に怖がらない鴉の群れにも、いやな気持がして、そのたび武蔵のうしろ姿も影がうすく見える。
山の中へでも、お寺の内へでも、隠れようとすれば隠れ込めないことはない、逃げようと思えば逃げられないことはない。それを何でこうして、宝蔵院衆が行ったという般若野のほうへ、自分から足を向けてしまうのだろうか。
城太郎には、考えられない。
(行って、謝る気かしら?)
その程度の想像はしてみる。謝るなら、自分も、一緒になって、宝蔵院衆に謝ろうと思う。
どっちがいいとか悪いとかなどは、問題でない。
そこへ武蔵が足を止め――城太郎――こう呼んだので彼はわけもなくドキッとしたのだった。しかし、自分の顔いろは、きっと蒼くなっているだろうにと考え、それを武蔵に見られまいとするらしく陽を仰いだ。
武蔵も上を仰いでいる。心ぼそいものが世の中のこう二人みたいに、城太郎の気持をつつんだ。
案外、次に出た武蔵の言葉は、ふだんの調子とちっとも変っていない。こういうのだ。
「いいなあ、これからの山旅は、まるで鶯の声を踏んで歩いて行くようじゃないか」
「え? なんですか」
「鶯がさ」
「あ。そうですね」
うつつである。朱くない少年の唇でも、武蔵にはそれが分った。かわいそうな子だと思うのであった。ことによれば、これきりで別れになるかも知れないと考えるからである。
「般若野がもう近いな」
「え、奈良坂も過ぎましたよ」
「ところで」
「…………」
あたりに啼きぬく鶯が、ただ寒々しいものに城太郎の耳を通ってゆく。城太郎の眼は、硝子玉のように曇って、武蔵の顔をぼうと見上げている。今朝、鬼女の笑い仮面を両手にあげて、嬉々と逃げまわっていた子供の眼と一つものとは思えないほど静かな瞼である。
「もうそろそろだ、わしとここでわかれるのだぞ」
「…………」
「わしから離れろ。――でないと側杖を食う、お前が怪我をする理由はちっともない」
ポロポロと眼が溶けて頬に白いすじを描いてながれる。ふたつの手の甲が、そうっと睫毛へ行ったと思うと、肩がしゅくっと泣いて、それからしゃっくりのように、体じゅうですすり上げた。
「何を泣く、兵法者の弟子じゃないか。わしが万一、血路をひらいて走ったら走ったほうへおまえも逃げろ。また、わしが突き殺されたら、元の京都の居酒屋へ帰って奉公せい。――それを、ずっと離れた小高い所でおまえは見ているのだ。いいか、これ……」
「なぜ泣く」
武蔵がいうと、城太郎は濡れた顔を振り上げて、武蔵の袂を引っぱった。
「おじさん、逃げよう」
「逃げられないのが侍というものだ。おまえは、その侍になるのじゃないか」
「恐い。死ぬのが恐い」
城太郎は戦慄しながら、武蔵の袂を、懸命にうしろへ引いて、
「おらが可哀そうだと思って、逃げてよう、逃げてよう」
「ああ、それをいわれるとおれも逃げたい。おれも幼少から骨肉に恵まれなかったが、おまえもおれに劣らない親の縁にうすい奴だ。逃げてやりたいが――」
「さ、さ、今のうちに」
「おれは侍、おまえも侍の子じゃないか」
力が尽きて、城太郎はそこへ坐ってしまった。手でこする顔から黒い水がぼたぼた落ちた。
「だが、心配するな。おれは負けないつもりだ。いやきっと勝つ。勝てばよかろう」
そう慰めても、城太郎は信じない。先に待ち伏せている宝蔵院衆は十人以上だと聞かされているからだった。弱い自分の師匠には、その一人と一人との勝負でも、勝てるわけはないと思っているのである。
きょうの死地へ当ってゆくには、そこで生きるも死ぬも十分な心構えが要る。いやすでにその心構えの中に立っているのだ。武蔵は、城太郎を愛しもするし不愍にも思ってはいるが、面倒になった、焦れったくなった。
ふいに激越な声で叱ったのである。彼を突き離すとともに、自分へ弾力を持って、
「だめだッ、貴様のような奴、武士にはなれん、居酒屋へ帰れ」
強い侮辱をあびせられたように少年のたましいはその声に泣きじゃくりを止めた。はっとした顔いろをもって、城太郎は起ち、そして、もう大股に彼方へ歩いてゆく武蔵のうしろ姿へ、
(――おじさアん)
叫びそうにしたが、それを怺えて、そばの杉の樹へしがみつき、両手の中に顔を埋めた。
武蔵は振り向かなかった。しかし、城太郎の泣きじゃくりがいつまでも耳にこびりついていて、もう頼り人のない薄命な少年のおろおろした姿が背中に見える気がしてならない。
(よしなき者を連れて歩いて――)
と、彼は心に悔いを噛むのであった。
未熟な自分の身一つさえ持てあましているものを――孤剣を抱いて明日のことさえ知れない身であるものを。――思えば、修行中の兵法者に道づれは要らないものだった。
「おうーい。武蔵どの」
いつか杉林を通りぬけて、ひろい野へ出ていた。野というよりは、斜めに起伏を落している山裾である。彼を呼んだ男は、三笠山の山道のほうからその裾野へ出て来たらしく、
「何処へお出でか」
二度目のことばをかけながら駈けて来て、馴々しく肩をならべた。
いつぞや泊り先の観世の後家の家へやって来た三名の牢人者のうちで、山添団八と名乗ったあの男なのである。
――来たな。
武蔵はすぐ看破した。
だが、さあらぬ顔して、
「おう、先日は」
「いや過日は失礼を」
あわてて挨拶をし直したその礼儀ぶりが、いやに叮嚀である。上目づかいに武蔵の顔いろを窺っていった。
「その節のことは、どうか水にながして、お聞き捨てのほどを」
このあいだ宝蔵院で、目に見た武蔵の実力には、大いに怖れを抱いている山添団八であるが、それかといって年はまだ二十一、二歳の田舎武士にすこし鰭がついて世間へ泳ぎ出した程度にしか見えない武蔵に対して、肚から兜を脱いではいない。
「武蔵どの。これから、旅はどちらの方面へ」
「伊賀を越え、伊勢路へ参ろうと思う。――貴公は」
「それがしは、ちと用事があって、月ヶ瀬まで」
「柳生谷は、あの近傍ではありませんか」
「これから四里ほどして大柳生、また一里ほど行くと小柳生」
「有名な柳生殿の城は」
「笠置寺から遠くないところじゃ。あれへもぜひ立ち寄って行かれたがよいな。もっとも今、大祖宗厳公は、もう茶人同様に別荘のほうへ引き籠られ、御子息の但馬守宗矩どのは、徳川家に召されて、江戸に行っているが」
「われらのような一介の遍歴の者にでも、授業して下さろうか」
「たれかの紹介状でもあればなおよろしいが。――そうそう月ヶ瀬に此方の懇意にしている鎧師で柳生家へも出入りしている老人がある、なんなら頼んであげてもよいが」
団八は、武蔵の左へ左へと、特に意識して並んで歩いていた。所々に、杉や槙などの樹がぽつねんと孤立しているほか、野の視野は何里となく広かった。ただ大きな起伏が低い丘を描き、そこを縫う道に多少のゆるい登りや降りがあるだけである。
般若坂に近いころであった。その一つの丘の彼方から、誰か、焚火でもしているらしく茶褐色のけむりが見える。
武蔵は、足を止め、
「はてな?」
「何が」
「あの煙」
「それがどうしたのでござる」
団八は、ぴったり寄り添っている。そして武蔵の顔いろを見る彼の顔いろが、やや硬ばる。
武蔵は指さして、
「どうもあの煙には妖気があるように思う。貴公の眼には、どう見えるな」
「妖気というと?」
「たとえば」
と、煙へさしていた指を、こんどは団八の顔の真ン中へさして、
「汝のひとみに漂っているようなものをいう!」
「えっ」
「見せてやるっ、このことだっ!」
突然、春野のうららかな静寂をやぶッて、キェッ――という異な悲鳴が走ったと思うと、団八のからだも向うへ飛び退き、武蔵の体もうしろへ刎ね返っていた。
何処かで、
「あっ――」
と驚いていう者があった。
それは二人が越えて来た丘のうえにチラと今、影を見せて此方を見ていた人間である、それも二人連れであった。
「やられたっ!」
というような意味の大声をあげて、その者たちは、手を振り上げながら何処かへ走ってゆく。
――武蔵の手には、低く持った刃がキラキラと陽の光を刎ねている。そして、飛び上がって仆れたなり山添団八はもう起たないのである。
鎬の血を、垂直にこぼしながら、武蔵はまたしずかに歩み出した。野の花を踏みながら焚火のけむりが立つ次の丘の肩へ。
女の手で撫でられるように鬢をなぶる春の微風がある。武蔵は、しかし自分の髪の毛がみな逆立っているかと思う。
一歩、一歩、彼のからだは鉄みたいに肉が緊まった。
丘に立つ。――下を見る。
なだらかな野の沢がひろく見渡された。焚火は、そこの沢で焚いているのだ。
「来たっ――」
さけんだのは、その焚火を囲んでいた大勢の者ではなくて、武蔵の位置をずっと離れて、そこへ駈け足で迂回して行った二人の男だった。
今、武蔵の足もとで、一太刀に斬りすてられた山添団八の仲間の者――野洲川安兵衛と、大友伴立という牢人であることはもう明らかに分るほどな距離である。
来たっという声に対して、
「え、来たっ?」
おうむ返しにいって、焚火のまわりの者は、いっせいに大地から腰を刎ね上げ、また、そこから離れて、思い思いに陽なたに屯していた者達も、すべて、総立ちになった。
人数はというと、およそ三十名近い。
そのうち約半数は僧であり、あと半数ほどは雑多な牢人者の群れなのである。丘の肩を越えてこの野の沢から般若坂へぬけてゆく道の、その丘の上に、今、武蔵の姿が現われたのを認めると、
(うむ!)
声としては出ない一種の殺伐な動揺めきが、その群れの上に漲りわたった。
しかも、武蔵の手には、すでに血を塗った剣が提げられている。戦闘は、お互いのすがたを見ぬ前から口火を切ってしまったのだ。それも、待ち伏せていた多勢のほうからではなく、計られて来たはずの武蔵のほうから宣戦しているのだ。
野洲川、大友の二人は、
「――山添が、山添が」
と早口にいって、仲間の一人が、すでに武蔵の刃にかかって仆れたことを、大仰な手つきで告げているらしく見える。
牢人たちは、歯がみをし、宝蔵院の僧たちは、
「小癪な」
と、陣容を作って、武蔵のほうを睨めつけた。
宝蔵院衆の十数名は、みな槍だった。片鎌の槍、ささ穂の槍、思い思いの一槍をかいこんで、黒衣のたもとを背にむすび、
「――おのれ、今日こそ」
と、院の名誉と、高足阿巌の無念を、ここでそそごうとする宿意が、もう面も向けられない。ちょうど、地獄の邏卒が列を作っているのと変りはない。
牢人たちは、牢人たちのみで、一団にかたまって、武蔵が逃げないように包囲しながら見物しようという計画らしく、中には、げらげら笑っている者がある。
けれど、その手数は不要だった。彼らは、居どころに立ったまま、自然な鶴翼の陣形を作っていればそれでよかった。敵の武蔵に、すこしも、逃げたり、狼狽したりする様子がないからである。
武蔵は歩いている。
それも極めて、一足一足、粘る土でも踏んでいるように、やわらかな若草の崖を、少しずつ、しかし――いつ鷲のごとく飛ぶかも知れない姿勢をもちながら、眼にあまる人数の前へ――というよりは死地へ――近づいて来るのであった。
――来るぞっ。
もう口に出していう者はない。
けれど、徐々に、片手に剣をさげた武蔵の姿が、沛雨をつつんだ一朶の黒雲のように、敵の心へ、やがて降りかかるものを、恐怖させていたことは慥かである。
「…………」
不気味な一瞬の静けさは、双方が死を考える瞬間であるのだ。武蔵の顔はまったく蒼白になっている。死神の眼が、彼の顔を借りて、
(――どれから先に)
と、窺っているかのような光になっている。
牢人の群れも、宝蔵院衆の列も、その一人の敵に対して、圧倒的な多数を擁してはいるが、彼ほど、蒼白になっている顔は一つもなかった。
(――多寡が)
と、衆を恃んでいる気持が、どこかに楽天的なものを湛え、ただ死神の眼に真っ先につかまることを、お互いが警戒しているだけに過ぎない。
――と。
槍をつらねている宝蔵院衆の列の端にいた一人の僧が、合図を下したかのように見えた時である、十数名の黒衣の槍仕は一斉に、わっと、喚きながら、その列をくずさずに、武蔵の右がわへ、駈け廻った。
「武蔵――ッ」
と、その僧がさけんだ。
「聞くところによれば、汝、いささかの腕を誇って、この胤舜が留守中に、門下の阿巌を仆し、またそれに増長して、宝蔵院のことを、悪しざまに世間へいいふらしたのみか、辻々へ、落首など貼らせて、吾々を嘲笑したと申すことであるが、確とそうか」
「ちがう!」
武蔵の答えは、簡明だった。
「よく物事は、眼で見、耳できくばかりでなく、肚で観ろ、坊主ともある者が」
「なにッ」
薪へ油である。
胤舜をさし措いて、ほかの僧たちが口々に、
「問答無用っ」
といった。
すると、挟撃の形をとって、武蔵の左がわにむらがっていた牢人たちが、
「そうだっ」
「むだ口を叩かすなっ」
がやがやと罵り出して、自分たちの抜いている刃を振り、宝蔵院衆が手を下すのを煽動した。
武蔵は、そこの牢人達のかたまりが、口ばかりで、質も結束も脆いことを、見抜いたらしく、
「よしっ、問答に及ぶまい。――誰だっ、相手は」
彼の眼が、きっと、自分たちへかかったので、牢人たちは、思わず足を退いてくずれ、中の二、三名だけが、
「おれだっ」
けなげに、大刀を中段にかまえると、武蔵はいきなりその一人に向って、軍鶏のような飛躍を見せた。
どぼっと、栓の飛んだような音がして、血しおが宙を染めた。同時にぶつけ合う生命と生命の響きだった。単なる気合いでもない、また言葉でもない、異様な喚きが人間の喉から発するのである。正しくそれは人間の会話でも表現でもなく原始林でする獣の吼える声に近いものであった。
ずずんっ、ずしいんっ、と武蔵の手にある刃鉄が、つよい震動を、自己の心臓へ送るたびに、彼の剣は人間の骨を斬っているのだった。一颯ごとに、その鋩子から虹のように血を噴き、血は脳漿を撒き、指のかけらを飛ばし、生大根のように人間の腕を草むらへ抛り出した。
初めから、牢人たちの側には、弥次気分と楽天的な気ぶりが、多分に漂っていて、
(――闘うのは宝蔵院衆、おれたちは、人殺しの見物)
と考えていたらしいのである。
武蔵が、そこの群れを、脆弱と観て、いきなり彼らの一団へ衝いて行ったのは戦法としても当然だ。
だが、彼らも、あわてはしなかった。彼らの頭には、宝蔵院の槍仕たちが控えているという絶対的な恃みがある。
ところが。
すでに戦闘はひらかれ、自分たちの伸間が二人仆れ、五人、六人と、武蔵の太刀にかかっているのに、宝蔵院側は、槍を横に並べて傍観しているのみで、一人も武蔵へ対して、突いて来ないではないか。
くそっ、くそっ――
やっちまえ、早く。
うわうッ。
だッ……だッ……
こなくそっ。
ぎゃんっ!
あらゆる音響が刃の中から発し、奇怪なる宝蔵院衆の不戦的態度に、業をにやし、不平をさけび、助勢を求め抜くのだったが、槍の整列は、いッこう動かない。声援もしない。まるで水のごとき列である。かくてみすみす武蔵のため、斬りまくられている彼らには、
(これでは、約束がちがう、この敵はそっちのもので、おれたちは第三者だ、これではあべこべではないか)
という苦情を言葉でいう遑すらないのだ。
酒に酔った泥鰌のように、彼らは、血にあたまが眩んでしまった。仲間の刃が仲間を撲り、人の顔が、自分の顔みたいに見え、そのくせ敵の武蔵の影は、確と認めることができないため、ふり廻す彼らの刀は、従って、味方同士の危険であるばかりであった。
もっとも武蔵自身もまた、自分が何を行動しているか、一切無自覚であった。ただ彼の生命を構成している肉体の全機能が、その一瞬に、三尺に足らない刀身に凝りかたまって、まだ五歳か六歳の幼少から、きびしい父の手でたたきこまれたものだの、その後、関ヶ原の戦で体験したものだの、また、独り山の中へ入って樹を相手に自得したもの、さらに、諸国をあるいて諸所の道場で理論的にふだん考えていたものだの、およそ今日まで経て来たすべての鍛錬が、意識なく、五体から火花となって発しているに過ぎないのである。――そして、その五体は、蹴ちらす土や草とも同化して、完全に、人間を解脱した風の相となっている。
――死生一如。
どっちへ帰することも頭にない人間のある時の相。
それが、今、白刃のなかを駈けまわっている武蔵の姿だった。
(斬られては損)
(死にたくない)
(なるべく他人に当らせて――)
というような雑念の傍らに刃物をふり廻している牢人たちが、歯ぎしりしても、一人の武蔵を斬り仆し得ないのみか、却って、その死にたくない奴が、盲目あたりに真っ向から割りつけられたりしてしまうのも皮肉ではあるが、是非もない。
槍をならべている宝蔵院衆の中の一人が、それを眺めながら、自分の呼吸をかぞえていると、その時間は、呼吸のかずにして約十五か、二十をかぞえるに足らない寸秒の間であった。
武蔵の全身も血。
残っている十人ほどの牢人もみな血まみれ。あたりの大地、あたりの草、すべてが朱く泥んこになって、吐き気を催すような血腥さいものが漲ると、それまで支えていた牢人たちも、とうとう恃む助勢を待ちきれなくなって、
「わあっ――」
と迅く――或る者は――ひょろひょろと、八方へ逃げ足を散らかした。
それまでは、満を持して、白い穂先をつらねていた宝蔵院の槍仕たちが、どっと、一斉にうごいたのは、それからであった。
「神さま!」
掌をあわせて、城太郎は、大空を拝んでいた。
「――神さま、加勢してください。わたくしのお師匠様は今、この下の沢で、あんな大勢の敵と、ただ独りで闘おうとしているんです。わたくしのお師匠様は、弱いけれど、悪い人間ではありません」
武蔵に捨てられても、その武蔵から離れられないで、遠く見まもりながら、彼は今般若野の沢の上にあたるところへ来て、ぺたっと坐っている。
仮面も笠もそばへ置いて、
「――八幡さま、金毘羅さま、春日の宮の神さま達! あれあれ、お師匠様はだんだん敵の前へ歩いてゆきます。正気の沙汰ではありません。かわいそうに、ふだん弱いものですから、今朝からすこし気が変になってしまったんです。さもなければ、あんな大勢の前へ、一人で向ってゆくはずはありません。どうか神さま達! 一人のほうへ助太刀して下さい」
百拝、千拝、その城太郎こそ気が変になったように、しまいには声を揚げて繰返すのであった。
「――この国に神様はいないんでしょうか。もし卑怯な大勢が勝って、正しい一人のほうが斬られたり、正義でない者が存分なまねをして、正しい者がなぶり殺しになったりしたら、むかしからの云い伝えはみな嘘ッぱちだといわれても仕方がありますまい。イヤ、おいらは、もしそうなったら神さま達に唾してやるぞ!」
理窟は幼稚であっても、彼の眸は血ばしっていて、むしろもっと深い理窟のある大人のさけびよりも、天をしてその権まくに驚かしめるものがあった。
それだけには止まらない。やがて、城太郎は、彼方のひくい芝地の沢に見える一かたまりの人数が、ただ一人の武蔵を、刃の中に取り囲んで、針をつつんで吹く旋風のような光景を描き出すと、
「――畜生っ」
ふたつの拳と共に飛び上がり、
「卑怯だっ」
と、絶叫し、
「ええ、おいら大人ならば……」
と、地だんだ踏んで泣き出し、
「馬鹿っ、馬鹿っ」
と、そこらじゅうを駈けあるき、
「――おじさアん! おじさアん! おいらは、ここにいるよッ」
しまいには彼自身が、完全なる神さまとなり切って、
「――獣っ、獣っ、お師匠様を殺すと、おれが承知しないぞっ!」
ありッたけな声で、さけんでいたものである。
そして、そこからの遠目にも、彼方の真っ黒な斬り合いの渦中から、ぱッ、ぱッ、と血しぶきが立ち、一つ仆れ二つ仆れ、死骸が野にころがるのを見ると、
「ヤッ、おじさんが斬った。――お師匠様はつよいぞっ」
こんな多量な血しおを撒いて、人間同士が獣性の上に乱舞する実際を、この少年は、生れて初めて目撃したにちがいない。
いつか城太郎は、自分も彼方の渦中にあって、体じゅうを血で塗っているかのように酔ってしまい、その異様な興奮は、彼の心臓にもんどり打たせた。
「――ざま見ろッ、どんなもんだい。おたんちん! ひょっとこ! おいらのお師匠様は、こんなもンだ。カアカア鴉の宝蔵院め、ざまあ見さらせ! 槍ばかり並べてやがって、手も出まい、足も出まい!」
だが、やがて彼方の形勢が一変して、それまで静観していた宝蔵院衆の槍が、俄然うごき出すと、
「あっ、いけない、総攻めだっ」
武蔵の危機! 今が最期と彼にも分った。城太郎はついに身のほども忘れてしまい、その小さい体を火の玉のように憤らせて、丘の上から一箇の岩でも転がるかのように駈け下りていた。
宝蔵院初代の槍法をうけて、隠れもない達人といわれる二代胤舜は、
「よしッ、やれっ」
その時、すさまじい声をもって、さっきから静観の槍先を横たえたまま、撓め切っていた十数名の門下の坊主たちへ、号令したのである。
ぴゅうーっと、白い光はその途端に、蜂を放ったように八方へ走った。坊主あたまというものには、一種特別な剛毅と野蛮性がある。
くだ槍、片鎌、ささほ、十文字、おのおのがつかい馴れた一槍を横たえて、そのカンカチ頭とともに、血に飢えて躍ったのだ。
――ありゃあっ。
――えおうっ。
野彦を揚げて、もうその槍先の幾つかは血を塗っている。きょうこそまたとない、実地の稽古日のように。
――武蔵は、咄嗟に、
(新手!)
と感じて飛び退っていた。
(見事に死のう!)
もう疲れて霞んでいる脳裏でふとそう考え、血糊でねばる刀の柄を両手でぎゅっと持ったまま、汗と血でふさがれた眼膜をじっと瞠っていたが、彼に向って来る槍は一つもなかった。
「……や?」
どう考えてもあり得ない光景が展開されていた。茫然と、彼は、その不可思議な事実を見まわしてしまった。
なぜならば、坊主あたまの槍仕たちが、われがちに獲物を争う猟家の犬みたいに、追いまわしてズブズブ突き刺しているのは、彼らとは、味方であるはずの牢人たちへ向ってであった。
からくも、武蔵の太刀先から逃げ退いて、ほっとしかけていた連中までが、
「待てっ」
と、呼ばれたので、まさかと思って待っていると、
「蛆虫めら」
と不意の槍先に突っかけられて、宙へ刎ね飛ばされたりした。
「やいっ、やいっ、何するんだっ、気が狂ったか。馬鹿坊主め、相手を見ろっ、相手が違うっ」
と叫んだり転げたりする者の尻を狙って、撲る者があるし、突く者があるし、また、左の頬から右の頬へ槍を突きとおして、槍を咥えられたと思い、
「離せっ」
と目刺魚みたいに振廻しているのもある。
おそろしい屠殺の行われたその瞬間の後、何ともいえないしんとした影が野を掩った。面を向けるに堪えないように、太陽にも雲がかかっていた。
みな殺しだった。あれだけいた牢人者を、一人としてこの般若野の沢から外へ洩らさなかったのである。
武蔵は、自分の眼が信じられなかった。太刀を構えていた手も、張りつめていた気も、茫然とはなりながら、弛めることができなかった。
(――何で? 彼ら同士が)
まったく判断がつかないのである。いくら今、武蔵自身の人間性が、人間を離脱した血の奪いあいに、夜叉と獣のたましいを一つに持つような体熱からまだ醒めきれないでいるにしても――余りに思いきった殺戮に眼がくらむ心地がする。
いやそう感じたのは、他人のする虐殺を見せられて、途端に、彼は本来の人間に回ってしまった証拠といえる。
同時に彼は、地中へふかく突っ込んでいるように力で硬くなっている自分の脚に、――また、自分の両手にしがみついて、オイオイ泣いている城太郎にも、ふと気がついた。
「初めてお目にかかる。――宮本殿といわるるか」
つかつかと歩み寄って来て、こういんぎんに礼儀をする長身白皙の僧を、目の前に見て、
「オ……」
武蔵は、われに帰って、刃を下げた。
「お見知りおき下さい。わたくしが宝蔵院の胤舜です」
「む。あなたが」
「過日は、せっかくお訪ね下された由ですが、不在の折で、残念なことをしました。――なお、そのせつは門下の阿巌が、醜しい態をお目にかけ、彼の師として胤舜も恥じ入っております」
「…………」
はてな?
武蔵は、相手のことばを、耳を洗って聞き直すように、しばらくだまっていた。
この人の言語や、言語にふさわしい立派な態度を、こちらも、礼儀をもって受け容れるには、武蔵はまず、自分の頭の中に混雑しているものから先に整えて聞かなければならなかった。
それにはまず宝蔵院衆が、何が故に、自分に向けてくるはずの槍を、遽かに逆さにして味方と信じて油断していた牢人どもを、みなごろしに刺殺してしまったのか?
その理由が、武蔵には解きようもない。意外な結果に、ただあきれているのだ。自分の生命の健在にさえあきれているのだ。
「血糊のよごれでもお洗いになって、ご休息なされい。――さ、こちらで」
胤舜は、先に歩いて、焚火のそばへ武蔵を誘ってゆく。
城太郎は、彼のたもとを離れなかった。
用意して来た奈良晒布を一反も裂いて、坊主たちは、槍を拭いていた。その坊主たちも、武蔵と胤舜が、焚火に向って膝をならべている姿を見て、すこしも不審としていない。当然のように、自分たちも、やがて打ち混じって、雑談を始めるのだった。
「――見ろ、あんなに」
一人が空を指さし、
「もう鴉のやつが、血を嗅ぎつけて、この野にあるたくさんの死骸に喉を鳴らしてやって来た」
「――降りて来ないな」
「おれたちが去れば、争って死骸へたかる」
そんな暢気な話題さえ出る。武蔵の不審は、武蔵から質問しなければ誰も語ってくれそうもない。
胤舜に向い、
「実は、拙者はあなた方こそ、今日の敵と思い、一人でもよけいに冥途へお連れ申そうと、深く覚悟していたのですが、それが却って拙者にお味方下さるのみか、どうしてかようにおもてなし賜わるのか、不審でならぬが」
すると胤舜は、笑って、
「いや貴公にお味方した覚えはない。ただすこし手荒ではござったが、奈良の大掃除をしただけのことです」
「大掃除とは」
その時、胤舜は、指を彼方へさして、
「そのことは、てまえからお話しするより、あなたをよく知っている先輩の日観師が、お目にかかって親しくお話し申すでしょう。――御覧なさい。野末のほうから、豆つぶ程な人馬の影が一群れ見えて来たでしょう。あれが、日観師と、そのほかの人々に違いありません」
「――老師、迅いの」
「そちらが遅いのじゃ」
「馬より迅い」
「あたりまえ」
猫背の老僧日観だけ、駒の足をしり目にかけて、自分の足で歩いていた。
般若野の煙をあてに。
その日観と前後して、五人の騎馬の役人が、かつかつと野の石ころを蹴って行く。
近づくのを見て、此方では、
「老師、老師」
と、囁きあう。
坊主たちはずっと退がって、厳かな寺院の儀式の時のように、一列に並んで、その人と、騎馬役人とを迎えた。
「片づいたかい?」
日観が、そこへ来ての最初のことばだった。
「はっ、仰せのように」
と、胤舜は師礼を執っていう。
そして、騎馬役人へ向い、
「御検視、ご苦労です」
役人たちは、順々に、鞍つぼから飛び降り、
「なんの、ご苦労なのは、其許たちの方さ。どれ一応――」
と、彼方此方に横たわっている十幾つかの死骸を見て、一寸覚えを書き留める程度の事務を執って、
「取片づけは、役所からさせる。後の事、捨ておいて、退去してよろしい」
いい渡すと、役人らは馬上へ返って、ふたたび野末へ駈け去った。
「おまえ達も戻れ」
日観が命令を下すと、槍を並べている僧列は、黙礼して野を歩みだした。それを連れて、胤舜も、師と武蔵へ、あいさつを残して帰って行った。
人が減ると、
ぎゃあアぎゃあア!
鴉の群れは、急に厚顔ましく地上へ降りて来て、死骸へたかり、梅酢を浴びたようになって、驚喜の翼を搏っている。
「うるさい奴」
日観はつぶやきながら、武蔵のそばへ来て、気軽にいった。
「いつぞやは失礼」
「あっ、その折は……」
あわてて彼は両手をつかえた。そうせずにはいられなかった。
「お手をお上げ。野原の中で、そう慇懃なのもおかしい」
「はい」
「どうじゃな、今はすこし、勉強になったか」
「仔細、お聞かせ下さいませ。どうして、こういうお計らいを?」
「もっともだ。実はの」
と、日観が話すには――
「今帰った役人たちは、奈良奉行大久保長安の与力衆でな、まだ奉行も新任、あの衆も土地に馴れん。そこをつけ込んで、悪い牢人どもが、押し借り、強盗賭試合、ゆすり、女隠し、後家見舞、ろくなことはせん。奉行も手をやいていたものだ。――山添団八、野洲川安兵衛など、あの連中十四、五がそのグレ牢人の中心と目されていた」
「ははあ……」
「その山添、野洲川などが、おぬしに怒りを抱いたことがあろう。だが、おぬしの実力を知っているので、その復讐を、宝蔵院の手でさせてやろう、こう、うまいことを彼奴らは考えた。そこで仲間を語らい、宝蔵院の悪口をいいふらし、落首など貼りちらして、それを皆、宮本の所為だと、いちいち、こっちへ告げ口に来たものだ。――わしを盲目と思うてな」
聞いている武蔵の眼は、微笑してきた。
「――よい機、この機に一つ、奈良の町の大掃除をしてくれよう。こう考えて、胤舜に策を授けたのじゃ。イヤ、よろこんだのは、門下の坊主どもと、奈良の奉行所。それからこの野原の鴉じゃった。アハハハハ」
いや欣んだのは鴉のほかにもう一人いる。日観の話をそばで聞いていた城太郎だ。これですっかり彼の疑いも危惧も一掃された。そこで、この少年は、雀躍りの羽をひろげ、彼方へ駈けて行ったと思うと、
その声に、武蔵と日観が振向いてみると、城太郎は例の笑い仮面を顔にかぶり、腰なる木剣を抜いて手にかざし、そこらに算をみだしてころがっている死骸と、その死骸へむらがっている鴉の群れを蹴ちらしながら乱舞している。
日観が呼ぶと、彼は、
「はいっ」
乱舞を止めて、振向いた。
「そんな気狂いじみた真似をしておらんで石を拾え、ここへ石を拾って来い」
「こんな石でいいんですか」
「もっと沢山――」
「はい、はい」
城太郎が拾い集めて来ると、日観は、その小石の一つ一つへ南無妙法蓮華経の題目を書いて、
「さあ、これを死骸へ、撒いておやり」
といった。
城太郎は石を取って野の四方へ投げた。
その間、日観は、法衣の袖をあわせて誦経していたが、
「さあ、それでよろしい。――ではお前さん達も先へ出立するがよい。わしも奈良へ戻るとしよう」
飄然と猫背の後ろ姿を向け、もう風のように彼方へ歩み去って行く――
礼をいう遑もないし、再会の約束もいい出せなかった。何という淡々とした姿だろう。――武蔵は、そのうしろ姿を、じっと見つめていたが、何思ったかいきなり驀しぐらに追い駈けて行って、
「老師っ、お忘れ物っ」
と、刀の柄をたたいた。
日観は、足を止め、
「忘れ物とは?」
「会い難いこの世の御縁に、せっかくこうしてお目にかかったのです。どうか一手の御指南を」
すると、歯のない彼の口から、からからと枯れた人間の笑い声がひびいた。
「――まだ分らんのか。お前さんに教えることといえば、強過ぎるということしかないよ。だが、その強さを自負してゆくと、お前さんは三十歳までは生きられまい。すでに、今日生命がなかったところだ。そんなことで、自分という人間を、どう持ってゆくんじゃ」
「…………」
「きょうの働きなども、まるでなっておらぬ。若いからまアまアせんないが、強いが兵法などと考えたら大間違い。わしなど、そういう点で、まだ兵法を談じる資格はないのじゃよ。――左様、わしの先輩柳生石舟斎様、そのまた先輩の上泉伊勢守殿――そういう人たちの歩いた通りを、これから、お身もちと、歩いてみるとわかる」
「…………」
武蔵は俯向いていた。ふと、日観の声がしなくなったがと思い、顔を上げてみると、もうその人の影はなかった。
ここは笠置山の中にあるが、笠置村とはいわない。神戸の庄柳生谷といっている。
その柳生谷は、山村とよぶには、どこか人智の光があり、家居風俗にも整いがあった。といって、町と見るには、戸数が少なくて、浮華な色がちっともない。中国の蜀へ通う途中にでもありそうな「山市」といった趣の土地である。
この山市のまん中に、土民が「お館」と仰ぐ大きな住居があって、ここの文化も、領民の安心も、すべての中心が、その古い砦の形式を持った石垣の家にあった。そして領民は千年の昔から住み、領主も、平の将門が乱をなした大昔の頃からここに住んで、微かながら土民の上に文化を布き、弓矢の蔵を持っていた土豪である。
そしてこの地方四箇の庄を、祖先の地、自分たちの郷土として血をもって愛護していた。どんな戦禍があっても、領主と民とが迷子にはならなかった。
関ヶ原の戦後、すぐ近い奈良の町は、あのとおり浮浪人に占領され、浮浪人の運びこんだ悪文化に風靡されて、七堂伽藍の法燈も荒れわびてしまったが、この柳生谷から笠置地方には、そんな不逞分子はさがしても入り込んで来ていない。
その一例を見ても、いかにこの辺の郷土がそんな不純を入れない気風と制度を持っているかが窺えるのである。
領主がよくて領民がよいばかりではない、朝夕の笠置の山はきれいだし、水は茶に汲んで飲むと甘味い。――それからまた梅花の月ヶ瀬が近くにあるので、鶯の音は雪の解けない頃から、雷鳴の多い季節まで絶えることはなく、その音色はまた、この山の水よりも清い。
詩人は、――英雄生ル所山河清シ、といったが、こんな郷土から、もし一人の偉人でも生まれなかったら、詩人は嘘つきといってよいし、ここの山河は、ただ美しいのみで不産女の風景といってもいい。でなければ郷土の血液がよほど頑愚か、どっちかであるが、やはりここには人傑が出ていた。領主の柳生家の血が証拠だてている。また、畑から出て、軍のたびに功を立て、よい家臣となって随身している家中にも、優れた人物がすくなくない。それはみなこの柳生谷の山河と鶯の音が産んだ英雄といえるのである。
今はその「石垣のお館」には、隠居された柳生新左衛門尉宗厳が、名も石舟斎と簡素に改めてしまって、城からすこし奥の小やかな山荘にかくれ、政務を執る表のほうには、誰が今、家督の任に当っているのか分らないが、石舟斎には、いい子どもや孫がたくさんにあるし、家臣にも頼み甲斐ある者が多いから、石舟斎が民を見ていた時代となんの変りもなかった。
「ふしぎだ」
武蔵が、ここの地を踏んだのは般若野のことがあってから十日ほど後であった。附近の笠置寺とか浄瑠璃寺とか、建武の遺跡などを探って、宿も、どこかへ取り、充分に心身の静養もして、その宿から散歩のていで出かけて来たものらしく、ほんの着流しであり、いつもの如く腰に取ッついている城太郎も、藁草履を穿いていた。
民家の生活を見、畑の作物をながめ、また往きあう者の風俗に注意し、そのたびに、武蔵が、
「ふしぎだ」
何度も呟くので、
「おじさん、何がふしぎ?」
と、城太郎はむしろ武蔵の呟きこそ、不思議として、こう訊ねた。
「中国を出て、摂津、河内、和泉と諸国を見て来たが、おれはまだこんな国のあることを知らなかった。――そこで不思議といったのだよ」
「おじさん、どこがそんなに違っているの」
「山に樹が多い」
城太郎は、武蔵のことばに、吹き出して、
「樹なんか、どこにだって沢山生えているぜ」
「その樹が違う。この柳生谷四箇の庄の山は、みな樹齢が経っている。これはこの国が、兵火にかかっていない証拠だ。敵の濫伐をうけていない証だ。また、領主や民が、飢えたことのない歴史をも物語っている」
「それから」
「畑が青い。麦の根がよく踏んである。戸ごとには、糸をつむぐ音がするし、百姓は、道をゆく他国の者の贅沢な身装を見ても、さもしい眼をして、仕事の手を休めたりしない」
「それだけ?」
「まだある。ほかの国とちがって、畑に若い娘が多く見える。――畑に紅い帯が多く見えるのはこの国の若い女が、他国へ流れ出ていない証拠だろう。だからこの国は、経済にも豊かで、子供はすこやかに育てられ、老人は尊敬され、若い男女は、どんなことがあっても他国へ走って、浮いた生活をしようとは思わない。従って、ここの領主の内福なことも分るし、武器の庫には、槍鉄砲がいつでも研きぬいてあるだろうという想像もつく」
「なんだ、なにを感心しているのかと思ったら、そんなつまらないことか」
「おまえには面白くあるまいな」
「だって、おじさんは、柳生家の者と試合をするために、この柳生谷へ来たんじゃないか」
「武者修行というものは、何も試合をして歩くだけが能じゃない。一宿一飯にありつきながら、木刀をかついで、叩き合いばかりして歩いているのは、あれは武者修行でなくて、渡り者という輩、ほんとの武者修行と申すのは、そういう武技よりは心の修行をすることだ。また、諸国の地理水利を測り、土民の人情や気風をおぼえ、領主と民のあいだがどう行っているか、城下から城内の奥まで見きわめる用意をもって、海内隈なく脚で踏んで心で観て歩くのが、武者修行というものだよ」
まだ幼稚な者に向って、説いても無益と思いながら、武蔵には、少年に対しても、よいほどにものを誤魔化しておくということができない。
城太郎の諄いような質問にも、面倒な顔もせず頻りと、噛んで含めるように答えてやりながら歩いていた。――すると二人の背後へいつの間にか近づいていた馬蹄の音があって、その馬上から恰幅のよい四十がらみの侍が、
「傍へ。傍へ」
声をかけて、通り越した。
ひょいと、その鞍の上を仰いで城太郎は、
「あっ、庄田さんだ」
と、口走った。
その侍の顔が、熊のようなあご髯を持っているので、城太郎は忘れていなかった。――宇治橋へかかる大和路の途中で、紛失したと思った手紙の竹筒を拾ってくれたあの人なのだ。彼の声に、馬上の庄田喜左衛門も気がついたとみえ、振顧って、
「おう、小僧か」
ニコと笑ったが、そのまま駒をすすめ、柳生家の石垣の内へかくれてしまった。
「城太郎、今、馬の上からお前を見て笑ったお人、あれは誰だ」
「庄田さんて――柳生様の家来だって」
「どうして知っているのか」
「いつか、奈良へ来る途中、いろいろ親切にしてくれたから」
「ふム」
「ほかに、何とかいう女の人とも道連れになって、木津川渡舟までおらと三人、一しょに歩いて来たのさ」
小柳生城の外形と、柳生谷の土地がらを一巡見て歩いて、武蔵はやがて、
「帰ろう」
と、元の方角へ足を向ける。
旅籠は、たった一軒だが、大きなのがあった。伊賀街道に当っているし、浄瑠璃寺や笠置寺へゆく人たちも泊るので、夕方になると、そこの入口の立樹や、廂の下には、必ず十頭くらいの荷駄馬がつながれ、夥しい米を炊ぐため、米の磨ぎ水が前の流れを白く濁していた。
「旦那はん、どこへ行きなされた?」
部屋へ入ると、紺の筒袖に、山袴を穿き、帯だけが赤いので、これは女の子だと分る女の子が、突っ立ったままで、
「すぐ風呂に入りなされ」
という。
城太郎は、ちょうどよい年頃の友達を見つけたように、
「おめえ、何てえ名だい」
「知らんが」
「阿呆、自分の名を」
「小茶ってんだよ」
「変な名」
「大きにお世話」
小茶が、打つと、
「打ったな」
武蔵は廊下から振向いて、
「おい、小茶ちゃん、風呂場はどこだ。――先の右側か、よしよしわかる」
板の間の棚に、三人分の衣服が脱いであった。武蔵のを加えて四人分になる。戸をあけて、湯気の中へ入ってみると、先に入っていた客たちは、何か陽気に話していたが、彼の逞しい裸体を仰いで、異分子を見るように、口をつぐんだ。
「むーム」
武蔵の六尺に近い体を沈め込むと、湯槽の湯は、外で細い脛を洗っている三名を浮かして流すほど、溢れ出した。
「? ……」
一人が、武蔵のほうを振り向いた。武蔵は湯槽のふちを枕にして、眼をつむっている。
そこで、すこし安心したのか、三名は途絶えていた話のつづきに入って――
「なんといったかな、先ほど参った柳生家の用人は」
「庄田喜左衛門だろう」
「そうか。――柳生も用人を使いに立てて試合を断るようでは、名ほどのこともないと見えるぞ」
「誰に対しても、近頃は、あの用人がいったように、石舟斎は隠居、但馬守儀は、江戸表へ出府中につき――という口上で、試合を謝絶しているのだろうか」
「いや、そうじゃあるまい。こちらが、吉岡家の次男と聞いて、大事を取り、敬遠したに相違ないさ」
「御旅中のお慰みにと菓子などを持たせて寄こしたところは、柳生もなかなか如才ないではないか」
背中の色が白い。筋肉がやわらかい。皆、都会人とみえ、洗煉された会話の遣り取りのうちに、理智があり、冗戯があり、細かい神経も働いている。
(……吉岡?)
ふと耳に入ったので、武蔵は何気なく湯槽から首を曲げた。
吉岡の次男といえば、清十郎の弟伝七郎のことだが?
(それかな)
と、武蔵は注意していた。
自分が四条道場を訪ねた時、門人か誰かが御舎弟の伝七郎どのは、友人と伊勢参宮へ参って留守であるといっていた。――この旅の戻り途とすれば、あるいは、こう三名の者が、その伝七郎と友人の一行かも知れない。
(おれは湯槽がよく祟る)
武蔵は心のうちで戒めていた。――郷里の宮本村ではかつて本位田又八の母のお杉隠居に計られて、浴室で敵につつまれたことがあるし、今はまた、宿怨ただならぬ仲の吉岡拳法の一子と、偶然にも、素裸で会う機会につかまってしまった。
旅に出ていたとはいえ、おそらくは、京都の四条道場での自分とのいきさつを、耳にしているに相違ない。――ここで自分を宮本と知ったら、すぐ板戸一枚向うにある刀を取って物をいい出すだろう。
武蔵は一応そう考えたのだ。しかし、三名のほうには一向そういう気ぶりはない。得意になって話している様子から察すると、何でもこの土地へ着くと早速、柳生家へ書面を持たせてやったものらしい。吉岡といえば、足利公方からの名門ではあり、今の石舟斎が宗厳といっていた頃から、先代の拳法とは多少の交わりもあったらしいので、柳生家でも捨ててもおけず、用人庄田喜左衛門に旅の見舞を持たせて、この旅籠へあいさつによこしたものと思われる。
その礼儀に対して、この若い都会人たちは、
(柳生も、如才ない)
とか、
(怖れをなして敬遠した)
とか、
(大した人物もいないらしい)
とかいう風に、自己満足な解釈を下して、得々と、旅の垢を洗っている――
今し方、親しく足で踏んで、小柳生城の外廓から、土俗人情を実地に見て来ている武蔵にとっては、彼らのそうした得意さと勝手な受け取り方が、笑止でならなかった。
井の中の蛙という諺があるが、ここにいる都の小せがれどもは、大海の都会に住んでいて、移りゆく時勢を広く見ているくせに、却って、井の中の蛙が誰も知らないうちに涵養していた力の深さや偉大さを少しも考えてみない。中央の勢力と、その盛衰から離れて、深い井泉の底に、何十年も、月を映し、落葉を浮かべ、変哲もない田舎暮らしの芋食い武士と思っているまに、この柳生家という古井戸からは、近世になって、兵法の大祖として石舟斎宗厳を出し、その子には、家康に認められた但馬守宗矩を生み、その兄たちには、勇猛の聞え高い五郎左衛門や厳勝などを出し、また孫には、加藤清正に懇望されて肥後へ高禄でよばれて行った麒麟児の兵庫利厳などという「偉大なる蛙」をたくさんに時勢の中へ送っている。
兵法の家として、吉岡家と柳生家とでは、比べものにならないほど吉岡家のほうが格式が高かったものである。けれど、それは昨日までのことだった。――それをまだ、ここにいる伝七郎や他の手合は気がつかない。
武蔵は、彼らの得意さが、おかしくもあり、気の毒にも思えた。
で――つい苦笑が顔にのぼりかける。彼はそれに困って、浴室の隅にある筧の下にゆき、髪の元結を解いて、一塊の粘土を毛の根にこすり、久しぶりで、ざぶざぶと髪を洗いほぐした。
その間に、
「ああいい気持」
「旅ごこちは、湯上がりの、この一刻にあるな」
「女の酌で、晩に飲むのは」
「なおいい」
などと三名は、体を拭いて、先へ上がって行った。
洗った濡れ髪を手拭いで縛って、部屋に帰ってみると、男みたいな女の子の小茶ちゃんが隅で泣いているので、武蔵は、
「おや、どうした?」
「旦那はん、あの子が、あたいをこんなに撲ったの」
「嘘だい!」
と、向うの隅から城太郎が異議をいって膨れる。
「なぜ女などを打つ」
武蔵が叱ると、
「だって、そのおたんこ茄子が、おじさんのことを、弱いっていったからさ」
「嘘、嘘」
「いったじゃないか」
「旦那はんのことを弱いって、誰もいいはしないよ。おまえが、おらのお師匠様は日本一の兵法家で般若野で何十人も牢人を斬ったなんて、あんまり自慢して威張るから、日本一の剣術の先生は、ここの御領主様のほかにないよといったら、何をって、あたいの頬を撲ったんじゃないか」
武蔵は、笑って、
「そうか、悪い奴だ。後で叱っておくから、小茶ちゃん、勘弁してやれ」
城太郎は、不服らしい。
「おい」
「はい」
「湯に入ってこい」
「お湯はきらいだ」
「おれと似ているな。だが、汗くさくていかん」
「明日、河へ行って泳ぐ」
日が経って馴れるにつれ、この少年の生れつきにある強情な性格は、だんだん芽を伸ばしていた。
だが、武蔵は、そこも好きだった。
膳につく。
まだ膨れている。
盆を持って給仕している小茶も口をきかない。睨めっこなのだ。
武蔵も、この数日は、思うことがあって、とかく心がそれに囚われている。彼の胸にある宿題は、一介の放浪者としては少し大望であり過ぎた。しかし、不可能でないと彼は信じるのだ。そのためにこうして一つ旅籠に逗留をかさねているのでもあった。
望みというのは、
(柳生家の大祖、石舟斎宗厳と会ってみたい)
と、いうことである。
なお烈しくいえば――彼の若い野望の燃ゆるままを言葉に移していうならば――
(どうせ打つかるなら大敵に当れである。大柳生の名を仆すか、自分の剣名に黒点をつけられるか、死を賭してもよい、柳生宗厳に面接して、一太刀打ち込まねば、刀を把る道に志したかいもない)
もし第三者があって、彼のこういう志望を聞いたら、無謀といって笑うだろう。武蔵自身も、その程度の常識はないことは決してない。
小さくても、先は一城の主である。その子息は、江戸幕府の兵法師範であり、一族はみな典型的な武人であるのみでなく、どことなく新しい時代の潮にのり出している旺なる家運が、柳生家というものの上には今、輝いているのだ。
(――凡は打つかれない)
武蔵も、それだけの準備は心でしていた。飯を噛む間もしているのである。
鶴のような老人である。もう八十歳にかかっているが、品位は年と共について、高士の風をそなえているし、歯も達者、眼もご自慢なのだ。
「百歳までは生きる」
と、常にいっている。
それというのも、この石舟斎には、
「柳生家は代々が長寿じゃ。二十歳だい、三十だいで死んだのは、みな戦場で終ったものばかり。畳の上ではどの先祖も、五十や六十で死んだのはない」
という信念があるからだ。
いや、そういう血統でないにしても、石舟斎のような処世と老後を心がければ、百歳くらい生きるのは当りまえにも思われる。
享禄、天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長――とこう長い乱世の中を生きて来て、殊に四十七歳までの壮年期は、三好党の乱だの、足利氏の没落だの、松永氏や織田氏の興亡だのに、この地方にあっても、弓矢を措く遑はなかったのであるが、自分でも、
「ふしぎと死ななかった」と、いっている。
四十七歳からは、何に感じたのか、一切弓矢を取らず、たとえば足利将軍の義昭が、好餌をもって誘っても、信長がしきりと招いても、豊臣氏が赫々と覇威を四海にあまねくしても、その大坂、京都のつい鼻の先にいながら、この人物は、
(わしは、つんぼでござる、唖でござる)
というように、世の中から韜晦して、穴熊のように、この山間の三千石を後生大事に守って出なかった。
後に、人に語って、
「よく持って来たものじゃ。朝あって夕べのわからぬ治乱興亡の間を、こんな小城一つが、ぽつねんと、今日まで無事にあるということは、戦国の奇蹟じゃないか――」
と、石舟斎はよくいった。
なるほど――
聞く者は、彼の達見にみな感服した。足利義昭についていれば信長に討たれたろうし、信長に従っていれば秀吉との間はどうなったか知れず、秀吉の恩顧をうけていれば、当然、その後の関ヶ原には、家康にしてやられている。
また、その興亡の波を、うまく切りぬけて、無事に家系を支えようとするには、恥も外聞もなく、きょうは彼の味方と見せて、明日は彼を裏切り、節操なく、意地もなく、或る場合には、一族や血縁にすら、弓も引こう血も見よう、というくらいな武士道以外なつよさも持たなければ不可能なのである。
「わしには、それが出来ん」
と、石舟斎がいうのは、ほんとうであろう。
そこで、彼が居間には、
だが、この老子的な達人も、家康が礼を厚うして招くに至ると、
(懇招、黙し難し――)
と呟いて、何十年間の道境三昧の廬を出て、京都紫竹村の鷹ヶ峰の陣屋で、初めて、大御所に謁したのであった。
その時、つれて行ったのが、五男又右衛門宗矩、その年二十四歳、孫の新次郎利厳が、まだ十六歳の前髪。
こう二人の鳳雛の手をつれて、家康に謁した。そして、旧領三千石安堵の墨付と共に、
「以後、徳川家の兵法所へ仕えるように」
と、家康がいうと、
「何とぞ、せがれ宗矩を」
と、子を推挙して、自分はまた、柳生谷の山荘へ退き籠ってしまった。そして子の又右衛門宗矩が、将軍家指南番として、江戸表へ出ることになった折に、この老龍が授けたものは、いわゆる技や力の剣術ではなく、
(世を治むるの兵法)
であった。
彼の「世を治むるの兵法」は、また彼の「身を修むるの兵法」でもあった。
石舟斎はそれを、
「これ皆、師の御恩」
と常にいって、ひたすら上泉伊勢守信綱の徳を忘れなかった。
「伊勢殿こそ柳生家の護り神ぞや」
口ぐせに、彼のいうとおり、彼の居間の棚には、常に、伊勢守から受けた新陰流の印可と、四巻の古目録とが奉じてあり、忌日には、膳を供えて祠ることも忘れなかった。
その四巻の古目録というのは、一名絵目録ともいって、上泉伊勢守が自筆で、新陰流の秘し太刀を、絵と文章で書いたものであった。
時折、石舟斎は、老後になっても、それを繰りひろげて、偲ぶのであった。
「絵も妙手でおわした」
いつもふしぎに衝たれるのが、その絵であった。天文時代の風俗をすがたに持った人物と人物とが、颯爽と、あらゆる太刀の形を取って、白刃の斬合をしている図――それをながめていると、神韻縹渺として、山荘の軒に、霧の迫ってくる心地がするのである。
伊勢守が、この小柳生城へ訪ねて来たのは、石舟斎がまだ兵馬の野心勃々としていた三十七、八歳のころだった。
そのころ、上泉伊勢守は、甥の疋田文五郎という者と、老弟の鈴木意伯をつれ、諸国の兵法家を求めて遊歴していたもので、それがふと伊勢の太の御所といわれる北畠具教の紹介で、宝蔵院に見え、宝蔵院の覚禅房胤栄は、小柳生城に出入りしていたので、「こんな男が来たが」
と、石舟斎――その頃は、まだ柳生宗厳と称っていた彼へ話した。
それが、機縁だった。
伊勢守と宗厳は、三日にわたって、試合をした。
第一日、起ち合うと、
「とりますぞ」
伊勢守は、打つ所を明言しておいて、言葉のとおり打ちこんだ。
第二日も、同じように敗けた。
宗厳は、自尊を傷つけられた、次の日は工夫を凝らし、精神を潜めて、体の形も変えた。
すると伊勢守は、
「それは悪い、それでは、こう取る」
といって、忽ち、前の二日と同じように、指摘した所へ太刀を与えた。
宗厳は、我執の太刀をすてて、
「初めて、兵法を観た」
といった。
それから半歳の間、強って、伊勢守を小柳生城にひきとめて、一心に教わった。
伊勢守は、永くはと、袂を分つ折に、
「まだまだ私の兵法などは未完成なものです。あなたは若い、私の未完成を完成してみるがよい」
こういって、一つの公案を授けて行った。その公案――問題というのは、
無刀の太刀如何?
という工夫であった。
宗厳は、以来数年間、無刀の理法を考えつめた。寝食をわすれて、研鑽した。
後、伊勢守がふたたび彼を訪れた時には、彼の眉は明るかった。
「いかがあろうか」
と、試合うと、
「む!」
伊勢守は、一目見て、
「もうあなたと太刀打はむだなことである。あなたは、真理をつかまれた」
そういって、印可、絵目録四巻を残して去った。
柳生流は、ここから誕生し、また、石舟斎宗厳の晩年の韜晦も、この兵法が生んだところの一流の処世術であったのである。
今、彼の住んでいる山荘は、もちろん小柳生城の中ではあるが、砦作りの頑丈な建築は、石舟斎の老後の心境にはぴったりしないので、べつに、簡素な一草庵を建て、入口もべつにして、まったく一箇の山中人の生活に余生を楽しんでいる。
「お通、どうじゃの、わしが挿けた花は生きておろうが」
伊賀の壺に、一輪の芍薬を投げ入れて、石舟斎は、自分の挿けた花に見惚れていた。
「ほんに……」
と、お通はうしろから拝見している。
「大殿さまは、よほど茶道もお花もお習いになったのでしょう」
「うそを申せ、わしは公卿じゃなし、挿花や香道の師についたことはない」
「でも、そう見えますもの」
「なんの、挿花を生けるのも、わしは剣道で生けるのじゃ」
「ま」
彼女は、驚いた目をして、
「剣道で挿花が生けられましょうか」
「生かるとも。花を生けるにも、気で生ける。指の先で曲げたり、花の首を縊めたりはせんのじゃ。野に咲くすがたを持って来て、こう気をもって水へ投げ入れる。――だからまずこの通り、花は死んでいない」
この人のそばにいてから、お通はいろいろなことを教えられた気がする。
――ほんの道ばたで知り合ったというだけの縁で、この柳生家の用人である庄田喜左衛門に、無聊な大殿へ、笛の一曲をと望まれて従いて来たのであったが――
その笛が、ひどく、石舟斎の気に入ったものか、また、この山荘にも、お通のような若い女のやわらかさが一点はあって欲しいと思われたのか、お通が、
「お暇を」
といい出しても、
「まあ、もう少しおれ」
とか、
「わしが茶を教えてやる」
とか、
「和歌をやるか。では、わしにもすこし古今調を手ほどきしてくれい。万葉もよいが、いっそこう侘びた草庵の主になってみると、やはり山家集あたりの淡々としたところがよいの」
などといって、離したがらないし、お通もまた、
「大殿さまには、かようなお頭巾がよかろうと思って縫ってみました。おつむりへお用い遊ばしますか」
武骨な男の家来たちには、気のつかない細やかさを尽すので、
「ほう、これはよい」
その頭巾をかぶり、またとない者のように、お通を可愛がるのであった。
月の夜にはよく、彼女がそこでお聴きに入れる笛の音が、小柳生城の表のほうまで聞えて来た。
庄田喜左衛門は、
「飛んだお気に入って――」
と自分までが、拾い物をしたように、欣しく思っていた。
喜左衛門は今、城下から戻って来て、古い砦の奥の林を抜け、大殿の静かな山荘をそっとのぞいた。
「お通どの」
「はい」
柴折を開けて、
「まあ、これは。……さあどうぞ」
「大殿は」
「御書見でいらっしゃいます」
「ちょっと、お取次ぎ下さい。――喜左衛門、ただ今、お使いから戻りましたと」
「ホホホ。庄田様、それはあべこべでございます」
「なぜ」
「わたくしは、外から呼ばれて参っている笛吹きの女、あなたは柳生家の御用人さま」
「なるほど」
喜左衛門も、おかしくなったが、
「しかしここは、大殿だけのお住居、そなたはべつなお扱いじゃ――とにかくお取次を」
「はい」
と、奥へ行ってすぐ、
「どうぞ」
と、迎え直す。
お通の縫った頭巾をかぶって、石舟斎は茶室に坐っていた。
「行って来たか」
「仰せのように致して参りました。ていねいに、お言葉を伝え、お表からとして、菓子を持参いたしました」
「もう立ったか」
「ところが、てまえがお城へ戻るとまた、すぐ追いかけて、旅籠の綿屋から書面を持たせてよこし、折角の途上、曲げても、小柳生城の道場を拝見して参りたいから、明日はぜひとも、城内へお訪ねする。また、石舟斎様にも親しくお目にかかって、ごあいさつしたいというのでござります」
「小せがれめ」
石舟斎は舌打ちして、
「うるさいの」
不興な顔をした。
「宗矩は江戸、利厳は熊本、そのほか皆不在と、よくいったのか」
「申しましたのです」
「こちらから、鄭重に断りの使者までつかわしたに、押しつけがましゅう、強って訪ねてくるとは、嫌な奴だ」
「なんとも……」
「うわさの通り吉岡の伜どもは、あまり出来がよくないとみえる」
「綿屋で会いました。あそこに、伊勢詣りの戻りとかで滞在中の伝七郎という人、やはり人品がおもしろうございませぬ」
「そうじゃろう、吉岡も先代の拳法という人間は相当なものだった。伊勢殿とともに、入洛の折は、二、三度会うて、酒など酌み交わしたこともある。――が、近ごろはとんと零落の様子、その息子とあるがゆえに、見くびって、門前ばらいも済まぬ、というて、気負うている若い小せがれに、試合を挑まれて、柳生家が叩いて帰しても始まらぬ」
「伝七郎とかいう者、なかなか自信があるらしゅうございます。強って、来るというのですから、私でも、あしらってつかわしましょうか」
「いや、止せ止せ。名家の子というものは、自尊心がつよくて、ひがみやすい。打ち叩いて帰したら、ろくなことをいい触らしはせん。わしなどは、超然じゃが、宗矩や利厳のためにならぬ」
「では如何いたしましょうか」
「やはり、ものやわらかに、名家の子らしゅう扱って、あやして帰すに如くはない。……そうじゃ、男どもの使者ではかどが立つ」
お通のすがたを振向いて、
「使いには、そなたがよいな、女がよい」
「はい、行って参りましょう」
「いや、すぐには及ぶまい。……明朝でいい」
石舟斎は、さらさらと茶人らしい簡単な手紙を書き、それを、先刻、壺へ挿けた芍薬の残りの一枝へ、結び文にして、
「これを持って、石舟斎事、ちと風邪心地のため、代ってお答えに参りましたと、小せがれの挨拶をうけて来い」
なお石舟斎から、使いの口上を授かって、お通は、次の日の朝、
「では、行って参ります」
被衣して、山荘を出た。
外曲輪の厩をのぞき、
「あの……お馬を一頭お借りして参ります」
そこらを掃除していた厩方の小者が、
「おや、お通さん。――どちらまで?」
「お城下の綿屋という旅籠まで、大殿のお使者に参ります」
「では、お供いたしましょう」
「それには及びませぬ」
「だいじょうぶで?」
「馬は好きです。田舎にいた頃から、野馬に馴れておりますから」
褪紅色の被衣が、駒のうえに自然な姿で揺られて行った。
被衣は、都会ではもう旧い服装として、上流のあいだでも廃っていたが、地方の土豪や中流の女子にはまだ好ましがられていた。
ほころびかけた白芍薬の一枝に石舟斎の手紙が結んである、それを持って、片手で軽く手綱をさばいてゆく彼女のすがたを見ると、
「お通様がとおる」
「あの人がお通様か」
と、畑の者は見送っていた。
わずかな間に、彼女の名が、畑の者にまでこう知れ渡っているわけは、畑の者と石舟斎とが、百姓と領主というような窮屈な関係でなく、非常に親しみぶかい間がらにあるので、その大殿のそばに近ごろ、笛をよくする美しい女が侍いているということから、彼らの石舟斎に対する尊敬と親密が、従って、彼女にまで及ぼしている実証であった。
半里ほど来て、
「綿屋という旅籠は?」
駒の上から、農家の女房に聞くと、その女房がまた、子供を背負って、流れで鍋の尻を洗っていたのに、
「綿屋へ行かっしゃれますか。わしが、ご案内いたしますべ」
用をすてて、先へ駈けるので、
「もし、わざわざ来て下さらなくても、およそ口で仰っしゃって下さればようございますのに」
「なに、すぐそこだがな」
そのすぐそこが十町もあった。
「此家だがな、綿屋さんは」
「ありがとう」
降りて、軒先の樹に、駒をつないでいると、
「いらっしゃいまし。お泊りですか」
と、小茶ちゃんが出てくる。
「いいえ、こちらに泊っている吉岡伝七郎様を訪ねて来たのです。――石舟斎様のお使いで」
小茶ちゃんは駈けこんで、やがて戻って来ると、
「どうぞ、お上がり下さい」
折から今朝宿を立つので騒々とそこで草鞋を穿いたり、荷を肩にしていた旅人たちは、
「何家の?」
「誰のお客」
小茶ちゃんに尾いて奥へ通ってゆく彼女の鄙に稀れな眉目と、どことなく、
たけているとでもいうか、品のあるすがたに、眼と囁きを送っていた。
ゆうべ遅くまで飲んで、今し方やっと起き出した所の吉岡伝七郎とその連れの者は、小柳生城からの使いと聞き、またきのうの熊みたいな顎髯の持主かと期していると、思いのほかな使者と、その使者の携えている白芍薬の枝を見て、
「や、これは。……こんな取り散らかしている所へ」
と、ひどく恐縮顔をして、部屋の殺風景へ気をつかうばかりでなく、自分たちの衣紋や膝も、遽に改めて、
「さ、こちらへ、こちらへ」
「小柳生の大殿から、申しつかって来た者でござりますが」
お通は、芍薬の一枝を、伝七郎のまえにさし置いて、
「おひらき下さいませ」
「ほ。……このお文」
伝七郎は解いて、
「拝見いたす」
一尺にも足らない手紙である。茶の味とでもいおうか、さらさらと墨も淡く、
つまらなそうに鼻を鳴らし、手紙を巻いて、
「これだけでござるか」
「それから――かように大殿のおことばでございました。せめて、粗茶の一ぷくなりとさし上げたいのですが、家中武骨者ぞろいで、心ききたる者はいず、折わるく子息宗矩も、江戸表へ出府の折、粗略あっては、都の方々へ、かえってお笑いのたね、また失礼。いずれまたのおついでの節にはと――」
「ははあ」
不審顔を作って、
「仰せによると、石舟斎どのは、何か、吾々が茶事のお手前でも所望したように受り取っておられるらしいが、それがしどもは、武門の子、茶事などは解さんのでござる。お望み申したのは、石舟斎どののご健存を見、ついでに御指南を願ったつもりであるが」
「よう、ご承知でいらっしゃいます。したが、近頃は、風月を友にして、余生をお送りあそばしているお体、何かにつけ、茶事に託してものを仰っしゃるのが癖なのでございまする」
「ぜひがない」
と、苦々しく、
「では、いずれまた、再遊のせつには、ぜひともお目にかかると、お伝えください」
と伝七郎が、芍薬の枝をつきもどすと、お通は、
「あの、これは、道中のお慰みに、お駕なれば駕の端へ、馬なれば鞍のどこぞへでも挿して、お持ち帰り下さるようにと、大殿のおことばでございましたが」
「なに、これを土産にだと」
眼を落して、辱められでもしたように、憤っと色をなして、
「ば、ばかな。芍薬は京にも咲いているといってくれい」
――そう断られる物を、強いて、押しつけてゆくわけにもゆかないので、お通は、
「では帰りました上、そのように、……」
芍薬を持ち、腫れ物の膏薬を剥ぐように、そっとあいさつして、廊下へ出た。
よほど不快だったとみえ、送って来る者もない。お通は、それを背に感じて、廊下へ出ると、くすりと笑った。
同じ廊下の幾間かを隔てた先の一室には、もうこの土地へ来て十日余りになる武蔵が泊っていたのである。彼女が、その黒光りに艶の出ている廊下を横に見て、反対に表のほうへ出て行こうとすると、ふと、武蔵の部屋から、誰か起って、廊下へ出て来た。
ばたばたと追いかけて来て、
「もうお帰りですか」
お通が、振り顧ってみると、上がる時にも、案内に立った小茶ちゃんである。
「え。御用がすみましたから」
「早いんですね」
世辞をいって――彼女の手をのぞいて、
「この芍薬、白い花が咲くんですか」
「そうです、お城の白芍薬ですの、ほしいならば上げましょうか」
「下さい」
と手を出す。
その手へ、芍薬をのせて、
「左様なら」
彼女は、軒先から駒の背に乗って、ひらりと、被衣にすがたを包んだ。
「またいらっしゃいませ」
小茶ちゃんは見送ってから、旅籠の雇人たちに、白芍薬を見せびらかしたが、誰も、よい花だとも美しいともいってくれないので、やや失望しながら、武蔵の部屋へ持って来て、
「旦那はん、花お好き」
「花」
窓に頬づえをついて、彼は、小柳生城のほうを今も見つめていたのである。
(――どうしたらあの大身に接近できるか。どうしたら石舟斎に会えるか。また、どうしたら剣聖といわれるあの老龍に一撃与えることができるか)
を、遠心的な眼が、じっと考えつめていた。
「……ほ、よい花だな」
「好き」
「好きだ」
「芍薬ですって。――白い芍薬」
「ちょうどよい。そこの壺に挿しておくれ」
「あたいには挿せない。旦那はん挿して」
「いや、おまえがいいのだ。無心が却っていい」
「じゃあ、水を入れてくる」
小茶ちゃんは、壺をかかえて出て行った。
武蔵はふとそこへ置いて行った芍薬の枝の切り口に眼をとめて、小首をかしげた。何が彼の注意をひいたのか、じっと見ていた果てには手をのばし、それを寄せ、その花を見るのではなく、枝の切り口を飽かずに見ている。
「……あら、……あら、あら」
自分でこぼして歩く壺の水に、こう声をかけながら、小茶ちゃんは戻って来て、壺を床の間に置き、無造作に、それへ芍薬を入れてみたが、
「だめだア、旦那はん」
子ども心にも、不自然をさけぶ。
「なるほど、枝が長すぎるな。よし、持ってこい、ちょうどよく切ってやるから」
小茶ちゃんが抜いてくると、
「切ってあげるから、壺へ立てて、そうそう地に咲いているように、立てて持っておいで」
いわれる通り、小茶ちゃんは持っていたが突然、きゃッといって、芍薬を抛り捨て、脅えたように泣きだした。
無理のないことであった。
やさしい花の枝を切るのに武蔵の切り方は余り大げさであった。――それは眼に見えないほど早かったにせよ、いきなり前差の小刀へ手をかけたと思うと、ヤッ――とするどい声と、そして、刀をパチンとその鞘へ納める音と殆ど一緒に白い光が、小茶ちゃんの持っていた手と手のあいだを、通りぬけていたのである。
びっくりして彼女が泣き出しているというのに、武蔵は、それを宥めようとはせず、自分のした切り口と元の切り口と、二つの枝を両手に取って、
「ウーム……」
じっと、見くらべているのだった。
ややあって、武蔵は、
「ア、済まない、済まない」
泣きじゃくっている小茶ちゃんの頭を撫で、心をくだいて、謝ったり、機嫌をとったりして、
「この花は、誰が切って来たのか知らないか」
「もらったの」
「誰に」
「お城の人に」
「小柳生城の家中か」
「いいえ女の人」
「ふウム。……では城内に咲いていた花だの」
「そうだろ」
「悪かった、後でおじさんが菓子を買おう、今度はちょうどよい筈だから、壺へ挿してごらん」
「こう?」
「そうそう、それでよい」
おもしろいおじさんと馴ついていた武蔵が、小茶ちゃんは、刀の光を見てから、急に怖くなったらしい。それがすむとすぐ、部屋に見えなくなった。
武蔵は、床に微笑している芍薬の花よりも、膝の前に落ちている枝の根元七寸程の切れ端へ、まだ眼も心も奪われていた。
その元の切り口は、鋏で剪ったのでもないし、小刀とも思われない。幹は柔軟な芍薬のそれではあるが、やはり相当な腰の刀を用いて切ってあるものと武蔵は見たのである。
それも、生やさしい切り方ではないのだ。わずかな木口であるが切り人の非凡な手の冴えが光っている。
試みに、武蔵は、自分もそれに倣って腰の刀で切って見たのであるが、こう較べて、細やかに見ると、やはり違っている。どこがどうと指摘できないが、自分の切り口には、遥かに劣るものを正直に感じるのだった。――たとえば一個の仏像を彫るのに、同じ一刀を用いても、その一刀の痕には、明らかに、名匠と凡工の鑿のちがいが分るように。
「はてな?」
彼は、独り思う。
「城内の庭廻りの侍にすら、これほどな手腕のものがいるとすると、柳生家の実体は、世間でいう以上なものかも知れない」
そう考えてくると、
「誤っている、自分などはまだ所詮――」
と、謙遜った気持にもなるし、またその気持を乗りこえたものが、
「相手にとって不足のないものだ。敗れた時は、いさぎよく、彼の足もとへ降伏するまでだ。――だが、何ほどのことがあろう、死を期してかかるからには」
闘志を駆って、こう坐っているうちにも、全身が熱くなって来る。若い功名心が、脈々と、肋骨のうちに張りつめる。
――が、手段だ。
所詮、武者修行のお方には、石舟斎様は、お会いなされますまい。誰のご紹介をお持ちになろうと、お会いになる気づかいはありません――とは、この旅宿の主もいったことばである。
宗矩は不在、孫の兵庫利厳も遠国。――どうしても、柳生を打ってこの土地を通ろうというのには、石舟斎を目がけるほかはない。
「何かよい方法は?」
またそこへ考えが戻ってくると、彼の血のうちを駆けていた野性と征服慾は、やや落ちついたものへ返って、眼は、床の間の清純な白い花へ移っていた。
「…………」
何気なく見ているうちに、彼はふと、この花に似ている誰かを思い出していた。
――お通。
が久しぶりに、彼の、荒々しくのみ働いている神経と粗朴な生活の中に、彼女のやさしい面貌が浮かんできた。
小柳生城のほうへ、お通が、駒のひづめを軽そうに引っ返して行くと、
「やア――い」
雑木の茂っている崖の下から、誰か、こう自分へ向っていうらしい者がある。
「子ども」
とは、すぐ分っていたが、この土地の子どもは、なかなか若い女を見てからかうような勇気のある子はいない。――誰かと、駒を止めていると、
「笛吹きのお姉さん、まだいるの?」
真ッ裸な男の子だった。濡れた髪をして、着物は丸めて小脇にかかえ込んでいる。それが、臍もあらわに、崖から飛び上がって来て、
(馬になんか乗ってやがる)
と、軽蔑するような眼で、お通を仰ぐのだった。
「あら」
お通には、不意打だった。
「誰かと思ったら、おまえはいつか、大和街道でベソを掻いていた城太郎という子でしたね」
「ベソ掻いて? ――嘘ばっかりいってら、おら、あの時だって、泣いてなんかいやしねえぜ」
「それはとにかく、いつここへ来たの」
「この間うち」
「誰と」
「お師匠様とさ」
「そうそう、おまえは、剣術つかいのお弟子さんでしたね。――それが今日はどうしたの、裸になって」
「この下の渓流で、泳いで来たんだ」
「ま。……まだ水が冷たいだろうに、泳ぐなんて、人が見ると笑いますよ」
「行水だよ。お師匠様が、汗くさいっていうから、お風呂のかわりに入って来たのさ」
「ホホホ。宿は」
「綿屋」
「綿屋なら、たった今、私も行って来た家ですね」
「そうかい。じゃあ、おらの部屋へ来て、遊んでゆけばよかったな、もどらないか」
「お使いに来たのですから」
「じゃあ、あばよ」
お通はふり顧って、
「城太郎さん、お城へ遊びにおいで――」
「行ってもいいかい」
彼女は、愛嬌につい投げたことばに、ちょっと、自分で困りながら、
「いいけど、そんなかっこうじゃ駄目ですよ」
「じゃ嫌だよ。そんな窮屈なところへなんか、行ってやるもんか」
それで助かったような気がしてお通はほほ笑みながら、城内へ入った。
厩へ馬をもどし、石舟斎の草庵へ帰って、使い先のもようを話すと、
「そうか、怒ったか」
石舟斎は笑って、
「それでいい。怒っても、つかまえどころがあるまいからそれでいい」
といった。
しばらく経って、何かほかの話の折に思い出したのであろう。
「芍薬は、捨てて来たか」
と訊いた。
旅宿の小女に与えて来たというと、その処置にもうなずいて、
「だが、吉岡のせがれ伝七郎とかいう者、あの芍薬を、手には取って見たろうな」
「はい、お文を解く時」
「そして」
「そのまま突き戻しました」
「枝の切り口は見なかったか」
「べつに……」
「何も、そこに眼をとめて、いわなかったか」
「申しませんでした」
石舟斎は、壁へいうように、
「やはり会わんでよかった。会って見るまでもない人物。吉岡も、まず拳法一代じゃ」
荘厳といっていいほどな道場である、外曲輪の一部で、床も天井も、石舟斎が四十歳頃に建て直したという巨材だ。ここで研磨した人々の履歴を語るように、年月の古びと艶を出していて、戦時には、そのまま武者溜りとして使えるように広くもあった。
「軽いっ――太刀先ではないっ――肚っ、肚っ肚っ!」
襦袢一着に、袴をつけ、用人の庄田喜左衛門は、一段高い床に腰をかけて、呶鳴っていた。
「出直せっ、成っていない」
叱られているのは、やはり柳生家の家士であった。汗で眼まいのしている顔を、
「アふっ……」
振りうごかしながら、
「えやあっ!」
すぐ火と火のように打ち合っているのだった。
ここでは、初心に木剣を持たせなかった。上泉伊勢守の門で考案したという韜という物を使っている。革のふくろに割竹をつつみこんだ物である。鍔はない、革の棒だ。
――ぴしいッっ。
撲ることの烈しい場合は、それでも、耳が飛んだり、鼻が柘榴になったりする。敢えて、打ちどころに約束はないのである。横ざまに、諸足を撲ってぶっ仆してもいいのだ。仆れて仰向いた顔へ、さらに二撃を加えてもべつだん法に反いたことにはならない。
「まだ! まだ! そんなことで」
ヘナヘナになるまでやらせておく。初心ほどわざと冷酷にあつかう。ことばでも罵る。たいがいな家士は、これがあるので柳生家の奉公はなみなことではないといっている。新参などで続く者は稀れである。従って、ふるいにかけられた人のみが、家中なのだ。
足軽や厩者でも、柳生家の家人である者は、多少なり刀術の心得のない者はない。庄田喜左衛門は、役目は用人であるが、すでに早く新陰流に達し、石舟斎が研鑽して、家の流というところの柳生流の奥秘も会得していた。――そして、彼は彼で、自分の個性と工夫を加えて、
(おれのは、庄田真流である)
と、称していた。木村助九郎は、馬廻りであったが、これも上手だった。村田与三は、納戸役であるが、しかし、今は肥後へ行っている柳生家の嫡孫兵庫とは、好敵手だといわれた者である。出淵孫兵衛もここの一役人に過ぎないが子飼いからの者で、従って、豪壮な剣をつかう男だ。
(わしの藩へくれい)
と、その出淵は越前侯から、村田与三は、紀州家から、懇望されているくらいだった。
出来ると、世間に聞えると、諸国の大名から、
(あの男をくれぬか)
と、聟のように持ってゆかれるので、柳生家は、誉れであったが、困りもする。断ると、
(そちらでは、よい雛鳥がいくらでも後から孵るのだから)
などという。
時代の剣士は、今この古い砦の武者溜りから、無限に湧いて出るような家運であった。この家運のもとに奉公する侍が、韜と木剣で、たたきに叩き抜かれなければ一人前になれないことは、また当然な家憲でもあった。
「――なんじゃっ、番士」
ふいに、庄田が立って戸外の人影へいった。
番士のうしろには、城太郎が立っていた。庄田は、
「おや?」
と、眼をみはった。
「おじさん、今日は――」
「こら、なんで貴さま、お城へなど入って来たか」
「門にいた人に連れて来てもらったんだ」
城太郎の答えに無理はない。
「なるほど」
庄田喜左衛門は、彼を連れて来た大手門の番士に、
「なんだ、この小僧は」
「あなた様にお目にかかりたいと申すので」
「こんな小僧のことばを取り上げて、御城内へ連れて来てはいかん。――小僧」
「はい」
「ここはお前たちの遊びに来る場所ではない。帰れ」
「遊びに来たんじゃない。お師匠様の手紙をもって、使いに来たんだ」
「お師匠様の……。ははあ、そうか。おまえの主人は、武者修行だったな」
「見てください、この手紙」
「読まんでもいい」
「おじさん、字が読めないのかい?」
「なに」
苦笑して――
「ばかをいえ」
「じゃあ、読んだらいいじゃないか」
「こいつ、喰えん小僧だ。読まんでもいいというのは、たいがい、読まなくとも分っているという意味だ」
「わかっているにしても、一応は読むのが礼儀じゃないか」
「孑孑や蛆ほど多い武者修行に、いちいち礼儀を執っていられないことは許してくれ。この柳生家で、それをやっていたら吾々は毎日、武者修行のために奉公していなければならないことになる。――そういっては、せっかく使いに来たおまえに可哀そうだが、この手紙も、ぜひ一度、鳳城の道場を拝見させていただきたい、そして、天下様御師範のお太刀の影なりともよろしいから、同じ道に志す後輩のために、一手の御授業を賜わりたい……。まあ、そんなところだろうなあ」
城太郎は、まるい眼を、ぐるりと動かして、
「おじさん、まるで中を読んでるようなことをいうね」
「だから見たも同じだといっておるじゃないか。ただし、柳生家においても、何もそう訪ねてくる者を、素ッ気なく追い返すというわけではない」
噛んでふくめるように、
「――その番士に、教えてもらうがいい。御当家を訪れた一般の武者修行は、大手を通って、中門の右を仰ぐと、そこに、新陰堂と木額のかかっている建物がある。そこの取次の者へ申し入れると、休息も自由、また、一夜や二夜は泊めてあげる設備も出来ている。そして、世の後進のために、わずかながら、出立の折には、笠の代として、一封ずつの金を喜捨することにもなっている。だから、この手紙は、新陰堂の役人のほうへ持ってゆくがよろしい」
そう諭して、
「わかったか」
すると、城太郎は、
「わからない」
と、首を振って右の肩をすこし昂げ、
「おい、おじさん」
「なんじゃ」
「人を見てものをいいなよ。おれは、乞食の弟子じゃないぜ」
「ふム。貴さま……、ちょっと口がきけるの」
「もし、手紙を開けて見て、おじさんがいったことと、書いてある用向きと、まるで、違っていたらどうする?」
「むむ……」
「首をくれるかい」
「待て待て」
栗のイガを割ったように、喜左衛門は顎髯の間から、赤い口を見せて、笑ってしまった。
「首はやれん」
「じゃあ、手紙を見ておくれよ」
「小僧」
「なんだい」
「貴さまが、師の使命を恥かしめぬ心にめでて、見てつかわす」
「あたりまえだろ。おじさんは柳生家の用人じゃないか」
「舌は、絶倫だな。剣もそんなになればすばらしいが……」
いいながら封を切って、武蔵の手紙を黙読していたが、読み終ると、庄田喜左衛門は、ちょっと、怖い顔つきをした。
「城太郎。――この手紙のほかに、何か持って来たか」
「あ、忘れていた、これを」
ふところから、無造作に出したのである。それは、七寸ばかりの芍薬の切枝だった。
「…………」
黙然と、喜左衛門は、その両方の切り口を見くらべていたが、しきりと、小首をかしげるのみで、武蔵の書中にあることばの意味が、十分に、彼には解せないらしいのである。
武蔵の書面には、計らずも、宿の少女から芍薬の一枝をもらったこと。それが御城内のものであるということ。――次に、切り口を見て非凡なお方の切ったものと拝察したということ。
そう次第を書いて来て、
(花を挿け、その神韻を感じるにつけ、どなたがあれをお切りになったか、どうしても知りたい気がする。甚だ、つかぬことをお訊ね申すようであるが、御家中の誰方であるや、おさしつかえなくば、使いの童に、一筆お持たせねがいたい)
自分が、武者修行の者とも書いてない。試合の希望もいっていない。それだけの文意であった。
(ふしぎなことをいってくる)
喜左衛門は、そう思って、一体どう切り口が違っているかを、まず審さな眼で検めてみたが、どっちがどう先に切ってあるのか、どこに相違があるのか、見出せないのだ。
「村田」
その手紙と、切枝とを、彼は道場の内へ持って入って、
「これを見ろ」
と示した。そして、
「一体、この枝の両端の切り口が、どっちがそんな達人の切ったもので、また、どっちが、より劣った切り口になっているか、貴公の眼で鑑わけがつくか」
村田与三は、睨むように、かわるがわる見ていたが、
「わからぬ」
吐き出すようにいった。
「木村に見せてみよう」
奥へ入って、お役部屋をのぞいてゆき、木村助九郎を見つけて同じように意見を訊くと、木村も、
「さてなあ」
不審とするばかりだった。
だが、いあわせた出淵孫兵衛のことばによると、
「これは一昨日、大殿が手ずからお切りになったものだ。――庄田殿は、その折おそばにいたはずではないか」
「いや、花をお挿けになっているのは見たが」
「その時の一枝だ。――それをお通が、殿のいいつけで、吉岡伝七郎の許へ、お文を結びつけて携えて行ったもの」
「オ。あれかな?」
喜左衛門はそういわれて、もいちど、武蔵の手紙を読み直した。こんどは、愕然と眼を革めて、
「御両所、ここには、新免武蔵と署名しあるが、武蔵といえば、先頃、宝蔵院衆と共に般若野で多くの無頼者を斬ったという――あの宮本武蔵とは別人だろうか」
――武蔵とあれば、多分、そうだろう、あの武蔵にちがいあるまい。
出淵孫兵衛も、村田与三も、そういって、手から手へ、再度、手紙を渡して読み直しながら、
「文字にも、気稟がみえる」
「人物らしいな」
と、呟いた。
庄田喜左衛門は、
「もし、この手紙にある通り、ほんとに、芍薬の枝の切り口を一見して、非凡と感じたのなら、これはおれたちより少し出来る。――大殿が手ずから切ったものだから、或は、まったく鑑る者が鑑れば違っているのかも知れないからな」
「むム……」
出淵は、ふいに、
「会ってみたいものだな。――それも一つ糺してみようし、また、般若野のことなども、訊いてみるもよかろう」
喜左衛門は思い出して、
「使いに来た小僧が、待っておるのだ。――呼んでみるかの」
「どうじゃ」
独断ではというように出淵孫兵衛は、木村助九郎に計ってみる。助九郎がいうには、今はすべての武者修行に授業を断っている折だから道場の客としては迎えられない。しかしちょうど、中門の上の新陰堂の池の畔には、燕子花がさいているし、山つつじの花もぼつぼつ紅くなっている。そこに、酒でも設けて、一夕、剣談を交わそうとあれば、彼もよろこんで来るであろうし、大殿の耳へ入っても、それならばお咎めはなかろうではないか。
喜左衛門は、膝を打って、
「それはよいお考えだ」
村田与三も、
「自分たちに取っても一興、さっそく、そう返事をやろうではないか」
と、話は決まる。
――戸外では、城太郎、
「アアア……遅いなあ」
欠伸をしていたが、やがて、彼のすがたを嗅いで、のっそり寄って来た大きな黒犬を見ると、こいつよい友達と、
「やい」
耳をつかんで引き寄せ、
「すもうを取ろう」
抱きついて、引っくり転した。
よく自由になるので、二、三度手玉にとって抛ったり、上顎と下顎を手で抑えて、
「わんといえ」
そのうちに、何か、犬の癇に触ったことがあるとみえ、いきなり城太郎のすそへ噛みついて、犢のように唸りだした。
「こいつ、おれを誰だと思う」
木刀に手をかけて、彼が見得を切ると、犬は、喉を太くして、猛然と、小柳生城の兵を奮い起たすような声で吠えだした。
こつうんッ――
と、木剣が一つ、犬のかたい頭に石を打ったような音をさせると、猛犬は、城太郎の背へかぶりつき帯を咥えて、彼の体を振り飛ばした。
「生意気なっ」
彼の起つより、犬のほうが遥かに迅かった。ギャッと、城太郎は、両手で顔を抑えた。
そして、逃げ出すと、
わ、わ、わ、わんッ
猛犬のほえる谺は、後ろの山を揺るがした。顔を抑えている両手の指のあいだから血がながれて来たので、城太郎は、逃げ転びながら、
「わアん――」
と、これも犬に負けない大声をあげて、泣き出してしまった。
「行って参りました」
帰って来ると、城太郎は取り澄ました顔つきで、武蔵の前にかしこまった。
武蔵は、何げなく彼の顔を見て驚いた。碁盤の目みたいに顔中が傷でバラ掻きになっている。鼻なども、砂の中に落ちた苺みたいに血だらけなのだ。
さぞ鬱陶しいことだろうし、痛くもあろうに、それについては、城太郎がちっとも触れないので、武蔵も何も問わなかった。
「返事をよこしたよ」
庄田喜左衛門の返事をそこへさし出して、ふた言三言、使い先の様子を話していると、顔からぼとぼと血がながれてくる。
「ハイ。それだけです、もうよございますか」
「ご苦労だった」
武蔵が、喜左衛門の返書へ眼を落している間に、彼は、両手で顔を抑えて、あわてて部屋の外へ去った。
小茶ちゃんが、後ろから尾いて来て、心配そうに彼の顔をのぞいた。
「どうしたの、城太郎さん」
「犬にやられたんだ」
「ま、どこの犬」
「お城の――」
「アア、あの黒い紀州犬。あの犬じゃ、いくら城太郎さんでもかなうまいよ。いつかも、お城の中へ忍び込もうとした他国の隠密の者が噛み殺されたというくらいな犬だもの」
いつも虐められているくせに、小茶ちゃんは親切に、彼を導いて、裏の流れで顔を洗わせたり、薬を持って来て付けてやったりするので、今日ばかりは城太郎も悪たれをたたかず、彼女のやさしい親切に甘えて、
「ありがと。ありがと」
くり返して、頭ばかり下げていた。
「城太郎さん、そんなに、男のくせに、安ッぽく頭を下げるものじゃないわ」
「だって」
「喧嘩しても、あたし、ほんとは城太郎さんが好きなんだもの」
「おらだって」
「ほんまに」
城太郎は、膏薬と膏薬のあいだの顔の皮膚を真っ赤にさせた。小茶ちゃんも火みたいな顔をして、その頬ぺたを両手で押えた。
誰もいなかった。
そこらに乾いている馬糞から陽炎が燃えている。そして、緋桃の花が太陽からこぼれて来た。
「でも、城太郎さんの先生は、もうすぐここを立つんだろ」
「まだいるらしいよ」
「一年も二年も泊っているとうれしいんだけど……」
馬糧小屋の馬糧の中へ、二人は仰向けになって転がった。手と手だけは繋いでいた。体が納豆のように蒸れて来ると、城太郎は物狂わしく小茶ちゃんの指へいきなり噛みついた。
「ア痛っ」
「痛かった。ごめん」
「ううん、いいの、もっと噛んで」
「いいかい」
「アア、もっと噛んで、もっと強く噛んで――」
犬ころみたいに、二人は、馬糧を頭からかぶって、喧嘩のように抱き合っていた。どうするでもなく抱擁をもだえ合っていた。すると、小茶ちゃんを探しに来た爺やが、呆れ果てたように眺めていたが、突然、道徳の高い君子のような顔をして、
「この阿呆っ。餓鬼のくせに、何して居さらすっ」
ふたりの襟くびをつかんで引きずり出し、小茶ちゃんのお尻を、二ツ三ツ打った。
その日から翌る日へかけ、二日のあいだというもの、武蔵は何を考えているのか殆ど口もきかずに腕を拱いていた。
沈湎たるその眉を見て、城太郎はひそかに怖れをなした。馬糧小屋の中で小茶ちゃんと遊んだことが分ったのではないかと思って――
ふと、夜半に、目をさまして、そっと首を出して見た時も、武蔵は、夜具の中に眼をあいて、おそろしい程、考えつめた顔つきをして、天井を見つめていた。
「城太郎、帳場の者に、すぐ来てくれと申してこい」
次の日の黄昏れが窓に迫って来た頃である。あわてて城太郎が出てゆくと、入れ代って、綿屋の手代が入って来た。間もなく、勘定書が届けられ、武蔵はその間に、出立の身支度をしているのだった。
「お夕飯は」
と、宿の者が訊きに来ると、
「いらぬ」
という彼の返事。
小茶ちゃんは、ぼんやり部屋の隅に立っていたが、やがて、
「旦那はん、もう、今夜は、此宿へ帰って寝ないの」
「ウム。長い間、小茶ちゃんにもお世話になったな」
小茶ちゃんは、両方の肱を曲げて、顔をかくした。泣いているのである。
――ご機嫌よう。
――どうぞお気をつけて。
綿屋の番頭や女たちは、門口に並んで、この山国をどういうつもりか黄昏れに立つ旅人へ、人里の声を送った。
「? ……」
そこの軒を離れてから後ろを見ると、城太郎が従いて来ないので、武蔵はまた、十歩ほど引っ返して、彼の姿をさがした。
綿屋の横の蔵の下に、城太郎は小茶ちゃんと別れを惜しんでいた。武蔵の影を見たので二人はあわてて側を離れて、
「……左様なら」
「……あばよ」
城太郎は、武蔵のそばへ駈けて来て、武蔵の眼を怖れながら、時々振りかえった。
柳生谷の山市の灯は、すぐ二人の後ろになった。武蔵は相かわらず黙々と足をすすめているだけであった。振り顧っても、もう小茶ちゃんの姿が見えないので、城太郎も悄ンぼりと従いてゆくほかはない。
やがて武蔵から、
「まだか?」
「何処」
「小柳生城の大手門は」
「お城へ行くの」
「うむ」
「今夜はお城で泊るのかい」
「どうなるか、わからんが」
「もうそこだよ、大手門は」
「ここか」
ぴたと、足を揃えて、武蔵は立ちどまった。
苔につつまれた石垣と柵の上に、巨木の林が海のように鳴っていた。そこの真っ暗な多門型の石塀のかげに、ポチと、四角な窓から明りが洩れている。
声をかけると、番士が出て来た。庄田喜左衛門からの書面を見せ、
「お招きによって罷り越した宮本と申す者でござる。――お取次を」
番士は、もう今夜の客を知っていた。取次ぐまでもなく、
「お待ちかねでござる、どうぞ」
と、先に立って、外曲輪の新陰堂へ、客を導いて行った。
ここの新陰堂は、城内に住む子弟たちが儒学を受ける講堂でもあり、また藩の文庫でもあるらしく奥へゆく通路の廊架側には、どの室にも、壁いっぱい書物の棚が見うけられる。
「柳生家といえば、武名だけで鳴っているが、武ばかりではないと見える」
武蔵は、城内を踏んで、柳生家というものの認識に、想像以上な厚味と歴史を感じるのだった。
「さすがに」
事ごとに頷かれるのである。
たとえば、大手からここまでの間の清掃された道を見ても、応対する番士のもの腰でも、本丸のあたりの厳粛なうちにも和やかな光のある燈火をながめても。
それはちょうど、一軒の家を訪れて、その家の上がり口に履物をぬぐとたんに家風と人とがほぼ分るようである。武蔵は、そうした感銘もうけながら、通された広い床へ坐った。
新陰堂には、どの部屋にも、畳というものは敷いてなかった。この部屋も板敷である、そして、客なる彼へは、
「どうぞ、おあてなされ」
と小侍が藁で編んである円座という敷物をすすめた。
「頂戴する」
遠慮なく、武蔵はそれを取って坐った。従僕の城太郎は、勿論、ここまでは通らない。外の供待でひかえている。
小侍がふたたび出て、
「今宵は、ようこそお越し下さいました。木村様、出淵様、村田様みなお待ちかねでございましたが、ただ庄田様のみが、生憎と突然な公用で、ちと遅なわりまするが、やがてすぐ参られますゆえ、暫時お待ちのほどを」
「閑談の客でござる、お気づかいなく」
円座を、隅の柱の下へ移して、武蔵はそこへ倚りかかった。
短檠の明りが、庭先へ届いている。どこかで甘いにおいがするなと思って見ると、藤の花がこぼれているのである。紫もある白藤もある。ふと珍しく思ったのは、ここで初めてまだ片言の今年の蛙の声を聞いたことである。
せんかんとそこらあたりを水が駈けているらしい。泉は床下へも通っているとみえ、落着くに従って、円座の下にもさらさらと流れの音が感じられる。やがては、壁も天井も、そして一穂の短檠の灯までが、水音を立てているのではないかと疑われるほど、武蔵は冷々とした気につつまれた。
だが――その寂寞たる中にあって、彼のからだの裡には、抑えきれないほど沸きあがっているものがあった。熱湯のような争気を持つ血液である。
(柳生が何か)
と隅柱の円座から睥睨しているところの気概である。
(彼も一箇の剣人、われも一箇の剣人。道においては、互角だ)
と思い、また、
(いや今宵は、その互角から一歩を抜いて、柳生を、おれの下風にたたき落してみせる)
彼は信念していた。
「いや、お待たせ申して」
と、その時、庄田喜左衛門の声がした。ほかの三名も同席して、
「ようこそ」
と挨拶の後、
「それがしは、馬廻り役木村助九郎」
「拙者は、納戸方村田与三」
「出淵孫兵衛でござる」
と順々に名乗り合った。
酒が出る。
古風な高坏に、とろりと粘るような手造りの地酒。肴は、めいめいの前の木皿へ取り分けられてある。
「お客殿、こんな山家のことゆえ、何もないのです。ただ、寛いでどうぞ」
「ささ、遠慮なく」
「お膝を」
四名の主人側は、一人の客に対して飽くまでいんぎんであって、また飽くまで打ち解けて見せる。
武蔵は酒はたしなまない。嫌いなのではなく、まだ酒の味というものが分らないのである。
しかし、今夜は、
「頂戴する」
めずらしく杯を取って舐めてみた。まずいとは思わないが、格別にも感じない。
「おつよいと見える」
木村助九郎が、瓶子を向ける。席が隣なのでぽつぽつ話しかけるのであった。
「貴君から先日お訊ねのあった芍薬の枝ですな。あれは実は、当家の大殿がお手ずから切ったものだそうです」
「道理で、お見事なわけ」
と、武蔵は膝を打った。
「――しかしですな」
と、助九郎は膝をすすめ、
「どうして、あんな柔軟な細枝の切り口を見て、非凡な切り手ということが貴君には分りましたか。そのほうが、吾々には、むしろ怪訝しいのですが」
「…………」
武蔵は、小首をかしげて、答えに窮するもののように黙っていたが、やがて、
「左様でござろうか」と、反問した。
「そうですとも」
庄田、出淵、村田の三名も、異口同音に、
「吾々には、分らない。……やはり非凡は非凡を識るというものか。そこのところを、後学のために、こよいは一つ説明していただきたいと思うのですが」
武蔵は、また一つ杯をふくみ、
「恐縮です」
「いや、ご謙遜なさらずに」
「謙遜ではござらぬ。有り態に申して、ただ、そう感じたというだけに過ぎませぬ」
「その感じとは?」
柳生家の四高弟は、ここを追及して、武蔵の人間を試そうとするもののようであった。最初、一瞥したとたんに、四高弟はまず、武蔵の若年なのをちょっと意外としたらしい。次には、その逞しい骨格に目がついた。眼ざしや身ごなしにも弛みがないと感服した。
けれど、武蔵が酒を舐めると、その杯の持ちようや箸のさばき、何かにつけ、粗野が目について、
(ははあ、やはり野人だ)
つい書生扱いになり、従って、幾分軽んじてくる傾きがあった。
たった三杯か四杯かさねただけなのに、武蔵の顔は、銅を焼いたように火てりだし、始末に困るように、時々手を当てた。
その容子が、処女みたいなので四高弟は笑った。
「ひとつ、貴君のいうところの感じとは、どういうものか、お話し下さらんか。この新陰堂は、上泉伊勢守先生が、当城に御滞在中、先生のため御別室として建てたもので、剣法に由縁のふかいものなのです。こよい武蔵どのの御講話を拝聴するにも、最もふさわしい席と思うが」
「困りましたな」
武蔵はそういうだけであった。
「――感覚は感覚、どういっても、それ以外に説きようはごさらぬ。強いて目に見たく思し召すなら、太刀を把って、私をお試しくださるほかはない」
何とかして石舟斎へ近づく機縁をつかみたい、彼と試合してみたい、兵法の大宗といわれる老龍を自己の剣下にひざまずかせてみたい。
自己の冠に、大きな勝星を一つ加えることだ。
――武蔵来り、武蔵去る。
と記録的な足痕を、この土地へのこすことだ。
彼の旺な客気は今、その野望で満身を燃やしながらここに坐っている。しかもそれを現わさずにである。夜も静か、客も静かな裡にである。短檠の光は時折、烏賊のような墨を吐き、風の間に、どこかで片言の初蛙が鳴く。
庄田と出淵は、顔を見あわせて何か笑った。武蔵が今いったことば――
(――強いて目に見たく思し召すなら、私をお試しくださるほかはない)
これは穏かのようだが、明らかに戦闘を挑むものだ。出淵と庄田は、四高弟のうちでも年上だけに、早くも武蔵の覇気を観てとって、
(豎子、何をいうか)
と、その若気を苦笑するもののようであった。
話題は一つところにとどまらない。剣の話、禅の話、諸国のうわさ話、わけても関ヶ原の合戦には、出淵も、庄田も、村田与三も主人について出たので、その折、東軍と西軍との敵味方であった武蔵とはひどく話に実が入って、主人側もおもしろげに喋べり出し、武蔵も興に入って話に耽ける。
徒に、刻は過ぎ――
(今夜をおいて、二度と、石舟斎へ近づく機会はない)
思いめぐらすうちに、
「お客、麦飯でござるが」
と、酒をひいて、麦飯と汁とが出される。
それを喰べつつも、
(どうしたら彼に)
武蔵は、他念がない。そして思うには、
(所詮、尋常なことでは接近できまい。よし!)
彼は、自分でも下策と思う策を取るほかなかった。つまり相手を激させて、相手を誘い出すことだ。しかし、自分を冷静において、人を怒らせることは難しい。武蔵は、故意に、暴論を吐いてみたり、無礼な態度を見せたりしたが、庄田喜左衛門も出淵も笑って聞き流すだけである。くわっと乗って来るような不覚はこの四高弟のうちにはない。
武蔵は、やや焦心った。これで帰ることが無念だった。自分の底の底までを見透かされてしまった気がする。
「さ、寛ごう」
食後の茶になると、四高弟は、円座を思い思いの居心地へ移して、膝を抱えるのもある。あぐらを組む者もある。
武蔵だけは、依然として、隅柱を負っていた。つい無口になる。怏々として楽しまないものが胸を占めて霽れないのだ。勝つとは限らない、撃ち殺されるかも知れない。――それにしても石舟斎と試合わずしてこの城を去るのは生涯の遺憾だと思う。
「やっ?」
ふいにその時、村田与三が縁へ起って、暗い外へつぶやいた。
「太郎が吠えている。ただの吠え方ではない。何事かあるのではあるまいか」
太郎とはあの黒犬の名か、なるほど、二の丸のほうで怖ろしく啼き立てている。その声が、四方の山の谺を呼んで、犬とも思えない凄さであった。
犬の声は、容易にやまない。凡事とも思えない吠え方なのである。
「何事だろう? 失礼だが、武蔵どの、ちょっと中座して見て参ります。――どうぞごゆるりと」
席を外して、出淵孫兵衛が出てゆくと、村田与三も、木村助九郎も、
「暫時、ごめんを」
と各
、武蔵へ対して、会釈を残しながら、出淵につづいて外へ去った。
遠い闇の中に、犬の声は、いよいよ、何か主人へ急を告げるように啼きつづけていた。
三名が去った後の席は、その遠吠えがよけいに凄く澄んで聞え、白けわたった燭の明りに、鬼気がみなぎっていた。
城内の番犬が、こう異様な啼き声を立てるからには、何か城内に異変があったものと考えなければならぬ。今、諸国ともにやや泰平のようでもあるが、決して隣国に気はゆるせたものではない。いつどんな梟雄が立って、どんな野心を奮い起さない限りもないのだ。乱波者(おんみつ)はどこの城下へも入りこんで、枕を高くして寝ている国をさがしているのだ。
「はての?」
独りそこに残っている主人側の庄田喜左衛門も、いかにも不安そうであった。何となく、火色の凶い短檠の灯を見つめて、陰々滅々と谺する犬の声をかぞえるように聴き耳をたてていた。
そのうちに、一声、けえん! と怪しげな啼き方が尾を曳いて聞えると、
「あっ」
喜左衛門が、武蔵の顔を見た。
武蔵もまた、
「あっ……」
と、微かな声を洩らし、同時に、膝を打っていった。
「死んだ」
すると、喜左衛門も共に、
「太郎め、殺られおった」
といった。
二人の直感が一致したのである。喜左衛門はもう居堪まらないで、
「解せぬこと」
と、席を立った。
武蔵は何か思い当ることがあるもののように、
「私の連れて参った城太郎という僕童は、そこに控えておりましょうか」
と、新陰堂の表の部屋にいる小侍に向ってたずねた。
そこらを捜しているらしく、しばらくたってから、小侍の返辞が聞えた。
「お下僕は、見えませぬが」
武蔵は、ハッとしたらしく、
「さては」
と、喜左衛門へ向い、
「ちと心懸りな儀がござる。犬の斃れておる場所へ参りたいと思いますが、ご案内下さるまいか」
「おやすいこと」
喜左衛門は、先に立って、二の丸のほうへ走った。
例の武者溜りの道場から一町ほど離れている場所だった。四、五点の松火の明りがかたまっていたのですぐ分った。先に出て行った村田も出淵もそこにいた。そのほか集まって来ていた足軽だの、宿直の者だの、番士たちだのが、真っ黒に垣をなして何か騒々いっているのだった。
「お!」
武蔵は、その人々のうしろから、松火の明りが円い空地を作っている中をのぞいて、愕然とした。
案のじょう、そこに突っ立っていたのは鬼の子のように、血まみれになっている城太郎であった。
木剣を提げ、歯を食いしばり、肩で息をつきながら、自分をとり囲んでいる藩士たちを、白い眼で睨みつけている。
その側には、毛の黒い紀州犬の太郎が、これも、無念な形相をして、牙を剥き出し、四肢を横にして斃れているのだった。
「? ……」
しばらくものをいう者もなかった。犬の眼は、松火の焔に向って、くわっと開いているけれど、口から血を吐いているところを見ると、完全に死んでいるのである。
唖然として、そこの有様に眼をみはっていたが、やがて誰かが、
「オオ、ご愛犬の太郎だ」
うめくように呟くと、
「こいつ奴」
いきなり一人の家臣は、茫然としている城太郎のそばへ行き、
「おのれかッ、太郎を撃ち殺したのは」
ぴゅっと掌のひらが横に唸った。城太郎はその掌が来る咄嗟に顔を交わして、
「おれだ」
と、肩を昂げて叫んだ。
「なぜ撃ち殺した?」
「殺すわけがあるから殺した」
「わけとは」
「かたきをとったんだ」
「なに」
意外な面持ちをしたのは、城太郎に立ち向っているその家臣だけでなかった。
「たれのかたきを?」
「おれのかたきをおれが取ったんだ。おととい使いに来た時、この犬めが、おれの顔をこの通りに引っ掻いたから、今夜こそ撃ち殺してやろうと思って、捜していると、あそこの床下に寝ていたから、尋常に勝負をしろと、名乗って戦ったんだ。そしておれが勝ったんだ」
彼は、自分が決して卑怯な決闘をしたのではないということを、顔を赤くして力説するのだった。
しかし、彼を咎めている家臣や、この場のことを重大視している人々は、犬と人間の子の果し合いが問題ではないのである。人々が憂いや怒りをふくむ所以は、この太郎と呼ぶ番犬は、今は江戸表にある主人の但馬守宗矩が、ひどく可愛がっていた犬でもあり、殊に、紀州頼宣公が愛している雷鼓という牝犬の児を、宗矩が所望して育てたという素姓書もある犬なのであった。――それを撃ち殺されたとあっては、不問に付しておくわけにゆかない。禄を食んでいる人間が二名もこの犬の係としてついているのでもある。
今、血相をかえて、城太郎へ向って、背すじを立てている家臣が、即ちその太郎付の侍なのであろう。
「だまれっ」
また一拳を彼の頭へ見舞った。
こんどは交わし損ねて、その拳が城太郎の耳の辺をごつんと打った。城太郎の片手がそこを抑え、河ッ童あたまの毛がみな逆立ッた。
「何するんだ!」
「お犬を撃ち殺したからには、お犬のとおりに打ち殺してくれる」
「おれは、このあいだの、返報をしたんだ。返報のまた返報をしてもいいのか。大人のくせにそれくらいな理窟がわからないのか」
彼としては、死を賭して、やったことだ。侍の最大な恥は面傷だというその意気地を明らかにしたのだ。むしろ、誉められるかとさえ思っているかも知れないのである。
だから、太郎付の家臣が、いくら咎めようと怒ろうと、彼としては怯まないのだ。かえってその由謂れのないことを憤慨して、反対に喰ってかかった。
「やかましいっ。いくら童でも、犬と人間のけじめがつかぬ年ごろではあるまい。犬に仇討ちをしかけるとは何事だ。――処分するぞっ、こらっ、お犬のとおりに」
むずと城太郎の襟がみをつかんで、その家臣は、初めて周りの人々へ眼をもって、同意を求めた。自己の職分として、当然にすることを宣言するのであった。
藩士たちは、黙ってうなずいた。四高弟の人々も、困った顔いろはしていたが黙っていた。
――武蔵も黙然と見ていた。
「さっ、吠えろ小僧」
二、三度襟がみを振廻されて、眼がくらくらとした途端に、城太郎は大地へ叩きつけられていた。
お犬の太郎付の家臣は、樫の棒を振りかぶって、
「やいっ童。おのれがお犬を撃ち殺したように、お犬に代って、おのれを撃ち殺してやるから起て。――きゃんとでもわんとでも吠えて来い、噛みついて来いっ」
急に起てないのであろう、城太郎は歯をくいしばって、大地へ片手をついた。そして徐々に、木剣と共に体を起すと、子供とはいえ、その眼はつり上がって死を決し、河ッ童あたまの赤い毛は、怒りに逆立って、こんがら童子のような凄い形相を示した。
犬のように、彼は唸った。
虚勢ではない。
彼は、
(おれのしたことは正しくて間違っていない)
と信じているのである。大人の激憤には、反省もあるが、子供がほんとに憤ると、それを生んだ母親でさえ持てあますものだ。まして、樫の棒を見せられたので、城太郎は、火の玉のようになってしまった。
「殺せっ、殺してみろっ」
子供の息とも思えない殺気であった。泣くが如く呪うが如く、こう彼がわめくと、
「くたばれッ」
樫の棒は唸りを呼んだ。
一撃のもとに、城太郎はそこへ死んでいる筈である。カツンという大きな響きがそれを人々の耳へ直覚させた。
――武蔵は、実に冷淡なほど、なおもその際まで、黙然と腕ぐみしたまま、傍観していた。
ぶん――と城太郎の木剣は、その時、城太郎の手から空へ吹き飛ばされていたのであった。無意識に彼は、最初の一撃をそれで受けたのであったが、当然、手のしびれに離してしまったものらしく、次の瞬間には、
「こん畜生」
眼をつぶって、敵の帯際へ噛ぶりついていた。
死にもの狂いの歯と爪は、相手の急所を制して離さなかった。樫の棒は、そのために、二度ほど空を払った。子供と侮ったのがその者の不覚なのである。それに反して城太郎の顔つきは絵にも描けないほど物凄かった。口を裂いて敵の肉を食いこみ、爪は衣を突きぬいていた。
「こいつめッ」
するとまた一本、べつな樫の棒が現われ、そうしている城太郎の背後から、彼の腰を狙って、撲り下ろそうとした時である。武蔵は初めて腕を解いた。石垣のようにじっと固くなっていた人々の間から、ついと進み出したのが、はっと感じる間もないくらいな行動であった。
「卑怯」
二本の脚と棒が宙へ輪を描いたと思うと、どたっと鞠みたいな物が二間も先の大地へ転がった。
その次には、
「この悪戯者めが」
と、叱りながら、城太郎の腰帯へ諸手をかけて、武蔵は、自分の頭の上に、高々と差し上げてしまった。
そしてまた、咄嗟に棒を持ち直している太郎付の家臣に向い、
「最前から見ておるが、すこしお取調べに手落ちがあろう。これは、拙者の下僕でござるが、貴公たちは、そもそも、罪を、この小童に問われるつもりか、それとも主人たる拙者に問うつもりか」
すると、その家臣は、激越にいい返した。
「いうまでもなく、双方に糺すのじゃ」
「よろしい。然らば、主従二人して、お相手いたそう。それっ、お渡しするぞ」
ことばの下に、城太郎の体は、相手の姿へ向って抛り投げられた。
先刻から、周囲の人々は、
(彼は何を血迷っているのか。自分の下僕であるあの小童を、頭上に差し上げて、あれを一体どうするつもりだろう?)
武蔵の仕方に眼をみはり、武蔵の心を忖度りかねていたらしい。
すると、諸手にさしあげていた城太郎のからだを、武蔵が、宙天から落すように相手の者へ向って抛りつけたので、
「あっ――」
人々は、そこを広くして、思わず後ろへ跳び退いた。
人間をもって人間へ打つける。余りにも無茶な――意外な――武蔵の仕方に気をのまれてしまったのである。
武蔵に抛られた城太郎は、天から降って来た雷神の子みたいに、手も足もちぢめ、まさかと油断して突っ立っていた相手の胸のあたりへ、
「わっ」
ぶつかったのである。
顎を外したように、
「ぎぇッ」
異様な声をあげると、その者の体は、城太郎の体と重なって、立ててある材木を離したように、直線にうしろへ倒れた。
したたかに、大地へ、後頭部でも打ったのか、城太郎の石頭が、ぶつけた途端に先の肋骨をくだいたのか、とにかく、ぎぇッといった声をさいごに、太郎付のその家臣は唇から血を噴いてしまったが、城太郎の五体はその胸の上で一ツとんぼ返りを打ったと思うと、そのまま二、三間先まで、鞠のように転がって行った。
「や、やったなっ」
「どこの素浪人」
これはもう太郎付の役であると否とにかかわらず、周りにいた柳生家の家臣たちが、こぞって罵り出した雑言だった。こよい四高弟の者が、客として招いた宮本武蔵とよぶ人間であることをはっきり知っていた者は少ないのであるから、さしずめ、そんなふうに見て、殺気立ったのも無理ではないのである。
「さて――」
武蔵は、向き直った。
「各
」
何を、彼はいおうとするのか。
すさまじい血相をもって、城太郎が取り落したところの木剣をひろい、それを右手にさげて、
「小童の罪は、主人の罪、どうなりと、ご処罰を承ろう。ただし、それがしも、城太郎も、いささか剣をもって侍の中の侍をもって任じている者にございますゆえ、犬のごとく棒をもって撃ち殺されるわけには参りかねる。一応お相手つかまつるから左様ご承知ねがいたい」
これでは罪に伏すのではなくて、明らかな挑戦だ。
ここで一応、武蔵が、城太郎に代って、謝罪と陳弁をつくして藩士たちの感情を極力なだめることに努めれば、或は、何とか穏やかに納まりがついたろうし、また、先ほどから口を挟みかねていた四高弟の輩も、
(まあ、まあ)
と、相互のあいだにはいる機会もあったろうが、武蔵の態度は、あたかもそれを拒み、かえって、自分のほうから事件の葛藤を好んでいるように見えるので、庄田、木村、出淵などの四高弟は、
「奇怪な」
眉をひそめて、彼の態度をひどく憎むもののように、端へ避って、じっと、鋭い眼をそろえて、武蔵を見まもっていた。
もちろん、武蔵の暴言には、四高弟のほか、そこにいる面々は皆、尠からず、激昂した。
彼の何者であるかを知らないし、また彼の意中を測れない柳生家の諸士は、それでなくても、火になりたがっていた感情へ油をそそがれて、
「なにをッ」
誰とはなく、武蔵へ応じ、
「不逞な奴っ」
「どこぞの諜者だろう、縛ってしまえ」
「いや、斬ッちまえ」
また――
「そこを去らすなっ」
前後からこうひしめいてまさに彼の身は、彼の手に抱え寄せられている城太郎と共に、白刃の中に隠されてしまうかと見えた。
「あッ待てっ」
庄田喜左衛門であった。
喜左衛門がそう叫ぶと、村田与三も、出淵孫兵衛も、
「あぶないっ」
「手を出すな」
四高弟の者は初めて、こう積極的に出て、
「退け退け」
と、いった。
「ここは、吾々にまかせろ」
「各
は、各
のお役室へもどっておれ」
そして――
「この男には、何か画策があると観た。うかと、誘いに釣り込まれて、負傷を出しては、御主君に対し吾々の申し開きが立たぬ。お犬のことも、重大事には相違ないが、人命はより貴重なものだ。その責任も、吾々四名が負うもので、決して、貴公たちに迷惑はかけぬから、安堵して、立ち去るがよい」
程経て後のそこには、最前新陰堂に坐っていた客と主人側だけの頭数だけが残っていた。
けれど、今はもう、主客のあいだがらは一変して、狼藉者と裁く者との、対立である。敵対である。
「武蔵とやら、気の毒ながらそちらの計策は破れたぞ。――察するに、何者かに頼まれ、この小柳生城を探りに来たか、或は御城内の攪乱を目論んで来たものに違いあるまい」
四名の眼は、武蔵をかこんで詰めよるのであった。この四名のどの一人でも達人の域に達していないものはないのである。武蔵は、城太郎を小脇に庇いながら、根が生えたように、同じ位置に立っているのであったが、仮に今、この場を脱しようと考えても、それは身に翼を持っていても、こう四名の隙を破って逃げ去ることは難しいだろうと思われた。
出淵孫兵衛が、次に、
「やよ、武蔵」
鯉口を切った刀の柄を、やや前へせり出して、構え腰をしていった。
「事破れたら、いさぎよう自決するのが武士の値打だ。小柳生城の中へ、童ひとりを連れて、堂々と、入り込んでござった不敵さは、曲者ながらよい面がまえ。それに、一夕の好誼もある。――腹を切れ、支度のあいだは待ってやろう。武士はこうぞという意気を見せられい」
それで、すべてが解決できると四高弟の方では考えていた。
武蔵を招いたことが、そもそも、主君へは無断のことであったから、彼の素姓目的も、不問のまま闇の出来事として、葬り去ろうという意思らしいのだ。
武蔵は肯じない。
「なに、この武蔵に腹を切れといわれるか。――馬鹿なっ、馬鹿なことを」
昂然と、肩を揺すって彼は笑った。
飽くまでも、武蔵は相手の激発を挑むのであった。闘争を仕かけるのであった。
なかなか感情をうごかさなかった四高弟の者も、遂に、眉に険をたたえ、
「よろしい」
ことばは静かだか、断乎とした気をふくんでいった。
「こちらが、慈悲をもって申しておれば、つけ上がって」
出淵のことばにつづいて、木村助九郎が、
「多言無用」
武蔵の背へ廻って、
「歩めっ」
背を突いた。
「何処へ?」
「牢内へ」
――すると武蔵はうなずいて歩きだした。
しかしそれは自分の意思のままに運んでゆく足であって、大股に本丸のほうへ近づいて行こうとするのである。
「何処へ行く?」
ぱっと助九郎は先へ廻って、武蔵のまえに両手をひろげ、
「牢は、こちらでない。後へもどれ」
「もどらん」
武蔵は、自分の側へ、ひたと貼りついたようにしている城太郎へ向い、
「おまえは、彼方の松の下にいるがよい」
この辺はもう本丸の玄関に近い前栽らしく、所々に、枝ぶりのよい男松が這っていて篩にかけたような敷き砂が光っていた。
武蔵にいわれて、城太郎はその袂の下から勢いよく走った。そして、一つの松の木を楯にして、
(そら、お師匠様が、何かやりだすぞ)
般若野における武蔵の雄姿を思いだし、彼もまた、針鼠のように筋肉を膨らませていた。
――見ると、その間に、庄田喜左衛門と出淵孫兵衛のふたりが、武蔵の左右へ寄り添い、武蔵の腕を両方から逆に取って、
「もどれ」
「もどらぬ」
同じことばを繰返していた。
「どうしても戻らぬな」
「む! 一歩も」
「うぬっ」
前に立って、木村助九郎が、ついにこう癇を昂げ、刀の柄を打ち鳴らすと、年上の庄田と出淵の二人は、まあ待てとそれを止めながら、
「もどらぬなら戻らぬでよろしい。しかし、汝は、何処へ行こうとするか」
「当城の主、石舟斎へ会いにまいる」
「なに?」
さすがの四高弟も、それには愕として顔いろを革めた。奇怪でならなかったこの青年の目的が、石舟斎へ近づくことであろうなどとは、誰も考えていなかったのである。
庄田は、畳みかけて、
「大殿へ会って、何とする気じゃ」
「それがしは、兵法修行中の若輩者、生涯の心得に、柳生流の大祖より一手の教えを乞わんためでござる」
「しからばなぜ、順序をふんで、我々にそう申し出ないか」
「大祖は、一切人と会わず、また修行者へは、授業をせぬと承った」
「勿論」
「さすれば、試合を挑むよりほか道はあるまい、試合を挑んでも、容易に余生の安廬より起って出ぬに相違ない。――それゆえ拙者は、この一城を相手にとって、まず、合戦を申しこむ」
「なに、合戦を?」
あきれた顔つきで四高弟はそう反問した。そして、武蔵の眼いろを見直した。――こいつ狂人ではあるまいかと。
相手の者に、両腕をあずけたまま武蔵は空へ眼を上げていた。何か、バタバタと闇が鳴ったからである。
「? ……」
四名も眼をあげた。その一瞬、笠置山の闇から城内の籾蔵の屋根のあたりへ、一羽の鷲が、星をかすめて飛び降りた。
合戦といっては、言葉が大げさにひびくが、武蔵が今の自分の気持をいい現わすには、そういってもなおいい足りないほどであった。
技の末や、単なる小手先の試合では決してない。そんな生ぬるい形式を、武蔵は求めているのでもない。
合戦だ、飽くまでも戦いだ。人間の全智能と全体力とを賭けて、運命の勝敗を挑むからには、形式はちがっても、彼にとっては大なる合戦にかかっている気持と少しも違わないのである。――ただ三軍をうごかすのと、自己の全智と全力をうごかすのとの相違があるだけだった。
一人対一城の合戦なのだ。――武蔵の踏ん張っている踵には、そういう激しい意力があった。――で自然、合戦というような言葉が口をついて出たので、相手の四高弟は、
(こいつ狂人か?)
と、彼の常識を疑うように、その眼ざしを見直したが、これは疑ったほうにも無理はなかった。
「よしっ、おもしろい」
敢然と、こう応じて、木村助九郎は、穿いていた草履を足で飛ばし、そして、股立をからげた。
「――合戦とはおもしろい。陣鼓や陣鐘を鳴らさんまでも、その心得で応戦してやる。庄田氏、出淵氏、そやつをおれのほうへ突っ放してくれ」
さんざん止めもし、堪忍もした揚句である。第一、木村助九郎はさっきから頻りと成敗したがっている。
(もうこれまでだろう)
そう眼でいい合すように、
「よしっ、まかせるっ」
両方から抱えていた武蔵の腕を、二人が同時に離して、ぽんと背を突くと、六尺に近い武蔵の巨きな体が、
だ、だ、だっ――
四ツ五ツ大地を踏み鳴らし、助九郎の前へ、よろめいて行った。
助九郎は、待っていたものの、颯――と一足退いた。弾み込んでくる武蔵の体と自分の腕の伸びとに間合を測って退いたのである。
「――ガギッ」
奥歯のあたりでこう息を噛むと、助九郎の右の肱は、顔へ上がっていた。そして音のない音が、ヒュッと鳴るかのように、武蔵のよろめいて来た影を抜き打ちにした。
ザ、ザ、ザ、ザ――
と、剣が鳴った。助九郎の刀が神霊を現わしたように、鏘然と、刃金の鳴りを発したのである。
――わっ。という声が一緒に聞えた。武蔵が発したのではない。彼方の松の下にいた城太郎が飛び上がってさけんだのだ。助九郎の刀がザザと鳴ったのも、その城太郎がつかんでは投げつけた荒砂の雨だったのである。
けれど、その際の一つかみの砂などは、何の効果もないことはもちろんだった。武蔵は、背を突かれたせつなに、あらかじめ、助九郎が間合を測ることを計って、むしろ自分の勢いをも加えて、彼の胸いたへ突進して行ったのである。
突かれてよろめいてくる速度と、その速度に捨て身の意思を乗せてくるのとでは、速度の上に、大きな相違がある。
助九郎の退いた足と、同時に、抜き打ちに払った尺度には、そこに誤算があったので、見事に空を撲ってしまった。
約十二、三尺の間隔をひらいて、二人は跳び退いていた。助九郎の刀が反れ、武蔵の手が刀にかかろうとした瞬間にである。――そして双方で、じっと、闇の下へ沈みこむように竦んでいる。
「オ。これは見もの!」
そう口走ったのは庄田喜左衛門であった。庄田のほかの出淵、村田の二人も、まだ何も自分たちは、その戦闘圏内に交じっているわけでもないのに、ハッと、何ものかに吹かれたような身動きをした。そして各
が、おる所の位置をかえ、おのずからな身がまえを持ちながら、
(出来るな、こいつ)
武蔵の今の一動作に、等しく眸をあらためた。
――しいッと何か身に迫るような冷気がそこへ凝り固まってきた。助九郎の切っ先は、ぼやっと黒く見える彼の影の胸よりもやや下がり目な辺りにじっとしている。そのまま動かないのだ。武蔵も、敵へ右の肩を見せたまま、つくねんとして突っ立っている。その右の肘は、高く上がって、まだ鞘を払わない太刀のつかに精神をこらしているのだった。
「…………」
ふたりの呼吸をかぞえることが出来る。少し離れたところから見ると、今にも闇を切ろうとしている武蔵の顔には、二つの白い碁石を置いたかのような物が見える。それが彼の眼だった。
ふしぎな精力の消耗であった。それきり一尺も寄りあわないのに、助九郎の体をつつんでいる闇には次第にかすかな動揺が感じられてきた。明らかに、彼の呼吸は、武蔵のそれよりも、あらく迅くなって来ているのである。
「ムム……」
出淵孫兵衛が思わずうめいた。毛を吹いて大きな禍いを求めたことが、もう明確にわかったからである。庄田も村田も同じことを感じたにちがいない。
(――これは凡者でない)と。
助九郎と武蔵の勝負は、もう帰すところが三名にはわかっていた。卑怯のようであるが、大事を惹き起さないうちに――またあまり手間どって無用の怪我を求めないうちに、この不可解な闖入者を、一気に成敗してしまうに如くはない。
そういう考えが、無言のうちに、三名の眼と眼をむすんだ。すぐそれは行動となって、武蔵の左右へ迫りかけた。すると、弦を切ったように刎ねた武蔵の腕は、いきなり後ろを払って、
「いざっ」
すさまじい懸声を虚空から浴びせた。
虚空と聞えたのは、それが武蔵の口から発したというよりは、彼の全身が梵鐘のように鳴って四辺の寂寞をひろく破ったせいであろう。
「――ちいッ」
唾するような息が、相手の口をついて走った。四名は四本の刀をならべて、車形になった。武蔵の体は蓮の花の中にある露にひとしかった。
武蔵は今、ふしぎに自己を感得した。満身は毛穴がみな血を噴くように熱いのだ。けれど、心頭は氷のように冷たい。
仏者のいう、紅蓮という語は、こういう実体をいうのではあるまいか。寒冷の極致と、灼熱の極致とは、火でも水でもない、同じものである。それが武蔵の今の五体だった。
砂はもうそこへ降って来なかった。城太郎はどこへ行ったか。忽然と影もない。
――颯々。颯々。
まっ暗な風が時折り、笠置のいただきから颪ちてくる。そして、容易にうごかないそこの白刃を研ぐように吹いて、ビラ、ビラ、と燐のように戦ぎを闇の中に見せる。
四対一である。けれど武蔵は、自分がその一の数であることは、さして苦戦をおぼえない。
(なんの!)
と、血管が太くなるのを意識するのみであった。
死。
いつも真っ向から捨てようとしてかかるその観念も、ふしぎと今夜は持たない。また、
(勝てる)
とも思っていなかった。
笠置颪ろしが、頭の中をも吹きぬけて行くような心地であった。脳膜が蚊帳のようにすずしい。そしておそろしく眼がよく見える。
――右の敵、左の敵、前の敵。だが。
やがて武蔵の肌はねっとりと粘ってきた。額にもあぶら汗が光っている、生れつき人なみ以上巨大な心臓は膨れきって、不動形の肉体の内部にあって極度な、燃焼を起こしているのだ。
ず、ず……
左の端にいた敵の足がかすかに地を摺った。武蔵の刀の先は、蟋蟀のひげのように敏感にそれを観て取る。それをまた、敵も察して入って来ない。依然たる四と一との対峙がつづく。
「…………」
しかしこの対峙が不利であることを、武蔵は知っていた。武蔵は敵の包囲形の四を、直線形の四にさせて、その一角から次々に斬ってしまおうと考えるのであったが、相手は、烏合の衆ではない達人と上手のあつまりだ、そういう兵法にはかからない。厳として位置をかえない。
先が、その位置をかえないかぎり、武蔵の方から打ってゆく策は絶対なかった。この中の一名と相打ちして死ぬ気ならばそれも可能であるが、さもなければ、敵の一名から行動してくるのを待って、敵の四の行動が、ほんの瞬間でも、不一致を起こすところを臨んで打撃を加えるほかにない。
(――手ごわい)
四高弟のほうも、今は武蔵の認識をまったく革めて、誰ひとりとして、味方の四の数をたよっている者はなかった。この際、数を恃んで、毛ほどでも弛みを見せれば武蔵の刀は、きッとそこへ斬りこんでくる。
(――世の中には、いそうもない人間が、やはりいるものだ)
柳生流の骨子をとって、庄田真流の真理を体得したという庄田喜左衛門も、ただ、
(ふしぎな人間)
として、敵の武蔵を、剣の先から見澄ましているだけだった。彼にさえ、まだ一尺の攻撃もなし得なかった。
剣も人も、大地も空も、そうして氷に化してしまうかと思われた一瞬、思いがけない音響が、武蔵の聴覚をハッとおどろかせた。
誰がふくのか、笛の音だった。そう距離もないらしい本丸の林を通って、冴えた音が風に運ばれて来るのであった。
笛。――高鳴る笛の音。だれだ、ふくのは。
われもなく敵もなく、生死の妄念もまったく滅して、ただ一剣の権化となりきっていた武蔵は、その耳の穴から、計らざる音律の曲者にしのび込まれて、途端に、われに返ってしまった、肉体と妄念のわれに戻ってしまった。
なぜならば、音は、彼の脳裡に、肉体のあるかぎりは忘れ得ないであろうほどふかく記憶に烙きついているはずであった。
故郷美作の国の――あの高照の峰の附近で――夜ごとの山狩に追われつつ、飢えと心身のつかれに、頭も朦朧となっていた時、ふと、耳にひびいて来た笛の音ではないか。
あの時――
こう来い、こうお出で。――と自分の手をとって導くように呼び、そしてついに、僧の沢庵の手に捕まる機縁を作ってくれたその笛の音ではないか。
武蔵は忘れても、武蔵のあの時の潜在神経は、決して、忘れることのできない感動をうけていたにちがいない。
その音ではないか。
音がそっくりであるばかりでなく、曲もあの時のと同じなのだ。アッと、突き抜かれてみだれた神経の一部が、
(――オオ、お通)
脳膜の中でさけぶと、武蔵の五体というものは、途端に、雪崩を打った崖のように、脆いものになってしまった。
見のがすはずはない。
四高弟の眼には、そのせつな、破れ障子のような武蔵のすがたが見えた。
「――たうっッ」
正面の一喝と共に、木村助九郎の肘がまるで七尺も伸びたかのように眼に映った。――武蔵は、
「かッ」
その刃先へ喚き返した。
総身の毛に火がついたような熱気をおぼえ、筋肉は、生理的にかたく緊まって、血液は、噴き出そうとするところの皮膚へ、激流のように集まった。
――斬られたっ。
武蔵はそう感じた。ぱっと左の袖口が大きく破れて、腕が根元から剥き出しになってしまったのは、その辺の肉と一緒に、袂を斬り取られたのであると思った。
「八幡っ」
絶対な自己のほかに、神の名があった。自己の破れ目から、稲妻みたいにその声が迸った。
一転。
位置をかえて振向くと、自分のいたところへのめッて行く助九郎の腰と足の裏が見えた。
「――武蔵っ」
出淵孫兵衛が叫んだ。
村田と庄田は、
「やあ、口ほどもない」
横へ駈け廻ってくる。
武蔵はそれに対して、大地を踵で蹴った。彼のからだはそこらの低い松の梢をかすめるくらいな高さに躍り、その距離をさらに一躍、また一躍して、後も見ずに闇の中へ駈け入ってしまった。
「――汚し」
「――武蔵っ」
「恥を知れっ」
下の空濠へ急落している崖のあたりで、野獣の跳ぶような木の折れる音がした。――それがやむとまた、笛の音は、呂々と、星の空をながれて遊んでいた。
三十尺もある空濠だった。空濠といっても、深い闇の底には、雨水が溜っていないとは限らない。
灌木帯の崖を、勢いよく辷り落ちて来た武蔵は、そこに止まって石を抛ってみた。そして次に、石を追って、飛びこんだ。
井戸の底から仰ぐように、星が遠くなった。武蔵は濠の底の雑草へ、どかんと仰向けに寝ころんだ。一刻ほどもじっとしていた。
肋骨が大きな波を打つ。
肺も心臓も、そうしている間にやっと常態を整えてくる。
「お通……。お通が、この小柳生城にいるわけはないが? ……」
汗は冷え、肺は落ち着いて来ても、乱麻のように掻きみだれた気持は容易に平調にならなかった。
「心の曇りだ、耳のせいだ」
そうも思い、
「いや、人の流転はわからぬものゆえ、ひょっとしたら、やはりお通がいるのかも知れない」
彼は、お通のひとみを、星の空にえがいてみた。
いや彼女の眼や唇は、敢て、虚空にえがいてみるまでもなく、常に無自覚に武蔵の胸に住んでいるのだった。
甘い幻想が、ふと彼をつつむ。
国境の峠で彼女のいったことば、
(あなたの他に、私にとって男性はありません。あなたこそ、ほんとの男性、私はあなたがなくては生きられない)
また、花田橋のたもとで彼女のいったことば――
(ここで、九百日も立っていました。あなたが来るまで)
なお、あの時いった――
(もし来なければ、十年でも二十年でも、白髪になっても、ここの橋の袂に待っているつもりでした。……連れて行って下さい。どんな苦しみも厭いません)
武蔵は胸が痛んでくる。
苦しまぎれに、あの純な気持を裏切って、隙を作って、自分は驀しぐらに走ってしまった。
どんなに――あの後では自分を恨んでいただろう。理解できない男性を、呪わしい存在として唇を噛みしめたことだろう。
「ゆるしてくれ」
花田橋の欄干に小柄で残してきたことばが、吾れ知らず、今の武蔵の唇からも洩れていた。そして、涙のすじが眼じりから白くながれていた。
「ここじゃあない」
ふいに、高い崖の上で人声がした。三つ四つ松明が、木の間を掻きわけて立ち去るのが見えた。
武蔵は、自分の涙に気がつくと忌々しげに、
「女などがなんだ!」
手の甲で眼をこすった。
幻想の花園を蹴散らすように、ガバと跳び起きて、ふたたび小柳生城の黒い屋形を見上げ、
「卑怯といったな、恥を知れといったな。武蔵はまだ、降伏したとはいっていないぞ、退いたのは、逃げたのではない。兵法だ」
空濠の底を、彼は歩きだした。何処まで歩いても空濠の中である。
「一太刀でも打ち込まずにおこうか。四高弟などは相手でない。柳生石舟斎その者へ見参、見ろ、今に――合戦はこれからする!」
そこらに落ちている枯れ木を拾って、武蔵は膝に当ててバキバキと折り始めた。それを石垣の隙間に差しこんで、順々に足がかりを作り、やがて彼の影は、空濠の外側へ跳び上がっていた。
笛の音はもう聞えない。
城太郎はどこへ隠れ込んだのか。――一切のことが、武蔵の頭になかった。
彼はただ旺盛なる――自分でも持てあますほど旺盛な――血気と功名心の権化となり終っていた。そのすさまじい征服慾の吐け口を見いだすのみに、眼は生命の全部を燃やしていた。
「お師匠さまあ――」
どこか遠い闇で呼ぶような心地がする。耳を澄ませば聞えないのである。
(城太郎か)
ふと思ったが、武蔵は、
(あれに、危険はあるまい)
案じなかった。
なぜならば、先刻、崖の中腹あたりに松明を見たが、それっきりで城内でも自分たちの身を、飽くまで捜索しようとはしていないらしく思われる。
「この間に、石舟斎へ」
さながら深山のような林や谷間を、彼は、彼方此方さまよい歩いた。あるいは、城の外へ出てしまったのではないかと疑ったが、所々の石垣や濠や、籾倉らしい建物を見ると、城内であることは確かなのだが、石舟斎の住んでいる草庵とは、どこにあるのか、捜し当たらないのである。
石舟斎が、二ノ丸にも本丸にも住まわず、城地のどこかに、一庵をむすんで余生を送っているということは、綿屋の主からも聞いていたことだ。その草庵さえわかれば、直接、戸をたたいて、彼は、決死の見参をするつもりなのである。
(何処だ!)
彼は、叫びたい感情で、夢中になって歩いていた。ついには、笠置の絶壁へまで出て、搦手の柵からむなしく引返した。
(出て来いっ。おれの相手たらん者は)
妖怪変化でもよいから、石舟斎になって、ここへ現われて来てほしかった。四肢にみなぎっている満々たる闘志は、夜もすがら彼を悪鬼のように歩かせた。
「あっ? ……おお……ここらしいぞ」
それは城の東南へ降りたゆるい傾斜の下だった。その辺の樹木を見ると、みな姿がよく、鋏や下草の手入れがよくゆき届いていて、どうあっても、人の住んでいる閑地らしい。
門がある!
利休風の茅ぶき門で、腕木には蔓草が這い、垣のうちには、竹林が煙っていた。
「オオ、ここだ」
覗いてみると、禅院のように、道は竹林を通って、高いその山の上へと這っているのだ。武蔵は、一気に垣を蹴やぶって入り込もうとしたが、
「いや待て」
門のあたりの清掃された床しさや、あたりに白くこぼれている卯の花の何となく主人の風を偲ばせるものに、猛りきっている心を宥められて、ふと、自分の鬢のみだれや、襟元に気がついた。
「もう、急くことはない」
殊に自分の疲れも思い出された。石舟斎に面接する前に、まず自身を整えることが考え出された。
「朝になれば、誰か、門を開けに来るだろう。――その上でよい、その上でも、強って修行者を拒む態度であったら、またとる手段もある」
武蔵は、門廂の下に、坐りこんだ。そして、後ろの柱へ背をよりかけると、よい心地で眠りに入ることができた。
星がしずかだった。卯の花が風のたびに白くうごいた。
ポトと、襟くびへ落ちて来た露の冷たさに、武蔵は眼をさました。いつのまにか夜は明けている。熟睡した後の頭脳は、流れこむように耳の穴から入る無数の鶯の声と朝の風に洗われて、たった今、この世に誕生したような明るさであり、なんのつかれも残滓もなかった。
ふと、眼をこすって、眸を上げると、真っ紅な夜明けの太陽が、伊賀、大和の連峰を踏んで、昇っていた。
武蔵は、いきなり突っ立った。十分に休養を摂った肉体は、太陽に焼かれると、すぐ希望に燃え功名や野心にうずき、手脚はそれに蓄えている力のやり場を催促して、
「む、む――」
と伸びをせずにいられなくなって来る。
「今日だ」
なんとはなく、そう呟く。
その次に彼は空腹を思い出した。飢えを思うと、城太郎の身にも及ぼして、
「どうしたか」
と、軽く案じる。
ゆうべは少し彼に酷い目をあわせ過ぎたようでもあるが、それも彼の修行の足しになることと承知して武蔵はしていることであった。どう間違っても、彼に危険はないものと多寡をくくっていてよい気がする。
淙々と、水音がゆく。
門内の高い山から傾斜を駈けて一すじの流れが、勢いよく、竹林を繞り垣の下を通って、城下へ落ちてゆくのである。武蔵は、顔を洗い、そして、朝飯のように水をのんだ。
「美味い!」
水のうまさが身に沁みた。
察するに、石舟斎は、この名水があるために、この水の源へ草庵の地を選んだのであろう。
武蔵はまだ、茶道を知らず、茶味なども解さなかったが、単純に、
「美味い!」
と思わず口をついて叫ぶほど、水のうまさというものを、今朝は感じた。
ふところから汚い手拭きを出して、それも流れで洗濯した。布は忽ち白くなる。
襟くびを深く拭き、爪の垢まできれいにした。刀の笄を抜いて、その次には、みだれた髪の毛を撫でつける――
とにかく柳生流の大祖に今朝は会うのである。天下にも幾人しかいない現代の文化の一面を代表している人物なのだ。――その石舟斎に、いや武蔵のような無禄無名の一放浪者にくらべれば、月と小糠星ほども格のちがう大先輩に見参に入るのだ。
襟をただし、髪を撫でるのは、当然な礼節の表示である。
「よしっ」
心も整った、頭もすがすがしい武蔵は、悠揚迫らない客の態度になって、そこの門を叩こうとした。
だが、草庵は山の上であるしここを叩いても聞えるはずがないがと、ふと、鳴子でもないのかと門の左右を見まわすと、左右二つの門柱に、一面ずつの聯が懸けてあって、その文字彫の底には青泥が沈めてあり、読んでみると、一首の詩になっていた。
右がわの聯には、
門にかけてある以上、聯の詩句は、いうまでもなく山荘の主人の心境と見てさしつかえあるまい。
「――吏事(役人)君ヨ怪シムヲ休メヨ。山城門ヲ閉ズルヲ好ムヲ。此山長物無シ、唯野ニ清鶯ノ有ルノミ……」
幾度も口の裡で誦む。
すがたに礼節を持ち、心に澄明な落ちつきを湛えている今朝の武蔵には、その詩句の意味が、素直に分った。――同時に、石舟斎の心境と、その人がらや生活も彼の心へ、ぴたりと映った。
「……おれは若い」
武蔵は、おのずから頭が下がってしまうのをどうしようもない。
石舟斎が、一切、門を閉じて拒んでいるのは、決して、武者修行の者だけではないのである。あらゆる名利を名聞、また一切の我慾と他慾を――
世の吏事に対してすら、怪しむのをやめてくれと断っているのである。石舟斎のそうして世間を避けている姿を思うと、武蔵は高い梢に冴えている月の相が聯想された。
「……届かない! まだ、自分などには届かない人間だ」
彼は、何としても、この門を叩く気になれなくなった。蹴って闖入して行くなどということは、もう考えてみるだけでも怖ろしい。いや、自分が恥かしい。
花鳥風月だけが、この門を入るべきものだと思う。彼はもう今では、天下の剣法の名人でも一国の藩主でも何でもない。大愚に返って、自然のふところに遊ぼうとしている一人の野の隠居だ。
そういう人の静かな住居を騒がすことは、余りに心ない業だ。名利も名聞もない人に打ち勝って何の名利になる? 名聞になる?
「アア。もしこの聯の詩がなかったら、おれは、石舟斎からよい笑われ者に見られるところだった」
陽がやや高くなったせいか、鶯の声も、夜明けほどはしなくなった。
――と、門のうちの遠い坂の上から、ぽたぽたと迅い跫音が聞えて来た。跫音におどろいて立つ小禽のつばさが、八方に、小さな虹を描く。
「あっ?」
狼狽した色が武蔵の顔を横ぎった。垣の隙間からその人の姿がわかった。――門内の坂を駈けおりて来たのは若い女なのである。
「……お通だ」
ゆうべの笛の音を武蔵は思い出した。咄嗟に、みだれた心のうちで、
(会おうか。会うまいか)
彼は迷うのであった。
会いたい! と思う。
また、会ってはならぬ! と思う。
烈しい動悸が、武蔵の胸をあらしみたいに翔けまわった。彼は、意気地のない、殊に、女には弱い――一個の青春の男でしかなかった。
「……ど、どうしよう?」
まだ、心が決まらないのだ。その間に、山荘の方から坂道を駈けおりて来たお通は、すぐそこまで来て、
「あらっ?」
足を止めた。
後を振顧った。
そして何となく今朝は、欣びごとでもあるらしい生々した眸を、彼方此方へやって、
「一しょに尾いて来たと思ったら? ……」
と、誰かを捜すように、見まわしていたが、やがて、両手を唇にかざして、山の上へ向い、
「城太郎さアん。城太郎さアん」
と、呼び出した。
その声を聞いたり、姿を近く見ると、武蔵は顔を紅らめてこそこそと樹蔭へかくれてしまった。
「――城太さアん」
間を措いて、彼女がまた呼ぶと、こんどは明らかに返辞があって、
「おウーイ」
と、間の抜けた答えが、竹林の上のほうでする。
「あら、こっちですよ。そんな方へ道を間違えては駄目。そうそうそこから降りておいでなさい」
やがて孟宗竹の下を潜って、お通のそばへ城太郎は駈けて来た。
「なアんだ、こんなところにいたのか」
「だから、私の後に尾いておいでなさいといったでしょう」
「雉子がいたから、追いつめてやったんだ」
「雉子などを捕まえているよりも、夜が明けたら、大事な人を捜さなければいけないじゃありませんか」
「だけど、心配することはないぜ。おれのお師匠様に限っては滅多に討たれる気づかいはないから」
「でも、ゆうべお前は、何といって、私のところへ駈けつけて来たの? ……今、お師匠様の生命が危ないから、大殿様にそういって、斬り合いをやめさせてくれと呶鳴って来たじゃありませんか。あの時の城太さんの顔つきは、今にも泣き出してしまいそうでしたよ」
「それや、驚いたからさ」
「驚いたのは、おまえよりも、私のほうでした。――おまえのお師匠様が、宮本武蔵というのだと聞いた時――私は余りのことに口がきけなかった」
「お通さんは、どうしておらのお師匠様を前から知っていたんだい」
「同じ故郷の人ですもの」
「それだけ」
「ええ」
「おかしいなあ。故郷が同じというだけくらいなら、何もゆうべ、あんなに泣いてうろうろすることはないじゃないか」
「そんなに私、泣いたかしら」
「人のことは覚えていても、自分のことは忘れちまうんだな。……おらが、これは大変だ。相手が四人だ、ただの四人ならよいが、みんな達人だと聞いていたから、これは捨てておくと、お師匠様も、今夜は斬られるかも知れない……。そう思ッちまって、お師匠様に加勢する気で、砂をつかんで、四人の奴らへ投げつけていると、あの時、お通さんが、どこかで笛を吹いていたろう」
「ええ、石舟斎様の御前で」
「おれは、笛を聞いて、ア、そうだ、お通さんにいって、殿様に謝ろうと胸の中で考えたのさ」
「それでは、あの時、私のふいていた笛は武蔵様にも聞えていたのですね。たましいが通ったのでしょう、なぜなら私は、武蔵様のことを思いながら、石舟斎様の前であれを吹いていたのですから」
「そんなことは、どッちだっていいけれど、おらは、あの笛が聞えたんで、お通さんのいる方角が分ったんだ。夢中になって、笛の聞えるところまで駈けてッた。そして、いきなり何といっておらは呶鳴ったんだっけ」
「合戦だっ、合戦だっ。――と呶鳴ったんでしょう。石舟斎様も、おどろいたご様子でしたね」
「だが、あのお爺さんは、いい人だな。おらが、犬の太郎を殺したことを話しても、家来のように怒らなかったじゃないか」
この少年と話をしはじめると、お通もついつりこまれて、刻も場合も忘れてしまう。
「さ……。それよりも」
止めどない城太郎のお喋舌りを遮って、お通は、門の内側へ寄った。
「――話は後にしましょう。何より先に、今朝は、武蔵様を捜さなければいけません。石舟斎様も、例を破って、そんな男なら会ってみようと仰っしゃって、お待ちかねでいらっしゃるのですから……」
閂を外す音がする。
利休風の門の袖が左右にひらいた。
今朝のお通は、華やいで見える。やがて武蔵に会えるという期待にあるばかりでなく、若い女と生れての欣びを生理的にもいっぱいに皮膚の上にあらわしている。
夏に近い太陽は、彼女の頬を果物のようにつやつやとみがきたてている。薫々とふく若葉の風は肺の中まで青くなるほどにおう。
こぼれる朝露を背にあびながら、樹蔭に潜んで彼女のすがたを眼の前に見ていた武蔵は、
(アア健康そうになったな)
すぐそこに気づいた。
七宝寺の縁がわに、いつも悄んぼりと空虚な眼をしていた頃の彼女は、決して今見るような生々した頬や眸をしていなかった。さびしい孤児の姿そのものだった。
その頃のお通には恋がなかった。あっても、ぼんやりしたものだった。どうして自分のみが孤児なのか、そればかりを仄かに怨んだり回顧したりしていた感傷的な少女だった。
だが武蔵を知って、武蔵こそほんとの男性だと信じてからの彼女は、初めて、女性の沸らす情熱というものに自身の生きがいを知り出したのである。――殊に、その武蔵を追って旅にさまよい出してからは、あらゆるものに耐え得る要素が体にも心にも養われて来た。
武蔵は、物蔭から、彼女のそうしてみがかれて来た美に眼をみはった。
(まるで違ってきた!)と。
そして彼は、どこか人のいない所に行って、洗いざらい自分の本心といおうか――煩悩といおうか――強がっているこころの裏の弱いものをいってしまって、花田橋の欄干にのこした無情に似た文字を、
(あれは偽だ)
と、訂正してしまおう?
そして、人さえ見ていなければかまわない、女になんか幾ら弱くなってやっても大したことはない。彼女がここまで自分を慕ってくれた情熱に対して、自分の情熱も示し合おう。抱きしめてもやろう、頬ずりをしてもやろう、涙もふいてやろう。
武蔵は、幾度も、そう考えた。考えるだけの余裕があった。――お通が自分にいったかつての言葉が耳に甦ってくるほど、彼女の真っ直な思慕に対して叛くことが、男性として酷い罪悪のように思われてならない――苦しくてならない。
けれど、そういう気持を、ぎゅっと歯の根で噛んでしまう怖ろしい怺えを武蔵は今しているのだった。そこでは、一人の武蔵が二つの性格に分裂して、
(お通!)
と、呼ぼうとし、
(たわけ)
と、叱咤している。
そのどっちの性格が、先天的なものか後天的なものか、彼自身には固よりわからない。そしてじっと木蔭の中に沈みこんでいる武蔵の眸には、無明の道と、有明の道とが、みだれた頭の裡にも、微かにわかっていた。
お通は、何も知らないのである。門を出て十歩ほど歩み出した。そして、振向くと、城太郎がまた何か門のそばで道草をくっているので、
「城太さん、何を拾っているの。早くお出でなさいよ」
「待ちなよ、お通さん」
「ま、そんな汚い手拭なんか拾って、どうするつもり?」
門のそばに落ちていた手拭であった。手拭は今しぼったように濡れていた。それを踏んづけてから城太郎は抓み上げて見ていたのである。
「……これ、お師匠様のだぜ」
お通は側へ来て、
「え、武蔵様のですって」
城太郎は、手拭の耳を持って両手にひろげ、
「そうだそうだ、奈良の後家様のうちでもらったんだ。紅葉が染めてある。そして、宗因饅頭の『林』という字も染めてあら」
「じゃあ、この辺に?」
お通が遽かに見まわすと、城太郎は彼女の耳のそばでいきなり伸び上がって、
「――おッしょう様あっ」
傍らの林の中で、さっと樹々の露が光り、鹿でも跳ぶような物音がその時した。――びくっとお通は顔を回らして、
「あっ?」
城太郎を捨てて、突然、驀しぐらに走り出した。
城太郎は後から息をきって追いかけながら、
「――お通さん、お通さん、何処へ行くのさ!」
「武蔵様が駈けてゆく」
「え、え、どっちへ」
「彼方へ」
「見えないよ」
「――あの、林の中を」
武蔵の影をチラと見た欣びに似た失望と――見る間に遠く去ってゆくその人へ追いつこうとする女の脚のいっぱいな努力で、彼女は、多くの言葉を費やしていられなかった。
「うそだい、違うだろ」
城太郎は、ともに駈けてはいるがまだ信じない顔つきで、
「お師匠様なら、おらたちの姿を見て、逃げてゆくわけはない、人違いだろ」
「でも、御覧」
「だから何処にさ」
「あれ――」
遂に、彼女は、発狂したかのような声をふりしぼって、
「武蔵様あ! ……」
道ばたの樹につまずいてよろめいた。そして、城太郎に抱き起されながら、
「おまえもなぜ呼ばないのです! 城太郎さん、はやく、お呼び!」
城太郎はぎょっとして、そういうお通の顔に眼をすえてしまった。――何と似ていることだろう、口こそ裂けていないが、血ばしっている眼、青じろく針の立った眉間、蝋を削ったような小鼻や顎の皮膚――
似ている。そっくりといってもよい。あの奈良の観世の後家から、城太郎がもらって来た狂女の仮面と。
城太郎は、たじろいで、彼女の体から手を放した。するとお通は、その戸惑いを叱りつけるように、
「はやく追いつかなければだめです。武蔵様は、帰って来ない。お呼び、お呼び、私も呼びますから声かぎりに――」
そんな馬鹿なことはあるはずがないと、城太郎は心のうちで否定するのであったが、お通の余りにも真剣な血相を見ては、そうもいっていられなかったとみえ、彼も、精いっぱい大きな声を出して、お通の走るままに走って行った。
林をぬけると低い丘があって、山づたいに月ヶ瀬から伊賀へゆける裏道になっていた。
「あっ、ほんとだ」
そこの丘の道に立つと、城太郎の眼にも武蔵の姿が明らかに映った。けれどそれはもう声も届かない距離の彼方にであった。後も見ずに遠くを駈けてゆく人影だった。
「あっ、彼方に――」
二人は駈けた。呼んだ。
足のかぎりに、声のかぎりに。
泣き声をふくんだ二人のさけびが、丘を降り、野を駈け、山ふところの谷間まで駈けて、木魂を呼びたてる。
だが、遠く小さく見えていた武蔵の影は、そこの山ふところに駈け入ったままもうどこにも見あたらなかった。
漠々として白雲はふかい。淙々として渓水の音は空しい。母親の乳ぶさから打ち捨てられた嬰児のように、城太郎は地だんだを踏んで泣きわめいた。
「ばか野郎っ、お師匠さんの大馬鹿。おらを捨てて……おらをこんなところへ捨てて……やいっ、ちくしょうっ、どこへ行っちまやがったんだ」
お通はまたお通で、彼とはべつに、大きな胡桃の木に喘ぐ胸をもたせかけて、ただ、しゅくしゅくと泣きじゃくっている。
これほどに一生を投げやっている自分の気持も、まだあの人の足を止めるには足らないのであろうか。彼女はそれが口惜しかった。
あの人の志が今何を目的としているか、また、何のために自分を避けて行ったのか、それは姫路の花田橋の時からよく分っている問題である。けれど彼女としてはこう思う。
(どうして私に会っては、その志の邪魔になるのか?)
また、こうも思った。
(それはいいわけで、私が嫌いなのか?)
だが、お通は、七宝寺の千年杉を幾日か見つめて、武蔵がどういう男性であるかを十分に識りつくしていた。女にうそをいうような人ではないと信じている。嫌ならば嫌といいきる人なのだ。その人が、花田橋では、
(決して、そなたが嫌いなわけではない――)
といった。
お通は、それを恨みに思う。
では自分はどうしたらいいのか。孤児というものには一種の冷たさとひがみがあって、めったに人を信じないかわりに、信じたからには、その人よりほかに頼りも生きがいもないように思い込むものだ。まして自分は本位田又八という男性に裏切られている。男性を見ることに深刻になるべく教えられた揚句なのだ。この人こそ世の中に少ない真実の男性と見て生涯をも決めて歩いて来たのである。どうなっても後悔はしないという覚悟で。
「……なぜ一言でも」
胡桃の葉はふるえていた。樹にものをいえば樹さえ感動するかのように。
「……あんまりです……」
怨めば怨むほどもの狂わしく恋しいのだ。宿命といおうか。どうしても、その人との生命の合致を見なければ、ほんとの人生を呼吸することのできない生命を持っていることは、弱々しい精神には耐えないほどな苦しみに違いなかった。片肺の肉体を持っている以上な苦しみだった。
「……あ、坊さんが来る」
半狂人のように怒っていた城太郎がそう呟いたが、お通は胡桃の木から顔を離そうとしなかった。
伊賀の山々には、初夏が来ている。真昼になるほど空は透明性と紺碧を深くしてきた。
――旅の坊さんは、その山をひょこひょこ降りて来た。白雲の中から生れて来たように、世の中の絆を何も持っていない姿である。
ふと、胡桃の木の彼方を通りかけて、そこにいるお通のすがたを振り向いた。
「おや? ……」
その声に、お通も顔をあげた。泣き腫らした眼は、びっくりして大きくさけんだ。
「あっ……沢庵さん」
折も折である。宗彭沢庵のすがたは、彼女にとって、大きな光明だった。それだけに、こんなところへ沢庵が通るなんて、余りに偶然な気がして、お通は、白昼夢にさまよっているような気持がしてならなかった。
お通にとっては意外であったが、沢庵にしてみれば、彼女をここで発見したのは、自分の予測があたったに過ぎないことだし、それから城太郎も加えた三人づれで、柳生谷の石舟斎のところへ戻ることになったのも、べつだん何の偶然でも奇蹟でもなかったのである。
そもそも。
宗彭沢庵と柳生家との関係は、今に始まった間がらではなく、その機縁は遠い前からのことであって、この和尚がまだ大徳寺の三玄院で、味噌を摺ったり大台所を雑巾を持って這い廻っていた頃からの知りあいだった。
その頃、大徳寺の北派といわれる三玄院には、常に生死の問題を解決しようとする侍とか、武術の研究には同時に精神の究明が必要であると悟った武道家とか、異った人物の出入りが多くて、
(三玄院には謀叛の霧が立っている)
と噂されたほど、そこの禅の床は、僧よりも侍に占められていたものだった。
――そこへよく来ていた人物の中に上泉伊勢守の老弟鈴木意伯があり、柳生家の息子という柳生五郎左衛門があり、その弟の宗矩などがあった。
まだ但馬守とならない青年宗矩と沢庵とは、忽ち、親しくなって、以来、二人の交友は浅からぬものがあって、小柳生城へも幾度も訪れるうちに、宗矩の父の石舟斎とは息子以上に、
(話せるおやじ)
と尊敬し、石舟斎もまた、
(あの坊主、ものになる)
と、許していた。
こんどの訪問は、九州を遍歴して、先ごろから泉州の南宗寺へ来て沢庵は杖をとめていたので、そこから久しぶりに、柳生父子の消息を手紙でたずねてやると、その返辞に、石舟斎から細々と便りがあって、
(――近ごろ自分は至ってめぐまれている。江戸表へやった但馬守宗矩も、無事御奉公をしているし、孫の兵庫も、肥後の加藤家を辞して、目下は修行して他国を歩いているが、これもまずまずどうやら一人前にはなれそうだし、折から近ごろ、自分の手許には、眉目うるわしい笛の上手な佳人が来て、朝夕の世話やら、茶や花や和歌の相手やら、とかくに寒巌枯骨になりやすい草庵に、一輪の花をそえている。その女性は、和尚の郷国とはすぐ近い美作の七宝寺とやらで育った者であるといえば、和尚とは話も合おう。佳人の笛を聞きながら一夕の美酒は、茶で時鳥という夜ともまた変った味がある。ぜひ、そこまで来ているなら、一夜を割いて、老叟の宿へも来たまえかし)
――こういう手紙を見ると、沢庵は、尻を上げずにいられなかった。まして手紙のうちにある眉目うるわしい女性の笛吹きといえば、どうやら、かねて時折は案じている昔なじみのお通らしくもあるし――
そんなわけでぶらりとこの地方を歩いて来た沢庵であるから、その柳生谷に近い山で、お通のすがたを見かけたことは、さまで意外としなかったが、お通の話によって、
「惜しかった」
と、彼も舌を鳴らして嘆息したのは、たった今、武蔵が伊賀路のほうへ向って駈け去ったということであった。
そこの胡桃の木の丘から、石舟斎のいる山荘の麓まで、城太郎を連れて、悄々と引っ返してゆく間に、沢庵からいろいろ問いただされて、お通がつつみ隠しなく、その後の自分の歩いて来た途やらこの度のことを、彼なれば何でもと心をゆるして、語りもし相談もしたであろうことは、想像に難くあるまい。
「む。……む……」
沢庵は、妹の泣き言でも聞いてやるように、うるさい顔もせず幾たびも頷いて、
「そうか、なるほど、女というものは、男にはできない生涯を選ぶものだ。――そこで、お通さんの今考えていることは、これからどっちを歩こうという岐れ道の相談じゃろ」
「いいえ……」
「じゃあ……?」
「今さら、そんなことに、迷ってはおりません」
俯向きがちな彼女の力のない横顔を見れば、草の色も真っ暗に見えているであろうほど、滅失の中の人だったが、そういった言葉の語尾には、沢庵も眼をひらいて見直すくらい、強い力がこもっていた。
「あきらめようか、どうしようか、そんな迷いをしているくらいなら、私は七宝寺から出てなど参りません。……これからも行こうとする途は決まっているのです。ただそれが、武蔵さまの不為であったら――私が生きていてはあの方の幸福にならないのなら――私は自分を、どうかするほかないのです」
「どうかするとは」
「今いえません」
「お通さん、気をつけな」
「何をですか」
「おまえの黒髪をひっぱっているよ。この明るい陽の下で死神が」
「私には何ともありません」
「そうだろう、死神が加勢しているんじゃもの。――だが、死ぬほどうつけはないよ。それも片恋ではな。ハハハハハ」
まるで他人事に聞き流されるのがお通は腹だたしかった。恋をしない人間になんでこの気持がわかる。それは沢庵が、愚人をつかまえて禅を説くのと同じである。禅に人生の真理があるなら、恋のうちにも必死な人生はあるのだ。尠くも、女性にとっては、生ぬるい禅坊主が、隻手の声如何などと、初歩の公案を解くよりも、生命がけの大事なのである。
(――もう話さない)
唇をかんでそう決めたように、お通が黙ってしまうと、今度は沢庵から真面目さを見せて、
「お通さん、おまえはなぜ男に生れなかったのだい。それほど強い意思の男ならば、尠くも一かど国のために役立つ者になれたろうに」
「こういう女があってはいけないんですか。武蔵さまの不為なのですか」
「ひがみなさんな。そういったわけではない。――だが武蔵は、おまえがいくら愛慕を示しても、そこから逃げてしまうんじゃないか。――そうとしたら、追ってもつかまるまい」
「おもしろいので、こんな苦しみをしているのではありません」
「少し会わないうちに、お前も世間なみの女の理窟をいうようになったの」
「だって。……いえ、もうよしましょう、沢庵さんのような名僧智識に、女の気持がわかるはずはありませんから」
「わしも、女の子は、苦手だよ、返辞にこまる」
お通は、ついと足を反らし、
「――城太さん、おいで」
彼と共に、沢庵をそこへ置き捨てて、べつな道へ歩みかけた。
沢庵は立ちどまった。ふと嘆くような眉をうごかしたが、是非もないとしたらしく、
「お通さん、ではもう石舟斎様にお別れもせずに、自分の行きたい途へ行くつもりか」
「ええお別れは、心のうちでここからいたします。もともと、あの御草庵にも、こんな長くお世話になるつもりもなかったのですから」
「思い直す気はないか」
「どういうふうに」
「七宝寺のある美作の山奥もよかったが、この柳生の庄もわるくないの。平和で醇朴で、お通さんのような佳人は、世俗の血みどろな巷へ出さずに、生涯そっと、こういう山河に住まわせて置きたいものじゃ。たとえばそこらに啼いている鶯のようにな」
「ホ、ホ、ホ。ありがとうございます。沢庵さん」
「だめだ――」
沢庵は、嘆息した。自分の思い遣りも、盲目的に思う方へ走ろうとするこの青春の処女には、何の力もないことを知った。
「だが、お通さん。――そっちへ行くのは、無明の道だぞ」
「無明」
「おまえも寺で育った処女じゃから、無明煩悩のさまよいが、どんなに果てなきものか、悲しいものか、救われ難いものかぐらいは知っておろうが」
「でも、私には、生れながら有明の道はなかったんです」
「いや、ある!」
沢庵は一縷の望みへ情熱をこめて、この腕に縋れとばかり、お通のそばへ寄ってその手を取った。
「わしから石舟斎様へよう頼んであげよう。身の振り方を、生涯の落着きを。――この小柳生城にいて、よい良人をえらび、よい子を生み、女のなすことをなしていてくれたら、それだけここの郷土は強くなるし、そなたもどんなに幸福か知れぬが」
「沢庵さんのご親切はわかりますけど……」
「そうせい」
思わず手を引っ張って、城太郎へも、
「小僧、おまえも来い」
城太郎はかぶりを振って、
「おら嫌だ。お師匠さまの後を追いかけて行くんだから」
「行くにしても、一度、山荘へもどれ、そして石舟斎さまにごあいさつ申しての」
「そうだ、おら、御城内へ大事な仮面を置いて来た。あれを取りにゆこう」
城太郎は駈けて行ったが、彼の足もとには、有明もない、無明もない。
しかしお通はその二つの岐れ路に立ったままうごかなかった。それからも沢庵がむかしの友達に返って、懇々と、彼女のさしてゆく人生の危険であることと、女性の幸福がそこばかりにないことを説くのであったが、お通の今の心をうごかすには足らなかった。
「あった! あった!」
城太郎は仮面をかぶって、山荘の坂道を駈け降りて来た。沢庵はふとその狂女の仮面をながめて慄然とした。――やがて年月経た無明の彼方にいつか出会うお通の顔を今見せられたように。
「――では沢庵さま」
お通は一歩離れた。
城太郎は、彼女の袂にすがって、
「さ、行こう。サ……早く行こう」
沢庵は、昼の雲に、眸をあげ、おのれの無力を嘆じるように、
「やんぬる哉。――釈尊も女人は救い難しといったが」
「左様なら。石舟斎様へは、ここから拝んで参りますが、沢庵さんからも……どうぞ」
「ああ、われながら坊主が馬鹿に見えて来る。行く先々で、地獄ゆきの落人ばかりに行き会う。……お通さん、六道三途で溺れかけたら、いつでもわしの名をお呼び。いいか、沢庵の名を思い出して呼ぶのだぞ。――じゃあ行けるところまで行ってみるさ」
また、信長も謡った――
人間五十年、化転のうちをくらぶれば、夢まぼろしの如くなり
そういう観念は、ものを考える階級にも、ものを考えない階級にもあった。――戦が熄んで、京や大坂の街の灯が、室町将軍の世盛りのころのように美わしくなっても、
(いつまたこの灯が消えることか?)
と、人々の頭の底には、永い戦乱に滲みこんだ人生観が、容易に脱けきれないのであった。
慶長十年。
もう関ヶ原の役も五年前の思い出ばなしに過ぎない。
家康は将軍職を退き、この春の三月には二代将軍を継承した秀忠が、御礼のため上洛するのであろうと、洛内は景気立っている。
だが、その戦後景気をほんとの泰平とは誰も信じないのである。江戸城に二代将軍がすわっても、大坂城にはまだ、豊臣秀頼が健在だった。――健在であるばかりでなく、諸侯はまだそこへも伺候しているし、天下の浪人を容れるに足る城壁と金力と、そして秀吉の植えた徳望とを持っている。
「いずれ、また、戦さ」
「時の問題だ」
「戦から、戦までの間の灯だぞ、この街の明りだぞ、人間五十年どころか、あしたが闇」
「飲まねば損か、何をくよくよ」
「そうだ、唄って暮せ――」
ここにも、そういう考えのもとに、今の世間に生きている連中の一組があった。
西洞院四条の辻からぞろぞろ出て来た侍たちである。その横には、白壁で築いた長い塀と宏壮な腕木門があった。
室町家兵法所出仕
平安 吉岡拳法
と書いた門札が、もう眼をよせてよく見なければ読めないほど黒くなって、しかし厳めしさを失わずにかかっている。平安 吉岡拳法
ちょうど、街に灯がつくころになると、この門から、溢れるように若い侍が帰ってゆく。一日も、休みということはないようだ、木太刀を交ぜて、三本の刀を腰に横たえているのもあるし、本身の槍をかついで出て来る者もある。戦となったら、こういう連中が誰より先に血を見るのだろうと思われるような武辺者ばかりだった。颱風の卵のように、どれを見ても、物騒な面だましいをそなえているのである。
それが、八、九人、
「若先生、若先生」
と、取巻いて、
「ゆうべの家は、ごめん蒙りたいものだ。なあ、諸公」
「いかんわい。あの家の妓どもは若先生ひとりに媚びて、俺たちは眼の隅にもおいてない」
「きょうは、若先生の何者であるかも、俺たちの顔も、まったく知らない家へ行こうじゃないか」
そのことそのこと――とばかり動揺めくのだった。加茂川に沿って、灯の多い街だった。永いあいだ、乱世の顔みたいに、焼け跡のまま雑草にまかされていた空地も、ついに地価があがって、小屋同様な新しい仮家が建ち、紅や浅黄の暖簾がかけられ、白粉を下手に塗った丹波女が鼠鳴きをしたり、大量に買われてきた阿波女郎が、このごろ世間にあらわれ始めた三味線というものを、ポツン、ポツン、戯れ唄に交ぜて、弾いたりなどしていた。
「藤次、笠を買え、笠を」
色街の近くまで来ると、若先生と呼ばれている背のたかい黒茶の衣服に三つおだまきの紋を着けている吉岡清十郎が、連中を顧みていった。
「笠。――編笠で?」
「そうじゃ」
「笠など、おかぶりにならないでもよいではござりませぬか」
弟子の祇園藤次がいうと、
「いや、吉岡拳法の長男が、こんな所を歩いているぞと、人に振りかえられるのは嫌だ」
「あははは、笠なしでは、色ざとを歩かれぬと仰っしゃるわ。――そういう坊ンちのようなことをいうので、とかく若先生は女子にもてて困るのじゃ」
藤次は、揶揄うような、また、おだてるようなことをいって、連中の一人へ、
「おい編笠を求めてこい」
といいつけた。
酔っているものや、影絵のようなぞめきの人々と、灯を縫うてひとりは編笠茶屋へ走ってゆく。
その笠が来ると、
「こうかむれば、誰にも、わしとはわかるまいが」
清十郎は、顔をかくして、やや大びらに歩みだした。
藤次は、うしろから、
「これはまた伊達者に見える。若先生、いちだんと風流姿でございますぞ」
すると、他のものまで、
「あれ、妓たちが皆、暖簾口から見ているわ」
などと、幇間をたたいた。
しかし、門下達のことばは、あながちそら世辞ではなかった。清十郎は背が高くて、帯びている大小は綺羅びやかだし、年は三十前後の男の花の頃だし、名家の子として恥かしくない気品も実際あった。
で――軒から軒の浅黄暖簾や、紅ン殻色の出格子のうちから、
「そこへ行く、美い男さま」
「おすましの編笠さん」
「ちょっとお寄りなさいませ」
「笠のうち、一目、見せて」
と、籠の鳥が、囀り抜く。
清十郎は、よけいにとり澄ました。弟子の祇園藤次にそそのかされて、遊里に足を入れはじめたのも近頃であるが、元来が父に吉岡拳法という有名な人物を持ち、幼少から金の不自由も知らず、世間の底も知らず、まったく、坊ンち育ちに出来ているので、多分に、見栄坊なところがある。――弟子たちのお幇間や妓たちのそういう声が、甘い毒のように、彼の心を酔わしていた。
すると、一軒の茶屋から、
「あれ、四条の若先生、いけませんよ、顔をかくしても、わかっておりますよ」
と、妓が、黄いろい声でさけんだ。
清十郎は、得意な気もちをかくし、わざと驚いたように、
「藤次、どうしてあの妓は、わしを吉岡の嫡子と知っているのだろう」
と、その格子先で佇んだ。
「はてな?」
藤次は、格子のうちで笑っている白い顔と、清十郎を見くらべて、
「諸公、怪しからぬ事なござるぞよ」
「なんじゃ、何事ぞや」
連中は、わざと騒めく。
藤次は遊蕩の気分を醸るために、道化た手ぶりをして、
「初心じゃとばかり思っていたら、うちの若先生は、どうして隅へはおけない。――あの妓と、とうにお馴染であるらしい」
指さすと、妓は、
「あれ、それは嘘」
清十郎も、大げさに、
「何を申すか、わしは、この家など上がったことはない」
真面目になって、弁解するのを、藤次は、百も承知していながら、
「では、なぜ、笠で顔をかくしているあなたを、四条の若先生と、あの妓がいいあてたか、不審では、ござりませぬか。――諸公、これが不審でないと思われるか」
「怪しいものでござりますぞ」
囃したてると、
「いいえ、いいえ」
妓は、白粉の顔を格子へつけて、
「もし、お弟子さん方、それくらいなことがわからないでは客商売はできませんよ」
「ほ。えらく、広言を吐くの――。ではどこで、それがわかったか」
「黒茶のお羽織は、四条の道場にかようお武家衆好み。この遊里まで、吉岡染というて、流行っているではございませんか」
「でも、吉岡染は、誰も着る、若先生だけとは限らぬ」
「けれど、ご紋が三つおだまき」
「あ、これはいかん」
清十郎が、自分の紋を見ているまに、格子の中の白い手は、その袂をつかまえていた。
「顔をかくして、紋かくさずだ。参った! 参った!」
藤次は清十郎へ、
「若先生、こうなっては、ぜひないこと、上がっておやりなさるほか、策はありますまい」
「どうなとせい。それより、はやくわしのこの袂をはなさせてくれ」
当惑顔をすると、
「妓、上がってやると仰っしゃるから、はなせ」
「ほんとに」
妓は、清十郎の袂をはなした。
どやどやと、連中は、そこの暖簾をわけて入った。
ここも、急ごしらえの安普請である。落ちつくに堪えない部屋に、俗悪な絵だの花だのを、無智に飾りたててある。
だが、清十郎と藤次をのぞいては、そういう神経などはまるで持てない人々だった。
「酒を持て、酒を」
と、威張る。
酒が来ると、
「肴を持て」
と、いうのがいる。
肴がくると、植田良平という藤次に肩をならべるこの道の豪の者が、
「はやく、妓を持て」
と、怒鳴ったので、
「あははは」
「わははは」
「妓を持てはよかった。植田老が御意召さるぞ、はよう妓を持て!」
と、皆で真似た。
「それがしを、老とは怪しからぬ」
良平老は、若いものを、酒杯ごしに睥睨して、
「なるほど、それがしは、吉岡門では、古参に相違ないが、まだ鬢辺の糸は、このとおり黒い」
「斎藤実盛にならって、染めてござるらしい」
「何奴じゃ、場所がらをわきまえんで。――これへ出よ、罰杯をくれる」
「ゆくのは面倒、投げてくれい」
「参るぞ」
杯が飛ぶ。
「返すぞ」
また飛ぶ。
「誰ぞ、踊れ」
と、藤次がいう。
清十郎もやや浮いて、
「植田、お若いところで」
「心得てそうろう、若いといわれては、舞わずにおれん」
と、縁のすみへ出て行ったと思うと、仲居の赤い前だれを、頭のうしろに結び、その紐へ、梅の花をさし、箒をかついで、
「やよ、各

「よしよし、皆も唄え」
箸で皿をたたく、火ばしで火桶のふちをたたく。
柴垣、柴垣
しばがき、越えて
雪のふり袖
ちらと見た
振袖、雪の振袖
チラと見た
わっと、拍手にくずれて引ッ込む。すぐ妓たちが、鳴物打って、唱歌する。しばがき、越えて
雪のふり袖
ちらと見た
振袖、雪の振袖
チラと見た
きのう見し人
今日はなし
きょう見る人も
あすはなし
あすとも知らぬ我なれど
きょうは人こそ恋しけれ
片隅では、大きな器で、今日はなし
きょう見る人も
あすはなし
あすとも知らぬ我なれど
きょうは人こそ恋しけれ
「飲めんのか、こればしの酒が」
「あやまる」
「武士たるものが」
「何を。じゃあ、俺が飲んだら、貴様も飲むか」
「見事によこせ」
牛のように飲むことをもって酒飲みの本領と心得ている徒輩が、口端から、しずくをこぼしてまで我慢して、飲みくらをしている。
やがて、嘔吐をつく奴がいる。目をすえて、飲み仲間をジロジロ睨めまわしている奴がある、またふだんの慢心に火をそそいで、あるものは、
「京八流のわが吉岡先生をのぞいて、天下に、剣のわかる人間が一匹でもいるか。いたらば、拙者が先に、お目にかかりたいもんだ。……ゲ、げーい」
すると、清十郎を挟んで、その隣に、同じく、これも食べ酔って、シャックリばかりしていた男が、笑いだした。
「若先生がいると思って、見えすいたおべッかをいう奴だ。天下に剣道は、京八流だけではないぞ。また、吉岡一門ばかりが、随一でもあるまい。たとえば、この京都だけにも、黒谷には、越前浄教寺村から出た富田勢源の一門があるし、北野には小笠原源信斎、白河には、弟子はもたぬが、伊藤弥五郎一刀斎が住んでおる」
「それがどうした」
「だから、一人よがりは、通用せぬというのだ」
「こいつ! ……」
と、高慢の鼻を弄られた男は膝をのりだして、
「やい、前へ出ろ」
「こうか」
「貴様は、吉岡先生の門下でありながら、吉岡拳法流をくさすのか」
「くさしはせぬが、今は、室町御師範とか、兵法所出仕といえば、天下一に聞え、人もそう考えていた先師の時代とちがって、この道に志す輩は雲のごとく起り、京はおろか、江戸、常陸、越前、近畿、中国、九州の果てにまで、名人上手の少なくない時勢となっている。それを、吉岡拳法先生が有名だったから、今の若先生やその弟子も、天下一だと己惚れていたら間違いだと俺はいったんだ。いけないか」
「いかん、兵法者のくせに、他を怖れる、卑屈な奴だ」
「おそれるのではないが、いい気になっていてはならんと、俺は誡めたいのだ」
「誡める? ……貴さまに他人を誡める力がどこにあるか」
どんと、胸いたを突く。
あっと一方は、杯や皿のうえに手をついて、
「やったな」
「やったとも」
先輩の祇園と植田の二人は、あわてて、
「こら野暮をするな」
双方を、もぎはなして、
「まアいい、まアいい」
「わかったよ、貴さまの気持はわかっておる」
と、仲裁して、また飲ませると、一方はなおさかんに怒号するし、一方は、植田老の首にからみついて、
「おれは、真実、吉岡一門のためを思うから、直言するんだ。あんな、おべッか野郎ばかりいては、先師拳法先生の名も廃ると思うんだ……ついに廃ると……」
と、おいおい泣き出している。
妓たちは、逃げてしまうし、鼓や酒瓶は、蹴とばされている。
それを怒って、
「妓ども! ばか妓!」
罵って、ほかの部屋を、歩いているのがあると思うと、縁がわに、両手をついて、蒼ざめたのが、友人に背なかを叩いてもらっている。
清十郎は、酔えなかった。
その様子に、藤次が、
「若先生、面白くないでしょう」
と、囁くと、
「これで、彼奴らは、愉快なのであろうか」
「これが、面白いのでしょうな」
「あきれた酒だ」
「てまえが、お供をいたしますから、若先生には、どこか他の静かな家へ、おかわりになっては如何で」
すると清十郎は、救われたように、藤次の誘いに乗って、
「わしは、昨夜の家へ、参りたいが」
「蓬の寮ですか」
「うむ」
「あそこは、ずんと茶屋の格がようございますからな。――初めから、若先生も、蓬の寮へお気が向いていることは分っていたのでござるが、何せい、この有象無象がくッついて来たのでは滅茶ですから、わざと、この安茶屋へ寄ったので」
「藤次、そっと、抜けてゆこう。あとは植田にまかせて」
「厠へ立つふりをして、あとから参ります」
「では、戸外で待っているぞ」
清十郎は、連中を措いて、器用にすがたを消した。
白い踵を浮かして、つま先で立っていた。風に消された掛け行燈にあかりを入れ直し、軒へ背のびをしている洗い髪の年増女だった。なかなか釘へかからないのである。さし上げている白い肱に、燈りの影と黒髪がさやさやとうごいて、二月の晩のゆるい風には、どこか梅の薫りがしていた。
「お甲。掛けてやろうか」
うしろで、誰か、不意にいう。
「あら、若先生」
「待て」
と、側へ来たのは、その若先生の清十郎ではなくて、弟子の祇園藤次、
「これでいいのか」
「どうもおそれ入ります」
よもぎの寮
と書いてある行燈をながめ、すこし曲っているナとまた掛け直してやる。家庭ではおそろしく不精でやかましやの男が、色街へ来ると、案外親切で小まめで、自分で窓の戸をあけたり、敷物を出したり、働きたがる男というものはよくあるものだ。
「やはりここは落着く」
清十郎は、坐るとすぐいった。
「ずんと、静かだ」
「開けましょうか」
藤次は、もう働く。
せまい縁に、欄がついている。欄の下には、高瀬川の水がせせらいでいた。三条の小橋から南は、瑞泉院のひろい境内と、暗い寺町と、そして茅原だった。まだ世人の頭に生々しい記憶のある殺生関白秀次とその妾や子たちを斬った悪逆塚も、ついそのあたりに近いのである。
「はやく、女でも来ぬと、静かすぎますな。……他に今夜は客もないらしいのに、お甲のやつ、何をしているのか、まだ、茶も来ない」
しないでもよい気働きがやたらに出て来て、坐っていられない性とみえる。茶でも催促に行こうというのか、のこのこ奥へ通う細廊下へ出てゆくと、
「あら」
出会いがしらに、蒔絵の盆を持った鈴の音がした。少女である。鈴は、その袂の袖口で鳴るのだった。
「よう、朱実か」
「お茶がこぼれますよ」
「茶などどうだっていい。おまえの好きな清十郎様が来ていらっしゃるのだ。なぜ早く来ないか」
「あら、こぼしてしまった。雑巾を持っていらっしゃい、あなたのせいですから」
「お甲は」
「お化粧」
「なんだ、これからか」
「でも今日は、昼間がとても忙しかったのですもの」
「昼間。――昼間、誰が来たのか」
「誰だっていいじゃありませんか、退いて下さいよ」
朱実は、部屋へ入って、
「おいで遊ばせ」
気のつかない顔をして横をながめていた清十郎は、
「あ……おまえか、ゆうべは」
と、てれる。
千鳥棚のうえから、香盒に似た器へ、鍔のついている陶器口の煙管をのせ、
「あの、先生は、莨をおすいになりますか」
「莨は、近ごろ、御禁制じゃないか」
「でも、皆さんが隠れておすいになりますもの」
「じゃあ、吸ってみようか」
「おつけしましょうね」
青貝もようの綺麗な小箱から莨の葉をつまんで、朱実は、陶器煙管の口へ白い指でつめ、
「どうぞ」
と清十郎へ吸口を向けた。
馴れない手つきで、
「辛いものだのう」
「ホホホ」
「藤次は、どこへ行った?」
「また、お母さんの部屋でしょう」
「あれは、お甲が好きらしいな。どうも、そうらしい。藤次め、時々わしを措いて、一人で通っているにちがいない」
「――な、そうだろう」
「いやなお人。――ホ、ホ、ホ」
「何がおかしい。そなたの母も、うすうす藤次に思いを寄せているのだろうが」
「知りません、そんなこと」
「そうだぞ、きっと。……ちょうどよいではないか、恋の一対、藤次とお甲、わしとそなた」
そしらぬ顔をしながら、朱実の手の上へ手をかさねると、
「いや」
と、朱実は潔癖な弾みを与えて、膝から振り退けた。
振りのけられた手は、かえって清十郎を強くさせた。起ちかけた朱実の小がらな体を抱きすくめ、
「どこへ行くか」
「いや、いや。……離して」
「まあ、居やれ」
「お酒を。……お酒を取って来るんですから」
「酒などは」
「お母あさんに叱られます」
「お甲は、あちらで、藤次と仲よく話しおるわ」
埋め込む朱実の顔へ顔をすり寄せると、ぱっと火でもついたような熱い頬が必死に横を向いて、
「――誰か来てえっ。お母あさん! お母あさん!」
と、ほん気で叫んだ。
離した途端に、朱実は、袂の鈴を鳴らして、小鳥みたいに奥へかくれた。彼女の泣きこんだ辺りで、大きな笑い声がすぐ聞えた。
「ちッ……」
自分の置き場を失ったように、清十郎は、さびしい、苦い、何ともいえない面もちを持って、
「帰る!」
独りでつぶやいて、廊下へ出た、歩きだすと、その顔は、ぷんぷん怒っていた。
「おや、清さま」
見つけて、あわてて抱きとめたのはお甲であった。髪も束ね、化粧は先刻よりは直っていた。抱きとめておいて、藤次を加勢に呼びたてた。
「まあ、まあ」
やっと元の座敷に坐らせたのである。すぐ酒を運ぶ、お甲が機嫌をとる、藤次が、朱実を引っぱッて来る。
朱実は、清十郎の沈んでいるのを見ると、くすりと、笑靨を下に向けた。
「清さまへお酌をなさい」
「はい」
と、銚子をつきつける。
「これですもの、清さま、どうしてこの娘は、いつまで、こう子どもなんでしょう」
「そこがいいのさ、初桜は」
藤次も、わきから座を持った。
「だって、もう二十一にもなっているのに」
「二十一か、二十一とは見えんな、ばかに小粒だ――やっと十六か、七」
朱実は、小魚みたいに、ぴちぴちした表情を見せて、
「ほんと? 藤次さん。――うれしい! 私、いつまでも、十六でいたい、十六の時に、いいことがあったから」
「どんなこと」
「誰にもいえないこと。……十六の時に」
と、胸を抱いて、
「わたし、何処の国にいたか、知っている? 関ヶ原の戦のあった年」
お甲は、不意にいやな顔して、
「ぺちゃぺちゃ、くだらないお喋べりをしていないで、三味線でも持っておいで」
つんと答えずに、朱実は起った。――そして三味線をかかえると、客を娯しませようとするよりは、自分ひとりの思い出でも娯しむように、
よしや、こよいは
曇らばくもれ
とても涙で
見る月を
「藤次さん、わかる?」曇らばくもれ
とても涙で
見る月を
「ウム、もう一曲」
「ひと晩じゅうでも、弾いていたい――」
しんの闇にも
まよわぬ我を
アアさて、そ様の
迷わする
「なるほど、これでは確かに、二十一にちがいない」まよわぬ我を
アアさて、そ様の
迷わする
それまで、沈湎と額づえついていた清十郎が、どう気をとり直したか、唐突に、
「朱実、一杯ゆこう」
杯を向けると、
「ええ、頂戴」
悪びれもせず、うけて、
「はい」
と、すぐ返す。
「つよいの、そちは」
清十郎もまた、すぐあけて、
「も一杯」
「ありがと」
朱実は、下へ置かないのである。杯が小さいと見えて、ほかの大きな杯で酌しても、あッけないくらいなものだった。
体つきでは、十六、七の小娘としか見えないし、まだ男の唇によごされていない唇と、鹿みたいに羞恥みがちな眸をもっているくせに、いったい、この女のどこへ、酒が入ってしまうのだろうか。
「だめですよ、この娘は、お酒ならいくら飲ませたって酔わないんですから。三味線を持たせておくに限るんです」
お甲がいうと、
「おもしろい」
清十郎は、躍起に酌ぐ。
すこし雲ゆきがおかしいぞと懸念して、藤次が、
「どうなすったので。――若先生今夜は、ちと飲け過ぎまする」
「かまわぬ」
凡ではない、案のじょう、
「藤次、わしは今夜は、帰れぬかも知れぬぞ」
と、断って飲みつづける。
「ええ、お泊りなさいませ幾日でも。――ネ、朱実」
と、お甲は、調子づける。
藤次は眼くばせをして、お甲をそっと他の部屋へ拉して行った。――困ったことになったぞと密め声で囁くのである。あの執心ぶりでは是が非でも、朱実になんとか得心させなければ納まるまいが、本人よりは母親であるおまえの考えのほうが肝腎、金のところはどのくらいだと、真面目になってかけ合うのだった。
「さ? ……」
と、お甲は暗い中で、厚化粧の頬へ、指をついて考え込む。
「何とかせい」
藤次は、膝をつめ寄せ、
「わるくない話じゃないか、兵法家だが、今の吉岡家には、金はうんとある。先代の拳法先生が、何といっても、永年、室町将軍の御師範だった関係で、弟子の数も、まず天下第一だろう。しかも清十郎様はまだ無妻だし、どう転んだって、行く末わるい話ではないぞ」
「私は、いいと思いますが」
「おまえさえよければ、それで文句のありようはない。じゃあ今夜は、二人で泊るがいいか」
灯りのない部屋である。藤次は臆面もなくお甲の肩へ手をかけた。すると襖のしまっている次の間でがたんと物音がした。
「あ。ほかにも、客がいたのか」
お甲は、黙ってうなずいた。そして藤次の耳へ、湿っぽい唇をつけた。
「後で……」
男女は、さりげなく、そこを出た、清十郎はもう酔いつぶれて横になっている。部屋をわけて、藤次も寝た。――寝つつも眠らずに訪れを待っていたのであろう。しかし、皮肉なことだった。夜が明けても、奥は奥で、ひっそりと寝しずまった限りだし、二人の部屋へは、衣ずれの音もしなかった。
ばかな目を見た顔つきで、藤次はおそく起き出した。清十郎はもう先に起きて川沿いの部屋でまた飲んでいる。――取り巻いているお甲も朱実も今朝は、けろりと冴えていて、
「じゃあ、連れて行ってくださる? きっと」
と、何か約束している。
四条の河原に、阿国歌舞伎がかかっている、その評判をもちだしているのだった。
「うむ、参ろう。酒や折詰のしたくをしておけ」
「じゃあ、お風呂もわかさなければ」
「うれしい」
朱実とお甲と、今朝は、この母娘ばかりがはしゃいでいた。
出雲巫子の阿国の踊りは、近ごろ、町のうわさを風靡していた。
それを真似て、女歌舞伎というものの、模倣者が、四条の河原に、何軒も掛床をならべ、華奢風流を争って、各

佐渡島右近、村山左近、北野小太夫、幾島丹後守、杉山主殿などとまるで男のような芸名をつけた遊女あがりの者が、男扮装で、貴人の邸へも、出入りするのを見かけられるのも、近ごろの現象だった。
「まだか、支度は」
もう陽は午刻をすぎている。
清十郎は、お甲と朱実が、その女歌舞伎を見にゆくために、念入りなお化粧をしている間に、体がだるくなって、また、浮かない気色になった。
藤次も、ゆうべのことが、いつまでも頭にこびりついていて、彼独特な調子も出ないのである。
「女を連れてまいるもよいが、出際になって、髪がどうの、帯がなんの、あれが、実に男にとっては、小焦れッたいものでござる」
「やめたくなった……」
川を見る。
三条小橋の下で、女が布を晒していた。橋の上を、騎馬の人が通ってゆく。清十郎は、道場の稽古を想い出した。木太刀の音や槍の柄のひびきが耳についてくる。大勢の弟子が、きょうは自分のすがたが見えないのを何といっているだろう。弟の伝七郎もまた舌うちしているに違いない。
「藤次、帰ろうか」
「今になって、左様なことを仰っしゃっては」
「でも……」
「お甲と朱実をあんなに欣しがらせておいて、怒りますぞ。早くせいと、急がせて参りましょう」
藤次は出て行った。
鏡や衣裳の散らかっている部屋をのぞいて、
「あれ? 何処じゃろ」
次の部屋――そこにもいない。
布団綿のにおいが陰気に閉まっている陽あたりの悪い一間がある。何気なく、そこも、がらりと開けていた。
いきなり藤次はその顔へ、
「誰だッ」と、怒鳴られて面食らった。
思わずひと足退いて、うす暗い――表の客座敷とは較べものにならない湿々した古畳のうえを見た。やくざな性を遺憾なく身装にあらわした二十二、三歳の牢人者(註・牢ハ淋シムノ意、牢愁ナドノ語アリ。当時ノ古書ミナ牢人ノ文字ヲ用ウレド、後ノ浪人ト同意味ナリ)――が、大刀のつばを腹の上に飛び出させたまま、大の字なりに寝ころんで、汚い足の裏をこっちに向けているのである。
「ア……。これは粗相、お客でござったか」
藤次がいうと、
「客ではないッ」と天井へ向って、その男は、寝たまま怒鳴る。
ぷーんと、酒のにおいが、その体からうごいてくる。誰か知らぬが、触らないにかぎると、
「いや、失礼」
立ち去ろうとすると、
「やいっ」
むッくり起きて呼び返した。
「――後を閉めてゆけ」
「ほ」
気をのまれて、藤次が、いわれた通りにしてゆくと、風呂場の次の小間で、朱実の髪をなでつけていたお甲がどこの御寮人かとばかり、こってり盛装したすがたをすぐその後から見せて、
「あなた、何を怒ってるんですよ」
と、これまた、子どもでも叱りつけるような口調でいう。
朱実が、うしろから、
「又八さんも行かない?」
「どこへ」
「阿国歌舞伎へ」
「べッ」
本位田又八は、唾でも吐くように、唇をゆがめてお甲へいった。
「どこに、女房のしりに尾きまとう客の、そのまたしりに尾いて行く亭主があるかっ」
化粧きぬいて、盛装して――女の外出は浮いた感傷に酔っている、それを、掻き乱された気がしたのであろう。
「何ですって」
お甲は眼にかどを立てた。
「私と藤次様と、どこが、おかしいんですか」
「おかしいと、誰がいった」
「今、いったじゃありませんか」
「…………」
「男のくせに――」
と、お甲は、灰をかぶせたように黙ってしまった男の顔をにらんで、
「嫉いてばかりいるんだから、ほんとに、嫌になっちゃう!」
そして、ぷいと、
「朱実、気ちがいに関ってないで行こう」
又八は、その裳へ、腕をのばした。
「気ちがいとは、何だっ。――良人をつかまえて、気ちがいとは」
「なにさ」
お甲は振り退けて、
「亭主なら、亭主らしくしてごらん。誰に食わせてもらっていると思うのさ」
「な……なに……」
「江州を出て来てから、百文の金だって、おまえが稼いだことがあるかえ。私と、朱実の腕で暮して来たんじゃないか。――酒をのんで、毎日ぶらぶらしていて、どう文句をいう筋があるえ」
「だ……だから俺は、石かつぎしても、働くといっているんだ。それをてめえが、やれ、まずい物は食えないの、貧乏長屋はいやだのと、自分の好きで、俺にも働かせず、こんな泥水稼業をしているんじゃねえか。――やめてしまえッ」
「何を」
「こんな商売」
「やめたら、あしたから食べるのをどうするのさ」
「お城の石かつぎしても、俺が食わしてみせる。なんだ、二人や三人の暮しぐらい」
「それ程、石かつぎや、材木曳きがしたいなら、自分だけここを出て、独り暮しで土方でも何でもしたらいいじゃないか。おまえさんは、根が作州の田舎者、そのほうが生れ性に合っているのでしょ。何も無理にこの家にいてくれと拝みはしませんからね、どうか、いやなら何時でもご遠慮なく――」
くやし涙を溜めている又八の眼の先から、お甲も去り、朱実も去った。――そうして二人のすがたが眼の前からいなくなっても、又八は、一方をにらみつけていた。
ぼろぼろと湯のわくように涙が畳へ落ちる。今にして悔やむことはすでに遅いが、関ヶ原くずれの身を、あの伊吹山の一軒家に匿まわれたことは、一時は、人の情けの温かさに甘え、生命びろいをした幸運に似ていたが、実はやはり敵の手に擒人となってしまったも同じであった。――正々堂々、敵に捕われて軍門に曳かれた結果と、多情な後家のなぐさみものになって、生涯男がいもなく悶々と陽かげの悩みと侮蔑の下に生きているのと、いったいどっちが幸福であった? ――あの人魚を食ったようにいつまでも若くて、飽くなき性の脂と白粉と、虚慢ないやしさを湛えているすべた女に、これからという男の岐れ道をこうされて。
「畜生……」
又八は身をふるわした。
「畜生め」
涙が滲む。骨の髄から泣きたくなる。
なぜ! なぜ! おれはあの時宮本村の故郷へ帰らなかったろうか。お通の胸へ帰らなかったか。
あのお通の純な胸へ。
宮本村には、おふくろもいる。分家の聟、分家の姉、河原の叔父貴――みんな温ッたかい!
お通のいる七宝寺の鐘はきょうも鳴っているだろう。英田川の水は今もながれているだろう、河原の花も咲いていよう、鳥も春を歌っているだろう。
「馬鹿。馬鹿」
又八は、自分の頭を、自分の拳で撲った。
「この馬鹿ッ」
ぞろぞろと連れ立って、今、家を出かけるところらしい。
お甲、朱実、清十郎、藤次。――ゆうべから流連けの客二人に母娘二人。
はしゃぎ合って、
「ほう、戸外は春だの」
「すぐ、三月ですもの」
「三月には、江戸の徳川将軍家が、御上洛という噂。おまえ達はまた稼げるな」
「だめ、だめ」
「関東侍は遊ばぬか」
「荒っぽくて」
「……お母さん、あれ、阿国歌舞伎の囃子でしょう。……鐘の音が聞えてくる、笛の音も」
「ま――。この娘は、そんなことばかりいって、魂はもう芝居へ飛んでいるのだよ」
「だって」
「それより、清十郎様のお笠を持っておあげ」
「はははは、若先生、おそろいでよう似合いますぞ」
「嫌っ。……藤次さんは」
朱実が後ろを振り向くと、お甲は袂の下で、藤次の手に握られていた自分の手をあわててもぎはなした。
――その跫音や声は、又八のいる部屋のすぐ側を流れて行ったのである。
窓一重の往来を。
「…………」
又八の怖い眼が、その窓から見送っていた。青い泥を顔へ塗ったように、押しつつんでいる嫉妬である。
「何だッ」
暗い部屋へ、ふたたび、どかっと坐って、
「――何のざまだっ、意気地なしめ、このざまは、このベソは」
それは自分を罵っているのである。――腑がいない、小癪にさわる、浅ましい――すべて自分に対する自分の憤懣を発している所作なのだった。
「――出ろと、あの女めがいうのだ。堂々と、出て行けばいい。何をこんな家に、こんな歯ぎしり噛んでまでいなければならない理がある。まだ、俺だって二十二だ。――いい若い者が」
がらんと急に静かになった留守の家で、又八は独りで声を出していった。
「その通りだ、それを」
いても起ってもおれなくなる。なぜだ! 自分にもわからない。混沌と頭がこんがらかるばかりだ。
この一、二年の生活で、頭が悪くなったことを又八は自分でも認めている。たまッたものではない、自分の女が、よその男の席へ出てかつて自分へしたような媚態をほかへ売っているのだ。夜も眠れない。昼も不安で外へ行く気も出ない。そしては悶々と、陽かげの部屋で、酒だ、酒である。
あんな年増女に!
彼は忌々しさを知っている。目前の醜いものを蹴とばして、大空へ青年の志望を伸ばすことが、せめて遅くとも、過誤の道をとり返す打開であることもわかっている。
だが……さてだ。
ふしぎな夜の魅惑がそれを引きとめる。どうした粘力だろう。あの女は魔か。――出て行けの、厄介者のと、癇だかく罵ったことばも、深夜になればそれは皆、悪戯ごとのようにあの女の快楽の蜜に変ってしまうのだ。四十に近い年になっても、娘の朱実に劣らない臙脂を紅々と溶かしている唇。
――それもある。また。
いざとなると、此処を出ても、お甲や朱実の目にふれるところで石担ぎをやる勇気も又八は持ち合せていない。こういう生活も五年となれば、彼の体にも怠けぐせが沁みこんでいることは勿論だった。肌に絹を着、灘酒と地酒の飲みわけがつくようになっては、宮本村の又八もはや、以前の質朴や剛毅さのあった土くさい青年とはちがう。殊にまだ二十歳前の未熟なうちから、年上の女と、こういう変則な生活をして来た青春が、いつのまにか、青年らしい意気に欠け、卑屈に萎み、依怙地に歪んでしまったのも、当り前だった。
だが! だが! 今日こそは。
「畜生、後であわてるな」
憤然と、自分を打って、彼は起った。
「出てゆくぞ、おれは」
いってみたところで、家は留守である、誰も止め人はない。
こればかりは遉に離さない大きな刀を、又八は腰にさし、そして独りで唇を噛みしめた。
「俺だって、男だ」
表の暖簾口から大手を振って出ても決して差しつかえないものを、平常の癖である、台所口から汚い草履を突っかけて、ぷいと外へ出た。
出たが――
「さて?」
足がつかえたように、白々と吹く春先の東風の中に、又八は目瞬いていた。
――何処へ行くか?
世間というものが途端に渺茫として頼りない海騒のように思えた。経験のある社会といえば、郷里の宮本村と、関ヶ原の戦のあった範囲よりほか知らないのである。
「そうだ」
又八は、また、犬のように台所口をくぐって家の中へ戻った。
「――金を持って行かなければ」
と、気がついたのである。
お甲の部屋へ入った。
手筥だの、抽斗だの、鏡立てだの、手あたり次第に掻き廻してみた。しかし、金はみつからなかった。あらかじめこういう悪心は行き届いている女である。又八は気を挫いて、取りちらした女の衣裳の中へ、がっかり坐り込んでしまった。
紅絹や、西陣や、桃山染や、お甲のにおいが陽炎のように立つ。――今頃は河原の阿国踊りの小屋で、藤次と並んで見ているだろうと、又八はその姿態や肌の白さを眼にえがく。
「妖婦め」
しんしんと脳の髄から滲み出るものは、ただ悔いの苦い思い出だった。
今さらではあるが、痛烈に、思われる人は、故郷元へ捨てたままの許婚――お通であった。
彼は、お通を忘れ得なかった。いや日の経つほど、あの土くさい田舎に自分を待つといってくれた人の清純な尊さがわかって来て、掌を拝せて詫びたいほど恋しくなっていた。
だが、お通とも、今は縁も切れたし、こッちから顔を持ってゆけた義理でもない。
「それも、彼婦のためだ」
今、眼が醒めても遅いが、あの女に、お通という女性が故郷にあることを正直に洩らしたのがわるかった。お甲は、その話を聞く時は、婀娜な笑くぼをたたえて、至って無関心に聞いていたが、心のうちでは深い嫉妬をもったらしく、やがて何かの時に、それを痴話喧嘩にもちだして、何でも縁切り状を書けと迫り、しかも自分の露骨な女文字までわざと同封して、あの何も知らずにいる故郷のお通へ宛てて、飛脚で出してしまったものである。
「――ああ、どう思ってるだろうなあ? お通は……お通は」
狂わしく又八は呟いた。
「今頃は? ……」
悔いの瞼に、お通が見える。恨めしげなお通の眼が見える。
故郷の宮本村にも、そろそろ春が訪れていよう。きょうも、なつかしいあの川、あの山々。
又八は、ここから叫びたくなった。そこにいるお母、そこにいる縁者たち、みんな温ッたかい! 土までもぽかぽか温ッたかい!
「二度と、もうあの土は踏めないのだ。――それもみんな、こいつのためだ」
お甲の衣裳つづらを打ちまけて、又八は、手当り次第に引ッ裂いた。裂いては、家中へ蹴ちらかした。
と、――さっきから表の暖簾口で、訪れている者があった。
「ごめん。――四条の吉岡家の使いでござるが、若先生と、藤次殿が参っておりませぬか」
「知らぬっ」
「いや、参っているはずでござる。隠れ遊びの先へ、心ない業とは承知しておりますが、道場の一大事――吉岡家の名にもかかわること――」
「やかましい」
「いや、お取次でもよろしい。……但馬の士宮本武蔵という武者修行の者、道場へ立ち寄り、門弟たちに立ち対える者一人もなく、若先生のお帰りを待とうと、頑として、動かずにおりますゆえ、すぐお帰りねがいたいと」
「な、なにッ、宮本?」
吉岡家にとって、きょうはなんという悪日か。
この西洞院西ノ辻に、四条道場が創まって以来の汚辱を兵法名誉の家門に塗ったものとして、今日を胆に銘記しなければならない――と、心ある門人たちは、沈痛きわまる面をして、もういつもならそれぞれ黄昏れを見て帰り途へちらかる時刻の道場に、まだ、暗然たる動揺を無言にもって或る群れは板敷きの控えにかたまり、或る群れは一室のうちに、墨のごとく残っていた。一人も帰らずに残っていた。
門前で、駕でも止ったような物音がすると、
「お帰りか」
「若先生か」
人々は、暗い無言をやぶって、立ちかけた。
道場の入口で、憮然と、柱によりかかって立っていた一人が、
「ちがう」
と、首を重く振る。
そのたびごとに、門人たちは、沼のような憂暗にかえった。或る者は、舌うちを鳴らし、或る者は、そばの者に聞えるような嘆息をし、忌々しげな眼を、夕闇の中に、ぎらぎらさせていた。
「どうしたのだ? いったい」
「きょうに限って」
「まだ若先生の居所はわからんのか」
「いや、手分けして方々へ捜しに走らせているから、もう追ッつけ、お帰りになるだろう」
「ちいッ」
――その前を、奥の部屋から出て来た医者が、黙々と門人たちに見送られて玄関へ出て行った。医者が帰ると、その人たちはまた無言で一室へ退いた。
「燈火をつけるのも忘れていやがる。――誰か、あかりを灯けんのかっ」
と、腹だたしげに呶鳴る者がある。自分たちの汚辱に対して、自分たちの無力を怒る声だった。
道場の正面にある「八幡大菩薩」の神だなに、ぽっと、神あかしが灯った。しかし、その燈明さえ、晃々とした光がなかった。弔火のように眼に映って、不吉な暈がかかっている気がするのである。
――そもそもが、ここ数十年来、吉岡一門というものは、余りに順調でありすぎたのではあるまいか。古い門人のうちでは、そうした反省もしていた。
先代――この四条道場の開祖――吉岡拳法という人物は、今の清十郎やその弟の伝七郎とはちがって、たしかに、これは偉かったに違いない。――根は一介の染物屋の職人に過ぎなかったが、染型をつける紺屋糊のあつかいから太刀使いを発明して、鞍馬僧の長刀の上手に仕いたり、八流の剣法を研究したりして、ついに、一流をたて、吉岡流の小太刀というものは、時の室町将軍の足利家で採用するところとなり、兵法所出仕の一員に加えられるまでになった。
(お偉かったな、やはり)
今の門下も、何かにつけ、追慕するのは、亡き拳法の人間とその徳望であった。二代目の清十郎その弟の伝七郎、共に父に劣らない修業はさずけられていたが、同時に、拳法の遺して行った尠からぬ家産と、名声をもそのまま貰っていた。
(あれが禍いだ)
と、或る者はいった。
今の弟子も、清十郎の徳についているのではない、拳法の徳望と吉岡流の名声についているのである。吉岡で修業したといえば、社会で通りがよいから殖えている門生なのであった。
足利将軍家が亡んだので、禄はもう清十郎の代になってからはなかったが、身に娯みをしなかった拳法の一代に、財産は知らないまにできていた。それに宏壮な邸はあり、弟子の数は何といっても、日本一の京都において、随一といわれるほどあって、その内容はともかく、外観では、剣をつかい剣に志す社会を風靡している。
――が、時代はこの大きな白壁の塀の外において、塀の内の人間が、誇ったり、慢じ合ったり、享楽したりしている数年の間に、思い半ばに過ぎるような推移をとげていた。
それが、きょうの暗澹たる汚辱にぶつかり慢心の眼がさめる日となってきたのだ。――宮本武蔵という、まだ聞いたこともない田舎者の剣のために。
事件の起りはこうである。
――作州吉野郷宮本村の牢人宮本武蔵という者ですが。
と、今日玄関へ来て訪れた田舎者があるという取次の言葉であった。居合わせた連中が興がって、どんな男かと訊ねると、取次のいうには、年の頃はまだ二十一か二、背は六尺に近く、暗やみから曳きだした牛のようにぬうとしている、髪は一年も櫛など入れたことがないらしく赤くちぢれたのを無造作に束ね、衣服などは、無地か小紋か、黒か茶か、分らないほど雨露に汚れていて、気のせいか臭いような気さえする。それでも背中には、俗に武者修行袋とよぶ紙撚網に渋をひいて出来ている重宝包みを斜めに背負いこんでいる所、やはり近頃多い武者修行を以て任じているらしくあるが、何としても間が抜けた若者だ――ということであった。
それもいい。お台所で一食のおめぐみにとでもいうことか、この広大な門戸を見て、人もあろうに当流の吉岡清十郎先生に試合をねがいたいという希望だと聞いたから、門人たちは吹きだしてしまった。追ッ払え、という者もあったが、待て待て何流で誰を師にして学んだか訊いてやれという者もあって、取次が面白半分に往復すると、その返辞がまた振っている。
――幼少の時、父について十手術を習いました。それ以後は、村へ来る兵法者について、誰彼となく道を問い、十七歳にして、郷里を出、十八、十九、二十の三ヵ年は故あって学問にのみ心をゆだね、去年一年はただ独り山に籠って、樹木や山霊を師として勉強いたしました。されば自分にはまだこれという師もなく流派もありません。将来は、鬼一法眼の伝を汲み、京八流の真髄を参酌して、吉岡流の一派をなされた拳法先生のごとく、自分も至らぬ身ながら一心に励んで、宮本流を創てたいのが望みでございます。
と、いかにも世間摺れない正直さはあるが、訛りのある廻らぬ舌で、咄々と答えたといって、取次が、またその口真似をして伝えたので、さあみんな、再び笑いこけてしまった。
天下一の四条道場へ、のそのそやって来るのさえ、既によほど戸惑った奴でなければならんのに、拳法先生のごとく一流を創てたいなどとは、身のほど知らずも、ここまでになれば珍重してよろしい。いったい、死骸の引取人はあるのかないのか聞いて来いと、さらに、からかい半分に取次へいってやると、
(死骸の儀なれば、万一の場合は鳥辺山へお捨て下さろうとも、加茂川へ芥と共にお流し下さろうとも、決して、おうらみには存じませぬ)
と、これはぬうとしているに似げないさッぱりした返辞だという。
(上げろ)
と一人が口を切ったのが始まりであった。道場へ通して、片輪ぐらいにして抛り出すつもりであったのだ。ところが、最初の立合いに、片輪は道場側の方に出来てしまった。木剣で腕を折られたのだ、折られたというより

次々に立ち上がった者が、ほとんど同様な重傷を負うか惨敗を舐め尽してしまったのである。木剣とはいえ床には血さえ滴った。凄愴な殺気はみなぎって、たとえ吉岡の門人が一人のこらず斃れるまでも、この無名の田舎者に誇りを持たせたまま生かして帰すことはならなくなった。
(――無益であるからこの上は清十郎先生に)
と当然な乞いのもとに、武蔵はもう立たないのであった。やむなく、彼には一室を宛てがって待たせておき、清十郎の行く先へは使いを走らせ、一方では医者を迎えて、重体の傷負い数名を、奥で手当てしていた。
その医者が帰ると間もなく、燈火のついた奥の部屋で傷負いの名をよぶ声が二、三度聞えた。道場の者が、駈け寄ってみると、そこに枕をならべている六名の者のうちで、二人はもうこときれて死んでいた。
「……だめか」
死者の枕元をかこんだ同門の者たちの顔は、一様に蒼くにごって、重くるしい息をのんだ。
そこへ、あわただしい跫音が、玄関から道場へ通り、道場から奥へ入って来た。
祇園藤次を連れた吉岡清十郎であった。――
二人とも、水から上がって来たような醒めた顔いろを湛えていた。
「どうしたのだ! この態は」
藤次は吉岡家の用人格でもあり、また道場では古参の先輩でもあった。従ってその言葉つきは場合にかまわず、いつも権柄であった。
死人の枕元で、涙ぐんでいた多感らしい門人が、途端に憤ッとした眼を上げて、
「何をしていたとはあなたがたのことだ。若先生を誘惑いあるいて、馬鹿も程にしたがよいッ」
「何だと」
「拳法先生のご在世中には、一日たりとも、こんな日はなかったんだぞ!」
「たまたまのお気ばらしに、歌舞伎へお出でになったくらいのことが、なんで悪いか。若先生をここにおいて、なんだその口は。出過ぎ者め」
「女歌舞伎は、前の晩から泊らなければ行けないのか。拳法先生のお位牌が、奥の仏間で、泣いてござるわっ」
「こいつ、いわしておけば」
その二人をなだめて別室へ分けるために、そこはしばらくがやがやしていた。――すると、直ぐ隣室の暗やみで、
「……や……やかましいぞっ……人の苦痛も知らずに……ウーム……ウーム」
呻く者があると思うと、
「そんな内輪喧嘩より、若先生が帰って来たなら、早く、今日の無念ばらしをしてくれっ。……あの……奥に待たせてある牢人めを、生かして、ここの門から出しては駄目だぞっ。……いいかっ、たのむぞ」
蒲団のうちから、畳をたたいて喚いている者もある。
死に至るほどではなかったが、武蔵の木剣の前に立って、脚や手を打ち砕かれた怪我人組の、それは興奮であった。
(そうだ!)
誰もが、叱咤された気がした。今の世の中で農、工、商のほかに立つ人間が、最も日常に重んじあっているものは「恥」ということだった。恥と道づれなれば、いつでも死のうとこの階級は競う気持すらあった。時の司権者は、軍にばかり追われて来たので、まだ天下に泰平を布く政綱もなかったし、京都だけの市政にしてからずいぶん不備で大ざっぱな法令で間にあわせられているのであるが、士人のあいだに、恥辱を重く考えるという風がつよいので、百姓にも町人にも、自らその意気が尊ばれ、社会の治安にまで及ぼしているので、法令の不完全も、こういう市民の自治力で償われて余りあるのであった。
吉岡一門の者にしても、まだその恥を知ることにおいては、決して、末期の人間のような厚顔は持たなかった。一時の狼狽と、敗色から甦ると、すぐ恥というものが頭へいっぱいに燃えた。
(師の恥)
とばかり、小我を捨てると、一同は道場に集まった。
清十郎を取り巻いてである。
だが、その清十郎の面は、きょうに限って、ひどく闘志がない。ゆうべからのつかれが、今になって眉にただよっていた。
「――その牢人者は」
清十郎は、革だすきをかけながら訊ねた。門人の出した二本の木剣を選んで、その一本を右手に提げた。
「お帰りを待とうという彼奴のことばにまかせて、あの一室に、控えさせてあります」
と、一人が庭に向っている書院脇の小部屋を指した。
「――呼んで来い」
清十郎の乾いた唇から出た言葉である。
挨拶をうけてやろうというのだった。道場から一段高い師範の座に腰をかけ、木剣を杖に立って、清十郎はいった。
「は」
三、四人が答えて、すぐ道場の横から草履を穿き、庭づたいに、書院の縁へ走ろうとするのを、祇園藤次や植田などの古参が、その勢い込む袂をつかまえて、
「待て待て、逸まるな」
それからの囁きは、すこし離れて見ている清十郎の耳には聞えなかった。吉岡家の家人、縁者、古参を中心として、一かたまりになりきれない程なあたま数が、幾組にもわかれて、額をよせ集め、何か、異論と主張と、評議紛々たるものがあった。
――が、相談はすぐ決まったらしい。吉岡家を思い、清十郎の実力をよく知る大勢の者の考えとして、奥に待っている無名の牢人を呼び出して、ここで無条件に清十郎へ立ち対わせることは、何としても不得策である。すでに、幾名かの死者と怪我人を出している上に、万一清十郎までが敗れたら吉岡家の重大事であって、危険極まるというのが、その人たちの危惧であった。
清十郎の弟、伝七郎がいるならば、そういう心配はまずないものと人々は思う。ところが生憎とその伝七郎までが、きょうは早朝からいないのだ、先代拳法の天分は、兄よりはこの弟のほうに多分によい質があると人々は見ているのだが、責任のない次男坊の立場にあるので、至って暢気者だ。きょうも友達と伊勢へ行くとかいって、帰る日も告げずに家を出ているのだった。
「ちょっと、お耳を」
藤次はやがて、清十郎のそばへ行って、何か囁いていた。――清十郎の面は堪え難い辱しめをうけたように汚れた。
「――騙し討ちに?」
「…………」
叱っと、藤次は眼をもって、清十郎の眼を抑えた。
「……そんな卑怯なことをしては、清十郎の名が立たぬ。たかの知れた田舎武芸者に、怖れをなして、多勢で打ったと世間にいわれては」
「ま……」
藤次は、強いて毅然と装う清十郎のことばへ圧しかぶせて、
「吾々にまかせて下さい。吾々の手に」
「そち達は、この清十郎が、奥にいる武蔵とやらいう人間に、敗けるものと思うているのか」
「そういう理ではありませぬが、勝って、名誉な敵ではなし、若先生が手を下すには、勿体ない、と一同が申すのでござる。――何も外聞にかかわるほどなことでもありますまい。……とにかく生かして返しては、それこそ、御当家の恥を、世間に撒きちらされるようなものですからな」
そんなことをいっている間に、道場に充ちている人間は、半数以上も減っていた。――庭へ、奥へ、また玄関から迂回して裏門のほうへと、蚊の立つように音もなく闇へ紛れてゆくのであった。
「あ。……もう猶予はなりません、若先生」
藤次は、そこの灯を、ふっと吹き消してしまった。――そして下緒を解いて袂をからげた。
清十郎は腰かけたままながめていた。ほっとした気持がどこかでしないでもない。しかし、決して愉快ではなかった、自分の力が軽視された結果にほかならないのだ。父の死後、怠って来た修業のあとを省みて、清十郎は暗い気持だった。
――あれほどな門下や家人が、どこへ潜んでしまったか、道場には、もう彼一人しか残っていなかった。そして、井戸の底に似た物音のない暗さと冷たさが、邸のうちを占めた。
――じっとしていられないものが、清十郎の腰を起たせた。窓からのぞいてみると、灯の色が映しているのは、武蔵という客を待たせてある一室だけで、そのほかに何物も見えなかった。
障子のうちの燈火は、時々、静かな瞬きをしていた。
縁の下、廊下、隣の書院など、その仄かな灯影のゆれている一室の他は、すべて暗かった。徐々と、無数の眼が、蟇のようにその闇を這い寄っていた。
息をころし、刃を伏せて、
「…………」
じっと、燈火のさす内の気はいを、身体じゅうで訊き澄ます。
(はてな?)
藤次は、ためらった。
他の門人たちも、疑った。
――宮本武蔵とやら、名まえこそ都で聞いたこともない人間だが、とにかくあれほどつかう腕の持主である。それが、しいんとしているのはどういうものだろう、多少なり兵法に心をおく人間ならば、いくら上手に忍び寄ろうが、これだけの敵が室外に迫って来るのを気づかずにいるはずはない。今の世を兵法者で渡ろうという者が、そんな心がまえであったら、月に一ツずつ生命があっても足らないことになる。
――(寝ているな)
一応は、そう考えられた。
かなり長い時間であったから、待ちしびれを切らして、居眠っているのではあるまいかと。
だが、思いのほか相手が曲者とすると、或は、こっちの空気を早く察しながら、襷股立ちの身こしらえまで十分にしておいて、わざと燈心の丁字を剪らずに、来らば――と鳴りをひそめているのかもわからない。
(そうらしい……いや、そうだ)
どの体も硬ばってしまう。自分の殺気でまず自分が先に打たれているのだ。誰か先に捨て身にならないかと味方のほうへも気を配るのである。ゴクリと喉の骨が鳴ったりする。
「宮本氏」
ふすま隣から、藤次が気転でこう声をかけた。
「――お待たせいたした。ちょっと、お顔を拝借ねがいたいが」
相変らずしいんとしたものである。いよいよ敵には用意がある。藤次はそう考えて、
(抜かるな!)
と、眼合図を左右の者に投げておいて、どんと、襖の腰を蹴った。
途端に、中へ躍りこむはずの人影が、無意識にみな身を退いた。――襖の一枚は脚を外して閾から二尺ほど股をひらいている。それッと、誰か叱咤した。四方の建具がぐわらぐわらと一度に鳴りを立てて暴れた。
「やっ?」
「いないぞっ」
「いないじゃないか」
急に強がった声が揺れている燈火の中で起った。つい今し方、ここへ燭台を門人が運んで来た時はまだきちんと坐っていたというその敷物はある、火桶はある、また飲まないまま冷えている茶もあるのだ。
「逃がした」
一人が縁へ出て庭へ伝える。
庭の暗がりや床下から、むらむら寄って来た人影が皆、地だんだを踏み、見張人の不注意を罵った。
見張をいいつかっていた門人たちは、口を揃えて、そんなはずはないという。いちど厠へ立つ姿は見たが、すぐ部屋へもどったきり、武蔵は断じてこの部屋を出ていないといって不審かる。
「風ではあるまいし……」
その抗弁を嘲殺していると、
「あっ、ここだ」
戸棚へ首を突っこんだ者が、剥がれている床の穴を指さした。
「燈火がついてからといえば、まだそう遠くへは走っていないぞ」
「追え、追打ちに」
敵の弱身を測って急に奮いだした武者ぶるいが、小門、裏門をどっと押して、外へ散らかった。
すると直ぐ――いたッと叫ぶ声がながれた。表門の袖塀の蔭から弾かれたように一つの影が、往来を横ぎって向うの小路へ隠れたのを、声と共に、誰も見た。
まるで脱兎の逃げ足だった。突当りの築土を、その男の影は蝙蝠のように掠めて、横へ外れた。
大勢のみだれた跫音が、あッちだこッちだと、その後から追い捲くって行く、前へもまわってゆく。
空也堂と本能寺の焼け跡とが道路を挟んでいる薄暗い町まで来ると、
「卑怯者」
「恥知らずが」
「よくも、よくも、最前は」
「さあ、もどれ」
捕まえたのだ。ひどい乱打と足蹴の下に、捕われた男は大きな呻きを発したが、それが逃げるだけ逃げ廻っていたこの人間の猛然と立ち直った挑戦であったとみえ、中の襟がみを取って曳きずるように踏ン張っていた二、三名の者は同時に大地へたたきつけられていた。
「あっ」
「こいつがッ」
すでに血になろうとするその旋風へ、
「待った、待った!」
「人違いだ」
誰からともなく叫び出した。
「やっ、なるほど」
「武蔵じゃない」
唖然として気抜けしている所へ遅れ走せに加わった祇園藤次が、
「捕まえたか」
「捕まえることは捕まえたが……」
「オヤ、その男は」
「ご存知か」
「よもぎの寮という茶屋の奥で――。しかも今日、会ったばかり」
「ほ? ……」
いぶかしげに見る大勢の眼が、黙然と、こわれた髪や衣紋を直している又八の足の先まで撫でまわして、
「茶屋の亭主?」
「いや亭主ではないと、あそこの内儀がいった、懸人だろう」
「うさんな奴だ。何だって、御門前にたたずんで、覗き込んでなどおったのか」
藤次は、急に足を移して、
「そんな者にかまっていては、相手の武蔵を逸してしまう。早く手分けをして、せめて、彼の泊っている宿先でも」
「そうだ、宿を突きとめろ」
又八は本能寺の大溝へ向いて、黙然と首を垂れていたが、わらわら駈け去ってゆく跫音へ、何思ったか、
「あ、もしっ、しばらく」
と、呼びとめた。
最後の一人が、
「なんだ」
足を止めると、又八のほうからも足を運んで、
「きょう道場へ来た武蔵とかいう者は、幾歳くらいの男でした」
「年などはしらん」
「てまえと、同年くらいじゃございませんか」
「ま、そんなものだ」
「作州の宮本村と申しましたか、生国は」
「左様」
「武蔵とは、武蔵と書くのでございましょうな」
「そんなことを訊いてどうするのだ。そちの知人か」
「いえ、べつに」
「用もない所をうろついていると、また、今のような災難にあうぞ」
いい捨てると、その一人も闇へ駈け去った。又八は、暗い溝に沿って、とぼとぼ歩きだした。時々、星を仰いでは立ちどまっている。何処へという目的もないような容子なのである。
「……やっぱり、そうだった。武蔵と名をかえて、武者修行に出ているとみえる。……今会ったら、変っているだろうな」
両手を、前帯へ突っこんで、草履の先で石を蹴る。その石の一つ一つに、彼は友達の顔を、眼にえがいた。
「……間がわるいな、どう考えても、今会うのは面目ない。おれにだって、意地はある。あいつに見蔑げられるのは業腹だ。……だが吉岡の弟子たちに見つかったら生命はあるまい。……何処にいるのか、知らしてやりたいものだが」
石ころの多い坂道に沿い、行儀の悪い歯ならびのように、苔の生えた板廂が軒を並べていた。
くさい塩魚を焼くにおいがどこかでする。午ごろの陽ざしが強い、不意に、一軒のあばら屋のうちで、
「嬶や餓鬼を、乾ぼしにしておいて、どの面さげて帰って来たかっ、この呑ンだくれの、阿呆おやじがっ」
癇だかい女の声が聞え、それとともに一枚の皿が往来へ飛んで来て、真ッ白に砕けたと思うと、つづいて五十ぢかい職人ていの男が、抛り出されたように転び出した。
裸足で、ちらし髪で、牝牛のような乳ぶさを胸からはだけ放している女房が、
「この、ばかおやじ、何処へ行くっ」
飛び出して来て、おやじの髷をつかみ、ぽかぽかと撲る、喰いつく。
火のつくように子は泣いている。犬はきゃんきゃんいう、近所からの仲裁が駈けて出る。
――武蔵は振り向いた。
笠の裡で、苦笑して見ていた。彼は、先刻からその軒つづきの陶器師の細工場の前に立ち、子供のように何事も忘れて、轆轤や箆の仕事に見恍れていたのであった。
「…………」
ふり向いた眼はまたすぐ細工場のうちへ戻っている。武蔵は、見とれていた。しかし、そこで仕事をしている二人の陶器師は、顔も上げなかった。粘土の中にたましいが入っているように、三昧になりきっていた。
路傍にたたずんで見ているうちに、武蔵は、自分もその粘土を捏ねてみたくなった。彼には、何かそういうことの好きな性質が幼少い時からあった。――茶碗くらい出来るような気がする。
だが、その一人のほうの六十ぢかい翁が、箆と指のあたまで、今、一個の茶碗になりかけている粘土をいじっているのを見ると、武蔵は、自分の不遜な気持がたしなめられた。
(これは、たいへんな技だ、あれまで行くには)
このごろの武蔵の心には、ままこういう感動を抱くことがあった。人の技、人の芸、何につけ優れたものに持つ尊敬である。
(自分には、似た物もできない)
はっきりと今も思う。見れば、細工場の片隅には、戸板をおいてそれへ皿、瓶、酒盃、水入れのような雑器に、安い値をつけて、清水詣での往来の者に傍ら売っているのである。――これほどな安焼物を作るにも、これほどな良心と三昧とをもってしているのかと思うと、武蔵は自分の志す剣の道が、まだまだ遠いものの気がした。
――実は、ここ二十日あまり、吉岡拳法の門を始め、著名な道場を歩いてみた結果、案外な感じを抱き、同時に自分の実力が、自分で卑下しているほど拙いものではないという誇りも大いに持っていた折なのである。
府城の地、将軍の旧府、あらゆる名将と強卒のあつまるところ、さだめし京都にこそは、兵法の達人上手がいるだろうと思って訪れて行って、その床に心から礼儀を施して帰るような道場が、一軒でもあったろうか。
武蔵は、勝っては、その度に、淋しい気もちを抱いて、そこらの兵法家の門を出た。
(俺が強いのか、先が弱いのか)
彼にはまだ、判然としない。もし今日まで歩いて来たような兵法家が、今の代表的な人々だとしたら、彼は、実社会というものを疑いたいと思った。
しかし――
うっかり、それで思い上がることは出来ないぞということを、彼は今、見せられていた。わずか二十文か百文の雑器を作る翁にさえ、じっと見ていると、武蔵は、怖いような三昧境の芸味と技を感じさせられる。――それで生活を見れば食うや食わずの貧しい板屋囲いではないか。社会がどうして甘いものであろうはずはない。
「…………」
武蔵は、だまって、心のうちだけで、粘土まみれの翁に、頭を下げてそこの軒を離れた。坂を仰ぐと清水寺の崖道が見える――
「御牢人。――御牢人」
三年坂を、武蔵が登りかけた時である。誰か呼ぶので、
「わしか」
振り向いてみると、竹杖一本手に持って、空脛に腰きりの布子一枚、髯の中から顔を出しているような男、
「旦那は、宮本様で」
「うむ」
「武蔵とおっしゃるんで」
「む」
「ありがとう」
尻を向けると、男は茶わん坂の方へ、降りて行った。
見ていると、茶店らしい軒へ入った。その辺には、今のように駕かきが、陽なたに沢山群れていたのを、武蔵も今しがた見て通って来たのであるが、自分の姓名を訊ねさせたのは一体誰なのか。
――次には、その本人が出て来るであろうと、しばらく佇んでいたが、何者も見えない。
彼は、坂を登りきった。
千手堂とか、悲願院とか、その辺りの棟を一巡して、武蔵は、
(故郷に独りいる姉上の息災をまもらせたまえ)
と祈り、
(鈍愚武蔵に、苦難を与えたまえ、われに、死を与えたもうか、われに天下一の剣を与えたまえ)
と、祈った。
神、仏を礼拝した後は、何かすがすがと洗ったような心になることを、彼は沢庵から無言に教えられ、その後、書物による知識のうらづけも持っていた。
崖のふちに、笠を捨てる。笠のそばへ腰を投げた。
京洛中は、ここから一望だった。膝を抱いている身のそばには、土筆があたまをそろえていた。
(偉大な生命になりたい)
単純な野望が、武蔵の若い胸を膨らませた。
(人間と生れたからには――)
うららかな春のそこここを歩いている参詣人や遊山の客とは、およそ遠い夢を武蔵はそこで描いているのだった。
天慶の昔――つくり話にちがいないが――平の将門と藤原純友というどっちも野放しの悍馬みたいな野望家が、成功したら日本を半分わけにしようと語り合ったとかいう伝説を――彼は何かの書物で見た時は、その無智無謀が、よほどおかしく感じられたものだが、今の自分にも、笑えない気がした。それとは違うが、似た夢をおもう。青年だけが持ちうる権利として、かれは彼の道を創作するように夢みていた。
(信長は――)
と考える。
(秀吉だって)
と、思う。
だが、戦乱は、もう過去の人の夢だった。時代は久しく渇いていた平和をのぞんでいる。その待望へこたえた家康の長い長い根気を考えると、正しく夢をもつことも難しいなと思う。
だが。
慶長何年というこの時代は、これからという生命を持って、おれは在るのだ。信長を志してはおそいだろうし、秀吉のような生き方を目がけてはむりであろうが。――夢を持てだ、夢を持つことには、誰の拘束もない。今去った駕かきの子でも、夢を持てる。
だが――と、武蔵はもういッぺんその夢を頭の外へおいて、考え直してみる。
剣。
自分の道は、それにある。
信長、秀吉、家康もいい。社会はこの人々が生きて通った傍らで旺な文化と生活をとげた。しかし、最後の家康は、もう荒っぽい革新も躍進も必要としないまでの仕上げをやってしまった。
こう見ると、東山から望むところの京都は、関ヶ原以前のように、決して風雲は急でないのであった。
(ちがっている。――世の中はもう、信長や秀吉を求めた時勢とはちがっているのだ)
武蔵は、それから、
剣とこの社会と。
剣と人生と。
何でも、自分の志す兵法に自分の若い夢を結びつけて、恍惚と、思い耽っていた。
すると、先刻の木像蟹のような駕かきが、再び崖の下に、顔を見せ、
「や。あそこにいやがる」
と、竹杖で、武蔵の顔を指した。
武蔵は、崖の下をにらみつけた。
駕かきの群れは、下で――
「おや、睨めつけやがった」
「歩きだしたぞ」
と、騒ぐ。
ぞろぞろ崖を這って尾いて来るし、気にしまいとして、歩み出せば、前にも同類らしい者が、腕ぐみしたり、竹杖をついたり、遠巻きに立ちふさぐ形をとる。
武蔵は足をとめた。
「…………」
彼が、振向くと、駕かきの群れも足をとめ、そして、白い歯を剥いて、
「あれ見や、額なんか見ていやがる」
と笑う。
本願堂の階前に立って武蔵は、そこの古びた棟木に懸かっている額を仰いでいるのである。
不愉快だ、よほど、大声で一つ呶鳴ってやろうかとは思うが、駕かきを相手にしてもつまらないし、何か間違いならそのうちに散ってしまうであろうと怺えて、懸額の「本願」の二文字を、なお、じっと仰いでいると、
「あ。――お出でなすった」
「ご隠居様がお見えだ」
と、駕かきたちが、ささやき合って遽に色をなし始めた。
ふと見ると!
もうその頃は、この清水寺の西門のふところは、人でいっぱいだった。参詣人や、僧や、物売りまで何事かと眼をそばだてて武蔵を遠く取り巻いている駕かきの背後を、また二重三重に囲んで、これからの成り行きに、好奇な眼を光らせているのである。
ところへ――
「わッしゃ」
「おっさ」
「わっしゃ」
「おッさ」
三年坂の坂下と思しき辺りから威勢のよい懸け声が近づいて来たのである。と思うと間もなく、境内の一端にあらわれたのは、一人の駕かきの背中に負ぶさった六十路とも見える老婆だった。――そのうしろには、これも五十をとうに越えている――、余り颯爽としない田舎風の老武士が見えた。
「もうええ、もうええ」
老婆は、駕かきの背で、元気のよい手を振った。
駕かきが、膝を折って地へしゃがむと、
「大儀」
と、いいながら、ぴょいと背中を離れて、うしろの老武士へ、
「権叔父よ、抜かるまいぞ」
と、意気込みをふくんでいう。
お杉ばばと淵川権六なのである。二人とも、足ごしらえから身支度まで、死出の旅路を覚悟のようにかいがいしくして、
「何処にじゃ」
「相手は」
と、刀の柄に湿りをくれながら、人垣を割って入った。
駕かき達は、
「ご隠居、相手はこちらでござります」
「お急ぎなさいますなよ」
「なかなか、敵は、しぶとい面をしておりますぜ」
「十分、お支度なすッて」
と、寄り集って、案じたり、宥わったりする。
見ている人々は驚いた。
「あのお婆さんが、あの若い男へ、果し合いをしようというんでしょうか」
「そうらしいが……」
「助太刀も、よぼよぼしている。何か理があるんでしょうな」
「あるんでしょうよ」
「あれ、何か、連れの者へ怒ッていますぜ。きかない気の老婆もあるものだ」
お杉ばばは今、駕かきの一人が、何処からか駈け足で持ってきた竹柄杓の水をごくりと一口飲んでいた。それを、権叔父へ渡して、
「――何を、あわてていなさるぞ。相手は、多寡の知れた鼻たれ小僧、少々ぐらい、剣のつかいようを学んだとて、程が知れておるわいの。気を落ちつけなされ」
――それから。
自分が先に立って、本願堂の階段の前にすすみ、ぺたりと坐りこんだと思うと、懐中から数珠を取り出して、彼方に立っている当の相手の武蔵もよそに――また大勢の環視をよそに――ややしばらく何か口のうちで祷っていた。
お杉ばばの信仰をまねて、権叔父も掌をあわせた。
悲壮を過ぎて、滑稽を感じたのであろう、群衆はそれを見ると、クスリと笑った。
「誰だい、笑うやつは」
駕かきの一人が、それへ向って、怒るように呶鳴った。
「――何がおかしいんだ、笑いごッちゃねえぞ、このご隠居様は、遠い作州から出て来なすって、自分の息子の嫁を奪って逃げた野郎を討つために、先ごろからこの清水寺へ日参をしておいでなさるんだ。――きょうがその五十幾日目で、計らずも、茶わん坂で――そこにいる野郎よ――その相手の野郎が通るのを見つけたンだ」
こう一人が説明すると、また一人が、
「さすがに侍の筋というものは、違ったもんじゃねえか、あの年でよ、故郷にいれば、孫でも抱いて、楽なご隠居でいられる身を、旅に出て、息子のかわりに、家名の恥を雪ごうッていうんだから、頭が下がらあ」
――すぐほかの者がまた、
「俺たちだって、何もご隠居から毎日、酒代をいただいているからの、ごひいきになっているからのと、そんなケチな量見で加勢するわけじゃねえ。――あの年で、若い牢人を相手に、勝負しようっていう心根が、堪らねえんだ。――弱いほうにつくのは人情、当りめえだろう。もし、ご隠居のほうが負けたら、おれたち総がかりであの牢人へ向うよ、なあみんな」
「そうだとも」
「老婆を討たせて堪るものか」
駕かき達の説明を聞くと、群衆も、熱をおびて、騒めきだした。
「やれ、やれ」
と、けしかける者もあるし、
「――だが、婆さんの息子はどうしたんだ」
と、訊ねる者もある。
「息子か」
それは駕かきの仲間は誰も知らないらしく、多分死んでしまったのだろうという者もいるし、いやその息子の生死も旁

――その時、お杉ばばは、数珠をふところへしまっていた。駕かきも群衆も、同時に、ひっそりした。
「――武蔵!」
ばばは、腰の小脇差へ左の手を当てて、こう呼びかけた。
先刻から武蔵はそこに黙然と立っていた。――およそ三間ほどの距離をおいて――棒のように立っていた。
権叔父も、隠居のわきから、足構えして、首を前へ伸ばし、
「やいっ」
と、呼ぶ。
「…………」
武蔵は、答える言葉も知らないもののようだった。
姫路の城下で、袂をわかつ時に沢庵から注意された記憶は今思い出されたが、駕かき達が、群衆へ向っていいふらしていた言葉は、心外にたえない。
そのほか、その以前から、本位田一家の者に、恨みとして含まれていることも、自分にとってはそのまま受けとりにくいものである。
――要するに、せまい郷土のうちの面目や感情にすぎないのだ。本位田又八がここにいさえすれば明らかに解けることではないかと思う。
しかし武蔵は今は当惑していた。――この目前の事態をどうするかである。このよぼよぼな婆と老い朽ちた古武者の挑戦に、彼は、殆ど当惑する。――じっと守っている無言は、唯、迷惑きわまる顔でしかなかった。
駕かきどもは、それを見て、
「ざまをみろ」
「竦んでしまやがった」
「男らしく、ご隠居に、討たれちまえ」
と、口ぎたなく、応援する。
お杉ばばは、癇のせいか、眼をバチバチとしばたたいて、強く顔を振った。――と思うと、駕かきどもを振り向いて、
「うるさいッ、お汝らは、証人として立会うてくれれば済む。――わしらが二人討たれたら、骨は、宮本村へ送ってくだされよ。頼んでおくはそれだけじゃ。そのほかは、いらざる雑言、助太刀無用になされ」
と、小脇差の鍔をせり出して、さらに一歩、武蔵をにらんで、前へ出た。
「武蔵っ――」と、ばばは、呼び直した。
「汝れは元、村では武蔵といい、この婆などは、悪蔵と称んでいたものじゃが、今では、名を変えているそうじゃの、宮本武蔵と。――えらそうな名わいの。……ホ、ホ、ホ」
と、皺首を振って、まず、刀を抜く前に、言葉から斬ってかかった。
「――名さえ変えたら、この婆にも、捜し当てられまいと思うてかよ! 浅慮な! 天道様は、この通り、おぬしが逃げ廻る先とても照らしてござるぞよ。……さ、見事、婆の首取るか、おぬしが生命をもらうか、勝負をしやれ」
権叔父も、次に、皺がれ声をしぼった。
「汝れが、宮本村を逐電して以来、指折り数うればもう五年、どれほど捜すに骨を折ったことか。清水寺へ日参のかいあって、ここでわれに会うたることのうれしさよ。老いたりといえども淵川権六まだまだ、汝れが如き小僧におくれは取らぬ。さあ、覚悟」
ぎらりと、太刀を抜いて、
「婆、あぶないぞや。うしろへ避けておれ」
と、庇うと、
「なにをいう!」
ばばは、却って権叔父を叱咤し、
「おぬしこそ、中風を病んだ揚句じゃによって、足もとを気をつけなされ」
「なんの、われらには、清水寺の諸菩薩が、お護りあるわ」
「そうじゃ権叔父、本位田家のご先祖さまも、うしろに助太刀していなさろう。怯むまいぞ」
「――武蔵っ、いざッ」
「いざッ」
二人は遠方から切っ先をそろえてこう挑んだ。しかし、当の武蔵は、それに応じて来ないのみか、唖のように沈黙しているので、お杉ばばは、
「怯じたかよッ! 武蔵っ」
ちょこちょこと、横のほうへ駈け廻って斬り入ろうとしたのである。ところが、石にでも躓いたとみえ、両手をついて、武蔵の足もとへ転んでしまったので、
「あっ、斬られるぞ」
周囲の人垣が、俄然、噪ぎ立って、
「早く、助けてやれっ」
叫んだが、権叔父すら度を失って、武蔵の顔を窺がっているにとどまる。
――だが気丈な婆だ。抛り出した刀を拾って持つと、自分で起き上がり、権叔父のそばへ跳んで返って、すぐ構えを武蔵に向け直した。
「阿呆よッ、その刀は、飾りものか、斬る腕はないのか!」
仮面のように無表情であった武蔵は、初めて、その時、
「ないっ」
と、大きな声でいい放った。
そして、彼が歩き出して来たので、権叔父と、お杉ばばは、両方へ跳びわかれ、
「ど、どこへ行きやる、武蔵ッ――」
「ないっ」
「待ていっ、汝れ、待たぬかよ!」
「ない」
武蔵は、三度も同じ答えを投げた。横も向かないのである。真っ直に、群衆の中を割って歩み続けた。
「それ、逃げる」
隠居が、あわてると、
「逃がすな」
駕かき達は、どっと、駈け雪崩れて、先廻りに、囲みを作った。
「……あれ?」
「おや?」
囲いは作ったが、もうその中に、武蔵はいなかった。
――後で。
三年坂や茶わん坂を、ちりぢりに帰る群衆のうちで、あの時、武蔵のすがたは、西門の袖塀の六尺もある築土へ、猫のように跳び上がって、すぐ見えなくなったのだ――と取沙汰する者もあったが、誰も信じなかった。権叔父やお杉ばばは、なお信じるはずもない。御堂の床下ではないか、裏山へ逃げたのではないかと、陽の暮れるまで、狂奔していた。
どすっ、どすっ……と藁を打つ鈍い杵の音が細民町を揺すっている。雨はそこらの牛飼の家や、紙漉きの小屋を秋のように、腐らせていた。北野も、この辺は場末で、黄昏れとなっても、温かい炊飯の煙がただよう家は稀れだ。
き、ち、ん。
と笠へ仮名で書いたのが軒端にぶら下げてある、そこの土間先につかまって、
「爺さん! 旅籠の爺さん! ……留守かい」
元気のいい、身長よりも大きな声で、いつも廻って来る居酒屋の小僧が、怒鳴っていた。
やっと、年は十か十一。
雨に光っている髪の毛は、蓬々と耳にかぶさって、絵に描いた河っ童そのままだ。筒袖の腰きりに、縄の帯、背中まで泥濘の跳ねを上げている。
「城か」
奥で木賃の親爺がいう。
「あ、おらだ」
「きょうはの、まだ、お客様が帰えらねえだから、酒はいらぬよ」
「でも、帰えれば要るんだろう。いつもだけ持ッて来とこうや」
「お客様が飲がるといったら、わしが取りにゆくからいい」
「……爺さん、そこで、何しているんだい」
「あした鞍馬へのぼる荷駄へ、手紙を頼もうと思って、書き始めたが、一字一字、文字が思い出せねえで肩を凝らしているところじゃ、うるさいから、口をきいてくれるな」
「ちぇッ、腰が曲りかけているくせに、まだ字を覚えねえのか」
「このチビが、また小賢しいこといいさらして、薪でも食らうな」
「おらが、書いてやるよ」
「ばか吐かせ」
「ほんとだッてば! アハハハハそんな芋という字があるものか、それじゃ竿だよ」
「やかましいッ」
「やかましくッても、見ちゃいられねえもの。爺さん、鞍馬の知人へ、竿を届けるのかい」
「芋を届けるのだ」
「じゃ、強情を張らないで、芋と書いたらいいじゃないか」
「知っているくらいなら、初めからそう書くわ」
「あれ……だめだぜ、爺さん……この手紙は、爺さんのほかには誰にも読めないぜ」
「じゃあ、汝、書いてみろ」
筆を突きつけると、
「書くから、文句をおいい、お文句をさ……」
上がり框に腰をかけて、居酒屋の城太郎は、筆を持った。
「馬鹿よ」
「なんだい、無筆のくせに、人を馬鹿とは」
「紙へ、鼻汁が垂れたわ」
「ア、そうか。これは駄賃――」
その一枚を揉んで、鼻汁をかんで捨てて――
「さ。どう書くんだい」
筆の持ち方はたしかであった。木賃のおやじがいう言葉を、その通りさらさらと書いてゆく。
……ちょうどその折であった。
今朝、雨具を持たずに出た此宿の客は、泥田のような道を、びしょびしょと重い足で帰って来た。かぶって来た炭俵を、軒下へ投げやって、
「――ああ。梅もこれでおしまいだな」
毎朝目を娯ませてくれた門口の紅梅を見あげながら、袂を絞って呟く。
武蔵であった。
もうこの木賃へは二十日の上も泊っているので、彼は、わが家へ帰って来たような安堵を覚える。
土間へ入って、ふと見ると、いつも、御用を聞きに来る居酒屋の少年が、おやじと首を寄せ合っている。武蔵は、何をしているのかと、黙って、その背後からのぞいていた。
「あれ。……人が悪いなあ」
城太郎は、武蔵の顔へ気がつくと、あわてて筆と紙とを、背中へ廻してしまった。
「見せい」
武蔵が、からかうと、
「いやだい!」
城太郎は、顔を振って、
「アカといえば」
と、あべこべに揶揄してかかる。武蔵は、濡れた袴を解いて、木賃の老爺に渡しながら、
「ははは、その手は喰わん」
すると、城太郎は、言下に、
「手を喰わんなら、足喰うか」
と、いった。
「足喰えば、章魚じゃ」
城太郎は響きに答えるように、
「章魚で酒のめ。――小父さん、章魚で酒飲め。持って来ようか」
「なにを」
「お酒を」
「ははは、こいつは、うまく引っかかったの。また、小僧に酒を売りつけられたぞ」
「五合」
「そんなにいらん」
「三合」
「そんなに飲めん」
「じゃあ……いくらさ、ケチだなあ、宮本さんは」
「貴様に会ってはかなわんな、実をいえば小費が乏しいからだよ、貧乏武芸者だ。そう悪く申すな」
「じゃあ、おらが桝を量って、安くまけて持って来ようね。――そのかわりに、小父さん、またおもしろい話を聞かせておくれね」
雨の中へ、元気に、城太郎は駈けて行った。武蔵は、そこへ残されてある手紙を見て、
「老爺、これは今の少年が書いたのか」
「左様で。――呆れたものでございますよ、あいつの賢いのには」
「ふーむ……」
感心して見入っていたが、
「おやじ、何か着がえがないか、なければ、寝衣でもよいが、貸してくれい」
「濡れてお戻りと存じまして、ここへ出しておきました」
武蔵は、井戸へ行って水を浴び、やがて着かえて、炉のそばに坐った。
その間に、自在かぎへは、鍋がかかる、香の物や、茶碗も揃う。
「小僧め、何をしているのか、遅うござりまする」
「幾歳だろう、あの少年は」
「十一だそうで」
「早熟ているな、年のわりには」
「何せい、七歳ぐらいからあの居酒屋へ奉公しておりますので、馬方やら、この辺の紙漉きやら、旅の衆に、人中で揉まれておりますでな」
「しかし――どうして左様な稼業のうちに、見事な文字を書くようになったろうか」
「そんなに上手いので?」
「元より子どもらしい稚拙はあるが、稚拙のうちに、天真といおうか何というか……左様……剣でいうならば、おそろしく気に暢びのある筆だ。あれは、ものになるかもしれぬ」
「ものになるとは、何になるので」
「人間にだ」
「へ?」
おやじは、鍋の蓋を取って覗きながら、
「まだ来ないぞ、あいつまた、どこぞで道ぐさしているのかも知れぬ」
ぶつぶついいながら、やがて、土間の穿物へ足をおろしかけると、
「爺さんッ、持って来たよ」
「何をしているのだ、旦那様が待っているのに」
「だってネ、おらが、酒を取りにゆくと、店にもお客があったんだもの。――その酔っぱらいがね、また、おらをつかまえて、執こくいろんなことを訊くんだ」
「どんなことを」
「宮本さんのことだよ」
「また、くだらぬお喋舌りをしたのだろう」
「おらが喋舌らなくても、この界隈でおとといの清水寺のことを知らない者はないぜ。――隣のおかみさんも前の漆屋の娘も、あの日お詣りに行ってたから、小父さんが、大勢の駕かきに囲まれて難儀をしたのを、みんな見ていたんだよ」
武蔵は黙然と炉のまえに、膝をかかえていたが、頼むように――
「小僧、もうその話は、やめにせい」
眼ざとく、その顔いろを覚って、城太郎は武蔵からいわれる先に、
「おじさん、今夜は遊んでいってもいいだろ?」
と、足を洗いにかかる。
「うム。家はよいのか」
「あ、店はいいの」
「じゃあ、おじさんと一緒に、御飯でもお喰べ」
「そのかわり、おらが、お酒の燗をしよう。お酒の燗は、馴れているから」
炉のぬく灰に、壺を埋けて、
「おじさん、もういいよ」
「なるほど」
「おじさん、酒好きかい」
「好きだ」
「だけど、貧乏じゃ、飲めないね……」
「ふム」
「兵法家っていうのは、みんな大名のお抱えになって、知行がたくさん取れるんだろう。おら、店のお客に聞いたんだけど、むかし塚原卜伝なんかは、道中する時にはお供に乗換馬を曳かせ、近習には鷹を拳にすえさせて、七、八十人も家来をつれて歩いたんだってね」
「うむ、その通り」
「徳川様へ抱えられた柳生様は江戸で、一万一千五百石だって。ほんと?」
「ほんとだ」
「だのに、おじさんはなぜそんなに、貧乏なんだろ」
「まだ勉強中だから」
「じゃあ、幾歳になったら、上泉伊勢守や、塚原卜伝のように、沢山お供をつれて歩くの」
「さあ、おれには、そういう偉い殿様にはなれそうもないな」
「弱いのかい、おじさんは」
「清水で見た人々が噂しておるだろうが、なにしろおれは、逃げて来たのだからな」
「だから近所の者が、あの木賃に泊っている若い武者修行は、弱い弱いって、この界隈じゃ評判なんだよ。――おら、癪にさわって堪らねえや」
「ははは、おまえがいわれておるのではないからよかろう」
「でも。――後生だからさ、おじさん。あそこの塗師屋の裏で、紙漉きだの桶屋の若い衆たちが集まって、剣術をやっているから、そこへ試合に行って、一度、勝っておくれよ」
「よしよし」
武蔵は、城太郎のいうことには、何でも頷く、彼は少年が好きなのだ。いや自分がまだ多分に少年であるゆえに、すぐ同化することができるのだった。また、男の兄弟がなかったせいもあろうし、家庭のあたたかさを殆ど知らなかったことなども、その一因といってよい。常に何かでそれに似た愛情のやり場を求めて、孤独を慰めようとする気持が無意識にひそんでいた。
「その話、もうよそう、――ところでこんどはおまえに訊くが、おまえ、故郷はどこだ」
「姫路」
「なに、播州」
「おじさんは作州だね、言葉が」
「そうだ、近いな。――して姫路では何屋をしていたのか、お父さんは」
「侍だよ、侍!」
「ほ……」
そうだろう! 意外な顔はしたが、武蔵は、果たして――というように頷いてもいた。それから父なる人の名を糺すと、
「お父っさんは、青木丹左衛門といって、五百石も取ってたんだぜ。けれど、おらが六ツの時に、牢人しちゃって、それから京都へ来てだんだん貧乏しちまったもんだから、おらを、居酒屋へあずけて、自分は、虚無僧寺へ入ッちまったんだよ」
と述懐する。
「だから、おら、どうしても、侍になりたいんだ。侍になるには、剣道が上手になるのが一番だろう。おじさん。お願いだから、おらをお弟子にしてくれないか――どんなことでもするから」
いい出したら肯かない眸をしている。しかしあわれに少年は縋るのだった。――武蔵はそれに諾か否かを答えるよりも、あのどじょう髯の――青木丹左という者の成れの果てを思いもかけず、思い遣っていた。兵法の上では、斬るか斬られるかの命がけを、朝夕に賭している身ではあるが、こういう人生の流転を目に見せつけられると、それとはべつな寂しさに、酔いも醒めて心を蝕まれるのであった。
これは飛んでもない駄々ッ子だ、なんと賺しても肯くどころか、木賃の老爺が、口を酢くして、叱ったり宥めたりすれば、却って、悪たれをたたき、一方の武蔵へは、よけいに執こくなって、腕くびをつかむ、抱きついて強請む、しまいには泣いてしまう。持てあまして、武蔵は、
「よし、よし、弟子にしてやろう。――だが、今夜は帰って、主人にもよく話した上、出直して来なければいけないぞ」
それで城太郎は、やっと得心して帰った。
翌る朝――
「おやじ、永いこと世話になったが、奈良へ立とうと思う。弁当の支度をしてくれ」
「え、お立ちで」
老爺はその不意なのに驚いて、
「あの小僧めが、飛んでもないことをおせがみしたので、急にまあ……」
「いやいや、小僧のせいではない。かねてからの宿望、大和にあって有名な宝蔵院の槍を見にまいる。――後で、小僧が参って、そちを困らすだろうが、何分たのむ」
「なに、子どものこと、一時はわめいても、すぐケロリとしてしまうに違いございませぬ」
「それに、居酒屋の主人も、承知はいたすまいし」
武蔵は、木賃の軒を出た。
泥濘には、紅梅が落ちていた。今朝は拭ったように雨もあがり、肌にさわる風の味もきのうとちがう。
水かさが増した濁流の三条口には、仮橋のたもとに沢山な騎馬武者がいて、武蔵ばかりでなく、往来人はいちいち止めて検めていた。
聴けば、江戸将軍家の上洛が近づき、その先駆の大小名がきょうも着くので、物騒な牢人者を、ああして取りしまっているのだという噂。
問われることへ、無造作に答えて、何の気もなく通って来たが、武蔵はいつのまにか、自分が大坂方でもなく、また徳川方でもない、無色無所属のほんとの一牢人になっていることに、改めて気づいた。
――今顧みるとおかしい。
関ヶ原の役に、槍一本かついで出かけたあの時の向う見ずな壮気。
彼は、父の仕えていた主君が大坂方であったし、郷土には、英雄太閤の威勢が深く浸みこんでいたし、少年のころ、炉べりに聞かされた話にも、その英雄の現存と偉さとを深く頭に植えこまれて来たので、今でも、
(関東へつくか、大坂か)
と問われれば、血液的に、
(大坂)
と、答えるにためらわない気持だけは、心のどこかに遺っていた。
――だが、彼は、関ヶ原で習んだ。歩卒の組に交じって槍一本を、あの大軍の中でどう振り廻したって、結局、それが何ものも動かしていないし、大いなる奉公にもなっていないということをである。
(わが思う主君にご運あれ)
と念じて、死ぬならばいい。それで死ぬことも立派に意義もある。――だが、武蔵や又八のあの時の気持はそうでない。燃えていたのは、功名だった、資本いらずに、禄を拾いに出たに過ぎない。
その後、生命は珠、と沢庵から訓われた。よく考えてみると、資本いらずどころではない、人間最大の資本を提げて、わずかな禄米を――それも籤を引くような僥倖をたのんで行ったことになる。――今考えると、その単純さが、武蔵はおかしくなるのである。
「――醍醐だな」
肌に汗をおぼえたので、武蔵は足をとめた。いつのまにか、かなり高い山道を踏んでいる。すると遠くで、
――おじさアん……
しばらく間を措いて、
――おじさアアん
とまた聞える。
「あっ?」
武蔵は、河っ童に似た少年の顔が風を衝いて走ッてくる態を、すぐ眼にうかべた。
案のじょう、やがてその城太郎の姿が、道の彼方にあらわれて、
「嘘つきッ。おじさんの嘘つき!」
口では罵り、顔には、今にも泣きだしそうな血相をもって、息も喘ぎ喘ぎ追いついて来るのであった。
――来たな、とうとう。
武蔵は、当惑そうな裡に、明るい笑くぼを顔にのぼせ、振向いて待っている。
迅い。とても迅い。
こっちの姿を目がけて、むこうから素ッ飛んで来る城太郎の影は、ちょうど烏天狗の雛子というところだ。
近づくに従って、その猪口才なかっこうを明らかに眺め、武蔵はまた唇のあたりに微苦笑を加えた。――着物はゆうべのとは違って、お仕着せらしいのを着かえているが、もちろん腰も半分、袖も半分、帯には身長より長い木刀を横たえ、背には、傘ほどもある大きな笠を背負いこんでいる。そして、
「――おじさんっ!」
いきなり、武蔵のふところへ飛びこんで来ると、
「嘘つきッ」
と、しがみついて、同時に、わっと泣いてしまったのである。
「どうした、小僧」
優しく抱えてやっても、ここは山の中だと承知の上で泣くように城太郎は、声をかぎりにおいおい泣く。
「泣く奴があるか」
武蔵が、遂にいうと、
「知らねえやい、知らねえやい」
身を揺すぶッて、
「――大人のくせに、子供を騙していいのかい! ゆんべ、弟子にしてやるといったくせに、おらを置いてきぼりにして、そんな……大人があっていいのかい」
「悪かった」
謝ると、今度は、泣き声を変えて、甘えるように、わあん、わあんと、鼻汁をたらして泣く。
「もう黙れ。……騙す気ではなかったが、貴様には、父があり主人がある。その人達の承知がなくては連れて行かれぬから、相談して来いと申したのだ」
「そんなら、おらが返事にゆくまで、待っていればいいじゃないか」
「だから、謝っておる。――主人には、話したか」
「うん……」
やっと黙って、側の木から、木の葉を二枚むしり取った。何をするのかと思うと、それでチンと鼻をかむ。
「で、主人は何と申したか」
「行けって」
「ふム」
「てめえみたいな小僧は、とても当り前な武芸者や道場では、弟子にしてくれる筈がねえ。あの木賃宿にいる人なら、弱いので評判だ。てめえには、ちょうどいい師匠だから、荷持ちに使って貰えッて……。餞別にこの木剣をくれたよ」
「ハハハハ。おもしろい主人だの」
「それから、木賃の爺さんの所へ寄ったら、爺さんは留守だったから、あそこの軒に掛かっていたこの笠を貰って来た」
「それは、旅籠の看板ではないか。きちんと書いてあるぞ」
「書いてあってもかまわないよ。雨がふると、すぐ困るだろ」
もう師弟の約束も何もかも、仕済ましたりとしているのである。武蔵も観念してしまった。これは止めようがない――
しかしこの子の父、青木丹左の失脚や、自分との宿縁を思うと、武蔵は、みずからすすんでもこの少年の未来を見てやるのがほんとではないかとも考えた。
「あ、忘れていた。……それからね、おじさん」
城太郎は、安心がつくと、急に思い出したように、懐中をかき廻し、
「あッた。……これだよ」
と、手紙を出した。
武蔵は、いぶかしげに、
「なんだ、それは」
「ゆんべ、おじさんの所へ、おらが酒を持って行く時に、店で飲んでいた牢人があって、おじさんのことを、いやに執こく訊いていたといったろう」
「ム、そんな話であったな」
「その牢人が、おらが、あれから帰ってみると、まだベロベロに酔っぱらっていて、また、おじさんの様子を訊くんだ。途方もない大酒飲みさ、二升も飲んだぜ。――そのあげく、この手紙を書いて、おじさんに渡してくれと、置いて行ったんだよ」
「? ……」
武蔵は、小首を傾げながら、封の裏を返してみた。
封の裏には、なんと――
本位田又八
乱暴な字でぶつけてあるのだ、書体までが酔っぱらっている姿である。
「や……又八から……」
急いで封を切って見る。武蔵は、なつかしむような、悲しむような、複雑な気持のうちに読み下した。
二升も飲んだ揚句といえば、字の乱脈はぜひもないが、文言も支離滅裂で、ようやく読み判じてみると、
伊吹山下、一別以来、郷土わすれ難し、旧友またわすれ難し。はからずも先頃、吉岡道場にて、兄の名を聞く。万感交
、会わんか、会わざらんか、迷うて今、酒店に大酔を買う。
この辺まではよいが、その先になると、いよいよわからなくなる。
然りわれは、兄と袂を分ってより、女色の檻に飼われ、懶惰の肉を蝕まれて生く、怏々として無為の日を送るすでに五年。
洛陽、今、君の剣名ようやく高し。
加盞。加盞。
或る者はいう。武蔵は弱し逃げ上手の卑怯者なりと。また或る者はいう。彼は不可解の剣人なりと。――そんな事、どっちでもよし、ただ野生は、兄が剣によってともかく洛陽の人士に一波紋を投げたるを、ひそかに慶す。
思うに。
君は賢明だよ、おそらくは剣も巧者になって出世すべし。
翻って、今のわれを見れば如何。
愚や、愚や、この鈍児、賢友を仰いでなんぞ愧死せざるや。
だが待て、人生の長途、まだ永遠は測るべからずという奴さ、今は会いたくない、そのうちに会える日もあろうというもの也。
健康をいのる。
これが全文かと思うと、追而書きのほうに、まだくどくどと火急らしい用向きが認めてある。その用向きというのは、吉岡道場の千人の門下が、先頃の事件をふかく意趣にふくみ、躍起になって君のありかを捜しているから、身辺にふかく注意をしなければいけない。君は今折角剣のほうで頭角を出し始めたところだ、死んではならぬ、俺も何かで一人前になったら君と会って、大いに過去のことも語りたい気持でいるのだから、俺の張合いのためにも、体をまもって生きていてくれ――洛陽、今、君の剣名ようやく高し。
加盞。加盞。
或る者はいう。武蔵は弱し逃げ上手の卑怯者なりと。また或る者はいう。彼は不可解の剣人なりと。――そんな事、どっちでもよし、ただ野生は、兄が剣によってともかく洛陽の人士に一波紋を投げたるを、ひそかに慶す。
思うに。
君は賢明だよ、おそらくは剣も巧者になって出世すべし。
翻って、今のわれを見れば如何。
愚や、愚や、この鈍児、賢友を仰いでなんぞ愧死せざるや。
だが待て、人生の長途、まだ永遠は測るべからずという奴さ、今は会いたくない、そのうちに会える日もあろうというもの也。
健康をいのる。
そんな意味なのである。
先は友情のつもりらしいが、この忠告のうちにも、多分な又八のひがみが滲んでいた。
武蔵は、暗然として、
(なぜ――やあ久し振だなあ――そんなふうに、彼は呼びかけてくれなかったのか)
と、思った。
「城太郎。おまえは、この人の住所を聞いたか」
「聞かなかった」
「居酒屋でも、知らぬか」
「知らないだろ」
「何度も来た客か」
「ううん、初めて」
――惜しい。武蔵は、彼の居所がわかるなら、これから京都へ戻ってもと思うのであったが、その術もない。
会って、もいちど、又八の性根をたたき醒ましてやりたい気がする。彼を、現在の自暴自棄から引ッぱり出してやろうとする友情を、武蔵は今も失っていない。
又八の母のお杉に、誤解を解いてもらうためにも――
黙々と、武蔵は先に歩いて行く。道は醍醐の下りになって、六地蔵の四つ街道の追分が、もう眼の下に見えて来た。
「城太郎、早速だが、おまえに頼みたいことがあるが、やってくれるか」
武蔵は、不意にいい出した。
「なに? おじさん」
「使いに行ってほしいが」
「どこまで」
「京都」
「じゃあ、折角、ここまで来たのに、また戻るの」
「四条の吉岡道場まで、おじさんの手紙を届けに行ってもらいたい」
「…………」
城太郎はうつ向いて、足もとの石を蹴っていた。
「嫌か」
武蔵が顔をのぞくと、
「ううん……」
曖昧に首を振りながら――
「嫌じゃないけど、おじさん、そんなことをいってまたおらを置いてきぼりにするつもりだろう」
疑いの眼に射られて、武蔵はふと恥じた。その疑いは誰が教えたか――と。
「いや、武士は決して、嘘はいわないものだ。きのうのことは、ゆるせ」
「じゃあ、行くよ」
六阿弥陀の追分茶屋へ入って、茶をもらい二人は弁当をつかった。武蔵はその間に手紙を認めた。
――吉岡清十郎宛に。
文面は、ざっと、こうである。――聞くところによれば、貴下はその後御門下を挙って拙者の居所をお尋ねの由であるが、自分は今大和路にあり、これから約一年を伊賀、伊勢その他を修業に遊歴するつもりで予定をかえる気持にはなれない。しかし、先ごろお留守中を訪問して、貴眉に接しないことはこちらも同様に遺憾としているところであるから、明春の一月か二月中には必ず再度の訪れを固くお約束しておこう。――勿論、そちらも御勉励おさおさ怠りはあるまいが、自分もここ一年のあいだには、いちだん鈍剣を磨いておたずね申す考えである。どうか、先頃お立合い申したような惨敗が二度と栄ある拳法先生の門を見舞わぬよう、折角の御自重を蔭ながら祈っている。
――こう鄭重のうちに気概も仄めかせて、
新免宮本武蔵政名
と署名し、先の名宛には
吉岡清十郎どの
他御門中
と、書き終っている。
城太郎は預かって、
「じゃあこれを、四条の道場へ抛りこんで来ればいいんだね」
「いや、ちゃんと、玄関から訪れて、取次に慥と渡して来なければいけない」
「あ。わかってるよ」
「それから、も一つ頼みがある。……だが、これはちとおまえには難しかろうな」
「何、何」
「わしに、手紙をよこした昨夜の酔っぱらい、あれは、本位田又八というて、昔の友達なのだ。あの人に会ってもらいたいのだが」
「そんなこと、造作もねえや」
「どうして捜すか」
「酒屋を聞いて歩くよ」
「ははは。それもよい考えだが、書面の様子で見ると、又八は、吉岡家のうちの誰かに知り人があるらしい。だから吉岡家の者に、訊いてみるに限る」
「分ったら?」
「その本位田又八におまえが会って、わしがこういったと伝えてくれ。来年一月の一日から七日まで、毎朝五条の大橋へ行って拙者が待っているから、その間に、五条まで一朝出向いてくれいと」
「それだけでいいんだね」
「む。――ぜひ会いたい。武蔵がそういっていたと伝えるのだぞ」
「わかった。――だけど、おじさんは、おらが帰って来る間、何処に待ってるの」
「こういたそう。わしは奈良へ先に行っている。居所は、槍の宝蔵院で聞けばわかるようにいたしておく」
「きっと」
「はははは、まだ疑っているのか、こんど約束を違えたら、わしの首を打て」
笑いながら茶店を出る。
そして武蔵は奈良へ。――城太郎はまた京都へ。
四つ街道は、笠や、燕や、馬のいななきで混み合っている。その間から城太郎が振り返ると、武蔵もまだ立ちどまっていた。二人はニコと遠い笑いを見交わして別れた。
恋風が来ては
袂に掻いもたれて
喃、袖の重さよ
恋かぜは
重いものかな
阿国歌舞伎でおぼえた小歌を口誦みながら、朱実は、家の裏へ下りて、高瀬川の水へ、洗濯物の布を投げていた。布を手繰ると、落花の渦も一緒に寄って来た。袂に掻いもたれて
喃、袖の重さよ
恋かぜは
重いものかな
思えど思わぬ
振りをして
しゃっとしておりゃるこそ
底はふかけれ――
河原の堤の上から、振りをして
しゃっとしておりゃるこそ
底はふかけれ――
「おばさん、歌がうまいね」
朱実は振向いて、
「誰?」
長い木刀を横にさし、大きな笠を背負っている侏儒のような小僧である。朱実がにらむと、まるッこい眼をぐりぐりうごかし、人馴っこい歯を剥いてにやりとした。
「おまえ何処の子、人のことをおばさんだなンて、私は娘ですよ」
「じゃあ――娘さん」
「知らないよ。まだ年もゆかないチビ助のくせにして、今から女なんか揶揄うものじゃないよ、洟でもおかみ」
「だって、訊きたいことがあるからさ」
「アラアラ、おまえと喋舌っていたおかげで洗濯物を流してしまったじゃないか」
「取ッて来てやろう」
川下へ流れて行った一枚の布を、城太郎は追いかけて行って、こういう時には役に立つ長い木刀で、掻きよせて拾って来た。
「ありがと。――訊きたいッて、どんなこと」
「この辺に、よもぎの寮というお茶屋がある?」
「よもぎの寮なら、そこにある私の家だけれど」
「そうか。――ずいぶん捜しちゃった」
「おまえ、何処から来たの」
「あっちから」
「あっちじゃ分らない」
「おらにも、何処からだか、よく分らないんだ」
「変な子だね」
「誰が」
「いいよ」――朱実はクスリと笑いこぼして、「いったい何の用事で、わたしの家へ来たの」
「本位田又八という人が、おめえんちにいるだろう。あすこへ行けば分るって、四条の吉岡道場の人に聞いて来たんだ」
「いないよ」
「嘘だい」
「ほんとにいないよ。――前には家にいた人だけれど」
「じゃあ、今どこ?」
「知らない」
「ほかの人に訊いてくれやい」
「おっ母さんだって知らないもの。――家出したんだから」
「困ったなあ」
「誰の使いで来たの」
「お師匠様の」
「お師匠様って?」
「宮本武蔵」
「手紙か何か持って来たの」
「ううん」
城太郎は、首を横に振って、行き迷れたような眼を足もとの水の渦におとした。
「――来た所も分らないし、手紙も持たないなんて、ずいぶん妙な使いね」
「言伝てがあるんだ」
「どういう言伝て。もしかして――もう帰って来ないかも知れないけど、帰って来たら、又八さんへ、私からいっといて上げてもいいが」
「そうしようか」
「私に相談したって困る、自分で決めなければ」
「じゃあ、そうするよ。……あのね、又八って人に、ぜひとも、会いたいんだって」
「誰が」
「宮本さんがさ。――だから、来年一月の一日から七日までの間、毎朝、五条大橋の上で待っているから、その七日のうちに、一朝そこへ来てもらいたいというのさ」
「ホホホ、ホホホホ……。まあ! 気の長い言伝てだこと。おまえのお師匠さんていう人も、おまえに負けない変り者なんだね。……アアお腹が痛くなっちゃった!」
城太郎は、ぷっと膨れて、
「何がおかしいのさ。おたんこ茄子め」
と、肩をいからせた。
びっくりした途端に、朱実は、笑いが止まってしまった。
「――あら、怒ったの」
「当り前だい、人が、叮嚀にものを頼んでいるのに」
「ごめん、ごめん。もう笑わないから――そして今の言伝ては、又八さんが、もし帰って来たら、屹度しておくからね」
「ほんとか」
「え」
また、こみあげる微笑を噛みころすように頷いて――
「だけど……何といったっけ……その言伝てを頼んだ人」
「忘れっぽいな。宮本武蔵というんだよ」
「どう書くの、武蔵って」
「武は――武士の武……」
といいかけて、城太郎は足もとの竹の小枝をひろい、河原の川砂へ、
「こうさ」
と書いて見せた。
朱実は、砂に書かれた字を、じっと眺めて、
「あ……それじゃあ、武蔵というんじゃないの」
「武蔵だよ」
「だって武蔵とも訓める」
「強情だな!」
彼の抛った竹の小枝が、川の面をゆるく流れて行く。
朱実は、いつまでも、川砂の文字へ眼を吸いよせられたまま、そして眼じろぎもせずに、何か想い耽っていた。
やがて、その眸を、足もとから城太郎の顔へ上げ、もいちど、改めて彼の姿をつぶさに見直しながら嘆息のように訊ねた。
「……もしや、この武蔵というお方は、美作の吉野郷の人ではないかえ」
「そうだよ、おらは播州、お師匠さんは宮本村、隣り国なんだ」
「――そして、背の高い、男らしい、そうそう髪はいつも月代を剃らないでしょう」
「よく知ッてるなあ」
「子どものとき、頭に、疔という腫物をわずらったことがあって、月代を剃ると、その痕が醜いから、髪を生やしておくのだと、いつか私に話したことを思い出したの」
「いつかって、何日?」
「もう、五年も前。――関ヶ原の戦があったあの年の秋」
「そんな前から、おめえは、おらのお師匠様を知ってんのか」
「…………」
朱実は答えなかった。答える余裕もなく彼女の胸はその頃の思い出の奏でに高鳴っていた。
(……武蔵さんだ!)
身もおろおろと会いたさに駆られてくるのである。母のすることを見――又八の変り方を見て来て――彼女は自分が最初から心のうちで、武蔵の方を選んでいたことが間違いでなかったことに、愈

そして、処女ごころは、茶屋がよいの幾多の男性を見るにつけ、自分の行くすえは、こんな群れにはないものときめ、それらの気障な男たちを冷蔑し、五年前の武蔵の面影を、ひそかな胸の奥において、口誦む歌にも、ひとりで末の夢を楽しんでいた。
「――じゃあ、頼んだぜ。又八って人が、見つかったら、屹度、今の言伝てをしといておくれ」
用が済むと、先を急ぐように城太郎は、河原の堤へ駈け上がった。
「あっ、待って!」
朱実は、追いすがった。彼の手をつかまえて、何をいおうとするのか、城太郎の眼にも眩ゆいほどその顔は、美しい血でぽっと燃えていた。
「あんた、何ていう名?」
熱い息で、朱実が訊く。
城太郎は――城太郎と答えて、彼女の悩ましげな昂ぶりを、変な顔して見上げていた。
「じゃあ、城太郎さん、あんたは何日も武蔵さんと一緒にいるのね」
「武蔵様だろう」
「あ……そうそう武蔵様の」
「うん」
「わたし、あのお方に、ぜひ会いたいのだけれど、どこにお住まいなの」
「家かい、家なンかねえや」
「あら、どうして」
「武者修行してるんだもの」
「仮のお旅宿は」
「奈良の宝蔵院に行って訊けばわかるんだよ」
「ま……。京都にいらっしゃると思ったら」
「来年くるよ。一月まで」
朱実は何かつきつめた思案に迷っているらしかった。――と、すぐ後ろのわが家の勝手口の窓から、
「朱実っ、いつまで、何をしているんだえ! そんなお菰の子を相手に油を売ってないで、はやく用を片づけておしまい!」
お甲の声であった。
朱実は、母に抱いている平常の不満が、こんな時、すぐ言葉つきに出た。
「この子が、又八さんを尋ねて来たから、理を話しているんじゃありませんか。人を奉公人だと思ってる」
窓に見えるお甲の眉は焦だっていた、また病気が起っているらしい。そういう口をたたくまでに誰が大きく育てて来てやったのか――といいたげに、白い眼を投げて。
「又八? ……又八がどうしたっていうのさ、もうあんな人間は、家の者じゃなし、知らないといっておけばいいんじゃないか! 間がわるくって、戻れないもんだから、そんなお菰の餓鬼に頼んで何かいってよこしたんだろう。相手におなりでない」
城太郎、呆っ気にとられ、
「馬鹿にすんない。おら、お菰の子じゃねえぞ」
と、呟いた。
お甲は、その城太郎と朱実の話を監視するように、
「朱実っ、お入りっ」
「……でも、河原にまだ洗い物が残っていますから」
「後は、下婢におさせ。おまえはお風呂に入って、お化粧をしていなければいけないでしょ。また不意に、清十郎様でも来て、そんな姿を見たら、愛想をつかされてしまう」
「ちッ……あんな人。愛想をつかしてくれれば、オオ嬉しい! だ」
――朱実は不平を顔に漲らせて、家の内へ、嫌々駈けこんでしまった。
それと共に、お甲の顔もかくれた。――城太郎は閉まった窓を見上げて、
「けっ。ばばあのくせに、白粉なんかつけやがって、ヘンな女!」
と、悪たれた。
すぐ、その窓がまた開いた。
「なんだッて、もういちどいってごらん!」
「あっ、聞えやがった」
あわてて逃げ出す頭へ、後ろから――ざぶりっと、うすい味噌汁みたいな鍋の水をぶちかけられて、城太郎は、狆ころみたいに身ぶるいした。
襟くびにくッついた菜っぱを、妙な顔をしながら摘んで捨て、忌々しさを、ありッたけな声に入れて、唄いながら逃げ出した――
本能寺の
西の小路は
暗いげな
あずさの姥が
白いもの化粧いして
漢女子産んだり
紅毛子産んだり
タリヤンタリヤン
タリ、ヤン、タン
西の小路は
暗いげな
あずさの姥が
白いもの化粧いして
漢女子産んだり
紅毛子産んだり
タリヤンタリヤン
タリ、ヤン、タン
米俵か小豆か、とにかく裕福な檀家の贈りものとみえ、牛車に山と積まれてゆく俵の上には、木札が差し立ててあり、
興福寺寄進
と墨黒く記してある。
奈良といえば興福寺――興福寺といえばすぐ奈良が思い出されるのである。城太郎も、その有名な寺だけは知っていたらしく、
「しめた、うまい車が行くぞ――」
牛車へ追いついて、車の尻へ、飛びついた。
後ろ向きになると、ちょうどよく腰掛けられるのだった。贅沢なことには、俵へ背中まで寄りかけられるではないか。
沿道には、丸い茶の木の丘、咲きかけている桜、今年も兵や軍馬に踏まれずに無事に育ってくれと祈りながら麦を鋤く百姓。野菜を川で洗うその土民の女衆。――飽くまでのどかな大和街道だった。
「こいつは、暢気だ」
城太郎は、いい気もちだった。居眠ッているまに奈良へ着いてしまう気でいる。時々、石へ乗せかけた轍がぐわらっと車体を強く揺す振るのも愉快でたまらない。動く物――動くばかりでなく進む物に――身を乗せているということだけで、少年の心臓は無上な楽しみにおどる。
(……あら、あら、どこかで鶏が噪いでいるぞ、お婆さんお婆さん、鼬が卵を盗みに来たのに、知らずにいるのか。……どこの子か、往来で転んで泣いているよ。向うから馬も来るよ)
眼の側を流れてゆく事々が、城太郎にはみな感興になる。村を離れて、並木にかかると、路傍の椿の葉を一枚むしり、唇に当てて吹き鳴らした。
同じ馬でも
大将を乗せれば
池月、する墨
金ぷくりん
ピキピーの
トッピキピ
馬は馬でも
泥田にすめば
やれ踏め、やれ負え
年がら貧
貧――貧――貧
前に歩いてゆく牛方は、大将を乗せれば
池月、する墨
金ぷくりん
ピキピーの
トッピキピ
馬は馬でも
泥田にすめば
やれ踏め、やれ負え
年がら貧
貧――貧――貧
「おや?」
振向いたが、何も見えないのでまたそのまま歩みだした。
ピキ、ピーの
トッピキピ
牛方は、手綱を抛りすてて、車のうしろへ廻って来た。拳をかためて、いきなり、トッピキピ
「この野郎」
「ア痛っ」
「なんだって車の尻になど乗ってけつかるか」
「いけないの」
「当りめえだ」
「おじさんがひっぱるわけじゃないからいいじゃないか」
「ふざけるなっ」
城太郎の体は鞠みたいに地上へ弾んで、ごろんと、並木の根まで転がった。
嘲笑うように牛車の轍は彼を捨てて行った。城太郎は腰をさすって起き上がったが、ふと妙な顔して地上をきょろきょろ見まわし始めた――何か紛失し物でもしたような眼で。
「あれ? ないぞ」
武蔵の手紙を届けた吉岡道場から、これを持って帰れと渡されて来た返辞である。大事に竹筒へ入れて、途中からは、紐で首へかけて歩いていたのが――今気がついてみると、それがない。
「困った、困った」
城太郎の探す眼の範囲はだんだん拡がって行った。――と、その態を見て笑いながら近づいて来た旅装いの若い女性が、
「何か落したのですか」
と、親切に訊ねてくれる。
城太郎は、額ごしに、ちらと市女笠のうちの女の顔を見たが、
「うん……」
うつつに頷いたきりでまた、すぐ眼は地上を辿って、頻りに首を傾げていた――
「お金?」
「う、う、ん」
何を訊いても、城太郎の耳には、うわの空であった。
旅の若い女は微笑んで、
「――じゃあ、紐のついている一尺ぐらいな竹の筒ではありませんか」
「あっ、それだ」
「それなら、先刻そなたが、万福寺の下で、馬子衆の繋いでおいた馬に悪戯をして呶鳴られたでしょう」
「ああ……」
「びっくりして逃げ出した時に、紐が切れて往来へ落ちたのを、その時、馬子衆と立話しをしていたお侍が拾っていたようですから、戻って訊いてごらん」
「ほんと」
「え。ほんと」
「ありがと」
駈け出そうとすると、
「あ、もしもし、戻るにも及びません。ちょうど彼方から、そのお侍様が、見えました。野袴をはいて、にやにや笑いながら来るでしょう。あの人です」
女の指さす方を見て、
「あの人」
城太郎は、大きな眸で、じっと待っていた。
四十がらみの偉丈夫である。黒い顎髯を蓄え、肩の幅、胸幅も、常人よりずっと広くて、背も高い。革足袋に草履穿きのその足の運びが、いかにも確かに大地を踏んでいるというように見えて立派である。――どこかの大名の名ある家臣にちがいないと城太郎にも思えたので、ちょっと、馴々しく言葉がかけ難いのであった。
すると、幸いに、
「小僧」
と、向うから呼んでくれた。
「はい」
「お前だろう、万福寺の下で、この状入れを落したのは」
「ああ、あったあった」
「あったもないものじゃ、礼をいわんか」
「すみません」
「大事な返書ではないか。かような書面を持つ使いが、馬に悪戯したり、牛車の尻に乗ったり、道草をしていては主人に相済むまいが」
「お武家さん、中を見たね」
「拾い物は、一応中を検めて渡すのが正しいのだ。しかし、書面の封は切らん。おまえも中を検めて受け取れ」
城太郎は、竹筒の栓を抜いてから、中をのぞいた。吉岡道場の返書はたしかに入っている。やっと安心して、また頸へかけながら、
「もう落さないぞ」
と呟いた。
眺めていた旅の若い女は、城太郎の欣ぶのを共に欣んで、
「ご親切に、有難うございました」と、彼のいい足らない気持を、彼に代って礼をいった。
髯侍は、城太郎やその女性と、歩調をあわせて歩みながら、
「お女中、この小僧は、あなたのお連れか」
「いいえ、まるで知らない子でございますけれど」
「ははは、どうも釣り合いが取れぬと思った。おかしな小僧だの、笠のきちんが振っておる」
「無邪気なものでございますね、何処まで行くのでございましょう」
二人の間に挟まって城太郎はもう得々と元気に返っていて、
「おらかい? おらは、奈良の宝蔵院まで行くのさ」
そういって、ふと、彼女の帯の間から、見えている古金襴の袋をじっと見つめ――
「おや、お女中さん、おまえも状筒を持っているんだね、落さないようにした方がいいよ」
「状筒を」
「帯に差しているそれさ」
「ホホホホ。これは、手紙を入れる竹筒ではありません。横笛です」
「笛――」
城太郎は、好奇な眼をひからかして、無遠慮に女の胸へ顔を近づけた。そして何を感じたものか、次には、その人の足もとから髪まで見直した。
童心にも、女の美醜は映るとみえる。美醜はともあれ、清純か不純かを率直に感じるに違いない。
城太郎は、改めて美麗な人だなあ、と眼の前の女性に尊敬をもった。こんな美麗な女の人と道づれになったのは、何か、飛んでもない幸福にぶつかったようで、急に、動悸がしたり、気がふわふわして来た。
「笛かあ、なるほど」
独りで、感心して、
「おばさん、笛吹くの?」
と訊いた。
だが、若い女に対して、おばさんと呼んで、この間、よもぎの寮の娘に怒られたことを城太郎は思い出したのだろう、またあわてて、
「お女中さん、なんという名?」
突拍子もなく違った問題を、しかし、なんのこだわりもなく、急に訊き出すのである。
旅の若い女は、
「ホホホホホ」
城太郎には答えないで、彼の頭越しに顎髯の侍のほうを見て笑った。
熊のような髯のあるその武家は、白い丈夫そうな歯を見せて、これは大きく哄笑した。
「このチビめ、隅には置けんわい。――人の名を問う時は、自分の名から申すのが礼儀じゃ」
「おらは城太郎」
「ホホホ」
「狡いな、俺にだけ名のらせておいて。――そうだ、お武家さんがいわないからだ」
「わしか」
と、これも困った顔をして、
「庄田」――といった。
「庄田さんか。――下の名は」
「名は勘弁せい」
「こんどは、お女中さんの番だ、男が二人まで名をいったのに、いわなければ、礼儀に欠けるぜ」
「わたくしは、お通と申します」
「お通様か」
と、それで気が済んだのかと思うと、城太郎は口を休めずに、
「なんだって、笛なんか帯に差して歩いているんだね」
「これは私の糊口すぎをする大事な品ですもの」
「じゃあ、お通様の職業は、笛吹きか」
「え……笛吹きという職業があるかどうかわかりませんが、笛のおかげで、こうして長い旅にも困らず過ごしておりますから、やはり、笛吹きでしょうね」
「祇園や、加茂宮でする、神楽の笛?」
「いいえ」
「じゃあ、舞の笛」
「いいえ」
「じゃあ何ンだい一体」
「ただの横笛」
庄田という武家は、城太郎が腰に横たえている長い木剣に眼をつけて、
「城太郎、おまえの腰にさしているのは何だな」
「侍が木剣を知らないのかい」
「なんのために差しているのかと訊くのじゃ」
「剣術を覚えるためにさ」
「師匠があるのか」
「あるとも」
「ははあ、その状筒の内にある手紙の名宛の人か」
「そうだ」
「おまえの師匠のことだからさだめし達人だろうな」
「そうでもないよ」
「弱いのか」
「あ。世間の評判では、まだ弱いらしいよ」
「師匠が弱くては困るだろ」
「おらも下手だからかまわない」
「少しは習ったか」
「まだ、なンにも習ってない」
「あはははは、おまえと歩いていると、道が飽きなくてよいな。……してお女中は、どこまで参られるのか」
「わたくしには、何処という的もございませぬが、奈良にはこの頃多くの牢人衆が集まっていると聞き、実は、どうあっても巡り会いたいお人を多年捜しておりますので、そんな儚い噂をたよりに、参る途中でございまする」
宇治橋のたもとが見えてくる。
通円ヶ茶屋の軒には、上品な老人が茶の風呂釜をすえて、床几へ立ち寄る旅人に、風流を鬻いでいた。
庄田という髯侍の姿を仰ぐと、馴染みとみえて、茶売りの老人は、
「おお、これは小柳生の御家中様一服おあがり下さいませ」
「やすませて貰おうか――その小僧に、何ぞ、菓子をやってくれい」
菓子を持つと、城太郎は、足を休めていることなどは退屈に堪えないらしく、裏の低い丘を見上げて、駈上がって行った。
お通は茶を味わいながら、
「奈良へはまだ遠うございますか」
「左様、足のお早いお方でも、木津では日が暮れましょう。女子衆では、多賀か井手でお泊りにならねば」
老人の答えをすぐ引き取って、髯侍の庄田がいった。
「この女子は、多年捜している者があって、奈良へ参るというのだが、近ごろの奈良へ若い女子一人で行くのは、どうであろうか。わしは心もとなく思うが」
聞くと、眼を瞠って、
「滅相もない」
茶売りの老人は、手を振った。
「おやめなされませ、尋ねるお方が、確かにいると分っているならば知らぬこと、さものうて、なんであんな物騒ななかへ――」
口を酢くして、その危険であることの、実例をいろいろ挙げて引き止めるのだった。
奈良といえばすぐさびた青丹の伽藍と、鹿の目が連想され、あの平和な旧都だけは、戦乱も飢饉もない無風帯のように考えられているが、事実は、なかなかそうでない。――と茶売りの老人は自分も一服のんで説く。
なぜならば――関ヶ原の役の後は、奈良から高野山にかけて、どれほど、沢山な敗軍の牢人たちが隠れこんだかわからない。それが皆、西軍に加担した大坂方だ。禄もなし、他の職業につく見込みもない人々だ。関東の徳川幕府が、今のように隆々と勢力を加えてゆく現状では、生涯、大手を振って陽なたを歩くこともできない連中なのだ。
何でも、世間一般の定説によると、関ヶ原の役では尠くも、そういう扶持離れの牢人者が、ここ五年ほどでざっと十二、三万人は出来ているだろうとのことである。
あの大戦の結果、徳川の新幕府に没収された領地は六百六十万石といわれている。その後、減封処分で、家名の再興をゆるされた分を引いても、まだ取りつぶしを食った大名は八十家に余るし、その領土の三百八十万石というものは改易されている。ここから離散して、諸国の地下に潜った牢人者の数を、仮に百石三人とし、本国にいた家族や郎党などを加算すると、どう少なく見積っても、十万人は下るまいという噂。
ことに、奈良とか、高野山とかいう地帯は、武力の入り難い寺院が多いために、そういう牢人たちにとっては、屈強のかくれ場所となり得るので、ちょっと指を折っても、九度山には真田左衛門尉幸村、高野山には南部牢人の北十左衛門、法隆寺の近在には仙石宗也、興福寺長屋には塙団右衛門、そのほか御宿万兵衛とか、小西牢人の某とか、ともかく、このまま日蔭では白骨になりきれない物騒な豪の者が、ふたたび天下が大乱となることを旱に雨をのぞむように待っているという状態である。
まだまだそこらの名のある牢人は、それぞれ、隠栖しても一かどの権式も生活力も持っているが、これが奈良の裏町あたりへゆくと、ほとんど、腰の刀の中身まで売りはたいたような、ほんとの無職武士がうようよいて、半分は自暴になって風紀をみだし、喧嘩を漁り、ただ徳川治下の世間をさわがせて一日もはやく大坂の方に、火の手があがればよいと祈っている連中ばかりが、巣を作しているような有様であるから、そんな所へ、あなたのような美しい女子が一人で行くことは、まるで袂へ油を入れて火の中へ入るようなものだと、茶売りの老人は、お通を止めてやまないのであった。
そう聞かされてみると奈良へ行くのも、甚だ不気味なことになる。
お通は考えこんでしまった。
奈良に、微かな手懸りでもあるならば、どんな危険をも厭うことではないが――
そういう心当りは、彼女には今の所まるでないのである。ただ漠然と――姫路城下の花田橋の袂からあのまま数年の月日を――旅から旅へ、的なく、彷徨って来たに過ぎない。今も、その儚い流浪の途中に過ぎない――
「お通どのと申されたの――」
彼女の迷っている顔いろを見て、髯侍の庄田が、
「どうであろう、最前から、申しそびれていたが、これから奈良へ行かれるより、わしと共に、小柳生まで来てくれないか」
といい出した。
そこで、その庄田が自分の素姓を明かしていうことに、
「わしは小柳生の家中で、庄田喜左衛門と申す者だが、実は、もはや八十にお近い自分の御主君は、このところお体もお弱くて毎日、無聊に苦しんでおられる。そなたが、笛を吹いて糊口すぎをいたしておるというので思いついたことだが、或は、そうした折ゆえ、大殿のよいお慰みになろうか知れぬ。どうだな、来てくれまいか」
茶売りの老人は、側にあって、それはよい思いつきと喜左衛門と共に頻りにすすめた。
「お女中、ぜひお供して行かっしゃれ。知ってでもあろうが、小柳生の大殿とは、柳生宗厳様のこと、今では、御隠居あそばして、石舟斎と申しあげているお方じゃ、若殿の但馬守宗矩様は、関ヶ原の戦からお帰りあそばすとすぐ、江戸表へ召されて、将軍家の御師範役。またとない御名誉なお家がらじゃ、そうしたお館へ、召されるだけでもまたとない果報、ぜひぜひお供なされませ」
有名な兵法の名家、柳生家の家臣と聞いて、お通は喜左衛門の物腰が、只人とは思えなかったことが、さてこそと、心のうちに、頷かれた。
「気がすすまぬか」
喜左衛門が、諦めかけると、
「いいえ、願うてもないことでございますが、拙い笛、さような御身分のあるお方の前では」
「いやいや、ただの大名衆のように思うては、柳生家では、大きにちがう。殊に石舟斎様と仰せられて、今では、簡素な余生を楽しんでいられる茶人のようなお方だ、むしろ、そういう気がねはお嫌いなさる」
漫然と奈良へゆくより、お通はこの柳生家の方に一つの希望をつないだ。柳生家といえば、吉岡以後の兵法第一の名家、さだめし諸国の武者修行が訪れているに違いない。そして、門を叩いた者の名を載せた芳名帳を備えているかも知れない。――そのうちにはもしかしたら自分の探し歩いている――宮本武蔵政名――の名があるかも知れない。もしあったらどんなに欣しいか。
「では、おことばに甘えて、お供いたしまする」
急に明るくいうと、
「え、来てくれるとか、それは辱い」
喜左衛門は欣んで、
「そう決まれば、女子の足では夜にかけても、小柳生まではちと無理、お通どの、馬に乗れるか」
「はい、厭いませぬ」
喜左衛門は軒を出て、宇治橋の袂のほうへ手をあげた。そこに屯していた馬方が飛んで来る。お通だけを乗せて、喜左衛門は歩いた。
すると茶屋の裏山へ上っていた城太郎が見つけて、
「もう行くのかあいっ」
「おお出かけるぞ」
「お待ちようっ」
宇治橋の上で、城太郎は追いついた。何を見ていたのかと喜左衛門が訊くと、丘の林の中に、大勢の大人が集まって、何か知らないが面白い遊び事をしていたから見ていたのだという。
馬子は笑って、
「旦那、そいつあ牢人が集まって、博奕を開帳しているんでさ。――食えねえ牢人が旅の者を引っ張りあげては、裸にして追っ払うんだから凄うがすぜ」
と、いった。
馬の背には、市女笠の麗人、城太郎と髯の庄田喜左衛門とが、その両側に歩み、前には日の永い顔をして馬子が行く。
宇治橋をこえ、やがて木津川堤にかかる。河内平の空は雲雀に霞んで、絵の中を行く気がする。
「うむ……牢人どもが博奕をしているか」
「博奕などはまだいい方なんで――押し借りはする、女はかどわかす、それで、強いと来ているから手がつけられませんや」
「領主は、黙っているのか」
「御領主だって、ちょっとやそっとの牢人なら召捕るでしょうが――河内、大和、紀州の牢人が合体になったら、御領主よりゃあ強いでしょう」
「甲賀にもいるそうだの」
「筒井牢人が、うんと逃げこんでいるんで、どうしても、もう一度戦をやらなけれやあ、あの衆は、骨になりきれねえとみえる」
喜左衛門と馬子の話に、ふと、耳をとめて城太郎が口を出した。
「牢人牢人っていうけれど、牢人のうちでも、いい牢人だってあるんだろ」
「それは、あるとも」
「おらのお師匠さんだって牢人だからな」
「ははは、それで不平だったのか、なかなか師匠思いだの。――ところでおまえは宝蔵院へ行くといったが、そちの師匠は宝蔵院にいるのか」
「そこへ行けば分ることになっているんだ」
「何流をつかうのか」
「知らない」
「弟子のくせに、師匠の流儀を知らんのか」
すると、馬子がまた、
「旦那、この節あ、剣術流行りで猫も杓子も、武者修行だ。この街道を歩く武者修行だけでも一日に五人や十人はきっと見かけますぜ」
「ほう、左様かなあ」
「これも、牢人が殖えたせいじゃございませんか」
「それもあろうな」
「剣術がうめえッてえと、方々の大名から、五百石、千石で、引っ張りだこになるってんで、みんな始めるらしいんだね」
「ふん、出世の早道か」
「そこにいるおチビまでが木剣など差して、撲り合いさえ覚えれば、人間になれると思っているんだから空怖しい。こんなのが沢山できたら、行く末なんで飯を喰うつもりか思いやられますぜ」
城太郎は、怒った。
「馬子っ、なんだと、もう一ぺんいってみろ」
「あれだ――蚤が楊子を差したような恰好をしやがって、口だけは一人前の武者修行のつもりでいやがる」
「ははは、城太郎、怒るな怒るな。また、頸にかけている大事な物を落すぞ」
「もう、大丈夫だい」
「おお、木津川の渡舟へ来たからおまえとはお別れだ。――もう陽も暮れかかるゆえ、道くさをせず、急いで行けよ」
「お通様は」
「わたしは、庄田様のお供をして小柳生のお城へ行くことになりました。――気をつけておいでなさいね」
「なんだ、おら、独りぽッちになるのか」
「でもまた、縁があれば、どこかで会う日があるかも知れません――城太郎さんも旅が家、わたしも尋ねるお人に巡り会うまでは旅が住居」
「いったい、誰をさがしているの、どんな人?」
「…………」
お通は答えなかった。馬の背からにっこと別れの眸を与えただけであった。河原を駈け出して、城太郎は、渡舟の中へ飛び乗っていた。この舟が夕陽に赤く隈どられて、河の中ほどまで流れだした頃、振り返ると、お通の駒と喜左衛門の姿は木津川の上流が遽かにその辺りから狭くなっている渓谷の笠置寺道を、山蔭の早い夕べに影をぼかして、とぼとぼと、もう提灯を燈して歩いてゆくのが見えた。
およそ今、天下に虻や蜂ほど多い武芸者のうちでも、宝蔵院という名は実によく響いている。もしその宝蔵院を単なるお寺の名としか弁えないで話したり聞いたりしている兵法者があるとしたら、すぐ、
(こいつ潜りだな)
と、扱われてしまうほどにである。
この奈良の地へ来ては、なおさらのことであった。奈良の現状では、正倉院が何だか知らないものはほとんどだが、槍の宝蔵院とたずねれば、
「あ、油坂のか」
と、すぐ分る。
そこは興福寺の天狗でも棲んでいそうな大きな杉林の西側にあたっていて、寧楽朝の世の盛りを偲ばせる元林院址とか、光明皇后が浴舎を建てて千人の垢を去りたもうた悲田院施薬院の址などもあるが、それも今は、苔と雑草の中からわずかに当時の石が顔を出しているに過ぎない。
油坂というのはこの辺りと聞いては来たが武蔵は、
「はて?」
と、見まわした。
寺院は幾軒も見て来たが、それらしい山門はない。宝蔵院という門札も見えない。
冬を越して、春を浴びて、一年中でいちばん黒ずんでいる杉のうえから、今が妙齢の采女のように明るくてやわらかい春日山の曲線がながれていて、足もとは夕方に近づいていたが、彼方の山の肩にはまだ陽が明るかった。
其処か、此処かと、寺らしい屋根を仰いでゆくうちに、
「お」
武蔵は足を止めた。
――だが、よく見ると、その門に書いてあるのは、甚だ宝蔵院と紛らわしい名で「奥蔵院」としてあるのである。頭字が一つ違っている。
それに山門から奥を覗くと日蓮宗の寺らしく見える。宝蔵院が日蓮宗の檀林であるということはかつて、武蔵も聞かない話であるから、これはやはり宝蔵院とは全く別な寺院に違いない――
ぼんやり山門に立っていた。すると、外から帰ってきた奥蔵院の納所が、うさん臭い者を見るような眼で、武蔵をじろじろながめて通りかけた。
武蔵は笠を脱って、
「お訊ねいたしますが」
「はあ、なんじゃね」
「当寺は、奥蔵院と申しますか」
「はあ、そこに書いてある通り」
「宝蔵院は、やはりこの油坂と聞きましたが他にございましょうか」
「宝蔵院は、この寺と、背中あわせじゃ。宝蔵院へ、試合に行かれるのか」
「はい」
「それなら、よしたらどうじゃの」
「は? ……」
「折角、親から満足にもろうた手脚を、片輪を癒しに来るなら分っているが、何も遠くから、片輪になりに来るにも及ぶまいに」
この納所にも、凡の日蓮坊主ではないような骨ぐみがある、武蔵を見下して意見するのである。武芸の流行もけっこうだが、このごろのように、わんさわんさと押しかけて来られては宝蔵院でも実にうるさい。大体、宝蔵院そのものは、名の示すがように法燈の寂土であって、何も槍術が商売でない。商売というならば宗教が本職で、槍術は内職とでもいおうか、先代の住持、覚禅房胤栄という人が、小柳生の城主柳生宗厳のところへ出入りしたり、また宗厳の交わりのある上泉伊勢守などとも昵懇にしていた関係から、いつの間にか武芸に興味をもち、余技としてやりだしたのが次第にすすんで、槍のつかいようにまで工夫を加え、誰いうとなく宝蔵院流などと持て囃してしまったのであるが、その物好きな覚禅房胤栄という先代は、もう本年八十四歳、すっかり耄碌してしまって、人にも会わないし、会ったところで、歯のない口をふにゃふにゃ動かすだけで、話もわからなければ、槍のことなどは、すっかり忘れてしまっている。
「だから、無駄じゃよ、行ったところで」
と、この納所は、武蔵を追っ払おうとするのが肚か、いよいよ膠も素っ気もない。
「そういうことも、噂に聞いて、承知してはおりますが」
と武蔵は、弄られているのを承知の上で、
「――しかし、その後には、権律師胤舜どのが、宝蔵院流の秘奥をうけ、二代目の後嗣として、今もさかんに槍術を研鑽して、多くの門下を養い、また訪う者は拒まずご教導も下さるとか伺いましたが」
「あ、その胤舜どのは、うちのお住持の弟子みたいなものでね、初代覚禅房胤栄どのが、耄碌されてしまったので、折角、槍の宝蔵院と天下にひびいた名物を、つぶしてしまうのも惜しいと仰っしゃって、胤栄から教わった秘伝を、うちのお住持がまた、胤舜に伝え、そして宝蔵院の二代目にすえたのだ」
何か、ぐずねたいい方をすると思ったら、この奥蔵院の日蓮坊主は、要するに、今の宝蔵院流の二代目は、自分の寺の住持が立ててやったもので、槍術も、その二代目胤舜よりは、日蓮寺の奥蔵院の住持のほうが系統も正しく本格なのだぞ――ということを、暗に外来の武芸者にほのめかせたい気持であったらしい。
「なるほど」
武蔵が一応うなずくと、それを以て満足したらしく、奥蔵院の納所は、
「でも、行って見るかね?」
「せっかく参りましたものゆえ」
「それもそうだ……」
「当寺と、背中あわせと申すと、この山門の外の道を、右へ曲りますか、左へ参りますか」
「いや、行くなら、当寺の境内を通って、裏を抜けて行きなさい、ずッと近い」
礼をいって、教えられた通りに武蔵は歩いた。庫裡の側から寺の地内を裏手へ入ってゆく。するとそこは薪小屋だの味噌蔵だのがあって、五反ほどの畑が展けている。ちょうど田舎の豪農の家囲いのように。
「……あれだな」
畑の彼方に、また一寺が見える。武蔵は、よく肥えている菜や大根や葱のあいだの柔らかい土を踏んで行った。
と――そこの畑に、一人の老僧が鍬をもって百姓をしていた。背中に木魚でも入れたぐらい猫背である。黙然と、鍬の先に俯向いているので、真っ白な眉だけが植えたように額の下から浮き出して見える。鍬を下ろすたびにするカチという石の音だけが、ここの広い閑寂を破っていた。
(この老僧も日蓮寺のほうの者だな)
武蔵は、挨拶をしようと思ったが、土に他念のない老僧の三昧ぶりに憚られて、そっと側を通りかけると、これは何ということだ、下を向いている老僧の眸がジイッと眼の隅から自分の脚もとを射ている。――そして形や声にこそ現われてはいないが、なんともいえないすさまじい気が――心体から発しるものとは思われない――今にも雲を破って搏たんとする雷気のようなものが、びくりと武蔵の全身に感じられた。
はっ――と竦んだ時、武蔵は老僧の静かなすがたを、二間ほど先から振向いていた。迅い槍を跨いだ程度に武蔵の体はぼっと熱くなっていた。傴僂のように尖った老僧の背は後ろを向けたままで、カチ、カチ、と土へ鍬を入れている調子に少しも変りはなかった。
「何者だろう?」
武蔵は大きな疑いを抱きながら、やがて宝蔵院の玄関を見つけた。そこに立って取次を待つ間も、
(ここの二代目胤舜は、まだ若いはずであるし、初代胤栄は、槍を忘れてしまったというほど耄碌していると今聞いたが……)
いつまでも頭の隅に気になっている老僧であった。それを払い退けるように、武蔵はさらに、二度ほど大声で訪れたが、四辺の樹木に木魂するばかりで、奥深そうな宝蔵院の内からは、なかなか取次の答がない。
ふと見ると、玄関の横手に、大きな銅鑼の衝立が備えてある。
(ははあ、これを打つのだな)
武蔵が、それを鳴らすと、おおうと、遠くですぐ返辞が聞えた。
出て来たのは、叡山の僧兵にすればさしずめ旗頭にもなれそうな骨格の大坊主である。武蔵のような身装の来訪者は、毎日あつかい馴れている調子である。じろっと一瞥くれて、
「武芸者か」
「はい」
「何しに?」
「ご教授を仰ぎたいと存じて」
「上がんなさい」
右へ指をさす。
足を洗えというのらしい。筧の水が盥に引いてある。摺り切れた草鞋が十足もそこらに脱ぎちらしてあった。
真っ黒な一間廊下を、武蔵は従いて行った。芭蕉の葉が窓に見える一室に入って控えている。取次の羅漢の殺伐な動作をのぞけば、他はどう眺めてもただの寺院にちがいない。燻々と香のにおいすらするのである。
「これへ、どこで修行したか、流名と自身の姓名を誌けて」
子どもへいうように、以前の大坊主が来て一冊の帳面と硯箱とをつきつける。
見ると、
叩門者授業芳名録
宝蔵院執事
とある。開いてみると、無数の武者修行の名が訪問の月日の下に連ねてある。武蔵も前の者に倣って書いたが、流名は書きようもなかった。宝蔵院執事
「兵法は誰について習ったのか」
「我流でございます。――師と申せば、幼少の折、父から十手術の教導をうけましたが、それもよう勉強はせず、後に志を抱きましてからは、天地の万物を以て、また天下の先輩を以て、みなわが師と心得て勉強中の者でござります」
「ふム……。そこで承知でもあろうが、当流は御先代以来、天下に鳴りわたっている宝蔵院一流の槍じゃ。荒い、激しい、仮借のない槍術じゃ。一応、その授業芳名録のいちばんはじめに認めてある文を読んでからにいたしてはどうだな」
気づかなかったが、そういわれて武蔵は下へ置いた一冊を持ち直して繰ってみると、なるほど書いてある。――当院において授業をうける以上は、万一、五体不具になっても死を招いても苦情は申し上げない、という誓約書である。
「心得ております」
武蔵は微笑してもどした。武者修行をして歩くからには、これは何処でもいう常識だからである。
「じゃあこっちへ――」
と、また奥へ進む。
大きな講堂でもつぶしたのか恐ろしく広い道場であった。寺だけに、太い丸柱が奇異に見えるし、欄間彫の剥げた金箔だの胡粉絵具なども、他の道場には見られない。
自分ひとりかと思いのほか、控え席には、すでに十名以上の修行者が来ている。そのほか法体の弟子が十数名もいるし、ただ見物しているという態の侍たちも相当に多く、道場の大床には今、槍と槍をあわせている一組の試合が行われていて、みな固唾をのんでそれへ見入っているのである。――で武蔵がそっとその一隅へ坐っても、誰ひとり振向いてみる者はない。
望みの者には、真槍の試合にも応じる――と道場の壁には書いてあるが、今立ち合っている者の槍は、単なる樫の長い棒に過ぎない。それでも突かれるとひどいとみえ、やがて一方が刎ねとばされて、すごすご席へ戻って来たのを見ると、太股がもう樽のように腫上がって、坐るにも耐えないらしく、肘をついて、片方の脚を投げ出しながら苦痛を怺えている容子だった。
「さあ、次っ」
法衣の袂を背で結んで、脚も腕も肩も額も瘤で出来あがっているかのように見える傲岸な法師が、一丈余もある大槍を立てて、道場のほうから呼んでいた。
「では、それがしが――」
一人が席から起った。これも今日、宝蔵院の門をたたいた武者修行の一人らしい。革だすき綾どって道場の床へすすんでゆく。
法師は、不動の姿勢で突っ立っていたが、次に出て来た相手が、壁から選み把った薙刀を持って、自分の方へ向って、挨拶をしかけると真っ直に立てていた槍を、
「うわッ!」
いきなり山犬でも吠えたような声を出して、相手の頭へ撲り落して行った。
「――次っ」
すぐまた、平然と大槍を立てて元の姿勢に返っているのである。撲られた男は、それきりだった。死んだ容子はないが、自分の力で顔を上げることも出来ないのだ。それを二、三人の法師弟子が出て来て、袴腰をつかんでずるずると席のほうへ引っ張り込む、その後に血の交じった涎が糸をひいて床を濡らしている。
「次は?」
突っ立っている法師はあくまで傲岸だ。武蔵は初め、その法師が宝蔵院二代目の胤舜かと思って見ていたが、側の者に訊いてみると、彼は阿巌という高弟の一人であって胤舜ではない、たいがいな試合でも、宝蔵院七足といわれる七人の弟子で間に合っているので、胤舜が自身で立合うなどという例はまずないというのである。
「もうないのか」
法師は、槍を横にした。授業者の名簿をもって、先刻、取次にあらわれた坊主が、帳面とそこらの顔を照らし合せ、
「其許は」
と、顔をさしていう。
「いや……いずれまた」
「そちらの人は」
「ちと、きょうは気が冴えんので――」
なんとなく皆、怯み渡ってしまった気ぶりである。幾番目かに武蔵が顎を向けられて、
「おてまえはどうする?」
武蔵は、頭を下げ、
「どうぞ」
といった。
「どうぞとは?」
「お願い申す」
起つと、一同の眼が武蔵を見た。不遜な阿巌という当の法師はもう引っ込んで、他の法師たちの中でげらげら何か笑っているのであったが、道場へ次の相手が出たので振向いた。しかしもう厭気がさしてしまったらしく、
「誰か、代れ」
と不性を極め込んでいる。
「まあ、もう一人じゃないか」
そういわれて、彼は、渋々また出て来た。つかい馴れているらしい真っ黒に艶の出ている前の槍を持ち直すとその槍を構え、武蔵へは尻を向けて、人もいない方へ、
ヤ、ヤ、ヤ、ヤッ!
と怪鳥の叫ぶような気合いを発したかと思うと、いきなり槍もろとも駈けだして行って、道場の突当りの板へどかんとぶつけた。
そこは日ごろ彼らの槍を鍛える稽古台にされているとみえ、一間四方ほど新しい板に張り代えてあるのに、彼の真槍でもないただの棒は、鋭い穂で貫いたようにぶすッとそこを突き抜いていた。
――えおっッ!
奇態な声を発しながら槍を手繰り返すと阿巌は、舞うように、武蔵のほうへ向って躍り返った。節くれ立ったその体からは精悍な湯気がのぼっていた。そして彼方に木剣を提げて、いささか呆れたかのように立っている武蔵のすがたを遠くから睨んで、
「――行くぞっ」
羽目板を突きぬく気をもって踵をすすみかけた時である。窓の外から誰か笑っていう者があった。
「――馬鹿よ、阿巌坊の大たわけよ、よく見よ、その相手は、羽目板とちと違うぞ」
槍を構えたまま、阿巌は横を向いて、
「――誰だっ?」
と、呶鳴った。
窓の際には、まだ笑いやまない声がくすくすいっている。骨董屋の手にかけたような照りのある頭と白い眉がそこから見えた。
「阿巌、無駄じゃよ、その試合は。――明後日にせい。胤舜がもどってからにせい」
老僧は止めるのであった。
「あ?」
武蔵は思い出した。先刻ここへ来る途中、宝蔵院の裏の畑で鍬をもって百姓仕事をしていたあの老僧ではないか。
そう思うまに、老僧の頭は、窓の際から消えていた。阿巌は老僧の注意で一度は槍の手をゆるめたが、武蔵と眸をあわせると、途端にそのことばを忘れてしまったように、
「何をいうかっ」
と、すでにそこにいない者を罵って、また槍を持ち直した。
武蔵は、念のために、
「よろしいか」
といった。
阿巌の憤怒を煽るには十分であった。彼は、左の拳の中に槍をふかく吸い入れて、床から身を浮かした。筋肉のすべてが鉄のような重厚さを持っているのに、床と彼の脚とは、着いているとも見えるし、浮いているとも見えて、波間の月のように定まりがない。
武蔵は、固着していた、一見そう見える。
木剣は真っ直に両手で持っているというほか、べつだん特異な構えではなかった。むしろ六尺に近い背のために、間の抜けたようにさえ思われるのである。そして筋肉は、阿巌のように節くれ立っていなかった。ただ、鳥のように瞠ったままの眼をしている。その眸はあまり黒くなかった。眸の中に血がにじみ込んでいるように、琥珀色をして透き徹っている。
阿巌はぴくと顔を振った。
汗のすじが額を縦に通ったので、それを払うつもりであったのか、老僧の言葉が耳に残っていて邪魔になるので、それを意識から払おうとしたのか、とにかく焦立っていることは事実である。頻りと、位置を換える。まったく動かないでいる相手に対して、絶えず誘いをかけ、また自分から窺うことを怠らない。
――いきなり突いて行ったと見えた時は、ぎゃッという声が床へたたきつけられていた。武蔵は木剣を高くあげてその一瞬にもう跳び退いているのだ。
「どうしたッ?」
どやどやと阿巌のまわりには同門の法師たちが駈け寄って真っ黒になっていた。阿巌の抛り出した槍を踏んづけて転げた者があるほどな狼狽であった。
「薬湯、薬湯っ、薬湯を持って来い――」
起って叫ぶ者の胸や手には血しおがついていた。
いちど窓から顔を消した老僧は、玄関から廻ってここへ入って来たが、その間にこの始末なので、苦りきって傍観していた。そしてあたふた駈け出す者を止めていった。
「薬湯をどうするか、そんなものが間に合うほどなら止めはせん。――馬鹿者っ」
誰も彼を止める者はなかった。武蔵はむしろ手持ちぶさたを感じながら、玄関へ出て、わらじを穿きかけていた。
すると、例の猫背の老僧が、追って来て、
「お客」
と、後ろで呼んだ。
「は。――拙者?」
肩越しに答えると、
「ごあいさつ申したい。もいちどお戻りくだされい」
という。
導かれて、ふたたび奥へ入ったが、そこは前の道場よりはまた奥で、塗籠といってもよい真四角で一方口の部屋だった。
老僧は、ぺたと坐って、
「方丈があいさつに出るところじゃが、つい昨日摂津の御影まで参ってな、まだ両三日せねば帰らぬそうじゃ。――で、わしが代ってごあいさつ申す仕儀でござる」
「ごていねいに」
と、武蔵も頭を下げ、
「きょうは計らずも、よいご授業をうけましたが、ご門下の阿巌どのに対しては、なんともお気の毒な結果となり、申し上げようがござりませぬ」
「なんの」
老僧は打ち消して、
「兵法の立合いには、ありがちなこと。床に立つまえから、覚悟のうえの勝敗じゃ。お気にかけられな」
「して、お怪我のご様子は?」
「即死」
老僧のそう答えた息が、冷たい風のように武蔵の顔を吹いた。
「……死にましたか」
自分の木剣の下に、きょうも一つの生命が消えたのである。武蔵は、こうした時には、いつもちょっと瞑目して、心のうちで称名を唱えるのが常であった。
「お客」
「はい」
「宮本武蔵と申されたの」
「左様でござります」
「兵法は、誰に学ばれたか」
「師はありませぬ。幼少から父無二斎について十手術を、後には、諸国の先輩をみな師として訪ね、天下の山川もみな師と存じて遍歴しておりまする」
「よいお心がけじゃ。――しかし、おん身は強すぎる、余りに強い」
賞められたと思って、若い武蔵は顔の血に恥じらいをふくんだ。
「どういたしまして、まだわれながら未熟の見えるふつつか者で」
「いや、それじゃによって、その強さをもすこし撓めぬといかんのう、もっと弱くならにゃいかん」
「ははあ?」
「わしが最前、菜畑で菜を耕っておると、その側をおてまえが通られたじゃろう」
「はい」
「あの折、おてまえはわしの側を九尺も跳んで通った」
「は」
「なぜ、あんな振舞をする」
「あなたの鍬が、私の両脚へ向って、いつ横ざまに薙ぎつけて来るかわからないように覚えたからです。また下を向いて、畑の土を掘っていながら、あなたの眼気というものは、私の全身を観、私の隙をおそろしい殺気でさがしておられたからです」
「はははは、あべこべじゃよ」
老僧は、笑っていった。
「お身が、十間も先から歩いて来ると、もうおてまえのいうその殺気が、わしの鍬の先へびりッと感じていた。――それほどに、お身の一歩一歩には争気がある、覇気がある。当然わしもそれに対して、心に武装を持ったのじゃ。もし、あの時わしの側を通った者が、ただの百姓かなんぞであったら、わしはやはり鍬を持って菜を耕っているだけの老いぼれに過ぎんであったろう。あの殺気は、つまり、影法師じゃよ、はははは、自分の影法師に驚いて、自分で跳び退いたわけになる」
果たしてこの猫背の老僧は凡物でなかったのである。武蔵は、自分の考えがあたっていたことを思うとともに、初対面のことばを交わす前から、すでにこの老僧に負けている自分を見出して、先輩の前に置かれた後輩らしく膝を固くせずにはいられなかった。
「ご教訓のほど、有難く承りました。して、失礼ですが、貴僧はこの宝蔵院で、何と仰っしゃるお方ですか」
「いやわしは、宝蔵院の者ではない。この寺の背中あわせの奥蔵院の住持日観というものじゃが」
「あ、裏の御住職で」
「されば、この宝蔵院の先代の胤栄とは、古い友達での、胤栄が槍をつかいおるので、わしもともに習うたものだが、ちと考えがあって、今では一切、手に取らんことにしておる」
「では、当院の二代目胤舜どのは、あなたの槍術を学んだお弟子でございますな」
「そういうことになるかの。沙門に槍など要らぬ沙汰じゃが、宝蔵院という名が、変な名前を世間へ売ってしもうたので、当院の槍法が絶えるのは惜しいと人がいうので胤舜にだけ伝えたのじゃ」
「その胤舜どのがお帰りの日まで院の片隅へでも、泊めておいて貰えますまいか」
「試合うてみる気か」
「せっかく、宝蔵院を訪れたからには、院主の槍法を、一手なりと、拝見したいと思いますので」
「よしなさい」
日観は、顔を振って、
「いらぬこと」
と、たしなめるように重ねていう。
「なぜですか」
「宝蔵院の槍とは、どんなものか、今日の阿巌の技で、お身はたいがい見たはずじゃ。あれ以上の何を見る必要があるか。――さらに、もっと知りたくば、わしを見ろ、わしのこの目を見ろ」
日観は肩の骨を尖らして、武蔵と睨めっこするように、顔を前へつき出した。くぼんでいる中の眼球が飛び出して来るように光った。じっと見つめ返すと、その眼は、琥珀色になったり暗藍色になったりいろいろに変って光る気がするのである。武蔵は、遂に眼が痛くなって、先にひとみを外してしまった。
日観は、カタカタと板を鳴らすように笑った。後ろへ、ほかの坊主が来て、何か訊ねているのである。日観は顎をひいて、
「ここへ」
と、その坊主へいった。
すぐ高脚の客膳と飯びつが運ばれて来た。日観は、茶碗へ山もりに飯を盛って出した。
「茶漬けを進ぜる。お身ばかりでなく、一般の修行者にこれは出すことになっておる。当院の常例じゃ。その香の物の瓜は、宝蔵院漬というて、瓜の中に、紫蘇と唐辛子を漬けこんであって、ちょびと美味い。試みなされ」
「では」
武蔵が箸を取ると、日観の眼をまたぴかりと感じる。向うから発する剣気か、自分から出る剣気が相手に備えさせるのか、武蔵は、その間の微妙な魂の躍動が、どっちに原因するとも判断がつかないのであった。
下手に、瓜の漬物などを噛みしめていると、かつての沢庵和尚のように、いきなり拳が飛んでくるか、長押の槍が落ちてくるかも分らないのだ。
「どうじゃの、お代りは」
「十分、いただきました」
「ところで宝蔵院漬の味は、いかがでござった?」
「結構でした」
しかし武蔵は、その時そうは答えたものの、唐辛子の辛さが舌に残っているだけで、ふた切れの瓜の風味は外に出ても思い出せなかった。
「敗けた。おれは敗れた」
暗い杉林の中の小道を、武蔵はこう独り呟きながら帰って行く。
時折、杉の木蔭を、迅い影が横に跳ぶ。彼の跫音におどろいて駈ける鹿の群れだった。
「強いことにおいておれは勝っている。――しかし敗けたような気持を負って宝蔵院の門を出てきた。――形では勝ったが敗けている証拠ではないか」
甘んじられない容子なのである。むしろ無念らしく、未熟者未熟者と、自分を罵りながら歩いているかのように、うつつに歩いていた。
「あ」
何か思い出したのであろう、立ちどまって振り向いた。宝蔵院の灯は、まだ後ろに見えていた。
駈け戻って、今出て来た玄関に立ち、
「ただ今の、宮本でござるが」
「ほう」
と、玄関坊が顔を出し、
「なんぞお忘れ物か」
「明日か明後日あたり、私をたずねて、当院へ聞きに参る者があるはずですが、もしその者が見えたときは、宮本は当所の猿沢の池のあたりにわらじを解いているゆえ、あの辺の旅籠の軒を見て歩け、とお伝えを願いたいのです」
「ああ、左様か」
うわの空な返辞なので、武蔵は心もとなく思い、
「ここへ後から尋ねて来る者は、城太郎と申して、まだ年端のゆかぬ少年ですから、どうぞ慥とお伝え願いまする」
いいおいて、元の道をまた大股に引き返しながら、武蔵はつぶやいた。
「やはり、敗けているのだ。――城太郎の言伝てをいい忘れて出て来ただけでも、おれはあの老僧の日観に敗けを負わされて戻っている!」
どうしたら天下無敵の剣になれるか。武蔵は、寝ても醒めても、病のように取り憑かれているのである。
この剣、この一剣。
勝って帰る宝蔵院から、どうして、この苦い自分の未熟さが、こびりついて来るのだろう。
何としても、楽しめない気持らしい。
怏々と、惑いながら、彼の脚はもう猿沢の池畔へ出ていた。
この池を中心に、狭井川の下流へかけて、天正ごろから殖えた新しい民家が乱雑に建てこんでいた。つい近年、徳川家の手代大久保長安が、奈良奉行所を設けた一廓も近くであるし、中華の帰化人で林和靖の後裔だという者が店をひらいた宗因饅頭もよく売れるとみえ、池へ向って店をひろげている。
そこらのまばらな宵の燈を見ると、武蔵は足をとめて、どこに泊ったものか、旅籠に迷った。旅籠はいくらもあるらしいが、路銀の都合もあるし、そうかといって、あまり場末や路地の木賃では、後から捜して来る城太郎にわかりにくかろう。
今し方、宝蔵院で接待にあずかって来たばかりであるが、宗因饅頭の前を通ると、武蔵は食慾をおぼえた。
腰かけへ立ち寄って、饅頭を一盆とってみる。饅頭の皮には「林」の字が焼いてあった。ここで食べる饅頭の味は、宝蔵院で食べた瓜漬の味のように舌にわからないことはなかった。
「旦那さま、今夜はどちらへお泊りでございますか」
そこの茶汲み女に話しかけられたのを幸いに、わけを話して計ってみると、それなら店の身寄りの者が内職に宿屋をしているちょうどよい家があります、ぜひそこへ泊っていただきたい、ただ今主人を呼んで参りますからと、まだ武蔵が泊るとも何ともいわないうちに、もう奥へ走って、青眉の若女房を呼び出して来た。
宗因饅頭の店からそう遠くもない、しかも静かな小路の素人家。
案内して来た青眉の女房は、小門の戸をほとほとたたいて、中の答えを聞いて後、武蔵を振り向いて、静かにいう。
「わたくしの姉の家でございますから、お心づけなども、ご心配なく」
小女が出て来て、女房と何か囁いていたが、すべて心得ているらしく武蔵を先へ二階へ通し、女房はすぐ、
「では、ごゆるり遊ばせ」
と帰ってしまった。
旅籠にしては、部屋も調度も上等すぎる、武蔵はかえって落着かなかった。
食事はすんでいるので、風呂に入ると、寝るよりほかはない。そう生活に困るでもないらしいこの家構えを持って、何で旅人などを泊めるのか、武蔵は、寝るにも気がかりであった。
小女にわけを訊いても、笑っていて答えないのである。
翌日になって、
「後から連れが尋ねて来るはずゆえ、もう一両日泊めてもらいたいが」
というと、
「どうぞ」
小女が階下の主に告げたのであろう、やがて、その女主人があいさつに見えた。三十ぐらいな肌目のよい美人である。武蔵がさっそく不審をただすと、その美人が笑って話すにはこうであった。
実は自分は、観世なにがしと呼ぶ能楽師の後家であるが、この奈良には今、素姓の知れない牢人がたくさん住んでいて、風紀の悪いことはお話にならない。
そうした牢人たちのために、木辻あたりには、いかがわしい飲食店や白粉の女が急激にふえているが、不逞な牢人たちは、そんなところではほんとに娯まない。土地の若い者などを語らって、毎晩のように「後家見舞」と称して、男気のない家を襲ってあるくことが流行っている。
関ヶ原以後は、すこし戦がやんでいる形にあるが、年々の合戦で、どこの地方にも、浮浪人の数がおびただしく増している。そこで、諸国の城下に、悪い夜遊びが流行ったり窃盗沙汰だの強請者が横行している。こんな悪風は、朝鮮役後からの現象で、太閤様が生んだものだと恨んでいる声もあるとか。とにかく、全国的に今は悪い風紀が漲っている。――それと関ヶ原牢人のくずれが入り込んで来たため、この奈良の町でも、新任の奉行などでは取締りようもない有様だというのである。
「ははあ、それで拙者のような旅人を、魔除けにお泊めなさるわけだな」
「男気がないものですから」
と、美人の後家が笑った、武蔵も苦笑がやまない。
「そんなわけですから、どうぞ幾日でも」
「心得た、拙者のいるうちは、安心なさるがよい。しかし連れの者が、追ッつけここへ捜して来ることになっている。門口へ、何か目印を出してもらいたいが」
「よろしゅうございます」
後家は魔除け札のように、
宮本様お泊
と紙きれに書いて外へ貼った。
その日も、城太郎は来なかった。すると次の日である。
「宮本先生に拝顔したい」
と三名づれの武芸者が入って来た。断ってもただ帰りそうもない風態だというので、ともかく上げて会ってみると、それは宝蔵院で武蔵が阿巌を仆した折に、溜りの中にいて見物していた者達で、
「やあ」
と、旧知のように馴々しく、彼を囲んで坐りこんだ。
「いやどうも、なんとも驚き入ったわけです」
坐るとすぐ、その三名は、誇張したもののいい方で、武蔵をおだて抜くのであった。
「おそらく、宝蔵院を訪れた者で、あそこの七足と呼ぶ高弟を一撃で仆したなどという記録は、今までにないことでござろう。殊に、あの傲岸な阿巌が、うんと呻ったきり、血涎れを出して参ってしまうなどは、近ごろ愉快きわまることだ」
「吾々のうちでも、えらい評にのぼっておる。一体、宮本武蔵とは何者であろうなど、当地の牢人仲間では、寄るとさわると、貴公のうわさであるし、同時に、宝蔵院もすっかり看板へ味噌をつけてしまったというておる」
「まず、尊公のごときは、天下無双といってもさしつかえあるまい」
「年ばえもまだお若いしな」
「伸びる将来性は、多分に持っておられるし」
「失礼ながら、それほどな実力を持ちながら、牢人しておらるるなどとは、勿体ない」
茶が来れば茶をガブ飲みにし、菓子がくれば菓子の屑を膝にこぼしてボリボリむさぼる。
そして、賞められている当人の武蔵が顔のやり場に困るほど、口を極めて称揚するのである。
おかしくも、擽ぐッたくもないような顔をして、武蔵は相手が黙るまで喋舌らせておいたが、果てしがないので、
「して各

姓名を訊ねると初めて、
「そうそう、これは失礼をしておった。それがしは、もと蒲生殿の家人で、山添団八」
「此方は大友伴立と申し、卜伝流を究め、いささか大志を抱いて、時勢にのぞまんとする野望もある者でござる」
「また、てまえは、野洲川安兵衛といい織田殿以来、牢人の子の牢人者で。……ははははは」
これで一通り素姓は分ったが、何のために自分の貴重な時間をつぶして他人の貴重な時間を邪魔しに来たのか、それも武蔵の方から聞かないうちは埒があかないので、
「時に、御用向きは何であるか」
話のすきを見ていうと、
「そうそう」
と、それも今さら気がついたように、実は、折入っての相談でやって来たのだがと、遽に、膝をすすめていう。
――ほかでもないが、この奈良の春日の下で、自分たちで今、興行をもくろんでいる。興行というと能芝居や人寄せの見世物とお考えになるだろうが、さにあらず、大いに民衆のうちへ武術を理解させるための賭試合である。
今、小屋を掛けさせつつある所だが、前人気はなかなかよい。だが、三人では実はすこし手が足りない気がするし、いかなる豪の者が出て来て、せっかくの利益を一勝負でさらわれてしまわないとも限らないので――実は、其許に一枚入ってもらえまいかと、談合にやって来たわけである。承知してくれれば、利益は勿論山分け、その間の食費、宿料も一切こっちで持とう。ひと儲けして、次の旅へ向われる路銀をおこしらえになってはいかが?
――頻りとすすめるのを、武蔵はにやにや聞いていたが、もう飽々したという態で、
「いや、そういう御用なら、長座は無用、ごめんをこうむる」
あっさり断ると、三名の方では、むしろ意外とするらしく、
「なぜで?」
とたたみかけて来る。
そこまで至ると、武蔵はすこし憤かついて来て、青年の一徹を示し、昂然といった。
「拙者は、ばくち打ちではない。また、飯は箸で食う男で、木剣では食わん男だ」
「なに、なんだと」
「わからんか、宮本は痩せても枯れても、剣人をもって任じておるのだ、馬鹿、帰れっ」
ふふんと、一人は冷笑を唇の辺にながし、一人は赤い怒気を顔にふき出して、
「忘れるな」
それが、捨て科白だった。
自分たちが束になっても、勝ち目のないことをその三名はよく心得ている。かなり苦い顔つきと、腹の中のものを抑えて、ただ跫音と態度にだけ、
(これだけで帰るのでないぞ)
の意思を示し、どやどや外へ出て行ったのである。
この頃は毎晩が肌ぬるいおぼろ夜だった。階下の若い御寮人は、武蔵が泊っているうちは安心だといって一方ならない馳走をするのであった。きのうも今宵も、武蔵は階下でもてなされて、快く酔ったからだを長々と、灯りのない二階の一間に横たえて、思うさま若い手脚をのばしていた。
「残念だ」
またしても、奥蔵院の日観のことばが頭にうかぶ。
自分の剣で打負かした者はみな、たとえそれが半死にさせた者でも、武蔵は次々に泡沫のように頭からその人間を忘れてしまうのであったが、少しでも、自分よりは優れた者――自分が圧倒を感じた者――そういう他人に対しては、いつまでも執着を断つことができない。生き霊のように、その相手に勝つことを忘れることが出来ないのである。
「残念だ」
寝まろびたまま、髪の毛をぎゅっと掴む。どうしたら日観のうえに立つことが出来るか、あの不気味なひとみから何の圧伏も感じない自分になれるだろうか。
きのうも今日も、悶々と、彼はそれから離れることが出来なかった。残念という呟きは、自分へ向っていう呻きであって、人を呪うため息ではない。
時々、彼はまた、
(おれは駄目かな?)
と、自己の才分を疑わざるを得なかった。日観のような人間に出あうと、あれまで行けるかどうかが自分で疑われて来るのである。元々、自分の剣というものは、師について、法則的な修行を受けたものでないだけに、彼には、自分の力がどの程度のものか、自分ではよく分っていなかった。
それに、日観は、
(強すぎる、もうすこし、弱くなるがよい)
といった。
あの言葉なども、武蔵には、どうもまだよく呑みこめないのだ。兵法者である以上、強いということは、絶対の優越であるべきであるのに、なぜ、それらが欠点になるのか。
待てよ、あの猫背の老僧が、何をいうか、それも疑問だ。こっちを若年者と見て、真理でもないことを、真らしく説いて、煙に巻いて帰してやったなどと、後で笑っているという手もないとは限らない――
(書なども、読むがいいか悪いか知れたものではない)
武蔵は、近ごろになって、時々それを考える。どうもあの姫路城の一室で三年間も書を読んだ後の自分というものは、前とちがって、何かにつけ、物事を理で解こうとする癖がついているようだ。自己の理智をとおして頷けることでないと、心から承認することが出来ない人間になっている。剣のことばかりでなく、社会の観方、人間の観方、すべてが一変していることは慥かである。
そのために、自分の勇猛というものは、少年時代から見れば、ずっと弱まっていると考えられるのに、あの日観は、まだ強すぎるというのだ。それは腕の強さをいうのではなく、自分の天分にある野性と争気を指していっていることだけは、武蔵にもわかっている。
「兵法者に、書物などは要らない智恵だ。生半可、ひとの心や気もちのうごきに敏感になったから、かえって、こっちの手が怯れるのだ。日観なども、眼をとじて一撃を揮り落せば、実は脆い土偶みたいなものかも知れないのだ」
誰かここへ上がって来るらしく、その時、彼の手枕に、梯子だんの跫音が伝わって来た。
階下の小女が顔を出し、その後からすぐ城太郎が上がって来たのである。城太郎の黒い顔は、旅の垢でよけいに黒くなり、河っ童のような髪の毛は埃で白くなっていた。
「おう、来たか。よく分ったな」
武蔵が、胸をひろげて迎えてやると、城太郎はその前に、汚れた足を投げ出して坐った。
「ああくたびれた」
「探したか」
「探したとも。とッても、探しちまッたい」
「宝蔵院で訊ねたであろうが」
「ところが、あそこの坊さんに訊いても知らないというんだもの。おじさん、忘れていたのだろう」
「いや、くれぐれも、頼んでおいたのだが。――まあよいわ、ご苦労だった」
「これは吉岡道場の返辞」
と城太郎は、首にかけて来た竹筒から、返書を出して武蔵にわたし、
「――それから、もう一つのほうの使い、本位田又八という人には、会えなかったから、そこの家の者に、おじさんの言伝てだけをよく頼んで帰って来たよ」
「大儀大儀。――さあ風呂へでも入れ、そして階下で御飯を食べてこい」
「ここは宿屋?」
「む。宿屋のようなものだ」
城太郎が降りて行った後で、武蔵は、吉岡清十郎からの返書を開いて見た。――再度の試合は当方の望むところである。もし約束の冬まで来訪がない時は、臆病風にふかれて踪跡をくらましたものと見なし、貴公の卑劣を天下に笑ってやることにするから、そのつもりでおられたい。
代筆とみえ、文辞も拙く、ただこんなふうに気負った言葉が書きつらねてある。武蔵は手紙を裂くと、それを燭にかざして焼いてしまった。
蝶の黒焼みたいな灰がふわふわと畳にこぼれてうごいている。試合とはいえ、この手紙のやり取りは、果し合いの約束に近い。この冬、この手紙から、誰がこういう灰になるのか。
武蔵は、兵法者の生命というものが、朝に生れて夕には分らないものであるという覚悟だけは、常に持っていた。――しかしそれは心がまえだけで、ほんとに今年の冬までしかない生命であるとしたら、彼の精神は、決して穏かでいられなかった。
(したいことがたくさんある! 兵法の修行もそうだが、人間としてやりたいことを、おれはまだ何もやっていない)
卜伝や上泉伊勢守のように、一度は多くの従者に鷹をすえさせ、駒をひかせて、天下の往来も歩いて見たい。
また、恥かしくない門戸のうちに、よき妻をもち、郎党や家の子を養って、自分には幼少から恵まれないところの家庭というものの温かさのうちに、よい主人ともなってみたい。
いや。
そういう人生の型に入る前には、ひそと、世の女性にも触れてみたいのだ。――今日までは明けても暮れても、念々兵法のほかに頭が外れないので、不自然なく童貞をたもって来ているが、このごろ時折、往来を歩いていても、京都や奈良の女性がはっと美しく眼に――というよりは肉感にひびいて来る時がある。
そんな時、彼はいつも、
(お通)
をふと思い出すのであった。
遠い過去の人であるような気がしながら、実は常に近くむすばれているような気のするお通。
――武蔵はただ漠然と、彼女を考えることだけで、時にはさびしい孤独と流浪を、どれ程、自分でも無意識の間に、慰められているか知れないのであった。
いつの間にか、そこへ戻って来ていた城太郎は、風呂に入り、腹を満たし、そして自分の使いも果した安心とで、すっかり草臥れが出たのであろう、小さいあぐらを組んで、両手を膝の間に突っこんだまま、涎をながして心地よげに居眠りしていた。
朝――
城太郎はもう雀の声といっしょに刎ね起きている。武蔵も、今朝は早く奈良を立つつもりと、階下の女主人へも告げてあるので、旅装いにかかっていると、
「まあ、お急ぎですこと」
能楽師の若い後家は、すこし恨めしげに、抱えて来た一かさねの小袖をそこへ出して、
「失礼でございますが、これは私が、お餞別のつもりで一昨日から縫いあげた小袖と羽織、お気に入りますまいが、お召しになってくださいませ」
「え、これを」
武蔵は、眼をみはった。
旅籠の餞別に、こんな物をもらう理由がない。
断ると、後家は、
「いいえ、そんな大した品ではございません、宅には、古びた能衣裳やら男物の古い小袖が、役にも立たず押しこんであるので、せめて、あなたのような御修行中の若いお方に着ていただければと思って、丹精してみたのでございます。せっかく、おからだに合せて縫ったのに、着ていただけないと無駄な物になってしまいますから、どうぞ……」
うしろへ廻って、いやおうなく武蔵の体へ、着せかけてくれる。
迷惑なほど、それは贅沢な品だった。わけても袖無羽織は、舶載の織物らしく、豪華な模様に金襴の裾べりを縫い、裏には羽二重をつけ、紐にまで細かい気をつけて、葡萄染めの革がつかってある。
「ようお似あいになります」
後家と共に、城太郎も見惚れていたが、無遠慮に、
「おばさん、おらには、何をくれるの」
「ホホホ。だって、あなたはお供でしょう、お供はそれでいいじゃありませんか」
「着物なんか欲しくねえさ」
「何か望みがあるんですか」
「これをくれないか」
次の間の壁に掛けてあった仮面をいきなり外して来て、もうゆうべ一目見た時から欲しくてならなかったもののように、
「これを、おくれ」
と自分の頬へ、仮面の頬をすりつけていった。
武蔵は、城太郎の眼のするどさに驚いた。実は彼も、ここに寝た晩から心をひかれていた仮面なのである。誰の作かわからないが、時代は室町ではない、少なくも鎌倉期の作品であって、やはり能につかわれた物らしく、鬼女の顔が、すごいほど鑿の先で彫り出されている。
それだけなら、まだそう心を奪われもすまいが、この仮面には、他のありふれた能仮面とちがって、不思議な表現が打ちこめてある。ふつうの鬼女の仮面は、およそ青隈で塗られた奇怪なものだが、この仮面の鬼女は、甚だ端麗であり、色白で上品な顔をしてどう眺めても美人なことである。
ただ、その美人が、おそろしい鬼女に見える点は、笑っている唇元だけにあった。三日月形に顔の左の方へ向ってキュッと鋭く彫りあげている唇の線が、どんな名匠の瞑想から生れたものか、何ともいえない凄味をふくんでいるのだった。明らかにこれはほんとに生きていた狂女の笑いを写し取ったものに違いない。――武蔵もそういう考えを下して見ていた品である。
「あっ、それはいけない」
この家の若い後家にとっても、それは大事な物とみえ、あわてて彼の手から奪り上げようとすると、城太郎は、頭の上に仮面をかざし、
「いいじゃないか、こんな物、いやだといっても、おいらは貰ッたアと!」
踊りながら逃げ廻って、何といっても返さない。
調子にのると子どもは止まりがない。武蔵が、後家の迷惑を察して、
「これっ、なぜそんなことを」
と叱っても、城太郎は浮かれ調子をやめないで、こんどは仮面をふところに入れ、
「いいね、おばさん。おいらにおくれね、いいだろ、おばさん」
梯子を降りて階下へ逃げてしまう。
若い後家は、
「いけない、いけない」
といいつつ、子供のする振舞なので、怒れもせず、笑いながら追いかけて行ったが、そのまましばらく階下から上がって来ないがと思っていると、やがて城太郎だけが、みしみしと、梯子段をのろく上がって来る様子。
来たら叱ってやろう。――武蔵がそう考えて、上がり口のほうに向って厳しい膝を向けて坐っていると、そこから不意に、
「――ばあア!」
鬼女の笑い仮面が、伸びた体の、先っぽに見えた。
びくっと、武蔵は筋肉をひきしめ、膝がすこし動いたくらいだった。何でそんな衝撃をうけたか、かれにもわからない。――しかしながら薄ぐらい梯子段の口元に手をついている笑い仮面を眺めてすぐ解けた。それは仮面にこもっている名匠の気魄である。白い顎の上から左の耳へかけてきゅっと笑っている三日月形の唇元にただよっている妖美にかくれているものだった。
「さ、おじさん、出かけましょう」
と城太郎はそこでいう。
武蔵は起たず、
「まだお返しせぬか。左様なもの、欲しがってはならん」
「だって、いいといったんだよ、もう、くれたんだよ」
「よいとはいわぬ。階下のお方へおもどしして来い」
「ううん、階下で返すといったら、こんどは、あのおばさんの方から、そんなに欲しければ上げる、その代りに大事に持ってくれますかというから、きっと大事に持っていると約束して、ほんとに貰ったんだ」
「困った奴」
この家にとり、大事そうな仮面やら小袖まで、こうして理由なく貰って立つことが、武蔵は何となく気がすまない。
何か気持だけでも礼をのこしてゆきたいと思う。しかし金銭には困らない家らしいし、代りに与える品とても持っていないので、階下へ降りて、改めて、城太郎のぶしつけな強請みを詫びて、それを戻させようとすると、若い後家は、
「いえ、考え直してみますと、あの仮面は、却って私の家にないほうが、私の気が楽々するかも知れません。それに、あのように欲しがるものゆえ、どうぞ叱らないでくださいませ」
そういう言葉を聞けば、よけいにあの仮面には何か歴史のある物らしく思われるので、武蔵はなお固辞したが、城太郎はもう大得意の態で、草鞋を穿いて、先に門の外へ出て待ちかまえている。
仮面よりも、若い後家は、武蔵に対してほのかに名残りを惜しみながら、この奈良へ来た時は、ぜひまた幾日でも泊ってもらいたいと繰返していう。
「では」
と、ついに何もかも先の好意に甘えて、武蔵が草鞋の緒をむすびかけていると、
「おう、お客さま、まだいらっしゃいましたか」
この家の親戚という宗因饅頭の女房が息をきって門へ入って来た。そして武蔵と、自分の姉になる後家の主へむかい、
「だめですよ、お客さま、お立ちどころではありません、たいへんです、とにかくもう一度二階へおもどりなさいませ」
何か怖ろしいことに、背を脅かされてでもいるように、歯の根の合わない声音でいうのであった。
武蔵は、草鞋の緒を、両足ともに結んでしまってから、静かに顔をあげた。
「何ですか、大変とは」
「あなたが、今朝ここを立つのを知って、宝蔵院のお坊さま達が、槍を持って、十人余も連れ立ち、般若坂のほうへ行きました」
「ほ」
「その中には、院主の宝蔵院の二代様も見え、町の衆の眼をそばだたせました。何か、よほどな事が起ったのであろうと、宅の主が、その中の懇意なお坊さまをとらえて訊いてみると、おまえの親戚の者の家に四、五日前から泊っている宮本という男が、きょう奈良を離れるらしいから、途中で待ちうけるのだと申すではございませんか」
宗因饅頭の女房は、青眉のあとを顫かせて、今朝奈良を立つことは、生命をすてに立つようなものであるから、二階へかくれて、夜を待って、抜け出したほうがよいと、こうしている間も、気の縮むように告げるのであった。
「ははあ」
武蔵は、そこの上がり框に腰を掛けたまま、門へ出ようともせず、二階へ戻ろうともしない。
「般若坂で、拙者を待ちうけるのだろうと、いっていましたか」
「場所はよう分りませぬが、その方角へ行きました。宅の主もびっくりして、町の衆がいううわさを問い糺してみると、宝蔵院のお坊さまばかりでなく、所々の辻口に、奈良の牢人衆がかたまって、きょうは宮本という男を捕まえて、宝蔵院へ渡すのだといっているそうです。――何かあなたは、宝蔵院の悪口をいって歩きましたか」
「そんな覚えはない」
「でも、宝蔵院のほうでは、あなたが人をつかって、奈良の辻々に落首を書いて貼らせたと、ひどく怒っているそうです」
「知らんな、人違いだろう」
「ですから、そんなことで、お命を落しては、つまらないではございませんか」
「…………」
答えるのを忘れて、武蔵は軒ごしに空を見ていた。思いあたるところがある。きのうだったか一昨日だったか、彼の頭にはもう遠いことみたいに忘れていたが、春日下で賭試合の興行をやるから仲間に入らないかとすすめに来た牢人者の三名連れ。
たしか一人は山添団八といい、後二人は野洲川安兵衛に大友伴立とかいった。
察するところ、あの折、いやに凄みをふくんだ表情で帰って行ったのは、後にこのことをもって、思い知らしてやるという肚黒い考えであったかも知れない。
自分には覚えのない宝蔵院の悪口をいいふらしたとか、落首を書いて辻々にはったとかいう所為も、彼らの仕業と思えないことはない。
「行こう」
武蔵は立って、旅づつみの端を胸の前で結び、笠を持って、宗因饅頭の女房と、観世の若い後家へ向い、くれぐれ好意を謝して、門を踏みだした。
「どうしても」
観世の後家は、涙ぐんでいるかのような眼で、外まで従いて来た。
「夜を待っていれば、必ずお宅に禍いがかかります。ご親切をうけたり、迷惑をかけたりしては申しわけがない」
「かまいません、私のほうは」
「いや、立ちましょう。――城太郎、お礼をいわんか」
「おばさん」
と、呼んで、城太郎は頭を下げた。にわかに彼も元気がない。それは別れを惜しむためとは見えないのである。思うに城太郎はまだ武蔵の本当を知らないし、京都にいたころから弱い武者修行と聞かされているので、自分の師匠の行く先に、音に聞えた宝蔵院衆が、槍をつらねて待っていると聞き、子供心にも、一抹の不安を覚えて、悲壮になっているのであろう。
「城太郎」
足を止めて、武蔵が振向く。
「はい」
城太郎は眉をびりっとさせた。
奈良の町はもう後ろだった。東大寺ともかけ離れている。月ヶ瀬街道は杉木立のあいだを通って、その杉の樹の縞のあいだから見えるものは、やがて近い般若坂にかかるなだらかな春野の傾斜と、それを裾にして右手の空にふくらんで乳房を持っているような三笠山の胸のあたりがここからは近い感じである。
「なんですか」
ここまで、七町あまり、ニコともしないで、黙々と尾いて来た城太郎であった。一歩一歩が、冥途とやらへ近くなる気持なのだ。さっき、湿々として、うす暗い東大寺の横を通って来た時、襟元にポタリと落ちた雫にも、きゃっと思わずいってしまいそうな驚きをしたし、人間の跫音に怖がらない鴉の群れにも、いやな気持がして、そのたび武蔵のうしろ姿も影がうすく見える。
山の中へでも、お寺の内へでも、隠れようとすれば隠れ込めないことはない、逃げようと思えば逃げられないことはない。それを何でこうして、宝蔵院衆が行ったという般若野のほうへ、自分から足を向けてしまうのだろうか。
城太郎には、考えられない。
(行って、謝る気かしら?)
その程度の想像はしてみる。謝るなら、自分も、一緒になって、宝蔵院衆に謝ろうと思う。
どっちがいいとか悪いとかなどは、問題でない。
そこへ武蔵が足を止め――城太郎――こう呼んだので彼はわけもなくドキッとしたのだった。しかし、自分の顔いろは、きっと蒼くなっているだろうにと考え、それを武蔵に見られまいとするらしく陽を仰いだ。
武蔵も上を仰いでいる。心ぼそいものが世の中のこう二人みたいに、城太郎の気持をつつんだ。
案外、次に出た武蔵の言葉は、ふだんの調子とちっとも変っていない。こういうのだ。
「いいなあ、これからの山旅は、まるで鶯の声を踏んで歩いて行くようじゃないか」
「え? なんですか」
「鶯がさ」
「あ。そうですね」
うつつである。朱くない少年の唇でも、武蔵にはそれが分った。かわいそうな子だと思うのであった。ことによれば、これきりで別れになるかも知れないと考えるからである。
「般若野がもう近いな」
「え、奈良坂も過ぎましたよ」
「ところで」
「…………」
あたりに啼きぬく鶯が、ただ寒々しいものに城太郎の耳を通ってゆく。城太郎の眼は、硝子玉のように曇って、武蔵の顔をぼうと見上げている。今朝、鬼女の笑い仮面を両手にあげて、嬉々と逃げまわっていた子供の眼と一つものとは思えないほど静かな瞼である。
「もうそろそろだ、わしとここでわかれるのだぞ」
「…………」
「わしから離れろ。――でないと側杖を食う、お前が怪我をする理由はちっともない」
ポロポロと眼が溶けて頬に白いすじを描いてながれる。ふたつの手の甲が、そうっと睫毛へ行ったと思うと、肩がしゅくっと泣いて、それからしゃっくりのように、体じゅうですすり上げた。
「何を泣く、兵法者の弟子じゃないか。わしが万一、血路をひらいて走ったら走ったほうへおまえも逃げろ。また、わしが突き殺されたら、元の京都の居酒屋へ帰って奉公せい。――それを、ずっと離れた小高い所でおまえは見ているのだ。いいか、これ……」
「なぜ泣く」
武蔵がいうと、城太郎は濡れた顔を振り上げて、武蔵の袂を引っぱった。
「おじさん、逃げよう」
「逃げられないのが侍というものだ。おまえは、その侍になるのじゃないか」
「恐い。死ぬのが恐い」
城太郎は戦慄しながら、武蔵の袂を、懸命にうしろへ引いて、
「おらが可哀そうだと思って、逃げてよう、逃げてよう」
「ああ、それをいわれるとおれも逃げたい。おれも幼少から骨肉に恵まれなかったが、おまえもおれに劣らない親の縁にうすい奴だ。逃げてやりたいが――」
「さ、さ、今のうちに」
「おれは侍、おまえも侍の子じゃないか」
力が尽きて、城太郎はそこへ坐ってしまった。手でこする顔から黒い水がぼたぼた落ちた。
「だが、心配するな。おれは負けないつもりだ。いやきっと勝つ。勝てばよかろう」
そう慰めても、城太郎は信じない。先に待ち伏せている宝蔵院衆は十人以上だと聞かされているからだった。弱い自分の師匠には、その一人と一人との勝負でも、勝てるわけはないと思っているのである。
きょうの死地へ当ってゆくには、そこで生きるも死ぬも十分な心構えが要る。いやすでにその心構えの中に立っているのだ。武蔵は、城太郎を愛しもするし不愍にも思ってはいるが、面倒になった、焦れったくなった。
ふいに激越な声で叱ったのである。彼を突き離すとともに、自分へ弾力を持って、
「だめだッ、貴様のような奴、武士にはなれん、居酒屋へ帰れ」
強い侮辱をあびせられたように少年のたましいはその声に泣きじゃくりを止めた。はっとした顔いろをもって、城太郎は起ち、そして、もう大股に彼方へ歩いてゆく武蔵のうしろ姿へ、
(――おじさアん)
叫びそうにしたが、それを怺えて、そばの杉の樹へしがみつき、両手の中に顔を埋めた。
武蔵は振り向かなかった。しかし、城太郎の泣きじゃくりがいつまでも耳にこびりついていて、もう頼り人のない薄命な少年のおろおろした姿が背中に見える気がしてならない。
(よしなき者を連れて歩いて――)
と、彼は心に悔いを噛むのであった。
未熟な自分の身一つさえ持てあましているものを――孤剣を抱いて明日のことさえ知れない身であるものを。――思えば、修行中の兵法者に道づれは要らないものだった。
「おうーい。武蔵どの」
いつか杉林を通りぬけて、ひろい野へ出ていた。野というよりは、斜めに起伏を落している山裾である。彼を呼んだ男は、三笠山の山道のほうからその裾野へ出て来たらしく、
「何処へお出でか」
二度目のことばをかけながら駈けて来て、馴々しく肩をならべた。
いつぞや泊り先の観世の後家の家へやって来た三名の牢人者のうちで、山添団八と名乗ったあの男なのである。
――来たな。
武蔵はすぐ看破した。
だが、さあらぬ顔して、
「おう、先日は」
「いや過日は失礼を」
あわてて挨拶をし直したその礼儀ぶりが、いやに叮嚀である。上目づかいに武蔵の顔いろを窺っていった。
「その節のことは、どうか水にながして、お聞き捨てのほどを」
このあいだ宝蔵院で、目に見た武蔵の実力には、大いに怖れを抱いている山添団八であるが、それかといって年はまだ二十一、二歳の田舎武士にすこし鰭がついて世間へ泳ぎ出した程度にしか見えない武蔵に対して、肚から兜を脱いではいない。
「武蔵どの。これから、旅はどちらの方面へ」
「伊賀を越え、伊勢路へ参ろうと思う。――貴公は」
「それがしは、ちと用事があって、月ヶ瀬まで」
「柳生谷は、あの近傍ではありませんか」
「これから四里ほどして大柳生、また一里ほど行くと小柳生」
「有名な柳生殿の城は」
「笠置寺から遠くないところじゃ。あれへもぜひ立ち寄って行かれたがよいな。もっとも今、大祖宗厳公は、もう茶人同様に別荘のほうへ引き籠られ、御子息の但馬守宗矩どのは、徳川家に召されて、江戸に行っているが」
「われらのような一介の遍歴の者にでも、授業して下さろうか」
「たれかの紹介状でもあればなおよろしいが。――そうそう月ヶ瀬に此方の懇意にしている鎧師で柳生家へも出入りしている老人がある、なんなら頼んであげてもよいが」
団八は、武蔵の左へ左へと、特に意識して並んで歩いていた。所々に、杉や槙などの樹がぽつねんと孤立しているほか、野の視野は何里となく広かった。ただ大きな起伏が低い丘を描き、そこを縫う道に多少のゆるい登りや降りがあるだけである。
般若坂に近いころであった。その一つの丘の彼方から、誰か、焚火でもしているらしく茶褐色のけむりが見える。
武蔵は、足を止め、
「はてな?」
「何が」
「あの煙」
「それがどうしたのでござる」
団八は、ぴったり寄り添っている。そして武蔵の顔いろを見る彼の顔いろが、やや硬ばる。
武蔵は指さして、
「どうもあの煙には妖気があるように思う。貴公の眼には、どう見えるな」
「妖気というと?」
「たとえば」
と、煙へさしていた指を、こんどは団八の顔の真ン中へさして、
「汝のひとみに漂っているようなものをいう!」
「えっ」
「見せてやるっ、このことだっ!」
突然、春野のうららかな静寂をやぶッて、キェッ――という異な悲鳴が走ったと思うと、団八のからだも向うへ飛び退き、武蔵の体もうしろへ刎ね返っていた。
何処かで、
「あっ――」
と驚いていう者があった。
それは二人が越えて来た丘のうえにチラと今、影を見せて此方を見ていた人間である、それも二人連れであった。
「やられたっ!」
というような意味の大声をあげて、その者たちは、手を振り上げながら何処かへ走ってゆく。
――武蔵の手には、低く持った刃がキラキラと陽の光を刎ねている。そして、飛び上がって仆れたなり山添団八はもう起たないのである。
鎬の血を、垂直にこぼしながら、武蔵はまたしずかに歩み出した。野の花を踏みながら焚火のけむりが立つ次の丘の肩へ。
女の手で撫でられるように鬢をなぶる春の微風がある。武蔵は、しかし自分の髪の毛がみな逆立っているかと思う。
一歩、一歩、彼のからだは鉄みたいに肉が緊まった。
丘に立つ。――下を見る。
なだらかな野の沢がひろく見渡された。焚火は、そこの沢で焚いているのだ。
「来たっ――」
さけんだのは、その焚火を囲んでいた大勢の者ではなくて、武蔵の位置をずっと離れて、そこへ駈け足で迂回して行った二人の男だった。
今、武蔵の足もとで、一太刀に斬りすてられた山添団八の仲間の者――野洲川安兵衛と、大友伴立という牢人であることはもう明らかに分るほどな距離である。
来たっという声に対して、
「え、来たっ?」
おうむ返しにいって、焚火のまわりの者は、いっせいに大地から腰を刎ね上げ、また、そこから離れて、思い思いに陽なたに屯していた者達も、すべて、総立ちになった。
人数はというと、およそ三十名近い。
そのうち約半数は僧であり、あと半数ほどは雑多な牢人者の群れなのである。丘の肩を越えてこの野の沢から般若坂へぬけてゆく道の、その丘の上に、今、武蔵の姿が現われたのを認めると、
(うむ!)
声としては出ない一種の殺伐な動揺めきが、その群れの上に漲りわたった。
しかも、武蔵の手には、すでに血を塗った剣が提げられている。戦闘は、お互いのすがたを見ぬ前から口火を切ってしまったのだ。それも、待ち伏せていた多勢のほうからではなく、計られて来たはずの武蔵のほうから宣戦しているのだ。
野洲川、大友の二人は、
「――山添が、山添が」
と早口にいって、仲間の一人が、すでに武蔵の刃にかかって仆れたことを、大仰な手つきで告げているらしく見える。
牢人たちは、歯がみをし、宝蔵院の僧たちは、
「小癪な」
と、陣容を作って、武蔵のほうを睨めつけた。
宝蔵院衆の十数名は、みな槍だった。片鎌の槍、ささ穂の槍、思い思いの一槍をかいこんで、黒衣のたもとを背にむすび、
「――おのれ、今日こそ」
と、院の名誉と、高足阿巌の無念を、ここでそそごうとする宿意が、もう面も向けられない。ちょうど、地獄の邏卒が列を作っているのと変りはない。
牢人たちは、牢人たちのみで、一団にかたまって、武蔵が逃げないように包囲しながら見物しようという計画らしく、中には、げらげら笑っている者がある。
けれど、その手数は不要だった。彼らは、居どころに立ったまま、自然な鶴翼の陣形を作っていればそれでよかった。敵の武蔵に、すこしも、逃げたり、狼狽したりする様子がないからである。
武蔵は歩いている。
それも極めて、一足一足、粘る土でも踏んでいるように、やわらかな若草の崖を、少しずつ、しかし――いつ鷲のごとく飛ぶかも知れない姿勢をもちながら、眼にあまる人数の前へ――というよりは死地へ――近づいて来るのであった。
――来るぞっ。
もう口に出していう者はない。
けれど、徐々に、片手に剣をさげた武蔵の姿が、沛雨をつつんだ一朶の黒雲のように、敵の心へ、やがて降りかかるものを、恐怖させていたことは慥かである。
「…………」
不気味な一瞬の静けさは、双方が死を考える瞬間であるのだ。武蔵の顔はまったく蒼白になっている。死神の眼が、彼の顔を借りて、
(――どれから先に)
と、窺っているかのような光になっている。
牢人の群れも、宝蔵院衆の列も、その一人の敵に対して、圧倒的な多数を擁してはいるが、彼ほど、蒼白になっている顔は一つもなかった。
(――多寡が)
と、衆を恃んでいる気持が、どこかに楽天的なものを湛え、ただ死神の眼に真っ先につかまることを、お互いが警戒しているだけに過ぎない。
――と。
槍をつらねている宝蔵院衆の列の端にいた一人の僧が、合図を下したかのように見えた時である、十数名の黒衣の槍仕は一斉に、わっと、喚きながら、その列をくずさずに、武蔵の右がわへ、駈け廻った。
「武蔵――ッ」
と、その僧がさけんだ。
「聞くところによれば、汝、いささかの腕を誇って、この胤舜が留守中に、門下の阿巌を仆し、またそれに増長して、宝蔵院のことを、悪しざまに世間へいいふらしたのみか、辻々へ、落首など貼らせて、吾々を嘲笑したと申すことであるが、確とそうか」
「ちがう!」
武蔵の答えは、簡明だった。
「よく物事は、眼で見、耳できくばかりでなく、肚で観ろ、坊主ともある者が」
「なにッ」
薪へ油である。
胤舜をさし措いて、ほかの僧たちが口々に、
「問答無用っ」
といった。
すると、挟撃の形をとって、武蔵の左がわにむらがっていた牢人たちが、
「そうだっ」
「むだ口を叩かすなっ」
がやがやと罵り出して、自分たちの抜いている刃を振り、宝蔵院衆が手を下すのを煽動した。
武蔵は、そこの牢人達のかたまりが、口ばかりで、質も結束も脆いことを、見抜いたらしく、
「よしっ、問答に及ぶまい。――誰だっ、相手は」
彼の眼が、きっと、自分たちへかかったので、牢人たちは、思わず足を退いてくずれ、中の二、三名だけが、
「おれだっ」
けなげに、大刀を中段にかまえると、武蔵はいきなりその一人に向って、軍鶏のような飛躍を見せた。
どぼっと、栓の飛んだような音がして、血しおが宙を染めた。同時にぶつけ合う生命と生命の響きだった。単なる気合いでもない、また言葉でもない、異様な喚きが人間の喉から発するのである。正しくそれは人間の会話でも表現でもなく原始林でする獣の吼える声に近いものであった。
ずずんっ、ずしいんっ、と武蔵の手にある刃鉄が、つよい震動を、自己の心臓へ送るたびに、彼の剣は人間の骨を斬っているのだった。一颯ごとに、その鋩子から虹のように血を噴き、血は脳漿を撒き、指のかけらを飛ばし、生大根のように人間の腕を草むらへ抛り出した。
初めから、牢人たちの側には、弥次気分と楽天的な気ぶりが、多分に漂っていて、
(――闘うのは宝蔵院衆、おれたちは、人殺しの見物)
と考えていたらしいのである。
武蔵が、そこの群れを、脆弱と観て、いきなり彼らの一団へ衝いて行ったのは戦法としても当然だ。
だが、彼らも、あわてはしなかった。彼らの頭には、宝蔵院の槍仕たちが控えているという絶対的な恃みがある。
ところが。
すでに戦闘はひらかれ、自分たちの伸間が二人仆れ、五人、六人と、武蔵の太刀にかかっているのに、宝蔵院側は、槍を横に並べて傍観しているのみで、一人も武蔵へ対して、突いて来ないではないか。
くそっ、くそっ――
やっちまえ、早く。
うわうッ。
だッ……だッ……
こなくそっ。
ぎゃんっ!
あらゆる音響が刃の中から発し、奇怪なる宝蔵院衆の不戦的態度に、業をにやし、不平をさけび、助勢を求め抜くのだったが、槍の整列は、いッこう動かない。声援もしない。まるで水のごとき列である。かくてみすみす武蔵のため、斬りまくられている彼らには、
(これでは、約束がちがう、この敵はそっちのもので、おれたちは第三者だ、これではあべこべではないか)
という苦情を言葉でいう遑すらないのだ。
酒に酔った泥鰌のように、彼らは、血にあたまが眩んでしまった。仲間の刃が仲間を撲り、人の顔が、自分の顔みたいに見え、そのくせ敵の武蔵の影は、確と認めることができないため、ふり廻す彼らの刀は、従って、味方同士の危険であるばかりであった。
もっとも武蔵自身もまた、自分が何を行動しているか、一切無自覚であった。ただ彼の生命を構成している肉体の全機能が、その一瞬に、三尺に足らない刀身に凝りかたまって、まだ五歳か六歳の幼少から、きびしい父の手でたたきこまれたものだの、その後、関ヶ原の戦で体験したものだの、また、独り山の中へ入って樹を相手に自得したもの、さらに、諸国をあるいて諸所の道場で理論的にふだん考えていたものだの、およそ今日まで経て来たすべての鍛錬が、意識なく、五体から火花となって発しているに過ぎないのである。――そして、その五体は、蹴ちらす土や草とも同化して、完全に、人間を解脱した風の相となっている。
――死生一如。
どっちへ帰することも頭にない人間のある時の相。
それが、今、白刃のなかを駈けまわっている武蔵の姿だった。
(斬られては損)
(死にたくない)
(なるべく他人に当らせて――)
というような雑念の傍らに刃物をふり廻している牢人たちが、歯ぎしりしても、一人の武蔵を斬り仆し得ないのみか、却って、その死にたくない奴が、盲目あたりに真っ向から割りつけられたりしてしまうのも皮肉ではあるが、是非もない。
槍をならべている宝蔵院衆の中の一人が、それを眺めながら、自分の呼吸をかぞえていると、その時間は、呼吸のかずにして約十五か、二十をかぞえるに足らない寸秒の間であった。
武蔵の全身も血。
残っている十人ほどの牢人もみな血まみれ。あたりの大地、あたりの草、すべてが朱く泥んこになって、吐き気を催すような血腥さいものが漲ると、それまで支えていた牢人たちも、とうとう恃む助勢を待ちきれなくなって、
「わあっ――」
と迅く――或る者は――ひょろひょろと、八方へ逃げ足を散らかした。
それまでは、満を持して、白い穂先をつらねていた宝蔵院の槍仕たちが、どっと、一斉にうごいたのは、それからであった。
「神さま!」
掌をあわせて、城太郎は、大空を拝んでいた。
「――神さま、加勢してください。わたくしのお師匠様は今、この下の沢で、あんな大勢の敵と、ただ独りで闘おうとしているんです。わたくしのお師匠様は、弱いけれど、悪い人間ではありません」
武蔵に捨てられても、その武蔵から離れられないで、遠く見まもりながら、彼は今般若野の沢の上にあたるところへ来て、ぺたっと坐っている。
仮面も笠もそばへ置いて、
「――八幡さま、金毘羅さま、春日の宮の神さま達! あれあれ、お師匠様はだんだん敵の前へ歩いてゆきます。正気の沙汰ではありません。かわいそうに、ふだん弱いものですから、今朝からすこし気が変になってしまったんです。さもなければ、あんな大勢の前へ、一人で向ってゆくはずはありません。どうか神さま達! 一人のほうへ助太刀して下さい」
百拝、千拝、その城太郎こそ気が変になったように、しまいには声を揚げて繰返すのであった。
「――この国に神様はいないんでしょうか。もし卑怯な大勢が勝って、正しい一人のほうが斬られたり、正義でない者が存分なまねをして、正しい者がなぶり殺しになったりしたら、むかしからの云い伝えはみな嘘ッぱちだといわれても仕方がありますまい。イヤ、おいらは、もしそうなったら神さま達に唾してやるぞ!」
理窟は幼稚であっても、彼の眸は血ばしっていて、むしろもっと深い理窟のある大人のさけびよりも、天をしてその権まくに驚かしめるものがあった。
それだけには止まらない。やがて、城太郎は、彼方のひくい芝地の沢に見える一かたまりの人数が、ただ一人の武蔵を、刃の中に取り囲んで、針をつつんで吹く旋風のような光景を描き出すと、
「――畜生っ」
ふたつの拳と共に飛び上がり、
「卑怯だっ」
と、絶叫し、
「ええ、おいら大人ならば……」
と、地だんだ踏んで泣き出し、
「馬鹿っ、馬鹿っ」
と、そこらじゅうを駈けあるき、
「――おじさアん! おじさアん! おいらは、ここにいるよッ」
しまいには彼自身が、完全なる神さまとなり切って、
「――獣っ、獣っ、お師匠様を殺すと、おれが承知しないぞっ!」
ありッたけな声で、さけんでいたものである。
そして、そこからの遠目にも、彼方の真っ黒な斬り合いの渦中から、ぱッ、ぱッ、と血しぶきが立ち、一つ仆れ二つ仆れ、死骸が野にころがるのを見ると、
「ヤッ、おじさんが斬った。――お師匠様はつよいぞっ」
こんな多量な血しおを撒いて、人間同士が獣性の上に乱舞する実際を、この少年は、生れて初めて目撃したにちがいない。
いつか城太郎は、自分も彼方の渦中にあって、体じゅうを血で塗っているかのように酔ってしまい、その異様な興奮は、彼の心臓にもんどり打たせた。
「――ざま見ろッ、どんなもんだい。おたんちん! ひょっとこ! おいらのお師匠様は、こんなもンだ。カアカア鴉の宝蔵院め、ざまあ見さらせ! 槍ばかり並べてやがって、手も出まい、足も出まい!」
だが、やがて彼方の形勢が一変して、それまで静観していた宝蔵院衆の槍が、俄然うごき出すと、
「あっ、いけない、総攻めだっ」
武蔵の危機! 今が最期と彼にも分った。城太郎はついに身のほども忘れてしまい、その小さい体を火の玉のように憤らせて、丘の上から一箇の岩でも転がるかのように駈け下りていた。
宝蔵院初代の槍法をうけて、隠れもない達人といわれる二代胤舜は、
「よしッ、やれっ」
その時、すさまじい声をもって、さっきから静観の槍先を横たえたまま、撓め切っていた十数名の門下の坊主たちへ、号令したのである。
ぴゅうーっと、白い光はその途端に、蜂を放ったように八方へ走った。坊主あたまというものには、一種特別な剛毅と野蛮性がある。
くだ槍、片鎌、ささほ、十文字、おのおのがつかい馴れた一槍を横たえて、そのカンカチ頭とともに、血に飢えて躍ったのだ。
――ありゃあっ。
――えおうっ。
野彦を揚げて、もうその槍先の幾つかは血を塗っている。きょうこそまたとない、実地の稽古日のように。
――武蔵は、咄嗟に、
(新手!)
と感じて飛び退っていた。
(見事に死のう!)
もう疲れて霞んでいる脳裏でふとそう考え、血糊でねばる刀の柄を両手でぎゅっと持ったまま、汗と血でふさがれた眼膜をじっと瞠っていたが、彼に向って来る槍は一つもなかった。
「……や?」
どう考えてもあり得ない光景が展開されていた。茫然と、彼は、その不可思議な事実を見まわしてしまった。
なぜならば、坊主あたまの槍仕たちが、われがちに獲物を争う猟家の犬みたいに、追いまわしてズブズブ突き刺しているのは、彼らとは、味方であるはずの牢人たちへ向ってであった。
からくも、武蔵の太刀先から逃げ退いて、ほっとしかけていた連中までが、
「待てっ」
と、呼ばれたので、まさかと思って待っていると、
「蛆虫めら」
と不意の槍先に突っかけられて、宙へ刎ね飛ばされたりした。
「やいっ、やいっ、何するんだっ、気が狂ったか。馬鹿坊主め、相手を見ろっ、相手が違うっ」
と叫んだり転げたりする者の尻を狙って、撲る者があるし、突く者があるし、また、左の頬から右の頬へ槍を突きとおして、槍を咥えられたと思い、
「離せっ」
と目刺魚みたいに振廻しているのもある。
おそろしい屠殺の行われたその瞬間の後、何ともいえないしんとした影が野を掩った。面を向けるに堪えないように、太陽にも雲がかかっていた。
みな殺しだった。あれだけいた牢人者を、一人としてこの般若野の沢から外へ洩らさなかったのである。
武蔵は、自分の眼が信じられなかった。太刀を構えていた手も、張りつめていた気も、茫然とはなりながら、弛めることができなかった。
(――何で? 彼ら同士が)
まったく判断がつかないのである。いくら今、武蔵自身の人間性が、人間を離脱した血の奪いあいに、夜叉と獣のたましいを一つに持つような体熱からまだ醒めきれないでいるにしても――余りに思いきった殺戮に眼がくらむ心地がする。
いやそう感じたのは、他人のする虐殺を見せられて、途端に、彼は本来の人間に回ってしまった証拠といえる。
同時に彼は、地中へふかく突っ込んでいるように力で硬くなっている自分の脚に、――また、自分の両手にしがみついて、オイオイ泣いている城太郎にも、ふと気がついた。
「初めてお目にかかる。――宮本殿といわるるか」
つかつかと歩み寄って来て、こういんぎんに礼儀をする長身白皙の僧を、目の前に見て、
「オ……」
武蔵は、われに帰って、刃を下げた。
「お見知りおき下さい。わたくしが宝蔵院の胤舜です」
「む。あなたが」
「過日は、せっかくお訪ね下された由ですが、不在の折で、残念なことをしました。――なお、そのせつは門下の阿巌が、醜しい態をお目にかけ、彼の師として胤舜も恥じ入っております」
「…………」
はてな?
武蔵は、相手のことばを、耳を洗って聞き直すように、しばらくだまっていた。
この人の言語や、言語にふさわしい立派な態度を、こちらも、礼儀をもって受け容れるには、武蔵はまず、自分の頭の中に混雑しているものから先に整えて聞かなければならなかった。
それにはまず宝蔵院衆が、何が故に、自分に向けてくるはずの槍を、遽かに逆さにして味方と信じて油断していた牢人どもを、みなごろしに刺殺してしまったのか?
その理由が、武蔵には解きようもない。意外な結果に、ただあきれているのだ。自分の生命の健在にさえあきれているのだ。
「血糊のよごれでもお洗いになって、ご休息なされい。――さ、こちらで」
胤舜は、先に歩いて、焚火のそばへ武蔵を誘ってゆく。
城太郎は、彼のたもとを離れなかった。
用意して来た奈良晒布を一反も裂いて、坊主たちは、槍を拭いていた。その坊主たちも、武蔵と胤舜が、焚火に向って膝をならべている姿を見て、すこしも不審としていない。当然のように、自分たちも、やがて打ち混じって、雑談を始めるのだった。
「――見ろ、あんなに」
一人が空を指さし、
「もう鴉のやつが、血を嗅ぎつけて、この野にあるたくさんの死骸に喉を鳴らしてやって来た」
「――降りて来ないな」
「おれたちが去れば、争って死骸へたかる」
そんな暢気な話題さえ出る。武蔵の不審は、武蔵から質問しなければ誰も語ってくれそうもない。
胤舜に向い、
「実は、拙者はあなた方こそ、今日の敵と思い、一人でもよけいに冥途へお連れ申そうと、深く覚悟していたのですが、それが却って拙者にお味方下さるのみか、どうしてかようにおもてなし賜わるのか、不審でならぬが」
すると胤舜は、笑って、
「いや貴公にお味方した覚えはない。ただすこし手荒ではござったが、奈良の大掃除をしただけのことです」
「大掃除とは」
その時、胤舜は、指を彼方へさして、
「そのことは、てまえからお話しするより、あなたをよく知っている先輩の日観師が、お目にかかって親しくお話し申すでしょう。――御覧なさい。野末のほうから、豆つぶ程な人馬の影が一群れ見えて来たでしょう。あれが、日観師と、そのほかの人々に違いありません」
「――老師、迅いの」
「そちらが遅いのじゃ」
「馬より迅い」
「あたりまえ」
猫背の老僧日観だけ、駒の足をしり目にかけて、自分の足で歩いていた。
般若野の煙をあてに。
その日観と前後して、五人の騎馬の役人が、かつかつと野の石ころを蹴って行く。
近づくのを見て、此方では、
「老師、老師」
と、囁きあう。
坊主たちはずっと退がって、厳かな寺院の儀式の時のように、一列に並んで、その人と、騎馬役人とを迎えた。
「片づいたかい?」
日観が、そこへ来ての最初のことばだった。
「はっ、仰せのように」
と、胤舜は師礼を執っていう。
そして、騎馬役人へ向い、
「御検視、ご苦労です」
役人たちは、順々に、鞍つぼから飛び降り、
「なんの、ご苦労なのは、其許たちの方さ。どれ一応――」
と、彼方此方に横たわっている十幾つかの死骸を見て、一寸覚えを書き留める程度の事務を執って、
「取片づけは、役所からさせる。後の事、捨ておいて、退去してよろしい」
いい渡すと、役人らは馬上へ返って、ふたたび野末へ駈け去った。
「おまえ達も戻れ」
日観が命令を下すと、槍を並べている僧列は、黙礼して野を歩みだした。それを連れて、胤舜も、師と武蔵へ、あいさつを残して帰って行った。
人が減ると、
ぎゃあアぎゃあア!
鴉の群れは、急に厚顔ましく地上へ降りて来て、死骸へたかり、梅酢を浴びたようになって、驚喜の翼を搏っている。
「うるさい奴」
日観はつぶやきながら、武蔵のそばへ来て、気軽にいった。
「いつぞやは失礼」
「あっ、その折は……」
あわてて彼は両手をつかえた。そうせずにはいられなかった。
「お手をお上げ。野原の中で、そう慇懃なのもおかしい」
「はい」
「どうじゃな、今はすこし、勉強になったか」
「仔細、お聞かせ下さいませ。どうして、こういうお計らいを?」
「もっともだ。実はの」
と、日観が話すには――
「今帰った役人たちは、奈良奉行大久保長安の与力衆でな、まだ奉行も新任、あの衆も土地に馴れん。そこをつけ込んで、悪い牢人どもが、押し借り、強盗賭試合、ゆすり、女隠し、後家見舞、ろくなことはせん。奉行も手をやいていたものだ。――山添団八、野洲川安兵衛など、あの連中十四、五がそのグレ牢人の中心と目されていた」
「ははあ……」
「その山添、野洲川などが、おぬしに怒りを抱いたことがあろう。だが、おぬしの実力を知っているので、その復讐を、宝蔵院の手でさせてやろう、こう、うまいことを彼奴らは考えた。そこで仲間を語らい、宝蔵院の悪口をいいふらし、落首など貼りちらして、それを皆、宮本の所為だと、いちいち、こっちへ告げ口に来たものだ。――わしを盲目と思うてな」
聞いている武蔵の眼は、微笑してきた。
「――よい機、この機に一つ、奈良の町の大掃除をしてくれよう。こう考えて、胤舜に策を授けたのじゃ。イヤ、よろこんだのは、門下の坊主どもと、奈良の奉行所。それからこの野原の鴉じゃった。アハハハハ」
いや欣んだのは鴉のほかにもう一人いる。日観の話をそばで聞いていた城太郎だ。これですっかり彼の疑いも危惧も一掃された。そこで、この少年は、雀躍りの羽をひろげ、彼方へ駈けて行ったと思うと、
大掃除っ
大掃除っ
と、途方もない声で唄い出したものである。大掃除っ
その声に、武蔵と日観が振向いてみると、城太郎は例の笑い仮面を顔にかぶり、腰なる木剣を抜いて手にかざし、そこらに算をみだしてころがっている死骸と、その死骸へむらがっている鴉の群れを蹴ちらしながら乱舞している。
なア鴉
奈良ばかりじゃないぜ
大掃除は時々必要だよ
自然の理だよ
万物が革まるために
生々とその下から春が来る
落葉を焚き
野を焼くんだ
時々、大雪が欲しいように
時々、大掃除もあっていいよ
なア鴉
おまえ達にも饗宴だ
人間の眼玉のお吸物
紅いどろどろのお酒
喰べすぎて酔ッぱらうな
「おい子供っ」奈良ばかりじゃないぜ
大掃除は時々必要だよ
自然の理だよ
万物が革まるために
生々とその下から春が来る
落葉を焚き
野を焼くんだ
時々、大雪が欲しいように
時々、大掃除もあっていいよ
なア鴉
おまえ達にも饗宴だ
人間の眼玉のお吸物
紅いどろどろのお酒
喰べすぎて酔ッぱらうな
日観が呼ぶと、彼は、
「はいっ」
乱舞を止めて、振向いた。
「そんな気狂いじみた真似をしておらんで石を拾え、ここへ石を拾って来い」
「こんな石でいいんですか」
「もっと沢山――」
「はい、はい」
城太郎が拾い集めて来ると、日観は、その小石の一つ一つへ南無妙法蓮華経の題目を書いて、
「さあ、これを死骸へ、撒いておやり」
といった。
城太郎は石を取って野の四方へ投げた。
その間、日観は、法衣の袖をあわせて誦経していたが、
「さあ、それでよろしい。――ではお前さん達も先へ出立するがよい。わしも奈良へ戻るとしよう」
飄然と猫背の後ろ姿を向け、もう風のように彼方へ歩み去って行く――
礼をいう遑もないし、再会の約束もいい出せなかった。何という淡々とした姿だろう。――武蔵は、そのうしろ姿を、じっと見つめていたが、何思ったかいきなり驀しぐらに追い駈けて行って、
「老師っ、お忘れ物っ」
と、刀の柄をたたいた。
日観は、足を止め、
「忘れ物とは?」
「会い難いこの世の御縁に、せっかくこうしてお目にかかったのです。どうか一手の御指南を」
すると、歯のない彼の口から、からからと枯れた人間の笑い声がひびいた。
「――まだ分らんのか。お前さんに教えることといえば、強過ぎるということしかないよ。だが、その強さを自負してゆくと、お前さんは三十歳までは生きられまい。すでに、今日生命がなかったところだ。そんなことで、自分という人間を、どう持ってゆくんじゃ」
「…………」
「きょうの働きなども、まるでなっておらぬ。若いからまアまアせんないが、強いが兵法などと考えたら大間違い。わしなど、そういう点で、まだ兵法を談じる資格はないのじゃよ。――左様、わしの先輩柳生石舟斎様、そのまた先輩の上泉伊勢守殿――そういう人たちの歩いた通りを、これから、お身もちと、歩いてみるとわかる」
「…………」
武蔵は俯向いていた。ふと、日観の声がしなくなったがと思い、顔を上げてみると、もうその人の影はなかった。
ここは笠置山の中にあるが、笠置村とはいわない。神戸の庄柳生谷といっている。
その柳生谷は、山村とよぶには、どこか人智の光があり、家居風俗にも整いがあった。といって、町と見るには、戸数が少なくて、浮華な色がちっともない。中国の蜀へ通う途中にでもありそうな「山市」といった趣の土地である。
この山市のまん中に、土民が「お館」と仰ぐ大きな住居があって、ここの文化も、領民の安心も、すべての中心が、その古い砦の形式を持った石垣の家にあった。そして領民は千年の昔から住み、領主も、平の将門が乱をなした大昔の頃からここに住んで、微かながら土民の上に文化を布き、弓矢の蔵を持っていた土豪である。
そしてこの地方四箇の庄を、祖先の地、自分たちの郷土として血をもって愛護していた。どんな戦禍があっても、領主と民とが迷子にはならなかった。
関ヶ原の戦後、すぐ近い奈良の町は、あのとおり浮浪人に占領され、浮浪人の運びこんだ悪文化に風靡されて、七堂伽藍の法燈も荒れわびてしまったが、この柳生谷から笠置地方には、そんな不逞分子はさがしても入り込んで来ていない。
その一例を見ても、いかにこの辺の郷土がそんな不純を入れない気風と制度を持っているかが窺えるのである。
領主がよくて領民がよいばかりではない、朝夕の笠置の山はきれいだし、水は茶に汲んで飲むと甘味い。――それからまた梅花の月ヶ瀬が近くにあるので、鶯の音は雪の解けない頃から、雷鳴の多い季節まで絶えることはなく、その音色はまた、この山の水よりも清い。
詩人は、――英雄生ル所山河清シ、といったが、こんな郷土から、もし一人の偉人でも生まれなかったら、詩人は嘘つきといってよいし、ここの山河は、ただ美しいのみで不産女の風景といってもいい。でなければ郷土の血液がよほど頑愚か、どっちかであるが、やはりここには人傑が出ていた。領主の柳生家の血が証拠だてている。また、畑から出て、軍のたびに功を立て、よい家臣となって随身している家中にも、優れた人物がすくなくない。それはみなこの柳生谷の山河と鶯の音が産んだ英雄といえるのである。
今はその「石垣のお館」には、隠居された柳生新左衛門尉宗厳が、名も石舟斎と簡素に改めてしまって、城からすこし奥の小やかな山荘にかくれ、政務を執る表のほうには、誰が今、家督の任に当っているのか分らないが、石舟斎には、いい子どもや孫がたくさんにあるし、家臣にも頼み甲斐ある者が多いから、石舟斎が民を見ていた時代となんの変りもなかった。
「ふしぎだ」
武蔵が、ここの地を踏んだのは般若野のことがあってから十日ほど後であった。附近の笠置寺とか浄瑠璃寺とか、建武の遺跡などを探って、宿も、どこかへ取り、充分に心身の静養もして、その宿から散歩のていで出かけて来たものらしく、ほんの着流しであり、いつもの如く腰に取ッついている城太郎も、藁草履を穿いていた。
民家の生活を見、畑の作物をながめ、また往きあう者の風俗に注意し、そのたびに、武蔵が、
「ふしぎだ」
何度も呟くので、
「おじさん、何がふしぎ?」
と、城太郎はむしろ武蔵の呟きこそ、不思議として、こう訊ねた。
「中国を出て、摂津、河内、和泉と諸国を見て来たが、おれはまだこんな国のあることを知らなかった。――そこで不思議といったのだよ」
「おじさん、どこがそんなに違っているの」
「山に樹が多い」
城太郎は、武蔵のことばに、吹き出して、
「樹なんか、どこにだって沢山生えているぜ」
「その樹が違う。この柳生谷四箇の庄の山は、みな樹齢が経っている。これはこの国が、兵火にかかっていない証拠だ。敵の濫伐をうけていない証だ。また、領主や民が、飢えたことのない歴史をも物語っている」
「それから」
「畑が青い。麦の根がよく踏んである。戸ごとには、糸をつむぐ音がするし、百姓は、道をゆく他国の者の贅沢な身装を見ても、さもしい眼をして、仕事の手を休めたりしない」
「それだけ?」
「まだある。ほかの国とちがって、畑に若い娘が多く見える。――畑に紅い帯が多く見えるのはこの国の若い女が、他国へ流れ出ていない証拠だろう。だからこの国は、経済にも豊かで、子供はすこやかに育てられ、老人は尊敬され、若い男女は、どんなことがあっても他国へ走って、浮いた生活をしようとは思わない。従って、ここの領主の内福なことも分るし、武器の庫には、槍鉄砲がいつでも研きぬいてあるだろうという想像もつく」
「なんだ、なにを感心しているのかと思ったら、そんなつまらないことか」
「おまえには面白くあるまいな」
「だって、おじさんは、柳生家の者と試合をするために、この柳生谷へ来たんじゃないか」
「武者修行というものは、何も試合をして歩くだけが能じゃない。一宿一飯にありつきながら、木刀をかついで、叩き合いばかりして歩いているのは、あれは武者修行でなくて、渡り者という輩、ほんとの武者修行と申すのは、そういう武技よりは心の修行をすることだ。また、諸国の地理水利を測り、土民の人情や気風をおぼえ、領主と民のあいだがどう行っているか、城下から城内の奥まで見きわめる用意をもって、海内隈なく脚で踏んで心で観て歩くのが、武者修行というものだよ」
まだ幼稚な者に向って、説いても無益と思いながら、武蔵には、少年に対しても、よいほどにものを誤魔化しておくということができない。
城太郎の諄いような質問にも、面倒な顔もせず頻りと、噛んで含めるように答えてやりながら歩いていた。――すると二人の背後へいつの間にか近づいていた馬蹄の音があって、その馬上から恰幅のよい四十がらみの侍が、
「傍へ。傍へ」
声をかけて、通り越した。
ひょいと、その鞍の上を仰いで城太郎は、
「あっ、庄田さんだ」
と、口走った。
その侍の顔が、熊のようなあご髯を持っているので、城太郎は忘れていなかった。――宇治橋へかかる大和路の途中で、紛失したと思った手紙の竹筒を拾ってくれたあの人なのだ。彼の声に、馬上の庄田喜左衛門も気がついたとみえ、振顧って、
「おう、小僧か」
ニコと笑ったが、そのまま駒をすすめ、柳生家の石垣の内へかくれてしまった。
「城太郎、今、馬の上からお前を見て笑ったお人、あれは誰だ」
「庄田さんて――柳生様の家来だって」
「どうして知っているのか」
「いつか、奈良へ来る途中、いろいろ親切にしてくれたから」
「ふム」
「ほかに、何とかいう女の人とも道連れになって、木津川渡舟までおらと三人、一しょに歩いて来たのさ」
小柳生城の外形と、柳生谷の土地がらを一巡見て歩いて、武蔵はやがて、
「帰ろう」
と、元の方角へ足を向ける。
旅籠は、たった一軒だが、大きなのがあった。伊賀街道に当っているし、浄瑠璃寺や笠置寺へゆく人たちも泊るので、夕方になると、そこの入口の立樹や、廂の下には、必ず十頭くらいの荷駄馬がつながれ、夥しい米を炊ぐため、米の磨ぎ水が前の流れを白く濁していた。
「旦那はん、どこへ行きなされた?」
部屋へ入ると、紺の筒袖に、山袴を穿き、帯だけが赤いので、これは女の子だと分る女の子が、突っ立ったままで、
「すぐ風呂に入りなされ」
という。
城太郎は、ちょうどよい年頃の友達を見つけたように、
「おめえ、何てえ名だい」
「知らんが」
「阿呆、自分の名を」
「小茶ってんだよ」
「変な名」
「大きにお世話」
小茶が、打つと、
「打ったな」
武蔵は廊下から振向いて、
「おい、小茶ちゃん、風呂場はどこだ。――先の右側か、よしよしわかる」
板の間の棚に、三人分の衣服が脱いであった。武蔵のを加えて四人分になる。戸をあけて、湯気の中へ入ってみると、先に入っていた客たちは、何か陽気に話していたが、彼の逞しい裸体を仰いで、異分子を見るように、口をつぐんだ。
「むーム」
武蔵の六尺に近い体を沈め込むと、湯槽の湯は、外で細い脛を洗っている三名を浮かして流すほど、溢れ出した。
「? ……」
一人が、武蔵のほうを振り向いた。武蔵は湯槽のふちを枕にして、眼をつむっている。
そこで、すこし安心したのか、三名は途絶えていた話のつづきに入って――
「なんといったかな、先ほど参った柳生家の用人は」
「庄田喜左衛門だろう」
「そうか。――柳生も用人を使いに立てて試合を断るようでは、名ほどのこともないと見えるぞ」
「誰に対しても、近頃は、あの用人がいったように、石舟斎は隠居、但馬守儀は、江戸表へ出府中につき――という口上で、試合を謝絶しているのだろうか」
「いや、そうじゃあるまい。こちらが、吉岡家の次男と聞いて、大事を取り、敬遠したに相違ないさ」
「御旅中のお慰みにと菓子などを持たせて寄こしたところは、柳生もなかなか如才ないではないか」
背中の色が白い。筋肉がやわらかい。皆、都会人とみえ、洗煉された会話の遣り取りのうちに、理智があり、冗戯があり、細かい神経も働いている。
(……吉岡?)
ふと耳に入ったので、武蔵は何気なく湯槽から首を曲げた。
吉岡の次男といえば、清十郎の弟伝七郎のことだが?
(それかな)
と、武蔵は注意していた。
自分が四条道場を訪ねた時、門人か誰かが御舎弟の伝七郎どのは、友人と伊勢参宮へ参って留守であるといっていた。――この旅の戻り途とすれば、あるいは、こう三名の者が、その伝七郎と友人の一行かも知れない。
(おれは湯槽がよく祟る)
武蔵は心のうちで戒めていた。――郷里の宮本村ではかつて本位田又八の母のお杉隠居に計られて、浴室で敵につつまれたことがあるし、今はまた、宿怨ただならぬ仲の吉岡拳法の一子と、偶然にも、素裸で会う機会につかまってしまった。
旅に出ていたとはいえ、おそらくは、京都の四条道場での自分とのいきさつを、耳にしているに相違ない。――ここで自分を宮本と知ったら、すぐ板戸一枚向うにある刀を取って物をいい出すだろう。
武蔵は一応そう考えたのだ。しかし、三名のほうには一向そういう気ぶりはない。得意になって話している様子から察すると、何でもこの土地へ着くと早速、柳生家へ書面を持たせてやったものらしい。吉岡といえば、足利公方からの名門ではあり、今の石舟斎が宗厳といっていた頃から、先代の拳法とは多少の交わりもあったらしいので、柳生家でも捨ててもおけず、用人庄田喜左衛門に旅の見舞を持たせて、この旅籠へあいさつによこしたものと思われる。
その礼儀に対して、この若い都会人たちは、
(柳生も、如才ない)
とか、
(怖れをなして敬遠した)
とか、
(大した人物もいないらしい)
とかいう風に、自己満足な解釈を下して、得々と、旅の垢を洗っている――
今し方、親しく足で踏んで、小柳生城の外廓から、土俗人情を実地に見て来ている武蔵にとっては、彼らのそうした得意さと勝手な受け取り方が、笑止でならなかった。
井の中の蛙という諺があるが、ここにいる都の小せがれどもは、大海の都会に住んでいて、移りゆく時勢を広く見ているくせに、却って、井の中の蛙が誰も知らないうちに涵養していた力の深さや偉大さを少しも考えてみない。中央の勢力と、その盛衰から離れて、深い井泉の底に、何十年も、月を映し、落葉を浮かべ、変哲もない田舎暮らしの芋食い武士と思っているまに、この柳生家という古井戸からは、近世になって、兵法の大祖として石舟斎宗厳を出し、その子には、家康に認められた但馬守宗矩を生み、その兄たちには、勇猛の聞え高い五郎左衛門や厳勝などを出し、また孫には、加藤清正に懇望されて肥後へ高禄でよばれて行った麒麟児の兵庫利厳などという「偉大なる蛙」をたくさんに時勢の中へ送っている。
兵法の家として、吉岡家と柳生家とでは、比べものにならないほど吉岡家のほうが格式が高かったものである。けれど、それは昨日までのことだった。――それをまだ、ここにいる伝七郎や他の手合は気がつかない。
武蔵は、彼らの得意さが、おかしくもあり、気の毒にも思えた。
で――つい苦笑が顔にのぼりかける。彼はそれに困って、浴室の隅にある筧の下にゆき、髪の元結を解いて、一塊の粘土を毛の根にこすり、久しぶりで、ざぶざぶと髪を洗いほぐした。
その間に、
「ああいい気持」
「旅ごこちは、湯上がりの、この一刻にあるな」
「女の酌で、晩に飲むのは」
「なおいい」
などと三名は、体を拭いて、先へ上がって行った。
洗った濡れ髪を手拭いで縛って、部屋に帰ってみると、男みたいな女の子の小茶ちゃんが隅で泣いているので、武蔵は、
「おや、どうした?」
「旦那はん、あの子が、あたいをこんなに撲ったの」
「嘘だい!」
と、向うの隅から城太郎が異議をいって膨れる。
「なぜ女などを打つ」
武蔵が叱ると、
「だって、そのおたんこ茄子が、おじさんのことを、弱いっていったからさ」
「嘘、嘘」
「いったじゃないか」
「旦那はんのことを弱いって、誰もいいはしないよ。おまえが、おらのお師匠様は日本一の兵法家で般若野で何十人も牢人を斬ったなんて、あんまり自慢して威張るから、日本一の剣術の先生は、ここの御領主様のほかにないよといったら、何をって、あたいの頬を撲ったんじゃないか」
武蔵は、笑って、
「そうか、悪い奴だ。後で叱っておくから、小茶ちゃん、勘弁してやれ」
城太郎は、不服らしい。
「おい」
「はい」
「湯に入ってこい」
「お湯はきらいだ」
「おれと似ているな。だが、汗くさくていかん」
「明日、河へ行って泳ぐ」
日が経って馴れるにつれ、この少年の生れつきにある強情な性格は、だんだん芽を伸ばしていた。
だが、武蔵は、そこも好きだった。
膳につく。
まだ膨れている。
盆を持って給仕している小茶も口をきかない。睨めっこなのだ。
武蔵も、この数日は、思うことがあって、とかく心がそれに囚われている。彼の胸にある宿題は、一介の放浪者としては少し大望であり過ぎた。しかし、不可能でないと彼は信じるのだ。そのためにこうして一つ旅籠に逗留をかさねているのでもあった。
望みというのは、
(柳生家の大祖、石舟斎宗厳と会ってみたい)
と、いうことである。
なお烈しくいえば――彼の若い野望の燃ゆるままを言葉に移していうならば――
(どうせ打つかるなら大敵に当れである。大柳生の名を仆すか、自分の剣名に黒点をつけられるか、死を賭してもよい、柳生宗厳に面接して、一太刀打ち込まねば、刀を把る道に志したかいもない)
もし第三者があって、彼のこういう志望を聞いたら、無謀といって笑うだろう。武蔵自身も、その程度の常識はないことは決してない。
小さくても、先は一城の主である。その子息は、江戸幕府の兵法師範であり、一族はみな典型的な武人であるのみでなく、どことなく新しい時代の潮にのり出している旺なる家運が、柳生家というものの上には今、輝いているのだ。
(――凡は打つかれない)
武蔵も、それだけの準備は心でしていた。飯を噛む間もしているのである。
鶴のような老人である。もう八十歳にかかっているが、品位は年と共について、高士の風をそなえているし、歯も達者、眼もご自慢なのだ。
「百歳までは生きる」
と、常にいっている。
それというのも、この石舟斎には、
「柳生家は代々が長寿じゃ。二十歳だい、三十だいで死んだのは、みな戦場で終ったものばかり。畳の上ではどの先祖も、五十や六十で死んだのはない」
という信念があるからだ。
いや、そういう血統でないにしても、石舟斎のような処世と老後を心がければ、百歳くらい生きるのは当りまえにも思われる。
享禄、天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長――とこう長い乱世の中を生きて来て、殊に四十七歳までの壮年期は、三好党の乱だの、足利氏の没落だの、松永氏や織田氏の興亡だのに、この地方にあっても、弓矢を措く遑はなかったのであるが、自分でも、
「ふしぎと死ななかった」と、いっている。
四十七歳からは、何に感じたのか、一切弓矢を取らず、たとえば足利将軍の義昭が、好餌をもって誘っても、信長がしきりと招いても、豊臣氏が赫々と覇威を四海にあまねくしても、その大坂、京都のつい鼻の先にいながら、この人物は、
(わしは、つんぼでござる、唖でござる)
というように、世の中から韜晦して、穴熊のように、この山間の三千石を後生大事に守って出なかった。
後に、人に語って、
「よく持って来たものじゃ。朝あって夕べのわからぬ治乱興亡の間を、こんな小城一つが、ぽつねんと、今日まで無事にあるということは、戦国の奇蹟じゃないか――」
と、石舟斎はよくいった。
なるほど――
聞く者は、彼の達見にみな感服した。足利義昭についていれば信長に討たれたろうし、信長に従っていれば秀吉との間はどうなったか知れず、秀吉の恩顧をうけていれば、当然、その後の関ヶ原には、家康にしてやられている。
また、その興亡の波を、うまく切りぬけて、無事に家系を支えようとするには、恥も外聞もなく、きょうは彼の味方と見せて、明日は彼を裏切り、節操なく、意地もなく、或る場合には、一族や血縁にすら、弓も引こう血も見よう、というくらいな武士道以外なつよさも持たなければ不可能なのである。
「わしには、それが出来ん」
と、石舟斎がいうのは、ほんとうであろう。
そこで、彼が居間には、
世をわたる業のなきゆゑ
兵法を隠れ家とのみ
たのむ身なれや
と自詠の一首が、懐紙に書かれて、壁の茶掛となっている。兵法を隠れ家とのみ
たのむ身なれや
だが、この老子的な達人も、家康が礼を厚うして招くに至ると、
(懇招、黙し難し――)
と呟いて、何十年間の道境三昧の廬を出て、京都紫竹村の鷹ヶ峰の陣屋で、初めて、大御所に謁したのであった。
その時、つれて行ったのが、五男又右衛門宗矩、その年二十四歳、孫の新次郎利厳が、まだ十六歳の前髪。
こう二人の鳳雛の手をつれて、家康に謁した。そして、旧領三千石安堵の墨付と共に、
「以後、徳川家の兵法所へ仕えるように」
と、家康がいうと、
「何とぞ、せがれ宗矩を」
と、子を推挙して、自分はまた、柳生谷の山荘へ退き籠ってしまった。そして子の又右衛門宗矩が、将軍家指南番として、江戸表へ出ることになった折に、この老龍が授けたものは、いわゆる技や力の剣術ではなく、
(世を治むるの兵法)
であった。
彼の「世を治むるの兵法」は、また彼の「身を修むるの兵法」でもあった。
石舟斎はそれを、
「これ皆、師の御恩」
と常にいって、ひたすら上泉伊勢守信綱の徳を忘れなかった。
「伊勢殿こそ柳生家の護り神ぞや」
口ぐせに、彼のいうとおり、彼の居間の棚には、常に、伊勢守から受けた新陰流の印可と、四巻の古目録とが奉じてあり、忌日には、膳を供えて祠ることも忘れなかった。
その四巻の古目録というのは、一名絵目録ともいって、上泉伊勢守が自筆で、新陰流の秘し太刀を、絵と文章で書いたものであった。
時折、石舟斎は、老後になっても、それを繰りひろげて、偲ぶのであった。
「絵も妙手でおわした」
いつもふしぎに衝たれるのが、その絵であった。天文時代の風俗をすがたに持った人物と人物とが、颯爽と、あらゆる太刀の形を取って、白刃の斬合をしている図――それをながめていると、神韻縹渺として、山荘の軒に、霧の迫ってくる心地がするのである。
伊勢守が、この小柳生城へ訪ねて来たのは、石舟斎がまだ兵馬の野心勃々としていた三十七、八歳のころだった。
そのころ、上泉伊勢守は、甥の疋田文五郎という者と、老弟の鈴木意伯をつれ、諸国の兵法家を求めて遊歴していたもので、それがふと伊勢の太の御所といわれる北畠具教の紹介で、宝蔵院に見え、宝蔵院の覚禅房胤栄は、小柳生城に出入りしていたので、「こんな男が来たが」
と、石舟斎――その頃は、まだ柳生宗厳と称っていた彼へ話した。
それが、機縁だった。
伊勢守と宗厳は、三日にわたって、試合をした。
第一日、起ち合うと、
「とりますぞ」
伊勢守は、打つ所を明言しておいて、言葉のとおり打ちこんだ。
第二日も、同じように敗けた。
宗厳は、自尊を傷つけられた、次の日は工夫を凝らし、精神を潜めて、体の形も変えた。
すると伊勢守は、
「それは悪い、それでは、こう取る」
といって、忽ち、前の二日と同じように、指摘した所へ太刀を与えた。
宗厳は、我執の太刀をすてて、
「初めて、兵法を観た」
といった。
それから半歳の間、強って、伊勢守を小柳生城にひきとめて、一心に教わった。
伊勢守は、永くはと、袂を分つ折に、
「まだまだ私の兵法などは未完成なものです。あなたは若い、私の未完成を完成してみるがよい」
こういって、一つの公案を授けて行った。その公案――問題というのは、
無刀の太刀如何?
という工夫であった。
宗厳は、以来数年間、無刀の理法を考えつめた。寝食をわすれて、研鑽した。
後、伊勢守がふたたび彼を訪れた時には、彼の眉は明るかった。
「いかがあろうか」
と、試合うと、
「む!」
伊勢守は、一目見て、
「もうあなたと太刀打はむだなことである。あなたは、真理をつかまれた」
そういって、印可、絵目録四巻を残して去った。
柳生流は、ここから誕生し、また、石舟斎宗厳の晩年の韜晦も、この兵法が生んだところの一流の処世術であったのである。
今、彼の住んでいる山荘は、もちろん小柳生城の中ではあるが、砦作りの頑丈な建築は、石舟斎の老後の心境にはぴったりしないので、べつに、簡素な一草庵を建て、入口もべつにして、まったく一箇の山中人の生活に余生を楽しんでいる。
「お通、どうじゃの、わしが挿けた花は生きておろうが」
伊賀の壺に、一輪の芍薬を投げ入れて、石舟斎は、自分の挿けた花に見惚れていた。
「ほんに……」
と、お通はうしろから拝見している。
「大殿さまは、よほど茶道もお花もお習いになったのでしょう」
「うそを申せ、わしは公卿じゃなし、挿花や香道の師についたことはない」
「でも、そう見えますもの」
「なんの、挿花を生けるのも、わしは剣道で生けるのじゃ」
「ま」
彼女は、驚いた目をして、
「剣道で挿花が生けられましょうか」
「生かるとも。花を生けるにも、気で生ける。指の先で曲げたり、花の首を縊めたりはせんのじゃ。野に咲くすがたを持って来て、こう気をもって水へ投げ入れる。――だからまずこの通り、花は死んでいない」
この人のそばにいてから、お通はいろいろなことを教えられた気がする。
――ほんの道ばたで知り合ったというだけの縁で、この柳生家の用人である庄田喜左衛門に、無聊な大殿へ、笛の一曲をと望まれて従いて来たのであったが――
その笛が、ひどく、石舟斎の気に入ったものか、また、この山荘にも、お通のような若い女のやわらかさが一点はあって欲しいと思われたのか、お通が、
「お暇を」
といい出しても、
「まあ、もう少しおれ」
とか、
「わしが茶を教えてやる」
とか、
「和歌をやるか。では、わしにもすこし古今調を手ほどきしてくれい。万葉もよいが、いっそこう侘びた草庵の主になってみると、やはり山家集あたりの淡々としたところがよいの」
などといって、離したがらないし、お通もまた、
「大殿さまには、かようなお頭巾がよかろうと思って縫ってみました。おつむりへお用い遊ばしますか」
武骨な男の家来たちには、気のつかない細やかさを尽すので、
「ほう、これはよい」
その頭巾をかぶり、またとない者のように、お通を可愛がるのであった。
月の夜にはよく、彼女がそこでお聴きに入れる笛の音が、小柳生城の表のほうまで聞えて来た。
庄田喜左衛門は、
「飛んだお気に入って――」
と自分までが、拾い物をしたように、欣しく思っていた。
喜左衛門は今、城下から戻って来て、古い砦の奥の林を抜け、大殿の静かな山荘をそっとのぞいた。
「お通どの」
「はい」
柴折を開けて、
「まあ、これは。……さあどうぞ」
「大殿は」
「御書見でいらっしゃいます」
「ちょっと、お取次ぎ下さい。――喜左衛門、ただ今、お使いから戻りましたと」
「ホホホ。庄田様、それはあべこべでございます」
「なぜ」
「わたくしは、外から呼ばれて参っている笛吹きの女、あなたは柳生家の御用人さま」
「なるほど」
喜左衛門も、おかしくなったが、
「しかしここは、大殿だけのお住居、そなたはべつなお扱いじゃ――とにかくお取次を」
「はい」
と、奥へ行ってすぐ、
「どうぞ」
と、迎え直す。
お通の縫った頭巾をかぶって、石舟斎は茶室に坐っていた。
「行って来たか」
「仰せのように致して参りました。ていねいに、お言葉を伝え、お表からとして、菓子を持参いたしました」
「もう立ったか」
「ところが、てまえがお城へ戻るとまた、すぐ追いかけて、旅籠の綿屋から書面を持たせてよこし、折角の途上、曲げても、小柳生城の道場を拝見して参りたいから、明日はぜひとも、城内へお訪ねする。また、石舟斎様にも親しくお目にかかって、ごあいさつしたいというのでござります」
「小せがれめ」
石舟斎は舌打ちして、
「うるさいの」
不興な顔をした。
「宗矩は江戸、利厳は熊本、そのほか皆不在と、よくいったのか」
「申しましたのです」
「こちらから、鄭重に断りの使者までつかわしたに、押しつけがましゅう、強って訪ねてくるとは、嫌な奴だ」
「なんとも……」
「うわさの通り吉岡の伜どもは、あまり出来がよくないとみえる」
「綿屋で会いました。あそこに、伊勢詣りの戻りとかで滞在中の伝七郎という人、やはり人品がおもしろうございませぬ」
「そうじゃろう、吉岡も先代の拳法という人間は相当なものだった。伊勢殿とともに、入洛の折は、二、三度会うて、酒など酌み交わしたこともある。――が、近ごろはとんと零落の様子、その息子とあるがゆえに、見くびって、門前ばらいも済まぬ、というて、気負うている若い小せがれに、試合を挑まれて、柳生家が叩いて帰しても始まらぬ」
「伝七郎とかいう者、なかなか自信があるらしゅうございます。強って、来るというのですから、私でも、あしらってつかわしましょうか」
「いや、止せ止せ。名家の子というものは、自尊心がつよくて、ひがみやすい。打ち叩いて帰したら、ろくなことをいい触らしはせん。わしなどは、超然じゃが、宗矩や利厳のためにならぬ」
「では如何いたしましょうか」
「やはり、ものやわらかに、名家の子らしゅう扱って、あやして帰すに如くはない。……そうじゃ、男どもの使者ではかどが立つ」
お通のすがたを振向いて、
「使いには、そなたがよいな、女がよい」
「はい、行って参りましょう」
「いや、すぐには及ぶまい。……明朝でいい」
石舟斎は、さらさらと茶人らしい簡単な手紙を書き、それを、先刻、壺へ挿けた芍薬の残りの一枝へ、結び文にして、
「これを持って、石舟斎事、ちと風邪心地のため、代ってお答えに参りましたと、小せがれの挨拶をうけて来い」
なお石舟斎から、使いの口上を授かって、お通は、次の日の朝、
「では、行って参ります」
被衣して、山荘を出た。
外曲輪の厩をのぞき、
「あの……お馬を一頭お借りして参ります」
そこらを掃除していた厩方の小者が、
「おや、お通さん。――どちらまで?」
「お城下の綿屋という旅籠まで、大殿のお使者に参ります」
「では、お供いたしましょう」
「それには及びませぬ」
「だいじょうぶで?」
「馬は好きです。田舎にいた頃から、野馬に馴れておりますから」
褪紅色の被衣が、駒のうえに自然な姿で揺られて行った。
被衣は、都会ではもう旧い服装として、上流のあいだでも廃っていたが、地方の土豪や中流の女子にはまだ好ましがられていた。
ほころびかけた白芍薬の一枝に石舟斎の手紙が結んである、それを持って、片手で軽く手綱をさばいてゆく彼女のすがたを見ると、
「お通様がとおる」
「あの人がお通様か」
と、畑の者は見送っていた。
わずかな間に、彼女の名が、畑の者にまでこう知れ渡っているわけは、畑の者と石舟斎とが、百姓と領主というような窮屈な関係でなく、非常に親しみぶかい間がらにあるので、その大殿のそばに近ごろ、笛をよくする美しい女が侍いているということから、彼らの石舟斎に対する尊敬と親密が、従って、彼女にまで及ぼしている実証であった。
半里ほど来て、
「綿屋という旅籠は?」
駒の上から、農家の女房に聞くと、その女房がまた、子供を背負って、流れで鍋の尻を洗っていたのに、
「綿屋へ行かっしゃれますか。わしが、ご案内いたしますべ」
用をすてて、先へ駈けるので、
「もし、わざわざ来て下さらなくても、およそ口で仰っしゃって下さればようございますのに」
「なに、すぐそこだがな」
そのすぐそこが十町もあった。
「此家だがな、綿屋さんは」
「ありがとう」
降りて、軒先の樹に、駒をつないでいると、
「いらっしゃいまし。お泊りですか」
と、小茶ちゃんが出てくる。
「いいえ、こちらに泊っている吉岡伝七郎様を訪ねて来たのです。――石舟斎様のお使いで」
小茶ちゃんは駈けこんで、やがて戻って来ると、
「どうぞ、お上がり下さい」
折から今朝宿を立つので騒々とそこで草鞋を穿いたり、荷を肩にしていた旅人たちは、
「何家の?」
「誰のお客」
小茶ちゃんに尾いて奥へ通ってゆく彼女の鄙に稀れな眉目と、どことなく、

ゆうべ遅くまで飲んで、今し方やっと起き出した所の吉岡伝七郎とその連れの者は、小柳生城からの使いと聞き、またきのうの熊みたいな顎髯の持主かと期していると、思いのほかな使者と、その使者の携えている白芍薬の枝を見て、
「や、これは。……こんな取り散らかしている所へ」
と、ひどく恐縮顔をして、部屋の殺風景へ気をつかうばかりでなく、自分たちの衣紋や膝も、遽に改めて、
「さ、こちらへ、こちらへ」
「小柳生の大殿から、申しつかって来た者でござりますが」
お通は、芍薬の一枝を、伝七郎のまえにさし置いて、
「おひらき下さいませ」
「ほ。……このお文」
伝七郎は解いて、
「拝見いたす」
一尺にも足らない手紙である。茶の味とでもいおうか、さらさらと墨も淡く、
御会しゃく、度々、痛み入り候、老生、あいにく先頃より風邪ぎみ、年老りの水ばなよりは、清純一枝の芍薬こそ、諸君子の旅情を慰め申すに足るべく、被存れ候まま、花に花持たせて、お詫びにつかわし候。
老い籠りの身は世の外に深う沈みて、顔浮かみ出すも、もの憂や。
御愍笑御愍笑
ほか諸大雅
「ふム……」老い籠りの身は世の外に深う沈みて、顔浮かみ出すも、もの憂や。
御愍笑御愍笑
石舟斎
伝七郎どのほか諸大雅
つまらなそうに鼻を鳴らし、手紙を巻いて、
「これだけでござるか」
「それから――かように大殿のおことばでございました。せめて、粗茶の一ぷくなりとさし上げたいのですが、家中武骨者ぞろいで、心ききたる者はいず、折わるく子息宗矩も、江戸表へ出府の折、粗略あっては、都の方々へ、かえってお笑いのたね、また失礼。いずれまたのおついでの節にはと――」
「ははあ」
不審顔を作って、
「仰せによると、石舟斎どのは、何か、吾々が茶事のお手前でも所望したように受り取っておられるらしいが、それがしどもは、武門の子、茶事などは解さんのでござる。お望み申したのは、石舟斎どののご健存を見、ついでに御指南を願ったつもりであるが」
「よう、ご承知でいらっしゃいます。したが、近頃は、風月を友にして、余生をお送りあそばしているお体、何かにつけ、茶事に託してものを仰っしゃるのが癖なのでございまする」
「ぜひがない」
と、苦々しく、
「では、いずれまた、再遊のせつには、ぜひともお目にかかると、お伝えください」
と伝七郎が、芍薬の枝をつきもどすと、お通は、
「あの、これは、道中のお慰みに、お駕なれば駕の端へ、馬なれば鞍のどこぞへでも挿して、お持ち帰り下さるようにと、大殿のおことばでございましたが」
「なに、これを土産にだと」
眼を落して、辱められでもしたように、憤っと色をなして、
「ば、ばかな。芍薬は京にも咲いているといってくれい」
――そう断られる物を、強いて、押しつけてゆくわけにもゆかないので、お通は、
「では帰りました上、そのように、……」
芍薬を持ち、腫れ物の膏薬を剥ぐように、そっとあいさつして、廊下へ出た。
よほど不快だったとみえ、送って来る者もない。お通は、それを背に感じて、廊下へ出ると、くすりと笑った。
同じ廊下の幾間かを隔てた先の一室には、もうこの土地へ来て十日余りになる武蔵が泊っていたのである。彼女が、その黒光りに艶の出ている廊下を横に見て、反対に表のほうへ出て行こうとすると、ふと、武蔵の部屋から、誰か起って、廊下へ出て来た。
ばたばたと追いかけて来て、
「もうお帰りですか」
お通が、振り顧ってみると、上がる時にも、案内に立った小茶ちゃんである。
「え。御用がすみましたから」
「早いんですね」
世辞をいって――彼女の手をのぞいて、
「この芍薬、白い花が咲くんですか」
「そうです、お城の白芍薬ですの、ほしいならば上げましょうか」
「下さい」
と手を出す。
その手へ、芍薬をのせて、
「左様なら」
彼女は、軒先から駒の背に乗って、ひらりと、被衣にすがたを包んだ。
「またいらっしゃいませ」
小茶ちゃんは見送ってから、旅籠の雇人たちに、白芍薬を見せびらかしたが、誰も、よい花だとも美しいともいってくれないので、やや失望しながら、武蔵の部屋へ持って来て、
「旦那はん、花お好き」
「花」
窓に頬づえをついて、彼は、小柳生城のほうを今も見つめていたのである。
(――どうしたらあの大身に接近できるか。どうしたら石舟斎に会えるか。また、どうしたら剣聖といわれるあの老龍に一撃与えることができるか)
を、遠心的な眼が、じっと考えつめていた。
「……ほ、よい花だな」
「好き」
「好きだ」
「芍薬ですって。――白い芍薬」
「ちょうどよい。そこの壺に挿しておくれ」
「あたいには挿せない。旦那はん挿して」
「いや、おまえがいいのだ。無心が却っていい」
「じゃあ、水を入れてくる」
小茶ちゃんは、壺をかかえて出て行った。
武蔵はふとそこへ置いて行った芍薬の枝の切り口に眼をとめて、小首をかしげた。何が彼の注意をひいたのか、じっと見ていた果てには手をのばし、それを寄せ、その花を見るのではなく、枝の切り口を飽かずに見ている。
「……あら、……あら、あら」
自分でこぼして歩く壺の水に、こう声をかけながら、小茶ちゃんは戻って来て、壺を床の間に置き、無造作に、それへ芍薬を入れてみたが、
「だめだア、旦那はん」
子ども心にも、不自然をさけぶ。
「なるほど、枝が長すぎるな。よし、持ってこい、ちょうどよく切ってやるから」
小茶ちゃんが抜いてくると、
「切ってあげるから、壺へ立てて、そうそう地に咲いているように、立てて持っておいで」
いわれる通り、小茶ちゃんは持っていたが突然、きゃッといって、芍薬を抛り捨て、脅えたように泣きだした。
無理のないことであった。
やさしい花の枝を切るのに武蔵の切り方は余り大げさであった。――それは眼に見えないほど早かったにせよ、いきなり前差の小刀へ手をかけたと思うと、ヤッ――とするどい声と、そして、刀をパチンとその鞘へ納める音と殆ど一緒に白い光が、小茶ちゃんの持っていた手と手のあいだを、通りぬけていたのである。
びっくりして彼女が泣き出しているというのに、武蔵は、それを宥めようとはせず、自分のした切り口と元の切り口と、二つの枝を両手に取って、
「ウーム……」
じっと、見くらべているのだった。
ややあって、武蔵は、
「ア、済まない、済まない」
泣きじゃくっている小茶ちゃんの頭を撫で、心をくだいて、謝ったり、機嫌をとったりして、
「この花は、誰が切って来たのか知らないか」
「もらったの」
「誰に」
「お城の人に」
「小柳生城の家中か」
「いいえ女の人」
「ふウム。……では城内に咲いていた花だの」
「そうだろ」
「悪かった、後でおじさんが菓子を買おう、今度はちょうどよい筈だから、壺へ挿してごらん」
「こう?」
「そうそう、それでよい」
おもしろいおじさんと馴ついていた武蔵が、小茶ちゃんは、刀の光を見てから、急に怖くなったらしい。それがすむとすぐ、部屋に見えなくなった。
武蔵は、床に微笑している芍薬の花よりも、膝の前に落ちている枝の根元七寸程の切れ端へ、まだ眼も心も奪われていた。
その元の切り口は、鋏で剪ったのでもないし、小刀とも思われない。幹は柔軟な芍薬のそれではあるが、やはり相当な腰の刀を用いて切ってあるものと武蔵は見たのである。
それも、生やさしい切り方ではないのだ。わずかな木口であるが切り人の非凡な手の冴えが光っている。
試みに、武蔵は、自分もそれに倣って腰の刀で切って見たのであるが、こう較べて、細やかに見ると、やはり違っている。どこがどうと指摘できないが、自分の切り口には、遥かに劣るものを正直に感じるのだった。――たとえば一個の仏像を彫るのに、同じ一刀を用いても、その一刀の痕には、明らかに、名匠と凡工の鑿のちがいが分るように。
「はてな?」
彼は、独り思う。
「城内の庭廻りの侍にすら、これほどな手腕のものがいるとすると、柳生家の実体は、世間でいう以上なものかも知れない」
そう考えてくると、
「誤っている、自分などはまだ所詮――」
と、謙遜った気持にもなるし、またその気持を乗りこえたものが、
「相手にとって不足のないものだ。敗れた時は、いさぎよく、彼の足もとへ降伏するまでだ。――だが、何ほどのことがあろう、死を期してかかるからには」
闘志を駆って、こう坐っているうちにも、全身が熱くなって来る。若い功名心が、脈々と、肋骨のうちに張りつめる。
――が、手段だ。
所詮、武者修行のお方には、石舟斎様は、お会いなされますまい。誰のご紹介をお持ちになろうと、お会いになる気づかいはありません――とは、この旅宿の主もいったことばである。
宗矩は不在、孫の兵庫利厳も遠国。――どうしても、柳生を打ってこの土地を通ろうというのには、石舟斎を目がけるほかはない。
「何かよい方法は?」
またそこへ考えが戻ってくると、彼の血のうちを駆けていた野性と征服慾は、やや落ちついたものへ返って、眼は、床の間の清純な白い花へ移っていた。
「…………」
何気なく見ているうちに、彼はふと、この花に似ている誰かを思い出していた。
――お通。
が久しぶりに、彼の、荒々しくのみ働いている神経と粗朴な生活の中に、彼女のやさしい面貌が浮かんできた。
小柳生城のほうへ、お通が、駒のひづめを軽そうに引っ返して行くと、
「やア――い」
雑木の茂っている崖の下から、誰か、こう自分へ向っていうらしい者がある。
「子ども」
とは、すぐ分っていたが、この土地の子どもは、なかなか若い女を見てからかうような勇気のある子はいない。――誰かと、駒を止めていると、
「笛吹きのお姉さん、まだいるの?」
真ッ裸な男の子だった。濡れた髪をして、着物は丸めて小脇にかかえ込んでいる。それが、臍もあらわに、崖から飛び上がって来て、
(馬になんか乗ってやがる)
と、軽蔑するような眼で、お通を仰ぐのだった。
「あら」
お通には、不意打だった。
「誰かと思ったら、おまえはいつか、大和街道でベソを掻いていた城太郎という子でしたね」
「ベソ掻いて? ――嘘ばっかりいってら、おら、あの時だって、泣いてなんかいやしねえぜ」
「それはとにかく、いつここへ来たの」
「この間うち」
「誰と」
「お師匠様とさ」
「そうそう、おまえは、剣術つかいのお弟子さんでしたね。――それが今日はどうしたの、裸になって」
「この下の渓流で、泳いで来たんだ」
「ま。……まだ水が冷たいだろうに、泳ぐなんて、人が見ると笑いますよ」
「行水だよ。お師匠様が、汗くさいっていうから、お風呂のかわりに入って来たのさ」
「ホホホ。宿は」
「綿屋」
「綿屋なら、たった今、私も行って来た家ですね」
「そうかい。じゃあ、おらの部屋へ来て、遊んでゆけばよかったな、もどらないか」
「お使いに来たのですから」
「じゃあ、あばよ」
お通はふり顧って、
「城太郎さん、お城へ遊びにおいで――」
「行ってもいいかい」
彼女は、愛嬌につい投げたことばに、ちょっと、自分で困りながら、
「いいけど、そんなかっこうじゃ駄目ですよ」
「じゃ嫌だよ。そんな窮屈なところへなんか、行ってやるもんか」
それで助かったような気がしてお通はほほ笑みながら、城内へ入った。
厩へ馬をもどし、石舟斎の草庵へ帰って、使い先のもようを話すと、
「そうか、怒ったか」
石舟斎は笑って、
「それでいい。怒っても、つかまえどころがあるまいからそれでいい」
といった。
しばらく経って、何かほかの話の折に思い出したのであろう。
「芍薬は、捨てて来たか」
と訊いた。
旅宿の小女に与えて来たというと、その処置にもうなずいて、
「だが、吉岡のせがれ伝七郎とかいう者、あの芍薬を、手には取って見たろうな」
「はい、お文を解く時」
「そして」
「そのまま突き戻しました」
「枝の切り口は見なかったか」
「べつに……」
「何も、そこに眼をとめて、いわなかったか」
「申しませんでした」
石舟斎は、壁へいうように、
「やはり会わんでよかった。会って見るまでもない人物。吉岡も、まず拳法一代じゃ」
荘厳といっていいほどな道場である、外曲輪の一部で、床も天井も、石舟斎が四十歳頃に建て直したという巨材だ。ここで研磨した人々の履歴を語るように、年月の古びと艶を出していて、戦時には、そのまま武者溜りとして使えるように広くもあった。
「軽いっ――太刀先ではないっ――肚っ、肚っ肚っ!」
襦袢一着に、袴をつけ、用人の庄田喜左衛門は、一段高い床に腰をかけて、呶鳴っていた。
「出直せっ、成っていない」
叱られているのは、やはり柳生家の家士であった。汗で眼まいのしている顔を、
「アふっ……」
振りうごかしながら、
「えやあっ!」
すぐ火と火のように打ち合っているのだった。
ここでは、初心に木剣を持たせなかった。上泉伊勢守の門で考案したという韜という物を使っている。革のふくろに割竹をつつみこんだ物である。鍔はない、革の棒だ。
――ぴしいッっ。
撲ることの烈しい場合は、それでも、耳が飛んだり、鼻が柘榴になったりする。敢えて、打ちどころに約束はないのである。横ざまに、諸足を撲ってぶっ仆してもいいのだ。仆れて仰向いた顔へ、さらに二撃を加えてもべつだん法に反いたことにはならない。
「まだ! まだ! そんなことで」
ヘナヘナになるまでやらせておく。初心ほどわざと冷酷にあつかう。ことばでも罵る。たいがいな家士は、これがあるので柳生家の奉公はなみなことではないといっている。新参などで続く者は稀れである。従って、ふるいにかけられた人のみが、家中なのだ。
足軽や厩者でも、柳生家の家人である者は、多少なり刀術の心得のない者はない。庄田喜左衛門は、役目は用人であるが、すでに早く新陰流に達し、石舟斎が研鑽して、家の流というところの柳生流の奥秘も会得していた。――そして、彼は彼で、自分の個性と工夫を加えて、
(おれのは、庄田真流である)
と、称していた。木村助九郎は、馬廻りであったが、これも上手だった。村田与三は、納戸役であるが、しかし、今は肥後へ行っている柳生家の嫡孫兵庫とは、好敵手だといわれた者である。出淵孫兵衛もここの一役人に過ぎないが子飼いからの者で、従って、豪壮な剣をつかう男だ。
(わしの藩へくれい)
と、その出淵は越前侯から、村田与三は、紀州家から、懇望されているくらいだった。
出来ると、世間に聞えると、諸国の大名から、
(あの男をくれぬか)
と、聟のように持ってゆかれるので、柳生家は、誉れであったが、困りもする。断ると、
(そちらでは、よい雛鳥がいくらでも後から孵るのだから)
などという。
時代の剣士は、今この古い砦の武者溜りから、無限に湧いて出るような家運であった。この家運のもとに奉公する侍が、韜と木剣で、たたきに叩き抜かれなければ一人前になれないことは、また当然な家憲でもあった。
「――なんじゃっ、番士」
ふいに、庄田が立って戸外の人影へいった。
番士のうしろには、城太郎が立っていた。庄田は、
「おや?」
と、眼をみはった。
「おじさん、今日は――」
「こら、なんで貴さま、お城へなど入って来たか」
「門にいた人に連れて来てもらったんだ」
城太郎の答えに無理はない。
「なるほど」
庄田喜左衛門は、彼を連れて来た大手門の番士に、
「なんだ、この小僧は」
「あなた様にお目にかかりたいと申すので」
「こんな小僧のことばを取り上げて、御城内へ連れて来てはいかん。――小僧」
「はい」
「ここはお前たちの遊びに来る場所ではない。帰れ」
「遊びに来たんじゃない。お師匠様の手紙をもって、使いに来たんだ」
「お師匠様の……。ははあ、そうか。おまえの主人は、武者修行だったな」
「見てください、この手紙」
「読まんでもいい」
「おじさん、字が読めないのかい?」
「なに」
苦笑して――
「ばかをいえ」
「じゃあ、読んだらいいじゃないか」
「こいつ、喰えん小僧だ。読まんでもいいというのは、たいがい、読まなくとも分っているという意味だ」
「わかっているにしても、一応は読むのが礼儀じゃないか」
「孑孑や蛆ほど多い武者修行に、いちいち礼儀を執っていられないことは許してくれ。この柳生家で、それをやっていたら吾々は毎日、武者修行のために奉公していなければならないことになる。――そういっては、せっかく使いに来たおまえに可哀そうだが、この手紙も、ぜひ一度、鳳城の道場を拝見させていただきたい、そして、天下様御師範のお太刀の影なりともよろしいから、同じ道に志す後輩のために、一手の御授業を賜わりたい……。まあ、そんなところだろうなあ」
城太郎は、まるい眼を、ぐるりと動かして、
「おじさん、まるで中を読んでるようなことをいうね」
「だから見たも同じだといっておるじゃないか。ただし、柳生家においても、何もそう訪ねてくる者を、素ッ気なく追い返すというわけではない」
噛んでふくめるように、
「――その番士に、教えてもらうがいい。御当家を訪れた一般の武者修行は、大手を通って、中門の右を仰ぐと、そこに、新陰堂と木額のかかっている建物がある。そこの取次の者へ申し入れると、休息も自由、また、一夜や二夜は泊めてあげる設備も出来ている。そして、世の後進のために、わずかながら、出立の折には、笠の代として、一封ずつの金を喜捨することにもなっている。だから、この手紙は、新陰堂の役人のほうへ持ってゆくがよろしい」
そう諭して、
「わかったか」
すると、城太郎は、
「わからない」
と、首を振って右の肩をすこし昂げ、
「おい、おじさん」
「なんじゃ」
「人を見てものをいいなよ。おれは、乞食の弟子じゃないぜ」
「ふム。貴さま……、ちょっと口がきけるの」
「もし、手紙を開けて見て、おじさんがいったことと、書いてある用向きと、まるで、違っていたらどうする?」
「むむ……」
「首をくれるかい」
「待て待て」
栗のイガを割ったように、喜左衛門は顎髯の間から、赤い口を見せて、笑ってしまった。
「首はやれん」
「じゃあ、手紙を見ておくれよ」
「小僧」
「なんだい」
「貴さまが、師の使命を恥かしめぬ心にめでて、見てつかわす」
「あたりまえだろ。おじさんは柳生家の用人じゃないか」
「舌は、絶倫だな。剣もそんなになればすばらしいが……」
いいながら封を切って、武蔵の手紙を黙読していたが、読み終ると、庄田喜左衛門は、ちょっと、怖い顔つきをした。
「城太郎。――この手紙のほかに、何か持って来たか」
「あ、忘れていた、これを」
ふところから、無造作に出したのである。それは、七寸ばかりの芍薬の切枝だった。
「…………」
黙然と、喜左衛門は、その両方の切り口を見くらべていたが、しきりと、小首をかしげるのみで、武蔵の書中にあることばの意味が、十分に、彼には解せないらしいのである。
武蔵の書面には、計らずも、宿の少女から芍薬の一枝をもらったこと。それが御城内のものであるということ。――次に、切り口を見て非凡なお方の切ったものと拝察したということ。
そう次第を書いて来て、
(花を挿け、その神韻を感じるにつけ、どなたがあれをお切りになったか、どうしても知りたい気がする。甚だ、つかぬことをお訊ね申すようであるが、御家中の誰方であるや、おさしつかえなくば、使いの童に、一筆お持たせねがいたい)
自分が、武者修行の者とも書いてない。試合の希望もいっていない。それだけの文意であった。
(ふしぎなことをいってくる)
喜左衛門は、そう思って、一体どう切り口が違っているかを、まず審さな眼で検めてみたが、どっちがどう先に切ってあるのか、どこに相違があるのか、見出せないのだ。
「村田」
その手紙と、切枝とを、彼は道場の内へ持って入って、
「これを見ろ」
と示した。そして、
「一体、この枝の両端の切り口が、どっちがそんな達人の切ったもので、また、どっちが、より劣った切り口になっているか、貴公の眼で鑑わけがつくか」
村田与三は、睨むように、かわるがわる見ていたが、
「わからぬ」
吐き出すようにいった。
「木村に見せてみよう」
奥へ入って、お役部屋をのぞいてゆき、木村助九郎を見つけて同じように意見を訊くと、木村も、
「さてなあ」
不審とするばかりだった。
だが、いあわせた出淵孫兵衛のことばによると、
「これは一昨日、大殿が手ずからお切りになったものだ。――庄田殿は、その折おそばにいたはずではないか」
「いや、花をお挿けになっているのは見たが」
「その時の一枝だ。――それをお通が、殿のいいつけで、吉岡伝七郎の許へ、お文を結びつけて携えて行ったもの」
「オ。あれかな?」
喜左衛門はそういわれて、もいちど、武蔵の手紙を読み直した。こんどは、愕然と眼を革めて、
「御両所、ここには、新免武蔵と署名しあるが、武蔵といえば、先頃、宝蔵院衆と共に般若野で多くの無頼者を斬ったという――あの宮本武蔵とは別人だろうか」
――武蔵とあれば、多分、そうだろう、あの武蔵にちがいあるまい。
出淵孫兵衛も、村田与三も、そういって、手から手へ、再度、手紙を渡して読み直しながら、
「文字にも、気稟がみえる」
「人物らしいな」
と、呟いた。
庄田喜左衛門は、
「もし、この手紙にある通り、ほんとに、芍薬の枝の切り口を一見して、非凡と感じたのなら、これはおれたちより少し出来る。――大殿が手ずから切ったものだから、或は、まったく鑑る者が鑑れば違っているのかも知れないからな」
「むム……」
出淵は、ふいに、
「会ってみたいものだな。――それも一つ糺してみようし、また、般若野のことなども、訊いてみるもよかろう」
喜左衛門は思い出して、
「使いに来た小僧が、待っておるのだ。――呼んでみるかの」
「どうじゃ」
独断ではというように出淵孫兵衛は、木村助九郎に計ってみる。助九郎がいうには、今はすべての武者修行に授業を断っている折だから道場の客としては迎えられない。しかしちょうど、中門の上の新陰堂の池の畔には、燕子花がさいているし、山つつじの花もぼつぼつ紅くなっている。そこに、酒でも設けて、一夕、剣談を交わそうとあれば、彼もよろこんで来るであろうし、大殿の耳へ入っても、それならばお咎めはなかろうではないか。
喜左衛門は、膝を打って、
「それはよいお考えだ」
村田与三も、
「自分たちに取っても一興、さっそく、そう返事をやろうではないか」
と、話は決まる。
――戸外では、城太郎、
「アアア……遅いなあ」
欠伸をしていたが、やがて、彼のすがたを嗅いで、のっそり寄って来た大きな黒犬を見ると、こいつよい友達と、
「やい」
耳をつかんで引き寄せ、
「すもうを取ろう」
抱きついて、引っくり転した。
よく自由になるので、二、三度手玉にとって抛ったり、上顎と下顎を手で抑えて、
「わんといえ」
そのうちに、何か、犬の癇に触ったことがあるとみえ、いきなり城太郎のすそへ噛みついて、犢のように唸りだした。
「こいつ、おれを誰だと思う」
木刀に手をかけて、彼が見得を切ると、犬は、喉を太くして、猛然と、小柳生城の兵を奮い起たすような声で吠えだした。
こつうんッ――
と、木剣が一つ、犬のかたい頭に石を打ったような音をさせると、猛犬は、城太郎の背へかぶりつき帯を咥えて、彼の体を振り飛ばした。
「生意気なっ」
彼の起つより、犬のほうが遥かに迅かった。ギャッと、城太郎は、両手で顔を抑えた。
そして、逃げ出すと、
わ、わ、わ、わんッ
猛犬のほえる谺は、後ろの山を揺るがした。顔を抑えている両手の指のあいだから血がながれて来たので、城太郎は、逃げ転びながら、
「わアん――」
と、これも犬に負けない大声をあげて、泣き出してしまった。
「行って参りました」
帰って来ると、城太郎は取り澄ました顔つきで、武蔵の前にかしこまった。
武蔵は、何げなく彼の顔を見て驚いた。碁盤の目みたいに顔中が傷でバラ掻きになっている。鼻なども、砂の中に落ちた苺みたいに血だらけなのだ。
さぞ鬱陶しいことだろうし、痛くもあろうに、それについては、城太郎がちっとも触れないので、武蔵も何も問わなかった。
「返事をよこしたよ」
庄田喜左衛門の返事をそこへさし出して、ふた言三言、使い先の様子を話していると、顔からぼとぼと血がながれてくる。
「ハイ。それだけです、もうよございますか」
「ご苦労だった」
武蔵が、喜左衛門の返書へ眼を落している間に、彼は、両手で顔を抑えて、あわてて部屋の外へ去った。
小茶ちゃんが、後ろから尾いて来て、心配そうに彼の顔をのぞいた。
「どうしたの、城太郎さん」
「犬にやられたんだ」
「ま、どこの犬」
「お城の――」
「アア、あの黒い紀州犬。あの犬じゃ、いくら城太郎さんでもかなうまいよ。いつかも、お城の中へ忍び込もうとした他国の隠密の者が噛み殺されたというくらいな犬だもの」
いつも虐められているくせに、小茶ちゃんは親切に、彼を導いて、裏の流れで顔を洗わせたり、薬を持って来て付けてやったりするので、今日ばかりは城太郎も悪たれをたたかず、彼女のやさしい親切に甘えて、
「ありがと。ありがと」
くり返して、頭ばかり下げていた。
「城太郎さん、そんなに、男のくせに、安ッぽく頭を下げるものじゃないわ」
「だって」
「喧嘩しても、あたし、ほんとは城太郎さんが好きなんだもの」
「おらだって」
「ほんまに」
城太郎は、膏薬と膏薬のあいだの顔の皮膚を真っ赤にさせた。小茶ちゃんも火みたいな顔をして、その頬ぺたを両手で押えた。
誰もいなかった。
そこらに乾いている馬糞から陽炎が燃えている。そして、緋桃の花が太陽からこぼれて来た。
「でも、城太郎さんの先生は、もうすぐここを立つんだろ」
「まだいるらしいよ」
「一年も二年も泊っているとうれしいんだけど……」
馬糧小屋の馬糧の中へ、二人は仰向けになって転がった。手と手だけは繋いでいた。体が納豆のように蒸れて来ると、城太郎は物狂わしく小茶ちゃんの指へいきなり噛みついた。
「ア痛っ」
「痛かった。ごめん」
「ううん、いいの、もっと噛んで」
「いいかい」
「アア、もっと噛んで、もっと強く噛んで――」
犬ころみたいに、二人は、馬糧を頭からかぶって、喧嘩のように抱き合っていた。どうするでもなく抱擁をもだえ合っていた。すると、小茶ちゃんを探しに来た爺やが、呆れ果てたように眺めていたが、突然、道徳の高い君子のような顔をして、
「この阿呆っ。餓鬼のくせに、何して居さらすっ」
ふたりの襟くびをつかんで引きずり出し、小茶ちゃんのお尻を、二ツ三ツ打った。
その日から翌る日へかけ、二日のあいだというもの、武蔵は何を考えているのか殆ど口もきかずに腕を拱いていた。
沈湎たるその眉を見て、城太郎はひそかに怖れをなした。馬糧小屋の中で小茶ちゃんと遊んだことが分ったのではないかと思って――
ふと、夜半に、目をさまして、そっと首を出して見た時も、武蔵は、夜具の中に眼をあいて、おそろしい程、考えつめた顔つきをして、天井を見つめていた。
「城太郎、帳場の者に、すぐ来てくれと申してこい」
次の日の黄昏れが窓に迫って来た頃である。あわてて城太郎が出てゆくと、入れ代って、綿屋の手代が入って来た。間もなく、勘定書が届けられ、武蔵はその間に、出立の身支度をしているのだった。
「お夕飯は」
と、宿の者が訊きに来ると、
「いらぬ」
という彼の返事。
小茶ちゃんは、ぼんやり部屋の隅に立っていたが、やがて、
「旦那はん、もう、今夜は、此宿へ帰って寝ないの」
「ウム。長い間、小茶ちゃんにもお世話になったな」
小茶ちゃんは、両方の肱を曲げて、顔をかくした。泣いているのである。
――ご機嫌よう。
――どうぞお気をつけて。
綿屋の番頭や女たちは、門口に並んで、この山国をどういうつもりか黄昏れに立つ旅人へ、人里の声を送った。
「? ……」
そこの軒を離れてから後ろを見ると、城太郎が従いて来ないので、武蔵はまた、十歩ほど引っ返して、彼の姿をさがした。
綿屋の横の蔵の下に、城太郎は小茶ちゃんと別れを惜しんでいた。武蔵の影を見たので二人はあわてて側を離れて、
「……左様なら」
「……あばよ」
城太郎は、武蔵のそばへ駈けて来て、武蔵の眼を怖れながら、時々振りかえった。
柳生谷の山市の灯は、すぐ二人の後ろになった。武蔵は相かわらず黙々と足をすすめているだけであった。振り顧っても、もう小茶ちゃんの姿が見えないので、城太郎も悄ンぼりと従いてゆくほかはない。
やがて武蔵から、
「まだか?」
「何処」
「小柳生城の大手門は」
「お城へ行くの」
「うむ」
「今夜はお城で泊るのかい」
「どうなるか、わからんが」
「もうそこだよ、大手門は」
「ここか」
ぴたと、足を揃えて、武蔵は立ちどまった。
苔につつまれた石垣と柵の上に、巨木の林が海のように鳴っていた。そこの真っ暗な多門型の石塀のかげに、ポチと、四角な窓から明りが洩れている。
声をかけると、番士が出て来た。庄田喜左衛門からの書面を見せ、
「お招きによって罷り越した宮本と申す者でござる。――お取次を」
番士は、もう今夜の客を知っていた。取次ぐまでもなく、
「お待ちかねでござる、どうぞ」
と、先に立って、外曲輪の新陰堂へ、客を導いて行った。
ここの新陰堂は、城内に住む子弟たちが儒学を受ける講堂でもあり、また藩の文庫でもあるらしく奥へゆく通路の廊架側には、どの室にも、壁いっぱい書物の棚が見うけられる。
「柳生家といえば、武名だけで鳴っているが、武ばかりではないと見える」
武蔵は、城内を踏んで、柳生家というものの認識に、想像以上な厚味と歴史を感じるのだった。
「さすがに」
事ごとに頷かれるのである。
たとえば、大手からここまでの間の清掃された道を見ても、応対する番士のもの腰でも、本丸のあたりの厳粛なうちにも和やかな光のある燈火をながめても。
それはちょうど、一軒の家を訪れて、その家の上がり口に履物をぬぐとたんに家風と人とがほぼ分るようである。武蔵は、そうした感銘もうけながら、通された広い床へ坐った。
新陰堂には、どの部屋にも、畳というものは敷いてなかった。この部屋も板敷である、そして、客なる彼へは、
「どうぞ、おあてなされ」
と小侍が藁で編んである円座という敷物をすすめた。
「頂戴する」
遠慮なく、武蔵はそれを取って坐った。従僕の城太郎は、勿論、ここまでは通らない。外の供待でひかえている。
小侍がふたたび出て、
「今宵は、ようこそお越し下さいました。木村様、出淵様、村田様みなお待ちかねでございましたが、ただ庄田様のみが、生憎と突然な公用で、ちと遅なわりまするが、やがてすぐ参られますゆえ、暫時お待ちのほどを」
「閑談の客でござる、お気づかいなく」
円座を、隅の柱の下へ移して、武蔵はそこへ倚りかかった。
短檠の明りが、庭先へ届いている。どこかで甘いにおいがするなと思って見ると、藤の花がこぼれているのである。紫もある白藤もある。ふと珍しく思ったのは、ここで初めてまだ片言の今年の蛙の声を聞いたことである。
せんかんとそこらあたりを水が駈けているらしい。泉は床下へも通っているとみえ、落着くに従って、円座の下にもさらさらと流れの音が感じられる。やがては、壁も天井も、そして一穂の短檠の灯までが、水音を立てているのではないかと疑われるほど、武蔵は冷々とした気につつまれた。
だが――その寂寞たる中にあって、彼のからだの裡には、抑えきれないほど沸きあがっているものがあった。熱湯のような争気を持つ血液である。
(柳生が何か)
と隅柱の円座から睥睨しているところの気概である。
(彼も一箇の剣人、われも一箇の剣人。道においては、互角だ)
と思い、また、
(いや今宵は、その互角から一歩を抜いて、柳生を、おれの下風にたたき落してみせる)
彼は信念していた。
「いや、お待たせ申して」
と、その時、庄田喜左衛門の声がした。ほかの三名も同席して、
「ようこそ」
と挨拶の後、
「それがしは、馬廻り役木村助九郎」
「拙者は、納戸方村田与三」
「出淵孫兵衛でござる」
と順々に名乗り合った。
酒が出る。
古風な高坏に、とろりと粘るような手造りの地酒。肴は、めいめいの前の木皿へ取り分けられてある。
「お客殿、こんな山家のことゆえ、何もないのです。ただ、寛いでどうぞ」
「ささ、遠慮なく」
「お膝を」
四名の主人側は、一人の客に対して飽くまでいんぎんであって、また飽くまで打ち解けて見せる。
武蔵は酒はたしなまない。嫌いなのではなく、まだ酒の味というものが分らないのである。
しかし、今夜は、
「頂戴する」
めずらしく杯を取って舐めてみた。まずいとは思わないが、格別にも感じない。
「おつよいと見える」
木村助九郎が、瓶子を向ける。席が隣なのでぽつぽつ話しかけるのであった。
「貴君から先日お訊ねのあった芍薬の枝ですな。あれは実は、当家の大殿がお手ずから切ったものだそうです」
「道理で、お見事なわけ」
と、武蔵は膝を打った。
「――しかしですな」
と、助九郎は膝をすすめ、
「どうして、あんな柔軟な細枝の切り口を見て、非凡な切り手ということが貴君には分りましたか。そのほうが、吾々には、むしろ怪訝しいのですが」
「…………」
武蔵は、小首をかしげて、答えに窮するもののように黙っていたが、やがて、
「左様でござろうか」と、反問した。
「そうですとも」
庄田、出淵、村田の三名も、異口同音に、
「吾々には、分らない。……やはり非凡は非凡を識るというものか。そこのところを、後学のために、こよいは一つ説明していただきたいと思うのですが」
武蔵は、また一つ杯をふくみ、
「恐縮です」
「いや、ご謙遜なさらずに」
「謙遜ではござらぬ。有り態に申して、ただ、そう感じたというだけに過ぎませぬ」
「その感じとは?」
柳生家の四高弟は、ここを追及して、武蔵の人間を試そうとするもののようであった。最初、一瞥したとたんに、四高弟はまず、武蔵の若年なのをちょっと意外としたらしい。次には、その逞しい骨格に目がついた。眼ざしや身ごなしにも弛みがないと感服した。
けれど、武蔵が酒を舐めると、その杯の持ちようや箸のさばき、何かにつけ、粗野が目について、
(ははあ、やはり野人だ)
つい書生扱いになり、従って、幾分軽んじてくる傾きがあった。
たった三杯か四杯かさねただけなのに、武蔵の顔は、銅を焼いたように火てりだし、始末に困るように、時々手を当てた。
その容子が、処女みたいなので四高弟は笑った。
「ひとつ、貴君のいうところの感じとは、どういうものか、お話し下さらんか。この新陰堂は、上泉伊勢守先生が、当城に御滞在中、先生のため御別室として建てたもので、剣法に由縁のふかいものなのです。こよい武蔵どのの御講話を拝聴するにも、最もふさわしい席と思うが」
「困りましたな」
武蔵はそういうだけであった。
「――感覚は感覚、どういっても、それ以外に説きようはごさらぬ。強いて目に見たく思し召すなら、太刀を把って、私をお試しくださるほかはない」
何とかして石舟斎へ近づく機縁をつかみたい、彼と試合してみたい、兵法の大宗といわれる老龍を自己の剣下にひざまずかせてみたい。
自己の冠に、大きな勝星を一つ加えることだ。
――武蔵来り、武蔵去る。
と記録的な足痕を、この土地へのこすことだ。
彼の旺な客気は今、その野望で満身を燃やしながらここに坐っている。しかもそれを現わさずにである。夜も静か、客も静かな裡にである。短檠の光は時折、烏賊のような墨を吐き、風の間に、どこかで片言の初蛙が鳴く。
庄田と出淵は、顔を見あわせて何か笑った。武蔵が今いったことば――
(――強いて目に見たく思し召すなら、私をお試しくださるほかはない)
これは穏かのようだが、明らかに戦闘を挑むものだ。出淵と庄田は、四高弟のうちでも年上だけに、早くも武蔵の覇気を観てとって、
(豎子、何をいうか)
と、その若気を苦笑するもののようであった。
話題は一つところにとどまらない。剣の話、禅の話、諸国のうわさ話、わけても関ヶ原の合戦には、出淵も、庄田も、村田与三も主人について出たので、その折、東軍と西軍との敵味方であった武蔵とはひどく話に実が入って、主人側もおもしろげに喋べり出し、武蔵も興に入って話に耽ける。
徒に、刻は過ぎ――
(今夜をおいて、二度と、石舟斎へ近づく機会はない)
思いめぐらすうちに、
「お客、麦飯でござるが」
と、酒をひいて、麦飯と汁とが出される。
それを喰べつつも、
(どうしたら彼に)
武蔵は、他念がない。そして思うには、
(所詮、尋常なことでは接近できまい。よし!)
彼は、自分でも下策と思う策を取るほかなかった。つまり相手を激させて、相手を誘い出すことだ。しかし、自分を冷静において、人を怒らせることは難しい。武蔵は、故意に、暴論を吐いてみたり、無礼な態度を見せたりしたが、庄田喜左衛門も出淵も笑って聞き流すだけである。くわっと乗って来るような不覚はこの四高弟のうちにはない。
武蔵は、やや焦心った。これで帰ることが無念だった。自分の底の底までを見透かされてしまった気がする。
「さ、寛ごう」
食後の茶になると、四高弟は、円座を思い思いの居心地へ移して、膝を抱えるのもある。あぐらを組む者もある。
武蔵だけは、依然として、隅柱を負っていた。つい無口になる。怏々として楽しまないものが胸を占めて霽れないのだ。勝つとは限らない、撃ち殺されるかも知れない。――それにしても石舟斎と試合わずしてこの城を去るのは生涯の遺憾だと思う。
「やっ?」
ふいにその時、村田与三が縁へ起って、暗い外へつぶやいた。
「太郎が吠えている。ただの吠え方ではない。何事かあるのではあるまいか」
太郎とはあの黒犬の名か、なるほど、二の丸のほうで怖ろしく啼き立てている。その声が、四方の山の谺を呼んで、犬とも思えない凄さであった。
犬の声は、容易にやまない。凡事とも思えない吠え方なのである。
「何事だろう? 失礼だが、武蔵どの、ちょっと中座して見て参ります。――どうぞごゆるりと」
席を外して、出淵孫兵衛が出てゆくと、村田与三も、木村助九郎も、
「暫時、ごめんを」
と各

遠い闇の中に、犬の声は、いよいよ、何か主人へ急を告げるように啼きつづけていた。
三名が去った後の席は、その遠吠えがよけいに凄く澄んで聞え、白けわたった燭の明りに、鬼気がみなぎっていた。
城内の番犬が、こう異様な啼き声を立てるからには、何か城内に異変があったものと考えなければならぬ。今、諸国ともにやや泰平のようでもあるが、決して隣国に気はゆるせたものではない。いつどんな梟雄が立って、どんな野心を奮い起さない限りもないのだ。乱波者(おんみつ)はどこの城下へも入りこんで、枕を高くして寝ている国をさがしているのだ。
「はての?」
独りそこに残っている主人側の庄田喜左衛門も、いかにも不安そうであった。何となく、火色の凶い短檠の灯を見つめて、陰々滅々と谺する犬の声をかぞえるように聴き耳をたてていた。
そのうちに、一声、けえん! と怪しげな啼き方が尾を曳いて聞えると、
「あっ」
喜左衛門が、武蔵の顔を見た。
武蔵もまた、
「あっ……」
と、微かな声を洩らし、同時に、膝を打っていった。
「死んだ」
すると、喜左衛門も共に、
「太郎め、殺られおった」
といった。
二人の直感が一致したのである。喜左衛門はもう居堪まらないで、
「解せぬこと」
と、席を立った。
武蔵は何か思い当ることがあるもののように、
「私の連れて参った城太郎という僕童は、そこに控えておりましょうか」
と、新陰堂の表の部屋にいる小侍に向ってたずねた。
そこらを捜しているらしく、しばらくたってから、小侍の返辞が聞えた。
「お下僕は、見えませぬが」
武蔵は、ハッとしたらしく、
「さては」
と、喜左衛門へ向い、
「ちと心懸りな儀がござる。犬の斃れておる場所へ参りたいと思いますが、ご案内下さるまいか」
「おやすいこと」
喜左衛門は、先に立って、二の丸のほうへ走った。
例の武者溜りの道場から一町ほど離れている場所だった。四、五点の松火の明りがかたまっていたのですぐ分った。先に出て行った村田も出淵もそこにいた。そのほか集まって来ていた足軽だの、宿直の者だの、番士たちだのが、真っ黒に垣をなして何か騒々いっているのだった。
「お!」
武蔵は、その人々のうしろから、松火の明りが円い空地を作っている中をのぞいて、愕然とした。
案のじょう、そこに突っ立っていたのは鬼の子のように、血まみれになっている城太郎であった。
木剣を提げ、歯を食いしばり、肩で息をつきながら、自分をとり囲んでいる藩士たちを、白い眼で睨みつけている。
その側には、毛の黒い紀州犬の太郎が、これも、無念な形相をして、牙を剥き出し、四肢を横にして斃れているのだった。
「? ……」
しばらくものをいう者もなかった。犬の眼は、松火の焔に向って、くわっと開いているけれど、口から血を吐いているところを見ると、完全に死んでいるのである。
唖然として、そこの有様に眼をみはっていたが、やがて誰かが、
「オオ、ご愛犬の太郎だ」
うめくように呟くと、
「こいつ奴」
いきなり一人の家臣は、茫然としている城太郎のそばへ行き、
「おのれかッ、太郎を撃ち殺したのは」
ぴゅっと掌のひらが横に唸った。城太郎はその掌が来る咄嗟に顔を交わして、
「おれだ」
と、肩を昂げて叫んだ。
「なぜ撃ち殺した?」
「殺すわけがあるから殺した」
「わけとは」
「かたきをとったんだ」
「なに」
意外な面持ちをしたのは、城太郎に立ち向っているその家臣だけでなかった。
「たれのかたきを?」
「おれのかたきをおれが取ったんだ。おととい使いに来た時、この犬めが、おれの顔をこの通りに引っ掻いたから、今夜こそ撃ち殺してやろうと思って、捜していると、あそこの床下に寝ていたから、尋常に勝負をしろと、名乗って戦ったんだ。そしておれが勝ったんだ」
彼は、自分が決して卑怯な決闘をしたのではないということを、顔を赤くして力説するのだった。
しかし、彼を咎めている家臣や、この場のことを重大視している人々は、犬と人間の子の果し合いが問題ではないのである。人々が憂いや怒りをふくむ所以は、この太郎と呼ぶ番犬は、今は江戸表にある主人の但馬守宗矩が、ひどく可愛がっていた犬でもあり、殊に、紀州頼宣公が愛している雷鼓という牝犬の児を、宗矩が所望して育てたという素姓書もある犬なのであった。――それを撃ち殺されたとあっては、不問に付しておくわけにゆかない。禄を食んでいる人間が二名もこの犬の係としてついているのでもある。
今、血相をかえて、城太郎へ向って、背すじを立てている家臣が、即ちその太郎付の侍なのであろう。
「だまれっ」
また一拳を彼の頭へ見舞った。
こんどは交わし損ねて、その拳が城太郎の耳の辺をごつんと打った。城太郎の片手がそこを抑え、河ッ童あたまの毛がみな逆立ッた。
「何するんだ!」
「お犬を撃ち殺したからには、お犬のとおりに打ち殺してくれる」
「おれは、このあいだの、返報をしたんだ。返報のまた返報をしてもいいのか。大人のくせにそれくらいな理窟がわからないのか」
彼としては、死を賭して、やったことだ。侍の最大な恥は面傷だというその意気地を明らかにしたのだ。むしろ、誉められるかとさえ思っているかも知れないのである。
だから、太郎付の家臣が、いくら咎めようと怒ろうと、彼としては怯まないのだ。かえってその由謂れのないことを憤慨して、反対に喰ってかかった。
「やかましいっ。いくら童でも、犬と人間のけじめがつかぬ年ごろではあるまい。犬に仇討ちをしかけるとは何事だ。――処分するぞっ、こらっ、お犬のとおりに」
むずと城太郎の襟がみをつかんで、その家臣は、初めて周りの人々へ眼をもって、同意を求めた。自己の職分として、当然にすることを宣言するのであった。
藩士たちは、黙ってうなずいた。四高弟の人々も、困った顔いろはしていたが黙っていた。
――武蔵も黙然と見ていた。
「さっ、吠えろ小僧」
二、三度襟がみを振廻されて、眼がくらくらとした途端に、城太郎は大地へ叩きつけられていた。
お犬の太郎付の家臣は、樫の棒を振りかぶって、
「やいっ童。おのれがお犬を撃ち殺したように、お犬に代って、おのれを撃ち殺してやるから起て。――きゃんとでもわんとでも吠えて来い、噛みついて来いっ」
急に起てないのであろう、城太郎は歯をくいしばって、大地へ片手をついた。そして徐々に、木剣と共に体を起すと、子供とはいえ、その眼はつり上がって死を決し、河ッ童あたまの赤い毛は、怒りに逆立って、こんがら童子のような凄い形相を示した。
犬のように、彼は唸った。
虚勢ではない。
彼は、
(おれのしたことは正しくて間違っていない)
と信じているのである。大人の激憤には、反省もあるが、子供がほんとに憤ると、それを生んだ母親でさえ持てあますものだ。まして、樫の棒を見せられたので、城太郎は、火の玉のようになってしまった。
「殺せっ、殺してみろっ」
子供の息とも思えない殺気であった。泣くが如く呪うが如く、こう彼がわめくと、
「くたばれッ」
樫の棒は唸りを呼んだ。
一撃のもとに、城太郎はそこへ死んでいる筈である。カツンという大きな響きがそれを人々の耳へ直覚させた。
――武蔵は、実に冷淡なほど、なおもその際まで、黙然と腕ぐみしたまま、傍観していた。
ぶん――と城太郎の木剣は、その時、城太郎の手から空へ吹き飛ばされていたのであった。無意識に彼は、最初の一撃をそれで受けたのであったが、当然、手のしびれに離してしまったものらしく、次の瞬間には、
「こん畜生」
眼をつぶって、敵の帯際へ噛ぶりついていた。
死にもの狂いの歯と爪は、相手の急所を制して離さなかった。樫の棒は、そのために、二度ほど空を払った。子供と侮ったのがその者の不覚なのである。それに反して城太郎の顔つきは絵にも描けないほど物凄かった。口を裂いて敵の肉を食いこみ、爪は衣を突きぬいていた。
「こいつめッ」
するとまた一本、べつな樫の棒が現われ、そうしている城太郎の背後から、彼の腰を狙って、撲り下ろそうとした時である。武蔵は初めて腕を解いた。石垣のようにじっと固くなっていた人々の間から、ついと進み出したのが、はっと感じる間もないくらいな行動であった。
「卑怯」
二本の脚と棒が宙へ輪を描いたと思うと、どたっと鞠みたいな物が二間も先の大地へ転がった。
その次には、
「この悪戯者めが」
と、叱りながら、城太郎の腰帯へ諸手をかけて、武蔵は、自分の頭の上に、高々と差し上げてしまった。
そしてまた、咄嗟に棒を持ち直している太郎付の家臣に向い、
「最前から見ておるが、すこしお取調べに手落ちがあろう。これは、拙者の下僕でござるが、貴公たちは、そもそも、罪を、この小童に問われるつもりか、それとも主人たる拙者に問うつもりか」
すると、その家臣は、激越にいい返した。
「いうまでもなく、双方に糺すのじゃ」
「よろしい。然らば、主従二人して、お相手いたそう。それっ、お渡しするぞ」
ことばの下に、城太郎の体は、相手の姿へ向って抛り投げられた。
先刻から、周囲の人々は、
(彼は何を血迷っているのか。自分の下僕であるあの小童を、頭上に差し上げて、あれを一体どうするつもりだろう?)
武蔵の仕方に眼をみはり、武蔵の心を忖度りかねていたらしい。
すると、諸手にさしあげていた城太郎のからだを、武蔵が、宙天から落すように相手の者へ向って抛りつけたので、
「あっ――」
人々は、そこを広くして、思わず後ろへ跳び退いた。
人間をもって人間へ打つける。余りにも無茶な――意外な――武蔵の仕方に気をのまれてしまったのである。
武蔵に抛られた城太郎は、天から降って来た雷神の子みたいに、手も足もちぢめ、まさかと油断して突っ立っていた相手の胸のあたりへ、
「わっ」
ぶつかったのである。
顎を外したように、
「ぎぇッ」
異様な声をあげると、その者の体は、城太郎の体と重なって、立ててある材木を離したように、直線にうしろへ倒れた。
したたかに、大地へ、後頭部でも打ったのか、城太郎の石頭が、ぶつけた途端に先の肋骨をくだいたのか、とにかく、ぎぇッといった声をさいごに、太郎付のその家臣は唇から血を噴いてしまったが、城太郎の五体はその胸の上で一ツとんぼ返りを打ったと思うと、そのまま二、三間先まで、鞠のように転がって行った。
「や、やったなっ」
「どこの素浪人」
これはもう太郎付の役であると否とにかかわらず、周りにいた柳生家の家臣たちが、こぞって罵り出した雑言だった。こよい四高弟の者が、客として招いた宮本武蔵とよぶ人間であることをはっきり知っていた者は少ないのであるから、さしずめ、そんなふうに見て、殺気立ったのも無理ではないのである。
「さて――」
武蔵は、向き直った。
「各

何を、彼はいおうとするのか。
すさまじい血相をもって、城太郎が取り落したところの木剣をひろい、それを右手にさげて、
「小童の罪は、主人の罪、どうなりと、ご処罰を承ろう。ただし、それがしも、城太郎も、いささか剣をもって侍の中の侍をもって任じている者にございますゆえ、犬のごとく棒をもって撃ち殺されるわけには参りかねる。一応お相手つかまつるから左様ご承知ねがいたい」
これでは罪に伏すのではなくて、明らかな挑戦だ。
ここで一応、武蔵が、城太郎に代って、謝罪と陳弁をつくして藩士たちの感情を極力なだめることに努めれば、或は、何とか穏やかに納まりがついたろうし、また、先ほどから口を挟みかねていた四高弟の輩も、
(まあ、まあ)
と、相互のあいだにはいる機会もあったろうが、武蔵の態度は、あたかもそれを拒み、かえって、自分のほうから事件の葛藤を好んでいるように見えるので、庄田、木村、出淵などの四高弟は、
「奇怪な」
眉をひそめて、彼の態度をひどく憎むもののように、端へ避って、じっと、鋭い眼をそろえて、武蔵を見まもっていた。
もちろん、武蔵の暴言には、四高弟のほか、そこにいる面々は皆、尠からず、激昂した。
彼の何者であるかを知らないし、また彼の意中を測れない柳生家の諸士は、それでなくても、火になりたがっていた感情へ油をそそがれて、
「なにをッ」
誰とはなく、武蔵へ応じ、
「不逞な奴っ」
「どこぞの諜者だろう、縛ってしまえ」
「いや、斬ッちまえ」
また――
「そこを去らすなっ」
前後からこうひしめいてまさに彼の身は、彼の手に抱え寄せられている城太郎と共に、白刃の中に隠されてしまうかと見えた。
「あッ待てっ」
庄田喜左衛門であった。
喜左衛門がそう叫ぶと、村田与三も、出淵孫兵衛も、
「あぶないっ」
「手を出すな」
四高弟の者は初めて、こう積極的に出て、
「退け退け」
と、いった。
「ここは、吾々にまかせろ」
「各


そして――
「この男には、何か画策があると観た。うかと、誘いに釣り込まれて、負傷を出しては、御主君に対し吾々の申し開きが立たぬ。お犬のことも、重大事には相違ないが、人命はより貴重なものだ。その責任も、吾々四名が負うもので、決して、貴公たちに迷惑はかけぬから、安堵して、立ち去るがよい」
程経て後のそこには、最前新陰堂に坐っていた客と主人側だけの頭数だけが残っていた。
けれど、今はもう、主客のあいだがらは一変して、狼藉者と裁く者との、対立である。敵対である。
「武蔵とやら、気の毒ながらそちらの計策は破れたぞ。――察するに、何者かに頼まれ、この小柳生城を探りに来たか、或は御城内の攪乱を目論んで来たものに違いあるまい」
四名の眼は、武蔵をかこんで詰めよるのであった。この四名のどの一人でも達人の域に達していないものはないのである。武蔵は、城太郎を小脇に庇いながら、根が生えたように、同じ位置に立っているのであったが、仮に今、この場を脱しようと考えても、それは身に翼を持っていても、こう四名の隙を破って逃げ去ることは難しいだろうと思われた。
出淵孫兵衛が、次に、
「やよ、武蔵」
鯉口を切った刀の柄を、やや前へせり出して、構え腰をしていった。
「事破れたら、いさぎよう自決するのが武士の値打だ。小柳生城の中へ、童ひとりを連れて、堂々と、入り込んでござった不敵さは、曲者ながらよい面がまえ。それに、一夕の好誼もある。――腹を切れ、支度のあいだは待ってやろう。武士はこうぞという意気を見せられい」
それで、すべてが解決できると四高弟の方では考えていた。
武蔵を招いたことが、そもそも、主君へは無断のことであったから、彼の素姓目的も、不問のまま闇の出来事として、葬り去ろうという意思らしいのだ。
武蔵は肯じない。
「なに、この武蔵に腹を切れといわれるか。――馬鹿なっ、馬鹿なことを」
昂然と、肩を揺すって彼は笑った。
飽くまでも、武蔵は相手の激発を挑むのであった。闘争を仕かけるのであった。
なかなか感情をうごかさなかった四高弟の者も、遂に、眉に険をたたえ、
「よろしい」
ことばは静かだか、断乎とした気をふくんでいった。
「こちらが、慈悲をもって申しておれば、つけ上がって」
出淵のことばにつづいて、木村助九郎が、
「多言無用」
武蔵の背へ廻って、
「歩めっ」
背を突いた。
「何処へ?」
「牢内へ」
――すると武蔵はうなずいて歩きだした。
しかしそれは自分の意思のままに運んでゆく足であって、大股に本丸のほうへ近づいて行こうとするのである。
「何処へ行く?」
ぱっと助九郎は先へ廻って、武蔵のまえに両手をひろげ、
「牢は、こちらでない。後へもどれ」
「もどらん」
武蔵は、自分の側へ、ひたと貼りついたようにしている城太郎へ向い、
「おまえは、彼方の松の下にいるがよい」
この辺はもう本丸の玄関に近い前栽らしく、所々に、枝ぶりのよい男松が這っていて篩にかけたような敷き砂が光っていた。
武蔵にいわれて、城太郎はその袂の下から勢いよく走った。そして、一つの松の木を楯にして、
(そら、お師匠様が、何かやりだすぞ)
般若野における武蔵の雄姿を思いだし、彼もまた、針鼠のように筋肉を膨らませていた。
――見ると、その間に、庄田喜左衛門と出淵孫兵衛のふたりが、武蔵の左右へ寄り添い、武蔵の腕を両方から逆に取って、
「もどれ」
「もどらぬ」
同じことばを繰返していた。
「どうしても戻らぬな」
「む! 一歩も」
「うぬっ」
前に立って、木村助九郎が、ついにこう癇を昂げ、刀の柄を打ち鳴らすと、年上の庄田と出淵の二人は、まあ待てとそれを止めながら、
「もどらぬなら戻らぬでよろしい。しかし、汝は、何処へ行こうとするか」
「当城の主、石舟斎へ会いにまいる」
「なに?」
さすがの四高弟も、それには愕として顔いろを革めた。奇怪でならなかったこの青年の目的が、石舟斎へ近づくことであろうなどとは、誰も考えていなかったのである。
庄田は、畳みかけて、
「大殿へ会って、何とする気じゃ」
「それがしは、兵法修行中の若輩者、生涯の心得に、柳生流の大祖より一手の教えを乞わんためでござる」
「しからばなぜ、順序をふんで、我々にそう申し出ないか」
「大祖は、一切人と会わず、また修行者へは、授業をせぬと承った」
「勿論」
「さすれば、試合を挑むよりほか道はあるまい、試合を挑んでも、容易に余生の安廬より起って出ぬに相違ない。――それゆえ拙者は、この一城を相手にとって、まず、合戦を申しこむ」
「なに、合戦を?」
あきれた顔つきで四高弟はそう反問した。そして、武蔵の眼いろを見直した。――こいつ狂人ではあるまいかと。
相手の者に、両腕をあずけたまま武蔵は空へ眼を上げていた。何か、バタバタと闇が鳴ったからである。
「? ……」
四名も眼をあげた。その一瞬、笠置山の闇から城内の籾蔵の屋根のあたりへ、一羽の鷲が、星をかすめて飛び降りた。
合戦といっては、言葉が大げさにひびくが、武蔵が今の自分の気持をいい現わすには、そういってもなおいい足りないほどであった。
技の末や、単なる小手先の試合では決してない。そんな生ぬるい形式を、武蔵は求めているのでもない。
合戦だ、飽くまでも戦いだ。人間の全智能と全体力とを賭けて、運命の勝敗を挑むからには、形式はちがっても、彼にとっては大なる合戦にかかっている気持と少しも違わないのである。――ただ三軍をうごかすのと、自己の全智と全力をうごかすのとの相違があるだけだった。
一人対一城の合戦なのだ。――武蔵の踏ん張っている踵には、そういう激しい意力があった。――で自然、合戦というような言葉が口をついて出たので、相手の四高弟は、
(こいつ狂人か?)
と、彼の常識を疑うように、その眼ざしを見直したが、これは疑ったほうにも無理はなかった。
「よしっ、おもしろい」
敢然と、こう応じて、木村助九郎は、穿いていた草履を足で飛ばし、そして、股立をからげた。
「――合戦とはおもしろい。陣鼓や陣鐘を鳴らさんまでも、その心得で応戦してやる。庄田氏、出淵氏、そやつをおれのほうへ突っ放してくれ」
さんざん止めもし、堪忍もした揚句である。第一、木村助九郎はさっきから頻りと成敗したがっている。
(もうこれまでだろう)
そう眼でいい合すように、
「よしっ、まかせるっ」
両方から抱えていた武蔵の腕を、二人が同時に離して、ぽんと背を突くと、六尺に近い武蔵の巨きな体が、
だ、だ、だっ――
四ツ五ツ大地を踏み鳴らし、助九郎の前へ、よろめいて行った。
助九郎は、待っていたものの、颯――と一足退いた。弾み込んでくる武蔵の体と自分の腕の伸びとに間合を測って退いたのである。
「――ガギッ」
奥歯のあたりでこう息を噛むと、助九郎の右の肱は、顔へ上がっていた。そして音のない音が、ヒュッと鳴るかのように、武蔵のよろめいて来た影を抜き打ちにした。
ザ、ザ、ザ、ザ――
と、剣が鳴った。助九郎の刀が神霊を現わしたように、鏘然と、刃金の鳴りを発したのである。
――わっ。という声が一緒に聞えた。武蔵が発したのではない。彼方の松の下にいた城太郎が飛び上がってさけんだのだ。助九郎の刀がザザと鳴ったのも、その城太郎がつかんでは投げつけた荒砂の雨だったのである。
けれど、その際の一つかみの砂などは、何の効果もないことはもちろんだった。武蔵は、背を突かれたせつなに、あらかじめ、助九郎が間合を測ることを計って、むしろ自分の勢いをも加えて、彼の胸いたへ突進して行ったのである。
突かれてよろめいてくる速度と、その速度に捨て身の意思を乗せてくるのとでは、速度の上に、大きな相違がある。
助九郎の退いた足と、同時に、抜き打ちに払った尺度には、そこに誤算があったので、見事に空を撲ってしまった。
約十二、三尺の間隔をひらいて、二人は跳び退いていた。助九郎の刀が反れ、武蔵の手が刀にかかろうとした瞬間にである。――そして双方で、じっと、闇の下へ沈みこむように竦んでいる。
「オ。これは見もの!」
そう口走ったのは庄田喜左衛門であった。庄田のほかの出淵、村田の二人も、まだ何も自分たちは、その戦闘圏内に交じっているわけでもないのに、ハッと、何ものかに吹かれたような身動きをした。そして各

(出来るな、こいつ)
武蔵の今の一動作に、等しく眸をあらためた。
――しいッと何か身に迫るような冷気がそこへ凝り固まってきた。助九郎の切っ先は、ぼやっと黒く見える彼の影の胸よりもやや下がり目な辺りにじっとしている。そのまま動かないのだ。武蔵も、敵へ右の肩を見せたまま、つくねんとして突っ立っている。その右の肘は、高く上がって、まだ鞘を払わない太刀のつかに精神をこらしているのだった。
「…………」
ふたりの呼吸をかぞえることが出来る。少し離れたところから見ると、今にも闇を切ろうとしている武蔵の顔には、二つの白い碁石を置いたかのような物が見える。それが彼の眼だった。
ふしぎな精力の消耗であった。それきり一尺も寄りあわないのに、助九郎の体をつつんでいる闇には次第にかすかな動揺が感じられてきた。明らかに、彼の呼吸は、武蔵のそれよりも、あらく迅くなって来ているのである。
「ムム……」
出淵孫兵衛が思わずうめいた。毛を吹いて大きな禍いを求めたことが、もう明確にわかったからである。庄田も村田も同じことを感じたにちがいない。
(――これは凡者でない)と。
助九郎と武蔵の勝負は、もう帰すところが三名にはわかっていた。卑怯のようであるが、大事を惹き起さないうちに――またあまり手間どって無用の怪我を求めないうちに、この不可解な闖入者を、一気に成敗してしまうに如くはない。
そういう考えが、無言のうちに、三名の眼と眼をむすんだ。すぐそれは行動となって、武蔵の左右へ迫りかけた。すると、弦を切ったように刎ねた武蔵の腕は、いきなり後ろを払って、
「いざっ」
すさまじい懸声を虚空から浴びせた。
虚空と聞えたのは、それが武蔵の口から発したというよりは、彼の全身が梵鐘のように鳴って四辺の寂寞をひろく破ったせいであろう。
「――ちいッ」
唾するような息が、相手の口をついて走った。四名は四本の刀をならべて、車形になった。武蔵の体は蓮の花の中にある露にひとしかった。
武蔵は今、ふしぎに自己を感得した。満身は毛穴がみな血を噴くように熱いのだ。けれど、心頭は氷のように冷たい。
仏者のいう、紅蓮という語は、こういう実体をいうのではあるまいか。寒冷の極致と、灼熱の極致とは、火でも水でもない、同じものである。それが武蔵の今の五体だった。
砂はもうそこへ降って来なかった。城太郎はどこへ行ったか。忽然と影もない。
――颯々。颯々。
まっ暗な風が時折り、笠置のいただきから颪ちてくる。そして、容易にうごかないそこの白刃を研ぐように吹いて、ビラ、ビラ、と燐のように戦ぎを闇の中に見せる。
四対一である。けれど武蔵は、自分がその一の数であることは、さして苦戦をおぼえない。
(なんの!)
と、血管が太くなるのを意識するのみであった。
死。
いつも真っ向から捨てようとしてかかるその観念も、ふしぎと今夜は持たない。また、
(勝てる)
とも思っていなかった。
笠置颪ろしが、頭の中をも吹きぬけて行くような心地であった。脳膜が蚊帳のようにすずしい。そしておそろしく眼がよく見える。
――右の敵、左の敵、前の敵。だが。
やがて武蔵の肌はねっとりと粘ってきた。額にもあぶら汗が光っている、生れつき人なみ以上巨大な心臓は膨れきって、不動形の肉体の内部にあって極度な、燃焼を起こしているのだ。
ず、ず……
左の端にいた敵の足がかすかに地を摺った。武蔵の刀の先は、蟋蟀のひげのように敏感にそれを観て取る。それをまた、敵も察して入って来ない。依然たる四と一との対峙がつづく。
「…………」
しかしこの対峙が不利であることを、武蔵は知っていた。武蔵は敵の包囲形の四を、直線形の四にさせて、その一角から次々に斬ってしまおうと考えるのであったが、相手は、烏合の衆ではない達人と上手のあつまりだ、そういう兵法にはかからない。厳として位置をかえない。
先が、その位置をかえないかぎり、武蔵の方から打ってゆく策は絶対なかった。この中の一名と相打ちして死ぬ気ならばそれも可能であるが、さもなければ、敵の一名から行動してくるのを待って、敵の四の行動が、ほんの瞬間でも、不一致を起こすところを臨んで打撃を加えるほかにない。
(――手ごわい)
四高弟のほうも、今は武蔵の認識をまったく革めて、誰ひとりとして、味方の四の数をたよっている者はなかった。この際、数を恃んで、毛ほどでも弛みを見せれば武蔵の刀は、きッとそこへ斬りこんでくる。
(――世の中には、いそうもない人間が、やはりいるものだ)
柳生流の骨子をとって、庄田真流の真理を体得したという庄田喜左衛門も、ただ、
(ふしぎな人間)
として、敵の武蔵を、剣の先から見澄ましているだけだった。彼にさえ、まだ一尺の攻撃もなし得なかった。
剣も人も、大地も空も、そうして氷に化してしまうかと思われた一瞬、思いがけない音響が、武蔵の聴覚をハッとおどろかせた。
誰がふくのか、笛の音だった。そう距離もないらしい本丸の林を通って、冴えた音が風に運ばれて来るのであった。
笛。――高鳴る笛の音。だれだ、ふくのは。
われもなく敵もなく、生死の妄念もまったく滅して、ただ一剣の権化となりきっていた武蔵は、その耳の穴から、計らざる音律の曲者にしのび込まれて、途端に、われに返ってしまった、肉体と妄念のわれに戻ってしまった。
なぜならば、音は、彼の脳裡に、肉体のあるかぎりは忘れ得ないであろうほどふかく記憶に烙きついているはずであった。
故郷美作の国の――あの高照の峰の附近で――夜ごとの山狩に追われつつ、飢えと心身のつかれに、頭も朦朧となっていた時、ふと、耳にひびいて来た笛の音ではないか。
あの時――
こう来い、こうお出で。――と自分の手をとって導くように呼び、そしてついに、僧の沢庵の手に捕まる機縁を作ってくれたその笛の音ではないか。
武蔵は忘れても、武蔵のあの時の潜在神経は、決して、忘れることのできない感動をうけていたにちがいない。
その音ではないか。
音がそっくりであるばかりでなく、曲もあの時のと同じなのだ。アッと、突き抜かれてみだれた神経の一部が、
(――オオ、お通)
脳膜の中でさけぶと、武蔵の五体というものは、途端に、雪崩を打った崖のように、脆いものになってしまった。
見のがすはずはない。
四高弟の眼には、そのせつな、破れ障子のような武蔵のすがたが見えた。
「――たうっッ」
正面の一喝と共に、木村助九郎の肘がまるで七尺も伸びたかのように眼に映った。――武蔵は、
「かッ」
その刃先へ喚き返した。
総身の毛に火がついたような熱気をおぼえ、筋肉は、生理的にかたく緊まって、血液は、噴き出そうとするところの皮膚へ、激流のように集まった。
――斬られたっ。
武蔵はそう感じた。ぱっと左の袖口が大きく破れて、腕が根元から剥き出しになってしまったのは、その辺の肉と一緒に、袂を斬り取られたのであると思った。
「八幡っ」
絶対な自己のほかに、神の名があった。自己の破れ目から、稲妻みたいにその声が迸った。
一転。
位置をかえて振向くと、自分のいたところへのめッて行く助九郎の腰と足の裏が見えた。
「――武蔵っ」
出淵孫兵衛が叫んだ。
村田と庄田は、
「やあ、口ほどもない」
横へ駈け廻ってくる。
武蔵はそれに対して、大地を踵で蹴った。彼のからだはそこらの低い松の梢をかすめるくらいな高さに躍り、その距離をさらに一躍、また一躍して、後も見ずに闇の中へ駈け入ってしまった。
「――汚し」
「――武蔵っ」
「恥を知れっ」
下の空濠へ急落している崖のあたりで、野獣の跳ぶような木の折れる音がした。――それがやむとまた、笛の音は、呂々と、星の空をながれて遊んでいた。
三十尺もある空濠だった。空濠といっても、深い闇の底には、雨水が溜っていないとは限らない。
灌木帯の崖を、勢いよく辷り落ちて来た武蔵は、そこに止まって石を抛ってみた。そして次に、石を追って、飛びこんだ。
井戸の底から仰ぐように、星が遠くなった。武蔵は濠の底の雑草へ、どかんと仰向けに寝ころんだ。一刻ほどもじっとしていた。
肋骨が大きな波を打つ。
肺も心臓も、そうしている間にやっと常態を整えてくる。
「お通……。お通が、この小柳生城にいるわけはないが? ……」
汗は冷え、肺は落ち着いて来ても、乱麻のように掻きみだれた気持は容易に平調にならなかった。
「心の曇りだ、耳のせいだ」
そうも思い、
「いや、人の流転はわからぬものゆえ、ひょっとしたら、やはりお通がいるのかも知れない」
彼は、お通のひとみを、星の空にえがいてみた。
いや彼女の眼や唇は、敢て、虚空にえがいてみるまでもなく、常に無自覚に武蔵の胸に住んでいるのだった。
甘い幻想が、ふと彼をつつむ。
国境の峠で彼女のいったことば、
(あなたの他に、私にとって男性はありません。あなたこそ、ほんとの男性、私はあなたがなくては生きられない)
また、花田橋のたもとで彼女のいったことば――
(ここで、九百日も立っていました。あなたが来るまで)
なお、あの時いった――
(もし来なければ、十年でも二十年でも、白髪になっても、ここの橋の袂に待っているつもりでした。……連れて行って下さい。どんな苦しみも厭いません)
武蔵は胸が痛んでくる。
苦しまぎれに、あの純な気持を裏切って、隙を作って、自分は驀しぐらに走ってしまった。
どんなに――あの後では自分を恨んでいただろう。理解できない男性を、呪わしい存在として唇を噛みしめたことだろう。
「ゆるしてくれ」
花田橋の欄干に小柄で残してきたことばが、吾れ知らず、今の武蔵の唇からも洩れていた。そして、涙のすじが眼じりから白くながれていた。
「ここじゃあない」
ふいに、高い崖の上で人声がした。三つ四つ松明が、木の間を掻きわけて立ち去るのが見えた。
武蔵は、自分の涙に気がつくと忌々しげに、
「女などがなんだ!」
手の甲で眼をこすった。
幻想の花園を蹴散らすように、ガバと跳び起きて、ふたたび小柳生城の黒い屋形を見上げ、
「卑怯といったな、恥を知れといったな。武蔵はまだ、降伏したとはいっていないぞ、退いたのは、逃げたのではない。兵法だ」
空濠の底を、彼は歩きだした。何処まで歩いても空濠の中である。
「一太刀でも打ち込まずにおこうか。四高弟などは相手でない。柳生石舟斎その者へ見参、見ろ、今に――合戦はこれからする!」
そこらに落ちている枯れ木を拾って、武蔵は膝に当ててバキバキと折り始めた。それを石垣の隙間に差しこんで、順々に足がかりを作り、やがて彼の影は、空濠の外側へ跳び上がっていた。
笛の音はもう聞えない。
城太郎はどこへ隠れ込んだのか。――一切のことが、武蔵の頭になかった。
彼はただ旺盛なる――自分でも持てあますほど旺盛な――血気と功名心の権化となり終っていた。そのすさまじい征服慾の吐け口を見いだすのみに、眼は生命の全部を燃やしていた。
「お師匠さまあ――」
どこか遠い闇で呼ぶような心地がする。耳を澄ませば聞えないのである。
(城太郎か)
ふと思ったが、武蔵は、
(あれに、危険はあるまい)
案じなかった。
なぜならば、先刻、崖の中腹あたりに松明を見たが、それっきりで城内でも自分たちの身を、飽くまで捜索しようとはしていないらしく思われる。
「この間に、石舟斎へ」
さながら深山のような林や谷間を、彼は、彼方此方さまよい歩いた。あるいは、城の外へ出てしまったのではないかと疑ったが、所々の石垣や濠や、籾倉らしい建物を見ると、城内であることは確かなのだが、石舟斎の住んでいる草庵とは、どこにあるのか、捜し当たらないのである。
石舟斎が、二ノ丸にも本丸にも住まわず、城地のどこかに、一庵をむすんで余生を送っているということは、綿屋の主からも聞いていたことだ。その草庵さえわかれば、直接、戸をたたいて、彼は、決死の見参をするつもりなのである。
(何処だ!)
彼は、叫びたい感情で、夢中になって歩いていた。ついには、笠置の絶壁へまで出て、搦手の柵からむなしく引返した。
(出て来いっ。おれの相手たらん者は)
妖怪変化でもよいから、石舟斎になって、ここへ現われて来てほしかった。四肢にみなぎっている満々たる闘志は、夜もすがら彼を悪鬼のように歩かせた。
「あっ? ……おお……ここらしいぞ」
それは城の東南へ降りたゆるい傾斜の下だった。その辺の樹木を見ると、みな姿がよく、鋏や下草の手入れがよくゆき届いていて、どうあっても、人の住んでいる閑地らしい。
門がある!
利休風の茅ぶき門で、腕木には蔓草が這い、垣のうちには、竹林が煙っていた。
「オオ、ここだ」
覗いてみると、禅院のように、道は竹林を通って、高いその山の上へと這っているのだ。武蔵は、一気に垣を蹴やぶって入り込もうとしたが、
「いや待て」
門のあたりの清掃された床しさや、あたりに白くこぼれている卯の花の何となく主人の風を偲ばせるものに、猛りきっている心を宥められて、ふと、自分の鬢のみだれや、襟元に気がついた。
「もう、急くことはない」
殊に自分の疲れも思い出された。石舟斎に面接する前に、まず自身を整えることが考え出された。
「朝になれば、誰か、門を開けに来るだろう。――その上でよい、その上でも、強って修行者を拒む態度であったら、またとる手段もある」
武蔵は、門廂の下に、坐りこんだ。そして、後ろの柱へ背をよりかけると、よい心地で眠りに入ることができた。
星がしずかだった。卯の花が風のたびに白くうごいた。
ポトと、襟くびへ落ちて来た露の冷たさに、武蔵は眼をさました。いつのまにか夜は明けている。熟睡した後の頭脳は、流れこむように耳の穴から入る無数の鶯の声と朝の風に洗われて、たった今、この世に誕生したような明るさであり、なんのつかれも残滓もなかった。
ふと、眼をこすって、眸を上げると、真っ紅な夜明けの太陽が、伊賀、大和の連峰を踏んで、昇っていた。
武蔵は、いきなり突っ立った。十分に休養を摂った肉体は、太陽に焼かれると、すぐ希望に燃え功名や野心にうずき、手脚はそれに蓄えている力のやり場を催促して、
「む、む――」
と伸びをせずにいられなくなって来る。
「今日だ」
なんとはなく、そう呟く。
その次に彼は空腹を思い出した。飢えを思うと、城太郎の身にも及ぼして、
「どうしたか」
と、軽く案じる。
ゆうべは少し彼に酷い目をあわせ過ぎたようでもあるが、それも彼の修行の足しになることと承知して武蔵はしていることであった。どう間違っても、彼に危険はないものと多寡をくくっていてよい気がする。
淙々と、水音がゆく。
門内の高い山から傾斜を駈けて一すじの流れが、勢いよく、竹林を繞り垣の下を通って、城下へ落ちてゆくのである。武蔵は、顔を洗い、そして、朝飯のように水をのんだ。
「美味い!」
水のうまさが身に沁みた。
察するに、石舟斎は、この名水があるために、この水の源へ草庵の地を選んだのであろう。
武蔵はまだ、茶道を知らず、茶味なども解さなかったが、単純に、
「美味い!」
と思わず口をついて叫ぶほど、水のうまさというものを、今朝は感じた。
ふところから汚い手拭きを出して、それも流れで洗濯した。布は忽ち白くなる。
襟くびを深く拭き、爪の垢まできれいにした。刀の笄を抜いて、その次には、みだれた髪の毛を撫でつける――
とにかく柳生流の大祖に今朝は会うのである。天下にも幾人しかいない現代の文化の一面を代表している人物なのだ。――その石舟斎に、いや武蔵のような無禄無名の一放浪者にくらべれば、月と小糠星ほども格のちがう大先輩に見参に入るのだ。
襟をただし、髪を撫でるのは、当然な礼節の表示である。
「よしっ」
心も整った、頭もすがすがしい武蔵は、悠揚迫らない客の態度になって、そこの門を叩こうとした。
だが、草庵は山の上であるしここを叩いても聞えるはずがないがと、ふと、鳴子でもないのかと門の左右を見まわすと、左右二つの門柱に、一面ずつの聯が懸けてあって、その文字彫の底には青泥が沈めてあり、読んでみると、一首の詩になっていた。
右がわの聯には、
吏事君ヨ怪シムヲ休メヨ
山城門ヲ閉ズルヲ好ムヲ
また、左の柱には、山城門ヲ閉ズルヲ好ムヲ
此山長物無シ
唯野ニ清鶯ノ有ルノミ
武蔵は、凝然と、その詩句をにらんでいた。――満地の樹々に啼きぬく老鶯の音の中に。唯野ニ清鶯ノ有ルノミ
門にかけてある以上、聯の詩句は、いうまでもなく山荘の主人の心境と見てさしつかえあるまい。
「――吏事(役人)君ヨ怪シムヲ休メヨ。山城門ヲ閉ズルヲ好ムヲ。此山長物無シ、唯野ニ清鶯ノ有ルノミ……」
幾度も口の裡で誦む。
すがたに礼節を持ち、心に澄明な落ちつきを湛えている今朝の武蔵には、その詩句の意味が、素直に分った。――同時に、石舟斎の心境と、その人がらや生活も彼の心へ、ぴたりと映った。
「……おれは若い」
武蔵は、おのずから頭が下がってしまうのをどうしようもない。
石舟斎が、一切、門を閉じて拒んでいるのは、決して、武者修行の者だけではないのである。あらゆる名利を名聞、また一切の我慾と他慾を――
世の吏事に対してすら、怪しむのをやめてくれと断っているのである。石舟斎のそうして世間を避けている姿を思うと、武蔵は高い梢に冴えている月の相が聯想された。
「……届かない! まだ、自分などには届かない人間だ」
彼は、何としても、この門を叩く気になれなくなった。蹴って闖入して行くなどということは、もう考えてみるだけでも怖ろしい。いや、自分が恥かしい。
花鳥風月だけが、この門を入るべきものだと思う。彼はもう今では、天下の剣法の名人でも一国の藩主でも何でもない。大愚に返って、自然のふところに遊ぼうとしている一人の野の隠居だ。
そういう人の静かな住居を騒がすことは、余りに心ない業だ。名利も名聞もない人に打ち勝って何の名利になる? 名聞になる?
「アア。もしこの聯の詩がなかったら、おれは、石舟斎からよい笑われ者に見られるところだった」
陽がやや高くなったせいか、鶯の声も、夜明けほどはしなくなった。
――と、門のうちの遠い坂の上から、ぽたぽたと迅い跫音が聞えて来た。跫音におどろいて立つ小禽のつばさが、八方に、小さな虹を描く。
「あっ?」
狼狽した色が武蔵の顔を横ぎった。垣の隙間からその人の姿がわかった。――門内の坂を駈けおりて来たのは若い女なのである。
「……お通だ」
ゆうべの笛の音を武蔵は思い出した。咄嗟に、みだれた心のうちで、
(会おうか。会うまいか)
彼は迷うのであった。
会いたい! と思う。
また、会ってはならぬ! と思う。
烈しい動悸が、武蔵の胸をあらしみたいに翔けまわった。彼は、意気地のない、殊に、女には弱い――一個の青春の男でしかなかった。
「……ど、どうしよう?」
まだ、心が決まらないのだ。その間に、山荘の方から坂道を駈けおりて来たお通は、すぐそこまで来て、
「あらっ?」
足を止めた。
後を振顧った。
そして何となく今朝は、欣びごとでもあるらしい生々した眸を、彼方此方へやって、
「一しょに尾いて来たと思ったら? ……」
と、誰かを捜すように、見まわしていたが、やがて、両手を唇にかざして、山の上へ向い、
「城太郎さアん。城太郎さアん」
と、呼び出した。
その声を聞いたり、姿を近く見ると、武蔵は顔を紅らめてこそこそと樹蔭へかくれてしまった。
「――城太さアん」
間を措いて、彼女がまた呼ぶと、こんどは明らかに返辞があって、
「おウーイ」
と、間の抜けた答えが、竹林の上のほうでする。
「あら、こっちですよ。そんな方へ道を間違えては駄目。そうそうそこから降りておいでなさい」
やがて孟宗竹の下を潜って、お通のそばへ城太郎は駈けて来た。
「なアんだ、こんなところにいたのか」
「だから、私の後に尾いておいでなさいといったでしょう」
「雉子がいたから、追いつめてやったんだ」
「雉子などを捕まえているよりも、夜が明けたら、大事な人を捜さなければいけないじゃありませんか」
「だけど、心配することはないぜ。おれのお師匠様に限っては滅多に討たれる気づかいはないから」
「でも、ゆうべお前は、何といって、私のところへ駈けつけて来たの? ……今、お師匠様の生命が危ないから、大殿様にそういって、斬り合いをやめさせてくれと呶鳴って来たじゃありませんか。あの時の城太さんの顔つきは、今にも泣き出してしまいそうでしたよ」
「それや、驚いたからさ」
「驚いたのは、おまえよりも、私のほうでした。――おまえのお師匠様が、宮本武蔵というのだと聞いた時――私は余りのことに口がきけなかった」
「お通さんは、どうしておらのお師匠様を前から知っていたんだい」
「同じ故郷の人ですもの」
「それだけ」
「ええ」
「おかしいなあ。故郷が同じというだけくらいなら、何もゆうべ、あんなに泣いてうろうろすることはないじゃないか」
「そんなに私、泣いたかしら」
「人のことは覚えていても、自分のことは忘れちまうんだな。……おらが、これは大変だ。相手が四人だ、ただの四人ならよいが、みんな達人だと聞いていたから、これは捨てておくと、お師匠様も、今夜は斬られるかも知れない……。そう思ッちまって、お師匠様に加勢する気で、砂をつかんで、四人の奴らへ投げつけていると、あの時、お通さんが、どこかで笛を吹いていたろう」
「ええ、石舟斎様の御前で」
「おれは、笛を聞いて、ア、そうだ、お通さんにいって、殿様に謝ろうと胸の中で考えたのさ」
「それでは、あの時、私のふいていた笛は武蔵様にも聞えていたのですね。たましいが通ったのでしょう、なぜなら私は、武蔵様のことを思いながら、石舟斎様の前であれを吹いていたのですから」
「そんなことは、どッちだっていいけれど、おらは、あの笛が聞えたんで、お通さんのいる方角が分ったんだ。夢中になって、笛の聞えるところまで駈けてッた。そして、いきなり何といっておらは呶鳴ったんだっけ」
「合戦だっ、合戦だっ。――と呶鳴ったんでしょう。石舟斎様も、おどろいたご様子でしたね」
「だが、あのお爺さんは、いい人だな。おらが、犬の太郎を殺したことを話しても、家来のように怒らなかったじゃないか」
この少年と話をしはじめると、お通もついつりこまれて、刻も場合も忘れてしまう。
「さ……。それよりも」
止めどない城太郎のお喋舌りを遮って、お通は、門の内側へ寄った。
「――話は後にしましょう。何より先に、今朝は、武蔵様を捜さなければいけません。石舟斎様も、例を破って、そんな男なら会ってみようと仰っしゃって、お待ちかねでいらっしゃるのですから……」
閂を外す音がする。
利休風の門の袖が左右にひらいた。
今朝のお通は、華やいで見える。やがて武蔵に会えるという期待にあるばかりでなく、若い女と生れての欣びを生理的にもいっぱいに皮膚の上にあらわしている。
夏に近い太陽は、彼女の頬を果物のようにつやつやとみがきたてている。薫々とふく若葉の風は肺の中まで青くなるほどにおう。
こぼれる朝露を背にあびながら、樹蔭に潜んで彼女のすがたを眼の前に見ていた武蔵は、
(アア健康そうになったな)
すぐそこに気づいた。
七宝寺の縁がわに、いつも悄んぼりと空虚な眼をしていた頃の彼女は、決して今見るような生々した頬や眸をしていなかった。さびしい孤児の姿そのものだった。
その頃のお通には恋がなかった。あっても、ぼんやりしたものだった。どうして自分のみが孤児なのか、そればかりを仄かに怨んだり回顧したりしていた感傷的な少女だった。
だが武蔵を知って、武蔵こそほんとの男性だと信じてからの彼女は、初めて、女性の沸らす情熱というものに自身の生きがいを知り出したのである。――殊に、その武蔵を追って旅にさまよい出してからは、あらゆるものに耐え得る要素が体にも心にも養われて来た。
武蔵は、物蔭から、彼女のそうしてみがかれて来た美に眼をみはった。
(まるで違ってきた!)と。
そして彼は、どこか人のいない所に行って、洗いざらい自分の本心といおうか――煩悩といおうか――強がっているこころの裏の弱いものをいってしまって、花田橋の欄干にのこした無情に似た文字を、
(あれは偽だ)
と、訂正してしまおう?
そして、人さえ見ていなければかまわない、女になんか幾ら弱くなってやっても大したことはない。彼女がここまで自分を慕ってくれた情熱に対して、自分の情熱も示し合おう。抱きしめてもやろう、頬ずりをしてもやろう、涙もふいてやろう。
武蔵は、幾度も、そう考えた。考えるだけの余裕があった。――お通が自分にいったかつての言葉が耳に甦ってくるほど、彼女の真っ直な思慕に対して叛くことが、男性として酷い罪悪のように思われてならない――苦しくてならない。
けれど、そういう気持を、ぎゅっと歯の根で噛んでしまう怖ろしい怺えを武蔵は今しているのだった。そこでは、一人の武蔵が二つの性格に分裂して、
(お通!)
と、呼ぼうとし、
(たわけ)
と、叱咤している。
そのどっちの性格が、先天的なものか後天的なものか、彼自身には固よりわからない。そしてじっと木蔭の中に沈みこんでいる武蔵の眸には、無明の道と、有明の道とが、みだれた頭の裡にも、微かにわかっていた。
お通は、何も知らないのである。門を出て十歩ほど歩み出した。そして、振向くと、城太郎がまた何か門のそばで道草をくっているので、
「城太さん、何を拾っているの。早くお出でなさいよ」
「待ちなよ、お通さん」
「ま、そんな汚い手拭なんか拾って、どうするつもり?」
門のそばに落ちていた手拭であった。手拭は今しぼったように濡れていた。それを踏んづけてから城太郎は抓み上げて見ていたのである。
「……これ、お師匠様のだぜ」
お通は側へ来て、
「え、武蔵様のですって」
城太郎は、手拭の耳を持って両手にひろげ、
「そうだそうだ、奈良の後家様のうちでもらったんだ。紅葉が染めてある。そして、宗因饅頭の『林』という字も染めてあら」
「じゃあ、この辺に?」
お通が遽かに見まわすと、城太郎は彼女の耳のそばでいきなり伸び上がって、
「――おッしょう様あっ」
傍らの林の中で、さっと樹々の露が光り、鹿でも跳ぶような物音がその時した。――びくっとお通は顔を回らして、
「あっ?」
城太郎を捨てて、突然、驀しぐらに走り出した。
城太郎は後から息をきって追いかけながら、
「――お通さん、お通さん、何処へ行くのさ!」
「武蔵様が駈けてゆく」
「え、え、どっちへ」
「彼方へ」
「見えないよ」
「――あの、林の中を」
武蔵の影をチラと見た欣びに似た失望と――見る間に遠く去ってゆくその人へ追いつこうとする女の脚のいっぱいな努力で、彼女は、多くの言葉を費やしていられなかった。
「うそだい、違うだろ」
城太郎は、ともに駈けてはいるがまだ信じない顔つきで、
「お師匠様なら、おらたちの姿を見て、逃げてゆくわけはない、人違いだろ」
「でも、御覧」
「だから何処にさ」
「あれ――」
遂に、彼女は、発狂したかのような声をふりしぼって、
「武蔵様あ! ……」
道ばたの樹につまずいてよろめいた。そして、城太郎に抱き起されながら、
「おまえもなぜ呼ばないのです! 城太郎さん、はやく、お呼び!」
城太郎はぎょっとして、そういうお通の顔に眼をすえてしまった。――何と似ていることだろう、口こそ裂けていないが、血ばしっている眼、青じろく針の立った眉間、蝋を削ったような小鼻や顎の皮膚――
似ている。そっくりといってもよい。あの奈良の観世の後家から、城太郎がもらって来た狂女の仮面と。
城太郎は、たじろいで、彼女の体から手を放した。するとお通は、その戸惑いを叱りつけるように、
「はやく追いつかなければだめです。武蔵様は、帰って来ない。お呼び、お呼び、私も呼びますから声かぎりに――」
そんな馬鹿なことはあるはずがないと、城太郎は心のうちで否定するのであったが、お通の余りにも真剣な血相を見ては、そうもいっていられなかったとみえ、彼も、精いっぱい大きな声を出して、お通の走るままに走って行った。
林をぬけると低い丘があって、山づたいに月ヶ瀬から伊賀へゆける裏道になっていた。
「あっ、ほんとだ」
そこの丘の道に立つと、城太郎の眼にも武蔵の姿が明らかに映った。けれどそれはもう声も届かない距離の彼方にであった。後も見ずに遠くを駈けてゆく人影だった。
「あっ、彼方に――」
二人は駈けた。呼んだ。
足のかぎりに、声のかぎりに。
泣き声をふくんだ二人のさけびが、丘を降り、野を駈け、山ふところの谷間まで駈けて、木魂を呼びたてる。
だが、遠く小さく見えていた武蔵の影は、そこの山ふところに駈け入ったままもうどこにも見あたらなかった。
漠々として白雲はふかい。淙々として渓水の音は空しい。母親の乳ぶさから打ち捨てられた嬰児のように、城太郎は地だんだを踏んで泣きわめいた。
「ばか野郎っ、お師匠さんの大馬鹿。おらを捨てて……おらをこんなところへ捨てて……やいっ、ちくしょうっ、どこへ行っちまやがったんだ」
お通はまたお通で、彼とはべつに、大きな胡桃の木に喘ぐ胸をもたせかけて、ただ、しゅくしゅくと泣きじゃくっている。
これほどに一生を投げやっている自分の気持も、まだあの人の足を止めるには足らないのであろうか。彼女はそれが口惜しかった。
あの人の志が今何を目的としているか、また、何のために自分を避けて行ったのか、それは姫路の花田橋の時からよく分っている問題である。けれど彼女としてはこう思う。
(どうして私に会っては、その志の邪魔になるのか?)
また、こうも思った。
(それはいいわけで、私が嫌いなのか?)
だが、お通は、七宝寺の千年杉を幾日か見つめて、武蔵がどういう男性であるかを十分に識りつくしていた。女にうそをいうような人ではないと信じている。嫌ならば嫌といいきる人なのだ。その人が、花田橋では、
(決して、そなたが嫌いなわけではない――)
といった。
お通は、それを恨みに思う。
では自分はどうしたらいいのか。孤児というものには一種の冷たさとひがみがあって、めったに人を信じないかわりに、信じたからには、その人よりほかに頼りも生きがいもないように思い込むものだ。まして自分は本位田又八という男性に裏切られている。男性を見ることに深刻になるべく教えられた揚句なのだ。この人こそ世の中に少ない真実の男性と見て生涯をも決めて歩いて来たのである。どうなっても後悔はしないという覚悟で。
「……なぜ一言でも」
胡桃の葉はふるえていた。樹にものをいえば樹さえ感動するかのように。
「……あんまりです……」
怨めば怨むほどもの狂わしく恋しいのだ。宿命といおうか。どうしても、その人との生命の合致を見なければ、ほんとの人生を呼吸することのできない生命を持っていることは、弱々しい精神には耐えないほどな苦しみに違いなかった。片肺の肉体を持っている以上な苦しみだった。
「……あ、坊さんが来る」
半狂人のように怒っていた城太郎がそう呟いたが、お通は胡桃の木から顔を離そうとしなかった。
伊賀の山々には、初夏が来ている。真昼になるほど空は透明性と紺碧を深くしてきた。
――旅の坊さんは、その山をひょこひょこ降りて来た。白雲の中から生れて来たように、世の中の絆を何も持っていない姿である。
ふと、胡桃の木の彼方を通りかけて、そこにいるお通のすがたを振り向いた。
「おや? ……」
その声に、お通も顔をあげた。泣き腫らした眼は、びっくりして大きくさけんだ。
「あっ……沢庵さん」
折も折である。宗彭沢庵のすがたは、彼女にとって、大きな光明だった。それだけに、こんなところへ沢庵が通るなんて、余りに偶然な気がして、お通は、白昼夢にさまよっているような気持がしてならなかった。
お通にとっては意外であったが、沢庵にしてみれば、彼女をここで発見したのは、自分の予測があたったに過ぎないことだし、それから城太郎も加えた三人づれで、柳生谷の石舟斎のところへ戻ることになったのも、べつだん何の偶然でも奇蹟でもなかったのである。
そもそも。
宗彭沢庵と柳生家との関係は、今に始まった間がらではなく、その機縁は遠い前からのことであって、この和尚がまだ大徳寺の三玄院で、味噌を摺ったり大台所を雑巾を持って這い廻っていた頃からの知りあいだった。
その頃、大徳寺の北派といわれる三玄院には、常に生死の問題を解決しようとする侍とか、武術の研究には同時に精神の究明が必要であると悟った武道家とか、異った人物の出入りが多くて、
(三玄院には謀叛の霧が立っている)
と噂されたほど、そこの禅の床は、僧よりも侍に占められていたものだった。
――そこへよく来ていた人物の中に上泉伊勢守の老弟鈴木意伯があり、柳生家の息子という柳生五郎左衛門があり、その弟の宗矩などがあった。
まだ但馬守とならない青年宗矩と沢庵とは、忽ち、親しくなって、以来、二人の交友は浅からぬものがあって、小柳生城へも幾度も訪れるうちに、宗矩の父の石舟斎とは息子以上に、
(話せるおやじ)
と尊敬し、石舟斎もまた、
(あの坊主、ものになる)
と、許していた。
こんどの訪問は、九州を遍歴して、先ごろから泉州の南宗寺へ来て沢庵は杖をとめていたので、そこから久しぶりに、柳生父子の消息を手紙でたずねてやると、その返辞に、石舟斎から細々と便りがあって、
(――近ごろ自分は至ってめぐまれている。江戸表へやった但馬守宗矩も、無事御奉公をしているし、孫の兵庫も、肥後の加藤家を辞して、目下は修行して他国を歩いているが、これもまずまずどうやら一人前にはなれそうだし、折から近ごろ、自分の手許には、眉目うるわしい笛の上手な佳人が来て、朝夕の世話やら、茶や花や和歌の相手やら、とかくに寒巌枯骨になりやすい草庵に、一輪の花をそえている。その女性は、和尚の郷国とはすぐ近い美作の七宝寺とやらで育った者であるといえば、和尚とは話も合おう。佳人の笛を聞きながら一夕の美酒は、茶で時鳥という夜ともまた変った味がある。ぜひ、そこまで来ているなら、一夜を割いて、老叟の宿へも来たまえかし)
――こういう手紙を見ると、沢庵は、尻を上げずにいられなかった。まして手紙のうちにある眉目うるわしい女性の笛吹きといえば、どうやら、かねて時折は案じている昔なじみのお通らしくもあるし――
そんなわけでぶらりとこの地方を歩いて来た沢庵であるから、その柳生谷に近い山で、お通のすがたを見かけたことは、さまで意外としなかったが、お通の話によって、
「惜しかった」
と、彼も舌を鳴らして嘆息したのは、たった今、武蔵が伊賀路のほうへ向って駈け去ったということであった。
そこの胡桃の木の丘から、石舟斎のいる山荘の麓まで、城太郎を連れて、悄々と引っ返してゆく間に、沢庵からいろいろ問いただされて、お通がつつみ隠しなく、その後の自分の歩いて来た途やらこの度のことを、彼なれば何でもと心をゆるして、語りもし相談もしたであろうことは、想像に難くあるまい。
「む。……む……」
沢庵は、妹の泣き言でも聞いてやるように、うるさい顔もせず幾たびも頷いて、
「そうか、なるほど、女というものは、男にはできない生涯を選ぶものだ。――そこで、お通さんの今考えていることは、これからどっちを歩こうという岐れ道の相談じゃろ」
「いいえ……」
「じゃあ……?」
「今さら、そんなことに、迷ってはおりません」
俯向きがちな彼女の力のない横顔を見れば、草の色も真っ暗に見えているであろうほど、滅失の中の人だったが、そういった言葉の語尾には、沢庵も眼をひらいて見直すくらい、強い力がこもっていた。
「あきらめようか、どうしようか、そんな迷いをしているくらいなら、私は七宝寺から出てなど参りません。……これからも行こうとする途は決まっているのです。ただそれが、武蔵さまの不為であったら――私が生きていてはあの方の幸福にならないのなら――私は自分を、どうかするほかないのです」
「どうかするとは」
「今いえません」
「お通さん、気をつけな」
「何をですか」
「おまえの黒髪をひっぱっているよ。この明るい陽の下で死神が」
「私には何ともありません」
「そうだろう、死神が加勢しているんじゃもの。――だが、死ぬほどうつけはないよ。それも片恋ではな。ハハハハハ」
まるで他人事に聞き流されるのがお通は腹だたしかった。恋をしない人間になんでこの気持がわかる。それは沢庵が、愚人をつかまえて禅を説くのと同じである。禅に人生の真理があるなら、恋のうちにも必死な人生はあるのだ。尠くも、女性にとっては、生ぬるい禅坊主が、隻手の声如何などと、初歩の公案を解くよりも、生命がけの大事なのである。
(――もう話さない)
唇をかんでそう決めたように、お通が黙ってしまうと、今度は沢庵から真面目さを見せて、
「お通さん、おまえはなぜ男に生れなかったのだい。それほど強い意思の男ならば、尠くも一かど国のために役立つ者になれたろうに」
「こういう女があってはいけないんですか。武蔵さまの不為なのですか」
「ひがみなさんな。そういったわけではない。――だが武蔵は、おまえがいくら愛慕を示しても、そこから逃げてしまうんじゃないか。――そうとしたら、追ってもつかまるまい」
「おもしろいので、こんな苦しみをしているのではありません」
「少し会わないうちに、お前も世間なみの女の理窟をいうようになったの」
「だって。……いえ、もうよしましょう、沢庵さんのような名僧智識に、女の気持がわかるはずはありませんから」
「わしも、女の子は、苦手だよ、返辞にこまる」
お通は、ついと足を反らし、
「――城太さん、おいで」
彼と共に、沢庵をそこへ置き捨てて、べつな道へ歩みかけた。
沢庵は立ちどまった。ふと嘆くような眉をうごかしたが、是非もないとしたらしく、
「お通さん、ではもう石舟斎様にお別れもせずに、自分の行きたい途へ行くつもりか」
「ええお別れは、心のうちでここからいたします。もともと、あの御草庵にも、こんな長くお世話になるつもりもなかったのですから」
「思い直す気はないか」
「どういうふうに」
「七宝寺のある美作の山奥もよかったが、この柳生の庄もわるくないの。平和で醇朴で、お通さんのような佳人は、世俗の血みどろな巷へ出さずに、生涯そっと、こういう山河に住まわせて置きたいものじゃ。たとえばそこらに啼いている鶯のようにな」
「ホ、ホ、ホ。ありがとうございます。沢庵さん」
「だめだ――」
沢庵は、嘆息した。自分の思い遣りも、盲目的に思う方へ走ろうとするこの青春の処女には、何の力もないことを知った。
「だが、お通さん。――そっちへ行くのは、無明の道だぞ」
「無明」
「おまえも寺で育った処女じゃから、無明煩悩のさまよいが、どんなに果てなきものか、悲しいものか、救われ難いものかぐらいは知っておろうが」
「でも、私には、生れながら有明の道はなかったんです」
「いや、ある!」
沢庵は一縷の望みへ情熱をこめて、この腕に縋れとばかり、お通のそばへ寄ってその手を取った。
「わしから石舟斎様へよう頼んであげよう。身の振り方を、生涯の落着きを。――この小柳生城にいて、よい良人をえらび、よい子を生み、女のなすことをなしていてくれたら、それだけここの郷土は強くなるし、そなたもどんなに幸福か知れぬが」
「沢庵さんのご親切はわかりますけど……」
「そうせい」
思わず手を引っ張って、城太郎へも、
「小僧、おまえも来い」
城太郎はかぶりを振って、
「おら嫌だ。お師匠さまの後を追いかけて行くんだから」
「行くにしても、一度、山荘へもどれ、そして石舟斎さまにごあいさつ申しての」
「そうだ、おら、御城内へ大事な仮面を置いて来た。あれを取りにゆこう」
城太郎は駈けて行ったが、彼の足もとには、有明もない、無明もない。
しかしお通はその二つの岐れ路に立ったままうごかなかった。それからも沢庵がむかしの友達に返って、懇々と、彼女のさしてゆく人生の危険であることと、女性の幸福がそこばかりにないことを説くのであったが、お通の今の心をうごかすには足らなかった。
「あった! あった!」
城太郎は仮面をかぶって、山荘の坂道を駈け降りて来た。沢庵はふとその狂女の仮面をながめて慄然とした。――やがて年月経た無明の彼方にいつか出会うお通の顔を今見せられたように。
「――では沢庵さま」
お通は一歩離れた。
城太郎は、彼女の袂にすがって、
「さ、行こう。サ……早く行こう」
沢庵は、昼の雲に、眸をあげ、おのれの無力を嘆じるように、
「やんぬる哉。――釈尊も女人は救い難しといったが」
「左様なら。石舟斎様へは、ここから拝んで参りますが、沢庵さんからも……どうぞ」
「ああ、われながら坊主が馬鹿に見えて来る。行く先々で、地獄ゆきの落人ばかりに行き会う。……お通さん、六道三途で溺れかけたら、いつでもわしの名をお呼び。いいか、沢庵の名を思い出して呼ぶのだぞ。――じゃあ行けるところまで行ってみるさ」
底本:「宮本武蔵(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年11月11日第1刷発行
2010(平成22)年5月6日第41刷発行
「宮本武蔵(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年11月11日第1刷発行
2003(平成15)年1月30日第40刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月18日作成
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