もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになッてしまえ。
武蔵は、そう思った。
屍と屍のあいだにあって、彼も一個の屍かのように横たわったまま、そう観念していたのである。
「――今、動いてみたッて、仕方がない」
けれど、実は、体力そのものが、もうどうにも動けなかったのである。武蔵自身は、気づいていないらしいが、体のどこかに、二つ三つ、銃弾が入っているに違いなかった。
ゆうべ。――もっと詳しくいえば、慶長五年の九月十四日の夜半から明け方にかけて、この関ヶ原地方へ、土砂ぶりに大雨を落した空は、今日の午すぎになっても、まだ低い密雲を解かなかった。そして伊吹山の背や、美濃の連山を去来するその黒い迷雲から時々、サアーッと四里四方にもわたる白雨が激戦の跡を洗ってゆく。
その雨は、武蔵の顔にも、そばの死骸にも、ばしゃばしゃと落ちた。武蔵は、鯉のように口を開いて、鼻ばしらから垂れる雨を舌へ吸いこんだ。
――末期の水だ。
痺れた頭のしんで、かすかに、そんな気もする。
戦いは、味方の敗けと決まった。金吾中納言秀秋が敵に内応して、東軍とともに、味方の石田三成をはじめ、浮田、島津、小西などの陣へ、逆さに戈を向けて来た一転機からの総くずれであった。たった半日で、天下の持主は定まったといえる。同時に、何十万という同胞の運命が、眼に見えず、刻々とこの戦場から、子々孫々までの宿命を作られてゆくのであろう。
「俺も、……」
と、武蔵は思った。故郷に残してある一人の姉や、村の年老などのことをふと瞼に泛べたのである。どうしてであろう、悲しくもなんともない。死とは、こんなものだろうかと疑った。だが、その時、そこから十歩ほど離れた所の味方の死骸の中から、一つの死骸と見えたものが、ふいに、首をあげて、
「武やアん!」
と、呼んだので、彼の眼は、仮死から覚めたように見まわした。
槍一本かついだきりで、同じ村を飛び出し、同じ主人の軍隊に従いて、お互いが若い功名心に燃え合いながら、この戦場へ共に来て戦っていた友達の又八なのである。
その又八も十七歳、武蔵も十七歳であった。
「おうっ。又やんか」
答えると、雨の中で、
「武やん生きてるか」
と、彼方で訊く。
武蔵は精いッぱいな声でどなった。
「生きてるとも、死んでたまるか。又やんも、死ぬなよ、犬死するなっ」
「くそ、死ぬものか」
友の側へ、又八は、やがて懸命に這って来た。そして、武蔵の手をつかんで、
「逃げよう」
と、いきなりいった。
すると武蔵は、その手を、反対に引っぱり寄せて、叱るように、
「――死んでろっ、死んでろっ、まだ、あぶない」
その言葉が終らないうちであった。二人の枕としている大地が、釜のように鳴り出した。真っ黒な人馬の横列が、喊声をあげて、関ヶ原の中央を掃きながら、此方へ殺到して来るのだった。
旗差物を見て、又八が、
「あっ、福島の隊だ」
あわて出したので、武蔵はその足首をつかんで、引き仆した。
「ばかっ、死にたいか」
――一瞬の後だった。
泥によごれた無数の軍馬の脛が、織機のように脚速をそろえて、敵方の甲冑武者を騎せ、長槍や陣刀を舞わせながら、二人の顔の上を、躍りこえ、躍りこえして、駈け去った。
又八は、じっと俯ッ伏したきりでいたが、武蔵は大きな眼をあいて、精悍な動物の腹を、何十となく、見ていた。
おとといからの土砂降りは、秋暴れのおわかれだったとみえる。九月十七日の今夜は、一天、雲もないし、仰ぐと、人間を睨まえているような恐い月であった。
「歩けるか」
友の腕を、自分の首へまわして、負うように援けて歩きながら、武蔵は、たえず自分の耳もとでする又八の呼吸が気になって、
「だいじょうぶか、しっかりしておれ」
と、何度もいった。
「だいじょうぶ!」
又八は、きかない気でいう、けれど顔は、月よりも青かった。
ふた晩も、伊吹山の谷間の湿地にかくれて、生栗だの草だのを喰べていたため、武蔵は腹をいたくしたし、又八もひどい下痢をおこしてしまった。勿論、徳川方では、勝軍の手をゆるめずに、関ヶ原崩れの石田、浮田、小西などの残党を狩りたてているに違いはないので、この月夜に里へ這いだしてゆくには、危険だという考えもないではなかったが、又八が、
(捕まってもいい)
というほどな苦しみを訴えて迫るし、居坐ったまま捕まるのも能がないと思って決意をかため、垂井の宿と思われる方角へ、彼を負って降りかけて来たところだった。
又八は、片手の槍を杖に、やっと足を運びながら、
「武やん、すまないな、すまないな」
友の肩で、幾度となく、しみじみいった。
「何をいう」
武蔵は、そういって、しばらくしてから、
「それは、俺の方でいうことだ。浮田中納言様や石田三成様が、軍を起すと聞いた時、おれは最初しめたと思った。――おれの親達が以前仕えていた新免伊賀守様は、浮田家の家人だから、その御縁を恃んで、たとえ郷士の伜でも、槍一筋ひっさげて駈けつけて行けば、きっと親達同様に、士分にして軍に加えて下さると、こう考えたからだった。この軍で、大将首でも取って、おれを、村の厄介者にしている故郷の奴らを、見返してやろう、死んだ親父の無二斎をも、地下で、驚かしてやろう、そんな夢を抱いたんだ」
「俺だって! ……俺だッて」
又八も、頷き合った。
「で――俺は、日頃仲のよいおぬしにも、どうだ、ゆかぬかと、すすめに行ったわけだが、おぬしの母親は、とんでもないことだと俺を叱りとばしたし、また、おぬしとは許婚の七宝寺のお通さんも、俺の姉までも、みんなして、郷士の子は郷士でおれと、泣いて止めたものだ。……無理もない、おぬしも俺も、かけがえのない、跡とり息子だ」
「うむ……」
「女や老人に、相談無用と、二人は無断で飛び出した。それまでは、よかったが、新免家の陣場へ行ってみると、いくら昔の主人でも、おいそれと、士分にはしてくれない。足軽でもと、押売り同様に陣借りして、いざ戦場へと出てみると、いつも姦見物の役や、道ごさえの組にばかり働かせられ、槍を持つより、鎌を持って、草を刈った方が多かった。大将首はおろか、士分の首を獲る機もありはしない。そのあげくがこの姿だ、しかし、ここでおぬしを犬死させたら、お通さんや、おぬしの母親に何と、おれは謝ったらいいか」
「そんなこと、誰が武やんのせいにするものか。敗け軍だ、こうなる運だ、何もかも滅茶くそだ、しいて、人のせいにするなら、裏切者の金吾中納言秀秋が、おれは憎い」
程経てから二人は、曠野の一角に立っていた、眼の及ぶかぎり野分の後の萱である、灯も見えない、人家もない、こんな所を目ざして降りて来たわけでないはずだがと、
「はてな、此処は?」
改めて、自分たちの出て来た天地を見直した。
「あまり、喋舌ってばかり来たので、道を間違えたらしいぞ」
武蔵が、つぶやくと、
「あれは、杭瀬川じゃないか」
と、彼の肩にすがっている又八もいう。
「すると、この辺は一昨日、浮田方と東軍の福島と、小早川の軍と敵の井伊や本多勢と、乱軍になって戦った跡だ」
「そうだったかなあ。……俺もこの辺を、駈け廻ったはずだが、何の記憶えもない」
「見ろ、そこらを」
武蔵は、指さした。
野分に伏した草むらや、白い流れや、眼をやる所に、おとといの戦で斃れた敵味方の屍が、まだ一個も片づけられずにある。萱の中へ首を突っ込んでいるのや、仰向けに背中を小川に浸しているのや、馬と重なり合っているのや、二日間の雨にたたかれて血こそ洗われているが、月光の下に、どの皮膚も、死魚のように色が変じていて、その日の激戦ぶりを偲ばせるに余りがあった。
「……虫が、啼いてら」
武蔵の肩で、又八は病人らしい大きな息をついた、泣いているのは、鈴虫や、松虫だけではなかった、又八の眼からも白いすじが流れていた。
「武やん、俺が死んだら、七宝寺のお通を、おぬしが、生涯持ってやってくれるか」
「ばかな。……何を思い出して、急にそんなことを」
「俺は、死ぬかもわからない」
「気の弱いことをいう。――そんな気もちで、どうする」
「おふくろの身は、親類の者が見るだろう。だが、お通は独りぼっちだ。あれやあ、嬰児のころ、寺へ泊った旅の侍が、置いてき放しにした捨子じゃといった、可哀そうな女よ、武やん、ほんとに、俺が死んだら、頼むぞ」
「下痢腹ぐらいで、なんで人間が死ぬものか。しっかりしろ」
はげまして――
「もう少しの辛抱だぞ、こらえておれ、農家が見つかったら、薬ももらってやろうし、楽々と寝かせてもやれようから」
関ヶ原から不破への街道には、宿場もあり部落もある。武蔵は、要心ぶかく歩きつづけた。
しばらく行くとまた、一部隊がここで全滅したかと思われる程な死骸のむれに出会った。だがもう、どんな屍を見ても、残虐いとも、哀れとも二人は感じなくなっていた。そうした神経だったのに、武蔵は何に驚いたのか、又八もぎょっとして足をすくめ、
「あっ? ……」
と軽くさけんだ。
累々とある屍と屍の間に、誰か、兎のように迅い動作で、身をかくした者があった。昼間のような月明りである。じっと、そこを見つめると、屈んでいる者の背がよくわかる。
――野武士か?
とは、すぐ思ったことだったが、意外にもそれはまだやっと十三、四歳にしかなるまいと思われる小娘であって襤褸てはいるが金襴らしい幅のせまい鉢の木帯をしめ、袂のまるい着物を着ているのである。――そしてその小娘もまた此方の人影をいぶかるものの如く、死骸と死骸との間から、迅こい猫のような眸を、じっと、射向けているのであった。
戦が熄んだといっても、まだ素槍や素刀は、この辺を中心に、附近の山野を残党狩りに駈けまわっているし、死屍は、随所に、横たわっていて、鬼哭啾々といってもよい新戦場である。年端もゆかない小娘が、しかも夜、ただひとり月の下で、無数の死骸の中にかくれ、いったい、何を働いているのか。
「……?」
怪しんでも怪しみ足りないように、武蔵と又八とは息をこらして、小娘の容子を、ややしばし見まもっていた。――が、試みに、やがて、
「こらっ!」
武蔵が、こう怒鳴ってみると、小娘のまろい眸は、あきらかにビクリとうごいて、逃げ走りそうな気ぶりを示した。
「逃げなくともいい。おいっ、訊くことがあるっ」
あわてていい足したが、遅かった。小娘はおそろしく素迅いのである。後も見ずに、彼方へ駈け出してゆく。帯の紐か袂に付けている鈴でもあろうか、躍ってゆく影につれて、弄るような美い音がして、二人の耳へ妙に残った。
「なんだろ?」
茫然と、武蔵の眼が、夜の狭霧を見ていると、
「物の怪じゃないか」
と、又八はふと身ぶるいした。
「まさか」
笑い消して、
「――あの丘と丘の間へ隠れた。近くに部落があると見える。脅さずに、訊けばよかったが」
二人がそこまで登ってみると、果たして人家の灯が見えた、不破山の尾根をひろく南へ曳いている沢である。灯が見えてからも、十町も歩いた、漸くにして近づいてみると、これは農家とも見えぬ土塀と、古いながら門らしい入口を持った一軒建である。柱はあるが朽ちていて、扉などはない門だった。入ってゆくと、よく伸びた萩の中に、母屋の口は戸閉されてあった。
「おたのみ申します」
まず、軽くそこを叩いて、
「夜分、恐れ入るが、お願いの者でござる。病人を、救っていただきたい、ご迷惑はかけぬが」
――ややしばらく返辞がない。さっきの小娘と、家の者とが、何か、ささやき合っているらしく思える。やがて、戸の内側で物音がした。開けてくれるのかと待っていると、そうではなくて、
「あなた方は、関ヶ原の落人でしょう」
小娘の声である。きびきびという。
「いかにも、私どもは、浮田勢のうちで、新免伊賀守の足軽組の者でござるが」
「いけません、落人をかくまえば、私たちも罪になりますから、ご迷惑はかけぬというても、こちらでは、ご迷惑になりますよ」
「そうですか。では……やむを得ない」
「ほかへ行って下さい」
「立ち去りますが、連れの男が、実は、下痢腹で悩んでいるのです。恐れいるが、お持ち合わせの薬を一服、病人へ頒けていただけまいか」
「薬ぐらいなら……」
しばらく、考えているふうだったが、家人へ訊きに行ったのであろう、鈴の音につれる跫音が、奥のほうへ消えた。
すると、べつな窓口に、人の顔が見えた。さっきから外を覗いていたこの家の女房らしい者が、はじめて言葉をかけてくれた。
「朱実や、開けておあげ。どうせ落人だろうが、雑兵なんか、御詮議の勘定には入れてないから、泊めてあげても、気づかいはないよ」
朴炭の粉を口いっぱい服んでは、韮粥を食べて寝ている又八と、鉄砲で穴のあいた深股の傷口を、せッせと焼酎で洗っては、横になっている武蔵と、薪小屋の中で二人の養生は、それが日課だった。
「何が稼業だろう、この家は」
「何屋でもいい、こうして匿まってくれるのは、地獄に仏というものだ」
「内儀もまだ若いし、あんな小娘と二人限りで、よくこんな山里に住んでいられるな」
「あの小娘は、七宝寺のお通さんに、どこか似てやしないか」
「ウム、可愛らしい娘だ、……だが、あの京人形みたいな小娘が、なんだって、俺たちでさえもいい気持のしない死骸だらけな戦場を、しかも真夜半、たった一人で歩いていたのか、あれが解せない」
「オヤ、鈴の音がする」
耳を澄まして――
「朱実というあの小娘が来たらしいぞ」
小屋の外で、跫音が止まった。その人らしい。啄木のように、外から軽く戸をたたく。
「又八さん、武蔵さん」
「おい、誰だ」
「私です、お粥を持って来ました」
「ありがとう」
筵の上から起き上がって、中から錠をあける。朱実は、薬だの食物だのを運び盆にのせて、
「お体はどうですか」
「お蔭で、この通り、二人とも元気になった」
「おっ母さんがいいましたよ、元気になっても、余り大きな声で話したり、外へ顔を出さないようにって」
「いろいろと、かたじけない」
「石田三成様だの、浮田秀家様だの、関ヶ原から逃げた大将たちが、まだ捕まらないので、この辺も、御詮議で、大変なきびしさですって」
「そうですか」
「いくら雑兵でも、あなた方を隠していることがわかると、私たちも縛られてしまいますからね」
「分りました」
「じゃあ、お寝みなさい、また明日――」
微笑んで、外へ身を退こうとすると、又八は呼びとめて、
「朱実さん、もう少し、話して行かないか」
「嫌!」
「なぜ」
「おっ母さんに叱られるもの」
「ちょっと、訊きたいことがあるんだよ。あんた、幾歳?」
「十五」
「十五? 小さいな」
「大きなお世話」
「お父さんは」
「いないの」
「稼業は」
「うちの職業のこと?」
「ウム」
「もぐさ屋」
「なるほど、灸の艾は、この土地の名産だっけな」
「伊吹の蓬を、春に刈って、夏に干して、秋から冬にもぐさにして、それから垂井の宿場で、土産物にして売るのです」
「そうか……艾作りなら、女でも出来るわけだな」
「それだけ? 用事は」
「いや、まだ。……朱実さん」
「なアに」
「この間の晩――俺たちがここの家へ初めて訪ねて来た晩さ――。まだ死骸がたくさん転がっている戦の跡を歩いて、朱実ちゃんはいったい何していたのだい。それが聞きたいのさ」
「知らないッ」
ぴしゃっと戸をしめると、朱実は、袂の鈴を振り鳴らして、母屋のほうへ駈け去った。
五尺六、七寸はあるだろう、武蔵は背がすぐれて高かった、よく駈ける駿馬のようである。脛も腕も伸々としていて、唇が朱い、眉が濃い、そしてその眉も必要以上に長く、きりっと眼じりを越えていた。
――豊年童子や。
郷里の作州宮本村の者は、彼の少年の頃には、よくそういってからかった。眼鼻だちも手足も、人なみはずれて寸法が大きいので、よくよく豊年に生まれた児だろうというのである。
又八は、その「豊年童子」にかぞえられる組だった。だが又八のほうは、彼よりいくらか低くて固肥りに出来ていた。碁盤のような胸幅が肋骨をつつみ、丸ッこい顔の団栗眼を、よくうごかしながら物をいう。
いつのまに、覗いて来たのか、
「おい、武蔵、ここの若い後家は、毎晩、白粉をつけて、化粧しこむぞ」
などとささやいたりした。
どっちも若いのである。伸びる盛りの肉体だった、武蔵の弾傷がすっかり癒る頃には、又八はもう薪小屋の湿々した暗闇に、じっと蟋蟀のような辛抱はしていられなかった。
母屋の炉ばたにまじって、後家のお甲や、小娘の朱実を相手に、万歳を歌ったり、軽口をいって、人を笑わせたり、自分も笑いこけている客があると思うと、それがいつの間にか、小屋には姿の見えない又八だった。
――夜も、薪小屋には寝ない晩のほうが多くなっていた。
たまたま、酒くさい息をして、
「武蔵も、出て来いや」
などと、引っぱり出しに来る。
初めのうちは、
「ばか、俺たちは、落人の身じゃないか」
と、たしなめたり、
「酒は、嫌いだ」
と、そっけなく見ていた彼も、ようやく倦怠をおぼえてくると、
「――大丈夫か、この辺は」
小屋を出て、二十日ぶりに青空を仰ぐと、思うさま、背ぼねに伸びを与えて欠伸した。そして、
「又やん、余り世話になっては悪いぞ、そろそろ故郷へ帰ろうじゃないか」
と、いった。
「俺も、そう思うが、まだ伊勢路も、上方の往来も、木戸が厳しいから、せめて、雪のふる頃まで隠れていたがよいと、後家もいうし、あの娘もいうものだから――」
「おぬしのように、炉ばたで、酒をのんでいたら、ちっとも、隠れていることにはなるまいが」
「なあに、この間も、浮田中納言様だけが捕まらないので、徳川方の侍らしいのが、躍起になって、ここへも詮議に来たが、その折、あいさつに出て、追い返してくれたのは俺だった。薪小屋の隅で、跫音の聞えるたび、びくびくしているよりは、いっそ、こうしている方が安全だぞ」
「なるほど、それもかえって妙だな」
彼の理窟とは思いながら、武蔵も同意して、その日から、共に母屋へ移った。
お甲後家は、家の中が賑やかになってよいといい、欣んでいるふうこそ見えるが、迷惑とは少しも思っていないらしく、
「又さんか、武さんか、どっちか一人、朱実の婿になって、いつまでもここにいてくれるとよいが」
と、いったりして、初心な青年がどぎまぎするのを見てはおかしがった。
すぐ裏の山は、松ばかりの峰だった。朱実は、籠を腕にかけて、
「あった! あった! お兄さん来て」
松の根もとをさぐり歩いて、松茸の香に行きあたるたびに、無邪気な声をあげて叫んだ。
少し離れた松の樹の下に、武蔵も、籠を持ってかがみこんでいた。
「こっちにもあるよ」
針葉樹の梢からこぼれる秋の陽が、二人の姿に、細かい光の波になって戦いでいた。
「さあ、どっちが多いでしょ」
「俺のほうが多いぞ」
朱実は、武蔵の籠へ手を入れて、
「だめ! だめ! これは紅茸、これは天狗茸、これも毒茸」
ぽんぽん選り捨ててしまって、
「私の方が、こんなに多い」
と、誇った。
「日が暮れる――帰ろうか」
「負けたもんだから」
朱実は、からかって、雉子のような迅こい足で、先に山道を降りかけたが、急に顔いろを変えて、立ちすくんだ。
中腹の林を斜めに、のそのそと大股に歩いて来る男があった。ぎょろりと、眼がこっちへ向く。おそろしく原始的で、また好戦的な感じもする人間だった。獰猛そうな毛虫眉も、厚く上にめくれている唇も、大きな野太刀も鎖帷子も、着ている獣の皮も。
「あけ坊」
朱実のそばへ歩いて来た。黄いろい歯を剥いて笑いかけるのである。しかし、朱実の顔には、白い戦慄しかなかった。
「おふくろは、家にいるか」
「ええ」
「帰ったらよくいっておけよ。俺の眼をぬすんでは、こそこそ稼いでいるそうだが、そのうちに、年貢を取りにゆくぞと」
「…………」
「知るまいと思っているだろうが、稼いだ品を売かした先から、すぐ俺の耳へ入ってくるのだ。てめえも毎晩、関ヶ原へ行ったろう」
「いいえ」
「おふくろに、そういえ。ふざけた真似しやがると、この土地に置かねえぞと。――いいか」
睨みつけた。そして、運ぶにも重たそうな体を運んで、のそのそと沢のほうへ降りて行った。
「なんだい、あいつは?」
武蔵は、見送った眼をもどして、慰め顔に訊いた。朱実の唇はまだ脅えをのこして、
「不破村の辻風」
と、かすかにいった。
「野武士だね」
「ええ」
「何を怒られたのだい?」
「…………」
「他言はしない。――それとも、俺にもいえないことか」
朱実はいいにくそうに、しばらく惑っているふうだったが、突然、武蔵の胸にすがって、
「他人には、黙っていてください」
「うむ」
「いつかの晩、関ヶ原で、私が何をしていたか、まだ兄さんには分りません?」
「……分らない」
「私は泥棒をしていたの」
「えっ?」
「戦のあった跡へ行って、死んでいる侍の持っている物――刀だの、笄だの、香い嚢だの、なんでも、お金になる物を剥ぎ取って来るんですよ。怖いけれど、食べるのに困るし、嫌だというと、おっ母さんに叱られるので――」
まだ陽が高い。
武蔵は、朱実にもすすめて、草の中へ腰をおろした。伊吹の沢の一軒が、松の間を透かして、下に見える傾斜にある。
「じゃあ、この沢の蓬を刈って、艾を作るのが職業だと、いつかいったのは嘘だな」
「え。うちのおっ母さんという人は、とても贅沢な癖のついている人だから、蓬なんか刈っているくらいでは、生活がやってゆけないんです」
「ふウむ……」
「お父っさんの生きていた頃には、この伊吹七郷で、いちばん大きな邸に住んでいたし、手下もたくさんに使っていたし」
「おやじさんは、町人か」
「野武士の頭領」
朱実は、誇るくらいな眼をしていった。
「――だけどさっき、ここを通った辻風典馬に、殺されてしまった……。典馬が殺したのだと、世間でも皆いっています」
「え。殺された?」
「…………」
頷く眼から、自分でも計らぬもののように、涙がこぼれた。十五とは見えない程、この小娘は身装は小さいし、言葉もひどくませていた。そして時には、人の目をみはらせるような迅こい動作を見せたりするので、武蔵は、遽かに、同情をもてなかったが、膠で着けたような睫毛から、ぽろぽろと涙をこぼすのを見ると、急に抱いてやりたいような可憐さを覚えた。
しかし、この小娘は、決して尋常な教養をうけてはいないらしく思える。野武士という父からの職業を、何ものよりいい天職と信じているのだ。泥棒以上な冷血な業も、喰べて生きるためには、正しいものと、母から教えこまれているに違いない。
もっとも長い乱世を通して、野武士はいつのまにか、怠け者で生命知らずな浮浪人には、唯一の仕事になっていた。世間もそれを怪しまないのである。領主もまた戦争のたびに、彼らを利用し、敵方へ火を放けさせたり、流言を放たせたり、敵陣からの馬盗みを奨励したりする。もし領主から買いに来ない場合は、戦後の死骸を剥ぐか、落人を裸体にするか、拾い首を届けて出るか、いくらでもやることがあって、一戦あれば半年や一年は、自堕落にて食えるのであった。
農夫や樵夫の良民でさえ、戦が部落の近くにあったりすると、畑仕事はできなくなるが、後のこぼれを拾うことによって、不当な利得の味をおぼえていた。
野武士の専業者は、そのために縄張りを守ることが厳密だった。もし、他の者が、自己の職場を犯したと知ったら、ただはおかない鉄則がある。必ず残酷な私刑によって自己の権利を示すのだった。
「どうしよう?」
朱実は、それを恐れるもののように、戦慄した。
「きっと、辻風の手下が、来るにちがいない……来たら……」
「来たら、俺が、挨拶してやるよ、心配しないがいい」
山を降りて来たころ――沢はひっそり黄昏れていた、風呂の煙が一つ家の軒からひろがって、狐色の尾花の上を低く這っている。後家のお甲は、いつものように、夜化粧をすまして、裏の木戸に立っていた。そして、朱実と武蔵が、寄り添って、帰ってくる姿を見かけると、
「朱実っ――、何しているのだえっ、こんな暗くなるまで!」
いつにない険のある眼と声があった。武蔵は、ぼんやりしていたが、この小娘は、母の気持に何よりも敏感である。びくッとして、武蔵のそばを離れたと思うと、顔を紅めながら、先へ駈けだしていた。
辻風典馬のことを、あくる日、朱実から聞かされて、急に慌てたらしいのである。
「なぜもっと早く、いわないのさ!」
お甲後家は、叱っていた。
そして、戸棚の物、抽斗の中の物、納屋の物など、一所へ寄せ集めて、
「又さんも、武さんも、手伝っておくれ、これをみんな天井裏へ上げるのだから――」
「よし来た」
又八は、屋根裏へ上がった。
踏み台に乗って、武蔵は、お甲と又八の間に立ち、天井へ上げる物を、一つ一つ取り次いだ。
きのう朱実から聞いていなければ、武蔵は胆を潰したに違いない。永い間であろうが、よくもこう運び込んだものと思う。短刀がある、槍の穂がある、鎧の片袖がある。また、鉢のない兜の八幡座だの、懐に入るぐらいな豆厨子だの、数珠だの旗竿だの、大きな物では、蝶貝や金銀で見事にちりばめた鞍などもあった。
「これだけか」
天井裏から、又八が顔を見せる。
「も一つ」
お甲は、取り残していた四尺ほどの黒樫の木剣を出した、武蔵が間でうけとった。反り味と、重さと固い触感とが、掌に握ると、離したくない気持を彼に起させた。
「おばさん、これ、俺にくれないか」
武蔵がねだると、
「欲しいのかえ」
「うむ」
「…………」
遣るとはいわないが、当然、武蔵の意思をゆるしているように、笑靨でうなずく。
又八は、降りて来て、ひどく羨ましい顔をした。お甲は笑って、
「拗ねたよ、この坊やは」
と、瑪瑙珠のついている革巾着を、彼には与えたが、あまり欣しがらなかった。
夕方――この後家は、良人のいたころからの習慣らしく、必ず風呂に入って、化粧して、晩酌をたしなむ。自分のみでなく、朱実にもそうさせる、性質が派手ずきなのだ、いつまでも若い日でありたい質なのだ。
「さあ、みんなお出で」
炉をかこんで、又八にも酌ぐし、武蔵にも杯を持たせた。どうことわっても、
「男が、酒ぐらい飲めないで、どうしますえ。お甲が、仕込んであげよう」
と、手くびを持って、無理に強いたりした。
又八の眼は、時々、不安な浮かない顔つきになって、じっとお甲の容子に見入った。お甲はそれを感じながら、武蔵の膝へ手をかけ、このごろ流行る歌というのを、細い美音で口遊んで、
「今の謡は、わたしの心。――武蔵さん、分りますか」
といったりした。
朱実が、顔を外向けているのも関わず、若い男の羞恥みと、一方の妬みとを、意識していうことだった。
いよいよ、面白くないように、
「武蔵、近いうちに、もう出立しような」
又八が、或る時いうと、お甲が、
「どこへ、又さん」
「作州の宮本村へさ、故郷へ帰れば、これでも、おふくろも、許嫁もあるんだから」
「そう、悪かったネ、匿まって上げたりして。――そんなお人があるなら、又さん一人で、お先に立っても、止めはしないよ」
掌でにぎりしめて、ぎゅうと、扱いてみると、伸びと反りとの調和に、無限な味と快感がおぼえられる。武蔵は、お甲からもらった黒樫の木剣を常に離さなかった。
夜もその木剣を抱いて寝た。木剣の冷たい肌を頬に当てると、幼年のころ、寒稽古の床で、父の無二斎からうけた烈しい気魄が、血のなかに甦ってくる。
その父は、秋霜のように、厳格一方な人物だった。武蔵は幼少にわかれた母ばかりが慕わしくて、父には、甘える味を知らなかった、ただ煙たくて恐いものが父だった。九歳の時、ふと家を出て、播州の母の所へ、奔ってしまったのも、母から一言、
(オオ、大きゅうなったの)
と、やさしい言葉をかけてもらいたい一心からであった。
だが、その母は、父の無二斎が、どういうわけか離縁した人だった、播州の佐用郷の士へ再縁して、もう二度目の良人の子供があった。
(帰っておくれ、お父上の所へ――)と、その母が、掌をあわせて、抱きしめて、人目のない神社の森で泣いた姿を、武蔵は今でも、眼に泛べることができる。
間もなく、父の方からは、追手が来て、九歳の彼は、裸馬の背に縛られて、播州からふたたび、美作の吉野郷宮本村へ連れもどされた。父の無二斎はひどく怒って、
(不届者不届者)
と、杖で打って打って打ちすえた。その時のことも、まざまざと、童心につよく烙きつけられてある。
(二度と、母の所へゆくと、我子といえど、承知せぬぞ)
その後、間もなく、その母が病気で死んだと聞いてから、武蔵は、鬱ぎ性から急に手のつけられない暴れン坊になった、さすがの無二斎も黙ってしまった、十手を持って懲らそうとすれば、棒を取って、父へかかって来る始末だった、村の悪童はみな彼に慴伏し、彼と対峙する者は、やはり郷士の伜の又八だけだった。
十二、三には、もう大人に近い背丈があった。或る年、村へ金箔磨きの高札を立てて、近郷の者に試合を挑みに来た有馬喜兵衛という武者修行の者を、矢来の中で打ち殺した時は、
(豊年童子の武やんは強い)
と、村の者に、凱歌をあげさせたが、その腕力で、いくつになっても、乱暴がつづくと、
(武蔵が来たぞ、さわるな)
と、怖がられ、嫌われ、そして人間の冷たい心ばかりが彼に映った。父も、厳格で冷たい人のままでやがて世を去った、武蔵の残虐性は、養われるばかりだった。
もし、お吟という一人の姉がいなかったら、彼は、どんな大それた争いを起して、村を追われていたか知れない。だが、その姉が泣いていう言葉には、いつもすなおに従った。
今度、又八を誘って、軍へ働きに出て来たのも、そうした彼に、かすかにでも、転機の光がさして来たためともいえる。人間になろうとする意思がどこかで芽をふきかけていた。――けれど今の彼は、ふたたびその方向を失っていた。真っ暗な現実に。
しかし、戦国というあらい神経の世でもなければ、生み出し得ないような暢気さもある若者だった。微塵も、明日のことなどは、苦にしていない寝顔でもある。
故郷の夢でも見ているのだろう、ふかぶかと寝息をかいて。そして例の木剣を、抱いて。
「……武蔵さん」
ほの暗い短檠の明りを忍んで、いつのまにか、お甲は、その枕元へ来て、坐っていた。
「ま……この寝顔」
武蔵の唇を、彼女の指は、そっと突いた。
ふっ! ……
お甲の息が、短檠の明りを消した。横にのばした体を猫のように縮めて、武蔵のそばへ、そっと寄り添って。
年のわりに派手な寝衣裳も、その白い顔も、ひとつ闇になって、窓びさしに、夜露の音だけが静かである。
「まだ、知らないのかしら」
寝ている者の抱いている木剣を、彼女が取りのけようとするのと、がばっと、武蔵が刎ね起きたのと、一緒だった。
「盗ッ人!」
短檠の倒れた上へ、彼女は、肩と胸をついた、手をねじ上げられた苦しさに、思わず、
「痛いっ」
と、さけぶと、
「あっ、おばさんか」
武蔵は、手を離して、
「なんだ、盗人かと思ったら――」
「ひどい人だよ、おお痛い」
「知らなかった、ご免なさい」
「謝らなくともいい。……武蔵さん」
「あっ、な、なにをするんだ」
「叱っ……。野暮、そんな大きい声をするもんじゃありません。私が、おまえをどんな気持で眼にかけているか、よくご存じだろう」
「知っています、世話になったことは、忘れないつもりです」
「恩の義理のと、堅くるしいことでなくさ。人間の情というものは、もっと、濃くて、深くて、やる瀬ないものじゃないか」
「待ってくれ、おばさん、いま灯りをつけるから」
「意地悪」
「あっ……おばさん……」
骨が、歯の根が、自分の体じゅうが、がくがくと鳴るように、武蔵は思えた。今まで出会ったどんな敵よりも怖かった。関ヶ原で顔の上を翔けて行った無数の軍馬の下に仰向いて寝ていた時でも、こんな大きな動悸は覚えなかった。
壁の隅へ、小さくなって、
「おばさん、あっちへ行ってくれ、自分の部屋へ。――行かないと、又八を呼ぶぜ」
お甲は、うごかなかった、いらいらとこじれた眼が、睨みつけているらしく、闇のうちで呼吸をしていた。
「武蔵さん、おまえだって、まさか、私の気持が、分らないはずはないだろう」
「…………」
「よくも恥をかかしたね」
「……恥を」
「そうさ!」
二人とも、血がのぼっていたのである。で、気のつかない様子であったが、さっきから、表の戸をたたいている者があって、ようやく、それが大声に変って来た。
「やいっ、開けねえかっ」
襖の隙に、蝋燭の光がうごいた。朱実が眼をさましたのであろう、又八の声もしていた。
「なんだろう?」
と、その又八の跫音につづいて、
「おっ母さん――」
朱実が、廊下のほうで呼ぶ。
何かは知らず、お甲もあわてて、自分の部屋から返辞をした。外の者は戸をこじあけて、自分勝手に入り込んで来たものとみえ、土間の方を透かしてみると、大きな肩幅を重ね合って、六、七名の人影がそこに立ち、
「辻風だ、はやく灯りをつけろ」
と中の一人が怒鳴っていた。
土足のまま、どやどやと上がってきた、寝込みを衝いて来たのである。納戸、押入、床下と、手分けをして掻廻しにかかる。
辻風典馬は、炉ばたへ坐りこんで、乾児たちの家捜しするのを、眺めていたが、
「いつまでかかっているのだ、何かあったろう」
「ありませんぜ、何も」
「ない」
「へい」
「そうか……いやあるまい、ないのが当り前だ、もうよせ」
次の部屋に、お甲は背を向けて、坐っていた、どうにでもするがいいといったように、捨て鉢な姿で。
「お甲」
「なんですえ」
「酒でも燗けねえか」
「そこらにあるだろう、勝手に飲むなら飲んでおいで」
「そういうな、久し振りに、典馬が訪ねて来たものを」
「これが、人の家を訪ねるあいさつかい」
「怒るな、そっちにも、科があろう、火のない所に煙は立たない。蓬屋の後家が、子をつかって、戦場の死骸から、呑み代を稼ぐという噂は、たしかに、俺の耳へも入っていることだ」
「証拠をお見せ、どこにそんな証拠があって」
「それを、穿じり出す気なら、何も朱実に前触れはさせておかぬ。野武士の掟がある手前、一応は、家捜しもするが、今度のところは大目に見て宥しているのだ。お慈悲だと思え」
「誰が、ばかばかしい」
「ここへ来て、酌でもしねえか、お甲」
「…………」
「物好きな女だ、俺の世話になれば、こんな生活はしねえでもすむものを。どうだ、考え直してみちゃあ」
「ご親切すぎて、恐ろしさが、身に沁みるとさ」
「嫌か」
「私の亭主は、誰に殺されたか、ご存知ですか」
「だから、仕返ししてえなら、及ばずながら、おれも片腕を貸してやろうじゃないか」
「しらをお切りでないよ」
「なんだと」
「下手人は辻風典馬だと、世間であんなにいっているのが、おまえの耳には聞えないのか。いくら野武士の後家でも、亭主のかたきの世話になるほど、心まで落魄れてはいない」
「いったな、お甲」
にが笑いを注ぎこんで、典馬は、茶碗の酒を仰飲った。
「――そのことは、口に出さない方が、てめえたち母娘の身のためだと、俺は思うが」
「朱実を一人前に育てたら、きっと仕返しをしてやるから、忘れずにいたがよい」
「ふ、ふ」
肩で笑っているのである。典馬は、あるたけの酒を呑みほすと、肩へ槍を立てかけて、土間の隅に立っている乾児の一人に、
「やい、槍の尻で、この上の天井板を五、六枚つッ刎ねてみろ」
と命じた。
槍の石突きを向けて、その男が、天井を突いて歩いた。板の浮いた隙間から、そこに隠しておいた雑多な武具や品物が落ちてきた。
「この通りだ」
典馬は、ぬっと立った。
「野武士仲間の掟だ、この後家をひきずり出して、みせしめ(私刑)にかけろ」
女一人だ、無造作にそう考えて、野武士たちは、そこへ踏み込んで行った、しかし、棒でも呑んだように、部屋の口に、突っ立ってしまった、お甲へ手を出すことを怖れるように。
「何をしている、早く、引きずり出して来いっ」
辻風典馬が、土間のほうで焦心っている、それでも、乾児の野武士たちと、部屋の中とは、じっと、睨み合いのかたちで、いつまでも埒があきそうもない。
典馬は舌打ちをして、自身でそこを覗いてみた。すぐお甲のそばへ近づこうとしたが、彼にも、そこの閾は越えられなかった。
炉部屋からは見えなかったが、お甲のほかに、二人の逞しい若者がそこにいたのだ。武蔵は黒樫の木剣を低く持って、一歩でも入って来たらその者の脛をヘシ折ろうと構えていたし、又八は、壁の陰に立って、刀を振りかぶり、彼らの首が入口から三寸と出たら、ばさりと斬ッて落そうと、撓めきッている。
朱実には怪我をさせまいとして、上の押入へでも隠したのか、姿が見えない。この部屋の戦闘準備は、典馬が炉ばたで酒をのんでいる間に整っていたのだ。お甲も、その後ろ楯があるために、落着き払っていたのかも知れなかった。
「そうか」
典馬は思い出して呻いた。
「いつぞや、朱実と山を歩いていた若造があった。一人はそいつだろう、あとは何者だ」
「…………」
又八も武蔵も、一切口は開かなかった。ものは腕でいおうという態度だ。それだけに、不気味なものを漂わせている。
「この家に、男気はねえ筈だ、察するところ、関ヶ原くずれの宿なしだろう、下手な真似をすると、身の為にならねえぞ」
「…………」
「不破村の辻風典馬を知らぬ奴は、この近郷にないはずだ、落人の分際で、生意気な腕だて、見ていろ、どうするか」
「…………」
「やいっ」
典馬は、乾児たちをかえりみて手を振った、邪魔だから退いていろというのである。あとさがりに、側をはなれた乾児の一人は、炉の中へ、足を突っこんで、あっといった。松薪の火の粉と煙が、天井を搏ち、いちめんの煙となった。
じっと、部屋の口を睨めすえていた典馬は、くそっ、と吠えながら、猛然、その中へ突入した。
「よいしょっ」
待ち構えていた又八は、とたんに両手の刀を揮り降ろしたが、典馬の勢いは、その迅さも及ばなかった。彼の刀の鐺のあたりを、又八の刀が、かちっと打った。
お甲は、隅へ退いて立っていた、その跡の位置に、武蔵は黒樫の木剣を横に撓めて待っていた、そして典馬の脚もとを目がけて、半身を投げ出すように烈しく払った。
――空間の闇が、びゅっと鳴る。
すると相手は、身をもって、岩みたいな胸板をぶつけて来た。まるで大熊に取っ組まれた感じだ、かつて武蔵が出会ったことのない圧力だった。咽喉に、拳を置かれて、武蔵は、二つ三つ撲られていた、頭蓋骨が砕けたかと思うほどこたえる、しかし、じっと蓄えていた息を、満身から放つと、辻風典馬の巨きな体は、宙へ足を巻いて、家鳴りと共に壁へぶつかった。
こいつと見こんだら決して遁さない――噛ぶりついてもあいてを屈伏させる――また、生殺しにはしておかない、徹底的に、やるまでやる。
武蔵の性格は、元来そういう質なのだ、幼少からのことである、血液の中に、古代日本の原始的な一面を濃厚に持って生れて来たらしい、それは純粋なかわりに甚だ野性で、文化の光にも磨かれていないし、学問による知識ともまだなっていない生れながらのままのものだった。真の父親の無二斎でさえ、この子を余り好かなかったのは、そういう所に原因していたらしい。その性質を撓めるために、無二斎がたびたび加えた武士的な折檻は、かえって、豹の子に牙をつけてやったような結果を生んでしまったし、村の者が、乱暴者と、嫌えば嫌うほど、この野放しな自然児は、いよいよ逞しく伸び、人も無げに振舞い、郷土の山野をわがもの顔にしただけではあき足らないで、大それた夢をもって、ついに関ヶ原までも出かけて来たものだった。
関ヶ原は、武蔵にとって、実社会の何ものかを知った第一歩だった。見事にこの青年の夢はペシャンコに潰れた。――しかし、もともと裸一貫なのだ、それがために、青春の一歩につまずいたとか、前途が暗くなったとか、そんな感傷は、今のところみじんもない。
しかも、今夜は思いがけない餌にありついた。野武士の頭だという辻風典馬だ。こういう敵にめぐりあいたいことを、彼は関ヶ原でもどんなに願っていたことか。
「卑怯っ、卑怯っ、やあいっ、待てえっ!」
こう呼ばわりながら、彼は、真っ暗な野を韋駄天のように駈けている――
典馬は、十歩ほど前を、これも宙を飛んで逃げてゆくのだった。
武蔵の髪の毛は逆立っていた、耳のそばを、風がうなって流れる、愉快のなんのって、たまらない快感だった、武蔵の血は、身の駈けるほど、獣に近い欣びにおどった。
――ぎゃっッ。
彼の影が、典馬の背へ、重なるように躍びかかったと見えた時に、黒樫の木剣から、血が噴いて、こうもの凄い悲鳴が聞えた。
もちろん辻風典馬の大きな体は、地ひびきを打って、転がったのだ。頭蓋骨は、こんにゃくのように柔らかになり、二つの眼球が、顔の外へ浮かびだしていた。
二撃、三撃と、つづけさまに木剣を加えると、折れたあばら骨が、皮膚の下から白く飛びだした。
武蔵は、腕を曲げて、額を横にこすった。
「どうだ、大将……」
颯爽と、一顧して、彼はすぐ後ろへ戻って行くのである。なんでもないことのようだった。もし先が強ければ、自分が後に捨てられてゆくだけのこととしかしていなかった。
「――武蔵か」
遠くで又八の声がした。
「おう」
と、のろまな声をだして、武蔵が見まわしていると、
「――どうした?」
駈けてくる又八の姿が見えた。
「殺った。……おぬしは」
答えて、問うと、
「俺も、――」
柄糸まで血によごれたものを武蔵に示して、
「あとの奴らは、逃げおった、野武士なんて、みんな弱いぞ」
肩を誇らせて、又八はいう。
血をこねまわしてよろこぶ嬰児にひとしい二人の笑い声だった。血の木剣と、血の刀をぶらさげたまま、元気に何か語りあいながら、やがて、彼方に見える蓬の家の一つ灯へ向って帰って行くのであった。
野馬が、窓へ首を入れて、家の中を見まわした。鼻を鳴らして、大きな息をしたので、そこに寝ていた二人は眼をさました。
「こいつめ」
武蔵は、馬の顔を、平手で撲った。又八は、拳で天井を突きあげるような伸びをしながら、
「アアよく寝た」
「陽が高いな」
「もう日暮れじゃないか」
「まさか」
ひと晩眠ると、もう昨日のことは頭にない、今日と明日があるだけの二人である。武蔵は、早速、裏へとびだして、もろ肌をぬぎ出した。清冽な流れで体を拭き、顔を洗い、太陽の光と、深い空の大気を、腹いっぱい吸いこむように仰向いていた。
又八は又八で、寝起きの顔を持ったまま、炉部屋へ行って、そこにいるお甲と朱実へ、
「おはよう」
わざと、陽気にいって、
「おばさん、いやに鬱いでいるじゃないか」
「そうかえ」
「どうしたんだい、おばさんの良人を打ったという辻風典馬は、打ち殺してくれたし、その乾児も、懲らしてやったのに、鬱いでいることはなかろうに」
又八の怪訝るのはもっともだった。典馬を討ってやったことはどんなに、この母娘から欣ばれることだろうと期待していたのに、ゆうべも、朱実は手をたたいて喜んだが、お甲は、かえって不安な顔を見せた。
その不安を、今日まで持ち越して、炉ばたに沈みこんでいるのが、又八には、不平でもあるし、わけがわからない――
「なぜ。なぜだい、おばさん」
朱実の汲んでくれた渋茶をとって、又八は膝をくむ。お甲は、うすく笑った、世間を知らない若者のあらい神経を羨むように。
「――だって、又さん、辻風典馬にはまだ何百という乾児があるんだよ」
「あ、わかった。――じゃあ奴らの仕返しを、恐がっているんだな、そんな者がなんだ、俺と武蔵がおれば――」
「だめ」
軽く手を振った。
又八は、肩を盛りあげて、
「だめなことはない、あんな虫けら、幾人でも来い、それとも、おばさんは、俺たちが弱いと思っているのか」
「まだ、まだ、お前さん達は、わたしの眼から見ても、嬰ン坊だもの。典馬には、辻風黄平という弟があって、この黄平がひとり来れば、お前さん達は、束になっても敵わない」
これは又八にとって心外なる言葉であった。けれど、だんだんと後家の話すところを聞くと、そうかなあと思わぬこともない。辻風黄平は、木曾の野洲川に大きな勢力を持っているばかりでなく、また兵法の達人であるばかりでなく、乱波(忍者)の上手で、この男が殺そうと狙けねらった人間で天寿を全うしている者はかつてなかった。正面から名乗ってくるなら防ぎもなろうが、寝首掻きの名人には、防ぎがないというのである。
「そいつは、苦手だな、おれのような寝坊には……」
又八が、腮をつまんで考えこむと、お甲は、もうこうなっては仕方がないから、この家をたたんで、どこか、他国へ行って暮すほかはない、ついては、おまえさん達二人はどうするかといいだした。
「武蔵に、相談してみよう。――どこへ行ったろ、あいつめ」
戸外にも、いなかった。手をかざして遠くを見ると、今し方、家のまわりにうろついていた野馬の背にとび乗って伊吹山の裾野を乗りまわしている武蔵のすがたが、遥かに、小さく見えた。
「のん気な奴だな」
又八は、つぶやいて、両手を口にかざした。
「おおいっ。帰って来いようっ」
枯れ草のうえに、二人は寝ころんだ。友達ほどいいものはない、寝ころびながらの相談もいい。
「じゃあ、俺たちは、やっぱり故郷へ帰ると決めるか」
「帰ろうぜ。――いつまで、あの母娘と一しょに暮しているわけにもゆくまい」
「ウム」
「女はきらいだ」
武蔵が、いうと、
「そうだな、そうしよう」
又八は、仰向けにひっくり返った。そして青空へ向って、どなるように、
「――帰ると決めたら、急に、おら、お通の顔が見たくなった!」
脚を、ばたばたさせて、
「畜生、お通が、髪の毛を洗った時のような雲があるぞ」
と、空を指さす。
武蔵は、自分の乗りすてた野馬の尻を見ていた、人間なかまでも、野に住む者の中にいい性質があるように、馬も野馬は気だてがよい、用がすめば、何も求めず、勝手にひとりでどこへでも行ってしまう。
むこうで、朱実が、
「御飯ですようっ――」
と、呼ぶ。
「飯だ」
二人は起き上がって、
「又八、馳競ッこ」
「くそ、負けるか」
朱実は、手をたたいて、草ぼこりを立てて駈けてくる二人を迎えた。
――だが、朱実は、午すぎから急に沈んでいた、二人が、故郷へ帰ると決めたことを聞いてからである。二人が家庭に交じってからの愉快な生活を、この少女は、この先も長いものと思っていたらしかった。
「お馬鹿ちゃんだよ、お前さんは、何をメソメソしているのだえ」
夕化粧をしながら、後家のお甲は、叱っていた、そして、炉ばたにいた武蔵を、鏡の中から、睨みつけた。
武蔵はふと、前の晩の、枕元へ迫った後家のささやきと、甘酸い髪の香をおもいだして、横を向いた。
横には、又八がいた、酒の壺を棚から取って、自分の家の物のように勝手に酒瓶へうつしているのだ、今夜はお別れだから大いに飲もうというのである、後家の白粉は、いつもより念入りだった。
「あるったけ飲んでしまおうよ。縁の下に残して行ったってつまらない」
酒壺を三つも倒した。
お甲は、又八にもたれかかって、武蔵が顔をそむけるような悪ふざけをして見せた。
「あたし……もう歩けない」
又八に甘えて、寝所まで、肩を借りて行く程だった。そして、面あてのように、
「武さんは、そこいらで、一人でお寝。――一人が好きなんだから」
と、いった。
いわれた通り武蔵はそこで横になってしまった。ひどく酔っていたし、夜もおそかったし、眼がさめたのは、もう、翌日の陽がカンカンあたっている頃だった。
――起き出て、彼がすぐ気づいたことは、家の中が、がらんとしていることだった。
「おや?」
きのう朱実と後家がひとまとめにしていた荷物がない、衣裳も、履物も失くなっている。第一、その母娘のすがたばかりでなく、又八が見えないのだ。
「又八っ。……おいっ」
裏にも、小屋の中にも、いなかった。ただ開け放しになっている水口のしきい際に、後家のさしていた朱い櫛が一枚落ちていただけである。
「あ? ……又八め……」
櫛を鼻につけて嗅いでみた、おとといの晩の恐い誘惑をその香いは思い出させた、又八は、これに負けたのだ、なんともいえない淋しさが胸をつきあげた。
「阿呆っ、お通さんを、どうする気か」
櫛を、そこへ、たたきつけた。自分の腹立たしさより、彼を故郷で待っているお通のために泣きたい気がする――
憮然として、いつまでも、台所にぶっ坐っている武蔵のすがたを見て、きのうの野馬が、のっそりと、軒下から顔を出した。いつものように、武蔵が鼻づらを撫でてやらないので、馬は、流し元にふやけている飯粒を舐めまわしていた。
山また山という言葉は、この国において初めてふさわしい。播州龍野口からもう山道である、作州街道はその山ばかりを縫って入る、国境の棒杭も、山脈の背なかに立っていた、杉坂を越え、中山峠を越え、やがて英田川の峡谷を足もとに見おろすあたりまでかかると、
(おやこんな所まで、人家があるのか)
と、旅人は一応そこで眼をみはるのが常だった。
しかも戸数は相当にある。川沿いや、峠の中腹や、石ころ畑や、部落の寄りあいではあるが、つい去年の関ヶ原の戦の前までは、この川の十町ばかり上流には、小城ながら新免伊賀守の一族が住んでいたし、もっと奥には、因州境の志戸坂の銀山に、鉱山掘りが今もたくさん来ている。
――また鳥取から姫路へ出る者、但馬から山越えで備前へ往来する旅人など、この山中の一町には、かなり諸国の人間がながれこむので、山また山の奥とはいえ、旅籠もあれば、呉服屋もあり、夜になると、白い蝙蝠のような顔をした飯盛女も軒下に見えたりする。
ここが、宮本村だった。
石を乗せたそれらの屋根が、眼の下に見える七宝寺の縁がわで、お通は、
「アア、もうじき、一年になる」
ぼんやり、雲を見ながら、考えていた。
孤児であるうえに、寺育ちのせいもあろう、お通という処女は、香炉の灰のように、冷たくて淋しい。
年は、去年が十六、許嫁の又八とは、一つ下だった。
その又八は、村の武蔵といっしょに、去年の夏、戦へとびだしてから、その年が暮れても、沙汰がなかった。
正月には――二月には――と便りの空だのみも、この頃は頼みに持てなくなった。もう今年の春も四月に入っているのだった。
「――武蔵さんの家へも、何の音沙汰がないというし……やっぱり二人とも、死んだのかしら」
たまたま、他人に向って、嘆息をもらして訴えると、あたりまえじゃと、誰もがいう。ここの領主の新免伊賀守の一族からして、一人として、帰って来た者はいないのだ、戦の後、あの小城へ入っているのは、みな顔も見知らない徳川系の武士衆ではないかという。
「なぜ男は、戦になど行くのだろう。あんなに止めたのに――」
縁がわに坐りこむと、お通は、半日でもそうして居られた、さびしいその顔が、独りで物思うことを好むように。
きょうも、そうしていると、
「お通さん、お通さん」
誰かよんでいる。
庫裡の外だった。真っ裸な男が、井戸のほうから歩いてくる、まるで煤しにかけた羅漢である。三年か四年目には、寺へ泊る但馬の国の雲水で、三十歳ぐらいな若い禅坊主なのだ、胸毛のはえた肌を陽なたにさらして、
「――春だな」
独りでうれしそうにいう。
「春はよいが、半風子のやつめ、藤原道長のように、この世をばわがもの顔に振舞うから、一思いに今、洗濯したのさ。……だが、このボロ法衣、そこの茶の木には干しにくいし、この桃の樹は花ざかりだし、わしが生半可、風流を解する男だけに、干し場に困ったよ。お通さん、物干し竿あるか」
お通は、顔を紅らめて、
「ま……沢庵さん、あなた、裸になってしまって着物の乾くあいだ、どうする気です?」
「寝てるさ」
「あきれたお人」
「そうだ、明日ならよかった、四月八日の灌仏会だから、甘茶を浴びて、こうしている――」
と、沢庵は、真面目くさって、両足をそろえ、天上天下へ指をさして、お釈迦さまの真似をした。
「――天上天下唯我独尊」
いつまでもご苦労さまに、沢庵が真面目くさって、誕生仏の真似して見せているので、お通は、
「ホホホ、ホホホ。よく似あいますこと。沢庵さん」
「そっくりだろう、それもそのはず。わしこそは悉達多太子の生れかわりだ」
「お待ちなさい、今、頭から甘茶をかけてあげますから」
「いけない。それは謝る」
蜂が、彼の頭をさしに来た。お釈迦さまはまた、あわてて蜂へも両手をふりまわした。蜂は、彼のふんどしが解けたのを見て、その隙に逃げてしまった。
お通は、縁にうつ伏して、
「アア、お腹がいたい」
と、笑いがとまらずにいた。
但馬の国生れの宗彭沢庵と名のるこの若い禅坊主には、ふさぎ性のお通も、この青年僧の泊っているあいだは、毎日笑わずにいられないことが多かった。
「そうそうわたしは、こんなことをしてはいられない」
草履へ、白い足をのばすと、
「お通さん、どこへ行くのかね」
「あしたは、四月八日でしょう、和尚さんから、いいつけられていたのを、すっかり忘れていた。毎年するように、花御堂の花を摘んできて、灌仏会のお支度をしなければならないし、晩には、甘茶も煮ておかなければいけないでしょう」
「――花を摘みにゆくのか。どこへ行けば、花がある」
「下の庄の河原」
「いっしょに行こうか」
「たくさん」
「花御堂にかざる花を、一人で摘むのはたいへんだ、わしも手伝おうよ」
「そんな、裸のままで、見ッともない」
「人間は元来、裸のものさ、かまわん」
「いやですよ、尾いて来ては!」
お通は逃げるように、寺の裏へ駈けて行った。やがて負い籠を背にかけ、鎌を持って、こっそり裏門からぬけてゆくと、沢庵は、どこから捜してきたのか、ふとんでも包むような大きな風呂敷を体に巻いて、後から歩いてきた。
「ま……」
「これならいいだろう」
「村の人が笑いますよ」
「なんと笑う?」
「離れて歩いてください」
「うそをいえ、男と並んで歩くのは好きなくせに」
「知らない!」
お通は先へ駈け出してしまう。沢庵は、雪山から降りてきた釈尊のように、風呂敷のすそを翩翻と風にふかせながら、後ろから歩いて来るのであった。
「アハハハ、怒ったのかい、お通さん、怒るなよ、そんなにふくれた顔すると、恋人にきらわれるぞ」
村から四、五町ほど下流の英田川の河原には、撩乱と春の草花がさいていた。お通は、負い籠をそこにおろして、蝶の群れにかこまれながら、もうそこらの花の根に、鎌の先をうごかしている――
「平和だなあ」
青年沢庵は、若くして多感な――そして宗教家らしい詠嘆を洩らしてその側に立った。お通が、せっせと花を刈っている仕事には手伝おうともしないのである。
「……お通さん、おまえの今の姿は、平和そのものだよ。人間は誰でも、こうして、万華の浄土に生を楽しんでいられるものを、好んで泣き、好んで悩み、愛慾と修羅の坩堝へ、われから墜ちて行って、八寒十熱の炎に身を焦かなければ気がすまない。……お通さんだけは、そうさせたくないものだな」
菜のはな、春菊、鬼げし、野ばら、すみれ――お通は刈りとるそばから籠へ投げて、
「沢庵さん、人にお説教するよりは、自分の頭をまた蜂にさされないようにお気をつけなさいよ」
と、ひやかした。
沢庵は、耳も貸さない。
「ばか、蜂の話じゃないぞ、ひとりの女人の運命について、わしは釈尊のおつたえをいっているのだ」
「お世話やきね」
「そうそう、よく喝破した。坊主という職業は、まったく、おせッかいな商売にちがいない。だが、米屋、呉服屋、大工、武士――と同じように、これもこの世に不用な仕事でないから有ることも不思議でない。――そもそもまた、その坊主と、女人とは、三千年の昔から仲がわるい。女人は、夜叉、魔王、地獄使などと仏法からいわれているからな。お通さんとわしと仲のわるいのも、遠い宿縁だろうな」
「なぜ、女は夜叉?」
「男をだますから」
「男だって、女をだますでしょ」
「――待てよ、その返辞は、ちょっと困ったな。……そうそうわかった」
「さ、答えてごらんなさい」
「お釈迦さまは男だった……」
「勝手なことばかしいって!」
「だが、女人よ」
「オオ、うるさい」
「女人よ、ひがみ給うな、釈尊もお若いころは、菩提樹下で、欲染、能悦、可愛、などという魔女たちに憑きなやまされて、ひどく女性を悪観したものだが、晩年になると、女のお弟子も持たれている。龍樹菩薩は、釈尊にまけない女ぎらい……じゃアない……女を恐がったお方だが、随順姉妹となり、愛楽友となり、安慰母となり、随意婢使となり……これ四賢良妻なり、などと仰っしゃっている、よろしく男はこういう女人を選べといって、女性の美徳を讃えている」
「やっぱり、男のつごうのいいことばかりいってるんじゃありませんか」
「それは、古代の天竺国が、日本よりは、もっともっと男尊女卑の国だったからしかたがない。――それから、龍樹菩薩は、女人にむかって、こういうことばを与えている」
「どういうこと?」
「女人よ、おん身は、男性に嫁ぐなかれ」
「ヘンな言葉」
「おしまいまで聞かないでひやかしてはいけない。その後にこういう言葉がつく。――女人、おん身は、真理に嫁せ」
「…………」
「わかるか。――真理に嫁せ。――早くいえば、男にほれるな、真理に惚れろということだ」
「真理って何?」
「訊かれると、わしにもまだ分っていないらしい」
「ホホホ」
「いっそ、俗にいおう、真実に嫁ぐのだな。だから都の軽薄なあこがれの子など孕まずに、生れた郷土で、よい子を生むことだな」
「また……」
打つ真似をして、
「沢庵さん、あなたは、花を刈る手伝いに来たんでしょう」
「そうらしい」
「じゃあ、喋舌ってばかりいないで、すこし、この鎌を持って下さい」
「おやすいこと」
「その間に、私は、お吟様の家へ行って、あした締める帯がもう縫えているかも知れないから、いただいて来ます」
「お吟様。アア、いつかお寺へ見えた婦人の邸か、おれも行くよ」
「そんな恰好で――」
「のどが渇いたのだ。お茶をもらおう」
もう女の二十五である、きりょうが醜いわけではなし、家がらはよいのだし、そのお吟に嫁入り話がないわけでは決してなかった。
もっとも、弟の武蔵が近郷きっての暴れんぼで、本位田村の又八か宮本村の武蔵かと、少年時代から悪太郎の手本にされているので、
(あの弟がいては)
と、縁遠いところも多少あったが、それにしてもお吟のつつましさや、教養を見こんで、ぜひ――という話は度々あった。しかしその都度、彼女の断る理由は、いつでも、
(弟の武蔵が、もうすこし大人になるまでは、わたくしが、母となっていてやりとうごさいますから――)
という言葉であった。
兵学の指南役として新免家に仕えていた、父の無二斎がその新免という姓を主家からゆるされた盛りの時代に建てた屋敷なので、英田川の河原を下にした石築き土塀まわしの家構えは、郷士には過ぎたものであった。広いままに古びて、今では屋根には草あやめが生え、そのむかし十手術の道場としていた所の高窓と廂のあいだには、燕の糞が白くたかっていた。
永い牢人生活の後の貧しい中に父は死んで行ったので、召使もその後はいないが、元の雇人はみなこの宮本村の者ばかりなので、そのころの婆やとか仲間とかが、かわるがわるに来ては台所へ黙って野菜を置いて行ったり、開けない部屋を掃除して行ったり、水瓶に水をみたして行ったりして、衰えた無二斎の家を守っていてくれている。
今も――
誰か裏の戸をあけて入ってくる者があるとは思ったが、おおかたそれらの中の誰かであろうと、奥の一室に縫い物をしていたお吟は、針の手もとめずにいると、
「お吟さま。今日は――」
うしろへお通が来て、音もなく坐っていた。
「誰かと思ったら……お通さんでしたか。今、あなたの帯を縫っているところですが、あしたの灌仏会に締めるのでしょう」
「ええ、いそがしいところを、すみませんでした。自分で縫えばいいんですけれど、お寺のほうも、用が多くって」
「いいえ、どうせ、私こそ、ひまで困っているくらいですもの。……何かしていないと、つい、考えだしていけません」
ふと、お吟のうしろを仰ぐと、燈明皿に、小さな灯がまたたいていた。そこの仏壇には、彼女が書いたものらしく、
行年十七歳 新免武蔵之霊
同年 本位田又八之霊
ふたつの紙位牌が貼ってあり、ささやかな水と花とが捧げてあるのだった。同年 本位田又八之霊
「あら……」
お通は、眼をしばたたいて、
「お吟様、おふたりとも、死んだという報らせが来たのでございますか」
「いいえ、でも……死んだとしか思えないではございませんか、私は、もうあきらめてしまいました。関ヶ原の戦のあった九月十五日を命日と思っています」
「縁起でもない」
お通は、つよく顔を振って、
「あの二人が、死ぬものですか、今にきっと、帰って来ますよ」
「あなたは、又八さんの夢を見る? ……」
「え、なんども」
「じゃあ、やっぱり死んでいるのだ、私も弟の夢ばかり見るから」
「嫌ですよ、そんなことをいっては。こんなもの、不吉だから、剥がしてしまう」
お通の眼は、すぐ涙をもった。起って行って、仏壇の燈明をふき消してしまう。それでもまだ忌わしさが晴れないように、捧げてある花と水の器を両手に持って、次の部屋の縁先へ、その水をさっとこぼすと、縁の端に腰をかけていた沢庵が、
「あ、冷たい」
と、飛びあがった。
着ている風呂敷で、沢庵は、顔や頭のしずくをこすりながら、
「こらっ、お通阿女、なにをするか。この家で、茶をもらおうとはいったが、水をかけてくれとは誰もいわぬぞ」
お通は、泣き笑いに笑ってしまった。
「――すみません、沢庵さん、ごめんなさいませ」
謝ったり、機嫌をとったり、また、そこへ望みの茶を汲んで与えたりして、やがて奥へもどって来ると、
「誰ですか、あの人は」
と、お吟は、縁のほうを覗いて、眼をみはっていた。
「お寺に泊っている若い雲水さんです。ほら、いつか、あなたが来た時に、本堂の陽あたりで、頬づえをして寝そべっていたでしょう。その時、わたしが、何をしているんですかと訊ねると、半風子に角力をとらせているんだと答えた汚い坊さんがあったじゃありませんか」
「あ……あの人」
「え、宗彭沢庵さん」
「変り者ですね」
「大変り」
「法衣でもなし、袈裟でもなし、何を着ているんです、いったい」
「風呂敷」
「ま……。まだ若いのでしょう」
「三十一ですって。――けれど、和尚さまに訊くと、あれでも、とても偉い人なんですとさ」
「あれでもなんていうものではありません、人はどこが偉いか、見ただけでは分りませんからね」
「但馬の出石村の生れで十歳で沙弥になり、十四歳で臨済の勝福寺に入って、希先和尚に帰戒をさずけられ、山城の大徳寺からきた碩学について、京都や奈良に遊び、妙心寺の愚堂和尚とか泉南の一凍禅師とかに教えをうけて、ずいぶん勉強したんですって」
「そうでしょうね、どこか、違ったところが見えますもの」
「――それから、和泉の南宗寺の住持にあげられたり、また、勅命をうけて、大徳寺の座主におされたこともあるんだそうですが、大徳寺は、たった三日いたきりで飛びだしてしまい、その後、豊臣秀頼さまだの、浅野幸長さまだの、細川忠興さまだの、なお公卿方では烏丸光広さまなどが、しきりと惜しがって、一寺を建立するから来いとか、寺禄を寄進するからとどまれとかいわれるのだそうですが、本人は、どういう気持か分りませんが、ああやって、半風子とばかり仲よくして、乞食みたいに、諸国をふらふらしているんですって。すこし、気が狂しいんじゃないんでしょうか」
「けれど、向うから見れば、私たちのほうが気が変だというかも知れません」
「ほんとに、そういいますよ。私が、又八さんのことを思い出して、独りで泣いていたりしていると……」
「でも、面白い人ですね」
「すこし、面白すぎますよ」
「いつ頃までいるんです?」
「そんなこと、わかるもんですか、いつも、ふらりと来て、ふらりと消えてしまう。まるで、どこの家でも、自分の住居と心得ている人ですもの」
縁がわの方から、沢庵は、身をのばして、
「聞えるぞ、聞えるぞ」
「悪口をいっていたのじゃありませんよ」
「いってもよいが、なにか、あまいものでも出ないのか」
「あれですもの、沢庵さんと来たひには」
「なにが、あれだ、お通阿女、お前のほうが、虫も殺さない顔して、その実、よほど性が悪いぞ」
「なぜですか」
「人にカラ茶をのませておいて、のろけをいったり泣いたりしている奴があるかっ」
大聖寺の鐘が鳴る。
七宝寺のかねも鳴る。
夜が明けると早々から、午過ぎも時折、ごうんごうんと鳴っていた。赤い帯をしめた村の娘、商家のおかみさん、孫の手をひいてくる老婆たち。ひっきりなし寺の山へ登って来た。
若い者は、参詣人のこみあっている七宝寺の本堂をのぞき合って、
「いる、いる」
「きょうは、よけいに綺麗にして」
などと、お通のすがたを見て、囁いて行く。
きょうは灌仏会の四月八日なので、本堂の中には、菩提樹の葉で屋根を葺き、野の草花で柱を埋めた花御堂ができていた、御堂の中には甘茶をたたえ、二尺ばかりの釈尊の黒い立像が天上天下を指さしている、小さな竹柄杓をもって、その頭から甘茶をかけたり、また、参詣人の求めに応じて、順々にさし出す竹筒へ、その甘茶を汲んでやっているのは、宗彭沢庵であった。
「この寺は、貧乏寺だから、おさい銭はなるべくよけいにこぼして行きなよ。金持は、なおのことだ、一杓の甘茶に、百貫の金をおいてゆけば、百貫だけ苦悩がかるくなることはうけあいだ」
花御堂を挟んで、その向って左側にお通は塗机をすえて坐っていた、仕立ておろしの帯をしめ、蒔絵のすずり箱をおき、五色の紙に、禁厭の歌をかいて、それを乞う参詣者に頒けているのである。
ちはやふる
卯月八日は吉日よ
かみさげ虫を
成敗ぞする
家の中へこの歌を貼っておくと、虫除けや悪病よけになるとこの地方ではいい伝えている。卯月八日は吉日よ
かみさげ虫を
成敗ぞする
もう手くびの痛くなるほど、お通は、同じ歌を何百枚もかいた、行成風のやさしい文体が少しくたびれかけていた。
「沢庵さん」
――と彼女はすきを見ていった。
「なんじゃい」
「あまり、人様に、おさい銭の催促をするのはよして下さい」
「金持にいっているんだよ、金持の金をかるくしてやるのは、善の善なるものだ」
「そんなことをいって、もし今夜、村のお金持の家へ泥棒でも入ったらどうしますか」
「……そらそら、すこしすいたと思ったらまた参詣人が混んで来たよ。押さないで、押さないで――おい若いの――順番におしよ」
「もし、坊さん」
「わしかい?」
「順番といいながら、おめえは、女にばかり先へ汲んでやるじゃないか」
「わしも女子は好きだから」
「この坊主、極道者だ」
「えらそうにいうな、お前たちだって、甘茶や虫除けが貰いたくて来るんじゃあるまい、わしには、分っている、お釈迦さまへ掌をあわせに来るのが半分で、お通さんの顔を拝みにくる奴が半分。お前らも、その組だろう。――こらこらおさい銭をなぜおいてゆかん、そんな量見では、女にもてないぞ」
お通は、真っ紅になって、
「沢庵さん、もういいかげんにしないと、ほんとに私、怒りますよ」
と、いった。
そして、疲れた眼でも休めるように、ぼんやりしていたが、ふと、参詣人の中に見えた一人の若者の顔へ、
「あっ……」
と口走ると、指の間から筆を落した。
彼女が、起つと共に、彼女の見た顔は、魚のようにすばやく潜んでしまった。お通は、われを忘れて、
「武蔵さんっ、武蔵さんっ……」
廻廊のほうへ駈けて行った。
ただの百姓ではない、半農半武士だ、いわゆる郷士なのである。
本位田家の隠居は、きかない気性の老母だった、又八のおふくろに当る人だ、もう六十ぢかいが、若い者や小作の先に立って野良仕事に出かけ、畑も打てば、麦も踏む、暗くなるまでの一日仕事をおえて帰るにも、手ぶらでは帰らない、腰の曲った体のかくれるほど、春蚕の桑の葉を背負いこんで、なお、夜業に飼蚕でもやろうというくらいなお杉婆あさんであった。
「おばばアー」
孫の鼻たらしが、畑のむこうから、素はだしで来るのを見かけて、
「おう、丙太よっ、汝れ、お寺へ行ったのけ?」
桑畑から腰をのばした。
丙太は、躍って来て、
「行ったよっ」
「お通さん、いたか」
「いた、きょうはな、おばば、お通姉さんは美麗な帯をして、花祭りしていた」
「甘茶と、虫除けの歌を、もろうて来たか」
「ううん」
「なぜもろうて来ぬのだ」
「お通姉さんが、そんな物はいいから、はやくおばばに知らせに、家へ帰れというたんや」
「何を知らせに?」
「河向いの武蔵がなよ、今日の花祭りに歩いていたのを、お通姉さんが見たのだとよ」
「ほんとけ?」
「ほんとだ」
「…………」
お杉は眼をうるませて、息子の又八のすがたが、もうそこらに見えてでもいるように見まわした。
「丙太、汝れ、おばばに代って、ここで桑摘んどれ」
「おばば、どこへゆくだ」
「邸へ、帰ってみる、新免家の武蔵がもどっているなら、又八も、邸へ帰っているにちがいなかろう」
「おらも行く」
「阿呆、来んでもええ」
大きな樫の木にかこまれた土豪の住居である。お杉は、納屋の前へ駈けこむと、そこらに働いている分家の嫁や、作男に向って、
「又八が、帰って来たかよっ」
と、怒鳴った。
みんな、ぽかんとして、
「うんにゃ」
と、首を振った。
しかし、この老母の興奮は、人々のいぶかるのを、間抜けのように叱りつけた。息子はもう村へ帰っているのだ。新免家の武蔵が村をあるいている以上、又八も一緒にもどって来ているに違いない、早くさがして邸へ引っぱって来いと命じるのだった。
関ヶ原の合戦の日を、ここでも大事な息子の命日として悲しんでいたところだった、わけてもお杉は、又八が可愛くて、眼の中へでも入れてしまいたい程なのだった、又八の姉には聟を持たせて分家させてあるので、その息子は、本位田家の後継息子でもあった。
「見つかったかよっ?」
お杉は、家を出たり入ったりして、繰返し繰返し訊ねていた。――やがて日が暮れると、先祖の位牌に、燈明をともして、何か念じるように、その下に坐っていた。
夕飯もたべずに、家の者は皆、出払っていた、夜になっても、その人々からの吉報はなかなか聞かれなかった。お杉はまた、暗い門口へ出て、立ちとおしていた。
水っぽい月が、邸のまわりの樫の梢にあった、後ろの山も、前の山も白い霧につつまれ、梨畑の花から甘い香がただよってくる。
その梨畑の畦から、誰か歩いてくる影が見えた、息子の許嫁であると分ると、お杉は手をあげた。
「……お通かよ?」
「おばば様」
お通は、濡れ草履の音を重そうに、走り寄ってきた。
「お通。――おぬし、武蔵のすがたを見たそうだが、ほんとけ?」
「え。たしかに武蔵さんなんです、七宝寺の花祭りに見えました」
「又八は、見えなんだかよ」
「それを訊こうと思って、急いで呼ぶと、なぜか、隠れてしまったんです。もとから武蔵さんていう人は、変っている人ですが、なんで、私が呼ぶのに逃げてしまったのかわかりません」
「逃げた? ……」
お杉は、首をかしげた。
わが子の又八を、戦へ誘惑したものは、新免家の武蔵であるといって、常々、恨んでいたこの老母は、何か、邪推でもまわしているらしく考えこんでいた。
「あの、悪蔵め……、ことによると、又八だけを死なして、おのれは、臆病かぜに吹かれて、ただ一人のめのめと帰って来たのかも知れぬ」
「まさか、そんなことはないでしょう。そうならばそうといって、何か遺物でも持って来てくださるでしょうに」
「なんのいの」
老母は、つよく、顔を振った。
「彼奴が、そんなしおらしい男かよ。又八は、悪い友達を持ちおったわ」
「ばば様」
「なんじゃ?」
「私の考えでは、きっと、お吟様の邸へゆけば、今夜はそこに武蔵さんもいるだろうと思いますが」
「姉弟じゃもの、それやいるだろう」
「これから、ばば様と二人して、訪ねて行ってみましょうか」
「あの姉も姉、自分の弟が、わしがとこの息子を戦に連れ出して行ったのを承知しながら、その後、見舞にも来ねば、武蔵がもどったと知らせても来おらぬ。何も、わしの方から出向くすじはないわ。新免から来るのが当りまえじゃ」
「でも、こんな場合ですし、一刻もはやく武蔵さんに会って、細かい様子も聞きとうございます。あちらへ参った上の挨拶はわたしがいたしますから、おばば様もご一緒に来てくださいませ」
お杉は渋々、承知した。
そのくせ息子の安否を知りたいことは、お通にも劣らないほどだった。
そこから十二、三町はある、新免家は河向うだった。その河を挟んで本位田家も古い郷士だし、新免家も赤松の血統だし、こういうことのない前から、暗黙のうちに、対峙している間がらであった。
門は閉まっていた、灯りもみえないほど樹立ちがふかい。お通が裏口へまわろうというと、お杉は、
「本位田の老母が、新免を訪ねるのに、裏口から入るような弱味は持たぬ」
と、動かないのである。
やむなく、お通だけ裏へ廻って行った。しばらく経つと、門のうちに灯りがさした。お吟も出て来て迎え入れる。野良で畑を耕しているお杉とは打って変って、
「夜中じゃが、捨ておかれぬことゆえに、出向いて来ましたぞよ。お迎え、ご大儀じゃ」
と、高い気位と言葉にも権式を取って、ずっと、新免家の一間へ上がった。
荒神様のお使いのように、お杉はだまって上座へ坐った。お吟のあいさつを鷹揚にうけて、すぐ、
「おまえの家の、悪蔵がもどって来たそうじゃが、ここへ、呼んでおくりゃれ」
と、いった。
藪から棒だ、お吟は、
「悪蔵とは、誰のことでございまするか」
と、訊きかえした。
「ホ、ホ、ホ。これは口が辷った。村の衆がそういうので、婆もつい染まったとみゆる。悪蔵とは、武蔵のこと、戦から帰って、ここに隠れておろうがの」
「いいえ……」
肉親の弟のことを、ずけずけいわれたので、お吟は白けた顔に唇を噛んだ。お通は気の毒になって、武蔵のすがたを、今日の灌仏会で見かけたと側から告げて、
「ふしぎでございますね、ここへも来ないとは?」
と双方の間をとりなした。
お吟は、苦しげに、
「……来ておりません、姿を見せたなら、そのうちには、参りましょうが」
すると、お杉の手が、とんと畳をたたいた、そして、舅のような恐い顔をしていった。
「なんじゃ、今のいい草は。そのうちに参りましょうで、よう済ましていられたもの。そもそも、わしがとこの息子を唆して、戦へつれ出したのは、ここの悪蔵じゃないか。又八はな、本位田の家にとっては、大事な大事な、後継じゃぞ。それを――わしの眼をぬすんで誘き出したばかりか、おのれ一人、無事にもどって来て済むものか。……それもよい、なぜ、挨拶に来さっしゃらぬ、自体この新免家の姉弟は、小癪にさわる、この婆を何と思うていなさるのじゃ。さっ……おのれが家の武蔵が帰って来たからには、又八も、ここへ帰してくだされ、それが出来ねば、悪蔵めをここへすえて、又八の安否と落着きをこの婆に得心がなるように聞かしてもらいましょう」
「でも、その武蔵がおりませぬことには」
「白々しい。おぬしが、知らぬはずはない」
「ご難題でございます」
お吟は、泣き伏してしまった。父の無二斎がいるならばと、すぐ胸の裡では思うのだった。
と、その時、縁側の戸が、がたっと鳴った。風ではない、はっきり、戸の外には人の跫音らしい気配がしたのである。
「おやっ?」
お杉が、眼を光らすと、お通はもう起ちかけていた。――途端に次の物音は、絶叫だった、人間の発しる声のうちでは最も獣に近い呻きであった。
つづいて、何者かが、
「――あッ、捕まえろっ」
迅い烈しい足音が、邸のまわりを駈け出した。樹の折れるような音――藪の揺れて鳴る音――足音は一人や二人のものではない。
「武蔵じゃ」
お杉は、そういって、ぬっと立った。泣き伏しているお吟の襟元を睨みつけて、
「いるのじゃ! 見え透いたことをこの女は、婆に隠しくさる。なんぞ理があろう、覚えていやい」
歩いて、縁側の戸を開けた。そして外をのぞくと、お杉は、土気いろに顔を変えた。
脛へ具足を当てた一人の若者が仰向けになって死んでいたのである。口や鼻から鮮血をふき出している無残な態から見ると、何か木剣のような物で、一撃のもとに、打ち殺されたものらしかった。
「た……誰じゃ……誰かここに殺されているがの」
お杉のただ事でない顫き声に、
「えっ?」
お通は、縁側まて行燈を提げて出た。お吟も怖々大地をのぞいてみた。
死骸は、武蔵でもなし又八でもなかった。この辺に見馴れない武士なのだ。戦慄のうちにも、ほっとしたように、
「下手人は、何者じゃろう?」
お杉は、呟いて、それから急にお通へ向って、関りあいになるとつまらないから帰ろうといい出した。お通は、この老母が息子の又八を盲愛する余り、ここへ来ても酷いことばをいいちらしたのみで、お吟が可哀そうでならなかった。何か事情もあろうと思うし、慰めてもやりたいので、自分は後から帰るというと、
「そうか。勝手にしやい」
膠もなく、お杉はひとりで、玄関から出て行った。
「お提燈を」
と、お吟が親切にいうと、
「まだ、本位田家の婆は、提燈を持たねば歩かれぬほど、耄碌はしておらぬ」
と、いう。
まったく、若い者にも負けない気の老母だった。外へ出ると、裾を端折って夜露のふかい中をてくてくともう歩み出して行く。
「婆。ちょっと待て」
新免家を出ると、すぐ呼びとめた者がある。彼女のもっとも怖れていた関り合いがもう来たのだ。人影は陣太刀を横たえ、半具足で手足をかためている、この村に見かけない堂々とした武士である。
「そちは、今、新免家から出て来たな」
「はい、左様でござりますが」
「新免家の者か」
「とんでもない」
あわてて、手を振った。
「わしは、河向いの郷士の隠居」
「では、新免武蔵と共に、関ヶ原へ戦に出た本位田又八の母か」
「されば。……それも伜が好んで行ったのではなく、あの悪蔵めに騙されたのでおざりまする」
「悪蔵とは」
「武蔵のやつで」
「さほどに、村でもよくいわぬ男か」
「もうあなた様、手のつけられぬ乱暴者でござりましての、伜があんな人間とつき合うたため、わたしどもまで、どれほど泣きを見たことやら」
「そちの息子は、関ヶ原で死んだらしいな。しかし、悔やむな、敵はとってやる」
「あなた様は?」
「それがしは、戦の後、姫路城の抑えに参った徳川方の者だが、主命をおびて、播州境に木戸を設け往来人を検めていたところ、此邸の――」
と、うしろの土塀を指さして、
「武蔵と申す奴が、木戸を破って逃げおった。その前から、新免伊賀守の手について、浮田方へ加担した者とわかっているゆえ、この宮本村まで追いつめて来たところじゃ。――したがあの男、おそろしく強い、数日来、追い歩いて、疲れるのを待っているが、容易には捕まらん」
「ア……それで」
お杉は、うなずいた。武蔵が、七宝寺へも、姉の側へも立ち寄らない理が解けた。同時に、息子の又八は帰らずに、彼のみ生きて帰ったことが、憤ろしかった。
「旦那様……なんぼ、武蔵が強うても、捕まえるのは、易いことでございませぬか」
「何せい人数が少ないのだ。今も今とて、彼奴のために、一人、打ち殺されたし……」
「婆に、よい智慧がありますのじゃ、そっと、耳をお貸しなされ……」
どんな策を、囁いたのであろうか。
「む! なるほどな」
姫路城から国境の目付に来ているその武士は大きくうなずいた。
「首尾ようおやりなされよ」
お杉婆は、煽動するようにいって、立ち去った。
――間もなく。その武士は、新免家の裏手に、十四、五名の人数をまとめていた。何か、密かにいい渡して、やがて塀をこえて邸のうちへなだれこんだ。
若い女同士の――お通とお吟とが――お互いの薄命でも語らい合っていたのか、更けた灯りの下に涙をぬぐい合っている所へであった。人数は土足のまま、両方の襖から入り込んで来て、部屋へいっぱい立ち塞がった。
「……あっ?」
お通は蒼ざめて、おののいたきりだったが、さすがに無二斎の娘であるお吟は却ってきびしい眼でその人々を見つめた。
「武蔵の姉はどっちだ」
一人がいうと、
「私ですが」
と、お吟はいって、
「邸のうちへ、無断で、何事でござりますか。女住居と思うて、無礼な所作などあそばすと、ゆるしてはおかれませぬぞ」
膝がしらを向けて責めると、先刻、お杉と立ち話しを交わした組頭らしい武士が、
「お吟は、こっちだ」
と、彼女の顔を指さした。
屋鳴りと同時に灯りが消えた。お通は悲鳴をあげて庭先へまろび落ちた。理不尽でもあるし、突然な狼藉ぶりだ、お吟ひとりに向って、十名以上の大の男が押しかぶさって来て縄にかけようとするのである。お吟はそれに対して女とも思われない壮烈な抵抗を見せているのだった。――しかしそれも一瞬だった。ねじ伏せられて、足蹴にされているらしい。――
たいへんだっ。
どこを走って来たのか自分でもわからないが、とにかく深夜の道を、お通は七宝寺の方へ向って、裸足のまま人心地もなく駈けていた。平和に馴れてきた処女の胸には、この世が顛動したような衝撃だった。
寺のある山の下まで来ると、
「お。お通さんではないか」
樹蔭の石に腰をおろしていた人影が起って来ていった。宗彭沢庵なのである。
「こんな遅くまで帰らないことはないのに、どうしたかと思って、捜していた所だった。おや、跣で? ……」
彼女の白い足へ眼を落すと、お通は、泣きながらその胸へとびついて訴えた。
「沢庵さん、大変です、アア、どうしよう」
沢庵は、相変らず、
「大変? ……世の中に大変なんていうことがそうあるだろうか。まあ、落着いて、理を聞かせなさい」
「新免家のお吟さんが捕まって行きました。……又八さんは帰って来ないし、あの親切なお吟様は捕まってゆくし。……わ、わたし、これから先……ど、どうしたらいいんでしょう」
泣きじゃくって、いつまでも沢庵の胸に身をふるわせていた。
土も草も大地は若い女のような熱い息をしている、むしむしと顔の汗からも陽炎が立ちそうである。そして、ひそりとした春の昼中。
武蔵はひとり歩いていた。自己の対象となる何物もない山の中を、いらいらした眼つきを持ち、例の黒樫の木剣を杖に持ってである。彼はひどく疲れているらしかった。禽が飛んでも、すぐ鋭い眸がそれに動く。動物的な官能と猛気が、泥や露に汚れ果てた全身に漲っていた。
「畜生っ……」
誰にとはなく、こう呪いを呟くと、やり場のない憤りが、ふいに木剣をうならせて、
「えいッ!」
太い生木の幹を、パッと割った。
木の裂け目から白い樹乳がながれた、母の乳を思いだしたか、じっと目を注いでいた。母のいない故郷は、山も河もたださびしかった。
「おれを、この村の者は、なんで目の仇にするんだ。――おれの姿を見れば、すぐ山の関所へ告げ口するし、おれの影を見れば、狼に出会ったようにこそこそ逃げてしまう……」
彼は、この讃甘の山に、きょうで四日も隠れていた。
ひる霞のあなたには、先祖以来の――そして孤独の姉がいる邸が望まれるし、すぐ麓の樹の中には七宝寺の屋根がしずかに沈んで見える――
だが、そのどっちへも、彼は近づき得ないのである。灌仏会の日に、人ごみに紛れて、お通の顔を見に行ったが、お通が、大きな声で自分の名を群衆の中でよんだので、発見されたら、彼女へも禍いがかかるし、自分も、捕まってはならぬと思って、あわてて姿を晦ましてしまった。
晩になって、姉のいる邸へもそっと訪ねて行ったが、折悪く又八の母が来ていた。又八のことを訊かれたら何といおう、自分だけが帰って来て、あの老母に何と詫びようかなどと、外にたたずんだまま、姉のすがたを戸の隙間からのぞき見して惑っているうちに、張り込んでいた姫路城の武士たちに見つかってしまい、言葉もひとつ交わさぬうち、姉の邸からも逃げ退かなければならなかった。
それ以来は、この讃甘の山から見ていると姫路の武士たちが、自分の立ち廻りそうな道を、血眼になって捜し歩いている様子だし、村の者も結束して、毎日、あの山この山と、山狩をして自分を捕まえようとしているらしく思われる。
「……お通さんだって、俺を、どう考えているか?」
武蔵は、彼女にさえも、疑心暗鬼を持ち始めた、故郷のあらゆる人間が、敵となって、自分の四方を塞いでいるように疑われて来るのだった。
「お通さんには、又八がこういう理由で帰らなくなったのだと、ほんとのことは、いい難い。……そうだ、やっぱり又八のおふくろに会って告げよう。それさえ果せば、こんな村に、誰がいてやるか」
武蔵は腹をきめて、歩みかけたが、明るいうちは里へ出られなかった。小石をつぶてにして、小鳥を狙い撃ちに落し、すぐ毛をむしって、その生温かい肉を裂いては、生のままむしゃむしゃと食べて歩いていた。
すると、
「あっ……」
出会いがしらのことである。誰か、彼のすがたを見ると共に、樹の間へあわてて逃げこんだ者がある。武蔵は、理由なく自分を忌み厭う人間に、憤ッとしたらしく、
「待てッ」
豹のように跳びついた。
よくこの山を往来する炭焼きなのだ。武蔵はこの男の顔を見知っている、襟がみをつかんでひき戻しながらいった。
「やいっ、なぜ逃げる? 俺はな、忘れたか、宮本村の新免武蔵だぞ、何も、捕って食おうといいはしない。挨拶もせず、人の顔見て、いきなり逃げいでもよかろう」
「へ、へい」
「坐れ」
手を離すと、また逃げかけるので、今度は、弱腰を蹴とばして、木剣で撲るまねをすると、
「わっッ」
頭をかかえて、男はうッ伏した、そのまま腰をぬかしたように戦慄して、
「た、たすけてッ」
と、喚いた。
村の者が、何のために、自分をこんなに恐怖するのか、武蔵にはわからなかった。
「これ、俺が訊くことに、返辞をせい、よいか」
「なんでも、申しますだが、生命だけは」
「誰が生命をとるといったか。麓には、討手がいるだろうな」
「へい」
「七宝寺にも、張りこんでいるか」
「おりますだ」
「村の奴ら、きょうも、俺を捕まえようとして、山狩に出ているか」
「…………」
「汝れも、その一人だな」
男は、跳びあがって、唖のように首を振った。
「うんにゃ、うんにゃ」
「待て待て」
その首の根をつまんで、
「姉上は、どうしているか」
「どッちゃの?」
「俺の姉上――新免家のお吟姉だ、村の奴ら、姫路の役人に狩りたてられて、俺を追うのはぜひもないが、よもや姉上のお身を、責めはしまいな」
「知らん、おら、何も知らんで」
「こいつ」
木剣を、振りかぶって、
「怪しい物のいい振りをする。何かあったな、ぬかさぬと、頭の鉢を、これが打ち砕くぞ」
「あっ、待ってくれ。いうがな、いうがな」
炭焼きは、掌をあわせた。そして、お吟が捕まって行ったこと、また、村へは布令がまわって、武蔵に食物を与えた者や、武蔵に寝小屋を貸した者は、すべて同罪であるという達しと共に、一戸から一人ずつ隔日に若い者が徴発されて、毎日、姫路の武士を先頭にして、山狩をしていることなど告げた。
武蔵の皮膚は、憤怒のため鳥肌になった。
「ほんとか!」
念を押して――
「姉上に何の罪があって!」
と、血になった眼をうるませた。
「わしら、何も知らん、わしらはただ、御領主が怖ろしいで」
「何処だ、姉上の捕まって行った先は。――その牢屋は」
「日名倉の木戸だと、村の衆はうわさしていただが」
「日名倉――」
国境の山の線を、呪いにみちた眸がじっと振り仰いだ、もうその辺りの中国山脈の脊柱は灰色の夕雲に、斑になって黒ずんでいた。
「よしっ、貰いにゆくぞ、姉上を……姉上を……」
呟きながら、武蔵は木剣を杖について、水音のする沢辺の方へ、一人でガサガサと降りて行った。
勤行の鐘が、今しがた終った。旅へ出て留守だった七宝寺の住持も、きのうか今日、帰って来ているらしい。
外は、鼻をつままれても分らない闇だったが、伽藍のうちには、あかい燈明や庫裡の炉の灯や、方丈の短檠がゆらぐのが覗かれて、およそそこに起ち居する人影も淡く見てとれる。
「お通さん、出てくればいいが……」
武蔵は、本堂と方丈との通路になっている橋廊架の下に、じっとうずくまっていた。夕餉の物を煮るにおいが生あたたかく漂ってくる、彼は、けむりの出る汁や飯を想像した、この数日、生の小禽だの、草の芽などよりほか、何も入っていない胃ぶくろは、胸さきで暴れて、痛みだした。
「がっ……」
口から胃液を叶いて、武蔵は苦しんだ。
その声がひびいたとみえ、
「なんじゃ」
方丈で、誰かがいう。
「猫でしょう」
お通が、答えた。そして、夕餉の膳を下げて、武蔵のうつ伏している上の橋廊架をわたってゆくのである。
――あっ、お通さん。
武蔵は呼ばわろうとしたが、苦しくて声が出なかった。だが、それはかえって僥倖でもあった。
すぐ彼女の後から、
「風呂場は、どこじゃな」
と尾いて来た者がある。
寺の借着に、細帯をしめ、手拭をさげている。ふとあおぐと、武蔵には覚えのある姫路城の武士なのだ。部下や村の者に山狩をさせたり、夜昼のけじめなく捜索に奔命させたりしておいて、自分は、陽が暮れればこの寺を宿として、馳走酒にあずかっているという身分らしい。
「お風呂でございますか」
お通は、持ち物を下において、
「ご案内いたしましょう」
縁づたいに、裏へ導いてゆくと、鼻下にうす髯のあるその武士は、お通のうしろからいきなり抱きすくめて、
「どうじゃ、いっしょに入浴らないか」
「あれっ……」
その顔を、両手で抑えつけて、
「えいじゃないか」
頬へ、唇をすりつけた。
「……いけません! いけません!」
お通は、かよわかった。口をふさがれたのか、悲鳴も出ないのである。
――武蔵は、身の境遇の何かをも忘れて、
「何をするっ!」
縁の上へ、跳び上がった。
うしろから突いた拳が武士の後頭部に鳴った。手もなくお通を抱えたまま、相手は下に転げ落ちている。
お通が、高い悲鳴をあげたのも、その途端であった。
仰天した武士は、
「やっ、おのれは、武蔵じゃな。――武蔵だっ、武蔵が出てきた。各、出で合えっ」
と、喚いた。
忽ち、寺内は足音や呼びあう声の暴風となった。武蔵のすがたを見たらばと、かねて合図してあったか、鐘楼からはごんごんと鐘が鳴った。
「素破」
と、山狩の者は、七宝寺を中心に、駈け集まった。時を移さず裏山つづき讃甘の山一帯をさがし始めたが、その頃、武蔵はどこをどう走って来たか、本位田家のだだっ広い土間口に立って、
「おばば、おばば」
と、母屋の明りをのぞいて、訪れていた。
「たれじゃ」
紙燭を持って、何気なく、お杉は奥から出てきた。
下顎から、逆さに紙燭の明滅をうけている窪の多い顔が、土気いろにさっと変った。
「あっ、おぬしは! ……」
「おばば、一言、告げに来た。……又八は戦で死んだのじゃない、生きている、或る女と、他国で暮している。……それだけだ、お通さんにも、おばばから伝えておいてくれや」
そういい終ると、
「ああ、これで気がすんだ」
武蔵は、すぐ木剣を杖について、暗い戸外へもどりかけた。
「武蔵」
お杉は呼びとめた。
「汝れ、これから、何処へゆく気じゃ?」
「おれか」
沈痛に――
「おれは、これから、日名倉の木戸をぶち破って、姉上を奪りかえすのだ。そのまま、他国へ走るから、おばばとも、もう会えん。……ただ、ここの息子を、戦で死なして、おれ一人、帰って来たのではないということを、この家の者と、お通さんに告げたかったのだ。もう、村には、未練はない」
「そうか……」
紙燭を持ちかえて、お杉は、手招ぎした。
「おぬしは、腹がすいてはおらぬのか」
「飯など、幾日も、食べたことはない」
「不愍な……。ちょうど、温かいものが煮えている。何ぞ、餞別もしてやりたい。ばばが支度するあいだ、湯でも浴みていやい」
「…………」
「のう、武蔵、おぬしの家と、わしが家とは、赤松以来の共に旧家じゃ、わかれが惜しい、そうして行かっしゃれ」
「…………」
武蔵は、肱を曲げて、眼を拭った。ふいに温かい人情にふれたので、猜疑と警戒心だけに張りつめていたものが、急に人間の肌を思いだしたのであった。
「さ……早う裏へ廻れ、人が来たらどうもならぬ。……手拭は持っていやるか、風呂を浴みている間に、そうじゃ、又八の肌着や小袖もある、それを出しておいて上げよう、飯の支度もしておこう。……ゆるりと、湯に浸っていたがよい」
紙燭をわたして、お杉は奥へかくれた、するとすぐ分家の嫁が、庭から、どこへやら走って行ったようであった。
戸の鳴った風呂小屋の中には、湯の音がして、明りの影がゆらいでいる、お杉は母屋から、
「湯のかげんは、どうじゃな」
と声をかけた。
武蔵の声が、風呂場から、
「いい湯だよ。……ああ生き甦ったような気がする」
「ゆるりと、温まっていたがよいぞ、まだ、飯が炊けておらんようじゃ」
「ありがとう。こんなことなら、早く来ればよかったのだ。俺はまた、おばばが、きっと俺を怨んでいるだろうと思ってな……」
欣びに溢れた声が、それからも湯の音に交じって二言三言していたが、お杉の返辞はしなかった。
やがて、息をせいて、分家の嫁が門の外までもどって来た。――後ろに、二十人ほどの武士や山狩の者を連れている。
外に出ていたお杉は、低声で、その人々へ何か囁いた。
「なに、風呂小屋へ入れておいたと? そいつは出来した。……よしっ、今夜は捕えたぞ」
武士たちは人数をふた手に分けて、大地を蟇の群れのように這ってゆく。
風呂口の火が、闇の中に真っ赤に見えていた。
何か――何とはなくである――武蔵の六感はおののいた。
ふと、戸の隙間から外をのぞいた途端にである。彼は、総身の毛穴をよだてて、
「あっ、騙されたっ」
と、叫んだ。
裸体だ、風呂場の狭い中だ、どうする分別も、いとまもない。
気がついたのがすでに遅いのだ、棒、槍、十手、そんな武器を持った人影が、板戸のそとには、充満している、実際は十四、五名に過ぎなかったろうが、彼の眼には、何倍にも映った。
逃げる策がない。身にまとう一枚の肌着すらここにはないのだ。だが武蔵は、怖い感じを持たなかった、お杉に対する憤りがむしろ彼の野性を駆って、
「うぬっ、どうするか見ておれっ」
守勢を考えない。こんな場合にも、彼は、敵と思う者へ、こっちから出てゆくこころにしかなれないのだ。
捕手たちが、互いに、踏みこむのを譲り合っている間に、武蔵は内から戸を蹴とばして、
「なんだッ!」
喚いて、躍り出した。
素裸なのだ、濡れ髪は解けて、ざんばらになっている。
武蔵は歯を咬み鳴らし、胸いたへ走って来た敵の槍の柄へしがみついた、相手を振りとばし、それを自分の物として握り直すと、
「こいつらっ」
無茶である、縦横に槍を振りまわして、撲るのだ。しかし大勢に対しては、これは効果がある、穂先を使わずに柄を使う槍術は、そもそも関ヶ原の実戦で彼は教えられたものである。
ぬかった! なぜ先に死に物狂いで、三、四人風呂場の中へこっちから飛び込まなかったかと、後手を悔いるように、捕手の武士たちは、叱咤を交わしあった。
十度ほど、大地を撲ると、槍は折れてしまった。武蔵は、納屋の廂の下にあった漬物樽の押し石をさしあげて、取りかこむ群れへ抛りつけた。
「それっ、母屋へ、跳びこんで行ったぞっ」
外から、人々がこう喚くと、一室からは、お杉だの分家の嫁だのが、跣のまま裏庭へころげ降りた。
家の中を、雷鳴があるいているように、何か、凄まじい物音をさせながら、武蔵は、歩いていた。
「俺の着物は、どこへやった、俺の着物を出せっ」
そこらには野良着が脱ぎすててあるし、手をかければ衣裳箪笥もあるが、眼もくれない。
血眼で、自分のつづれた着物を、やっと厨の隅に見つけ出すと、それを抱えたまま、土泥竈の肩に足をかけて、引窓から屋根へ這い出した。
堤を切った濁流へ自失の声を揚げるように下では騒いでいる。武蔵は、大屋根のまん中へ出て、悠々と、着物を着ていた、そして歯で帯の端を咬み裂き、濡れ髪をうしろに束ねて、根元を自分でかたく結んだ。眉も、眼じりも、引ッ吊れるほどに。
大空は一面、春の星であった。
「おおうーいっ」
此方の山で呼ぶと、向うの山でも、
「オウーイ」
と、遠く答えてくる。
毎日の山狩だ。
飼蚕の掃きたても、畑打ちも手につかないのである。
当村、新免無二斎の遺子武蔵事、予而、追捕お沙汰中の所、在所の山道に出没し、殺戮悪業いたらざるなきを以て、見当り次第成敗仕る可者也、依而、武蔵調伏に功ある者には、左之通り、御賞を下被。
一 捕えたるもの 銀 十貫
一 首打ったるもの 田 十枚
一 匿れ場所告げたるもの 田 二枚
以上
慶長六年 池田勝入斎輝政 家中
一 捕えたるもの 銀 十貫
一 首打ったるもの 田 十枚
一 匿れ場所告げたるもの 田 二枚
以上
慶長六年 池田勝入斎輝政 家中
こういう物々しい高札が、庄屋の門前や、村の辻に、いかめしく立った、本位田家のまわりは、武蔵が復讐に来るだろうという噂で、お杉ばばも家族も、戦々兢々として門を閉じ、出入り口にも鹿垣を作った。姫路の池田家から応援に来た人勢は、そこにも夥しくいて、万一武蔵が出てきた場合は、法螺貝や寺の鐘や、あらゆる音響で互いに連絡をとり、袋づつみにしてしまおうと作戦は怠りない。
だが、何の効もなかった。
――今朝もだ。
「わあ、また、ぶち殺されている」
「誰じゃ、こんどは」
「お武士じゃがな」
村端れの道ばたの草むらへ、首を突っこんで、二本の足を変な恰好に上げて死んでいる死骸を発見して、恐怖と好奇心にかられた顔が、取り巻いて騒いでいた。
死骸は、頭蓋骨をくだかれていた、それも附近に立っていた高札で撲ったものとみえ、朱になった高札が、死骸とぶっ交えに、死人の背に負わせて捨ててある。
褒美の文句が、高札の表に出ているので、それを読む気もなく読むと、残酷な感じは消されて、まわりの者は、何だかおかしくなって来た。
「笑うやつがあるか」
と、誰かいった。
七宝寺のお通は、村の人々の間から、白い顔を引っこめた、唇まで白っぽく変っていた。
(見なければよかった――)
悔いながら、まだ眼にちらつく死人の顔を忘れようとして、小走りに寺の下まで駈けてきた。
慌ただしく、上から降りて来たのは、寺を陣屋みたいにして、先頃から泊りこんでいる大将だった。五、六名の部下と一緒に、報らせをうけて駈けつける所らしかった、お通の姿を見かけると、
「お通か。何処へ参ったな」
などと、暢気なことをたずねた。
お通は、この大将の泥鰌ひげが、いつぞやの晩のいやらしいことがあって以来、見るのも虫酸が走ってならなかった。
「買い物に」
それも投げ捨てるようにいって、見向きもせず、本堂前の高い石段を駈け上がって行った。
沢庵は、本堂の前で、犬と遊んでいた。
お通が、犬を避けて走って行くのを見て、
「お通さん、飛脚が届いているよ」
「え……わたしに」
「留守だったから、預かって置いた」
袂からそれを出して、彼女の手へ渡しながら、
「顔いろが悪いが、どうかしたのか」
「道ばたで、死人を見ましたら、急にいやな気持になって――」
「そんなもの見なければいいに。……だが、眼をふさぎ道をよけても、今の世の中では、到るところに、死人が転がっているのだから困るな。この村だけは、浄土だと思っていたが」
「武蔵さんは、なぜあんなに、人を殺すんでしょう」
「先を殺さなければ、自分が殺される。――殺される理もないのに、無駄に死ぬこともない」
「怖い! ……」
戦慄して、肩をすぼめ、
「ここへ来たら、どうしましょう」
山にはまた、うす黒い綿雲が降りていた。お通は無自覚に手紙を持って、庫裡の横にある機舎へかくれた。
織りかけてある男物の布地が、機にかけられてあった。
朝に夕に思慕の糸を紡ぎ溜めて、やがて許婚の又八が帰国したら――あの人に着てもらおう――そう楽しんで去年から少しずつ織っていたものだった。
筬の前へ、腰かけて、
「……誰からだろう?」
飛脚の文を見直した。
孤児の自分には、便りをくれる人もなし、便りを出す人もない。何か人まちがいのような気もされて、彼女は、何度も宛名書きを見直すのだった。
長い駅伝を通ってきたらしく、飛脚文は手ずれや雨じみでボロボロになっていた。封を解いてみると、二本の手紙が中からこぼれた、まず一通を先に開けて見る。
それはまったく見覚えのない女文字で、やや年長けた人の筆らしく――
べつの文、ご覧なされ候わば、多言には及ぶまじと思われ候えど、証のため、私よりも認めまいらせ候。
又八どの、此度、御縁の候て、当方の養子にもらいうけ候に就いては、おん前様のこと、懸念のようにみえ候まま、左候ては、ゆく末、双方の不為故、事理おあかし申し候て、おもらい申候。何とぞ、以後は又八どのの事、御わすれくだされたく先は斯ように迄、一筆しめし参らせ申そろ。かしこ。
又八どの、此度、御縁の候て、当方の養子にもらいうけ候に就いては、おん前様のこと、懸念のようにみえ候まま、左候ては、ゆく末、双方の不為故、事理おあかし申し候て、おもらい申候。何とぞ、以後は又八どのの事、御わすれくだされたく先は斯ように迄、一筆しめし参らせ申そろ。かしこ。
お甲
お通さまもう一つの書状は、正しく本位田又八の手蹟なのである。それにはくどくどと帰国できない事情が書き連ねてある。
つまるところ自分のことはあきらめて、他へ嫁いでくれというのだった。実家の母へは、自分からは手紙にも書きにくいから、他国で生きているということだけを、会った時に、告げておいてくれなどとも認めてある。
「…………」
お通は、頭のしんが、氷のようになるのを覚えた。涙も出ない。顫きながら紙の端を支えている指の爪が、先刻、使いの途中で見た死人の爪と、同じような色に見えた。
部下のすべては、野に臥し山に寝、日夜奔命に疲れていたが、どじょう髯の大将は、本陣の寺をむしろ安息所ともして、悠々と泊りこんでいるため、寺では夕方になると風呂をわかすとか、川魚を煮くとか、佳い酒を民家からさがして来るとか、毎晩のもてなしもなかなか気づかいであった。
その忙しない夕暮になっても、お通のすがたが厨に見えないので、きょうは、方丈の客へ膳を出すのが晩くなった。
沢庵は、迷子を捜すように、お通の名を呼びながら、境内を歩いていたが、機舎の中には、筬の音もしないし、戸も閉まっているので、何度もその前を通りながら、開けてみなかった。
住職は、時々、橋廊架へ出て来て――
「お通は、どうしたっ?」
とわめいている。
「おらんはずはないわ。酌人が見えいでは、酒には及ばぬと、お客様はおっしゃるではないか。はよう捜して来うっ」
寺男はとうとう麓のほうまで、提燈をもって降りて行った。
沢庵は、ふと、機舎の戸を開けてみた。
お通はいた。機の上へ、俯つ伏していたのである。暗いなかに、ただ独り寂寞を抱きしめて。
「? ……」
沢庵は、見まじきものを見たように、しばらく黙っていた。彼女の足もとには、怖ろしい力で捻じ縒った二通の手紙が、呪咀の人形のように踏みつけてあった。
そっと沢庵は、拾い取って、
「お通さん、これは昼間来た飛脚文じゃないか、しまっておいたらどうだ」
「…………」
お通は、手にも触れない。かすかに顔を振るだけであった。
「みんなが、捜しているのだ。さ……気がすすまないだろうが、方丈へお酌に行っておやり、住持が弱っているらしい」
「……頭が痛いんです。……沢庵さん……今夜だけは行かなくてもよいでしょう」
「わしは、いつだって、酒の酌などに、其女が出るのをよいことだとは思うていない。しかし、ここの住持は世間人だ、見識をもって、領主に対し、寺の尊厳を維持してゆく力などはない人だからな。――ご馳走もせねばならんじゃろうし、どじょう髯の機嫌もとらずばなるまいて」
と、お通の背を撫でて、
「其女も、幼少から、此寺の和尚には、育てられて来た人。こういう時には、住持の手伝いになってやれ。……よいか。ちょっと、顔を出せばよいのだ」
「え……」
「さ、行こう」
抱き起すと、涙の蒸れたにおいの中から、お通は、ようやく顔を上げて、
「沢庵さん……じゃあ参りますから、すみませんが、あなたも一緒に方丈にいてくれませんか」
「それやあ関わないが、あのどじょう髯の武士は、わしが嫌いらしいし、わしも、あの髯を見ると、何か、揶揄いたくなっていかんのじゃ。大人気ないが、そういう人間がままあるもんでな」
「でも、私、一人では」
「住持がいるからよいではないか」
「和尚様は、私がゆくと、いつも席を外しておしまいなさるのです」
「それは不安だ。……よしよし、一緒に行ってやろう。案じないではやく、お化粧をしておいで」
方丈の客は、やがてお通も見えたもので、曲がりかけていたお冠もやや直り、悦に入って、酒杯もかさね、あから顔のどじょう髯に対立して、眼じりもおもむろに下がって来た。
しかしまだほんとのご機嫌になりきれないものがある。それは燭台の向う側によけいな人間が一人いて、ぺたんと盲人のように猫背に坐り、膝を机に書物を読んでいるからである。
沢庵なのだ。どじょう髯の大将は、この寺の納所と思っているらしく、遂に、
「オイ、こら」
と、顎を指していった。しかし沢庵は顔を上げようともしないので、お通がそっと注意すると、
「え。わしを?」
見まわすのを――どじょう髯は、大ふうに、
「コラ納所。その方には用事もない。退がっておれ」
「イエ、結構でございます」
「酒のそばで、書物など読んでいられては、酒が不味くていかん。立てっ」
「書物はもう伏せました」
「眼ざわりじゃ!」
「では、お通さん、書物を部屋の外へ出しておくれ」
「書物がではない、その方という者が、酒の座に、不景色でいかんというのだ」
「困りましたな。悟空尊者のように、煙になったり、虫に化けて、膳のすみに止まっているわけにもゆかず……」
「退がらんかっ! ぶ、ぶ礼な奴だ」
遂に、怒り出すと、
「はい」
と、一応畏まって、沢庵はお通の手を取った。
「お客様は、独りが好きだと仰せられる。孤独を愛す、それ君子の心境だ。……さ、お邪魔しては悪い、あちらへ退がろう」
「こッ、こらっ」
「何ですか」
「だれが、お通まで、連れて退がれと申したか。自体、その方は平常から傲慢で憎い奴だ」
「坊主と武士、可愛らしい奴というようなのは、まあ尠のうございますなあ。――例えば、あなたの髯の如きも」
「直れっ! それへ」
床の間に立てかけてある陣刀へ手をのばした。そしてどじょう髯が、ピンと刎ね上がったのを、沢庵は、まじまじと見つめて、
「直れとは、どういう形になるのですか」
「いよいよ、怪しからぬ納所め。成敗いたしてくれる」
「では、拙僧の首をですか。……あはははは、およしなさい、つまらない」
「何じゃと」
「坊主の首を斬るほど張合いのないものはない、胴を離れた首が、ニコと笑っていたりしていたら、斬り損でしょう」
「オオ、胴を離れた首で、そう吐かしてみいッ」
「しかし――」
沢庵の饒舌は、彼を怒らすばかりだった。太刀の柄にかかっている拳は、憤りにガタガタふるえていた。お通は身をもって沢庵を庇いながら、沢庵の弄舌を泣き声出してたしなめた。
「何をいうのです沢庵さん、お武士様へ向って、そんな口をきく人がありますか。謝りなさい、後生ですから、謝っておしまいなさい。斬られたら、どうしますか」
だが、沢庵はまだいった。
「お通さんこそ退いておいで。――なアに大丈夫。多くの人数を抱えながら、二十日も費やして、いまだに独りの武蔵を成敗できない能なしに、何で沢庵の首が斬れよう。斬れたらおかしい。余程おかしい」
「ウヌ、うごくなっ」
どじょう髯は、満顔に朱をそそいで、太刀の鯉口を切った。
「お通、退いとれ、口から先に生れたこの納所めを、真二ツにしてくれねばならん」
お通は、沢庵を後ろに庇い、彼の足もとへ身を伏して、
「お腹立ちでもございましょうが、どうぞ堪忍してあげて下さい。この人は、誰に対ってもこんな口をきくのです。決してあなた様ばかりへ、こういう戯れ口をいうのではございません」
すると沢庵が、
「これ、お通さん何をいう。わしは戯れ口をいっているのではない。真実をいっているのだ。能なしだから能なし武士といった。それが悪いか」
「まだ申すな」
「いくらでも申す。先ごろから騒いでいる武蔵の山狩など、お武士には、幾日かかろうと関うまいが、農家はよい迷惑、畑仕事をすてて、毎日、賃銀なしのただ仕事に狩り出されては、小作など、顎が乾あがる」
「ヤイ納所、おのれ坊主の分際をもって、御政道を誹謗したな」
「御政道をではない――領主と民の間に介在して、禄盗みも同様な奉公ぶりをしている役人根性へわしはいうのだ。――例えばじゃ、おぬしは今宵、何の安んずるところがあって、この方丈に便々と長袖を着、湯あがりの一杯などと、美女に寝酒の酌をさせているか。どこに、誰に、その特権をゆるされてござるのか」
「…………」
「領主に仕えて忠、民に接して仁、それが吏の本分ではないか。しかるに、農事の邪げを無視し、部下の辛苦も思いやらず、われのみ、公務の出先、閑をぬすみ、酒肉を漁り、君威をかさに着て民力を枯らすなどとは悪吏の典型的なるものじゃ」
「…………」
「わしの首を斬って、おまえの主人、姫路の城主池田輝政殿の前へ持って行ってごらんじゃい、輝政大人は、オヤ沢庵、今日は首だけでお越しかと驚くじゃろう。輝政殿とわしとは、妙心寺の茶会からの懇意、大坂表でも、大徳寺でも、度々お目にかかっているんだよ」
――どじょう髯は、毒っ気を抜かれた形である、酔いもいささか醒め気味になって来たし、沢庵のことばの果たして真か嘘かについても、正しい判断が下し得ないでいる姿だった。
「まず、坐るがいい」
と沢庵は、救いを与えて、
「うそと思うなら、これから、蕎麦粉でも土産に持って、姫路城の輝政殿を、ぶらりと、訪ねて行ってもよろしい。――だがわしは、大名の門をたたくのが、何より嫌い。……それに、宮本村でこうこうとお前の噂でも茶ばなしに出たら、早速、切腹ものじゃないかな、だから、最初から、およしというたのに、武士は、後先の考えがないからいかん。武士の短所は、実にそこにある」
「…………」
「刀を、床の間へお返し。それから、もう一つ文句がある。孫子を読んだことがあるかい? 兵法の書だ、武士たる者、孫子呉子を知らん筈はあるまい。――それについてな、宮本村の武蔵を、どうしたら、兵を損ぜずに、縛め捕れるか、その講義をこれからわしがしようというのじゃ。これや、貴公の天職に関するな、慎んで聞かずばなるまいて。……まあ、お坐り、お通さん、一杯酌ぎ直してやんなさい」
年からいえば、十も違うのだ、三十だいの沢庵と、四十を出ているどじょう髯とは。――しかし、人間の差は、年にはよらないものである。質でありまた質の研きによる。平常の修養鍛錬がものをいうことになると、王者と貧者とでも、この違いはどうにもならない。
「いや、もう酒は……」
最初のえらい権幕は何処へやら、どじょう髯は、猫のように、態度をあらためて、
「――左様でござったか、それがしの主人勝入斎輝政様と、ご入懇であろうとは、いや、存じも寄らず、失礼のだんは幾重にもひとつ御用捨のほどを」
おかしいくらい恐縮する。
だが沢庵は、敢えて、高いところへ納まり返りはしなかった。
「まアまア、そんなことは、どうでもよろしいとしよう。要は、武蔵をいかにして召捕るか。つまるところ、尊公の使命も、武士たる面目も、そこにかかっておるのじゃないか」
「左様で……」
「其許は、武蔵の捕われが、遅れれば遅れるほど、安閑と、寺に泊って、据膳さげ膳で、お通さんを追い廻していられるから関うまいが……」
「いや、その儀はもう……何分とも、主人輝政へも」
「内分にでござろう、心得ておるよ。――しかし、山狩山狩と、掛け声ばかりで、こう延び延びになっていては、農家の困窮は固より、人心恟々、良民は安んじて業に励しむことはでけん」
「されば、それがしも、心の裡では、日夜焦慮いたしていないこともないので」
「――策がないだけじゃろ。つまり豎子、兵法を知らんのじゃ」
「面目ない次第で」
「まったく、面目ないことだ。無能、徒食の奸吏と、わしにいわれてもしかたがない。……だが、そう凹ましただけでは気の毒だから武蔵はわしが三日の間に捕まえてやるよ」
「えっ? ……」
「うそと思うのか」
「しかし……」
「しかし、なんだい」
「姫路から数十名の加勢まで迎え、百姓足軽を加えれば、総勢二百人からの者が、毎日ああやって山入りをしておるので」
「ご苦労様な」
「また、ちょうど今は、春なので山には幾らも食物があるため、武蔵めには都合がよく、吾々には、まずい時期でもある」
「じゃあ、雪の降るまで、待ってはどうだ」
「左様なわけにも」
「――参るまいナ。だからわしが縛め捕ってやろうというのだ。人数は要らん、一人でもよいが、そうさな、お通さんを加勢に頼もうか、二人で十分にことは足りる」
「また、お戯れを」
「馬鹿いわッしゃい。宗彭沢庵、いつでも冗談で日を暮らしていると思うか」
「はっ」
「豎子兵法を知らずといったのはそこだ。わしは坊主だが、孫呉の神髄が何だかぐらいは、噛じっておる。ただし、わしが引き受けるには条件がある、それを承知せねば、わしは、雪の降るまで、見物側に廻っている考えだが」
「条件とは」
「武蔵を縛め捕った上の処分は、この沢庵にまかすことだ」
「さあ、その儀は?」
と、どじょう髯は、そのどじょう髯をつまんで考えこんだが、この得態の知れない青坊主、或は、大言壮語だけで自分を煙に巻いている肚かも知れない。逆に出たらあわてて尻尾を出す奴だろう。そう考えたので彼は断乎として答えた。
「よろしい。貴僧が捕まえたら武蔵の処置は、貴僧に一任するといたそう。――その代り万一、三日のあいだに、縄にしてお出しなさらぬ時は?」
「庭の木で、こうする」
沢庵は、首を縊る手真似をして、舌を出して見せた。
「気でも狂うたのか、あの沢庵坊主、今朝聞けば、飛んでもないことを引き受けたちゅうぞ」
寺男は、心配のあまり、庫裡へ来てわめいていた。
聞く人々も、
「ほんまけ?」
眼をまろくして――
「どうする気じゃろ」
住持も、やがて知って、
「口は禍いの門とはこのことよ」
などと、賢そうに、嘆息した。
けれど誰より真実に心配し出したのはお通であった。信頼しきっていた許婚の又八から、ふいに受けた一片の去り状は、又八が戦場で死んだと聞くより大きな心の傷手であった。あの本位田家の婆様にせよ、やがて、良人とする人の母と思えばこそ、忍んで仕えている人である。誰を頼みに、このさき生きてゆこう。
沢庵は、その悲嘆の闇にある彼女にとって、ただ一つの光明であった。
機舎で、独りで泣いていたあの時は、去年から又八のためにと丹精して織りかけていた布を、ズタズタに切り裂いて、その刃で死んでしまおうかとまで、思いつめていたのである。それを考え直して方丈へ酌をしに行ったのも、沢庵に宥められ、沢庵に引かれた手に人間の温か味が思い出されたからであった。
――その沢庵さんが。
お通は自分の身よりも、今は沢庵を、つまらない約束のために失ってしまうことが悲しくもあり破滅な心地がした。
彼女の常識をもって考えても、この二十日余りあんなに山狩しているのに捕まらない武蔵が、沢庵と自分との二人きりで、三日のあいだに縄目にかけてしまえるなどとは、どうしても考えられなかった。
こっちの条件と、先のいい分とは、弓矢八幡も照覧と、かたく誓い合って、どじょう髯とわかれて沢庵が本堂へ戻って来ると、彼女は沢庵へ向って、その無謀を責めて熄まなかった。しかし沢庵はやさしくお通の肩をたたいて――何も心配することはない、村の迷惑を払い、因幡、但馬、播磨、備前の四州にわたる街道の不安をのぞき、その上、幾多の人命を救うことになれば、自分の一命のごときは鴻毛よりも軽い、まあ明日の夕方までは、お通さんも悠っくり体をやすめて、黙ってそれから先はわしに尾いておいで――という。
気が気ではない――
もう夕方は迫っているのだ。
沢庵はと見れば、本堂の隅で、猫といっしょに昼寝をしている。
住持をはじめ、寺男も、納所の者も、彼女の空虚な顔を見ると、
「およしよ、お通さん」
「かくれておしまい」
沢庵との同行を極力避けるようにすすめたが、さりとてお通は、そんな気にもなれなかった。
もう、西陽が、沈みかける。
中国山脈の皺の底のような英田川と宮本村は、夕方の濃い陽かげになりかけた。
猫が、本堂から飛び降りた。――沢庵が眼をさましたのである。廻廊へ出て、大きな伸びをしている。
「お通さん、そろそろ出かけるが支度をしてくれんか」
「草鞋と、杖と、脚絆と、それから薬だの桐油紙だの、山支度はすっかりしておきました」
「ほかに、持って行きたい物があるんじゃ」
「槍ですか。刀ですか」
「なんの。……ご馳走だよ」
「お弁当?」
「鍋、米、塩、味噌。……酒もすこしありたいな、何でもよい、厨にある食い物を一括げにして持って来ておくれ。杖に差して、二人で担いで行こう」
近い山は漆より黒い、遠い山は雲母より淡かった。晩春なので、風はぬるくて。――
熊笹や、藤づるや、道の辺りは、霧の巣だった。人里から遠ざかるほど、山は、宵に一雨かぶったように濡れていた。
「暢気だのう、お通さん」
竹杖に差した荷物の先を担いで歩きながら、沢庵がいう。
お通は、後を担って、
「ちっとも、暢気なものですか。一体、どこまで行くおつもり?」
「そうさな……」
と、沢庵の返辞は心ぼそい。
「ま、も少し歩こう」
「歩くのはかまわないけど」
「くたびれたか」
「いいえ」
肩が痛むとみえ、お通は、時々、右の肩から左の肩へ、杖をかえて、
「誰にも会いませんね」
「きょうは、どじょう髯の大将、一日寺にいなかったから、山狩の者を、残らず里へ引き揚げて、約束の三日を、見物している肚だろうよ」
「いったい、沢庵さんは、あんなことをいっちまって、どうして武蔵さんを捕まえますか」
「出て来るよ、そのうちに」
「出て来たって、あの人は、平常でもとても強い男です。それに、山狩の者に囲まれて、もう死にもの狂いでいるでしょう。悪鬼というのは、今の武蔵さんのことだと思います。考えても、わたしは脚がふるえてくる」
「ホラ……その脚もと」
「嫌ッ。――ああ、びっくりしたじゃありませんか」
「武蔵が出たんじゃないよ、道端に、藤づるを張ったり、茨の垣を結ったりしてあるから、気をつけてあげたのだ」
「山狩の者が、武蔵さんを追い詰めるつもりで拵えたんですね」
「気をつけないと、わしらが、墜し穽に落ちてしまうよ」
「そんなこと聞くと、竦んで、一足も歩けなくなってしまう」
「落ちれば、わしから先だ。しかしつまらん骨折りをやったものさ。……おおだいぶ渓が狭くなったな」
「讃甘の裏は、先刻、越えました。もうこの辺は辻ノ原あたり」
「夜どおし歩いてばかりいても為方があるまいな」
「私に相談しても、知りませんよ」
「ちょっと、荷物をおろそう」
「どうするんです」
沢庵は、崖の際まで歩いて行って、
「お尿ッこ」
といった。
英田川の上流をなしている奔湍は、その脚下、百尺の巌から巌へぶつかって、どうどうと、吠えくるッている。
「アア、愉快。……自分が天地か、天地が自分か」
颯々と、尿の霧を降らしながら、沢庵は星でも数えているように天を仰いでいる。
お通は、彼方で、心細げに、
「沢庵さん、まだですか。ずいぶん長い」
やっと、戻って来て、
「ついでに、易を占ててきた。さあ、見当がついたからもう占めたものだ」
「易を」
「易といっても、わしのは心易、いや霊易といおう。地相、水相、また、天象など考えあわせ、じっと、目をつむったら、あの山に行けと卦が出た」
「高照ですか」
「何山というか知らんが、中腹に、樹のない高原が見えるじゃろうが」
「いたどりの牧です」
「いたどり……去た者捕るとは、さい先がよいぞ」
沢庵は大きく笑った。
ここは東南に向って、なだらかな傾斜と、広い展望を持つ高照峰の中腹で、いたどりの牧と里では称ぶ。
牧というからには、いずれ牛か馬かが放牧してあるにちがいないが、ぬるい微風が草をなでているだけの寂寞とした夜のここには、今、それらしい影は一頭も見あたらない。
「さ、ここで陣を布くのだ。さしずめ、敵の武蔵は、魏の曹操、わしは諸葛孔明というところかな」
お通は、荷をおろして、
「――ここで何をするんです」
「坐っているのさ」
「坐っていて、武蔵さんが捕まりますか」
「網をかければ、空とぶ鳥さえかかる。造作もないことだ」
「沢庵さんは、狐にでも憑ままれているんじゃありませんか」
「火を焚こう、落ちるかも知れない」
枯れ木を集めて、沢庵は、焚火を作った。お通は、幾分か気づよくなって、
「火って、賑やかなものですね」
「心ぼそかったのか」
「それは……誰だって、こんな山の中で夜を明かすのは、いいものじゃないでしょう。……それに、雨が降って来たらどうする気です?」
「登ってくる途中、この下の道に横穴を見ておいた。降ったらあそこへ逃げ込もう」
「武蔵さんも、晩や、雨の日は、そんな所に隠れているんでしょうね。……一体、村の人は、何だって、あんなにまで武蔵さんを目のかたきにするのかしら」
「ただ権力がそうさせるのだな、純朴な民ほど官権を怖がるから、官権を怖るる余り、自分たちの土……兄弟を、郷土から追い出そうとする」
「つまり、自分達だけの身を庇うんでしょう」
「無力の民には、そこは恕すべきところもあるが」
「気が知れないのは、姫路のお武士たちです、たった一人の武蔵さんを、あんなにまで、大騒ぎしなくっても」
「いや、それも治安のためにはやむを得まい。そもそも武蔵が関ヶ原から絶えず敵に追われているような気持に駆られていたので、村へ帰るのに、国境の木戸を破って入って来たのがよろしくないことだ。山の木戸を守っていた藩士を打ち殺し、そのため次から次へと、人間を殺めなければ、自分の生命が保てなくなったのは、誰が招いた禍いでもない、武蔵自身の世間知らずから起ったことだ」
「あなたも、武蔵さんを憎みますか」
「憎むとも。わしが領主であっても、断乎として、彼を厳科に処し、四民の見せしめに、八ツ裂きにせずにはおかない。彼に、地を潜る術があれば、草の根を掻きわけても、引ッ捕えて磔刑にかける。多寡の知れた一人の武蔵をなどと、寛大にしておいたら、領下の紀綱がゆるむというものだ。まして、今のような乱世には」
「沢庵さんは、私にはやさしいけれど、案外、肚の中はきついんですね」
「きついとも、わしはその公明正大な厳罰と明賞を行おうとする者だ。その権力をあずかって、ここへ来ている」
「……オヤ!」
お通は、びくりとしたように焚火のそばから立った。
「何か、今、彼方の樹の中で、ガサッと跫音がしやしませんか?」
「ナニ、跫音が? ……」
と沢庵もつり込まれて耳を澄ましたが、にわかに大声で、
「あははは、猿だ。猿だ。……アレ見い、親子猿が、木の枝を渡ってゆく」
ほっとしたように、お通は、
「……あ。びっくりした」
呟いて、坐り直した。
焚火の焔を見つめて、それから半刻も一刻も――夜の更けゆくままに、二人は、黙り合っていた。
消えかけて来た焚火へ、沢庵は、枯れ木を折って加えながら、
「お通さん、何を考えているのかね」
「わたし? ……」
お通は、焔で腫れぼったくなった瞼を星の空へ外らして、
「――私は今、この世の中というものが、何という不思議なものだろうと、それを考えていました。じっと、こうしていると、無数の星が、寂寞とした深夜の中に――いいえいい違いました――深夜も万象を抱いたままです――大きくそろそろと動いているのがわかるではありませんか。どうしても、この世界というものは、動いているものです。それを感じます。同時に、私という小ッぽけな一つのものも、何か、こう……眼に見えないものに支配されて、こうしている間にも、運命が刻々に、変っているんじゃないか……などと止め途ないことを考えておりました」
「嘘だろう。……そんなことも頭にうかんだかも知れぬが、其女には、もっと必死に考えつめていることがあるはずだ」
「…………」
「悪かったら謝るがの、実はお通さん、そなたの所へきた飛脚文を、わしは読んでおる」
「あれを?」
「機舎の中で、折角、拾ってやったのに、手にも触れんで、泣いてばかりおるから、自分の袂に入れておいたのじゃ。……そして尾籠な話じゃが、雪隠の中で、退屈しのぎに、細々と読んでしもうた」
「まあ、ひどい」
「一切の理由が、そこで、分ったよ。……お通さん、あのことは、むしろ其女にとっては倖せじゃないか」
「どうしてです?」
「又八のようなむら気な男じゃもの、女房になってから、あんな去り状を投げつけられたらどうするぞ。まだお互いに、そうならないうちだから、わしは却って、欣びたい」
「女には、そのような考え方はできないのです」
「じゃあ、どう考えているのか」
「口惜しくッて! ……」
不意に、しゅくっと、自分の袖口へ噛みついて、
「……屹度、きっと、わたしは又八さんをさがし出して、思うさまのことをいってやらなければ、この胸がおさまりません。そして、お甲とかいう女にも」
沢庵は、そういって、無念そうに泣きじゃくるお通の横顔を見つめながら、
「始まったのう……」
と、何のことかつぶやいた。
「――お通さんだけは、世間の悪も人間の表裏も知らずに、娘となり、おかみさんとなり、やがては婆さんとなって、無憂華の潔い生涯を結ぶ人かと思ったら、やはり其女にも、そろそろ運命のあらい風が吹いて来たらしい」
「沢庵さん! ……。わ、わたし、どうしましょう! ……口惜しい……口惜しい」
背に波をうって、お通は、いつまでも、袂の中に顔を埋めていた。
昼間は、山の横穴へかくれて、眠りたいだけ二人は眠る。
食物も困りはしなかった。
だが――もっと肝腎な武蔵を捕まえることのほうは、どういう量見か、沢庵は捜しにも歩かないし、気にかけている風もない。
三日目の晩が来た。
またきのうのように、おとといのように、焚火のそばにお通は坐って、
「沢庵さん、もう今夜きりですよ約束の日は」
「そうだな」
「どうするつもりですか」
「なにを」
「何をって、あなたは、大変な約束をしてここへ登って来たのじゃありませんか」
「ウム」
「もし今夜のうちに武蔵さんを捕まえなければ」
沢庵は彼女の口を遮って、
「わかっている。まちがえばこの首を、千年杉の梢で縊るだけのことだ。……だが心配は無用、わしだって、まだ死にとうない」
「ではすこし、捜しに歩いたらどうですか」
「捜しに出たって、会うものか。――この山中で」
「まったく、あなたは、気が知れない人ですね。私までが、こうしていると、何だか、なるようになれと、度胸がすわってしまいます」
「そのことだ、度胸だよ」
「じゃあ沢庵さんは、度胸だけでこんなことをひきうけたんですか」
「まあ、そうだな」
「アア心ぼそい」
何かすこしは自信があるのであろうと、密かに頼りを持っていたお通も、今は、ほんとに心細くなって来たらしい。
――馬鹿かしら? この人は。
すこし気が狂れている人間は、時には、偉い者のように買いかぶられる場合があるから、沢庵さんも、その例かも知れない。
お通は疑いだした。
しかし、沢庵は、相変らず漠とした顔つきを焚火にいぶして、
「もう夜半だな」
今気がついたように呟く。
「そうですよ、すぐに、夜が白むでしょう」
わざと、お通が、切り口上でいってやると、
「はてな? ……」
「何を、考えているのです」
「もう、そろそろ、出て来なくちゃならんが」
「武蔵さんがですか」
「そうさ」
「たれが、自分から捕まえられに来るものですか」
「いや、そうでないぞ。人間の心なんて、実は弱いものだ。決して孤独が本然なものでない。まして周囲のあらゆる人間たちから邪視され、追いまわされ、そして冷たい世間と刃の中に囲まれている者が。……はてな? ……この温かい火の色を見て訪ねて来ないわけがないが」
「それは、沢庵さんの独り合点というものではありませんか」
「そうでない」
俄然、自信のある声で首を横に振った。お通はそう反対されたほうが欣しかった。
「――思うに、新免武蔵は、もうついそこらまで来ておるのじゃろう。しかしまだ、わしが、敵か味方か、わからないのだ。不愍や自らの疑心暗鬼に惑うて、言葉もよう懸け得ずに、物蔭に、卑屈な眼をかがやかせているものとみえる。……そうだ、お通さん、そなたが、帯に差している物――それを、わしにちょっと貸してくれい」
「この横笛ですか」
「ウム、その笛を」
「いやです、こればかりは、誰にも貸せません」
「なぜ?」
いつになく、沢庵は執こくいう。
「なぜでも」
お通は、首を振る。
「貸してもよかろう。笛は、吹けば吹くほど、良くこそなるが減りはしまい」
「でも……」
帯に手をあてて、お通は依然、はいといわない。
もっとも、彼女が肌身離さず持っているその笛が、如何に彼女にとって大事な品であるかは、かつてお通自身が、身の上話をした折に聞いてもいるので、沢庵は十分にその気もちを察しはするが、ここで自分へ貸すぐらいな寛度はありそうなものと、
「粗相には扱わないから、とにかく、ちょっとお見せ」
「嫌」
「どうしても」
「え。……どうしても」
「強情だのう」
「え。強情です」
「じゃあ……」
と、ついに、沢庵は折れて、
「お通さんが、自分で吹いてくれてもよい。何か、一曲」
「嫌です」
「それもいやか」
「ええ」
「どういう理で」
「涙がこぼれて吹けませんもの」
「ウム……」
孤児は、頑固なものと、沢庵は憐れにもなったが、その頑固な心の井戸はつねに冷たい空虚をいだき、そして何かに渇いている。また、孤児が持たないものを、常に深く強く望んでいることがふと思われた。
それは、孤児に恵まれていない愛の泉であった。お通の胸にも、お通の知らない幻覚だけの親たちがいて、こうしている間も絶えず、呼びかけたり呼びかけられたりしているらしいが、彼女は、その骨肉の愛も知らない。
笛も、実はその親の遺物なのである。たッた一つの親の姿が笛だった。――彼女がまだ、世の光もよく見えないでいた嬰児の頃、七宝寺の縁がわへ、猫の子みたいに捨て児されてあったとき、帯に、この一管の笛が差してあったのだという。
してみると、その笛は、彼女に取っては、寔に、将来、自分の血液のつながりを捜し求める唯一の手がかりでもあるし、また、こうしてまだ相見ぬうちは、笛こそ親の姿であり、笛こそ親の声でもある。
――吹くと涙がこぼれるから。
お通が、貸すのも嫌、吹くのも嫌といった気持は、よくわかるし、可憐しい。
「…………」
沢庵は、黙ってしまった。
めずらしく三日目の今夜は、薄雲の裡に、ぼやっと、真珠色の月が溶けている。秋に来て春に帰る雁が、こよいも日本を去ってゆくとみえ、雲間に時々啼き声を捨てている。
「……また、火が乏しくなったな。お通さん、そこの枯れ木をくべておくれ。……おや。……どうしたのじゃ」
「…………」
「泣いているのか」
「…………」
「つまらぬことを思い出させて、心ないわざをしたの」
「……いいえ。沢庵さん……わたしこそ、強情を張って悪うございました。どうぞ、おつかい下さいまし」
帯の間の笛を抜いて、沢庵の手へ差出した。
それは、色褪せた古金襴の袋に入っている。糸はつづれ、紐も千断れているが、古雅なにおいと共に、中の笛までが、ゆかしく偲ばれる。
「ほ。……よいのか」
「かまいません」
「じゃあ、ついでのことに、お通さんが吹いてはどうじゃな。わしは、聴いていてもよいのだ。……こうして聴いているから」
笛には手を触れないで、沢庵は横向きになった。そして自分の膝を抱えこむ。
常ならば、笛など聞かしてあげようといえば、吹かない先から、茶化すに極まっている沢庵が、聴き耳澄まして、じっと眼をつむっているのでお通は、却って、羞恥んでしまって――
「沢庵さんは、笛がお上手なんでしょう」
「下手でもないそうだね」
「じゃあ、あなたから先に吹いてみせて下さい」
「そう、謙遜するほどではないよ。お通さんだって、相当に習ったという話ではないか」
「え。清原流の先生が、お寺に四年も懸人になっていたことがありましたから」
「では大したものだ、獅々とか、吉簡とかいう秘曲もふけるのじゃろ」
「とんでもない――」
「まあ、何でも好きなもの……いや自分の胸に鬱しているものを、その七つの孔から、吹き散じてしまうつもりで吹いてごらん」
「ええ。私もそんな気がするんです、胸のうちの悲しみや恨みやため息や、そんなもの思うさま吹き散らしてしもうたら、さぞ爽々するでしょうと思って」
「それよ、気を散じるということは大切だ。笛の一尺四寸は、そのままが一個の人間であり、宇宙の万象だという。……干、五、上、ク、六、下、口の七ツの孔は、人間の五情の言葉と両性の呼吸ともいえよう。懐竹抄を読んだことがあるだろう」
「覚えておりませんが」
「あの初めに――笛は五声八音の器、四徳二調の和なりとある」
「笛の先生みたいですね」
「わしは、極道坊主のお手本のようなものじゃ。どれ、ついでに、笛を鑑てあげよう」
「鑑てください」
手に取るとすぐ沢庵はいった。
「ウーム、これは名器だ。この笛を捨子に添えてあったといえば、そなたの父も母者人も、およそ人がらがわかる気がする」
「笛の先生も賞めていましたが、そんなにこれはよい品ですか」
「笛にも、姿がある、心格がある。手に触れて、すぐ感じるのだ。むかしは、鳥羽院の蝉折とか、小松殿の高野丸とか、清原助種が名をたかくした蛇逃がしの笛とか、ずいぶんの名器もあったらしいが、近ごろの殺伐な世間で、こんな笛を見たことは、沢庵も初めてと申してもさしつかえない、吹かぬうちから身ぶるいが出る」
「そんなことを仰っしゃると、下手な私にはよけいに吹けなくなってしまう」
「銘があるの。……はて、星明りでは、読めないわえ」
「小さく、吟龍と書いてあります」
「吟龍。……なるほど」
と、笛鞘や袋とともに、彼女の手へかえして、
「さ。……所望」
と、厳粛にいった。沢庵の真剣な容子にお通もひきこまれて――
「では、拙い技でございますが……」
草のうえに坐り直し、作法を正して、笛へ礼儀をする。
もう沢庵は口もきかない、深夜の寂とした天地があるだけで、そこに沢庵という改まった人間はないもののようである、彼の黒いすがたは、この山の一個の岩のようにしか見えていなかった。
「…………」
お通は、唇へ、笛をあてた。
白い面をやや横向きにし、お通はおもむろに笛を構えた。歌口に湿りを与えて、まず心の調べから整えているすがたは、いつものお通とも見えなかった。芸の力といおうか威厳があった。
「では……」
と、沢庵へ改まり、
「不束なすさびですが」
「…………」
沢庵は、黙然とうなずく。
呂々と、笛は鳴りはじめた――
彼女の細くて白い指のふしが、一つ一つ、生きている小人のように、七ツの孔を踏んで踊る。
低い――水のせせらぎにも似た音に、沢庵は自分自身が、行く水となって、谷間にせかれ、瀬に游んでいるような思いに引き込まれた。甲の音のあがる時は、魂を宙天へ攫われて、雲と戯れる心地がするし――と思えば、また地の声と天の響きとが和して、颯々と世の無常をかなしむ松風の奏でと変ってゆく。
じっと眼をとじて、聞き惚れているうちに、沢庵は、昔三位博雅卿が、朱雀門の月の夜に、笛をふいて歩いていたところ、楼門の上で同じように笛を合調す者があったので、話しかけて笛を取りかえ、夜もすがら二人して興に乗じて吹き明かしたが後で聞けばそれは鬼の化身であったという、名笛の伝説を思い出さずにいられなかった。
鬼ですら音楽にはうごかされるという。まして、この佳人の横笛に、五情にもろい人間の子が、感動しないでおられようか。
沢庵は信じた。また、泣きたくなった。
涙こそこぼさないが、彼の顔は膝の間へだんだんに埋まっていた。その膝を、われともなく固く抱きしめていた。
焚火の火は、トロトロと、二人のあいだに燃え衰えて来たが、お通の頬は反対に紅くなった。自分のふく音に三昧となって、彼女が笛か、笛が彼女かわからない。
母は何処? 父は何処? とその音は宙を翔けて、生みの親を呼んでいるかのようであった。また――自分を捨てて他国にいる無情な男に、かくも、裏切られた処女ごころは痛み傷ついていることを、纏綿と恨んでいるようである。
なお、なおさらのこと。
この先――この傷手を持った十七の処女は――親も身寄りもない孤児は――どうして生き、どうして人なみな女の生きがいを、夢みて行かれるだろうか。
その遣るせなさを嫋々と愬えている。芸に陶酔してか? ――或は、そうした感情のようやく乱れかけて来たものか、お通の呼吸がやや疲れをあらわし、髪の生えぎわに、薄い汗がにじみ見えて来たかと思う頃、彼女の頬にぼろぼろと涙のすじが白く描かれていた。
長い曲はまだ終らない。喨々と、淙々と、咽ぶ限りを咽んで、止まるところを知らないもののようである。
すると……
ふと暗くなりかけた焚火明りから二、三間ほど先の草むらで、何か、ごそりと、獣でも這ったような物音がした。
沢庵は、ふと首を擡げて、その黒い物体を、じっと見つめていたが、静かに手をあげて、
「――そこのお人、霧の中では冷たかろうに、遠慮なく、火のそばへ寄って、お聴きなされ」
と、話しかけた。
お通は、怪しんで、笛の手をやめ、
「沢庵さん、何を、独り言をいっているのですか」
「――知らぬのか、お通さん、先刻から、ソレそこに、武蔵が来て、そなたの笛を聴いているじゃないか」
と、指さした。
何気なく、ひょいと振り向いたお通は、途端に、我れにかえって、
「きゃッ――」
と、そこの人影へ向って、手の横笛を投げつけた。
きゃッと叫んだお通よりも、却って驚いたらしいのは、そこにうずくまっていた人間であった。草むらから鹿のように起って、ぱっと彼方へ駈け出そうとする。
沢庵は、予期しなかったお通のさけびに、折角静かに網へ掬いかけていた魚を汀から逃がしたように、これも、あっと慌てて、
「――武蔵?」
と、満身の力で呼んだ。
「待たッしゃれ!」
つづいて投げた言葉にも、圧するような力があった。声圧というか、声縛というか、そのまま振りほどいて行かれない力がある。武蔵は、足に釘を打たれたように振り向いた。
「? ……」
らんらんと光る眼が、じっと、沢庵の影とお通のほうを見ていた。猜疑にみち、殺気にみち、殺気に燃えている眼である。
「…………」
沢庵はそれっきり黙っていた、胸の両の腕を静かに拱む、そして、武蔵が睨んでいる限り彼も相手を見つめているのだ、――息の数まで同じように合せて呼吸しているように。
そのうちに、沢庵の眼のまわりに、何ともいえない親しみぶかい皺が和やかに寄ると、拱んでいた腕を解いて、
「お出でよ」
と、彼から手招きした。
すると武蔵は、途端に眼ばたきをして、異様な表情をその真っ黒な顔にあらわした。
「ここへ来ぬか。――来て、一緒に遊ばぬか」
「? ……」
「酒もあるぞ、食べ物もあるぞ、わしらはおぬしの敵でも仇でもない。火をかこんで、話そうじゃないか」
「…………」
「武蔵。……おぬしはきつい勘違いをしておりはせぬか。火もあり、酒もあり、食べ物もあり、また温かい情けも酌めばある世の中だよ。おぬしは、好んで自身を地獄へ駈り立て、この世を歪んで視ておるのじゃろ。……理窟はよそう。おぬしの身となれば、理窟など耳には入るまい。さあ、この焚火のそばへ来てあたれ。……お通さん、先刻煮た芋の中へ、冷飯をいれて、芋雑炊でもつくろうじゃないか。わしも腹がへったよ」
お通は、鍋をかけ、沢庵は酒の壺を火であたためる。二人のそういう平和な様子を見さだめて、武蔵ははじめて安心を得たらしく、一歩一歩、近づいて来たが、今度は何か肩身のせまいような羞恥みに囚われて佇立んでいるのであった。沢庵は、一つの石ころを火のそばへ転がして来て、
「さあ、おかけ」
と、肩をたたいた。
武蔵は、素直に腰かけた。だがお通は彼の顔を仰ぐことが出来なかった。鎖のない猛獣の前にいるような気持だった。
「ウム、煮えたらしい」
鍋のふたを取って、沢庵は、箸の先へ芋を刺した。むしゃむしゃ自分の口へ入れて、試みながら、
「ホ。やわらかに煮えたわい。どうじゃ、おぬしも食べるか」
「…………」
武蔵はうなずいて、初めて、ニッと白い歯を見せた。
お通が茶碗へ盛って渡すと、武蔵は、ふうふうと、熱い雑炊をふいて喰べる。
箸を持っている手がふるえている、茶碗のふちへ歯がガツガツと鳴る。いかに、飢えていたことか、浅ましいなどは常日頃のことばである。怖ろしいほど真剣な本能の戦慄であった。
「美味いのう」
沢庵は、先へ箸を措いて、
「酒はどうじゃ」
と、すすめる。
「酒は飲みません」
武蔵は答えた。
「きらいか」
というと、武蔵は首を振った。幾十日の山ごもりに、彼の胃は強い刺戟に耐えないらしかった。
「お蔭様で、暖かになりました」
「もうよいのか」
「十分に――」
武蔵は、お通の手へ茶碗を返して――
「お通さん……」
と、改めて呼んだ。
お通は、うつ向いたまま、
「はい」
聞きとれないような声でいう。
「ここへ、何しに来たのか。ゆうべも、この辺に、火が見えたが」
武蔵の質問に、お通はどきっとした。どう答えようかと顫いていると沢庵が傍らから無造作に、
「実はの、おぬしを召捕りに登って来たのじゃ」
と、いって退けた。
武蔵は、かくべつ驚きもしなかった。黙然と首を垂れて――むしろ不審そうに二人の顔を見くらべるのだった。
沢庵は、ここぞと膝を向けて、
「どうじゃな武蔵、同じ捕まるものならばわしの法縄に縛られぬか、国主の掟も法だし、仏の誡めも法だが、同じ法は法でも、わしの縛る法の縄目のほうがまだまだ人間らしい扱いをするぞよ」
「嫌だ、おれは」
奮然と首を振る武蔵の血相を、宥めて、
「まあ聞くがよい。舎利になっても反抗してやろうという、おぬしの気持はわかる。だが、勝てるか」
「勝てるかとは」
「憎いと思う人間どもに――領主の法規に――また自分自身に、勝ちきれるか」
「敗けだ! おれは……」
うめくようにいって、武蔵は、悲惨な顔を泣きたそうに顰めた。
「最後になったら、斬り死にするばかりだ。本位田の婆や、姫路の武士どもや、憎い奴らを、斬ッて斬ッて、斬り捲くッて」
「姉は、どうする」
「え?」
「日名倉の山牢にとらわれているおぬしの姉――お吟どのはどうする気かな?」
「…………」
「あの気だてのよい、弟思いなお吟どのを……。いや、そればかりか、播磨の名族赤松家の支流平田将監以来の新免無二斎の家名をおのれは、どうする気か」
武蔵は、爪の伸びた黒い手で、顔をおおって、
「……しっ、知らんっ。……もう、そ、そんなこと、どうなるものか」
痩せ尖った肩を大きくふるわせ、そして潸然と泣いて叫んだ。
すると、沢庵は拳骨をかためて、不意に武蔵の顔を横から力まかせに撲り、
「この、馬鹿者っ!」
と、大喝した。
あっと、気をのまれた武蔵が、よろめくところを、沢庵は乗しかかって、さらに、その顔へもう一つ鉄拳を下しながら、
「不所存者めッ、不孝者め。おのれの父、母、また先祖たちに代って、この沢庵が折檻してやる。もう一つこの拳を食らえ! 痛いか、痛くないか」
「ウーム痛い……」
「痛ければまだすこし人間の脈があるのじゃろう。――お通さん、そこの縄をおよこし。――何を憚っているか? 武蔵はもうわしに縛られると観念しているのだ。それは、権力の縄ではない。わしの縛るのは、慈悲の縄だ。――何を怖れたり不愍がッたりすることがあろうぞ! 早くよこしなさい」
組み敷かれた武蔵は、眼をつむっていた。刎ね返せば、沢庵の体ぐらい、鞠になって跳ぶであろうに、その脚も手も、ぐったり草の上に伸ばしたまま――そして、眼じりからとめどもなく涙をながして。
朝である、七宝寺の山で、ごんごんと鐘が鳴りぬいた、何日もの刻の鐘ではない、約束の三日目だ。吉報か、凶報かと村の人々は、
「それっ」
とわれ勝ちに、駈けのぼって行った。
「捕まった! 武蔵が、捕まッて来た」
「おウ、ほんまに」
「誰が、手捕にしたのじゃ」
「沢庵様がよ!」
本堂の前は、押し合うばかりな人で囲まれていた。そしてそこの階段の手欄に、猛獣のように縛りつけられている武蔵のすがたをながめ合って、
「ほウ」
と、大江山の鬼でも見たように生唾をのんだ。
沢庵は、にやにや笑いながら、階段に腰かけていた。
「村の衆、これでお前らも安心して耕作ができるじゃろうが」
人々はたちまち沢庵を村の護り神か、英雄かのように見直した。
土下座をするものがあった。彼の手を押しいただいて、足元から拝む者もあった。
「ごめん、ごめん」
沢庵は、それらの人々の盲拝に、閉口しきった手を振って、
「村の衆、よう聞け、武蔵が捕まったのは、わしが偉いためじゃない。自然の理だよ。世の掟にそむいて勝てる人間はひとりもありはしない、偉いのは、掟じゃよ」
「ご謙遜なさる、なお偉いわ」
「そんなに押し売りするなら、かりにわしが偉いにしておいてもよいが。――時に、皆の衆に、相談があるがの」
「ほ、なんぞ?」
「ほかではないが、この武蔵の処分だ。わしが三日のうちに捕えて来なかったら、わしが首を縊り、もし捕えて来たら武蔵の身はわしの処分にまかせると、池田侯の御家来と約束した」
「それは聞いておりましただ」
「だが、さて……どうしたものじゃろうな。本人はこの通り、ここへ召捕って来たが、殺したものか、それとも、生かして放してやったものか?」
「滅相な――」
人々は、一致して叫んだ。
「殺してしまうに限る。こんな恐ろしい人間、生かしておいたとて、何になろうぞ、村の祟りになるだけじゃ」
「ふム……」
沢庵が何かを考えているのをもどかしがって、
「ぶち殺せっ」
と、うしろの人達はわめいた。
すると、その図に乗って、ひとりの老婆が、前へ出て、武蔵の顔をにらみつけながら側へ寄って行った、本位田家のお杉隠居であった、手に持っていた桑の枝を振りあげて、
「ただ殺したぐらいで腹が癒えようか。――この憎ていな頬ゲタめ!」
と、二ツ三ツ打ちすえて、
「沢庵どの」
と、今度は彼のほうへ喰ってかかるような眼を向けた。
「なんじゃ、おばば」
「わしの伜、又八はこやつのために生涯を過り、本位田家は大事な跡とりを失うたのじゃ」
「ふム又八か、あの伜は、あまり出来がようないから、かえって、養子をもろうたほうが、おぬしのためじゃないかの」
「何をいわっしゃる。よかれ悪しかれ、わしの子でござる。武蔵は、この身にとって子の仇、こやつの身の処置は、この婆に、まかせて下されい」
すると――婆のそういう言葉を、誰かうしろの方で遮った者がある。ならん! という横柄な声だった。人々は、その人物の袂にさわることを怖れるようにさっと開いた、例の山狩の大将、どじょう髯の武士の顔がそこに見えた。
おそろしく不機嫌なていでいる。
「こらッ。見世物ではないぞ、百姓や町人どもは、立ち去りおろう」
どじょう髯は、呶鳴った。
沢庵も、横からいった。
「いや、村の衆、去るには及ばんよ、武蔵の処分をどうするか、相談のため、わしが呼んだのだ、いておくれ」
「だまれっ」
どじょう髯は、肩をそびやかし、そういう沢庵をはじめ、お杉隠居と群集を睨めまわして、
「武蔵めは、国法を犯した大罪人、しかも、関ヶ原の残党、断じてその方どもの手で処置することは相成らん。成敗は、お上においてなされる」
「いけないよ」
沢庵は、顔を振って、
「約束がちがう!」
断乎とした色を示した。
どじょう髯は、自分の一身にかかわるところと、躍起になって、
「沢庵どの、貴公には、お上より約束の金子をとらせるであろう。武蔵の身は此方へ申しうける」
聞くと、沢庵はおかしげに、からからと哄笑した。答えもせず、笑ってばかりいた。
どじょう髯は、真っ蒼になって、
「ぶッ、ぶ礼な。何がおかしい」
「どちらが無礼か。これ、お髯どの。おぬしはこの沢庵との約束を反古にする気か。よろしい、反古にしてみい、その代り、沢庵の捕えたこの武蔵は、今すぐ、縄目を解いて、押っ放すぞ」
村の人々は、驚いて、逃げ腰を退いた。
「よいか!」
「…………」
「縄を解いておぬしへケシかけよう。おぬしはここで武蔵と一騎打ちして、勝手に召捕るがいい」
「あっ、待て待て」
「なんじゃ」
「折角、召捕ったもの、縄目を解いて、また騒動を起すにもおよぶまい。……では、武蔵を斬ることはまかせるが、首は、此方へ渡すであろうな」
「首を? ……冗戯ではない、葬式は坊主のつとめ。おぬしに、死骸をまかせては、寺の商売が立ちゆかぬ」
子供あしらいである。沢庵は、揶揄して、また村の人々へ向き直っていた。
「一同へ、ご意見を求めても、遽かに評議は決まりそうもない。殺すにしても、ばっさり斬ってしまッては、腹が癒えんという婆もいるからの。――そうだ、四、五日のあいだ、武蔵の身は、あの千年杉の梢に上げて、手足を幹に縛りつけ、雨ざらし風ざらし、鴉に眼だまをほじらせてくれたらどうじゃろ?」
「…………」
すこし酷すぎると思ったのであろう、誰も返辞をしなかった。すると、お杉隠居が、
「沢庵どの、よい智慧じゃ、四日五日はおろか、十日でも二十日でも、千年杉の梢へ曝しにかけ、最後にはこの婆がとどめを刺してくれまする」
と、いった。
無造作に、
「じゃあ、そう決めよう」
沢庵は、武蔵の縄じりをつかんだ。
武蔵は、黙然と、うつ向いたまま千年杉の下へ歩むのだった。
村の者たちは、ふと、不愍を感じたが、先頃からの憤怒はまだ消え切れなかった。たちまち、麻縄を足して、彼の体を、二丈も空の梢へ引き揚げ、藁人形のように縛りつけて降りて来た。
山から降りて来た日、寺へもどって、自分の部屋へ入ると、お通はその日から急に、独りぽっちの身が淋しくてならなくなった。
(なぜかしら?)
独りぽっちは、今始まったことではないし、寺には、ともかく、人もおり火の気もあり明りも燈っているが、山にいた三日間というものは、寂寞たる闇の中に、沢庵さんとたった二人であった。――だのに何故、寺へ帰って来てからの方が、こんなに淋しい気がするのか?
自分の気もちを、自分に訊いてみようとするものらしく、この十七の処女は、窓の小机に頬づえをついたまま、半日をじっとそうしていた。
(わかった)
うっすらと、お通は、自分の心を観た気がした。淋しいという心は飢えと同じだ。皮膚の外のものではない、そこに、満ち足りないものを感じる時、さびしさが身に迫る。
寺には、人の出入りがあるし、火の気も明りもあって賑やかそうだが、そういう形の現象でこの淋しさは癒せるものでない。
山には、無言の樹と霧と闇しかないが、そこにいた一人の沢庵という人は、決して、皮膚の外の人ではなかった。あの人の言葉には、血をくぐって心に触れ、火よりも明りよりも心を賑やかにしてくれるものがある。
(その沢庵さんがいないから!)
お通は、起ちかけた。
しかしその沢庵は、武蔵の処置をしてから姫路藩の家来たちと何か客間で膝詰めの相談事をしていた。里へ降りてはとても忙しくて、自分と山の中でのような話などしていられそうもない。
そう気づくと、彼女はまた、坐り直した。ひしひしと、知己が欲しいと思う。数は求めない、ただ一人でよい、自分を知ってくれるもの、自分の力になってくれるもの、信じられるもの――それが欲しい! もう気が狂うほど、そういう人がこの身に欲しい!
笛。――ふた親のかたみの笛。――ああそれはここにあるが、処女の十七ともなれば、もう、冷たい一管の竹では防ぎ得ないものが育っている。もっと切実な、現実的な対象でなければ満ち足りない。
「くやしい……」
それにつけても彼女は、本位田又八の冷たい心を恨まずにはいられなかった。塗机は涙でよごれ、独りで怒る血は、こめかみの筋を青くして、ずきずきと、その辺がまた痛んでくる。
うしろの襖が、そっと開いた。
いつの間にか大寺の庫裡には暮色が湧いていた。開けた襖ごしに、厨の火が赤く見える。
「やれやれ、ここに居やったかいの。……一日暇をつぶしてしもうた」
呟きながら入って来たのは、お杉ばばであった。
「これは、おばば様」
あわてて敷物を出すと、お杉は、会釈もなく木魚のように坐って、
「嫁御」
と、いかめしい。
「はい」
竦むように、お通は手をつかえた。
「そなたの覚悟をたしかめた上、ちと話があるのじゃ。今まで、あの沢庵坊主や、姫路の御家来たちと話していたが、ここの納所、茶も出さぬ。喉が渇きました。まず先に、ばばに茶を一ぱい汲んでおくりゃれ」
「ほかではないがの……」
お通の出す渋茶を取ると、ばばは改まって、すぐいい出した。
「武蔵めのいうたことゆえ、うかとは信じられぬが、又八は、他国で生きているそうじゃよ」
「左様でございますか」
お通は冷ややかだった。
「いや、たとい、死んでおればとてじゃ、そなたという者は、又八の嫁として、この寺の和尚どのを親元に、確と、本位田家にもらいうけた嫁御、この後どんな事情になろうと、それに、二心はあるまいの」
「ええ……」
「あるまいの」
「は……い……」
「それでまず、一つは安心しました。ついては、とかく、世間がうるさいし、わしも、又八がまだ当分もどらぬとすれば、身のまわりも不自由、分家の嫁ばかり、そうそうこき使うてもおられぬゆえ、この折に、そなたは寺を出て、本位田家のほうへ身を移してもらいたいが」
「あの……私が……」
「ほかに誰が、本位田家へ嫁として来るものがあろうぞいの」
「でも……」
「わしと暮すのは嫌とでもおいいか」
「そ……そんな理ではございませぬが」
「荷物を纏めて置きやい」
「あの……又八さんが、帰ってからでは」
「なりません」
と、お杉は極めつけて、
「せがれが戻るまでの間に、そなたの身に虫がついてはならぬ。嫁の素行を見まもるのは、わしの役目、この婆の側にいて、伜がもどるまでに、畑仕事、飼蚕のしよう、お針、行儀作法、何かと教えましょう。よいか」
「は……はい……」
仕方なくいう自分の声が、情けなくて泣くように自分には聞えた。
「次に」
と、お杉は命じるように、
「武蔵のことじゃが、あの沢庵坊主の肚は、ばばには、どうも解せぬ。そなたは、幸いに此寺にいる身でもあることゆえ、武蔵めの生命が終るまで、怠らずに、ここで見張っていやい――真夜半など、気をつけておらぬと、あの沢庵が、何を気ままにしてのけぬものでもない」
「では……私が此寺を出るのは、今すぐでなくともよいのでございますか」
「いちどに、両方はできますまい。そなたが、荷物と一緒に本位田家へ移って来る日は、武蔵の首が胴を離れた日じゃよ。わかりましたか」
「畏まりました」
「きっと吩咐けましたぞよ」
念を押して、お杉は去った。
すると――その機会を待っていたように、窓の外に人影が映し、
「お通、お通」
と小声で誰か招く。
ふと、顔を出してみると、どじょう髯の大将がそこに佇立んでいる。いきなり窓ごしに彼女の手を強く握って、
「そちにも、いろいろ世話になったが、藩からお召状が来て、急に姫路へもどらねばならぬことになった」
「ま、それは……」
手をすくめたが、どじょう髯はなお固く握って、
「御用は、今度の事件が聞えて、それについてのお取糺しらしい。武蔵の首級さえ取れば、わしの面目は立派に立ち、言い開きもつくのじゃが、沢庵坊主め、何といっても意地を曲げて渡しおらぬ。……だが、そなただけは、こっちの味方じゃろうな。……この手紙、後でよい、人のおらぬ所で、読んでくれい」
何か、手へ掴ませると、どじょう髯の影は、あたふたと、麓のほうへ急ぎ足にかくれた。
手紙だけではない、何か、重い物がそれにはつつんである。
どじょう髯の野心は彼女にもよく分っていた。不気味であったが、怖々、開けてみると、眩ゆい山吹色の慶長大判が一枚。
そして、手紙には、
言葉のうえにても申し候通り、この数日以内に、武蔵が首級を打って密かに、姫路の城下まで、急ぎお越し候らえ。
さなくとも此方の意中は、すでにお許も御ぞん知に候うべし、身不肖なれど、池田侯の家中にて、青木丹左衛門と申せば千石取りの武士にて、知らぬは無之候。お許を、宿の妻にせんと真実もって存ずるなり、千石どりの奥方ともなれば、栄華も意のままに候ぞかし。八幡、偽りはあらじ、この文を、誓紙がわりに持ち候らえ。又、武蔵が首級、良人のためぞと、それも必ずお携え給わるべく候。
先は、急ぎのまま、あらまし。
さなくとも此方の意中は、すでにお許も御ぞん知に候うべし、身不肖なれど、池田侯の家中にて、青木丹左衛門と申せば千石取りの武士にて、知らぬは無之候。お許を、宿の妻にせんと真実もって存ずるなり、千石どりの奥方ともなれば、栄華も意のままに候ぞかし。八幡、偽りはあらじ、この文を、誓紙がわりに持ち候らえ。又、武蔵が首級、良人のためぞと、それも必ずお携え給わるべく候。
先は、急ぎのまま、あらまし。
丹左
「お通さん、御飯を食べたかね」外で沢庵の声がしたので、お通は、草履をはいて出て行きながら、
「こん夜は食べたくないんです。すこし頭が痛くて――」
「何じゃ! 持っておるのは」
「てがみ」
「誰の」
「見ますか」
「さしつかえないならば」
「ちッとも」
お通が渡すと、沢庵は一読して、大きく笑った。
「苦しまぎれに、お通さんを色と慾とで買収と出おったな。あのお髯どのの名が青木丹左衛門とはこの手紙で初めて知った。世の中には、奇特なさむらいもある。いや、おめでたいことだ」
「それはいいですけど、お金がつつんであったのです。どうしましょう、これを?」
「ホ、大金だのう」
「困ってしまう……」
「何の、金の始末なら」
沢庵は取って、本堂の前へ歩いて行った。そして、賽銭箱の中へ抛り込もうとしかけたが、その金を額に当てて拝んだ後、
「いや、そなたが持っておるさ。邪魔にもなるまい」
「でも、後で何か、いいがかりをつけられると嫌ですから」
「もうこの金は、お髯どのの金ではない、如来様へ賽銭にさしあげて、如来様から改めていただいたお金じゃよ。お守りのかわりに持っておいで」
お通の帯のあいだへそれを差し入れて、
「……あ。風だな、今夜は」
と、空を仰ぐ。
「しばらく降りませんでしたから……」
「春も終りだから、散った花屑やら人間の惰気を、ひと雨ドッと、洗いながすもよかろう」
「そんな大雨が来たら、武蔵さんは一体どうなるでしょう」
「うム、あの人か……」
二つの顔が一しょに、千年杉のほうを振り向いた時である。風の中の喬木の上から、
「沢庵っ、沢庵っ!」
人間の声がした。
「や? 武蔵か」
眸をこらしていると、
「くそ坊主っ、似非坊主の沢庵。一言いうことがある。この下へ参れっ――」
梢を烈しく吹きなぐる風に、声は裂けて異様にひびく。そして大地へも沢庵の顔へも、さんさんと杉の葉が落ちて来た。
「はははは。武蔵、なかなか元気でおるな」
沢庵は、声のする大樹の下へ、草履を運んで行きながら、
「元気はよいらしいが、近づく死の恐れに、逆上しての、気ちがい元気ではあるまいな」
程よい所に足をとめて、仰向くと、
「だまれっ」
武蔵の再びいう声だ。
元気というよりは怒気であった。
「死を怖れるほどならば、なんで神妙に貴さまの縛をうけるかっ」
「縛をうけたのは、わしが強くて、おまえが弱いからだ」
「坊主っ、何をいうか!」
「大きく出たな。今のいい方がわるければ、わしが悧巧で、おまえが阿呆――といい直そうか」
「うぬ、いわしておけば」
「これこれ、樹の上のお猿さん、もがいた所でこの大木へ、がんじ絡みになっているおまえが、どうもなるまい、見ぐるしいぞ」
「聞けッ、沢庵」
「おお、なんじゃ」
「あのとき、この武蔵が争う気ならば、貴様のようなヘボ胡瓜、踏み殺すのに造作はなかったのだぞ」
「だめだよ、もう間に合わん」
「そ! ……それを! ……自分から手をまわしたのは、貴様の高僧めかしたことばに巧々と騙かられたのだ。たとい縄目にはかけても、このような生き恥をかかせはしまいと信じたからだ」
「それから――」
と沢庵は嘯いた。
「だのに、なぜ! なんで! ……この武蔵の首を早く打たないかっ……同じ死所を選ぶなら、村の奴らや、敵の手にかかるより、僧でもあるし、武士の情けもわきまえていそうな貴様に――と思って体を授けたのがおのれの誤りだった」
「誤りは、それだけか。おまえのしてきたことは誤りだらけだと思わないか。そうしている間に、すこし過去を考えろ」
「やかましい。おれは、天に恥じない。又八のおばばは、おれを仇の何のと罵ったが、おれは、又八の消息をあのおふくろへ告げることが、自分の責任だ、友達の信義だ、そう思ったからこそ、山木戸をむりに越え、村へ帰って来たのだ。――それが武士の道にそむいているか」
「そんな枝葉の問題じゃない、大体、おまえの肚――性根――根本の考えかたが間違っているから、一つ二つさむらいらしい真似をしても、何もならんのみか、却って正義だなどと、力めば力むほど、身をやぶり、人に迷惑をかけ、その通り自縄自縛というものに落ちるのだよ。……どうだ武蔵、見晴らしがよかろう」
「坊主、覚えておれ」
「乾物になるまで、そこから少し十方世界のひろさを見ろ、人間界を高処からながめて考え直せ。あの世へ行ってご先祖さまにお目にかかり、死に際に、沢庵という男がこう申しましたと告げてみい。ご先祖さまは、よい引導をうけて来たと欣ぶに違いない」
――それまで、化石したように、うしろの方に立ち竦んでいたお通は、ふいに、走りよって、甲だかく叫んだ。
「あんまりです! 沢庵さん! いくら何でも、先刻から聞いていれば、抵抗のできない者へ酷すぎます。……あ、あなたは僧侶じゃありませんか。しかも武蔵さんのいう通り、武蔵さんはあなたを信じて、争わずに、縛めをうけたのではありませんか」
「これはしたり、同士打ちか」
「無慈悲ですっ。……わたしは、今のようなことをあなたがいうと、あなたが嫌になってしまいます。殺すものなら、武蔵さんも覚悟のこと、いさぎよく殺してあげてはどうですか」
お通は、血相を変えて、喰ってかかった。
激しやすい処女の感情は、青じろい権まくを顔にもって、涙まじりに、あいての胸へしがみついて行った。
「うるさい」
沢庵は、いつになく怖い顔して、
「女などが知ったことか。黙っておれっ」
と、叱った。
「いいえ! いいえ!」
つよく顔を振りながら、お通も、いつものお通でなかった。
「わたしにも、このことについては、口を出す権利があります。いたどりの牧へ行って、私も、三日三晩、努めたのですから」
「いかん! 武蔵の処分は、誰がなんといおうと、この沢庵がする」
「ですから、斬るものなら、斬ったがよいではありませんか。何も、半殺しにして、他人の酷い目を、たのしむような非道をしなくても」
「これが、わしの病だ」
「ええ、情けない」
「退いていなさい」
「退きません」
「また、強情が始まったな。この女め!」
力づよく振り放すと、お通は、杉の根へよろめいて行って、わっと、そのまま樹の幹へ、顔も胸も押しあてて泣き出した。
沢庵までが、こんな残酷な人とは、彼女は思っていなかった。村の者のてまえ一応は樹へ縛っても、最後には何か情けのある処置を執るのだろうと思っていたのに、実はこういう残虐なことを楽しむのが病だとこの人はいうのだ。お通は、人間というものに、戦慄せずにいられない。
信じぬいていた沢庵までが、嫌な人になることは、世の中のすべてが嫌になるのも同じだった。あらゆる人が信じられないとしたら……彼女は滅失の底に泣き沈んだ。
だが――
彼女は、ふと、泣き顔を、押しあてている樹の幹に、あやしい情熱を覚えた。この千年杉のうえに縛られている人――凛烈な声を天から投げてくる人――その武蔵の血が、この十人の腕でも抱えきれないような太い幹へ通っているような心地がする――
武士の子らしい! 潔い! そして、何という信義のつよい人。沢庵さんに縛られたあの時の様子や先刻からの言葉を聞けば、この人は、涙もろい、気のよわい、情けの半面すら持っている。
今までは、衆評にまき込まれて、自分も武蔵という人を考え違いしていた。――どこにこの人を、悪鬼のように憎むところがあろう、猛獣のように怖がったり狩立てなければならない性質があるだろうか。
「…………」
背にも肩にも嗚咽の波を打ちながら、お通はひしと千年杉の幹を抱きしめるような気持でいた。頬の涙を、樹の皮膚へこすりつけた。
天狗がゆするように、天の梢が鳴りだした。
ポッ! と大きな雨つぶが、彼女の襟もとへも、沢庵の頭へもこぼれて来たのである。
「お! 降って来たわ」
頭へ、手をやりながら、
「おい、お通さん」
「…………」
「泣き虫のお通さん、そなたが泣くので、天までベソを掻いて来たじゃないか。風があるし、これや大降りになろう、濡れぬうちに、退散退散。死んでゆく奴にかまっていないで、はやくお出で」
すぽりと法衣を頭からかぶると、沢庵は、逃げるように本堂の内へ駈け込んでしまう。
雨は、やにわに降りそそいで来て、闇のすそが、真っ白にぼかされた。
ぽたぽたと背に落ちるしずくの打つにまかせて、お通はいつまでも動かなかった。――梢の上の武蔵はいうまでもない。
お通は、どうしても、そこを去る気もちになれなかった。
雨やしずくが、背をとおして、肌着にまで浸みて来たが、武蔵のことを思えば何でもない気がする。だが、何で、武蔵の苦しみとともに自分も苦しみたいのか――それは考えている余裕もない。
ただ遽かに、彼女には見事な男性の象がそこに見えていたのである。こんな人こそ、真の男性ではないかと思うと共に、殺したくないと念ずる思いが真剣にこみあげてくるのであった。
「かあいそうな!」
彼女は、樹をめぐって、おろおろしだした。仰いでも、その人の影すら見えない雨と風であった。
「――武蔵さあん!」
思わずさけんだが、返辞はない。あの人もまたこの私を、本位田家の一人のように、村の人々と同じように、冷酷な人間と視ているにちがいない。
「こんな雨に打たれていたら、一晩で死んでしまう。……ああ、誰か、これほど人間の多い世間なのに、一人の武蔵さんを、助けてやろうとする人はないのか」
お通は、突然、雨の中をまっしぐらに駈けだした。風は彼女を追いかけるように吹いた。
寺の裏は、庫裡も方丈も、すべて閉まっていた。樋をあふれる水が、滝のように地を穿っていた。
「沢庵さん、沢庵さん」
そこの戸は、沢庵にあてがわれている一室だった。お通が、外から烈しく叩くと、
「誰だい?」
「わたしです、お通です」
「あっ、まだ外にいたのか」
すぐ戸を開けて、水煙の廂の下をながめ、
「ひどい! ひどい! 雨がふき込む、早くお入り」
「いいえ、お願いがあって来たのです。後生ですから、沢庵さん、あの人を、樹から下ろしてあげて下さい」
「誰を」
「武蔵さんを」
「とんでもないこと」
「恩に着ます」
お通は、雨の中に膝まずいて沢庵のすがたへ、掌をあわせた。
「この通りです……私をどうしてもかまいませんから……あの人を、あの人を」
雨の音は、お通の泣き声を打ちたたいたが、お通は、滝つぼの中にある行者のように、合わせた掌をかたくして、
「おがみます、沢庵さん、おすがりいたします、私にできる事ならどんな事でもしますから……あ、あのお方を、た、たすけて」
泣いてさけぶ彼女の口の中まで雨はふき荒んでいる。
沢庵は、石みたいに黙っていた。本尊仏を秘めた厨子の扉のように瞼をふかくふさいでいるのである。大きな息をついて、やがてその瞼をくわっと開けると、
「はやく寝なさい。丈夫な体でもないのに、雨水は毒じゃということを知らんのか」
「もしっ……」
お通が、戸へすがると、
「わしは寝る。そなたも寝や」
雨戸はかたく閉められてしまった。
だがお通は、諦めなかった。屈しなかった。
床下へ入って行って、沢庵の寝床の敷かれたあたりへ、
「おねがいです! 一生のおねがいです! ……もしッ、聞えませんか、ええ沢庵さんの人非人……鬼ッ……あなたには血がかよっていないのですか」
根気よく黙りこくっていたが、とても寝つかれないとみえて、沢庵はとうとう癇癪を起したように飛び起きて呶鳴った。
「おーいッ、寺の衆っ、わしが部屋の床下に、泥棒が忍んでおるで、捕まえてくれんか」
春も、ゆうべの雨や風で、残りなく洗われてしまった。今朝は、陽の光もおそろしく強く額を射る。
「沢庵どの、武蔵はまだ生きておりますかいの」
お杉隠居は、夜が明けると、待ち遠しい楽しみでも見物に来たように寺を覗いてそういった。
「おう、おばばか」
沢庵は、縁へ出て来て、
「ゆうべの雨はひどかったのう」
「よい気味な嵐でおざった」
「だが、いくら豪雨に叩かれたとて、一夜や二夜で、人間は死ぬまいて」
「あれでも生きているのじゃろうか? ……」
とお杉婆は、皺の中の針のような眼を眩しげに、千年杉の梢に向けて、
「雑巾のように貼りついたまま、身うごきもしていぬが」
「鴉が、あの顔へたからぬところを見れば、武蔵は、まだ生きているに違いなかろうで」
「大きに――」
お杉はうなずきながら、奥を覗いて、
「嫁が見えぬが、呼んでおくれぬか」
「嫁とは」
「うちのお通じゃ」
「あれはまだ本位田家の嫁ではあるまいが」
「近いうち、嫁にする」
「聟のいない家へ、嫁をむかえて誰が添うのか」
「おぬし、風来坊のくせに、よけいな心配はせぬものよ。お通は、どこにいますかいの」
「たぶん、寝ておるじゃろう」
「アアそうか……」
独り合点して――
「夜は、武蔵の見張をしておれとわしが吩咐けたゆえ昼間は眠たいも道理……。沢庵どの、昼間の見張は、おぬしの役じゃぞ」
お杉は、千年杉の下へ行って、しばらく仰向いていたが、やがてこつこつと桑の杖をついて里へ降りて行った。
沢庵は、部屋へ入ると、晩まで顔を見せなかった。里の子が上がって来て、千年杉の梢へ石を投げた時、障子をあけて、
「洟たれッ! 何をするかっ」
と一度、大声で叱ったきり、その障子は、終日閉まっていた。
同じ棟の幾間かを隔てて、お通の部屋があったが、そこの障子も今日は閉まったきりであった。納所の僧が、煎じ薬を持って入ったり粥の土鍋を運んで行ったりしていた。
ゆうべあの大雨の中を、お通は寺の者に見つかって無理やりに屋内へ引上げられ、住職からは、さんざん叱言をいわれたりした。そのあげく風邪ぎみの熱を発してきょうは寝たきり頭があがらないでいるということだった。
こよいは、ゆうべの空とは打って変って、月が明るかった。寺の者が寝しずまると、沢庵は、書物に倦いたように、草履を穿いて、外へ出て行った。
「武蔵――」
そう呼ぶと、杉の梢が、高い所ですこし揺れた。
バラバラと露の光が落ちてくる。
「――不憫や、返辞をする元気も失せたのか、武蔵っ、武蔵っ」
すると、すさまじい力で、
「なんだッ! くそ坊主!」
少しも衰えのない武蔵の呶号だった。
「ホ……」
と、見上げ直して、
「声は出るな。そのあんばいではまだ五、六日は持つだろう。時に……腹ぐあいはどうだ」
「雑言は無用、坊主、はやく俺の首を刎ねろ」
「いやいや、うかつに首は斬られない。貴さまのような我武者は、首だけになっても、飛びついて来るおそれがあるからな。……まあ、月でも見ようか」
沢庵は、そこの石へ、腰をおろした。
「うぬっ、どうするか、見ていろっ――」
武蔵は、満身の力で、自分の身を縛めている老杉の梢をゆさゆさうごかしていう。
バラバラと、杉の皮や、杉の葉が、沢庵の頭へこぼれて来る。その襟元を払いながら沢庵は仰向いて――
「そうだ、そうだ。それくらい怒ってみなければ、ほんとの生命力も、人間の味も、出ては来ぬ。近頃の人間は、怒らぬことをもって知識人であるとしたり、人格の奥行きと見せかけたりしているが、そんな老成ぶった振舞を、若い奴らが真似るに至っては言語道断じゃ、若い者は、怒らにゃいかん。もッと怒れ、もッと怒れ」
「オオ! 今に、この縄を摺り切って、大地へ落ちて貴様を蹴殺してやるから、待っておれ」
「頼もしい。それまで待っていてやろう。――しかし、つづくか。縄の切れないうちに、おぬしの生命が断れてしまいはせぬか」
「何をっ」
「おう、えらい力、木がうごく。しかし、大地はびくともせぬじゃないか。そもそも、おぬしの怒りは、私憤だから弱い。男児の怒りは、公憤でなければいかん。われのみの小さな感情で怒るのは、女性の怒りというものだ」
「何とでも、存分に吐ざいておれ。――今にみよ」
「駄目さ。――もうよせ武蔵、疲れるだけじゃぞ。――いくらもがいたところで、天地はおろか、この喬木の枝一つ裂くことはなるまい」
「うーむ……残念だ」
「それだけの力を、国家のためとまではいわん、せめて、他人のためにそそいでみい、天地はおろか、神もうごく。――いわんや人をや」
沢庵はこの辺から、やや説教口調になって、
「惜しむべし、惜しむべし。おぬし、折角人と生れながら、猪、狼にひとしい野性のまま、一歩も、人間らしゅう至らぬ間に、紅顔、可惜ここに終ろうとする」
「やかましいッ」
唾を吐いたが、唾は、高い梢から地上へ来るまでの途中で霧になってしまう。
「聞けよ! 武蔵。――おぬしは、自分の腕力に思い上がっていたろうが。世の中に、俺ほど強い人間はないと慢じていたろうが。……それがどうじゃ、その態は」
「おれは恥じない。腕で貴さまに負けたのではない」
「策で負けようが、口先で負けようが、要するに、負けは負けだ。その証拠には、いかに口惜しがっても、わしは勝者となって石の床几に腰かけ、おぬしは敗者のみじめな姿を、樹の上に曝されているではないか。――これは一体、何の差か、わかるか」
「…………」
「腕ずくでは、なるほど、おぬしが強いに極まっている。虎と人間では、角力にならん。だが、虎はやはり、人間以下のものでしかないのだぞ」
「…………」
「たとえば、おぬしの勇気もそうだ、今日までの振舞は、無智から来ている生命知らずの蛮勇だ、人間の勇気ではない、武士の強さとはそんなものじゃないのだ。怖いものの怖さをよく知っているのが人間の勇気であり、生命は、惜しみいたわって珠とも抱き、そして、真の死所を得ることが、真の人間というものじゃ。……惜しいと、わしがいうたのはそこのことだ。おぬしには生れながらの腕力と剛気はあるが、学問がない、武道の悪いところだけを学んで、智徳を磨こうとしなかった。文武二道というが、二道とは、ふた道と読むのではない。ふたつを備えて、一つ道だよ。――わかるか、武蔵」
石もいわず、樹も語らず、闇は寂としたままの闇であった。そしてややしばらくの沈黙がつづいていた。
――と。やがてやおら沢庵は石の上から腰をあげて、
「武蔵、もう一晩、考えてみなさい。そのうえで、首を刎ねてやろう」
と、立ち去りかけた。
十歩――いや二十歩ほど、彼が背を見せて、本堂のほうへもう歩み出していた時である。
「あ。しばらく!」
武蔵が空からいった。
「――なんじゃ?」
遠くから沢庵が振向いて答える。
「もいちど、樹の下へもどってくれ」
「ふム。……こうか」
すると樹上の影は突然、
「沢庵坊――助けてくれッ」
と、大声で喚いた。
にわかに泣いてでもいるように、天の梢はふるえていう。
「――俺は、今から生れ直したい。……人間と生れたのは大きな使命をもって出て来たのだということがわかった。……そ、その生甲斐がわかったと思ったら、途端に、俺は、この樹の上にしばられている生命じゃないか。……アア! 取り返しのつかないことをした」
「よく気がついた。それでおぬしの生命は、初めて人間なみになったといえる」
「――ああ死にたくない。もう一ぺん生きてみたい。生きて、出直してみたいんだ。……沢庵坊、後生だ、助けてくれ」
「いかん!」
断乎として、沢庵は首を振った。
「何事も、やり直しの出来ないのが人生だ。世の中のこと、すべて、真剣勝負だ。相手に斬られてから、首をつぎ直して起ち上がろうというのと同じだ。不愍だが沢庵はその縄を解いてやれん。せめて、死に顔のみぐるしくないように、念仏でも唱えて、静かに、生死の境を噛みしめておくがよい」
――それなり草履の音はピタピタと彼方へ消えてしまった。武蔵も、それきり喚かなかった。彼にいわれたとおり、大悟の眼をふさいで、もう生きる気も捨て、死ぬ気もすて、颯々と夜を吹くかぜと小糠星の中に、骨の髄まで、冷たくなってしまったもののようであった。
……すると、誰か?
樹の下へ立って、梢を仰いでいる人影があった。やがて千年杉に抱きついて、一生懸命に、低い枝の辺までよじ登ろうとするのであったが、樹のぼりに妙を得ない人とみえ、少し登りかけると、木の皮と一緒に辷り落ちてしまう。
それでも――木の皮より手の皮がすり剥けてしまいそうになっても――倦まず屈せず、一心不乱に繰返してかじりついているうちに、やっと、下枝に手が懸り、次の枝に手をのばし、それから先は、難なく、高い所まで登ってしまった。
そして、息を喘りながら――
「……武蔵さん……武蔵さん……」
武蔵は、眼だけまだ生きている髑髏のような顔を向けて、
「……オ?」
「わたしです」
「……お通さん? ……」
「逃げましょう。……あなたは、生命が惜しいと先刻いいましたね」
「逃げる?」
「え……。わたしも、もうこの村にはいられないんです。……いれば……ああ堪えられない。……武蔵さん、わたしは、あなたを救いますよ。あなたは、私の救いを受けてくれますか」
「おうっ、切ってくれ! 切ってくれ! この縄目を」
「お待ちなさい」
お通は、小さな旅包みを片襷に負い、髪から足ごしらえまで、すっかり旅出の身仕度をしているのである。
短刀を抜いて、武蔵の縄目を、ぶつりと断った。武蔵は、手も脚も知覚がなくなっていたのである。お通が抱き支えはしたが、却って、彼女も共に足を踏み外し、大地へ向って、二つの体は勢いよく落ちて行った。
武蔵は立っていた。二丈もある樹のうえから落ちたのに、茫然と、大地に立っている。
ウーム……と呻く声が彼の足もとに聞えた。ふと眼を落して見ると、一緒に落ちたお通が、手脚を突ッぱって地にもがいているのである。
「おっ」
抱き起して――
「お通さん、お通さん!」
「……痛い……痛い」
「どこを打った?」
「どこを打ったか分りません。……だけど、歩けます、大丈夫です」
「途中の枝で、何度もぶつかっているから、大した怪我はしていないはずだ」
「私より、あなたは」
「俺は……」
武蔵は、考えてから、
「――俺は生きている!」
「生きていますとも」
「それだけしか分らないんだ」
「逃げましょう! 一刻も早く。……もし人に見つかったら、私もあなたも、今度こそは、生命がありません」
お通は、跛行をひきながら歩き出した。武蔵も歩いた。――黙々と、遅々と、秋の霜を、片輪の虫が歩むように。
「ご覧なさい、播磨灘の方が、ほんのり夜が白みかけました」
「ここは何処」
「中山峠。……もう頂上です」
「そんなに歩いて来たかなあ」
「一心は怖いものですね。そうそう、あなたは、まる二日二晩、何も食べていないでしょう」
そういわれて、武蔵は初めて飢渇を思い出した。
背に負っている包みを解いて、お通は、米の粉を練った餅を出した。甘い餡が舌から喉へ落ちてゆくと、武蔵は、生のよろこびに、餅を持っている指が顫えて、
(俺は生きたぞ)
と、つよく思い、同時に、
(これから生れ変るのだ!)
と、信念した。
紅い朝雲が、二人の顔を焼いた。お通の顔が鮮やかに見えてくると、武蔵は、ここに彼女と二人でいることが夢のようで、どうしても不思議な気がしてならない――
「さ、昼間になったら、油断は出来ませんよ。それに、すぐ国境にかかりますから」
国境と聞くと武蔵の眼は、急に、爛として、
「そうだ、おれはこれから日名倉の木戸へ行く」
「え? ……日名倉へですって」
「あそこの山牢には、姉上が捕まっている。姉上を助け出して行くから、お通さんとは、ここで別れよう」
「…………」
お通は、うらめしげに、武蔵の顔を黙って見ていたが、やがて、
「あなたは、そんな気なんですか。ここでもう別れてしまうくらいなら、私は、宮本村を出ては参りません」
「だって、為方がない」
「武蔵さん」
お通は、詰め寄るような眼ざしをもって、彼の手へ、自分の手を触れかけたが、顔も体も、熱くなって、ただ情熱にふるえるだけだった。
「わたしの気持、今に、ゆっくり話しますけれど、ここでお別れするのは嫌です。どこへでも、連れて行って下さい」
「……でも」
「後生です」
とお通は手をついて、
「――あなたが嫌だといっても、私は離れません。もし、お吟さまを救い出すのに、私がいて足手まといなら、私は、姫路の御城下まで先に行って待っていますから」
「じゃあ……」
と武蔵はもう起ちかけた。
「きっとですね」
「あ」
「城下端れの花田橋で待っていますよ。来ないうちは、百日でも千日でも立っていますからね」
ただ頷きを見せて、武蔵はもう峠づたいに山の背を駈けていた。
「おばば。――おばばッ」
孫の丙太だった。
跣足で、そとから素ッ飛んで帰って来ると、青い鼻汁を横にこすって、
「たいへんだがな、おばば、知らんのけ。何してるんや」
と、台所をのぞいて喚いた。
竈のまえに、火吹竹を持って火を吹いていたお杉隠居は、
「なんじゃ、仰山な」
「村の者が、あんなに騒いでいるに、おばば、飯など炊いているんか。――武蔵めが、逃げたのを、知らんのやろ」
「えっ。――逃げた?」
「今朝ンなったら、武蔵めが、千年杉のうえに見えんのや」
「ほんまか」
「お寺ではお寺で、お通姉も見えんいうてでかい騒ぎだぞい」
丙太は、自分の知らせが、予想以上に、おばばの血相を物凄く変らせたので、びっくりしたように、指を噛んでいた。
「丙太よ」
「あい」
「汝れ、突ッ走って、分家の兄んちゃまを呼んで来う。河原の権叔父にも、すぐ来てくれというて来るのじゃ」
お杉隠居の声はふるえていた。
だが――丙太が、門を出ないうちに、本位田家の表には、がやがやと人が集まっていた。その中には、分家の聟も、河原の権叔父も交じっていたし、また、ほかの縁類や小作人などもいて、
「お通阿女が逃がしたのやろ」
「沢庵坊主も、姿が見えぬ」
「ふたりの仕業じゃ」
「どうしてくれよう」
すでに、分家の聟や、権叔父などは、祖先伝来の槍をかかえて、本家の門に、悲壮な眼を集めているのだった。
そして――
「おばば、聞いたか――」
と、奥へいう。
お杉隠居は、さすがに、この大事が事実と分ると、こみあげる怒気を抑えて、仏間に坐っていたが、
「――今参るまで、静かにしていやい」
と、そこからいって、何か黙祷して後悠々と、刀箪笥をあけたり、衣裳や足ごしらえをして皆の前へ出て来た。
短い脇差を帯にさし、草履の緒を足にしばっているので、人々はこのきかない気の老婆がもう何を決意しているか、よく分った。
「――騒ぐことはない、婆が、追手となって不埒な嫁を、成敗して来ますわいの」
のこのこ、歩き出すので、
「おばばまで、行くからには」
と、親類も小作も、いきり立って、この悲壮な老婆を大将とし、途々、棒、竹槍などをひろって、中山峠へ追って行った。
しかし、すでに遅い。
この人たちが、峠の頂へかかったのは、もう午に近かった。
「逸したか」
と一同は、地だんだを踏んで無念がった。
それのみでなく、ここは国境なので、役人が来て、
「徒党を組んで通行は罷りならぬ」
と、往来を阻めた。
それに対しては、権叔父が応対に出て、事情を話し、
「これを捨ておいたでは、われら遠き先祖以来の面目にかかわり、村の者よりは笑いぐさとなり、本位田家は、御領下にもいたたまれぬことに相成りますので。――何とぞ、武蔵、お通、沢庵の三名を討ちとるところまで、通行おゆるし願いたい」
と、こっちでは、頑張った。
理由は酌めるが、しかし法令がゆるさぬ、と役人側では断じていう。もっとも、姫路城まで伺いを出して許可のうえなら格別だが、それでは先に通った者は、遠く藩地の外へ出てしまっているから、それでは無駄な沙汰というほかはない。
「では――」
と、お杉隠居は、親類一同と、合議のうえで折れて出た。
「このばばと、権叔父の二人なら通るも帰るも、さしつかえはおざるまいの」
「五名までなら、勝手じゃ」
役人は、いった。
お杉隠居は、うなずいて、意気まく他の人々へ、悲壮な別れを告げようとするらしく、
「皆の者」
と、草叢へ呼びあつめた。
「こういう手違いも、家を出る時から、あらかじめ、覚悟のうちにあったことよ。何も、あわてるには及ばぬわいの」
お杉隠居のそういう薄い唇と、歯ぐきの出ている大きな前歯を、一族の者は、厳粛に、立ち並んで見まもっていた。
「この婆はの、もう、家伝来の一腰刀を帯びて出る前に、ちゃんとご先祖様のお位牌へ、おわかれを告げ、二つのお誓いをして参った――それは、家名に泥を塗った不埒な嫁を成敗すること。も一つは、せがれ又八の生死をたしかめ、いきてこの世にいるものなら、首に縄をつけても連れ帰って、本位田家の家名をつがせ、他から、お通に何倍も勝るとて劣らぬほどなよい嫁をむかえ、村の者へも晴れがましゅう、きょうの名折れを雪がにゃならぬ」
「……さすがは」
と、大勢の縁者のうちで、誰か、唸くように洩らした。
お杉は、分家の聟の顔へ、じろりと、眼をやって、
「ついては、わしと、河原の権叔父とは、どっちゃも、まあ隠居身分。ふたつの大望を果すまで、一年かかるか三年かかるか、巡礼いたすつもりで、他国を巡って参ろうと思う。留守中には、分家の聟を家長と立て、飼蚕も怠るまいぞ、田や畑に草を生やすまいぞよ。よいかの、皆の者――」
河原の権叔父も五十ちかいし、お杉隠居も五十をこえている。万一、武蔵にでも出会ったら、ひとたまりもなく返り討ちにあうに極っている。――誰かもう三人ほど若い者が従いて行っては――という者もあったが、
「なんのい」
と、婆は首を振っていう。
「武蔵武蔵というが、あか児にすこし毛が生えたような餓鬼一人、何を怖れることがあろうぞ。婆には、力はないが、智謀というものがあるぞよ。また、一人や二人の敵ならば、ここ――」
と、自分の唇へ、ひとさし指を押し当てて、何か自信ありげにいった。
「いい出したら、後へは退かぬおばばのことじゃ、それでは、去になされ」
と、励まして、もう一同も止めようとはしなかった。
「さらばじゃ」
河原の権叔父と肩をならべ、お杉は、中山越えを、東へ降りた。
「おばば。――慥かりやらっしゃれのう」
縁者たちは、峠から手を振って、
「病んだら、すぐに、村へ使いを立てなされよっ――」
「はよう、元気でもどらっしゃれ――」
口々に、わかれを送った。
その声が、背に聞えなくなると、
「のう権叔父。どうせ、若い者より、先へ逝く身じゃ。心やすいではないかの」
権叔父は、
「そうとも、そうとも」
と、うなずいた。
この叔父は、今でこそ、狩猟をして生活をたてているが、若いうちは、血の中で育った戦国武者の果てだ。今でも頑丈な骨ぐみをつつんでいる皮膚には、戦場焦けの色が残っている。髪も、婆ほどは白くない。姓は淵川、名を権六という。
いうまでもなく、本家の息子の又八は、甥にあたるので、この叔父が、こんどの事件に対して、関心をもたないでいるはずはない。
「おばば」
「なんじゃい」
「おぬしは、覚悟して、旅支度もして来たろうが、わしはふだんのままじゃ。どこかで足拵えをせにゃならんが――」
「三日月山を下ると、茶屋があるわいの」
「そうそう、三日月茶屋までゆけば、わらじもあろう、笠もあろう」
ここを下れば、もう播州の龍野から斑鳩へもほど近い。
だが、夏隣りのみじかくない日も、もう暮れかけていた。三日月茶屋で一息入れていたお杉隠居は、
「龍野までは、ちと無理、今夜は、新宮あたりの馬方宿で、臭い蒲団に寝ることかいの」
と、茶代をおく。
「どれ、参ろう」
と、権六は、ここで求めた新しい笠を持って立ったが、
「おばば。ちょっと、待たれい」
「何じゃ」
「竹筒へ、裏の清水を入れて来るで――」
茶屋の裏へ廻って、権六は、筧の水を竹筒へ汲んだ。――そして戻りかけたが、ふと、窓口から、薄暗い屋の内をのぞいて、足をとめた。
「病人か?」
誰か、藁ぶとんをかぶって寝ているのである。薬のにおいがつよくする。顔は、ふとんへ埋めているのでよく分らないが、黒髪が枕にみだれかかっていた。
「権叔父よ。はよう来ぬか」
婆のよぶ声に、
「おい」
駈けてゆくと、
「なにをしていなさる」
と、婆は、不機嫌だ。
「何さ、病人がいるらしいで」
権六が歩み出しながらいいわけすると、
「病人が、何でめずらしい。子どものような道草する人じゃ」
と、婆は叱りつける。
権六も、本家のこの隠居には、頭が上がらないものとみえ、
「は、は、は」
と、磊落にごまかしてしまう。
茶屋の前から、道は、播州路へ向って、かなり急な坂である。銀山通いの荷駄が往来を荒すので、雨天のひどい凸凹がそのままに固まっている。
「ころぶなよ、おばば」
「何をいやる、まだ、こんな道に、宥わられる程、ばばは、耄碌しておらぬわいの」
すると、二人の上から、
「お年より、お元気でございますなあ」
と、誰かいう。
見ると、茶屋の亭主だった。
「おう、今ほどは、お世話になった。――何処へお出でか」
「龍野まで」
「これから? ……」
「龍野まで行かねば医者はございませぬでの。これから、馬で迎えて来ても、帰りは夜中になりますわい」
「病人は、御家内か」
「いえいえ」
亭主は、顔をしかめ、
「嬶や、自分の子なら、為方もないが、ほんの床几に休んだ旅の者でな、災難でござりますわ」
「先刻……実は裏口からちょっと見かけたが……旅の者か」
「若い女子でな。店さきに休んでいる間に、悪寒がするというので、捨ててもおけず、奥の寝小屋を貸しておいたところ、だんだん熱がひどうなって、どうやらむつかしい様子なのじゃ」
お杉隠居は、足をとめて、
「もしやその女子は、十七ぐらいの――そして、背の細ッそりした娘じゃないか」
「左様。……宮本村の者だとは申しましたが」
「権叔父」
と、お杉隠居は、眼くばせをして、急に、帯を指先でさぐりながら、
「しもうたことした」
「どうなされた」
「数珠をな、茶屋の床几へ、置き忘れたらしい」
「それはそれは。てまえが、取って参りましょう」
と、亭主が走りかけると、
「なんのいの、おぬしは、医者へ急ぐ途中、病人が大事じゃ程に、先へ去んで下され」
権叔父は、元の道を、もう大股に先へ戻っていた。茶屋の亭主を追いやって、お杉も後から急いでゆく。
――たしかにお通!
ふたりの呼吸は荒くなっていた。
大雨に打たれて冷えこんだあの晩からの風邪熱なのである。
峠で武蔵と別れるまでは、それも忘れていたが、彼と袂を分って歩きだしてから間もなく、お通は、体じゅうが痛懶くなって、この三日月茶屋の奥に臥床を借りて横たわるまでの辛さは一通りではなかった。
「……おじさん……おじさん……」
水がほしいのであろう、囈言のように洩らしている。
店をしめると、亭主は、医者を迎えに出て行ったのだ。たった今、彼女の枕元をのぞいて、帰って来るまで辛抱しておいで――といったのを、お通は、もう忘れているほどな高熱らしい。
口が渇く。茨のトゲを頬ばっているように、熱が舌を刺す。
「……水をくださいな、おじさん……」
遂に、起き出して、お通は、流し元のほうへ首をのばした。
水桶の側まで、やっと這い寄った。そして竹柄杓へ手をかけた時である。
ガタと、何処かで、戸が仆れた。元より戸閉まりなどはない山小屋である。三日月坂から引っ返して来たばばと権六は、そこからのそのそ入って来て、
「暗いのう、権叔父」
「待たっしゃれ」
土足のまま、炉のそばへ来た。そしてひとつかみの柴を燻べて、その明りに、
「あっ……おらぬぞ。ばば」
「えっ?」
――だが、お杉はすぐ、流し元の戸が少し開いているのを見つけ、
「外じゃ」
と、さけんだ。
その顔へ、ざっと、水の入っている水柄杓を投げつけた者がある、お通だった、風の中の鳥のように、途端に、袂も裳も翻して、茶屋前の坂道を、真っ逆さまに、逃げ走って行く――
「畜生っ」
お杉は軒下まで駈け出して、
「権叔父よっ、何しているのじゃ」
「逃げたか!」
「逃げたかもないものよ、こなたが間抜けゆえ、覚られてしもうたのじゃわ。――あれっ、はよう、どうかせぬかいの」
「あれか」
黒く――坂の下をまるで鹿のように逃げてゆく影をのぞんで、
「大事ない、先は病人、それに程の知れた女子の脚、追いついて、一討ちに」
駈け出すと、お杉も、後から駈けつづいて、
「権叔父よ、一太刀浴びせるはよいが、首は婆が怨みをいってから斬りますぞい」
そのうちに、先を走っている権六が、
「しまった」
大声を放って振向いた。
「どうしたぞ」
「この竹谷へじゃ――」
「躍りこんだか」
「谷は、浅いが、暗いのが閉口じゃわ。茶屋へもどって、松明など持って来ねば」
孟宗竹の崖ぶちから覗きこんで、ためらっていると、
「ええ、何を悠長な!」
と、お杉は権叔父の背なかを突きとばした。
「あっ」
――ザザザッと、笹落葉の崖を駈け辷って行った大きな足音が、やがて、遥か闇の下で止まると、
「くそばば。何を無茶しやるぞっ。汝も早う降りて来うっ!」
きのうも見えたが、また、きょうも見える。
日名倉の高原の十国岩のそばに、その岩の頭が欠け落ちたように、ぽつんと、一個の黒い物が坐っている。
「――なんだろう」
と、番士たちは、小手をかざしていた。
生憎と、陽のひかりが虹のように漲っていてよく見さだめがつかない。そこで一人が、
「兎だろう」
と、よい加減にいうと、
「兎より大きい。鹿だ」
と一方はいう。
いや違う、鹿や兎があんなにじっとしている筈はない、やはり岩だ、と傍らから他の者が唱えると、
「岩や木の株が、一夜に生えるはずはない」
と、異説が出る。
するとまた、饒舌なのが、
「岩が一夜に生える例はいくらもある。隕石といって、空から降る」
と、交ぜかえす。
「まあ、どうでもいいじゃないか」
と、いつも暢気なのが、中を取って打ち消すと、
「何でもよいということがあるか。われわれは、この日名倉の木戸に何のために立っているのか。但馬、因州、作州、播磨四ヵ国にわたる往来と国境とを、こうして、厳として守っているのは、ただ禄を頂戴して、陽なたぼッこをしていよというためではあるまいが」
「わかったよわかったよ」
「もしあれが、兎でも石でもなく、人間だったらどうする?」
「失言失言。もういいじゃないか」
宥めて、やっと納まったと思うとまた、
「そうだ、人間かも知れないぞ」
「まさか」
「何ともわからない、試しに、遠矢で射てみろ」
早速、番所から弓を持ち出して来たのが、弓自慢とみえ、片肌外して、矢をつがえ、キリキリとしぼった。
問題の目標は、ちょうど、番所のある地点から深い谷間を隔てている向うがわのなだらかな傾斜と、澄みきった空との境にポツンと黒く見えるのである。
ヒュッ――
矢は、鵯のように、谷をまっすぐに渡って行った。
「低い」
と、後ろでいう。
二の矢が、すぐ唸った。
「だめ、だめ」
引っ奪くって、こんどは他の者が覘う。それは、谷の途中で沈んでしまった。
「何を騒いでいるかっ」
番所に詰めている山目付の武士が来て、そう聞くと、
「よし、俺に貸せ」
と、弓を取った。これは、腕において、明らかに、段がちがう。
満をひいて、矢筈をキキと鳴らしたと思うと、山目付は、弦をもどして、
「こいつは、滅多に放せん」
「なぜですか」
「あれは、人間だ。――人間とすれば、仙人か、他国の隠密か、谷へとび込んで死のうと考えている奴か。とにかく、捕まえて来い」
「それみろ」
先に、人間説を唱えた番士は鼻うごめかして、
「はやく来い」
「オイ待て。捕まえるはいいが、何処からあの峰へ渡るか」
「谷づたいでは」
「絶望だ」
「為方がない、中山のほうから廻れ」
じっと、腕を拱んだまま、武蔵は、谷をへだてて見える日名倉の番所の屋根を睨んでいた。
幾棟かあるあの屋根下の一つには、姉のお吟が捕まっているのだと思う――
だが、彼は、きのうも一日こうして坐りこんでいたし、今日も、容易に起ちあがる気色はなかった。
なんの番所侍の五十人や百人。
ここまでは、そう思って来た武蔵であったが――さて。
彼は、坐りこんで、その番所が一目に見える所からつらつら地の理を按じるに、一方は深い谷間、往来は二重木戸。
加うるに、ここは高原なので、十方碧落身をかくすべき一木もないし、高低もない。
夜陰に乗じて事を為遂げるのは、元よりこんな場合の法則だが、その夜も来ない夕刻から、番所の前の往来は、一の柵も二の柵も閉まって、すわといえば鳴子が鳴りそうだ。
(近づけない!)
武蔵は、腹のそこで唸った。
そして二日の間も、十国岩の下に坐りこんで、作戦を考えたが、いい智恵もなく、
(駄目だ!)
と思った。一死を賭してもという気力は先ずそこに挫かれた形である。
(はてな、俺は、どうしてこんな臆病者になったのか)
すこし自分を歯がゆくも思った。――こんな弱い俺ではなかったはずなのに、と吾に問う。
腕ぐみは、半日経っても、解けなかった。――どうしたものか、怖いのだ! 頻りと、その番所へ近づいてゆくことが怖いのである。
(俺は、怖がりになった。たしかに、ついこの間の俺とは違ってしまった。――だが、これは一体、臆病というものだろうか)
否!
と彼は自分で首をふった。
この気持は、臆病なために起っているのではない。沢庵坊から、智恵を注ぎ込まれたためだ。盲目の目があいて、かすかに、物が見え始めたからである。
人間の勇気と、動物の勇とは質がちがう。真の勇士の勇と、生命知らずの暴れンぼの無茶とは、根本的にちがうものであるともあの人は俺に教えた。
目があいたのだ。――心の目が、何かこう世の中の怖さがうッすらと見えだして来たために、生れながらの己れに返ってしまったのだ。――生れながらの俺は決して野獣ではない、人間だった。
その人間になろうと思い立った途端に、俺は、なにものよりも、この身に享けている生命というものが大事になってしまった。――生れ出たこの世において、どこまで自分というものが磨き上げられるか――それを完成してみないうちに、この生命をむざと落してしまいたくないのである。
「……それだ!」
我を見出して、彼は空を仰いだ。
だが――姉は救わずにはおけない。たとえ、それほど惜しいそれほど怖い今の気持を冒してもである。
夜になったら、今夜はこの絶壁を降りて、あなたの絶壁へ上がってみよう。この天嶮をたのんで、番所の裏手には柵もなし、手薄でもあるらしい。
――そう思い決めていた時である。足のつま先から少し離れた所へ、ぶすっと一本の矢が立った。
気がついてみると、彼方の番所の裏に、豆つぶほどな人間が多勢出て、どうやら自分の影を見つけて騒いでいるらしいのだ。そしてすぐ、散らかってしまった。
「――試し矢だな」
わざと、彼は動かずにじっとしていた。間もなく、中国山脈の背を西へ荘厳な落日の光耀はうすずきかけた。
夜が待たれた。
起って、彼は、小石をひろった。彼の晩飯は空を飛んでいるのだ。小石を投げると、空から、小鳥が落ちた。
その小鳥の生肉を裂いて、むしゃむしゃ喰べていると、二、三十人の番士たちが、わっと声を合せて、彼のまわりを取りかこんだ。
武蔵だ。宮本村の武蔵だ。
近寄ってから、気づいた声である。番士たちは、わああっと、二度目の武者声をあげ、
「見くびるな、強いぞ」
誡め合った。
武蔵は、くわっと、殺気に対して殺気に燃える眼をした。
「これだぞッ」
大きな岩を、両手にさしあげ、輪になっている人間たちの一角へ向って、どすんと抛りつけた。
その石は、真っ赤になった。鹿みたいにそこを跳びこえて、武蔵は走っていた。逃げるのかと思うと、反対に、番所のほうへ向って、獅子のような髪の毛を逆立てて駈けてゆく。
「ヤヤ彼奴、どこへ?」
番士たちは、呆ッけにとられた。眼のくらんだ蜻蛉のように、武蔵は飛んでゆくのだ。
「気が狂ッているんだ」
誰かが、そう叫ぶ。
三度目の鬨の声をあげて、番所のほうへ追いかけてゆくと、武蔵は、もうその正面の木戸から中へ、躍りこんでいた。
そこは、檻だ、死地である。――しかし武蔵の眼には、厳めしく並んでいる武器も、柵も、役人も見えなかった。
「あッ、何者だ」
と、組みついてきた目付役人を、たッた一拳のもとに仆してしまったのも、彼自身は意識しない。
中木戸の柱を、揺りうごかし、それを引き抜いて振りまわした。相手の頭数など問題でない。ただ真っ黒に集合してかかって来るものが相手だった。それを、ただおよその見当で撲りつけると、無数の槍と太刀が、折れては宙に飛び、また地へ捨てられた。
「姉上っ――」
裏へ廻る。
「姉者人!」
と、そこらの建物を血ばしった眼で覗いてゆく。
「――武蔵じゃ、姉者人ッ」
閉まっている戸は、引っ抱えている五寸角の柱で、軒ごとに突き破った。番人の飼っている鶏が、けたたましく絶叫して、役宅の屋根へ飛び上がって、天変地変でも来たように啼きぬいている。
「姉者人ッ――」
彼の声は、鶏のようにシャ嗄れてしまった。お吟は、どこにも見えないのだった。姉をよぶ声が次第に絶望的になってきた。
牢屋らしい汚い小屋の蔭から、一人の小者が、鼬のように逃げだすのを見つけた。血しおで、ぬるぬるになった角柱を、その足もとへ抛りなげて、
「待てッ」
と、武蔵が跳びついた。
意気地なく泣きだす顔を、ぴしゃッと撲りつけて、
「姉上は、どこにいるか。その牢屋を教えろ。いわねば、蹴殺すぞ」
「こ、ここには、おりませぬ。――一昨日、藩のいいつけで、姫路のほうへ、移されました」
「なに、姫路へ」
「へ……へい……」
「ほんとか」
「ほんとで」
武蔵は、また寄って来る敵へ、その番人の体を投げつけて、小屋の蔭へ、ぱっと身を退いた。
矢が、五、六本そこらへ落ちた。自分の裾にも一本とまっている。
瞬間――
武蔵は、栂指の爪を噛んで、じいっと、矢の飛ぶのを見ていたが、突然、柵のほうへ走って、飛鳥のように外へ躍り越えた。
ドカアン!
と、その姿へ向って放たれた種子島の音が、谷底から谺を揺すり上げた。
逃げだしたのだ! 武蔵は途端に、山の頂から転落してゆく岩のように、逃げ出している!
――怖いものの怖さを知れ。
――暴勇は児戯、無知、獣の強さ。
――もののふの強さであれ。
――生命は珠よ。
沢庵のいった言葉のきれぎれが、疾風のように駈けてゆく武蔵の頭の中を、同じ速度で駈けめぐっていた。
そこは、姫路の城下端れ。
花田橋の下で、また、或る日は橋の上あたりで、彼は、お通の来るのを待っていた。
「どうしたのだろう?」
お通は、見えない。――約束をして別れた日からもう七日目だ。ここで百日でも千日でも待っているといったお通なのに。
かりそめにも、約束の言葉をつがえた以上は、それを捨てて忘れてゆく気もちにはなれない武蔵であった。武蔵は、待ちしびれた。
かたがた、彼には、この姫路へ移されて来たという姉のお吟が、どこに幽閉されているか、それを探るのも、目的のひとつであった。花田橋の畔に、彼のすがたがない時は、城下町のここかしこを、菰をかぶって、物乞いのように彷徨っている日だった。
「やあ、出会うた」
突然、彼へ向って、駈け寄って来た僧がある。
「武蔵」
「あっ」
顔も姿も変えて、誰にもこれなら知れまいとしていた武蔵は、そう呼ばれてびっくりした。
「さあ、来い」
手首をつかんだその僧は、沢庵であった。ぐいぐいと引っ張って、
「世話をやかせずと、早く来い」
何処へか連れて行こうとするのである。この人に手向う力はなかった。武蔵は、沢庵の行くままに歩いた。また、樹の上か、それとも今度は藩の牢獄か。
おそらく、姉も城下の獄に繋れているのであろう。そうなれば、姉妹ひとつ蓮の台だと思う。どうしてもない一命とすれば、せめて、
(姉と一緒に――)
武蔵はひそかに心で願った。
白鷺城の巨大な石垣と白壁が、眼のまえに仰がれた。大手の唐橋をずかずかと沢庵は先に立って渡って行くのである。
鋲打の鉄門のかげに、槍ぶすまの光芒を感じると、さすがに、武蔵もためらった。
沢庵は、手招きして、
「はやく来ぬか」
多門を通ってゆく。
内堀の二の門へかかる。
まだ泰平に落着き切れない大名の城地であった。藩士たちも、なん時でも戦にかかれる緊張と姿をもっていた。
沢庵は、役人を呼びたてて、
「おい、連れて来たよ」
と武蔵の身を引き渡し、そして、
「頼むぞ」
と念をこめていうのである。
「は」
「――だが、気をつけないといかぬぞよ、これは牙の抜いてない獅子の児だからな。まだ多分に野性なのだ。いじり方が悪いとすぐに噛みつくぞ」
いいすてて、二の丸から太閤丸のほうへ案内なしに、行ってしまった。
沢庵にことわられたせいか、役人たちは、武蔵の体へ、指も触れないで、
「――どうぞ」
と、促す。
黙って尾いてゆくと、そこは風呂場だ、風呂に入れとすすめるのである。すこし勝手のちがう気がする。それに、お杉婆の策にかかった時、風呂では苦い経験を武蔵は持っている。
腕を拱んで考えていると、
「お済みになられたら、衣服はこちらに用意してござるゆえ、お召しかえなされい」
と、小者が、黒木綿の小袖と袴を置いて行った。
見ればそれには、懐紙、扇子、粗末ながら、大小も乗せてあるではないか。
姫山の緑をうしろに、天守閣と太閤丸のある一廓が、白鷺城の本丸だった。
城主の池田輝政は、背がみじかくて、うす黒いあばたがあり、頭は剃っている。
脇息から、庭を見やって、
「沢庵坊。あれかよ」
「あれでござる」
そばに控えている沢庵が、あごを引いて答えた。
「なるほど、よい面だましい。お汝よく助けてとらせた」
「いや、ご助命をいただいたのはあなた様からで」
「そうではない、役人どものうちにお汝のようなのがいれば、ずいぶん助けておいて世のためになる人間もあろうが、縛るのを、吏務だと考えているやつばかりだから困る」
縁をへだてた庭のうえに武蔵は坐っている。新しい黒木綿の小袖を着、両手を膝について、俯し目になっていた。
「新免武蔵というか」
輝政がたずねると、
「はいっ」
はっきり答えた。
「新免家は元、赤松一族の支流、その赤松政則が、昔はこの白鷺城の主であったのだ。そちが、ここへひかれて来たのも、何かの縁だな」
「…………」
武蔵は、祖先の名に泥を塗っている者は自分だと思っている。輝政に対しては、何も感じなかったが、祖先に対して、頭があがらない気がした。
「しかし!」
輝政は語気を改めていった。
「その方の所業、不埒であるぞっ」
「はい」
「厳科を申しつける」
「…………」
輝政は、横を向いて、
「沢庵坊。身の家臣、青木丹左衛門が、わしの指図も仰がず、お汝に対して、この武蔵を捕えたら、その処分は、おてまえに任せるといったという話は――あれは真かの」
「丹左を、お調べ下されば、真偽は明白でおざるが」
「いや、調べてはある」
「しからば、何をか、沢庵に嘘偽りがおざろう」
「よろしい、それで、両者のいうことは一致しておる。丹左は、身の家来、その家来が誓ったことは、わしの誓いも同様である。領主ではあるが、輝政には、武蔵を処分する権能はすでにないのだ。……ただこのまま放免は相成るまい。……しかしこの先の処分は、お汝まかせじゃ」
「愚僧も、そのつもりでおざる」
「で、いかがいたそうか」
「武蔵に、窮命をさせる」
「窮命の法は」
「この白鷺城のお天守に、変化が出るという噂のある開かずの間があるはずで」
「ある」
「今もって、開かずの間でおざろうか」
「むりに開けてみることもなし、家臣どもも嫌がっておるので、そのままらしい」
「徳川随一の剛の者、勝入斎輝政どののお住居に、明りの入らぬ間が一つでもあることは、威信にかかわると思われぬか」
「そんなことは考えてみたことがない」
「いや、領下の民は、そういうところにも、領主の威信を考えます。それへ明りを入れましょう」
「ふむ」
「お天守のその一間を拝借し、愚僧が勘弁のなるまで、武蔵に幽閉を申しつけるのでおざる。――武蔵左様心得ろ」
と、申し渡した。
「ははは。よかろう」
輝政は、笑っている。
いつか七宝寺で、どじょう髯の青木丹左へ向って、沢庵のいったことばは、嘘ではなかった。輝政と沢庵とは禅の友であった。
「後で、茶室へ来ぬか」
「また、下手茶でござるか」
「ばかを申せ、近頃はずっと上達。輝政が武骨ばかりでないところを今日は見せよう。待っておるぞ」
先に立って、輝政は奥へかくれる。五尺に足らない短小なうしろ姿が、白鷺城いっぱいに大きく見えた。
真っ暗だ。――開かずの間といわれる天守閣の高いところの一室。
ここには、暦日というものがない、春も秋もない、また、あらゆる生活の物音も聞えて来ない。
ただ一穂の燈し灯と、それに照らさるる武蔵の青白く頬の削げた影とがあるだけであった。
今は、大寒の真冬であろう、黒い天井の梁も板じきも、氷のように冷えていて、武蔵の呼吸するものが、燈心の光に白く見える。
孫子曰く
地形通ずる者あり
挂かる者あり
支うる者あり
隘なる者あり
険なる者あり
遠き者あり
孫子の地形篇が机の上にひらかれていた。武蔵は、会心の章に出会うと、声を張って幾遍も素読をくりかえした。地形通ずる者あり
挂かる者あり
支うる者あり
隘なる者あり
険なる者あり
遠き者あり
――故に
兵を知る者は動いて迷わず
挙げて窮せず
故に曰く
彼を知り己を知れば
勝すなわち殆からず
天を知り地を知れば
勝すなわち全うすべし
眼がつかれると、水のたたえてある器を取って、眼を洗った。燈心の油が泣くと燭を剪った。兵を知る者は動いて迷わず
挙げて窮せず
故に曰く
彼を知り己を知れば
勝すなわち殆からず
天を知り地を知れば
勝すなわち全うすべし
机のそばには、まだ山のように書物が積んであった。和書がある。漢書がある。またそのうちにも、禅書もあるし、国史もあり、彼のまわりは本で埋まっているといってもよい。
この書物は、すべて、藩の文庫から借用したものである。彼が沢庵から幽閉を申しつかって、この天守閣の一室へ入れられた時、沢庵は、
「書物はいくらでも見よ。古の名僧は、大蔵へ入って万巻を読み、そこを出るたびに、少しずつ心の眼をひらいたという。おぬしもこの暗黒の一室を、母の胎内と思い、生れ出る支度をしておくがよい。肉眼で見れば、ここはただ暗い開かずの間だが、よく見よ、よく思え、ここには和漢のあらゆる聖賢が文化へささげた光明が詰っている。ここを暗黒蔵として住むのも、光明蔵として暮らすのも、ただおぬしの心にある」
と、諭した。
そして沢庵は去ったのである。
以来、もう幾星霜か。
寒くなれば冬が来たと思い、暖かくなれば春かと思うだけで、武蔵は、まったく月日も忘れていたが、今度、天守閣の狭間の巣に、燕が返ってくる頃になれば、それはたしかに三年目の春である。
「おれも、二十一歳になる」
彼は、沈湎と、自分を省みてつぶやいた。
「――二十一歳まで、おれは何をして来たか」
慙愧に打たれて、鬢をそそけ立てたまま、じっともだえ暮している日もあった。
チチ、チチ、チチ……
天守閣の廂の裏に、燕のさえずりが聞えだした。海を渡って、春は来たのだ。
その三年目である、或る日ふいに、
「武蔵、お達者か」
沢庵がひょっこり上がって来た。
「おっ……」
なつかしさに、武蔵は、彼の法衣の袂をつかんだ。
「今、旅から帰って来たのだよ。ちょうど三年目じゃ。もうおぬしも、母の胎内で、だいぶ骨ぐみが出来たじゃろうと思ってな」
「ご高恩のほど……何とお礼をのべましょうやら」
「礼? ……。ははは、だいぶ人間らしい言葉づかいを覚えたな。さあ、今日は出よう、光明を抱いて、世間へ、人間のなかへ」
三年ぶりに、彼は天守閣を出て、また城主の輝政の前へ連れ出された。
三年前には、庭先へ据えられたが、今日は、太閤丸の広縁の板じきを与えられ、そこへ坐った。
「どうだな、当家に奉公する気はないか」
と輝政はいった。
武蔵は、礼をのべ、身に余ることではあるが、今主人を持つ意思はないと答えて、
「もし私が、この城に御奉公するならば、天守閣の開かずの間に、夜な夜な噂のような変化の物があらわれるかも知れませぬ」
「なぜ?」
「あの大天守の内を、燈心の明りでよく見ますと、梁や板戸に、斑々と、うるしのような黒い物がこびりついています。よく見るとそれはすべて人間の血です。この城を亡った赤松一族のあえなき最期の血液かも知れません」
「ウム、そうもあろう」
「私の毛穴は、そそけ立ち、私の血は、何ともいえぬ憤りを起しました。この中国に覇を唱えた祖先赤松一族の行方はどこにありましょう。茫として、去年の秋風を追うような儚い滅亡を遂げたままです。しかし、その血は、姿こそ変れ、子孫の体に、今もなお生きつつあります。不肖、新免武蔵もその一人です。故に、当城に私が住めば、開かずの間に、亡霊どもがふるい立ち、乱をなさないとも限りませぬ。――乱をとげて、赤松の子孫が、この城を取り戻せば、また一つ亡霊の間がふえるだけです。殺戮の輪廻をくり返すだけでしょう。平和をたのしんでいる領民にすみません」
「なるほど」
輝政は、うなずいた。
「では、再び宮本村へもどり、郷士で終るつもりか」
武蔵は、黙って微笑した。しばらくしてから、
「流浪の望みでござります」
「そうか」
沢庵のほうへ向って、
「彼に、時服と路銀をやれ」
「ご高恩、沢庵からも、有難くお礼を申します」
「お汝から、改まって礼をいわれたのは、初めてだな」
「ははは、そうかも知れませぬ」
「若いうちは、流浪もよかろう。しかし、何処へ行っても、身の生い立ちと、郷土とは忘れぬように、以後は、姓も宮本と名乗るがよかろう、宮本とよべ、宮本と」
「はっ」
武蔵の両手は、ひとりでに床へ落ち、ぺたと平伏して、
「そう致します」
沢庵が、側から、
「名も、武蔵よりは、武蔵と訓まれたほうがよい。暗黒蔵の胎内から、きょうこそ、光明の世へ生れかわった誕生の第一日。すべて新たになるのがよろしかろう」
「うむ、うむ!」
輝政は、いよいよ、機嫌がよく、
「――宮本武蔵か、よい名だ、祝ってやろう。これ、酒をもて」
と、侍臣へいいつける。
席をかえて、夜まで、沢庵と武蔵は、お相手をいいつかった。ほかの家来も多く集まった中で、沢庵は、猿楽舞などを踊りだした。酔えば酔うで、忽ちそこに愉楽三昧な世界をつくる沢庵の面白そうな姿を、武蔵は、慎んで眺めていた。
二人が、白鷺城を出たのは、翌る日であった。
沢庵も、これから行雲流水の旅に向い、当分はお別れとなろうというし、武蔵もまた、きょうを第一歩として、人間修行と、兵法鍛錬の旅路に上りたいという。
「では、ここで」
城下まで来て、別れかけると、
「あいや」
袂をとらえ、
「武蔵、おぬしには、まだもう一人会いたい人があるはずではないか」
「? ……、誰ですか」
「お吟どの」
「えっ、姉は、まだ生きておりましょうか」
夢寐の間も、忘れてはいないのである。武蔵は、そういうとすぐ眼を曇らせてしまった。
沢庵のことばによると、三年前武蔵が日名倉の番所を襲った時は、姉のお吟はもうそこにはいなかったので、何の咎めもうけず、その後は、種々な事情もあって宮本村へは帰らなかったが、佐用郷の縁者の家へ落着いて、今は無事に暮しているというのである。
「会いたかろ」
沢庵は、すすめた。
「お吟どのも、会いたがっておる。したが、わしはこういって待たせて来たのじゃ。――弟は、死んだと思え、いや、死んでおるはずじゃ。三年経ったら、以前の武蔵とはちがった弟を伴れて来てやるとな……」
「では、私のみでなく、姉上の身まで、お救い下さいましたのか。大慈悲、ただかようでござりまする」
武蔵は胸のまえで、掌をあわせた。
「さ、案内しよう」
促すと、
「いや、もう会ったも同じでござります。会いますまい」
「なぜじゃ?」
「せっかく、大死一番して、かように生れ甦って、修業の第一歩に向おうと、心を固めております門出」
「ああ、わかった」
「多くを申し上げないでも、ご推量くださいませ」
「よく、そこまでの心になってくれた。――じゃあ、気まかせに」
「おわかれ申します。……生あれば、またいつかは」
「む。こちらも、ゆく雲、流るる水。……会えたら会おう」
沢庵はさらりとしたもの。
別れかけたが、
「そうじゃ、ちょっと、気をつけておくがの、本位田家の婆と、権叔父とが、お通と、おぬしを討ち果すまでは、故郷の土を踏まぬというて旅へ出ておるぞよ。うるさいことがあろうも知れぬが、関わぬがよい、――またどじょう髯の青木丹左、あの大将も、わしが喋舌ったせいではないが、不首尾だらけで、永のお暇、これも旅をうろついておろう。――何かにつけ、人間の道中も、難所折所、ずいぶん気をつけて、歩きなさい」
「はい」
「それだけのことだ。じゃあ、おさらば」
と沢庵は西へ。
「……ご機嫌よう」
その背へいって、武蔵はいつまでも、辻から見送っていたが、やがて、独りとなって、東の方へ歩みだした。
孤剣!
たのむはただこの一腰。
武蔵は、手をやった。
「これに生きよう! これを魂と見て、常に磨き、どこまで自分を人間として高めうるかやってみよう! 沢庵は、禅で行っている。自分は、剣を道とし、彼の上にまで超えねばならぬ」
と、そう思った。
青春、二十一、遅くはない。
彼の足には、力があった。ひとみには、若さと希望が、らんらんとしていた。また時折、笠のつばを上げ、果て知らぬ――また測り知れぬ人生のこれからの長途へ、生々した眼をやった。
すると――
姫路の城下を離れてすぐである。花田橋を渡りかけると、橋の袂から走って来た女が、
「あっ! ……あなたは」
と袂をつかんだ。
お通であった。
「や?」
と、驚く彼を、恨めしげに、
「武蔵さん、あなたは、この橋の名を、よもやお忘れではありますまいね。あなたの来ぬうちは、百日でも千日でもここに待っているといったお通のことはお忘れになっても――」
「じゃあ、そなたは、三年前からここに待っていたのか」
「待っていました。……本位田家の婆様に狙われて、一度は、殺されそうになりましたが、辛くも、命びろいをして、ちょうど、あなたと中山峠でお別れしてから二十日ほど後から今日まで――」
橋の袂に見える道中土産の竹細工屋の軒を指さして、
「あの家へ、事情を話し、奉公しながら、あなたの姿を待っておりました。きょうは、日数にしてちょうど九百七十日目、約束どおり、これから先は、一緒に伴れて行って下さるでしょうね」
実は、心のそこでは、会いたくて会いたくて、うしろ髪をひかれるような姉のお吟にさえ、眼をつぶって、会わずに足を早めて来た心の矢さきである。
(なんで!)
と、武蔵は、勃然と自分へいう。
――なんで、これからの修業の旅出に、女などを連れて歩かれるものか。
しかも、この女なるものは、かりそめにも本位田又八の許婚であった者。あのお杉婆にいわせれば、聟はいなくとも、
(うちの嫁女)
であるお通ではないか。
武蔵は、自分の顔に、苦い気持が滲みでるのをどうしようもなく、
「連れて行けとは、何処へ」
と、ぶっきら棒にいった。
「あなたの行く所へ」
「わしのゆく先は、艱苦の道だ、遊びに遍路するのではない」
「わかっております、あなたのご修業はお妨げしません、どんな苦しみでもします」
「女づれの武者修業があろうか。わらいぐさだ、袖をお離し」
「いいえ」
お通は、よけいに強く、彼の袂を握って、
「それでは、あなたは、私を騙したのですか」
「いつ、そなたを騙したか」
「中山越えの峠のうえで、約束したではありませんか」
「む……。あの時は、うつつだった。自分からいったのではなく、そなたの言葉に、気が急くまま、うんと、答えただけであった」
「いいえ! いいえ! そうはいわせません」
闘うように、お通は迫って、武蔵の体を、花田橋の欄干へ押しつけた。
「千年杉の上で、私があなたの縄目を切る時にもいいました。――一緒に逃げてくれますかと」
「離せ、おい、人が見る」
「見たって、かまいません。――その時、私の救いをうけてくれますかといったら、あなたは歓喜の声をあげ、オオ、断ってくれこの縄目を断ってくれ! 二度までも、そう叫んだではありませんか」
理をもって責めてはいるが、涙でいっぱいな彼女の眼は、ただ情熱のたぎりであった。
武蔵は、理においても、返す言葉がなかったし、情熱においては、なおさら焦き立てられて、自分の眼まで熱いものになってしまった。
「……お離し……昼間だ、往来の人が振り向いてゆくじゃないか」
「…………」
お通は素直に袂をはなした。そして橋の欄干へ俯ッ伏すと、鬢をふるわせてしゅくしゅくと泣き出した。
「……すみません、つい、はしたないことをいいました。恩着せがましい今のことば、忘れてください」
「お通どの」
欄干の顔をさしのぞいて、
「実は、わしは今日まで、九百幾十日の間――そなたがここでわしを待っていた間――あの白鷺城の天守閣のうえに、陽の目も見ずに籠っていたのだ」
「伺っておりました」
「え、知っていた?」
「はい、沢庵さんから聞いていましたから」
「じゃあ、あの御坊、お通どのへは、何もかも話していたのか」
「三日月茶屋の下の竹谷で、私が気を失っていたところを、救ってくれたのも、沢庵さんでした。そこの土産物屋へ奉公口を見つけてくれたのも沢庵さんです。――そして、男と女のことだ。これから先は知らないヨ、と謎みたいなことをいって、昨日も店でお茶を飲んでゆきました」
「アア。そうか……」
武蔵は、西の道を振向いた。たった今、別れた人と、いつまた、会う日があるだろうか。
今になって、さらに、沢庵の大きな愛を感じ直した。自分へだけの好意と考えていたのは自分が小さいからだった。姉へだけでもない、お通へも、誰へも、その大きな手は平等に行き届いていたのである。
(――男と女のことだ。これから先は、知らないよ)
そう沢庵がいい残して去ったと聞くと、武蔵は、心に用意していなかった重いものを、ふいに、肩へ負わされた気がした。
九百日、開かずの間で、眼を曝してきた尨大な和漢の書物の中にも、こういう人間の大事は一行もなかったようである。沢庵もまた男と女の問題だけは、われ関せず焉、と逃げた。
(――男と女のことは、男と女で考えるほかはない)
そういう暗示か、
(それくらいなことは、せめて自分で裁いてみるがいい)
と自分へ投げた試金石か。
武蔵は、思い沈んだ。――橋の下を行く水をじっと見つめたまま。
するとこんどは、お通からその顔をさしのぞいて、
「いいでしょう。……ネ、ネ」
と、すがる。
「いつでも、お店では、暇を下さる約束になっているんですから、すぐわけを話して、支度をして来ます。待っていて下さいましね」
「頼む!」
武蔵はお通の白い手を橋の欄干へ抑えつけた。
「――思い直してくれ」
「どういう風に」
「最前もいったとおり、わしは、闇の中に三年、書を読み、悶えに悶え、やっと人間のゆく道がわかって、ここへ生れかわって出て来たばかりなのだ。これからが宮本武蔵の――いや名も武蔵と改めたこの身の大事な一日一日、修業のほかに、なんの心もない。そういう人間と、一緒に永い苦艱の道を歩いても、そなたは決して、倖せではあるまいが」
「そう聞けば聞くほど、私の心はあなたにひきつけられます。私はこの世の中で、たった一人のほんとの男性を見つけたと思っております」
「何といおうが、連れてはゆかれぬ」
「では、私は、どこまでも、お慕い申します。ご修業の邪魔さえしなければよいのでしょう。……ね、そうでしょう」
「…………」
「きっと、邪魔にならないようにしますから」
「…………」
「ようございますか、黙って行ってしまうと、私は怒りますよ。ここで待っていてくださいね。……すぐ来ますから」
そう自問自答して、お通は、いそいそと、橋袂の籠細工屋のほうへ駈けて行く。
武蔵は、その隙に、反対の方へ、眼をつぶって駈け去ってしまおうとしたのである。だが意志がわずかにうごいただけで、脚は釘で打ちつけられたように動かなかった。
「――嫌ですよ、行っては」
振向いて、お通が、念を押していう。その白い笑靨へ、武蔵は思わずうなずきを見せてしまった。彼女は、相手の感情を受けとると、もう、安心したように、籠細工屋の内へかくれた。
今だ。――去るならば。
武蔵の心が、武蔵を打つ。
だが、彼の瞼には、今のお通の白い笑靨が――あの哀れっぽいような愛くるしいような眸が――体を縛りつけていた。
いじらしい! あれまでに自分を慕ってくれるものが、姉以外にこの天地にあろうとは思えない。
しかも決して、嫌いではないお通である。
空を見――水を見――武蔵は悶々と橋の欄干を抱いていた。迷っていた。そのうちに、肱も顔も乗せかけているその欄干から、何をしているのか、白い木屑が、ボロボロこぼれ落ちては、行く水に流れて行った。
浅黄の脚絆に、新しいわらじを穿いて、市女笠の紅い緒を頤に結んでいる。それがお通の顔によく似あう。
だが――
武蔵はすでに其処にはいなかったのであった。
「あらっ」
彼女はおろおろ泣き声して叫んだ。
さっき武蔵が佇んでいたあたりには、木屑が散りこぼれていた。ふと欄干の上を見ると、小柄で彫った文字の痕が、唯こう白々と残されていた。
ゆるしてたもれ
ゆるしてたもれ
ゆるしてたもれ