「火を放けろ」
と誰かいう。
春先なのだ。まだ正月の九日という日である。衣笠のふき颪は、小禽の肌には寒すぎた。チチチチチ野に啼く声も稚く聞えて耳に寒い。人々は、鞘の中の刀から腰の冷えて来る心地がした。
「よく燃えるな」
「火が飛ぶぞ、気をつけぬと、野火になる」
「案じ給うな。いくら燃え拡がっても、京都中は焼けッこない」
枯れ野の一端に放けた火は、音を立てて、四十人以上もいる人々の顔を焦した。焔は、朝の太陽へ、背を伸ばして、届きそうにまでなった。
「あつい、あつい」
と今度は呟く。
「もうよせ」
草を投げる者へ向って、植田良平が、煙たい顔して叱った。
そんなことをしている間に半刻は経っていた。
「もうやがて、卯の刻過ぎじゃないかな」
誰かいい出して、
「さよう?」
期せずしてみなの眉が、陽を仰いでみる。
「卯の下刻。――もはやその時刻だが」
「どうしたろう、若先生は」
「もう来る」
「そうさ、来る頃だ」
なにか緊迫してくるものを各が顔に湛え出した。自然とそれが人々を無口にさせた。誰の眼も一様に、そこから街端れの街道を眺めて、生唾を溜めて待ちしびれている様子に見える。
「どうなされたのだろう?」
のろまな声をして、どこかで牛が長く啼いた。ここは元、禁裏のお牛場で、乳牛院の跡とも呼ばれていた。今でも、野放しの牛がいるとみえ、陽が高くなると、枯れ草と糞のにおいが蒸れて来るのである。
「――もう武蔵は、蓮台寺野のほうへ来ていやしないか」
「来てるかもしれん」
「誰か、ちょっと、見て来ないか。――蓮台寺野とこことは、五町ほどの距離しかあるまい」
「武蔵の様子をか」
「そうだ」
「…………」
すぐ行こうといって出る者もない。煙の蔭にみな煤ったい顔をして沈黙した。
「――でも、若先生は、蓮台寺野へ出向かれる前に、ここでお支度をして行くという手筈になっているのだからな。もう少し、待ってみようじゃないか」
「それは、間違いのない手筈なのか」
「植田殿が、ゆうべ若先生から、確といい渡されたことだ。よも間違いはあるまい」
植田良平は、そういう同門の者のことばを裏書して、
「その通りだ。――武蔵はもう約束の場所へ、先に来ているかも知れないが、敵を焦立たせようという清十郎先生のお考えで、わざと、遅刻しているのかも知れない。門下の者が、下手に動いて、助太刀したなどと評判されては、吉岡一門の大きな名折れだ。相手は多寡の知れた牢人武蔵ひとり。静かにしていよう。若先生が颯爽とここへ見えられるまで、林のように、我々は、静観していることだ」
その朝。
この乳牛院の原へ、寄るともなく集まった者たちは、勿論、数から見ても、吉岡門下のほんの一部の人々に過ぎなかったが、その顔ぶれの中には、例の植田良平がいるし、京流の十剣と自称している高弟組の半分は見えているから、まず四条道場の中堅どころは、出張っているといってもさしつかえない。
師の清十郎は、ゆうべ、
(助太刀の事、かたく無用)
と、これは誰へも同様にいい渡したことらしかった。
また、門下のすべての者は、きょうの師の相手である武蔵という者を、決して、
(多寡の知れた相手)
とは軽視していなかったが、そうかといって、師の清十郎が、たやすく彼に敗れようなどとは、どうしても考えられないのであった。
(勝つに決まっているが)
という考えの上に、万が一にもという常識を乗せているのである。それにまた、五条大橋へ高札を掲げたりして、きょうの試合を公開した手前、吉岡一門の威容を張って、かたがた、清十郎の名を、この際、大いに晴れがましく世間へ喧伝させたいという――門下の者としては当然な力瘤も入れる気になって、試合場所の蓮台寺野からそう遠くないこの原にかたまり、やがてここへ立寄るはずの吉岡清十郎を待ちわびているのだった。
ところで――
その清十郎はどうしたのか、いっこう姿が見えないのである。
卯の下刻は、陽あしを見ても、もう迫っている。
「おかしいなあ?」
ここでは、三十余名の者が、そう呟きだして、植田良平の諭す静観の態度もすこしだれ気味になっていると、この乳牛院の原の一群を見て、きょうの試合の場所を、ここと思い違えた群衆がまた、
「どうしたのだ、試合はいったい」
「吉岡清十郎は、どこに来ている?」
「まだ見えんが」
「武蔵とやらは」
「それもまだ来ていないらしい」
「あの侍衆は、何か」
「あれは、どっちかの、助太刀だろう」
「なんのこった、助太刀だけが来て、かんじんな、武蔵も清十郎も来ないとは」
人のいるところへ、人は殖えて来るのだった。
後から後からと、弥次馬はここへたかって来る。そして、
「まだか」
「まだか」
「どれが武蔵?」
「どれが清十郎で」
と、ざわ声を立てている。
さすがに、吉岡門下の一かたまりが見える附近へは立ち入って来ないが、乳牛院の原の彼方此方には、萱のあいだや樹の枝にまで、人の頭が、無数に見えた。
――その中を、城太郎は歩いていた。
例の体より大きな木剣を横たえて、足よりも大きな藁草履を履いて、乾いた土のうえをボクボクと埃を立てて歩きながら、
「いないな、いないな」
と、人の顔をキョロキョロ物色しながら、この広い原のまわりを周って歩いてゆく。
「――どうしたんだろ? お通さんは、きょうのことを、知らないはずはないのになあ。……あれから烏丸様のお館へも、いちども来ないし」
彼のさがしているのは、武蔵よりも先ず、その武蔵の勝敗を案じて、きっと、今日ここへ来ていなければならないはずの、お通の姿であった。
小指に怪我をしてもすぐ蒼くなるくせに、女は、案外、残忍なことだの血を見ることに、男とは違った興味をそそられるものらしい。
きょうの試合は、とにかく、京洛中の耳と眼をそばだたせている。それを見ようとして来ている雑沓のうちには、かなり女の姿があった。数人で、手をつないで歩いて来る女たちさえあった。
けれど、その女の中に、お通のすがたは、いくら捜しても見当らなかった。
「変だなあ」
城太郎は野のまわりを、くたびれるほど歩いた。
(もしかしたら、あの日から――五条大橋でわかれた元日から――病気でもしているんじゃないかしら?)
そんな臆測を描いてみたり、なお突きすすめて、
「お杉婆は、あんな巧いことをいっていたけれど、お通さんを騙くらかして、どうかしているのかも知れないぞ? ……」
彼は、そう考えると、不安で不安でたまらなくなった。
その心配さ加減は、きょうの試合の結果がどうなるかというどころの比ではない。城太郎は、きょうの勝負を、少しも心配にはしていなかった。
野を繞って、それを待っている数千の見物人が、すべてといってよいほど、吉岡清十郎の勝ちを信じているように、城太郎ひとりは、
(お師匠さまが勝つ!)
と、信じて疑わないのであった。
大和の般若野で、宝蔵院衆のたくさんな槍を相手にまわして闘った時の武蔵のたのもしい姿を、彼は、ここでも頭にえがいて、
(負けるものか、みんな蒐っても――)
と、乳牛院の原に屯している吉岡方の門人まで、敵の数に入れて、なおかつ、堅く武蔵の腕に信頼を持っていた。
――だから、そのほうにはなんの取り越し苦労もしていないが、お通の来ていないことは、彼を落胆させた程度でなく、なにか、お通の身の上に、凶い事が起っているような胸騒ぎを駆りたててくる。
彼女が――
五条大橋からお杉隠居に従って別れてゆく時、
(暇を見ては、わたしも、烏丸様のお館へ行きますからね。城太さんは、当分、お館におねがいして、あそこに泊っておいでなさいね)
そういった。
たしかに、そういった。
だのに――あれから今朝で九日目――そのあいだの正月の三ガ日にも、七くさにも、ついにいちども、お通は訪ねて来なかったではないか。
(どうしたんだろう?)
という城太郎の不安は、もう二、三日前から持ち越して来ているものであった。それも今朝、ここへ来るまでは、一縷の望みをつないでいたのであったが――
「…………」
ぽつねんと、城太郎は、原の真ン中をながめていた。焚火のけむりを囲んでいる吉岡の門人は、遠方から数千人の見物の眼につつまれて、物々しげにかたまってはいるが、まだ清十郎の来ないせいか、なんとなく、気勢が昂っていない。
「おかしいなあ、高札には蓮台寺野とあったのに。試合場はここかしら?」
誰もみな不審がらないでいる点を、城太郎だけが、ふと不審に感じ出していた。すると、彼の左右をながれて行く人混みのあいだから、
「わっぱ。――こら、こら、それへ参る童」
と、横柄に誰か呼ぶ。
見ると、それは城太郎にも覚えのある――つい八日前の元日の朝――五条大橋のたもとで、朱実と囁いていた武蔵へ向い、人をばかにしたような大笑いを捨てて去った佐々木小次郎であった。
「なんだい、おじさん」
一度でも顔を見ているだけに、城太郎は、馴々しくいう。
小次郎は、彼のそばへ寄って来た。なにかものをいう前に、先に足もとから頭へ、じろりと眸を上げるのが、この若者のくせであった。
「いつぞや、五条で会ったことがあるな」
「おじさんも、覚えていたかい」
「おまえは、女の人と一緒だったね」
「アアお通さんと」
「お通さんというのか、あの女は――。武蔵と、なにか縁故のある者か」
「あるんだろ」
「従兄妹か」
「ううん」
「妹か」
「ううん」
「じゃあ、なんだ」
「すきなんだよ」
「誰が」
「お通さんが、おいらの、お師匠様を」
「恋人か」
「……だろう?」
「すると、武蔵はおまえの先生というわけか」
「うん」
これは、明確に、誇りをもって、うなずいた。
「ははあ、それで今日も、ここへ来たのだな。――しかし、清十郎のほうも、武蔵のほうも、まだ姿が見えぬというて、見物が気をもんでいるが、おまえは知っているだろう、武蔵はもう、旅宿から出かけたろうな」
「知らないよ、おいらも、捜しているんだもの」
後ろから二、三名、ばらばらと駈けて来る跫音がした。小次郎の鷹に似ている眼はすぐそれへ振向いた。
「や、それにおられるのは、佐々木殿ではないか」
「オ、植田良平」
「どうしたんです」
良平は、そばへ来て、捕まえるように、小次郎の手をにぎった。
「年暮から、ふっと、道場へお帰りがないので、若先生も、どうしたのかと口癖に申していました」
「ほかの日には帰らなくても、今日さえ、ここへ来れば、それでよいのだろうが」
「ま、とにかく、あちらまでお越しを」
と、良平や他の門下たちは、態よく彼を取りかこんで、自分たちの屯している原の中ほどへ、引込むように、伴れて行った。
大刀を背に負っている小次郎の派手な身仕度を、遠くから見つけると、見物の眼はすぐ、
「武蔵、武蔵」
「武蔵が来た」
と、ささやき合った。
「ホ、あれか」
「あれだ――宮本武蔵は」
「ふうむ……たいそう伊達者だな、だが、弱くはなさそうだ」
取り残された顔つきの城太郎は、辺りの大人たちが真顔になってそれを受けとっているので、
「ちがうよ、ちがうよ、武蔵様はあんな人だもんか、あんな歌舞伎の若衆みたいなかっこうをしているもんか」
むきになってその誤謬を正していた。
彼の訂正の届かない所にいる見物たちも、やがて、様子を見ていると、どうもそれらしくないことに気づいて、
「はてな?」
と、首をかしげはじめる。
原の真ン中へ出て行った小次郎は、そこに立つと、吉岡門下の四十名ばかりの者を、例の高慢な態度で見くだして、なにか演舌しているらしいのである。
「…………」
植田良平以下、御池十郎左衛門だの太田黒兵助だの、南保余一兵衛、小橋蔵人などとよぶ十剣の人たちは、その演舌が気にくわない顔つきで、むっと黙りこくったまま小次郎のよくうごく唇元を怖い眼をして見つめているのであった。
そこで、佐々木小次郎が、一同へ向って、演舌していうことには、
「まだここへ、武蔵も清十郎も来ないというのは、吉岡家の天佑ですぞ。諸氏はよろしく、手わけをして、清十郎どのがここへ来ぬうち、はやく途中から道場へ連れてお帰りなされ」
それだけでも、吉岡方の人たちを激昂させるに十分であるのに、その上にまた、
「わしのこの言葉は、清十郎どのへ対して、無二の助太刀でござりますぞ。この言葉以上の助太刀がどこにあろう。わしは、吉岡家にとって、天来の予言者だ。はっきりと、予言しておく。――やれば、清十郎どのは、気の毒だがきっと敗ける。武蔵という者のために、きっと生命をとられる」
かりそめにも吉岡門の人間として、これが、いい顔をして聞いていられるはずはない。植田良平の如きは、土気いろになって、小次郎をねめつけていた。
十剣の中の御池十郎左衛門は、我慢がならなくなったのであろう、小次郎がまだなにかいおうとする胸元へ、ぐっと自分の胸を寄せて行って、
「なにをいうのか、貴様は」
右手の肱を、顔と顔のあいだへあげたのは、いうまでもなく、居合の身がまえで、手練の一颯を見せようかという意思の表示である。
ニコと、小次郎は笑靨をこしらえてそれを眺めた。ずんと上背丈があるので、笑靨までが高慢に人を見下げて見えるのだった。
「お気にさわったか」
「あたりまえだ」
「それは失礼」
軽くかわして――
「では、助太刀はしないことにしよう。気ままになされというほかはない」
「た、たれが、汝ごときに、助太刀を頼もうや」
「そうでもありますまい。毛馬堤からわしを四条の道場へ迎えてゆき、あんなに、わしの機嫌をとったではないか。其許たちも、清十郎どのも」
「それは、ただ客として、礼を与えたまでのこと。……思い上がったやつだ」
「ハハハハ、よそう、ここでまた、其許たちと、試合の飛び火をこしらえても始まるまい。だが、わしの予言を、後になって、涙で悔いの種になすまいぞ。――わしが眼をもって見くらべたところでは、清十郎殿には九分九厘まで勝目がない。この正月の一日の朝、五条大橋の欄に武蔵という男を見かけ、その途端にこれはいけないと思ったのだ。……あの橋のたもとへ貴公たちの手で掲げた試合の高札が吉岡家の衰亡を自分で書いている忌中札のようにわたしには見えたのだ。……だが、人間の衰凋は、その人間にはわからないのが世の常かもしれん」
「だ、だまれッ、貴様は、きょうの試合に対して、吉岡家へ、ケチをつけに来たのだな」
「人の好意すら、素直に受け取れなくなるということが、そもそも、衰運の人間のもつ根性だ。なんとでも思うがよい。明日とはいわない。もうやがて一刻の後には、その眼がいやでも醒めずにいまい」
「いったな!」
険悪きわまる声が、唾とともに、小次郎へ浴びせかけられた。怒りきった四十名からの人数が、一歩ずつうごいても、その殺気は、真っ黒に野原をおおうほどなものがある。
だが、小次郎は心得たものなのである。逸はやく飛びのいて、売る喧嘩なら買ってもよいという血気が隠されなかった。せっかく、彼が自分で説いていた好意というものも、これでは怪しみたくなるようなものである。わるく解釈すれば、ここに集まった群衆心理を利用して、武蔵と清十郎との試合の人気を、自分が攫ってしまうつもりでやっている仕事ではないかと取られても仕方がないほどにまで、小次郎の眼は、途端に、好戦的であった。
群衆が遠くからその様子をながめて、どよめき出したところであった。
その人混みを突きぬいて、一匹の小猿が、原へ向って、まるで鞠でも転がすように跳んで行った。
小猿の前には、若い女が、これもまた、転ばんばかりの迅さで、見得もなく、駈けて行くのが見える。
朱実であった。
吉岡門下の人々と、小次郎とのあいだに、すんでのこと、血でも見るかと思われた険悪な空気は、その朱実が、ふいに後ろからさけんだ言葉で掻き消された。
「小次郎様、小次郎様ッ。……どこですか、武蔵様のいるところは。……武蔵様はいませんか」
「……あ?」
小次郎が振向く。
吉岡方の、植田良平や、他の人々も、
「ヤ、朱実じゃないか」
と、つぶやいて、一瞬ではあったが、すべての者の眼と怪訝りとが、彼女と小猿の姿にとらわれてしまった。
小次郎は叱るように、
「朱実、なんでお前はここへ来たのか。――来てはならんといっておいたはずだ」
「わたしの体です。来ては悪いのですか」
「いけないッ」
朱実の肩をかるく突いて、
「帰れ」
小次郎のいう言葉を、彼女は息を喘りながら烈しく顔を横に振って拒んだ。
「いやです。――私は貴方のお世話にはなりましたが、貴方の女ではないでしょう。……それを」
急に、朱実は、声をつまらせてしゃくり上げた。あわれっぽい嗚咽に、男たちの荒びていた感情が水をかけられたような気がしたと思うと、その気持を裏切って、朱実の次のことばは、男性のどんな場合のものよりも強い血相をふくんでいた。
「それを、なんですか、あなたは私を数珠屋の二階に縛りつけたりなどしてッ。――わたしが、武蔵様のことを心配すると、あなたは、わたしを憎いように苛めて来たではありませんか。……その上……その上……きょうの試合には、きっと、武蔵は討たれるだろう、わしも、吉岡清十郎には義理があるから、よしや清十郎が及ばなくても、助太刀して、武蔵を討ってしまわなければならぬ。……そういって、ゆうべから泣き明していた私を、数珠屋の二階に縛りつけて、あなたは今朝、出て行ったのではありませんか」
「……気が狂ったか、朱実、大勢の人中だぞ、青空の下だぞ、なにをいうのか」
「いいます。気も狂いましょう、武蔵様は、わたしの心の中の人です。……その人が、なぶり殺しになるかと思えば、じっとしてはいられません。数珠屋の二階から、大きな声を出して、近所の人に来てもらい、わたしの体の縛めを解いてもらって駈けつけて来たのです。わたしは、武蔵様に会わなければならない。……武蔵様を出してください。武蔵様はどこにいますか」
「…………」
小次郎は、舌うちをして、彼女の凄まじい饒舌の前に黙ってしまった。
逆上していることは確かだが、朱実の口走っていることに嘘はないらしい。それが嘘でないとすると、小次郎という男は、この女性に温かい世話をかけながら、半面にはまた、この女性の心と体とを極端に虐待して楽しんでいるのではないかと疑われる。
それを、人前で――しかもこうした場所で――忌憚なく女の口から暴かれたのでは、小次郎も、間の悪いことはもちろんだし、むかむかと腹も立って、女の顔をじっと睨めすえていた。
――すると。
いつも清十郎の供について歩く奉公人で、若党の民八という男が、街道の並木からここへ鹿のように走って来て、手をあげながら呶鳴った。
「た、たいへんだッ、皆さん、来て、来てくださいッ。――若先生が、武蔵のために、やられました。や、やられました」
民八の絶叫は、一同の顔から血の気を奪ってしまった。足もとの大地がふいに陥没して行くような驚きを、
「な、なにっ?」
異口同音に口走って、
「若先生が――武蔵に?」
「ど、どこで」
「いつのまに」
「ほんとか、民八」
上わずったことばがめいめいの口から不統一に吐き散らされた。――しかし、ここへ立ち寄って身支度して行くといっていた清十郎が、ここへは姿を見せもせずに、もう武蔵と勝敗を決してしまったという民八の報らせは、なんだか、まだ真実のような気がしない。
奉公人の民八は、
「早く、早く」
と、呂律のまわらない声をつづけながら、そこで息もやすまずに、元来た道のほうへ向って、また、のめるように駈け戻って行く。
半信半疑であったが、嘘や間違いとも思われないのである。植田良平や御池十郎左衛門などの四十余名は、
「すわ……」
と、民八の後につづき、野火の焔を越えてゆく獣のような迅さで、草埃を揚げながら、街道の並木へ出た。
その丹波街道を北へ向って、五町ほども走ってゆくと、また、並木の右手にわたって、渺としたまま、静かに、春先の陽に伏している広い枯野がある。
つぐみや鵙が、なんのこともないように啼いていたが、パッと空へ立った。――民八は、気狂いのように草の中へ駈け込んだ。そして、なにかの古塚の跡らしく饅頭形に土の盛られている辺りまで来ると、
「若先生っ、若先生っ」
もういちど、ありったけな声をふり絞って、大地へしがみつくように膝を折った。
「……やっ?」
「お、お」
「若先生だ」
突き当った事実のまえに、後から駈けて来る足がみな釘付けになった。見ると、藍花染の小袖に革のたすきをかけ、白い布で、額から後鬢へ汗止めをきりっと締めている侍が、草の中に顔を埋めて、俯つ伏しているのである。
「――若先生」
「清十郎様っ」
「しっかりして下さいっ」
「われわれです」
「門下達でござる」
抱き起された頭は首すじの骨がくだけているように、ぶらんと重く傾いでしまう。
白い汗止めの鉢巻には、一滴の血もついていなかった。袂にも、袴にも――辺りの草にも血らしいものはこぼれていない。けれど、眉も眼も苦しげに塞いだまま、清十郎の唇は野葡萄のような色をしていた。
「……息は、息は、あるのか」
「かすかに」
「おいっ、た、たれかはやく若先生のからだを」
「担うのか」
「そうだ」
ひとりが背を向けて、清十郎の右の手を肩にかけて立ち上がろうとすると、
「痛いっ……」
清十郎が苦悶して、叫んだ。
「戸板、戸板」
と、いいながら、三、四名の者が、並木を駈け出して行ったと思うと、やがて附近の民家から、雨戸を一枚外して持って来た。
清十郎の体は、戸板の上へ仰向けに寝かされた。呼吸をふき甦してからというものは、苦痛にたえかねて暴れまわるので、やむなく、門下たちは帯を解いて、彼の体を戸板にしばりつけ、四隅を持って、葬式のように暗然とあるき出した。
戸板が割れるかと思うほど、清十郎は、その上で足をばたばたさせながら、
「武蔵は……武蔵はもう立ち去ったか。……ウウム、痛い。右の肩から腕の付け根だ。骨が、砕けたものとみえる。……ウウムたまらぬ。門人衆、右の腕を、付け根から斬り落してくれ。――斬れっ、誰か、わしの腕を斬れっ」
空へ眼をすえて、清十郎は喚きつづけていた。
あまり怪我人が痛がるので、戸板の四隅を持って歩いてゆく門人たちは――殊にそれが師とよぶ人であるだけに、思わず眼を反むけてしまう。
「御池殿、植田殿」
立ち淀みながら、その者たちは後ろを振向いて、先輩に計った。
「あのように苦しがって、腕を斬れと仰っしゃるんですから、いっそのこと、斬って上げたほうがお楽になるんじゃありませんか」
「ばかをいえ」
良平も、十郎左衛門も、一言のもとに叱りとばした。
「いくら痛んでも痛むだけなら生命に別条はないが、腕を切って出血が止まらなかったら、そのままになってしまうかも分らない。とにかく、早く道場へお連れして、武蔵の木剣が、どの程度に打ちこんでいるものか、若先生が打たれたという右の肩骨をよく調べた上、腕を斬るなら、血止めや手当の用意をよくととのえておいてからでなければ斬れん。――そうだ、誰か、先に駈けて行って、道場のほうへ、医者を呼んでおけ」
二、三名が、その支度に先へ駈け出して行った。
街道の方を見ると、並木の松の間々に、乳牛院の原の方から慕って来た群衆が、蛾のように並んで、こっちをながめている。
それもまた、忌々しいものの一つだった。植田良平は、ただ暗い顔をして黙々と戸板の後に尾いてゆく人々へ、
「各、先へ行って、あいつらを追っ払ってくれ。若先生のこのすがたを、弥次馬どもの見世物に曝して歩けるか」
「よしっ」
鬱憤のやり場をそこに見つけたように、門下達のおおかたの人数が、血相を向けて駈け出したので、敏感な群衆は、蝗が散るように、埃を上げて逃げ出した。
「民八」
と良平はまた、主人の戸板のそばに付いて泣きながら歩いている奉公人の民八をつかまえて、
「ちょっと、こっちへ来い」
と、彼へも鬱憤を向けて、咎めるように問い糺した。
「な、なんですか」
民八は、植田良平の恐い眼を見て、歯の根のあわない声を出した。
「貴様は、四条の道場を出る時から、若先生のお供をして出たのか」
「はい、さ、さようでございます」
「若先生は、どこで身支度をなさったのだ」
「この、蓮台寺野へ、来てからでございました」
「我々が乳牛院の原で、お待ちうけしていることを、若先生には、ご存じないはずはないのに、どうして、いきなりここへ真直に来てしまったのか」
「手前には、なぜだか、一向にわかりません」
「武蔵は――先へここへ来ていたのか、若先生より、後から来たのか」
「先へ来て、あそこの、塚の前に立っていました」
「一人だな、先も」
「へい、一人でした」
「どう試合ったのだ? 貴様は、ただ見ていたのか」
「若先生が、手前に向って、万一、武蔵に敗けた時は、わしの骨はおまえが拾って行け。乳牛院の原には、明け方から門下たちが出張って騒いでいるが、武蔵との試合が決するまでは、あの者達へ、報らせに行ってはならんぞ――兵法者が、敗れをとるのは、時にとってぜひもないことだ。卑怯な振舞いして勝つほどの不名誉者にはなりたくない。――断じて、横から手出しはならんぞ――と、こう仰っしゃって、武蔵の前へすすんで行かれました」
「ふ……ウム、そして」
「武蔵の少し笑っている顔が、若先生の背を越して、私の方に見えました。なにか静かに、二人は挨拶を交わしているなと思ううちに、するどい声が野に響きわたって、ハッと思う眼に、若先生の木剣が空へ飛びあがったように見えますと、途端にもう、この広い野に突っ立っているのは、柿いろの鉢巻に、鬢の毛をそそけ立てている武蔵の姿がひとつしか見えなかったのでございます――」
大風が掃いて行ったように、並木の道にはもう弥次馬の影も見えない。
清十郎の呻きを乗せた戸板の一群れは、敗旗を巻いて故山に帰るつかれた兵馬のように、悄然と、怪我人の苦痛を気づかうような足なみで歩いて来た。
「……おや?」
ふと足を止めると、戸板を支えてゆく前の者が、自分の襟くびへ手をやった。後の者は、空を仰いだ。
戸板の上へも、ハラハラと松の枯れ葉がこぼれて来たのである。見ると、並木のこずえに、一匹の小猿が、キョトンとした眼を下へ向け、わざとのように、尾籠な姿態を示している。
「ア痛ッ」
仰向いた顔の一つへ、松の実が飛んで来たのである。顔を抑えて、
「ちくしょうッ」
その男が、小柄を投げた。小柄は、細やかな葉の隙間を光って通りぬけた。
口笛がどこかで鳴った。
小猿は、とんぼを打って、並木の樹蔭へ跳び下りた。そして、そこに佇んでいた佐々木小次郎の胸から肩の上へ、ヒョイと乗る。
「……オ!」
戸板をかこんでいる吉岡門下の人たちは、初めて、小次郎の姿と、もう一人の朱実をそこに見出したもののように、ギクと、眼の光を革めた。
「…………」
担架のうえに横たわっている怪我人をじっと見ていたが、小次郎は決して、それへ向って嘲笑らしいものは泛べてはいなかった。むしろ、敬虔な様子を示して、敗者の痛ましい呻きに眉をひそめたほどであったが、吉岡門下の人たちは、さっきの彼のことばをすぐ思い出して、
(嗤いに来たな)
と、感じたらしいのである。
植田良平か誰かが、
「――猿だッ、人間でない奴の仕業だ、相手にするな、早くやれ」
戸板を促すと、
「しばらく」
駈け出して来たかと思うと、小次郎はいきなり戸板の上の清十郎へ向って、話しかけた。
「――どうしたッ、清十郎殿、――武蔵めにやられましたな。――打ちどころはどこ? なに右の肩か……アアいかん、袋に砂利を入れたように骨は微塵だ。だが、仰向いて揺られて行ってはよくないぞ、体の内部にあふれている血が、臓器を侵し頭脳へも逆上ってしまうかも知れん」
周りの者へ向って、彼は、例の高飛車な態度でいいつけた。
「――戸板を下ろしなさい。なにを、ためらっているのか。下ろせ、いいから下ろしたまえ」
そしてまた、瀕死の態になっている清十郎へ、
「清十郎殿、起ってはどうだ。起てぬことがあるものか。傷手は軽い、多寡が右手一本ではないか。左の手を振って、歩けば歩けるにちがいない。拳法先生の子清十郎ともある者が、京都の大路を、戸板で戻ったといわれては、あなたはとにかく、亡き先生の名は地に墜ちる。これ以上の不孝はありますまい」
そういう小次郎の顔を、清十郎はじいっと見つめていた。眼ばたきをしない白い眼であった。
ふいに、がばっと、清十郎は起ち上がった。左の手に比べて、右の手は一尺も長いようにぶらんと他人の物みたいに彼の肩からぶら下がっていた。
「御池、御池」
「は……」
「斬れ」
「な、なにをですか」
「ばか、さっきからいっているではないか、わしの右手をだ」
「……でも」
「ええ、意気地のない……。植田っ、おまえやれ、はやくせい」
「ハ。……ハ」
すると、小次郎がいった。
「私でよければ」
「オ、たのむ」
小次郎は側へ寄った。清十郎のぶらんとしている手の先をつまんでぐっと上げ、同時に、前差の短い刀を抜いていた。なにかと怪しまれるような音が、どすっと周りの者の耳にひびいたと思うと、栓を抜いたような血しおとともに、腕は付け根から落ちていた。
体の重心を失いかけたように、清十郎は少しよろめいた。弟子達はそれを支えながら、傷口を抑え合った。
「歩く。おれは、歩いて帰るっ」
死人がものを叫んでいるような清十郎の顔つきであった。
弟子たちに囲まれたまま、彼は十歩ほどあるいた。ポトポトと、その跡には血が黒く大地に吸われていた。
「……先生」
「……若先生」
門下の人々は、桶のように清十郎の身を囲んで立ち止まった。そして気遣わしげに、
「戸板で急いだほうが、はるかに、お楽であったろうに、小次郎めが、出洒張って、いらざる真似を」
と、彼の無責任な仕方を、ことばのうちに皆、憤っていた。
「あるく!」
一息つくと、清十郎はまた二十歩ほど歩いた。足が歩くのではない、意地が歩いてゆくのである。
しかし、その意力は、永くは持たなかった。およそ半町ほど行くと、ばたっと、門人達の手へ仆れてしまった。
「それ、はやく医者を」
狼狽した人々は、もう拒む力のない清十郎を、死体を扱うように担い合ってわらわら駈け去った。
それを、見送ってしまうと、小次郎は、並木の下にじっと立っている朱実のすがたを振りかえって、
「見ていたか、朱実。――おまえにすれば、いい気味だったろうが」と、いった。
朱実は、青ざめた面持ちをして、そういう小次郎の平気な笑い顔を、憎むかのように白い眼で見つめた。
「おまえがいつも、口ぐせのように、寝てもさめても呪っていた清十郎だ。さだめし、胸がすっと透いたろう。……え、朱実、おまえの奪われた処女のみさおは、あれで、見事に報復されたというものじゃないか」
「…………」
朱実は、小次郎という人間が、とたんに、清十郎以上、呪わしい、怖ろしい、嫌な人間に思われてきた。
清十郎は自分をこうさせた、けれど清十郎は悪人ではない、悪人という程腹の黒い人ではない。
それから比べると、小次郎は悪人だ、世間で定義されているような悪人型ではないが、人の幸福を欣ばないで、人の禍いや苦しみを傍観して、自分の快楽に供する変質人である、そういう者は、盗賊をするとか、横領するとかいう型の如き悪人よりは、もっと質のわるい、油断のできない悪人という者ではないだろうか。
「帰ろう」
小猿を肩にのせて、小次郎はいいだした。朱実は、この男の側から逃げたいと思った。――しかし、妙に逃げきれないものを感じて、その勇気が出ないのである。
「……武蔵を捜してみたって、もう無駄だ。いつまで、この辺りにうろついているはずはない」
ひとり語をいいながら、小次郎は先へ歩いてゆくのである。
(なぜ、この悪党のそばを、離れられないのか、この隙に、逃げてしまわないのか)
と、朱実は自分の愚かさを怒りながら、やはりその後に尾いて、歩かずにいられなかった。
小次郎の肩に止まっている小猿が、その肩の上から後ろ向きになって、キキと、白い歯を剥いて彼女に笑いかけてくる。
「…………」
朱実は、小猿と同じ運命の者が自分であると思った。
そして心のうちで、ふと、あんな無慙なすがたになった清十郎が可哀そうに思われてきた。――武蔵というものはまた、べつな者として、彼女は、清十郎にも、小次郎にも、各、違った愛憎をもって、男性というものを、この頃は、複雑に考えはじめて来た。
――勝った。
武蔵は、心のうちで、自分へ凱歌をあげてみる。
(――吉岡清十郎に、おれは勝った。室町以来の京流の宗家、あの名門の子を、おれは倒した)
だが、彼の心は、すこしも歓んではこないのである。彼は、俯向きがちに、野を歩いていた。
ぴゅっ――と、低く掠めてゆく小禽の影が、魚のように腹を見せてゆく。やわらかい枯草と枯葉の中に、一足一足を沈め込むようにして歩いていた。
勝った後のさびしさ――というのは、賢い人たちの世俗的な感傷である。修行中の兵法者にはない言葉だ。けれど武蔵は、たまらない淋しさにつつまれて、果てなき野を独りあるいている。
(……?)
ふと彼は振向いてみた。
清十郎と出会った蓮台寺野の丘の松が、ひょろりと彼方に見える。
(二太刀とは打たなかった。生命にかかわるようなことはあるまいと思うが)
彼は、そこへ打ち捨ててきた敵の容態をふと案じた。手に引っ提げている木剣の刃を検めて見たが、木剣には血はついていない。
今朝――この木剣を帯びて場所へ来るまでは、敵には定めし大勢の介添もついていようし、わるくすれば、卑怯な計画もあろうにと、死所の覚悟はもちろんのこと、死に顔のわるくないよう、歯も白く塩でみがき、髪まで洗って出向いたものだった。
そこで、当の相手の清十郎に出会ってみると武蔵は、自分の想像していた人物とは、まったく違った人間のように思われて、
(これが、拳法の子だろうか)と疑った。
武蔵の眼に映った清十郎は、京流第一の兵法者とはどうしても見えない――いわば都会的な線のほそい公達だった。
ひとりの奉公人を召し連れて来ているほか、介添も助太刀もいないらしいのである。お互いに名乗り合って立ち合う途端に、武蔵は、
(これは、やる試合でなかった)
と、胸のうちで悔いた。
武蔵が、求めているのは、常に自分以上のものだった。しかるに今、この敵を正視すると、一年も腕をみがいて会うほどの敵でなかったことが一目で視てとれたのである。
その上に、清十郎の眸には、まったく自信がなかった。どんな未熟な相手にも闘うとなれば、猛烈な自尊心はあるものだが、清十郎には、眼ばかりでなく、全身に生気が燃えていないのだ。
(なぜ今朝、ここへ来たのか、こんな自信がない心構えで――。むしろ、破約したがよかろうに)
そう思い遣ってみると、武蔵は、敵の清十郎があわれになった。彼は、それの出来ない名門の子である。父から受けついだ千人以上の門下の上に、師と仰がれてはいるが、それは、先代の遺産であって、彼の実力ではなかった。
――なんとか、口実を作って木剣をひいたほうが相互のためだと武蔵は考えた。しかし、その機会はなかった。
「……気の毒なことをした」
武蔵は、もいちど、ひょろ長い松の生えている塚を振向いて、清十郎のために、自分の与えた木剣の傷手が、はやく癒えてくれればよいがと、心のなかで祈った。
いずれにしろ、今日の事は終ったのだ。勝ったにせよ、敗けたにせよ、後までこだわっているのは兵法者らしくないことだ、未練というものである。
――そう気づいて、武蔵が足を早めだした時であった。
この枯野に、なにを探しているのか、草むらの中にうずくまって、土を掻き分けていた老媼が、彼の跫音にふと顔をあげ、
「オ、ほ? ……」
驚いたような眼をみはった。
枯草と同じような淡い無地の着物をその老媼は着ていた。綿のふっくら入っている胴衣の紐だけが紫色なのである。俗服を着てはいるが、円い頭には頭巾をかぶり、年もはや七十頃であろう、どことなく上品で小がらな尼さんなのだった。
「……?」
武蔵も実はびっくりしたらしかった。道もない草むらだし、まるで野面と同じような色をしているこの年老った尼さんのからだを、もすこしうっかりしていたら、あぶなく踏みつけたかも知れないからである。
「……おばあさん、なにを採っているんですか」
人懐かしい武蔵の気持だったのである。こう、彼はやさしいことばのつもりで話しかけた。
「…………」
老尼は、そこへ屈みこんだ、武蔵の顔を見てふるえていた。
南天の実を聯ねたような珊瑚の数珠が袖口の手にちらと見える。そして、その手には、草の根を掻きわけて探した、まだ若い嫁菜だの、蕗のとうだの、いろいろな菜根が小笊の中へ摘みこまれて持たれていた。
その指先も、その朱い数珠も、かすかに顫いているので、武蔵はこの尼さんがなにをそんなに恐怖しているのかを怪しんだ。――で、彼は、尼さんが自分を野伏りの追剥とでも誤解しているのではなかろうかと思い、
「オオ、もうそんなに青い菜が出ていますか、春だからなあ、芹も採れていますね、すず菜も、母子草も、ああ、摘み草ですね、おばあさん」
殊さらに親しみを見せ、そばへ寄って、小笊の中の青いものを覗きかけると、老尼は、愕然と小笊をそこへ捨てて、
「――光悦や」
誰かを呼びながら、彼方へ駈けてしまった。
「…………」
武蔵は、あっけにとられたように、老尼の小さい体の行く先を見ていた。
ただ見れば、平たい野面にすぎないが、平たい野の中にもゆるい起伏がある。老尼の姿が、そのわずかに低い地の蔭になった。
人の名を呼んだところから考えると、そこには誰か、老尼の連れがいるにちがいない。そういえば、かすかな煙がその辺から漂っている。
「せっかく、あの老尼が丹精して摘んだものを……」
武蔵は、そこらへこぼれた青い種々のものを、小笊の中へ拾いあつめた。そして、自分は飽くまでやさしい心を示すつもりで、その小笊を持って、老尼の後から歩いて行った。
老尼のすがたは、またすぐ見ることができた。一人ではない――ほかに二人の連れの者がいた。
その三人は一家族の者とみえ、北風を避けるために、ゆるい傾斜の蔭を選び、陽なたに毛氈を敷いて、そこへ茶の道具だの、水挿だのまた、釜などもかけ、青空と大地を茶室として、自然のながめを庭としながら、風流に遊んでいるのだった。
三人のうちの一人は下男で、もう一人はこの尼すがたの老母の息子らしかった。
息子といっても、もう四十七、八かとも見える人物で、京焼の殿人形をそのまま大きくしたような色の白さと、豊かな艶のいい肉体を、頬にも、腹にも、ゆったりと持っている男だった。
さっき、この老母が、
(光悦や――)
と呼んだことを思い合せてみると、この人の名は、光悦とよぶに違いない。
光悦といえば、今、京都の本阿弥の辻には、天下に聞えわたっている同じ名の人間が住んでいる。
加賀の大納言利家から二百石ぐらいの仕送りをうけているのだと人は羨んでよく噂にいう。町家に住んでいて、二百石の蔭扶持をもらっていれば、それだけでも豪勢なくらしができるであろうに、なお、その上にも徳川家康からは特別に目をかけられているし、公卿堂上へは出入りをするし、天下の諸侯もこの一町人の家の前では、なんとなく気が措けて、馬上から店を見下ろしては通り難いというほどなのである。
本阿弥の辻に住んでいるところから、人呼んで本阿弥光悦というが、本名は次郎三郎、また本業は刀の鑑定と、研と、浄拭。――その三事の業をもって、足利の初世から、室町の世に栄え、今川家、織田家、豊臣家と代々の執権から寵遇をうけて今につづいて来ている旧い家すじでもあった。
そのうえに、光悦は、絵もよく描くし、陶器もやれば蒔絵もする――わけても、書においては、彼自身もいちばん自信のあるところで、まず今の名筆家をかぞえるならば、男山八幡に住む松花堂昭乗か、烏丸光広卿か、近衛信尹公――あの三藐院風と世間でいうところの書風の創始者か――この光悦といわれるほどなのである。
けれど、光悦自身は、それほどな評価さえ、まだ自分を尽しているものとは受取っていなかった。
こういう話さえ巷間に伝わっている――
或る時。
光悦が、日ごろ親しい近衛三藐院をそのお館に訪ねた。公は、氏長者前関白という家がらの貴公子であり、現職は左大臣というおごそかな顕官であったが、性格はそんな野暮な人でなかったらしい、なんでも朝鮮の役のあった年には、
(これは、秀吉一箇の業とはいえない、国家の興廃にかかわることだから、わしは日本のために坐視していられない)
といい、時の天子に奏上して、征韓の役に従軍したいことを願ってやまなかったという風の変ったところもある。
また、秀吉がそれを聞いて、
(天下、無益の大なるもの、是れに如くなし)
と、喝破したということであるが、そう嗤った秀吉の朝鮮征略そのものが、後では天下最大の無益と、世の人たちから時評されたのはおかしなことであった。それはそうと――その近衛三藐院を光悦が訪問した折、いつもの書道の話から花がさいて、
(光悦、おまえ今、書において天下の名筆を三人かぞえるとしたら、たれを選ぶな)
と、訊いた。
光悦は、さればにて候という態で、即座に、
「――まず次はあなた様、その次は、八幡の滝本坊――あの昭乗でございましょうかな」
すこしのみ込めない顔つきをして、三藐院は、もういちど問い直した。
「まず次は……とおまえはいったが、その最初の第一番は誰なのじゃ」
すると、光悦は、にやりともせず相手の眼を見ていった。
「わたくしでございます」
――こういう本阿弥光悦なのである。だが今、武蔵のまえにいる下男づれの母子がその本阿弥の辻の光悦かどうか、その家族にしては、供も一人しか連れていないし、衣服やあたりの茶道具なども、あまりに質素すぎる気がしないでもない。
光悦は、指に絵筆をはさんでいた。膝には一帖の懐紙が載っている。その懐紙には、彼が先刻から丹念に写生していた枯野の流れが描きかけになっていた。そばに散らかしてある反古にも皆、同じ水の線ばかりが手習いでもするように描いてあるのであった。
――ふと、振向いて、
(どうなされたのです?)
と問うように、光悦は、下男のうしろに顫いている母のすがたと、そこに立っている武蔵のすがたとを静かな眼ざしで見くらべた。
その穏やかな眸に触れた時、武蔵は自分の気も和んでくる心地がした。しかし親しみというには余りに遠いものなのだ。自分らの近くには見当らない型の人間であって、そのくせ非常に懐かしみを覚えさせる眸なのである。腹の豊かなように、底の深い光をたたえて、その眼はまたいつのまにか、武蔵に対して、旧知のような笑みをにこにこ示していた。
「御牢人さま。……なんぞ母が過ちでもいたしましたかな。せがれの私がもう四十八にもなりまする、この母の年もそれでお察しくださいませ。体はすこやかでございますが、ちと、眼がかすむなどとこの頃は申しまする。母の粗相は幾重にも私がおわびいたしましょう。ご勘弁くださいまし」
膝の懐紙と指の絵筆を、毛氈のうえに置いて、ていねいに手をつかえようとするので、武蔵は、いよいよもって、そんな理由で自分が老母の驚きを求めたわけでないことを、明白にしなければならなくなった。
「あいや……」
自分も膝を地へ落して、武蔵はあわてて、光悦の辞儀をさえぎった。
「あなたがご子息でござるか」
「はい」
「おわびは、拙者からせなければならぬ。なんで、お驚きなされたか、自分にはとんと分らぬが、此方のすがたを見ると、ご老母が、この小笊を捨ててお逃げなされた。……見ればお年寄が、せっかく摘まれた若菜や芹などの種々が後に散っているではないか。この枯野からこれだけの青い物をお採りなされたご老母の丹精を思うと、自分がご老母を驚かした理由はわからぬが、済まないと存じたのです。……で、菜を小笊へ拾いあつめて、これまで持って来ただけのことです、どうかお手をあげてください」
「ああ、そうですか」
光悦は、それですっかり分ったように暢々と笑いながら、母のほうへ向って、
「お聞きあそばしたか、母者人は、なんぞ思い違いをなされたのでございましょうが」
すると、彼の母は、いかにもほっとしたらしく隠れていた下男の背の蔭から少し出て来て、
「光悦や、それでは、その御牢人様は、なにもわし達に危害を加えようとするお人ではありませぬか」
「害意どころか、あなた様が小笊の若菜を捨てておいでなさったので、この枯野からそれだけの青い物をさがして摘んだ年寄の丹精がいとしいと仰っしゃって、これへ持って来てくだされたほど、若い武人にしては心のやさしいお方でございます」
「それはまあ、済まぬことを……」
と、老母は武蔵の恐縮する前へ、手頸の数珠へ顔がつくほど低い辞儀をして謝り入るのであった。
それから、心も打ち解けたように、この老母まで笑いこぼれながら、息子の光悦にこう話すのであった。
「わしは、今思うと、まことに済まんことじゃったが、この御牢人様を一目見た時、なにか、血臭いものが眼の前へ来たようで、体じゅうの毛あながぞくとひき緊められるように恐かったのじゃ。今、こうして見れば、なんの事もないお人じゃがの」
そう聞いて、武蔵こそ、この老母の何気ないことばに、はっと胸を衝かれた。われに返って、われという自身の相を、他人から見せつけられた気がしたのである。
――血臭いお人。
世辞のない光悦の老母は彼のことをさしてそういった。
おのれの身についているにおいというものは、誰でも自分には分らないものに違いないが、武蔵はそういわれて、卒然と、自分の影にこびりついている妖気と血なまぐささに気づいた。そして、この老母の澄んだ感覚に、かつて知らない羞恥をおぼえた。
「武者修行どの」
光悦は、それを見のがさなかった。武蔵の烱々と光っている異様な眼ざしだの、油気のない殺伐な髪の毛だの――体のどこを触れても斬れそうな様子をしているこの青年に、彼はなにかしら、愛せるものを見出しているらしいのである。
「おいそぎでなくば、少しおやすみなさらぬか。まことに静寂でござりますぞ、黙っていても、清々と、よい気もちで、心が空の青さに溶けてゆくような」
老母もまた、共に、
「もすこし菜を摘んだら、やがて草粥を炊いて、馳走しよう。お嫌いでなくば、茶も一ぷくまいらせよう程に……」
とこの母子の間に交じわっていると武蔵は、自分のからだに生えている殺気の棘が除れてゆくように気が和んでくる。他人の中とは思われない温か味なのだ。――いつとはなく草鞋を解いて毛氈のうえに坐ってしまう。
うち解けて、だんだん聞いてみると、この老母は妙秀といって、都でもかくれのない賢婦人であるし、息子の光悦も、本阿弥の辻に住む有名な芸林の名匠で、まぎれもなくあの本阿弥光悦であることがわかってくる。
およそ刀をさす人間で、本阿弥家の名を知らない人間はない。けれど武蔵は、その光悦という人や、光悦の母の妙秀という人を、その先入主にある有名なものとは結びつけて考えられなかった。この母子が、そういう由緒のある家がらの当人であると聞いても、やはりこの広い枯野で偶然に出会った、ただの人としか思えないし、またそれがゆえに抱いていられる懐かしみや親しみを遽に、固くなって捨ててしまいたくなかった。
妙秀は、茶釜の湯の沸りを待ちながら、
「このお子は、幾歳じゃろ」
と、息子へいう。
息子の光悦は、
「さあ、二十五、六歳でもございましょうかな」
と、武蔵を見て答える。
武蔵は首を振って、
「いえ、二十二歳です」
すると妙秀は、さも驚いたように眼をあらため、
「まだそんなにお若いのか、二十二ではちょうど、わしの孫というてもよい」
それからまた、故郷はどこか、両親はあるのかないのか、剣は誰に習ったかなどと、妙秀はいろいろ訊ねてやまない。
やさしい老母から孫あつかいにされると、武蔵は、童心をよび起されて、ことばづかいまでおのずと子供らしくなってしまう。
常に、厳しい鍛錬の道に起き臥して、自分を刃鉄のように鍛え固めること以外には、生命を呼吸させたことのない武蔵だった。今、妙秀とそうして話していると、ありのままにそこへでも寝ころがって、甘えてみたいような心持を、久しく風雨にばかり曝されて忘れていた肉体の中に、ふいに思い出した。
だが、武蔵には、それができない。
妙秀も、光悦も、この一枚の毛氈のうえに乗っている物は、茶腕[#「茶腕」はママ]一つまでが皆、空の碧さと溶けあい、自然と一つになり、野を飛ぶ小禽とも同じになって、静かに遊び楽しんでいるように見えるが――武蔵ひとりは、継子のようにぽつねんと在って、その姿はどうしても自然とはべつ物の存在としか見えなかった。
なにか話を交わしているうちはいいのである、その間は武蔵も、この毛氈のうえの人たちと溶け合って、自分は慰められている。
けれど、やがて妙秀が茶釜に対して沈黙し、光悦が絵筆を持って背を向けてしまうと、武蔵は、たれと語りようもなく、また、なにを楽しむすべも知らず、憶い出されるものは、ただ退屈と、孤独のさびしさだけだった。
(なにが面白くて――この母子はまだ春も浅いのに、こんな枯野へ来て、寒い思いをしているのか?)
武蔵には、この母子の生活が不思議なものに見えてならない。
摘み草が目的なら、もっと暖かくなって人出が賑う頃にもなれば千種も萌えているし花も咲いていよう。――茶をたてて楽しむことが目的ならば、なにもわざわざ茶釜や茶碗を持って来て、物好きな不自由をしないでも、本阿弥家ともいわれる旧家である。住居にはよい茶室もあるに違いない。
(絵を描くためか?)
と、武蔵はまた考えて、光悦の広い背中を見まもった。
すこし身を横へねじって、その光悦の筆をのぞいてみると、先刻もそうであったが、今もまた懐紙へ描いているのは、水の流ればかりであった。
ここから少し離れている枯草のあいだに、うねうねと細い野川の水が這っていた。光悦は、その水の相を線に現そうとして他念もない様子なのである。つかもうとしても墨を通して紙のうえへ象として現してみると、なにもつかまれていないので、光悦は、何十遍でも、水の相をつかむまで、飽かずに同じ線を描いているのだった。
(……ははあ? 絵もなかなか易しくないものだ)
武蔵はふと、そこへ自分の退屈を預けて見恍れる。
(――敵の相を剣のさきへおいて、自分が無我になった時――自分と天地がひとつの物になったような気持――いや気持などというものさえ失くなった時、剣はその敵を斬っている。――光悦どのは、まだあの水を敵として睨んでいるから描けないのだろう、自分があの水になればよいのだ)
なにを観るにも、武蔵は、剣というものを離れては考えられない。
剣から画を考えても、ぼんやりとその程度には理解できる。――けれどなお分らないのは、妙秀や光悦が、いかにも楽しげにいることだ。母子として、黙って背中を向け合っているが、その姿がどっちを見ても、今日という一日を楽しんで、飽かないさまでいることが不思議でならない。
(閑人だからだろう)
彼は、単純にそう片づけ、
(この険しい時勢の中に、絵をかいたり、茶をたてたり、こういう人もいるものかなあ。……おれには縁のない世界の人間だ、親代々の財産をだいじに抱えて、時勢のそとに遊んでいる上等な逸民という者だろう)
退屈はやがて、気懶いものを誘ってくる。懶気は禁物と誡めている武蔵にとって、そう気がつくと、わずかな間も、こんな所にいられない気がしてくる。
「お邪魔をしました」
武蔵は、脱いだ草鞋をはきかけた。思わぬ暇つぶしでもしたように、その様子が遽に取って付けたように見えた。
「……ホ、お立ちか」
妙秀は意外そうにいった。光悦も静かにふり向いて、
「せっかく、母が今、粗末ですが茶をさしあげようと思って、心をこめて釜の湯を見ております。まあよいではありませんか。――先ほど、あなたが母へ話していたのを伺うと、あなたは今朝、蓮台寺野で吉岡家の嫡子と試合をなされたお方でしょう。戦の後の一ぷくの茶ほどよいものはない――と、これは加賀の大納言様も家康公もよく仰っしゃっていた言葉です。茶は養心です。茶ほど心を養ってくれるものはありません。動は静から生じるものと私は思う。……まあお話しなされ、わたくしもご相伴いたしましょう」
かなり距離はあるが、やはりこの野つづきである蓮台寺野で、今朝がた自分と吉岡清十郎との試合があったことを、この光悦は知っていたのか。
それを知りながら、そんなことはまるで、よその世界の騒ぎとして、静かにこうしていたのか。
――武蔵は、もいちど光悦母子の姿を見直した。そして、坐り直した。
「では、せっかくですから、頂戴してまいりましょう」
光悦はよろこんで、
「おひきとめするほどではありませんが」
と、すずり筥の蓋をして、絵の反古がとばないように筥をのせておく。
光悦の手に持たれてそれが動いた時、厚い黄金や白金や螺鈿でくるまれているような筥の面が、燦然と玉虫の体みたいに光って眼を射たので、武蔵は思わず身をのばしてのぞき込んだ。
下に置かれてあるのを見ると、そのすずり筥の蒔絵は、決して、眼を射るような絢爛ではない。麗しいことは、桃山城の豪華を小さく纒め込んだほども麗しいが、その上に千年も経ったような匂いの高い燻みがかかっているのである。
「…………」
飽かないように、武蔵は見いっていた。
十方の碧落よりも、四方の野辺の自然よりも、武蔵にはこの小さい工芸品が、いちばん美麗に見えた。見ている間だけでも、慰められた。
「わたくしの手すさびですよ、お気にいりましたかな」
光悦のことばに、
「ほ? あなたは蒔絵もするのですか」
光悦は黙って微笑するのみであった。手芸の美が、天然の美よりも、尊く見えるらしい武蔵をながめて、光悦は心のうちに、
(この青年も田舎者)
と、すこし嗤っているような趣である。
そういう大人の高所から、自分が低く観られているとは知らないで武蔵は、
「見事ですな」
となおも、眼を離たずにいると、光悦はまた、
「今、わたくしの手すさびといいましたが、その構図に配してある和歌文字は、近衛三藐院様のお作で、またお書きになったのもあのお方です。ですから、ありようは二人の合作と申さなければなりません」
「近衛三藐院というと、あの関白家の」
「そうです、龍山公のお子様の信尹公のことです」
「私の叔母の良人にあたる者が、近衛家に長年勤めておりますが」
「なんと仰っしゃる御人?」
「松尾要人と申します」
「ほう、要人殿ならば、よう知っています。毎度近衛家にあがるので、お世話にあずかったり、また要人殿もよく、宅へ訪ねてくださるし」
「ア、そうでしたか」
「母者人」
と、光悦はまた、そのことを、母の妙秀にも話し直して、
「どこにご縁が繋がっているかわかりませぬな」
といった。
「おおそうか。ではこのお子は、要人殿の義理の甥御か」
妙秀はそういいながら、風炉先のそばを離れて、武蔵と息子の前へすすみ、優雅に茶式の礼儀をした。
もう七十ぢかい老母であったが、茶事の作法が身についていて、自然な身ごなしや、細やかに動く指の先や、すべての振舞いが、いかにも女らしく、優しく、そして美しかった。
野人の武蔵は、光悦に倣って畏まっていた。その窮屈らしい膝の前に、菓子の木皿が置かれた。菓子はつまらない淀饅頭であったが、この枯野には見あたらない青い木の葉を敷いていた。
剣に形、作法などがあるように、茶にも、法があると聞いている。
今も、妙秀のそれを、武蔵は、じっと見ていて、
(立派だ)
と、思った。
(隙がない)
彼の解釈は、やはり剣に拠る。
達人が剣を把って立った姿というものは、さながらこの世の人間とも思われない。その荘厳なものを今、茶をたてている七十の老母のすがたにも彼は見た。
(道――芸の神髄――何事も達すると同じものとみえる)
うっとりと彼は考えていた。
だが。
われに返ってみると、帛紗に乗せて膝のまえに置かれた茶碗を、武蔵は、どう持って、どう飲んでよいものかとためらった。茶事の席になど連なった経験もないのである。
そこらの土を子供が捏たように不器用に見える茶碗だった。しかし、その茶碗のいろの中にたたえられている濃い緑の泡つぶは、空よりも静かで深い色をしていた。
「…………」
光悦はと見ると、もう菓子を食べている。寒い夜に温かい物でも抱くように、両手で茶碗を持って、それもふた口か三口で飲んでしまう。
「――光悦どの」
武蔵はいってしまった。
「武骨者です、実は、茶などいただいたことがないので、飲むすべも、作法も知らないのですが」
すると、妙秀が、
「なんのい……」
と、孫でもたしなめるように、やさしく睨めた。
「茶に知るの、知らぬのという、智恵がましい賢らごとはないものぞよ。武骨者なら武骨者らしゅう飲んだがよいに」
「そうですか」
「作法が茶事ではない、作法は心がまえ。――あなたのなさる剣もそうではありませぬか」
「そうです」
「心がまえに、肩を凝らしては、せっかくの茶味が損じまする。剣ならば、体ばかり固うなって、心と刀の円通というものを失うでござりましょうが」
「はい」
武蔵は、思わず頭を下げて、次のことばに耳をすましていたが、ホ、ホ、ホ、ホ、と妙秀はその後を笑い消して、
「わたくしに、剣のことなどは、何もわかりませぬがの……」
と、いった。
「いただきます」
武蔵は、膝が痛いので、畏まっていた膝をあぐらに組み直した。そして、飯茶碗から湯でも飲むようにがぶと飲んで下へ置いた。
(苦い)
と思った。
それだけのことで、美味いなどとは世辞にもいえない気がした。
「もう一ぷく、いかがでございますか」
「たくさんです」
どこが美味いのか、なんでこんな物を深刻らしく、味の侘の作法のというのか。
武蔵には、解せなかった。しかし彼は、最前からこの母子に持った疑問と共に、一概に軽蔑し去る気にもなれない。茶道が、自分が正直に感じただけのものならば、東山時代の長い文化を通じて、あのように発達してくるはずがない。――また、秀吉だの家康だのという人物が、その道の隆盛を支持するわけがない。
柳生石舟斎も、老後をその道にかくれていた。思い出すと、沢庵坊もよく茶のことはいっていた。
――武蔵は、帛紗の上の茶碗へ、もいちど眼を落した。
石舟斎を思いだしながら、その茶碗をまえにおいて見つめていると、ふとまた武蔵は、あの時、石舟斎から贈られた一枝の芍薬を思いだした。
――白芍薬の花をではない、あの枝の切り口を。あの時うけた強い戦慄を。
(おやっ)
と、口に出たかと思うほど、武蔵は、その茶碗から心へひびいて来るなにものかに烈しく打たれた。
手を伸べて、抱きこむように、茶碗を膝へ乗せて見る。
(……?)
今までの武蔵とはまるで人が違ったような熱をおびた眼の光が、つぶさに、茶碗のそこや箆目に見いって、
(……石舟斎が切った芍薬の枝の切り口と、この茶碗の土を切ってある箆目のするどさと。……ウウム、どっちともいえない非凡人の芸の冴えだ)
肋骨が膨らむように息がつまってくる。――何ゆえにという説明は彼にもつかないのである。巨腕を持った名匠の力量がそこに潜んでいるというほかはない。肉声で現しがたい無言のことばが、沁々と心へ浸み入ってくるのである。それを受け容れる感受性を、武蔵が人いちばい持っていることも事実である。
(誰だろう、この作り人は)
手に持つと離せない気のするような触覚なのだ。
武蔵は、訊かずにはいられなかった。
「光悦どの、私には、今もいったとおり、陶器のことなど、皆目わからないのですが、この茶碗は、よほど名工の作ったものでしょうな」
「どうして?」
光悦のことばは、顔のようにやわらかい。厚ぼったい唇ではあるが、女みたいな愛嬌をこぼすことがある。少し眼じりは下がっているが、魚のように切れ長で、威があって、たまたま、揶揄するような皺もよせる。
「――どうしてといわれると困るのですが、ふと、そんな気がするのです」
「どこか、何かを、お感じになったのでしょう、それを仰っしゃって下さい」
と、光悦は意地がわるい。
「さあ?」
武蔵は考えて、
「――では、いい尽くせませんが、いいましょう。この箆ですぱっと切ってある土の痕ですが……」
「ふむ!」
芸術家の持ち前を光悦も持っていた。芸術の理解などは程度がひくいものと相手をきめてかかって、武蔵も低く見ていたのだった。ところが案外、いい加減に聞いていられないことをいい出しそうなので、急に女のような優しくて厚い唇が、難しく大きく緊まった。
「――箆の痕を、武蔵どのは、どう思いますか」
「するどい!」
「それだけですか」
「いや、もっと複雑だ。非常に太っ腹ですな、この作者は」
「それから」
「刀でいえば、相州物のように、斬ればどこまでも切れる。けれど麗しいにおいでつつんでおくことを忘れない。また、この茶碗の全体のすがたからいえば、非常に素朴には見えるが、気位といいましょうか、どこかに王侯のような尊大な風があって、人を人とも思わないところもある」
「ウウム……なるほど」
「ですから、この作者は、人間としても、ちょっと底がわからないような人物だと私は思う。しかし、いずれ名のある名匠には違いありますまい。……ぶしつけですが、伺います、いったいなんという陶工ですか、この茶碗を焼いた人は」
すると光悦は、厚でな盃のふちみたいな唇を綻ばせて、よだれを湛えながらいった。
「わたくしですよ。……ハハハハ、わたくしがいたずらに焼いた器ですよ」
光悦もひとがわるい。
武蔵に批評させるだけ批評させておいてから、さて、その茶碗の作者なら実はわたくしです、といったものである。揶揄されたような悪感を相手に抱かせないところなどは、なおさら罪がふかいといわなければならないが、四十八歳の光悦と、二十二歳の武蔵とでは、年齢の差というものがやはり争えない。武蔵は、自分が試みられているなどとは少しも思わず、正直に感服して、
(この人はこんな陶器まで自分で焼くのか。……この茶碗の作者がこの人だとは思えなかったが)
と、光悦の多芸多能の才に、いやその才よりも、粗朴な茶碗のような姿をしていて、実はその裡に隠している人間的な奥行の深さを――武蔵は気味わるいほどに思った。
彼が自負している剣の理から、この人物の底を計ろうとしても、持ちあわせの尺度では寸法が足らないような尊敬を正直に持ってしまった。
こう感じて来たら、武蔵はもう弱い。その人間に対して、頭を下げずにいられない性分なのだ。自分の未熟さを、ここにも見出して、彼は大人の前に小さく羞恥んでしまう一箇の未成年者でしかなかった。
「あなたも、陶器はおすきのようだな、なかなかよく観る」
光悦がいうと、
「いや、拙者は、皆目そのほうのことはわかりませぬ、あて推量です。失礼なことを申して、おゆるし下さい」
「それはそうでしょう、いい茶碗一つ焼くにも、一生かかる道ですから。けれど貴方には、芸術を理解する感受性がある、かなり鋭い――やはり剣をおつかいになるので自然に養われた眼でしょうな」
光悦も多分に、武蔵の人間を、心のうちでは認めていた。しかし大人というものは、感心しても口で賞めないものだった。
つい、時の経つのを武蔵は忘れていた。そのうちに、下男が、菜を摘み足してくると、妙秀は、粥を煮、菜根を炊いて、これを光悦の手づくりらしい小皿に盛り、瓶の芳醇を開けて、ささやかな野の食事が始まる。
その茶料理も、武蔵には、余りに淡味すぎて、美味いとは思わなかった。彼の肉体は、もっと濃厚な味や脂を欲しているから。
――けれど彼は、素直に菜や大根のうすい味を味わおうとした。光悦からも妙秀からも、習っていいものが多分にあることを知ったからである。
――が何時、吉岡方の者が、師の報復を企んで、ここへ迫って来ないとも限らない。武蔵は落着かない気持に時々駆られて、野の遠方此方を見まわした。
「ご馳走になりました。先を急ぐ身でもありませんが、試合に及んだ相手方の門人が参ると、ご迷惑がかからぬ限りもありませぬ。――いずれまた、ご縁があれば」
妙秀は、立って行く武蔵を見送って、
「本阿弥の辻へも、おついでの折になど、立ち寄ってくだされい」
光悦もうしろからいった。
「武蔵どの、折を改めて、宅のほうへ、お越し下さい。――ゆるりとまた、話しましょう」
「参ります」
来るか来るかと思っていた吉岡方の者の影は、野のどこにも見当らない。――武蔵はもういちど振りかえって、光悦母子の遊んでいる毛氈の世界をながめた。
自分の歩いている道は、ただ一途で、細くて嶮しい道だと思う。光悦の楽しんでいる天地の明るくて広いことには及ぶべくもない。
「…………」
武蔵は黙々と、野末へ向って、前のとおり俯向きがちに歩いて行った。
「なんて態だ、吉岡の二代目は。――いい気味だと思っておれは飲んでいるんだ、これで、グッと胸が下がったというものさ」
場末の牛飼町の中にある居酒屋だった。土間のうちは、薪の煙や煮物のにおいでもう暗かったが、外は、夕焼け空が火事のように道まで赤くしていて、暖簾のうごくたび、東寺の塔の夕鴉が黒い火の粉みたいに遠く見える。
「まあ飲めやい」
板を挟んで、対い合いに腰かけているのは三、四人の小商人。また独りで黙々と飯を食べている六部があるし、銭独楽をまわして、酒を賭けている労働者の一かたまりだの、せまい土間にいっぱいだった。
「暗いぞ、おやじ、鼻へ酒を入れちまうじゃねえか」
誰かがいうと、
「はい、はい、ただ今」
片隅の土間炉から、薪の炎が大きく立つ。外が暮れてくるほどに、この中は赤々と浮いてきた。
「思い出しても、癪にさわってならねえ。おととしからの炭薪や魚の代だ。あの道場で費うのだからちッとやそっとの物じゃあない。大晦日こそ、と出かけて行ったところが、門弟どもが、勝手なごたくを並べたあげく、掛取のおれたちを、外へ抓み出しゃあがったじゃねえか」
「まあ、そう怒んなさんな、蓮台寺野の一件で、おれたちの鬱憤も因果はてきめん、あいつらへ返っていらあな」
「だからよ、今頃まで、怒っているわけじゃねえ、欣しくってたまらねえのだ」
「だが、吉岡清十郎も、話に聞けば、あんまり脆い負け方をしたものじゃねえか」
「清十郎が弱いのじゃない、武蔵という男が、途方もなく強いらしいんだ」
「なにしろ、たんだ一撃ちで、清十郎は左の手だか右の手だか、どっちか一本失くしちまった。それが木剣だというからすごい」
「行ってみたのか、おめえは」
「おれは見ねえが、行ってみた連中の話を聞くと、そんなことだったらしい。清十郎は戸板にのせられて帰って来たが、生命だけはまあ取り止めるらしいが、生涯、片輪者ということになってしまった」
「後は、どうなるんだろう」
「門弟たちは、どうあっても武蔵をぶち殺してしまわなければ道場に吉岡流の名はあげて置かれねえというんで、頻りにいきり立っているが、清十郎さえ刃が立たない相手とすると、武蔵に対って勝負のできそうな者は、弟の伝七郎よりほかにないというので、今――その伝七郎を探し廻っているといううわさだが」
「伝七郎というのは、清十郎の弟か」
「こいつは、兄よりはずんと、腕のほうは出来るらしいが、手に負えない次男坊で、小遣いのあるうちは、道場へも寄りつかないで、親父の拳法の縁故や名まえをだしにつかって、諸所方々、食いつめ者のように、遊び歩いているという厄介者だ」
「そろいもそろった兄弟だな。あの拳法先生みたいな偉いお人の血すじに、どうしてそんな人間ばかり出来たんだろう」
「だから、血すじだけじゃ、いい人間は出来ねえという証拠だな」
――炉の薪明りが、また暗くなりかけた。そのそばに腰かけたまま先刻から壁へ倚りかかって居眠っている男がある。だいぶ酒も入っているので、居酒屋のおやじはそっとして置いたが、炉へ薪を加えるたび、火がハゼて男の髪や膝へかかるので、
「旦那さま、着物のすそへ、火がつきますで、もすこし後ろへ床几をお退げなすって」
いうと、男は、酒と火で充血した眼を、鈍そうに開けたが、
「ウム、ウム。わかっているよ、分っているんだ、そっとしておいてくれ」
腕ぐみも解かなければ、腰も上げないのである。悪酔いでもしているのか、ひどく鬱ぎこんでいるのだ。
その酒癖の悪そうな青すじの立っている顔をのぞいてみると、これは、本位田又八だった。
蓮台寺野の過ぐる日のことは、ここばかりでなく、行く先々でのうわさだった。
武蔵の名が有名になるだけ、本位田又八には、自分が惨めに見えて来てならない。――自分も何とか一人前のかっこうがつくまでは、武蔵の話も聞きたくない気がするが、耳をふさいでも、こうして少し人の寄る所というと話題に出るので、彼の憂鬱は、酒にも紛れきれない様子に見える。
「おやじ、もう一杯酌んでくれ。――なに、冷酒でいい、そこの大きな桝で」
「お客様、だいじょうぶでございますか、お顔いろがすこし」
「ばかをいえ、顔の青くなるのはおれの持ちまえだ」
もうこの桝で何度飲んだろう。飲んだ当人よりも、おやじの方が忘れているくらいである。喉を通ってゆく酒は一息だった。
飲みほすと、また黙然と、壁に倚りかかって腕ぐみしているのだ。あれだけの量を飲み、足元には炉の炎が立っているのにまだ顔には色が出ない酒だった。
(――なあに、おれだって今にやってみせる、なにも、人間成功するには、剣とは限るまい。金持になろうが、位持になろうが、やくざになろうが、その道での一国一城の主になれやあいいんだろう。おれも武蔵もまだ二十二だ、早く世間へ名を売ったやつに、大成した人間は少ねえ。天才だとか、なんとか思い上がって、三十ごろにもなれば、もうよぼよぼしてしまう、父っちゃん小僧というところが、そういう人間の極り相場だ)
耳にも聞きたくないと思いながら、腹ではそんな反感を繰返していた。今度のうわさを、大坂表で聞くとすぐ、京都へ足を向けて来たのも、べつになんの目的があるというわけでもない、ただ武蔵が気になってならないので、その後の様子を見に来ただけのことに過ぎない。
(――だが、今にあいつも、思い上がっているうちに、小ッぴどい目に遭うだろう。吉岡にだって人物はいる、十剣士もいれば、舎弟の伝七郎もいる……)
武蔵の名声が一敗地にまみれるような日を、彼は絶えず心のどこかで待っていた。そして、自分の上には、僥倖をさがしていた。
「……アア渇いた」
ひょろりと、火のそばから壁にすがって立ち上がった。ほかの客の顔はみな振向いて彼を見た。又八は、隅の大きな水瓶へ首を突っこむようにして、柄杓から水をのみ、その柄杓を抛りすてると、そのまま、門口の暖簾をわけて、ふらふらと外へよろめいて行く――
あきれ顔に、ぽかんとしていた居酒屋のおやじは、又八のすがたが、暖簾の外にかくれると、気がついたように、
「もしっ、だんな」
と、追って出て、
「――お勘定をまだいただいてございませんが」
ほかの客も、暖簾の隙からみな首を突き出した。又八は、あぶない腰つきで立ちどまりながら、
「なに? ……」
「旦那、うっかり、お忘れなすったんでございましょう」
「わすれ物はねえが」
「御酒の……へへへへ……御酒のお払いを、まだいただいてございませんが」
「アア勘定か」
「おそれ入りますが」
「金はねえや」
「えっ」
「……困ったなあ、金はねえ。ついこの間まではあったんだが」
「じゃあ、てめえは、初手から文なしで飲みやがったんだな」
「……だ、だまれ」
又八は、懐中や腰をさぐり廻して、一箇の印籠を手につかむと、それを居酒屋のおやじの顔へ向って投げつけていった。
「おれも二本差しているのだ。まだ、飲み逃げするほど落ちぶれちゃあいねえ。――酒の代にゃあ過ぎ物だが、取っておけ、剰銭はくれてやるから」
投げた物が印籠とは見えなかったのである。それを顔へぶつけられて、居酒屋のおやじが、痛いッといいながら両手で顔をおおうと、暖簾の内から覗いていた客の大勢が、
「ひでえ奴だ」
と、又八の行為を憎み、
「飲み逃げ奴」
罵ると、いっせいに、
「――たたんじまえ」
と、外へ出て来た。
いずれも多少なり酒気をおびている者ばかりだ。酒を飲む者ほどまた、酒の上の不徳漢をつよく憎むものである。
「くせになる、野郎、金を払ってゆけ」
と前後を取り囲んで、
「てめえのような奴は、おおかた年中、その手で飲み屋を飲み倒しているのだろう。――金がなければ、おれ達に、一つずつ頭を撲らせろ」
こう連中がいきまいて、袋だたきの私刑を宣言すると、又八は、刀の柄で身を護るように立って、
「なんだ? おれを撲る? 面白い、撲ってみろ。――貴様達は、おれを誰だと思っているか」
「乞食よりも意気地がなくて、盗っ人よりも太え芥溜牢人と思っているが、それがどうした」
「いったな」
青じろい眉間をよせて、自分の周りを睨めまわしながら又八は、
「おれの名を聞いて驚くな」
「誰が驚くものか」
「佐々木小次郎とはおれのことだぞ。伊藤一刀斎のおとうと弟子、鐘巻流のつかい手、小次郎を知らねえか」
「笑わかしやあがる。きいた風な文句はいいから、金を出せ、飲んだ金を」
一人が、手を出して責めると、又八は、それに返すことばの代りに、
「印籠で足らなければ、これもくれてやるっ」
抜き打ちに、刀を払って、その男の手首を斬って落した。きゃっ――と大げさな悲鳴をあげたので、まさかと多寡をくくっていた居酒屋の相客たちは、自分の血がこぼれたような錯覚に、尻と頭をぶつけ合って、
「抜いたっ」
と、われがちに逃げだした。
又八は白刃をふりかぶってその手の下に、颯と急に冴えたような眼を光らし、
「今、なんといった。返って来い虫けらども、佐々木小次郎の手のうちを見せてやる。――待てっ、その首を、置いて行け」
宵闇の中で、又八は、一人で白刃を振りまわしていた。おれは佐々木小次郎だと、頻りに見得を切っていたが、もう相手はひとりもいないし、暮れてきた夜空には、鴉も啼いていなかった。
「…………」
擽られたように、又八は空へ向って、白い歯を見せて笑った。けれども泣き出しそうな淋しさが、すぐその面をつつみ、あぶなげな手つきで刀を鞘にもどすと、ひょろ、ひょろ……と歩き出していた。
彼が居酒屋のおやじの顔へぶっつけた印籠は、おやじが逃げこんでしまったため、道ばたに落ちたまま、星の下に光っていた。
黒檀の木地に青貝の象嵌がしてあるだけで、大して高価な印籠とも見えないが、夜の道に捨てられてあると、その青貝模様の光が、蛍のかたまりが落ちているように、ひどく妖美に燦々と見える。
「――おや?」
すぐ後から、居酒屋を出て来た六部がそれを拾った。六部はなにか急ぎ足だったが、もう一度軒下へもどって行って、隙洩る燈火にかざしながら、仔細に印籠の模様や緒〆を調べていた。
「――あっ? これは旦那様の印籠だ、伏見城の工事場でむごい死に方をなされた草薙天鬼様が持っていた品。……これこの通り、天鬼と、印籠の底に小さく彫ってある」
見遁してはならないと急ぐように、六部の影は、又八の影を、すぐ追って行った。
「佐々木様、佐々木様」
誰かうしろで呼ぶとは思っていたが、自分の名でない証拠である。酔っている又八の耳には、通らなかった。
九条から堀川のほうへ又八は歩いてゆく。いかにも自分の身を持て余している影だった。
六部は足を迅めて来た。うしろから又八の刀のこじりをつかんで、
「小次郎殿、お待ちなさい」
と、いった。
又八は、エ? ――と、しゃっくりでもするように振向いて、
「おれか」
というと、
「おてまえは、佐々木小次郎殿ではないのか」
六部の眼には、険しい光がひそんでいた。又八は、酔いのさめかけた顔つきで、
「おれは、小次郎だが、……その小次郎だったら、なんとする?」
「訊きたいことがござります」
「な……なにをだ」
「この印籠はどこからお手に入れましたな」
「印籠?」
いよいよ彼の酒気はさめ加減になってくる。伏見城の工事場でなぶり殺しになった武者修行の顔つきが、ふと眼のそばにちらついた。
「どこからお手に入れた物か、さ、それが訊きたい。小次郎殿、この印籠は、どうしておてまえの持ち物になったのでございますか」
切り口上で六部は問いつめるのだった。年頃二十六、七の男で年齢からいっても、ただ寺院を廻って碌々と後生を願っているような、生気に乏しい人物ではない。
「……誰だ、おぬしは一体」
やや真顔に返って、又八がこう相手を探ると、
「誰でもいいではないか。それよりも、印籠の出所を仰っしゃい」
「元からおれの持ち物なのだ、出所もあるものか」
「嘘をいうな!」
急に、六部は、語気をかえて、
「ほんとのことをおいいなさい。場合によっては、飛んだ間違いごとになりますぞ」
「これ以上、ほんとはない」
「じゃあどうしても、おてまえは泥を吐かないな」
「泥とは何事だ」
勢い、又八も虚勢を張ると、
「この偽小次郎めっ」
六部の携えていた四尺二、三寸の樫の丸杖が、言葉より迅くびゅっと風を鳴らしていた。腰を退く本能はうごいたが、体そのものにまだ酒の痺れが残っていた。
「あっ――」
二、三間も蹌めいたあげく、腰をついたが、起ち上がるが早いか、後ろを見せて駈け出した。その迅さはちょっと六部を狼狽させた。
泥酔している相手なので、そう機敏な行動はできまいと軽蔑っていた反動だった。六部は慌てて、
「おのれっ」
追いかけながら、樫の杖を、風へ乗せて又八の影へ投げた。
又八は、首をすくめた。杖はうなりを持って、耳のそばを通って行く――。これは堪らないと思ったらしい、又八は、いよいよ体を弾ませて逃げた。
外れた杖を拾い取って、六部も宙を飛ぶのだった。そして頃合を計ると、もいちど杖を闇へ抛った。
だが又八は、からくもその杖の先から二度まであぶないところを遁れた。総身の毛あなから酒の気が一瞬に消えて失くなっていた。
焦けつくように喉が渇く。
どこまで逃げて来ても、六部の跫音がうしろから聞える気がするのだ。はや六条か五条に近い町ならびである。又八は胸をたたいて、
「うう、ひでえ目に遭った。……もう来まい」
そこで、横町のせまい路地を覗きこんだのは、逃げ道を考えているのではなく、井戸を捜しているらしい。
その井戸が見つかったとみえ、又八は、路地の奥へはいっていった。細民街の中にある共同井戸である。
釣瓶を上げると、又八は、それへ、かぶりつくようにして水を飲んでいた。ついでに釣瓶を下において、ざぶざぶと顔の汗を洗う。
「……なんだろう、あの六部は」
人心地に返ってみると、気味のわるさが、また甦ってくる。
金の入っている紫革の巾着と中条流の目録と、そして先刻の印籠と、こう三つの品は、去年の夏伏見城の工事場で、大勢のために虐殺された頤のない武者修行の死骸から抜き取って来たものだった。そのうち、金はきれいに費ってしまい、懐中に残っていたのは、中条流の印可目録と、あの印籠が一つ。
「六部のやつ、あの印籠は、おれの主人の持物だといっていたが、――するとあいつは、死んだ武者修行の奉公人だろうか」
世間の狭さに、又八は始終追いつめられている気持だった。肩身がひけて、日蔭を歩けば歩くほど、いろいろな偶然が、鬼の影みたいに、追ってくる。
「杖か棒か、なにしろすごい物を打つけやがった。あの唸って飛ぶ棒の先でこーんと一つ頭でもやられたらそれ限りだ。――なにしろ油断はできねえぞ」
死人の金を費ってしまったということが、絶えず又八の良心の中にあった。悪いことをしたと思うたびに、あの炎天の下で虐殺された頤のない武者修行の死顔が眼にちらついて来てならない。
――働いて儲けたらきっとなにより先に返す。出世したら石碑の一つも建てて供養もするから、と彼は心のうちで、絶えず死者に詫びていた。
「――そうだ、こんな物も、懐中に持っていると、どんな疑いをかけられるかもしれねえ。いっそ捨ててしまおうか」
中条流の印可目録を、着物のうえから触ってみながら考えた。いつも胴巻の中に突っ張っている巻物がそれだった。持って歩くにも相当厄介な品である。
――だが、又八はすぐ、惜しいとも思う。すでに金は一文もないし、身に持っている財産といえばその巻物一つだった。なんとかこれを種にして、出世の蔓とはゆかないまでも、体の売れ口はないものかと僥倖をたのむ気持が、そのために、赤壁八十馬にうまうまと詐欺にかかった後までも、いまだに量見からなくなっていない。
その印可に書いてある佐々木小次郎の名を詐称って歩くと、かなり都合のよい時もある。無名の小さい道場とか、剣術ずきの町人などに示すと、多大な尊敬をうけた上に、一宿一飯の礼儀は黙っていても先からとってくる。この正月の半月などは、ほとんどその巻物で食って歩いたといってもよい。
「なにも、捨ててしまうには当るまい。おれはだんだん気が小さくなるようだ。その気の小さいのが出世の邪げかもしれないぞ。武蔵のように、太くなろう。天下を取った奴をみろ」
そう肚は極めたものの、今夜の寝床のあてもなかった。泥と草で傾いているようなそこらの細民窟の家でも、そこの人間には、廂と戸があると思えば、又八は羨ましくてならなかった。
さもしい彼の眼は、つい、そこらの家を覗いてみた。どこの家も、ひどく貧乏だった。
けれどそこには、一つ鍋に向い合っている夫婦がある。老母を囲んで夜業の手内職をしている兄妹がある。物質には極端にめぐまれていない代りに、秀吉や家康の家庭にはないものをお互いが持ち合っているらしい。それは、貧しいものほど濃い骨肉愛だった。そのいたわり合いがあるばかりに、この細民窟は、餓鬼の住み家にならなかった。やはり人間のあたたかさを持っている。
「おれにも、老母があった。――どうしたろう、おふくろは」
急に、又八は、思い出された。
つい去年の暮、行き会って七日ほど一緒にいただけで、すぐ、つまらない母子同士のわがままから、途中で捨てて別れてしまった限りになっている。
「――悪いなあ、かわいそうなおふくろだもの……。どんなに好きな女をこしらえてみても、おふくろほど、心からおれを愛してくれる女はなかった」
ここから道程ももうたくさんはない。又八は清水の観音堂へ行ってみようと考え出した。あそこの廂の下なら寝ることもできる。また――ことによったら老母に出会うかも知れないという空だのみも抱いてみる。
老母のお杉は、大の信心家である。神仏を問わず、そういうものの力を絶対に信じている人だ。いや信じるのみでなくなによりの頼みとしているところがある。いつか大坂で七日あまり又八と一緒になって歩いている間に、母子の間にすぐ不和ができたのも、お杉が神社仏閣ばかり歩いて暇どっているのが又八に退屈を起させて、とても、このおふくろと永の旅はできないという倦怠を、息子に持たせたのが一因になっている。
その頃、又八は、よくお杉から聞かされていたのである。
(なにが顕かじゃというて、清水寺の観世音さまほど、世に顕かな御ほとけはない。あそこへ、祈願をこめて、やがて三七日に近い頃、なんと、武蔵めに、ちゃんと行き会わせて下されたではないか。しかも御堂の前で、あの奴に。――おぬしも清水の観音様だけは、よう信心したがよいぞ)
――それからまた、春にでもなったら、お礼詣りをかね、後々も、本位田家のため御加護を祈請するのだと、幾度も、又八は聞かされていた。
だから、或はもう、そこに老母は参籠しているかも知れない――と又八は考えたのである。するとあながち彼の考え方も、空だのみでないかも知れなかった。
六条坊門の通りから五条のほうへ歩いてゆくと、町ではあるが、この界隈の夜というものは、犬につまずきそうな暗さであった。――その野良犬がまた実に多い。
彼は、先刻から、その野良犬の声に、取り巻かれていた。石を投げたくらいで沈黙する群れではなかった。しかし、彼という人間も、吠えられることにはこの頃馴れているので、いくら犬が牙をむいて尾いて来ても、吠えるほうで張合いのなくなるほど平気で歩きつづけていた。
――だが、五条に近い松原の辺りまで来ると、犬の群れは、突然、吠える方向をかえて、又八の前後に尾きまとっていた犬まで、わらわらと跳躍して、ほかの群犬と一緒になり、並木のうちの一本の松の樹を取り巻きながら、喧々と、空へ向って咆哮しだした。
暗闇の中にうようよしている犬の影は、犬というよりは狼に近い。それが数えきれない数だった。中には、爪を立てて、その松の樹の五、六尺上まで跳びかかって牙をむいている恐い犬もある。
「……おや?」
又八は、樹の上を仰いで、眼をみはった。梢の上には、チラと人影がある。星明りを透かしてみると、女らしい美麗な袂と白い顔が、細やかな松の葉の中におののいているのである。
犬に追われて樹の上へ逃げ登ったのか、それとも、樹の上にかくれていたために、野良犬が怪しんでその下を取り巻いたものか、そこのところは明瞭ではないが、どっちにしても、梢に顫いている影は、年若い女であることに間違いない。
「――叱ッ! 畜生ッ。――叱いッ」
又八は、犬の群れへ、拳を振りあげてみせた。
「こん畜生」
二つ三つ石も投げた。
四つ脚のまねをして唸れば、どんな犬も逃げるとかねがね聞いていたので、又八は、獣のように四つ這いになって、
「ウウー」
と唸ってみたが、ここの犬たちには、なんの効き目も顕れない。
もっとも、相手は三疋や四疋ではないのだ、まるで深淵に群れている魚紋のような無数の影が、尾を振り、牙を剥いて、樹の皮が裸になるほど、顫いている空の女へ向って、吠え猛っているのである。又八のごときが、遠くから四つ脚の真似をして見せたところで、この猛犬の群れには問題にされないわけだった。
「こいつら!」
憤然と又八は起った。
かりにも、両刀をおびている青年が、四つ脚の真似をしているのを、樹の上から、若い女に見られていた恥辱を突然気づいたからである。
キャッーンと、ただならぬ一疋の悲鳴が起ると、すべての犬が、又八の方へ眼を向けた。そして彼の手にある白刃と、その下に斬り仆された友達の死骸を見ると、犬は、どっと一所へかたまって痩せた脊ぼねを波のようにみな尖らせた。
「これでもか」
刀を振りかぶって犬の中へ駈けこむと、彼の顔へぱっと砂をくれて、犬は八方の闇へちらかった。
「――女ッ、おいッ、降りて来い! 降りて来い!」
空へ向って呼ぶと、松の梢のあいだで、り、り、り、りん……と金属製の美い音が揺れた。
「おや、朱実じゃないか。――おいッ」
袂の鈴の音に覚えがあった。鈴を帯や袂につけている女子は、なにも朱実だけに限ったこともないが、仄かに白く見える顔の輪郭も、なんだか似ている気がしたのである。
――とやはり朱実の声だった。非常に驚いた様子で、
「誰? ……誰? ……」
「又八だ、わからないか」
「えっ、又八さんですって」
「なにしているんだ、そんな所で。――犬なぞ怖がるおまえでもないくせに」
「犬が恐いのでかくれているわけじゃありません」
「降りて来たらどうだ、とにかく」
「でも……」
朱実は、樹の上から、静かな夜の彼方此方を見まわして、
「――又八さん、そこを退いていて下さい。あの人が、捜しに来たようですから」
「あの人? 誰だ、そいつは」
「そんなこと、いま話してはいられません。とても恐ろしい人です。わたしは去年の暮から、その男を、親切な人だと最初は思って、世話になっているうちに、だんだん私に酷い真似をするんです。……それで今夜、隙を見て、六条の数珠屋の二階から逃げ出して来たところ、すぐ感づいて、後から追って来たらしいんです」
「お甲のことじゃないのか」
「お養母さんなどじゃありません」
「祇園藤次でもないのか」
「あんな人なら、なにも恐いことはありやしない。……あッ、来たらしい。又八さん、そこに立っていると、わたしも見つかるし、おまえも酷い目に遭うから隠れて下さいよ!」
「――なに、そいつが来たと?」
又八は、うろうろして、態度を決しかねていた。
女の眼は、男を指図する。女の眼を意識すると、男はがらにもない金力を出したり、英雄ぶって見せたりしたがる。先刻、誰も見ていないと思って、四つ脚の真似をして恥じたあの心理の延長が、まだ又八の心を占めていた。
だから朱実が、いくら樹の上から彼に向って、
(酷い目に遭うといけない)
と教えても、
(はやく、隠れておしまいなさい!)
と危険を予報しても、そういわれればいわれるほど、彼は自分も男であることを我に持ってしまって、
(それは大変)
と、急にあわてふためいて、そこらの暗がりへお尻を出して潜りこむような醜状を、いくら愛人でないからといって、そうたやすく彼女の眼の下に見せることは出来なかった。
「――あっ? 誰だっ」
こういったのは、もうそこへ迅い跫音を弾ませて来た男でもあったし、また、それに驚いて跳び退いた又八の異口同音の声でもあった。
朱実の心配していた恐い男なる者が、ついに、ここへ来てしまったのである。又八の提げていた抜刀には、犬の血が垂れていた。それを見たので、ここへ来た男は、又八の前へ立った途端から、又八をただ者でないように睨まえて、
「――誰だっ、汝は」
と、もう一声、頭から浴びせてかかった。
「…………」
朱実の恐がり方が大げさであったので、又八も一応はどきっとしたが、相手の影をよく見直すと、背こそ高くて逞しそうな骨格であるが、年齢は自分と大差のない若さだし、髪は前髪に結い、着物は派手な若衆小袖を着ていて――
(なんだ、こんな青二才が)
と、一見して思わせる程度の柔弱な扮装なのである。
そこで又八は、ふふんと、鼻の先で安心したものなのだ。こんな相手ならいくらでもお相手申してさしつかえない。夕方ぶつかった六部のような人間では不気味だが、もう二十歳も超えながら、前髪や若衆小袖でぺらぺらしているような柔弱者に、よも負けを取ろうとは思われない。
(こいつが、朱実を苦しめているのか。生意気な青びょうたん奴が。どういう理かまだ聞いていないが、いずれ、朱実を追い廻して、ひどい目に遭わせているのだろう。――よし、懲らしてやろう)
こう又八が胸のうちで、余裕のあるところを示して沈黙していると、前髪の若衆武士は三度口をひらいて、
「何者だっ? ……汝は」
と、いった。
すがたに似あわない猛々しい声であって、三度目の一喝は殊さら辺りの闇を払うように颯爽としていたが、すでに相手のかっこうで頭から敵を呑んでいた又八は、
「おれか、おれは人間だ」
と、こう揶揄い半分に出て、笑う必要もないこの際に、強いて、にんやりと顔を歪めて見せたものである。
果たせるかな、前髪は、くわっと血を顔へのぼせたらしい。
「名もないのか。――名もない人間だと卑下するのか」
激越に突っかかって来るのを、又八は、綽々として、
「てめえのような、氏素姓の知れねえ奴に問われて名乗る名はない」
と、やり返す。
「だまれっ」
若衆の背中には、中身だけでも三尺もあろうかと思われる大刀が斜めに乗っていた。
肩越しにのぞいているその柄がしらとともに前髪はずっと前へ身をかがめて、
「そちとわしとの争いは後で決めよう。わしは、この樹の上にかくれている女を降ろし、この先の数珠屋の宿まで連れ戻るから、それまで待っておれ」
「ばかをいえ、そうはさせねえ」
「なんじゃと」
「この娘は、おれが以前女房にしていた女の娘。今でこそ縁はうすいが、難儀を見すてては通れない。おれをさし措いて、指でもさしてみろ、たたっ斬るぞ」
先刻の犬の群れではないが、威嚇したらすぐ尾をたれて逃げるだろうと思いのほか――
「おもしろい」
と、相手の前髪男は、又八の予期とはちがって、ひどく好戦的な物腰となり、
「見うけるところ汝も武士の端くれらしい。久しくそういう骨っぽい人間に出会わないので、背中の物干竿が夜泣きをしていた折でもある。この伝家の宝刀も、自分の手に渡ってからまだ血に飽かせたことがないし、すこし錆も来ているから、汝の骨で研いでやろう。――だが、逃げるなよ、いざとなって」
退くに退けないようにして、相手は要心ぶかく、言葉で先に縛ってくるのだった。しかし、その手に乗せられてはなどという先見は持たない又八なのである。まだ十分、先をあまく見て、
「広言はよせ、考え直すなら今のうちだぞ、足もとの明るいうちに失せてしまえ、生命だけは助けてやる」
「その言葉は、そのまま、そちへ返上しよう。――ところで、そこな人間殿、先程黙って聞いておれば、わしなどへ名乗って聞かすような名でないと、だいぶ勿体ぶってござったが、そのご尊名をひとつ伺っておこうではないか。それが勝負の作法でもあるし」
「おお、聞かせてもいいが、聞いて驚くな」
「驚かないように、胆をすえておたずねしよう。――してまず、剣のお流儀は」
そんなことを喋々する人間にかぎって強かった例がない。又八は、いよいよ、こう見縊ったり、図に乗って、
「富田入道勢源のわかれを汲んで、中条流の印可をうけている」
「え、中条流を?」
小次郎は、少し驚き始めた。
ここで、圧倒的に出なければ嘘だと思ったように、又八は押しかぶせて、
「ではこんどは、そっちの流儀を聞かせてもらおうじゃねえか。勝負の作法というもの」
口真似して、やり返したつもりでいると、小次郎は、
「あいや、わしの流儀姓名は後から申し告げる。してしてそこ許の中条流は、いったい、誰を師として学ばれたか」
問うも愚かというように、又八の答えは言下に出て、
「鐘巻自斎先生」
「ホ? ……」
いよいよ、小次郎は驚いて、
「すると、伊藤一刀斎は、ご存じか」
「知っているとも」
又八は面白くなって来た。これはもう例の効き目が現われてきた証拠と見たのである。刃物沙汰に及ばないで、おそらくこの前髪は、なんとか妥協の緒口を見つけてくるに違いないと考えていた。
そこで、彼は、すすんでいった。
「あの伊藤弥五郎一刀斎なら、なにをかくそう、おれには兄弟子にあたる人だ。つまり、自斎先生のところで同門の間がらだが、それが、どうしたっていうんだ」
「――では、重ねて伺いたいが、そういうあなたは」
「佐々木小次郎」
「え?」
「佐々木小次郎という者だ」
ていねいにも、二度までいったものである。
ここに至っては、小次郎も、驚きを超えて、唖然としてしまうほかはなかった。
「フーム」
やがて小次郎は、そう唸りながら、笑靨をつくった。
まじまじと無遠慮に自分を見ている眼を、又八は、ぐっと睨めかえして、
「なんだっておれの面をそう見るのだ。おれの名を承って恐れ入ったか」
「イヤ、恐れ入った」
「帰れ!」
頤をすくって、又八が、刀の柄をセリ出していうと、
「アハハ、アハハハ……」
腹をかかえて小次郎は笑い出した。いつまでも、笑いの止まらない様子で、
「世間を歩くと、ずいぶん様々な人物にも出会うが、まだかつて、こんなに恐れ入った例はない。――なんと佐々木小次郎どの、あなたに訊いてみるが、しからば、拙者は何者であろうか」
「なに?」
「わしは一体、何者かと、あなたに訊いてみるのだが」
「知ったことか」
「いやいやそうでない、よくご存知の筈である。執こいようだが念のため、もういちど承りたい。あなたのご姓名は、何といいましたかな」
「わからぬか、おれは佐々木小次郎という者だ」
「すると、わしは?」
「人間だろう」
「いかにも、それに違いない。しかし、わしという人間の名は」
「こいつが、おれを弄る気か」
「なんの、大真面目。これ以上の真面目はない。――小次郎先生、わしは誰だ?」
「うるせえ、てめえの胸に訊くがいい」
「しからば、自分に問うて、おこがましいが、わしも名乗ろう」
「オオいえ」
「だが、驚くな」
「ばかな!」
「わしは、岸柳佐々木小次郎だが」
「えッ……?」
「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名は小次郎と親からもらい、また剣名を岸柳ともよぶ人間はかくいう私であるが――はて、いつのまに、佐々木小次郎が世間に二つできたのだろうか」
「……や? ……じゃあ? ……」
「世間を歩くうちには、ずいぶん様々な人物にも巡り会うが、まだかつて、佐々木小次郎という人間に出会ったのは、この佐々木小次郎、生れて初めてだ」
「…………」
「実に、ふしぎなご縁、初めてお目にかかったが、さては、貴殿が佐々木小次郎どのか」
「…………」
「どうなすった、急に、ふるえておいでなさるようだが」
「…………」
「仲良くしよう」
小次郎は、寄って来た。そして、立ち竦んだまま青ざめている又八の肩をぽんとたたくと、又八はぶるっと体をふるわして、
「――あッ!」
と、大きな声でいった。
次の声は、小次郎の口から出たもので、まるで槍を吐くように彼の影を衝いてくる。
「逃げると、斬るぞッ」
――一跳びに、二間もあいだが開いたように見えたが、その又八の逃げて行く影へ、例の物干竿の長刀が、小次郎の肩越しから閃いて、びゅっと、銀蛇を闇に描くと、もうそれを小次郎は、ふた太刀とは使わなかった。
風に吹かれた木の葉虫のように、大地をごろごろと三つほど転がったまま、伸びてしまったのが又八だった。
背なかの鞘へ、三尺もある白刃が吸われて、ぴいんと、辷り落ちたとたんに高い鍔鳴がひびく。
――と、小次郎はもう、呼吸のない又八などには、眼もくれていなかった。
「――朱実っ」
樹の下へ寄って、こう叫びながら梢を見あげた。
「朱実、降りておいで。……もうあんなことはしないから降りておいで。……おまえの養母の亭主だったという男をつい斬ってしまった。降りて来て、介抱してやってくれ」
樹の上からは、いつまで、なんの声もなかった。こんもりと松葉の闇は濃いのである。小次郎はやがて、自分も樹の上へよじ登って行った。
「……?」
朱実はいなかった。いつのまにか隙を見て樹をすべり落ちるなり逃げてしまったものと見える。
「…………」
梢に腰をかけたまま、小次郎はしばらくそこにじっとしていた。颯々とふく松かぜの中に身を置いて、逃げた小鳥の行方を憶っているらしかった。
(どうして、あの女は、おれをああ怖がるのだろうか?)
小次郎には、それが分らなかった。自分で出来るだけの愛を彼女には注いだつもりだからである。その愛し方が、すこし、烈しすぎたことは自分でも認めている。しかし、その愛し方が、ふつうの人よりも違っていることは、彼自身では気づき得ないのであった。
女性に対しては、小次郎の愛し方が、どういうふうに人とは違っているかという点を知ろうとするならば、他人ならば、彼の剣にあらわれる性格――つまり太刀すじというものを気をつけて観ていると、やや解けて来るのである。
いったい、この小次郎という者は、鐘巻自斎の手許で、子飼いからの修行を受けている頃から、もう、鬼才だとか、麒麟児だとかいわれていただけに、普通の人とは、まるで剣の質が変っていた。
それを一口にいうと「粘り」であった。彼の太刀は実によく「粘る」ところに先天的な特色があった。自分以上の力の者に向えば向うほど、その「粘力」を出すのである。
もちろんこの時代の剣は、兵法として、手段は問わないのであるから、どんなふうに粘っても、それを、汚いとは誰もいわなかった。
(あいつに、かかられては、かなわん)
と怖れをなす者はあっても、小次郎の太刀を卑怯だという者はない。
たとえば、彼は少年の頃一度、日頃憎まれていた兄弟子たちから木剣で手痛く打ち伏せられて、気絶してしまったことがある。少しひどすぎたと悔いて、その兄弟子が、水をふくませて労っていると、息をふっ返した小次郎は、猛然とふいに立って、その兄弟子の木剣で、兄弟子を撲り殺してしまったという履歴すらある。
また、いちど負けたら、その敵を、彼は決して忘れない。闇の晩であろうが、雪隠へはいった時であろうが、寝ている間であろうがつけ狙うのである。これも、その頃の兵法としては、
(ばか、試合は、試合の時にしろ)
というわけには行かないのであるから、小次郎を一度打ち込むと、敵持ちになったのも同じだといって、そういう彼の異常な執拗を、同門の者はよくいわなかった。
いつのまにか、また彼は、
(おれは天才だ)
と、自分でいっていた。
しかしそれは、彼の不遜な思い上がりばかりでなく、師の自斎も一刀斎も、
(あれは天才だ)
と、ゆるしていたことは事実なのである。
郷里の岩国へ帰って、錦帯橋のたもとで、毎日、燕斬りの手練をつんで、独自な太刀を工夫してからは、なおさら、
(岩国の麒麟児)
と、人も称え、彼も自負していた。
――だが、その粘りのある剣の異常な執拗さが、女性を愛す場合に、どういう形であらわれるかなどということは、誰も知る限りのことでないし、小次郎自身は、それとこれとは、まるでべつに考えているので、朱実が自分を嫌って逃げたことが、不思議でならない顔つきであった。
ふと気づくと、その時、樹の下に誰か人影がうごいていた。
小次郎が、梢の上にいることをその人間は知らないらしい。
「……や、誰か仆れているが」
と、又八のそばへ寄って、屈み腰になりながら又八の顔を覗いていたと思うと、やがて、
「あっ、こいつだ」
と、梢の上までよく聞えてくるような大声でいって、いかにも驚いたらしい態であった。それは手に白木の杖を持っている六部であった。六部は何思ったか、あわてて背の笈ずるを下ろし、
「……はてな、斬られているようでもないし、体はまだ温いし、どうして此奴め、気を失っているのか」
呟きながら、又八の体を撫でまわしていたが、やがて腰についていた細曳を解くと、又八の両手を後ろへやって、ぐるぐる巻きに縛ってしまう。
気絶していることなので又八はなんの抵抗もするわけはない。六部は、そうしておいてから、又八の背を膝がしらで抑え、鳩尾のあたりへ、気合いをかけて押していた。
ウウム――と又八が太い声を出すと、六部はそうして手当した者を、まるで芋俵でも引っ提げるような扱い方して、樹の下へ持って来た。
「起てっ、起つんだ!」
こう厳命して、足で彼を蹴飛ばした。
地獄の一丁目まで行って気がついたばかりの又八は、まだ十分われに返っていなかったであろう。半ば、夢中のように、体を刎ね起すと、
「そうだ、そうしていろ」
六部は満足して、彼の胴と脚の部分を、そのまま松の木の幹へ縛りつけてしまった。
「……あっ?」
又八は初めて、こう驚き声を洩らした。小次郎でなくて、六部であったことは、意外であったらしい。
「こら、偽小次郎、よくも逃げ足早く逃げまわって、人に世話を焼かせおったな。……だが、もう駄目だぞ」
六部はこういって、おもむろに又八を拷問し始めた。
まず最初の折檻が、平手でぴしりと頬を打って来た。その手でまた、額をつよく押されたので、又八の後頭部が樹の幹にぶつかってごつんと鈍い音を出した。
「あの印籠は、どこから手に入れたものか、それを申せ、こら、申さぬか」
「…………」
「いわぬな」
と、六部は、又八の鼻をつよく抓む。
抓んでおいて、又八の顔を、左右へ烈しく振り動かすので、又八は妙な悲鳴をあげて、
「……ひゅう、ひゅう」
いう、という意味らしいので六部は鼻から手を放し、
「申すか」
こんどは明瞭に、
「いう」
と、又八が眼からなみだをこぼして答える。
こんな拷問に遭わされないでも、又八はもうあの事を、秘し隠しにつつんでいる勇気はないのである。
「実は、去年の夏のことだったので――」
と、伏見城の工事場で自分が石曳きをしているうちに遭遇した「頤のない武者修行」の死をつぶさに話し、
「……つい出来心で、その人の死骸から金入れと、中条流の印可と、それから先刻の印籠とを持って逃げたに相違ありません。金は、費ってしまいました、印可は懐中に持っております。生命をお助けくださるならば、今というわけには参りませんが、金もきっと後日までに、働いてご返済いたしまする。……はい、証文に書いてお渡しいたしておいてもようございます」
白状して、こう残らずいってしまうと、又八は、去年から絶えず心に病んでいた膿をいちどに切って出してしまったようで、急に気がらくになったせいか、なんだか怖いものもなくなって来た。
聞き終ると、六部は、
「それに相違ないか」
又八は、神妙に、
「相違ありません」
といって、すこし俯向く。
しばらく黙っていたと思うと、六部は腰の小脇差を抜いて、彼の顔の前へすっと出した。又八は、びくりと斜めに顔を上げ、
「き、きるのか、おれを」
「ウム、生命をもらう」
「おれは、一切を正直にいったじゃないか。印籠は返したし、印可の巻物も返す。それから、金も今は払えないが、後日、きっと返すといってるのに、なにもおれを、殺さなくてもいいだろう」
「おぬしの正直はよく分っている。だが、仔細をいえば、わしは上州下仁田の者で、伏見城の工事場で大勢の者に殺された草薙天鬼様の奉公人なのだ。――つまりあの武者修行に出ておられた草薙家の若党で、一ノ宮源八というのだが」
そんな言葉は、又八の耳には通らなかった。死に直面しているのである。身をもがいて、自分の縄目をかなしみ、どうかして遁れたいと思うことだけだった。
「――謝る、おれが悪かったのだ、おれはなにも、悪い量見で、あの死骸から物を盗んだわけじゃない。死人がいまわの際に、たのむ……といったので、初めはその遺言どおりに、死人の身寄りの者へ届けてやるつもりでいたのだが、金につまって、つい預かっていた金へ手をつけたのが悪かったのだ。いくらでも謝るから、勘弁してくれ、どんなようにでも謝るから――」
「いいや、謝られては困る」
六部は、強いて自己の感情を抑えつけているように、首を振って、
「その折の詳しい事情は、伏見の町で調べてあるし、おぬしが正直者だということも見ておるのだから。――だが、わしは国もとにいる天鬼様の遺族に対して、なにか、慰めるものを提げて行かなければ帰れない事情にあるのだ。そこには、いろいろな理があるが、主なる理由は、天鬼様を殺めた下手人がないことだ。これにはわしも弱ってしもうた」
「おれが……おれが殺したのじゃないぞ。……おいっ、おいっ、間違えてくれては困る」
「わかってる、わかってる。――そこは十分承知しているが、遠い上州にある草薙家のご遺族たちは、天鬼様が、城ぶしんの作事場で、土工や石工などになぶり殺しになったのだとはご存じないし、また、左様なことは、外聞がわるくて、身寄りの者や世間へも披露いたし難い。そこで、おぬしには気の毒な頼みだが、どうかおぬしが天鬼様を殺した下手人となり、この源八に、主の敵となって、討たれてもらいたいのだが、なんと聞き入れてはくれまいか」
これこそ、ことをわけての頼みというものであるが、又八は、そう聞くと、いよいよもがいて、
「ば、ばかなことをっ……嫌だっ、嫌だっ、おれはまだ死にたくない体だ」
「ごもっともな仰せではあるが、さっき九条の居酒屋で飲んだ払いもできぬほど、その身一つさえ生きてゆくに持てあましておられるご様子ではないか。飢えてこのせち辛い世の中にうろついて、恥をかいておられるより、いっそ、さっぱりと頓証なされてはどうでございまするな。――さてまた、お金のことならば、自分が所持のうち何分だけでも、おぬしの香奠として進ぜますゆえ、これをお心残りの年寄りがあるならその年寄りへ、また回向として、先祖の寺へ納めてくれというならばそのお寺へ、必ずお届け申しておくが」
「滅相もねえ……おらお金なんぞはいらねえ、生命が惜しい! ……嫌だっ、助けてくれっ」
「折角なれど、こう仔細を割っておたのみ申した上は、どうあってもおぬしに、主人の敵となってもらわねば仕方がない。その首をいただいて、上州へ立帰り、天鬼様のご遺族や世間に対して、事情を繕う心底でござる。――又八どのとやら、これも宿世の約束ごととあきらめて下さい」
源八は、刃を持ち直した。
「待て待て! 源八」
と、誰かその時いった。
それが、又八の口から出た声であるならば、自分の無法の分っている感情を噛みころしても、目的のためには、
(何をっ)
といったような顔つきであったが――
「や……?」
眼を暗い空へ吊り上げて、耳のせいかとでも疑っているように、梢にうごく風を聴いていた。
すると、そこの宙の上からまた二度目の声がした。
「つまらない殺生をするなよ、源八っ――」
「あっ、誰だ?」
「小次郎だ」
「なに」
またしても小次郎だという人間が今度は空から降りて来そうなのだ。天狗の声にしては親しみがあり過ぎた。いったい幾人偽小次郎がいるのだろうか。
源八は、
(もうその手は食わない)
というように、樹の下から飛び離れると、脇差の先を、宙へ構えて、
「ただ小次郎とだけでは分らぬ。どこの何の小次郎か」
「岸柳――佐々木小次郎さ」
「ばかなっ」
笑い飛ばして、
「その偽物はもう流行らぬぞ。今もここで一人、憂き目を見ているのが分らぬか。……ははあ、さては読めた、おのれもここにいる又八とやらの同類か」
「わしは真物だ。――源八、わしはそこへ跳び降りようと思うのだが、おまえは、降りて来たらわしを真二つに斬ろうとしているな」
「ウム、小次郎の化け物、幾人でも降りて来い。成敗してみせる」
「斬れたら、偽小次郎だろう、だが真物の小次郎は、斬れッこない。――降りるぞ、源八」
「…………」
「いいか、おまえの頭の上へ跳ぶぞ、見事に、斬れよ。――だが、わしを宙斬りにし損ねると、わしの背にある物干竿が、おまえの直身を、竹のように割ってしまうかも知れないぞ」
「アッしばらく――。小次郎様、しばらくお待ちください。……そのお声、思い出しました。また、物干竿の銘刀をご所持のうえは、真の佐々木小次郎様に違いありません」
「信じたか」
「けれど――どうして左様なところへは?」
「後で話そう」
――はっと源八は首をすくめたのであった。仰向いている顔を越えて、小次郎の袴の風が、さっと、散り松葉と一緒に、自分のすぐうしろへ落ちて来た。
紛れもない佐々木小次郎を眼の前に見直すと、源八は、かえって、不審の靄につつまれてしまった。この人と自分の主人草薙天鬼とは同門の間がらである。従って、小次郎がまだ上州の鐘巻自斎の許にいた時分は、幾度も会ったことがある。
だがそのころの小次郎は、こんな美々しい若衆ではなかった。目鼻だちは幼少からきかない気性をあらわして、凜々としていたが、師匠の自斎が、華美は嫌う人であったから、そこの水汲み小僧であった小次郎は、元より質素で色の真っ黒な田舎少年でしかなかった。
(見違えるような――)
源八は見惚れていた。
木の根に腰を下ろして、
「ま、そこへかけないか」
と小次郎はいう。
それから――二人の間に交わされた話によって――師匠の甥であり、また同門である草薙天鬼が、自分へ渡す中条流の印可の巻物を持って遊歴中に、伏見城の工事場で、大坂方の間諜とまちがえられて惨死した事情もお互いによく分ってくる。
また、その事件が、世間の中に、佐々木小次郎を二人拵えてしまったわけも分って来て、果ては、手をたたいて、真物の小次郎はそれを愉快がった。
そこでまた、小次郎がいうには――他人の名など騙って歩くような、こういう生活力の弱い人間などを殺してみても、いっこう面白くもなんともない。
懲らすならば、もっとべつな方法がある。また草薙家の遺族や、国許の世間ていの問題ならば、なにもむりに敵討に拵えて、事情を繕わなくても、そのうち自分が上州方面へ下った折、十分死者の面目も立つように釈明して、追善の供養でも営むことにするから、それも自分にまかしておいたがいいではないか。
「――どうだな、源八」
小次郎のことばに、
「そう仰っしゃって下さるからには、私にはなにも異存はございません」
「――では、わしはこれで別れるぞ、おまえも国へ帰れ」
「え、このまま」
「されば、実はこれから、朱実という女子の逃げた先をさがしに行く。――ちと気が急くから」
「ア、お待ちください。まだ、大事なものをお忘れでございましょう」
「なにを」
「先師の鐘巻自斎様から、甥の天鬼様へ託して、あなたへお譲りなされた中条流の印可の巻」
「ウム、あれか」
「死んだ天鬼様の懐中から抜き取って、この偽小次郎の又八と申す者が、今も肌身につけて所持しておるといいました。――それは当然、自斎先生から、あなたへ授けられたもの。……思えばこうしてお会い申したのも、自斎先生の霊や、天鬼様のおひきあわせであったかも知れません。どうかそれをこの場において、お受取りくださいまし」
源八は、そういって、又八の懐中へ手を突っ込んだ。
どうやら生命は助かりそうな様子なので、又八は、腹巻の底からそれを引出されても、惜しい気もちなどは少しもしなかった。むしろ、その後、懐中も気も軽々した。
「これです」
源八が、印可の巻物を、亡き人に代って小次郎の手へ授けると、小次郎は、押しいただいて感泣するかと思いのほか、
「――要らない」
と、手も出さない。
意外な顔して、源八は、
「え? ……どうして」
「要らん」
「なぜですか」
「なぜでも、わしにはもうそんな物は、不要だと思うから」
「勿体ないことを仰っしゃる。自斎先生は、多くのお弟子のうちから、中条流の印可を授ける者は、あなたか、伊藤一刀斎か、こう二人よりないと見て、生前から心で許しておいでになったのですぞ。――やがて、いまわの際に、この一巻を、甥の天鬼様にあずけて、あなたへ渡せと仰っしゃったのは、伊藤一刀斎は、すでに独自の一派を立てて、一刀流を称しておりますゆえ、おとうと弟子ではあるが、あなたに印可目録をお許しになったものだろうと考えられます。……師恩の有難さ、おわかりになりませんか」
「師恩は師恩、しかし、わしにはわしの抱負があるのだ」
「なんですッて」
「誤解するな、源八」
「余りといえば、師に対して、無礼でございましょう」
「そんなことはない。ありようにいえば、わしは師の自斎先生よりも、もっと秀でた天稟を持って生れていると思っている。だから、先生よりも偉くなるつもりなのだ。あんな片田舎で晩年を埋もれてしまうような剣士で終りたくないのだ」
「本性で仰っしゃるのか」
「――勿論」
と、自分の抱負をいうのになんの遠慮があろうという態度の小次郎であった。
「せっかく、先生はわしへ印可を下すったが、今日においてすら、この小次郎の腕はもう先生以上のものになっていると、わしは自ら信じているのだ。それに中条流という流名も田舎びて、将来ある若い者には、かえって邪げになる。兄弟子の弥五郎が、一刀流を立てたのだから、わしも一流を立てて、行く末は、巌流と称えるつもりだ。……源八、そういうわしの抱負だから、そんな物は、この身に不要だ。国許へ持って帰って、お寺の過去帳とでも一緒にしまっておくがいい」
謙譲などというものは、毛ほどもない言葉つきなのである。なんという思い上がった――高慢な男だろうか。
源八は、憎む眼で、小次郎のうすい唇を、じっとねめつけていた。
「――だがのう源八、草薙家の遺族たちへは、よろしくいってください。いずれ、東国へ下った折には、お訪ねするがと」
終りのことばは、こうていねいにいって、小次郎は、にやりと笑う。
高慢な者が意識していうていねいめいた言葉ほど、嫌味で小憎いものはない。源八はむかむかして、亡師に対するその不遜を詰問ってやろうと思ったが、
(ばかげている!)
自嘲して――さっさと笈ずるの側へゆき、印可の巻をその笈の内へ納めると、
「おさらば」
一言捨てて、たったと彼方へ立ち去ってしまった。
後見送って――
「ハハハハ、憤って行きおったわい。田舎者め」
それから今度は、樹の幹に悄然としている又八へ向い、
「偽者」
「…………」
「これっ偽者、返辞をせぬか」
「はい」
「おぬし、名は何という」
「本位田又八」
「牢人か」
「はあ……」
「意気地のない奴だ、師匠からくれた印可さえ返してやったわしを見習え。それくらいな気概がなくては、一流一派の祖にはなれんと思うからだ。……それをなんだ、他人の名をかたり、他人の印可を盗んで、世間を渡りあるくとは、さもしいにも程がある。虎の皮をかぶっても猫は猫でしかないぞ。あげくの果ては、こういう目に遇うのがオチだ。すこしは身にしみたか」
「以後気をつけます」
「いのちだけは助けてやる。しかし向後のこともあるから、その縄目は、ひとりでに解ける時までそうしておく」
いい渡すと小次郎は、何思ったか、小柄でそこの樹の皮を削りだした。又八の頭の上に、削られた松の皮が落ちて、襟の中まで入った。
「ア。矢立を持たなかった」
小次郎がつぶやくと、
「矢立がお入用なら、てまえの腰にたしか差してあったと思いますが」
と、又八が媚びていう。
「そうか、おぬしが持ち合わせておるか、じゃあ借りるぞ」
筆を投げて、小次郎は読み返していた。
巌流――これはふと今、思いついた変え字である。従来は、岸の柳、岩国の錦帯橋で、燕斬りの修練をした思い出を、剣号にしていたのであるが、それを流名とすれば――巌流――このほうがいかにもふさわしい。
「そうだ、これから流儀は、巌流と称おう、一刀斎の一刀流などより、遥かにいい」
夜も更けた頃である。
紙一枚ほど削った樹の白い肌へ、小次郎は、矢立の筆を執ってこう書いた。
この者、それがしの姓をかたり、それがしの剣名を偽称し、諸国よからぬ事してあるきたれば、捕えて、面貌を衆に示すものなり
わが姓、わが流、天下に二なし
わが姓、わが流、天下に二なし
巌流 佐々木小次郎
「よし」墨のような松かぜが、松林の中を、ぐわっと潮みたいに鳴って行った。小次郎の鋭敏な若さは頭の中ですぐ活動の目標へ変化を取る。今、そんな抱負に燃えていたかと思うと、もう暗い松かぜへ、豹のような眼を光らせ、
「ヤ?」
朱実の影でも見つけたのか、突然、驀しぐらにどこかへ駈け去った。
輿とか、輿とか、一部の階級にはそういう乗物も古くから用いられていたが、庶民の交通に実用化されて、市中や街道に駕とよばれる物が見えはじめて来たのは、つい昨今の風景といってよい。
竹の四ツ手がついている笊の中へ人間が乗って、後棒と先棒が、
「エ、ホ」
「ヤ、ホッ」
まるで荷物みたいに担いで来るのだ。
駕かきの脚が幅を飛ぶと、笊が浅いので、乗っている人間は、振りこぼされないように、前後の吊竹へ両手でつかまって、
「エ、ホ。エ、ホ」
駕かきとともに、呼吸を合せて絶えず体を弾ませていなければならない。
今――この松原の中の街道を、その駕が一挺に提燈が三つ四つ、人数が七、八名ばかり一団になって、東寺のほうから旋風みたいに駈けて来るのが見える。
夜半すぎると、この道すじにはよくそういった早駕や馬の鞭が鳴って通る。京都、大坂の動脈になっている淀川の交通が止まるので、火急となると、陸路を夜どおしして来るせいであろう。
「ヤ、サ」
「エ、サ」
「あ、ふ……」
「も少し」
「六条だぞ」
この一団も、三里や四里の近くから来たとは思われない。駕かきも、駕に添って駈けて来る連中も、綿のように疲れきっていて、口から心臓を吐き出してしまいそうな呼吸づかいなのである。
「六条か、ここは」
「六条の松原」
「もう一息」
携えている提燈には、大坂の傾城町でつかう太夫紋がついている。しかし、駕の中には、駕からはみ出しそうな大男が乗っているし、それにつき従ってヘトヘトになっている徒歩の者もみな勇壮な若者どもばかりであった。
「御舎弟、四条はもうついそこでござりますぞ」
一人が駕へいったが、駕の中の巨漢は、張子の虎のようにガクガク首を振りながら、快げに居眠っているのだった。
そのうちに、
「あっ、落ちる」
と、介添の者が駕の外から居眠りを抑えると、この男、とたんに大きな眼をあいて、
「アア喉が渇いた。――酒をくれ、竹筒の酒をよこせ」
という。
ちょっとの折でもあれば、みな休みたい気持だったので、
「降ろせ、暫時」
いうが早いか、
「ううう――」
抛り出すように駕を地へおろして、駕かきも周りの若者輩も、いっせいに手拭をつかみ、魚の肌みたいに濡れている胸毛の汗を拭く、顔をこする。
「――伝七郎様、もう沢山はありませぬが」
駕へ竹筒の酒を渡すと、受け取って、それを一息に飲みほしたあげく、
「アア、冷たい! 酒が歯にしみる」
伝七郎と呼ばれた男は、やっと眼を醒ましたように大きく呟く。
その首を、ぬっと、四ツ手の外へ突き出して、空の星を仰ぎながら、
「まだ夜が明けないのか。……おそろしく早かったな」
「お兄上の身になれば、まだかまだかと、一刻も千秋の思いで、お待ちかねでございましょう」
「おれの帰るまで、兄貴の生命が保っていてくれればいいが……」
「医者は保つといっておりますが、何分ひどく昂ぶっていらっしゃるので、時折傷口から出血するのがよくないそうで」
「……むむ、ご無念だろうな」
口を開いて、竹筒を逆さにしたが、もう酒はなかった。
「――武蔵めっ」
その竹筒を大地にたたきつけ、吉岡伝七郎は荒々しくいった。
「いそげっ!」
酒もつよいが、癇癖もなお強いらしい。もっと強いのは、この男の腕ぶしであって、吉岡の次男坊といえば世間の通り者だった。兄とは両極端な性質で、父の拳法が生きていた頃から、父をしのぐ力量のあったことはほんとで、今の門下でもみな認めている。
(兄貴はだめだよ。あれやあ、親父の跡目など継がないで、おとなしく禄取にでもなればよいのさ)
これは伝七郎が面と向ってもいう口吻なのである。従って兄との仲は至ってよくない。それでも拳法の在世中は兄弟してあの道場に励んでいたものだが、父の死去をきッかけに、伝七郎はほとんど兄の道場では刀を持った例がない。去年のこと、友達二、三名と伊勢へ遊びに出かけ、帰りには大和の柳生石舟斎を訪ねるのだといって出たが、京都にはそれきり帰らず、消息もなかったのである。――一年も帰らないからといっても、誰も、この次男坊が飢えているとは案じなかった。わがままをいって、大酒を飲んで、兄貴の悪口をいって、自分は一切働かずに天下を見下し、父の名を時々振廻しておりさえすれば、それで飢えもせずに結構通ってゆく――律義者から見ればふしぎな――次男坊の生活力というものがやはり伝七郎には備わっているからである。(この頃はなんでも、兵庫の御影あたりで、誰やらの下屋敷にごろついているそうな)そういう噂は聞えたが、かくべつ気にもとめないでいたところへ――今度の清十郎と武蔵との蓮台寺野事件であった。
瀕死の清十郎が、
(弟に会いたい)
と、あの後でいったことも門弟達の胸を衝いたが、そうでなくとも、一門の者は、
(この不覚を雪ぐには、御舎弟よりほかにない)
と、善後策を思う途端に、彼の名が誰の頭にも呼び起されていたのだった。
――御影附近というだけで何も分らなかったが、即日、門下の中から五、六名の者が兵庫へ立ち、ようやく伝七郎をさがし当ててこの早駕へ乗せたのだった。
平素、不仲な兄とはいえ、吉岡の名を賭して立合った試合に、兄が瀕死の重傷と敗北の汚名をうけて、今わずかに生死の境にある口から(弟に)と、会いたいような言葉を洩らしたと聞くと、伝七郎は一も二もなく、
(よし、行ってやる)
と、駕に身をまかせ、
(早く、早く)
と叱咤するので、駕かきの肩を乗りつぶし、もうここまでの間に三度か四度も、駕屋を雇い代えたほどだった。
それほど急き立てるくせに、伝七郎は立場立場へかかると、竹筒の中へ酒を買わせた。非常に感情が昂ぶっているらしいので、それを慰めるためかも知れないが、ふだんでも大酒なほうだ。それに寒い淀川のふちや田圃の風に曝されて駕は飛ぶので、いくら飲んでも酔わないような気がしているのであろう。
生憎とまた、その酒が竹筒に切れたので、伝七郎は焦々したらしい。――急げっと昂ぶった声を合図に竹筒を捨てたが、駕かきの男も門人達も、何へ不審を起しているのか、松風の闇の彼方へ、
「――なんだろう?」
「ただの犬の声じゃないが」
耳も目も奪われている形で、伝七郎が急いても、すぐ駕の側へ集まって来ない。
そこで伝七郎がまた、二度目の癇癖声を出して、早く駕をやれと呶鳴ると、初めてびっくりしたように、
「――御舎弟、ちょっとお待ちなさい。あれは何事でしょう?」
なにが何事なのか、いっこう他へ気もとめていない伝七郎へ、門人達はそう訊いた。
なにも事改まって、そう神経をつかうほどのことでもない。それは、何十匹か何百匹か知れないが、とにかく余程多いらしい犬の吠え合う声なのだ。
いくら沢山でも、犬の声は犬の声に止まる。一犬虚を伝えれば万犬――というくらい、あの仲間の騒ぎは余り当てにはならない。まして近頃は戦がなくて人肉に飢えているので、野から町へ移ったいわゆる野良犬が街道筋には群をなしていることが珍しくない。
「行ってみろ!」
しかるに、伝七郎はこういい、先に立って自分もそれへ足を早めて行った。彼が起つからには、犬の声もただの犬の声でなく、何かの理由があったのであろう。――つづく門人たちも、遅れじという足で駈けてゆく。
「――やっ?」
「――や?」
「――や? 奇態な奴」
果たせるかな、想像以上なものを見た。
木の根に縛られている又八と、その又八を三重四重に黒々と取り巻いて、彼の肉片でも要求しているような群犬の旋風である。
犬に正義をいわせれば、復讐というかも知れない。又八の刀は先刻犬の血をそこらへ撒いた。彼の体には犬の血のにおいが沁みている。
そうでなく、犬の智能を人間の極く低い程度として見ると、こいつ意気地のない奴らしい、弄ってやれと、面白がっているのかも知れぬ。また、妙なかっこうをしている奴、木を背負って坐っている、泥棒か、躄か、なんだろうかと不審を起して、吠えかかっているのかも分らない。
それがみな狼に似て、腹といえば薄く、脊骨は尖り立ち、歯はヤスリに削けたようなのであるから、孤立無援の又八としては、先刻の六部や小次郎よりも、時間的に数十倍もまさる恐怖だった。
手も足もきかないので、彼の戦闘は、顔と言葉とで防ぐほかなかった。しかし、顔は武器にならないし、言葉は犬に通じない。
そこで、犬にも通じる言葉と、犬にも受け取れる顔つきの二つをもって、先刻から悪戦苦闘の防禦に必死なところであった。
「うううっ――。うわうッ。……うわうッ……」
猛獣の唸る声色なのである。
犬はタジタジとして少し後退さったが、この猛獣が唸りすぎて、水洟を垂らしたので、甘く見たか、忽ち効果がなくなってしまう。
声が武器にならなくなると、こんどは顔つきで犬を怖れしめようと計った。
くわっと大きな口を開いて見せると、これには犬も一驚したらしい。眼玉を剥いて、眼ばたきを怺えて見せる。目や鼻や口を、皺苦茶に寄せて見せる。長いベロを伸ばして、鼻の頭まで届かせて見せる――
そのうち、彼も百面相にくたびれてしまい、犬もすこし飽きた様子で、再び険悪になりかかったので、今度は一生の智恵をここに絞って、おれも諸君の仲間であって、諸君とは同じ生き物であるという親善の意を示す考えで、
「――わん、わん、わん! きゃん、きゃん、きゃん!」
犬の啼き声を、犬たちとともに、又八もやってみせた。
ところが、これが却って犬どもの軽蔑と反感を買ったとみえ、俄然、喧々と争って、彼の顔のそばまで顔を持って来て吠えたり、そろそろ足の先から舐め始めて来たりしたので、又八は、ここで弱音を揚げてはと思い、
かかりしほどに
法皇は
文治二年の春の頃
建礼門院の大原の閑居
御覧ぜまほしゅうは
思し召されけれども
二月弥生のほどは
嵐烈しゅう余寒も未だ尽ず
峰の白雪消えかねて
大声張りあげて、平家琵琶の大原御幸を夢中で呶鳴りだした。――眼を固く閉じ、顔をしかめ、自分の声でつんぼになれとばかり喚いていたところなのであった。法皇は
文治二年の春の頃
建礼門院の大原の閑居
御覧ぜまほしゅうは
思し召されけれども
二月弥生のほどは
嵐烈しゅう余寒も未だ尽ず
峰の白雪消えかねて
幸いにそこへ、伝七郎らが駈けつけて来たので、犬は群れを崩して八方へ逃げてしまい、又八は見得もわすれて、
「助けてくれっ、縄を解いてくれっ――」
吉岡門人のうちには、彼の顔を見知っている者が二、三あった。
「おや、こいつは、よもぎの寮で見たことがある」
「お甲の亭主だ」
「亭主。――亭主はなかったはずだが」
「それは祇園藤次の手前だけで、ほんとはこの男がお甲に養われていたのだ」
とやかく取沙汰をし始めたが、かわいそうだ、解いてやれという伝七郎のことばに縄を解いて仔細を訊くと、ここにも又八のいいところはあって、ほんとのことは良心に恥じていわない。
吉岡の者と見たので、彼は自分の宿怨をちょうどよく思い出して、武蔵の名を引きあいに出し、自分と彼とは郷里も同じ作州であるが、彼は自分の許嫁を奪って走り、郷土の者に対して顔向けのならない泥を家名に塗られている――
母のお杉は、そのため、もう老年なのに拘らず、武蔵を討ち、不貞の許嫁を成敗せねば郷土へ帰らぬと国を立ち、自分ともどもに、武蔵を討とうと狙っているような次第でもある――
最前どなたやら、自分をお甲の亭主だなどと仰っしゃったが、飛んでもない誤解で、よもぎの寮に身を寄せていたことはあるが、お甲と関係などはない、その証拠には、祇園藤次とお甲とは、あの通り親密で、今では手に手を取って他国へ駈落ちしている事実に徴しても証明できる――
であるから手前には、そんなことはどうでもよいことで、今最も気にかかるのは母のお杉と敵の武蔵の消息でしかない。今度大坂表にあって聞くところによれば、吉岡殿の御長男は、彼と試合して不覚をとったそうである。そう聞くと矢も楯もなく、こうしてはいられないという気持に駆られ、ここまで来たところ十数名のよからぬ野武士に取巻かれ、所持の金子を悉皆奪われてしまったが、老母を持ち敵を持つ大事な体と――じっと彼らのなすままに任せ、観念の目をふさいでいたところ――
「有難うございました。吉岡家といい、手前といい、武蔵は倶に天を戴かざるの仇敵、その吉岡一門の方に、縄を解いて貰ったのも、何かの御縁かもわかりませぬ。お見うけすれば清十郎様の御舎弟かのように存じますが、手前も武蔵を討とうとする者、あなたも武蔵を討とうとなさるお心に違いない。どっちが早く彼を仕とめるか、目的を達した上で、改めてまたお目にかかりましょう」
嘘というものは純粋の嘘ばかりでは成り立たないものと見える、又八がいっている中にも、多少のほんとは交じっている。
しかしさすがに、
(いずれが早く武蔵を討つか)
などとおしまいになって蛇足を加えたあたりから、自分でも気恥かしくなって来たとみえ、
「母のお杉が、清水堂に参籠いたして、大望のため祈願いたしておりますれば、これからその母を訪ねて参るつもり、お礼には改めて、四条道場のほうへ近日出向きまする。お急ぎの場合、お足を止めてなんとも恐縮、では御免下さい」
ボロの出ないうちにとこういって、先へすたすた行ってしまったところなど、苦し紛れとはいえ又八としては出来がよかった。
彼の語るのを、嘘かほんとか疑っているまに立ち去ってしまったのである。門下たちはあきれ顔に、伝七郎は苦笑をながして、
「なんだ……あいつは一体」
後見送って、思わぬ暇つぶしと、舌打ち鳴らしていた。
この数日があぶない――と医者がいってから四日目になる。その頃が最悪な容態だった。きのう辺りからはやや気分がよいらしく見える。
その清十郎は、今ぽやっと眸をひらいて、
(朝か? 夜か?)
と考えてみた。
枕元の有明行燈が消えなんとしていた。人はいなかった。次の間に誰やらの鼾声が聞える。看護づかれの人々が、帯を解かずにごろ寝していた。
(鶏が啼いている)
まだこの世に生きている身かと改めて思う。
(生き恥!)
清十郎は、夜具の襟で、顔をおおった。
泣いているように指の端が痙攣している。
(この先、どの面下げて)
こう思うのであろう、男泣きにしゅくっと、嗚咽をのむ。
父の拳法の名は、余りに世間へ大き過ぎていた。不肖な子は、父の名声と遺産を担って歩くだけで精いっぱいであったのみか、到頭、それあるがために、身をも家をも、ここへ来て敗ってしまった。
(終りだ、もう吉岡の家も)
ぼーっとひとりでに枕元の有明行燈が消える。部屋の中に、夜明けの光がほの白く映った。朝霜の白い蓮台寺野に立った時のことがまた思い出される――
あの時の、武蔵のまなざし!
今、思っても、毛穴がよだつ。所詮は初めから自分は彼の敵ではなかったのだ。なぜ、彼の前に木剣を投げて、この家名だけでも立つ工夫を未然にしなかったか?
(思い上がっていたのだ。父の名声がそのまま自分の名声であるかのように。――考えてみれば、おれは吉岡拳法の子と生れた以外、なんの修行らしいことをして来たか。おれは、武蔵の剣に敗れる前に、一家の戸主として、人間として、すでに敗北の兆しを持っていた。武蔵との試合は、その壊滅の最後へ拍車をかけただけに過ぎない――遅かれ早かれ、このままでこの吉岡道場だけが、いつまで社会の激流の外に繁栄をゆるされているはずはない)
閉じている睫毛の上に涙が白く溜る。――ぽろりと、それが耳わきへ流れると彼の心も揺れて、
(なぜおれは蓮台寺野で死ななかったか。……生きたところで――)
と、右腕のない傷口の痛みに眉をふさぎ、悶々と、夜の明けるのを恐ろしく思った。
ど、ど、どっ――と門を打叩く物音がその時遠く聞えた。誰やらが次の間の人々を起しに来る。
「えっ、御舎弟が」
「今、お着きか」
あわただしく出迎えに立って行く者と、すぐ清十郎の枕元へ駈け寄って来る者とがあって、
「若先生、若先生、およろこび下さい。ただ今、伝七郎様が早駕でお着きになったそうでございます。すぐこれへ見えられましょう」
雨戸を開け、火鉢に炭をつぎ、敷物をおいて待つ間もなく――
「ここか、兄貴の部屋は」
伝七郎の声が襖の外に聞える。久しぶりな!
と思いながら、清十郎は、その弟に対してすら、いまの姿を見られるのが辛い気がした。
「兄上」
入って来た弟へ、清十郎は弱いひとみを上げて、笑おうとしたが笑えなかった。
ぷーん、弟の体から酒の香がにおう。
「どうなすった兄上」
伝七郎の余りに元気な様子は、病人の神経に重圧をおぼえるらしい。
「…………」
清十郎は、眼をふさいで、しばらく何もいわなかった。
「兄上、こんな時にはやはり、不肖な弟でも、頼みになるでしょう。委細を使いの者から聞くと、取る物も取りあえず、御影を立って、途中大坂の傾城町で旅支度や酒をととのえ、夜を冒して、駈けつけてまいったのですぞ。――ご安心なさるがいい、伝七郎がまいったからには、もうこの吉岡道場に、誰が来ようと、一指もささせませぬ」
そして、茶を入れて来た門人へ向い、
「おいおい、茶はいい。茶はいいから、酒を支度してくれ」
「はい」
退がるとまた、
「おいっ、誰か来て、この障子を閉めろ、病人が寒いじゃないか、馬鹿」
膝を、あぐらに崩して、火桶をかかえ込み、黙っている兄の顔を覗き込んで、
「いったい、勝負はどんな立合い方をやったんです。宮本武蔵などという者は、近頃ちょっと聞え出した男ではありませんか、兄貴としたことが、そんな駈出しの青二才に不覚をとるなんて……」
門人が、ふすまの境から、
「御舎弟さま」
「なんだ」
「お酒の支度ができました」
「持って来い」
「あちらへ用意してございますゆえ、おふろにでもお入りになって」
「湯になんか入りたくもない。酒はここでのむから、ここへ持って来い」
「え、お枕元で」
「いいさ、兄貴とは久しぶりで話すのだ。永い間、仲も悪かったが、こういう時には、やはり兄弟に如くものはないよ。ここで飲もう」
やがて、手酌で、
「うまい――」
と、二、三献つづけ、
「丈夫だと、兄上にも、久しぶりで一杯さすのだが」
などと独り語りにいう。
清十郎は、上眼づかいに、
「弟」
「ウム」
「枕元で、酒はよしてくれ」
「なぜ」
「いろいろ嫌なことが思い出されて、おれは不愉快だから」
「嫌なこととは」
「亡き父上が、さだめし、兄弟の酒には、眉をひそめておいでになろう。――おまえも酒の上から、おれも酒の上から、一つもいいことはしていない」
「じゃあ、悪いことをして来たというのか」
「……おまえにはまだ胆にこたえまい。しかし、わしは今、心魂に徹して、半生の苦杯をなめ味わっているのだ……この病褥の中で」
「ハハハハハ、つまらんことをいっている。そもそも兄者人は線がほそくて、神経質で、いわゆる剣人らしい線の太さがない。ほんとをいえば、武蔵などとも、試合をするというのが間違っている。相手がどうあろうと、そんなことはあなたのがらにないことなのだ。もうこれに懲りて、あなたは太刀を持たないがいい、そしてただ吉岡二代目様で納まっているんだな。――どうしても試合を挑む猛者があって退っ引きならなくなった場合は、伝七郎が出て立合ってあげる。道場もこの先は、伝七郎におまかせなさい、きっと、おやじの時代よりは、数倍も繁昌させてみせる。――おれの道場を乗っ取る野心だなどと、あなたさえ疑わなければ、拙者は、きっとやってみせるが」
銚子の底から、もうなくなった酒のしずくを杯へ切っていう。
「……弟!」
清十郎は、ふいに身を起しかけたが、片手のないために、夜具も自由に刎ねられなかった。
「伝七郎っ……」
夜具の中から伸びた片手は、弟の腕くびをつよく握った。病人の力は、健康な者にも痛かった。
「お……と、と、と、兄貴、酒がこぼれる」
握られた手の杯を、伝七郎はあわてて持ちかえながら、
「なんです、改まって」
「――弟、おまえに望み通りこの道場を譲ろう。だが、道場を継ぐことは、同時に家名を継ぐことであるぞ」
「よろしい、ひき受けましょう」
「そう無造作にいってくれるな――おれの轍をふんで、ふたたび亡父の名を汚すようでは、今つぶした方がいい」
「馬鹿なことを仰っしゃい。伝七郎はあなたとは違う」
「心を入れかえてやってくれるか」
「待ってくれ、酒はやめませんぞ、酒だけは」
「よかろう、酒も程には。……わしが過ったのは、酒のせいではない」
「女でしょう。――女ずきはあなたのいけないところだ。こんど体が癒ったら、もう決まった妻をお持ちなさい」
「いや、この機会にわしはすっぱりと剣を捨てた、妻など持とうという気持もない。――ただ一人救ってやらなければならない人間がある。その者の幸福になるのを見届けたら、もう望みはない。野末に茅の屋根を結んで果てるつもりじゃ……」
「はて? 救ってやらなければならない人間とは」
「まあいい。――おまえには後を頼むぞ。こういう廃人の兄の胸にもまだ、幾分かの意地とか面目とかいうものは、武士であるからには、未練だが、燃えいぶっている……それを忍んで、おまえにこう手をついていう。……いいか、おれの踏んだ轍をまた踏んでくれるなよ」
「よしっ……きっとあなたの汚名は遠からず雪いでみせる。だが、相手の武蔵は今、何処にいるのか、その居処はおわかりですか」
「……武蔵?」
と清十郎は、眼をみはって意外なことでもいい出されたように弟の顔を見つめるのだった。
「伝七郎、おまえは、おれが誡めているそばから、あの武蔵と立合うつもりか」
「なにを仰っしゃるのだ、今さら、いうまでもありますまい。この伝七郎を迎えによこしたのは、そのおつもりではありませんか。また、拙者も門人も、武蔵が他国へ足をふみ出さないうちにと思えばこそ即座に、取る物も取りあえず、駈けつけて来たのではございませんか」
「思い違いも甚だしい!」
清十郎は首を振った。
先行きを見ているような眼ざしをもって、
「やめろ」
弟へ命じる兄の態度だった。
それが気に入らなかったに違いない、伝七郎は、
「なぜ?」
と突ッかかってゆく。
病人の顔は、弟のその語気から血の気を呼び出されて、うす紅くなった。
「勝てないからだ!」
激越に、こう吐くと、
「たれに」
と、伝七郎も蒼くなっていう。
「武蔵に!」
「たれが」
「知れているではないか。おまえがだ。おまえの腕ではだ――」
「ば、ばかなことを」
わざと大きく笑うように、伝七郎は肩を揺すぶった。そして、兄の手をふりほどいて杯へ自分で酒をついだ。
「――おい門人、酒がないぞ、酒をもって来んか」
声を聞いて、弟子の一人が、厨房から酒の代りを運んでゆくと、もうそこの病室に、伝七郎はいなかった。
「……おや」
眼をみはって、その門人は盆を下へ置くと、
「どうなさいました若先生」
夜具の中に俯つ伏している清十郎の様子に、ぎょっとしたような顔いろを動かして、枕元へ取りすがった。
「呼べ。……呼んで来い。伝七郎にもいちどいうことがある。伝七郎をここへ連れて来い」
「ハ、ハイ」
弟子は、清十郎の語気が、はっきりしているので、ほっとしたらしく、
「はっ、ただ今」
と、あわてて伝七郎を捜しに出て行った。
伝七郎はすぐ見つかった。彼は道場へ出て、久しく見なかったわが家の道場の床に坐っていた。
周りには、これも久しぶりで会う植田良平とか、南保余一兵衛とか、御池、太田黒などという古参門下が彼を取り囲み、
「お兄上とは、もうお会いになりましたか」
「ム。今会ってきた」
「お欣びだったでしょう」
「そう欣しそうでもなかった。部屋へはいるまでは、俺も胸がいっぱいだったが、兄貴の顔を見ると、兄貴もむッつりしているし、俺もいいたいことをいったりして、またすぐにいつもの口喧嘩だ」
「え、口喧嘩を。……それは御舎弟がよくない。お兄上はきのう辺りから小康を得て、すこし容態を持ち直して来たばかりのお体。そういう病人をつかまえて」
「だが……待てよ、オイ」
伝七郎と古参門下とは、まるで友達づきあいの調子だった。
自分をたしなめかけた植田良平の肩をつかまえ、冗談の中にも自分の腕力を示すように揺すぶって、
「――兄貴はおれにこういうのだぞ。――おまえは、おれの敗北をすすぐために、武蔵と立合うつもりだろうが、所詮、おまえは武蔵に勝てん。おまえが斃れたらもうこの道場までが亡ぶ、家名が絶える。恥はわし一身のことにして、わしは今度のこと限り、生涯剣を手に把らないという声明をして身を退くから、おまえはわしに代ってこの道場を支え、一時の汚名を、将来の精進で挽回してくれい……と、こういうのだ」
「なるほど」
「なにがなるほど!」
「…………」
捜しに来た門人が、その話のすきを機と見て、
「御舎弟様、お兄上が、もいちど枕元へ来てくれと仰っしゃっておりますが」
後ろに手をつくと伝七郎はじろッと、その門人の顔を見て、
「――酒はどうした」
「あちらに運んでおきました」
「ここへ持って来い、皆で飲みながら話そう」
「若先生が」
「うるさい。……兄貴はすこし恐怖症にとッ憑かれているらしい。酒をこっちへ持って来い」
植田、御池、その他が口をそろえて、
「いやいや酒どころの場合ではない、吾々なら結構ですぞ」
伝七郎は、不機嫌に、
「なんだ貴様たちは。……貴様たちまで一人の武蔵に脅えているのか」
吉岡という存在が大きかっただけに、受けた打撃もまた大きかったのである。
武蔵から与えられた木剣の一撃は、当主の肉体をああしたばかりでなく、既成勢力の吉岡一門というものを、根底から不具にしてしまった形だった。
(よもや)
と、自尊しきっていた一門の気持がみな崩れ出して、その後始末にしても、以前のような一致は欠いている。
いちど受けた傷手の深刻な苦さが、錯然と、日が経っても皆の顔にただよっていて、なにを相談するにつけても敗者の傾きたがる消極か――また極端な積極へと走りたがってまとまらない。
伝七郎を迎える前から、
(武蔵へ二度の試合を申しやって、雪辱を試みるか)
(それとも、このまま自重策をとるか)
というこう二つの意見は、古参門下の中にも対立していて、今も伝七郎の意思に同意の顔つきを示す者、暗に、清十郎の考えに共鳴しているらしい者とふたいろあった。
――だが、
(恥は一時のこと、万一これ以上不覚をかさねることでもあっては)
というような隠忍主義は、清十郎なればこそいえるのであって、古参たちは、胸に思っても、口に出せないことだった。
殊に、覇気満々な伝七郎の前では、なおさらである。
「――そんな女々しい、卑怯未練な兄貴の言葉を、いくら病中とはいえ、素直に聞いていられるか」
ここへ運び移されて来た杯を取って、めいめいに酒をつがせ、伝七郎は、きょうから兄に代って自分が経営にあたるこの道場に、まず自分流の気分を醸そうとするらしい剛毅な風を見せた。
「おれは、断言するぞ、武蔵を打つと! ……。兄がなんといおうと、おれはやる。武蔵をこのまま抛っておいて、家名大事に、道場の維持を考えて行けなどという兄貴のことばは、いったい武士の吐くことばか。そんな考えだから、武蔵に敗れるのは当然だ。――貴様たちも、その兄貴とおれとを、一緒に視るなよ」
「それはもう……」
と、口を濁した後で、南保余一兵衛という古参がいった。
「御舎弟のお力は、我々も信じておりますが……だが」
「だが……なんだ?」
「お兄上のお考えにしてみると、相手の武蔵は一介の武者修行、こちらは室町家以来の御名家、秤にかけてみても、これは損な試合で、勝っても敗けてもつまらない博奕だと、こう賢明に悟られたのではございますまいか」
「――博奕だと」
伝七郎の眼がキラとむつかしく光ったので、南保余一兵衛はあわてて、
「アア、失言でした。そのことばは取り消します」
皆まで聞かずに、
「これ」
と、伝七郎は彼の襟がみをつかんで突っ立ち、
「……出て行け! 臆病者」
「失言でした、御舎弟……」
「だまれっ、貴様のような卑劣者は、おれと同席する資格がない。――去れッ」
突き飛ばしたのである。
道場の羽目板へ背をぶつけたまま、南保余一兵衛は真っ蒼になっていたが、やがて静かに坐って、
「御一同、永々お世話に相成りました」
それから正面の神壇へも礼儀をして、ついと、邸の外へ出て行った。
――目もくれないで、
「さあ、飲め」
伝七郎は、一同へ酒をすすめていう。
「飲んだうえで、今日からひとつ武蔵の宿所を捜し出してくれい。なに、まだ他国へは出ていまい。勝ち誇って、そこらを肩いからして歩いているに相違ない。――いいか、そのほうの手配と、次にはこの道場だ。こう寂れさせて置いてはいかぬ。ふだんの通り稽古を励みあうことだな。……おれも一寝入りしてから道場へ出るよ。兄貴とちがって、おれのはちと烈しいぞ。そのつもりで、末輩にも、これからはびしびしやってもらいたい」
それから七日ほど後のこと。
「わかった!」
と外から喚きながら、吉岡道場へもどって来た一名の門人がある。
道場では、先頃から伝七郎自身が立って、予告しておいた通り、ひどく手荒い稽古をつけ始めた。
今も、彼のつかれを知らない精力に大勢が辟易顔して、次に名ざしを受けるのを恐れるかのようにみな隅へ寄り、古参の太田黒兵助がまるで子どもみたいに扱われているのを見ていたところだった。
「待て、太田黒」
伝七郎は木剣をひいて、今、道場の端へ顔をあらわして坐った男へ眼をやり、
「わかったか」
と、そこからいった。
「わかりました」
「どこにいたか、武蔵は」
「実相院町の東の辻――俗にあの辺で本阿弥の辻とも呼んでおりますが、そこの本阿弥光悦の家の奥に、たしかに武蔵が逗留しておる様子なので」
「本阿弥の家に。――はてな? 武蔵のような田舎出の修行者ずれと、あの光悦が、どうして知り合いなのだろうか」
「縁故のほどはよく分りませぬが、とにかく、泊っていることは慥です」
「よしっ、すぐ出向こう」
支度に――と奥へ大股に入ってゆくと、ついて行った太田黒兵助や、植田良平などの古参たちが押し止めて、
「ふいに出向いて行って討つなどということは、喧嘩の意趣めいて、勝っても、世間がよくいいますまい」
「稽古には礼儀作法もあろうが、いざという実地の兵法に、作法はない、勝ったほうが勝ちだ」
「ですが、お兄上の場合がそうではなかったのですから。――やはり、前もって書状をつかわし、場所、日、時刻を約しておいて、堂々とお試合になったほうが立派かと存じますが」
「そうだ、そうしよう、お前たちのいう通りにするが、まさかその間に、また兄貴の言にうごかされて、門人までが止めだてはすまいな」
「異論を抱く者や、また吉岡道場を見限った恩知らずは、この十日ほどの間に、すべてここの門から出てゆきました」
「それでかえって、この道場は強固になった。祇園藤次のような不届き者、南保余一兵衛のような臆病者、すべて恥を知らぬ腰抜けは自分から出て行ったがよい」
「武蔵へ書面をつかわす前に、一応はお兄上の耳へも」
「そのことなら、お前たちではだめだ、おれが行って話を決める」
兄弟のあいだに、この問題は、まだ十日前のままだった。あれ以来、どっちも自分の意見を曲げないのである。古参の者達は、また争いにならねばよいがと案じていたが、大きな声が洩れてくる様子もないので、さっそく武蔵に宛てて指定してやる二度目の場所や日取を膝ぐみで相談していた。
――と清十郎の居間から、
「おいっ、植田、御池、太田黒、ほかの者も、ちょっと顔をかしてくれ」
清十郎の声ではない。
顔をそろえて行って見ると、伝七郎が一人きりでぼんやり立っているではないか、こんな顔つきの彼を古参の者たちも初めてみた。伝七郎の眼は泣きかけているのだった。
「見てくれ――みんな」
手にひろげていた兄の置手紙を一同へ示して、伝七郎は言葉では怒っていた。
「兄貴のやつ、おれに向ってまた、こんな長たらしい意見手紙を書き、これを残して家出してしまった。行く先も書いてないのだ……行く先も……」
ふと、針の手を止めて、
「……誰?」
お通はいってみた。
「どなた? ……」
縁の障子を開けてみたが誰もいないのである。気のせいであったと分ると、お通はさびしさに囚われて、もう袖付と襟さえ縫えば仕立てあがる縫物にも、つい身が入らなくなってしまう。
(城太さんかと思ったら?)
心の中で呟いているように、彼女はまだ人なき昼を未練そうに眺めていた。そこに誰か人でも通るような気配さえすれば、城太郎が尋ねて来たのではないかと、すぐ思ってしまうらしいのである。
ここは三年坂の下だった。
ごみごみした街中ではあるが、往来の一側裏には、藪だの畑だのがいくらもあって、椿も咲いていれば、梅も綻びかけている。
お通の姿が見えるそこの一軒家も、裏はよその庭らしい木立に囲まれ、前の百坪ほどは野菜畑になっていて、その畑のすぐ向うには、朝から晩までひどく忙しげな物音をさせている旅籠屋の台所がある。――つまり、この一軒家も、そこの旅籠屋の持で、朝夕の食事も、向うの台所から運んで来ることになっている。
今は――どこへ行ったのか姿はここに見えないが、お杉隠居がなじみの旅籠で、京都に来ればここと決めてあり、ここへ来ればこの畑の中の別棟があの婆様のお好みであるらしい。
「お通さあ、御飯時やが、もう運んでもようござりますかの」
畑の向うで、台所の女が、こっちへ呶鳴っていた。
お通は、考えごとから醒めて、
「アア御飯ですか。――御飯ならば、お婆様が帰って来てから一緒に食べますから後にして下さい」
すると、台所の女はまた、
「ご隠居さあは、きょうは帰りがおそうなるといって出やはりましたがの。おおかた晩方までのおつもりで出やはったのでございましょうが」
「じゃあ私も、あまりお腹がすいておりませんから、おひるはやめておきましょう」
「あんた、ちっとも物を召上がらんで、ようそうしておいでなはるなあ」
どこからともなく、松薪のいぶる濃い煙が流れて来て、畑の中の梅の樹も、向うの母屋も隠してしまう。
この辺には、陶器つくりの竈が所々にあるので、そこで火入れをする日には絶えず煙が近所をいぶしている。けれど、その煙が去った後は、春先の空がよけいに美麗に見られた。
馬のいななきや清水の参詣人の跫音が、往来の方に騒々と聞える。そういう町の騒音の中から、武蔵が吉岡を打ったという噂も聞いた。
お通は、飛び立つように思い、そして武蔵のすがたを瞼に描いた。
(城太郎さんは、蓮台寺野へ行ってみたに違いない、城太郎さんが来れば詳しいことも……)
と、同時に城太郎の訪れを待つことも痛切になる。
だが、その城太郎がちっとも来ないのだ。五条大橋で別れた限りであるから――もう二十日余りにもなる。
(尋ねて来ても、ここの家が分らないのかしら? ……いいやそんなはずはない、三年坂の下と教えてあるのだもの、一軒一軒尋ねたって)
そう思ってみたり、また、
(もしや風邪でもひいて寝こんでしまったのじゃないかしら?)
とも案じてみる。
けれど、あの城太郎が、風邪で寝ているなどとは信じられない。――きっと暢気に春先の空へ紙凧でも揚げて遊んでいるのかも知れない。お通は、腹が立ってきた。
――けれどまた、考えようによれば、城太郎のほうでも同じように、
(なにも、遠い所じゃなし、お通さんだって一度ぐらいは、自分の方から来そうなものじゃないか。烏丸のお館へだって、あのままでお礼もいわないでいるのは悪い)
そんなふうに待っているかも知れないと思う。
そこへ気のつかないお通でもなかったが、お通にしてみれば、城太郎のほうで来てくれるのはいと易かろうが、今のところ、自分のほうからお館へ行くということはむつかしい事情にある。お館へとは限らない、たとえどこへ出るにしても、お杉隠居のゆるしを得なければ出ることはできない。
今日のような留守をよい機に出かけてしまえばよいじゃないか。――こう事情を知らない者は思うかも知れないが、そこにぬかりのあるあの婆ではない。入口の旅籠の者に頼みこんであるから、お通の身には絶えず誰かの眼が光っている。ちょっと往来をのぞきに出ても、
(お通さんどこへ?)
と、旅籠の母屋からすぐ、さり気ない声がかかるのである。
なにしろまた、お杉婆さんといえば、この三年坂から清水の界隈でも、長い馴染だし、顔も通っているらしいのだ。去年、清水の辺で、武蔵をつかまえ、年よりの身で悲壮な真剣勝負を挑んでからのことである。当時、その実情を目撃していたこの土地の籠かきだの荷持だのの口からそれが評判になって、
(あの婆は気丈だ)
(えらい気丈者よ)
(敵討に出ているのだとよ)
そんな沙汰からいつとなく、婆の人気はひろまって、一種の尊敬にさえなっている。――だから旅籠の者などなおさらのこと、お杉の口から一言、
(ちと仔細ある女子ゆえ、留守のまに逃げぬよう看ていてくだされ)
とでも吹き込まれれば、それを守るに忠実なのは当然であった。
いずれにしても、お通はここから今では無断で出ることは許されない。文使いをやるにしても、宿の者の手を経なければ出来ない芸だし、結局、城太郎の訪れを待つよりほかに策はなかった。
「…………」
障子の蔭へ身を退いて、彼女はまた針の目を運び始めていた。その縫物もお杉の旅着の仕立て直しだった。
するとまた誰か外に人影が映して――
「オヤ? 違ったかしら」
聞き馴れない女の声がする。
往来から路地をはいって来て、ここの袋地内の畑や離屋に、勝手がちがったらしくこう呟いているのである。
何気なく、お通は障子の蔭から顔を出してみた。葱畑と葱畑の間にある道の梅の樹の下に、その女は佇んでいたが、お通の顔を見て、
「あの……」
間が悪そうに頭を下げ、
「……あの、こちらは、宿屋ではないんでしょうか。路地の入口に、はたごと書いた掛行燈が見えたので、はいって来たんですけれど」
と、引っ込みがつかないように、もじもじしていう。
お通は、それに答えるのも忘れて、女の顔から足の先までを見つめていた。その眸が異様に先へは受け取れたに違いない。袋路地と知らずに間違って入って来た女は、いよいよ、間が悪そうに、
「どこの家でしょう」
囲りの屋根を見まわしたり、ふとまた側の梅の梢へ、
「まあ、よく咲いている」
と、テレた顔を上げて、見恍れるような素振りをしたりしていた。
(そうだ、五条大橋で!)
お通はすぐ思い出したが、また人違いではないかとも迷って、記憶へ念を押してみるのだった。――元日の朝であった。あの大橋の欄で、武蔵の胸に顔を押しあてて泣いていたきれいな娘。――先では知らなかったであろうが、お通には忘れ難い――なにか敵ででもあるように、あれ以来絶えず気にかかっていたその女性ではあるまいか。
台所の女が、帳場へ告げたとみえて、表から路地を廻って来た旅籠屋の手代が、
「お女中さま、お宿でございますか」
朱実は落ちつかない眼で、
「ええ、どこなの?」
「ついそこの入口でございますよ、ヘイ、路地の右側の角で」
「まあ、じゃあ往来に向っているんですね」
「往来でも、お静かでございますが」
「出入りに眼がつかないような家をと、捜していると、ちょうど路地の角に掛行燈が見えたから、この奥ならと思ってはいって来たんだけれど」と、お通のいる一棟をのぞいて、――
「ここは、お宅の離屋じゃないの」
「はい、手前どもの別棟でございますが」
「ここならばいいのね……。静かそうで……どこからも、見えない」
「あちらの母屋にも、よいお部屋がございますが」
「番頭さん、ちょうどここにいらっしゃるのは、女のお方のようだし……私もここに泊らせてもらえませんか」
「ところが、もうおひと方、ちと気ごころのむつかしいご隠居がいらっしゃいますのでな……」
「かまいません。私はいいけれど……」
「後ほど、お帰りになりましたらば、合宿をご承知くださるかどうか、伺ってみますが」
「じゃあその間、彼方の部屋でやすんでいましょうか」
「どうぞ。……あちらの部屋だって、きっとお気に召すと存じますが」
手代に従いて、朱実は旅籠の表口へまわって行った。
「…………」
お通は遂になにもいわずにしまった。なぜ一言でも訊いてみなかったかと、後では悔いるのであったが、それがいつもいけない自分の性質らしい――と独りで思い沈んでしまう。
今行った女と武蔵は、いったいどういう間がらなのか。
それだけでも知りたい。
五条大橋で見かけた時には、かなりな時間を二人で話していた、いやそれもただの程度ではない、果ては彼女が泣き、武蔵がその肩を抱いていたではないか。
(よもや、武蔵様に限って……)
とお通は、自分の妬みが描く臆測を、みな打消してはみるが、やはりあれからの日は、そのために、ともすると今までは知らなかった複雑な傷みを、自分の心に見出すことが多かった。
――自分より美しい女。
――自分よりあの人に近づく機会の多い女。
――自分より才気があって男性のこころを巧みにつかむ女。
今までは、武蔵と自分としか考えていなかったが、お通は急に、同性の世界をながめて、自分の無力がかなしくなった。
――美しいなんて思えない。
――才もない。
――機縁にもめぐまれない。
こういう自分を、ひろい社会の多数の女性に見較べると、彼女は自分の希望が、余りに自分の身に過ぎていて、なにか大それた夢かのように思えてしまうのだった。――ずっと以前、七宝寺の千年杉へよじ登って行ったころの、あの暴風雨よりもつよい勇気は出ないで、五条大橋の朝、牛車の蔭に、しゃがみ込んでしまった時のような弱さばかりが、妙にこのごろの心には棲む。
(城太さんの手がほしい!)
痛切に、お通はそう思った。そしてまた、
(暴風雨の中を、あの千年杉の上へよじ登っていたころの自分には、まだ城太さんのような無邪気さが幾らかあったからだろう)
と思い、この頃のように、独り悩んでいる複雑な気持は、そうした処女心からいつのまにか遠くなっている証拠でもあろうかと考えて来て、針を運ぶ縫物のうえに、何とはなくほろりと涙がこぼれた。
「――いるのか、いやらぬのか。――お通っ、なんでまた灯りを燈さぬのかやい」
いつの間にか夕闇の迫っていた軒先に、外から戻って来るなりこういうお杉隠居の声がしていた。
「お帰りなされませ。――今すぐ灯りの支度をいたしまする」
壁の後ろの小部屋へ立ってゆくお通の背へ、じろりと冷たい眼をくれながら、婆はほの暗い畳へ坐った。
灯りを置いた蔭へ手をつかえてお通が、
「お婆様、おつかれでございましょう。きょうはまたどちらまで……」
「問うまでもあるまいに」
と、お杉は、わざとのように厳しい。
「せがれの又八を尋ね、武蔵のありかを捜し歩いているのじゃ」
「すこし脚でもお揉みいたしましょうか」
「脚はさほどでもないが、陽気のせいか、この四、五日は肩が凝る。――揉んでやろうという気があるなら揉んで賜もい」
なにかにつけて、この調子なのだった。しかし、それも又八を尋ねあてて、きれいに過去の話をつけてしまうまでの少しの間の辛抱――と、お通はそっと婆の背へ寄って、
「ほんに、お肩が固うございますこと。これでは、呼吸がお苦しゅうございましょう」
「歩いていても、ふと胸がつまるように思うことがある。やはり年じゃ、いつなん時、卒中で倒れるかも知れぬ」
「まだ、まだ、若い者も及ばないお元気で、そんなことがあってよいものではございませぬ」
「でものう、あの陽気な権叔父ですら、夢のように死んで逝った。人間はわからぬよ。……ただわしが元気になる時は、武蔵を思う時だけじゃ。おのれと、武蔵へ初一念を燃やす時は、誰にも負けぬ気が立って来る」
「お婆様……。武蔵様は、そんな悪い人では決してありませぬ。……お婆様のお考え違いでございます」
「……ふ……ふ」
肩を揉ませながら――
「そうじゃったの、そなたにとれば、又八を見かえて惚れた男じゃもの。――悪ういうて済まなかった」
「ま! ……そんな理では」
「ないとおいいやるか。又八よりは、武蔵が可愛ゆうてなるまいがの。そう明らさまにいうたほうが、物事すべて、正直というものじゃぞ」
「…………」
「やがて、又八に出会うたら、この婆が仲に立って、そなたの望み通り、きっぱり話はつけてやるが、そうなればそなたと婆とは、あかの他人、そなたはすぐ武蔵のところへ走って行って、さぞかしわしら母子の悪口をいうことであろうわいの」
「なんでそんなことを……。お婆様、お通はそんな女子ではございませぬ。元の御恩は御恩として、いつまでも覚えておりまする」
「この頃の若い女子は、口がうまい。ようそのように優しくいえたものじゃ。この婆は正直者ゆえ、そのように言葉はかざれぬ。――そなたが武蔵の妻となれば、そなたも後にはわしが仇じゃ。……ホホホホホ、仇の肩を揉むのも辛かろうのう」
「…………」
「それも、武蔵と添いたいための苦労であろが。そう思えば、堪忍のならぬこともない」
「…………」
「なにを泣いておいやる?」
「泣いてはおりませぬ」
「では、わしの襟もとへ、こぼれたのはなんじゃ」
「……すみませぬ、つい」
「ええもう、むずむずと、虫が這うているようで気持がわるい、もっと力を入れておくれぬか。……めそめそと、武蔵のことばかり考えておいやらずに」
前の畑に提燈の灯りが見えた。いつものように旅籠の小女が、晩の食事を運んで来たのであろうと思っていると、
「ごめん下さい。本位田様のご老母のお部屋はこちらでございますか」
と、僧形の者が縁先へ立った。
さげている提燈には――
音羽山清水寺
と、書いてある。
「てまえは、子安堂の堂衆でおざるが……」
と提燈を縁において、使いの僧はふところから一通の書付をとり出し、
「何やらぞんじませぬが、黄昏れ頃、寒々とした風態のお若い牢人が堂の内をのぞいて――この頃は作州のお婆は参籠に見えぬかと問われますゆえ、いや折々お見えでござる――と答えますと、筆を貸せといい、婆が見えたらこれを渡してくれといって立ち去りました。――ちょうど五条まで用達に出かけましたので、早速、お届けにあがったような次第で」
「それは、それは、ご苦労さまな」
と婆は人ざわりよく敷物などすすめたが、使いの僧はすぐ戻って行った。
「……はてのう?」
行燈の下で婆は手紙を繰りひろげた。顔いろが変ったところを見ると、なにかその内容が婆の胸を烈しく揺りうごかしたものと見える。
「お通っ……」
「はい」
と、小部屋の隅の炉ばたからお通が答える。
「もう茶など注いでも無駄なことじゃ。子安堂の堂衆は帰ってしもうたがな」
「もうお帰りになってしまいましたか。それでは、お婆様に一ぷく」
「人に出しそびれたのでわしへ振向けておくれるのか。わしの腹は茶こぼしではないぞえ、そのような茶、飲みとうもない。それよりすぐ支度しやい」
「……え、どこぞへ、お供するのでございますか」
「そちの待っている話を今夜つけてやろうほどに」
「あ……では今のお手紙は、又八様からでございますか」
「なんなとよいがな、そなたは黙ってついて来ればよいのじゃ」
「それでは旅宿の厨へ、早くお膳部を持ってくるようにいうて参りましょう」
「そなた、まだか」
「お婆様のお帰りを待っておりましたので」
「よけいな気づかいばかりしていやる。わしが出たのは午前、今まで食べずにおられようか。午と夜食をかねて外で奈良茶のめしを済ましてきました。わが身まだなら急いで茶漬なと食べなされ」
「はい」
「音羽山の夜はまだ肌寒かろう、胴着は縫えているか」
「お小袖はもう少しでございますが……」
「小袖を訊いているのじゃない、胴着を出してたも。それから足袋も洗うてあるか、草履の緒もゆるい。旅宿へ告げて、わら草履の新しいのをもろうて来ておくりゃれ」
返辞がしきれないほど、婆のことばが次から次へお通を追う。
なぜという理由もなく、お通はそのことばに一つも反抗はできなかった。黙って見ていられる眼にさえ、心が竦むのである。
草履をそろえて、
「お婆様、お出ましなさいませ、お供をいたしまする」
と、先へ出ていうと、
「提燈を持ったか」
「いえ……」
「うつけた女子よの、音羽山の奥まで行くのに灯りなしでこの婆を歩ます気か、旅宿の提燈を借りて来なされ」
「気がつきませんでした――今すぐ」
と、お通は自分の身支度は何をする間もない。
音羽山の奥といったが、いったいどこへゆくのだろうか?
そんなこともふと考えたが訊いたら叱られるであろうと思い、お通は黙って灯りを提げながら三年坂を先に立って歩いて行く――
しかし、心の裡で、彼女もなんとなくいそいそしていた。先刻の手紙は、又八からであったに違いない。――とすれば、かねがね婆とかたく約束してある問題の解決を今夜こそはっきり決めてくれることであろう。どんな嫌な思いも辛い気持も、もうわずかな間の辛抱である。
(話がついたら、今夜のうちにも烏丸様のほうへ戻って城太さんの顔を見なければならない――)
三年坂は辛抱坂だった。石ころの多い凸凹な坂道を、お通は石を見ながら歩いた。
滝の音がする――水かさが増すわけでもないが夜は大きく耳へひびく。
「地主権現というのは確かこれじゃろが。……地主桜と、この樹の立札にも書いてある」
清水寺のわきの山道をかなり登って来たのである。しかし婆は、息が喘れたともいわない。
「――伜、伜」
そこの堂の前に立つと、すぐ闇へこう呼ぶ。
顔つきにも、声にも、真実の愛情がふるえていた。後ろに立っているお通には、べつな老婆のように思えた。
「お通、提燈を消すなよ」
「はい……」
「いない、いない」
婆は、口のうちで呟きながら、そこらを繞り歩いて、
「手紙には、地主権現まで来てくれとあったが」
「今夜と書いてございましたか」
「きょうとも明日ともしてないのじゃ、幾歳になってもあの子ときては子供じゃでのう。……それより自分で旅宿へ来ればよいに、住吉のこともあるので、間がわるいのじゃろ」
お通は袂を引っぱって、
「お婆様、又八さんではありませんか。――誰か下から登って来るようです」
「エ、いたか」
崖の道をさし覗いて、
「伜――」
やがて登って来た者は、そういうお杉婆には目もくれないで、地主権現の裏へ廻り、またそこへ戻って来ると、立ちどまって、提燈の明りの上に浮いているお通の白い顔を、不遠慮な眼でじっと見る。
――お通は、はっと思ったが、先は何も感じない顔つきである。この元旦、五条大橋のそばでお互いに見かけているはずであるが、佐々木小次郎のほうには、覚えがなかったであろう。
「女子、そこのおばば。お前たちは今ここへ登って来たのか」
「…………」
訊ね方が唐突なので、お通もお杉婆も、ただ小次郎の派手派手しいすがたへ眼をみはっていた。
すると小次郎は、いきなりお通の顔を指さして、
「ちょうど、これくらいな年ごろの女だ。名は朱実といって、もちっと丸顔、がらはこの女子より小つぶだが、茶屋そだちの都会娘、どこかもそっと大人びている風がある……。見かけないか、この辺りで」
「…………」
黙って、二人が顔を振ると、
「おかしいな? 三年坂の辺りで、見た者があると訊いたのだが、さすれば、この辺の御堂で夜を明かすつもりにちがいないし……」
初めは相手を置いていた言葉であったが、途中から独り言のようになって、それ以上は問いようもなく、なにかまだ、ふたことみこと呟きながら、小次郎はどこともなく立ち去ってしまった。
婆は、舌打ちして、
「なんじゃあの若者は、刀を負うているところを見れば、あれでも侍じゃろが、これ見よがしの伊達すがたして、夜まで女のしりを追うていくさる。……ええ、こちらはそれどころじゃない」
お通は、お通でまた、
(そうだ、さっき旅籠へ迷って来たあの女――あの女に違いない)
武蔵と――朱実と――小次郎と――そう三人の関係を、いくら考えても解せない想像の中にのぼせて、ぼんやり見送っていた。
「……もどろう」
婆は、がっかりしたように、諦めの言葉を投げて歩き出した。たしかに地主権現と書いてあったのに、又八は来ないし、滝の音の寒さは毛穴をよだたせる。
すこし道を降りてゆくと、本願堂の門前で、また、さっきの小次郎に二人は出会った。
「…………」
顔を見あわせただけで、どっちも黙って通りすぎた。お杉が振向いて見ていると、小次郎の影は子安堂から三年坂のほうへ、まっ直に降りてゆく様子――
「険しい眼づかいをするよのう。……武蔵のようじゃ」
つぶやいているうちに、婆の視線がなにへ触れたのか、ぎくと、背のまるい体に衝動を見せて、
「……ほう!」
梟の啼くような声を出した。
巨きな杉の樹の蔭だ。――たれかその蔭に立って、手まねきしている。
婆の目にだけは、闇でもわかる人影だった。又八にちがいない。
(――来てくれ、こっち)
手で物をいっているのはその意味らしい。なにか、憚ることがあるとみえる。おお、いじらしい奴――というように婆のひとみはすぐ子の心持を読んだ。
「お通よ」
うしろを見ると、お通は十間ほど先に立って、婆を待っていた。
「――そなた、ひと足先へ行かっしゃれ。そうかというて、あまり遠くへ去んでもならぬぞよ、あの塵間塚のそばに立っていやい。すぐ後から行くほどに」
お通が、素直にうなずいて先へ行きかけると、
「これこれ、他へ去んだり、そのままどこぞへ走ろうとしても、婆の目がここから光っていることを知って置きゃい。よいか」
そして、すぐその体は、杉の樹蔭へ走り寄っていた。
「又八ではないか」
「おばばっ」
暗がりから、待ちかねていたような手が出て、婆の手を固くつかんだ。
「なんじゃわれは、そんなところへ竦みこんで。……オ、まあ、この子は、氷のようなつめたい手をして」
もうすぐ、そんな些細ないたわり心が、婆の目を意気地なくうるませてしまう。
そう叱られても、又八は恟々した眼で、
「……でもなおばば、今も、たった今もここを通ったろうが」
「誰がじゃ?」
「太刀を背中に負った、眼のするどい若衆だ」
「知っていやるのか」
「知らいでか、あいつが佐々木小次郎といって、つい先頃、六条の松原で、小っぴどい目にあわされた」
「――なに、佐々木小次郎? ……佐々木小次郎というのは、わがみのことではないのか」
「ど、どうして」
「いつであったか、大坂表でわがみが、わしに見せてくれた中条流の許し書の巻物に、そう書いてあったじゃろうが。その時、わがみは佐々木小次郎というのは自分の別名じゃというたではないか」
「嘘だ、あれは嘘なんだ。――その悪戯がバレてしまい、本物の佐々木小次郎奴にひどい懲らしめに遭わされたのだぞ。――実は、おばばのところへ手紙をたのんでから、約束の場所へ出向こうとすると、またもここで彼奴のすがたを見かけたので、眼にとまっては大変と、あっちこっちに隠れ廻って、様子をながめていたというわけ。――もう大丈夫かしら、またやって来ると面倒だが」
「…………」
呆れてものがいえないように、お杉は黙ってしまったが、ひと頃よりはまた窶れて、正直に自分の無力と小胆を顔にあらわしている挙動を見ると、婆は、よけいにこの子が愛しくなってならないような様子だった。
「そんなことはどうなとよい」
婆はもう、わが子の弱音を、それ以上聞きたくもないという顔して、首を振った。
「それよりは又八、おぬしは、権叔父の死んだことを知っていやるか」
「えっ、叔父御が? ……ほんとですか」
「たれがそのような嘘をいおうぞ。住吉の浜で、おぬしと別れるとすぐあの浜で亡くなったのじゃ」
「知らなかった……」
「叔父御の敢ない死も、この婆がこの年して、こうした憂い旅にさまようているのも、いったいなんのためか、おぬしは分っていやろうがの」
「いつか、大坂で会った折、凍てた大地にひきすえられ、おばばに存分叱られたことは、胆に銘じて忘れてはいない」
「そうか……あの言葉を覚えているか。では、おぬしに欣んでもらうことがあるぞよ」
「なんだ、おばば」
「お通のことよ」
「……あっ! じゃあ、おばばの側に添って、今彼方へ行った女子は」
「これっ――」
たしなめるように、又八の前へ立ちふさがって、
「汝が身は、どこへおじゃるつもりじゃ」
「お通ならば……おばば……会わしてくれ、会わしてくれ」
うなずいて――
「会わしてやろうと思えばこそ連れて来たのじゃ。――したが又八、おぬし、お通に会ってどういう気か」
「悪かった――済まなかった――ゆるしてくれといって、おれは謝るつもりだ」
「……そして」
「……そしてなあ、おばば……おばばからも、おれの一時の心得ちがいを宥めてくれ」
「……そして」
「元のように」
「なんじゃあ? ……」
「――元のように仲をもどして、お通と夫婦になりたいんだ。おばば、お通はおれを今でも思っていてくれてるだろうか」
皆までいわせず、
「――ばッ、ばかっ」
お杉は、又八の横顔を、ぴしゃりと打った。
「アッ……な、なにをするんだ、おばば」
蹌めきながら又八は顔をかかえた。そして乳を離れてから今日まで見たことのない怖ろしい母の顔を彼は見た。
「たった今、おぬしはなんというたぞ。わしがいつかいうて聞かせた言葉は、胆に銘じているというたであろう」
「…………」
「いつ、このおばばが、お通のような不埒な女子へ、汝が身が手をついて謝れと教えたか。――本位田家の名に泥を塗って、あまっさえ、七生までの仇ぞと思うている武蔵と逃げた女子じゃぞよ」
「…………」
「許嫁であった汝が身を捨てて、汝が身とは、家名の仇の武蔵へ身をも心をもまかせている犬畜生のようなあのお通に、汝れは、手をついて謝る所存か。……謝る所存かよ! これっ――」
又八の襟がみを諸手につかんで、婆は振りうごかすのであった。
又八は、首をがくがく動かしながら、眼を閉じて、母の叱言を甘受していた。閉じている眼からは涙がとまらなかった。
婆は、いよいよ歯がゆそうに、
「なにを泣くのじゃ。泣くほど犬畜生に未練があるのかっ。――ええ、もうおぬしという子はいのう!」
力まかせに、わが子を大地へ突き仆した。そして自分も諸仆れに腰をついて、一緒になって泣き出した。
「これ」
厳しい母に返って、お杉は大地に坐り直した。
「今が、汝が身にとっても、性根のすえ時。――この婆とても、もう十年二十年先までは寿命も知れぬ。こういう声も、わしが死んでしもうた後は、二度と聞きたいと思うても聞けはせぬぞ」
――分りきったことを――というように、又八は横を向いたままなのである。
お杉は、わが子の機嫌を損じてもならないと、心の隅ではまた、気がねするように、
「のう、これ。お通ばかりが女子ではなし、あのような者に未練をのこしゃるな。もしこの先、おぬしが、ほしいと望む女子があれば、この婆がその女子の家へお百度踏んで通うても――いやわしが生命を結納に進上しても、きっと貰うてやりまするがの」
「…………」
「――だがの、お通だけは、金輪際、本位田家の面目として、持たすことは相成らぬ。おぬしが、なんといおうが、まかりならぬ」
「…………」
「もし、飽くまでおぬしがお通と添う気なら、この婆が首打ってそれからどうなとしやるがよい。わしの生きているうちは――」
「おばば!」
突っかかって来たわが子の権まくにお杉はまた、膝に角を立てて、
「なんじゃ、そのいいざまは」
「じゃあ訊くが……いったいおれの女房にする女は、おばばが持つのか、おれが持つのか」
「知れたことをいやる、わが身のもつ妻でのうてなんとする」
「……な、ならば、お、おれが選ぶのが、あたりまえじゃないか。それを」
「まだそのように聞きわけのないことばかり……。汝が身はいったい幾歳になるのか」
「だって……い、いくら親だってあんまりだっ、勝手すぎる」
この息子とこの母親とは、どっちも余り隔てを知らないために、ややともすると感情と感情ばかりが先に立って、感情を出した後から言語が出るという始末だった。そのためにかえって、お互いが理解をはぐらかし、すぐ角突きあいになるくせがあった。それはたまたまの場合だけではなく、家庭にあったむかしから、そういう家風であったが、まだ習性となっているのだった。
「勝手とはなんじゃ、汝が身はそもそも、たれの子か、たれの腹から、この世には生れて来たか」
「そんなこといったってむりだ。おばば……おれはどうしても、お通と添いたい。――お通が好きなんだっ」
さすがに、青ざめている母の顔へ向ってはいえずに、又八は、空へ向いてうめいた。
お杉の尖っている肩のほねが鳴るようにふるえ出した、――と思うと、やにわに、
「又八、本性か」
と、いって、いきなり自分の脇差を抜いて喉へ突きたてようとした。
「あッ、おばばなにするっ――」
「ええもう、止めだてしやるな。それよりはなぜ、介錯するといわぬか」
「ば、ばかなことを。……おばばが死ぬのを、おれが……子が見ていられるか」
「では、お通をあきらめて、性根を持ち直してたもるか」
「じゃあ、おばばは一体、なんのために、お通をこんなところへ連れて来たのだ。おれにお通のすがたを見せびらかすのだ。――おれには、おばばのその肚がわからぬ」
「わしの手で殺すは易いことじゃが、元々、汝が身を裏切った不貞な女、汝が身の手で成敗させてやりたいと思う親ごころのそれも一つ、有難いとはなぜ思わぬか」
「それじゃあ、おばばは、おれの手でお通を斬れというのか」
「……嫌か!」
鬼のことばのようである。
又八は、自分の母の中に、こんな声を出す性質があったろうかと疑った。
「嫌なら嫌といえ。猶予はならぬことじゃ」
「だ……だって、おばば」
「まだ未練をいいおるか。エエ、もうおのれのような奴、子でない、母でない! ……。女の首は斬れまいが、母の首なら斬れるであろう。介錯しやい」
元より脅しに違いないが、脇差を取り直して、婆は自害のていを見せた。
子のわがままもずいぶん親をてこずらすが、親の駄々も随分子どもをてこずらす場合がある。
お杉のもその一例に過ぎないが、この年寄は下手をすると、ほんとにやりかねまじき血相なのだ。息子の眼から見ても、ただの仕ぐさとは見えないのである。
又八はふるえ上がって、
「おばば! ……そ、そんな短気なことをしなくっても。……いいよ、わかった、おれは諦める」
「それだけか」
「成敗してみせる。おれの手で……おれの手でお通を」
「殺るかよ?」
「ム。殺ってみせる」
婆は、うれし泣きに泣いて、脇差を捨てた手で、子の手を押しいただいた。
「よういやった、それでこそ本位田家の世継ぎ息子、あっぱれ者と御先祖さまも仰っしゃろう」
「……そうかなあ?」
「討って来い。お通は、すぐこの下の塵間塚の前に待たせてある」
「ウム……今行くよ」
「お通を首にして、添状付けて、先に七宝寺へ送りとどけてやろうぞ。村の者のうわさだけでも、わしらの面目が半分は立つ。――さて次には武蔵めじゃが、これも、お通を討たれたと聞けば、意地でもわしら母子の前へ出て来るじゃろう。……又八、はよう行って来い」
「おばばは、ここで待っているか」
「いや、わしも尾いて行くが、わしが姿を見せると、それでは話がちがうのなんのと、お通めがわめいてうるさかろう。わしは少し離れた物蔭から見ております」
「……女ひとりだ」
よろりと又八は立って――
「おばば、きっとお通は首にして来るから、ここで待っていたらいいじゃないか。……女ひとりだ、大丈夫、逃がしゃあしない」
「でも、油断をしやるなよ、あれでも刃物を見れば、相当に手抗いはするぞ」
「いいよ……なにくそ」
自分をこう叱咤しながら、又八は歩きだした。不安そうにお杉婆もその後に尾いて、
「よいか、油断するなよ」
「なんだおばば、尾いて来るのか。待っていろ」
「よいわ、塵間塚は、まだその下――」
「いいといったら!」
又八は、癇を破って、
「二人でゆくくらいなら、おばば一人で行って来い。おれはここで待っている」
「なにを渋っていやるのじゃ、おぬしはまだ本心からお通を斬る気になっておらぬの」
「……あれだって人間だ、猫の子を斬るような気持じゃ斬れない」
「無理もない……たといどのように不貞の女でも、元はおぬしの許嫁であったげな。……よいわ、ばばはここにいましょう、おぬし一人で行って見事にして来やれ」
又八は返辞もせず、腕ぐみをしたまま、ゆるい崖の道を降りて行った。
さっきからお通は、塵間塚のまえに佇んでお杉婆の来るのを待っていた。
(いっそ、こんな時に)
と逃げる隙を考えないでもなかったが、それでは二十日あまり怺えてきた忍苦がなんの意味もなさなくなってしまう。
(もう少しの辛抱)
お通は、武蔵を思い、城太郎のことを考え――そしてぼんやり星を見ていた。
武蔵を胸に描いていると、彼女の胸には無数の星が輝いた。
(今に。今に……)
夢みるように、将来の希望をかぞえてみる。また国境の山でいった彼のことばを――花田橋のたもとでいった彼の誓いを――胸のうちで繰返してみるのだった。
たとい年月が経っても、それを裏切る武蔵ではないことを、彼女はかたく信じていた。
――ただ朱実という女性を思いうかべると、ふと厭な気持がして、希望に暗いかげを映してくるが、それとても、武蔵に対する強固な信頼にくらべれば物の数でもない、不安というほどな憂いでもない。
(花田橋で別れたきり、会えもしない、話せもしない……。それでも自分はなにかしら楽しい。沢庵さんは可哀そうなというけれど、こんな幸福でいるわたしが、どうして沢庵さんの眼には、不幸に見えるのかしら……)
針のむしろに坐って針の目を運んでいる間も――待ちたくない人を待って暗い淋しい中に佇んでいる間も――彼女はひとりで楽しむことに楽しんでいるのだった。そして他人には空虚に見える時が、いちばん彼女の生命の充実している時だった。
「……お通」
婆の声ではない。――誰かこう暗がりから呼ぶ者があった。お通はわれに返ったように、
「……え。どなたです」
「おれだよ」
「おれとは」
「本位田又八だ」
「えっ?」
跳び退いて――
「又八さんですって」
「もう声まで忘れたかい」
「ほんに……ほんに又八さんの声ですね。婆様に会いましたか」
「お婆は、彼方に待たせておいた。……お通、おまえは変らないなあ。七宝寺にいた時分と――ちっとも変っていない」
「又八さん、あなたはどこにいるんですか。暗くてあなたの姿はわかりません」
「そばへ行ってもいいかい。……おれは面目ない気がして、先刻からここへ来ていたが、しばらく後ろの闇にかくれて、おまえの姿を見ていたんだ。……おまえはそこで今、なにを考えていたのか」
「べつに……なにも」
「おれのことを考えていてくれたのじゃないのか。おれは一日だって、おまえのことを思い出さない日はなかったぜ」
そろそろ歩み寄って来る又八の姿がお通の眼に映った。お通は婆がいてくれないので、不安に襲われた。
「又八さん、お婆様から、なにか話を聞きましたか」
「ア、今この上で」
「じゃあ、私のことを」
「うむ」
お通は、ほっとした。
かねて婆も約束してくれた通りに、自分の意思は、婆の口から又八へ通じてくれたものと思った。そして又八はその承諾を与えてくれるために、ここへ一人で来たのであろうと解釈していた。
「婆様からお聞きならば、私の気持はもう分ってくれたはずですが、私からもお願いいたします、又八さん、どうぞ以前のことは、縁のなかったものと思って、今夜かぎり忘れてくださいましね」
老母とお通との間に、どんな約束が交わされていたのだろうか。元よりお婆のいい加減な子ども騙しには違いない。そう考えられるので又八は、お通が今いったことばにも、
「いや、まあ、お待ち」
顔を先に振って、そのことばの底にある彼女の意思を問おうとしなかった。
「――以前のことなんかいわれると、おれは辛い。まったくおれが悪いのだ。今さら、おまえにあわせる顔もない次第で――おまえのいう通り、これが忘れられるものならば、忘れてしまいたいと山々思う。だが思うだけで、なんの因果か、おれはおまえを諦めきれない」
お通は、当惑して、
「又八さん、二人の心と心のあいだには、もう通うもののない深い谷間ができました」
「その谷間に、五年の年月が流れて行ったのだ」
「そうです、年月が返らぬように、私たちのむかしの心も、もう呼びもどすことは出来ません」
「で、できないことはないよ! お通、お通っ」
「いいえ。――できません」
お通のそういう冷やかな語尾と顔いろに驚いて、今さらのように眸をすえてしまう又八であった。
情熱が表にあらわれる時は、真紅の花と太陽の狂いあう夏の日を思わせるような性質のあるお通の一面に――こんな冷やかな――まるで白い蝋石を撫でるような感じのする――そして指を触れれば切れそうな厳しい性格が、どこに潜んでいただろうか。
そういう冷たい面の彼女を見ていると、又八の頭にはふと、七宝寺の縁側が思い出された。
――あの山寺の縁側で、なにか考えごとをしながら、うるみのある眼で、半日でも一日でも、空を見て黙っている時の孤児のすがたを。
母も雲――父も雲――兄弟も友達も雲よりしかないと思っているような――孤児の生い立ちの中に、いつのまにか、育くまれていた、この冷たさに違いない。――又八はそう思った。
そう考えたので、彼は彼女のそばへそっと寄って、棘のある白薔薇へ触るように、
「……やり直そう」
頬へささやいた。
「……ね、お通。――返らない年月を呼んでみたって始まらないじゃないか。これから二人して、やり直そう」
「又八さん、あなたはどこまで考え違いをしているのですか。私のいっているのは、年月のことではありません、心のことです」
「だからさ、その心を、おれはこれから持ち直すよ。自分でいいわけしても変だけれど、おれがやった過ちぐらいは、若いうちは誰にだってあり勝ちな話じゃないか」
「どう仰っしゃっても、私の心はもうあなたの言葉を本気で聞こうといたしません」
「……わるかッたよ! こんなに男が謝っているのじゃないか……え、お通」
「およしなさい、又八さん、貴方もこれから男のなかへ生きてゆく男でしょう。こんなことに……」
「でも、おれには、生涯の重大事だ。手をつけというなら手をつく。おまえが、誓いを立てろというなら、どんな誓いでもきっと立てる」
「知りません!」
「そう……怒らないでさあ……ね、お通、ここじゃあ、しんみり話ができないから、どこか、ほかへ行こう」
「嫌です」
「おばばが来るとまずい。……早く行こう。おれには、とてもおまえを殺せない。どうして、おまえを殺せるものか」
手を取ると、その手は、又八の指をつよく振り切って、
「嫌ですッ。殺されても、あなたと一つの道を歩くのは嫌ですっ」
「嫌だと?」
「ええ」
「どうしても」
「ええ」
「お通、それではおまえは、今まで武蔵を思っていたのだな」
「お慕いしています――二世まで誓うお人はあのお方と心に決めて」
「ウウム……」
又八は身をふるわして、
「いったな、お通」
「そのことは、婆様の耳へも入れてあります。そして、婆様からあなたに告げ、この際、はっきりと話をつけた方がよいと仰っしゃるので、こういう折を今日まで待っていたのです」
「わかった……おれに会ってそういえと――それも武蔵の指図だろう。いいやそうに違いねえ」
「いいえ、いいえ。自分の生涯を決めること、武蔵様のお指図はうけません」
「おれも意地だ。――お通、男には意地があるぞ。てめえがそういう量見ならば……」
「なにするんですッ」
「おれも男だっ。おれの生涯を賭けても、武蔵と添わせてたまるものか。――許さぬっ! たれが許す!」
「許すの、許さぬのと、それは誰に向ってなんのことを仰っしゃるのですか」
「てめえにだ! また武蔵にだ! お通、貴様は武蔵と許嫁ではなかったはずだぞ」
「そうです……、けれども、あなたがそう仰っしゃる筋はございますまい」
「いや、ある! お通というものは、もともと本位田又八の許嫁だ。又八がうんといわねえうちは、誰の妻になることも出来ないはずだ。ましてや……武……武蔵ずれに!」
「卑怯です、未練です、今さらそんなことがよういえたもの。私はあなたとお甲という人との二人名前で、ずっと前に、縁切状をいただいてありました」
「知らないっ、そんな物をおれは出した覚えがない。お甲が勝手に出したのだろう」
「いいえ、その状には貴方が立派にない縁とあきらめて、他家へ嫁いてくれと書いてありました」
「み、見せろ、それを」
「沢庵さんが見て、笑いながら鼻をかんで捨ててしまいました」
「証拠のないことをいっても世間へは通るまい。おれとお通とが許嫁だということは、故郷へ行けば知らない者はない。こっちには幾らでも証人が立てられるが、そっちには証拠のない話だ。……なあお通、世間を狭くしてまで、無理に武蔵と添ってみたって、倖せに暮せるはずはないぜ。おまえは、お甲のことをまだ疑っているかも知れねえが、あんな女とは、もうきれいに手を切っているのだ」
「伺ってもむだなこと、そんな話、お通の存じたことではありません」
「……じゃあこれ程に、おれが頭を下げても」
「又八さん、あなたは今、おれも男だと仰っしゃったではありませんか。恥を知らない男などへ、どうして女の心がうごきましょう。女の求めている男は、女々しくない男です」
「なんだと」
「お離しなさい、袂が切れますから」
「ち、ちくしょうっ」
「どうするんですっ――なにをなさるのです」
「もう……これまでいっても分らねえなら、破れかぶれだ」
「えっ……」
「生命が惜しいと思ったら、武蔵のことなど思いませんと、ここで誓え、さあ誓え」
袂を離したのは、刀を抜くためであった。刃を手に抜くと、刃が人間を持ったように、又八の人相はまるで変ってしまった。
刃物を持った人間はそう怖いものではないが――しかし、刃物に持たれている人間は怖い。
お通がとたんに、
ひいっ――と声をあげたのも、刃物の先よりも、又八の顔にあらわれたその恐さだった。
「よくも。――この阿女」
又八の刀は、お通の帯の結び目をかすめていた。
(逃がしては)
と、焦心って来て、又八は、
「おばば、おばばっ」
と、お通を追いかけながら、一方へは呼び立てる。
声が届いたとみえる、お杉婆は彼方で、
「おう」
といった。
跫音を目あてに走って来ながら婆は、
「仕損じたか」
自分も小脇差を抜いて、うろうろ慌てまわる。
又八が彼方から、
「そっちだ、おばば、捕まえろっ」
呶鳴りながら駈けて来るのを見て、婆は眼を皿のようにし、
「ど、どこへ」
と、道を塞いでいた。
しかし、お通の影は見えないで、又八のからだが打つかるように眼の前へ来た。
「斬ったかよ」
「逃がした」
「阿呆っ」
「――下だ。あれがそうだ」
崖へ臨んで駈け降りていたお通は、崖の下の樹の枝に袂をとられていていた。
滝つぼに近いところとみえ、水音が闇を走ってゆく。足もとなどは見ようともしないのだ。お通は綻びた袂をかかえ、転ぶようにまた駈け出した。
母子の跫音はすぐ迫って来た。婆の声で、
「しめたぞよ」
というのが耳の後ろから聞える。お通はもう逃げても無駄な気がしてしまった。それに、前も横も壁で囲まれているように暗いそこは崖の低地でもある。
「又八っ、はよう斬れ。――それ、お通めが倒れくさったぞ」
婆に叱咤されて、今は完全に刃物に躍らされている人間の又八は、豹のように前へ跳んで、
「――畜生っ」
と、萱の枯れ穂や灌木の間へ転びこんだお通を目がけて、刀を振りおろした。
木の枝の折れる響きがしたと思うと、その下から――きゃっと、生きたものの絶命と血しおが刎ねあがった。
「この阿女、この阿女」
三太刀、四太刀、まるで血に酔ったように眼をつりあげた又八は、灌木の枝や萱の穂もろとも、刀も折れよとばかり、幾度もそこを撲りつづけた。
「…………」
撲りくたびれると、又八は血刀をさげたまま、茫然と、血の酔いから醒めかけた。
――掌を見ると掌にも血。――顔を撫でると顔にも血。温い、粘りのある液体が、燐のように体じゅうへ刎ねているのである。
その一滴一滴が、お通の生命の分解されたものかと思うと、彼はふらふらと眩いを感じ、見る間に、顔が青ざめてきた。
「……ふ、ふ、ふ。……伜よ、とうとう斬りおったのう」
お杉婆は、茫然としている息子の後ろから、そっと顔を突き出して、滅茶滅茶に薙ぎ伏せられている灌木と草むらの底をじっと見入った。
「よい気味! ……もうびくともせぬわ。――出来したぞよ伜。やれやれこれで胸のつかえが半分はさがったというもの。故郷の衆へ幾分か面目が立つわいのう。……又八、これ、どうしたぞよ。はよう首を斬れ、お通の首を揚げい」
「ホ、ホ、ホ」
婆は、息子の小胆をわらいながら、
「――意気地ないやつ。人間ひとり斬ったくらいで、肩で息をつくようなことでどうするぞ。汝が身に首が掻けぬなら、婆が首を揚げてくれる。――そこを退きゃい」
前へ出ようとすると、自失したように棒立ちになっていた又八の手が、握っている刀の柄頭で、いきなり老母の肩をどんと突いた。
「――わっ、な、なにしやる」
あぶなく、婆も底のわからない灌木の中へ腰をつこうとしたが、辛くも足元を支え止めた。
「又八、汝が身は、気でもちごうたのか。老母に向って――なんたることをしやる」
「おふくろ!」
「……なんじゃア?」
「…………」
異様な声を、鼻と喉の境に呑みころしながら、又八は、血のついている手の甲で眼をこすった。
「……おら……おらあ……お通を斬った! お通を斬った」
「賞めてやっているではないかよ。――それをなんで汝が身は哭くか」
「哭かずにいられるかっ。……馬鹿、馬鹿っ、馬鹿婆アめ!」
「かなしいのか」
「あたりまえだ! おばばのようなくたばり損いが生きていなければ、おれは、どんなことをしても、もいちど、お通の気持を取りもどして見せたんだ。くそっ、家名がなんだ、故郷の奴らへの面目がなんだ。……だが、もう駄目だ……」
「知れた愚痴をいやる。それほど未練があるのなら、なぜ婆の首を打って、お通を助けなかったのじゃ」
「それが出来るくらいなら、おれは哭いたり愚痴をいったりしやしねえ。世の中に、分らずやの老よりを持ったくらい、不倖せなことはねえ」
「よしたがよい、なんのざまじゃ、それは……。折角、出来しおったと賞めているのに」
「勝手にしろ。……おれはもう一生涯、やりたい放題のことをやって、出たら目に送ってやるぞ」
「それが汝が身の悪い気質じゃ。たんと駄々をいうて、この年老った母を困らせるがよいわ」
「困らしてやるとも、くそったれ婆め、鬼婆め!」
「オオ、オオ。なんとでもいうがよいわい。さあさあ、そこを退きなされ。今、お通の首を掻き切って、それからとっくりと話して進ぜる」
「た、たれが、薄情婆の談義などを聞くかっ」
「そうでない、胴を離れたお通の首を見てからじっと考えてみるがよいわさ。美貌がなんじゃあ……美しい女子も死ねば白骨……色即是空を目に見せて進ぜよう」
「うるせえッ、うるせえッ」
又八は、狂わしげに、強くかぶりを振って、
「……アーア。考えてみると、おれの望みはやっぱりお通だった。時々、これじゃいけないと思って、なにか立身の途を捜そう、なにか一つ励みを出そうと、真面目な奮発が起るのも、その時には、お通と添うことを考えているからだった。――家名でもねえし、こんなくそ婆アのためでもねえ。――お通が望みにあったればこそ」
「よしないことをいつまで嘆いておじゃるぞ。その口で念仏でもいうてやったがまだましじゃぞ。……なむあみだぶつ」
いつの間にか、婆は又八の前へ出て、血を撒き散らしたような灌木や枯草を掻き分けていた。
……その底に、黒い仏体が俯つ伏している。
婆は、草や枝を折り敷いて、いんぎんにその前へ坐った。
「……お通、わしを恨むな、仏となれば、わしもそなたに恨みはない、すべては約束ごと。頓証菩提」
手で探り寄りながら――探り当てた黒髪らしいものをきゅっとつかんだ。
「――お通さん!」
その時、音羽の滝のうえの辺りで、こう誰か呼んだ声が、樹の声か、星の声かのように、暗い風の中をまわって、この低地へも聞えて来た。
どう巡りあわせて、こんな所へ、宗彭沢庵が今頃やって来たわけか。
元より、偶然であろうはずはないが、いかにも唐突に似て、いつも自然である彼の姿が、今夜ばかりは不自然に思える。まずその事情がらを先に糺してみたいが、今はその由来因縁を彼に問うている遑もなさそうなのである。
――なにしろ、あの何時も、のほほんの沢庵坊にしては、めずらしいほど慌てていて、
「おオい、どうじゃい、宿屋さん、見つかったかい?」
彼とは、べつな方角を捜しまわって来た旅籠の手代が、彼の方へ駈けて来て、
「見当りませんよ、どこにも――」
と、あぐねたようにいって額の汗を拭く。
「変だね」
「おかしゅうございますな」
「おまえの聞き違いじゃないのか」
「いいえ、確かに、夕方清水堂のお使いが見えてから、急に、地主権現まで行ってくると仰っしゃって、手前どもの提燈をお持ちになったのですから――」
「その地主権現というのが、おかしいじゃないか。この夜中に、なにしに行ったのだい」
「どなたか其処で待ち合っていらっしゃるようなお話でしたが」
「ならばまだいそうなものだが……」
「誰もいませんな」
「さあて?」
沢庵が、腕を拱むと旅籠の手代も共に頭をかかえて、独り言に、
「子安堂のそばの燈明番に聞いたら、あのご隠居と若い女子が、提燈を持って、登って行くすがたは見たといいましたね。……それから三年坂のほうへ降りたという者も誰もいないし」
「だから、心配になるんだよ。ひょっとすると、もっと山の奥か、もっと道のないような場所かも知れぬ」
「なぜでございます」
「どうやら、お通さんは、おばばのうまい口に乗せられて、いよいよ、あの世の門口まで、攫われて行ったらしい……アア、こうしている間も心配になる」
「あのご隠居は、そんな恐ろしいお方ですか」
「なあに、いい人間だよ」
「でも、あなたのお話を伺うと……思い当ることがございますんで」
「どんなこと」
「きょうも、お通さんと仰っしゃる女子が、泣いておりました」
「あれはまた、泣虫でな、泣虫のお通さんというくらいなんだよ。……だが、この正月の一日から側に引き寄せられていたといえば、だいぶチクチク虐められたろうな。かあいそうに」
「息子の嫁じゃ嫁じゃと仰っしゃっておいででしたから、お姑なれば、仕方がないと思っていましたが、……じゃあなにか恨み事があって、一寸だめし五分試しに虐めていたわけでございますね」
「さだめしお婆はたんのうしたろうが、夜陰、山の中へ連れ込んだところを見ると、最後の思いをはらそうというつもりだろう。恐いのう女は」
「あの隠居様などは、女の部類へははいりませんよ。ほかの女子たちが大迷惑をしまさあ」
「そうではないな、どんな女たちにも、ちょっぴりずつはあるものらしい。お婆のは、それがつよいだけだ」
「お坊さんだから、やはり女子はきらいとみえますな、そのくせ先刻は、あの隠居様のことを、いい人間だといったりしたが」
「いい人間であることにまちがいはないのだよ。あのおばばでも、清水堂へ日参するというじゃあないか。観音さまへ数珠をさげている間は、観音さまに近いおばばになっているわけだからの」
「よくお念仏もいっておりますぜ」
「そうだろう、そういう信仰家という者は世間にたくさんあるものだよ。外では悪いことをしてきながら、家へはいるとすぐお念仏。眼では悪魔のすることを捜しながら、お寺へ来ればすぐお念仏。人を撲っても、後でお念仏さえいえば、罪障消滅、極楽往生、うたがいなしと信じている信心家だ。こまるね、ああいうのは」
といって、沢庵はまたすぐ、そこらの闇をあるき出して、滝つぼのある山の沢へ、
「おーいっ、お通さあん」
又八は、ギョッとして、
「やっ? おばば!」
と、注意した。
お杉も、気づいていた。鏡のような眼を宙へ上げて、
「なんじゃろ? あの声は」
と、つぶやいた。
しかし、つかんでいる死骸の黒髪と――その死骸から首を斬り離そうとして持っている脇差は、びくとも手からゆるめていない。
「お通の名を呼んだようだぞ。オオ、また呼んでいる」
「いぶかしいことよの。――ここへお通をさがしに来る者があるとすれば、城太郎小僧よりほかにないが」
「大人の声だ……」
「どこかで聞いたような」
「あっ、いけねえ! ……おばば、もう首など斬って持ってゆくのは止せ。提燈を持って、誰かこっちへ降りてくる」
「なに、降りてくると」
「二人づれだ。見つかるといけない、おばば、おばば!」
危急を感じると、啀み合っていたこの母子は、忽ち一体となって、又八は急々と、老母の落着いているのを案じた。
「ええ、待ったがいい」
と、婆は、死骸の魅力にひきつけられていた。
「ここまでして、かんじんな首級を取らずに行ってよいものか。なにを証拠に、故郷の衆へ、お通を成敗したと証拠だてることができよう。……待て、今わしが」
「あ」
又八は、眼をおおった。
お杉は木の小枝を膝で踏み敷いて、死骸の首へ刃を当てようとするのだった。又八には、見ていられなかった。
――と、突然、婆の口から意味のわからない言葉が走った。よほど驚いたものらしかった。持ち上げていた死骸の首を手から離して、後ろへ蹌めくと共に腰をついて、
「ちごうた! ちごうた!」
手を振って、起とうとするのであったが、起てないのである。
又八も、顔を寄せて、
「何が? 何が?」
と、吃った。
「これを見い」
「え」
「お通ではないわ! この死骸は乞食か、病人か、男であろが」
「あっ、牢人者だ」
じっと、死骸の横顔や風体をながめて、又八はなおさら驚きを加えた。
「変だな、この人間をおれは知っているが」
「なんじゃ、知人じゃと」
「赤壁八十馬といって、おれはこいつに騙されて、持金を巻き上げられたことがある。生き馬の眼を抜くようなあの八十馬が、どうしてこんなところにへたばっていたのだろうか」
これはいくら考えてみても、又八には考え当らないはずである。ここから程近い小松谷の阿弥陀堂に住んでいる虚無僧の青木丹左衛門がいるか、でなければ、八十馬の毒牙にかかろうとして救われたことのある朱実でもおればだが――他にその説明をする者としては、宇宙あるのみであるが、こんな成れの果てを見るに至った虫けら同様な人間一個の解説を求めるには、宇宙は余りに大き過ぎて、また森厳であり過ぎる。
「――誰だっ。お通さんじゃないのか、そこにいるのは」
突然、二人の後ろへ、沢庵坊の声と提燈の影がさした。
「――あッ」
逃げるだんになれば、又八の若い跳躍は、当然、お杉が腰をあげてから走るよりも遥かに迅かった。
沢庵は、駈け寄りざま、
「おばばだな」
むずと、襟がみをつかんだ。
「そこへ、逃げてゆくのは又八ではないかっ。――これっ、老母をおいて、どこへ行くぞっ、卑怯者、不孝者、待たんかっ」
お杉の襟首を捻じ抑えながら、沢庵は闇へ向って、なおこういっていた。
婆は、沢庵の膝の下に苦しげにもがきながら、
「たれじゃ、何奴じゃ」
と、なお虚勢を失わない。
又八が引っ返してくる様子もないので、沢庵は手をゆるめて、
「わからぬか、おばば。やはりおぬしもどこか耄碌したのう」
「オーッ、沢庵坊主じゃの」
「おどろいたか」
「なんの!」
猛々しく婆は白髪の光る首を横に振ってさけんだ。
「どこ暗くのう世間をうろついている物乞い坊主、今はこの京都に流れておじゃったか」
「そうそう」
沢庵はにこりと酬いて、
「ばばのいう通り、さきごろまでは柳生谷や泉州の辺りをうろついていたが、ついゆうべ、ぶらりと都へやって来てな、さるお方のお館で、ちらと腑に落ちぬ沙汰を耳にしたので、これはいかん――捨ておけぬ大事と思い、黄昏からおぬし達を捜しあるいていたのじゃよ」
「何の用で?」
「お通にも会おうと思って」
「ふーム」
「おばば」
「なにかや」
「お通はどこへ行った」
「知らん」
「知らんことはあるまい」
「このおばばは、お通に紐をつけて歩いてはおりませぬぞよ」
提燈を持って後ろに立っている旅籠の手代が、
「……ヤ。お坊さま、血がこぼれております、生々しい血しおが」
明りへ俯向いた沢庵の顔が、さすがに少し硬ばってみえた。
――隙を見て、お杉婆は突然起ちあがって逃げだした。
振向いて、沢庵はそのまま、
「待たっしゃれ! おばば! おぬしは家名の泥をすすぐとて故郷を出て、家名に泥をなすって帰るのかっ。子が可愛ゆうて家を出ながら、その子を不幸にして戻るのかっ」
実に大きな声なのだ。
沢庵の口から出ているようには聞えないのである。宇宙が呶鳴ったようにそれは婆の全身をつつんで聞えた。
ぎくと、婆は足をとめた。顔の皺がみな負けん気を顔に描いて、
「なんじゃと、わしが家名に泥のうわ塗りをし、又八をよけいに不幸にするとおいいやるか」
「そうだ」
「阿呆な」
せせら笑って――しかしなにをいわれたよりも真剣になって、
「布施飯くうて他人の寺に宿借して、野に糞してばかり歩く人間に、家名じゃとか、子の愛じゃとかいう、世間のほんとの苦しみがわかって堪るものかいの。人なみな口をたたくなら、人なみに働いて食う米を食わッしゃれ」
「痛いことをいう。そういってやりたい坊主も世間にはあるから、わしにも少し痛い。七宝寺にいた頃から、口ではおばばに敵わないと思っていたが、相変らずその口が達者だのう」
「オオさ、まだまだこの婆にはこの世に大望がある、達者は口ばかりと思うてか」
「まあいい。――済んだことは仕方がないとして話そうじゃないか」
「なにを」
「おばば、おぬしはここで、又八にお通を斬らしたな。母子でお通を殺めたであろうが」
そういうだろうと待っていたように、婆はとたんに首を突き伸ばして笑った。
「沢庵坊、提燈持ってあるいても、眼を持って歩かにゃ世の中は暗やみじゃぞ。おぬしの眼は、飾り物か、ふし穴か」
この婆に翻弄されることには、沢庵もどうしようがないらしい。
無智はいつでも、有智よりも優越する。相手の知識を、恬として無視し去ってしまう場合に、無智が絶対につよい。生半可な有智は誇る無智へ向って、施すに術がないという恰好になってしまう。
ふし穴か、飾り物かと、婆に罵られた眼をもって、沢庵がその場をよくよく検めると、なるほど、死骸はお通ではなかった。
で――ほっとした顔を彼がするとすぐ、
「沢庵坊、ほっとしたであろうが。おぬしは、そもそも、武蔵とお通とをくッつけた不義の媒人じゃほどにの」
と、多分に遺恨をふくんだ口ぶりでいう。
沢庵は、逆らわずに、
「そう考えているなら、そうしておくもよい。――だがおばば、おぬしの信心ぶかいことをわしは知っているが、この死骸をすててゆく法はあるまい」
「死に損のうていた行き仆れ、斬ったは又八じゃが、又八のせいじゃない。抛っておいても死ぬ人間であったじゃろ」
すると旅籠の手代が、
「そういえば、この牢人者は、すこし頭脳もおかしいようなあんばいで、先頃から涎を垂らして町をふらふらしておりましてな、なにかでひどく打たれたような大疵を頭のてっぺんに持っておりましたよ」
と話す。
そんなことは、どうでもいいように、婆はもう先へ歩いて道を捜していた。沢庵は、死骸の始末を旅籠の手代にたのんで、婆の後から尾いて行く。
気になるとみえ、婆は振り顧って、また毒口でも放ちたいような顔をしたが、
「――おばば、おばば」
樹蔭から小声でよぶ者の影を見て、欣しそうにそこへ走り寄った。
又八だった。
さすがに子である、逃げたのかと思っていたら、やはり老母の身を案じて様子を見ていたのかと、婆はたまらないほど、わが子の気持を欣しく買う。
沢庵の影を振向いて、母子は何かささやき合っていたが、やはり沢庵のどこかを恐れるもののように、二人は急に足を早め出し、麓のほうへ行くほど迅く走っていた。
「だめだ……あの様子では、まだなにをいって聞かせても受けつけまい。世の中から、思い違いというものだけ除いたら、ずいぶん人間の苦労は少なくなるがなあ」
母子の影を見送りながら、沢庵はつぶやいていた。彼の足は、急ごうともしないのだ。――お通を捜すことを急務としているから。
だがいったい、お通はどうしてしまったものだろう。
あの母子の刃から、どうした機みかで逃げ終おせたことは確実と見ていい。沢庵はこころの裡で、先刻から大きな欣びを胸へ拾っていた。
けれど血を見たせいか、お通の生きている無事な顔を見ないうちは、なんとなく気が落着かない。夜が明けるまで、もひとつ捜してみようと思う。
そう決心していると、さっき崖を上がって行った旅籠の提燈が、そこらの堂守たちでも狩りあつめて来たらしく、七つ八つの灯の数に殖えて、ふたたび崖を降りて来た。
行き仆れ牢人の赤壁八十馬の死骸を、そのまま崖の下に埋葬してしまうつもりらしく、早速かついで来た鍬や鋤を振るって、ドスッ、ドスッ、と夜陰の底へ不気味なひびきを震わせる。
その穴があらかた掘れたかと思える頃、
「や、ここにも一人死んでるぞ、ここのは美れいな女子だ」
誰かが喚いた。
穴を掘っている場所からものの五間と離れていない場所なのだ。滝水の流れが岐れて来て、小さな沼が木や草におおわれているその淵だった。
「これは、死んでない」
「死んでいるものか」
「気を失っているだけだ」
集まった提燈が、がやがや騒いでいるのを見て、沢庵が駈けもどって来るのと同時に、旅籠の手代が、大声で沢庵を呼び返していた。
ここの家ほど「水」というものの性能を巧みに生活の中へ活かして使っている家は少ないだろう。
――家を繞るその水音の快いせせらぎを、ふと耳にとめながら、武蔵はそう思った。
本阿弥光悦の家である。
所は、武蔵にとって記憶のふかい蓮台野からそう遠くない――上京の実相院址の東南にあたる辻の角。
その辻を、本阿弥の辻と町の者が呼ぶ所以は、光悦の一軒があるのみでなく、彼の住む素朴な長屋門に隣りして、彼の甥とか、同業の職人たちとか、一族の者がみなこの辻の表や裏に、仲よく、その昔の土豪時代の大家族制度のように軒をならべて穏やかに町家暮らしの営みをしているからだった。
(なるほど、こういうものか)
武蔵には、もの珍らかに見える世間なのである。下層部の町人たちの生活には、自分の生活も打ち混じって見て来ているが、この京都で誰それといわれるような大町人というものには、まったく縁のなかった彼である。
本阿弥家は、由緒のある足利家の武臣の末であるし、現在でも前田大納言家から年禄二百石が来ているし、宮家にも知遇をたまわっているし、伏見の徳川家康も眼をかけたがっているし、――というわけで、職業こそ、刀剣の研ぎ拭いをして、純粋な職人にちがいないが、ではその光悦は侍か町人かというと、ちょっとどっちともいえないような家がらである。しかし、やはり職人であり、町人であろう。いったい「職人」という名称が、このごろひどく下落して来たが、それは職人が自分で品性を落して来たからで、上代の世には、百姓は、天皇のおおみたから、とさえいわれて職業の上級なものであったが、世の下るにつれて、「この百姓めが」といえば侮蔑の代名詞になるように変ってしまったのと同じで、職人という名称も、元は決して、下賤の業の呼び名ではなかったのである。
また大町人の根を洗うと角倉素庵でも、茶屋四郎次郎でも、灰屋紹由でも、みな武家出であることも一致している。つまり室町幕府の臣下が、初めは商業方面の一役所としてやっていた実務が、いつのまにか幕府の手を離れ、幕府から禄をもらう必要もなくなって、個人の経営になり、経営の才や社交の必要が、武士という特権をも不必要にさせて、親から子へ孫へと身代のうつるうちに、いつとなく町人という者になり変ってしまったのが、今の京都の大町人であり、また金力の所有者なのであった。
だから、武家と武家との権力の争覇が起っても、そういう大町人の門は、両方から保護されて、続くことも代々永く続いて来ているが、また御用立てを仰せつかることも、兵火で焼かれない税金のようになっているらしい。
実相院址の一廓は、水落寺の隣り地で、有栖川の流れと、上小川の流れと、ふた筋の水脈に挟まれていて、応仁の乱の折には、一帯に焼け野原となったところで、今でも庭木を植えなどする時は、赤い刀の折れや兜の鉢が出てくるといわれているが、本阿弥家の住居がここにできたのは、勿論応仁以後で、それ以後の家としては古いほうであった。
水落寺の境内を通って、上小川へ落ちてゆく有栖川のきれいな水は、中途から光悦の宅地をせんかんと通過してゆくのである。――その水はまず、三百坪ほどな菜園の間を走り、一叢の林にすがたを隠すと、次には玄関の噴井戸へ、千尺の地の底から出て来たような顔をして現われ、一部は台所へ走って、炊ぎを手伝い、一部は風呂場へ入って垢を持ち去り、また閑素な茶室のどこかに、岩清水のような滴々な音をさせているかと思うと、ここの家族がみな「御研小屋」と敬称して、常に入口には注連縄の張ってある仕事場へ奔入して――そこでは職人たちの手によって、諸侯からひきうけている正宗や村正や長船や――世に名だたる銘刀を始め、あらゆる刃が研ぎぬかれている。
武蔵は、この家へ来て、この一間に旅装を解いて、今日でちょうど四日目か五日目になる。
此家の主の光悦と妙秀母子に、いつか野辺の茶の席で会ってから武蔵は、折もあらば、もいちど親しくしてみたいが――とは心のうちで思っていたことだった。
ところが、よくよく縁があったというものか、再会の機が、あれから幾日も経たないうちにまたあった。
――というのは、この上小川から下小川の東寄りに、羅漢寺という寺がある。その隣地はむかし、赤松氏の一族がいた館の址なので室町将軍家の没落とともに、そういった旧大名の宅址も、今はあとかたもなく変ってはいるが、とにかく一度そこを捜してみたい気持がして、武蔵は或る日、その辺を歩いてみたのであった。
武蔵は幼少の時、よく父の口から、
(わしは今でこそ、こんな山家の郷士で朽ちているが、祖先の平田将監は、播州の豪族赤松の支族で、おまえの血の中にはまさしく、建武の英傑の血もながれているのだ。それをおまえは自覚して、もっと自分を大事にしなければいかぬ)
といったようなことを常に聞かされていた。下小川の羅漢寺は、その赤松氏の宅地と隣り合っていた菩提寺なので、そこを訪ねてみたら、祖先の平田氏の過去帳などもあるかも知れない。父の無二斎も、京都へ出た折は、一度訪ねて、祖先の供養を営んだことがある、とか聞いてもいたし――またそんな古いことが知れないまでも、そういう有縁の地に立って、時には、自分の血液につながる遠い過去の人々を偲んでみることも無意味ではなかろうと――武蔵はしきりとその日、その羅漢寺をさがしていたのである。
下小川の流れに「らかん橋」というのが架かっていた。しかし、羅漢寺というのは、尋ねても知れなかった。
「変ったのかなあ、この辺りも」
武蔵は、らかん橋の欄干に立ちながら――父と自分とのわずか人間一代のうちにも、激しく推移している都会のすがたというものを考えていた。
らかん橋の下を流れてゆく浅いきれいな水が、時々、粘土でも溶かすように白く濁って、しばらくすると、また、それがきれいに澄んでいた。
見ると、その橋から見える左がわの岸の草むらから、チョロチョロと濁り水が吐き出されて、それが川へ注ぎ込まれる度ごとに、白いささ濁りが拡がってゆくのであった。
(ははあ、刀を研いでいる家があるナ)
武蔵はそう思ったが、その家の客となって、それから四日も五日も泊ろうなどとは夢にも思っていなかった。
(武蔵どのじゃないか)
どこかへ出た戻りらしい妙秀尼に、こう呼びとめられて、そこが本阿弥の辻の近所だったということも、後から初めて気がついたほどなのである。
(よう訪ねて来てくだされたのう――光悦もきょうはいるほどに、まあまあ、そう遠慮などせいで……)
と妙秀尼は、彼を路傍で見つけたことの偶然を欣んで、武蔵がわざわざ自分の家へ来てくれたもののように思いこみ、長屋門の内へ連れて入って、下男をやってすぐ、光悦を呼んで来させる。
光悦といい、妙秀といい、いつぞや外で会った時も、こうして家庭で会う時も、少しも変らないよい人たちだった。
(私はただ今、大事なお研物を仕かけておりますので、しばらく母と話していて下さい。仕事をすませば、いくらでも悠りと話しますから)
光悦がいうので、武蔵は妙秀尼を相手にくつろいでいたが、その晩がつい遅くなってしまうと、まあ今夜はということになり、翌る日になるとまた武蔵のほうから光悦に、刀の研や扱いについて教えを乞うと、光悦は自分の「御研小屋」へ彼を案内して、実際の上からいろいろ説いて聞かせるといったようなわけになって――いつか三晩も四晩もこの家の布団に武蔵は身を馴じませてしまったような次第であった。
――しかし、人の好意に甘えるのも程度がある。武蔵は、きょうはもう暇を乞おうと考えていたが、それをいい出さない矢先に、今朝もまた、光悦のほうから、
「碌にかまいもしないで、引き留めるのも異なものですが、あなたさえ飽きなかったら、幾日でも泊って行ってください。私の書斎には少々ばかり、古書やつまらない愛玩品もありますから、何を引っ張り出してご覧くださるとも差しつかえございません。そのうちにまた、庭の隅にある竈で、茶碗や皿を焼いてお目にかけましょう。刀剣も刀剣ですが、陶器もなかなか興のあるものですから、あなたもなにか一つ、土を捏ねて試みてごらんなさい」
などといわれ、武蔵はまた、つい彼の落ちついた生活の中に、自分の落ちつきを許してしまった。
「お飽きになるか、急にまた御用事でも思い立たれた節は、見らるる通りな無人の家、ご挨拶などには及びませぬから、いつでも気持の向いたまま、ご出立なさればよいではございませんか」
とも光悦はいってくれるのであった。
武蔵は、飽きるどころではなかった。彼の書斎をながめても、そこには和漢の書籍から、鎌倉期の絵巻だの、舶載の古法帖だの、そのうちの一つを繰りひろげても、思わず一日は暮れてしまうものが沢山ある。
わけても、武蔵が心を引かれたものの一つに、宋の梁楷の描いたという「栗の図」が床の間にあった。
たて二尺、横二尺四、五寸くらい、横幅で紙質も分らないほど古びた懸物であったが、それを見ていると、武蔵はふしぎに半日でも飽くということを覚えない。
「御主人のお描きになるような絵は、とても素人には及びもないという気がしますが、これを見ていると、これくらいなものなら素人の私にも描けるというような気がしますな」
武蔵が、ある時いうと、
「それは、あべこべでしょう」
と光悦が答えて、
「わたしの絵くらいな程度までは、誰にでも行き得る境地といってもかまいませんが、この辺になると、道高く、山深く、非凡過ぎて、ただ学べば行けるという境地ではありません」
といった。
「ははあ、そうでしょうか」
――そういうものかと、武蔵はこれから折あるごとにこの絵を眺めていたのであったが、光悦にいわれて見てから、なるほど、それは一見単純な墨一色の粗画に過ぎないが、その中に持っている「単純なる複雑」に、彼もようやく少しずつ眼をひらいて来た。
二個の落栗がざっと描いてあって、一個は殻を破っており、一個はまだイガの針を立てて固く殻を閉じている。それへ栗鼠が飛びついているだけの構図である。
栗鼠の生態は、いかにも自由性に富んでいて、人間の若さと、若さの持つ欲望とを、そのまま、この小動物の姿態にあらわしている。――しかし、栗鼠の意欲のままに、その栗を食らおうとすれば、イガに鼻を刺され、イガを怖れていれば、殻の中の実は食うことができない。
作者は、そんな意図はなく描いたのかもしれないが、武蔵はそうした意味にもこれを眺めてみるのだった。絵画を見るのに、絵画以外の諷意とか、暗示とか、そんな考え方をして煩うのはよけいなことかも知れないが――と思いつつも、その絵は「単純なる複雑」のうちに、墨の美感や画面の音階のほかに、人をして思わず黙想に遊ばしめる無機的な作用を種々に備えているのだから仕方がない。
「武蔵どの、また梁楷と睨めっこですか。よほど気に入ったとみえますな。何ならば、ご出立の時に巻いてお持ちなさい、差上げましょう」
無造作に、彼の姿を見ていいながら、光悦は今、何か用ありげに彼のそばへ坐った。
武蔵は、意外な顔して、
「え、拙者にこの梁楷の幅を下さるというのですか。もっての外のことです、数日御厄介に甘えた上こんな御家宝を戴いてよいものではありませぬ」
と固く辞退した。
「でも、お気に召したのでしょうが……」
と、光悦は彼の律義に恥らう態を見やりながら、笑っていう。
「――かまいません、お気に召されたら、外してお持ちくださるがよい。総じて、絵画などというものは、真にその作品を愛して、作中の真味を汲んでくれる人に持たれれば、その絵は倖せであり、地下の作者も満足だろうと思われます。ですから、どうぞ」
「そう伺っては、なおのこと、私にはこの絵を頂戴する資格がございませぬ。――こうして拝見していると、頻りと、所有欲のようなものが動いて、自分も一つ、こんな名幅を持ってみたいという気持はして来ますが――持ったところで、家もなし、席も定まらぬ流寓の武者修行」
「なるほど、旅ばかりしているお体では、かえってお邪魔ですな。お若いから、まだそんなこころもちにおなりになるまいが、人間、どんなに小さくともよいが、わが家というものを持たない人は、いかに寂しかろうぞと、私は思いやられるのじゃが。――どうです、ひとつこの京都の隅あたりへ、ざっとした丸木で一庵をお拵えになっておいては」
「まだ家がほしいと思ったことはありません。それよりも、九州の果て、長崎の文明、また新しい都府と聞く東の江戸、陸奥の大山大川など――遠い方にばかり遊心が動いています。生れながら私には、放浪癖があるのかもわかりません」
「いや、あなたばかりでなく、誰でもでしょう、四畳半の茶室より、蒼空を好むのが若い人の当り前です。同時に、自分の希望の達成が、自分の身近にはない気がして、常に遠くにばかり道があると思ってしまう弊もある。大事な若い日の空費はたいがい、その遠くにあこがれて居所に希望を誓わない――つまり境遇への不平に暮れてしまうのじゃないでしょうかな」
といって、ふと、
「ハハハハ、私のような閑人が、若いお人へ、教訓めいて、こんなことをいうのはおかしい。……そうそう、ここへ来たのはそんなことではなく、あなたを今夜連れ出そうと思って来たのですが、どうですか武蔵殿、あなたは遊廓を見たことがありますか」
「遊廓というと……遊女のいる廓のことですか」
「そうです。私の友達に、灰屋紹由というて、気心のおけない人がいる。その紹由から、今誘い文が来たのですが、六条の遊び町を見にゆく気はありませんか」
武蔵は、彼の言葉のもとに、
「よしましょう」
といった。
光悦は、強いてすすめず、
「そうですか。お気持がすすまなければ、お誘いしても仕方がありませんが、時には、ああいう世界に浸ってみるのもおもしろいものですよ」
すると――音もなく――いつのまにかそこへ来て、ふたりの話を興ありげに聞いていた母の妙秀尼が、
「武蔵どの、よい折ではないか、一緒に行かれてはどうかの。灰屋の主人とても、なんの気がねも要らぬお人、せがれも折角、お連れしたいのであろう。さあ、行って来なされ、行って来なされ」
と、これはまた、光悦の気分まかせと違って、いそいそと衣裳箪笥から小袖など出して来て、武蔵にもすすめ、わが子へも、遊びに出るのを励ましていう。
およそ、親と名のつく者なら、わが子が遊廓へ行くなどと聞けば、それがたとい客の前であろうと、友達の前であろうと、苦り切って、
(また、極道か)
と、嘯いているか、もっと厳ましい親の場合は、
(もってのほかな!)
と、親子のあいだに一揉めくらいはあるのが世間の通例なのに、この母子はそうでない。
妙秀尼は、衣裳箪笥のそばへ寄って、
「帯はこれでよいか。小袖はどちらにしやるか?」
と、遊廓へ行くという息子の身仕度を、自分が遊山にでも出向くように、いそいそと気をくばる。
衣裳のみでなく、紙入れ、印籠、脇差なども派手やかなのを選って揃え、わけても紙入れの中へは、男の中へ交わって恥かしい思いをせぬように、女の世界にはいって汚い仕方をせぬように、そっとべつな金箪笥の内から、金子の音をしのばせて、心づかいをずッしりと入れておく。
「さあさあ、行て来なされ、遊廓は灯ともし頃の宵がよく、もそっとよいのは、黄昏れ刻の通い路というげな。武蔵どのも、行ておざれ」
そして、いつの間にか、武蔵の前にも、綿服ではあるが、肌着から上着まで、垢のつかない一襲ねがそろえてある。
初めは、腑に落ちぬことと怪しまれたが、この母御がこれ程すすめるところなら、悪所通いと世間でいうほど、行って悪い場所でもなさそうに思われる。
武蔵は考え直して、
「では、お言葉に甘えて、光悦どのに連れて行ってもらいます」
「オオ、そうなされ。――さ、衣裳もかえて」
「いや、拙者には、美服はかえって似合いませぬ。野に伏しても、どこへまいっても、この袷一枚が、やはり自分らしくて気ままですから」
「それはいけません」
妙秀尼は、変なところで、厳格になって、武蔵をこうたしなめた。
「貴方はそれでよいじゃろが、汚い身装をしていては、綺羅やかな遊廓の席に、雑巾が置いてあるように見ゆるではないかの。世事の憂いこと醜いこと、すべてを忘れて、一刻でも半夜でも、綺麗事につつまれて、さらりと屈託を捨てて来るのがあの遊廓でござりまするがの。――そう思うてみれば、わが身の化粧や伊達も、廓景色の一つ、わが身だけの見得と思うが間違いであろが。……ホ、ホ、ホ、ホ、そういうたとて、名古屋山三や政宗どの程な晴れ着でもない、ただ垢がついていぬというだけの衣、さあ世話をやかせずに袖を通してみなされ」
「は、……それでは」
武蔵が素直に分って、着がえを済ますと、
「おお、よう似合う」
と妙秀尼は二人のさばさばした身姿をながめて、わけもなく喜ぶ。
光悦は、ちょっと仏間へはいって、そこへ小さい夕方の燈明を捧げていた。この母子は日頃から厚い日蓮宗の信者であった。
そこから出て来て、待っている武蔵へ向い、
「さ、お供いたしましょう」
連れ立って、玄関まで歩いて来ると、母の妙秀尼は、もう先に出て二人の穿く新しい緒の草履を沓石へ揃え、その後で、長屋門を閉めかけていた下男と、門の蔭でなにか小声で立ち話をしていた。
「おそれ入ります」
光悦は、草履へ向って頭を下げながら、足を下ろした。
「では母者人、行って参ります」
すると、妙秀尼は振り顧って、
「光悦や、ちょっとお待ち」
あわてて手を振って、二人の足を止め、自分は潜り門から外へ顔を出して、何事なのか、往来を見まわしているふうだった。
「――なんですか?」
光悦が、不審がると、妙秀尼は門の潜りをそっと閉めて、戻って来た。
「光悦や、今のう、強いかたちをした侍衆が、三名づれで、ここの門前へ来て、不作法な言葉を吐いて行ったというが。……大事はあるまいかの」
まだ空は明るいが、黄昏れに向って出るわが子と客の身を、ふと案じるらしく、眉をひそめてそういった。
「……?」
光悦は、武蔵の顔を見た。
武蔵はすぐ、侍たちが、どういう者かを察したらしく、
「お案じなされますな、拙者へ危害を加えても、光悦どのへ害意のある者ではないと存じます」
「おとといも、そんなことがあったと誰かいうたの。おとといの侍は、一人であったらしいが、するどい眼ざしして、門内まで案内ものうはいり込み、茶室の路地にかがみ込んで、武蔵どののいる奥の部屋を頻りとのぞいて立ち去ったそうな」
「吉岡の者でしょう」
武蔵がいうと、
「私もそう思う」
と、光悦もうなずいた。
そして下男へ、
「きょうの三人連れは、なんというて来たのか」
と、訊ねた。
それに答えて、わなわな顫えながら、下男がいうには、
「はい……今し方、お職人衆もみなお帰りになりましたので、ここの門を閉めようといたしますると、どこにいたのか、三人連れのお侍方が、いきなり手前を囲んで、中の一人が、懐中から書状のような物を取出し――これを当家の客へ渡せ――と恐ろしい顔して申しまする」
「うむ……客といって、武蔵どのとはいわなかったのか」
「いいや、その後で申しました――宮本武蔵と申す者が、数日前から泊っているはずだと――」
「そしてお前はなんといった」
「わしは、かねて旦那様から口止めされてありましたで――どこまでも、そのようなお客様はおらぬと首を振りますと、いちどは怒って、偽りを申すな――と高声を張りかけましたが少し年老った侍がそのお人を宥めて、皮肉な笑い方をしながら、それではよい、べつな仕方で、当人に会って渡すから――と、そういって彼方の辻へ行ってしまいましたが」
武蔵はそれを側で聞いて、
「光悦どの、それではこうして戴きましょう。万一のことでもあって、あなたへお怪我でもさせたり、累を及ぼしては、申し訳がありませぬゆえ、一足先におひとりで」
「いや、何」
光悦は一笑に附して、
「そんなご斟酌は要りません。吉岡の侍と分っていればなおさらのことです、私が怖がる意味は少しもありません。……さあまいりましょう」
武蔵を促して、門の外へ出たが、光悦はまた、ふと、潜りの内へ顔を見せて、
「母御様、母御様」
「忘れ物か」
「いいえ、今のことですが、もしあなた様が気がかりに思し召すなら、灰屋どのへ使いをやって、今夜のお誘いは断りまするが、……」
「なんの、わしが案じたのは、そなたの身より、武蔵どのに万一のことでもないかと懸念したのじゃ。――その武蔵どのがもう先へ出て待っているものを、止めてもかいはあるまいし、折角、灰屋様のお誘いでもある。機嫌よう、遊んで来なされ」
光悦は、母の閉めた潜り戸に、もうなんの心がかりもなかった。待っていた武蔵と肩を並べて、川ぞいの片側町を歩きながら、
「灰屋殿の住居は、この先の一条堀川なので、ちょうど途中、支度して待っているそうですから、ちょっと立ち寄って行きましょう」
と、断った。
まだ夕空は明るかった。水にそって歩くのはなんとなく心の暢びるものである。人の忙しがる黄昏れを、用もなげな顔をして歩くのはなおさらいい。
「灰屋紹由どの――お名前はよく耳にするお方のようですが」
武蔵がいう。
ぶらりぶらり足をあわせながら、それに答えて、光悦がいう。
「聞いているでしょうとも、連歌のほうでは紹巴の門で、もう一家を成している人ですから」
「ハハア、連歌師ですか」
「いえ、紹巴や貞徳のように、連歌で生活を立てている人ではありません。――また私と同じような家がらで、この京都の古い町人です」
「灰屋という姓は」
「屋号ですよ」
「何を売る店なので」
「灰を売るのです」
「灰を? ――何の灰をですか」
「紺屋が紺染めに使う灰なので、紺灰といっております。諸国の染座へ卸すので、なかなか大きな商売です」
「アアなるほど、あの灰汁水を作る原料ですな」
「それは莫大な金額にのぼる取引なので、室町の世の初期ごろには、御所の直轄で、紺灰座奉行をやっておりましたが、中期頃から民営になりまして、紺灰座問屋というのが、この京都に三軒とか許されていたものだそうです。その一軒が、灰屋紹由の先祖でした。――けれど今の紹由殿の代になってからは、もうその家業はやめて、この堀川で余生を穏やかに送っているわけですが」
と、光悦はそこで彼方を指さして――
「見えましょう、此処から。あの見るからに閑雅な門のある一構えが、灰屋どののお住居です」
「…………」
武蔵はうなずきながらふと、左の袂の先を、袂の外から握っていた。
(……はてな?)
と光悦の話を聞きながら考えているのであった。
――何が入っているのだろうか、右の袂は夕風がふいても軽くうごくが、左の袂がすこし重い。
懐紙はふところにある。莨入れは持たないし――他にべつに何も入れてある覚えはないが――とそっと手を落して、袖口に出してみると、よく鞣してある菖蒲色の革紐が、いつでも解けるように、蝶むすびに束ねて入れてあったのである。
(……おお?)
光悦の母の妙秀尼が入れておいてくれた物にちがいない。これを革襷にと。
「…………」
袂の中の革襷をにぎりながら、武蔵は振向いて、思わず頬へのぼってくる微笑を後ろの者へ見せた。
――その前からとく気がついていたことではあるが、本阿弥の辻を出るとすぐ、自分の後ろから一定の距離をおいて、のそのそと後を尾行て来る三人連れがあったのである。
それが、武蔵の微笑を見ると、はっとしたように一致して足を止め、なにか顔と顔を突き合せて囁いていたが、やがて遠方から身がまえを作って、遽かに大股を踏んでこっちへ近づいて来る様子――
光悦はその時から、灰屋の門の前に立って、そこの鳴子に訪れを通じ、箒を持って出て来た下僕に案内されて、前栽の中へ入っていた。
ふと、後ろに見えない武蔵に気がつくと、光悦はまたもどって来て、
「武蔵どの、さあ、お入りください。遠慮はいらぬ家ですから」
と、何事もないつもりで門の外へいった。
いかつい大太刀の柄がしらを反胸に突出して、肱を張っている三名の侍が一人の武蔵を囲むように押し並んで、傲岸に何かいい渡している様子を――光悦は門の外に見出した。
(先刻のだな)
光悦はすぐ思い当った。
相手の三名へ、なにか穏やかに答えておいてから、武蔵は光悦のほうを顧みていった。
「すぐ後から参りますゆえ――どうぞお先に」
光悦は、静かな眸で、彼の眸を読むように、顎を内へ引いて、
「では、奥で待っておりますから、御用がおすみになりましたらば」
光悦が門のうちへ隠れると、待っていたように、三名の中の一人が、口を開いて、
「逃げ隠れしたの、いや逃げ隠れはせんのと、もうここでの論議は止そう。そんな用事で参ったのではない。――それがしは今もいったが、吉岡門下の身内で十剣の一人太田黒兵助という者だが」
袂を払って内懐中へ両手を突っこみ、一通の書付を取り出すと、それを武蔵の眼さきへ突きつけた。
「御舎弟伝七郎どのから其許への手翰、たしかに渡し申すぞ。――ここで一読いたして、すぐ返辞を承りたい」
「ははあ……」
無造作に武蔵は披いて読み下してからすぐ、
「承知した」
と、一言で答えた。
だがまだ、太田黒兵助は、猜疑ぶかい眼の光を消さないで、
「確乎と?」
念を押して、武蔵の顔いろを糺すと、武蔵はさらにうなずいて、
「確乎と承知」
やっと三名は合点したらしく、
「異約あるにおいては、天下へ向って、嘲笑い申すぞ」
「…………」
武蔵は黙って、三名の硬ばっている体つきに眼を遊ばせていた。「笑而不答」で済ましているのであった。
その態度がまた太田黒兵助には怪しまれてきたものか、
「よろしいか、武蔵」
と、執こく――
「時刻とても、これから間のないことだぞ。場所は心得たか。支度はよいか」
と、釘を打つ。
くどいという顔つきはしなかったが、武蔵のことばは至って短い。
「よい」
ぽつりといって、
「――では後刻」
灰屋の門内へ入りかけると、兵助はまた追いかけにいい浴びせた。
「武蔵、それまでは、この灰屋にいるのだな」
「いや、宵には、六条の遊廓を案内して下さるそうな。いずれかにいる」
「六条? よし。――六条かこの家かどっちかにいるのだな。刻限が遅れたら迎えをよこすぞ。よもや卑怯な振舞はなかろうが」
背中で聞きながら、武蔵は灰屋の前栽へはいって、すぐ門を閉めていた。一歩そこへはいると騒音の世間は百里も後になったように、いとも静かな生活の天地をこの家の見えない塀が囲んでいた。
低い根笹と筆の軸ほどな細竹とが、自然の小道のように配られてある石から石への通路を程よく湿らせている。歩むにつれて見えて来る母屋、表、離室、亭、すべてが旧家の燻みと大まかな深さを持っていて、それを繞る松はみな背が高く、屋を越してこの家の富貴を奏でてはいるが、下へかかって来る客へ対して、決して尊傲なふうは見えない。
どこかで蹴鞠を蹴る音がしていた。公卿屋敷だとよくその音を塀の外からも聞くが、町人の家にはめずらしいと武蔵は思った。
「すぐお支度してみえますが、どうぞしばらくここで」
と、茶や菓子を運んで来て、庭向きの座敷へ席をすすめた二人の小間使の起居もしとやかで、家風のしつけを思わせる。
「陽が蔭ってきたせいか、急に寒くなって来た」
光悦はつぶやいて、開いている障子を閉めるように小間使へいいつけようとしたが、武蔵が、鞠の音に聞き入りながら、庭の彼方に一段低くなっている梅林の花を見ているらしいので、自分も外へ眼をやって、
「叡山のうえが、曇って来ましたな。あの上にかかる雲は、北国から来る北雲です。――お寒くはありませんか」
「いやべつに」
武蔵は正直にそういったまでで、ちっとも光悦がそこを閉めたいと思っている気持などは考えなかった。
彼の皮膚は気候に対して革のように強靭だった。光悦のきめのこまかな皮膚とは、それだけ感度が違っていた。あながち気候に対してであるばかりでなく、すべての感触にも鑑賞にも、そのくらいな差が二人にはあった。ひと口にいえば、野人と都会人の差であった。
小間使が燭台を持って来たのを機に――外もつるべ落しに暗くなっても来たし――光悦がそこを閉めかけると、
「小父さま、来ていたの」
鞠を蹴っていた息子たちであろう、十四、五歳のが二、三人縁側からのぞいて、蹴鞠をそこへ抛り出したが、武蔵のすがたを見ると、急におとなしくなって、
「おじい様、呼んで来てあげようか」
光悦がいいといっても肯かないのである。先を争って奥へ駈けて行った。
障子を閉め、灯りがともると、この家のもつ和やかなものが、初めて坐った客にもよけいによくわかる。家族たちの遠い笑い声がかすかに洩れて来るのも居心地がいい。
もっともっと、武蔵が客として感じよく思えたことは、どこを眺めても、少しも金持くさくないことであった。むしろあらゆる素朴なもので、有る金のにおいを消そうとしているかのようにすら見える。どこか大きな田舎家の客間にいるような気持だった。
「いや、どうも、えろうお待たせして済まなんだ」
そこへ唐突に磊落な声がして、主の灰屋紹由がすがたを見せた。
光悦とはあべこべに、この人は鶴のように痩せていたが、声は、低声の光悦よりも、ずっと若々しくて大きくひびく。年も光悦よりは一まわりくらい上かも知れない。とにかく、気さくな性分といったふうで、光悦が武蔵を紹介わせると、
「あ、そうか。そうでおざるか。近衛家の御用人松尾殿の甥御であらっしゃるか。松尾殿は、わしもよう存じ上げておる」
ここでも、叔父の名が出たので武蔵は、こういう大町人たちと、堂上の近衛家あたりとの関係をなんとはなくうっすら察することができた。
「さっそく行きましょうぞや。明るいうちに出て、そぞろ歩きと思うたが、もう暗うなったゆえ、駕を呼ぼう。……武蔵どのも、もちろん交際ってくださるじゃろうな」
年に似あわずせかせかしている紹由と、おっとり構えこむと遊廓へ行くことも忘れているような光悦と、それも変っている対照であった。
その二人を乗せてゆく町駕の後から、武蔵も生れて初めて、駕という物に乗って、堀川のふちを揺られて行った。
「ウウ、寒」
「風が撲ぐって来よった」
「鼻がげそうだの」
「なにか降るぞ、今夜は」
「――春だというのに」
駕かき同士の高声だった。白い息をふいて柳の馬場へかかっていた。
三つの提燈はしきりに揺れ、しきりに明滅する。夕方、比叡のうえに見えた笠雲はもういっぱいに洛内の天へ黒々とひろがって、夜半には何に変じるか、怖ろしい形相を兆している夜空だった。
――だがそのかわりに、この広い馬場の彼方に見える一かたまりの地上の灯の美しさといったらない。空に星一つない晩だけに地上の灯がよけいに燦めくのである。ちょうど蛍のかたまりを風が磨いでいるように。
「武蔵どの」
と、真ん中の駕のうちから後ろを振顧って光悦がいう――
「あそこです。あれが六条の柳町で――この頃町家が殖えてから、三筋町とも称んでいますが」
「アア、あれですか」
「町中を出離れてから、またこんな広い馬場だの空地だのを通って、その彼方に忽然と、あんな灯の聚落が現れるのもおもしろいでしょう」
「意外でした」
「遊廓も以前には、二条にあったものですが、大内裏に近うて、夜半などには、民歌や俗曲が、御苑のほとりに立つとかすかに耳にさわるというので、所司代の板倉勝重どのが、急にここへ移転させたものです。――それからまだやっと三年しか経ちませんのに、どうです。もうあの通りな町になって、なお拡がって行こうとしている」
「では、三年前には、まだこの辺は」
「ええ、もう夜などは、どっちを見ても真っ暗で、つくづく戦国の火の禍いが嘆じられるばかりであったものです。――けれど今では、新しい流行は皆、あの灯の中から出ているし、大げさにいえば、一つの文化をさえ生むところとなっているので……」
といいかけて、しばらく、耳を澄ましてからまた――
「かすかに聞えて来たでしょう……遊廓の絃歌が」
「なるほど、聞えます」
「あの音曲などにしても、新しく琉球から渡来ってきた三味線を工夫したり、またその三味線を基礎にして今様の歌謡ができて来たり、その派生から隆達ぶしだの上方唄だのが作られたり、そういったものは、すべてあそこが母胎といってよい。あそこで興ったものを後から一般の民衆が受けとるのですから、そういう文化のほうでは、一般の町と遊廓とも、ふかい因果関係があるわけですな。だから、遊廓だから、町の隔離してあるところだからといって、あそこがどんなに穢ならしくてもよいということはいえません」
駕がその時、急に道を曲ったので、武蔵と光悦の話も、それなり打ち切られてしまった。
二条の遊廓も柳町とよび、六条の遊廓も柳町と称ぶ。柳と遊廓とは、いつの頃からそう付き物のようになったものか、その柳並木に綴られた無数の灯が、もう近々と武蔵の眼に映ってきていた。
光悦も灰屋紹由も、ここの青楼は馴染みとみえ、門の柳へ、駕が下りると、
「船ばし様」
「水落様も」
と、林屋与次兵衛の店では、下へも置かないという迎えよう。
船ばし様というのは、堀川船橋に住居があるところから、紹由の遊里名。また水落様というのも、同じく、光悦のここだけの遊び名前。
武蔵だけには、一定の住所もないし、従って隠し名もない。
名前の詮索ばかりするようであるが、この林屋与次兵衛というのも、楼主の表名前であって、遊女屋としての暖簾名は、扇屋というのであった。
扇屋といえば、今この、六条柳町に嬌名のたかい初代吉野太夫の名がすぐ思い出されるし、桔梗屋といえば、室君太夫の名をもってひびいている。
一流とゆるされる青楼は、その二軒に限っていた。光悦、紹由、武蔵の三人が客となって坐ったのは扇屋のほうなのである。
(――これは、絢爛な、城郭のようなものだな)
武蔵は、なるべく眼をうごかすまいとしても、つい、格天井や、橋架の欄干や、庭面の様や、欄間の彫刻など、歩くたびに、眼を奪われてしまう気がする。
「おや、どこへ行かれてしもうたのか」
杉戸の絵に見恍れているうちに、光悦や紹由を見失ってしまい、武蔵が廊下を迷っていると、
「こちらじゃ」
と、光悦が招いている。
遠州風の石組に、白砂を掃きならして、赤壁の景でも模した庭造り師のこころであろうか、北苑の画にでもありそうなそこの庭を抱いて、大きな二間の銀ぶすまが灯に濡れている。
「冷えるわい」
紹由は、猫背になって、ちょこなんと、もうその広い部屋の、一つの敷物に乗っかっている。
光悦も、先に坐り、
「さあ、武蔵どの」
と、真ん中に空いている敷物をすすめるのだった。
「いや、それは――」
と控えて、武蔵は下座に着いたまま、かたくなっていた。二人がすすめる座布団は、床の間の正面である。この物々しい建築と睨めッこして、そんな上座へ、殿様みたいに坐るのは、遠慮というよりも、武蔵はどうも嫌だった。しかし相手は、遠慮と取る。
「でも、こよいは、あなたがお客じゃから……」
紹由はすすめて、
「わしと、光悦どのとは、いつもいつも、まあ、こんなあんばいに、飽きもせで、飽かれもせで、日をつぶしている古友達。あなたとは初対面、まず、まず」
と、扱ってしまおうとする。
武蔵は、辞して、
「いや、それでは恐縮。わたくしのような若い者が」
すると、紹由が、
「遊廓で年をいうやつがあるか」
と、突然くだけた調子でいって、ワハハハハと猫背の肩をゆすぶって笑った。
もう茶や菓子を持った女たちがうしろへ来ていた。席のきまるのを待っているのである。光悦は、武蔵の気持を救うつもりで、
「では、わしが」
と床の間へ直った。
武蔵は、光悦のあとへ坐って、幾分かいる所を得た気もちがしたが、なにかしら、大事な時間を、つまらなく費しているような気もしていた。
次の間の隅には、ふたりの禿が仲よく炉のそばに並んで、
「――これ、なあに?」
「――禽」
「じゃあ、これは」
「うさぎ」
「――こんどは?」
「……笠の人」
指と指を組みあわせて、屏風へ影絵を映しながら、うしろ向きに遊んでいた。
炉はもちろん茶式のもの、釜口から昇る湯気は、部屋を暖めるに役立っている。いつのまにか隣には人が殖え、酒のかおりや人肌も、外の寒さを忘れさせていた。
いやそれよりは、そこにいる人たちの血管に、ほどよく酒がめぐって来たのが、この部屋が暖かくなったと感じられてきたなによりの原因であろう。
「わしはなあ、こういうと、息子どもへ意見ができぬことになるが、世の中に、酒ほどよいものはないと思うておる。酒――はよくないものと、極道の毒水みたいにいうのは、あれや酒のせいじゃあるまいて。酒はよいものじゃが、飲み人がわるいのじゃ。何でも、人のせいにするのが人間のくせでな、気狂い水などといわるる酒こそよい迷惑よ」
この中で、誰の声より大きいのが、この中で誰よりもいちばん痩せている灰屋紹由の声だった。
武蔵が、一、二献飲んだだけで後は辞退しているところから、紹由老人の――これは度々発表している持論らしい酒談義がはじまったのである。
いつ聞いても、それがいっこう「新説」でない蒸し返しである証拠には、席に侍している唐琴太夫も墨菊太夫も小菩薩太夫も、またほかの酌人や、物運びする女たちまでが、
(船ばし様が、また始まった)
といわないばかりに、皆同じ表情のものを唇に持って、くすぐッたそうに聞いている顔つきを見ても分るのである。
だが、船ばし様の紹由は、そんなことにはすこしも頓着なく、
「酒がわるいものなら、神様はお嫌いなはずだが、酒は悪魔よりも神様のほうがお好きじゃった。だから、酒ほど清浄なものはない。神代には、酒を造る時、純清の処女子たちの白珠のような歯で米を噛ませて酒を醸したという。それほど清らかなものだった」
「ホホホ、まあ、きたない」
誰か笑うと、
「なにが、きたないか」
「お米を歯で噛んだりして造ったお酒が、なんできれいなことがあるものですか」
「ばかをいえ。おまえ達の歯で噛みつぶしたら、それや汚いどころじゃない、誰も飲み人はありはせぬが、まだ、春も芽ばえのなんの穢れにもそまぬ、処女が噛むのじゃ。花が蜜を吐くように噛んでは壺に溜めて醸す酒。……ああわしはそのような酒に酔ってみたいがのう」
と、すでに酔っている船ばし様は、そばにいた十三、四の禿の首へいきなり抱きついて、その唇へ肉の痩せた自分の頬を押しつける。
「――きゃアッ、いやあッ」
禿は悲鳴をあげて立つ。
すると、船ばし様は、にやにやと眼を右側へ転じて、
「ハハハ、怒るなよ、うちの女房――」
と、墨菊太夫の手をとって自分の膝の上に重ねて置く。それだけならよいが、顔と顔をつけて、一つ杯を、半分ずつ飲んだり、しどけなく凭れ合ったり、傍らに人間はいないようなまねをする。
光悦は、時折、杯に笑いをふくんで、女たちとも紹由とも、静かに戯れたり話したりして同化しているが、ひとり武蔵は、ぽつねんとこの雰囲気から遊離していた。べつに自分だけが、厳めしくなどしているつもりでは決してないが、恐いのか、女たちが第一彼のそばへ寄って来なかった。
光悦は強いないが、紹由は思い出したように時々、
「武蔵どの、飲まないか」
とすすめ、またしばらくすると、武蔵のまえにつめたくなっている杯が気になってならないように、
「どうじゃ武蔵どの、それを空けて、熱いのを一献ゆきましょう」
と、飲ませたがる。
それが、度重なってくると、だんだん言葉もぞんざいになって、
「小菩薩太夫、その息子に一つ飲ませてやってくれ。これ飲まぬか息子」
「いただいています」
と、武蔵は、そんな時に返辞でもするのでなければ、口をきく折が見出せなかった。
「すこしも杯があかないではないか。はてはて意気地のない」
「弱いのです」
「弱いのは、剣術じゃろう」
と、ひどい皮肉をいう。
武蔵は、笑って、
「そうかもしれません」
「酒をのむと、修行の妨げになる。酒をのむと、常の修養が乱れる。酒をのむと、意思が弱くなる。酒をのむと、立身がおぼつかない。――などと考えてござるなら、お前さんは、大したものになれない」
「そんなことは考えておりませぬが、ただ一つ、困ることがあるのです」
「なんじゃな、それは」
「眠くなってしまうことです」
「眠くなったら、ここでも、どこへでも、寝てしもうたがよいではないか。そんな義理を立てるすじは毛頭いらん沙汰じゃ」
といって、
「太夫」
と墨菊太夫へいった。
「この息子、飲むと眠くなるのが怖いというておる。それでもわしは飲ませてしまうから、眠くなったら、寝かせてやってくだされよ」
「はい」
と、太夫たちは皆、笹色に光る唇を小さくして笑う。
「寝かせてやってくれるか」
「ようござります」
「ところで、介抱役はこの中の誰だな。のう光悦どの、誰がよいか、武蔵どのに、気に入りそうなのは」
「さあ?」
「墨菊太夫は、わが家の女房――小菩薩太夫は、光悦どのが苦々しかろう。唐琴太夫も……いけないな、ちと、さしあいが悪い」
「船ばし様、今に、吉野太夫がおみえなさりましょうが」
「それよ」
と、すっかり興に入っている紹由は、膝を打って、
「吉野太夫、あの太夫なら、お客にもご不足はあるまい。……だがその吉野太夫は、まだ見えぬではないか。はやく、この息子どのに見せて上げてほしいなあ」
すると、墨菊太夫が、
「わたくし達とちがって、あの太夫様は、それはもう、引く手数多なお方、はやくと仰っしゃってもそうまいりませぬ」
「いいや、いいや、わしが来ていると告げれば、どんなお客も袖にして来るはずじゃ。誰か使い、使い」
のびあがって、紹由は次の間の炉のそばに遊んでいる禿を見つけ、
「りん弥がおるの」
「おりまする」
「りん弥、ちょっとおいで、そなたは、吉野太夫つきの禿であろうが、なぜ太夫をつれて来ぬのじゃ。船ばし様が、待ちわびているというて、吉野をこれへ連れて来ておくりゃれ。――つれてきたら褒美をやるぞよ」
その、りん弥という禿は、まだ十か十一ぐらいだったが、もう人の目につく天麗の質を持っていて、やがての二代目吉野に擬せられている童女だった。
「よいか、分ったか」
紹由のいうことばを、分ったような分らないような顔をして聞いていたが、
「はい」
素直に、つぶらな眼でうなずいて、廊下へ出て行った。
後ろの障子を閉めて、廊下へ立つと、りん弥はすぐ大きな声を弾ませて、手をたたいた。
「采女さん、珠水さん、糸之助さん。――ちょっと、ちょっと!」
部屋の中の禿はみな、
「なアに?」
――明るい障子明りをうしろにして、そこに立ち並ぶと、禿たちは、りん弥といっしょに皆手を打ちたたいて、
「あら、あら」
「あら!」
「まあ!」
余りに部屋の外で、歓呼の足踏みが鳴るので、部屋の中で酒をのんでいる大人たちも、なにごとかと羨望に似た気持をおこして、
「なにを、はしゃいでいるのじゃ――開けてみなさい」
紹由のことばに、
「お開けいたしますか」
女たちが、そこの障子を左右へひろく開け放った。
「――あ、雪」
と皆、知らなかったように呟いた。
「寒いはず……」
と光悦は、もう白く見える自分の息へ杯を含ませ、武蔵も、
「オオ」
と、眼をそこへ移した。
廂から外のふかい闇を、春にはめずらしい牡丹雪が、ぼとぼとと音を立てて降りしきっている。その黒繻子のような闇に光る雪の縞の中に、禿たちの姿が四つ、帯のうしろを見せて並んでいた。
「お退きなさい」
太夫が叱っても、
「うれしい」
と、禿たちはお客などを忘れて、不意に訪れた恋人のように、沁々、雪に見惚れていた。
「つもるかしら?」
「つもるでしょう」
「あしたの朝は、どんなかしら?」
「ひがし山が、真っ白になって――」
「東寺は」
「東寺の塔だって」
「金閣寺は」
「金閣寺も」
「鴉は」
「鴉も――」
「嘘ばかり!」
袂で打つまねをすると、ひとりの禿は、廊下から下へ転げた。
いつもなら、わっと泣き出して度々ある禿同士の喧嘩が始まったであろうに、思いがけなく、降りしきる雪を浴びたので、落ちた禿は、偶然な喜びでも拾ったように、起きあがると、もっと雪の身にあたる外へ出て行って、
大雪、小雪
法然さんは見えぬ
何してござろ
経誦んでおざった
雪食べておざった
突然、こう大声に歌いだして、口の中へ雪を吸いこむように身を反らしながら、ふたつの袂で、舞い始めた。法然さんは見えぬ
何してござろ
経誦んでおざった
雪食べておざった
その禿が、りん弥だった。
怪我でもしたのではないかと驚いて起ちかけた部屋の中の人々も、その勇壮活溌な舞を見て、
「もういい、もういい」
「上がれ上がれ」
笑いながらいたわった。
その代りに、りん弥はもう、紹由にいいつけられて、吉野太夫を連れてくる使いをわすれていた。足がよごれたので、下部の女にかかえられて、嬰ン坊みたいに、どこかへ持って行かれてしまった。
かんじんなお使者がそんなことになってしまったので、船ばし様のご機嫌をそんじてはと、誰かが気転をきかして、吉野太夫の都合をうかがいに行ったとみえて、
「ご返辞を受けて参りました」
と、その女が、紹由のほうへ囁いた。
紹由はもう忘れていて、
「ご返辞?」
と、いぶかる。
「はい、吉野太夫様の」
「ああそうか、来るか」
「お越しになることは、どんなことをしてもお越しになると仰っしゃいましたが……」
「……ましたが……。なんじゃ」
「どうしても、今すぐとは、ただ今お見え遊ばしているお客様がご承知してくださいませぬ」
「――不見識な」
と紹由は、機嫌がわるくなった。
「ほかの太夫ならば、そういう挨拶も通るが、扇屋の吉野太夫ともある傾城が、買手どものわがままにまかせて、振り切って来られぬというのはどうしたものじゃ、吉野もいよいよ金で買われるようになったかな」
「いえ、そうではござりませぬが、こよいのお客様は、わけても、片意地で、太夫様が去ぬと仰っしゃれば、よけいに離してくれないのでござります」
「すべて、買手どもの心理は、みなそうしたものじゃろが。――いったいその意地のわるいお客とは誰じゃ」
「寒巌さまでございまする」
「寒巌さま?」
苦笑して、紹由が光悦のほうを見ると、光悦も苦笑して、
「かんがん様は、おひとりでお見えか」
「いいえ、あの」
「いつものお連れと? ……」
「ええ」
紹由は、膝をたたいて、
「いや、おもしろうなったぞ。雪はよし、酒はよし、これで吉野太夫が見えれば申し分のないところ。光悦どの、使いをやんなされ。――これ、これ女、そこの硯筥、硯筥」
と、取り寄せて、光悦の前へ、懐紙とそれを突きつけた。
「何を書きますか」
「歌でもよいし……文でもよいが……歌がよいな、先がなんせい当代の歌人じゃから」
「こまりましたな。……つまり吉野太夫をこちらへくれという歌でしょう」
「そうじゃ。その通り」
「名歌でなければ先の意をうごかすことはできません。名歌などがそう即吟でできるものではございません。あなた様が一つ、連歌を遊ばして」
「逃げたの。……よろしい面倒じゃから、こう書いてやろう」
紹由は筆を執って――
わが庵へ
うつせ吉野の
ひと本を
それを見ると、光悦の吟興も、気が楽になったとみえて、うつせ吉野の
ひと本を
「じゃあ私が、下の句を書き添えてやりましょう」
花は高嶺の
雲さむからめ
紹由はのぞき込んで、すっかり欣しがってしまい――雲さむからめ
「よしよし。花は高嶺の雲さむからめ……か。これはいい、雲の上人も、ぎゃふんであろう」
と、結び封にして、墨菊太夫の手へわたした。そしてしかつめらしく、
「禿や、ほかの女どもでは、なんとのう権威がない。太夫、ご足労じゃが、かんがん様のところまで使者に行っておくれぬか」
といった。
かんがん様とは、前大納言の子烏丸参議光広のしのび名。いつものお連れというのは、おおかた徳大寺実久、花山院忠長、大炊御門頼国、飛鳥井雅賢などというようなところの顔ぶれであろう。
墨菊太夫はやがて、先方から返辞をもろうて来て、ふたたびそこへ坐り、
「かんがん様からお返し」
といって、紹由と光悦の前へ、うやうやしく文箱をさしおいた。
こちらからは、軽い気もちで、戯れの結び文でやったのに、作法振った文箱の返し方に、
「改まったな」
と、紹由はまず苦笑する。
そして光悦と顔を見あわせ、
「まさかこよい、わしどもが来ておろうとは思わなかったろうから、連中も、きっと驚いたに違いないわさ」
と、遊戯的に何かこう、してやったりというような気持で、さて、文箱のふたを開き、返辞の手紙をひろげてみると、それはなにも書いてないただの白紙ではないか。
「……? おや」
紹由はほかにこぼれた紙でもあるかと、自分の膝をながめ、念のため、文箱の中をもういっぺん覗いてみたりしたが、その白紙一枚のほか、何物もはいっていない。
「墨菊太夫」
「はい」
「これはなんじゃ」
「なんですかわたくしには分かりませぬ。ただ、返辞を持ってゆけと仰っしゃって、これを、かんがん様から渡されたので持って来ただけでござりまする」
「ひとを、小馬鹿に召されたな。……それともこちらの名歌に、すぐ筆をとってよこすほどの返歌もうかばで、あやまったという降参状かな」
なんでも自己のよいように解釈して、やたらに興がるのが紹由のもちまえらしい。だが、その独りぎめに何も自信があるわけではないから、すぐ光悦へそれを示して、
「のう、いったい、その返しは、どういう量見じゃろう」
「やはりなにか、読めという意でございましょうな」
「何も書いてない白紙を、どう読みようもなかろうではないか」
「いえ、読めば読めないことはありません」
「では光悦どのは、これをどう読む?」
「――雪。……いちめんの白雪とは読めましょう」
「ム、ウム、雪か。いやなるほど」
「吉野の花をこちらへ移してほしいという手紙の返しですから、これは、眺めて酒を酌むならば、花ならずとも――という意味でしょう。つまり折からこよいは雪のながめにも恵まれているのだからそんなに多情を起さずに、障子でも開け放して、雪だけでまあ飲んでいるがよろしい――と、こういう返辞と私は思いますが」
「ヤ、小憎いことを」と、紹由はくやしがって、
「そんな寒い飲み方をしていられるものではない。先様がそう出てござれば、こちらも黙ってひっこんではおられぬ。なんとしてでも、吉野太夫は、こちらの座敷に植えてながめねば納まらぬぞ」
紹由老人は、躍起になって、唇の乾きを舐め始めた。光悦よりはずっともう年とっていてこのくらいだから、若い時分にはずんぶんトラになって人に世話をやかせたものだろうと思われる。
光悦が、まあそのうちに、と宥めるほうに努めると、紹由は是が非でも吉野太夫をつれて来いと女たちを手こずらせる、それがまた、吉野太夫そのものよりは、酒の興をたすけるものとなって禿たちも笑い転げ、遊びの座敷はようやく、外の降りしきる雪とともに今が酣の景色と見えた。
武蔵は、そっと席を立った。
機がよかったので、誰も彼の席が空いたのを気がつかなかった。
何を思って、黙って酒席を抜けて来たのか、武蔵は廊下へ出ることは出たが、扇屋の奥の広さに、勝手がわからないで、独りでまごついていた。
明るい表座敷のほうには、遊客の声や音曲が賑わいたっているので、そこを避けると、当然、うす暗い母屋の布団部屋だの、道具部屋だのが目にふれて来る。台所に近いのであろう、厨の持つ特有なにおいが暗い壁や柱からむしむし湧いていた。
「――あら、お客さま。こんなほうへ来てはいけません」
そこらの暗い部屋からひょいと出て来て、出合頭に手をひろげ、こう、通せンぼをして立ちふさがった禿がある。
座敷のあかりで見る時のあどけなさや可愛さはどこへかやって、ひどく自分たちの権利でも侵されたように、眼を咎め立てて、
「いやなお人。こんなとこ、お客さまの来る所ではありません。はよう、あっちへ行ってください」
叱るように追い立てる。
美しく見せている自分たちの穢い生活の裏を、ちょっとでも他人に覗かれたのが、こんな小さい禿にも腹立たしかったのであろう。同時に、お客のたしなみを知らないお客と、武蔵を蔑んでそういったのであろう。
「ア、……こっちへ来てはいけなかったのか」
武蔵がいうと、
「いけません、いけません」
禿は、武蔵の腰を押して、自分も歩く。
武蔵はその禿を見て、
「お、そなたは、さっき縁がわから雪の中へ転げた、りん弥という子だな」
「え、そうです。お客さまは、お後架へ行こうと思って迷子になったんでしょう。わたしが連れて行ってあげましょう」
と、りん弥は、彼の手と自分の手をつないで先へ引っ張った。
「いやいや、わしは酔っているのじゃない。すまないが、そこらの開いている座敷で、茶漬を一わん喰べさせてくれないか」
「御飯?」
眼をまるくして、
「御飯なら、お座敷へ持って行ってあげますのに」
「でも、せっかく皆が、ああやって愉快に酒を飲んでいるところだから――」
武蔵のことばに、りん弥も首をかしげて、
「それもそうですね。では、ここへ持って来てあげましょう。ご馳走は、何がいいんです」
「なにもいらない、握り飯を二つほど――」
「おにぎりでいいんですか」
りん弥は、奥へ駈けて行った。武蔵の望んだものはすぐそこへ来た。明りもない空部屋で、武蔵はそれを喰べ終ってしまうと、
「そこの裏庭から、外へ出られるだろうな」
と、訊く。
そしてすぐ、武蔵が立って縁の降り口へ歩み出したので、りん弥は驚いて、
「お客さま、どこへ行くのですか」
「すぐ戻って来る」
「すぐ戻って来るといっても、そんなところから……」
「表口から出るのも億劫。それに、光悦どのや紹由どのが気づくと、また、なにかとあの人たちの遊興を妨げるし、うるさくもあるからな」
「じゃあ、そこの木戸を開けてあげますから、すぐ帰っていらっしゃいね。もし帰って来ないと、わたしが叱られるかもしれません」
「よしよし、すぐ戻って来るよ。……もし光悦どのが訊ねたら、蓮華王院の近所まで、知人に会うために中座しましたが、間もなく帰ってくるつもりですといって出たと伝えてくれ」
「つもりではいけません、きっと帰って来てください。あなたのおあいての太夫様は、わたしの付いている吉野太夫様ですからね」
雪の柴折戸を開けて、禿のりん弥は、彼を外へ送り出した。
遊廓の総門のすぐ外に、編笠茶屋というのがある。武蔵はそこを覗き、わらじはないかと訊ねたが、遊廓へ入る浮かれ男が、顔隠しの笠を求める店なので、元よりわらじを鬻いでいるはずはない。
「すまないが、どこかで購うて来てくれまいか」
そこの娘にたのみ、その間、武蔵は床几の端をかりて、帯、腰紐を締め直していた。
羽織を脱いで、ていねいに畳みつけ、筆と紙をかりうけて、なにか一筆しるした物を、結び文にして、その袂の中へしのばせ、
「ご亭主」
と、奥の炬燵にうずくまっている年寄りへ、それを頼んだ。
「おそれいるがこの羽織を預かっておいてくれまいか。――もし拙者が、亥の下刻(十一時)までにここへ帰らなかったら、この羽織と添えてある一通とを、扇屋におられる光悦どのまで、お届けしてもらいたいが」
「はいはい、おやすいことでございます。たしかにお預かりしておきまする」
「時に、時刻は今、酉の下刻(七時)か、戌の刻(八時)ごろか」
「まだ、そうなりますまい。きょうは雪もようで、暗くなるのが早うござりましたからの」
「今、扇屋を出てくる前に、あそこの土圭が鳴っていたが」
「ならば、それがおおかた、今、柝を打って廻っていた酉の下刻でござりましょう」
「まだ、そんなものかのう」
「暮れたばかりでござりますもの。――往来の人通りを見ても知れまする」
そこへ娘が、わらじを買って来てくれた。武蔵は入念に、わらじの緒の縒を調べて、革足袋のうえに穿いた。
彼の境遇としては多すぎる茶代をおいて、編笠を一つもらい、それはただ手に持って、頭のうえに翳しながら、散る花よりもやわらかな雪を払いながら雪の道をどこともなく立ち去った。
四条の河原近くには人家の灯もまばらに見えるが、祇園の樹立ちへ一歩入ると、そこらは雪も斑で、足もとも暗かった。
たまたま見える微かな明りは、祇園林に包まれた燈籠や神燈だった。神社の拝殿も社家の中も、人間はいないようにしんとしていて、ただ雪の音が、時折、樹々のこずえに響いて、その後をさらにしんとさせていた。
「さ、行こうか」
祇園神社の前に額ずいて、なにか祈念していた一群の者が、今、どやどやと社殿の前から立ち上がった。
今し方、花頂山の寺々から、ちょうど戌の刻――五ツの鐘がなりわたった。雪の夜のせいか今夜に限って、鐘の音は腸に沁みるほど冴えて聞えた。
「御舎弟さま。わらじの緒はだいじょうぶでござるか。こう寒い――凍るような晩には、きつい緒も、ぷつりと切れ易うござりますぞ」
「心配するな」
吉岡伝七郎だった。
親族の者や、門弟中の重なる者、十七、八人が彼を取り巻いて、寒いせいもあろうが皆、そそけ立った顔つきを揃えていた。彼のまわりを取り囲みながら、蓮華王院のほうへ歩いてゆくのである。
今、起って来た祇園神社の拝殿のまえで、伝七郎はもう全身一点のすきもなく決闘の身仕度を済まして来ていた。鉢巻、革だすき、いうまでもないことである。
「わらじ? ……わらじは、こういう折には布緒とかぎっているものだ、おまえ達も覚えておけ」
伝七郎は雪を踏みしめながら、白い息を大きく吐き捨てて、一同の中に歩いていた。
日暮れまえに、太田黒兵助たち三名の使いの者から、武蔵の手へ、確乎とわたして承諾を取った果し合いの出合い状には、
場所 蓮華王院裏地
時刻 戌の下刻(九時)
と、してあったのである。時刻 戌の下刻(九時)
明日をも待たないで――今夜の戌の刻という遽かな指定をしてやったのは、伝七郎もそれがよいと考えたし、親族や門下の者も、
(猶予を与えて、もし逃げ出されては、ふたたび京都で彼をつかまえることは出来ないから)
という想定のもとに一致した作戦であって、その使いに行った太田黒兵助が、この群れの中に見えないところをみると、彼だけは、あのまま堀川船橋の灰屋紹由の家の附近にうろついていて、その後の武蔵を、ひそかに尾行しているのかもしれない。
「……誰だ? 誰か先へ来ているようだな」
伝七郎はそういって、蓮華王院の裏の廂の下に、赤々と、雪の中に火を焚いている者を、遠くから見つめた。
「御池十郎左と、植田良平でしょう」
「なに、御池や植田良平まで来ているのか」
伝七郎は、むしろ、うるさいといいたげな顔をして、
「武蔵ひとりを討つのに、仰山すぎる。たとえ、仕果しても、あれは大勢で討ったのだといわれてはおれの沽券にもかかわるからな」
「いや、時刻が来たら、われわれは立ち退きますから」
蓮華王院の長い御堂の廊架は、俗に三十三間堂ともよばれているところである。長い廊架は、矢を放つ距離といい、的場を置くところといい、弓を射るには絶好の場所だとされて、いつのころからともなく、射具をたずさえて来て、独りで練技を試している者がぼつぼつ増えていた。
――そんなことからふとこの場所を思いついて、こよいの試合場として、武蔵へいってやったのであるが、来てみると、弓以上、果し合いにはなおさら足場がよい。
何千坪かの雪の地域には、雑草や根笹の凸凹も見えず、きれいに淡雪が積っている。ところどころに、松の樹はあるが、それも密生した林ではなく、極めて疎らに、この寺院の風致を添えている程度なのである。
「――やあ」
先に来て、そこで火を焚いて待っていた門人が、伝七郎を迎えるとすぐ火のそばから立って、
「お寒かったでございましょう。まだ時刻はよほどあります。十分、お体を暖めて、御用意にかかっても遅くはありません」
御池十郎左衛門と、植田良平のふたりだった。
良平の腰かけていたあとへ、伝七郎はだまって腰をおろした。支度はもう祇園神社のまえですっかり済まして来たのである。伝七郎は、焚火の焔に手をかざして、両手の指の節を、一本一本ぽきぽきと鳴らしながら揉んでいた。
「――ちと早すぎたかな」
煙に顔をいぶしながら、もうそろそろ殺気を帯びて来ている顔を顰め、
「いま来た途中に、腰かけ茶屋があったなあ」
「この雪で、もう戸を閉めておりましたが」
「たたき起せば起きるだろう。――誰かそこへ行って、酒を提げて来ないか」
「え、酒をですか」
「そうだ、酒がなくっちゃあ……とても寒いわ」
伝七郎はそういって、火を抱くようにかがみ込んだ。
朝でも晩でも、道場に出ている時でも、伝七郎の体から酒のにおいの消えたことがないことは知っているが、こん夜のような場合――やがて一族一門の浮沈を賭して当ろうとする敵を待つ今のわずかな間に、その酒が、伝七郎の戦闘力に、利となるか、不利となるかを、門弟たちは、いつもの酒とちがって、熟考せずにいられなかった。
この雪に、凍えた手肢をして、太刀を持つよりは、少しぐらいの酒ならば、体に容れたほうが、かえってよかろうと考える者のほうが多かった。
「それに、御舎弟が、ああいいだしたものを、その気持をこじらせるのは、なおよろしくない」
こういう尤もな意見もあって、門弟の中の二、三が駈け出して行って、間もなく酒を買って来た。
「やあ来たな、どんな味方よりも、以上の味方は、これだ」
焚火のぬく灰にあたためた酒を、伝七郎は茶碗につがせ、こころよげに飲んでは、争気に満ちた息を吐く。
いつものように、量をたくさんに参られてはよくないがと、側にいてはらはらしている者もあったが、そんな心配までに及ばず、伝七郎は心得ていつもより少なくしか飲まなかった。自己の生命にかかわる大事を、すぐ前にひかえているので、豪放には装っていても、ここにいる誰よりも肚の底から緊張しているのは、やはり彼自身だった。
「――や、武蔵?」
不用意に、誰かがこう放った一声に、
「来たか」
焚火を囲んでいた面々が、腰を蹴られたように、一度にどっと立って、その袂やその裾から、火の粉の塵が雪の空へ赤く散った。
三十三間堂の長い建物の角に現われた黒い人影は、遠くから手をあげて、
「わしじゃ、わしじゃ」
と、断りながら近づいて来た。
袴を短くからげて、かいがいしい支度はしているが、腰から背はもう弓になりかけている老武士なのである。門弟たちはそれを見ると、源左衛門様だ、壬生の御老人だといい合って、ひそまり返った。
壬生の源左衛門というこの老武士は、先代吉岡拳法の実弟にあたる人で、つまり拳法の子の清十郎や、ここにいる伝七郎にとっては実の叔父にあたる者だった。
「おう、これは壬生の叔父上、どうしてこれへ」
伝七郎も、この人が今夜ここへ来るなどとは思ってもいなかったらしく、意外な態で迎えると、源左衛門は火のそばに来て、
「伝七郎、おぬしほんとに、やるのじゃなあ。……いや、おぬしのその姿を見て、ほっと安堵いたした」
「叔父上にも、一応ご相談にあがろうと思っていましたが」
「相談、なんの、相談などに及ぼうか。吉岡の名に、泥をぬられ、兄を片輪にされて、黙っているようだったら、わしが其方を責めに出向こうと思っていたくらいじゃ」
「ご安心ください。柔弱な兄とはちがうつもりですから」
「そこはわしも信頼しておる。そちが負けようとは思わんが、一言、励ましてくれようと思って、壬生から駈けつけて来たのじゃ。――だが伝七郎、あまり敵を軽視して臨むなよ、武蔵という者も、うわさを聞けば、なかなかな男らしい」
「心得ています」
「勝とう勝とうと焦心らぬがよいぞ。天命にまかせろ。万一のことがあったら、骨は源左衛門がひろってやる」
「ハハハハ」
伝七郎はわらって、
「叔父上、寒さ防けに」
と、酒の茶碗を出した。
源左衛門はだまって、それを一杯飲んでしまうと、門弟たちを見まわして、
「各は、何しに来ているのか。よもや、助太刀ではあるまいな。――助太刀でなかったら、もうこの場所から引き揚げたほうがよかろう。こう物々しくかたまっているのは、一人と一人の試合に何やらこっちに弱味があるようでいかん。勝っても、人の口がうるさいものだ。……さ、そろそろ時刻も近づいたろうから、わしと共に、どこか遠くに退いていることにしよう」
すぐ耳元で大きく鐘が鳴ったのは、もう、だいぶ前のような気がする――
あれは確かに戌の刻であった。そうすると、約束の戌の下刻は、もうやがて迫っているところだが――と思う。
(出遅れたな、武蔵は)
伝七郎は、白い夜を見まわしながら、ただ独り、燃え残りの焚火をかかえている。
壬生の源左衛門叔父の注意で、門弟たちはみな立ち去ってしまった。足痕だけが、その後の雪に際だって黒く数えられる。
――ぽきっと、時々、凄じい音がした。三十三間堂の廂の氷柱が折れて落ちるのである。また何処かで、雪の重さに樹の枝が裂けるのであった。その度ごとに、伝七郎の眼は鷹のようにうごいた。
その鷹の影にも似た男がひとり、その時雪を蹴って、彼方の樹の間から敏速に、伝七郎のそばへ馳せて来た。
武蔵の行動を監視しつつ、宵のうちからここと聯絡をとって報告していた数名の中の最後の一人太田黒兵助だった。
今夜の大事が、もう眉を焦く所まで迫って来たことは、その兵助の顔つきだけでも、訊かないうちに分った。
足も地につかない様子で、喘いで来た息の弾みを、
「来ましたぞッ!」
と、そのまま告げた。
伝七郎は、これを聞く前に、疾く察して、火の側から立ち上がっていたのである。――そして、彼のことばを聞くとすぐ、
「来たか」
と、おうむ返しにいって、その足が無意識のように、燃え残りの焚火を踏みにじっていた。
「――六条柳町の編笠茶屋を出てから、雪がふるのに、武蔵め、牛のようにのそのそ歩いておりましたが、たった今、祇園神社の石垣をのぼって境内へはいりました。――拙者は、廻り道してここへ来ましたが、あののろい足つきでも、もう姿を見せるはずです、御用意を!」
「よしッ。……兵助」
「は」
「彼方へ行っておれ」
「皆は」
「知らん。その辺にいては、眼ざわりだ、立ち去れ」
「はッ……」
といったが、兵助は、そこをはずして去る気にはなれなかった。伝七郎の足が、雪泥の中へ、火をすっかり踏みつぶし、武者ぶるいしながら廂の下から出て行くのを見届けると、彼は反対に、御堂の床下へもぐって、闇の中に屈み込んでいた。
床下にいると、外にはないと思っていた風が冷々と動いていた。太田黒兵助は、自分の膝を抱えこんだまま、骨まで冷えてゆく体がわかった。ガチガチと奥歯が鳴るのをどうしようもなかった。それは寒さのせいであると、自分の観念を強いてうなずかせながら、時々、尿でもつかえたように、腰の下から顔の先までぶるぶると身ぶるいを走らせていた。
(……はてなあ?)
外は昼間よりもよく見えるのである。伝七郎の影は三十三間堂の下から約百歩ほど離れて、背のたかい一幹の松の根かたに足場を踏みしめ、武蔵のすがたが見えるのを、いまやおそしと待ち構えているのだ。
――だが、兵助が胸で計っていた頃あいは、とうに過ぎたのに、武蔵はまだここへ来なかった。宵のうちほどではないが、雪がまだチラチラとこぼれているし、寒さは肌に咬みつくようだし、火の気も酒の気もさめてくるし――伝七郎の焦々している態が、遠くからでもよく分るのであった。
――ざあッ、と突然伝七郎の神経を驚かしたものがあると思うと、それは、梢から滝のように落ちて来た雪に過ぎなかった。
もっとも、こういう場合の一瞬というものは、待つ方になると、わずかな間も、耐えきれない焦躁になるのは勿論である。
伝七郎の気持も、太田黒兵助の気持も、その例に洩れない。殊に兵助は、自分のした報告に責任を感じてくるし、寒さは体から霜が立つようだし――もう、一瞬、もう一瞬と、その焦躁を抑えていても依然として武蔵の影は見えて来ないし――
たまらなくなって、彼は、
「どうしたのかなあ?」
床下から出て、彼方に立っている伝七郎へ何か呼びかけた。
「兵助、まだいたのか」
伝七郎も同じ気もちでこう声を返した。どっちからともなく二人は接近していた。そしてすべてがただ真っ白な雪の夜を見廻して、
「……見えぬ!」
と、呻きに似た不審りを繰返していた。
「彼奴、逃げ失せたな」
伝七郎がつぶやくと、
「いや、そんなはずは……」
太田黒兵助はすぐ打消した。そして極力、自分の確かめて来たところをもって、自分で保証づけるように喋舌っていると――
「や?」
聞いている伝七郎の眼が急に横へ反れた。
――見ると、蓮華王院の庫裡のほうに、ポチと手燭の灯が揺らぎ出している。灯を持って来るのは一人の僧で、後から誰やら尾いてくる人影もわかる。
その二つの人影と、一点の小さな灯は、やがて、境の扉を開けて、三十三間堂の永い縁の端へ立つと、こう低い声で話していた。
「――夜分は、どこもかしこも、閉め切っておりますので、よう存じませぬが、たしか宵の頃、この辺りで、暖を取っていたお武家方がございましたから、それが、あなたの尋ねているお方達かもわかりませんが、もう、誰もいないようでございますな」
それは、僧の言葉だった。
それに対して、ていねいに、なにか礼をのべているのは、案内されて来た方の者で――
「いや、せっかくお休みのところを、お邪魔いたして申しわけありません。……あの彼方の樹の下に、二人ほど佇んでおるようですから、あの者が、蓮華王院で待つといってよこした当人かも知れません」
「では、たずねて御覧なさい」
「ご案内は、もうここまでで結構です、どうぞお引取りくださるように」
「なにか、雪見でもなさろうという御会合で?」
「まあ、そんなものです」
と、一方は軽く笑う。
僧は手燭を消して、
「いわでもがなのことではありますが、もしこの廂のお近くで、さっきのように火でもお焚きになる場合は、どうぞ、後の残り火だけはご注意くださいますように」
「わかりました」
「では御免を」
僧は、そこの扉を閉めて、庫裡のほうへ立ち去ってしまう。
残っていた一方の者は、じっと伝七郎の方を見ながらしばらく佇んでいた。そこは廂の蔭で、ほかの雪明りが眼を刺すように強いために、そこの暗いのが、よけいに濃く感じられるのであった。
「誰? 兵助」
「庫裡の方から出てきたようですが?」
「寺の者ではないらしいぞ」
「はてな」
歩むともなく、二人は三十三間堂の縁のほうへ、二十歩ほど近づいて行った。
すると、御堂の端のほうに見えた黒い人影も位置を移し、長い縁の中程あたりまで来ると、その足をぴたりと止めた。そして結びかけていた革襷の端を、左の袂のわきで、きびしく締めているような様子であった。その様子までを眼に受け取れる距離までは――何気なく進んで行った二人であったが、ぎくっと、足の方が先に雪の中から抜けなくなってしまった。
そして、ふた息か三息、間をおいてから、
「――あっ、武蔵!」
伝七郎が大きくいった。
互いに正視し合って、
武蔵!
と伝七郎が最初の声を発した途端から、こう二人の立場は、すでに武蔵の方が、絶対に有利な地を占めていることをこの場合見のがすことはできない。
なぜ、というまでもなかろうが、一応、二人の対立している地歩を見るならば、武蔵は自分の身を、敵よりも何尺か高い縁の上に置いている。反対に伝七郎は、敵から眼の下に睥睨されている地上にある。
それのみでなく、武蔵はまた絶対に背後が安全だった。三十三間堂の長い壁を背にしているのであるから、たとえ、左右の横から挟撃しようとする者があっても、縁の高さが自ら一つの防ぎをなしているし、後顧なく、一方の敵へ意力をそそぐことができる。
伝七郎の背後はといえば、無限の空地と雪風であった。かりに相手方の武蔵には、助太刀は来ていないと承知していても、その広い背中の空地を、決して無関心でいるわけにはゆかなかった。
だが、倖いなことには、彼のそばには太田黒兵助がいた。
「退けっ、退いていろっ、兵助――」
こう、袖を払うように、伝七郎がいったのは、むしろ兵助が下手な手出しをしてくれるよりも、遠く離れて、一人と一人との絶対的なこの地域を、見守っていてくれた方が力に思われたに違いないのである。
「よいか」
これは、武蔵の言葉だった。
水をかぶせるような静かないいかただったのである。
伝七郎は、ひと目見るとともに武蔵の顔に対しても、その足の先までを、
(こいつか)
という憎念で見ずにいられなかった。肉親の意趣もある。巷の取沙汰に比較されている忌々しさもある。また地方出の駈出し剣客がという蔑みも頭へ先に入っている。
「だまれっ」
刎ね返すように出た語気は、彼としては自然だった。
「――よいかとは、何がよいかというぞ。武蔵! 戌の下刻は、もう過ぎておる」
「下刻の鐘と、きっちり、同時にとは約束していない」
「詭弁を吐くなっ。こっちはとうに来て、この通り身支度して待ちぬいていた。――さっ、降りろ」
不利な立場のまま、無碍に進んでゆくほど、伝七郎も相手を軽んじてはいない。当然こういって敵を誘った。
「今――」
と、軽く答えておいて、武蔵はその間に、機を観ているような眼ざしだった。
機を観るといえば、伝七郎は武蔵のすがたを眼の前にしてから、満身の肉に戦いの生理を起していたが、武蔵のほうでは、彼の肉眼に自分を示す前から、とうに戦いを開始しているつもりで、戦いの中身を持って臨んで来ている。
証拠だてて、彼のその心事をいってみるならば、彼はまず、わざと道でもない寺院の中を通過していた。もう憩んでいる寺僧の世話までかけて、広い境内を歩かずに、この御堂の縁へ、いきなり建物伝いに来て立ったのでも分る。
祇園の石段をのぼった時、彼はもう多数の人間の足痕を雪の中に見たに違いない。あらゆる即智はそこで働いた。自分のうしろを尾行ていた者の影が自分から離れると、彼は、蓮華王院の裏地へ行くのに、わざとそこの表門へ入ってしまったのだった。
寺僧について、十分に、宵のうちからのこの附近の予備知識を得、そして茶ものみ、暖も取り、少し時刻が過ぎたのも承知しながら、唐突に、当の敵と面接するという策を取ったのである。
第一の機を、武蔵はこうして掴んだ。第二の機は、しきりと今、伝七郎の方から誘うのであった。その誘いに乗せて出るのもまた戦法だし、外らして自身から機を作るのもまた戦法である。勝敗の相のわかれ目は、ちょうど水に映っている月影に似ている。理智や力を過信して的確にそれを掴もうとすればかえって生命を月に溺らせてしまうにきまっている。
「出遅れたうえ、まだ支度が整わぬのか。ここは、足場がわるい」
焦立つ伝七郎へ、武蔵は飽くまで落着きはらって、
「今参る」
と、いった。
怒れば、必ず敗れる端をなすことを、伝七郎も知らないではない。だが、まるで故意のような武蔵の態度を見ていると、そういうふだんの修得と感情がばらばらにならずにいられないのである。
「来いっ! もっと広場のほうへ! お互いに、名はいさぎよくしておきたい。姑息な振舞い、卑怯な立ち合い、そんなものへ、唾して生きてきた吉岡伝七郎だっ。――武蔵っ、仕合わぬまえに、怯気を抱くようでは、伝七郎の前へ立つ資格はないぞっ、降りろそこを!」
ようやく彼が、呶鳴りつづけ出すと、武蔵はニッと歯を少し見せた。
「なんの、吉岡伝七郎の如き、すでに去年の春、拙者が真二つに斬っている! きょう再び斬れば、おん身を斬ることこれで二度目だ!」
「なにっ! いつ、どこで」
「大和の国柳生の庄」
「大和の」
「綿屋という旅籠の風呂の中で」
「や、あの時?」
「どっちも、身に寸鉄も帯びていない風呂の中であったが、眼をもって、この男、斬れるかどうかを自分は心のうちで計っていた。そして、眼で斬った、見事に斬れたと思った。しかし、そちらの体には何の形も現さないから、気づきもせずにおったろうが、おん身が、剣で世に立つ者と傲語するならば、余人のまえでいうなら知らぬこと、この武蔵のまえでいうのは笑止だ」
「なにをいうかと思えば、愚にもつかぬ吐ざき言。だが、少しおもしろい、その独りよがりを醒ましてやろう。来いっ。彼方へ立とう」
「して伝七郎、道具は、木太刀か、真剣か」
「木太刀も持たずに参って何をいう。真剣は覚悟のうえで来たのと違うか」
「相手が木太刀を望みとあれば、相手の木太刀を奪って打つ」
「広言、やめろッ」
「では」
「おっ」
――伝七郎の踵は、雪の上に黒い斜線を一間半も描いて、さっと武蔵の通る空間を与えた。――しかし武蔵は、縁の上を横へ二、三間つつつつと歩いてから雪の中へ降りていた。
ふたりは、御堂の縁からそう何十間も先までは歩いて行かなかった。そこまで行く間が伝七郎にはもう待ちきれないものになっていた。やにわに、相手へ重圧を加えるような一喝を浴びせると、彼の体格に均り合っている長刀が、いかにも軽いもののように、びゅっ――と微かな鳴りを発して、武蔵のあった位置を正確に薙ぎ払っていた。
だが、力点の正確さが、敵を両断する正確さとはあながちいえない。対象のうごき方は、刀の速度よりも、もっと迅かった。――いやそれ以上に迅速だったのは、その敵の肋骨の下から噴いて出た白刃であった。
きらっと、二すじの刀が、宇宙に閃めいたのを見て後は、降る雪の地へ落ちてくるさまは如何にものろいものに見えた。
けれど、その速度にも、楽器の音階のように、徐、破、急があった。風が加われば急になり、地の雪を捲いて旋風になると、破を起す。そしてまた、白鵞の毛が舞うような静かな雪景色に返って降った。
「…………」
「…………」
武蔵と伝七郎との、ふたりの刀も、お互いの刀が鞘を走ったと見えたその一瞬には、もうどっちかの肉体は、到底無事ではあり得ないと考えられるところまで迫り合い、同時に二つの刀の動き方にも複雑な光があったように見えたが、それが、ぱっとふたりの踵が雪煙を揚げ、後方へ離れあうと――どちらの身もまだ健在であって、白雪の大地に、一滴しの血しおもこぼれていないことが、なんだかあり得ない奇蹟のようにしか思われなかった。
「…………」
「…………」
それきり、ふたすじの刀は、さっきから切っ先と切っ先との間に約九尺ほどな距離をおいたまま、空間に固着しているのである。
伝七郎の眉毛に雪がたかっていた。その雪が解けると、露になって、眉毛からまつ毛の中へながれ込むらしいのである。ために時々、顔を顰めると、その顔筋肉が無数の瘤みたいに動き、そしては、くわっと大きな眼をひらき直していた。そこから飛び出しそうな眼孔は、まるで鉄を熔かしている炉の窓のようであり、それとともに唇は、下腹からしている呼吸を、極めて平調に通わせているかのように見せていても、実はのような熱臭い火ッ気をもっていた。
(――過った!)
伝七郎は、敵とこういう対峙になるとすぐ、胸のなかでそう悔いていた。
(なぜ、きょうに限って、青眼につけてしまったか。いつものように頭高に振りかぶってしまわなかったか)
頻りと、その後悔が頭のなかを往来する。といっても人間のふだんにする思考のように脳だけで物事をのん気に判断していられる状態ではない。体じゅうの血管のうちを、どっどっと、音をたてて駈けている血がみな思考力を持ってそう感ずるのだった。頭の毛も、眉毛も、全身の毛髪はいうまでもなく、足の爪までが、生理的に動員されて、敵へ向ってそそけ立った戦闘の姿態を示しているのだった。
こう刀を構えて持つのは――青眼身となって戦うのは――伝七郎は自分の不得手であることを知っていた。だから、肱を上げ、真っ向に持ち直そうと、先程から幾度となく、切っ先を上げかけたが、どうしても上げられなかった。
――武蔵の眼が、その機を、待っているからである。
その武蔵もまた、青眼に刀をぴたりと――やや肱をゆるめに構えていた。伝七郎の肱の屈曲しているところには、めりめりといいそうな力が見えるが、武蔵の肱には手で押せば下へも横へも動きそうな柔かさが見える。――そしてまた、伝七郎の刀が前にもいったように、時折、位置を改めようとして動いては止め動いては止めしているのと反対に、武蔵の手にある刀は、びくとも動かなかった。その細い刀背から鍔にかけて、微かに雪がつもるほど動かずにあった。
彼の破綻を祈る、彼の隙をさがす、彼の呼吸を計る、彼に勝とうとする、飽くまで勝とうとする。八幡、ここぞ生死のわかれ目と思う。
そういう意識が、脳裡にちらついている間は、相手の伝七郎がまるで巨きな巌のように見え、
(これは)
と、武蔵も、その豪壮な存在からうける一種の圧迫感を、はじめはどうしようもなかった。
(敵は、おれよりも上手だ)
正直に、武蔵は、そう思ったのである。
同じ負け目は、小柳生城のうちで柳生の四高弟に囲まれた時にもうけた。彼のその負け目に似た自覚というのは、柳生流とか吉岡流とかいう正法な剣に向ってみると、自分の剣がいかに野育ちの型も理もない我法であるかがよく分ることだった。
今――伝七郎の構えているさまを見ても、さすがに吉岡拳法というあれだけの先人が、一代を費やして工夫しただけのものが、単純のうちに複雑に、豪放なうちに賢密に、ひとつの整った剣のすがたを作していて、ただ力とか、精神とかいうだけのもので圧して行っても、決して破り得ないものがあった。
生半可、武蔵には、それが観えるだけに、手も、足も出ない心地がしてしまうのだった。
で当然、武蔵は無謀になれなかった。
彼のひそかに自負している我法も野人ぶりも振舞えなかった。こんなはずはないと思うくらい、こよいの肱は伸びてゆかない。じっと、保守的に構えを持っているのが呼吸いっぱいであった。
その結果、心で払っても払っても、
(隙を)
と、眼に充血を来し、
(八幡)
と勝ちを祈り、
(勝たねば)
と、躍起な焦りが湧いて来て、心はいよいよ躁がしい。
多くの場合、たいがいな者が、ここで渦潮に巻込まれたように狼狽に墜ちて溺れるのであった。しかし武蔵は、なんの心機をつかむともなく、そのあぶない自分の昏迷からふと浮び上がっていた。これは彼が、一度も二度も、生死のさかい目を踏んで来た体験の賜物にほかならぬものであろう。――はっと眼を拭かれたように気が醒めていたのである。
「…………」
「…………」
依然として青眼と青眼との対峙のままだった。雪は武蔵の髪の毛に積り、伝七郎の肩にも積っていた。
「…………」
「…………」
巌のような敵はもう眼の前になかった。同時に、武蔵という自己もなくなっていた。そうなる前に必然、勝とうという気持すらどこかへ消え失せてしまっている武蔵であった。
伝七郎と自分との約九尺ほどな距離の空間をチラチラと静かに舞っている雪の白さ――その雪の心が自分の心かのように軽く、その空間が、自分の身のようにひろく、そして天地が自分か、自分が天地か、武蔵はあって、武蔵の身はなかった。
すると、いつのまにか、その雪の舞う空間を縮めて、伝七郎の足が前へ出ていた。そして刀の先に、彼の意思が、ビクとうごきかけた。
――ぎゃっッ!
武蔵の刀は後ろを払っていたのである。その刃は、彼の背後から這い寄って来た太田黒兵助の頭を横に薙ぎ、ジャリッと、小豆袋でも斬ったような音をさせた。
大きな鬼燈みたいな頭が、武蔵の側を勢いよくよろけて、伝七郎の方へ泳いで行った。その歩いて行った死骸につづいて、武蔵の体も咄嗟に――敵の胸を蹴飛ばしたかと思われるほど高く跳んでいた。
四方の静寂を劈いて「ア――ああっッ」と、亀裂のはいった声だった。伝七郎の口からである。満身から発した気合いが、途中でポッキと折れたように、宙へその一声が掠れて行ったと思うと、彼の巨きな体が、後ろへよろめき、どっ――と真っ白な雪しぶきに包まれた。
「まッ、まてッ」
大地へ伸びた体を無念そうに曲げ、雪の中へ顔を埋めながら、伝七郎がこう呻くようにいった時はもう、武蔵の影は、彼のそばにはいなかったのである。
俄然、それに答えたものは、遥か彼方で――
「おうっ」
「御舎弟の方だ」
「た、たいへんだ」
「みんな来いっ」
どどどどと、潮の駈けて来るように、雪を蹴って、黒い人影がここへ集まって来る。
いうまでもなく、遠く離れて、かなり楽観的に、勝負のつくのを待っていた親類の壬生源左衛門やその他の門人たちだった。
「ヤ! 太田黒まで」
「御舎弟っ」
「伝七郎様っ」
呼んでも、手当しても、もういけないことはすぐ分った。
太田黒兵助の方は、右の耳から横へかけられた太刀が口の中まで斬られているし、伝七郎の方は、頭の頂上からやや斜めに鼻ばしらを少し外れて、眼の下の顴骨まで斬られている。
ともに、たった一太刀だった。
「……だ、だからわしが、いわんことではない。敵を侮るからこんなことになったのじゃ。……伝、伝七郎っ、これっ、これっ、伝七……」
壬生の源左衛門叔父は、甥のからだを抱いて、愚を知りながら、死骸に向って悔やんでいた。
いつのまにかその人々の踏みつけている雪はいちめん桃色に変っていた。――自分も死者の方にばかり気をとられていたが、壬生の源左老人は、ただうろうろと度を失っている他の者に腹が立って、
「相手はどうしたっ」
と、呶鳴りつけた。
その相手の所在を、他の者も気にとめてないわけではなかったが、いくらキョロキョロしても、武蔵の影は、もう自分達の視野からは見出せなかったので、
「――いない」
「――おりません」
痴呆のような返辞をすると、
「いない理があるかっ」
源左衛門は歯がみをしながら、
「わしらが駈け出すまで、たしかに突っ立っていた影がここに見えたのじゃ。まさか、翼のあるわけでもあるまい、一太刀、武蔵に酬わんでは、吉岡の一族として、わ、わしの面目が立たぬ」
すると、そこにかたまっている大勢の中から一人があッといって、指さした。
自分たちの仲間から発したあッという声であるのに、その衝動をうけて皆、どっと一歩ずつ後方へ身を退き、そして、指さした者の指先へじっと視線をそろえた。
「武蔵」
「オオあれか」
「うーむ……」
一瞬、なんともいえない寂寞の気が漲った。人のない天地の静かさよりも、人中の空気にふと湧いた寂寞のほうが不気味な霊魂をふくんでいた。鼓膜も頭の中も真空になって、物を見る眼が、物を映しているだけで、思考に容れることを忘れ果てたかのようになる。――
武蔵は、その時、伝七郎を倒した場所から最短距離の建物の廂の下に立っていたのである。
――それから。
相手方の様子を見つつ、壁を背にしたまま、徐々と横歩きにあるき、三十三間堂の西の端縁へのぼって、悠々とさいぜん立った所の縁の中ほどまで足を移していた。
そこから一応、
(襲るか?)
と、体の正面を、彼方にかたまっている群れへ向けたが、その気色もないと見定めたのであろう。ふたたび歩き出して、縁の北の角まで行ったかと思うと、忽然、蓮華王院の横へと影を消してしまった。
「こちらの文のお返しに、白紙など遣こされて、なんとも小憎い一座ではある。このまま黙って引っ込んでいては、愈、あの公達輩をよい気にさせて置くようなもの。この上は、わしが行って直談合と出かけ、意地でも吉野太夫をこちらへ申しうけて来ねばならぬ」
遊びに年齢はないものだそうであるが、酔うと興の乗じたまま、踏み止まりのない灰屋紹由であった。こういい出すとどうしても、自分の思い通りにならないうちは、そのひたぶるな遊びのわがままが納まらないとみえる。
「案内しやい」
と、墨菊太夫の肩につかまって立ち上がり、側から光悦が、
「まあ、まあ」
と、引き止めても、
「いいや、わしが行って吉野を連れてまいる――旗本ども、あの方々の席へわしを案内しやれ、おん大将の御出馬に候ぞ、われと思わんものは、尾け、尾け」
危なかしくってはらはらさせられるが、放っておいても決して危なくないのが酔っぱらいである。しかしそれを、危なくないからといって、見ている世の中では面白くない。やはり危ながったり、危なそうに見せたりするうちが、世の中の至妙でもあるし、遊戯の世界の滋味でもある。
わけてもまた、紹由老人のように、酢いも甘いも知り尽くし、遊びの裏も表も心得ぬいている客になると、同じ酔っぱらいでも、扱いいいようで大いに扱い難い。遊ぶ心と、遊ばせる方の心とが蹌々、歩いている間も、不即不離、つまり阿の呼吸というものである。
「船ばし様、おあぶのうございまする」
と妓たちが庇えば、
「なんじゃ、馬鹿にするな。酔えば、足が、ひょろけるが、心は、ひょろけてはいないぞ」
と、むずかるし、
「では、おひとりでお歩き遊ばせ」
と離せば、廊下へ、ぺたと坐ってしまって、
「――すこし草臥れて候。わしを負ぶってくれい」
と、いう。
いくら広いにしたところで、同じ家のべつな部屋へ行くのに、廊下続きでこうさんざん手間どらせて道中しているのも、紹由にいわせれば、これも遊びの一つというに違いない。
なんでも知らない顔をしながら、なんでも知っているこの酔客様は、途中でこんにゃくのようになって、妓たちを手古ずらせていたが、その寒巌枯骨ともいえるような細ッこい老躯の中には、なかなか利かない気性が潜んでいるらしく、さっき白紙の返書を遣こしたり、あちらの別室で、吉野太夫を独占して、得意げに遊んでいるらしい烏丸光広卿などの一座に対して、
(青くさい公達輩が、なんの猪口才な――)
と、常々の剛毅が、酒に交じって、胸でむらむらしていることも事実であった。
公卿といえば、武家も憚かる厄介者であったが、今の京都の大町人は、そんな者を少しも厄介には思っていない。打割ったところをいえば、お人の良いどうにでもなる――ただいつも位階ばかり高くて金のない階級というだけのものである。従って、金をもって適当な満足を与え、風雅をもって上品に交わり、位階を認めて誇りを持たせておけば、それで彼らは自分たちの指人形のようにうごくことを――この船ばし様は十分に知りつくしている。
「どこじゃ、かんがん様の遊んでござるお座敷は。……ここか、こちらか」
奥まったところの、花やかな灯の映している障子を撫でまわして、紹由がそこを開けようとすると、出合頭に、
「やあ、誰ぞと思えば」
こんな場所に似合わない僧の沢庵が、内からそこを開けて、顔を出した。
「あっ、ホウ?」
と、目をまろくし、かつ奇遇を欣び合って、紹由の方から、
「坊主、おまえもいたのか」
沢庵の首すじへ抱きつくと、沢庵も口まねして、
「おやじ、おぬしも来ていたのか」
と紹由の首を抱えこみ、出合頭の酔っぱらい同士が、恋人のように汚い頬と頬とをこすり合い、
「達者か」
「達者じゃ」
「会いたかった」
「うれしい坊主め」
しまいには、ぽかぽか頭をたたいたり、一方がまた一方の鼻の頭を舐め出したり、何をやっているのか、酒飲みの気持は分らない。
今そこにいた沢庵が、次の部屋から出て行ったと思うと、廊下のあたりで、しきりと障子ががたがた鳴り、恋猫と恋猫とがじゃれているような鼻声が聞えるので、烏丸光広は、対い合っている近衛信尹と顔を見あわせ、
「ははあん、案の如く、うるさいのが、やって来たらしい」
そっと、苦笑をもらした。
光広はまだ若い、見るところ三十ぐらいな貴公子だった。裸にしても堂上人らしく白皙の美男であるから、実際の年はもっとよけいかも分らない。眉は濃く、唇は朱く、才気煥発なところが眸に出ている。
(武家ばかりが人間のような世の中に、なんで麿を公卿に生ましめたか)
というのがこの人の口癖であって、優しい容貌のうちに烈しい気性を蔵し、武家政治の時流に、鬱勃たる不平を抱いているらしかった。
(頭脳がよくて若い公卿で、今の世態に悩みを持たぬ奴は、馬鹿である)
これも光広が、いって憚らない持論なのだ。それを換言するとつまり、
(武家は武門の一門を世職とするものだが、それが、政治の権を戟に翳し、右文左武の融和もつりあいもこのごろではあったものではない。公卿は節句のかざり物、人形でも済むことだけを任されて、曲げてかぶれぬ冠を載せられているのだ。――そんなところへ自分のような人間を生ませたのが神の過ちというもの、われ人臣たらんとすれば、今の世の中では、悩むか、飲むか二つしかない。――如かず、美人の膝を枕に、月を見、花を見、飲んで死のうか)
というような意味であるらしかった。
蔵人頭から右大弁に昇り、今も参議という現職にある朝臣であるが、そこでこの貴公子はさかんに六条柳町へ通ってくる。この世界にいる時だけ腹の立つのを忘れるというのである。
その若くて悩む仲間には、飛鳥井雅賢だの、徳大寺実久だの、花山院忠長だのというもっと溌剌としたものもあって、武家とちがって、めいめい貧乏のくせにどう金の工面をしてくるのか、いつも扇屋に来ては、
(ここへ来ると、人間らしい心がしてくるぞ)
とばかり飲んで騒ぐことを例としていたが、その顔ぶれとすこし違って、今夜の彼のお連れは、寔におとなしやかな人品だった。
そのお連れである近衛信尹というのは、光広よりは年も十ほどは上であろう。どこか重々しい風があり、眉も秀ているが、豊かに浅黒いその頬に薄あばたのあるのが世間並にいえば瑕である。
けれどその薄あばたなら、鎌倉一の男、源実朝ににもあったということだからこの人だけの瑕瑾ではない。殊にこの人が、前関白氏の長者という厳しい身分などをどこにも見せず、ただ余技の書道において聞えている近衛三藐院として、吉野太夫の側でにやにやしているところはかえってなかなか床しい薄あばたであった。
顔じゅうを笑靨にして、近衛信尹はその薄あばたを、吉野太夫の顔に向け、
「あの声は、紹由だの」
と、いった。
吉野の紅梅よりも濃い唇がおかしさを噛みこらえながら、
「あれ、ここへお見え遊ばしたら、どうしたらようございましょう」
困ったような眼元をする。
烏丸光広は、
「起つな」
と、吉野の裾を抑えて、次の間越しに、廊下の境へ、
「沢庵坊、沢庵坊、そんな所で何をしておらるるか。寒いぞ、そこを閉めて出るなら出ろ、はいるならはいれ」
と、わざといい放ってみる。
するとその沢庵が、
「まあ、はいれ」
と障子の外から紹由老人を引っぱり込み、光広と信尹の前へ来て、ぺたりと坐った。
「よう、これは、思いがけぬお連れではあるぞ。いよいよ、おもしろい」
灰屋紹由は、こういうと、さすがにいくら酔っていても、少しも崩れない薄い膝の角をそのままずいと進めて、すぐ信尹の前へ手をさし出し、
「――お流れを」
と、辞儀した。
信尹はにやにや、
「船ばしの翁、いつも元気でよいのう」
「かんがん様のお連れが、お館とは露だに知らず……」
と、杯を返す手からもうこの古武士は、わざと酔いを誇張して酩酊した太郎冠者のように細い皺首を振りうごかした。
「……ゆ、ゆるされいお館。へ、平常の、ご無沙汰はご無沙汰、会った時は会った時、なんの……関白でおざろうと、参議でござろうと……ハハハハ、のう沢庵坊」
と、またそばの坊主頭を脇へかかえ込み、信尹と光広の顔を指した。
「――世の中に、気の毒なものは、こ、このお公卿という人達じゃ。関白の、左大臣のと、よい名は貰うが、実はくれぬ。まだまだ町人が遥かましよ。……のう坊主、そう思わんかい」
沢庵も、この酔老人には、すこし辟易のていで、
「思う、思う」
と、彼の腕の中からやっと首を外して、自分の物にすると、
「これ、御坊からは、まだ戴いておらぬが」
と杯をせがむ。
そしてその杯を顔に乗せるように傾けて、また――
「なあ坊主、おぬしなどは狡い奴じゃぞ。――今の世の中で狡い人間は坊主、賢い者は町人、強い者は武家、おろかしき者は堂上方。……アハハハ、そじゃないか」
「そじゃ、そじゃ」
「好きなこともよう出来ず、さりとて政事からは戸閉めを喰い、せめて歌でも詠むか、書でも書くか。そこより他に力の出し場がないなどということが……アハハハハ、のう坊主、あろかいな」
飲んで騒ぐことなら光広も負けないし、雅談や酒の量なら信尹もおくれを取っていまいが、こういきなり捲し立てられたので、顔負けしたというか、さすがの二人も、この細ッこい闖入者のために、すっかり座興を攫われてしまった形で沈黙していた。
その図に乗って紹由は、
「太夫。……太夫はなんと思さるるな。たとえば、堂上方に惚れ召さるか、それとも町人に惚れ召さるか」
「ホ、ホ、ホ。まあ船ばし様が……」
「笑い事でない、真面目に女子の胸をたたいてみるのじゃ。ウウムそうか、いや読めた、やはり太夫も町人がよいというか。――さらばわしの部屋へ来い、さあ太夫は紹由が貰うて行く」
吉野太夫の手を自分の胸に納めて、この古武者、抜からぬ顔して起ちかけた。
光広はおどろいて、手の杯をこぼしながら下へ置き、
「戯れもほどこそあれ」
と、紹由の手をぎ放して、吉野太夫を自分のそばへ抱え寄せた。
「なぜ、なぜ?」
紹由は、躍起となって、
「むりに連れて行くのではのうて、太夫が、来たそうな顔しているから連れて行くのじゃが。のう太夫」
間に挟まった吉野太夫は、ただ笑っているほかなかった。光広と紹由のふたりに左右の手を引っ張られて、
「まあ、なんとしようぞ」
と、困った顔をしていた。
ほん気な意地でも鞘当てでもないが、ほん気にも躍起にもなって困る者を困らせるのが遊びである。光広もなかなか肯かないし、紹由も決して退かない。そして吉野を両方の義理に挟んで、
「さあ太夫、どちらの座敷を勤めるか、この伊達引は、太夫の胸次第、太夫がなびきたい方へ靡くがよい」
と愈、彼女を困るような破目へ圧して、苛めにかかる。
「これはおもしろい」
と沢庵は、事の納まりをながめていた。いや眺めているばかりでなく、
「太夫、どっちへ随くのだ、どっちへ随くのだ」
と彼までが、側から気勢をケシかけて、この納まりを肴にして飲んでいた。
ただ温厚な近衛信尹だけが、さすがにお人柄を見せて、
「さてさて、意地の悪い客どもよな。それでは吉野もいずれへともいえまいが、そう無理をいわずに、皆が仲よく一座してはどうじゃの」
と、助け舟を出し、
「そういえば、あちらの座敷には、光悦がただ一人で置き放しになっているというではないか。誰ぞ、光悦をここへ呼んで参れ」
と、ほかの女たちへいって、この場合を紛らせてしまおうとした。
紹由は、吉野のそばへ坐り込んでしまったまま、
「いやいや、呼びに行くには及ばない。わしが唯今、吉野を連れてあちらへ行く」
手を振って止めると、
「なんのなんの」
と、光広もまた、吉野をかかえて離そうとしないのである。
「小癪な公達めが」
と紹由は開き直って、酔いに耀いている眼と杯を突きつけて、光広へいった。
「ではいずれが、花の吉野へわけいるか。この女の眼の前で、酒戦ないたそう」
「酒戦とな。ことも可笑し」
光広はべつの大きな杯を高坏へ乗せて、ふたりの間へ置き、
「実盛どの、白髪を染めてござったか」
「なんのさ、骨細な公卿どのを相手にするに。――いざまいろう。勝負勝負」
「なんでまいるか。ただ交飲むだけでは、興もない」
「睨めッこ」
「やくたいもない」
「では貝合せ」
「あれは、汚い爺を相手にする遊戯びではない」
「憎いことを。しからば、じゃんけん!」
「よろしかろう。さあ」
「沢庵坊、行司行司」
「心得た」
ふたりは真顔になって、拳を闘わせた。一勝一敗のつくたびに、どっちかが、杯をのみ乾し、その口惜しがりようを見て、みんなが笑い崩れるのだった。
吉野太夫はその間に、音もなく席を起って、松の位の裳を楚々と曳き、雪の廊下を奥ふかく姿を消してしまった。
これは相討ちとなるほかあるまい。どっちも酒にかけては一かどの巧者と強者、酒戦の勝負はいつ果つべしとも見えなかった。
吉野が去ると間もなく、
「わしも……」
急に思い立ったように、近衛信尹は館へ帰ってしまったし、行司の沢庵も眠くなったとみえ、無遠慮な欠伸を発してしまう。
それでもまだ二人は酒戦をやめない。勝手にやらせておいて沢庵も勝手に寝ころぶ。そして、近くにいた墨菊太夫の膝を見つけて、そこへ断りなしに頭をのせてしまう。
そのまま、うつらうつらしているのは快い気もちだったが、沢庵はふと、
(淋しがっているだろうな、早く帰ってやりたいが)
城太郎とお通のことを思い出していた。
その二人は、いま烏丸光広の館に世話されているのだった。伊勢の荒木田神主から届け物を頼まれて来て、城太郎の方は年暮から――お通はつい先頃から。
その先頃といえば。
いつぞや清水観音の音羽谷で、お通がお杉婆のために追われた晩――不意に沢庵があの場へお通を捜しに行ったというのにも、前からあんな不安を予知して、彼をそこに赴かせた理由のあったことなのである。
沢庵と烏丸光広とは、もう随分久しい交友であった。和歌に、禅に、酒に、悩みに、いわゆる道友の一人だった。
するとその友からこの間うち、
(どうだ、正月じゃないか、なにを好んで田舎の寺になどくすぶっていられるか。灘の銘酒、京の女、加茂の川千禽、都は恋しくないか。眠たいなら田舎で禅をなされ、生きた禅をなさるなら人中でなされ。その都を恋しく思ったら出て来られてはいかが)
と、そんな消息が来たので、沢庵はこの春上洛って来たのだった。
偶然、そこで彼は、城太郎少年を見かけた。館の内で毎日飽かずによく遊んでいる。光広に聴いてみると、しかじかという理。そこで城太郎を呼びよせ、詳しく聞いてみると、お通だけは元日の朝からお杉婆と共に婆の家へ行って、それきり便りもないし帰って来ないという事情がわかった。
(それは、とんでもないことだ)
沢庵はおどろいて、その日のうちに、お杉婆の宿を捜しに出かけ、三年坂の旅籠をやっと突きとめたのがもう夜のことで――それからいよいよ不安を感じ、旅籠の者に提燈を持たせて、清水堂へ捜しに出かけた理である。
あの晩、沢庵はお通を無事に連れて、烏丸の家へもどって来たが、お杉のために極度な恐怖を経験させられたお通は、翌日から熱を病んで、今もって枕が上がらない。城太郎少年は枕元につき限りで、彼女の頭を水手拭で冷やしたり薬の番をしたりして、いじらしい程、看護に努めている――
「ふたりが、待っているだろうな」
だから沢庵は、なるべく早く帰ってやりたいと思っていたが、連れの光広は、帰るどころか、遊びはこれからだというように冴えている。
しかしさすがに、拳や酒戦も、やがて飽いて、勝負なしに今度は飲み始めたと思うと、膝つき合せて、なにか議論だった。
武家政治がどうとか、公卿の存在価値とか、町人と海外発展とか、問題は大きいらしい。
女の膝から、床ばしらへ移転して沢庵は眼をつぶって聞いている。眠っているのかと思うと、時々、ふたりの議論の端を耳にしてにやりと笑う。
そのうちに光広が、
「やっ、近衛どのは、いつの間に帰ってしもうたのか」
と、不平に醒め、紹由もまた、興ざめたように顔を革めて、
「それよりも、吉野がおらぬ」
と、いい出した。
「怪しからぬこと」
光広は、隅の方で居眠っていた禿のりん弥へ、
「吉野を呼んで来やい」
と、いいつけた。
りん弥は、眠たげな眼をまろくして、廊下を立って行った。そしてさっき光悦や紹由の通った座敷を何気なく覗くと、そこにたった一人、いつの間に戻って来たのか、武蔵が白い灯と顔を並べて、寂然と坐っていた。
「あれ、いつの間に。……ちっとも知らなかった、お帰りなさいませ」
りん弥の声に、武蔵が、
「今戻って来ました」
「さっきの裏口から?」
「うむ」
「どこへ行って来たんですか」
「廓外まで」
「いい人と、約束があったんでしょう、太夫様へいいつけて上げよう――」
ませた言葉に、武蔵は思わず笑って、
「皆様のすがたが見えぬが、皆様はどうなされたか」
「あちらで、かんがん様やお坊様と一緒になって、遊んでいらっしゃいます」
「光悦どのは」
「知りません」
「お帰りだろうか。光悦どのが帰られたら、拙者も帰りたいと思うが」
「いけません。ここへ来たら太夫様のおゆるしのないうちは帰られないんですよ。黙って帰ると、あなたも笑われますし、私も後で叱られます」
禿の冗談さえ、武蔵は、真顔になって聞いていた。そういうものかと信じているのである。
「ですから黙って帰っては嫌ですよ。私が来るまで、ここに待っていらっしゃい」
りん弥が出てゆくと、しばらく経って、そのりん弥から聞いたのであろう、沢庵がはいって来て、
「武蔵、どうした」
と、肩をたたいた。
「あっ?」
これはあっと驚くほどな出来事に違いない。さっきりん弥が、お坊様が来ているとはいったが、まさか沢庵であろうとは武蔵も思っていなかったのである。
「――しばらくでした」
座を辷って、武蔵が、両手をつかえると、沢庵はその手を握って、
「ここは遊びの里だ、あいさつはざっとにしよう。……光悦どのも共に来ているという話だが、光悦どのは見えないじゃないか」
「どこへ参られたやら?」
「捜して、一緒になろう。おぬしにはいろいろ話したいこともあるが、それは後にして」
いいながら、ふと沢庵が隣の襖を開けると、そこの炬燵布団へ小屏風を囲い、雪の夜を心ゆくまで暖まりながら寝ている人がある。それが光悦だった。
あまり心地よげに寝ているので、揺り起すのも心なく思われたが、そっと顔を覗いているまに、光悦は自身から眼をさまし、沢庵と武蔵の顔を見くらべて、おや? と不審るような様子だった。
理を聞くと光悦も、
「あなたと、光広卿だけのお席なら、あちらへお邪魔してもよい」
と、打揃って、光広の席へもどって来た。
しかしもう光広も紹由も、遊びの興は尽きた態で、そろそろ歓楽の後の白けた寂しさが、誰の面にもただよいかけている。
酒もそうなるとほろ苦いし、唇だけがやたらに乾き、水を飲めば家が思い出されて来る。殊に、あれなり吉野太夫が姿を見せないのが、なんとしてももの足らない。
「戻ろうではないか」
「帰りましょう」
一人がいう時は、誰の気もちもそこに一致していた。なんの未練もないというよりは、これ以上、折角のよい気持が醒めるのを惧れるように、皆すぐ立った。
――すると。
禿のりん弥を先に立たせ、後から吉野太夫付きの引船(しんぞの称)二人、小走りに来て、一同の前に手をつかえ、
「お待たせいたしました。太夫様からのお言伝てには、ようよう、お支度ができました程に、皆様をお通しせよとのおことばにござりまする。お帰りもさることながら、雪の夜は更けても明るうございますし、このお寒さ、せめてお駕籠のうちも暖かにお戻り遊ばすよう、どうぞ、も少しの間、こちらでお飲しくださいませ」
と、思いがけない迎えである。
「はてな?」
――お待たせいたしましたとは何のことか、光広も紹由も、いっこう解せない顔つきで眼を見合わせた。
いちど興醒めた心は呼び戻しようもない気がする、それが遊びの世界であるがゆえに、よけいに気持の妥協がつかないのである。
(どうしたものか?)
迷っているらしい一同の顔いろを見ると、二人の引船はまた口をそろえていった。
「太夫様が仰っしゃるには、先刻からお席を外し、定めし情ない女子と皆様がお思いに違いない。けれどあのような困ったことはない。かんがん様の御意に任せれば、船ばし様のお心に反くし、船ばし様の仰せに従えば、かんがん様に済まないことになるし……。それゆえ黙ってお席を抜けて来たが、実は、おふた方ともにお顔の立つよう、こよいは改めて、吉野様が皆様をお客として迎え、自分のお部屋へお招きしたいという心組み。……どうぞそのお気持を酌んで上げて、もうしばらくお帰りをおのばし下さいませ」
こう聞いてみると、無碍に断って帰るのも、なんだか狭量に思われるだろうし、吉野が主人となって、自分たちを招くという心意気にも、べつな感興が唆られないこともない。
「参ってみようか」
「せっかく、太夫がそういうものを」
そこで、禿や引船に案内されて従いてゆくと、庭先へ鄙びた藁草履を五名分そろえる。やわらかな春の雪はその人々の藁草履で痕も残さず踏まれてゆく。
武蔵を除く以外の者は、すぐその趣向に、
(ははあ、招きは茶だな)
と、想像していた。
吉野が茶の道に嗜みのふかいことは今さらのことではない。また、こういう後で一わんの薄茶も悪くないなどと思いながら行くと、やがて茶室の側も素通りして、どうやら裏庭のずっと奥の風情もない畑地まで来てしまった。
やや不安になって、
「これこれ、いったい麿たちをどこへ連れてゆくのじゃ。ここは桑畑ではないか」
光広が咎めた。
すると引船は、
「ホホホ、桑畑ではございませぬ。春の末には、毎年ここで皆様が床几でお遊びになる牡丹畑でございまする」
しかし、光広の不興げな顔は、寒さと併せて、いとど苦々しく、
「桑畑であろうと、牡丹畑であろうと、こう雪が降り積って、蕭条ととした有様では同じことじゃ。吉野は麿たちに風邪を引かせる趣向か」
「おそれ入りました。その吉野様は先程から、そこでお待ちうけでございます。どうぞ、あれまでお徒歩いを」
見れば畑の隅に一軒の茅葺屋根が見える。この六条の里がまだ開けないうちからあったような純然たる百姓家だった。もちろん、後ろは冬木立に囲まれていて、扇屋の人工的な庭とは絶縁されているが、扇屋の地内であることは間違いない。
「さあ、こちらへ」
引船は、煤で黒くなっているそこの土間へはいって、一同を導き入れ、
「お越しでござりまする」
と奥へ告げる。
「ようこそ。――さあ、ご遠慮のう」
吉野の声が、障子の内で聞え、その障子に炉の火が赤々と映っていた。
「まるで都を遠く離れてでも来たような……」
と、人々は、土間先の壁にかけてある蓑笠など見まわしつつ、そも吉野太夫が、どんな亭主ぶりで款待すことやらと、順に部屋へはいって行った。
浅黄無地の着物に、黒じゅすの帯をしめ、髪もつつましやかな女房髷に結い直し、薄化粧して、吉野は客を迎え入れた。
「ほう、これは」
「また、艶やかな」
と、一同は彼女のすがたを見ていった。
金屏銀燭のまえに、桃山刺繍のうちかけを着、玉虫色のくちびるを嫣然と誇示している時の吉野太夫よりも、この煤んだ百姓家の壁と炉のそばで、あっさりと浅黄木綿を着ている彼女のほうが、百倍も美しく見えたのであった。
「ウウム、これはまた、がらりと、気が変ってよい」
あまり物を賞めない紹由も、ちょっと毒舌を封じられた態である。敷物もわざと用いず、吉野はただ田舎炉のそばへ一同を招じて、
「ごらんの通りな山家のこと、何もおかまいはできませぬが、雪の夜の馳走には、賤の夫から富者貴顕にいたるまで、火に勝る馳走はないかとぞんじまして、このように、焚火の支度だけは沢山にしておきました。夜もすがら語り明そうとも、薪だけは、鉢の木を燻べずとも、尽きる気づかいはございませぬゆえ、お心やすくおあたり下さいまし」
と、いう。
なるほど――
寒い所を歩かせて来てここで榾火にあたらせる。馳走というのはそういう趣向であったのかと光悦もうなずき、紹由や光広や沢庵も膝をくつろぎ、めいめいが炉の榾火に手をかざしていると、
「さ、そちらのお方も」
と、吉野が少し席を頒けて、うしろにいる武蔵を眼で招いた。
四角な炉を、六人して囲むので、自然緩やかではあり得ない。
武蔵はさっきから、ひどく律義に畏まっていた。日本の民衆の中では今、大閤秀吉や大御所の名に次いで、初代吉野の嬌名は鳴りひびいていた。出雲の阿国よりも、高級な女性として敬愛を持っていたし、大坂城の淀君よりも、才色があって親しみもあるという点で、ずっと有名だった。
だから彼女に接する者は、買う客のほうが「買手ども」と呼ばれ、才色を売る彼女のほうは「太夫様」と称されていた。風呂に入るにも七人の侍女に湯を汲ませ、爪を切るにも二人の引船を侍らせているという生活などもかねがね聞いていたことである。――けれど、そういう有名な女性を相手にして遊んでいる光悦や紹由や光広などの、ここにいる買手どもは、いったいなにがこれで面白いのだろうか? ――武蔵には、いくら眺めていても、まるで分らなかった。
しかしその、面白そうでもない遊びのうちにも、客の作法とか、女性の礼儀とか、双方の心意気とかいうようなものは、厳然とあるらしいので、まるで不勝手な武蔵は、いきおい固くなっているほかなく、殊に、脂粉の世界には初めて足を踏み入れたことでもあり、吉野の明眸にちらと射られても顔が熱くなって、胸の鼓動も怪しげに鳴るのだった。
「なぜ、あなただけ、そうご遠慮なさるのですか。ここへお出でなされませ」
吉野に幾度もいわれて、
「は。……では」
恟々と、武蔵は彼女のそばへ座を占め、一同に倣って、ぎごちなく両手を炉へかざした。
彼が自分のそばへ坐る機に、吉野は彼の袂の端をちらりと見ていたが、やがて人々が話に興じて紛れ出したところを見はからい、そっと懐紙を持って、武蔵の袂の端をそれで絞るように拭いていた。
「あ、恐れ入ります」
武蔵が澄ましていれば誰も気づかなかったのに、彼が、自分の袂をのぞいて、こう礼をいったので、皆の眼が、ふと吉野の手へ移った。
彼女の手に畳まれた懐紙には、べっとりと、赤いものが拭きとられていた。
光広は、眼をそばだてて、
「ヤ! 血ではないか」
と、口走った。
吉野はほほ笑んで、
「いいえ、緋牡丹の一片でございましょう」
と、澄ましていた。
めいめいが、一つずつ杯を持って、好む程度に、それを愛し合っていた。炉に燃える榾火は、炉をかこんでいる六名の面へ、やわらかな明滅となって揺らぎ、戸外の雪をしのびながら、その焔を見つめ合って、みな、黙思に耽っているのであった。
「…………」
榾の火が乏しくなると、吉野は傍らの炭籠のような物の中から、一尺ほどに揃えて切ってある細い薪を取って焚べ足した。
――ふと、そのうちに人々は、彼女の焚べている細い枯木が、ただの松薪や雑木のようでなく、まことによく燃える木であることに気づいた。いや、燃えのよいばかりでなく、その焔の色が、実に美しいのに見惚れてしまった。
(おや、この薪は)
と、誰かが注意はしていたが、誰もが皆黙っているのは、その焔の麗しさに恍惚と心を奪われていたからであろう。
わずか四、五本の細い薪で、部屋中は白昼色になっていた。
その薪から立つやわらかな焔は、ちょうど白牡丹の風に吹かれているようで、時折、紫金色の光と鮮紅な炎とが入り交じって、めらめらと燃え狂うのであった。
「太夫」
ついに、一人が口を開いて、
「そなたが焚べておるその薪のう――それはいったい何の木じゃ、ただの榾とも思えぬが? ……」
光広が、こう訊ね出した時は、その光広も他の人々も、なにやら薫わしいものが、この温かい部屋いっぱいに立籠めているのを感じ出していたのである。それもたしかに、この木の燃える匂いらしかった。
「牡丹の樹でございます」
と、吉野はいった。
「え、牡丹? ……」
これは誰しも意外らしかった。牡丹といえば草花のように思っているので、こんな薪になるほどな樹があろうかと疑えて来るのだった。吉野は、焚べかけたひと枝を、光広の手にわたして、
「ご覧じませ」
と、いう。
光広は、それを紹由や光悦の眼にも示して、
「なるほど、これは牡丹の枝だ。……道理で……」
と、呻いた。
そこで吉野が説明していうには、この扇屋の囲いの中にある牡丹畑は、扇屋の建つよりもずっと以前からあるもので、百年以上も経った牡丹の古株がたくさんある。その古株から新しい花を咲かせるには、毎年、冬にかかるころ、虫の蝕いた古株を截って、新芽の育つように剪定してやる。――薪はその時に出来るのであるが、もちろん、雑木のように沢山は出来ない。
これを短く切って炉に焚べてみると、炎は[#「みると、炎は」は底本では「みると、、炎は」]やわらかいし眼には美しいし、また、瞼にしみる煙もなく、薫々とよい香りさえする。さすがに花の王者といわれるだけあって、枯れ木となって薪にされても、ただの雑木とは、この通り違うところを見ると、質の真価というものは、植物でも人間でも争えないもので、生きている間の花は咲かせても、死してから後まで、この牡丹の薪ぐらいな真価を持っている人間がどれほどありましょうか? ――
と、吉野は話し終って、
「そういう私なども、生きている間はおろか、ほんの、若いうちだけ見られて枯れて、後は香もない白骨になる花ですけれど……」
と、淋しげに微笑んだ。
牡丹の火は、白々と燃えさかり、炉辺の人々は、更ける夜を、つい忘れていた。
「なにもありませぬが、ここに灘の銘酒と、牡丹の薪だけは、夜が尽きても尽きないほどございますから」
という吉野のもてなしぶりに、人々はすっかり満足して、
「なにもないどころか、これは王者の奢りにも勝る」
と、どんな贅沢事にも飽いている灰屋紹由すらが、神妙に感嘆してしまう。
「その代りに、なんぞ、後の思い出となるように、これへ一筆ずつ、お残し下さいませ」
と吉野が、硯を寄せて、墨をおろしている間に、禿は次の部屋へ毛氈をのべ、そこへ唐紙を展げて行った。
「沢庵坊、太夫がせっかくの求めじゃ。なんぞ書いてつかわされい」
光広が、吉野に代って促すと沢庵はうなずきながら、
「まず、光悦どのから」
といった。
光悦は、黙って、紙の前へ膝をすすめ、牡丹の花を一輪描いた。
沢庵はその上に、
色香なき身をば
なにかは惜ままし
をしむ花さへ
ちりてゆくよに
彼が歌を書いたので、光広はわざと詩を書いた。その詩は、なにかは惜ままし
をしむ花さへ
ちりてゆくよに
忙裏 山我ヲ看ル
閑中 我山ヲ看ル
相看レド相似ルニアラズ
忙ハ総テ閑ニ及バズ
という戴文公の詩であった。閑中 我山ヲ看ル
相看レド相似ルニアラズ
忙ハ総テ閑ニ及バズ
吉野もすすめられて、沢庵の歌のすこし下へ、
咲きつつも
何やら花のさびしきは
散りなん後を
おもふ心か
と、素直に書いて筆を擱いた。何やら花のさびしきは
散りなん後を
おもふ心か
紹由と武蔵とは、黙って見ていただけである。悪強いして無理に筆を持たせる者などがいなかったのは、武蔵にとっては幸いであった。
そのうちに紹由は、次の間の床わきに、一面の琵琶が立てかけてあるのを見つけ、吉野に琵琶を所望した。彼女の弾じる一曲を聞いて、それを機に、今夜の散会としようではないかと提議する。
人々が、
「それこそ、是非に」
と求めると、吉野は悪びれぬ態で、すぐ琵琶を抱えた。それが、芸のあるを誇るという風でもないし、また芸がありながらひどく謙譲ぶるといったような嫌味でもなかった。いかにも素直なのである。
炉を離れて、次の間の仄暗い畳の中ほどに、彼女は、琵琶を抱いて坐った。炉辺の人々は、心をすまして、彼女の弾く平家の一節に、沈黙していた。
炉の炎が衰えて、暗くなりかけても、炉へ薪をくべ足すことを誰も皆忘れて聞き恍れていた。四絃のこまやかな音階が突として、急調になり破調に変ってくるかと思うと、消えかけていた炉の火もにわかに焔を上げて、人々の心を遠くから近くへ呼びもどした。
曲が終ると、吉野は、
「ふつつかな技を」
と、微笑しながら、琵琶を置いて、元の席へもどって来た。
それを機に、みんな炉を立って、帰りかけた。武蔵はもちろん、空虚から救われたように、ほっとした顔つきで、誰よりも先に、土間へ降りていた。
吉野は、彼を除いた以外の客へは皆、いちいち帰りの挨拶を交わしたが、武蔵にだけは、なにもいわなかった。
そして、他の人々に従いて、武蔵も一緒にそこから戻ろうとすると、吉野は、彼の袂をそっととらえて、
「武蔵さま、貴方は、ここへお泊りなさいませ。なんとのう、今夜はお帰し申しとうございませぬ」
とささやいた。
武蔵は、処女のように、顔を赤らめた。聞えない振りを装っても、どぎまぎして、答えに困っている様子が、側の人達の眼にも見えた。
「……ね、よろしいのでございましょう。このお方を、お泊め申しても」
吉野は、紹由へ向って、今度はそう訊いた。紹由は、
「よいともよいとも。たんと、可愛がってやって下され。わしらが、無下に連れ戻る筋合いはない。のう光悦どの」
武蔵はあわてて、吉野の手を振り払い、
「いや、私も、帰ります。光悦どのとご一緒に」
戸の外へ、無理に出ようとすると、どういう考えか、光悦までが、
「武蔵どの、まあそう仰っしゃらずに、今夜はここへお泊まりになって、明日、よい機にお引揚げになってはいかがですか。――太夫もせっかく、ああいって、心配しているのですから」
と一緒になって、彼一人を、ここへ残して行こうとするのである。
遊びの世界にも、女性というものにも、まったく初心な未経験者を一人ぼっち残して置いて、後で笑いの種にしようという、この大人達の計画的な悪洒落ではないかと、武蔵は邪推してみたが、吉野や光悦の真面目な顔を見ると、決して、そんな戯れごととも思えない。
もっとも、吉野と光悦以外の人達は、武蔵が困っている態を興がって、
「日本随一の果報者よ」
とか、
「わしが身代りになってもよいが――」
などと揶揄ったりしていたが、やがて、その人々の戯れ口も、裏垣根の門から駈け込んで来た一人の男のことばに、冗談口を塞がれて、
(さては)
と、今さらのように気づいたことであった。
ここへ駈けて来た男は、吉野のいいつけを受けて、遊廓の外へ、様子を探りに行って来た扇屋の雇人であった。いつの間に、吉野がそんな周到な気くばりを働かせていたのかと人々は驚いていたが、光悦だけは、昼間から武蔵と行動を共にしていたし、また、吉野がさっき炉の側で、武蔵の袂についていた血しおをそっと拭き除ってやっていた時に、すべてを、察知していたらしかった。
「ほかのお方はともかく、武蔵様だけは、迂かつに遊廓の外へ出られませぬぞ」
と、探って来たその男は、息を弾ませて、吉野太夫へも、他の人々へも、目撃して来た事実を、多少誇張しているのではないかと思われるくらいな口吻で告げるのであった。
「――もうこの遊廓の門は、一方口しか開いておりません。その総門を挟んで、編笠茶屋の辺にもあれから柳並木の物蔭にも、すごい身仕度をしたお武家たちが、眼を光らせ、あっちこっちに五人、十人ぐらいずつ、黒々とかたまって立っています。……それがみんな四条の吉岡道場の門人だといって、あの近所の酒屋でも商人家でも、今になにが起るのかと、戸をおろして顫えているんで。……いや、もう大変なことですよ、なんでも遊廓から馬場の方にかけて、百名ぐらいは来ているだろうといううわさですぜ」
そう報告する男が、がちがちと奥歯を顫わせていうことであるから、話し半分として聞いても、事態の容易でないことは争えなかった。
「ご苦労だった。もうよいからお休み」
その男を退けると、吉野はまた武蔵へいった。
「今のようなことを聞けば、あなたはよけいに、卑怯者といわれたくないと思い、死んでも帰ると仰っしゃるかも知れませんが、そんな逸り気はやめて下さいませ。こん夜卑怯者といわれてもあした卑怯者でなければよいではございませんか。まして今夜はお遊びに来たはずでございましょう。遊ぶ時は遊び限るのがむしろ男の余裕というものではございますまいか。――相手方はあなたの帰るのを待ちうけて、闇討ちにしようとしているので、それを避けたからといって、なんの名折れでもありませぬ。そこへ進んで打つかってゆくのは、かえって、思慮のない者といわれるばかりか、この遊廓でも迷惑をしますし、ご一緒に出れば、お連れの方々にも、巻きぞえを受けて、どんなお怪我のない限りもございませぬ。そこをお考え遊ばして、こん夜は、この吉野に、あなたのお体を預けてくださいませ。……吉野がきっとお預かりいたしましたほどに、皆様には途中お気をつけて、お引揚げ下さいますように」
もうこの世界でも起きている青楼はないらしい。ばったりと絃歌の音もやんでしまった。丑満の告げはさっき鳴ったように思う。一同が引揚げてからでもやや一刻余りは経つ……
そのまま、夜明けを待つつもりなのか、武蔵は、ぽつねんと、土間の上がり框に腰をかけていた。
――ただ一人、擒人にでもなっているようにである。
吉野は、客がいた時も、去ってしまった今も、同じように同じ位置に坐って、炉へ、牡丹の木を焚べていた。
「そこでは、お寒うございましょうに。炉へお寄りなされませ」
この言葉は、彼女の口から幾度も繰返されていわれたが、武蔵はその都度、
「お関いなく、先へお寝み下さい。夜が明け次第に、拙者は自由に帰りますから」
と、固辞するばかりで、吉野の顔をよく見ないのである。
二人きりになると、吉野もまたなんとなく羞恥み勝ちになって、口も重くなった。異性を異性と感じるようでは傾城の勤めは出来まいが――などという考えは、安女郎の世界だけを知って、松の位の太夫というものの育ちも躾も知らない低い買手どもの常識である。
とはいえ、朝に夕べに、異性を見ている吉野と、武蔵とでは、比較にならないほどな相違はある。実際の年齢からいっても、吉野のほうが、武蔵より一つか二つ上かも知れないが、情痴の見聞や、それを感じたり弁えたりしていることでは、当然、彼女のほうが遥かに年上の姉といえる。――しかし、そうした彼女にしても、たった二人きりな深夜の相手が、自分の顔を見るのも眩そうに、動悸を抑えて、じっとそこに固くなっていると、自分もともに処女心に返って、相手の者と同じような初心な動悸を覚えるのだった。
事情を知らない引船と禿は、さっきここを出て行く前に、次の部屋へ、大名の姫君でも臥せるような豪奢な夜の具を敷いて行った。繻子枕に下がっている金の鈴が、ほの暗い閨の気配のうちに光っていた。――それもまた、ふたりの寛ぎをかえって邪魔していた。
ときおり、屋根の雪や梢の雪が落ちて、どさっと、地響きが耳を驚かせた。塀の上から人間でも跳び降りたように、その音は大きく聞えるのであった。
「……?」
吉野は、そっと武蔵を見た。――武蔵の影はその度に、針鼠のように戦気で膨らむかと見えた。眸は鷹のように澄みきっている。神経は、髪の毛の先まで働いているのだ。何物にもあれ、そんな時、彼の体に触れるものはみな斬れてしまわずにはいないであろうと思われた。
「…………」
「…………」
吉野は、なにかしら、ぞっとして来た。夜明け近くの寒さは骨の髄まで沁みる。しかしそれとはちがう戦慄である。
そういう戦慄と、異性へ搏つ動悸と、ふたつの血の音が、沈黙の底を、こもごもに駆けていた。そのふたりの間に、牡丹の火はあくまで燃えつづけているのである。そして――彼女がその火の上にかけた釜の口から、やがて松風が沸りだすと、吉野の心は、いつもの落着きに返って、静かに、茶の点前にかかっていた。
「もう程なく夜も明けましょう……武蔵さま。いっぷくあがって、此方で、手なりとお焙りなされませ」
「ありがとう」
言葉だけで、ちょっと会釈したまま、武蔵は依然と、背を向けていた。
「……どうぞ」
と勧める方の吉野も、これ以上は、諄くも当るので、ついにはまた黙ってしまうほかはない。
せっかく、心をこめて立てた茶も、帛紗のうえで冷えてしまう。――吉野は、ふと、腹を立てたのか、それとも、よしなき田舎者に、無用のことをと考えたのか帛紗を引いて、茶碗の茶を、傍らの湯こぼしへ捨ててしまった。
――そしてじっと、愍れむような眼を武蔵へ向けた。相変らず武蔵の姿は、背中から見ても身体じゅうを鉄の鎧で固めているように、一分の隙も見えなかった。
「もし、武蔵さま」
「なんですか」
「あなたはそうやって、誰に備えているのですか」
「誰にではない、自身の油断を誡めている」
「敵には」
「元よりのこと」
「それでは、もしここへ、吉岡様の門人衆が、大勢して、どっと襲せて来た時には、あなたは立ちどころに、斬られてしまうに違いない。わたくしにはそう思えてなりませぬ。なんというお気の毒なお方であろ」
「……?」
「武蔵さま。女のわたくしには、兵法などという道は分りませぬが、宵の頃から、あなたの所作や眼ざしを窺っていると、今にも斬られて死ぬ人のように見えてならないのです。いわば、あなたの面には死相が満ちているといってよいかも知れません。いったい、武者修行とか、兵法者とかいって世に立ってゆくお方が、大勢の刃を前に控えながら、そんなことでよいものでございましょうか。そんなことでも人に勝てるものでございまするか」
詰問るように、吉野が、こう畳みかけて、言葉のうえで彼を愍殺したばかりでなく、その小心さを蔑むように微笑んでいったので、
「なに」
武蔵は、土間から脚を上げて、彼女の坐っている炉前にぴたと坐り直した。
「吉野どの、この武蔵を未熟者だと笑うたな」
「お怒りなされましたか」
「いうた者が女だ。怒りもせぬが、拙者の所作が、今にも斬られる人間に見えてならぬとはどういう理か」
怒らぬといいながらも、武蔵の眼は、決して、生やさしい光ではなかった。こうして夜明けを待っていても、自分をつつむ吉岡門の呪咀や、策や刃ものを磨している気配は、全身に感じている武蔵であった。それは何も、吉野が探りにやって知らせてくれないでも、その前からあらかじめ彼自身は覚悟に持っていたことである。
蓮華王院の境内から、あのまま他へ姿をかくすことも考えないでもなかったが、それでは、連れの光悦へ非礼に当るし、また禿のりん弥へ、帰って来るといった言葉が嘘になる。同時に、吉岡方の仕返しを怖れて姿をかくしたと、沙汰されては心外とも考えたりして、再び扇屋へ戻って、なんのこともなかったように、あの人々と同席していたのだった。それは武蔵として、かなり苦痛な辛抱でもあったし、自分の余裕を示していたつもりであったのに、なんで吉野は、その間の自分の挙止をながめて、未熟だと笑うのか、死相が面に見えるような――と罵るのか。
傾城の戯れ口ならば咎めるまでもないが、なにか心得があっていうことならば、これも聞き捨てにならないことと彼は思う。たとえ今、この家を包む剣の林の中であっても、開き直って、その理を問い究めて見なければならないと、思わず真率な眼を輝かせて、武蔵は強く詰問ったのであった。
ただの眼ではない、そのまま刀の先へつけてもいい眼が、じいっと吉野の白い顔を正視して、彼女の答えを待っているのである。
「――戯れか!」
容易に開かない唇へ、武蔵がこう少し激しかかると吉野は、消していた笑靨をまたちらと見せ、
「なんの――」
嬌やかに、頭を振って、
「かりそめにも、兵法者の武蔵さまへ、今のような言葉、なんで戯れ言に申しましょうか」
「では、聴かせい。どうして拙者の身が、そなたの眼には、すぐ敵に斬られそうなと、そんな脆い未熟な体に見えるのか。――その理を」
「それほどお訊ねならば、申してみましょう。武蔵さま、あなたは先刻、吉野が皆様へのお慰みに弾いた琵琶の音を聴いておいで遊ばしましたか?」
「琵琶を。あれと拙者の身と、なんの関わりがある」
「お訊ねしたのが愚かでした。終始何ものかへ、張り緊めていたあなたのお耳には、あの一曲のうちに奏でられた複雑かな音の種々も、恐らくお聴き分けはなかったかも知れませぬ」
「いや、聴いていた。それほど、うつつにはおらぬ」
「では、あの――大絃、中絃、清絃、遊絃のわずか四つしかない絃から、どうしてあのように強い調子や、緩やかな調子や、種々な音色が、自由自在に鳴り出るのでしょうか。そこまでお聴き分けなさいましたか」
「要らぬことであろう。拙者はただ、そなたの語る平曲の熊野を聴いていただけのこと、それ以上なにを聴こう」
「仰せの通りです。それでよいのでございますが、わたくしは今ここで琵琶を一箇の人間として喩えてみたいのでございます。――で、ざっとお考えなされても、わずか四つの絃と板の胴とから、あのように数多い音が鳴り出るというのは、不思議なことでございませぬか。その千変万化の音階を、譜の名で申し上げるよりも、あなたもご存じでございましょう、白楽天の『琵琶行』という詩のうちに、琵琶の音いろがよく形容されてありました。――それは」
吉野は、細い眉をちょっとひそめながら、詩を歌う節でもなく、そうかといって、ただの言葉でもない低声で、
大絃は々 急雨の如く
小絃は切々 私語の如し
々切々 錯雑に弾ずれば
大珠小珠 玉盤に落つ
間関たる鶯語 花底に滑か
幽咽 泉流 水 灘を下る
水泉冷渋 絃凝絶し
凝絶して通ぜず 声暫し歇む
別に幽愁 暗恨の生ずる有
此時声なきは 声あるに勝る
銀乍ち破れて 水漿迸り
鉄騎突出して 刀槍鳴る
曲終つて撥ををさめ 心に当てて画す
四絃一声 裂帛のごとし
「――このように一面の琵琶が複雑な音を生みまする。わたくしは禿の頃から、琵琶の体が、不思議で不思議でなりませんでした。そしてついには、自分で琵琶を壊し、また自分で琵琶を作ってみたりするうちに、おろかなわたくしにも、とうとう琵琶の体の裡にある琵琶の心を見つけました」小絃は切々 私語の如し
々切々 錯雑に弾ずれば
大珠小珠 玉盤に落つ
間関たる鶯語 花底に滑か
幽咽 泉流 水 灘を下る
水泉冷渋 絃凝絶し
凝絶して通ぜず 声暫し歇む
別に幽愁 暗恨の生ずる有
此時声なきは 声あるに勝る
銀乍ち破れて 水漿迸り
鉄騎突出して 刀槍鳴る
曲終つて撥ををさめ 心に当てて画す
四絃一声 裂帛のごとし
そこで言葉を切ると、吉野はそっと立って、さっき弾いた琵琶をかかえて来て再びそこへ坐った。海老尾を軽く持って、武蔵と自分の間に、それを立てて眺めやりながら、
「ふしぎな音色も、この板の体を割って、琵琶の心を覗いてみるとなんのふしぎでもないことがわかりまする。それをあなたへお目にかけましょう」
薙刀の折れでもあるような細い鉈が、彼女の嫋やかな手に振上げられた。あっと、武蔵が息を嚥む間に、はやその鉈の刃は、琵琶の角へ深く入っていた。袈裟板のあたりから桑胴の下まで、丁々と、三打ち四打ち、血の出るような刃音だった。武蔵は自分の骨へ鉈を加えられたような痛みを覚えた。
しかし、吉野は惜し気もなく、見る間に琵琶の体を縦に裂いてしまっていた。
「ご覧じませ」
吉野は、鉈をうしろへかくすと、もうさり気ない微笑みを泛べて武蔵へいった。
生々しい木肌を剥出して、裂かれた琵琶の胴は胴の中の構造を、明らさまに燈の下に晒している。
「……?」
武蔵は、それと吉野の面とを見較べて、この女性のどこに、今のような烈しい気性があるのかと疑った。武蔵の頭脳にはまだ今の鉈の音が消えさらないで、どこかが痛いように疼いているのに、吉野の頬は紅くもなっていなかった。
「この通り、琵琶の中は、空虚も同じでございましょうが。では、あの種々な音の変化はどこから起るのかと思いますと、この胴の中に架してある横木ひとつでございまする。この横木こそ、琵琶の体を持ち支えている骨であり、臓でもあり、心でもありまする。――なれど、この横木とても、ただ頑丈に真っ直に、胴を張り緊めているだけでは、なんの曲もございませぬ。その変化を生むために横木には、このようにわざと抑揚の波を削りつけてあるのでございまする。――ところが、それでもまだ真の音色というものは出てまいりません。真の音色はどこからといえば――この横木の両端の力を、程よく削ぎ取ってある弛みから生れてくるのでございまする。――わたくしが、粗末ながらこの一面の琵琶を砕いて、あなたに分っていただきたいと思う点は――つまりわたくし達人間の生きてゆく心構えも、この琵琶と似たものではなかろうかと思うことでござりまする」
「…………」
武蔵の眸は、琵琶の胴からうごかなかった。
「それくらいなこと誰でも分りきっていることのようで、実はなかなか琵琶の横木ほども、お肚に据えていられないのが人間でございますまいか。――四絃に一撥打てば、刀槍も鳴り、雲も裂けるような、あの強い調子を生む胴の裡には、こうした横木の弛みと緊まりとが、程よく加減されてあるのを見て、わたくしは或る時、これを人の日常として、沁々、思い当ったことがあったのでございまする。……そのことを、ふと、今宵のあなたの身の上に寄せて考え合わせてみると……ああ、これは危ういお人、張り緊まっているだけで、弛みといっては、微塵もない。……もしこういう琵琶があったとして、それへ撥を当てるとしたら、音の自由とか変化はもとよりなく、無理に弾けば、きっと絃は断れ、胴は裂けてしまうであろうに……、こうわたくしは、失礼ながらあなたのご様子を見て、密にお案じ申していたわけなのでござりまする。決して、ただ悪しざまに申したり、戯れ口を弄んだ次第ではありませぬ。どうぞ、烏滸がましい女の取越し苦労と、お聞き流し下さいませ」
――鶏の声が遠くでしていた。
戸の隙まから、雪のために強い朝の陽がもう射していたのである。
白い木屑と断れた四絃の残骸を見つめたまま、武蔵は、鶏の声も耳に覚えなかった。戸の隙まから陽の光がさしていたのにも気づかなかった。
「……お。いつの間にか」
吉野は、夜明けを惜しむように炉の火へ焚木を足そうとしたが、牡丹の木はもうなかった。
戸を開ける物音や、小禽のさえずりや、朝の気配が遠い世間のようにきこえる。
けれど吉野は、いつまでも、ここの雨戸を開けようとはしない。牡丹の木はなくなっても、彼女の血はまだ温かだった。
禿や引船も、彼女が呼ばないうちは、ここの戸を無断で開けて入ってくるはずもなかった。
あわただしく解け去った春の雪であった。おとといの降りはもう痕かたもない。急につよく感じられる陽に、今日は綿の物は肌から皆捨ててしまいたくなった。温い風に騎って、春はいっさんに駈けつけて来たかのように、すべての植物の芽を鮮らかに膨らませていた。
「たのもう。物もうす」
背まで泥濘の刎ねを上げている若い旅の禅坊主だった。
烏丸家の玄関に立ち、さっきから、大声でこう申し入れていたが、出て来る者がないので、雑掌部屋の外へ廻り、そこの窓から背伸びして覗いていると、
「なんだい? お坊さん」
後ろからいう少年があった。
禅坊主は振向いたが、
(お前こそ何者だ?)
と問いたげな眼をして、その奇態な風態の子供を見まもった。
烏丸光広卿の館の中に、どうしてこんな童がいるのか、その不調和に眼をみはったのであろう。禅坊主は変な顔したまま、じろじろと城太郎の姿ばかり見ていて物をいわないのである。
相変らず長い木剣を腰に横たえ、なにを入れているのか、懐中を大きく膨らませて、その上を城太郎は手で抑えながら、
「お坊さん、お施米をもらうなら台所の方へ廻らなければだめだよ。裏門を知らないのかい」
と、いった。
「お施米。――そんな物をいただきに来たのじゃない」
若い禅坊主は、自分の胸にかけている文筥を眼で示し、
「わしは、泉州の南宗寺の者だが、このお館へ来ている宗彭沢庵どのへ、急な御書面をお届けするために出て来たのだ。おまえは、お台所へ出入りの小僧か」
「おいらか、ここに泊っている者だよ。沢庵様と同じお客様なんだ」
「ほうそうか、然らば沢庵どのへ告げてくれぬか。――お国元の但馬から寺中へ宛てて、なにか、火急なお手紙がまいりましたゆえ、南宗寺の者が持って伺いましたと」
「じゃあ待ッといで。今、沢庵さんを、呼んで来てやるから」
城太郎は玄関へ飛び上がった。汚い踵の痕が式台にべたべた残る。そこの衝立の脚に躓いた弾みに、彼が手で抑えていたふところの中から、小さい蜜柑が幾つも転がり出した。
あわてて、蜜柑を掻きあつめ、城太郎は往来を飛ぶように奥へ駈けて行った。ややしばらく経って彼はまたそこへ戻って来て、
「いないよ」
と、待っている南宗寺の使いへいった。
「いるかと思ったら、きょうは、朝から大徳寺へ行ったんだとさ」
「お帰りは分りませぬか」
「もう帰って来るだろ」
「では、待たせて置いてもらいます。どこかお邪魔にならないお部屋はありませんか」
「あるよ」
城太郎は外へ出て来た。この館のことならなんでも弁えているように、心得顔して先に歩き、
「お坊さん、この中で待っているといいよ。ここの中なら邪魔にならないから」
と、牛小屋へ案内した。
藁だの、牛車の輪だの、牛の糞だのが、いっぱいに散らかっている。南宗寺の使いは驚いた顔したが、城太郎はもう客を置いて彼方へ駈け出していた。
広い邸内を庭づたいに走り、「西の屋」の陽あたりのよい一間を覗いて、
「――お通さん、蜜柑買って来たよ」
と、さけんだ。
薬を服んでいるし、手当も十分なはずなのに、どうしたのか、こんどの熱症はさがらない。
従って、食慾がなかった。
自分の面へ手が触れるたびに、お通は、
(ああ、こんなに痩せて)
と、ふと驚く。
病気というような病気は自分でもないと信じているし、見舞ってくれた烏丸家の医師も、心配はないと保証していたが、どうしてこう痩せてしまうのかしら――そこについ神経質な悩みと熱症がからむ。しきりに、唇が乾くので、
(蜜柑が喰べたい)
と、ふと洩らしたところ、この数日来、なんにも喰べないでいる彼女の容態をひどく心配していた城太郎は、
(蜜柑――)
と、問い返すと、早速、それを取りに、先刻ここを出て行ったのであった。
台所の役人に聞いたところが、蜜柑などはお館にもないという。それから外へ出て、青物店だの食べ物屋を見て歩いたが、どこにも蜜柑はなかった。
京極の原に、市が立っていた。彼はそこへも行って、
(蜜柑はないか、蜜柑はないか)
と、捜し歩いたが、絹糸だの、木綿だの、油だの、毛皮だの、そんな店ばかり出ていて、蜜柑など一つだって見つからなかった。
城太郎は、どうかして、彼女の喰べたいという蜜柑を手に入れたいと思った。よその屋敷の塀の上にたまたま、その蜜柑があったと思って、盗んでもほしい気がして寄って見ると、それは橙であったり、喰べられない花梨の実であった。
京都の町を、半分も捜してあるいた。すると、あるお社の拝殿にその蜜柑が見つかった。芋だの人参だのといっしょに、三方に載って、神前に上がっていたのである。城太郎は蜜柑だけ懐中に詰めこんで逃げて来たのだった。うしろから神様が、
(泥棒、泥棒)
と追いかけて来るような気持がした。城太郎は、それが怖くなって、
(私は喰べませんから、罰をあてないでください)
と、烏丸家の門の中へ逃げ込むまで、胸の中で謝っていた。
けれど、お通には、そんなことは話せない。枕元へ坐って、懐中の蜜柑を出して一つずつならべて見せ、そのうちの一個を取ってさっそく、
「お通さん、うまそうだぜ、喰べてごらん」
皮を剥いて、彼女の手に持たせてやると、お通は、なにかつよい感情に衝かれたとみえ、顔を横にかくしたまま、蜜柑は喰べようともしないのであった。
「どうしたのさ」
城太郎は、その顔をのぞきこんだ。
厭うように、お通は、よけいに枕へ顔を埋めてしまい、
「……どうもしやしない。どうもしやしない」
といった。
城太郎は、舌打ちして、
「また、泣虫が始まったね。歓ぶかと思って蜜柑を買って来たら、泣いちまうんだもの――つまらねえなあ」
「ごめんよ。城太さん」
「喰べないの」
「……ええ後で」
「剥いたのだけ喰べてみなよ。ね……喰べてみれば、きっと、美味しいよ」
「美味しいでしょう、城太さんの気持だけでも。……だけど喰べ物を見ると、もう唇へ入れる気にならないんです。……勿体ないけれど」
「泣くからさ。なにがそんなに悲しいの」
「城太さんが、あんまり親切にしてくれるから、欣しくって」
「泣いちゃ厭だなあ、おいらも泣きたくなっちまわあ」
「もう泣かない……もう泣かない……かんにんしてね」
「じゃ、それ喰べてくれる。なにか喰べないと、死んじまうぜ」
「わたし、後でいただきます。城太さんお喰べ」
「おいらは、喰べない」
神さまの眼を恐れて、城太郎はそういいながら生唾をのんだ。
「いつも、城太さん、蜜柑は好きじゃないの?」
「好きだけれど」
「どうして、きょうは、喰べないの」
「どうしてでも」
「わたしが喰べないから?」
「え。……ああ」
「じゃあ、わたしも喰べるから……城太さんも、おあがり」
お通は、顔を仰向けに直して、細い指で、蜜柑のふくろの繊維を除っている。城太郎は、困った顔して、
「ほんとはね、お通さん、おいら、途中でもう、たくさん喰べて来たんだよ」
「……そう」
乾いている唇へ蜜柑の一ふさを含みながら、お通はうつつのようにいった。
「沢庵さんは?」
「きょうは、大徳寺へ行ったんだって」
「おととい、沢庵さんは、よその家で、武蔵様に会ったんですってね」
「アア。聞いた?」
「え。……その時、沢庵さんは、わたしがここにいることを、武蔵様へ話したかしら」
「話したろ、きっと」
「そのうちに、武蔵様をここへ呼んでやると、沢庵さんは、わたしにおっしゃったけれど、城太さんには、なんにもいっていなかった?」
「おいらには、なんにもそんなことはいわないよ」
「……忘れているのかしら」
「帰って来たら、そういってみようか」
「ええ」
と、彼女は初めて、ニコと、枕の上から笑みを向けて、
「……だけど、訊くならわたしがいないところでね」
「お通さんの前で訊いちゃいけないの」
「きまりが悪いから」
「そんなことないさ」
「でも、沢庵さんは、わたしの病気を、武蔵病だなんていうんだもの」
「アラ、いつの間にか、喰べちゃったぞ」
「なに、蜜柑」
「も一つ喰べない」
「もう、たくさん、美味しかったわ」
「きっと、これから、なんでも食べられるよ。こんな時に、武蔵様が来れば、きっと、すぐ起きられてしまえるんだがな」
「城太さんまで、そんなことをいって」
城太郎とこんな話をしているうちは、熱症も体の痛さも忘れている彼女であった。
そこへ、烏丸家の小侍が、
「城太どの、いますか」
と、縁の外からいう。
「はい、おります」
答えると、
「沢庵どのが、あちらでお呼びです。すぐおいでなさい」
と告げて去った。
「おや、沢庵さん、帰って来たのかしら」
「行ってごらんなさい」
「お通さん、さびしくない」
「いいえ」
「じゃあ、用がすんだら、すぐ来るからね」
枕元を、立ちかけると、
「城太さん……あのこと、忘れずに、訊いてね」
「あのことって?」
「もう忘れたの」
「あ、武蔵様が、いつここへ来るのかって、それを催促することだね」
お通の痩せている頬に、紅い血がかすかにさした。その顔を夜具の襟で半分かくしながら、
「いいこと、忘れてはだめですよ、きっとね、きっと訊いてね」
と、念を押した。
沢庵は光広の居間へ来て、光広と何か話している折だった。
そこの襖を開けて、
「沢庵さん、なにか用?」
城太郎が後ろに立つと、
「まあ、坐りなさい」
と沢庵がいい、光広は、城太郎の不作法を寛している眼元で、にやにや眺めていた。
側へ坐るとすぐ、城太郎は沢庵へ向っていった。
「あのね、沢庵さんとこへ、泉州の南宗寺から、沢庵さんみたいな坊さんが、急用の使いに来て待ってるよ。呼んで来てあげようか」
「いや、そのことなら、今聞いた」
「もう会ったの」
「ひどい小僧だと、あの使いがこぼしていたぞ」
「どうして」
「はるばる来た者を、牛小屋へ案内して、ここで待っておれといったまま、捨てておいたというじゃないか」
「でもあの人が、自分から、どこか邪魔にならないところへ置いてくれといったからさ」
光広は、膝を揺すって、
「ハハハハハ、牛小屋へ入れておいたのか、それは酷い」
と、笑った。
しかし、すぐ真顔に返って、
「では御坊には、泉州へ戻らずに、ここからすぐ但馬へ御発足あるか」
と、沢庵へ向って訊く。
沢庵はうなずいて、なにぶん、気がかりな書面の内容であるから、ぜひそうしたいと答え、支度といってもべつだんない身でもあるし、明日といわずに、今すぐお別れ申したいという。
ふたりの話の様子を、城太郎は不審って、
「沢庵さん、旅へ立つの」
「急に国元へ行かねばならぬことになってな」
「なんの用?」
「故郷にいる老母が寝ついて、今度はだいぶ重態いという気がかりな報らせだから」
「沢庵さんにも、おっ母さんがあったの」
「わしだって、木の股から生れた子ではないよ」
「今度はいつ帰って来るつもり」
「母の容子次第で」
「すると……困ったなあ……沢庵さんがいなくなっちゃうと」
と、城太郎はそこで、お通の気持を思い遣ったり、また彼女と、自分の行く先なども考え出して、心細くなったものか、
「じゃもう、沢庵さんとは会えなくなるの?」
「そんなことはない。またきっと会える。おまえ達二人のことは、お館へもようお頼みしてあるから、お通さんも、くよくよせずに、早く体を丈夫にするよう、おまえも勇気をつけてやってくれ。あの病人は薬よりも、心の力がほしいのだ」
「それが、おいらの力では駄目なんだよ。武蔵様が来てくれないと癒らないぜ」
「困った病人だのう。おまえも飛んでもない者と、この世の道連れになったものだ」
「おとといの晩、沢庵さんは、どこかで武蔵様に会ったんだろ」
「ウム……」
光広と顔を見あわせて、沢庵は苦笑をながした。どこでと、突っ込んで場所を訊かれては困りそうな顔つきであったが、城太郎の質問は、そういう枝葉には触れず、
「武蔵様は、いつここへ来るの。沢庵さんが、武蔵様をここへ呼んでやるといったもんだから、お通さんは、毎日、そればかり待ってるじゃないか。ねえ沢庵さん、おいらのお師匠さまは一体、今どこにいるのさ」
その住所さえ分れば、今すぐにでも、自分で迎えに行きたそうな城太郎の質問であった。
「ウム……あの武蔵のことか」
あいまいに、こういったが、沢庵もその武蔵とお通とを会わせてやろうという、親切を忘れてしまっているわけではさらさらない。今日もそれを心にかけて、大徳寺の帰り途に光悦の家へ立寄り、武蔵の在否を訊ねてみたところ、光悦が困った顔していうには、どういうものかおとといの晩以来武蔵はいまだに扇屋から戻って来ない。母の妙秀尼も案じるので早く帰してくれるように、今も吉野太夫へ手紙を遣わして、頼んでやったところです――という彼の話なのである。
「ホ。……では武蔵とやらいうあの夜の男は、あれきり吉野太夫の許から帰って来ぬのか」
光広は聞いて眼をみはった。
半ばは、意外なこととして、半ばは軽い嫉妬も手伝って、大仰にそういったのである。
沢庵は城太郎のてまえ、多くをいわなかったが、ただ、
「あれもやはり、平凡な、つまらん人間でしかないとみえる。とかく若いうち天才らしく見える者ほど、行く末当てにならないものだ」
「したが、吉野も変りものじゃなあ。――どこがようて、あんな穢い武骨者に」
「吉野にせよ、お通にせよ、女の気心のみは沢庵にも解しかねる。わしの眼からは皆ひとしい病人としか思えぬが、武蔵にもそろそろ人間の春が訪れて来たのでござろう……これからがほんとの修行、危ないのは剣よりは女子の手だが、他人の力でどうなるものではなし、抛っておくしかあるまいて」
独り言のように呟いてから、沢庵はふと旅の空へ心を急ぎ、光広へ向って、改めて別れを告げた上、なお当分の間ではあるが、病中のお通と、城太郎の身とをくれぐれも館に託して、それから間もなく烏丸家の門を飄然と出て行った。旅を朝立つものと決めているのは、普通の旅行者のことであって、沢庵には朝立ちも夕立ちもさしたる問題ではないらしい。今もすでに、陽脚は西にうすずいて、往来の人影にも、のろく通る牛車にも、虹いろの暮靄が映していた。
沢庵さん、沢庵さん、と頻りに後から呼びかけて追って来る者がある。――城太郎だなと沢庵は困ったような顔つきを振り向ける。城太郎は息をきって、彼の袂をとらえ、懸命に訴えた。
「後生だから沢庵さん、もいちど帰って、お通さんになんとかいっておくれよ。お通さんがまた泣き出しちまって、おいらには、どうしていいか分らないんだもの」
「おまえ、話したのか。――武蔵のことを」
「だって、訊くから」
「そしたら、お通さんが、泣きだしたというのか」
「ことによると、お通さんは、死んでしまうかも知れないぜ」
「どうして」
「死にたそうな顔しているもの。――こんなこといったよ。――もいちど会って死にたい、もいちど会ってから死にたいッて」
「じゃあ、死ぬ気づかいない。抛っとけ、抛っとけ」
「沢庵さん、吉野太夫って、どこにいる人」
「そんなこと訊いて、どうするつもりじゃ」
「お師匠さまは、そこにいるんじゃないか。さっき、お館さまと沢庵さんが、話していたろ」
「おまえは、そんなことまで、お通さんに喋ったのか」
「ああ」
「それではあの泣虫さんが、死にそうなことを口走るわけじゃ。わしが戻ってみたところで、遽にお通さんの病気を癒してやる思案もないから、わしがこういったと、告げなさい」
「なんというの」
「御飯をお喰べって」
「なんだ、そんなことなら、おいらが一日に百遍もいってら」
「そうか。それはお前のいう言葉が、そのまま、お通さんにとっては無二の名言なのだが、それさえ耳に通らない病人ならば、仕方がないから、なにもかも正直にいって聞かせるのだな」
「どういう風に」
「武蔵は、吉野という傾城にうつつをぬかし、きょうで三日も扇屋から帰って来ぬという。それを見ても、武蔵がお通さんを少しも想っていないことがわかろう。そんな男を慕うて、どうする気じゃと、よく、泣虫のお馬鹿さんにいうてやるがよい」
聞くも忌々しげに、城太郎は強くかぶりを振った。
「そんなこと、あるもんか。おいらのお師匠さまは、そんな武士じゃない。そんなことをいったらお通さんは、ほんとに自分で死んでしまうぞ。なんだい沢庵坊主め、おまえこそ大馬鹿だ、大馬鹿三太郎だっ」
「叱られたな。ハハハ、怒ったのか、城太郎」
「おいらのお師匠さまのこと悪くいうからさ。お通さんのことを馬鹿だなんていうからさ」
「おまえ可愛い奴だ」
頭を撫でてやると、城太郎は、その頭をうごかして、沢庵の手を振り落し、
「もういいよ。沢庵坊主なんか、なにも頼まないから。おいら一人で武蔵様を捜して来て、お通さんに会わせてやるからいい」
「知ってるか」
「なにをよ」
「武蔵のいる処を」
「知らなくたって、捜せば知れらい。よけいな心配するな」
「小癪なことをいっても、おまえには、吉野太夫の家はなかなか分らぬぞ。教えてやろうか」
「頼まない、頼まない」
「そうぽんぽん当るな城太郎。わしじゃとて、お通さんの仇じゃない、武蔵を憎む理由もない。それどころか、どうかして、あのふたりが二人とも、よい生涯を完うしてくれるように蔭で祈っている者だ」
「じゃあどうして意地悪をするんだい」
「おまえには、意地悪と見えるのか。そうかも知れんな。だが、武蔵もお通さんも、今のところ、どっちもまあ病人のようなものだ。体の病を癒すのが医者で、心の病を治すのが坊主ということになっているが、その心の病のうちでもお通さんのは重態だ、武蔵のほうは、抛っておけばどうにかなろうが、お通さんの方はわしにも今のところではどうにもならん。だから匙を投げていうのだよ――武蔵のような男に、片想いしてどうするんだ、さらりと思い切って、御飯をたんと喰べ直せとな。――そういうよりほかないじゃないか」
「だからいいよ、くそ坊主の汝なんかに、なにも頼むといやしねえや」
「わしの言葉が、嘘だと思ったら、六条柳町の扇屋へゆき、そこで武蔵が、どうしているか、見届けて来い。そして見たままの事実を、お通さんに話してやれ。いちどは歎きかなしむだろうが、それで眼が醒めれば結構じゃ」
城太郎は耳の穴へ、指で栓をして、
「うるさい、うるさい、どん栗坊主」
「なんじゃ、わしの後を追いかけて来たくせに」
「坊主坊主、お布施はないぞ、お布施ほしけれや、唄うたえ」
沢庵の背へ、こう謡口調で罵りながら、城太郎は耳をふさいだまま、遠くなってゆく姿を見送っていた。
しかし、沢庵の影が、彼方の辻の横へかくれると城太郎の眼には、涙がせりあがって来て、それがぼろぼろと溢れ落ちるまで、ぼんやり佇んでいた。
あわてて肱を曲げ、涙の顔を横にこすると、彼は、迷っている犬の子が、急になにか思い出したように往来を見まわして、
「おばさん!」
被衣して通りかかった女房風の女のそばへ駈け寄った。
そして、いきなり、
「六条柳町ってどこ」
と訊ねた。
びっくりしたように女は、
「遊廓でしょう」
「遊廓って何?」
「まあ」
「何するとこ」
「嫌な子だね!」
睨みつけて、その女は、通り過ぎてしまった。
なんでそうされたのか、城太郎はそんな不審にたじろいではいない。懲りもせず次々に、六条柳町への道と、そこの扇屋という家を訊いて歩いた。
爛漫と、楼に灯は入ったが、まだ三筋の柳町に、買手どもの影は見えない宵の口であった。
扇屋の若い者は、何気なく入口の人影を見てぎょッとした。大暖簾のあいだから首を入れ、家の中をキョロキョロ覗いている二つの眼に驚いたのである。暖簾の裾に汚い草履と木剣の先が見えたので、なにか途端に、勘ちがいをしたものらしく、あわてて他の男達をよび立てようとすると、
「おじさん」
と城太郎がはいって来て、いきなりこう訊ねた。
「ここの楼に、宮本武蔵様が来てるだろ。武蔵様は、おいらのお師匠さまだから、城太郎が来たっていえば分るんだけれど、取次いでくれないか。それでなければ、ここへ呼んでくれないか」
扇屋の若い者は、子供と分ってほっとしたような顔をした。けれど、先にぎょッとした驚きの反動がむかっと、その顔に筋を立てて、
「なんだ汝は。もの貰いか。風の子か。――武蔵様なんて、そんな者は、いねえいねえ、宵の口から暖簾先へ、うす汚ねえ風体してはいって来やがって、ササ出て行け出て行け」
襟がみを抓んで、外へ持って行こうとすると、城太郎は、虎河豚のように勃然と怒って、
「なにするんだ、おいらは、お師匠様に会いに来たんだぞ」
「ばか野郎、汝の師匠だかなんだか知らねえが、その武蔵という人間のために、おとといから大迷惑をしているところだ。今朝も、今し方も、吉岡道場の使いが来て、それにもいってやった通り、もう武蔵はここにはとっくにいねえのだ」
「いないなら、大人しく、いないといえば分るじゃないか。なんだって、おいらの襟くびをつかむんだ」
「暖簾へ首を突っ込んで、気持のわるい眼で中を覗いていやがるから、おれはまた、吉岡道場の廻し者が来たかと思って、ひやりとしたじゃねえか。忌々しい小僧ッ子奴が」
「びっくりしたのは、そっちの勝手じゃないか、武蔵様は、何時頃、そしてどこへ帰ったのか、教えてくれ」
「こいつ、さんざん人に悪たいをついていながら、今度は教えてくれなんて、虫のいいことを吐かしやがる。そんな番をしているか」
「知らなきゃいいから、おいらの襟首を離せ」
「ただは離さねえ、こうして離してやる」
耳たぶを強く持って、一廻り振廻して暖簾の外へ突き放そうとすると、城太郎は、
「痛い、痛い、痛い」
さけびながら腰を落し、下から木剣を抜いて、若い男の顎をふいに撲りつけた。
「あっ、このチビ」
前歯を折られて、真っ赤に染まった顎を抑えながら、彼を暖簾の外まで追いかけてゆくと、うろたえた城太郎は、
「誰か来てくれーッ。このおじさんがいけないよっ」
往来へ、こう大声で、危急を訴えながら、持っていた木剣は、その悲鳴とは反対に、いつか小柳生城で猛犬の太郎を擲り殺したような力で、振り向きざま、ぐわんと男の脳天を打っていた。
みみずの鳴いたような、細い呻きを鼻血といっしょに洩らして、若い男は柳の樹の下へヘロヘロと仆れた。
――と、向う側の格子先で見ていた客引き女が、軒ならびの格子へ向ってさけんだ。
「あらっ、あらっ、あの木刀を持った小僧が、扇屋の若い者を殺して逃げたっ」
すると、夜中のように人影のなかった往来に、わらわらと駈け出す者の影がみだれて、
「人殺し――」
「人が殺された」
と、血なまぐさい声が宵の風にながれた。
喧嘩沙汰は年中のことだし、血なまぐさいものを、秘密裡にまた迅速に、処理してしまうことにもこの遊廓の者は馴れていた。
「どこへ逃げた?」
「どんな小僧か」
と、血相の恐い男たちが、捜しまわっていたのも一瞬のことで、程なく、編笠すがたや伊達すがたして、灯に群れる虫のように、ぞろぞろと、ぞめきに流れ込んで来た買手どもは、もう紅燈の下に、そんな事件が、半刻前に行われたという噂すら知らなかった。
三筋の往来は、更けるほど雑鬧してきたが、裏は、真っ暗な横町だの、田だの原だのが、しいんとしていた。
どこに隠れていたか、城太郎は頃あいを見すまして、暗い路地から犬の子みたいに這い出した。そしていっさんに暗い方へ向って駈けた。
そのまま、ここの闇は世間の闇へつづいているのかと単純に思っていたのである。ところが、一丈もある柵へ彼は突き当ってしまった。その柵は、この六条柳町を全部、城郭のように堅固にとり囲んでいる。先を尖らした焼丸太が結いまわしてあって、いくらそれに沿って歩いてみても、外へ出られる木戸も隙間もなかった。
少し歩くと、明るい町尻の往来へ出てしまうので、城太郎はまた暗いほうへもどって来た。すると、彼の挙動に注意しながら、後から尾いて来た女が、
「童。……童」
白い手で招いた。
最初――城太郎は疑わしげな眼を光らして、しばらく、闇の中に立ちどまっていたが、やがてのそのそ戻って来て、
「おいらのことかい」
女の白い顔に、害意のないことを確かめると、彼はまた一歩、近づいて行きながら、
「なんだい?」
と、いった。
女はやさしく、
「おまえかい、夕方、扇屋の入口へ来て、武蔵様に会わせてくれといっていたという子は」
「あ、そうだ」
「城太郎というんでしょう」
「うん」
「じゃあ、そっと、武蔵様に会わせてあげるからこちらへおいで」
「ど、どこへ」
と、今度は、城太郎が尻ごみしてしまう。そこで女が、彼の安心がゆくように説明してやると、城太郎は、
「じゃあおばさんは、吉野太夫っていう人の召使なの」
地獄で仏に会ったような顔を見せ、初めて心をゆるしたように従いて行った。
その引船のことばによると、夕方の騒ぎを耳にすると、吉野太夫はいたく心配して、もし捕まったら、自分が口をきいて助けてやるからすぐ知らせて来るように――もしまた、どこかに潜んでいるのを見つけたら、そっと、裏庭の木戸から、例の田舎の間へ、導き入れて、武蔵に会わせてやるようにという吩咐をうけて来たのだという。
「もう、心配おしでない。吉野様がお声をかけて下さりさえすれば、この廓で通らぬことはないのだから」
「おばさん、おいらのお師匠様はほんとにいるんだろうね」
「いないものを、なんでおまえを捜して、こんなところへ連れて来ましょう」
「いったいこんなところでなにしてるんだろ?」
「なにしていらっしゃるか。……それはもう、そこに見える田舎家の内においでになるから、戸の隙間からのぞいてごらん。……では、わたしは彼方のお座敷がいそがしいから」
引船は彼方の庭の植込みへ、忍びやかに、影をかくした。
ほんとかなあ?
ほんとにいるのかしら。
どうも城太郎には、素直に信じられないらしいのである。
あれ程、捜しに捜しぬいていた師の武蔵が、今、自分の立っているすぐ眼の前の小屋の中にいる――それがどうも彼には余り簡単すぎて受けとり難い。
では諦めて、止すかと思えば、それどころか、その田舎家を繞り歩いて、しきりともう、中を覗き得る窓をさがしている城太郎なのでもある。
家の横に、窓はあった。ただし彼の背丈では寸法がちと足らない。そこで城太郎は、植込みの間から石をころがして来てそれへ乗ってみた。――竹の櫺子にやっと鼻が届く。
「……ア、お師匠様だ」
覗き見した行為に顧みて、彼は、声をのんでしまったが、そこからでも手を伸ばしたいような懐かしい人の姿に、城太郎は久し振りで出会った。
炉のそばに、武蔵は、手枕をかってうたた寝していた。
「――暢気だなあ」
と、呆れ果てたような丸い眼が、そのまま、窓の竹格子に、貼り付いていた。
快げに昼寝している武蔵のからだの上には、誰がそっとかけて行ったのか、桃山刺繍の重そうな裲襠が着せてあった。また、彼の身に着けている小袖も、常のごつごつした地味なものとは違い、伊達者の好みそうな大柄の着物を着ていた。
少し離れて、一枚の朱い毛氈が敷いてあり、画筆だの、硯だの、紙だのが散らかっている。その反古のうちには、手習いしたような茄子の絵や、鶏の半身などが見えた。
「こんな所で、絵なんぞ描いていたんだぜ。お通さんの病気を知らないでさ」
城太郎は、ふと、憤りに似たものを胸に抱いた。武蔵のからだにかけてある女の裲襠が気に喰わないのである。また、武蔵の着ている派手な着物に嫌厭がわくのであった。彼にも、そこらに漂っている艶めいたものの匂いは分っている。
この正月、五条大橋で彼が見つけた時も、武蔵は、若い娘に縋られて、往来中で泣かれていた。今見れば、またこの態だし、
(どうかしているぞ、この頃、おいらのお師匠さまは)
と、大人の慨嘆然たりという顔つきに似たようなほろ苦さが、彼の幼い心にも、込み上げて来ずにいられないものらしいのである。
それからふと、
(よし、驚かしてやれ)
と、悪戯心が、忌々しさを唆って来て、なにか、思いついたらしく、そっと石の上から脚を下そうとすると、
「城太郎、誰と来た?」
武蔵の声である。
「え?」
また、覗いてみると、眠っていた人は、うす眼を開いて、笑っていた。
「…………」
返辞よりも先に城太郎は表の戸口へ駈け廻って、そこを開けるや否や、中へ入って武蔵の肩に抱きついていた。
「お師匠さま!」
「おう……来たか」
仰向いたまま、肱を伸ばして、武蔵は彼の埃くさい頭を胸へ抱えこみ、
「どうして分った? ……。沢庵坊にでも訊いて来たか。しばらくだったなあ」
むっくりと、武蔵は彼の首を抱いたまま身を起した。久しく忘れていた懐中の温みに城太郎は、狆がじゃれるように、いつまでも、その首を武蔵の膝から離そうともしなかった。
――今、お通さんは病の床についている。そのお通さんは、どんなに、どんなに、お師匠さまに会いたがっているか知れない。
かわいそうだ!
お通さんは、お師匠さまのあなたに、会えばいいっていうんだ。それだけなんだ。
この正月の元日、五条の大橋でよそながら出会うことは出会ったが、お師匠さまが変ちくりんな女と仲がよさそうに話したり泣かれたりしていたので、お通さんはすっかり怒ってしまい、蓋を閉めた蝸牛のように、いくら手を引っ張ったって、出て来やしない。
むりもないや。
おいらだって、あの時、なんだかむしゃくしゃして、癪にさわったもの。
でも、そんなことはもういいから、これからすぐに、烏丸のお館まで来てください。そして、お通さんに、来たよといってやってください。それだけでも、お通さんの病気はきっと癒ってしまうに違いありませんから。
――以上の言葉は、城太郎が、未熟な弁を懸命にふるって、武蔵へうったえた沢山の口数のあらましである。
「……うん。……うん」
武蔵は何度もうなずいていう。
「そうか、……そうだったのか」
と、同じように。
そして肝腎かなめな――ではお通に会おうということは、なぜか、口を結んでいわないのである。
頼みに頼み、訴えに訴えぬいても、武蔵が、巌みたいに、こちらのいうことを肯いてくれないと、城太郎はそれ以上いいようもなくなって、なんだか、武蔵という人が、あんなに好きだったお師匠さまが、急に嫌な奴にみえてきた。
(喧嘩してやろうか)
と、城太郎は、肚のなかで思ったほどだった。
だが、さすがに、武蔵へ向って、悪たい口は叩けないとみえ、彼は顔の表現をもって、武蔵の反省を求めていた。酢を舐めたような口をして、いつまでも、面を膨ませていた。
彼が黙りこむと、武蔵は画手本を見ながら、描きかけの絵へ筆をとり始めた。城太郎は、彼が習っている茄子の絵を睨みつけ、
(下手クソ!)
と、心で罵っていた。
その画にも倦んだらしく、武蔵が筆を洗い出したので、もういっぺん頼んでみようかと、城太郎が唇を舐めてなにかいいかけると、飛石を拾って来る木履の音がして、
「お客さま。洗濯物が乾きましたから持ってまいりました」
と、さっきの引船が、きちんと畳みつけた袷と羽織の一襲ねを抱えて来て、彼の前におく。
「ありがとう」
武蔵は入念に、洗えて来た衣服の袖や裾を調べて、
「きれいに落ちましたな」
「人間の血というものは、洗っても洗っても、なかなか落ちないものでございますね」
「これでよい。……時に吉野どのは」
「こよいも、お客方の席が、あちらにもこちらにもという有様で、わずかなお隙もございませぬ」
「思いがけないお世話になったが、こうしていると、ひとり吉野どのへ気づかいを煩わすばかりでなく、扇屋の内緒へも、迷惑のかさむばかり。……こよいの夜更けを待って、そっとここを立ち去りますゆえどうぞ、そう伝えておいて下さい。くれぐれも、よろしゅうお礼を」
城太郎は顔つきを直して、やはりお師匠様は好い人だと思った。肚の中では、お通さんのところへ行ってやろうと、とうに決めていたに違いない。
そう独り決めして、にこにこしていると、武蔵は、引船が立ち去るとすぐ、小袖羽織のその一襲ねを、城太郎の前へ出していった。
「きょうは、よいところへ来てくれたな。この着物は、いつぞやこの遊廓へ来る折、本阿弥様の御老母が、わしに着せてくれた着物。つまり借り着じゃ。これを光悦どののお邸へお返しに行って、わしの元の着物を持って来てくれぬか。城太郎、よい子だから、一走り行って来てくれい」
「はい、畏りました」
と、城太郎は神妙である。
この使いさえ済めば、武蔵はここを出て、お通さんの所へ来てくれるものと思い、それを楽しみに、
「じゃあ、行って来ます」
先方へ返す小袖羽織を風呂敷につつみ、べつに、武蔵から光悦へ宛てて書いた一通もその間へ挟んで背中へ負いかけていると、そこへ夜食を運んで来た以前の引船が、
(オヤ、どこへ)
と、眼をみはって武蔵からその理を聞くと、
「まあ、飛んでもないこと」と、固く止めた。
なぜならば――
と引船が武蔵へ話す。
この子は夕方に、扇屋の店先で、店の若い者を、がらにもない木刀で撲りつけ、打ちどころが悪かったとみえて、その男は床についてうんうん唸り通している。
遊廓の喧嘩だから騒ぎはそれきりで済んでいるし、吉野様からお内緒へも若い衆へも、そっと、内済にと口をきいてはあるが、その子がやたらに、宮本武蔵の弟子だと威張りちらしたので、誰の口からともなく、武蔵はまだ扇屋の奥にかくれているという噂が宵からひろがり、それが遊廓の総門の外に、先ごろから網を張っている吉岡方の者へも聞えているらしい。
「……ははあ」
と、武蔵は初めて、そんな事件を知ったように、城太郎の姿を見直す。
城太郎は、隠していたことが武蔵にわかって、面目ないように、頭を掻き、だんだん隅へ退がって、小さくなっている。
「だのに、そこへ今、ひょこひょことそんな物を背負って総門から行ってご覧――どうなるか」
と、引船はまた、それについて外部のもようを武蔵に告げるのであった。
――何分にも、おとといから昨日、今日と、三日にわたって、吉岡方の者が、あなたの身を尾け狙っていることはたいへんなもので、吉野様やお内緒でも、それを心痛している。
光悦様もおとといの夜、ここから帰る折にくれぐれも頼んで行かれたことだし、扇屋としても、そういう危地にあるあなたを、追い出すようなことはできない。殊に吉野様は細心な気づかいをして、あなたの身を庇っている。
……しかし。
困ったことは、吉岡方の者が執念深く、この遊廓の出入りに見張をつけていることで、店へも昨日から、何度も吉岡門下の者というのが来て武蔵を匿っているだろうとか、うるさく探りに来るので、それは態よく追い払ってはいるが、先方の疑惑は、なかなか解くべくもなく、
(扇屋から出て来たら)
と、その機会を、手に唾して待っていることは知れている。
よくは分らないが一人のあなたを討つために、吉岡方の者は、まるで戦のような物々しい段取をして、幾重にも見張を立て、どんなことをしても、今度は殺してしまうといっているそうです――とも引船はいって、
「ですから、もう四、五日、じっとここに隠れておいで遊ばした方がよかろうと、吉野様もお内緒も心配していらっしゃいます。そのうちには、吉岡の衆も飽いてしまって、見張りを退くでございましょうし……」
武蔵と城太郎の二人へ、夕飯の給仕をしながらも、あれやこれや親切に引船はいってくれたが、武蔵は好意だけを謝して、
「思うところもありますから」
と、今夜ここを立つ意思は翻さなかった。
で――光悦の家へ遣る使いの件だけは、引船の忠告を容れて、それからすぐ、扇屋の若い者を走らせてやることにした。
使いは間もなく帰って来た。光悦からの返辞には、
折もあらばまた会い候わん、長き短き人の世の道、たのみ参らすにつけお身大事にいそしみ給われとのみ、よそながら祈り申されてこそ候え
月 日
と書いてあった。短文ではあるが光悦の気持はよく酌み取れる。また武蔵が、今の身辺の累を、あの平和な母子の生活におよぼすまいとして、わざと、彼の家へ立ち寄らないでいるこちらの気持も、十分理解してくれているようであった。月 日
光悦
武蔵どの「そしてこれは、先日あなた様が光悦様のお家へ脱いでおいた以前のお小袖だそうで」
と、使いの男は、こちらから届けた羽織小袖とひき換えに、武蔵が前から着ていた古い着物と袴とを持って帰り、
「本阿弥のお老母様からも、くれぐれもよろしくと仰せられました」
と、口上を伝えて、扇屋の母屋へ退がって行った。
包みを解いて、以前の古い着物を見ると、武蔵はなつかしかった。あのやさしい気持の妙秀尼が着せてくれた小洒張した衣裳よりも、この扇屋で借着している伊達な袷よりも、雨露に汚れた一着の木綿着物のほうが、彼には、自分の肌にぴったりした物のように思われた。これこそ、修行中の行衣であり、これ以上の必要を少しも感じないのであった。
綻びてもいたし、雨露や汗にも汚れていたはず、さだめし穢いにおいが畳まれていたであろうと思いながら、袖を通し袴を着けてみると、意外にも折目が、ぴんとついていて、あの襤褸にひとしい古小袖が、生れ代ったように、仕立て直してあった。
「老母というものはよいものだ。自分にも母があったら」
武蔵はふと孤愁に囚われて、これから生きて行こうとする生涯を、心の中で遥かに描いてみる。
すでに父母はない。自分を容れない故山に、わびしい独りの姉があるばかりである。
彼は、しばらく沈湎と燈に俯向いていた。ここも、三日の仮の宿だった。
「さ、立とうか」
持ち馴れた刀を手に寄せ、固く締めた帯と肋骨のあいだへぎゅっと差し込むと、彼のふとした寂しさはもう強い意思の外へ弾き出されていた。その刀こそ父母であり妻であり兄弟であるとしよう――と、そうかねがね心に誓っていたところへ彼の心は返っていた。
「行くの。――お師匠さま」
城太郎は先にそこを出て、欣しそうに今夜の星を見た。
(これから烏丸様のお館まで行けば、ずいぶん遅くなるけれど、いくら夜が更けたって、お通さんはきっと、寝ずに待っているにちがいない。――どんなにびっくりするだろうな、きっと、あんまり欣しがって、また泣いちまうかも知れないぞ)
雪の晩からこっち、毎晩、空は美しかった。城太郎は、これから武蔵を連れて行って、お通に歓んでもらうことのみ空想していた。星を仰ぐと、その星のまたたきまでが、自分とともに、歓んでくれているように思える。
「城太郎、おまえは、裏木戸からはいって来たのか」
「え。裏だか表だか知らないけれど、さっきの女のひとと一緒に、そこの門から」
「では、先へ出て、待っていてくれ」
「お師匠さまは」
「ちょっと、吉野どのに挨拶を申して、すぐ行くから」
「じゃあ、外へ出て、待っているよ」
そんなわずかな間も、彼のそばを離れるのは、多少不安がないでもなかったが、今夜の城太郎はもう、なにを命ぜられても、至って素直になりきっていた。
この三日ほどを、この隠れ家のうちで、武蔵は、われながら、愚に返ってよく遊んだと思う。
例えていうならば、今日までの自分の心神や肉体という物は、ちょうど、緊りつめている厚氷のようなものであったと思う。
月にも情を閉じ、花にも耳をふさぎ、太陽にも胸をひらかず、ただ冷たく凝結していた自分というものが、顧みられる。
そうした精進一途な自分のすがたにも、彼は、正しさを信じているが、同時に、狭くて小さい一個の頑固者にすぎないものが――自分となることを彼はおそれかけた。
沢庵からずっと前に、
(おまえの強さは、獣の強さと変りがない)
といわれたり、また奥蔵院の日観からも、
(もっと弱くなれ)
と忠告されたりしたことを思いあわせると、武蔵はこの先ともに、この二、三日のような悠暢な日を持つことが、自分には大事であると考えた。
そういう意味で、今、ここの扇屋の牡丹畑を去るにつけても、彼は無益な日を費やしたとは少しも思わなかった。むしろ、余りに緊りきっている生命へ、暢々と、天然放縦のわがままを与えて、酒ものみ、転寝もし、書も読み、画筆も弄び、欠伸もしたりして、存分に過ごした日が得難い貴重な日であったと感謝されるのだった。
(――その礼を、吉野どのに一言いいたいが)
と、武蔵は、扇屋の庭に佇みながら、彼方の花やかな灯影を見ていた。けれど奥深い座敷の方には変らない「買手ども」の猥歌や三絃が満ちていて、吉野にこっそり会って行く術もない。
(ではここから)
と武蔵は、胸のうちで、別れを告げ、また三日にわたるあいだの彼女の好意にも、心から礼を告げてそこを去った。
――裏木戸から外へ出て、待たせておいた城太郎の影へ、手をあげて、
「さ、行こうぞ」
呼びかけると、その後ろから、城太郎とはべつに、小走りに追いかけて来た者がある。
禿のりん弥であった。
りん弥は、武蔵の手へ、
「これ、太夫様から――」
となにか渡して、すぐ木戸の中へ駈けこんでしまった。
小さく結んだ一片の紙きれである。色紙ほどな懐紙であった。開いて、文字へ眼のゆく前に、ほのかな伽羅の移り香がする。
ちぎりてはちる夜々のあだ花の数々よりも、樹の間過ぎ行く月のおん影こそ忘れ得ざらめ
しみじみ、語ろういとまもなく雲間のおわかれ、よその杯に、嘆けばと、人はわらい候わめど、ただ一筆のみを
しみじみ、語ろういとまもなく雲間のおわかれ、よその杯に、嘆けばと、人はわらい候わめど、ただ一筆のみを
よしの
「お師匠さま、それ、誰から来たてがみ」「誰からでもない」
「女の人」
「知らん」
「なんと書いてあるの」
「そんなこと、訊かなくてもよい」
武蔵が畳みかけると、城太郎は背のびをして、
「いいにおいがする。伽羅みたいなにおいだなあ」
と、覗いていう。
伽羅のかおりは、城太郎の鼻にもわかるものとみえる。
さて、扇屋は出て来たが、まだ遊廓の内である。どうしたらこの囲いから無事に世間へ出られるだろうか。
城太郎は案じて、
「お師匠さま、そっちへ行くと、総門の方へ出ちまいますよ。総門の外には、吉岡の者が見張っているから危ないって扇屋の人もいっていた」
「うむ」
「だから、他から出ましょう」
「夜は、総門以外の口は、みな閉まっているそうではないか」
「柵を越えて逃げれば――」
「逃げたといわれては武蔵の名折れになる。恥も外聞もなく、逃げさえすればよいと思うくらいなら、なんのこんな所から出てしまうのは易いが、それがわしには出来ないことだから、静かに折を待っていたのだ。――やはり総門から手を振って出て行こう」
「そうですか」
と城太郎はやや不安な顔色を見せたが、「恥」を重んじない者は、たとえ生きていても無価値な人間として扱われてしまう武士社会の鉄則は、彼にもよく分っているから、反対はできなかった。
「――だが、城太郎」
「え、なんです」
「おまえは子供だから、なにもわしの通りに行動する必要はない。わしは総門から出て行くが、おまえは先に遊廓の外へ出て、どこかに身を避けて、わしを待っているがいい」
「お師匠様が総門から手を振って出て行くのに、おいら一人、どこから外へ出て行くの」
「そこの柵を越えるのだ」
「おいらだけ?」
「そうじゃ」
「いやだ」
「なぜ」
「なぜって、たった今、お師匠さまがいったくせに。――卑怯者といわれるだろう」
「おまえには、誰も、そんなことをいいはせぬ。吉岡方で相手としているのは、この武蔵一名で、そちなどは、数のうちにはいっていない」
「じゃあ、どこで待ってたらいいの」
「柳の馬場の辺りで」
「きっと来る?」
「うん、必ず行く」
「また、おいらに黙って、どこかへ行ってしまうんじゃない?」
――武蔵は顔を横に振って、
「おまえに、嘘は教えぬ。さ、人通りのないうちに、はやく越えろ」
城太郎は、辺りを見まわして、暗い柵の下へ駈け寄った。けれど、焼丸太の柵は、彼の背丈の三倍も高かった。
(だめだ、おいらにゃ、とても越えられそうもないや)
自信のない眼で、城太郎は柵の高さを見上げていた。すると武蔵は、どこからか、一俵の炭俵をさげて来て、柵の下においた。
そんな物を踏台にしたって駄目だといわないばかりに、城太郎は武蔵のすることを見ていた。武蔵は、柵の間から外を窺って、しばらく、じっとなにか考えている。
「…………」
「お師匠様、誰か柵の外にいるんですか」
「この辺、柵の外は、蘆がいちめんに生えている。蘆の原だから水たまりがあるかも知れぬ、気をつけて跳び降りろよ」
「水なんかいいけれど、高くって、上まで手が届かない」
「総門のみでなく、柵の外部にも、要所要所には、吉岡の見張がいるものと思わなければならぬ。外が暗いから、それに用意をして跳び下りぬと、不意に、どんな者が、闇から刀を薙ぎつけて来るかも知れないのだ。――だから、わしが背丈を貸して上げてやるから、柵の上で一応体を止めて、よく下を見定めてから跳ぶのだぞ」
「はい」
「わしが下から、炭俵を外へ抛ってやるから、その炭俵を見て、なにも変ったことがなかったら跳ぶがよい」
と城太郎の体を、肩ぐるまに乗せて立った。
「届くか、城太郎」
「まだ、まだ」
「では、わしの両方の肩に足をのせて、立ってみろ」
「でも、草履だから」
「かまわぬ、土足のままでよい」
肩車の上の城太郎は、脚をかわして、いわれた通り、武蔵の肩のうえに両足をのせて立った。
「こんどは、届いたであろう」
「まだです」
「やッかいな奴だの。身を弾ませて、柵の横木まで跳びつけぬか」
「できないや」
「仕方がない、それでは、わしの両掌に足をのせろ」
「だいじょうぶ?」
「五人や十人乗っても大事はない。さ、よいか」
城太郎の足の裏に、自分の両掌を踏ませて、武蔵は、鼎を差し上げるように、ぐっと自分の頭上より高く彼の体を上げた。
「――ア、届いた、届いた」
城太郎は、柵の上に取り付いた。武蔵は、先刻の炭俵を片手に持ち、外の闇へぽうんと抛った。
炭俵は、どさっと、蘆の中へ落ちた。――なんの異状もないと見えて、その後から城太郎が跳び降りた。
「なんだ、水たまりも、なにもありやしない。お師匠様、ここは、ただの原ッぱだぜ」
「気をつけて行け」
「じゃあ、柳の馬場で」
城太郎の跫音は、闇の遠くへ、遠ざかって行った。
その跫音の聞きとれなくなるまで、武蔵は、柵の隙間へ顔を寄せてじっと立っていた。
――そして彼の行った先に安心すると、初めて身軽そうに、足を早めだした。
それまでの薄暗い遊廓裏の道を捨てて、三筋のうちでもいちばん繁華な総門の通りへ出て来ると、そこをぞめき歩いている人影の中に、彼のすがたも、一個の嫖れ男のように紛れてしまう。
しかし――笠もかぶらずに、そのままの身装で、一歩、総門を踏み出すと、
「あっ、武蔵!」
と、そこらに潜んでいた無数の眼が、むしろ意外のように、一斉に、彼の姿へ向って光った。
総門の両側には、莚がこいの駕屋の溜りがある。そこにも、二、三名の侍が、股火をしながら、総門の出入りを睨んでいた。
そのほか、編笠茶屋の床几だの、向い側の飲食店などにも、一組ずつ見張りが屯していたし、その中から四、五名の者が交代して、総門の際に立ちはだかり、廓内から出てくる頭巾だの編笠の顔はいちいち無遠慮にのぞき込み、中を隠した駕が来れば、駕を止めて、その覆いの中を検めていた。
三日も前からのことである。
吉岡方の者は、武蔵が、あの雪の夜以来、ここから外へ出ていないことを確実につき止めていた。扇屋へ向けて、懸合いもしたし、探りもやってみたが、扇屋では、そんな客はいないというのみで取りあわない。
吉野太夫が彼の身を匿まっているらしいという見当も、全然つかないわけではなかった。けれど今この風流の別世界に限らず、貴顕から民間にまで人気のある吉野太夫へ、武士が徒党して、争いを仕掛けてゆくということも外聞の上から考えられた。
で――遠巻きに、持久戦の策をとって、武蔵が、廓内から出て来るのを厳しく見張っていたのであるが、その折には必ず当の武蔵が姿を変えて出て来るとか、覆駕のうちに隠れて遁れるとか、でなければ、柵を越えて他から脱出するに違いないときめて、その用意にはおさおさ怠りない備えを立てていたのだった。
――ところが、平然と、ありのままな姿を灯に曝して、その武蔵が総門を出て来たので、彼らはむしろぎょっとして、いきなりその前へ立ち塞がるものもなかった。
遮るもののない以上、武蔵の方で立ち止る理由もない。
大股な彼の足が、もう編笠茶屋の前も過ぎて、百歩も先をぐんぐんと歩いて行く頃になって、
「やるなッ――」
と、吉岡方の中から一人が叫んだようであった。
すると、声に合せて、
「やるなっ」
「やるな!」
同じ言葉を投げながら、どやどやと彼の後ろから前の方へと八、九名の影が駈け廻り、
「――武蔵待てッ」
と、ここに初めて、正面から激突をあげてきた。
――と、武蔵は、
「何かっ?」
と相手の耳へ不意と感じるような強さで答え、その答えとともに身を横へずっと退いて、道ばたの小屋を背にして突っ立った。
小屋の横に、巨きな材木が枕木に横たわっているし、辺りに大鋸屑が積もっているなどから見ても、これは木挽職人の寝小屋らしかった。
物音に、
「喧嘩か」
と、中から戸を開けかけた木挽の男は、外の景色をひと目見ると、
「わっ」
あわてて戸を閉め、内側に心張り棒をかって、それなり布団でもかぶってしまったのか、しいんとして、中に人がいるとも思わせない。
吉岡方のものは、野犬が野犬を募るように、指笛を鳴らしたり、呼号をあげたりして、見る間にここへわらわらと集まって来た。こういう折の人数は、二十人が四十人にも、四十人が七十人にも、多く見えるものであるが、正確にかぞえても、三十人以下ではなかった。
真っ黒に、武蔵を取りまいた。
いや、その武蔵が、背中の一方を木挽小屋につけているので、その小屋もろとも、取り囲んだという形である。
「…………」
武蔵は、三面の敵の頭数を、じっと眼で読みながら、この状態が、どう変化してかかって来るか――それをじっと見ているような眸であった。
三十人の人間がかたまれば、それは三十人の心理ではない、一団はやはり一個の心理である。その心理が微妙な動きを取って来る機先を観てしまうことは、そう難しいことではなかった。
案の如く、いきなり単独で、武蔵へ斬りつけて来るようなものはない。集合体の当然な姿勢として、多数が一つ個性にかたまるまでのしばらくの間は、ただがやがやと立ち騒いで、武蔵を遠巻きにしながら口々に罵り、中には、市井のならずものみたいに、
「……野郎」
とか、また、単に、
「青二才奴」
とか呻いて、自分たち個々の弱さを、いたずらに示すに過ぎない虚勢のまま、ややしばらく、桶のように円くなって、武蔵を囲んでいた。
最初から一個の意思と行動を持っている武蔵のほうは、その間、わずかな間にしろ、彼らよりは十分な余裕を持っていた。大勢の顔の中で、どれとどれが手強いか、どの辺が脆いか、ぴかぴか光る眼つきを拾って、およそ心に備えておく余地すらあった。
「拙者に、待てといわれたのは誰だ。いかにも、拙者は武蔵だが」
彼が、見渡していうと、
「われわれだ。ここにいる一同が呼びとめたのだ」
「では、吉岡の御門下か」
「いうまでもなかろう」
「御用事とは」
「それも、改めて、ここでいう必要もないと思う。――武蔵、支度はいいか」
「支度?」
ちらと唇が歪む。
鉄の桶みたいに、彼を囲んでいる殺気は、彼の白い歯から洩れた冷笑に、ふと毛穴の緊まるようなものに面を吹かれた。
武蔵は、語気を揚げて、すぐいいつづけた。
「武士の支度は、寝る間にも出来ておること、いつでも参られい。理も非もない喧嘩仕かけに、人間らしい口数や、武士らしい刀作法は、事おかしい。――だが、待て、一言聞いておきたい。各はこの武蔵を、暗殺したいか、正当に討ちたいか」
「…………」
「意趣遺恨で来たか、試合の仕返しで来たか。それを訊こう」
「…………」
言葉のうちにでも、勿論、武蔵の眼――またその体に斬り込める隙が見出せたなら、囲りの刃は穴から水の噴くように、彼の虚へ向って衝いて出るはずであるが、そういう者もなく、数珠のような沈黙に縛られている大勢のうちから、
「いわずとも知れたこと!」
と、大喝して、武蔵のことばに答えた者がある。
ぎらっと、武蔵はその顔へ眸を射向けた。年輩、態度、この中では、吉岡方の然るべき者らしく思える。
それは、高弟中の御池十郎左衛門だった。十郎左衛門は、自分がまず、初太刀の皮膜を切ろうとするものらしく、ズズと、摺り足に身をすすめて、
「師の清十郎敗れ、つづいて御舎弟の伝七郎様を討たれ、なんのかんばせあって、われわれ吉岡門の遺弟が、汝を無事に生かしておけるかっ。――不幸、汝のために、吉岡門の名は泥地にまみれたれど、恩顧の遺弟数百、誓って師の御無念をはらさいではおかぬ。意趣遺恨のという狼藉ではない、師の冤をそそぎ奉る遺弟の弔い合戦だわ。武蔵っ、不愍だが、汝の首はわれわれが申しうけたぞ」
「おお、武士らしい挨拶を承った。そういう趣意とあれば、武蔵の一命、或はさし上げぬ限りもない。しかし、師弟の情誼を口にし、武道の冤を雪ごうという考えなれば、なぜ、伝七郎殿の如く、また清十郎殿の如く、堂々と、この武蔵へすじみち立てて正当な試合に及ばれぬか」
「だまれっ! 汝こそ、今日まで居所をくらまして、われわれの眼がなくば、他国へ逃げのびようといたしながら」
「卑劣者は、人の心事も卑劣に邪推する、武蔵は、かくの通り、逃げもかくれもしておらぬ」
「見つかッたればこそであろうが」
「なんの、姿を晦ます心なら、これしきの場所、どこからでも」
「然らば、吉岡門の者が、あのまま、汝を無事に通すと心得ていたか」
「いずれ、各から挨拶はあるものと存じていた。しかし、かような繁華の町中で、人を騒がせ、野獣か、無頼者のような、理不尽な争いを演じては、われら、一個の名ばかりか、武士という者すべての恥さらし。各の申さるる師弟の名分も、却って、世の笑いぐさではあるまいか、師へ対しても恥のうわ塗りではござるまいか。――さもあらばあれ、師家は絶滅、吉岡道場は離散、この上、恥も外聞もあろうかと、武門を捨てた気とあらばなにをかいおう、武蔵五体と両刀のつづく限りは、相手になる、死人の山を築いてみせる」
「なにをッ」
十郎左衛門ではない。十郎左衛門の横あいから一人が、こう肱の弦を切りかけると、どこかで、
「――板倉が来るぞっ」
呶鳴った者がある。
その頃、板倉といえば、怖い役人という代名詞になっていた。
大路打たすは
誰が栗毛ぞ
伊賀の四郎左か
みなにげる
だの、誰が栗毛ぞ
伊賀の四郎左か
みなにげる
伊賀どのはそも
千手観音か天目天か
あまた目付に
百与力
などと、童戯の群れまで謡っているのは、みなその板倉伊賀守勝重のことだった。千手観音か天目天か
あまた目付に
百与力
今の京都の繁昌は、特殊な発達と、変則な好景気に浮わついていた。それはこの都府が、政治的にも、戦略的にも、日本の分れ目を握っていて、重要な作用を持っているからである。
だから、全国中でも、ここがいちばん文化も進歩していたが、思想的に観ると、最も市政に厄介な土地でもあった。
室町時代の初めから、土着の市民は殆ど、武家の殻をすてて町人になり、そしてただ保守的だった。今では、徳川か、豊臣か、そのどっちかの色を持った武士が、互いにこの分水嶺に拠って、次の時代を、虎視眈々と窺っている。
その上、素姓も知れない、またなんで生計を立てているのか分らないような武家が、ずいぶん郎党や一門を養って相当に根を張っている。
また、今に、徳川、豊臣の二つの勢力が、当然、なにかおっぱじめるに違いないから――犬も歩けば棒にあたるを空頼みにして、蟻のように、うようよしている牢人もたくさんある。
その牢人と組んで、博奕、ゆすり、かたり、誘拐を職業にして立とうとする無頼者も殖えるし、飲食店や売女もそれに灯をつける。いつの世の中にも多い耽溺主義者だの、刹那主義的な人間も、信長の謡った「――人生五十年、化転の夢にくらぶれば」を、たった一つの真理と奉じて、一生懸命に、酒と女と刹那の享楽で、早死を心懸けている。
それだけならいいが、そういう虚無的な人間も、いっぱしな政治観や社会観を放言し、そして、徳川とも豊臣とも色分けつかない偽装をもって、その時々の世情によって、狡く泳いで、うまい蔓でもあったら掴もうとしているから、ここの市政は並大抵な奉行ではまず睨みがきかない。
そこで徳川家康の眼鑑で、京都所司代にもって来たのが、板倉勝重だった。
慶長六年以来、与力三十騎、同心百名を付せられて、この勝重が、京都の睨み役に任命された時、ちょっとした話が伝わっている。
家康から、辞令をうけた時、勝重はすぐ命を拝さず、
(邸にもどって、一応、妻とよく相談してから、お答え仕ります)
帰邸すると、勝重は妻に向い、任官の沙汰を告げていうには、
(古来から顕職の栄位に擢んでられて、却ってために、家を亡ぼし、身を害した者が史上にも多い。その因を思うに、みな、門閥と内室のわずらいから起っておる。だから誰よりもおまえの心に相談するのだが、おまえは、わしが所司代となっても、市尹〈市の長〉たるわしのすることには、一切口出ししないと誓うなら、任官しようと思うが)
すると妻は、つつしんで誓った。
(なんで婦女子が左様な口出しを致しましょう)
翌る朝、登城するとて、勝重が衣服を着ると、下着の襟を折って着ていた。妻が見て、それを直そうとすると、
(おまえはもう誓いを忘れているではないか)
と叱り、ふたたび妻を堅く誓わしめてから、はじめて家康の命を拝したというのである。
この覚悟で就職した勝重なので、彼のすがたは公明だった。同時に峻厳でもあった。――恐い役人を上に持つことは、嫌がりそうなものだが、事実その後の市民は、彼を父のようにあがめ、家の上に、父がいるように安心した。
さて、話はわき道へそれたが、今、
(板倉が来るぞ)
と、うしろで呶鳴った人間は誰だろうか。勿論、吉岡方の者はすべて、武蔵と対しているので、そんな言葉をいたずらに放つはずはない。
――板倉が来るぞ。
は当然、
――板倉の手先が来るぞ。
という意味に受取れたのである。
役人にでしゃばられては厄介な場合だった。けれど、こういう盛り場には、きまって見廻りが歩いている。それが、何事かと見て、駈けつけて来たのかも知れない。
それにしても、今の掛声は誰だろう。味方の者でなければ、往来の者の注意か?
――と、御池十郎左衛門はじめ、吉岡門下の眼が、思わず声の方へふと外れると、
「待て、待て」
押分けて、武蔵と吉岡門下のあいだへ、自ら立ち塞がった若衆姿の侍がある。
「や?」
「お身は」
意外な眼を光らせて、自分へ集まる吉岡門下の大勢の眼と、武蔵の眼へ、その前髪は、
(わしだ! この顔は、双方とも前から記憶があるであろうが!)
そういわないばかりに傲然と自己を誇示して、佐々木小次郎はいうのだった。
「今、総門の前で駕をおりると斬合だという往来の声。よもやと思いのほか、かねがね、こんな事件も起ろうかと案じていた各ではないか。――わしは吉岡の味方でもないし、なおさら、武蔵の味方でもない。――だが、武士であり剣客である以上は、武門のために、武士総体のために、敢て各方にいう資格がある」
前髪の風采に似あわない雄弁だった。そしてその口吻といい、人を睥睨する眼といい、飽くまで傲岸そのものだった。
「――そこで、双方に問うが、もしここへ、板倉殿の手の者でも来て、巷を騒がす不逞の狼藉と見なされ、始末書でも取られたら、双方ともよい恥さらしではあるまいか。役人の手をわずらわせば、この態は、ただの喧嘩沙汰としか扱われぬぞ。――場所もわるい――時もわるい――武士たる各が、社会の秩序をみだすような所業をなせば、武士総体の恥になる。わしは、武士を代表して双方にいう。止せ、ここでは止せ。剣のうえの解決は、剣の作法に従って、改めて時や場所を選んでなすべきではないか」
彼の演舌に圧倒されて、吉岡方の者はみな黙りこんでしまった形であった。御池十郎左衛門は、小次郎がいい終ると、その言葉じりをすぐ取って、
「よしっ」
と強くいった。
「いかにも、道理はその通りに違いない。――だが小次郎、必ずその他日まで、武蔵が逃げ失せぬという保証を貴公はするか」
「してもよいが」
「あいまいでは承諾できぬ」
「だが、武蔵も生き物だし」
「逃がす気だな」
「ばかをいえっ」
小次郎は叱咤して、
「左様な片手落ちをなせば、貴公らの遺恨はわしへかかるではないか。その程まで、この男を庇ってやらなければならない友誼も理由もわしにはない。……だが武蔵とても、この期になってまさか逃げもすまい。もし、京都から姿を晦ましたら、京都中に高札を建てて汚名を曝してやればよかろう」
「いや、それだけでは、承知できぬ。――必ず、他日の果し合いまでおん身が武蔵の身を預かると保証するなら、一応、今夜のところは別れてもよいが」
「――待て、武蔵の腹を糺してみるから」
小次郎はくるりと振向いた。さっきから、自分の背を射るように見ている武蔵のひとみを正面に睨め返しながら、彼は、自分を押し出すように、ずっと胸を寄せて行った。
「…………」
「…………」
口のうごく前に双方の烈しい眼であった。猛獣が猛獣を見た時のような沈黙であった。
このふたりは、先天的に合わない性格の持主とみえる。お互いが認めているものを、お互いに怖れ合っていた。若い自負心と自負心とが、触れるとすぐ摩擦を起そうとするのであった。
で――それは、五条大橋の時もまた今も同じ心理が竦み合いになりかけた。言葉を交わすまえに、眸と眸とが、もう小次郎の感情と、同時に武蔵の感情とを、完全にいい尽し、余すところなく無言の意思が闘っているのである。
――でも、一言はあった。
やがて小次郎の方からである。
「武蔵、どうだ」
「どうだとは」
「今、吉岡側のほうへ、わしが談合したような条件で」
「承知した」
「いいな」
「ただし、其許の条件には、異存がある」
「この小次郎に、身を預けるということの不満か」
「清十郎どの、ならびに伝七郎どのと、二度の試合にも、武蔵は、みじんも卑怯は致しておらぬ。なんで残余の遺弟たちに、かく名乗りかけられて、卑怯な背を見せようか」
「ウム、堂々たるものだ。その広言を、きっと聞き取っておこう。――然らば武蔵、望みの日取は」
「日も場所も、相手方の希望にまかせておく」
「それも潔い。――して、今日以後、おぬしはどこに居所を決めておるか」
「さだまる住居はない」
「住居がわからなくては、果し合いの牒状が遣せぬ」
「ここで、お決め下さらば、違約なくその時刻に、お出会い申す」
「ウム」
小次郎は頷いて後へ退がった。そして御池十郎左衛門や門下の者と、しばらく話し合っていたが、やがてまた一人離れて来て、武蔵へ、
「相手方は、明後日の朝――寅の下刻というが」
「心得申した」
「場所は、叡山道、一乗寺山のふもと、藪之郷下り松。――あの下り松を出会いの場所とする」
「一乗寺村の下り松とな、よろしい、わかった」
「吉岡方、名目人は、清十郎、伝七郎の二人の叔父にあたる壬生源左衛門の一子、源次郎を立てる。源次郎は吉岡家の跡目相続人でもあれば、その者を立てるが、まだ年端もゆかぬ少年ゆえ、門弟何名かが、介添として立合いにつくということ……それも念のため申しておくぞ」
相互の約束を取り決めると、小次郎はそこの木挽小屋の戸をたたき、中へはいって行って、戦いている二人の木挽に命じた。
「そこらに、なんぞ不用な板ぎれがあろう。高札に建てるのじゃ、程よくひいて、六尺ほどの棒杭に打ちつけてくれい」
木挽が板をひいて出すと、小次郎は吉岡の者を走らせて、どこからか筆墨を取り寄せ、達筆を揮って、それへ果し合いの主旨を書いた。
相互に神文を取交わすより、これを往来に建てることは、絶対な約束を天下へ公約することになる。
吉岡側の手で、それが最も人目につきやすい辻へ打ち建てられるのを見届けて、武蔵は他人事のように、柳の馬場のほうへ足を早めて立ち去った。
ぽつねんと、柳の馬場に、武蔵が来るのを待っていた城太郎は、
「遅いなあ」
幾度か、嘆息して、広い闇を見まわしていた。
駕の灯りが駈けてゆく。
酔っぱらいの唄がよろけてゆく。
「――おそいぞ、ほんとに」
もしや? という不安が彼にもないではない。城太郎は突然、柳町のほうへ駈け出した。
すると、彼方から、
「これ、どこへゆく」
「あ、お師匠さま、あまり遅いから見に行こうと思ったんです」
「そうか。あぶなく行き違うところだったな」
「総門の外に、吉岡の者が、沢山いたろ」
「いたよ」
「なにかしなかったか?」
「ああ何もしなかった」
「お師匠様を捕まえようとしなかったの」
「ウム、しなかった」
「そうかなあ」
城太郎は、武蔵の顔を覗き上げて、その顔いろを読むようにまた訊いた。
「じゃあ、なんでもなかったんだね」
「ウム」
「お師匠様、そっちじゃないよ。烏丸様へ行く道は、こっちへ曲るんだよ」
「あ、そうか」
「お師匠様も、早くお通さんに会いたいでしょう」
「会いたいなあ」
「お通さんも、きっと、びっくりするぜ」
「城太郎」
「なに」
「おまえとわしと、初めて会った木賃宿なあ。あれは、何町であったかのう?」
「北野のかい」
「そうそう、北野の裏町だったな」
「烏丸様のお館は立派だぜ。あんな木賃宿みたいじゃないよ」
「ハハハハ、木賃宿とは、較べものにはなるまい」
「もう表門は閉まっているけれども、裏の下部門をたたけば開けてくれるからね。お師匠様を連れて来たっていうと、きっと、光広様も出て来るかも知れないよ。それからねお師匠様、あの沢庵坊主ね、あいつ、とても意地わるだぜ。おいら癪にさわっちまった。お師匠様のことを、あんな者は抛ッとけばいいんだっていうのさ。そして、お師匠様のいるところをちゃんと知っているくせに、なかなか教えてくれなかったんだぜ」
武蔵の無口を知りぬいているので、いくら武蔵が黙然と聞いていても、城太郎は独りで勝手にお饒舌りを休めない。
やがて、烏丸家の下部門がそこに見えると、
「お師匠様あそこだよ」
指さして、ふいに立ち止まった武蔵の眼へ、教えるように、
「あの塀の上に、ぽっと明りが映してるだろ。あそこが北の屋で、ちょうど、お通さんが寝ている部屋があの辺なんだぜ。……あの灯りは、お通さんが起きて待っている灯りかも知れないね」
「…………」
「さ、お師匠様、はやくはいろう、今おいらが、門を叩いて門番さんを起すからね」
そこへ向って、駈け出そうとすると、武蔵は城太郎の手首をぐっと握って、
「まだ早い」
「どうしてさ、お師匠様」
「わしは、お館へははいらぬ。お通さんへは、おまえからようく言伝をしてもらいたい」
「え、なんだって。……じゃあお師匠様は、なにしにここまで来たのさ」
「おまえを送って来たまでだ」
ひそかに万一の変化をおそれて、敏感になっていた童心に、そのおそれていた予感が、ふいに事実となって、大きく映って見えたのであろう。
城太郎は、途端に、
「いけない、いけない」
絶叫に近い声を出し、
「だめだよ、お師匠様。――来なくっちゃだめだよ!」
武蔵の腕を懸命に引ッぱって、もうすぐそこの門の内にいるお通の枕元まで、どうしても連れて行こうとする。
「躁ぐな」
武蔵は、夜気のうちにしんとしている烏丸家の邸内を憚って、
「まあ、よう聞け。わしのいうことを」
「聞かない聞かない! お師匠様はさっき、おいらと一緒に行くといったじゃないか」
「だから、ここまで、おまえと共に来たではないか」
「門の前までといやしないじゃないか。おいらはお通さんに会うことをいってたんだ。お師匠様が弟子に嘘を教えていいのかい」
「城太郎、そう猛らずに、まあわしの言葉を落ちついて聞けよ。この武蔵にはまた、近いうちに、生死の知れぬ日が迫っておるのだ」
「侍はいつも、朝に生れて夕べに死ぬる覚悟を勉強しているのだって、お師匠様は口癖にいってるじゃないか。それなら、そんなこと、今始まったことでもないだろ」
「そうだ、自分で常にいい馴れている言葉も、そうしてお前の口からいわれると、かえって教えられる気持がする。――今度という今度こそは、武蔵も覚悟のとおり、九死のうち一生も覚束なかろう。それゆえ、なおさらお通さんには会わぬ方がよいのだ」
「なぜ。なぜ! お師匠様」
「それはお前に話してもわからぬ。お前も今に大きくなってみると分る」
「ほんとに……ほんとにお師匠様は、近いうちに、死ぬようなことがあるの」
「お通さんへはいうなよ。……病気なそうじゃが、体を堅固にして、ゆく末よい道を選んでたもれと……なあ城太郎……そうわしがいって行ったと申して、今のようなことは、聞かさぬがよいぞ」
「嫌だ。嫌だ。おいらはいうよ! そんなこと、お通さんに黙っていられるもんか。――なんでもいいからお師匠様、来ておくれよ」
「わからぬ奴!」
武蔵が振り離すと、
「でも! ……お師匠様」
城太郎は泣き出してしまい、
「でも! ……でも! ……それじゃあ、お通さんが、あんまり可哀そうだ……。お通さんに……今日のこと話したら、お通さんは、よけいに病気がわるくなっちまうにきまってら」
「――だからこういってくれ。所詮兵法修行のうちは、会うたとて、お互いの不為。多艱に克ち、忍苦を求め、自分を百難の谷そこへ捨ててみねば、その修行に光はついて来ないのだ。……なあ城太郎、お前もまた、その道を今に踏んで行かねば一人前の兵法者にはなれまいぞ」
「…………」
泣きじゃくっている城太郎の姿を見れば、武蔵はまた可憐しくもなって、その頭をふところへ抱き寄せ、
「いつ果てるか知れないのが兵法者の常、おまえも、わしが亡い後は、よい師を捜せよ。お通さんにも、このまま会わぬ方が、行く末になってみれば、あの人の倖せになり、武蔵の気持も、その時には、よく分ってくる筈だ。……おお、そこの塀の内に映している明りが、お通さんのいる部屋か。……お通さんも寂しかろ。さ、はやくおまえも戻って眠るがいい」
無茶はいうが、城太郎にも、武蔵の苦衷の半分ぐらいは、なんとなく分っているらしいのである。泣きじゃくりながらも、拗ねた背中を向けているのは、一頃よりは物の理解が少しついてきた証拠で、お通さんには可哀そうだし、お師匠様にはこれ以上の無理もいえないし――と立ち往生している童心の嗚咽が拗ねて見えるのだった。
「じゃあ、お師匠様」
手放しの泣き顔を、不意と、武蔵へ振向けると、最後の一縷へ縋りつくように、
「――修行がすんだら、その時は、お通さんとも仲よく会うの。え、え。お師匠様の修行が、もうこれでいいと、いう時が来たら」
「それはもう、そうなればなあ……」
「それは何日?」
「何日ともいえぬ」
「二年?」
「…………」
「三年?」
「修行の道には果てがない」
「じゃあ、一生涯もお通さんと会わないつもり」
「わしに天稟があれば、道に達する日もあろうが、わしに素質がなければ、生涯かかってもまだこのままの鈍物でいるかも知れん。――それになによりは、目前に死を期していることがある。――死んで行く人間がなんで、これから花も咲こう実も成ろうとする若い女子と、ゆくすえの約束などを誓えよう」
武蔵が思わずその点まで口を辷らすと、城太郎には、そこの要点はまだよく理解し難いものと見え、すこし怪訝そうに、
「だから、……お師匠様、そんな約束なんかしないことにして、ただお通さんと会えばいいじゃないか」
と、したり顔にいう。
武蔵は城太郎に対して、いえばいう程、自身のうちに矛盾を感じ、迷いを覚えて、苦しくなった。
「そうはゆかないのだ。お通さんも若い女子、武蔵も若い男。しかも、おまえにいうのも恥ずかしいが、会えばわしはお通さんの涙に負けてしまう。きっと、お通さんの涙に今の堅い決心を崩されてしまう……」
柳生の庄で、お通の姿を見ながら逃げて去ったあの時の回避と――今夜の彼の気持とでは、同じ形にあらわれても、武蔵の心の内面には、大きな相違を自覚していた。
花田橋の時でも、柳生谷の時でも――以前はただ、青雲にあこがれる壮気と覇気――また潔癖に似た驀しぐらな道心が、火が水を弾くように、女性の情を反撥したに過ぎなかったが、今の武蔵には、元来の野性が、徐々と智育されてくるにつれて、そこから一面の弱さも当然に覚えて来つつあった。
またと生れ得ない世に生れてきた生命の尊さを知っただけでも、それだけ恐さを知って来たのである。剣に生きる人間以外に、種々に生きる道を辿っている人生の視野を知っただけでも、それだけ、独りよがりの自負心を削がれているのである。「女」というものについても武蔵は、その魅力を、吉野に見ているし、自分という実体の中からも多分に「女」に持つ人間のあらゆる惑情を知りかけている――で今の武蔵は、その対象を恐れるよりも、自分の心を恐れるのだった。――殊にその対象の人がお通である場合において、彼には、それに克てそうな自信もないし――また、彼女の一生というものを考えずに、彼女を考えることもできなかった。
しくしくと泣いている城太郎に、
(わかったか……)
と、武蔵のことばが耳のそばに聞えていたので、城太郎は肱で顔を抑えていたが、ふとその泣き顔を上げると、もう彼の前には靄のこめた厚い闇しか見えなかった。
「――あッ、お師匠様っ」
ばたばたと城太郎は、長い築地の角まで走って行った。
大声あげて、城太郎は叫ぼうとしたが、叫んでも無駄なことが分っているので、彼は、わっと泣きながら、築地に顔を押し当てた。
「…………」
いいことと信じてやった幼い一心が、大人の思慮によって覆されると、それに服従はしても、理窟は分っても、口惜しくて口惜しくてたまらないらしいのである。
泣くだけ泣いて、声がつぶれると、肩で波打ちながら、まだしゃくりあげていた。
――と。
館のお下婢の女でもあろうか、今、どこからともなく戻って来て、下部門の外に佇んだ人影がある。ふと、暗がりの嗚咽が耳にふれたのであろう、被衣のひさしを向けて、弱々と近づいて来ながら――
「……城太さん?」
疑うように呼んだ。
「……城太さんじゃないの?」
ふた声目に、城太郎は、ぎょっとしたような顔を向け、
「あっ、お通さん?」
「まあ、なにを泣いているんです――そんなところで」
「お通さんこそ、病人のくせに、どうして外へなんか」
「どうしてって、おまえくらい人を心配させる者はない。わたしにも、お館の人へも、なにもいわずに、いったい、今までどこを歩いていたんです……。灯りが点いても帰って来ないし、御門が閉まっても姿が見えないし、どんなに心配したか知れません」
「じゃあ、おいらを捜しに出ていたの」
「もしやなにか、間違いでもあったのではないかと、寝ているにも寝ていられなくなって」
「ばかだなあ、病人のくせに。またこの後、熱が出たらどうするんだい。さあ、はやく寝床へ引っ込みなよ」
「それよりなんでお前は泣いていたの」
「後でいうよ」
「いいえ、凡事ではないらしい。さ、事情をお話し」
「寝てから話すからさ、お通さんこそ、はやく寝てくれよ。明日また、うんうん唸っても、おいら知らないぜ」
「じゃあ、部屋へはいって寝ますから、ちょいとだけ話しておくれ。……おまえ沢庵様の後を追いかけて行ったのでしょう」
「ああ……」
「その沢庵様から、武蔵様のいらっしゃる所をきいておいた?」
「あんな情け知らずの坊さんは、おいら嫌いだ」
「じゃあ、武蔵様の居所は、とうとう分らずじまいですか」
「ううん」
「分ったの」
「そんなこといいから、寝ようよ、寝ようよ。――後で話すからさ!」
「なぜ、わたしに隠すんですか。そんな意地悪をするなら、わたしは寝ずにここにいるからいい」
「……ちぇッ」
城太郎は、もいちど泣き直したいように、眉を顰めながら、お通の手を引っ張って、
「――この病人も、あのお師匠様も、どうしてそう、おいらを困らすんだろうなあ。……お通さんの頭にまた、冷たい手拭を当ててからでないと話せないことなんだよ。さ、おはいりよ! はいらなければ、おいらが担いで行って寝床の中へ押しこむよ」
片手にお通の手をつかみ、片手で下部門の戸をどんどん叩きながら、癇癪まぎれに、城太郎は呶鳴った。
「門番さん! 門番さん! 病人が寝床から外へ抜け出しているじゃないか。――開けとくれよ。はやく開けないと病人が冷えちまうよ!」
額に汗をにじませ、酒も少し手伝っているらしい顔色をして、本位田又八は、五条から三年坂へ傍見もせず駈けて来た。
例の旅籠屋である。石ころの多い坂の途中から、汚い長屋門の下を駈けぬけ、畑の奥の離屋まで来ると、
「おふくろ」
と、部屋のうちを覗き、
「――なあんだ、また昼寝か」
と舌打ちして呟いた。
井戸端で一息つき、ついでに手足も洗って上がって来たが、老母はまだ眼もさまさず、どこが鼻か唇かわからないほど、手枕に顔を押し潰して鼾をかいているので、
「……てえっ、まるで泥棒猫みたいに、暇さえあると、寝てばかりいやがる」
よく眠っていると思っていた老母は、その声にうす目をあいて、
「なんじゃあ?」
と起き上がってきた。
「おや、知ってたのか」
「親をつかまえて、なにをいうぞ。こうして、寝て置くのがわしの養生じゃ」
「養生はいいが、おれが少し落着いていると、若いくせに元気がないの、やれその暇に手懸りを探って来いのと、びしびし叱りつけながら、自分だけ昼寝しているのはなんぼ親でも勝手すぎようぜ」
「まあゆるせ、ずいぶん気だけは達者なつもりでも、体は年に勝てぬとみえる。――それにいつぞやの夜、おぬしと二人して、お通を討ち損ねてから、ひどう落胆してのう、あの晩、沢庵坊めにおさえられたこの腕の根が、いまだに痛んでならぬのじゃ」
「おれが元気になるかと思えば、おふくろが弱音を吐くし、おふくろが強くなるかと思えば、おれの根気がはぐれてしまうし、これじゃあ、いたちごッこだ」
「なんの、今日はわしも骨休めに一日寝ていたが、まだおぬしに弱音を聞かせるほど、年は老らぬ。――して又八、なんぞ世間で、お通の行き先とか、武蔵の様子とか、耳よりな話は聞かなんだか」
「いやもう、聞くまいとしても、えらい噂だぞ。知らないのは、昼寝しているおふくろぐらいなものだろう」
「やっ、えらい噂とは」
お杉は膝をつき寄せて来て、
「なんじゃ? 又八」
「武蔵がまた、吉岡方と、三度目の試合をするというのだ」
「ほ、どこで何日」
「遊廓の総門前にその高札が建ててあったが、場所はただ一乗寺村とだけで、詳しくは書いてない。――日は明日の夜明け方となっていた」
「……又八」
「なんだい」
「汝れは、その高札を、遊廓の総門のわきで見たのか」
「ウム、大変な人だかりさ」
「さては昼間から、そのような場所で、のめのめと遊んでいたのじゃろうが」
「と、とんでもねえ」
慌てて手を振りながら、
「それどころか、稀に酒ぐらい少し飲むが、おれは生れ代ったように、あれ以来、武蔵とお通の消息を探り歩いているじゃねえか。そうおふくろに邪推されちゃ情けなくなる」
ふとお杉は、不愍を増して、
「又八、機嫌なおせ、今のは、ばばの冗談じゃ。汝れの心が定まって、元のような極道もせぬことは、ようこの老母も見ているわいの。――したがさて、武蔵と吉岡の衆との果し合いが明日の夜明けとは急なことじゃな」
「寅の下刻というから、夜明けもまだ薄暗いうちだなあ」
「おぬし、吉岡の門人衆のうちに、知っている者があるといったの」
「ないこともないが……そうかといって、あまりいいことで知られているわけでもねえからなあ、なにか、用かい」
「わしを伴れて、その吉岡の四条道場とやらへ案内してほしい。――直ぐにじゃ、汝れも支度したがよい」
年寄りのせっかちというものはひどく勝手である。悠々閑と、今まで昼寝していた自分のことは棚へあげ、
「又八、早うせんか」
と、人の落ちつきに、眉をしかめて、当って来る。
又八は、身支度もせず、けろりとして、
「なんだい慌てて、軒に火でもついたように、――第一、吉岡道場へ行って、いったいどうするつもりなのだ、おふくろの量見は」
「知れたこと、母子して、お願いしてみるのじゃわ」
「なにを……」
「明日の夜明け、吉岡の門弟衆が武蔵を討つというたであろが、その果し合いの人数のうちへ、わしら母子も加えていただき、及ばずながら力を協せて、武蔵めに、一太刀なりと、恨まにゃならぬ」
「アハハハ、アハハハ、……冗談じゃねえぞ、おふくろ」
「なにを笑うぞ」
「あまり暢気なことをいってるからよ」
「それは、汝れのことじゃ」
「おれが暢気か、おふくろが暢気か、まア街へ出て、世間の噂をちっと聞いて来るがいい。――吉岡方は、先に清十郎を敗られ、伝七郎を討たれ、今度という今度こそは、最後の弔い合戦だ。破れかぶれも手伝って、血の逆った連中ばかりが、もう滅亡したも同様な四条道場に首をあつめ、この上は、多少の外聞にかかわろうとも、なんでも武蔵を打ち殺してしまえ、師匠の讐を弟子が打つ分には、敢て、尋常な手段や作法にこだわっている必要はない――と公然、今度こそは大勢しても武蔵を討つと、言明しているのだ」
「ホウ……そうか」
聞くだけでも耳が娯むように、お杉は眼をほそめて、
「それでは、いかな武蔵めも、こんどはなぶり斬りに遭うじゃろう」
「いや、そこはどうなるか分らない。多分、武蔵の方でも、助太刀を狩りあつめ、古岡方が大勢ならば、彼も多勢で迎えるだろうし、さてそうなれば喧嘩は本物、戦のような騒ぎになるのじゃないかときょうの京都は、その噂で持ちきりなのだ。――そんな騒動の中へ、ヨボヨボなおふくろが助太刀にまいりましたなどと行って見たところで、誰も相手にするものか」
「ウーム……それやそうじゃろが、じゃといって、わしら母子が、これまで尾け狙うてきた武蔵が、他人の手で討たれるのを、黙って見ていてよいものか」
「だから、俺はこう思うんだ。あしたの夜明けごろまでに一乗寺村まで行っていれば、果し合いのある場所も、その様子もきっと分る。――そこで、武蔵が吉岡の者に討たれたら、その場へ行って、母子して両手をつき、武蔵とおれ達のいきさつを詳しく述べて、死骸に一太刀恨ませてもらう。その上、武蔵の髪の毛なり、片袖なりを貰って、かくの通り、武蔵を討ち取ったと故郷の衆に話せば、それでおれ達の顔は立つじゃねえか」
「なるほど……。汝れの考えも智慧らしいが、そうするより他はあるまいの」
坐り直してお杉はまた、
「そうじゃ、それでも故郷への面目は立つわけじゃ。……後はお通ひとり、武蔵さえ亡ければ、お通は木から落ちた猿も同様、見つけ次第、成敗するに手間暇はかからぬ」
独り言に、うなずいて、やっと年寄りのせっかちも、そこで落ちつくところに落ちついたらしい。
又八は、醒めた酒を思い出したように、
「さあ、そうきめたら、今夜の丑満ごろまでは、ゆっくり骨を休めておかなけれやならねえ。……おふくろ、少し早いが、晩飯の一本を、今から酌けて貰おうか」
「酒か。……ム、帳場へいうて来やい。前祝いに、わしも少し飲もう程に」
「どれ……」
と、億劫そうに、手を膝にかけて起ちかけたと思うと、又八は、なにを見たのか、あっと横の小窓へ大きな眼をみはった。
ちらと、白い顔が窓の外に見えたのであった。又八がびっくりしたのは、単にそれが若い女であったというだけではない。
「やっ、朱実じゃねえか」
彼は窓へ駈けよった。
逃げそびれた小猫のように、朱実は木蔭に立ち竦んでいた。
「……まあ又八さんだったの」
彼女もびっくりしたような眼をそこにみはって。
そして、伊吹山のころから今もまだ、帯か袂か、どこかに付けているらしい鈴が、顫えるように彼女の身動きとともに鳴った。
「どうしたのだ、こんなところへ、どうして不意に来たのか」
「……でも、わたしここの旅籠に、もうずっと前から泊っていたんですもの」
「ふウム……、そいつあちっとも知らなかった。じゃあ、お甲と一緒にか」
「いいえ」
「一人で?」
「ええ」
「お甲とはもう一緒にいないのか」
「祇園藤次を知っているでしょう」
「ウム」
「藤次とふたりで、去年の暮、世帯をたたんで他国へ逐電してしまったんです。わたしはその前からお養母さんとは別れて……」
鈴の音がかすかに顫えて鳴る。見れば袂を顔に押し当てて、朱実はいつの間にか泣いているのだった。木蔭の光線の青いせいか、それの襟あしといい細い手といい、又八の記憶にある朱実とはひどく違って来たように思われる。伊吹山の家や、よもぎの寮で、朝夕見ていたような処女の艶はどこにもない。
「――誰じゃあ? 又八」
と、うしろでお杉がいぶかって訊ねた。
又八は振顧って、
「おふくろにも、いつか話したことがあるだろう。あの……お甲の養女さ」
「その養女が、なんでわしらの話を窓の外で立ち聞きなどしていたのじゃ」
「なにもそう悪く取らなくてもいいやな。この旅籠に泊り合せていたのだから、何気なく立ち寄ってみたまでのことだろう。……なあ朱実」
「え、そうなんです。まさか、ここに又八さんがいようなんて、夢にもあたし知らなかった。……ただ、いつぞや、ここへ迷れて来た時に、お通という人は見かけたけれど」
「お通はもういない。おめえ、お通となにか話したのか」
「なにも深い話はしなかったけれど、後で思い出しました。――あの人が、又八さんをお故郷で待っていた許嫁のお通さんなのでしょう」
「……ム、まあ、以前は、そんなわけでもあったんだが」
「又八さんもお養母さんのために……」
「おめえはその後、まだ、独り身かい。だいぶ様子が変ったが」
「わたしも、あのお養母さんのためには、ずいぶん辛い思いを忍んで来ました。それでも育ててもらった恩義があるので、じっと辛抱して来たんですけれど、去年の暮、我慢のならないことがあって、住吉へ遊びに行った出先から、独りで逃げてしまったんですの」
「あのお甲には、おれもおめえも、これからという若い出ばなを滅茶滅茶にされたようなものだ……。畜生め、その代りにゃあ今に、碌な死にざまはしやしねえから見ているがいい」
「……でも、これから先、あたしどうしたらいいのかしら?」
「おれだって、これから先の道は真っ暗だ……。あいつにいった意地もあるから、どうかして、見返してやりてえと思っているが……。あアあ……思うばかりで」
窓越しに、同じ運命を託ち合っていると、お杉はさっきから一人で旅包みを拵えていたが、舌うちして、
「又八、又八。用でもない人間と、なにをぶつぶついうているのじゃ。こよい限りでこの旅籠も立つのじゃないか、汝が身も少し手伝うて身仕舞でもしておかぬか」
なにかまだ話したそうな様子であったが、お杉に気がねして、朱実は、
「じゃあ又八さん、後でまた」
悄々と、立ち去った。
程なく――
ここの離屋には灯りが点る。
夜食の膳には、眺えた酒がつき、酌み交わしている母子の間へ、勘定書が盆に載っている。旅籠の手代だの、亭主だの、かわるがわる別れの挨拶に来て、
「いよいよ今夜のお立ちだそうでございますなあ。長いご逗留にも、なんのおかまいも申しあげませんで。……どうぞこれにお懲りなく、また京都へお越しの折にはぜひとも」
「はい、はい。またお世話になろうも知れませぬ。年暮から初春を越して、思わず三月越しになりましたのう」
「なんだかこう、お名残り惜しゅうございますな」
「ご亭主、お別れじゃ、一盞あげましょう」
「おそれいりまする。……ところでご隠居様、これからお故郷元へお帰りで?」
「いえいえ、まだ故郷へは何日帰れることやら」
「夜中に、お立ちだと伺いましたが、どうしてまたそんな時刻に」
「急にちと大事が起りましてのう。……そうじゃ、お宅に、一乗寺村の割絵図があるまいか」
「一乗寺村といえば、白河からまだずんと端れで、もう叡山に近い淋しい山里。あんな所へ、夜明け前にお出でなされても……」
亭主のいう腰を折って、又八が横から、
「なんでもよいから、その一乗寺村へ行く道筋を、巻紙の端にでも書いておいておくれ」
「承知いたしました。ちょうど一乗寺村から来ている雇人がおりますゆえ、それに聞いて分りよく絵図にして参りましょう。したが、一乗寺村というても広うござりまするが」
又八は少し酔っていた。やたらに鄭重振る亭主の話がうるさそうに、
「行く先のことなんざ心配しなくともいい。道順だけ訊いているのだ」
「おそれ入りました。――では、悠々、お支度を遊ばして」
揉手しながら、亭主は縁へ退りかけた。
ばたばたと、母屋から離屋の周りを、そのとき、旅籠の雇人たちが三、四名駈けていた。亭主のすがたをここに見ると、一人の番頭が、あわてていった。
「旦那、この辺へ逃げて来ませんでしたか」
「なんじゃ。……なにが?」
「あの――この間から奥に一人で泊っていた娘っ子で」
「えっ、逃げたって」
「夕方までは、たしかに、姿が見えたんですが……どうも部屋の様子が」
「いないのか」
「へい」
「阿呆どもが」
煮え湯を飲んだように亭主の顔は変った。客の部屋の閾際で揉手をしている時とは別人のように口汚く、
「逃げられてから騒いだとて、後の祭りじゃ。――あの娘の様子といい、初手から事情のあるのは知れきっている。――それを七日も八日も泊めてから、お前らは初めて一文なしと気がついたのであろが。――そんなことで、宿屋商売が立ってゆかれるか」
「相済みません。つい、処女な娘と思って――まったく一杯食ってしまったんで」
「帳場の立て替えや、旅籠代の倒れは仕方がないが、なにか、相宿のお客様の物でも紛失していないか、それを先に調べて来なさい。エエ忌々しいやつめ」
舌打ちして、亭主も戸外の闇へ、眼いろを研いだ。
夜半を待ちながら、母子はなんべんか銚子を代えた。
お杉は、自分だけ先に、飯茶碗をとって、
「又八、おぬしも、もう酒はよくはないか」
「これだけ」
と、手酌で酌いで――
「飯はたくさんだ」
「湯漬けでも食べておかぬと、体にわるいぞよ」
前の畑や、路地口を、雇人の提燈がしきりと出入りしていた。お杉はそこから見て、
「まだ捕まらぬとみえる」
と、つぶやいた。そして、
「関り合いになってはつまらぬゆえ、亭主の前では黙っていたが、旅籠代を払わずに逃げた娘というのは、昼間、汝れと窓口で話していたあの朱実じゃないのか」
「そうかもしれねえ」
「お甲に育てられた養女では、碌な者であろうはずはないが、あのようなものと出会うても、この後は口など交わしなさるなよ」
「……だがあの女も、考えれば、可哀そうなものさ」
「他人に不愍をかけるもよいが、旅籠代の尻ぬぐいなどさせられては堪らぬ。ここを発つまで、知らぬ顔していやい」
「…………」
又八は、べつなことを考え出しているらしく、髪の根をつかみながら、横になって、
「忌々しい阿女だなあ。思い出すと、彼女の面が天井に見えてくる。……おれを過らした生涯の仇は、武蔵でもねえ、お通でもねえ、あのお甲だ」
お杉は聞き咎めて、
「なにをいうぞ。お甲などという女を討ったところで、故郷の衆が、誉めもせぬし、家名の面目も立ちはせぬがな」
「……ああ、世の中が面倒くさくなった」
旅籠の亭主が、その時、縁先から提燈と顔を見せていった。
「ご隠居さま。ちょうど丑の刻が鳴りましたが」
「どれ……発ちましょうか」
「もう出かけるのか」
又八は、伸びをして、
「亭主、さっきの食い逃げ娘は、捕まったかい」
「いや、あれ限りでございますよ。縹緻が踏めるので、万一、旅籠代や立て替えが取れなくても、住み込ませる口はあると安心していたところ、先手を打たれてしまいましたわい」
縁先へ出て、草鞋の緒をしめながら、又八は振返った。
「オイ、おふくろ、なにをしているんだい? ……。おれを急きたてておいては何日も自分がまごまごしていやがる」
「まあ待たぬかい、気忙しない。……のう又八、あれは汝が身に預けたであろうか」
「なにを」
「この旅包みの側へおいたわしの巾着じゃ。――宿の払いは、胴巻のお金で払い、当座の路銀をその巾着に入れておいたのじゃが」
「そんな物、おれは知らねえよ」
「ヤ、又八、来てみやい。この旅包みに、又八様として、なにやら紙きれが結いつけてあるぞ。……なんじゃと? ……まアいけ図々しやな、元の御縁に免じて、拝借してゆく罪をゆるしてくれと書いてあるわ」
「ふウん……じゃあ朱実が攫って行ったのだろう」
「盗んで、罪をゆるしてくれもないものじゃ。……これ御亭主、客の盗難は、宿主も責めを負わずばなりますまい。なんとして下さるのじゃ」
「へえ……それではご隠居様には、あの食い逃げ娘を、前からご存じでございましたので。――ならば、手前どもで踏み倒された勘定や立て替えのほうを先に、なんとかしていただきたいものでございますが」
亭主がいうと、お杉は、眼を白黒しながら、あわてて顔を横に振った。
「な、なにを仰っしゃる、あんな盗ッ人娘に知る辺はない。ささ、又八、まごまごしていると鶏が啼きだすぞ、出ましょうわい、出ましょうわい」
――まだ月がある。
朝といっても恐ろしく早いのだ。自分たちの影法師が白い道の上に、黒々と重なって動くのが、なんだか不思議に見える。
「案外だなあ」
「ウム、だいぶ見えない顔がある。百四、五十人は集まると思っていたが」
「この分では、半分かな」
「やがて後から見える壬生源左衛門殿や、御子息や、あの親類がたを入れて、まあ六、七十人だろうな」
「吉岡家も廃ったなあ。やはり清十郎様、伝七郎様の二つの柱がもう抜けてしまったのだ。大廈の覆るとはこのことか」
影法師の一かたまりが囁いていると、彼方の石垣の崩れに腰かけている一群が、
「気の弱いことをいうな。盛衰はこの世の常だ」
と、誰か呶鳴るようにこっちへ向っていう。また、べつな一団が、
「来ない奴は来ないにしておけばいいじゃないか。道場を閉じたからには、めいめい自活の道を考える奴もあろう。将来の損得を思慮する人間もあるだろう。当り前なことだ。――その中で、あくまで、意地と義気に生きようとする遺弟だけがここにおのずと集まるのだ」
「百の二百のという人数はかえって邪魔になる。討つべき相手はたった一人ではないか」
「アハハハ。誰かまた、強がっているわい。蓮華王院の時はどうした。そこにいる連中、あの折、居合せながら、みすみす武蔵の姿を見送っていたのじゃないか」
叡山、一乗寺山、如意ヶ岳、すぐ背後の山は皆、まだ動かない雲の懐に深く眠っている。
ここは俗称藪之郷下り松、一乗寺址の田舎道と山道の追分で、辻は三つ股にわかれている。
朝の月を貫いてひょろ長い一本松が傘枝をひろげていた。一乗寺山の裾野地ともいえる山の真下なので、道はすべて傾斜している上に石ころが多く、雨降りの時は流れになる水のない河の跡が幾すじも露出している。
下り松を中心に、吉岡道場の面々は、月夜蟹のようにさっきからその辺りを占めて、
「この街道が三つに分れているので、武蔵がどこから来るかそれが考えものだ。同勢をすべて三手に分けて、途中に伏せ、下り松には名目人の源次郎様に、壬生の源左どの、その他、旗本格として御池十郎左、植田良平殿など、古参方が十名ほどひかえておられたらよろしかろう」
地形を案じていう者があると、また一人が、
「いや、ここの足場は狭隘だから、あまり一ヵ所に人数をかためておいてはかえって不利だろう。それよりも、もっと距離をおいて、武蔵の通り道にかくれ、いちど、武蔵の姿をやり過してから、前と背と、いちどに起って、ふくろ包みにすれば万討ちもらすことはあるまい」
と、一説を立てる。
人数の多数からおのずとわきあがる意気は天をも衝くように見えた。離れたり集まったりする影法師には皆、長やかな刀の鐺か、横たえている槍の影が串刺しになっていた。そしてその中には、一人の卑怯者らしいものもなかった。
「――来た、来た」
まだ十分に時刻は早いと分っていながら、彼方から一人が叫んで来ると、すぐに、ぎくっと肌のうぶ毛が凍るような心地して、影法師は皆しいんと黙りこくった。
「源次郎様だ」
「駕でござったな」
「なんといっても、まだお年若だからな」
人々の眼の向いた方に――遠く提燈の灯が三つ四つ――その提燈よりも明るい月の下を叡山颪しに吹かれながら、ちらちら近づいて来るのが見えた。
「やあ、揃ったな、各」
駕を捨てたのは老人だった。次の駕からまだ十三、四歳の少年が降りた。
少年も老人も、白鉢巻をして、高く股立をかかげていた。壬生の源左衛門父子である。
「これ、源次郎」
老人は、子へいい聞かせた。
「そちはこの下り松のところに立っておればよい。松の根元から動くでないぞ」
源次郎は黙ってうなずいた。
その頭を撫でながら、
「きょうの果し合いは、そちが名目人になっているが、戦いは、他の門弟衆がやる。おまえはまだ幼いからじっとここに控えていればよいのじゃ」
源次郎はこっくりして、正直にすぐ松の根元へ行き、五月人形のように凛々しく立った。
「まだよい、まだちと早い、夜明けまでにはだいぶ間があるでな」
腰を探って、がん首の大きな太閤張りの煙管を抜き、
「火はないか」
と、まず味方に余裕のあるところを示すつもりで見まわすと、
「壬生の御老台、火打石はいくらもあるが、その前に、人数を手分けしておいてはどうか」
御池十郎左衛門が前へ出ていう。
「それも一理あるな」
たとえ血脈の間がらとはいえ、幼少の子を果し合いの名目人に提供して惜しまないほどの好々爺である。一も二もなく他説に従って、
「――では早速、備え立てして敵を待とう。しかし、この人数をどう分けるというのか」
「この下り松を中心とし、三方の街道へ、各約二十間ばかりの距離をおいて、道の両側に潜んでいることとする」
「して、ここには」
「源次郎様のそばには、拙者、また御老台、その他十名ほどの者がいて、護るばかりでなく、三道のどこからか、武蔵が来たとの合図が起ったら、すぐそれへ合体して一挙に彼を葬ってしまう」
「待たっしゃい」
老人らしく、熟っくり考えこんで、
「――幾ヵ所にも分割してしまうことになるなら、武蔵が、どの道から来るかわからぬが、真っ先に彼へぶつかる人数は、およそ二十名ぐらいにしか当るまい」
「それだけが、一斉に取り巻いているうちには」
「いや、そうでないぞ。武蔵にも、何名かの加勢がついて来るにきまっている。それのみでなく、いつぞやの雪の夜、伝七郎との勝負の果てに、あの蓮華王院での退きようを見ても、武蔵という奴、剣も鋭いかしらんが、退きも上手じゃ。いわゆる逃げ上手という兵法を知った奴じゃ。だから、手薄なところで、素ばやく三、四名に傷を負わせ、さっと引き揚げて――後に一乗寺址においては、吉岡の遺弟七十余名を相手に、われ一人にて勝ったりと、世間へいい触らすかもわからぬて」
「いや、そうはいわさぬ」
「――というたところで後となれば水掛論。武蔵の方に、何名助太刀がついて来ても、世間は彼の名の一つしかいわぬ。その一人の名と大勢の名とでは、世間は相違なく、大勢らしい方を憎む」
「わかり申した。つまり今度という今度こそは、断じて、武蔵を生かして逃がすようなことがあってはならぬということでしょう」
「そうじゃ」
「仰っしゃるまでもなく、万が一にも、ふたたび武蔵を逃がすような失策を生じたら、後でどう弁解しても、われわれの汚名はもう拭われますまい。ですから今暁は、ただ一つに彼奴を討ち殺すのを目的とし、そのためには、手段も選ばない所存でござる。死人に口なし、殺してさえしまえば、世間はわれわれの宣ぶる言を信じて聞くしかないのですから」
御池十郎左衛門はそういって、辺りに群れを作っている人々のうちを見廻して、四、五人の名を呼びあげた。
半弓を携えた門人が三名、鉄砲を持った門人が一名、
「お呼びですか」
と、前へ進んだ。
御池十郎左衛門は、
「ウム」
と頷いたのみで、源左老人へ向っていった。
「御老台、実は、こういう用意までいたしているのでござる。もう御懸念は去りましたろう」
「ヤ、飛び道具」
「どこか、小高い場所か、樹の上に伏せておいて」
「醜い仕方と、世間の評がうるさくはないか」
「世評よりは武蔵を斃すことが第一だ。勝ちさえすれば世評も作れる。敗れたら真実をいっても、世間は泣き言としか聞いてくれまい」
「よし、そこまで、腹をすえてやる儀なら、異存はない。たとえ武蔵に、五人や六人の加勢がついて来ても、飛び道具があればよも討ち洩らしもいたすまい。……では評議に手間取っているうちに、不意を衝かれてもなるまいぞ。采配はまかせる。すぐ配備配備」
老人が、合点すると、
「では、潜め」
一同の頭の上へ、十郎左衛門が叱咤をながした。
三方の街道は、敵の出ばなを挫き、同時に、前後を挟撃するという戦法のもとにかくれている前衛であり、下り松は、本陣という形でここには十名ほどの中堅が残る。
蘆間の雁のように、黒い影法師は駈け別れ、藪に沈み、樹蔭に隠れ、田の畦に腹這いになった。
また、その辺りの地を相して、高い樹の上に、半弓を負ってスルスルと登って行った影法師もある。
鉄砲を持った男は、下り松の梢によじ登り、月明りを気にしながら、自分の影をかくすのに苦心をしていた。
枯れ松葉や木の皮が、ぱらぱらこぼれて来た。下に立っていた飾り人形のような源次郎少年は、襟くびへ手をやりながら身ぶるいをした。
見咎めた源左老人が、
「なんじゃ、顫えているのか。臆病者めが」
「背中へ松葉がはいったんです。なんにも怖くなどありません」
「それならよいが、おぬしにもよい経験というものだ。やがて斬合が始まるから、よく見ておくのだぞ」
すると、三方道のいちばん東にあたる修学院道の方で、突然、
(馬鹿ッ!)
と、大きな声が聞え、ざざざッ――とその辺の藪が鳴り騒いだ。
潜んでいた人間のうごきが方々でいるところを明らかにした。飾り人形の源次郎は、
「恐いッ」
と、口走って、源左老人の腰へしがみついた。
「来たのだ!」
御池十郎左衛門はすぐ気配の立ったほうへ向って駈け出した。――しかし駈けてゆくうちに、変だな? という気持がした。
案の定、待ち設けていた敵ではなかったのである。いつぞや六条柳町の総門の前で、双方のあいだに立って口をきいたあの前髪若衆、佐々木小次郎がそこに突っ立って、
「眼はないのか、戦う前から眼が上がっていられるな。わしを武蔵と間違えて突ッかかるような浮き腰では心ぼそい。わしは、今朝の試合の見届け人として来たのだ。立会人へ、藪から棒に――いや藪から槍を突きつける馬鹿者があるか」
と、例の大人びた高慢顔で、そこらの吉岡門人を叱りつけているのだった。
しかし、此方も気の立っている折ではあるし、小次郎のそうした態度に、不審を抱く者もあって、
(こいつ、臭いぞ)
(武蔵に助太刀を頼まれて、先に様子を見に来たのかも知れぬ)
吉岡方の者は囁いて、手出しは一応控えたものの、彼のまわりを解こうとはしないのであった。
そこへ十郎左衛門が駈けつけて来たので、小次郎のひとみはすぐ衆を捨てて、割り込んで来た十郎左衛門へ喰ってかかり、
「立会人として今暁これまでまいったるに、吉岡衆はわしをも敵と見てかかった。これはそもそも貴所のお指図でありまするか。しかるとせば、不肖ながら、佐々木小次郎も、久しく伝家の物干竿に生血の磨ぎを怠っていたところで――勿怪の倖せといいたいのだ。武蔵に助太刀する縁故はさらにないが、自分の面目上、相手となっても差しつかえないが。ご返答を聞こう!」
威猛高な獅子吼である。
こうした高飛車な物腰は、なんぞというと、この小次郎の常套的な態度であるが、その姿や前髪の優しげなところだけ見ていた者は、ちょっと、度胆を抜かれてしまう。
――だが、御池十郎左衛門は、その手は喰わないという顔つきで、
「ハハハハ、これはひどいご立腹だな。しかし、今暁の試合に、貴公を立会人として、誰が頼んだか。――当吉岡一門の者としては依頼した覚えがないが、それとも武蔵からお頼みをうけて来られたか」
「だまんなさい。いつぞや六条の往来に、高札を立てた折、確と、わしから双方へいいおいた」
「なるほど、あの時貴公はいった。――自分が立会人に立つとか立たぬとか。――だがその折、武蔵も貴公に頼むとはいわなかったし、当方でもお願い申すといったつもりはない。要するに、貴公一人が事好みに、出る幕でもない幕へ、独りで役を買って出たのでござろう。そういうおせッ介者は世間によくあるものだて」
「いうたな」
小次郎の激発は、もう虚勢ではなかった。
「――帰れっ」
十郎左衛門はさらにいって、
「見世物ではないっ」
と、唾するように苦りきった。
「……ウム」
息を引くように、青ざめた面をうなずかせて、小次郎はすぐ身を翻した。
「――見ておれ、うぬら」
彼が元の道のほうへ駈け出して行こうとすると、ちょうどそのとき、十郎左衛門より一足遅れてここへ来た壬生の源左老人が、
「お若いの、小次郎殿とやら、待ちなされ」
と、あわてて後ろから呼び止めた。
「わしに、用はあるまい。いまの一言、後で眼にもの見せてくれるから待っておれ」
「まあ、そういわないで、しばらく、しばらく」
老人はそういって、息巻きながら立ち去ろうとしかけた小次郎の前に廻って、
「此方は、清十郎の叔父にあたる者でござる。おてまえ様の儀は、かねて、清十郎からも、頼母しき御仁なりと承っておりました。どういう行き違いか、門弟どもの卒爾は、この老人に免じて勘弁して下さるよう」
「そうご挨拶をされると恐縮します。四条道場には、以前、清十郎殿との好誼もあるので、助太刀とまでは行かずとも、十分好意をもっているつもりなのに……余りといえば、雑言を吐くので」
「ご尤もじゃ、ご立腹は尤もじゃ。したが、唯今のことは、まあお聞き流しの上、どうぞ、清十郎、伝七郎ふたりのために、何分、ご加担をおねがい申す」
如才なく、源左老人は、この精悍な慢心青年を、いい気持にさせて、宥めぬいた。
これだけの備えがある以上、小次郎一人の助太刀など頼るにも当らない。けれど、この若者の口から自分たちの卑怯な戦法が吹聴されてはと、それを源左老人はおそれたにちがいない。
「なにとぞ、水に流して」
と、懇ろな謝りように、小次郎は前の怒りようとは、打って変って、
「いや御老人、そう年上のあなたから何遍も頭を下げられると、若輩の小次郎はどうしてよいか分らなくなる。まずお手を上げてくだされい」
案外、あっさり機嫌を直して――それと共に、吉岡方の者へ、例の流暢な弁舌で、こう激励の辞を述べ、そして、武蔵のことを、口を極めて罵り出した。
「わしは元より、清十郎殿とはご懇意だったし、武蔵には、さっきもいうた通り、なんの由縁もない人間です。――さすれば人情としても、知らぬ武蔵よりは、御縁故のある吉岡衆に勝たせたいと思うのが当然でござろう。――しかるになんたる不覚です、二度までの敗北とは。四条道場は離散、吉岡家は瓦滅。……ああ、見てはいられません。古来、兵家の試合多しといえども、こんな悲惨事は見たことも聞いたこともない。――室町家御指南役ともあろう大家が、名もなき一介の田舎剣士のために、かかる悲運に立ち至ろうとはです」
小次郎は耳を紅くしているかと思われるような語気で演舌するのだった。源左老人を始め皆彼の熱力のある舌に魅せられて黙ってしまった。そして、これほど好意を持たれている小次郎に対してなんであんな暴言を吐いたかと、十郎左衛門などはありあり悔いている顔つきであった。
そういう空気を見わたすと、小次郎はわが独壇場のように、いよいよ舌に熱を加えて、
「わしも将来は、兵法をもって一家を成そうとする者なので、単なる好奇心からではなく、努めて試合、真剣勝負などの際は弥次馬に交じって出かけます。傍観者となっているのもよい勉強になるからでござる。――けれどおよそ今日まで、貴所方と武蔵との試合ほど傍で見ていて焦々するものはなかった。――蓮華王院の時でも、また蓮台寺野でも、お付添もいたろうに、なぜ武蔵を無事に逃がしたのでござるか。師を討たれながら、武蔵をして、洛内を横行させて、だまっておられる各の気もちがわしには分りません」
乾いた唇を舐めてさらに、
「なるほど、渡り者の兵法者としては、武蔵はたしかに強い、驚くべき烈しい男にはちがいない。それはこの小次郎も、一、二度出会ってよく分っておる。――で実は、よけいなおせっかいに似たことだが、いったい彼奴の素姓生国はどういう者かと、先頃来、いろいろ調べてみたのです。もっとも、それには実は、彼を十七歳の頃から知っている或る女に出会ったのが、手がかりの緒口となったのですが」
――と、朱実の名は隠して、
「その女から訊き、また諸方いろいろ詮索してみたところ、彼奴の生い立ちは、作州の郷士の小せがれで、関ヶ原の役から帰国後、村で乱暴を働き、遂に国元を追われて諸方を流浪してきたという、取るに足らない人物なのです。けれど、あの剣は、天性とでもいうか、野獣の強さとでもいうか、そういう命知らずなので、無茶に道理が負ける喩えで、かえって、正法の剣が不覚をとるものとわしは思う。――故にです。武蔵を討つのに、尋常にかかっては敗れる、猛獣は罠に穽して獲るしかないように、奇策を用いねばまたいたされますぞ。その辺のこと、十分、敵を観てお考えなされておるかの」
源左老人が、好意を謝して、そこに抜かりのないことを説明すると、小次郎はうなずいて、なおいった。
「そこまで行き届いておれば万が一にも、討ち洩らしはあるまいが、まだ念のために、もう一度、突っ込んだ策があってもいいと思う」
「――策?」
と源左老人は、小次郎の賢しらな顔つきを見直して、
「なんの、これ以上、策も備えも要りませぬ。ご好意はありがたいが」
いうと、小次郎はやや執こい。
「いやそうでないぞ御老人、武蔵がのめのめと、ここまで正直にやって参れば、それは各の術中にかかったも同様、もはや遁れる術はなかろうが、万一、ここにかような備えがあることを未然に知って、道を交わしてしまったらそれまでではありませぬか」
「そしたら、笑うてくれるまでのこと――。京の辻々へ、武蔵逃亡と、高札に掲げて、天下へ笑い者にしてやるわさ」
「貴所方の名分は、なるほど、それでも半分は立つだろうが、武蔵もまた、世間へ出て、各の卑劣を誇張して訴えましょう。さすれば、それで師の怨恨をそそいだことにはならぬ。――断じて、武蔵をここで刺殺してしまわねば意味がない。その武蔵を、きっと殺してしまうためには、この必殺の地へどうしても彼奴が来るように、誘いの策が要るとわしは思うが」
「はて、そんな策が、あろうかな?」
「ある」
小次郎はいった。
いかにも自信のある口吻で、
「ある! 策はいくらでも……」
と、声を落して、ふと、常の傲岸な顔には見せない狎れ易い眸をして、源左老人の耳へ口をよせ、
「……な。……どうです」
と、ささやいた。
「……ム、む、なるほど」
老人はしきりと頷いて、今度はそのまま御池十郎左衛門の耳へ顔をよせて計った。
おとといの夜半、ここの木賃宿を叩いて、久しぶりの訪れに、木賃の老爺を驚かせた宮本武蔵は、一夜を明かすと、鞍馬寺へ行って来ると断って出かけたまま、きのうは一日姿を見せなかった。
(晩には)
と、老爺は雑炊を温めなどして待っていたが、その晩も帰らず、やがて翌る日のたそがれ近くに帰って来たかと思うと、
(鞍馬みやげじゃ)
と、苞に入った長芋を老爺にくれた。
それから、もうひとつの方は、近所の店で求めて来た品らしく、一巻の奈良晒布を出して、これで肌着と腹巻と下紐とを急に縫ってもらいたいという。
木賃の老爺は、すぐそれを持って、お針のできる近所の娘の家へ頼みにゆき、帰りの足も無駄をせず、酒屋から酒をさげて来て、山芋汁を肴に、夜半を世間ばなしに費やしていると、そこへちょうど、頼んでやった肌着や腹巻もできて来た。
それを、枕元において、武蔵は眠りについたのであったが、ふと老爺が真夜中に眼をさましてみると、裏手の井戸ばたで、誰かさかんに水を浴びているような音がする。何気なく覗いてみると、武蔵はもう寝床をぬけて、月の光の下に沐浴を済まし、宵にできた真っ白な晒布の肌着を着、腹巻をしめ、その上に、いつもの衣服を纒っているのであった。
まだ月もそう西へは傾っていない。――今頃からそんな支度をしてどこへ? と老爺がいぶかって問うと、いや、先頃から洛中洛内を見、きのうは鞍馬にも登って、もうこの京都にも少し飽いた気がするので、これから暁の路をかけて、月の叡山に登ってゆき、志賀の湖の日の出を拝んで、それを鹿島立ちに、江戸表へ下向してみようと思い立った。――そう思い立つと、眼が冴えてしまい、おまえを起すのも気の毒と思ったから、旅籠賃や酒代も、枕元に包んで置いてある。少ないが、あれを納めてくれ。また、三年後か四年後か、京都へ出たらおまえの家へ泊りに来よう。
――武蔵はそう答えて、
「おやじ、後を閉めておいてくれよ」
もうすたすたと、横の畑道から廻って、牛糞の多い北野の往来へ出て行くのだった。
老爺が、名残惜しげに、小さい窓から見送っていると、武蔵は、十歩ほど往来をあるくと、布緒の草鞋の緒を、ちょっと締め直していた。
つかの間であったが熟く眠ったと思う。頭脳のうちはこよいの夜空のように冴え、澄み切ったそのものと、この身とが、恰も、ひとつ物のようにすら見えて、一歩一歩なにものかの中へ、身は溶け入ってゆくのかと思う。
「ゆるりと歩もう」
武蔵は、意識的に、大股な足癖を惜しんで――
「……さて、人間の世をながめるのも、今夜かぎりとなったな」
なんの詠嘆でもない、悲嘆でもない、そう痛切なる感慨では決してなかった。ふと――しかしなんらの虚飾もない心の底から――ふっとのぼった呟きであった。
まだ、一乗寺址下り松までは、だいぶ距離があるし、時刻も夜半を過ぎたばかりなので、死というものが、顔の前まで切実に感じられて来ないのだろうか。
きのう一日、鞍馬の奥の院へ行って、松籟の中に、黙って坐りこんで降りて来たのであったが、無相無身になってみようと努力したその時のほうが、どうしても、死というものから離れられなくて、結局、なんのために坐禅などしに山へのぼったのかと、浅ましくさえ覚えた。
それに反して、今夜の清々しさは、どういうものだろうと、彼はわれを疑う。――宵に、木賃のおやじと少し含んでみた酒が、適度にまわって、熟睡して、醒めた肉体に井戸水を浴び、新しい晒布の肌着でひき緊まっているこの体というものが、どう思ってみても今死ぬものとは思われない。
(――そうだ、腫んだ足を引き摺って、伊勢の宮の裏山へ登った時――あの晩の星もきれいだったな。あれは、冱寒の冬だったが、今ごろならば、氷花の樹々にも、もう山桜のつぼみが膨らんでいる時分)
考えようともしないそんなことが頭脳のうちに描き出され、考えようとする行く先の必死の問題にはなんの知性もわいて来ない。
あまりにも、覚悟し切ってしまった、その死に対して、彼の知性はもう間に合いもしない――死の意義、死の苦痛、死後の先などと百歳まで生きてみても、解決しそうもないそんな問題に、今さら、焦躁する愚を熄めてしまったのかも知れない。
こんな深夜なのに、道のどこからともなく、笙に和してひちりきの音が冷々とながれていた。
そこらの小路の公卿屋敷らしい。吹奏の律調の厳かな裡にも哀調があるところから察すると、酒興に更けている公卿たちのすさびとも思われない。柩をかこんで暁を待つ通夜の人々や、榊の前の白い灯がふと武蔵の眼に泛かぶ――
「――自分より一足先に死んでいる人がある」
あしたは、死出の山で、その人とも、どこかで知己になりそうな気がして、微笑まれる。
通夜のひちりきは、歩いているうち、もう余程さっきから耳には聞えていたのかもしれない。――その笙やひちりきの音から伊勢の宮の稚児の館が憶い出され、腫んだ足をひき摺って登った鷲ヶ岳の樹々の氷花が、ふと考え出されたのであろう。
はて? ――と武蔵は、自分の爽やかな頭脳をそこで疑って見ざるを得なかった。――このすずやかな心地は、実に、一歩一歩、死地へ足を向けている体から来るところの――自分でも意識しない極度な恐怖のうつつではあるまいかと。
そう、自分に訊ねて、ぴたと自己の足を大地に踏み止めてみた時、道はすでに相国寺の大路端れに出ていて、半町ほど先には、ひろい川面の水が銀鱗を立てて、水に近い館の築地にまでその明るい光をぎらぎら映していた。
――と、その築地の角に、人影が一つ黒く、じっと立ってこっちを見ていた。
武蔵は足を止めた。
先に見せた人影は、反対にこっちへ歩き出して来る。その影に従いて、もひとつ小さい影が月の道を転がって来る。近づいてから、それはその男の連れている犬だとわかった。
「…………」
手足の先にまでこめていた或る力を急に抜いて、武蔵は無言のまますれちがった。
犬を連れた通行人は、通り過ぎてから遽に振向いて声をかけた。
「お武家さま。お武家さま」
「……わしか」
四、五間を隔てたまま、
「さようでございます」
腰のひくい凡下だ。職人袴に烏帽子をかぶっている。
「なんだな?」
「ひょんなお訊ねをいたしますが、この道筋に、明々と点して起きていたおやしきはございませぬかな」
「さ。気がつかずにまいったが、なかったように思う」
「はて、それでは、この道筋でもないかしらて?」
「なにをさがしておるのか」
「人の死んだ家でございます」
「それならあった」
「お、お見かけなさいましたか」
「この深夜だが、笙やひちりきの音がもれていた。そこではないか、半町ほど先だった」
「違いございません。先に神官方が、お通夜に行っておりますはずで」
「通夜にまいるのか」
「てまえは鳥部山の柩造りでございまするが、うかつにも、吉田山の松尾様と合点して、吉田山へお訪ねいたしましたところ、もう二月も前にお移りになったのだそうで……いやもう、夜は更けて問う家とてはございませぬし、この辺りも知れ難いところでございますなあ」
「吉田山の松尾? ――元吉田山にいてこの辺りへひき移って来た家と申すか」
「そうと知らなかったので、とんだ無駄足をいたしましてな。いや、ありがとう存じました」
「待て待て」
武蔵は二、三歩出て、
「近衛家の用人を勤めていた松尾要人の家へゆくのか」
「その松尾様が、たった十日ほどわずろうて、お亡くなりなされました」
「主人が」
「へい」
「…………」
――そうか。と呻くようにいったまま、武蔵はもう歩いていた。柩屋も反対な方へ歩いていた。取り残された小犬が、あわてて後から転がってゆく。
「……死んだか」
口の裡でいってみた。
しかし武蔵はそれ以上なんの感傷も抱かなかった。――死んだか。実に、そう思うだけだった。自己の死すら感傷になれないのである。いわんや、他人をや。爪に灯をともすように、生涯いじいじ小金を蓄えて死んで行った酷薄なる叔母の良人――
それよりは、武蔵はむしろ、飢えと寒さにふるえた元日の朝、加茂川の凍った水のほとりで焼いて喰べた餅のにおいの方が今ふと思い出された。
(美味かったな)
と思う。
良人にわかれて独りで暮す叔母を思う。
すぐ彼の足は、上加茂の流れの岸に立っていた。河をへだてて、満目に三十六峰が黒々と空からせまる。
その山の一つ一つが、皆、武蔵に対して敵意を示しているように見えた。
――じっと、そこに立ち尽していることややしばらくの後、武蔵は、
「ウム」
と、独り頷いた。
河原へ向って、堤の上から降りて行く。そこには、鎖のように小舟を繋いだ舟橋が架かっていた。
上京の方面から叡山――志賀山越えの方角へ渡ろうとすれば、どうしても、この一路へかかることになる。
「おおう……いっ」
武蔵の影が、加茂の舟橋の中ごろまで渡って来た時である。こう呼ばわる声がする。
淙々と瀬の水の戯れは、月の白い限りの天地を占めて独り楽しんでいる。上流から下流まで、ここは奥丹波の風の通路のように冷々と夜気が流れている。――誰が誰をよぶのか、どこに声の主がいるのか、遽かに知るには余りに天地が濶い。
「おオーい」
またしても呼び抜く。
武蔵は、二度足を止めたが、もう心にかけず、糺の中の洲を越えて対岸へ跳び移ってしまった。
と、一条白河のほうから河原づたいに、手をあげながら駈けて来るものがある。見たようなと思った眼に誤りはなかった。佐々木小次郎なのである。
「やあ」
近づきながらこう親しそうに小次郎は声をかけた。そして、武蔵の姿をじっと見、また舟橋のほうを見渡してから、
「お一人か」
といった。
武蔵は頷いて、
「一人です」
と、当然のようにいう。
挨拶が少し前後している。それから小次郎は改めていった。
「いつぞやの夜は失礼いたした。不行届な扱いを受けて下すって、有難くぞんじています」
「いやその折はどうも」
「さて、――これから約束の場所へ赴かれるのか」
「はい」
「お一人で?」
諄いと、承知しながら、小次郎はまたたずねた。
「一人です」
武蔵の返辞も、前と同じであったのが、かえって、小次郎の耳にはよく聞えた。
「ふふむ……そうですか。しかし武蔵どの、貴所はこの間、この小次郎が誌して六条へ建てたあの公約の高札表を、なにか、読みちがえてはおられぬか」
「いいやべつに」
「でもあの高札文には、この前の清十郎とそこ許との試合のように一名と一名に限るとは書いてないのでござるぞ」
「わかっております」
「――吉岡方の名目人は幼少のただ名だけのもの。あとは一門遺弟となっている。遺弟といえば、十人も遺弟、百人も遺弟、千人も……であるが、その点抜かられたな」
「なぜですか」
「吉岡の遺弟のうちでも、弱腰なものは逃げたり、不参らしく見ゆるが、骨のある門人は、こぞって、藪之郷いったいに備え、下り松を中心に、貴所の来るのを待ちかまえている態に見ゆる」
「小次郎殿には、すでにそこをお見届けでござりますか」
「念のために。――そして今、こは相手方の武蔵どのにとって一大事なりと思慮いたしたので、一乗寺址から急いで引っ返してまいり、およそこの舟橋が貴所の通路ではないかと計って、お待ち申していたのでありまする。――高札表を認めた立会人の務めでもござれば」
「ご苦労に思います」
「右様なわけでござるが、それでも貴所は、一人で行くおつもりか。――それとも、他の助人たちは、べつな道をとって行かれたか」
「自分一名のほか、もう一名、自分とともに歩いてまいりました」
「え。どこへ」
武蔵は、地上のわが影法師を指さして、
「ここに」
といった。
笑う歯が月に白かった。
冗談などいいそうもない武蔵が、ニコッと笑って不意に戯れをいったので、小次郎は、ちょっとまごつきながら、
「いや、冗談ごとではありませぬぞ、武蔵どの」
よけい真面目づくると、
「拙者も、冗談はいいませぬ」
「でも、影法師と二人づれなどとは、人を小馬鹿にしたおことばではないか」
「しからば――」
武蔵は、小次郎以上、きっと真面目な態を示して、
「親鸞聖人の申されたことばとやらに――念仏行者は常に二人づれなり、弥陀と二人づれなり。とあったように覚えておるが、あれも冗談ごとでしょうか」
「…………」
「何様、ただ、形のうえより観ずれば、吉岡衆はさだめし大勢でござろうし、この武蔵は、見らるる如くただの一名。勝負にはならぬと小次郎殿も、拙者を案じて賜わるのであろうが、乞う、お案じくださるな」
武蔵の信念は、言葉のひびきからも脈を搏って、
「彼が十人の多勢を擁するゆえ、われも十人の勢をもって当ろうとすれば、彼は二十人の備えを立てて打ってくるに違いない。彼二十人なれば、われも二十人の勢をもって当らんとすれば、彼はまた三十名、四十名を呼号して集まるでしょう。さすれば、世間を騒がすことも甚だしく、多くの負傷なども出して、治世の掟を紊すばかりか、それが剣の道に益するところはいずれもない。百害あって一益なしです」
「なるほど、だが武蔵どの、みすみす負けと分っている戦をするのは、兵法にないと思うが」
「ある場合もありましょう」
「ない! それでは兵法ではない、無法というものだ、滅茶だ」
「では、兵法にはないが、拙者の場合だけには、あるとしておこう」
「外れている」
「……ハハハハ」
武蔵はもう答えない。
しかし、小次郎は熄まない。
「そんな兵法に外れている戦の仕方をなぜなさるのじゃ。なぜもっと、活路をお取りなさらぬのだ」
「活路は、今歩いている、この道こそ、拙者にとっては活路です」
「冥途の道でなくば、倖いだが――」
「或はもう、今越えたのが三途の川、今踏んでゆく道が一里塚、行くての丘は針の山かもしれません。――しかし、自分を生かす活路はこの一筋よりほかにあろうとも思われぬ」
「死神にとりつかれたようなことを仰っしゃる」
「なんであろうとよい。生きて死ぬる者もある。死んで生きる者もある」
「不愍な……」
独り語のように小次郎が嘲笑うと武蔵は、立ち止まって、
「小次郎どの――この街道は真っ直何処へ通じますな」
「花ノ木村から一乗寺藪之郷――すなわち、貴所の死場所の下り松を経て――これから叡山の雲母坂へ通っております。それゆえ、雲母坂道ともいう裏街道」
「下り松まで、道程は」
「ここからは、はや半里余り、ゆるゆる歩いて行かれても、時刻の余裕はまだ十分」
「では、後刻また」
武蔵がふいに、横道へ曲りかけると、
「ヤ、道がちがう。武蔵どの、そう行っては方角が違う」
あわてて小次郎は注意した。
武蔵はうなずいた。小次郎の注意に対して、素直にうなずいた。
しかし見ていると、曲った道をそのままなお歩いてゆく様子なので、小次郎はもいちど、
「道が違いますぞ」
声をかけると、
「はあ」
と、分っているような返辞。
並木のすぐ後ろで、窪地の傾斜に沿い、だんだん畑がある、茅ぶき屋根が見える。その低い方へ武蔵は降りてゆくのである。雑木の隙間から後ろ姿が見える。――月を仰いでぽつねんと立っている姿がわかる。
小次郎は、独りで苦笑を頬に流しながら、
「……なんだ、小用か」
呟いて、彼も月を仰ぐ。
「だいぶ西へ傾いて来たなあ。……この月がかくれる頃には、何人かの人命も消えてゆくのだ」
彼の好奇心は頻りといろいろな予想を描く。
武蔵がなぶり殺しにされることは、結局においては確実だが、あの男のことである、仆れるまでに何人の敵を斬るか。
「そこが見ものだ」
と、彼は思う。そして今からそれを予想してみるだけでも、ぞくぞくして来て、肌は総毛だち、血は全身を駆けて待ち遠しがる。
「滅多に遭い難いものにわしは遭った。蓮台寺野の折も、次の時も、実見できなかったが、今暁は見られる。……はてな、武蔵はまだか?」
ちょっと、低地の道を覗いてみたが、まだ戻って来る影は見えない。小次郎は立っていてもつまらないので、木の根に腰をおろした。
そしてまた、密かに空想を楽しんでいる――
「あの落ちつき澄ましている様子では、まったく死を決しているらしいから、かなりなところまで戦うだろう。なるべく、斬って斬って斬りまくってくれたほうが見ごたえがあっていい。……だが、吉岡のほうでは飛道具の備えまでしているといったな。……飛道具でどんと一発やられてしまっては、万事終ってしまう。……はて、それでは面白くないぞ。そうだ。そのことだけは、武蔵に耳打ちしておいてやろう」
だいぶ待った。
夜霧が腰に冷たくなる。小次郎は身を起して、
「武蔵どの」
呼んでみたのである。
おかしいぞ? ――と今頃になって思ってみることが、彼自身にもとたんに不安と焦りを呼び起していた。――タタタタタと小次郎は低地へ降りて行った。
「武蔵どの」
崖下の農家は真っ暗な竹むらに囲まれていて、どこかで水車の音がするが、その流れさえよく見えない。
「しまったッ!」
水を飛んで、小次郎は向う側の崖の上へすぐ出てみた。人影らしいものは見あたらない。白河あたりの寺院の屋根、森、眠っている大文字山、如意ヶ岳、一乗寺山、叡山――広い大根畑。
それから月が一つ。
「しまったッ。卑怯者め」
小次郎は武蔵が逃げたなと直覚した。あの落ちつきすましていた様子もそのせいであったかと今にして思う。道理で余りいうことも出来過ぎていた。
「そうだ、早く」
小次郎は身を翻して、元の道へ出た。そこにも、武蔵の影はない。彼の足は宙をとんで駈け出した。――勿論、一乗寺下り松へ真っ直に。
――遠く遠く、見ているまに駈け去って小さくなって行く佐々木小次郎の影を見送って、武蔵は思わずにたりと笑った。
たった今、その小次郎が立っていた所に、武蔵は立っているのである。なぜ、彼があんなにも捜したのに知れなかったのかを考えてみると、小次郎は居場所を捨てて他を捜したが、武蔵はかえってその小次郎のいたすぐ後ろの樹蔭に来ていたからであった。
――しかし、なにしろまずこれでよかった。と武蔵は思う。
他人の死に興味をもち、他人が鮮血を賭けてする生霊のやむなき大悲願事をふところ手で――後学のためとかなんとかいって――虫のよい傍観者に廻り、その上、双方へ恩着せがましく、いい子になっていようという横着者。
(その手は食わない)
武蔵は、おかしくなった。
頻りと敵の侮れぬことを告げ、こちらへ対して助太刀の有無を訊いたのは、そういったら武蔵が膝を屈して武士の情けに一臂の力を貸してたまわらぬか――とでもいうかと思っていたかしらぬが、武蔵は、その言葉にも乗らなかった。
(生きよう。勝とう)
と思えば助太刀もほしくなるかも知れぬが、武蔵には、勝てる気もない、明日の後まで、生きようとも思われない――いやありのままにいえばそんな自信はなかったという方が正しかろう。
ひそかに、彼がここへ来るまでのあいだに探り得たところでも、今暁の敵は百数十名にものぼるらしく察しられた。あらゆる方法のもとに、自分を害さずば熄まない状態にあることも頷けたのである。――なんで生きる工夫に焦ってみる余地があろう。
けれど武蔵は、その中でもかつて沢庵のいった――
(真に生命を愛する者こそ、真の勇者である)
という言葉を決して忘失してしまっているわけではない。
(この生命!)
そしてまた、
(二度と生れ難いこの人生!)
を、今も、ひしと五体のうちに抱きしめているのであった。
だが。
――生命を愛する。
ということは、単に無為飽食を守っているということとはたいへんに意味が違う。だらだら長生きを考えるということではさらさらない。いかにしてこの二度と抱きしめることのできない生命との余儀なきわかれにも、そのいのちに意義あらしめるか――価値あらしめるか――捨てるまでも、鏘然とこの世に意義ある生命の光芒を曳くか。
問題はそこにある。何千年何万年という悠久な日月の流れの中に人間一生の七十年や八十年は、まるで一瞬でしかない。たとえ二十歳を出ずに死んでも、人類の上に悠久な光を持った生命こそ、ほんとの長命というものであろう。またほんとに生命を愛したものというべきである。
人間のすべての事業は、創業の時が大事で難しいとされているが、生命だけは、終る時、捨てる時が最もむずかしい。――それによって、その全生涯が定まるし、また、泡沫になるか、永久の光芒になるか、生命の長短も決まるからである。
けれど、そういうふうな生命の愛しようも、町人にはおのずから町人の生命の持ち方があり、侍には侍の持ち方がある。武蔵の今の場合には、当然、さむらいの道に立っていかによくこの生命の捨て際を、侍らしくするかにあることはいうまでもない。
さて――
これから一乗寺藪之郷下り松の目的地へ行こうとするならば、武蔵の前には、ここに三つの道筋があった。
その一つは今、佐々木小次郎の駈けて行った雲母越え叡山道。
これは最も近い。
そして一乗寺村までは、道も坦々としていて、まず本道といっていい。
すこし迂回にはなるが、田中の里から曲って高野川に沿い、大宮大原道をすすみ、修学院のほうへ出て下り松に至る――という道取りがその第二。
もう一つは、今、彼の立っている所から東へ真っ直に、志賀山越えの裏街道をとり、白河の上流から瓜生山の麓をあるいて、薬師堂の辺りからそこへ行き着くという道も選べる――
そのいずれから行くも、下り松の追分は、ちょうど谷川の合流点のような場所に当っているので、距離にしても、そう大差はない。
だがこれを――まさにこれから、そこに雲集している大軍にぶつかって行こうとする寡兵にも似ている武蔵の身にとると――兵法からみると――大差がある。生涯のこと、ここの一歩から、分れ目を持つことになる。
――道は三つ。
――どう行こうか。
当然、武蔵はそこで慎重に考えそうなものであったが、ひらりとやがて身軽に動き出した彼の影には、そんな重苦しげな迷いの影は従いていない。
――ひら――ひら――ひらと木の間や小川や崖や畑を跳ぶように越えて、月の下を見えつ隠れつ足早に、行きたい方へ歩いている。
では、三道のうち、いずれを選んだかというと、彼の足は、一乗寺方面とは反対な方角へ向いていた。三つの道のいずれも選ばなかったのである。その辺はまだ里ではあったが、狭い小道を通ったり畑を横切ったりして、一体、どこを目ざして歩いて行くのかちょっと気が知れない。
なんのためか、わざわざ神楽ヶ岡のすそを越え、後一条帝の御陵の裏へ出る――この辺、ふかい竹藪だった。竹の密林を抜けるともう山気のある川が月光を裂いて里へ走っている。――大文字山の北の肩が、もう彼の上へ、のしかかって来るように近かった。
「…………」
黙々と、武蔵は、山ふところの闇へ向って登ってゆく。
今、通って来た右側の樹立の奥に見えた築地と屋根が、東山殿の銀閣寺であったらしい。ふと、振顧ると、そこの泉が棗形の鏡のように眼の下に見えたのである。
さらに、もう一息、山道を登ってゆくと、東山殿の泉は、余りに近すぎて足元の木蔭にかくれ、加茂川の白い蜒りがずっと眼の下へ寄っている。
下京から上京まで、両手をひろげて抱えきれるような展望だった。ここからは、遥かに、
(一乗寺下り松はあの辺り――)
と、指さして、ほぼ遠く察することもできる。
大文字山、志賀山、瓜生山、一乗寺山――と三十六峰の中腹を横に這って叡山の方へすすめば、ここからそう時を費やさずに、目的の一乗寺下り松のちょうど真後ろへ、山の上から望むこともできるのだった。
武蔵の考えは、その戦法は――もう疾くから胸に決まっていたものらしい。彼は桶狭間の信長に思い合わせ、鵯越えの故智に倣って、あの当然に選ばなければならないはずの三道のいずれをも捨てて、まるで方角ちがいな、歩くにも難儀なこの山道の中腹まで登って来たに違いない。
「……やっ、お武家」
こんな所で人声は思いがけなかった。不意に、道の上から人の跫音がしたと思うと、彼の前に、狩衣の裾をくくり上げて、手に松明を持った公卿屋敷の奉公人らしい男が立って武蔵の顔を燻すように、松明の火を突き出した。
公卿侍の顔は、自分の持ち歩いている松明の油煙で、鼻の穴まで黒く煤けてい、狩衣も夜露や泥でひどく汚れている。
「や? ……」
と、行き合った最初に、なにか驚いたような声を出したので、不審に思って、武蔵がじっとその顔を凝視すると、急に少し恐れを抱いたように、
「……あの、あなた様は」
と、ひどく低く頭を下げ、
「もしや、宮本武蔵殿と仰せられはいたしませぬか」
と、問う。
武蔵の眼が、ぎらっと松明の赤い光の中に光った。――当然な警戒だったのはいうまでもない。
「……宮本殿でございましょうな」
重ねて、その男は訊ねたが、恐いのだ、武蔵の黙っている形相の中には、人間のなかでは滅多にみつけないものがあったにきまっているから――そう訊きながらも、男の体は浮腰になっていた。
「誰だ? おん身は」
「はい」
「何者だ?」
「はい……烏丸家のものにござりますが」
「なに、烏丸家の……。わしは武蔵だが、烏丸家の御家来が、今頃、こんな山路へなにしに?」
「ア。……ではやはり宮本殿でござりますな」
いうと、その男は、後も見ずに山を駈け下ってしまった。松明の火が、赤い尾をひいて、見る間に、麓へ沈んで行った。
武蔵は、なにかはっと思い当ったように、足を早め出して、山伝いに、志賀山街道を横切り、どこまでも山の腹を、横へ横へと、急いで行った。
――一方。
慌て者の松明は、一目散に、銀閣寺のわきまで駈け降りて来た。
そして、片手を口にかざして、
「オオイ、内蔵殿、内蔵殿」
と、同僚の名を呼ばわっていると、その同僚とはちがうが、やはり烏丸家の内に、ここ永らく泊っている城太郎少年が、
「なんだアい――小父さん――」
と、二町も先の西方寺門前あたりから遠く返辞が聞えてくる。
「城太郎かあ――」
「そうだアい」
「はやく来ウいっ――」
すると、また遠くから、
「行かれないよーっ……。お通さんが、ここまでやっと来たけれど、もう歩けないッて、ここへ仆れちまったから、行かれないよーっ」
烏丸家の奉公人は、
(ちぇっ……)
舌打ちを洩らしたが、前よりも高い声を張りあげて、
「はやく来ないと、武蔵殿がもう遠くへ去ってしまうぞっ。――早く来いっ、たった今そこで、武蔵殿をわしが見つけた!」
「…………」
すると今度は、返辞がして来ないのである。
――と思ううちに、彼方から二つの人影が、縒れ合うように一つになって急いで来る。病人のお通を援けて来る城太郎であった。
「おお」
松明を振って、男は早くと急き立てて見せる。いたましや、そうでなくてさえ、喘ぎ喘ぎ駈けてくる病人の息は、遠くから聞えるほどだった。
近づくほどに、お通の顔は月よりも血の気がないものに見えた。痩せ細った手足に旅装いを着けているのがあまりにも無理に見える。しかし、松明のそばまで来ると、その頬は、急に紅くなっていた。
「ほ、ほんとですか。……今仰っしゃったのは」
「ほんとだとも、たった今だ」
と、力をこめて話し、
「はやく、追って行けば会える。はやく行け早く!」
城太郎は、まごまごして、
「どっちへさ、どっちへさ。ただ早く行けじゃ分らないじゃないか」
病人と慌て者のあいだに立って一人で癇癪を起してしまう。
お通の体があれから急に快くなっているという理はないから、お通がここまで歩いて来たのは、よくよく悲壮な覚悟でなければなるまい。
恐らく、いつぞやの晩、館の病褥にはいってから、城太郎に詳しい話を聞き、
(武蔵様が死を決しておいでになるなら、わたしも病を養って、こうして生き長らえる効いもない)
といい出したことから始まり、やがてはまた、
(死ぬ前に一目でも)
という病人の一念になって、それまで水手拭を当てていた頭の髪を結び、病褥にいたわっていた痩せた足に草鞋をつけ、誰が止めようと意見しようと耳を藉さず、とうとう烏丸家の門から蹌ろ這い出たものではあるまいか。
さて、そうまでの一心を見ては、止めだてした烏丸家の人々も、
(捨てては措けぬし)
と、能う限りこの病人の――ことによったらこの世の中の最後の望みになるかも知れぬ――希望を遂げさせてやりたいと、ともども、気を揉んだり騒いだりしたであろうことも想像がつく。
或は、光広卿の耳へも入って、この儚き恋愛の末期に対して、よそながらお館の指図があったものかとも思われる。
とにかく、彼女の弱い足取りをもって、この銀閣寺下の仏眼寺の門前へかかるまでには、烏丸家の御内人たちが、およそ武蔵の影のさしそうな方角へは、八方に手分けをして、尋ね求めていたらしいのである。
果し合いの場所は一乗寺とだけ分って、広い一乗寺村のどの辺かは明白でない。それにまた、武蔵が果し合いの場所に立ってしまってからでは追いつかないことなので、捜す者も、おそらく一乗寺方面へ通う道には、皆一人か二人ずつ奔走して、足を擂粉木にしていたものであろう。
しかしその効いはあって、武蔵は見つかったのであるから、後は、加勢の者の力よりは、お通の一心の如何によるほかはない。
たった今、如意ヶ岳の中途から、志賀山越えを横切って、北の沢へ降りて行ったという――それだけを聞けば、彼女ももうその先まで、他人の力を頼ってはいなかった。
「だいじょうぶ? お通さん、だいじょうぶかい?」
側についてはらはらして行く城太郎とも口もきかない。
いや、きけないのである。
死を覚悟して、無理無体に歩ませてゆく病躯であった。口は渇いてしまう。鼻腔はあらい呼吸につかれる。そして蒼白な額に、髪の根から冷たい汗さえながれていた。
「お通さん、この道だ、この道から横へ横へと、山の腹を縫ってゆけば、自然に叡山の方へ出てしまう。……もう登りはないから楽だよ、どこか、少しそこらで休んだらどう?」
「…………」
お通は黙ってかぶりを振った。一本の杖の両端を二人して持ち合いながら――永い人生の艱苦をこの一刻の道に縮めてしまうような喘ぎとたたかいながら、懸命に、およそ二十町余りも山ばかり歩いた。
「お師匠様アッ。……武蔵さまアッ……」
時折、城太郎が、ありッたけな声を絞って、行く手の方へ向って、こう呼んでくれるのが、お通にとってはなによりの力だった。
だが遂に、その力も尽きたように、お通は、
「城……城太さん」
なにか、いいかけたと思うと、彼の引っ張っていた杖の先を離して、沢の石ころや草叢の中に、蹌りと、音もなく俯つ伏してしまった。
削ったように細い両手の指が、口と鼻を抑えたまま、肩で戦慄しているので、
「ヤ! 血、血でも吐いたんじゃないか。……お通さん! ……お通さん……」
城太郎も泣き声出して、彼女の薄い胸を抱き起した。
かすかにお通は顔を横に振った。地に俯つ伏したままにである。
「どうしたの。どうしたのさ」
おろおろと、城太郎は彼女の背中を撫でていたわりながら、
「苦しいの」
「…………」
「そうだ、水かい、お通さん、水が欲しかないかね」
「…………」
お通はうなずいて見せた。
「待っといで!」
辺りを見まわして、城太郎は突っ立った。山と山の間のゆるい沢道である。水音は方々の草や木を潜って、ここにある、ここにある、と彼に教えているように聞える。
だが、そう遠くまで駈けなくても、すぐ後ろに草の根や石塊の下から湧いている泉がある。城太郎は跼み込んで、両手に水を掬おうとした。
「…………」
水はよくよく澄んでいて、沢蟹の影も見えるくらいだった。月はもう傾いているので、この水には宿っていなかったが、鮮やかな月の雲は、空を仰いで直かに見るよりも、水に映っている空のほうが一倍美しく見えた。
病人に掬って持って行くよりも、城太郎はふと、自分が先に飲みたくなったのであろう、五、六歩位置を移して、今度は水際に膝をつき、家鴨のように水面へ首を伸ばしたが、
「……あッ?」
大きく叫んだまま、彼の眼はなにものかに吸いつけられ、河童頭の毛はそそけ立って、じーっと、栗の実みたいに、五体をかたく竦めてしまった。
「……?」
水の向う岸から五、六本の樹の影が、縞目のように映っていた。その樹の端に人影が見えたのである。水に映っている武蔵の影を彼の眼は見たのである。
「…………」
びっくりしたことは勿論、びっくりしたに違いないが、水面に映っている武蔵の影だけでは、城太郎はまだほんとに――物の現実に向ってびっくりしたのではなかった。
ふいに、物の怪の悪戯が、思いつめている心の武蔵の影を藉りて、さっと、通り抜けて行ったような――そんな驚きであったのである。
怖々と、彼はその驚きの眼を水面から向う側の木蔭へ上げてみた。こんどはほんとに仰天したのだった。
武蔵はそこに立っていた。
「おッ、お師匠様っ」
静かな水面の持っていた月雲の空は、とたんに真っ黒に乱れ濁ってしまった。水の縁を通って行けばよいのに、城太郎はいきなり飛び込んで水の中を駈け渡り、ばしゃばしゃッと顔まで濡らして武蔵の体へ飛びついて行ったのであった。
「いたっ、いたっ」
捕まえた者を引ったてるように、武蔵の手を、彼は夢中になって引っ張った。
「待て」
武蔵は顔をそ向けて、ふと瞼に指を当てながら、
「あぶない、あぶない。すこし待て、城太郎」
「いやだっ、もう離さない」
「安心せい、おまえの声が遥かに聞えたから、待っていたのだ。わしよりも、早くお通さんに水を持って行ってやれ」
「ア、濁ってしまった」
「向うにもよい水が流れている。それ、これを持って行け」
腰の竹筒を渡してやると、城太郎はなに思ったか、手を引っ込めて、武蔵の顔をじっと見、
「お師匠様。……お師匠様の手で汲んで行っておやりよ」
「……そうか」
吩咐けに従うように、武蔵は素直に頷いた。自分で竹筒に水を掬い、お通の側へ持って行った。
そして彼女の背を抱え、手ずから水を飲ませてやると、城太郎は傍らから、
「お通さん、武蔵様だよ、武蔵様だよ。……分る? 分る?」
と、ともどもいたわりを籠めていう。
お通は喉へ水を落すと、幾分か胸がらくになったように、ほっと気のついたように息をついた。しかし、体は武蔵の手に凭れたままうっとりと眸はまだ遠くを見ていた。
「おいらじゃないんだぜ、お通さん、お通さんを抱いているのは、お師匠さまなんだよ」
城太郎がそう繰返すと、お通は遠くを見ている眸に、湯のような涙をいっぱいにたぎらせ、見るまに、その眼は、ぎやまん玉の曇りにも似て、やがて頬を下るふたすじの白珠とはふりこぼれると、
(……分っています)
と、いうように頷いた。
「ああ、よかった」
城太郎は無性に欣しくなってしまい、わけもなく満足して、
「お通さん、これでいいだろ。もう、これで気がすんだろう。……お師匠様、お通さんね、あれから、どうしても、もいちど武蔵様に会うんだといって、病人のくせに、いうこと肯かないんだよ。こんなこと度々やると死んじまうにきまっているから、お師匠様からよくそういっておくれよ、おいらのいうことなんか肯かないんだもの」
「そうか」
武蔵は、彼女を抱えたまま、
「みんなわしが悪いのだ。わしの悪いところも詫び、またお通さんの悪いところもよくいって、体を丈夫にするように今話すから……城太郎」
「なに?」
「おまえは、ちょっと……しばらくの間、どこかへ離れていてくれぬか」
城太郎は、そう聞くと、
「どうして?」
と、口を尖らし、
「どうしてさ。どうしておいらがここにいちゃいけないの」
と、不平なようでもあり、不審にも考えるらしく、動こうとはしないのであった。
武蔵も、それにはふと困ったらしい様子に見えた。すると、お通が頼むように、
「城太郎さん……そんなこといわないで、ちょっと、あっちへ行っていてください。……ね、後生ですから」
武蔵には口を尖らした城太郎もお通にそういわれると、理窟もなにもなくなって、
「じゃあ……おいら、仕方がないからこの上に登っているとすらあ。用が済んだら呼んでおくれ」
崖の杣道を見上げて、城太郎はがさがさと攀じ登って行った。
ようやく、少し元気を回復したらしく、お通は起って、鹿のように登って行く城太郎の影を見送り、
「――城太さん、城太さん。そんなに遠くへ行かなくってもいいのですよ」
そういったが、聞えたのか聞えないのか、城太郎はもう返辞もしない。
お通もまた、なにも今、そんな心にもないことをいって、武蔵に背を向けている必要もなかろうに――やはり城太郎という者が一枚抜けて、二人きりになったと思うと、遽に胸がつまって、なにからいい出していいのか、急に自分の体が持て余されて来るのであろう。
羞恥みは、健康な時よりも、病んでいる場合のほうが、生理的にも、強いものかもしれない。
いや、羞恥は、お通ばかりではない。武蔵も横を向いていた。
一方は背を向けて俯向き、一方は横を向いて空を仰いだまま……これが幾年も幾年も、会わんとしては会い難かった二人の、たまたま、許された一瞬の寄り添いだった。
「…………」
どういおう。
武蔵にはその言葉が見つからない。
どんな言葉をもっていっても、自分の心を現わすには足りないからであった。
すさび吹く千年杉の真っ暗な一夜――あの夜明けからのことを、武蔵は瞬間に胸にえがくことができる。眼には見て来なかったが、それからの五年あまりの彼女の歩いて来た道を――また一途に通して来た清純な気持を――武蔵は決して受け取っていないのではない、感じていないわけではない。
多岐な、複雑な、彼女の生活と、身に燃え現わされた純愛の炎と、唖のように無表情で、灰のように冷たく人には見せて来た自分の情熱の埋火と――いずれが強くいずれが苦しかったかといえば、武蔵は独り心の裡で、
(おれこそ)
と、いつも思う。今もまた、そう思うのだった。
――だが、そういうわがことよりも弥まして、このお通の可憐しく、そして不愍でならないと思われるのは、男でさえ、片荷には重すぎる悩みを、女の身で、生活に克ちつつ、恋一つを生命として負い通して来た――その強さと健気さにある。
(もう……一瞬の間だ)
武蔵は、月の位置を見ている。自分の生きている間の時間を思わずにいられない。月はもう残月となっていた。いつのまにか、ずっと西に傾いて、光も白っぽく、夜明けはやがて近いのである。
その月と共に、死の山へ落ちてゆく寸前の自分である。今こそお通に向って、たった一言でも、真実をいいたい。またそれがこの女に対して酬ゆる最大な良心でもあるし――と武蔵は思う。
真実。
しかし、いえないのだった。
胸にはいっぱいに持っている真実が、その真実をいおうとするほど、口には出て来ないで、いたずらにただ、空を見、あらぬ方を見てしまう。
「…………」
同じように、お通もただ地を見つめて、地に涙をそそいでいるしかなかった。――ここへ来るまでには彼女の胸にも、七堂伽藍も焼き包んでしまうような、恋以外には真理も神仏も利害もない、また、男の世界でいう意地も外聞もない――ただ恋のみの熱情があったのである。その熱情をもって武蔵をうごかし、その涙をもって二人きりで、浮世の外に住むことも出来ないことはないと信念していたのであった。
けれど――会ってみると、なにもいえない彼女だった。そんな熾烈な望みはおろか会わない間の辛さ、世路にまよう身のかなしさ、武蔵の情ないこと――なに一つとしていえないのだった。胸先まで突き上げてくるそれらの感情を、ふと思い切っていおうとすれば、ただ唇が顫いてしまうだけで、よけいに胸はつまり涙は眼をふさいで、もし、武蔵もそこにいない桜月夜の下でもあるならば、わッ……と大声あげて、嬰児のように泣き転び、せめてこの世にいない母にでも訴える気もちで、心の済むまで、泣き明かしていたいと思うほどだった。
「…………」
どうしたものだろう。お通もいわず武蔵もいわず、こうしている間に時刻はいたずらに過ぎてしまう。
――はや暁に近いせいか、間の抜けた啼き声をこぼして、帰る雁が六、七羽、山の背を越えて行った。
「雁が……」
武蔵はつぶやいた。この場合にそぐわない、取ってつけたような――と知りながら、
「お通さん、帰る雁が啼いてゆくなあ」
といった。
それを機に、
「武蔵さま」
と、お通もいった。
眸と眸が、初めてお互いを見合った。秋や春には雁の渡る故郷の山が二人の心に憶い出された。
あの頃は、単純だった。
お通がいつも仲よくしていたのは又八で、武蔵は乱暴だから嫌いだといっていた。武蔵が悪たれをいうと、お通も負けないで罵った。――そうした幼い頃の七宝寺の山が瞼に見える。吉野川の河原が憶い出される……
しかし、そんな追憶に耽っていると、また、いたずらにこの二度とないこの世での尊い瞬間を、沈黙の裡に過ごしてしまいそうなので、武蔵からやがてまたいった。
「お通さん。そなたは今、体が悪いということだが、体はどうだね?」
「なんでもありません」
「もう快い方なのか」
「それよりも、あなたは、これから、一乗寺の址とやらで、死ぬお覚悟でございましょう」
「……う、む」
「あなたが、斬り死にあそばしたら、わたくしも生きていないつもりです。そのせいか、体の悪いことなど、忘れたように、なんともございません」
「…………」
武蔵は、そういうお通の顔の冴えを見て、自分の覚悟のほどが、いまだこの一女性にすら及ばない心地がした。
今の肚をすえるまでには、さんざん生死の問題に苦悩したり、日常の修養だの、さむらいとしての鍛錬だのを積んで来て、やっとこの覚悟になり得るまでになって来たと思うのである。――だのに、女は、そういう鍛錬も苦悩も経ずに、いきなりなんらの惑いもなく、
(――わたくしも生きていないつもりです)
と、すずやかにいう。
武蔵が、じっとその眼を見ているに、彼女のことばが、決して一瞬の興奮や嘘でないことはわかる。むしろ楽しんで自分の死に従いて、共に死のうとしている気持すらかがやいている。どんな覚悟のよい侍でも及ばないほど静かな眸で死を見ているのである。
武蔵は愧じ、かつ疑った。
(どうして女は、こうなれるのであろうか)
同時に彼は当惑と、そして彼女の一生のために恐れて、自分までが乱れた。
「ばっ、ばかなっ!」
突然、彼は自分の口から吐いた自分の声に驚いた程、激越な感情の上に自分を乗せていっていた。
「わしの死には、意義があるのだ。剣に生きる人間が剣で死ぬのは本望であるばかりでなく、乱脈なさむらい道のために、進んで卑怯な敵を迎えて死ぬのだ。その後からそなたがともに死ぬ――その気持はうれしいが、それがなんの役に立とうか。虫のように哀れに生きて、虫のように儚く死んでどうするのか」
――見ればお通はふたたび大地に伏して泣いている様子なので、武蔵は、自分のことばのあまりに激し過ぎていたのに気づき、膝を折って、声を落し、
「だが、お通さん。……考えてみると、わしは知らず識らず、そなたに嘘をついてきた。千年杉の時から、花田橋の時から、欺く気持ではなくても、形はそうなって来てしまった。そして酷い冷たい態を装って来た。わたしはもう一刻後には死ぬ身だ。お通さん、今いう言葉は嘘ではない。わしはそなたが好きだ。一日でも思わぬ日のなかったほど好きだった。……なにもかも捨ててともに暮して終りたいとどれほど思い悩んだかしれない。――そなた以上好きな、剣というものがなかったら」
ことばを休めて、
「お通さん!」
とさらに、ことばに力をこめ直して、武蔵はなおいった。
いつも無口で無表情な彼がめずらしく感情のなかに没し切って、
「鳥将に死なんとするやだ。将に死なんとしているこの武蔵だ。お通さん、わしの今いう言葉には微塵、嘘も衒いもないことを信じてくれ。――羞恥も見得もなくわしはいう。今日まで、お通さんのことを思うと、昼もうつつな日があった。夜も寝ぐるしくて熱い熱い夢ばかりに悩まされ、気の狂いそうな晩もあった。お寺に寝ても野に伏しても、お通さんの夢はつき纒い、しまいには薄い藁ぶとんをお通さんのつもりで抱きしめて歯がみをして夜を明かした晩すらある。それほどわしはお通さんに囚われていた。無性にお通さんには恋していた。――けれど。――けれどそんな時でも人知れず剣を抜いて見ていると、狂おしい血も水のように澄んでしまい、お通さんの影も、霧のようにわしの脳裡から薄れてしまう……」
「…………」
お通はなにかいおうとした。蔓草の白い花みたいに、嗚咽していた面をあげたが、武蔵の顔が、恐ろしいほど真面目な熱情に硬ばっているのを見ると、息づまって、再び地へ顔を打ち伏せてしまった。
「――そしてまた、わしは剣の道へ、身も心も打ち込んで行ったのだ。お通さん、この境が、武蔵の本心だった。つまり恋慕と精進の道のふた筋に足かけて、迷いに迷い、悩みに悩みながら、今日までどうやら剣の方へ身を引き摺って来た武蔵だった。――だからわしは、誰より自分をよく知っている。わしは偉い男でも天才でもなんでもない。ただお通さんよりも、剣の方が少し好きなのだ。恋には死にきれないが、剣の道にはいつ死んでもいい気がするだけなのだ」
なにもかも正直に――少しの嘘もなく、武蔵は自分の本心を――心の奥底まで、今こそいってしまおうとするのであったが、いたずらに、言葉の美飾と、感情の顫えのみが勝ってしまって、まだまだ、正直にいいきれないものが、胸につかえているようでならなかった。
「だから、人は知らないが、お通さん、武蔵という男は、そんな男なのだ。もっと、露骨にいえば、そなたのことを考え出して、ふと囚われているときは、五体も焦かれる気がするが、心が、剣の道に醒めると、お通さんのことなんか、頭の隅へすぐ片づけてしまう。いや、心の隅にも失くなってしまう。この体、この心の、どこをさがしたって、お通さんの存在などは芥子粒ほどでもなくなってしまうのだ。――また、その時が、武蔵はいちばん楽しくて生きがいのある男となって歩いていたのだ。――わかったろう、お通さん。そういうわしに向って、お通さんは、心も体もすべてを賭して、今日まで一人で苦しんで来ている。すまないと心では思っても、どうしようもない。……それが自分なのだから」
――不意に、お通の細い手は、武蔵の逞しい手頸を掴んだ。
もう眼は泣いていなかった。
「……知ってます! そ、そんなことぐらい……そういう貴方であるぐらいなこと……し、しらないで……知らないで恋をしてはまいりませぬ」
「さすれば、わしがいうまでもなく、この武蔵と共に死のうなどという考えはつまらぬことと分っておろうが。わしという人間は、こうしているわずかな一瞬こそ、なにも思わず、そなたに心も身も与えているが――一歩別れて、そなたの側を離れれば、そなたのことなど、おくれ毛一筋ほどにも心に懸けていない人間。――そういう男に縋って男の死を追って、鈴虫のように死んではつまらぬことではないか。女には女の生きる道がある。女の生きがいはほかにもある。――お通さん、これがお別れのわしのことばだ。……では、もう時刻もないから――」
武蔵は、彼女の手をそっと解いて、立ち上がった。
解かれた手は、またすぐその袂を追って、
「武蔵様、待って」
と、かたく縋った。
さっきから彼女にも、いいたいものが胸いっぱいに閊えていた。
武蔵が、
(虫のように生きて、虫のように死ぬ女の恋には、死の意義がない)
といったことばや、
(一歩、おまえから離れれば、わしはおまえのことなど、頭の隅にも置いていない男だ)
といったような言葉にも、お通は決して、そんなふうに武蔵を見て、穿き違えた恋をしているのではないことをいいたかったが、なんとしても、
(もう二度と会えなくなるのだ)
と思うさし迫った感情に克てなかった。それ以外のなにもいえなかったと、理性することもできなかった。――で今、
「……待って」
といって、袂を引き留めたものの、やはりお通も、不可抗力なものでただ纒綿と泣くだけの女性をしか示すことが出来なかったのである。
しかし、いおうとすることのいえない――弱さの美しさ――単純なる複雑さ――に対して、武蔵も乱れずにいられなかった。彼の恐れている自分の性格の中の最も大きな弱点が、今、暴風のなかの根の弱い木みたいに揺すぶられていた。ともすればここまで持ち続けて来た「道への節操」も、地崩れのように、彼女の涙とともに泥になってなだれてしまいそうな気持がする。その気持を彼は恐怖する。
「わかったか」
武蔵が、ただいう言葉のためにそういうと、
「わかりました」
お通は微かに――
「けれど、わたくしはやはり、あなたがお死にになれば、後から死にます。男のあなたが、欣んで死ぬる以上に、女のわたくしにも、死の意味が抱いて逝かれるのでございます。けっして虫のように――また一時の悲しみに溺れて死ぬのではございません。ですから、それだけはお通の心にまかせておいて下さいませ」
乱れずにいった。
そして、もう一言、
「あなたは、わたくしのような者でも、心のうちだけでも、妻としてゆるして下さいますでしょうね。もう、それだけでわたくしは、すべての望みが満ち足りました。……この気持、大きな歓び、それはわたくしだけの持っていられる幸福です。あなたはわたくしを、不幸にしたくないからと仰っしゃいましたが、わたくしは決して、不幸に敗れて死ぬのではございません。――わたくしを見る世の中の人達が、皆わたくしを不幸だといっても、わたくし自身は、ちっとも、そんな不幸ではないのでございます――むしろ、ああなんといっていいだろう、死の夜明けが、楽しみで待ち遠で、朝の小鳥の音の中に死んで行く身が――花嫁のようにいそいそ待たれてなりません」
長くものをいうと、息が喘れるのであろう。彼女は自分の胸を抱きしめて、そして、夢みるように幸福な眼をあげた。
残んの月はまだ白々としていて少し樹々に霧は立ち初めたが、夜明けにはまだ間があった。
――すると。
ふと彼女の眸を上げた崖の上の方で、
「キャーッ!」
突然、樹々の眠りをさまして翔ける怪鳥のように、一声、女の鋭い悲鳴がつんざいた。
たしかに女の絶叫だった。
さっき城太郎が、その崖の道を上へ登って行ったはずではあるが、その城太郎の声では決してなかった。
凡事とも思われない。
誰の叫びか。また、何事が起ったのか。
われを呼び醒まされたように、お通は眼をやって、霧のかかっている峰の頂を仰いでいたが、その機に武蔵は、つと彼女の側を離れ、
(おさらば)
ともいわず――彼方の死地へさして行く足を大股に急ぎかけていた。
「あっ、もう……」
お通が十歩追うと、武蔵も十歩駈けて、そして振顧った。
「お通さん、よく分った。――だが犬死をしてはならないぞ。不幸に追い詰められて、死の谷間へ辷り落ちて行くような、弱い死に方をしてはならないぞ。も一度その体を健康に戻してから、健康な心でよく考えてみるといい。わしだってこれから無駄に生命を捨てに急ぐわけじゃない。永遠の生をつかむために一時、死のかたちを取るだけのことだ。――わしのあとに従いて死んでくれるよりは、お通さん! 生き残って永い眼で見ていてくれ、武蔵の体は土になっても、武蔵はきっと生きているから!」
いい続けた息のまま、武蔵はもう一言、
「いいか、お通さん! わしの後に従いて来るつもりで、見当ちがいな方へ一人で行ってしまうなよ。わしの死んだという形を見て、武蔵を冥途に捜しても、武蔵は冥途には行っていない。武蔵がいるところは、百年後でも千年後でも、この国の人間の中だ、この国の剣の中だ。他にはいない」
いい捨てると、もう、お通の次のことばが届かない方まで、彼の姿は遠ざかっていた。
「…………」
茫然とお通は残っていた。遠く去ってゆく武蔵の影は、自分の胸から抜け出した自分自体であるような心地だった。――別れという悲しみは、二つのものの離散から生じる感情なので、お通の今の気持には、別れの悲しみというような、そんなべつべつな意識の悲しみは持てなかった。ただ、大きな生死の濤に持って行かれようとしている彼身此身の、ひとつ魂にふと戦慄の眼をふさぐだけだった。
――ざ、ざ、ざ、ざ
とその時、崖の上から、土ころが彼女の足元まで崩れて来た。すると、その土音を追いかけるように、
「――わあっ」
と城太郎が、木や草を掻分けて飛び下りて来た。
「まあっ!」
お通でさえ、ぎょっとした。
なぜならば、城太郎少年は、奈良の観世の後家からもらった鬼女の笑仮面を、こんどは烏丸家へ帰らないものと思って大事にふところへ所持して出かけて来たらしく、見ると今、その仮面を顔にかぶって、
「ああ、驚いた!」
と、ふいに眼の前へ立って、両手を挙げたからである。
「なんですっ? 城太さん」
お通が問うと、
「なんだか、おいらも知らないけど、お通さんにも聞えたろ。キャーッっていった女の声がさ」
「城太さんは、それをかぶって、どこにいたの」
「この崖をずっと登って行ったら、そこにもこのくらいな道があってね、その道のもっと上の方に、ちょうど坐りいい巨きな岩があったから、そこに腰かけて、ぽかんと、お月様の落ちて行くのを見ていたのさ」
「それをかぶって?」
「うん、……なぜっていえば、そこいらでやたらに、狐が啼いたり、狸だか狢だか知れない奴がゴソゴソするから、仮面をかぶって威張っていたら寄りつけまいと思ったからさ。――するとね、どこかでふいにキャーッという声がしたんだ。なんだろうあの声は。まるで針の山からきた木魂みたいな声だったぜ」
東山から大文字の麓あたりまではたしかに方角はついていたが、いつのまにか道を間違えていたとみえ、一乗寺村へ出るにはすこし山へ入り過ぎていた。
「これさ、なぜそうせかせか急ぐのじゃ。待たぬかよ。又八、又八」
先へ行く息子の足に遅れがちになると、お杉婆は、意地も我慢もなくなったように後から喘いでいう。
聞えよがしに、舌打ちして、
「なんだ口ほどもない。宿を立つ時、なんといっておれを叱りとばしたか」
待ってやらないわけにもゆかないので、又八はその度ごとに、足を止めて待ちはするが、こんな時とばかり、後からやっと追いついて来る老母を頭からやりこめた。
「なにをそう不機嫌にわしへ当りちらすのじゃ、汝が身のように、生みの親のいうことを、いちいち根に持って遺恨がましゅう当る者がどこにあろうぞ」
皺の中の汗を拭いて、ほっと一息休もうとすると、又八の若い足は、立っている方が辛いので、もう直ぐ先へ歩き出すのだった。
「これ待たぬか。少し休んで行こうぞよ」
「よく休むなあ、夜が明けてしまうぜ」
「なんの、まだ朝までにはだいぶある。常ならば、これしきの山道、苦にもせぬが、この二、三日は風邪気味か体が気懈うて歩くと息が喘れてならぬ。悪い折にぶつかったものよ」
「まだ負け惜しみをいってるぜ。だから途中で、居酒屋をたたき起して、人が折角親切に休ませてやろうとすれば、そんな時には、自分が飲みたくねえものだから、やれ時刻が遅れるの、さア出かけようのと、おれがおちおちと酒も飲まねえうちに立ってしまうしよ。いくら親でも、おふくろぐれえ交際い難い人間はねえぜ」
「ははあ、ではあの居酒屋で、汝が身に酒を飲ませなかったというて、それを、まだ怒っていやるのか」
「いいよ、もう」
「わがままも程にしたがよい、大事をひかえて行く途中だぞよ」
「といったところでなにもおれたち母子が刃の中へ飛びこむわけじゃなし、勝負のついた後で吉岡方のものに頼み、武蔵の死骸へ一太刀恨んで、手出しのできない死骸から、髪の毛でも貰って故郷の土産にしようというだけのものじゃねえか、大事も大変もあるものか」
「ままよいわ、ここで汝が身と、母子喧嘩をしてみても始まるまいでの」
歩き出すと――又八はぶつぶつ独り語に、
「ああ、ばかばかしいな。他人の殺した死骸から証を貰って、これでめでたく本懐を達してございと故郷へ帰って披露する。故郷の奴らは、どうせあの山国、他へ出たことのない人間ばかり、本気になって目出度がることだろうが……嫌だなあ、またあの山国で暮すのは、考え出してもぶるぶるだ」
灘の酒だの都の女だの、又八の知った都会生活のあらゆるものが彼に未練をささやいてやまなかった。まして彼にはまだそれ以上の執着がこの都会にある。あわよくば、武蔵の歩いた道以外の道を見つけ、とんとん拍子に立身して、まだ不足な物質の世界の体験にその身を飽満させて、人間の生れがいをそこに自覚してみたいという――彼らしい希望さえまだ決して捨ててはいない。
(ああ嫌だ。ここから見てさえ町中が恋しい)
いつの間にやらまた、お杉婆はだいぶ後に取り残されていた。宿を立つ前から体が懈い懈いといっていたが、まったく幾らか体の調子が悪いのかも知れない。とうとう我を折ったように、
「又八、少し負うてくれぬか。後生だによって、少し負うてくれい」
といった。
又八は、顔を顰めた。
面を膨らませたまま、返辞もせずに待っていたのである。すると、お杉婆も彼もぎょっとしたように耳を欹てた。――先に城太郎も驚き、お通も聞いた、あの針の山の悲鳴に似た女の叫びを、この母子も聞いたのであった。
どこともわからない、たった一声したきりの悲鳴だった。次の悲鳴がしたら声の方角も的確に知れよう。――それを待つもののように、又八も婆も、じっと空虚な顔して、疑惑の中に立ちすくんでいた。
「……あっ?」
突然、お杉婆がこういったのは、その不審な悲鳴がまた聞えたのではなく、なに思ったか、又八が不意に、崖の角につかまって、そこから谷へ降りて行こうとする様子を見たからであった。
「ど、どこへ行くのじゃ」
あわてて、咎めると、
「この下の沢だ」
もう崖道へ身を沈めかけながら又八がいう。
「おふくろ、ちょっと、そこに待っていてくれ。――見て来るから」
「阿呆」
お杉婆は、つい、いつもの口癖を出して、
「なにを捜しに行くのじゃ、なにを? ……」
「なにをッて、今、聞えたじゃねえか、女の悲鳴が」
「そんなもの尋ねてどうする気かよ。――あれっ、阿呆、止めいというに、止めいというに」
上から婆が喚いているまに、又八は耳もかさず、木の根にすがりながら深い沢へ降りてしまった。
「ばっ、ばか者っ」
と月へ罵っている老母のすがたを、又八は深い沢の底から、木の間越しに見上げていた。
「――待ってろようっ、そこで」
下から呶鳴ったが、その声がお杉には届いて行かないほど、彼の降りて来た崖は深かった。
「はてな?」
又八はすこし後悔した。たしかにさっきの悲鳴はこの沢の辺りのように思われたが、もし違っていると、無駄骨を折ることになる。
――しかし月の光も届かないほどなこの沢も、よく眼を働かしてみると小道がある。山といっても元よりこの辺りの山なのでそう深かろうはずはない。それに京都から志賀の坂本や大津へ通う近道でもあるので、どこへ降りても市人の踏んだ足の痕が必ずついている。
さらさらと小さな滝や瀬になって落ちてゆく水に従いて、又八は歩いて行った。すると、その流れを横断して左右の山の中腹へわたっている一筋の道があった。彼が発見したのは、ちょうどその道筋にあたっている渓流の側であった。
石魚突きの寝泊りする石魚小屋かも知れない。ほんの人間ひとり入れるぐらいなほッ建小屋がそこにある。――その小屋の後ろに這い屈まっている人間の白い顔と手とをちらと見たのである。
「……女だ?」
又八は、岩の蔭にかくれた。さっきの悲鳴も、女のであればこそ彼は猟奇な興奮に駆られたのである。男の声であったら最初からこんな沢へ降りては来ないだろう。――それが今、その正体を窺ってみると、確かに女で、しかも若いらしい。
――何をしているのか?
と最初は疑っていたが、見ていると、疑いはすぐ解けた。女は、流れのそばへ這い寄って、白い掌に水を掬って、唇へ移しているのであった。
びくっと、女は鋭感に振り顧った。又八の跫音を、昆虫のように体で感じて、すぐ起ちかけそうな眼であった。
「――おやっ?」
又八が、声を放つと、
「あっ?」
女も同じように驚いていった。しかしそれは、恐怖から救われたような声だった。
「朱実じゃねえか」
「……あ、あ」
そこの谷川で飲んだ水が、やっと今、胸へ下がったように、朱実は大きく息をついた。
けれどまだ何処かおどおどしているその肩をつかまえて、
「どうしたんだ朱実」
又八は、彼女の脚から顔を見上げて、
「おめえも、旅支度だな、旅へ立つにしても、こんな所を今頃――なにしに歩いているのだ」
「又八さん。あなたのおっ母さんは?」
「おふくろか、おふくろは、この谷間の上に待たせてある」
「怒っていたでしょう」
「あ、路銀のことか」
「わたしは急に、旅立ちしなければならなくなったのです。けれど、旅籠の借銭も払えないし、路用のお金もないので、悪いことと知りながら、おばばさんの荷物と一緒にあった紙入れを、つい出来心で、黙って、持って来てしまった。……又八さん、堪忍してください。そして、わたしを見逃して下さい。きっと後で返しますから」
さめざめと泣き声の裡に、朱実が謝るのを、又八はむしろ意外な顔して、
「おい、おい。なにをそう謝るのだ。……アア分った。俺とおふくろが二人して、おめえを捕まえるために、ここへ追いかけて来たと勘違いしているんじゃねえか」
「でも、わたしは、出来心にしろ他人様のお金を盗って逃げたんですから、捕まれば、泥棒といわれても仕方がありませんもの」
「それやあ、俺のおふくろの云い草だ。俺にとれば、あれぐらいな金、おめえが真実困っているならこっちからやりたいくらいだ。なんとも思っちゃいねえから、そんな心配はしないがいい。――それよりはなんのために、急に旅支度して、こんな所を今頃歩いているのか」
「旅籠の離れで、あなたがおっ母さんに話していたことを、ふと、蔭で聞いていたものですから」
「フーム、すると、武蔵と吉岡勢との、きょうの果し合いの一件だな」
「……ええ」
「それで急に、一乗寺村へ行くつもりでやって来たのか」
「…………」
朱実は答えなかった。
一つ家に暮していた頃から、朱実が胸に秘していたものは何か、それは又八もよく知っていた。――で彼は、深くは問わずに、
「そうそう」
急に言葉を変えて、
「今し方、この辺で、キャーッという悲鳴が聞えたが、あれはもしや、おめえの声ではなかったか」
と、この沢へ降りて来た目的に返って、そう訊くと、
「エ。わたしでした」
朱実はうなずいた。
そしてまだなにか、恐怖の夢でも見ているように、この沢の窪から突兀と空に黒く見えている山の肩を振り仰いだ。
そこでその事実を、彼女自身が話すところによると、こうである。
――つい今し方のこと。
彼女が、この沢の渓流を越え、そしてここからも見える眼の前の――突兀とした岩山の中腹までかかって行くと、ちょうどその山肌の肋骨の辺りになる岩頭に、世にも怖ろしい妖怪が腰かけていて、月を眺めていたというのである。
真面目には聞かれない話のようだが、朱実は真面目になって、
「遠くから見たんですけれど、体は侏儒みたいに小さいくせに、顔はといえば、大人並の女なのです。そして顔は、白いのを通り越して何ともいえない色を帯び、唇は耳までキュッと裂けていて、しかも、私の方を見て、ニヤリと笑ったような気がしたんです。――思わずその時、私はキャッと叫んでしまったものでしょう。無我夢中でした。気がついた時は、この沢に辷り落ちていたんです」
と、いう。
いかにも恐かったように、朱実がそう話すので、又八は、笑うまいとしながらもつい、
「ハハハハ。なアんだ」
と、揶揄して、
「伊吹山のふもとで育ったおめえが、恐いなんていうと、化け物のほうで顔負けするだろう。燐の燃えている戦場を歩いて、死骸の太刀や鎧を剥いだことさえあるじゃねえか」
「でも、あの頃は、恐いこともなにも知らなかった子供ですもの」
「まんざら子供でもなかったらしいぜ。その頃のことを、いまだに胸に想って、忘れ切れずにいるのを見ても」
「それやあ、初めて知った恋ですもの。……だけどもう、私はあの人を、諦めてはいるんですよ」
「じゃあなぜ、一乗寺村へなど出かけて行くのか」
「そこの気持が自分にも分らないんです。ただ、ひょっとしたら武蔵様に会えやしないかと思って」
「無駄なこった」
ひどくそこで、又八は言葉に力をこめ、万に一つも勝目のない武蔵の立場と、相手方の情勢とをいって聞かせた。
すでに清十郎から小次郎と――幾人かの男性を通って、処女であったきのうの自分が、もう思い出のものになっている彼女には、武蔵を考えたり想ったりすることも、もう処女であった頃のように、未来の花を夢想して考えることはできなくなっていた。肉体的にその資格を失った自分を冷たく諦観して、死にはぐれ、生きはぐれながら、次の道をさがしている迷える雁の一羽に似ていた。
だから彼女は、又八から、武蔵が今刻々、死の危機へ近づいている様子を如実に聞いても、泣くほどな気持にはなって来なかった。――ではなぜ、こんなところまで、恋々と彷徨ってきたかと訊かれれば、その矛盾も説明することのできない彼女であった。
「…………」
行くての方角を失ったような眸をして、朱実は、又八のことばを、夢うつつに聞いていた。又八は、その横顔を黙って見ていた。――なにかしら彼女の彷徨っている所と、自分の彷徨っている所とが、似ているように思われてならない。
(この女は道づれを捜している――)
そう見える白い横顔だった。
又八は、ふいに、彼女の肩を抱えた。そして顔を押しつけるようにして、
「朱実。江戸へ逃げないか……」
と、囁いた。
朱実は、息をのんだ。
疑うように、又八の眼をじっと見つめ、
「え。……江戸へ?」
ふと、自分に返って、現実の境遇を見直すように反問した。
彼女の肩へ廻している手に、又八はそっと力をこめて、
「なにも江戸表とは限らないが、人の噂に聞けば、関東の江戸表こそこれからの日本の覇府になるだろうという話だ。今までの大坂や京都はもう古い都とされ、新幕府の江戸城を繞って、新しい町がどしどし建っているそうだ。――そういう土地へ行って逸早く割り込めばきっとなにかうまい仕事があるだろう。おめえも俺も、いわば群れからはぐれた迷い雁だ。……行かないか。……行ってみないか。……え、朱実」
囁かれている彼女の顔がだんだん熱心に聞いていた。又八はなお口を極めて、世の中の広さや、自分たちの若い生命を称えて、
「面白く暮すんだ、したいことをして送るんだ。それでなけれや生れた甲斐はない。もっと俺たちは図太い肚を持とうじゃねえか。線の太い世渡りをしなけりゃあ嘘だ。生半可、正直に、善良にと、量見を良くしようとするほど、却って運命ッて奴は、人を弄ったり皮肉ったり、ベソを掻くようなことばかり仕向けて来やがって、碌な道は拓けて来やしねえ。……え、朱実、おめえだってそうじゃねえか。お甲っていう女にしろ、清十郎という男にしろ、そんな者の餌になって、食われているから悪いのだ。食う人間にならなけれやあ、この世は強く生きちゃ行かれねえぜ」
「…………」
朱実は心を動かされた。よもぎの寮という家から離れ離れに世間へ巣立って、自分はその世間に虐まれて来ただけであるが、さすがに又八は男だけあって、以前よりもどこか慥りしたところが人間に出来てきたように思われた。
けれど、彼女の頭のどこかに、まだ捨て難い幻影がちらちらしていた、それは武蔵の影であった。焼けた家の焼け跡へ行って灰でも眺めてみたいとする――愚かな執着にそれは似ていた。
「嫌か」
「…………」
黙って、朱実はかぶりを振った。
「じゃあ、行こう。嫌でなければ――」
「だけど、又八さん、おっ母さんは、どうするつもり?」
「ア。おふくろか」
又八は、彼方を見上げて、
「おふくろは、武蔵の遺物さえ手に入れれば、一人で故郷へ帰って行くさ。あのまま姥捨山のようなところに置き去りを食ったと知ったら、一時はかんかんに怒るだろうが、なあに今に俺が出世してやればそれで埋め合せはつく。――そうきまったら、急ごうぜ」
意気込んで、先へ歩いて見せると、朱実はまだなにか躊躇って、
「又八さん、ほかの道を行きましょう、その道は」
と、竦んでいう。
「なぜ」
「でも、その道を登って行くとまた、あの山の肩に」
「アハハハ。口が耳まで裂けている侏儒が出るというのか。俺がついているから大丈夫だ。……アッいけねえ。お婆の奴が彼方で呼んでやがる。侏儒の妖怪よりゃあ、おふくろの方がよっぽど怖いぞ。朱実、見つかると大変だ、早く来いっ」
――駈け上がって行く二つの影が岩山の中腹ふかく隠れ去った頃、待ちくたびれたお杉婆の声が谷間の上で、
「せがれようっ……又八ようっ……」
空しく彷徨い歩いていた。
チチ、チチ、チチ……
畷の大藪に風が立ちそめて来た。風につれて、小禽が立つ。しかしまだその鳥影も見えぬほど朝は暗いのである。
前に懲りているので、佐々木小次郎は、
「わしだぞ。立会人の小次郎なるぞ」
こう断りながら、大息を喘って、雲母越えの十町畷を魔のように駈け、下り松の辻までやがて来た。
跫音に、
「や、小次郎殿か」
四方に潜んでいた吉岡勢は、まったく痺れの切れたような顔をして、彼の周囲をすぐ真っ黒に取り囲んだ。
「まだ見えませぬかの、武蔵奴は――」
壬生の源左老人の問いに、
「いや、出会った」
と、小次郎は語尾を上げ、その言葉に衝かれ、さっと自分へあつまる視線のひらめきを冷たく見廻しつつ、
「出会ったが、武蔵の奴、どう思ったか、高野川から五、六町ほど連れ立って歩くうちに、不意に姿を消してしもうたのです」
いいも終らず、
「さては、逃げたなっ」
これは御池十郎左衛門だった。
「いや!」
と、その動揺めきを抑えて、小次郎はいいつづけるのだった。
「落着き澄ました彼の容子、また、わしにいった言葉のふしや、その他を考え合せてみるに、姿は消したが、どうも、あのまま逃げ去ったものとも考えられぬ。――思うに、この小次郎に知られては具合のわるい奇策を用いるため、わしを撒いたものと思われる。油断は決してなりませぬぞ」
「奇策。――奇策とは?」
無数の顔が、彼を囲んで、彼の一言半句も聞き洩らすまいとするように犇めいた。
「おおかた武蔵の助太刀のものたちが、どこかに屯していて、彼を待ち合せ、それと合してここへ襲せて来るつもりではないかと思う」
「ウウウム。……それはありそうなことじゃ」
源左老人が呻くと、
「しからば、ここへ来るのも、もう間はないな」
十郎左衛門は、そういうと、持ち場を離れたり、樹の上から降りて集まって来た味方へ、
「戻れ戻れ。備えを崩しているところへ、武蔵方が不意に虚を衝いて来ようものなら、出鼻に不覚を取ってしまう。どれほどの助太刀を率き具して参るかはしらぬが、いずれ多寡の知れたもの。手筈を過たず討ち取ってしまえ」
「そうだ」
めいめいも、気づいて、
「待ちくたびれて、心に弛みの起る時が油断だ」
「部署につけ」
「おう、抜かるな」
いい交わしながらばらばらと分れて、再び、藪の中や樹蔭や、また、飛道具を携えて梢の上へ影をかくした。
小次郎はふと、下り松の根方に、藁人形のように立っている源次郎少年を見て、
「眠いか」
と訊いた。
源次郎は強く、
「ううん」
首で否定して見せた。
その頭を撫でてやりながら小次郎は、
「では寒いのか、唇の色が紫いろしているではないか。其許は吉岡方の名目人で、つまりきょうの果し合いの総大将だからの、確乎していなければいかんぞ。もうすこしの辛抱、も少し経つと、面白いものが見られるからな。……どれ、わしもどこか地の利のよいところで」
と、いい捨ててそこを立ち去った。
――一方、思い合せると、ちょうどその時刻。
志賀山と瓜生山の間ノ沢あたりで、お通から別れ去った宮本武蔵は、
(ちと遅くなった!)
と、その遅刻した差を取り戻そうとするかのように、急に脚を早め出していた。
下り松での出会は、寅の下刻と約してある。この頃の日の出はおよそ卯の刻過ぎであるからまだ暗いうちなのだ。場所が叡山道で三道の辻に当っているし、夜が白めば、当然往来人もあるからその点なども時間に考慮されていることはいうまでもない。
(お、北山御房の屋根だな)
武蔵は、脚を止めた。そして自分の今踏んでいる山道のすぐ真下に見える伽藍をのぞいて、
(近い!)
と感じた。
そこから下り松の辻まではもう七、八町しかない。北野の裏町から歩き出した距離も遂にここまでちぢまった。この間に月も彼とともに歩いていた。山の端にかくれたのか朝の月影はもう見えなかった。――しかし、三十六峰の懐に重たく眠り臥している白雲の群れが、遽に、漠々と活動を起して天に上昇しはじめたのを見ても、天地は寂とした暁闇のうちにすでに「偉大なる日課」へかかっていることが分る。
その偉大なる日課のまっ先に、もう幾つか呼吸する間に、自分の死が、一片の雲よりも淡く、その気象の中から消されてゆくのか――と武蔵は雲を仰いで思う。
雲の抱く巨きな万象の上から見れば、一匹の蝶の死も一個の人間の死も、なんらの変りもないほどなものでしかない。――けれど人類の持つ天地から観れば、一個の死は、人類全体の生に関ってゆくのだ。人類の永遠な生に対して、よい暗示か、悪い暗示かを、地上へ描いてゆくことになる。
(よく死のう!)
と、武蔵はここまで来た。
(いかによく死ぬか?)
に彼の最大の最後の目的はあるのだった。
――ふと水音が耳につく。
一気に、ここまで脚を早めて来たので、彼は渇きを思い出した。岩の根へ屈んで水をすすった。水のうまさが舌に滲みる。彼は自分で、
(おれの精神は紊れてない)
ということをそれでも知った。そして直前の死そのものへ対して、少しも卑屈を感じない自己をすずやかに思った。今こそ、自分の胆は踵にこもっているという感。
――だが、足を止めて、一息つくとすぐ、なにかしら後ろで自分を呼ぶものがあった。お通の声である。また、城太郎の声である。
(元より気のせいだ)
そう彼は知っている。
(取り乱して、後を追って来るような女ではない。わかり過ぎるほど、自分の心もわかっている女だけに――)
ということも彼は知っている。
けれどそのお通が後ろから声をふり絞って来るような気持が、なんとしても頭から払えなかった。
ここまで駈けて来る間にも、ともすると振向いてみた。今も、足を止めるとすぐ、意識のうちに、
(もしや?)
と、耳はそれへ傾いてしまう。
時刻に遅れることは、約束を違えたといわれるのみでなく、彼として、戦う上に損である。無数の敵の中へ、単騎で斬り入るには、ちょうど月も落ち、夜もまだ明けきらないという、暁闇の一瞬こそ彼にとって利がある。勿論、武蔵もその考えで脚を急いで来たのであるが、また一つには、うしろ髪を引くようなお通のあらぬ声や姿を、心から振り捨てるためにも、ここまで眼をつぶるような気持で急いで来たものであろう。
外敵はこれを粉砕するも易し、心の敵は敗るよしなし。――武蔵はふとこの言葉に思い当って、
(くそっ、こんなことで)
と、心に鞭を加え、
(女々しい!)
お通のことなど、塵ほども胸に止めまいとした。
さっき袂を振り切る時、そのお通に向っても、いったばかりではないかと恥じる。
(男が男の使命に向って、挺身する時は、恋など、頭の隅にもおいていないのだ――)と。
そういいつつ今、果たして自分の頭の中から、お通のことは捨て切っているのだろうか?
(なんたる未練だっ)
心の中から、お通の幻影を蹴とばして、そしてそれから遁れ去るように、彼はまた、驀しぐらに駈けていた。
――と、眼の下の大竹藪からさらにずっと山裾へかけて展けている樹林や畑や畷を縫って、一筋の白い道が見えた。
「おっ!」
すでに近い。――一乗寺下り松の辻は近い。その一筋の道を眼で辿ってゆくと、およそ二町ほど先の所で、他の二筋の道と結び合っている。乳いろの霧の微粒が静かにうごいてゆく空に、傘枝を高くひろげた目印の松が、もう武蔵の目にも見えたのである。
――はっと、彼は地へ膝をついた。背にも、前にも、いやこの山の樹木すら、すべて敵かのように、彼の五体は闘志のかたまりとなった。
岩の蔭、樹の蔭と、蜥蜴のように素迅く身を移しつつ、下り松の真上に当る高地まで来たのであった。
(ウム、いるな!)
そこからはさらに近々と、辻にかたまっている人影までが幽かに読まれた。ちょうど松の根元を中心にして、十人ほどの一塊りが、霧の下にじっと槍を立てている――
どうっ――と山巓からふき颪してくる暁闇の大気が、武蔵のからだへ雨かとばかり雫を落し、松のこずえや大竹藪を潮騒のように山裾へ翔けてゆく。
霧の下り松は、その傘枝を震わせて、なにか予感を、天地へ告げているようだった。
眼に見えた敵の数はわずかであるが、武蔵は、満山満地がみな敵の居場所に感じられた。すでに死界の中に来ている肌心地だった。手の甲まで鳥肌になっていた。呼吸はおそろしく深く静かに、足の指の爪までがもう戦闘しているのである。ジリジリと、一歩一歩にすすむ足の指が、掌の指にも劣らない力で、岩の間を攀じ登っていた。
――すぐ眼の前に、古い砦の址ででもあるような石垣があった。彼は岩山の腹を伝わって、その小高い地域へ出た。
見ると、麓の下り松のほうへむかって、石の鳥居がある。周囲は喬木と防風林でかこまれていた。
「オ。……お社だ」
彼は、拝殿の前へ駈けて行くなりそこへひざまずいた。何神社とも思わず無意識にべたと両手をついていた。折も折、心魂のおののきを彼も禁じ得なかった。――真っ暗な拝殿のうちに、一穂の御明しは消えなんとしながら消えもせず、颯々と風の中にゆらいでいた。
「――八大神社」
彼は、拝殿の額を仰いで、大きな力を味方にもったような気がした。
「そうだ!」
ここから真下の敵へ逆落しに斬り入ってゆく自分の背には神があるとする強味――神こそはいつも正しきものに味方し給うものという強味――むかし信長が桶狭間へ駈けてゆく途中でも熱田の宮へぬかずいたことなども思い合わされて、なんとなく欣しい吉瑞!
彼は、御手洗の水で口漱いだ。さらにもう一杓子含んで、刀の柄糸へきりを吹き、わらじの緒にもきりを吹いた。
手ばやく革襷をかけ、鬢止めの鉢巻を木綿で締めた。そして足を踏み馴らしながら神前に戻って、拝殿の鰐口へ手をかけた。
――手をかけて。
(いや! 待て)
と武蔵は、手を離した。
縒り合せた紅白の色も分らぬほど古びている木綿の綱――鰐口の鈴から垂れている一条の綱――
(恃め、これに縋れ)
といわないばかりな。
しかし、武蔵は自分の胸に、
(自分は今、ここへ、なにを願おうとしたのか)
をたずねてみて、はっと、手を竦めてしまったのであった。
(もう宇宙と同心同体になっているはずの自分ではないか!)
と思う。
(ここへ来るまでに――いや常々から、朝に生きては夕べに死ぬる身と、死に習い死に習いしていた身ではないか)
と、われを叱る。
それが今、計らずも、平常の鍛錬を、ここぞと思う間際に当って、一穂の明りを仰ぐと、なにか、暗夜に光でも見つけたように、欣しげに心は揺れ、手はわれを忘れて、この鰐口の鈴を振り鳴らそうとしている。
さむらいの味方は他力ではない。死こそ常々の味方である。いつでもすずやかに、きれいに潔く、はっと死ねるという嗜みは、どんなに習っても、習いぬいても、容易に習いきれる修行でないことは勿論だが、ゆうべの月から今朝まで歩いて来た己れの身こそ、それを体得し切ったものと、心ひそかに、自分を誇ってさえいたのに――と、武蔵は石の如く神前に突っ立ったまま、じっと慚愧の首を垂れて、口惜し涙が頬を下ってくるのも覚えぬもののように、
(過った!)
と、悔いを心に噛み、
(――自分では、玲瓏な身になり切っていたつもりでも、まだ五体のどこかには、生きたいとする血もうずいていたに違いない。お通のことやら、故郷の姉のことやらが――そして藁をもつかみたいとする恃みが――ああ、無念な! われを忘れて鰐口の綱へ手を差し伸べさせたのだ。――この期になって神の力を恃もうとしていた)
お通には泣かなかった涙を、武蔵は滂沱と頬にながして、わが身に、わが心に、わが修行に、万恨の無念を持つのであった。
(――無意識であったのだ、恃もうとする気持も、祈ろうとする言葉も考えずに、ふと鰐口の綱を振ろうとした。――だが、無意識だから、なおいけないのだ!)
叱っても叱っても、叱りきれない慚愧なのである。自分が口惜しいのだ。こんな浅い修行をして来たきょうまでの日々であったかと思うと、
(愚鈍め)
憐むべき自分の素質を考えるほかなかった。
すでに空身。なにを恃みなにを願うことがあろう。戦わぬ前に心の一端から敗れを生じかけたのだ。そんなことで、なにがさむらいらしい一生涯の完成か。
だが――武蔵はまた卒然と、
「有難いっ」とも思った。
真実、神を感じた。まだ幸いにも、戦いには入っていない。一歩前だ。悔いは同時に改め得ることだった。それを知らしめてくれたものこそ神だとおもう。
彼は、神を信じる。しかし、「さむらいの道」には、たのむ神などというものはない。神をも超えた絶対の道だと思う。さむらいのいただく神とは、神を恃むことではなく、また人間を誇ることでもない。神はないともいえないが、恃むべきものではなく、さりとて自己という人間も、いとも弱い小さいあわれなもの――と観ずるもののあわれのほかではない。
「…………」
武蔵は、一歩退って、両手をあわせた。――しかし、その手は鰐口の綱へかけた手とは違ったものであった。
そしてすぐ、八大神社の境内から、細い急坂を駈け下りて行った。坂を降りきった山裾の傾斜に下り松の辻はあった。
のめるような急坂だった。豪雨の日でもあればそのまま滝となるような道に、洗い出された石ころが脆い土にすがっている。
武蔵が、一気に駈け下りてゆくと、石ころや土が、彼の踵を追いかけて静寂を破った。
「あっ」
なにものかが目に触れたのであろう、武蔵は突然、体を鞠にして、草の中へ転がった。
草はまだ朝露を一滴もこぼしていない。膝も胸も水びたしになってしまう。かがみ込んだ野兎のように、武蔵の眼は下り松の梢を凝視する。
足数にしても、そこまではもう何十歩と眼でも測ることができよう。そして下り松の辻の位置はこの坂下よりさらに幾分か低地になっているため、その梢も比較的低く見られる。
――武蔵は見た。
樹の上に潜んでいる人影を。
しかもその男は飛道具を持っているらしい。それも半弓ではない、鉄砲らしいのだ。
(卑怯な!)
と、憤ってまた、
(一人の敵に)
と、愍れみもしたが、さりとて予期していないことではなかった。これくらいな用意は当然あるものと心構えには入れていたことである。吉岡方でもまた、まさか自分がただ一名でここへ臨むものとは考えていないに違いない。そうすると飛道具の備えもある方がむしろ賢いことだし、それも一挺や二挺ではないものと見なければなるまい。
だが、彼の位置からは、下り松の梢だけにしか発見できなかった。飛道具の者が皆、樹の上に潜んでいるものという見解を持つのも早計であり危険である。半弓ならば岩のかげや低地にもかくれていようし、鉄砲ならば、この山腹から撃ってもあたる。
しかし、たった一つ武蔵にとって有利だったのは、樹の上の男も、樹の下の一かたまりも、みなこっちに背を向けていることだった。追分から三方へ道がわかれているだけに、彼らは背後の山を忘れていた。
這うように武蔵は徐々と身をすすめた。刀のこじりの高さよりも頭の方を低くして出て行った。そして遽に小走りになり、ツ、ツ、ツ、ツ、ツ――と巨松の幹へ近づきかけると、二十間ほどてまえで、
「――あッ」
梢の男が、ふと、その影を発見して、
「武蔵だっ!」
と、叫んだ。
天空からその声が響いたにも関わらず、武蔵はまだ、同じ姿勢のまま十間は確かに駈けた。
彼は、その秒間だけは、決して弾が来ないということを、胸の裡で計っていた。なぜならば、梢の上の人間は、枝に跨がって、三道の方へ銃口を向けながら見張っていたからである。樹の上なので、身の位置も直さなければならない、また小枝に邪げられて、銃身もすぐには向けられまい。
――こう計って、その秒間だけは安全と思っていた。
「なにッ――?」
「どこへっ」
これは、下り松の下を本陣として立ち並んでいた十名ほどの異口同音だった。
次の瞬間には、また、
「後ろだい」
と、宙の男がいった。
喉の引ッ裂けそうな声でわめいたのである。その時はもう梢の上であわてて持ち直した銃口が、武蔵の頭へ正確に向いていた。
松の細かい葉を通って、火縄の火がチラ――とこぼれた。武蔵の肱が大きな円を描いたのはその咄嗟であった。手のうちに握られていた石は唸りをあげて、線香ほどに見える火縄の光へぴゅっと飛んで行った。
――みりっと樹の小枝の裂ける響きと、あッと其処でいった叫びとが一つになって、霧の上から地面へ一個の物体を勢いよく抛り出した。勿論それは人間である。
「――オおっ」
「武蔵っ」
「武蔵だっ」
後ろに眼を持たない人間である限り、この驚きは当然に見えた。
三道それぞれな所に、水も漏らさぬ前衛の備えを固めていただけに、なんの予報もなく、この中核部で、いきなり武蔵の姿を迎えようなどとは、夢想だにもしていなかった吉岡方の狼狽も無理ではない。
わずか十名に足らないそこの人数ではあったが、不意に大地を震り上げられたかの如く、味方同士、腰の鞘と鞘をぶつけ合い、また、持ち直す槍の柄に味方の者の足もとを躓かせ、また或る者は不必要なほど遠くへ横ッ跳びに身を交わし、そしてまだ驚き足らないように、
「こ、小橋っ」
「御池っ」
と朋友の名を、無用な高声で呼び合ったり、
「抜かるなっ!」
と自分の心胆さえ定まらないのに他を誡めたり、
「な、な、なにをッ」
「く、くッ! ……」
言葉にならない言葉の切れ端を歯の根から力み出したりして、どうにかぎらぎら抜きつれた刀と槍の幾筋とが、武蔵へ向って半円を備えかけたかと見えた時、当の武蔵は、
「約定によって、生国美作の郷士宮本無二斎の一子武蔵、試合に出て参りました。名目人源次郎どのはいずれにおわすか。前の清十郎殿や伝七郎殿のごとき御不覚あるなよっ。ご幼少とのことゆえ助人は何十人たりとも存意のまま認めおく。ただし武蔵はかくの如く唯一名にて参ったり。一人一人かからるるとも、総がかりに来られるともそれも勝手。いでやっ!」
と、凛々、こういい放つ。
正しく挨拶されたのも彼らにはまた意外だった。礼儀に対して礼儀を取らない恥は骨身にこたえたらしいが、平常のそれとは違って、この場合のそれは十分な余裕というものからでなければ生れて来ない。口の唾さえ途端に渇いている舌では、
「遅いぞッ、武蔵っ」
「怯れたかっ」
ぐらいなことしかいえなかった。
にも関わらず、武蔵が、唯一名にて参ったりという言葉だけは確かに受け取って、そうだ相手は一名なのだと、急に強味が甦ってきたらしくも見える。けれど源左老人や、御池十郎左衛門らの老巧は、そういう裏を考えて、それをもってかえって武蔵の奇策となし、畢竟武蔵の助太刀はどこか附近に姿をかくしているものと疑心暗鬼の眼ざしが忙しない。
――びゅっ!
どこかで弦音がした。
武蔵の抜きはなった刀の刃風のようにもそれが聞えて、彼の顔へ向って飛んで来た一本の矢は、同時にパッと二つになって、肩のうしろと刀の切ッ先へきれいに落ちた。
――と見えた視線はもうそこへ置き残され、武蔵の体は髪を逆立てた獅子のように、松の幹に隠れていたそこの蔭のものへ向って一足跳びに躍っていた。
「キャッ。怖いっ!」
立っておれと吩咐けられた通りに、最初からそこに立っていた源次郎少年は、悲鳴をあげて、松の幹へ抱きついた。
その叫びに、父の源左老人が、自分が真二つに割られたような声で、わあーッと彼方で跳び上がったと思うと、武蔵の刀によって描かれた一閃が、どう斬り下げられたのか、松の皮二尺あまりを薄板のように削ぎ、その皮といっしょに前髪の幼い首を血しおの下に斬り落していた。
まるで夜叉の行為にひとしい。
最初から重大視していた目的物でもあるかのように、武蔵はなにものも措いて真っ先に、源次郎少年を斬ってしまったのだ。
酸鼻とも残忍ともいいようがない。敵とはいえ、物の数ではない少年ではないか。
それを斃したからといって先の勢力が微塵も減殺されるわけでもない。いや、かえって吉岡一門の者を極度に怒らせ、全体の戦闘力を狂瀾のように激昂させるにはなによりも役立ったろう。
わけても源左老人は、哭くかのような形相を作り、
「――しゃあッ、よくもッ」
顔中から喚きを発し、老いの腕には少し重げに見える大刀を頭の上に振りかぶったまま、武蔵のからだへ打つかるような勢いで向って来た。
一尺ほど――武蔵の右足が退がったと思うと、その足につれ体も両手も右へ斜めになり、源次郎少年の首すじを通って返ったばかりの切ッ先がすぐ、
「かッ」
刎ねて――ぴゅん――とばかり源左老人の下りかけた肱と顔とを摺り上げた。
「ウウふっ」
誰の唸きとも分らない。
なぜならば武蔵の後ろから槍を突き出した者が、同時に前へよろめき出し、源左老人と折重なって朱となったし、なお眼を移す遑もなく、武蔵の正面にはすでにまた次にとびかかった四人目の者が――これはちょうど彼の重心点へ踏み出したとみえ、肋骨まで断ち割られて、首も手もだらんと下げたまま、二、三歩ほど生命のない胴を支えて足だけで歩いていたし――
「出会えッ」
「此処だっ」
後の六、七名は時々、絶叫をふり絞って味方へ急を告げた。だが如何せん三道へわかれている味方は皆、本陣とは相当な距離をおいて潜伏しているので、まだ極めて秒間に過ぎないここの異変を少しも知らず、また彼らの必死なさけびも、松風や大竹藪の戦ぎにまぎれて、むなしく宙へ消えてしまう。
保元、平治の昔から、平家の落人たちが近江越えにさまようた昔から、また親鸞や、叡山の大衆が都へ往来した昔から――何百年という間をこの辻に根を張って来た下り松は今、思いがけない人間の生血を土中に吸って喊呼して歓ぶのか、啾々とと憂いて樹心が哭くのか、その巨幹を梢の先まで戦慄させ、煙のような霧風を呼ぶたびに、傘下の剣と人影へ、冷たい雫をばらばらと降らせた。
――一個の死者と三名の傷負は、息一つする間にこの緊りつめた圏内から無視されてしまったのだ。相互がハッと呼吸を改めたせつなには、武蔵は自分の背を下り松の幹へひたッと貼りつけていた。ふた抱えもある松の幹は絶好な背の守りかに見える。しかし武蔵はそこに長く膠着していることはかえって不利としているらしい。眼ざしは、けわしく刀のみねから七つの敵の顔をひきつけながら次の地の利を案じていた。
梢の声――雲の声――藪の声――草の声――あらゆるものが戦き戦いている風の中に、その時、
(下り松へ行けっ!)
何者かが、遥かから、声をからして教えていた。
近くの小高い丘の上だ。手頃なところを選んで、そこの岩に腰をかけていた佐々木小次郎が、いつのまにか岩の上に突っ起ち、三道の藪や木蔭に沈んでいる吉岡勢へ向って、
(わういッ、おおういっ。――下り松だっ、下り松へ出会えっ!)
鉄砲の音だった、その時、人々は強い音波に耳を蓋された。
かたがた小次郎の声も、大勢のうちの誰かには聞えたはずである。
――素破っ。
動揺めいた大竹藪や、木蔭や岩蔭や、あらゆる物蔭から蚊の湧くように躍り出した三道の伏勢が、
「ヤ、ヤ?」
「既にっ」
「追分、追分」
「出し抜かれているぞッ」
道の三方から各、二十名以上の人が、地へ臨んで集まる奔流のように疾駆し出した。
武蔵は今――鉄砲の轟音と同時に、下り松の幹をくるっと自分の背でこするように動いた。弾は彼の顔から少し外れて樹の幹へぶすんとあたった。――そしてその前に槍と刀を交ぜて七本の切ッ先を揃えたまま対峙していた、七名も、ズズズズズと彼の動きに釣られて樹の幹を廻ってゆく。
――と。いきなり武蔵は、七人の左の端にいた男へ、青眼の剣を向けたままだッと駈け出した。その男はしかも吉岡十剣の中の一人だった小橋蔵人であったが、余りにも迅い恐ろしい彼の勢いに、
「――あ、あッ」
浮き声をあげて、思わず、片脚立ちに身を捻じ交わすと、武蔵は、空間を突きながら、そのままタタタタッ――と果てしなくなお駈け出して行く。
武蔵の背を見て、
「やるなッ」
と、追い縋り、飛びかかり、一斉に斬り浴びせようとした刹那、彼らの結合はばらばらになり、彼らの個体もでたらめに構えを失っていた。
武蔵の体が、分銅のように刎ね返って、真っ先に追って来た御池十郎左衛門の横を撲った。十郎左衛門は、直感に、
(彼の詭策)
と覚って、追い足にふくみを持っていたので、武蔵の刀は、彼の反り返った胸先を横へ掠めたに過ぎない。
けれど武蔵の刀は、世の常の術者が振り込むように、一振一刀――つまり斬り損じた刀の力がそれなり空間へ失われて、また二の太刀を持ち直して斬り込むというような――そんな速度ののろいものではなかったのである。
彼は、師というものにつかなかったために、その修行の上で、損もし苦しみもしたろうが、師を持たないために、益もあった。
それはなにかといえば、既成の流派の形に鋳込まれなかったことである。彼の剣法には従って形も約束も、また極意も何もない。六合の空間へ彼が描き出した想像力と実行力とが結びあって生れた無名無形の剣なのである。
例えばこの際――彼が下り松の決闘で御池十郎左衛門を斬った時の刀法などでもしかりで、十郎左衛門はさすがに吉岡の高足だけに、武蔵が逃げると見せて振り返りざま払った刀は、確かに交わし得ていたのである。――それが京流にせよ、神陰流にせよ、何流でもこれまでの既成剣法ならばそれで十分外し得たといっていい。
ところが、武蔵独自の剣はそうでなかった。彼の刀には必ず刎ね返りがある。右へ斬ってゆく刀は同時にすぐ左へ刎ね返ってくる原動力をふくんでいるのだった。ゆえに彼の剣が空間に描く光をよく気をつけてみると、必ず、その迅い光は松葉のように一根二針の筋をひいて走ってはすぐ返して敵を刎ね上げている。
わっ……とさけぶ間に、その燕尾の如く刎ね返った切ッ先にあたって、御池十郎左衛門の顔は、破れた鬼燈のように染まった。
京流吉岡の伝統を負って立つべき十剣のうちの、小橋蔵人がまず先に斃れてしまい、今また御池十郎左衛門ともあろうほどの者が、つづいて大地へ俯ッ伏した。
物の数には入れるわけにはゆかないが、彼らの命旗とする、名目人の源次郎少年を加えると、すでにここの半数は、武蔵の刀にあたって序戦の贄に曝され、惨たる血をここ一面に撒いてしまった。
――その時、十郎左衛門を斬った切ッ先の余勢をもって、彼らの乱れた虚につけ入ってゆけば、武蔵はさらに、幾つかの敵首をつかみ、ここでの大勢を決することができたにちがいない。
だが彼はなに思ったか、驀しぐらに三本道の一方へ駈けた。
逃げるかと思えば、翻っているし、向って来たなと構えを持ち直せば、地へ腹を摺ってゆく燕のように、武蔵の影はもう忽ち眼前にない。
「くそッ」
残った半数は歯がみをし、
「武蔵ッ」
「醜いぞッ」
「卑怯ッ」
「勝負はまだだぞ」
と吼え――そして追った。
彼らの眼孔は、皆顔から飛び出しそうに光っていた。夥しい血しおを見、血のにおいに吹かれて、彼らは酒蔵へ入ったように血に酔っていた。血の中に立つと、勇者は常よりも冷静になるし、怯者はその反対になる。――武蔵の背を見て追いかけてゆく躍起な血相というものは、さながら血の池の鬼だった。
「行ったぞッ」
「逃がすなッ」
そんな叫びを聞き捨てながら、武蔵は、最初の戦端を切った丁字形の辻を捨て、三道のうちでいちばん道幅のせまい修学院道へ向って駈け込んで行ったのである。
――当然そこからは今、下り松の変を知って、慌てふためいて駈けつけて来た吉岡勢の一団がある。ものの二十間とも駈けないうちに、武蔵はその先頭とぶつかって、後から追って来るものとの間に挟まってしまわなければならないはず。
二つの勢いは、その藪道でぶつかった。味方は味方の雄々しい姿を見ただけだった。
「や。むむ武蔵はッ」
「来ないッ」
「いや、そんなはずはないが」
「でも――」
押問答をしている間に、
「ここだッ」
武蔵がいった。
路傍の岩の蔭からおどり出て、武蔵は、彼らの列が通り越して来た道の中央に立っていた。
――来いッ。といわんばかりな第二の準備が彼のからだにできていた。愕然と、それへ動きかける吉岡勢は、道幅の狭さに出鼻から全体の力に集中を欠いてしまった。
人間の腕の長さと刀の長さとを加えて、体を中心に円を描くとなると、その狭い道幅では、二人の味方が並ぶのさえ危険である。のみならず、武蔵の前に立った者は、ダダダダッと踵を鳴らして後ろへ退がって来たし、後方の者は、争って前へ押して来るため、大勢という力の自体が、咄嗟に混乱を起して、味方は味方の足手纒いとなるばかりだった。
――だが、衆の力というものはもとよりそう脆いものではない。
一度は武蔵の敏速と、彼の剥き出しなたましいの圧倒に、
「ひッ、退くなっ」
腰も踵も、浮いて見えたが、
「多寡が唯一人」
と、衆が衆の力を自覚し、その強味を負って、先頭の二、三名が、
「うぬっ」
「おれが仕止めるっ」
身を挺して行くと、後の者もそれを見てはいなかった。わっという喊声だけでも、一個の武蔵よりは遥かに強い。
怒濤へ向って泳ごうとするように、武蔵は闘いつつ後へ後へと押されるのみで、敵を斬るより身を防ぐに急だった。
手許へのめり込んで来て、斬れば斬れる敵すら措いてジリジリ退がって行く。
この場合、二人や三人の敵を斬っても、相手は総体の力からいえば、なんの痛痒も感じないばかりでなく、間髪を過れば、槍が伸びてくるからである。――太刀の切ッ先には、およそ「間」を取っていることができるが、大勢の中にいて、穂先を縮めている槍には「間」を察している遑がない。
吉岡方は、勢いに乗った。
タタタタッ――と武蔵の踵は後退がりに引くばかりなので、ここぞと飽くまで押したのである。武蔵の顔はすでに蒼白なのだ。どう見ても呼吸をしている顔ではない。木の根につまずくか、一すじの縄でもその足にからめばもんどり打ってしまうことは確かだと思う。しかし、死相をおびている人間の手許へはいって、死出の道づれになるのは誰も嫌だった。そのためにわッわッと刀や槍で押してゆきながらも、無数のそれが皆、武蔵の胸、小手、膝などへわずか二、三寸ずつ切ッ先の寸伸びが足りなかった。
「あッ――?」
不意にまた、彼らは眼前の武蔵を見失って、そこの狭い道幅とたった一人の相手には、余剰すぎる大勢の力を持て余して、自ら揉み返した。
――といってもべつに武蔵が、足に風を起して駈けたわけでも、樹の上に跳び上がったわけでもない。ただ、彼がたった一跳び、その道から藪の中へ身を反らしたに過ぎないのである。
土のやわらかい孟宗竹の密林だった。青い縞目を縫って飛ぶ鳥影のような武蔵の姿に、チカッと、金色の光が刎ねた。朝の太陽がいつのまにか叡山連峰の山間から、つと真っ紅な櫛形の角をあらわしているのだった。
「待てッ。武蔵」
「醜し!」
「背を見せる法やあるっ」
思い思いに、大勢は竹と竹のあいだを駈けた。武蔵はもう藪の外れの小川を跳びこえている。そして一丈ほどな崖を跳び上がり、二つ三つそこで呼吸をやすめている様子。
崖の上はゆるい傾斜を持っている山裾の原だった。彼は一望に夜明けを見た。下り松の辻はすぐ下であり、その辻には、吉岡方の逸ぐれた人数が四、五十名もいて、彼が今、小高いところに立った姿を見つけると、一斉にわッとここへ寄せて来た。
今の人数の三倍に殖えたものが、真っ黒にこの山裾の原に集まった。吉岡方の全勢力である。一人一人手を繋げば、大きな剣の環をもって、この原を包んでしまうこともできるほどな人数なのである。一剣、燦々と、針のように小さく、じっと青眼にすえたまま、武蔵は遠く立って待っていた。
どこかで駄馬がいなないた。里にも山にも、もう往来はあるはずの時刻。
ことに[#「 ことに」は底本では「ことに」]この辺は、朝の早い法師たちが、叡山から下りて来るし、叡山へ上って行くし、夜さえ明ければ、木履を穿いて、肩をいからして歩く僧侶の姿を見ない日はない。
そういう僧侶らしい者だの、木樵だの、百姓だのが、
「斬合だっ」
「どこで」
「どこで」
人が騒ぎ出すと、里の鶏や馬までが騒ぎ立てた。
八大神社の上にも一群かたまって見ていた。絶えず流れている霧は、山とともに、その見物人の影を、白く塗りつぶしてしまったかと思うと、またすぐ視野を展いて見せた。
――その一瞬の間に武蔵のすがたは見る影もなく変っていた。鬢止めに締めている額の布は、汗と血で、桃色に滲んでいた。髪は崩れてその血と汗に貼りついて見える。ために、彼の形相は、たださえ恐ろしくなっているところへ、魔王の隈を描いたように、世にもあるまじき物凄さに見えるのだった。
「…………」
さすがに、呼吸も全身でつき始めてきた。黒革胴のような肋骨が大きな波を打つ。袴はやぶれ、膝の関節を一太刀斬られていた。その傷口から柘榴の胚子みたいな白いものが見えている。破れた肉の下から骨が出ているのである。
小手にも一箇所かすり傷を負っていた。さしたる傷ではないらしいが、滴る血しおが胸から小刀の帯前まで朱に染めているので、さながら満身が纐纈染になってしまい、墓場の下から起ち上がった人間でもあるかの如く、見る者の眼を掩わしめた。
――いや、それよりも酸鼻なのは、彼の刀にあたって、処々に唸いたり、這ったりしている傷負や死人だ。その山裾の原へ彼が駈け上がり、七十名もの人間が、どっと彼へ襲撃して行ったと思う途端にもう四、五名が斃れていた。
吉岡方の傷負が斃れている位置は、決して一所にまとまっていなかった。彼方に一名、此方に一名、距たっている。それを見ても武蔵の位置が絶えず動いて、この広い原をいっぱいに足場を取り、大勢の敵をして、その力を集結させる遑のないように闘っていることがわかる。
――といっても武蔵の行動には、いつでも一定の原則があった。それは、敵の隊伍の横へ当たらないことだった。努めて敵の展開してくる横隊の正面を避け、その群れの角へ角へと廻って、電瞬に薙ぎつける――末端の角を斬る――
だから、武蔵の位置からは、敵はいつでも、先刻の狭い道を押して来たように、縦隊の端から見ているわけだった。同時に、七十人でも百人でも、彼の戦法からすれば、わずか末端の二、三名だけが当面の対手であるにすぎない。
しかし、いかに飛鳥の敏速があっても、彼にもたまたま破綻が生じるし、敵も彼のためにそう乗ぜられてばかりはいない。どっと、無数が無数の働きをして、同時に前後から喚きかかる秒間も起る。
その時が、武蔵の危機だった。
また、武蔵の全能が、無我無想のうちに、高度な熱と力を発する時だった。
彼の手にはいつか、二つの剣が持たれていた。右手の大刀は血ぬられて柄糸も拳も血漿で鮮紅に染まり、左の小剣はまだ切ッ先がすこし脂に曇っているだけで、まだ幾人かの人間の骨に耐え得る光をしていた。
だが武蔵は、二刀を持って敵と闘いながらも、まだ二刀を使っているという意識などは全然ないのである。
浪と燕のようなものだ。
浪は燕を搏ち、燕は浪を蹴って、すぐ他へ翻ってしまう。
一瞬でも、静止はないが、双方の刃の下に仆れて、ばたッと大地に足掻く人間のすがたが眸に映るたびに吉岡方の大勢が、
「――あッ」
なんとはなく息をひいたり、
「――ウウム」
と、唸きを合せたり、気が眩んでくるような精神を醒まそうとするように、
「…………」
ず、ず、ずーとただ土に草鞋をずり合う音だけをさせて、武蔵を包囲しようとして来る。
――と、武蔵は。
ほっと、その間に呼吸をつく。
左剣は、前へかまえて、いつも敵の眼につきつけ、右手の大刀は横へひらいて、肩から腕――切ッ先まで、緩やかな水平に持ち――これは敵の眼の外にあそばせておくというような形。
大小二剣の尺と、両腕をいっぱいにひろげた尺とを合わせると、彼の爛々たる双眸を中心として、かなり広い幅になる。
敵が、正面を嫌って、
(――右)
と窺ってくれば、すぐ体ぐるみ右へ寄って、その敵を牽制し、
(左!)
と、直感すれば、ぱっと左剣が伸びて、その者を、二つの剣の中へかかえてしまう。
武蔵がそうして前へ突き向けている短い左剣には、磁石のような魔力があった。その先へかかった敵は、ちょうどモチ竿にとまった蜻蛉のように、退く間も交わす間もなかった。――あっといううちに長い右剣が唸ってきて、一颯のもとに、一個の人間を、びゅッと、血しおの花火にしてしまった。後に、ずっと後年にである。武蔵のこういう戦法を「二刀流の多敵の構え」と人が称んだ。しかし――今この場合の武蔵は、まったく無自覚でしていることだった。無我無思のうちに全能の人間力が、より以上の必要に迫られた結果、常には習慣で忘れていた左の手の能力を、われともなく、極度にまで有用に働かすことを、必然に呼びおこされていたに過ぎない。
けれど、剣法家としての彼は、まだ至って幼稚だったものといってよい。何流だの、何の形だのと、理論づけたり、体系づけている間などが今日まであろうわけはない。彼の運命からでもあったが、彼が信じて疑わずに通って来た道は、なんでも実践だった。事実に当って知ることだった。――理論はそれから後、寝ながらでも考えられるとして来たのである。
それとはあべこべに、吉岡方の十剣の人々を始め、末輩のちょこちょこしている人間まで、皆、京八流の理論は頭につめこんでいて理論だけでは、一家の風を備えたものも少なくない。けれど、恃む師もなく、山野の危難と、生死の巷を修行の床として、おぼろげながらも、剣の何物かを知らんとし、道に学ぶためには、いつでも死身となる稽古をして来た武蔵とは、根本からその心がまえも鍛えも違っている。――そういう吉岡方の人々の常識から見ると、もう呼吸もあらく、顔色もなく、満身朱になりながらも、まだ、二本の刀を持ち、触れれば何物も一颯の血けむりとしてしまいそうな、武蔵の阿修羅そのままな姿が、なにか、不可思議なものに見えてきた。気は晦み、眼は汗にかすんで、味方の血に戸惑うてくるにつれ、武蔵の姿が、いよいよ、捉え難くなり、しまいには、なにか真っ赤な妖怪と闘っているような疲労と焦りが全体に見えた。
――逃げろうっ。
――一人の方っ……
――逃げろ、逃げちまえっ。
山がいう。
里の樹々がいう。
また、白い雲がいう。
足を止めた往来の者や、附近の百姓たちが、遥かに、重囲の中の武蔵を見て、その危なさに気を揉むのあまり、どこからともなく、われを忘れてあげた声であった。
たとえ地軸が裂け、天を覆す雷があっても、武蔵の耳に、そんな声の届くわけもない。
彼の身は、彼の心力だけにうごいている。眼に見える彼の体は、仮の相でしかなくなっている。
おそろしい心力が、身をもたましいをも、まったく焼き尽くしていた。武蔵は今や、肉体ではなくて、燃え熾っている生命の炎だった。
――と、突然!
わあっッと、三十六峰がいちどに谺をあげた。山崩れのような喊声なのだ。それは遠く離れて見ていた人間も、武蔵の前にひしめいていた吉岡勢も、同様に大地から跳び上がって、その体の弾みから思わず出した声だった。
――た、た、た、たッ。
武蔵が、不意に、山裾から里へ向って、野猪のように駈け出したからである。
もちろん。
七十名からの吉岡勢は、それに手を束ねていたわけではない。
「それッ!」
真っ黒になって、武蔵へ追いすがり、追いつきざま、五、六名が、
「――かっッ」
「今になって!」
組まんとするばかり打つかって行くと、武蔵は身を伏せ、
「ちいイッ」
右刀で、彼らの脛を薙いだ。そして敵の一名が、
「こんな奴ッ」
上から撲り落してきた槍を、カーン、宙へ刎ねとばすと共に、乱れ髪の一すじ一すじまでが、皆、敵へ向って闘って行くかのように逆立って、
「――ちッ、ちッ、ちいっ」
右剣左剣、右剣左剣――とこもごもに火となり水と走って、食いしばっている武蔵の歯まで、口を飛び出して噛みついて来そうに見えた。
――わあっ、逃げたっ。
遠い所の動揺めきは、吉岡方のうろたえを同時に嗤ったように響いた。武蔵の影は、とたんにもう原の西側の端れから青い麦畑にとび降りていたのである。
すぐ後から、
「返せッ」
「待てッ」
どうっと、続いて人数の一部がそこを降りたと思うと、そこでまた、思わず耳をおおうような絶鳴が二声ほど走った。崖の下にへばりついていた武蔵が、自分に倣って向う見ずに飛んだ者を、下で待ち伏せていたように斬ったのである。
――びゅっ。
――ぶすんっ。
麦畑の真ん中へ、二本の槍が飛んできて、土へ深く突っ立った。吉岡方の者が、上から投げつけた槍である。しかし、武蔵の姿は泥の塊りのように山畑を駈けて跳び、またたく間に彼らとは、約半町ほどな距離をつくってしまった。
「里の方だ」
「街道の方へ逃げた」
という声が頻りと多かったが、武蔵は山畑の畝を這って、その人々の手分けして駈けまわるさまを時々、山の方から振返って見ていた。
やっと、その頃。
朝陽はいつもの朝らしく草の根にまで映してきた。
大四明峰の南嶺に高く位しているので、東塔西塔はいうまでもなく、横川、飯室の谷々も坐ながらに見える。三界のほこりや芥の大河も遠く霞の下に眺められ、叡山の法燈鳥語もまだ寒い木の芽時を――ここ無動寺の林泉は寂として、雲の去来のうえにあった。
「……与仏有因
……与仏有縁
……仏法僧縁
……常楽我常
……朝念観世音
……暮念観世音
……念々従心起
……念々不離心」
誰か?
無動寺の奥まった一間のうちから、誦すともなく唱うるともない十句観音経の声が――声というよりはおのずから出る呟きのように漏れてくる。
その独り語は、いつのまにか、われを忘れたかの如く高くなり、気がつくとまた、低くなった。
墨で洗ったような大床の廻廊を白い衣を着た稚児僧が、粗末な御斎の膳を眼八分にささげ、その経音の聞える奥の杉戸の内へ持って入った。
「お客様」
稚児僧は、膳を隅へおいた。
そしてまた、
「……お客様」
膝をついて呼んだが、呼ばれた者は、後ろ向きになったまま背をかがめており、彼の入って来たのも気づかない様子なのであった。
数日前の朝――見るかげもない血まみれな姿して、剣を杖に、ここへ辿りついて来た一修行者。
といえば、もう想像がつこう。
この南嶺から東に降れば、穴太村白鳥坂に出るし、西に降ればまっすぐに修学院白河村――あの雲母坂や下り松の辻につながる。
「……お午餐を持ってまいりました。お客様、ここへお膳をお置きいたします」
やっと、知ったように、
「オウ」
武蔵は、背をのばし、振りかえって膳と稚児僧のすがたを見ると、
「おそれいります」
坐り直して、礼儀をした。
その膝には、白い木屑がちらかっていた。細かい木屑は、畳や縁にもこぼれている。栴檀かなにかの香木とみえ、微かににおう心地がする。
「すぐ召しあがりますか」
「はい、戴きます」
「じゃあ、お給仕申しましょう」
「憚りさまですな」
飯椀をうけて、武蔵は食べにかかる。稚児僧はその間、武蔵のうしろにキラキラ光っている小柄と彼が今、膝のうえから下ろした五寸ほどの木材をじっと見ていたが、
「お客様、なにを彫っておいでになるんですか」
「仏様です」
「阿弥陀様?」
「いいえ、観音様を彫ろうとしているのです。けれど、鑿の心得がないので、なかなかうまく彫れない。この通り指ばかり彫ってしまう」
手をだして、指の傷を見せると、稚児僧はその指よりも、武蔵の袖口から見える肱の白い繃帯に眉をひそめて、
「脚や腕のお怪我は、どんなでございますか」
「……ア。その方も、お蔭でだいぶよくなりました。御住持にも、どうかお礼をいっておいてください」
「観音様をお彫りになるなら、中堂へ参りますと、誰とかいう名人の彫ったという作のよい観音様がありますよ。御飯がすんだら、それを見に行きませんか」
「それはぜひ見ておきたいが、中堂まで、道はどれほどあろうかな」
稚児僧は、答えていう。
「ハイ。ここから中堂までの道は、わずか十町ほどしかございません」
「そんなに近いのか」
そこで武蔵は、食事が終ると、そのお小僧に伴われて、東塔の根本中堂まで行ってみるつもりで、十幾日目で、久しぶりに大地を踏んだ。
もうすっかりよくなったつもりでも、土を踏んで歩いてみると、左の脚の刀痕がまだ傷む。腕にうけた傷痕にも、山風が滲み入るここちがする。
けれど、颯々と、鳴りゆらぐ樹々のあいだに、山桜は散って飛雪を舞わせ、空はやがて近い夏の色を湛えかけている。武蔵は、萌え出る植物の本能のように、体のうちから外へ向って象われようとして熄まないものに、卒然と、筋肉がうずいてくるのを覚えた。
「お客様」
と、稚児僧は、その頭を見あげ――
「あなた様は、兵法の修行者でいらっしゃいましょう」
「そうだ」
「なんで観音様なんか彫っているんですか」
「…………」
「お仏像を彫ることを習うよりも、その暇に、なぜ、剣の勉強をなさらないのです?」
童心の間いは時によると、肺腑を刺す。
――武蔵は、脚と腕の刀痕よりも、その言葉に、ずきんと胸の傷むような顔をした。まして、そう問うこのお小僧の年頃も十三、四。
下り松の根元で、闘いに入ろうとするや否、真っ先に斬り捨てたあの源次郎少年と――ちょうど年ばえも体の大きさも似て見える。
あの日。
幾人の傷負と、幾人の死者を作ったろうか。
武蔵は、今も、思い出すことができない。――どう斬ったか、どうあの死地を脱したのか、それもきれぎれにしか、記憶がない。
ただあれから後、眠りについても、ちらついてくるのは――下り松の下で、敵方の名目人である源次郎少年が、
(――怖いっ)
と、一声さけんだのと、松の皮といっしょに斬られて大地へころがった、あのいたいけな可憐な空骸だ。
(仮借はいらぬ、斬れ!)
という信念があったればこそ、武蔵は断じて真っ先に斬ったのであるが――斬ってそしてこうして生きている後の彼自身は、
(なぜ、斬ったか)
と、そぞろに悔い、
(あれまでにしないでも)
と、自分の苛烈な仕方が、自分でさえ憎まれてならない。
われ事において、後悔せず
旅日誌の端に、彼はかつて、自分でこう書いて心の誓いに立てていた。――けれど源次郎少年のことだけは、いくらその時の信念をよび返して心に持ってみても、ほろ苦く、うら悲しく、心が傷んでたまらなかった。剣というものの絶対性が――また修行の道というものの荊棘には、かかることも踏み越えてゆかねばならないのかと思うと、余りにも自分の行く手は蕭条としている。非人道的である。
(いっそ、剣を折ろうか)
とさえ思った。
殊に、この法の山に分け入って幾日、迦陵頻伽の音にも似た中に心耳を澄まし、血しおの酔いから醒め、われとわが身にかえってみると、彼の胸には、菩提を生じないではいられなかった。
手脚の傷の癒える日を待つつれづれに、ふと、観音像を彫りかけてみたのは、源次郎少年の供養のためというよりは、彼自身が自身のたましいに対する慚愧の菩提行であった。
「――お小僧」
武蔵はやっと、答える言葉を見つけ出していった。
「じゃあ、源信僧都の作だとか、弘法大師の彫りだとか、このお山にも聖の彫った仏像がたくさんあるが、あれはどういうものだろう」
「そうですね」
稚児僧は首をかしげて、
「そういえば、お坊さんでも、絵をかいたり、彫刻をしたりするんですね」
と、得心したくない顔つきをしながら、頷いてしまう。
「だから、剣者が彫刻をするのは、剣のこころを琢くためだし、仏者が刀を持って彫るのは、やはり無我の境地から、弥陀の心に近づこうとするためにほかならない。――絵を描くのも然り、書を習うんでも然り、各、仰ぐ月は一つだが、高嶺にのぼる道をいろいろに踏み迷ったり、ほかの道から行ってみたり、いずれも皆、具相円満の自分を仕上げようとする手段のひとつにすることだよ」
「…………」
理に落ちかけると、お小僧はおもしろくなくなったとみえ、小走りに先へ駈けて、草むらの中の一基の石を指さし、
「お客様、ここにある碑は、慈鎮和尚というお方が書いたんですって」
と、案内役の方に移る。
近づいて、苔の中の文字を訓んでみると、
法の水 あさくなりゆく
末の世を
おもへばさむし
比叡の山かぜ
武蔵はじっとその前に立ちつくしていた。偉大な予言者のようにその苔石が見える。信長というおそろしく破壊的でまた建設者があらわれて、この比叡山にも大鉄槌を下したため、それ以後の五山は、政治や特権から放逐され、今では寂として、元の法燈一穂の山に回ろうとしているが、今なお、法師のうちには、戒力横行の遺風が残っているし、座主の位置をめぐって、相剋の権謀や争い事はやまないと聞いている。末の世を
おもへばさむし
比叡の山かぜ
俗生を救うためにある霊山が、人を救うどころか、却って俗生の人に飼われて、からくも布施経済の習慣によって生きているという現在の風を思いあわせると――武蔵は無言の碑の前にあって、無言の予言を聞かないではいられなかった。
「サ、参りましょう」
先をうながして、お小僧が歩みかけると後ろから手をあげて、呼ぶ者があった。
無動寺の仲間僧である。
ふり顧る二人の前へ、その仲間僧は駈けて来て、まず、お小僧に向い、
「オイ清然、おまえは一体、お客様をご案内して、どこへ行くつもりじゃ」
「中堂まで行こうと思って」
「なにしに」
「お客様が、毎日観音様を彫っているでしょう。ところが、巧くほれないと仰っしゃるもんだから、それなら中堂に、むかしの名匠が作ったという観音様があるから、それを見にゆきませんかといって――」
「では、きょうでなくても、いいわけだの」
「さ、それは知らないが」
武蔵へ憚って、あいまいにいうと、武蔵はそれを引き取って仲間僧へ詫びた。
「御用もあろうに、無断でお小僧を伴れまいって悪いことを致したな。元より、きょうとは限らぬこと、どうぞお連れかえりください」
「いいえ、呼びにまいりましたのはこの稚児僧ではなく、あなた様におさしつかえなければ、戻っていただきたいと思いまして」
「なに、拙者に?」
「はい、折角、お出ましになった途中を、なんとも恐れ入りますが」
「誰か、拙者を訪ねて来た者でもあるのでござるか」
「――一応は、留守と申しましたが、いや今ついそこで見かけた、どうでも会わねばならぬから、呼び戻して来いというて、頑として動かないのでございます」
――はて誰だろうか、武蔵は小首をかしげながらともかくも歩み出した。
山法師の横暴ぶりは、政権や武家社会からは、完全に追われていたが、尾羽打ち枯らしても、まだ山法師そのものの棲息は、この山に残存していることは勿論である。
雀百までの喩えのとおり、未だにすがたも革まらないで、高木履をはき、大太刀を横たえているのがあるし、長柄刀を小脇に持っているのもある。
それが一かたまり、ざっと十名ほど、無動寺の門前で、待ちかまえていた。
「……来た」
「あれか」
耳打ちし合いながら、朽葉色の頭巾や黒衣の影が、もうそこに近く見えて来た――武蔵と稚児僧と、その二人を迎えに行った仲間僧のすがたとへ、じっと、視線をそろえた。
(何用だろうか?)
迎えに来た者が知らないのであるから、武蔵には元よりわかっていない。
ただ東塔山王院の堂衆だということだけは途中で聞いた。しかしその堂衆のうちに、一人として知合などはいそうもないのである。
「大儀じゃった。おぬしらに用はない。門内へ退ッ込んでおれ」
ひとりの大法師が、長柄刀の先で、使いにやった仲間僧と稚児僧とを追い払った。
そして武蔵へ向い、
「そこもとが宮本武蔵か」
と、訊ねた。
先が礼を執らないので、武蔵も直立したまま、
「されば」
と、頷いてみせた。
すると、その後ろから、ずいと一足進み出した老法師が、
「中堂延暦寺の衆判により申しわたす」
と奉書でも読むような口調でいった。
「――叡山は浄地たり、霊域たり、怨恨を負うて逃避するものの潜伏をゆるさず。いわんや、不逞闘争の輩をや――じゃ。ただ今、無動寺へも申しおいたが、即刻、当山より退去あるべし。違背あるにおいては、山門の厳則に照らして断乎処罰申そうぞ、左様心得られい」
「……?」
武蔵は、唖然として、相手の厳めしさをながめていた。
なぜだろう。不審なわけだと思う。初めこの無動寺へたどりついて、身がらを依頼した折に、無動寺では念のため、中堂の役寮へ届けを出して、
(さし閊えない)
という許可をうけ、その上で、自分の滞在を許してくれたのであった。
それを急に、罪人でも追うように追い立てるには、なにか、理由がなくてはならない。
「仰せの趣は承知いたしました。支度もととのわず、今日はもはや明るい間も乏しゅうござれば、明朝、発足つかまつりましょう。それまでの御猶予を」
武蔵は一応、そうおとなしく受けておいて、
「――しかし、これはなにか、司直のお指図でござろうか、それとも当山の役寮の沙汰であろうか。先に、無動寺よりの届けには、滞在のこと苦しからずと、おゆるしあったものを、遽かな御厳命、甚だその意を得ぬが」
突っ込むと、
「おう、そう訊くならばいってつかわそう。役寮においては最初、下り松にて吉岡方の大勢をただ一名で相手にしたさむらいと、おてまえに、満腔の好意をもっていたのであるが、その後、いろいろと悪評が伝わり、お山に匿まい置くべからず――という衆議になったからじゃ」
「……悪評」
武蔵は、さもあろうことのように頷いた。その後の吉岡方が、世間でどう自分をいいふらしているか――想像するに難くないからである。
ここで、そんな噂をまた聞きした人々と、なにをかいい争おう。
武蔵は冷やかにもういちど、
「わかりました。否やもござらぬゆえ、明朝は、必ず立ち退きまする