今――
摂津、山城の二ヵ国を貫くこの大河を中心にして、日本の文化は大きな激変に遭っている。太閤の亡き後を、さながら落日の美しさのように、よけいに権威を誇示して見せている秀頼や淀君の大坂城と、関ヶ原の役から後、拍車をかけて、この伏見の城にあり、自ら戦後の経綸と大策に当たり、豊臣文化の旧態を、根本から革めにかかっている徳川家康の勢威と――その二つの文化の潮流が、たとえば、河の中を往来している船にも、陸をゆく男女の風俗にも、流行歌にも、職をさがしている牢人の顔つきにも、混色しているのだった。
「どうなるんだ?」
と、人々はすぐそういう話題に興味を持つ。
「どうって、何が?」
「世の中がよ」
「変るだろう。こいつあ、はっきりしたことだ。変らない世の中なんて、そもそも、藤原道長以来、一日だってあった例はねえ。――源家平家の弓取が、政権を執るようになってからは猶さらそいつが早くなった」
「つまり、また戦か」
「こうなっちまったものを、今さら、戦のない方へ、世の中を向け直そうとしても、力に及ぶまい」
「大坂でも、諸国の牢人衆へ、手をまわしているらしいな」
「……だろうな、大きな声ではいえねえが、徳川様だって、南蛮船から銃や弾薬をしこたま買いこんでいるというし」
「それでいて――大御所様のお孫の千姫を、秀頼公の嫁君にやっているのはどういうものだろ?」
「天下様のなさることは、みな聖賢の道だろうから、下人にはわからねえさ」
石は焼けていた。河の水は沸いている。もう秋は立っているのだが、暑さはこの夏の土用にも勝って酷しい。
淀の京橋口の柳はだらりと白っぽく萎えている。気の狂ったような油蝉が一匹、川を横ぎって町屋の中へ突き当ってゆく。その町も晩の灯の色はどこへか失って、灰を浴びたような板屋根が乾き上がっているのだった。橋の上下には、無数の石船がつながれていて、河の中も石、陸も石、どこを見まわしても石だらけなのである。
その石も皆、畳二枚以上の巨きなものが多かった。焼けきった石の上に、石曳きの労働者たちは、無感覚に寝そべったり腰かけたり仰向けに転がったりしている。ちょうど今が、昼飯刻でその後の半刻休みを楽しんでいるのであろう。そこらに材木をおろしている牛車の牛も涎をたらして、満身に蠅を集めてじっとしている。
伏見城の修築だった。
いつのまにか、世の人々に「大御所」と呼ばしめている家康がここに滞在しているからではない。城普請は、徳川の戦後政策の一つだった。
譜代大名の心を弛緩させないために。――また、外様大名の蓄力を経済的にそれへ消耗させてしまうために。
もう一つの理由は、一般民に、とにかく徳川政策を謳歌させるためには、土木の工を各地に起して、下層民へ金をこぼしてやるに限る。
今、城普請は全国的に着手されていた。その大規模なものだけでも、江戸城、名古屋城、駿府城、越後高田城、彦根城、亀山城、大津城――等々々。
この伏見城の土木へ日稼ぎに来る労働者の数だけでも、千人に近かった。その多くは、新曲輪の石垣工事にかかっているのである。伏見町はそのせいで、急に、売女と馬蠅と物売りが殖え、
「大御所様景気や」
と、徳川政策を謳歌した。
その上、
「もし戦争になれば」
と、町人たちは、機と利を察して、思惑に熱していた。社会事象のことごとくを、そろばん珠にのせて、
「儲けるのはここだ」
無言のうちに、商品は活溌にうごいた。その大部分が、軍需品であることはいうまでもない。
もう庶民の頭には、太閤時代の文化をなつかしむよりも、大御所政策の目さきのいい方へ心酔しかけていた。司権者は誰でもいいのである。自分たちの小さな慾望のうちで、生活の満足ができればそれで苦情がないのだ。
家康は、そういう愚民心理を、裏切らなかった。子どもへ菓子を撒いてやるより易々たる問題であったろう。それも徳川家の金でするのではない。栄養過多な外様大名に課役させて、程よく、彼らの力をも減殺させながら効果を挙げてゆく。
そうした都市政策の一方、大御所政治は、農村に対しても、従来の放漫な切り取り徴発や、国持まかせを許さなかった。徳川式の封建政策をぽつぽつ布きはじめていた。
それには、
(民をして政治を知らしむなかれ、政治にたよらせよ)
という主義から、
(百姓は、飢えぬほどにして、気ままもさせぬが、百姓への慈悲なり)
と、施政の方策をさずけて、徳川中心の永遠の計にかかっていた。
それはやがて、大名にも、町人にも、同じようにかかって来て、孫子の代まで、身うごきのならない手かせ足かせとなる封建統制の前提であったが、そういう百年先のことまでは、誰も考えなかった。いや、城普請の石揚げや石曳きに稼ぎに来ている労働者などは、明日のことさえ、思っていないのである。
昼飯をたべれば、
「はやく晩になれ」
と祈るのが、いっぱいな慾念だった。
それでも時節がら、
「戦争になるか」
「なれば何日頃?」
などと、時局談は、いっぱし熾んだったが、その心理には、
「戦争になったって、こちとらは、これ以上、悪くなりようがねえ」
という気持があるからで、ほんとにこの時局を憂いたり、平和の岐点をじっと案じて、どの方へ曲がるのが国と民のためだろうなどと考えているのでは決してないのである。
「――西瓜いらんか」
いつも昼休みに来る百姓娘が、西瓜の籠を抱えて触れて来た。石の蔭で、銭の裏表を伏せて、博戯をしていた人足の群れで、二つ売れた。
「こちらの衆は、西瓜どうや。西瓜買うてくれなはらんか」
と、群れから群れへ唄ってくると、
「べら棒め、銭がねえや」
「ただなら食ってやる」
そんな声ばかりだった。
すると、たった一人ぽち、青白い顔をして、石と石のあいだに倚りかかって膝を抱えていた石曳きの若い労働者が、
「西瓜か」
と、力のない眼をあげた。
痩せて――眼がくぼんで――日に焦けて、すっかり変ってしまったが、その石曳きは、本位田又八だった。
又八は、土のついた青銭を、掌のうえでかぞえた。西瓜売りにわたして一個の西瓜と交換した。それを抱え込むと、またしばらく、石に倚りかかったまま、ぐんなり俯向いているのである。
「げ……げ……」
突然、片手をつくと、草の中へ牛みたいに唾液を吐いた。西瓜は膝から転がり出している。それを取ろうとする気力もないし、食べようという気で買ったわけでもないらしいのだ。
「…………」
にぶい眼で、西瓜をながめていた。眼は虚無の玉みたいに何の意力も希望もたたえていない。呼吸をすると肩ばかりうごいた。
「……畜生」
呪う者ばかりが頭脳へ映ってくる。お甲の白い顔であり、武蔵のすがたであった。今の逆境へ落ちて来た過去を振顧ると、武蔵がなかったらと思い、お甲に会わなかったらと彼はつい思う。
過ちの一歩は、関ヶ原の戦の時だ。次に、お甲の誘惑だ。あの二つのことさえなかったら、自分は今も、故郷にいたろう。そして本位田家の当主になって、美しい嫁をもち、村の人々から、羨望される身でいられたに違いない。
「お通は、怨んでいるだろうなあ……。どうしているか」
彼の今の生活は、彼女を空想することだけが慰めだった。お甲という女の性質がよくわかってからは、お甲と同棲しているうちから、心はお通へもどっていたのだった。やがてあの「よもぎの寮」と呼ぶお甲の家を、ていよく突き出されたような形で出てしまってからは、よけいにお通を思うことが多かった。
その後また、よく洛内の侍たちの間で噂にのぼる宮本武蔵なる新進の剣士が、むかし友達の「武蔵」であることを知ると、又八はじっとしていられなかった。
(よしっ、俺だって)
彼は酒をやめた。遊惰な悪習を蹴とばした。そして次の生活へかかりかけた。
(お甲のやつにも、見返してやるぞ。――見ていやがれ)
だが、さしずめ適当な職業は見つからなかった。五年も世間を見ずに、年上の女に養われて来た不覚のほどが、はっきり身に沁みて分ったが、遅かった。
(いや、遅かあない。まだ二十二だ。どんなことをしたって……)
と、これは誰にでも起せる程度の興奮だったが、又八としては、眼をつぶって運命の断層をとび越えるような悲壮をもって、この伏見城の土木へ働きに出たのだった。そしてこの夏から秋までの炎天下で、自分でもよく続いたと思うほど労働をつづけていた。
(おれも、一かどの男になってみせる。武蔵のやる芸ぐらい、俺に出来ない法はない。いや、今にあいつを尻目にかけて、出世してみせてやる。その時には、お甲にも黙って復讐できるのだ。見ていろここ十年ばかりに)
だが――と彼はふと思うのだった――十年経ったら、お通は幾歳になるだろうと。
武蔵や自分よりも、彼女は一ツ年下だ。すると今から十年経つうちには、もう三十を一つこえてしまう。
(それまで、お通が、独り身で待っているかしら?)
故郷のその後の消息は何も知らない又八だった。そう考えると、十年では遠すぎる、少なくもここ五、六年のうちだ。なんとしても身を立てて、故郷へ行き、お通に詫びて、お通を迎え取らなければならない。
「そうだ……五年か、六年のうちに」
西瓜を見ている眼に、やや光が出てきた。すると、巨きな石の向う側から、仲間の一人が、肱を乗せていった。
「おい又八、何をひとりでぶつぶついってるんだ。……オヤ、ばかに青い面して、げんなりしているじゃねえか。どうしたんだ、腐った西瓜でも喰らって、腹でも下痢したのか」
つけ元気に、又八はうすく笑った。だがすぐ、不快な眼まいがこみあげて来るらしく、生唾を吐いて顔を振った。
「な、なあに、大したことはないが、少し暑さ中りしたらしいんだ。……すまないが、午から一刻ほど、休ましてくれ」
「意気地のねえ野郎だな」
逞しい石曳き仲間は、愍れむように嘲った。
「なんだい、その西瓜は。喰えもしねえのに買ったのか」
「仲間にすまないから、みんなに喰べてもらおうと思って」
「そいつあ如才のねえこった。おい、又八の奢りだとよ、食ってやれ」
西瓜を持って、その男は、石の角へたたきつけた。忽ち、そこらの仲間が蟻のように寄って来て、赤いしずくの滴る甘肉の破片を貪り合った。
「やあい、仕事だぞうっ」
石曳きの小頭が、石のうえに上がって呶鳴った。監督の侍が、鞭を持って陽除け小屋から出て来る。遽かに汗のにおいが大地にうごき、馬蠅までわんわん立つ。
「テコ」や「コロ」に乗せられた巨大な石が、一握りもある太い綱に曳かれて徐々に前へ出てゆくのだった、雲の峰がうごくように。
築城時代の現出は、それにつれて全国に、石曳き歌というものの流行を興した。今、ここの人足たちが唄い出したのもそれである。阿波の城主蜂須賀至鎮が城ぶしんの課役に出て、そこから国表へつかわしたその頃の書信の一節にも、
(――ゆうべさる方にて習い申しそろ儘、名古屋の石曳きうた書きつけて参らせそろ)
とあって、その歌詞に
われが殿衆は
藤五郎さまじゃに
粟田口より
石また曳きゃる
エイサ、エイサ
コロサと曳きゃる
お声きくさえ
四肢がなゆる
まして添うたら
死のずよの
(――老も若きもうたい囃しそろ。これにてなくば、うき世なるまじく見え候)藤五郎さまじゃに
粟田口より
石また曳きゃる
エイサ、エイサ
コロサと曳きゃる
お声きくさえ
四肢がなゆる
まして添うたら
死のずよの
労働歌が絃歌になり、蜂須賀侯のような大名までが、夜興の口誦みに戯れたものとみえる。
街に歌がさかんになりだしたのは、何といっても太閤の世盛りからだった。室町将軍の頃には、歌があっても廃頽的な室内のものだけだった。その頃は、児童がうたう歌まで、ひがみッぽい暗い歌が多かったが、太閤の世になってからは、歌も明るくなり大きくなり希望的になって、民衆はそれを汗をかきながら太陽の下でうたうことを甚だ好んだ。
関ヶ原の役の後、社会文化に家康色がだんだん濃くなってくると、歌もすこし変って来て、豪放さはうすくなった。太閤様のころには、民衆からひとりでに歌が湧いてきたが、大御所の世間になってからは、徳川家付の作者が作ったような歌が民衆へ提供されて来た。
「……ああ、苦しい」
又八は、頭をかかえた。頭は火みたいに熱かった。仲間のわめいている石曳き歌が、虻に取り巻かれているように耳にうるさかった。
「……五年、五年。アア五年働いていたらどうなるんだ。一日稼いでは、一日分食ってしまい、一日休めば、一日食わずにいなけれやならない」
生唾も出しきって、青ざめた顔を俯向けていた。
――すると、いつのまに来ていたのか、そこから少し離れた所に、藁編みの目の粗い笠を眉深にかぶって、袴腰へ武者修行風呂敷をしばりつけた背の高い若者が、半開きにした鉄扇を、笠のひさしにかざして、熱心に伏見城の地勢や工事のさまを眺めていた。
何思ったか、武者修行はそこへ坐りこんだ。面積一坪ほどな平石の前にである。坐ってみるとちょうど机の高さぐらいに肱がつけるのだ。
「ふッ……ふッ……」
焦けていた石の砂を息で吹く、砂とともに蟻の列もふき飛んでゆく。
ふたつの肱をつくと、編笠はしばらく頬杖に乗っている。陽ざかりで、石はみな照り返すし、草いきれは逆さに顔を撫でるし、さぞ暑いだろうに、身うごきもしない。城の工事に眺め入っているのである。
少し離れた所に、又八がいることなどは、意に介さない様子であった。又八もそこへ来てそういう態をしている武者修行があろうとあるまいと、もとより自分に何の交渉があるわけではないし、頭や胸も依然として不快なので、時折、胃から生唾を吐きながら、背を向けて休んでいた。
――と。その苦しげな息を耳にとめたのだろう。編笠がうごいて、
「石曳き」
と、声をかけ、
「どういたした?」
「へい……暑さ中りで」
「苦しいのか」
「少し落ちつきましたが……まだこう吐きそうなんで」
「薬をやろう」
印籠を割って、黒い粒を掌へうつし、起って来て又八の口へ入れてくれた。
「すぐ癒る」
「ありがとう存じます」
「にがいか」
「そんなでもございません」
「まだ、貴様はそこで、仕事を休んでおるのか」
「へ……」
「誰か参ったら、ちょっとおれの方へ声をかけてくれ、小石で合図をしてくれてもいい、頼むぞ」
武者修行は、そういって、前の位置に坐りこむと、今度はすぐ矢立から筆を取り出し、半紙綴の懐中手帖を石の上にひろげて、ものを書くことに没頭しはじめた。
笠のつば越しに、彼の眼のやりばが、間断なく城へ向ったり、城の外のほうへ行ったり、また城のうしろの山の線や、河川の位置や、天守などへ、転々とうごいてゆくところを見ると、その筆の先は、伏見城の地理と廓外廓内の眼づもりを、絵図に写っているにちがいなかった。
関ヶ原の戦の直前に、この城は西軍の浮田勢と島津勢に攻められて、その増田廓や大蔵廓や、また諸所の塁濠などもかなり破壊されたものだったが、今では、太閤時代の旧観にさらに鉄壁の威厳を加えて、一衣帯水の大坂城を睥睨していた。
今――武者修行が熱心に写している見取図をのぞくと、彼は、いつの折かに、その城のうしろをおおっている大亀谷や伏見山からもこの城地を俯瞰して、べつに一面の搦手図を写しているらしく、いかにも精密なものが出来かかっている。
「……あっ」
又八が、そういった時には、写図に一心になっている編笠のうしろへ、工事課役の大名の臣か、伏見の直臣かわからないが、草鞋ばきで、太刀を革紐で背なかに負うた半具足の侍が、武者修行の気のつくまで、黙って立っていたのだった。
――すまないことをした。又八は正直にすまないと思った。けれどもう遅い。石を投げてやっても声をかけてやっても、もう遅い。
そのうちに、武者修行は、汗の襟元へ食いついた馬蠅を手で払う拍子に、
「――あ?」
振り仰いで、驚きの眼をみはった。
工事目付の侍は、その眼をじっと睨め返して、石の上の見取図へだまって具足の手を伸ばした。
この炎天下の我慢と、粒々の辛苦をして、やっと写した城の見取図が、ものもいわず、いきなり肩越しに出て来た手のために、皺くちゃに掴み奪られようとするのを見ると、武者修行は、火薬の塊りが火を呼んだように、
「何するかッ」
満身で呶鳴った。
手頸をつかまえて立つと、工事目付は奪り上げた彼の写図帖を、奪り返されまいとして、宙へその手をさしあげつつ、
「見せろ」
「無礼なッ」
「役目だ」
「なんであろうが」
「見ては悪いものか」
「悪いっ。貴様などが見たってわかるもんじゃない」
「とにかく預る」
「いかん!」
帖の写図は、双方の手に裂かれて、半図ずつ握りしめた。
「曳ッ立てるぞ、素直にせぬと」
「どこへ」
「奉行所へ」
「貴様、役人か」
「然り」
「何番の。誰の」
「左様なこと、汝らが、訊かんでもいい。此方は、工事場見廻りの役、怪しいと認めたによって、取調べるのじゃ――誰様のおゆるしをうけて、お城の地勢や、御普請などを写し取ったか」
「おれは武者修行だ、後学のため諸国の地理や築城を見学しておる、なんでわるいか」
「さような口実でうろついておる敵の間者は、蠅や蟻ほど多いのじゃ。……とにかくこれは返せん、其方も一応取りただすによって、あっちまで来い」
「あっちとは」
「工事奉行のお白洲」
「おれを罪人扱いするのか」
「だまって参るのだ」
「役人、こらっ。――貴様あ、そんな権柄顔さえすれば愚民が驚くと思っておる癖がついてるな」
「歩かんか」
「歩かせてみろ」
てこでも動かない姿勢を示すのである。見廻りは、青すじを立てた。掴んでいた写図の破れを、地へすてて踏みにじり、二尺余りの長い十手を腰から抜いた。
武者修行の手が刀へかかったら、すかさず、その肱へ十手の打撃を入れてやろうとするもののように、腰を退いて身構えたが、その様子もないので、もう一度、
「歩かんと、縄を打つぞ」
ことばの終らないうちに、武者修行のほうから一歩出て来た。何か大きな声を発したと思うと、見廻りは首の根をつかみ寄せられていた。武者修行の片手はまた、彼の鎧帯の腰をつかんで、
「この、虫けら」
巨石の角へ向って抛り投げた。
見廻りの侍頭は、先刻そこで石曳きの男がたたき割った西瓜のようになって、形を失ってしまった。
「……アッ」
又八は、顔を抑えた。
真っ赤な味噌みたいなものが彼のいる辺りまで刎ねて来たからである。平然たるものは、彼方の武者修行であった。よほどこんな殺人に馴れているのか、また一気に憤りを爆発させて後の涼しさに落着いているのか、とにかく、あわてて逃げ出す様子もなく、見廻りの足で踏みにじられた写図の断片と、そこらに散らばっている反古をひろい集め、次に、相手を投げる途端に紐が切れて飛んで行った編笠を、静かな目で捜している。
「…………」
又八は、凄惨な気に打たれていた。恐ろしい力量を見て自分の毛穴までよだっている。――見るところ武者修行はまだ三十に届くまい。陽焦けのした骨太の顔に薄あばたがあり、耳の下から顎にかけて四半分ほど顔がない。ないというのはおかしいが、太刀で斬られた痕の肉が変に縮んでしまったのかも知れない。その耳の裏にも黒い刀痕があり、左の手の甲にも刀傷がある。なお肌着を脱いだら幾つでも同様な刀傷が出て来そうな――見るからに近寄りがたい猛気をその顔はそなえていた。
笠を拾って、怪異なその顔へかむると、武者修行はさっと足を速めた。風のように彼方へ向って逃げ出したのである。勿論、そこまでの行動は極めて短い間だった。蟻のように労働している何百という石曳きも、鞭や十手を持って、そのあぶら汗を叱咤している監督も、誰も気づく遑がなかったほどに――
だが、その広い工事場を、絶えず高い所から見渡している独特な眼があった。それは丸太組の櫓のうえにいる棟梁衆や作事与力の上役だった。そこから突然、大きな声が放たれたと思うと、櫓の下の湯呑み所の板がこいの中で、大釜の火にいぶされながら働いていた足軽たちが、
「なんだ?」
「何だ」
「また、喧嘩か」
と、外へ飛び出した。
もうその時は、作業場と町屋の境に出来ている竹矢来の木戸で、真っ黒にかたまった人間の怒号が黄いろい埃につつまれていた。
「間者だな! 大坂の」
「性懲りもなく」
「ぶっ殺せ」
口々にいって、石工や土工や工事奉行の配下は、みな自分の敵でもいるように駈け集まって行く。
半分顎のない武者修行が捕まったのだ。竹矢来の外へ出て行く牛車の蔭にかくれて、すばやく木戸の口をすり抜けようとしたが、そこの番衆たちに挙動を怪しまれて、釘の植わっている刺叉という柄の長い道具で、いきなり足を搦み取られたのであった。
そこへ、櫓の上からも、
「その編笠を引ッ捕えろっ」
と、呼ばわる声が同時にあったので、理由などは問わず、遮二無二、組み伏せにかかると、武者修行は形相をあらためて、野獣のように死にもの狂いとなった。
刺叉を引っ奪くられた男が、真っ先にその得物の先で髪を引っかけられた。四、五人叩き伏せておいて、虚空へさっと閃かしたのは彼の腰に横たえていた胴田貫らしい大太刀である。平常の差刀には頑丈すぎるが、陣太刀にすれば手ごろである。――それを抜いて額の真っ向に揮りかぶると、
「こいつらッ」
睨んだだけで、そこの重囲が凹んだので、武者修行は血路をひらくつもりで駈けこんで行った。
すると、危険を避けて人間はわっと散らかったが、途端に八方から小石が降って来たのである。
「殺っちまえ」
「たたっ殺してしまえっ」
肝腎な侍たちが臆して近よらないので、平常、武者修行というものに対して、彼らは少しばかりの知識や学問を鼻にかけ、世の中をただ威張って横に歩くのを見栄にしている無産の僻み者か、一種の逸民と認めて、それに反感を抱いている石工だの土工だのという労働者たちが、
「殺っちまえ」
「のしちまえ」
と叫んで、四方から抛りつける、それは無数の石つぶてであった。
「この凡下どもめ!」
駈け入れば、わッと散るのだ。武者修行の眼はもう自分の生きる路を見つけるよりも、その石の来るほうの人間へ向って、理智や利害を越えている。
怪我人も多く出たし、死者も幾人かあったのに、それから一瞬の後は、めいめい職場にかえって、けろりとした工事場の広さであった。
何事もなかったように、石曳きは石を曳き、土工は土をかつぎ、石工は鑿で石を割っている。
鑿が火花を出す暑い音、霍乱をおこして暴れくるう馬のいななき、残暑の空は、午後に入って、じいんと鼓膜が馬鹿になるような熱さだった。伏見城から淀のほうへ背のびをしている雲の峰は、しばらくうごきもしなかった。
「もう九分九厘まで、くたばっているが、御奉行が来るまでこうして置くから、汝そこにいて、こいつの番をしておれ。――死んだら死んだまでのことでいい」
人足頭や目付の侍に、こう命じられたことを又八は覚えている。――だが頭がどうかなってしまったのか、先刻から目撃したきりそう吩咐けられたことも、なんだか悪夢をみているようで、眼や耳には意識しても、頭のしんまで届いていない。
「……人間なんて、つまんねえものだな。たった今そこで、城の見取図を写していた男が」
又八のにぶい眸は自分から十歩ほど先の地上にある一個の物体を見つめたまま、最前からぽんやりと虚無的な考えに囚われている。
「……もう死んでるらしい。まだ三十前だろうに」
と彼は思い遣った。
顎の半分ない武者修行は、太い麻縄で縛られて、血に土のまぶされた黒い顔を、無念そうにしかめたまま、その顔を横伏せにして倒れている。
縄尻はそばの巨きな石に巻きつけてあるのだった。もう「ウ」も「ス」もいい得ない死人の体をそう大仰に縛っておかないでもよさそうなものと又八はながめていたことだった。何で撲られたのか、破れた袴から変な恰好して露出している脚の脛は、肉が弾けて折れた白骨の先が飛び出していた。髪は粘って血を噴いているし、その血へは虻がたかり、手や脚にはもう蟻の群れが這っている。
「武者修行に出たからには、のぞみを抱いていたろうに。――故郷は何処か。親はあるのかないのか」
そんなことを思い遣ると、又八はいやな気持に襲われて、武者修行の一生を考えているのか、自分の身の果てを考えているのか、分らなくなってきた。
「望みをもつにも、もっと悧巧に出世する道がありそうなものだ」
と、つぶやいた。
時代は若い者の野望を煽って、「若者よ夢を持て」「若者よ起て」と未完成から完成への過渡期にあった。又八ですらその社会の空気を感じるほど、今は、裸から一国一城の主を望める時である。
そのために、青年は続々離郷する――また家を離れ骨肉も省みない。その多くが武者修行の道をとるのだ。武者修行をして歩けば今の社会では到るところで衣食に事を欠くことはない。田夫野人でも武術には関心をもっているからだ。寺院へ頼っても渡れるし、あわよくば地方の豪族の客となり、なお、幸運にぶつかれば、一朝事のある場合のために、大名の経済から「捨て扶持」「蔭扶持」などというものを貢がれることもある。
だが数多い武者修行の中で、そういう幸運にあう者がどれほどあろうかといえば、これは極めて少数にちがいない。功成り名を遂げ、一人前の禄取りになるほどの者は一万人中で二人か三人を出ないであろう。――それでいて修行の苦しさと、達成の至難なことは、これでいいという、卒業の行き止まりがないのである。
(馬鹿馬鹿しい……)
又八は、同郷の友の宮本武蔵が行った道を憐んだ。おれは将来、奴を見返してやるにしても、そんな愚かな道はとらないぞと思う。ここに死んでいる顎のない武者修行のすがたを見てもそう思う。
「……おやっ?」
又八は飛び退いて大きな眼をすえた。なぜならば、死んだものときめていた蟻だらけの武者修行の手がびくっと動き出して、縄目の間から鼈のような手首だけを出して大地へつき、やがてむくりと、腹を上げ、顔を上げ、次に前のほうへ一尺ばかり、ずるりと這い出して来たからであった。
ぐ……と生唾をのんで又八はなおも後へ摺り退がった。腹の底から驚きを感じると声も出ないものだ。ただ眼のみ大きくみひらいて、目前の事実に茫失した。
「……ひゅっ……ひゅっ……」
彼は、何かいおうとするらしい。彼とは顎の半分ない武者修行である。完全に死んでいると思っていたこの男は、まだ生きていたのだ。
……ヒュッ、ヒュッと断れ断れに彼の呼吸が喉で鳴るのである。唇は黒く渇いてしまって、そこから言葉を吐くのはもう不可能な業であった。それを必死に一言でもいおうとするので、呼吸が割れた笛の鳴るような音を出すのだった。
又八が驚いたのは、この男が生きていたからではない。胸の下に縛りつけられている両手で這って来たからだ。それだけでも、驚くに足る人間の死力であるのに、その縄尻の巻きつけてある何十貫もあろう巨石が、この瀕死の傷負が引っ張る力で、ズル、ズル……と一、二尺ずつ前へ動いて来たからである。
まるで、化け物のような怪力だ。この工事場の労働者のうちにも、ずいぶん力自慢があって、十人力とか二十人力とか自称している天狗もあるが、こんな化け物は一人もいない。
しかも、この武者修行は、今や死なんとしている体なのだ。――死なんとする境にあるために、そんな人間業でない力が出るのかも知れないが、とにかく、その飛び出しそうな武者修行の眼が自分の方を見つめて這い進んで来たので、又八は腰が竦んでしまった。
「……しょっ……しょっ……お、お、おねがい」
また何か、変った語音を出していう。意味はまったく分らない。ただ判じのつくのは武者修行の眼だ――死なんとするのを知っているその眼である――血ばしっている中に涙腺はかすかに涙みたいなものを湛えている。
「……たっ……た……たのむ……」
がくっと首を前へ折った。こんどはほんとに息が絶えたのだろう、見ているうちに襟首の皮膚の色が青黒く沈んで行った。草むらの蟻がもう白っぽい髪の毛にたかっている。血のかたまった鼻の穴を一匹はのぞきこんでいた。
「? ……」
何を頼まれたのか、又八は茫としているだけだった。けれどこの怪力の武者修行が臨終の一念は、自分へ憑き物のようについていて違えることのできない約束の負担を負わされたような気持がしてならない。――自分の病苦を見て、薬を服ませてくれたり、誰か来たら合図してくれと頼まれたのに、うっかりしていて、それを告げてやらなかったことなども、妙に深刻な宿縁みたいに思い出されてくる。
――石曳き唄は、遠くなっていた。お城は暮靄にかすんで来た。いつのまにかもう黄昏れかけて、伏見の町には早い灯りがポツポツ戦ぎだしている。
「そうだ……何かこの中に」
又八は、死者の腰に結びつけている武者修行風呂敷をそっと触ってみた。――生国、骨肉などの身許も、この中を見ればわかるにちがいない。
(故郷の土へ、遺物を届けてくれというのだろう)
そう彼は判断した。
包みと印籠を、死者の体から取って、自分の懐中へ入れた。――そして髪の毛でもと思って、一握り切ろうとしたが、死者の顔をのぞいて、ぞっとしてしまった。
――跫音が聞えた。
石の蔭から見ると、奉行配下の侍たちだ。又八は、死骸から無断で取った品物が自分の懐中にあると思うと、自分の危険を感じて、そこにいたたまらなくなった。――背を屈めて、石の蔭から蔭へと、野鼠のように逃げて行った。
夕ぐれの風はもう秋だった。糸瓜は大きくなっている。その下で、盥の湯に浴かっている駄菓子屋の女房が、家の中の物音に、戸板の蔭から白い肌を出していった。
「誰だえ。又八さんかい?」
又八はこの家の同居人だった。
今、あたふたと帰って来ると、戸棚を掻廻して、一枚の単衣と一腰の刀を出し、姿をかえると、手拭で頬冠りして、またすぐ草履を穿こうとしていた。
「暗かろ、又八さん」
「なに、べつに」
「今すぐ灯りをつけるで」
「それには及ばないよ、出かけるから」
「行水は」
「いらん」
「体でも拭いて行ったら」
「いらん」
急いで裏口から飛び出して行った。といっても、垣も戸もない草原つづきである。彼が長屋から出て来ると入れちがいに、数名の人影が、萱の彼方を通って、駄菓子屋の裏表へ入ってゆくのが見えた。工事場の侍が交じっていた。又八は、
「あぶない所だった」
と呟いた。
顎の半分ない武者修行の死体から、包みや印籠を取った者のあることは、その後ですぐ発見された筈である。当然、その側にいた自分に盗人の嫌疑がかかったに相違ない。
「だが……俺は盗みをしたのじゃない。死んだ武者修行の頼みにやむなく持物を預かって来たのだ」
又八は疚しくなかった。その品は懐中に持っている。これは預かった物だと意識しながら持っている。
「もう石曳きに行かれない」
彼は、明日からの放浪に、なんのあてもなかった。しかし、こういう転機でもなければ、何年でも石を曳いているかも知れないと思うと、かえって先が明るく考えられる。
萱の葉が肩までかかる。夕露がいっぱいだ。遠くから姿を発見される惧れがなくて逃げるには気楽だ。さてこれからどっちへゆくか? どっちへ行こうと体一つである。何かいい運だの悪い運だのがいろいろな方角で自分を待っているらしく思う。今の足の向き方ひとつで生涯に大きな違いが生じるのだ。必然、こうなるものだと決定された人生などがあろうとは考えられない。偶然にまかせて歩くよりほか仕方がない。
大坂、京都、名古屋、江戸――流浪の先を考えてみるが、何処に知己があるわけではなし、賽ころの目をたのむように頼りがない。賽ころに必然がないように、又八にも必然がないのだった。何かここに起ってくる偶然があれば、それに引かれて行こうと思う。
だが、伏見の里の萱原には、歩けど歩けど何の偶然もなかった。虫の音と露とが深くなるばかりだった。単衣のすそはびっしょり濡れて足に巻きつき、草の実がたかって、脛がむず痒い。
又八は、昼の病苦をわすれた代りに、すっかり飢じくなっていた。胃液まで空っぽなのだ。追手の心配がなくなってからは、急に歩くことが苦痛になっていた。
「……何処かで寝たいものだ」
その慾望が彼を無意識にここへ運んで来たのである。それは野末に見えた一軒の屋の棟だった。近づいてみると垣も門も暴風の時に傾いたまま誰も起してやり手がない。おそらく屋根も満足なものではあるまい。しかし一度は貴人の別荘とされて、都あたりから、糸毛の輦にたけた麗人が、萩を分けて通ったこともありそうな家造りなのである。又八はその無門の門を通って中へ入り、秋草の中に埋まっている離亭や母屋をながめて、ふと玉葉集の中にある西行の、
会ひしりて侍りける人の伏見にすむと聞きて尋ねまかりけるに、庭の草、道も見えずしげりて虫の啼きければ――「わけて入る袖にあはれをかけよとて露けき庭に虫さへぞ啼く」
――そんな文句を思いだして、肌寒げに立ちすくんでいると、当然人は住んでいないものとばかり思っていた家の奥に、風で燃え出した炉の火がぱっと赤く見え、しばらくすると尺八の音がそこから聞えだした。ちょうどよい塒とここに一夜を明かしている虚無僧らしいのである。炉の火が赤く立つと、大きな人影が婆娑として壁に映る。独り尺八を吹いているのだ。それはまた他人に聞かそうためでもなく自ら誇って陶酔している音でもない。秋の夜の孤寂の遣る瀬なさを、無我と三昧に過ごしているだけのことなのだ。
一曲終ると、
「ああ」
虚無僧は、ここは野中の一軒家と、安心しきっているらしく独り言に――
「四十不惑というが、おれは四十を七つも越えてからあんな失策をやって、禄を離れ家名をつぶし、剰え独りの子まで他国へ流浪させてしまった。……考えれば慚愧にたえない。死んだ妻にも生きている子にも会わせる顔がない。……このおれなどの例を見ると、四十不惑などというのは聖人のことで、凡夫の四十だいほど危ないものはない。油断のならない山坂だ。まして女に関しては」
胡坐の前に、尺八を縦に突き、その歌口へ両手をかさねて、
「二十だい、三十だいの年でも、由来おれは、やたらに女のことで失敗をやって来たが、そのころにはどんな醜聞をさらしても、人も許してくれたし、生涯の怪我にもならなかった。……ところが、四十だいとなると、女に対してすることが厚顔ましくもなるし、それがお通の場合のような事件になると、今度は世間がゆるさない。そして、致命的な外聞になってしまった。禄も家もわが子にも離れるような失敗になってしまった。……そして、この失敗も、二十だい三十だいなら取り返せるが、四十だいの失敗は二度と芽を出すことがむずかしい」
盲人のように俯向いたまま、声を出してそういっているのである。
――又八は、彼のいる近くの部屋までそっと上がって行ったが、炉の火にぽっと浮いている虚無僧の痩せおとろえた頬の影や、野犬のように尖っている肩や、脂けないほつれ毛などを見つつ、その告白を聞いていると、夜鬼のすがたを思い出して、ぞっと背がすくんでしまい、近寄って話しかける気持になどはとてもなれなかった。
「アア……それを……おれは……」
虚無僧は、天井を仰向いた。骸骨のように鼻の穴が大きく又八のほうから見える。凡の浪人の垢じみた着物を着て、その胸に、普化禅師の末弟という証ばかりに黒い袈裟をつけているに過ぎないのである。敷いている一枚の筵は、常に巻いて手に持って歩く彼の唯一の衾であり雨露の家だった。
「――いっても、返らないことだが、四十だいほど、油断のならない年頃はない。自分だけが、いっぱし世の中も観、人生もわかったつもりで、少しばかりかち得た地位に思い上がって、ともすると、女に対しても、臆面のない振舞に出るものだから、おのれのような失敗を――運命の神から背負い投げを喰わされるのだ。……慚愧のいたりだ」
誰かに向って謝っているように、虚無僧は頭を下げて、さらにまた下げて、
「おれはいい、おれは、それでも、いいとしよう。――こうして懺悔の中に、なお許してくれる自然のふところに生きて行かれるから」
と、ふと涙をこぼし、
「――だが、済まないのは、わが子に対してだ。おれのした結果は、おれに酬うより、あの城太郎のほうへより多く祟っている。とにかく、姫路の池田侯に藩臣としてこのおれが歴乎としていれば、あの子だって、千石侍の一人息子だ。それが今では、故郷を離れ、父を離れ……。イヤそれよりも、あの城太郎が成人して、この父が、四十だいになってから、女のことで藩地から放逐されたなどと知る日が来たら、おれはどうしよう。おれは子に会わす顔がない」
――しばらくは、両手で顔をおおっていたが、やがて何思ったか、炉のそばを立つと、
「やめよう、また愚痴が出て来おった。……おお月が出たな、野へ出て、思うさま流して来ようか。そうだ、愚痴と煩悩を野へ捨てて来よう」
尺八を持って、彼は外へ出て行った。
妙な虚無僧である。よろよろ立ってゆく時、物蔭から又八が見ていると、その痩せこけた鼻下にはうすいどじょう髭が生えていたように思う。そう年を老っているほどでもないのに、ひどくよぼよぼした足元だった。
ぷいと出て行ったきり、なかなか戻って来ないのだ。少し精神に異常があるのだろうと、又八は不気味に思う半面にあわれな気もした。それはいいが、物騒なのは、炉に残っている火であった。ぱちぱちと夜風がそれを煽っている。燃え折れた柴の火は、床を焦がしているではないか。
「あぶねえ、あぶねえ」
又八はそこへ行って、土瓶の水をじゅっとかけた。これが野中の破れ邸だからいいようなものの飛鳥朝や鎌倉時代の二度と地上に建てることのできない寺院などであったらどうだろうと考えて、
「あんなのがいるから、奈良や高野にも火事があるんだ」
と彼は、虚無僧の去ったあとに自分が坐って、がらにもない公徳心を呼び起していた。
家産や妻子もない代りに、社会への公徳心も絶無な浮浪者には、火が怖いものという観念も全くないらしい。だから彼らは、金堂の壁画の中ですら平然と火を燃やす。世の中に無用に生きているに過ぎない一個の空骸を暖めるために火を燃やす。
「だが……浮浪人だけが悪いともいえねえな」
又八は自分も浮浪人であることを思って考えた。今の世の中ほど浮浪人が多い社会はない。それは何が生んだかといえば、戦だった。戦によってぐんぐん地位を占めてゆく者も多い代りに、芥のように捨てられてゆく人間の数も実に夥しい。これが次の文化の手枷、足枷となるのもやむを得ない自然の因果といえよう。そういう浮浪の徒が、国宝の塔を焚火で焼く数よりは、戦が、意識しつつ、高野や叡山や皇都の物を焼いたほうが、遥かに大きな地域であった。
「……ほ。洒落たものがあるぞ」
又八はふと横を見てつぶやいた。ここの炉も床の間も、改めて見直せば、元は茶屋にでも使っていたらしい閑雅な造りなのである。そこの小床の棚に、彼の眼をひいた物がある。
高価な花瓶や香炉などではない。口の欠けた徳利と、黒い鍋だった。鍋には食べ残した雑炊がまだ半分残っているし、徳利は振ってみると、ごぼっと音がして、欠けた口から酒がにおう。
「ありがたい」
こういう場合、人間の胃は、他の所有権を考えている遑はない。徳利の濁り酒をのみ、鍋を空にして、又八は、
「ああ、腹が満った」
ごろんと手枕になる。
トロトロと炉の火もとに眠りかける。雨のように野は虫の音に更けてゆく。戸外ばかりでなく、壁も啼く、天井も啼く、破れ畳も啼きすだく。
「そうだ」
何か思い出したとみえる。むくりと彼は起き直った。懐中にある一個の包み――かの顎の半分ない武者修行から、死に際に頼まれて持って来た包みの中を――こうしている間に一度見ておこう。そう急に思いついたらしい。
解いてみた。――それは蘇芳染の汚れきった風呂敷だった。中から出て来たのは、洗いざらした襦袢だの普通の旅行者の持つ用具などであったが、その着がえをひろげてみると、いかにも大事そうに、油紙でくるんである巻紙大の物と路銀の金入れであろう、どさっと重い音が膝の前に落ちた。
むらさき革の巾着であった。その金入れの中には、金銀取交ぜてだいぶの額が入っていた、又八は数えるだけでも自分の心が怖くなって、思わず、
「これは他人の金だ」
と、殊さらにつぶやいた。
もう一つの油紙に包んであるものを開いてみると、これは一軸の巻物である。軸には花梨の木が用いてあり、表装には金襴の古裂れが使ってあって、何となく秘品の紐を解く気持を抱かせられる。
「何だろ?」
全く見当のつかない品物だった。巻を下へ置いて、端の方から徐々に繰り展げて見てゆくと――
印可
一 中条流太刀之法
一 表
電光、車、円流、浮きふね
一 裏
金剛、高上、無極
一 右七剣
神文之上
口伝授受之事
月 日
越前宇坂之庄浄教寺村
富田入道勢源門流
後学 鐘巻自斎
佐々木小次郎殿
とあって、その後に別な紙片を貼り足したと思われるところには「奥書」と題して、左の一首の極意の歌が書いてあるのであった。一 中条流太刀之法
一 表
電光、車、円流、浮きふね
一 裏
金剛、高上、無極
一 右七剣
神文之上
口伝授受之事
月 日
越前宇坂之庄浄教寺村
富田入道勢源門流
後学 鐘巻自斎
佐々木小次郎殿
掘らぬ井に
たまらぬ水に
月映して
影もかたちもなき
人ぞ汲む
「……ははあ、これは剣術の皆伝の目録だな」たまらぬ水に
月映して
影もかたちもなき
人ぞ汲む
そこまでは又八にもすぐ分ったが、鐘巻自斎という人物については、何の知識もなかった。
もっとも、その又八にでも、伊藤弥五郎景久といえばすぐ、
(アアあの一刀流を創始して、一刀斎と号している達人か)
と合点がゆくであろうが、その伊藤一刀斎の師が、鐘巻自斎という人で、またの名を外他通家といい、まったく社会からは忘れられている、富田入道勢源の正しい道統をうけついで、その晩節をどこか辺鄙な田舎に送っている高純な士であるなどということはなおさら知らない。
そういう詮索よりも、
「――佐々木小次郎殿? ……ははアすると、この小次郎というのが、きょう伏見のお城工事で、無残な死に方をしたあの武者修行の名だな」
と、そこに頷いて、
「強いはずだ。この目録をみても分るが、中条流の印可をうけているのだもの。惜しい死に方をしたものだな。……さだめしこの世に心残りなことだったろう。あの最期の顔は、いかにも死ぬのが残念だという顔つきだった。――そしておれに頼むといったのは、やはりこの品だろう。これを郷里の知る辺へでも届けてくれといいたかったに違いない」
又八は、死んだ佐々木小次郎のために、口のうちで、念仏をとなえた。そしてこの二品は、きっと死者の望むところへ届けてやろうと思った。
――また、ごろりと彼は横になっていた。肌寒いので寝ながら炉の中へ柴を投げこんで、その炎にあやされながらウトウト眠りかけた。
ここを出て行った奇異な虚無僧が吹いているのであろう、遠い野面から尺八の音が聞えて来る。
何を求め、何を呼ぶのか。彼が出て行く折につぶやいたように、愚痴と煩悩を捨て切ろうとする必死がこもっているせいかも知れない。――とにかくそれは物狂わしいまで夜もすがら吹いて野をさまよっていたが、又八はもう疲れきって、熟睡してしまったので、尺八の音も虫の音も、すべて昏々の中であった。
野は灰色に曇っている。今朝の涼しさは「立つ秋」を思わせ、眼に見るものすべてに露がある。
戸の吹き仆されている厨に、狐の足痕がまざまざ残っていた。夜が明けても、栗鼠はそこらにうろついている。
「アア、寒い」
虚無僧は、眼をさまして、広い台所の板敷へかしこまった。
夜明け頃、ヘトヘトになって戻って来ると、尺八を持ったまま、ここへ横になって眠ってしまった彼である。
うす汚い袷も袈裟も、夜もすがら野を歩いていたために、狐に魅かされた男のように草の実や露でよごれていた。きのうの残暑とは比較にならない陽気なので、風邪をひき込んだのであろう、鼻のうえに皺をよせ、鼻腔と眉を一緒にして、大きな嚔を一つ放つ。
ありやなしやの薄いどじょう髭の先に、鼻汁がかかった。恬として、虚無僧はそれを拭こうともしないのである。
「……そうじゃ、ゆうべの濁り酒がまだあったはず」
つぶやいて起ち上がり、そこも狐狸妖怪の足痕だらけな廊下をとおって、奥の炉のある部屋をさがしてゆく。
捜さなければ分らないほど、この空屋敷は昼になってみるとよけいに広いのである。もちろん、見つからないほどでもないが――
(おや?)
うろたえた眼をして見廻している。あるべきところに酒の壺がないのだ。しかしそれはすぐ炉のそばに横たわっているのを発見したが、同時に、その空の容器とともに、肱枕をして、涎をながして眠っている見つけない人間をも見出し、
「誰だろ?」
及び腰に覗き込んだ。
よく眠っている男だった。撲りつけても眼を醒ましそうもない大鼾声をかいているのである。酒はこいつが飲んだのだな――と思うとその鼾声に腹が立つ。
まだ事件があった。今朝の朝飯として食べのこしておいた鍋の飯が、見れば底をあらわして一粒だにないではないか。
虚無僧は顔いろを変えた。死活の問題であった。
「やいっ」
蹴とばすと、
「ウ……ウむ……」
又八は、肱を外してむっくと首をあげかけた。
「やいっ」
つづいて、もう一ツ、眼ざましに足蹴を食らわすと、
「何しやがる」
寝起きの顔に、青すじを立てて、又八はぬっくと起ち上がった。
「おれを、足蹴にしたな、おれを」
「したくらいでは、腹が癒えんわい。おのれ、誰に断って、ここにある雑炊飯のあまりと酒を食らったか」
「おぬしのか」
「わしのじゃ!」
「それやあ済まなかった」
「済まなかったで済もうか」
「謝る」
「謝るとだけでことは納まらん」
「じゃあ、どうしたらいいんだ」
「かやせ」
「返せたって、もう腹の中に入って、おれの今日の生命のつなぎになっているものをどうしようもねえ」
「わしとて、生きて行かねばならん者だ。一日尺八をふいて、人の門辺に立っても、ようよう貰うところは、一炊ぎの米と濁酒の一合の代が関の山じゃ。……そ、それを無断であかの他人のおのれらに食われて堪ろうか。かやせ! かやせ!」
餓鬼の声である。どじょう髭の虚無僧は、飢えている顔に青すじを立て威猛高に喚いた。
「さもしいことをいうな」と又八は蔑んで――
「多寡が鍋底の雑炊飯や、一合に足らぬ濁り酒のことで、青筋を立てるほどのことはあるまいが」
虚無僧は執こく憤って、
「ばかをいえ、残り飯でも、この身にとれば一日の糧だ、一日の生命だ。かやせっ、かやさなければ――」
「どうするって」
「うぬっ」
又八の腕くびを掴まえ、
「ただはおかぬっ」
「ふざけるなっ」
振り離して、又八は、虚無僧の襟がみを掴み寄せた。
飢えた野良猫にひとしい虚無僧の細っこい骨ぐみだった。叩きつけて、一振りに、ぎゅうといわせてやろうとしたが、襟がみをつかまれながら、又八の喉輪へつかみかかって来た虚無僧の力には、案外な粘りがある。
「こいつ」
と、力み直したが、相手の足もとは、どうして、確かりとしたものだ。
かえって又八が顎をあげて、
「うッ……」
妙な声をしぼりながら、どたどたっと次の部屋まで押し出され、それを食い止めようとする力を利用されて、手際よく、壁へ向って投げ捨てられた。
根太も柱も腐蝕っている屋敷である。一堪りもなく壁土が崩れて、又八は全身に泥をかぶった。
「ペッ……ペッ……」
猛然と唾して立つと、ものをいわない代りに、凄い血相が刃物を抜いて、跳びかかってきた。虚無僧も心得たりという応対で、尺八をもって渡りあう。しかし情けないことにはすぐ息喘れが出て来て、尖った肩でせいせいいうのだ。それに反して又八の肉体はなんといっても若かった。
「ざまを見ろッ」
圧倒的に又八は、斬りかけ斬りかけして、彼に息をつく間を与えない。虚無僧は化けて出そうな顔つきになった。体の飛躍を欠いてともすると蹴つまずきそうになる。そのたびに何ともいえない死に際のさけびを放った。そのくせ八方に逃げ廻って、容易には太刀を浴びないのである。
しかし結果は、その誇りが又八の敗因となった。虚無僧が猫のように庭へ跳んだので、それを追うつもりで廊下を踏んだ途端に、雨に朽ちていた縁板がみりっと割れた。片足を床下へ突っこんで、又八が尻もちをついたのを見ると、得たりと刎ね返して来た虚無僧が、
「うぬ、うぬ、うぬっ」
胸ぐらを取って、顔といわず鬢たといわず、撲りつけた。
脚がきかないので又八はどうにもならなかった。自分の顔が見るまに四斗樽のように腫れたかと思う。――すると、もがき争っている懐中から、金銀の小粒がこぼれた。撲られるたびに美い音がして、貨幣はそこらに散らかった。
「――やっ?」
虚無僧は、手を放した。
又八もやっと彼の手をのがれて跳び退いた。
自分の拳が痛くなるほど、憤怒を出しきった虚無僧は、肩で息をしながら、あたりにこぼれた金銀に眼を奪われていた。
「やいっ、畜生め」
腫れ上がった横顔を抑えながら又八は、声をふるわせてこういった。
「な、なんだっ、鍋底のあまり飯くらいが! 一合ばかしの濁酒が! こう見えても、金などは腐るほど持っているんだ。餓鬼め、ガツガツするな。それほどほしけれやあ、くれてやるから持ってゆけっ。その代り、今てめえが俺を撲っただけ、こんどは俺が撲るからそう思えっ。――さっ、冷飯と濁酒代に利子をつけて返すから、頭を出せっ、頭をここへ持って来いっ」
又八はなんと罵っても、相手の虚無僧がそれきりぐうの音も出さないので、彼もようよう気を鎮めて見直すとどうしたことか、虚無僧は縁板に顔を沈めて泣いている――
「こん畜生、金を見たら急に哀れっぽいふうを見せやがって」
と、又八は毒づいたが、そうまで、恥かしめられても、虚無僧はもう先の勢いはどこへやら、
「あさましい。アア、あさましい。どうしておれはこう馬鹿なのか」
もう又八へ対していっているのではない、ひとりで悶え悲しんでいるのだ。その自省心の烈しいことも、常人とは変っていて、
「この馬鹿、貴さまは一体、幾歳になるのか。こんなにまで、世の中から落伍して、落魄れ果てた目をみながら、まだ醒めないのか、性なしめ」
そばの黒い柱へ向って、自分の頭をごつんごつん打つけては泣き、打つけては泣き、
「何のために、汝は尺八をふいているか。愚痴、邪慾、迷妄、我執、煩悩のすべてを六孔から吐き捨てるためではないか。――それを何事だ、冷飯と酒のあまりで、生命がけの喧嘩をするとは。しかも息子のような年下の若者と」
ふしぎな男だ。そういって口惜しげにベソを掻くかと思うと、また、自分の頭を、柱に向って叩きつけ、その頭が二つに割れてしまわないうちは止めそうもないのである。
その自責からする折檻は、又八を撲った数よりも遥かに多い。又八は呆っけにとられていたが、青ぶくれになった虚無僧の額から血がにじみ出て来たので、止めずにいられなくなった。
「ま、ま、止したらどうだ、そんな無茶な真似」
「措いて下され」
「どうしたんだい」
「どうもせぬ」
「病気か」
「病気じゃござらぬ」
「じゃあなんだ」
「この身が忌々しいだけじゃ。かような肉体は、自分で打ち殺して、鴉に喰わせてやったほうがましじゃが、この愚鈍のままで殺すのも忌々しい。せめて人なみに性を得てから、野末に捨ててやろうと思うが、自分で自分がどうにもならぬので焦れるのじゃ。……病気といわれれば病気かのう」
又八は、何か急に気の毒になって来て、そこらに落ちている金を拾いあつめて、幾らかを彼の手に握らせながら、
「おれも悪かった、これをやろう。これで勘弁してくれ」
「いらん」手を引っこめて、
「金など、いらん、いらん」
鍋の残り飯でさえ、あんなに怒った虚無僧が、けがらわしい物でも見るように、強く首を振って、膝まで後へ退がってゆく。
「変な人だな、おめえは」
「さほどでもござらぬ」
「いや、どうしても、少しおかしいところがあるぜ」
「どうなとしておかれい」
「虚無僧、おぬしには、時々、中国訛りが交じるな」
「姫路じゃもの」
「ほ……。おれは美作だが」
「作州? ――」と、眼をすえて、
「してまた、作州はどこか」
「吉野郷」
「えっ。……吉野郷とはなつかしいぞ。わしは、日名倉の番所に、目付役をして詰めていたことがあるで、あの辺のことは相当に知っておるが」
「じゃあ、おぬしは、元姫路藩のお侍か」
「そうじゃ、これでも以前は、武家の端くれ、青木……」
名乗りかけたが、今の自分を省みて、人前に身を置いているに耐えなくなったか、
「嘘だ、今のは、嘘じゃよ。どれ……町へながしに行こうか」
ぷいと立って、野へ歩み去った。
――金が気になる。費ってならない金だと思うにつけて気になるのだ。たんとは悪いが、少しぐらいは、この中から借りて費ったところで罪悪にはなるまいと遂には思う。
「死者の頼みで、その遺物を、郷里へ届けてやるにしても、路銀というものが要る。当然、その費用は、この内から費ったとて関うまい」
又八はそう考えてから、幾分気が軽くなった。――気が軽くなった時には、もう幾分ずつ、小出しにそれを費い始めていた時なのである。
だが、金のほかに死者から預かっている「中条流印可目録」の巻物のうちにある佐々木小次郎とは、一体どこが生国だろうか。
多分――あの死んだ武者修行がその佐々木小次郎にちがいないとは思うが、牢人か、主持か、またどういう経歴の者であるかは、さっぱり分らないし、分ろうとする手がかりもない。
唯一の頼りは、佐々木小次郎に対して、印可目録を授けている鐘巻自斎という剣術の師匠だ。その自斎がわかれば、小次郎の素姓もすぐ知れよう。それについて、又八も伏見から大坂へ下って来る道々、茶店、飯屋、旅籠と折のあるごとに、
「鐘巻自斎という剣術のすぐれた人がいるかね」
訊ねてみたが、
「聞いたこともないお人ですなあ」
と、誰もいう。
「富田勢源の流儀をひいている中条流の大家だが」
と、いってみても、
「はてね?」
まったく知る者がないのである。
――すると、路傍で会った或る侍が、多少、兵法にも心得がある様子で、
「その鐘巻自斎とかいう仁は、生きていても、もう非常な老齢のはずだ。たしか、関東に出て、晩年は上州のどこか山里にかくれたきり、世間へ出なかったように聞いておる。――その人の消息を知りたければ、大坂城へ参って、富田主水正という人物をたずねてみるとよい」
と、教えてくれた。
富田主水正とは何かと訊くと、秀頼公の兵法師範役のうちの一人で、たしか、越前宇坂之庄の浄教寺村から出た富田入道勢源の一族の者だったと思うがという話。
すこし、あいまいな気もしたが、とにかく大坂へ出るつもりだし、又八は、市街へ入るとすぐ、目抜きの町の旅籠へ泊って、そんな侍が御城内にいるか否かを訊いてみると、
「はい、富田勢源様のお孫とかで、秀頼公のお師範ではありませんが、御城内の衆に兵法を教えていたお方はございましたが、それはもう古い話で、数年前に越前の国へお帰りになっております」
これは、宿の者のいうところだった。町人とはいえ、城内の用勤めもしている家の者のいうことであるから、前の侍のことばよりはよほど真実味のある話だった。
宿の者の意見ではまた、
「――越前の国まで、尋ねておいで遊ばしても、主水正様が、今も果たしてそこにいるかどうかも分りませんから、そんな頼りのない方を遠国までたずねてゆくよりは、近頃、有名でいらっしゃる、伊藤弥五郎先生をおさがしになるのが近道でございましょう。あの方もたしか、中条流の鐘巻自斎という人のところで修行なされて、後に、一刀流という独自な流儀をお創めになったのですから」
それも一理ある忠告であった。
だが、その弥五郎一刀斎の居所をさがしてみると、これも近年まで洛外の白河に、一庵をむすんでいたが、近頃はまた、修行に出たのか、杳としてその影を京大坂の附近では見かけたことがないと誰もいう。
「ええ、面倒くせえ」
又八は、匙を投げた。――そう急ぐにも当らないことをと、独り語につぶやいて。
眠っていた野心的な若さを、又八は、大坂へ来てからたたき起された。
ここではさかんに、人物を需要しているのだった。
伏見城では、新政策や武家制度を組んでいるが、この大坂城では、人材を糾合して、牢人軍を組織しているらしかった。もとよりそれは、公然とではないが。
「後藤又兵衛様や、真田幸村様や、明石掃部様や――また長曾我部盛親様などへも、秀頼公から、そっと、生活のお手当というものが、届いているのだそうな」
町人たちの間でも、もっぱらそういう噂をしている。――で、どこの城下よりも牢人が尊ばれ、牢人の住みよいのが、今では大坂の城下だった。
長曾我部盛親などは、町端れのつまらない小路に借家して、若いのに頭をまるめ、一夢斎と名をかえて、
(浮世のことなど、わしゃ知らんよ)
といった顔つきして、風雅と遊里の両方に身をやつして暮しているが、その手から、いざという場合には、猛然と起って、
(太閤御恩顧のため)
という旗じるしの下に集まろうという牢人が、七百や八百は飼ってあって、その生活費も、秀頼のお手元金から出ているのだということも聞いた。
又八は、二月ほど、大坂を見聞しているうちに、
(ここだ。出世のつるをつかむ土地は)
と、まず興奮を抱いた。
空脛に、槍一本かつぎ出して、宮本村の武蔵と、関ヶ原の空をのぞんで飛び出した時のような壮志が、久しぶりに、近頃、健康になった彼の体にも、甦って来たらしいのである。
ふところの金は、ぼつぼつ減ってゆくが、何かしら、
(おれにも運が向いてきた)
という自覚がして来て、毎日が明るくて、愉快だった。石に蹴つまずいても、そんな足下から、不意にいい運の芽が見つかりそうな気がするのである。
(まず、身装だ)
彼はいい大小を買って差した。もう寒さにかかる晩秋なので、それにうつりのよい小袖と羽織も買った。
旅籠は、不経済と考えて、順慶堀に近い馬具師の家の離れを借り、食事は外でし、見たいものを見、家へは帰ったり帰らなかったり、好みどおりな生活をしている間に、よい知己を得、手づるを見つけ、扶持の口にありつこうと心がけていた。
この程度に、生活を持していることは、彼としては、かなり自戒を保って、生れ変ったほど、身を修めているつもりなのである。
(あれへ大槍を立たせ、乗換え馬を牽かせ、供の侍を、二十人も連れて通りなさる。――今では大坂城の京橋口に御番頭として詰めてござるが、順慶堀の川ざらいには、土をかついでござった牢人衆であったに)
そんなうらやましい噂を、町ではよく聞くが、さて、又八がだんだんに見るところでは、
(世の中というやつは、まるで石垣だ、きっちりと、使われる石は組んであって、後から入る隙はねえものだ)
すこし疲れて来たが、また、
(なあに、蔓の見つからねえうちが、そう見えるんだ、うまく、割り込むまでが、むずかしいが、何かへ取ッついてしまえば)
と思い直して、間借している馬具師のおやじへも、就職をたのんでおいた。
「旦那がたあ、お若いし、腕もおできなさるじゃろうし、御城内の衆へ頼んでおけば、すぐお抱えの口はありましょうで」
ありそうな口吻で、そこの馬具師も安うけあいしたが、就職はなかなかかかって来ない。――そのうちに冬も十二月、ふところの金も半分になっていた。
繁華な町なかの空地の草にも、朝々霜が真っ白におりる。その霜が消えて、道のぬかるむ頃から、銅鑼だの、太鼓だのが、そこでは鳴り出す。
師走の忙しない人々が、案外のん気な顔して、冬日の下にいっぱいに群れていた。いとも粗雑な矢来を囲って、外からは見えないようにそれへ筵を張り廻してある人寄せの見世物が、六、七ヵ所に紙旗や毛槍を立て、その閑人の群れへ呼びかけて、客を奪い合う様はなかなか真剣な生活戦だった。
安醤油のにおいが人混みのあいだを這う。串にさした煮物をくわえて、馬みたいにいなないている毛脛の男たちがあるし、夜は、白粉を塗りこくって袖をひく女たちが、解放された牝羊みたいに、ぼりぼり豆を食べながら繋がって歩いてゆく。野天へ腰かけを出して、酒を汲んで売っている所では、今、一組の撲りあいがあって、どっちが勝ったのか負けたのか、後へ血をこぼしたまま、その喧嘩のつむじ風は、わらわらと町の方へ駈け去ってしまった。
「ありがとうございました。だんな様が、ここにござったで、器物は壊されずにすみましただ」
酒売りは、何度も、又八の前へきて、礼をくり返した。
その礼ごころが、
「こんどのお燗は、あんばいよくついたつもりで」
頼まない肴物まで添えてくる。
又八は悪い気持でなかった。町人どうしの喧嘩なので、もしこの貧しい露店の物売りに損害をかけたら取ッちめてやろうと睨みつけていたが、何の事もなくすんで、露店のおやじのためにも、自分のためにも、同慶であったと思う。
「おやじ、よく人が出るな」
「師走なので、人は出ても、人足は止まりませぬでなあ」
「天気がつづくからいい」
鳶が一羽、人混みの中から、何か咥えて高く上がってゆく。――又八は赤くなっていた、そしてふと、(そうだ、おれは石曳きする時に酒は禁めると誓ったのだが、いつから飲み始めてしまったろう)
他人事のように考えた。
そして自ら、
(まあいい、人間、酒ぐらい飲まねえでは)
と、慰めたり、理由づけたりして、
「おやじ、もう一杯」
と、うしろへいった。
それと一緒に、ずっとそばの床几へ来て、腰かけた男がある。牢人だなとすぐ見てとれる恰好だった。大小だけは人をして避けしめるほど威嚇的な長刀であるが、襟垢のついた袷に上へ一重の胴無しも羽織っていない。
「オイオイ亭主、おれにも早いところ一合、熱くだぞ」
腰かけへ、片あぐらを乗せて、じろりと又八のほうを見た。足もとから見上げて、顔のところまで眼がくると、
「やあ」
と、何の事もなく笑う。
又八も、
「やあ」
と、同じことをいって、
「燗のつく間、どうですか一献。飲みかけで失礼だが」
「これは――」
すぐ手を出して、
「酒のみという奴、いやしいもので、実は、尊台が、ここで一杯やっているのを見かけると、どうにも、こう……ぷウんと鼻を襲ってくる香が堪らん、袂をひいてな」
いかにも美味そうに飲む男だ。磊落で、豪傑肌らしいと、又八はその飲み振りを見ていた。
よく飲む。
又八がそれから一合もやるうちに、この男はもう五合を越えて、まだ慥かりしたものだった。
「どのくらい?」
と訊くと、
「ちょっと一升、落ちついてなら、まあ、量がいえぬ」
と、いう。
時局を談じると、この男は、肩の肉をもりあげた。
「家康がなんだ。秀頼公をさしおいて、大御所などと、ばからしい。あのおやじから本多正純や、帷幕の旧臣をひいたら、何が残る。狡獪と、冷血と、それと多少の政治的な――武人が持たぬ才を少し持っているというに過ぎない。石田三成には勝たせたかったが、惜しいかな、あの男、諸侯を操縦すべく、あまりに潔癖で、また身分が足らなかった」
そんなことをいうかと思うと、
「貴公、たとえば、今にも関東、上方の手切れとなった場合は、どの手につく」
と、訊く。
又八が、ためらいなく、
「大坂方へ」
と答えると、
「ようっ」とばかり、杯を持って床几から立ち上がり、
「わが党の士か、あらためて一盞献じ申そう。して、貴君はいずれの藩士」
といって、
「いや、ゆるされい。まず自身から名乗る。それがしは、蒲生浪人の赤壁八十馬、という者。ごぞんじないか、塙団右衛門、あれとは、刎頸の友で、共に他日を期している仲。また今、大坂城での錚々たる一方の将、薄田隼人兼相とは、あの男が、漂泊時代に、共に、諸国をあるいたこともある。大野修理亮とも、三、四度会ったことがあるが、あれはすこし陰性でいかん。兼相よりは、ずっと勢力はあるが」
喋りすぎたのを気がついたように、後へもどって、
「ところで、貴公は」
と、訊き直す。
又八は、この男の話を、全部がほんととは信じなかったが、それでも、何か圧倒されたような怯け目を感じ、自分も、法螺をふき返してやろうと思った。
「越前宇坂之庄浄教寺村の、富田流の開祖、富田入道勢源先生をごぞんじか」
「名だけは聞いておる」
「その道統をうけ、中条流の一流をひらかれた無慾無私の大隠、鐘巻自斎といわるる人は、私の恩師でござる」
男は、そう聞いても、かくべつ驚きもしないのだ。杯を向けて、
「じゃあ、貴公は、剣術を」
「左様」
又八は、嘘がすらすら出るのが愉快だった。
大胆に嘘をいうと、よけいに酔いが顔に咲いて、酒のさかなになる気がするのである。
「――多分、実はさっきから、そうじゃないかと、拙者も見ておったので。やはり鍛えた体はちがうとみえ、どこか出来ているな、……して、鐘巻自斎の御門下で、何と仰せられるか。さしつかえなくば、ご姓名を」
「佐々木小次郎という者で、伊藤弥五郎一刀斎は、私の兄弟子です」
「えっ」
と、相手の男が驚いたらしい声を発したので、又八のほうこそびっくりしてしまった。あわてて、
(それは冗戯)
と、取消そうと思ったが、赤壁八十馬は、とたんに地へ膝をついて頭を下げているので、今さらもう冗戯ともいえなかった。
「お見それ申して」
と、八十馬は何度もあやまる。
「佐々木小次郎殿といえば、とくより耳にしておるその道の達人。知らないというものは、他愛のないもので、先刻からの失礼は、平に」
又八は、ほっとした。佐々木小次郎をよく知っている者か、面識でもある間がらでもあれば、たちまち嘘がばれて、脂をしぼられるところであったがと――
「いや、お手を上げて下さい。そう改まられては、私こそ、ご挨拶のしようがない」
「いや、先ほどから、広言のみ吐いてさぞお聞き苦しかったことで」
「なに、私こそ、まだ仕官もせず、世間も知らぬ若輩者で」
「でも、剣においては。――いやよくお名まえは彼方此方で聞きますぞ。……そうだ、やはり佐々木小次郎」
つぶやいて、八十馬は、酔うと目やにの出る性らしい眼を、どろんと据え、
「その上で、まだご仕官もなさらぬのか、惜しいものだ」
「ただ剣一方に、すべてを打ち込んで来たので、世間にはとんと何の知己もないために」
「や、なるほど。――ではまんざら仕官のお望みがないわけでもないので」
「もとより。いずれは、主人を持たねばならぬと考えていますが」
「ならば、造作もないこと。――実力があるのだからたしかなものだ。もっとも実力があっても、黙っていては容易に見出されるはずはない。こうお目にかかっても、それがしですら、尊名を聞いて初めて驚いたようなもので」
と、さかんに焚きつけて、
「お世話しよう」
と、いい出した。
「実はそれがしも、友人の薄田兼相に身の振り方を依頼してあるところ。大坂城では、禄を問わず、抱え入れようとしている折だし、貴公のような人物を推挙すれば、薄田氏も、すぐ買おう。おまかせ下さるまいか」
どうやら赤壁八十馬は乗り気になっているらしい。又八は、その就職へありつきたいことは山々だが、佐々木小次郎であると他人の名を借用してしまったことが、どうもまずい。引っこみのつかない不出来だ。
かりに美作の郷士本位田又八と名乗って実際の履歴を話したら、この男も乗り気にはなるまい。鼻さきで軽蔑を与えられるぐらいなところが落ちである。やはり佐々木小次郎の名がものをいったのだ。
――待てよ、と又八は胸のうちで考える。何もそう心配したほどのものじゃないと思う。なぜならば、佐々木小次郎なる者はもう死んでいる人間だ。伏見城の工事場で打ち殺されてしまった人物ではないか。――しかもそれが佐々木小次郎なりとは、おそらく、おれ以外の何者も知っていまい。
死者の所持していた唯一の戸籍証明である「印可目録」は自分が彼の臨終の一言によって預かって来ているので、後で、調べのつこうわけはない。また一箇の乱暴人として、打殺した死者に対して、そんな面倒な調べをいつまでもやっているはずもない。
(分りっこはない!)
又八の頭に大胆な、狡い考えがそう閃めいた。勃然として、彼は、死んだ佐々木小次郎になり切ってやろうと臍を決めた。
「おやじ、勘定」
金入れから金を出して、そこを起ちかけると、赤壁八十馬はあわてて、
「今の話は?」
と、一緒に立った。
「ぜひ、ご尽力をねがいたいが、この路傍では、十分な話もできぬ。どこか座敷のあるところへでも行って」
「ああそうか」
と、八十馬は満足そうにうなずいて、自分の飲んだ代まで、又八が払っているのを、当り前のような顔して眺めていた。
怪しげな白粉の裏町である。又八としては、もっと高等な酒楼へ案内するつもりだったが、赤壁八十馬が、
「そんなところへ揚がって、つまらぬ金を費うよりは、もっとおもしろい土地がある」
といって、頻りに裏町遊びを謳歌するので、ともかく引っ張られて来てみると、まんざら又八の肌に合わない情調ではない。
比丘尼横丁というのだそうである。大袈裟にいえば長屋千軒がみな売笑婦の家で、一夜に百石の油を燈心にともすともいえるほどな繁昌さである。
すぐ近くに、汐のさす黒い堀が通っているので、出格子だの、紅燈の下だのには、よく見ると、船虫や河蟹がぞろぞろ這っていて、それが生命取りのさそりという妖虫のようにうすきみ悪いが、無数の白粉の女の中には眉目美いのも稀にあって、中には、もう四十にちかい容貌に、鉄漿を黒々つけ、比丘尼頭巾にくるまって、夜寒を喞ち顔でいるなど、なかなかもののあわれも蕩児の心をそそるのであった。
「いるな」
又八が、ため息つくと、
「いるだろう、へたな茶屋女や歌妓などより、遥かにましだ。――売女というと、いやな気がするが、冬の一夜をここに明かして、その前身なり、氏素姓なりを、寝ものがたりに聞いてみると、みな、生れた時からの売女ではないて」
肩と肩のすれ合ってゆく往来中を、八十馬は、得意になって、弁じていた。
「室町将軍の奥につかえていたという比丘尼があるし、父は武田の臣だったの、松永久秀の縁類の者だのという女が、この中にはずいぶんある。――平家の没落した後もそうだったが、天文、永禄からこっちは、あの時代などから見るともっと激しい盛衰がくり返されたのだから、浮世の下水には、こんなふうに落花の芥が溜るのだろうな」
それから一軒の家へ上がって、八十馬に遊びの仕方をまかせると、これはこの道での豪の者とみえ、酒のあつらえ方、女たちのあつかいよう、そつがなくて、なるほど、この裏町はおもしろい。
泊ったことはもちろんである。昼間になっても、飽いたといわない八十馬だった、お甲の「よもぎの寮」では、いつも日蔭者でいた又八も、多年の鬱憤をここに晴らしたか、
「もう、もう。酒はいやだ」
と遂にかぶとを脱いで、
「帰ろう」
いい出すと、
「晩までつきあい給え」
と、八十馬はうごかない。
「晩までつきあったらどうするんだ」
「今夜、薄田兼相のやしきへ行って兼相と会う約束がしてあるんだ。今から出ても時刻が半端だし……。それに、そうだ、貴公の望みももっとよく聞いて置かなければ、先へ行って話もできない」
「禄など、初めからそう望んでも無理だろう」
「いかん、自分からそんな安目を売ってはいかん。とにかく中条流の印可を持って、佐々木小次郎ともいわれる侍が、禄はいくらでもいいから、ただ仕官がしたいなどといったら、かえって先から蔑まれるぞ。――五百石もくれといっておこうか、自信のある侍ほど手当や待遇なども大きく出るのが通例だからな、やせ我慢などせぬがいいのだ」
谷間の壁を見上げるように、この辺はもう早い日蔭になっている。大坂城の巨大な影が夕空をおおっているからである。
「あれが、薄田の邸だぞ」
濠の水に背を向けて、二人は寒そうに佇んだ。昼間から注ぎこんでいた酒も、この濠端に立つとひとたまりもなく吹き飛んで、鼻の先に水洟が凍りつく。
「あの腕木門か」
「いや、その隣の角屋敷」
「ふム……宏壮なものだな」
「出世したものさ。三十歳前後の頃には、まだ、薄田兼相などといっても、世間で知っている奴はなかった、それがいつのまにか……」
赤壁八十馬のことばを、又八はそら耳で聞いていた。疑っているのではない、もう彼のことばの端など注意してみる必要を感じないほど信頼し切っていたのだった。――そしてこの巨城を取巻いている大小名の門をながめて、
「おれも」
と、鬱勃としてくるものを彼も抑えきれない青年だった。
「じゃあ、今夜ひとつ、兼相に会って、うまく貴公の体を売りこんでみせるからな」
八十馬は、そういって、
「――ところで、例の金だが」
と、催促した。
「そう、そう」
又八は懐中から、革巾着を取り出した。少しくらいは、と思いながらいつのまにかこの革巾着の金も三分の一になっていた。その残りの底をはたいて、
「ざっと、これだけあるが、これくらいなおくりものでいいのか」
「いいとも、十分だ」
「何かに包んでゆかなければいけまいが」
「なあに、仕官の取做しを頼む時の、御推挙料だの、御献金だのというやつは、薄田ばかりじゃない、公然と誰でも取っていることだから、何も憚って差し出す必要はすこしもないのだ。――じゃあ預かっておくぜ」
持ち金のほとんどあらましを、彼に手渡してしまうと、又八はやや不安をよび起して、歩み出した八十馬に追いすがり、
「うまく頼むぞ」
「大丈夫だ。先で、渋った顔をしていたら、金をやらずに持って帰るだけのことじゃないか。何も、兼相だけが、大坂方の勢力家じゃなし、大野でも後藤でも、頼みこむ思案はいくらもある」
「返辞は、いつ分るか」
「そうだな、ここで、待っていてくれてもいいが、濠ばたの吹きさらしに、立っているわけにもゆくまいし、また、怪しまれるから、明日会おう」
「明日――どこで」
「人寄せの懸っているれいの空地へ行ってくれ」
「承知した」
「貴公と初めて会った、あの酒売りのおやじの床几で、待っていてくれれば間違いない」
時刻も打合せて、赤壁八十馬は、そこの門内へ、大手を振って入って行った。肩を振って、堂々と通ってゆく態度を見とどけて、
(あれなら、なるほど、薄田兼相とは、貧困時代からの旧友だろう)
又八は、安心に似た気もちを抱いて、その晩は、さまざまな夢に耽り、あくる日を待ちかねて、定めの時刻に、人寄せ場の空地へ、霜解けをふんで行った。
きょうも師走の風が寒かったが、冬日の下にはたくさん集まっていた。
どうしたのか、赤壁八十馬は、その日、姿を見せなかった。
次の日。
「何かの都合だろう」
又八は、こう善意に解釈して、れいの野天の酒売りの床几で、
「きょうは」
と、正直に空地の人混みを見廻していたが、その日も遂に八十馬の姿を見ずに暮れてしまった。
少し、てれて、
「おやじ、また来たぞ」
三日目である。こういって、床几に腰をすえると、酒売りのおやじが、毎日の彼の挙動をひそかに怪しんでいたとみえ、一体、誰を待つのかと訊ねるので、実は云々な仔細で、いつぞやここで知己になった赤壁という牢人と落合う約束になっているのだが――と語ると、
「え? あの男に」
おやじは呆れたような口吻で、
「では、仕官の口を周旋してやるからといって、あいつ奴に、金を取られたので」
「取られたわけではない。わしから依頼して、薄田殿へわたす口入れ金を預けておいたのだが、その返辞がはやく知りたいので、毎日待っているわけだが」
「おやおや、おまえ様は」
おやじは、気の毒そうに、又八の顔をながめて、
「百年待っていても、あの男が来るはずはありませぬ」
「げっ。――ど、どうして」
「彼奴は、名うてな悪で、この空地には、ああいうガチャ蠅がたくさんおりましてな、少し甘い顔と見れば、すぐたかって来るのでございます。よほど、気をつけてあげようかと思ったが、あとの祟りが恐いし、おまえ様も、あの風態を見れば、気がつくだろうと思っていたのに、金を抜かれてしまうなんて……。これやお話にならんわい」
気の毒を通り越して、又八の無智をむしろ愍れむような口吻なのである。だが又八は、恥を掻いたとは思わない。突然の損失と希望から抛り出された傷手に、身がふるえ、血が憤って、茫然と、空地の人群れを見つめていた。
「むだとは思うが、念のため幻術の囲いへ行って訊いてみなさるがよい。あそこではよく、ガチャ蠅が集まって、銭の賭事をしておりますで、そういう金をつかめば、ことによると、賭場へ顔を出しているかもわかりませぬ」
「そ、そうか」
又八は、あわてて床几を起ち、
「その幻術の人寄せというのは、どこの囲いか」
老爺の指さすほうを見ると、この空地のうちでは最も大きな矢来が一つ見える。幻術者の群れが興行しているのだという。見物は、木戸口に蝟集していた。又八が近づいて行ってみると、
「ちょちょんがちょっ平」
だとか、
「変兵童子」
とか、
「果心居士之一弟子」
とかいう有名な幻術師の名が、木戸口の旗に記してあって、幕と筵でかこんであるその広い矢来のうちでは、怪しげな音楽に交じって、術者の掛声と、見物の拍手が湧いていた。
裏へ廻ると見物の出入りしないべつな口があった。又八が、そこを覗くと、
「賭場へゆくのか」
と、立番の男がいう。
うなずくと、よしというような顔をしたので、彼は入って行った。幕の中では、青天井をいただいて、二十人ばかりの浮浪人が、車座になって、博戯をしている。
又八が立つと、じろっと、すべての白い眼が彼を見上げた。一人がだまって、彼の前に席を開けたので、あわてて、
「この中に、赤壁八十馬って男はいないか」
訊くと、
「赤馬か。そういえば赤馬の奴、ちっとも出て来ねえが、どうしたんだろう」
「ここへ来ましょうか」
「そんなこと、わかるもんか。まあ、入りねえ」
「いや、おれは博戯事に来たんじゃない。その男を捜しに来たのだ」
「おい、ふざけるなよ、博戯もせずに、賭場へ何しに来やがったんだ」
「すみません」
「向う脛を掻っ払うぞ」
「すみません」
ほうほうのていで出て来ると、追いかけて来たガチャ蠅の一人が、
「野郎待て。ここは、すみませんで済む場所たあ違う。ふてえ奴だ。博戯をしなけれやあ、場代をおいてゆけ」
「金などない」
「金もねえくせに、賭場のぞきをしやがって、さては、隙があったら、銭を攫って行こうという量見だったにちげえねえ、この盗っ人め」
「なんだと」
又八が、くわっとして刀の柄を示すと、これは面白いと、相手は敢て喧嘩を買ってくる腰だった。
「べら棒め、そんな脅しに、いちいちびくついていちゃ、この大坂表で、生きちゃあいられねえんだ。さ、斬るなら斬ってみろ」
「き! 斬るぞ」
「斬れっ、何も、断るにゃ及ばねえや」
「おれを知らんか」
「知ってるもんか」
「越前宇坂之庄、浄教寺村の流祖、富田五郎左衛門が歿後の門人佐々木小次郎とはわしのことだ」
そういったら逃げるだろうと思いのほか、相手は、ふき出して、又八のほうへ尻を向け、矢来のうちのガチャ蠅を呼び立てた。
「やい、みんな来い、こいつ何とか今、オツな名乗りをあげやがったぜ。おれたちを相手に抜く気らしい。ひとつお腕のうちを見物としようじゃねえか」
いい終ると、きゃッと、その男は尻を斬られて跳び上がった。又八が、不意に抜き打ちをくれたのである。
「畜生っ」
という声。それから、わっと大勢の声がうしろに聞えた。又八は血刀をさげて人混みの中へまぎれ込んだ。
なるべく人間の多いところへと又八は姿をかくして歩いていたが、危険を感じるほど、どの人間の顔もガチャ蠅に見え、とてもうろついておられなくなった。
ふと見ると、眼のまえの矢来に、大きな虎の絵を描いた幕が垂れていて、木戸には、鎌槍と、蛇の目の紋と旗じるしが立ててあり、空箱に乗っている町人が、しゃがれ声をふりしぼって、
「虎だ、虎だっ、千里行って、千里帰る、これは朝鮮渡りの大虎、加藤清正公が手捕りの虎――」
というような人寄せ文句を、ふしづけて呶鳴っていた。
銭を抛って、又八は中へとびこんだ。そして、いささかほっとしながらどこに虎がいるのかと見廻してみると、正面に戸板を二、三枚並べ、それへ洗濯物でも貼りつけてあるように、一枚の虎の皮が貼りつけてあった。
死んだ虎を見せられても、見物は、神妙に眺め入って、これは生きていないじゃないかと、腹を立てる者はなかった。
「これが虎かいな」
「大きなものやなあ」
感心して、入口から出口の木戸へ入れ代ってゆく。
又八は、なるべく刻を過ごそうと考えていつまでも虎の皮の前に立っていた。――すると、ふと自分の顔の前に、旅装いの老夫婦が立って、
「権叔父よ。この虎は、死んでいるのじゃろうが」
と、婆のほうがいう。
爺侍は、竹の仕切り越しに手をのばして、虎の毛に触れながら、
「元より、皮じゃもの、死んでおるわさ」
「木戸で呼ばわっている男は、さも生きているようにいうたがの」
「これも、幻術の一つじゃろて」
爺侍は苦笑していたが、婆のほうは、忌々しげに、萎んでいる唇を振り向けて、
「やくたいもない、幻術なら幻術と看板にあげておいたがよい。死んだ虎を見るくらいなら絵を見るわさ。木戸へ去んで、銭をかやせというて来う」
「婆、婆。人が笑うぞよ、そんなこと、喚かんでもええ」
「なんの、見栄がいろう、おぬしいうが嫌ならわしがいう」
見物の者を押し分けて、戻りかかると、あっ――とその人混みの中に肩を沈めた者がある。
権叔父と呼ばれた爺侍が、
「やっ、又八っ」
と、呶鳴った。
お杉隠居は、眼がわるいので、
「な、なんじゃ、権叔父」
「見えなんだかよ、婆のすぐうしろに、又八めが立っておったぞ」
「げっ、ほんまか」
「逃げたっ」
「どっちゃへ?」
二人は、木戸の外へ転び出した。
もう空地の雑沓は暮色につつまれていた。又八は、幾たびも人にぶつかった。そのたびに、くるくる舞して、後も見ずに、町中のほうへ逃げてゆく。
「待て、待て、伜っ」
振りかえってみると、母親のお杉は、まるで狂気のようになって追って来るのだった。
権叔父も、手をふりあげ、
「馬鹿ようっ、なんで逃げるぞい。――又八っ、又八っ」
それでもなお、又八が足を止めないので、お杉隠居は、皺首を前に伸ばし、
「泥棒、泥棒、泥棒っ――」
夢中でさけんだ。
暖簾棒だの竹竿を持って、町の者は、先へゆく又八を蝙蝠を打つようにたたき伏せた。
往来の者も、わいわいと取りかこんで、
「捕まえた」
「ふてえ奴だ」
「どやせ」
「たたっ殺してやれ」
足が出る、手が出る、唾を吐きかける。
後から息を喘って、権叔父とともに追いついて来たお杉隠居はそのていを見ると、群衆を突きとばし、小脇差のつかに手をかけて歯を剥いた。
「ええ、むごいことを、おぬしら何しやるのじゃ、この者へ」
弥次馬は、理を弁えずに、
「婆どの。こいつは、泥棒だよ」
「泥棒ではない、わしが子じゃわ」
「え、おまえの子か」
「おおさ、ようも足蹴にしやったな。町人の分際で、侍の子を足蹴にしやったな。婆が相手にしてくりょう、もいちど、今の無礼をしてみやい」
「冗戯じゃない。じゃあ先刻泥棒泥棒と呶鳴ったのは誰だ」
「呶鳴ったのは、この婆じゃが、おぬしら風情に足蹴にしてくれと頼みはせぬ。泥棒とよんだら伜めが、足を止めようかと思うていうた親心じゃわ。それも知らいで、撲ったり蹴ったりは何事じゃ、このあわて者めが!」
町中の森である。おぼろに常夜燈がまたたいていた。
「こう来やい」
お杉隠居は、又八の襟がみを抓んで、往来からそこの境内まで引きずって来た。
婆の権まくに驚いたとみえ、弥次馬はもう尾いて来ない。殿として、鳥居の下で見張っていた権叔父も、やがて後から来て、
「婆、もう折檻はせぬものだぞ。又八とて、もう子どもではなし」
母子の手と襟がみを、もぎ離そうとすると、
「何をいうぞい」
隠居は、権叔父を、肱で突き退けて、
「わしが子を、わしが折檻するに差し出口など、要らぬお世話、おぬしは黙っていやい。――こ、これっ、又八っ」
泣いて欣んでもいい場合を、この婆は憤怒して、わが子の襟がみを、大地へ小突き廻している。
老人になれば誰も単純で気短かになるという。今の場合の複雑な感情は余りにも枯渇した血には強烈すぎたのであろう。泣いているのか、怒っているのか、狂喜の変態なあらわれか。
「親のすがたを見て、逃げ出すとはなんの芸じゃ。汝は、木の股から生れくさったか、わしが子ではなかったかよ。――こ、これッ、ここな呆ぼけ者奴が」
と、幼い時に打擲したように、又八の尻をぴしぴし打って、
「よもやもう、この世に生きておろうとも思わなんだに、のめのめこの大坂に生きていくさるとは憎い憎い、ええもう憎い奴よの。なんで故郷へもどって来て、ご先祖様のまつりをせぬか、この母にちょっとでも、顔見せぬか。親類縁者どもが、あれよこれよと案じているのも、われには弁えがつかぬかよっ」
「――お、おふくろ。かんべんしてくれ、かんべんしてくれ」
又八は、嬰児みたいに、母の手の下からさけんだ。
「悪いことは知っている。知っていればこそ、帰れなかったんだ。今日も、余り不意だったのでびっくりして、逃げる気もなく、おらあ駈け出してしまった。……面目ない、面目ない! おふくろにも叔父御にも、おらあただ面目ないんで」
と、両手で顔をおおった。
それを見ると、婆も目鼻に皺をあつめて、すすり泣いた。しかし気丈な老婆は、自分が脆くなるのをすぐ自分の心で叱咤しながら、
「ご先祖の恥さらし、面目ないというからには、どうせ碌なことをしていくさったのではあるまいが」
権叔父は、見るに見かねて、
「もうよかろう、婆、そう打擲しては、かえって又八を拗け者にするぞよ」
「また差し出口かよ、おぬしは男のくせに甘うていかぬ。又八には父親がないゆえ、この婆は母であるとともに、厳しい父親でもなければならぬのじゃ。それゆえわしは折檻をしまする。……まだまだこんなことで足ろうかいの。又八ッそれへ直りゃい」
自分も大地へ畏まって坐りこみ、子へも、大地を指さしていった。
「はい」
又八は、土にまみれた肩を起して、悄然と坐り直した。
この母親は怖かった。世間の母親なみ以上の甘さもあったが、すぐご先祖様を持ち出すので、又八は頭があがらないのであった。
「つつみ隠しをするときかぬぞよ。関ヶ原の戦へ出て、おぬし、あれ以来、何していやった。婆の得心がまいるまで、つぶさに話しゃれ」
「……話します」
隠す気は起らない。
又八は、友達の武蔵と戦場から落ちのびたこと――そして伊吹のあたりに潜んだこと――お甲という年上の女にかかって、数年のあいだ同棲して苦い経験をし、今では、悔いていることなど、すっかり話してしまうと、胃の中の腐っている物を吐き尽したように、気が軽くなった。
「ふウむ……」
と、権叔父が呻くと、
「あきれた子よの」
と、隠居も舌を鳴らし、
「そして今では、何していやるか。身装は、どうやら飾ってござるが、仕官して、禄の少々も、取っていやるか」
「はい」
うっかり、いい返事をしたが、又八は、露見をおそれて、
「いや、仕官はいたしませぬが」
「では、何で喰べている」
「剣――剣術などを、教えまして」
「ほう」
婆は、初めて、綻びたように機嫌よく、
「剣術を、おおそうかいの。そういう生活を過ごしながらも、剣術に精出していやったとは、さすがにわしが子。……のう叔父御よ。やはり婆が子じゃの」
この辺で機嫌を直させてしまいたいものだと権叔父は、大きく何度もうなずいて、
「それやあ、ご先祖の血は、どこかにあろうわさ。一時の極道はしようとも、そのたましいだに失わずば」
「して又八」
「はい」
「この上方では、誰について、腕を磨きやった」
「鐘巻自斎先生に」
「ふウむ……あの鐘巻先生にの」
目も鼻も飴のようにしてあまり喜ぶので、又八はもっと喜ばせてみたくなり、懐中の印可の巻を出して巻末の一行――佐々木小次郎殿とあるところだけを隠して、
「御覧じませ、この通り」
と、常夜燈の明りへ、展げて見せた。
「どれ、どれ」
手を出したが、渡さずに、
「安心してござれ、おふくろ」
「なるほど」
隠居は、首を振って、
「見たか、権叔父、大したものじゃわ。小さい頃から、あの武蔵などより、ぐんと賢く、腕も出来ていただけのことはある」
と、涎を垂らさないばかりに満足をあらわしたが、ふと、それを巻きかけた又八の手がすべって、終りの一行が眼にうつると、
「これ待て、ここに佐々木小次郎とあるのはなんじゃ」
「あ……これですか……これは仮名です」
「仮名? 何で仮名などつかいなさる、本位田又八と、立派な名のあるものを」
「でも省みて、自分に恥のある生活をしていたので、先祖の名を汚すまいと」
「オオそうか。その性根たのもしい。――おぬしは何も知るまいがこれから故郷元のことども聞かせて進ぜるほどに、よう聞きなされ」
隠居は、そう前置きして、この一人息子を、いよいよ鼓舞し、激励するために、その後、宮本村に起った事件やら、本位田家の立場から、また、自分と権叔父とが、ために出郷することになり、お通と武蔵とを討つべく、多年ふたりの行方をさがし歩いていることなど――誇張する気もなく誇張に落ちたが――何度も鼻をかみながら、諄々と眼を濡らして語った。
じっと首を垂れたまま、又八は老母の烈々と吐くことばに打たれていた。こうしている間は、彼も善良で神妙な息子だった。
けれど、隠居がいおうとする重点は、もっぱら家名の面目とか、侍の意気とかにあったが、この息子の感情を強く打った点は、そこになくて、
(お通がこころ変りした)
と、いう初耳の話だった。
「おふくろ、それは真実か」
彼の顔いろを知ると、隠居は、自分の鞭撻が、彼を奮起させたものと思いこみ、
「嘘と思うなら、叔父御にもただしてみやれ、お通阿女はおぬしを見かぎって、武蔵の後を追って去んだわさ。――いやの、もっと悪う考えれば、武蔵はおぬしが、当分は村へ帰らぬものと知ってじゃほどに、お通をだまして、奪って逃げたともいえる。のう権叔父」
「そうじゃ、七宝寺の千年杉へ、沢庵坊主のため、縛りつけられたのを、あのお通の手をかりて逃げ失せた男女のことゆえ、どうせ碌な仲じゃあるまいての」
こう聞いては又八も、鬼とならずにいられなかった。それでなくても、彼へは――あの武蔵という人間に対しては、どういうものか反感があってならなかったところである。
隠居の激励は、鞭に鞭を加えて――
「わかったかよ又八。この婆や権叔父が、故郷を出て、こうして諸国をあるいている意気地が。――息子の嫁を奪って逃げた武蔵、本位田家に後足で砂をかけて失せたお通。――こう二つの首を打たいでは、婆は、ご先祖のお位牌と、故郷の衆にむかって、会わせる顔がないじゃろが」
「わかりました。……よく」
「おぬしにも、それではのめのめと、故郷の土は踏めまいが」
「帰りません、もう、帰りません」
「討ってたも、怨敵を」
「ええ」
「気のない返辞をするものかな、おぬしには武蔵を討つ力がないと思うてか」
「そんなことはありません」
権叔父も、そばから、
「案じるな又八、わしもついているのじゃが」
「この婆とても」
「お通と武蔵、二つの首を、晴れて故郷への土産に引っさげて戻ろうぞ。のう又八、そうしておぬしにはよい嫁女をさがし、あっぱれ本位田家の跡目をついで貰わにゃならん。そうした上は、武士の面目も立つ、近郷への評判もようなる、まず、吉野郷で負け目をとる家統は他にはあるまいてな」
「さあ、その気になってたも。なるかよ又八」
「はい」
「よい子じゃ、叔父御、賞めておくりゃれ。きっと武蔵とお通を討つと誓うた。……」
と隠居はやっと気がすんだらしく、先刻から怺えていた氷のような大地から身を動かしかけたが、
「ア……痛々々」
「婆、どうしやった」
「冷えてかいの、腰が急に吊ってこう下腹へさしこんで来ましたわい」
「これやいかぬ、また持病を起してか」
又八は、背を向けて、
「おふくろ、すがりなされ」
「何、わしを負うてくれる。……負うてくれるか」
と、子の肩に抱きついて、
「何年ぶりぞいの、叔父御よ、又八がわが身を負うてくれたわいな」
と、欣し泣きに泣くのであった。
母の温い涙が肌にとおって来ると、又八も何か無性に欣しくなって、
「叔父御、旅籠はどこか」
「これから探すのじゃ、どこでもいい、歩いてくりゃれ」
「合点だ――」
と、又八は老母の体を弾ませて歩きながら、
「ほう、軽いなあ、おふくろ。――軽い、軽い、石よりも軽いぞ」
藍や紙が積み荷の大部分であった。ほかに禁制の煙草も船底にかくしているらしい。元より秘密だが、においで知れる。
月に何度か、阿波の国から大坂へ通う便船で、そうした貨物とともに便乗している客には、この年の暮を、大坂へ商用に出るか、戻るかする商人が八、九分で、
「どうです、儲かるでしょう」
「儲かりませんよ、堺はひどく景気がいいというが」
「鉄砲鍛冶など、職人が足らなくて弱っているそうですな」
べつの商人が、また、
「てまえは、その戦道具の、旗差物とか、具足など納めていますが、昔ほど儲かりませんて」
「そうかなあ」
「お侍方がそろばんに明るくなって」
「ハハア」
「むかしは、野武士がかついで来る掠め物を、すぐ染めかえ、塗りかえして、御陣場へ納める。するとまた、次の戦があって、野武士がそいつを集めてくる。また新物にするといったふうに、盥廻しがきいたり、金銀のお支払いなどもおよそ目分量みたいなものでしたがね」
そういう話ばかりが多い。
中には、
「もう内地では、うまい儲けはありっこない。呂宋助左衛門とか、茶屋助次郎といった人のように、乗るか反るかで海の外へ出かけなければ」
と、海洋をながめて、彼方の国の富を説いている者があるし、或る者はまた、
「それでも、何のかのといっても、わしら町人は、侍から見れば遥かに割がよく生きていますよ。いったい侍衆なんて、食い物の味ひとつ分るじゃなし、大名の贅沢といったところが、町人から見ればお甘いもので、いざといえば、鉄と革を鎧って、死にに行かなければならないし、ふだんは面目とか武士道とかにしばられて、好きな真似はできないし、気の毒みたいなものでございますよ」
「すると、景気がわるいの何のといっても、やはり町人にかぎりますかな」
「かぎりますとも、気ままでね」
「頭さえ下げていればすみますからな。――その鬱憤はいくらでもまた、金のほうで埋め合せがつくし」
「ぞんぶんこの世を楽しむにかぎりまさあね」
「何のために生れて来たんだ――といってあげたいのがいますからね」
商人でもこの辺は、中以上のところとみえる。舶載の毛氈をひろく敷きこんで、一階級を示しているのだ。
のぞいてみると、なるほど、桃山の豪奢は今、太閤が亡き後は、武家になくて、町人の中へ移っているかと思われる。酒器のぜいたくさ、旅具旅装の絢爛なること、持物の凝っていること、ケチな一商人でも、侍の千石取などは及びもない。
「ちと、飽きましたな」
「退屈しのぎに、始めましょうか」
「やりましょう。そこの幕をひとつ懸け廻して」
と、小袖幕のうちにかくれると、彼らは、妾や手代に酒をつがせて、南蛮船が近ごろ日本へ齎した「うんすん骨牌」というものを始める。
そこで儲けている一つかみの黄金があれば、一村の飢餓が救われるであろうほどの物を、まるで、冗戯みたいに、遣り取りしていた。
こういう階級の中に、ほんの一割ほどだが、乗り合わしている山伏とか、牢人者とか、儒者とか、坊主とか、武芸者などという者は、彼らからいわせるといわゆる、
(いったいなんのために生きているんだ)
と借問される部類のほうで、みんな荷梱の蔭に、ぽつねんと味気ない顔して、冬の海をながめているのだった。
それらのあじきない顔つきの組の中に、一人の少年が交じっていた。
「これ、じっとしておれ」
荷梱に倚り懸って、冬日の海に向いながら、膝の上に何やら丸っこい毛だらけな物を抱いている。
「ホ。可愛い小猿を」
と、そばの者がさしのぞいて、
「よく馴れてござるの」
「は」
「永くお飼いになっているのであろうな」
「いえ、ついこのごろ、土佐から阿波へ越えてくる山の中で」
「捕まえられたのか」
「その代り、親猿の群れに追いかけられて、ひどい目にあいました」
話を交わしながらも、少年は、顔を上げない。小猿を膝の間に挟んで、蚤を見つけているのだった。
前髪に紫の紐をかけ、派手やかな小袖へ、緋らしゃの胴羽織を纒っているので、少年とは見えるものの、年齢のほどは、少年という称呼に当てはまるかどうか、保証のかぎりでない。
煙管にまで、太閤張というのが出来て、一頃は流行ったように、こういう派手派手しい風俗も、桃山全盛の遺風であって、二十歳をこえても元服をせず、二十五、六を過ぎても、まだ童子髪を結って金糸をかけ、さながらまだ清童であるかのような見栄を持つ習いが、いまに至ってもかなり遺っているからである。
だからこの少年も、一概に身なりをもって、未成年者と見ることはできない。体つきからしても、堂々たる巨漢であるし、色は小白くて、いわゆる丹唇明眸であるが、眉毛が濃くて、眉端は眼じりから開いて上へ刎ねている。なかなかきつい顔なのだ。
けれどまた――
「これ、なぜうごく」
と、小猿の頭を打って、猿の蚤とりに他念のない様子などは、なかなかあどけなくもある。何もそう年齢の詮索ばかり気にやむこともないが、あれこれ綜合してその中庸をとって推定すれば、まず十九か、二十歳というところでなかろうかと思われる。
さてまた、この美少年の身分はというと、元より旅いでたちで、革足袋にわらじ穿きだし、どこといって抑えどころもないが、歴乎とした藩臣でなく、牢人の境界であることは、こういう船旅において、ほかの山伏だの傀儡師だの、乞食のようなボロ侍だの、垢くさい庶民の中に交じって、気軽にごろごろしている態をみても、およそ想像はつく。
だが、牢人にしては、ちょっと立派なものを一つ身に着けている。それは、緋羽織の背なかへ、革紐で斜めに負っている陣刀づくりの大太刀である。反りがなくて、竿のように長い。
ものが大きいし、拵えが見事なので、その少年のそばへ寄った者は、すぐ少年の肩ごしに柄の聳えているその刀に目がつくのだった。
「――いい刀を持っている」
そこから少し離れたところから、祇園藤次も、さっきから見恍れていた一人であった。
「京洛でもちょっと見ない」
と思う。
刀のすぐれた物を見ると、その持ち主から、遠くは、その以前の経歴までが考えられてゆく。
祇園藤次は、機があったら、その美少年へ、話しかけてみたいと思っていた。
――冬の昼靄にうすずいて、よく陽のあたっている島の淡路は、艫のかなたに、だんだん遠くなってゆく。
はたはたと、大きな百反帆は、生きもののように、船客たちの頭の上で潮鳴りを切って鳴っていた。
藤次は旅に倦んでいた。
なま欠伸が出る――
飽きのきた旅ほど他人の世界を感じるものはない。祇園藤次は、その飽き飽きした旅を、もう十四日もつづけて来たあげくのこの船中であった。
「――飛脚が間にあったかしらて? ……間にあえば、大坂の船着場まで、迎えに来ているにちがいないが」
と、お甲の顔を思い浮かべて、せめてもの無聊をなぐさめてみる。
さしも、室町将軍家の兵法所出仕として、名誉と財と、両方にめぐまれて来た吉岡家も、清十郎の代になって、放縦な生活をやりぬいたため、すっかり家産は傾いてきた。四条の道場まで、抵当に入っているので、この年暮には、町人の手へ取られるかも知れないという内ふところ。
年暮に近づいて、あっちこっちから責め立ててくる負債をあわせると、いつのまにか、途方もない数字にのぼっていて、父拳法の遺産をそっくり渡して、編笠一かいで立ち退いても、なお、足らないくらいな実情に堕ち入っていた。
(どうしたものか)
という清十郎の相談である。この若先生をおだてて、さんざん費わせた責任の一半は藤次にもあるので、
(おまかせなさい、うまく整理をつけてお目にかけましょう)
狡智をしぼって、彼の案出したのが、西洞院の西の空地へ、吉岡流兵法の振武閣というものを建築するという案で――社会の実態を鑑みるに、いよいよ武術は旺になり、諸侯は武術家を要望している。この際、多くの後進を養成するために、従来の道場をさらに拡大して、流祖の遺業をして、もっと天下にあまねからしめなければならぬ――それはまた、われわれ遺弟の当然なさなければならない義務でもある。
そんな主旨の廻文を、清十郎に書かせ、これを携えて、中国、九州、四国などに散在している吉岡拳法門下の出身者を、歴訪して来たのである。もちろん振武閣建築の寄附金を勧進するために。
先代の拳法が育てた弟子は随分各地の藩に奉公していて、みな相当な地位の侍になっている。
けれど、そういう勧説を持って行っても、藤次が予算していたように、おいそれと寄進帳へ筆をつけてくれるのはすくない。
(いずれ書面をもって)
とか、
(いずれ、上洛の折に)
とかいうのが多く、現に藤次が携えて帰る金は、予定していた額の何分の一にも当らない。
だが、自分の財政ではなし、まあ、どうかなろうと多寡をくくって、先刻から、師の清十郎の顔より、久しく会わないお甲の顔のほうを、努めて、想像にのぼせていたが、それにも限度があるので、また、生欠伸に襲われて、退屈なからだを、船のうえに持てあましていた。
うらやましいのは、先刻から小猿の蚤をとっている美少年だった。いい退屈しのぎを持っている。藤次は、そばへ寄って、とうとう話しかけ出した。
「若衆。――大坂表までお渡りか」
小猿の頭を抑えながら、美少年は大きな眼をじろりと彼の顔へあげた。
「はあ、大坂へ行きます」
「ご家族は大坂にお住まいかの」
「いえ、べつに」
「では阿波のご住人か」
「そうでもありません」
膠のない若衆である。そういってまた他念なく、小猿の毛を指で掻き分けているのであった。
ちょっと話のつぎ穂がない。
藤次は、黙ったが、また、
「よいお刀だな」
と、こんどは彼の背にある大太刀を賞めた。すると美少年は、
「はあ、家に伝来のもので」
急に藤次のほうへ膝を向け、賞められたのを欣しそうに、
「これは陣太刀に出来ていますから、大坂の良い刀師へあずけ、差し料に拵えを直そうと思っているのです」
「差し料には、ちと長すぎるようだが」
「されば、三尺です」
「長剣だな」
「これくらいなものが差せなければ――」
自信がある――というように美少年は笑靨をうごかす。
「それは差せないことはない――三尺が四尺でも。――けれども実際に用うる場合、これが自由にあつかえたら偉いが」
と、藤次は、美少年の衒気をたしなめるようにいう。
「大太刀を、かんぬきに横たえて、りゅうとして歩くのは、見た眼は伊達でよいが、そういう人物にかぎって、逃げる時には、刀を肩へかつぐやつだ。――失礼だが、貴公は、何流を学ばれたか」
剣術のことになると、自然、藤次はこの乳臭児を見下げずにいられなかった。
美少年は、ちらと、彼のそういう尊大な顔つきへ、瞳をひらめかせ、
「富田流を」
と、いった。
「富田流なら、小太刀のはずだが」
「小太刀です。――けれども何、富田流を学んだから小太刀をつかわなければならないという法はありません。私は、人真似がきらいです。そこで、師の逆を行って、大太刀を工夫したところ、師に怒られて破門されました」
「若いうちは、えて、そういう叛骨を誇りたがるものだ。そして」
「それから、越前の浄教寺村をとび出し、やはり富田流から出て、中条流を創てた鐘巻自斎という先生を訪ねてゆきますと、それは気の毒だと、入門をゆるされ、四年ほど修行するうち、もうよかろうと師にもいわれるまでになりました」
「田舎師匠というものは、すぐ目録や免許を出すからの」
「ところが、自斎先生は容易にゆるしを出しません。先生が印可をゆるしたのは、私の兄弟子である伊藤弥五郎一刀斎ひとりだという話でした。――で私も、何とかして、印可をうけたいものと、臥薪嘗胆の苦行をしのんでいるうち、故郷もとの母が死去したので、功を半ばに帰国しました」
「お国は」
「周防岩国の産です。――で私は、帰国した後も、毎日、練磨を怠らずに、錦帯橋の畔へ出て、燕を斬り、柳を斬り、独りで工夫をやっていました。――母が亡くなります際に、伝来の家の刀ぞ、大事に持てといわれてくれましたこの長光の刀をもって」
「ほ、長光か」
「銘はありませんが、そういい伝えています。国許では、知られている刀で、物干竿という名があるくらいです」
無口だと思いのほか、自分のすきな話題になると、美少年は問わないことまで語りだした。そして口を開き出すとなると、相手の気色などは見ていない。
そういう点や、またさっき自分で話した経歴などから見ても、すがたに似あわない我のつよい性格らしく思われた。
ちょっと、言葉をきって、美少年はその眸に、雲のかげを映し、何か感慨に耽っていたが、
「――けれどその鐘巻先生も、昨年、大寿を全うして、ご病死なされてしまった」
呟くようにいい、
「私は、周防にあって、同門の草薙天鬼から、その報らせをうけた時、師恩に感泣しました――師の病床についていた草薙天鬼、それは私よりもずっと先輩だし、また、師の自斎とは叔父甥の血縁でもあるのですが、その者には、印可を与えずに、遠く離れている私を思ってくれて、生前に、印可目録を書き遺して、一目会って、手ずから私に与えたいと申されたそうであります」
眸がうるんで来て、今にも涙のこぼれそうな眼になる。
祇園藤次は、この多感な美少年の述懐を聞いても、若い彼といっしょになって、感傷を共にする気には元よりなれない。
だが、退屈に苦しんでいるよりは、ましだと考えて、
「ふム、なるほど」
熱心に聞いている顔つきを装うと、美少年は、鬱懐をもらすように、
「その時、すぐ行けばよかったのです。けれど私は周防、師は上州の山間、何百里の道です。折わるく、私の母も、その前後に歿したので、遂に、師の死に目に会えませんでした」
――船がすこし揺れだした。冬雲に陽がかくれると、海は急に灰色を呈し、時々、舷に飛沫が寒く立つ。
美少年はなお話をやめない。多感な語気をもって語る。――それから先のことを綜合すると、彼の境遇は今、故郷の周防の家屋敷をたたみ、師の甥でもあり同門の友でもある草薙天鬼という者と、どこかで落ち合おうというために、この旅行をつづけているものと見られる。
「師の自斎には、何の身寄りもありません。で、甥の天鬼には、遺産といってもわずかでしょうが、金を与え、遠く離れている私には、中条流の印可目録を遺してゆかれました。天鬼は、私のそれを預かって、今諸国を修行にあるいていますが、来年の彼岸の中日には、上州と周防とのちょうど中ほどの道程にあたる三河の鳳来寺山へ、双方からのぼって、対面しようという約束を書面で交わしてあります。そこで私は天鬼から師のおかたみを受けることになっているので、それまでは近畿のあたりを悠々と、修行がてら見物して歩こうと思っているのです」
ようやくいうだけのことをいい終ったように、美少年は改めて、話し相手の藤次にむかい、
「あなたは、大坂ですか」
「いや京都」
それきり黙って、しばらく、波音に耳をとられていたが、
「すると其許はやはり、兵法をもって身を立てて行かれる気か」
藤次はさっきから少し軽蔑した顔つきであったが、今もうんざりしたようにいう。この頃のように、こう小生意気な兵法青年がうようよ歩いて、すぐ印可の目録のといって誇っていることが、彼には、小賢しく聞えてならない。
そんなに天下に上手や達人が蚊みたいに殖えてたまるものか。第一自分などさえ、吉岡門に二十年近くもいて、やっとこれくらいなところであるのに――と身にひきくらべ、
(こんなのが、将来に皆、どういう飯を食ってゆくのか)
と、思うのだった。
膝をかかえて、灰色の海をじっと見ていたと思うと、美少年はまた、
「――京都?」
と、つぶやいて、藤次のほうへ眸を向け直した。
「京都には、吉岡拳法の遺子、吉岡清十郎という人がいるそうですが、今でもやっておりますか?」
よいほどに聞いてみれば、だんだん口の幅を広くしてくる。気に食わない前髪めがと藤次は小癪に思う。
けれど考え直してみると、こいつはまだ自分が吉岡門の高弟祇園藤次なる者であることを知らないのだ。知ったらさだめし前言に恥じて、びっくりする奴に違いない。
退屈しのぎが昂じて、ひとつ揶揄ってやろうと、藤次はそこで、
「――されば、四条の吉岡道場も、相かわらず盛大にやっておるらしいが、其許は、あの道場を訪れてみたことがあるか」
「京都へのぼったら、ぜひ一度はどの程度か、吉岡清十郎と立合ってみたいと存じていますが、まだ訪ねてみたことはありません」
「ふッ……」
笑いたくなった。藤次は顔を歪めた後から、軽蔑をみなぎらして、
「あそこへ行って、片輪にならずに、門を戻って来る自信が、あるかな?」
「なんの!」
美少年は突っ返すようにいった。――その言葉こそおかしけれ――とばかり笑い出すのだった。
「大きな門戸を構えているので、世間が買いかぶっているので、初代の拳法は達人だったでしょうが、当主の清十郎も、その弟の伝七郎とやらも、たいした者じゃないらしい」
「だが、当ってみなければ、分るまいが」
「もっぱら諸国の武芸者のうわさです。うわさですから、皆が皆、ほんとでもありますまいが、まず京流吉岡も、あれでおしまいだろうとは、よく聞くことですね」
大概にしろといいたい。藤次は、ここらで名乗ってやろうかと思ったが、ここでけりを着けたのでは、揶揄ったのでなく、揶揄われたに等しいものになる。船が、大坂へ着くにはまだ大分間もあることだし、
「なるほど、このごろは、諸国にも天狗が多いそうだから、そういう評判もあろうな。ところで、おん身は先ほど、師を離れて、郷里にあるうちは、毎日のように、錦帯橋の畔へ出て、飛燕を斬って大太刀のつかいようを工夫されたと仰っしゃったな」
「いいました」
「じゃあ、この船で、時々、ああして飛び来っては掠めてゆく海鳥を、その大太刀で、斬り落すことも容易であろうな」
「…………」
何か悪感情を包んでいる相手のことばを、美少年もようやくさとったらしく、瞬間、まじまじと藤次のそういう浅黒い唇を見つめていたが、やがて、
「出来たって、そんな莫迦な芸を私はやる気になれぬ。――あなたは、それを私にやらせようという肚だろうが」
「でも、京流吉岡を、眼下に見るほどな自信のある腕なら」
「吉岡をくさしたことが、あなたの気に入らなかったとみえる。あなたは、古岡の門人か、縁者か」
「何でもないが、京都の人間だから、京都の吉岡を悪くいわれれば、やはりおもしろくはない」
「ははは、うわさですよ、私がいったわけじゃない」
「若衆」
「なんです」
「生兵法という諺を知っているか。将来のため忠言しておくが、世間をそう甘く見すぎると、出世はせんぜ。やれ、中条流の印可目録を取っているの、飛燕を斬って、大太刀の工夫をしたのと、人をみな盲とするような法螺はよせ。よいか、法螺をふくのも相手を見てふくのだぜ」
「私を、法螺ふきと、仰っしゃったな」
美少年が、こう念を押すように突っ込むと、
「いったがどうした」
藤次は、反らした胸を、わざと相手へ寄せて、
「おまえの将来のためにいってやったのだ。若い者の衒いも、少しは愛嬌だが、あまり過ぎると見ぐるしい」
「…………」
「最前から何事もふむふむと聞いているので、人を舐めてつい駄ぼらが出たのだろうが、実は此方こそ、吉岡清十郎の高弟、祇園藤次という者だ。以後、京流吉岡の悪評をいいふらすと、ただはおかんぞ」
周りの船客がじろじろ見るので、藤次はそれだけの権威と立場とを明らかにして、
「このごろの若い奴は、生意気でいかん」
つぶやきながら、独り、艫のほうへ歩み去った。
――と、黙って美少年もその後について行くのだった。
(何かなくては済まないらしいぞ)
と予感したので、船客たちは、遠方からではあるが、皆、二人のほうへ首を振向けた。
藤次は決して事を好んだわけではない。大坂へ着けば、船着場にはお甲が待っているかもしれないのだ。女と会う前に、年下の者と、喧嘩などをやっては、人目につくし、あとがうるさい。
そしらぬ顔して、彼は、舷の欄へ肱をかけ、艫舵の下にうず巻いている青ぐろい瀬を見ていた。
「もし」
美少年は、その背中を軽くたたいた。相当に拗こい性質である。だが、感情に激しているような語気ではない、極めて静かなのだ。
「もし……藤次先生」
知らないふうも装えないので、
「なんだ」
顔を向けると、
「あなたは、人中において、私を法螺ふきと申されたが、それでは私も面目が立たないから、最前、やって見ろとおおせられた芸を、やむなくここで演じてみようと存じます。立ち会ってください」
「わしが、何を求めたか」
「お忘れのはずはない。あなたは、私が周防の錦帯橋の畔で、飛燕を斬って大太刀の修練をしたといったら、それを笑って、然らば、この船を頻りと掠め飛んでいる海鳥を斬ってみせろといわれたではないか」
「それはいった」
「海鳥を斬ってお目にかけたら、その一事だけでも、私がまるで嘘ばかりいっている人間でないことがおわかりになろう」
「それは――なる!」
「ですから、斬ります」
「ふむ」
と半ば、冷笑して、
「やせ我慢して、もの笑いになってもつまらんぜ」
「いや、やります」
「止めはしないが」
「しからば、立ち会いますかな」
「よし、見届けよう」
藤次が、張りをこめていうと、美少年は、二十畳も敷ける艫のまん中に立って、船板を踏まえ、背に負っている「物干竿」という大太刀のつかへ手をやりながら、
「藤次先生、藤次先生」
と、いった。
藤次は、その構えを白い眼で見すえながら、何用か、と彼方から答えた。
すると、美少年は、真面目くさって、
「おそれ入るが、海鳥を、私のまえへ呼び降ろしていただきたい。何羽でも、斬って見せます」
一休和尚の頓智ばなしをそのまま用いて、美少年は、藤次へ酬いたものとみえる。
藤次はあきらかに愚弄されたのだ。人を小馬鹿にするも程があるといっていい。当然、烈火のように怒った。
「だまれ。あのように空を翔けている海鳥を思いのままに、眼の前へ呼びよせられるものなら、誰でも斬るわ」
すると美少年は、
「海は千万里、剣は三尺、側へ来ないものは、私にも斬れません」
それ見たかといわないばかりに藤次は二、三歩出て、
「逃げ口上をいう奴だ。出来ませんなら出来ませんと、素直に謝れ」
「いや、謝るほどなら、こんな身構えは仕りません。海鳥のかわりに、べつな物を斬ってお目にかける」
「何を?」
「藤次先生、もう五歩こちらへ出て来ませんか」
「なんだ」
「あなたのお首を拝借したい。私が法螺ふきか否かを試せといったそのお首だ。罪もない海鳥を斬るよりは、そのお首のほうが恰好ですから」
「ばッ、ばかいえっ」
思わず藤次はその首をすくめた。――とたんに美少年の肱は弦の刎ねたように、背の大剣を抜いたのであった。ばっと空気の斬れる音がした。三尺の長剣が、針ほどな光にしか見えないくらい迅かったのである。
「――な、なにするかッ」
よろめきながら藤次は襟くびへ手をやった。
首はたしかに着いているし、そのほかなんの異状も感じなかった。
「おわかりか」
美少年は、そういって、荷梱のあいだへ立ち去った。
土気色になった自分の顔いろを、藤次はいかんともすることが出来なかった。だが、その時はまだ自分の五体のうちの最も重要な部分が斬り落されていることなど気づかなかった。
美少年が去った後で、ふと、冬陽のうすくあたっている船板の上を見ると、変な物が落ちている。それは、刷毛のような小さな毛の束だ、アッと、初めて気づいて、自分の髪へ手をやってみると、髷がない。
「や、や? ……」
撫でまわして驚き顔をしている間に、根の元結がほぐれて、鬢の毛はばらりと顔にちらかった。
「やったな! 青二才」
棒のように胸へ突っ張ってくる憤怒であった。美少年が自ら語っていたことのすべてが、嘘でも法螺でもないことが、とたんに分りすぎるほど彼には分った。年に似合わない怖ろしい技だと思う。若い仲間にも、ああいう若いのもいるのかと今さら思う。
だが、頭脳の驚嘆と、肚のそこの憤怒とは、べつ物である。そこからのぞいて見ると、美少年は先刻の席へもどって、何か、失くし物でもしたように、自分の足もとを見廻している。藤次は、絶好な隙をその体に見つけた。――刀の柄糸に唾をくれて固く握ったのである。身をかがめて、美少年のうしろへ迫り、こんどは、彼の髷を斬り払ってやろうとするのだった。
――だが藤次には、その髷先だけを鮮やかに斬る確信はなかった。当然、顔にかかる、頭の鉢を横に割るだろう。勿論、それでさしつかえない。
うむっ! 満身が赤く膨れあがって、彼の唇と鼻腔が出る息を結んだ時であった。
――胴の間の彼方で、小袖幕を囲って、最前から、「うんすん骨牌」という博戯に千金を賭けて、夢中になっていた阿波、堺、大坂あたりの商人たちが、
「札が足らない」
「どこへ飛んだのじゃ?」
「そっちを見ろ」
「いや、こっちにもない」
敷物を払って騒いでいたが、そのうちの一人が、ふと、大空を仰いで、
「やっ、小猿めが! あんなところへ!」
高い帆柱の上を指さして、頓狂なさけびをあげた。
――なるほど、猿だ、猿がいる。
三十尺もあろうかと思われる帆ばしらの天っ辺に。
下では、ほかの船客までが、海上の旅に倦み飽いていた折からなので、事こそあれと、みな顔を空へ上げ、
「やあ、何か咥えている」
「骨牌のふだですよ」
「ハハア、あそこで、金持ち連がやっていた骨牌を攫って行ったんですか」
「ごらんなさい、小猿のやつも、帆ばしらの上で骨牌をめくる真似をしている」
ヒラヒラと、そういう顔の中へ一枚の札が落ちて来た。
「畜生」
堺の商人のひとりが、あわててそれを拾いあげたが、
「まだ足らない。もう三、四枚持っているはずだ」
他の連中も口々に――
「誰か、猿のやつから、札を奪り返して来いやい。博戯が出来ぬ」
「どうして、登れるものか、あんな高いところへ」
「船頭なら」
「それや登るだろう」
「金をやって、船頭に取って来てもらおうじゃないか」
そこで船頭は、金をもらって、承諾はしたが、海上では司権者である船頭として、一応、この事件の責任を問わなければならないという顔つきで、
「お客衆」
と、荷物のうえに上がって、船客たちを見まわし、
「――あの小猿は、いったい誰の飼い猿じゃ、飼い主はここへ出てもらおう」
といった。
どこからも、おれのだといって名乗り出る者がない。しかし、その辺にいた客はみな知っている。例の美少年のすがたへ期せずして一同の眼が注がれた。
船頭も知っていた筈だ。そこで当然業腹が煮えてきたに違いない。船頭声を一段と張りあげて、
「飼い主はねえのか。飼い主がねえならねえように、おらが処分するが、あとで苦情はあんめえな」
いないのではない、美少年は荷物に倚りかかって、黙然と、何か考え事でもしている様子なのだ。
「……なんて図々しい」
と、ささやく者がある。船頭もぎょろりと美少年の頭を見ていた。博戯を邪げられた金持ち階級は、遽にざわめいて悪口を口走る。――鉄面皮だの、唖かの、つんぼかのと。
だが美少年は、ちょっと膝を横に坐り直したきりだった。どこへ吹く風かという姿である。
「海のうえにも、猿が住むとみえて、飼い主のねえ猿が舞いこんだ。飼い主のねえ畜生なら、どうして始末してもかまうめい。――皆の衆、これほど船頭は断っているのに飼い主が名乗って出ねえだ。後で、耳が遠いの、聞かなかったのと、苦情のねえように、証人になってくらっせえ」
「いいとも、わしらが証人に立ってやる」
と例の旦那連中が、腹を立てて、呶鳴った。
船頭は、船底へゆく段梯子を下りて行った。上がって来た時には、火のついた火縄と、種子島銃を持っていた。
(――怒ったな船頭)
同時に、あの飼い主の若衆がどう出るだろうかと、人々はまた、美少年の姿を振りかえってみた。
のん気なのは、上の小猿だ。
潮風の空で、骨牌を見ている。それがいかにも意思があって人間をからかっているように見えるのである。
だが――突然、白い歯を剥いて、キッ、キッ、キッと啼き出すと、帆車の横木を走ったり、帆ばしらの突端へ飛びついたり、急に狼狽しはじめた。
「…………」
下では、船頭が、火縄を鼻の先にいぶして種子島の銃先を空へ向け、じっと、小猿を狙いすましていた。
「ざまを見ろ、あわてやがって――」
と、だいぶ酒の入っているらしい旦那連のうちの一人がいう。
「しっ……」
と、堺の商人が袂をひいた。それまで唖のように他所を向いていた美少年がぐっと体を起し、
「船頭」
と、こちらへ声を投げたからである。
こんどは、船頭のほうでそら耳を装っていた。火縄が、チラと関金の煙硝へ口火を点じかけた。――と、間髪を容れなかったのである。
「あっ」
ドカアンと弾音はたかく反ッぽへ走った。銃は美少年の手に引っ奪くられているのだった。船客たちは、耳を抑えて俯つ伏した。――その頭のうえを越して、ぶうんと、鉄砲は船の外なる渦潮の中へ投げ捨てられていた。
「な! なにしやがる!」
これは船頭の当然な怒号だった。おどり上がって美少年の胸ぐらにぶら下がったのである。
頑丈な船乗の体も、美少年のまえに正当に立つと、ぶら下がったという言葉がおかしくないほど、背も骨ぐみも、段ちがいに美少年のほうが逞しくて立派だったのである。
「おまえこそ、何するのだ、飛び道具で、無心の小猿を撃ち落そうとしたろう」
「そうだ」
「不届きではないか」
「なぜッ。――断ってあるぞ、おらの方では」
「どう断った?」
「おめえは、眼がねえのか、耳がねえのか」
「だまれ、こう見えても、わしは客だ、わしは武士だ。船頭風情の身をもって、客よりも高い場所に突っ立ち、頭の上からあのように喚いたとて、侍が、答えられるか」
「いい抜けを吐ざくな。そのためにおらは何度も断ってある。その断りかたが気にくわねえにせよ、なぜ、おらが立つ前に、あちらの客衆が迷惑したのを、黙りこくって、知らぬふりしていさらしたのじゃ」
「あちらの客衆とは――おおあの幕の中で先刻から博戯をしておった町人どもか」
「大口をたたくな、あの客衆は、並の客衆よりは、三倍も高い船賃を出してござらっしゃる」
「いよいよ不埒な町人どもだ、衆人の中で、大びらに金を賭け、酒の座を気ままに占め、わが物顔して、この船中に振舞っている様子、面白くない人間どもかなと眺めていたのじゃ。小猿が骨牌のふだを取って逃げたからとて、この身がいいつけたわけではなし、あの連中のする悪戯を、猿が真似したまでのこと、わしから迷惑を詫び出るすじはない」
ことばの半ばから、美少年は、血の気の多いその顔を、彼方の一つどころにかたまっている堺や大坂の旦那連のほうへ向けて、極めて皮肉な笑い方をしていったのであった。
潮騒の夕闇に、木津川湊の灯は赤く戦いでいる。
どことなく魚臭いものが迫る。陸が近づいたのだ。船から呼ばわる声と、陸でわいわいという声が、徐々に、距離をちぢめていた。
どぼーんと、真っ白なしぶきが立つ。錨が抛りこまれたのである。繋綱が投げられる――渡り板が架けられる。
「かしわ屋でございますが」
「住吉の社家の息子さまは、この船にござらっしゃらぬか」
「飛脚屋さんはいるかね」
「旦那様あ」
渡海場の埠頭にかたまっていた迎えの提燈は、灯の波を作って船の横へ迫ってゆく。
その中を、例の美少年が、揉まれて降りて行った。肩に小猿を乗せている姿を見て、旅籠の客引きが二、三人、
「もしもし、猿のお泊り賃は、無料にいたしておきますが、私どもへお越しくださいませぬか」
「てまえどもは住吉の門前で、ご参詣にもよし、座敷の見晴らしも至極よいお部屋がございますが」
それらの者には一顧もせず、そうかといって迎えに来ている知人もないらしく、美少年は小猿をかついで、真っ先にこの湊から姿を消してしまった。
それを見送って、
「何んていう生意気なやつだろう。すこしばかり兵法が出来ると思って」
「まったく、あの若造のために、船の中は半日、みんな面白くなく暮してしまった」
「こっちが町人でなければ、あのままただでこの船を降ろすのじゃないが」
「まあまあ、侍には、たんと威張らせておいてやるがいいさ。肩で風を切っていれば、それで気が済むんだから他愛はない。わしら町人は、花は人にくれても、実を喰おうという流儀だから、今日ぐらいな忌々しさは、仕方があるまいて」
こんなことをいいながら、荷物沢山な旅すがたを揃えて、ぞろぞろ降りて行ったのは例の堺や大坂の商人連であり、そこへは無数の出迎えが、提燈や乗物をあつめ、一人一人に、幾人かの女の顔も取り巻いていた。
祇園藤次は、誰よりも後から、こっそりと陸へ上がっていた。
形容のできない顔つきである。不愉快といって、きょうほど不愉快な日はなかったに違いない。髷をちょん切られた頭には、頭巾をかぶせているが、眉にも唇にも、暗澹とただよっている。
と。――その影を見つけ、
「もし……ここですよ、藤次さま」
その女も、頭巾をかぶっていた。渡海場に立って吹き曝されていた顔が、寒さに硬ばって、年をかくしている皺が、白粉の上に出ていた。
「お、お甲か。……来ていたのか」
「来ていたのかって、ここへ迎えに来ているようにと、私へ手紙をよこしたくせに」
「だが、間にあうかどうか、と実は思っていたものだから」
「どうしたんですえ、ぼんやりして――」
「イヤ、すこし、船に暈ったとみえる……。とにかく、住吉へでも行って、よい宿を見つけよう」
「え、あちらに、駕も連れて来ましたから」
「そいつは有難う、じゃあ宿も先に取っておいてくれたか」
「みな様も、待ちかねているでしょう」
「え?」
意外な顔して、藤次は、
「オイお甲、ちょっと待ってくれ。おまえとここで落ちあったのは、二人ぎりでどこか静かな家で二、三日悠っくりしようという考えじゃないか。……それを、皆様とは一体、誰と誰のことをいうのだ」
「乗らない。わしは乗らない」
祇園藤次は、迎えの駕を拒んでぷんぷん怒りながら、お甲の先へ歩いていた。
お甲が何かいうと、
「ばかっ」
と、ものをいわせない。
彼をして、こう立腹させた原因は、お甲が告げた新しい事情にも因づくが、すでに船の中からもやもやしていた鬱憤が、あわせて今、爆発したことは否めない。
「おれは、一人で泊るっ。駕なんか追ッ返せ。なんだ。人の気も知らないで、ばかっ、ばかっ!」
と、袂を払う。
河の前の雑魚市場は、みな戸が閉まって、魚の鱗が、貝をちらしたように、暗い長屋の戸に光っていた。
そこまで来ると、人影も少なくなったので、お甲は、藤次に抱きついた。
「およしなさい、見ッともない」
「離せっ」
「一人で泊ったら、あっちが変なものになりますよ」
「どうにでもなれっ」
「そんなこといわないで」
白粉と髪の香の、冷たい頬が、藤次の頬へ貼りついた。藤次はやや旅の孤独から甦った。
「……ネ、頼みますから」
「がっかりした」
「そうでしょう、だけど、二人にはまたいい機があるでしょう」
「おれは、せめて大坂で二、三日は二人ぎりと、楽しみにして着いたのだ」
「分ってますよ」
「わかっているなら、なぜ他の者を引ッ張って来たのだ。俺が思っているほど、おまえは俺を思っていないからだろう」
藤次が責めると、
「また、あんな……」
と、お甲はうらめしげな眼をこらして、泣きたいような顔をして見せる。
彼女のいい訳は、こうだった。
藤次から飛脚を受け取ると、彼女は勿論、自分だけで大坂へ来るつもりだった。ところが折わるく、吉岡清十郎がその日もまた、六、七名の門人を連れて「よもぎの寮」へ飲みに来て、いつのまにか、朱実の口から、そのことを聞いてしまい、
(藤次が大坂へ着くなら、わしらも迎えに行ってやろうじゃないか)
といい出した。それに調子をあわせる取り巻き連も多く、
(朱実も行け)
と、いう騒ぎになってしまい、いやともいえずお甲は一行十人ほどの中に交じって住吉の旅館に落着き、一同の遊んでいる間に、自分だけ一人で駕を持ってここへ迎えに来たのだという。
――聞いてみれば、事情はやむを得ないものだったが、藤次は腐りきってしまった。今日という日に迷信がわき起るほど、何か、後にも先にも、不愉快ばかりが考えられた。
第一、陸を踏むとすぐ、清十郎だの同輩だのに、旅先の首尾を聞かれることが辛い。
いやもっと嫌なことは、この頭巾を脱ぐことである。
(何といおう)
彼は、髷のない頭を苦に病んだ、彼にも侍というものの面目はある。人に知られない恥なら掻いてもよいが、人にわかる恥を重大に思う。
「……じゃあ仕方がない、住吉へ行くから駕を連れて来い」
「乗ってくれますか」
お甲はまた、渡海場のほうへ、駈け戻った。
この夕方、船で着く藤次を迎えに行くといって出たお甲は、まだ帰って来ない。その間に、同勢は風呂にはいり、旅舎のどてらに着膨れて、
「やがて、藤次もお甲も見えるだろう、その間、こうしていてもつまらんじゃないか」
飲んで待っていようということになったのは、この同勢として、当然な納まりであった。
藤次の顔が見えるまでのつなぎとして飲んでいたうちはいいが、いつの間にか膝がくずれ、杯がみだれ出すと、もうそんな者はどうでもよくなってしまい、
「この住吉には、唄い女はいないのか」
「きれいなのを三、四人呼ぼうじゃないか。どうだ諸卿」
と、病気が始まる。
(よせ、つまらない)などという顔は、この中には一つもいない。ただ師の吉岡清十郎の顔いろを多少憚るのであったが、
「若先生には、朱実が側についているから、別間のほうへ、お移り願おうじゃないか」
横着な奴らかなと清十郎はにが笑いする。けれど、それは自分に取っても好ましい。炬燵のある部屋に入って、朱実とふたりで差し向うほうが、この同勢と飲んでいるより、どれほどいい人生かわからない。
「さあ、これからだ」
とは門人どもが、門人だけになってからの発声だった。やがて程なく十三間川の名物という怪しげな唄い女が笛、三味線などのひねこびた楽器を持って庭にあらわれ、
「いったい、あんたはん達は、喧嘩するのかいな、酒あがるのかいな」
と訊ねる。
すでによほど大トラになっている一人が、
「ばかっ、金を費って喧嘩する奴があるか。おまえたちを呼ぶからには、大いに飲んで遊ぶのだ」
「じゃあ、まちっと、静かにあがりやはったらどうかいな」
手際よく扱われて、
「然らば、歌おう」
抛り出していた毛脛をひっ込めたり、横にしていた体を起して、絃歌ようやく盛んならんとする頃おい、小女が来て、
「あの、お客様が、船からお着きなさいまして、ただ今、お連れ様といっしょに、ここへきやはりまする」
と、告げて行った。
「なんだ、何が来たと」
「藤次といった」
「冬至冬至、魚の目か」
お甲と祇園藤次は、あきれ顔して部屋の口に立っていた。誰も彼を待ったらしい者は一名もないのだった。藤次は、一体何のために、この年末この同勢が、住吉へなど来ているのかと疑った。お甲にいわせれば自分を迎えに来たのだというが、どこに自分を迎えに来たらしい人間が一人でもいるか、むっとして、
「おい、下婢」
「はい」
「若先生は、どこにいらっしゃるか、若先生のいる部屋へ行こう」
廊下をもどりかけると、
「よう、先輩、ただ今お帰りか。――一同が待っておるのに、お甲などと、途中でよろしくやっているなんて、この先輩、怪しからんぞ」
大トラが立ち上がって来て首の根にかじりついた。たまらない臭気を放つ。逃げようとしたので、トラは強引に座敷へ引きずり込んだ、そして、膳を踏みつけたから形のごとく杯盤狼藉を作って、共倒れに仆れた。
「……あっ、頭巾を」
藤次は、あわてて自分のそれへ手をやったが遅かった。辷った拍子に、トラは彼の頭巾をつかんで後ろへ腰をついていた。
「あれ?」
と、奇異な感じに打たれたように、一座の眼は、藤次の髷のない頭にあつまって、
「頭をどうかなされたので?」
「ホホウ、奇妙なお髪」
「どうしたわけでござる」
無遠慮な凝視を浴び、藤次は狼狽に顔をどす赤くして、頭巾をかぶり直しながら、
「いや、ちとな、その腫物ができたので」
と、誤魔化したが、
「わははは」
と、皆笑いくずれ、
「旅土産は、腫物でござったか」
「できものに閉じ蓋」
「頭かくして尻かくさず」
「論より証拠」
「犬も歩けば――」
などと駄洒落をいって、誰も藤次のいいわけを真に受けないのである。
その晩は、酒の興で済んだが、次の日になるとこの同勢が、ゆうべとは打って変って、旅舎のすぐ裏の浜辺に出て、天下の大事でも議すように、
「怪しからん沙汰だ」
と、肩を昂げ、唾をとばし、肱を突っ張って、小松の生えている砂地に円く坐っていた。
「――だが慥かか、その話は」
「この耳で、おれが聞いたのだ、おれが嘘をいうと思うのか」
「まあ、そう怒るな、怒ってみたところで仕方がない」
「仕方がないで黙過することはできん。いやしくも天下の兵法所をもって任じる吉岡道場の名折れだ、断じて、これを捨ておくことはできないぞ」
「しからば、どうするのだ」
「これからでも遅くあるまい。その小猿を連れて歩いている前髪の武者修行を捜し出す! どんなことをしても捜し出す! そして、彼奴の髷をちょん切って、祇園藤次ずれの恥辱じゃない、吉岡道場の存在を厳かにする。――異議があるか」
ゆうべトラになった酔っぱらいが、洒落ていえば、今日は龍となって嘯くかのように、趣をかえて、激昂しているのだ。
その動機をたずねると、こうなのである。――今朝がた、彼らが特に朝風呂を命じて、宿酔の脂をながしていると、そこへ入浴って来た相客の者で、堺の町人というものが、きのう阿波から大坂へくる便船のうちでは、実におもしろいことがあったといって、例の小猿を携えている美少年のうわさを語り、祇園藤次が髷を切り落された由来に及んでは、手真似、顔つきまでして、
(なんでもその髷を切られたほうの侍は、京都の吉岡道場の高弟だっていっていたが、あんなのが高弟じゃ吉岡道場もざまはない)
ことおかしげに、湯に入っているうち喋舌って行った。
彼らの憤激はそれから始まったものである。怪しからぬ先輩と、祇園藤次をつかまえて詰問に及ぼうとすると、藤次は今朝早く、吉岡清十郎と何か話していたが、朝飯をたべるとすぐ、お甲とふたりで、先へ京都へ発ってしまったという。
いよいよもって、うわさは事実にちがいない。そういう腰抜けの先輩を追いかけるのは愚かである、追うならばどこの何者かわからないが、自分たちの手で、小猿を携えた前髪を捕まえ、存分に、吉岡道場の汚名をそそいでやろうじゃないか。
「――異議があるか」
「勿論、ない」
「しからば――」
と、手筈をしめし合せ、そこの同勢は、袴の砂を払って立ち上がった。
住吉の浦は、眼のおよぶ限り、白薔薇をつないだような波である。冬とも思えない磯の香が陽に煙っている。
朱実は、白い脛を見せて、波に戯れながら何か拾って見ては捨てていた。
何事か起ったように、吉岡の門人たちが思い思いな方角へ向い、刀のこじりを刎ね上げて分れて行くのを眺めて、
「オヤ、何だろう」
朱実はまるい眼をしながら、波打ち際に立って見送っていた。
いちばん最後になった門人の一人は、彼女のすぐ側を駈けて来たので、
「何処へ行くのです」
声をかけると、
「オ、朱実か」
足を止めて――
「おまえも一緒になって捜さんか。ほかの者もみな手分けして、捜しに行ったんだ」
「何を捜しに行ったんです」
「小猿を携えている前髪の若い侍さ」
「その人がどうかしたのですか」
「抛っておいては、清十郎先生のお名まえにもかかわるのだ」
祇園藤次の飛んでもない置土産の一件を話して聞かすと、朱実は興もない口吻で、
「皆さんは、始終喧嘩ばかり捜しているんですね」
と、たしなめ顔にいう。
「何も喧嘩を好むわけじゃないが、そんな青二才を、黙って捨てておいては天下の兵法所たる京流吉岡の名折れになるじゃないか」
「なったっていいじゃありませんか」
「ばかいえ」
「男って、ずいぶんつまらないことばかり捜して、日を暮しているんですね」
「じゃあ、おまえは、さっきからそんなところで何を捜しているんだ」
「わたし――」
朱実は、足もとのきれいな砂へ、眼を落して、
「わたしは、貝殻を見つけているの」
「貝殻? ……それみろ、女の日の暮し方のほうが、なおくだらないじゃないか。貝殻など何も捜さなくっても、天の星ほど、こんなに落ちている」
「わたしの捜しているのは、そんなくだらない貝殻じゃありません。わすれ貝です」
「わすれ貝、そんな貝があるものか」
「ほかの浜にはないが、この住吉の浦にだけはあるんですって」
「ないよ」
「あるんですよ」……いい争って、朱実は、
「嘘だと思うならば証拠を見せてあげますからこっちへ来てごらんなさい」
と、ほど遠からぬ所の松並木の下へ、無理やりにその門人を引っぱって来て一つの碑を指した。
いとまあらば
ひろひに行かむ住吉の
きしに寄るてふ
恋わすれ貝
新勅撰集のうちにある古歌の一首がそれには刻んである。朱実は誇って、ひろひに行かむ住吉の
きしに寄るてふ
恋わすれ貝
「どうです、これでもないといえますか」
「伝説だよ、取るにも足らん歌よみの嘘だ」
「住吉にはまだ、わすれ水、わすれ草などという物もあるんです」
「じゃ、あるとしておくさ。――だが、それが一体何のお禁厭になるのかい」
「わすれ貝を帯かたもとの中へ秘しておくと、物事が何でも忘れっぽくなるんですとさ」
「その上、もっと忘れっぽくなりたいのかい」
「ええ、何もかも忘れてしまいたい、忘れられないために、わたしは今、夜も寝られないし、昼間もくるしいんです。……だから捜しているの。あんたも一緒になって捜してくださいよ」
「それどころじゃない」
思い出したように、その門人は足の向きを変えて、どこかへ駈けていってしまった。
――忘れたい。
苦しくなると、そう思うほどだったが、また、
「忘れたくない」
朱実は、胸を抱いて、矛盾の境に立った。
もしほんとにわすれ貝という物があるならば、それはあの清十郎の袂へこそ、そっと入れてやりたい。そしてこの自分という者を彼から忘れてもらいたいと、ため息ついて思う。
「執こい人……」
思うだけでも、朱実は心がふさいだ。自分の青春をのろうために、あの清十郎は生活しているような気もちにさえ襲われる。
清十郎のねばり濃い求愛に、心が暗くなる時は、必ずその心のすみで、彼女は武蔵のことを考えた。――武蔵が心にあることは、救いであったが、また苦しくもなって来た。なぜならば、遮二無二に今の境遇を切り解いて現在の身から夢の中へ、駈け出してしまいたくなるからだった。
「……だけど?」
彼女は、しかし幾たびもためらった。自分はそこまでつき詰めているが、武蔵の気もちはわからなかった。
「……アアいっそのこと忘れてしまいたい」
青い海が、ふと誘惑でさえあった。朱実は、海を見つめていると、自分が怖くなった。何のためらいもなく、真っ直にそこへ向って駈けて行かれる気がするのである。
そのくせ自分がこんなつき詰めた考えを抱いているなどということは、およそ彼女の養母のお甲も知らない。清十郎も思わない。誰でも朱実と一つに暮した者は皆、この娘は至って快活で、お転婆で、そしてまだ、男性の恋愛が受け取れないほど開花の晩い質だと思いこんでいるらしいのである。
朱実はそんな男たちやまた養母を、心のうちであかの他人に思っていた。どんな冗戯でもいえるのである。そしていつも鈴のついた袂を振って、駄々っ子みたいに振舞っているのだったが、独りになると、春の草いきれのように熱いため息をついていた。
「――お嬢さま、お嬢さま。さっきから先生がお呼びでごさいますよ。どこへ行ったのかと、えらいご心配になって」
旅舎の男だった。彼女のすがたを碑のそばに見つけて、こういいながら走って来た。
朱実がもどって行って見ると、清十郎はただひとりで、松かぜの音を静かに閉てこめた冬座敷で、緋の蒲団をかけた炬燵に手を入れてぽつねんとしていた。
彼女のすがたを見ると、
「どこへ行っていたのだ、この寒いのに」
「オオ嫌だ、ちっとも寒くなんかありやしない。浜はいっぱいに陽があたっていますもの」
「何していた」
「貝をひろっていたの」
「子どもみたいだな」
「子どもですもの」
「正月が来たら幾歳になると思う」
「幾歳になっても子どもでいたい……いいでしょう」
「よかあない。すこしは、おふくろの案じているのも考えてやれよ」
「おっ母さんなんか、何も私のことなんか考えているものですか。自分がまだ若い気ですもの」
「ま、炬燵へお入り」
「炬燵なんか、逆上るから大っ嫌い。……私はまだ年寄りじゃありませんからね」
「朱実」……手くびをつかんで、清十郎は膝へ引き寄せた。
「きょうは誰もいないらしい。おまえの養母も、粋をきかして先へ京都へ帰ったし……」
ふと清十郎の燃えている眼を見て、朱実はからだが硬ばってしまった。
「…………」
無意識に身を退きかけたが、彼の手は、彼女の手くびを離さない。痛いほど握りしめ、
「なぜ逃げる?」
とがめるように額に青すじを立てる。
「逃げやしません」
「きょうは皆、留守なのだ、こういう折はまたとない。そうだろう朱実」
「なにがです」
「そう棘々しくいうな。もうおまえと馴染んでから小一年、おれの気持もわかったはず、お甲はとうに承知なのだ。おまえがおれに従わないのは、おれに腕がないからだとあの養母はいっている。……だから今日は」
「いけません!」……突然、朱実は俯ッ伏して、
「――離してください、この手をこの手を」
「どうしても」
「嫌、嫌、嫌ですっ」
手くびは捻じ切れそうに赤くなってくる。それでも清十郎は離さないのである。こういう場合に京八流の兵法が応用されては、いかに彼女が争っても無駄であろう。それにまた、きょうの清十郎はいつもとやや違っていた。いつも自暴に酒を仰飲って執こくからむのだが、きょうは酒気はないし、青白い顔をしているのだった。
「――朱実、おれをこうまで意地にさせて、おまえはまだ、おれに恥をかかすのか」
「知らないっ」
朱実は遂に、
「あたし、大きな声を出しますよ。離さないと、みんなを呼ぶからいい」
「呼んでみい! ……。この棟は母屋から離れているし、誰も来るなと断ってあるのだ」
「わたし帰ります」
「帰さん!」
「あなたの体じゃありません」
「ば、ばかっ。……おまえの養母に聞け、おまえの体には、おれの手から身代金ほどの金が、お甲へやってあるのだ」
「おっかさんが私を売り物にしても、私は売った覚えはない。死んだって、嫌な男なぞに」
「なにっ」
緋の炬燵ぶとんが、朱実の顔を押しかぶせた。朱実は心臓のつぶれるような声をあげた。
……呼べど、呼べど、誰も来なかった。
ひんやりと薄陽のあたっている障子には、何事もなげに、松のかげが遠い潮鳴りのように揺れているに過ぎない。外は、あくまで静かな冬の日であった。チチ、チチ、とどこかで、人間の無残な振舞いとはおよそ遠い小鳥の声がしていた。
……ほど経って。
そこの障子のうちで、わっと号泣する朱実の声がもれた。
しいんとして、ややしばらくのあいだ、人の声も気はいもしないでいると思うと、清十郎が青じろい顔を持って、ついと、障子の外へすがたを現わした。
爪で引っ掻かれて血になった左の手の甲を抑えながら――
すると同時に、ぐわらっと突き破るように障子を開けて、朱実が外へ走って行った。
「あっ! ……」
清十郎は身伸びをして、手拭で巻いた手を抑えながら、見送ってしまった。――捕まえる間もなかったのである。まるで、発狂したような迅さと取乱した彼女の姿であった。
「…………」
ちょっと、不安そうな眼をしたが、清十郎は、追って行かなかった。――どこへゆくかと見ていた朱実の影がやはり旅舎のうちの一間へ、庭のほうから入ってかくれ込んだ様子なので、ほっとするとともに、或る満足感を皮膚の下へたたえて、薄い笑いをその顔に歪めていた。
「これよ、権叔父」
「おい、なんじゃあ」
「おぬし、くたびれぬかよ」
「いささか気懶うなっておる」
「そうじゃろが、この婆もちと、きょうは歩行い飽いた。したが、さすがに住吉の社、見事な結構ではある。……ホホ、これが若宮八幡の秘木とかいう橘の樹かいの」
「そうとみえる」
「神功皇后さまが、三韓へご渡海なされた折に、八十艘の貢ぎ物のうちの第一のみつぎ物がこれじゃといういい伝えじゃが」
「婆よ、あの神馬小屋にいる馬は、よい馬ぞよ。加茂の競べ馬に出したら、あれこそ第一でがなあろうに」
「ムム、月毛じゃの」
「何やら立て札があるわ」
「この飼料のおん豆を煎じて飲ますれば、夜泣き、歯ぎしりが止むとある。権叔父、おぬし飲むがええ」
「ばかをいわしゃれ」
笑いながら見廻して、
「おや、又八は」
「ほんに、又八はどこへ行ったぞいな」
「ヤア、ヤア、あれなる神楽の殿の下に足をやすめているわ」
「又よう。又ようっ――」
婆は手をあげて、
「そっちゃへ行くと、元の大鳥居の方へ出るのであろうが。――高燈籠のほうへ行くのじゃがな」
と呼ぶ。
又八は、のそりのそり歩いて来た。この婆とこの爺を連れにして、毎日こう歩いてばかりいるのは、彼としてかなりの我慢らしく見える。それが五日や十日の見物というならまだしも、宮本武蔵という敵と巡り会って討ち果すまでの長い旅かと思うと、なんとしても、憂鬱にならざるを得ない。
三人つながって歩いていても無益であるから、各わかれて、自分は自分で武蔵の所在をさがすから――と提議してみたが、
(もうやがてすぐ正月、久しゅう母子一緒に屠蘇を酌まぬし、いつ何時、これがこの世の名残りとなろうも知れぬお互いの身、せめて、ことしの正月だけは、ともに過ごそうではないか)
母がいうので、又八は無下にもできなかった。元日か二日が過ぎたらすぐ別れようと思う。だが、婆も爺も、先の短いせいか、仏性があるというのか、神社仏閣というといちいちお賽銭を奉ったり、長々と祈願をこめたりばかりしていて、今日も、この住吉だけで、ほとんど一日暮れてしまいそうだ。
「はよう来ぬか」
鈍々たる足つきで、顔をふくらませて来る又八をながめて、お杉隠居は、若い者のように焦れた。
「勝手なことをいってら」
又八は、口返答して、少しも足を早めないのだ。
「人を待たせる時は、いくらでも待たせておいて」
「何をいうぞ、この息子は。神さまの霊域へ来たら、神さまをおがむのは人間のあたりまえなことじゃ。おぬし、神にも仏にも手を合せたのを見たことがないが、そういう量見では、行く末が思いやらるる」
又八は、横を向いて、
「うるせえな」
それを聞き咎めてまた婆が、
「何がうるさいのじゃ」
初めの二、三日こそ、母子の愛情は蜜より濃やかであったが、馴れるにつれ又八が、事ごとにたてを突いたり老母を小馬鹿にしたりするので、旅籠に帰るとお杉隠居は、この息子を前に坐らせ、毎夜のようにお談義ばかりであった。
それが今、ここで始まりそうな気色なので権叔父は、こんなところで開き直られては閉口と、
「まアまア、まアまア」
と、母子をなだめて歩み出した。
困った母子だと権叔父は思う。
何とか、隠居のきげんを直し、又八のふくれ面もなだめたいものだと、双方に気をつかって歩いている。
「ホ、よいにおいがすると思ったら、あれなる磯茶屋で、焼き蛤をひさいでおる。婆よ一酌やろうではないか」
高燈籠の近くにある海辺の葭簀茶屋であった。気のすすまない顔つきの二人を誘って、
「酒あるか」
権叔父は先へ入って行く。
そして、
「さ、又八もきげん直せ。婆もちとやかまし過ぎるぞよ」
杯を出すと、
「飲みとうない」
お杉隠居は、横を向く。
引っ込みを失って、権叔父はその杯を、
「じゃあ又八」
と、彼へ酌した。
むッつりむッつり又八はたちまち二、三本ほど飲みほしてしまう。それが老母の気に喰わないことは勿論である。
「おい、もう一本」
権叔父をさし措いて、又八が四本目を求めると、
「いい加減にしやれ!」
と、婆は叱った。
「遊山や酒のむためのこの旅かよ。権叔父も、ほどにしたがよい。幾歳になっても、又八と同じように、年がいもない人じゃ」
きめつけられた権叔父は、独りで飲んだように真っ赤になった顔の遣り場を失って、てれ隠しに撫で廻し、
「そうじゃ、ほんに違いない」
のそのそ先に軒先へ出てしまう。
その後で始まったらしい。又八をつかまえてお杉隠居の諄々たる訓戒である。この烈しくて脆い女親の憂いと愛は、わが子にその本能を揺り起すと、とても宿屋へ帰るまで待っていられなかった。他人がいようといまいと気にもかけない。――又八はそれに対して憤っとした反抗を顔に示して睨め返している。
いうだけいわせて、
「おふくろ」
こんどは又八からいい出した。
「じゃあ、この俺という人間を、おふくろは結局、意気地なしの腰ぬけの、親不孝者と折紙つけているのだな」
「そうじゃろが、今日まで、汝れのして来た行状のどこに意気地のあるところがあるかよ」
「俺だって、そう見くびった者じゃない。おふくろなどに分るものか」
「わからいでか、子を見ること親に如かずじゃ。汝れのような子を持ったが、本位田家の不作というもの」
「だまって見ていろ、まだおれは若いのだ。婆あめ、悪たれいうて、草葉の蔭から後悔するな」
「オオ、その後悔ならしてみたい。だが恐らくは、百年待っても覚つかないことじゃろう。思えば、嘆かわしい」
「嘆かわしい子なら持っていても仕方があるまい。おれから去ってやる」
憤然と、又八は立った。そして、ぷいと大股に彼方へ歩き出して行くのだった。
婆は、あわてて、
「こ、これっ」
と、ふるえ声で呼び止めたが又八は振り向かなかった。――止めてくれてもよさそうな権叔父はまた権叔父で、何を暢気な顔して見ているのか、海のほうに向って、じっと、大きな眼をすえたきり動かない。
そこで、婆は、いちど上げた腰を床几にもどして、
「権叔父っ、止めるでない。止めるでないぞよっ」
その声に、
「婆」
権叔父は答えて振り向いたが、いうことは、隠居の期待とちがっていた。
「あの女子、なんとも、いぶかしいわ、ちょっと、待ってくれい」
いうが早いか、権叔父は、蛤茶屋の軒先へ笠を抛って、まるで弦から放たれたように、海へ向って駈け出して行った。
隠居は、おどろいて、
「阿呆っ、どこへおじゃるッ、それところじゃないわ! 又八がっ――」
と、彼につづいて十間ほど駈けて行ったが、磯の藻草に足をからまれて、勢いよく前へ転んだ。
「ば、ばかっ」
顔も肩も、砂だらけになって、婆は這い起きた。
そして腹立たしげに、権叔父の姿を捜していた眼が、突然、鏡のように大きくなったと思うと、
「馬鹿っ、馬鹿っ」
と連呼して、
「気が狂うたかっ、どこへ行くのじゃっ、権叔父っ」
と彼女までが、発狂したのではあるまいかと疑われるような血相で、権叔父の駈けて行った海へ向って、彼女も駈け出して行ったのである。
――見ると。
権叔父はもう海へ入っていた。このあたりは至って遠浅なので、まだ水は脛のあたりまでしか浸っていないが、夢中になって沖へ沖へと駈けてゆくので、その飛沫は、駈けてゆく彼のすがたを包み、真っ白に煙っている。
ところが――その権叔父の前にも、もう一人の若い女が、凄まじい勢いで、海へ駈けこんで行くではないか。
初めに、権叔父がその女を発見した時は、女は松原の蔭にたたずんで、じっと海の碧さを見つめていたが、アッ――と思った時は、黒髪をちらしているその姿は、もう飛沫を蹴って、真一文字に海へ駈けていたのであった。
だがこの浦は前にもいったとおり五町六町の沖まで潮が浅いので、先に走ってゆく女の姿も、まだ脚の半分ほどしか隠れていない。
白い水けむりを浴びて、赤い袖裏や金糸の帯が光っている。あたかも平敦盛が駒を沈めて行くかのように見えるのだった。
「女あッ……! 女っ……。おういッ! ……」
やっと、間近まで追いついて、権叔父がこう呶鳴ったとたんに――そこから急に底が深くなっているのであろう、ガボと、異様な一声を水面に残して、女のすがたは不意に大きな波紋の下にかくれてしまった。
「やれ不心得者っ、やはり死ぬ気か」
ずぶずぶと、権叔父も同時に、全身まで沈みこんで行った。
岸では、隠居が、波打ち際に沿って横へ駈け廻っていた。
一抹の水けむりと共に、女の影も、権叔父のすがたも見えなくなると、
「あれっ、あれっ、誰ぞ、早く行かねば、間にあいはせぬっ。二人とも死んでしまうわッ」
と、まるで他人のせいみたいに喚いて、
「はよう、助けに行けっ、浜の者っ、浜の者っ」
と、転んだり駈けたり、また、手を振り廻したり、自分が溺れるかのように騒いでいた。
「心中か」
「まさか……」
と、救って来た漁師たちは、砂の上へ寝かした二つの体を見てわらった。
権叔父のからだは、慥乎と若い女の帯をつかんでいた。そのふたりとも、息はなかった。
若い女は、髪の毛こそ、根が切れて乱れていたが、まだ生きてるように、化粧の白粉や口紅が浮き立っていた。紫いろになった唇をチラと噛んで笑っているのである。
「オオ、この女は見たことがあるぜ」
「さっき浜べで、貝殻をひろっていた女じゃないか」
「そうだ、あの宿屋に泊っている女だ」
そこへ報らせに行くまでもなかった。むこうから四、五人して駈けて来るのがその宿屋の者らしく、中に、吉岡清十郎の顔も見える。
ここの人だかりに、さてはと息を喘いて来た清十郎は、
「おっ、朱実だ」
真っ蒼になって――しかし人前を憚るように、棒立ちに恟んでしまった。
「お侍、おめえの連れか」
「そ、そうだ」
「はやく、水を吐かしてやんなせえ」
「た、たすかるか」
「そんなことをいってる間に」
と、漁師たちは、権叔父と朱実と、両方のからだに分れて鳩尾を押したり、背をたたいたりした。
朱実は、すぐ息をふき甦した。清十郎は宿舎の者に負わせて、人目から逃げるように旅舎へ帰って行った。
「権叔父よ……権叔父よっ……」
お杉隠居は、さっきから権叔父の耳へ顔をつけたきり泣いていた。
若い朱実は、蘇生したが、権叔父は老体でもあるし、すこし酒気もあったので、まったく絶息したものとみえる。いくらお杉隠居が呼んでも、ふたたびその眼は開かなかった。
手をつくした漁師たちも、
「この老人のほうは駄目だ」
と、さじを投げた。
そう聞くと、隠居はもう涙を見せなかった。せっかく、親切にしてくれる人々へ、
「何がだめじゃ! 一方の女子が息をふき返したのに、この者ばかり生きぬという法があろうか」
食ッてかかるような権まくで、手を出している者たちを突き退け、
「この婆が活かして見せるわ」
と、必死になって、あらゆる手当を施すのだった。
その一心不乱な様子は、見るも涙ぐましい程であったが、そこらに居合わす者を、まるで雇人か何ぞのように、やれ押し方が悪いの、そうしては効がないの、火を焚けの薬を取って来いのと、権突くと顎の先で使うので、縁もゆかりもない浜の者たちは腹を立てて、
「なんだ、このくそ婆」
「死んだ者と、気絶した者とはちがうのだ、活かせるものなら活かしてみろ」
呟きあって、いつの間にか、皆ちりぢりにそこを去ってしまった。
浜べはもう暮れかかる、うす靄の沖に、橙色の雲がわずかに夕明りを流していた。婆はまだ思い諦めようとしない。そこに火を焚いて、焚火のそばへ権叔父を抱き寄せ、
「おういっ、権叔父……権叔父……」
波は暗くなった。
燃やしても燃やしても、権叔父の体は温かくならなかった。だが、お杉隠居は、まだ不意に権叔父が口をきき出すもののように信じて疑わないらしく、印籠の薬を噛んで唇移しにふくませたり、体をかかえて揺すぶったりしながら、
「まいちど、眼を開いて下され、ものをいうてたもい。……これ、どうしたものじゃ、この婆を見捨てて先へ逝くという法があろうか。――まだ武蔵も討たずに、お通阿女の成敗も果さぬのに」
海鳴りと松かぜに暮れてゆく障子のうちに、朱実はうつらうつら昏睡していた。枕を当てがわれると急に発熱して、頻りとそれからは囈言をいう。
「…………」
枕の上の顔よりも青じろい顔して、清十郎はその側に寂然と坐っていた。自分が蹂み躪った花の痛々しい苦悶に対して、自責の首を垂れたまま、さすがに彼の良心も苦悶しているらしい。
野獣にもひとしい暴力をふるって、この明朗な処女を本能の餌にして満足を感じたのも彼という人間だし、また枕許につき切って、精神的にも、肉体的にも、一時人生を失ったその処女の呼吸や脈搏を心配しながら、じっと、厳粛そのもののように硬ばっている良心的な人間も、同じ吉岡清十郎なのである。
一日という短い生活のうちに、そういう矛盾の甚だしい二つの自己を息づかせながら、しかし当の清十郎は、それが必ずしもおかしくはないように、沈痛な眉と、慚愧の唇を結んでいた。
「……落ちついてくれ、朱実。おればかりじゃない、男とはたいがいこうしたものなのだ。……今におまえだって分ってくれる日がある。おれの愛があまりに烈し過ぎたのでおまえは驚いてしまったのだろうが」
こういう繰り言を、彼は、朱実へ対していうのか、自己をなぐさめるためにいうのか、纒綿とさっきから枕許に坐って呟いているのであった。
墨をながしたように部屋の中は陰惨としていた。朱実の白い手がばたんと時々夜具の外へ出る。夜具をかけてやるとまた、うるさそうにそれを払う。
「……きょうは何日?」
「え?」
「後……幾日で……お正月」
「もう七日ばかりじゃないか。正月までには癒るよ、元日までに、京都へ帰ろう」
清十郎が顔を寄せると、
「嫌あ――ッ」
突然、泣くように、顔の上の顔を平手で打って、
「あっちへ行けっ」
と、罵った。
狂わしい声が続けさまになおその唇から走るのだった。
「ばかっ、獣っ」
「…………」
「獣だ、おまえなんか」
「…………」
「見るのも嫌」
「朱実、かんにんしてくれ」
「うるさいっ、うるさいっ、うるさいっ」
必死になって白い手が闇を打つのである。清十郎は苦しげに息を嚥んでその狂態を眺めていた。やや落ちついたと思うとまた、
「……きょうは幾日?」
「…………」
「お正月はまだ?」
「…………」
「元日の朝から七種の日まで、毎朝、五条の橋へ行っていると――武蔵様からの言伝があったのよ。待ち遠しいお正月……ああ早く京都へ帰りたい。五条の橋へゆけば、武蔵様が立っている」
「……え、武蔵?」
「……」
「武蔵とは、あの宮本武蔵のことか」
驚いて清十郎が顔を差し覗くと、朱実はもう答えもせぬ。青い瞼は昏々と眠っているのである。
ハラハラと枯れ松葉が波明りの障子を打つ。どこかで馬のいななきが聞えたと思うと、そこの障子に外から燈火が映し、旅舎の女を先に立てて、一人の客が案内されて来た。
「若先生は、こちらですか」
「おう誰だ? ――清十郎はこれにおるが」
あわてて境のふすまを閉め、何気ない態をつくっていると、
「植田良平でござる」
物々しい旅いでたちの男が、埃を浴びた姿のまま、障子を開けてその端へ腰かけた。
「あ、植田か」
何しにここへ来たのだろうかと清十郎はまず疑った。植田良平というのは、祇園藤次、南保余一兵衛、御池十郎左衛門、小橋蔵人、太田黒兵助などという古参門下とともに、吉岡の十剣と自称している高弟のうちの一名だった。
こんどの小旅行には、勿論そういう股肱の弟子は連れて来ていない。植田良平も四条道場に残っていた方である。――それが、みれば旅装も騎馬支度で、かなり急用らしい血相でもある。留守中、気がかりはたくさんあるが、ここまで良平が鞭打って来るほどの急用は、まさか年暮に迫っての負債とか遣り繰り相談とも思われない。
「何だ。何かわしの留守中に起ったのか」
「すぐ若先生にも、お立ち帰り願わなければなりませぬゆえ、このままで申しあげます」
「ム……」
「はてな」
植田良平は、内懐中へ両手を入れて、何か自分の肌をあたふた探っていた。
――と、ふすま越しに、
「嫌アっ――畜生っ――あっちへゆけっ」
うつつにまで、昼の悪夢におびやかされているのであろう、朱実の、さけびが、囈言とも思えないほど、生々しい呪いをおびて響いた。
良平はびっくりして、
「あっ……何です、あれは」
「いや……朱実が……ここへ来てからちと体をわるくし、熱のせいか、時折、うわ言をいうのだ」
「朱実ですか」
「それよりは急用のほう、心がかりじゃ早く聞こう」
「これです」
腹帯の底からやっと取り出した一通の書面をそこへ差し出す。
女の置いて行った燭台を、良平はずっと清十郎のそばへ送った。
何気なく眼を落して、
「あっ……武蔵からだの」
良平は声に力をこめて、
「そうです!」
「開封したか」
「急展とありますので、留守居の者が計りあって、一読いたしました」
「な、なんと申して参ったのか」
清十郎はすぐそれを手にとれなかった。――他人に問うまでもなく彼自身の胸になければならない宮本武蔵だったが、おそらくは、二度とはあの男が、自分へ対して書面をよこすことなどはあり得まいと多寡をくくっていたのである。その気持が今裏切られて、愕然と、彼の骨ぼねの髄を氷のように突き抜けて行ったので、全身の肌が何とはなく粟を生じ、にわかに、清十郎はそれを披いてみる心地も出ず、しばらくただそこに措いて見ているのであった。
憤った唇を噛みしめて、良平はこういった。
「――遂にやってきました。この春、ああは豪語して去ったものの、よもや二度とは京都へ足ぶみ致すまいと思っていたのに――よくよくな慢心者――約束とあって――御覧なさい、吉岡清十郎どの他御一門と、名宛ても不敵に、新免宮本武蔵と、ただ一人名前で、打つけてよこしたその果し状を」
武蔵は今、どこにいるのか、居所は認めてないので、その書面からは知り得べくもない。
どこからにしても、彼が忘れずに、吉岡一門の師弟へ対してこう約束の履行を迫って来たからには、もう彼と吉岡家との間は、討つか討たれるかの交戦状態に入ったものと思わなければならない。
試合は――果し合いだ――果し合いは生命を遣るか奪るかの大事を、侍の剣と面目に賭してなすことだ、口先や小手先の技見せではない。生命をそこへ出してすることなのだ。
それを、当面の吉岡清十郎が知らないでいるのは危険の限りである。また安閑とその日の迫るまで遊び暮していていいものではない。
京都にある硬骨な弟子のうちには、清十郎の行状にあいそをつかして、
(この場合、沙汰の限りだ)
と怒っている者があるし、
(拳法先生が世におわせば)
と、悲涙をふるって、一介の武者修行から与えられた侮辱に対して歯がみをしている者もあった。
で、取りあえず、
(ともかくお耳に入れて、すぐさま京都へ引っ張って来い)
という人々の意見を帯びて、植田良平はここへ馬で飛んで来たわけであるが、そのかんじんな武蔵からの書面を、どうした理か、清十郎は膝のまえに置いて眺めているだけで、容易に披いて見ようとはしない。
「とにかく、御一覧を」
やや焦れて、良平がいうと、
「む……これか」
やっと手に取って、清十郎は読み出した。
読んでゆくうちに彼の指先にかすかな顫えが隠されなかった。――それは武蔵の文字や文面がさまでに烈しいからではなかった。彼自身の心が今ほど脆く弱りきっている時はなかったのである。襖ごしに聞える朱実の囈言は、彼にも多少は平常にあった侍の心がまえというものを、まったく泥舟が水へ浸ったように覆していた。
武蔵からのその内容はまた、至って簡明なもので、こう書いてある――
以来御健在ナリヤ
約ニ依而、茲ニ書ヲ呈ス
貴剣サダメシ御鍛養ト被存候、貧生マタ些カ鍛腕ヲ撫シテ罷リアリ候
御見ニ入ル場所ハ何処、日ハ何日、時ハ如何ニ。
当方構エテ望ミナシ、タダ尊示ニ従ッテ旧約ノ勝敗ヲ決セント存ズルアルノミ。
憚リナガラ正月中七日マデノ間、五条橋畔マデ、御返答高札下サルベク候
月 日
約ニ依而、茲ニ書ヲ呈ス
貴剣サダメシ御鍛養ト被存候、貧生マタ些カ鍛腕ヲ撫シテ罷リアリ候
御見ニ入ル場所ハ何処、日ハ何日、時ハ如何ニ。
当方構エテ望ミナシ、タダ尊示ニ従ッテ旧約ノ勝敗ヲ決セント存ズルアルノミ。
憚リナガラ正月中七日マデノ間、五条橋畔マデ、御返答高札下サルベク候
月 日
新免宮本武蔵政名
「すぐ帰る」清十郎は文殻をたもとへ突っ込むとそういって立ち上がった。――さまざまに縺れる気持が、もう少しでも彼をそこへじっとして置かせなかった。
あわただしく旅舎の者を呼ぶ。金を与えて、朱実の身体を預かっておいてくれと頼むと、旅舎では迷惑顔であったが、嫌ともいい切れないで遂にひきうける。
――この家を、このいやな晩を、遁れ出してしまいたいのが、清十郎の気持にはいっぱいだった。
「そちの馬を借りるぞ」
あわただしい旅支度は、やがて逃げるように、馬の鞍へ取ッついた。植田良平も馬の尾を追って、暗い住吉の並木を駈け出していた。
――ハハア見かけました。猿を肩に乗せた派手やかな若衆ですね、そういう扮装いの若衆ならばさっき通りましたよ、という者がある。
どこで、どこで。
なに高津の真言坂を降りて農人橋のほうへ行ったと。そして橋は越えずに東堀の刀屋の店頭でも見たというか。
さてこそ、手がかりはついたぞ、それだそれだ、そいつに違いない。
「それ行け」
とばかり、雲をつかむような相手を追って、夕方の往来の者の眼をそばだたしめて行く一群の男どもがここにある。
もう東堀の片側町は戸の下りていた頃なのである。一人が中へ入って、そこの刀師に何やら厳めしく詮議だてしていたが、やがてのこと、戸外へ出て来て、
「天満へ行け、天満へ行け」
と先に立ってまた急ぎ出す。
駈けながら他の者が、
「わかったのか」
吉左右を糺すと、
「突きとめた」
とその者は力みかえる。
いうまでもなくこの一群は、今朝から住吉を中心として、渡海場から小猿を携えて市中へ入ったれいの美少年の後を捜し廻っている吉岡門下の者たちだった。
今そこの刀剣師の店で訊くと、真言坂から手繰ってきた手がかりはどうやら間違いないらしい。たしかに店の戸を下ろす黄昏れごろ、肩の小猿を店頭に抛って、腰をおろした前髪の侍があったという。
(主はいるか)
と訊かれたが、生憎不在なのでその由を職人が答えると、
(頼みたい研物を持って来たのだが、比類のない名刀だから主がいなくてはちと不安心だ。いったいお前の家では、研や装剣の仕事にかけて、どれほどの腕があるのか確かめてからのことにしたい。――なにかここの主の研いだ物があるなら見せろ)
ということなので、畏まって、然るべき刀を幾口か出して見せると、それぞれ無造作に一見して後、
(つまらぬ鈍刀ばかりをお前の家では手がけていると見えるな。そういう研師の手にかけるのは心もとない。わしが頼もうという刀は肩に負っているこの物干竿という名称のある伝来の逸品、無銘だがかくの通り摺上もない備前物の名作だ)
とてそれをギラリと抜いて示しながら、さんざん自分の刀の自慢を述べたてるので、職人もやや片腹いたく思って、なるほど物干竿とはよく銘けましたな、曲もなくてただ長いだけが取柄だとつぶやくと、すこし機嫌を悪くして、遽に腰を上げ、天満から京都へのぼる船はどこから出るのかと道を訊いた上、
(ひとつ、京都で研がせよう。大坂はどこの刀屋を覗いても、雑兵の持つ数物ばかり荒砥にかけておる、イヤ邪魔をいたした)
と、涼しい顔して、さっさと立ち去ってしまったというのである。
いかさま聞けば聞くほど生意気な青年らしい。祇園藤次の髷をチョン斬っていよいよ思い上がっているに相違ない。こうして後からあの世への迎えが宙を飛んで自分の背に迫って行きつつあるのも知らずに、得々と大手を振って歩いているものと思われる。
「みろ、青二才」
「もう首根ッこを押えたのも同じこと。急ぐにも及ばん」
朝から歩きづめである。くたびれたのがこういった。すると先に駈けているのが、
「いやいや、急がねば駄目だぞ。淀の溯りは、今ごろ出るのがたしか仕舞い船の筈」
と喘いでいった。
天満の川波を見ると、
「やっ、いかん」
真っ先のが叫んだので、
「どうした?」
次のがいうと、
「もう船着茶屋が床几を重ねておる。川にも船が見えぬ」
「出てしまったか」
弾みあう息を揃えて、どやどやそこに佇んで、しばしは出し抜かれたように川面を見ていたが、店をしまいかけた茶屋の者に訊ねると、たしかに小猿と前髪は乗ったとある。そしてまた、その仕舞い船がここを離れたのはつい今し方で、まだこの先の船着場である豊崎までは、遡っていまいともいう。
それに下りは速いが、上り船は遅々たるものである。陸を走っても追いつきましょうという言葉に、
「そうだ、何もがっかりすることはない。ここで間に合わなかったとすれば、もう急がずともよい、一息入れて行こう」
茶をのんだり、餅や駄菓子などを頬張った上、さてまた、川に沿って暗い道を急ぎに急いで行った。
ひろい暗の彼方に、銀蛇に似た河のすがたが二股に裂けていた。一すじの淀川が中津川と天満川とに岐れるところである。その辺りにチラと灯が見えた。
「船だっ」
「追いついたぞ」
七名は色めき立つ。
枯れ蘆はみな刃もののように光っていた。一草の青いものすらない田や畑であった。霜をふくむかと思われるような風だったが、寒いなどということは考え出されない。
「しめた」
距離は、いよいよ縮まる。
明らかにそれと分ると、つい思慮もなく、一人が呶鳴ってしまった。
「おおウいっ。――その船待てっ」
すると船から、
「なんじゃあ……」
と半間な声がひびいてくる。
陸では今、お先走って呶鳴った男を、ほかの仲間が叱っていた。――何も今、ここで呶鳴るにはあたらない。これから何十町か先まで行けば、嫌でも船着があって、乗る客も降りる客もあるにちがいない。それをここから呶鳴っては船中にある敵に心支度をさせるようなものではないか、というのだった。
「まあ、どっちにせよ、先は多寡の知れた一人。呶鳴ったからには、明らさまに名乗りかけて、川の中へ逃げ込まない用心をしろ」
「そうだ、そのことだ」
と程よく捌く者があって、仲間割れは救われた。
そこでこの七名は、気をそろえて、淀を溯る夜船の船脚とおよそ足の早さを共にしながら、
「おうーいっ」
とまた呼び直した。
「なんじゃあ」
客ではない、船頭らしい。
「その船を岸へ寄せろ」
こういうと、
「阿呆吐かせ」
これはどっと誰彼なく、船の中から揚った笑い声だった。
「着けぬかっ」
威嚇すると、こんどは客の声らしく、
「着けぬわい」
と、口吻を真似していう。
七名の陸の顔は、湯気を立てているかと思うように、白い息を吐いて、
「よしっ、着けぬとあれば、先の船着場で待つが、その船の中に、小猿を連れた前髪の青二才がいるであろう。恥を知るならば、舷へ立てといえっ。もしまた、其奴を逃がした場合は、乗合いの者残らず、関り合いとして陸へ引きずり上げるから左様心得ろ」
三十石船の中の騒めきが、陸から眺めていても手にとるようにわかった。さあことだぞと色を失った様子なのである。
岸へ着けたら何か始まるにちがいない。陸を歩いている七名の侍は、そういえば皆、袴をくくりあげ襷をかけ、刀に反りを打たせている。
「船頭、返事をするな」
「なにをいうても黙っておれ」
「守口までは着けぬがよい、守口へ行けば川番所のお役人がいるで」
客は口々にこう囁いて生唾をのんでいた。先に減らず口をたたいた男などは唖みたいに眼をすくめた。陸と川の中との隔てがなによりの頼りであった。
陸の七名は、船脚と並行してどこまでもついて来た。しばらく黙って見ているのは、こっちでどう出て来るかを待っているらしい。しかしいつまでも答えがないので、
「――聞えたか。小猿を連れた洟垂れ武士、舷へ出ろ、舷へ」
すると、船のうちで、
「わしのことか」
何を先でいっても答えるなといいあっていた客のうちから、突然、こう答えて舷に立った若者があった。
「おうっ」
「いたな」
「小僧め」
その影を認めて、陸の七名は眼を剥いたり、指さしたり、近ければ水を渡ってもやって来そうな気勢を示している。
物干竿とよぶ大太刀を背中へ負って、前髪の人影はじっと立っていた。すぐ足もとの舷を打つ水明りが、尖っている歯を白く見せた。
「小猿を連れている前髪の青二才とあれば、わしより他にないが、各は何者だ。稼ぎのない野武士たちか、それとも、腹の減った旅芸人か」
声が川を渡って来ると、
「なにっ」
七名は岸へ顔を揃えて各歯ぎしりを噛みながら、
「吐かしたな、猿つかい奴」
悪罵は、順々に、その口々から飛び出して、川面を打った。
「身のほど知らずが、今に吠え面掻いて、謝るなよ」
「われわれをなんだと思う。今の口は、吉岡清十郎門下のわれわれと知ってか、知らずにか」
「ちょうどよい、手をのばして、その細首を洗っておけ」
船は毛馬堤へかかっていた。
ここには繋い杭とホッ立て小屋がある。毛馬村の船着と見て、七名は、ばらばらとそこへ先廻りして降口を扼して待っていた。
――だが船は遠く河心に止まっていて、ぐるぐる廻っているのだった。客も船頭も、事態の容易ならぬものを案じて、着けないほうが無事であると主張しているらしいのである。吉岡門下の七名はそれと見て、
「こらッ、なぜ着けぬ」
「明日も明後日も着けずにいられるか。後で後悔するな」
「その船を寄せぬと、乗りおうている奴ばら、一人あまさず打ち斬るぞ」
「小舟で行って、斬り込むがよいかっ」
あらゆる脅し文句をそこから放っていると、やがて、三十石船の舳が此方の岸へ向き直ると共に、
「やかましいっ!」
沍寒の大河を裂くような一声が彼方にあって――
「望みにまかせて、今それへ参ってやるから、腰のつがえを定めて待っておれ」
見れば前髪の若者自身が、水馴れ棹を取って、頻りと止める船頭や客を尻目に、ぐいぐいと棹の水を切ってこなたの岸へ船を突き進めて来るのであった。
「――来るぞ」
「命知らずめが」
柄に手をかけて、七名は、船のぶつかって来る岸の辺りの岸辺を囲んでいた。
川を横に、真っ直に流紋を切って来る船の剣舳であった。不動の身を取って、そこに突っ立っている前髪の美少年の姿が、息を撓めて岸で待ちかまえている七名の者の眸へ、ぐうっと迫るに従って、いっぱいな大きさに映った――と、思う途端にである。
ざ、ざ、ざっ、船は枯れ蘆の泥へ舳を突ッこんで、自分たちの胸へどんと来たように、七名の踵が無意識にズズッと後へ退った。それと共に、船の舳から丸っこい動物の影が、四、五間ほども幅のある船と岸との間の枯れ蘆の沼をぽーんと跳んで、七名のうちの誰か一人の首っ玉へ躍りかかったのである。
「ひゃっッ」
一人が叫ぶと、七名の手から七本の白光が、鞘を脱して、空へ噴いた。
「猿だっ」
と気がついたのは、すでに空を一撃してからで、それを当の敵である前髪の飛躍と錯覚してあわてたのは、彼ら自身も不覚を認めたらしく、
「あわてるな!」
と、お互いを戒め合った。
関り合いになるまいと、船の一隅へかたまって縮み上がっていた乗合客は、彼らの狼狽ぶりに、硬ばっていた神経のどこかを擽ぐられたが、誰もくすりとも声を出さなかった。
ただ、あれっ――といった者がある。見ると、自分で水馴れ棹を突いていた前髪の美少年が、その棹を、蘆の中にとんと突いたと思うと、先に跳んだ小猿よりも軽く、弾みを与えた自分の体を、岸の彼方へ難なく送っていたのであった。
「やっ?」
すこし方角が違ったので、七名は一斉にそっちへ向き直った。さんざん待ちかまえていたことではあるが、咄嗟の場合と差のない焦心がどの顔にも引ッつれていた。円を作って相手へ迫る遑がなく、そのまま、岸に沿ってだっと向って行ったので、当然、彼らの陣形は縦隊になり、それを受けるところの前髪の少年をして、十分な気構えを持たせる余地を敢て与えてしまった。
真っ先になってしまった縦隊の者の頭は、もう怯んでも退けない位置である。途端に眼は充血し耳は聞えなくなっていた。平常の剣法の修練などはてんで意識にものぼらないのである。カッと歯を剥きだして、食いつくように前髪の影へ刀を差し出して行った。
「…………」
たださえ巨きい美少年の体躯は、その時、つま先で伸び上がるように胸を張り、右手をぐっと肩の上にやった。背に負っている大刀の柄を握ったのである。
「吉岡の門人どもだといったな。望むところだ。先には、髷だけで許してくれたが、思うに、それでは物足らないのであろう、わしもすこし物足らぬ」
「ほ、ほざいたなっ」
「どうせ手入れにやるこの物干竿、手荒につかうぞっ」
こう宣言をうけながら、その前に硬ばっていた人間は、逃げることができなかった。まるで据物同然に、物干竿の長剣は梨割りにその者を死骸にしてしまった。
前の者の背が後ろの者の肩を押し返した。出鼻に先頭の一人が、敵の大太刀の一颯に、無造作な死を目前に遂げたのを見ると、後六名の者は、途端に脳中枢の正確を欠いて、行動の統一を全然失ってしまった。
衆はこうなると一より脆い。それに反して図に乗った前髪の美少年は、竿とよぶほど伸びの利く長剣で、次の者を横に撲った。
腰ぐるまは斬れなかった。しかし撲られただけでも十分にこたえたに違いない。何か一声吠えてその一人は、横ッ飛びに蘆の中へ飛びこんでしまう。
(――次っ)
と睨め廻した時は、さしも戦い下手の同勢も、非を覚って形を変え、五弁の花が芯をつつむように、この敵ひとりを囲み込んでいた。
「退くな」
「退くなよ」
味方同士が、こう励ましあうのだった。そこで多少勝ち目を見出した勢いを駆って、
「小童めが!」
勇気というよりはもう無自覚の忘恐がなす仕業である。この際、多言の必要はないのに、
「おもい知れっ」
叫びを重ねて一人は飛びかかって行った。振り下ろした刀はかなり深く入ったつもりであるのに、前髪の敵の胸へはまだ二尺ほども手前の空間を斬り下げていたのである。
当然、自信を持ちすぎたその刀の先は、カチッと石を打った。刀の持主はすでに自分から死の穴へ逆さに首を突っ込んで行ったかのような姿勢になり、鐺と足の裏を高く上げて、敵の前に身を曝してしまった。
だが、易々と斬り得る足もとの敗者を斬らずに前髪の美少年は、身をかわした機みに弾みを加えて、ぶうんと横側の敵へ当って来た。
「ぐわッ」
明らかな末期のさけびがまた一つそこで揚った。するともう二度と陣形を立て直す気力も失って、後の三名はわらわらとつながって逃げ出した。
逃げる姿へ、人間は最も殺伐な猛気がおこる。物干竿を両手に持って、
「それが吉岡の兵法かっ」
前髪は追いかけた。
「きたないぞ、返せっ」
罵りを浴びせかけながら、彼は足を止めなかった。
「待てっ、待てっ、わざわざ人を船から呼び上げておいて、捨てて逃げる侍がどこにあるかっ。このまま逃げるにおいては、京八流の吉岡を天下に笑ってやるがよいか」
笑ってやるぞということばは、侍が侍に投げる場合の最大の侮辱なのだ。唾以上の恥かしめなのだ。――だがもう逃げてゆく者の耳へはそれもこたえない。
その頃ちょうど毛馬堤を、寒々と、馬の鈴が鳴って来た。霜明りと淀の水明りは、提灯も必要としないほどだった。馬上の人影も、馬の尻について来る徒歩の人影も、白い息を吐いて、寒さを忘れていたかのように先を急いでいる様子である。
「あっ」
「御免っ」
追われて来た三名は、馬の鼻づらへ打つかりそうになって、きりきり舞をしながら後ろを振向いた。
あわてて手綱を絞ったので、馬は足掻きしていなないた。馬上の者は、馬の前で戸惑いしている三名をのぞいて、
「やっ、門下ども」
意外な顔したが、すぐ腹をたてて、叱りつけた。
「たわけめ、どこに終日うろついていたのだっ」
「ア、若先生ですか」
するとまた、馬の陰から前へ出て来た植田良平が、
「何事だその態は。若先生のお供をして来ながら、若先生が帰るのも知らず、また、酒の上の喧嘩か。馬鹿もいい加減にして歩け」
いつものでんでまた酒の上の喧嘩かと見られたのでは堪らない。三名は不平に満ちた語気で、それどころか自分たちは、当流の権威と師匠の名誉のために戦って、かくかくの始末と、舌も渇いているし、狼狽もしているので、怖ろしい早口をもって一息に告げ、
「あれ、あれへ、や、やって来ました」
と、ここへ近づいて来る跫音を振顧って、恟々たる眼いろになる。
その弱腰をながめて、植田良平は、愛想をつかし、
「なにを躁ぐか、口ほどもない。それでは当流の汚名をそそぐつもりでしたことも、却って泥の上塗りだわ。――よしっ、おれが会ってやろう」
と、馬上の清十郎もその三名も後に立たせて、独りだけ十歩ほど前にすすみ、
(御座んなれ、前髪)
身構え取って、近づく跫音を待っていた。
――とは知ろうはずもなく前髪は、れいの長剣を舞わせながら、脚に風を起して、
「やアいっ、待てっ。逃げるのが吉岡流の極意か。わしは殺生したくないが、この物干竿が、まだまだと鍔鳴りして承知せぬ。返せ、返せ、逃げてもいいが、その首置いて行けっ」
毛馬堤の上をこう呼ばわりながら、今しもその影はここへ宙を飛んで来る。
植田良平は手に唾して刀の柄を握り直した。疾風の勢いにある前髪の美少年は、そこに身を屈していた良平が眼に入らないのか、頭の上を踏ンづけるような足幅であった。
「――わッしょっ」
撓め切っていた良平の腕は唸って、こう大喝をくれながら地摺りに大刀で払い上げた。縒り合せた両手に伸びて行った切っ先は、星を斬ったように高く揚ったに過ぎない。美少年の体は片脚立ちに止まって、ぎりっと反対のほうへ廻って振向いたと思うと、
「オヤ、新手か」
た、た、た、とのめって行く良平へ物干竿をぶんと薙ぎ返した。
烈しいの何のといって、植田良平はまだかつてこんな剣気に吹かれた例を知らない。その殺風から身を交わした代りに、彼は毛馬堤から田圃のほうへ転がっていた。幸いに、堤は低いし、凍っている田圃であったが、戦機を外してしまったことは勿論である。ふたたび堤の上へ出て見た時には、敵の影は獅子奮迅に見えた。長剣物干竿の光が、門下の三名を刎ね飛ばし、さらに進んで、馬上の吉岡清十郎へ迫ろうとしている。
自分の身まで来る間に解決するものと、清十郎は安心していたのである。ところが、その危険は、すぐ迫って来た。
ひどい暴剣振りである。物干竿は突進して来た。いきなり清十郎の乗っている馬の脾腹を突こうとする。
「岸柳、待てっ」
こう清十郎は高く叫んだ。そして鐙にかけていた片足をすばやく鞍の上へ移し、その鞍を蹴るがごとく突ッ立ったと思うと、馬は前髪の美少年を躍り越えて、弦を離れた矢のように彼方へ駈け出し、清十郎の体は反対に、三間も後ろへぽんと飛び降りていた。
「――鮮やかッ」
と、賞めたのは、味方ではなくて、敵の前髪の美少年だった。
物干竿を持ち直して、清十郎のほうへ一躍しながら、
「今の所作、敵ながら見よい嗜み、察するところ吉岡清十郎その人と見た。よい折だ――いざッ」
向けて来る物干竿の切っ先は炎々たる闘志の塊であった。清十郎の体にはさすが拳法の嫡子、それを受けるだけの余裕と鍛えたものが十分に見える。
「岩国の佐々木小次郎、さすがに目が高い。いかにも自分こそは清十郎であるが、理由もなく、其許と刃交ぜをする意思は持たぬ。――勝負はいつでも決しられる。なんの意趣でこの始末か、まず退き給えその刀を」
最初に清十郎が、岸柳と呼んだ時には、耳にも入らなかったらしいが、二度目には明らかに岩国の佐々木と名をさしたので、前髪は、
「や! ……わしを、岸柳佐々木小次郎とは、どうしてご存じあるのか」
と驚きに打たれた。
清十郎は、膝を打って、
「やはり、小次郎殿であったか」
と、いいながら前へ進んで来た。
「――お目にかかるのは、もとより初めてだが、おうわさは常々詳しく聞いていた」
「誰に?」
と、すこし茫然としたように小次郎はいう。
「其許の兄弟子、伊藤弥五郎どのから」
「お、一刀斎どのとご懇意か」
「ついこの秋頃まで、一刀斎どのは、白河の神楽ヶ岡の辺に一庵をむすんでおいであった。屡、こちらよりも訪れ、先生も時折、四条の拙宅へ立ち寄って下されたりなどして」
「ホウ! ……」
小次郎は笑靨を作って、
「では満ざら、貴公ともただの初対面ではない」
「一刀斎どのは何かというと、よく其許の噂をなされていた。――岩国に、岸柳佐々木と称する者がある。自分と同様に、富田五郎左衛門のながれを汲み、鐘巻自斎先生に師事した者で、同門の中では一番の年下ではあるが、行く末天下に自分と名を争う者は彼より他にはあるまいと――」
「だがそれだけで、この咄嗟にわしを佐々木小次郎とは、どうしてお分りあったか」
「まだ年ばえもお若いことや、人柄はこうこうなどと一刀斎どのから伺っていたし、また其許が、岸柳と号されている謂れも詳しく承知しているので、その長剣を自由になさるさまを見た時すぐ、もしやと胸に泛かんだので、当て推量にいってみたのが測らずもほんとをいいあててしまったわけ」
「奇だ! これは奇遇」
小次郎は快哉をさけんだがふと、血ぬられた物干竿を自分の手にながめると、この始末は一体どうしたものかと思い惑った。
話しあえばお互いに解け合うものがあったのであろう。それから時経て、毛馬堤の上を、佐々木小次郎と吉岡清十郎の二人が先に立って、旧知のように肩を並べ、その後から植田良平と三名の門人が、寒そうに従いて、京都の方角へ夜をかけて歩いて行く姿が見出される。
「いや、初めからこっちは、妙に売られた喧嘩なので、何もことを好んだわけではちっともない」
と、これは小次郎のいい分。
清十郎は小次郎の口から親しく祇園藤次が阿波通いの船中でした振舞や、後の彼の行動など思いあわせ、
「怪しからぬ男だ、帰ったら糾明せねばならぬ。――其許を怨むどころか、此方こそ、門下どもの統御の不行届き何とも面目ない」
そういわれると、小次郎も謙譲を示さねばならなくなって、
「いやいや、わしもこのような性質の者でございますゆえ、ずいぶん大言を吐くし、喧嘩なら退かぬ構えで誰へでも応対するから、あながち門人衆ばかりが悪いわけではありません。――むしろ吉岡流の名と師の体面を思ってやった今夜の者たちは、生憎腕のほうはどれもこれも貧弱ですが、その心根に至っては、むしろ不憫なものがある」
「拙者が悪い」
清十郎は、自責しながら、沈痛な顔をして歩いていた。
そちらに含むところがなければ一切を水に流そう――と小次郎がいうと、
「願ってもないことだ。却って、これをご縁に、将来はご交誼をねがいたい」
と、清十郎も応じていう。
二人の打ちとけた様子を前に見ながら、弟子たちはほっとした気持で後から続いていた。――一見、体の巨きな坊ンちみたいな前髪の美少年が、伊藤弥五郎一刀斎が常に、
(岩国の麒麟児)
と、口を極めて称えていた岸柳佐々木であろうと誰がちょっと思い当ろうか。祇園藤次が軽く舐めて舐め損なったのも、あながち無理はない気がするのである。
それと分って、今さら、胆を寒うしているのは、その小次郎の愛剣物干竿の先から命びろいをした植田良平やほかの者どもで、
(これが、岸柳か)
と、眼を改めて、その人間の幅広い背中を見直して、なるほどそう知ってから見れば、どこかに非凡なところがあると、今さら、自己の眼識の浅さをもあわせて認めている。
やがて、以前の毛馬村の船着場へ来ると、そこには物干竿の犠牲になった幾つかの死骸がもう寒天に凍っていた。死骸の後始末は三名にいいつけて置き、植田良平は先に逃げて行った馬を見つけて曳いて来る。――また、佐々木小次郎は頻りと口笛をふいて、懐中に飼い馴れたれいの小猿を呼んでいた。
口笛を聞くと、小猿はどこからか現われて、彼の肩へとびついた。――ぜひぜひ四条の道場へ来て逗留してもらいたいというので、吉岡清十郎は自分の乗馬を小次郎へすすめたが、小次郎はかぶりを振って、
「それはいけない。私はまだ青くさい一介の若輩だし、貴公はいやしくも平安の名家吉岡拳法の嫡男、門人数百を持つ一流の御宗家だ」
と、馬の口輪を取って、
「遠慮なくお召なされ、ただ歩くより口輪を取って歩いたほうが歩きよい。おことばに甘えて、しばらくのあいだお世話にあずかるとして、京都までこうして話しながらお供いたそう」
傲慢不遜かと思うと、礼儀もわきまえている小次郎だった。――やがて今年も暮れて初春を迎えるとすぐ、宮本武蔵なる人間と出会わなければならない宿題を持つ清十郎は、折からこの小次郎という人物をわが家へ迎える機縁をひろって、何かに心づよい気がして来るのだった。
「ではお先に失礼して、足の疲れたころには代るといたそう」
彼もまた、そう礼儀をして、鞍の上へ移った。
東国での名人として、塚原卜伝や上泉伊勢守の名が代表されていた永禄の頃には、上方では京都の吉岡と大和の柳生の二家が、まずそれに対立したものと見られている。
だがほかにもう一家、伊勢桑名の太守北畠具教がある。この具教もその道においてかくれない達人であり、またよい国司でもあったらしく、
「太の御所」
といえば、彼の歿後までも伊勢の領民はなつかしいお方として、そのころの桑名の繁昌や善政を慕っている。
北畠具教は、卜伝から一の太刀というものを授けられて、卜伝の正流は東国にひろまらずに伊勢へ残った。
卜伝の子、塚原彦四郎は、父から家督はうけたが、一の太刀の秘伝を遂にゆるされなかった。そこで父の死後、彦四郎は郷里の常陸から伊勢へ赴き、具教に会ってこういった。
「私も父の卜伝より、かねて一の太刀を授かっていますが、生前父がいうには、あなた様へもご伝授してある由、同じものか、違いのあるものか、異同を較べて、お互いに極秘の道を究明してみたいと思いますが、思し召はいかがですか」
すると具教は、師の遺子である彦四郎が、技を撮りに来たものとすぐ察してはいたが、
「よろしい、お目にかけましょう」
と快諾して、一の太刀の秘術を見せた。
彦四郎はそれによって、一の太刀を写しとることができたが、要するにそれは型の真似事でしかなく、元々その器でなかったから、卜伝流はやはり伊勢のほうに広く行われ、従ってその余風からこの地方には兵法の達人上手が今でもたくさんに輩出している――
といったような土地自慢は、その国へ足を入れると必ず聞かされるところであるが、変なてめえ自慢から比べればよほど耳ざわりがよいし、また見物の参考にもなるので、今も、桑名の城下から垂坂山へかかって来る道中馬の上にある旅人は、
「なるほど、なるほど」
と、馬子のそうしたお国ばなしをあえて遮らずに、頷いて聞いていた。
時は十二月の中旬で、伊勢は暖いにしても、那古の浦からこの峠へくる風は相当に肌寒いが、駄賃馬に乗っている客は、奈良晒のじゅばんに袷一重、その上に袖無羽織をかけてはいるが、怖ろしく薄着であるし、うす汚い。
笠をかぶる必要もないほど陽焦けのしている真ッ黒顔に、これもまた、往来へ捨てても拾い人がありそうもない古笠をかぶっているのだ。髪は幾日洗わないのか鳥の巣みたいにもじゃもじゃしていて、ただ束ねてあるというだけに過ぎない。
(駄賃がもらえるかしらて?)
と馬子は内心で、心配しながら乗せた客だった。それに行く先がちと辺鄙な、帰り客のきかない山間ではあるし……と。
「旦那」
「む? ……」
「四日市で早めの午、亀山で夕方、あれから雲林院村へ行くと、もうとっぷり夜になりますだが」
「ムム」
「ようがすかね」
「ウム」
何をいっても頷いてばかりいるのだ、無口な客は馬の背から那古の浦に気を奪られている。
それは、武蔵だった。
春の末つ方からこの冬の暮まで、どこを足にまかせて歩いて来たのか、皮膚は渋紙のように風雨に染まり、ただ二つの眼だけがいよいよ白く鋭く見える。
馬子はまた訊ねて、
「旦那、安濃郷の雲林院村というと、鈴鹿山の尾根の二里も奥だが、そんな辺鄙なところへ、何しに行かっしゃるのじゃ」
「人を訪ねに」
「あの村には、木樵か百姓しかいねえはずだに」
「くさり鎌の上手がいると桑名で聞いたが」
「ははあ、宍戸様のことかね」
「うむ、宍戸何とかいったな」
「宍戸梅軒」
「そう、そう」
「あれは鎌鍛冶じゃ、そして鎖鎌をつかうそうじゃ。すると旦那は武者修行だの」
「うむ」
「それなら鎌鍛冶の梅軒を訪ねて行かっしゃるより、松坂へ行けばこの伊勢で聞え渡っている上手がおりますがな」
「誰か」
「神子上典膳というお人で」
「ははあ、神子上か」
武蔵は頷いた。その名は夙く知っていたように多くを問わない。黙々と馬の背に揺られながら脚下に近づいて来る四日市の宿場の屋根を眺め、やがて町に入ると屋台の端を借りて弁当をつかう。
――ふとその時、彼の片方の足を見ると、足の甲を布で縛っていた。歩むには少し跛行をひいている形である。
足の裏の傷が膿んでいるのだった。それゆえにきょうは馬の背を借りて歩いているものとみえる。
彼は今、自分の体というものに対して、日々、細心ないたわりを施していた。そうした注意を抱いていたに関わらず、鳴海港の混雑の中で、釘の立ッている荷箱の板を踏みつけてしまったのである。昨日から傷に熱を持って、足の甲は樽柿のように地腫れがしていた。
(これは、不可抗力な敵だろうか?)
武蔵は、釘に対しても、勝敗を考えるのだった。――釘といえども兵法者として、こういう不覚をうけたことを恥辱に思うのだった。
(釘は明らかに、上を向いて落ちていたのだ。それを踏みつけたのは、自分の眼が、虚であって、心が常に全身に行き届いていない証拠だ。――また、足の裏へ突きとおるまで踏んでしまったことは、五体に早速の自由を欠いていたからで、ほんとの無碍自在な体ならば、草鞋の裏に釘の先が触れた瞬間に、体は自らそれを察知しているはずである)
自問自答にこの結論を下して、
(こんなことでは)
と、自己の未熟が反省され、剣と体とがまだまだ一致しない――腕ばかりが伸びてほかの体や精神は合致しない――一種の不具を感じて忌々しくなるのだった。
だが、この年の晩春、あの大和柳生の庄を驀しぐらに去ってから――今日までのおよそ半年の間を、決して、無駄には送っていなかったと、武蔵は光陰に対して恥なく思った。
あれから伊賀へ出、近江路へ下り、美濃、尾州と歩いてここへ来たのであるが、行く先々の城下や山沢に彼は剣の真理を血まなこで捜した。
(何が極意か?)
ようやく彼もそこへ突き当って来たのである。しかし、
(これが剣の真理だ)
というようなものは、決して町にも山沢にも埋れていなかった。この半年、各地で出会った兵法者は幾十人か知れなかったし、その中には、聞えた達人も幾名かあったが、要するにそれは皆、技の上手であり、刀づかいに巧者な大家ばかりだった。
会い難いものは人である。この世は人間が殖えすぎているくらいなものだが、ほんとの人らしい人には実に会い難い。
武蔵は世間を歩いて痛感するのだった。そういう嘆きをもつたびに、彼の胸には沢庵が思い出された。――あの人間らしい人間を。
(会い難い人におれはかつて出会っているのだ、めぐまれた者といわなければならない、そして、その機縁を無にしてはならない)
彼のことを思うと、武蔵は今でも両手の腕くびから五体がずきずきと痛んで来る。ふしぎなこの痛みは、千年杉の梢に曝されたあの時の神経が、まだそのまま生理的な記憶の中に生きている証拠であった。
(今にみろ、おれが沢庵を千年杉に縛りあげて、地上から悟道を説いてくれるぞ)
彼はいつもそう思った。恨みではない、報復ではない、そんな感情の上からではなく、武蔵は、禅によって人生の最高へ住もうとする沢庵に対して、自分は剣によって、どこまで沢庵の上に到ることができるかということを、実にすばらしい宿望の一つとして胸の底に抱いているのだった。
もしああいう形はとらなくても、自分の道境がめざましい進歩を遂げて、沢庵をかりに千年杉のこずえに縛って、地上から彼に向って、彼の蒙をひらいてやるような叱咤を与える日があったら、沢庵は梢の上から何というだろうか。
武蔵はそれを聞きたいと思う。
おそらく沢庵は、
(善哉! 満足満足)
と欣ぶにちがいない。
いや、あの男のことだから、そう素直にはいわないだろう。からからと打ち笑って、
(豎子! やりおる)
というか。――何でもよい、武蔵は彼へ対する恩義として、どういう形でもよいから沢庵のあたまへ一度、ぐわんと自己の優越を示してみたい。
だがそれは他愛のない武蔵の空想だった。彼自身、今や一つの道へ入りかけているだけに、いかに人間があるところへ到達しようとする道の永遠で至難なものであるかを、事ごとに知り初めていたのである。――それだけに、
(沢庵ほどには)
と、空想の腰が折れる。
まして、遂に会わなかったけれど、柳生谷の剣宗石舟斎あたりの高さを思いくらべると、口惜しくても、悲しくても、自分などのまだ青ッぽいことが余りにもわかってくるのだった。兵法だの、道だのと、口にするのも気恥かしくなって、くだらない人間ばかりに見えた世間が、急に広くなり恐ろしくなり、そして遽に、
(今から小理窟は早い、剣は理窟じゃない、人生も論議じゃない、やることだ、実践だ)
驀しぐらに武蔵は山沢へ入りこむ。彼が山の中に籠ってどういう生活をやっているか、それは彼が山から里へ出て来るすがたを見るとほぼ察しがつく。
そんな時彼の面は鹿みたいに頬が削げている。五体のあらゆるところに、摺り傷だの打ち傷を作っていた。滝に打たれるので油けのなくなった髪はパサパサに縮れ、土の上に眠るので歯だけが不思議な白さを持っていた。そして人間の住む里へ向って、おそろしく傲岸な信念を燃やしながら、相手とするに足る者を捜しに降りて来るのだった。
――今がちょうど、桑名で聞き出したそういう一人の相手を、これから尋ねてゆく途中であった。聞き及ぶ鎖鎌の達人宍戸梅軒なる者が、この世で会い難いほうの人間か、それともざらにある米喰い虫か、まだ初春までには十日あまりの余日があるので、これから京都へ出向く旅のつれづれに、ひとつ試してみようという気持で。
武蔵が目的の地へ着いたのは、もう夜も深い時刻だった。
馬子の労を犒って、
「帰ってもよい」
駄賃を与えて去ろうとすると、馬子のいうには、今さらこんな山奥から帰りようもない。朝がたまで、旦那がこれから訪ねてゆく家の軒下でも借りてやすみ、朝になってから鈴鹿峠を下って来る客を拾って帰ったほうが歩がいいし、それにまた、なんともこう寒くてはもう一里も歩くのは辛いという。
そういわれてみればこの辺りは伊賀、鈴鹿、安濃の山々のふところで、どっちを向いても山ばかりだし、その山のいただきには、真っ白な雪がある。
「では拙者のさがす家をおまえも一緒に尋ねてくれるか」
「宍戸梅軒様のお家で」
「そうだ」
「さがしましょう」
その梅軒というのは、この辺の百姓鍛冶ということであるから、昼間ならすぐ分ろうが、もうこの部落では起きている燈火一つ見あたらない。
ただどこかで先程から、こーん、こーん、と凍っている夜空にひびく砧の音がある。それを的てに二人は歩いて、ようやく一つの明りを見た。
さらに欣しかったことには、その砧の音のしている家が、百姓鍛冶の梅軒の家だった。軒に古金がたくさん[#「たくさん」は底本では「たんさん」]積んであるのでもわかったし、真っ黒にいぶっている廂は、どうあっても鍛冶屋の家でなければならない。
「訪れてくれ」
「へい」
馬子が先に戸を開けて入って行った。中は広い土間であった。仕事はしていないが鞴の囲いには赤い火が燃えさかっていた。そして、一人の女房が焔に背を向けて夜業に布を打っているのだった。
「こん晩は、ごめんなすって。――アア火だ、これはたまらぬ」
見知らない男が入って来て、いきなり鞴のそばの火にしがみついたので、女房は砧の手を止め、
「どこの衆だえ、おめえは」
「へい、今話しますよ。……実はお内儀、おめえ様のうちの旦那を遠方から尋ねて来たお客を乗せて今着いたのじゃ。わしは桑名の馬子だがね」
「ヘエ? ……」
女房は武蔵のすがたを無愛想に見上げた。ちょっと、小うるさい眉をして見せたのは、ここへも屡やってくる武者修行が多いのだろう。そういう旅行者と厄介者をこの女房は扱い馴れていることが様子に見える。三十がらみでちょっと美麗な女であったが、どこか横柄に、武蔵へ向って、子供へものをいいつけるように、
「うしろをお閉め、寒い風がふきこむと、子どもが風邪をひくがな」
といった。
武蔵は頭を下げ、
「はい」
と素直にうしろの板戸を閉めた。そしてさて――鞴のそばの切株に腰かけて、この真っ黒な細工場と、そこからすぐ筵の敷いてある三間ほどなこの家の中を見まわしてみると、なるほど、壁の一端に、かねて噂に聞くところの鎖鎌という見つけない武器が、およそ十挺ほど、板に打ちつけてある角掛に懸けてある。
(あれだな?)
こういう武器と、こういう一種の武術に出あって置くことも、修行の一つと武蔵は考えて来たのであるから、それを見るとすぐ彼の眼の光は違っていたに相違ない。
砧の木槌を下へおくと女房はぷいと起って筵の上へあがった。茶でも沸かしてくれるのかと思うと、そこに敷いてある乳のみ児の蒲団の中へ手枕で横になって、児に乳ぶさをふくませながら、
「そこの若いお侍、おめえっちはまた、うちの良人にぶつかって、物ずきに、血へどを吐きにやって来なしたのかよ。だが生憎うちの良人は旅へ出ているので、生命びろいしたようなものだげな」
と、笑っていうのであった。
憤っとなる気持をどうしようもない。はるばるこの山里まで鍛冶屋の女房に笑われに来たようなものである。どこの女房も亭主の社会的位置というものはみな誤認しているらしいが、この女房の如きは、自分の持ち者ほど世に偉い人はないときめているらしいから怖い。
喧嘩もできず、武蔵は、
「お留守か、それは残念な。旅へと仰っしゃったが、旅はどこまで?」
「荒木田様へ」
「荒木田様とは」
「伊勢へ来て荒木田様を知らねえでか。ホ、ホ、ホ、ホ」
とまた笑う。
乳ぶさを頬ばっていた嬰児がむずかると、女房は、土間の客などは打ち忘れたさまで、
ねんねしょうとて
ねる子はかわい
起きてなく子は
つらやな
つらやな、母なかせ
訛りのある子守歌を節さえつけて謡っている。ねる子はかわい
起きてなく子は
つらやな
つらやな、母なかせ
ふいご場に火のあるのがせめて見つけものである。誰に頼まれて来たわけでもなし、諦めるほかはないのだが、
「ご内儀、そこの壁にかけてあるのが、ご使用の鎖鎌ですか」
それを一見しておくのも後学のためであると考えて、手に取って見てもさしつかえないかというと、女房はうつらうつら手枕の居眠りと子守歌のあいだに、ふム……といってあいまいに頷く。
「よろしいか」
武蔵は手をのばして、その一挺を壁の角掛から外し、手に取って仔細に見た。
「――なるほど、これが近頃だいぶ用いられている鎖鎌か」
ただ握ってみれば、腰にも差せる一尺四寸ほどの棒に過ぎない。棒の先の環から長い鎖が垂れていて、その鎖の端には、ぶんと振れば、人間の頭蓋骨を砕くに足る鉄の球がついている。
「ははあ、ここから鎌が出るのか」
棒の横にミゾが彫ってあって、中に潜んでいる鎌の背が光っている。爪をかけて引き出すと、鎌の刃は横に身を起して、これは優に人間の首を掻くことのできる刃渡りを備えているのだった。
「ム……こう使うのだな」
左に鎌を持ち、右の手にくさりのついた鉄球をつかんで、武蔵は仮の敵をそこに想像しながら、構えを作って、独り考えていた。
するとふと、手枕を外してこっちへ眼をくれた女房が、
「なんじゃあ、まあ、そのかたちは」
と、乳ぶさをしまいながら土間へ下りて来て、
「そんな形していたら、すぐ太刀を持った相手に斬られてしまう。鎖鎌というのはこう構えるのじゃ」
武蔵の手から引っ奪くると、そのつまらない百姓鍛冶屋の女房がひたと鎖鎌を持って、体の仕型を見せた。
「あっ……」
武蔵は思わず眼をみはった。
乳ぶさを出して寝そべっているところを見たのでは、牝牛のような女にしか見えなかったが、鎖鎌を持って構えると、立派で、端厳で、その姿は美でさえあった。
また、鯖の背のように青ぐろい鎌の刃渡りには、宍戸八重垣流と彫ってある文字もあざやかに読まれるのだった。
あっ見事なと、武蔵が眼を吸いよせられた途端に、鍛冶の女房はもうすぐ仕型の構えを、体から消して、
「ま、こんなものじゃ」
鎖鎌をがらがらと一本の棒にまとめて、元の壁へかけてしまった。
武蔵は彼女のした型を、記憶する間がなかったのを、ひそかに遺憾にして、
(もういちど見たいが)
と思ったが、女房はさしたる顔もなく、砧を片づけたり、朝の炊ぎの仕掛をしたり、台所のほうでガチャガチャ水仕事に忙しない。
(あの女房ですら、あれほどな心得があるとすれば、亭主の宍戸梅軒という男の腕はどれほどか?)
武蔵は病気のように、急にその梅軒という男にあいたくなって来た。――だがあの女房のいうには、良人の梅軒は、伊勢の荒木田とかいう人の家へ行っていて留守だという。
伊勢へ来て、荒木田様を知らないのか、とさっきも笑われたことだが、恥をしのんで、馬子にそっと聞いてみると、
「大神宮さまのお守人じゃ」
と、馬子は、鞴のそばの壁へ倚りかかって、いいあんばいに温もりながら、もう半分眠っていながらいう。
(伊勢神宮の神官か、そこへ行ったのならすぐ分る、よし……)
勿論その夜は、筵のうえにごろ寝である、それも、鍛冶の小僧が起きて、土間の戸をあけるともう寝ていられない。
「馬子、ことのついでに、山田までのせてゆくか」
「山田へ」
馬子は眼をみはる。
だが、きのうの分の駄賃は無事にもらったので、その方の不安はない、行こうということになって今日もまた、武蔵を馬の背にのせて、松坂へ出、やがて伊勢大神宮への何里とつづく参道並木を暮れ方に見た。
冬であるにしても、街道の茶屋はひどくさびれていた。並木の大木が、風雨に仆れたまま、幾つも横たわっていた。旅客の影も馬の鈴も稀れである。
禰宜の荒木田家へ、武蔵は山田の旅籠から問いあわせてみた。――宍戸梅軒という者が逗留しているか否かを。
すると、荒木田家の執事からの返辞には、そういう者は泊っていない、何かの間ちがいであろう――とある。
武蔵は、失望と同時に、足の傷の痛みを思い出した。釘を踏んだ傷口はおとといころよりひどく腫れている。
豆腐粕を搾った温湯で洗うとよいと教えられて、武蔵は翌る日、旅籠で一日それを繰り返していた。
(もう今年も師走の中旬)
そう考えると、武蔵は、豆腐くさい湯に焦々してきた。すでに吉岡家へ宛てての決戦状は、名古屋から飛脚に託して出してあるのだ。まさか、その期になって、足を傷めているからなどとは意地でもいえない。
その期日も、敵の都合まかせといってやってある。なお他の約束もあるし、正月の一日までには、どうでも五条の橋だもとまで行っていなければならない。
「伊勢路へまわらず一すじに行けばよかった」
軽い悔いを抱きながら、湯だらいに浸している足の甲を見ていると、足は豆腐のように膨れて来る気持がする。
こういう家伝の薬がありますとか、この油薬をつけてごろうじませとか、旅籠の者はいろいろ療法を講じてくれるが、武蔵の足は、日の経つほど腫れを増して、片足はまるで材木のような重さを感じ、夜具の下に入れると熱と激痛に耐えなくなる。
つくづく考えてみると――
彼はまだ物心ついてから、病気というもので三日と寝たことの覚えがない。幼少の時、頭の脳天に――ちょうど月代の辺に疔という腫物を患って、今でも痣のような黒い痕を残しているので、彼は常に月代を剃らないことにきめているが――そのほかに病気らしい病気はしたことがなかった。
(病もまた人間にとっては強敵だ。こいつを調伏する剣は何か?)
彼の敵は、常に、彼の外にばかりはいなかった。四日ばかり仰向けに寝たままでいる瞑想の課題に、そんなことを考えたりしたが、
(あと幾日)
と、年暮に迫る暦を見、吉岡道場との約束に思い及ぼすと、
(こんなことはしていられない)
肋骨は、旺な心臓を抑えるため、鎧のように張って来て、思わず、材木のように腫れている足で、がばと蒲団を刎ね退けてしまう。
(この敵にすら克てないで、吉岡一門に勝てるか)
病魔を組み敷くつもりで、無理に畏って坐ってみる。――痛い。気が絶え入るほど痛いのだ。
窓へ向って、武蔵は眼をつぶっている。かっかと赤くなった顔がやがて醒めてくる。彼の頑固な信念に、病魔も負けて、幾分か頭がすずやかになったらしい。
眼をひらくと、窓から真っ直に、外宮内宮の神林が展けている。その上に前山、すこし東に方って朝熊山が見え、それを繋ぐ山と山との肩の間から、群山を睥睨するように、突兀として、剣のような一峰が望まれた。
「鷲嶺だな」
武蔵は、その山と睨みあった。仰向けに寝ながら毎日見ていた鷲ヶ岳である。彼は何となくこの山を見ると闘志を感じるのだった。征服慾を駆り立てられるのであった。四斗樽のように腫れた脚をかかえて寝ていると、なんとなく気に喰わない気がしてならない山の傲岸さである。
衆山を抜いて、白雲のうえに、超然としている鷲嶺の頭の尖を見ていると、武蔵は、柳生石舟斎のすがたが思い出されてならない。石舟斎という人物は、おそらくあんな感じの老人ではないかと思う。――いやいつのまにか彼は、鷲ヶ岳という山が石舟斎そのもののような気がして来て、遥か雲表から、自分の意気地なさを、嘲り笑われているかのような気がするのだった。
「…………」
山と睨めッこしている間は忘れていたが、ふとわれに返ると、彼はまた鍛冶の鞴の中に突ッこんでいるような足を持てあまし、
「ウウム、痛い」
思わず膝の下から横へ投げ出して、自分の物でないような太くて丸い足くびに眉をしかめた。
「――おいっ、おいっ」
武蔵はその激痛を吐くような語勢で、旅籠の女中を、不意に呼び立てた。
なかなか来ないので、彼はまた拳固で二つ三つ畳をたたいた。
「おいっ、誰かいないか。……すぐ出立するから、勘定をして来てくれい。それと弁当、焼米、丈夫な草鞋三ぞくほど、支度をたのむぞ」
保元物語に見える伊勢武者の平忠清は、この古市の出生とあるが、今は、並木の茶汲み女が、慶長の古市を代表していた。
竹の柱を結い、筵編みの揚蔀に、色褪せた帳など繞らして、並木の松の数ほど白粉の女たちが出ていて、
「寄って行かっしゃれ」
「茶など、あがりゃんせ」
「そこな若衆」
「旅の衆」
往来の旅客をつかまえて、真昼も夜もけじめがなかった。
内宮へ行くには、いやでも口さがない女の群れの眼を浴びたり、袂の用心をしながら歩かなければ行かれない。山田を出た武蔵もまた恐い眉と唇を持って、痛む足をひきずりながら、鈍々と、跛行をひいてここを通った。
「あれ、武者修行さん」
「足をどうなされた」
「癒してあげよ」
「さすってあげよ」
女たちは、通せんぼして、武蔵の袂をとらえ、笠をつかまえ、腕くびをとり、
「そんな恐い顔したらよい男が、だいなしになるがな」
といった。
武蔵は顔をあからめて、物もいい得ずただうろたえた。彼は、こういう敵には何の備えもないようだった。しきりと謝ってばかりいる。その生真面目ないいわけを、女たちはまた、豹の子みたいで可愛らしいといって笑う。そして白い手の暴力はやまないのである。武蔵はいよいよ狼狽して、見栄もなく、奪られた笠を捨てたまま逃げ出した。
女たちの笑い声が、並木の空をどこまでも尾いて来るような気がした。武蔵はあの白い手の群れに掻き荒された血が容易に鎮まらないで困った。
彼も女性というものに決して無感覚ではいられない。彼は永い旅のあいだに、何処でもそういう困る目に遭った。ある夜は、そのために、寝ぐるしくなることさえあった。白粉のにおいを思って暴れる血を縊めころすように抑えて眠る努力は、剣の前に見る敵とはちがって彼も、どうすることもできないのである。この性の心焔が体じゅうを焼いて、寝がえりばかり打って明かす夜には、お通のおもかげさえ醜い欲情の対象に、想い出してみるほどだった。
――倖いにも、彼は今、片方の脚が痛かった。少し無理に駈けたので、その脚は、まるで熔鉄の中へ踏みこんだように、かっかと熱を持って、一歩ごとに、激痛が足の裏から眼へ突き抜けて来る。
こう痛むのは、覚悟の前で出て来たことである。風呂敷づつみのように大きく縛った片足は、持ち上げるたびに、全身の力を要した。――そのため紅い唇や、蜂蜜のように粘る手や、甘酢い髪の毛のにおいやらが、すぐ頭から去って、彼は、常の彼の身に回っていた。
(くそ! くそ!)
一歩一歩、火の粘土を踏むようだった。汗が額ににじんで来る。全身の骨が、ばらばらになるかと思う。
だが、五十鈴川の流れを越え、内宮へ、一歩入ると、何か人心地がまるで変っていた。草を見ても樹を見ても、ここには神のけはいを感じるのであった。――何ごとの在しますかは知らねども――鳥の羽音までが人の世のものではなかった。
「ウムム……」
武蔵は遂に、苦痛に耐えかねたのであろう、風宮の前まで来ると、大杉の根へ、呻きながら、仆れて、自分の脚をじっと抱えた。
死んで石と化ってしまったかのように、武蔵はいつまでも動かなかった。体の内からは膿んで膨れ上がった患部が火のような脈を打ち、体の外からは十二月の夜の寒気がひしひしと肌を刺した。
「…………」
武蔵はやがて知覚を失っていた。一体、どういう考えのもとに、突然、旅籠の寝床を蹴って飛び出してしまったのだろうか。こういう苦しみをするのは当然わかっていたことである。
蒲団の中で自然に足の癒るのを待っていては果てしがないから――という病人の癇癪からとすれば、無茶も甚だしい沙汰だ、あまりといえば乱暴である、苦しむだけで、その後のよけいに悪くなるのは知れきっている。
だが、精神だけは恐ろしく張りつめているらしい。そのうちに彼は、はッと首を擡げた。鋭い眼で、虚空をにらんだ。
虚空には、神苑の杉の巨木が、ごうっと絶え間なく暗い風に鳴っていた。――が今、武蔵の耳をいたく刺戟したのは、その風の間に流れて来た――笙と篳篥と笛とを合奏せた古楽の調べであった。
さらになお、耳をすますと、その奏でのうちに、やさしい童女たちの唱歌が聞き取れる。
シダラ ウテト
テテガノタマエバ
ウチハンベリ
ナラビハンベリ
アコメノソデ
ヤレテハンベリ
オビニヤセン
タスキニヤセン
イザセンイザセン
――くそっ! とまたしても武蔵は唇を噛んで、無理に立ちあがった。自分の体が、膠のようにままにならないらしい。風宮の土塀へ、両手をかけ、手で蟹のように横へ歩いてゆく。
彼方の燈の洩れる蔀から、天界の音楽は聞えるのだった。そこは、子等之館といって、大神宮に仕える可憐な清女たちが住む家だった。おおかた、天平の昔のように笙や篳篥の楽器をならべて、その清女たちが、神楽の稽古をしているのであろう。
虫が歩むように、武蔵が近づいて行ったのは、その子等之館の裏口らしかった。中を覗いてみたが、誰もいないのである。――で彼は、かえってそれを気易く思ったように、帯の大小を取り外して、背の武者修行風呂敷とともに一つに絡げ、塀の内の蓑掛けの釘へ、預けるようにかけておいた。
丸腰の空身になると、武蔵は両の手を、腰の骨に当てて、すぐ跛行をひいてどこかへ立ち去った。
ほど経てからである。
そこから五、六町ほど離れている五十鈴川の岩のほとりに、一人の裸形の男が、氷を割って、ざぶざぶと水を浴びていた。
倖いに神官が気づかないからよいようなものの、もし見咎められたら、
(気狂いっ)
と、叱り飛ばすに違いない。
それほどに、裸の男の水浴びは、傍から見ると気狂いじみて見えた。太平記という書によれば、その昔、この伊勢地方には、仁木義長という弓矢の大馬鹿者がいて、神領三郡に打ち入って、ここを占領し、五十鈴川の魚を漁って食らったりし、神路山へ鷹を放って小鳥の肉を炙ったりして、大いに武威を謳っているうちに気が変になったという男の話があるが――今夜の裸男に、その悪霊が憑り移ったのではあるまいか。
やがて彼は水禽のように、岩の上にあがって体を拭き着物を着こんだ。――それは武蔵であった。
鬢の毛は、そそけ立って、一すじ一すじ、針のように凍っていた。
このくらいな肉体の苦痛に勝てないで、生涯の敵に勝てるか、と武蔵は自分を叱咤するのであった。生涯はおろかなこと、やがて近い日には、吉岡清十郎とその一門という大敵に当らなければならない。
吉岡方と自分との事情は、かなり険悪でまた複雑な事情にある。今度という今度こそは、先は一門の実力と体面を挙げて自分へかかって来るにちがいない、必殺の陣を布いて、来るべき日を、
(今やおそし)
と彼らは、手ぐすね引いて、待ちかまえているに相違ないのだ。
よく強がった侍が、念仏のようにいう、必死とか、覚悟などという言葉も、武蔵の考えからすると、取るに足らないたわ言のように思える。
およそ人なみの侍が、こういう場合に立ち至った時、必死になることなどは、当然な動物性である。覚悟のほうは、やや高等な心がまえであるが、それとても、死ぬ覚悟ならば、そう難しいことではない。どうしても死なねばならぬ事態に迎えられてする死ぬ覚悟だとすれば、なおさら、誰もすることである。
彼がなやむのは、必死の覚悟が持てないことではなく、勝つことなのだ。絶対に勝つ信条をつかむことである。
道は遠くない――
ここから京都まで、四十里とはあるまい、すこし踵を飛ばせば、三日を費やさずに行き着くことが出来る――だが、心の備えは、幾日かかったら出来るというものではない。
すでに名古屋から吉岡方へ、決戦状は出してあるが、その後で、武蔵は、
(肚はできているか。きっと勝ちきることができるか)
と、自分で自分に向って糺してみると、遺憾ながら、心の隅に一脈の脆い層を認めないわけに行かなかった。
それはなにかというと、やはり自身の未熟を自身知っていることだった。彼は、自分がまだ決して達人の域にも名人の境地にも到っていない、未完成の人間であることをよく知っている。
奥蔵院の日観にあい、柳生石舟斎を思い、また、沢庵坊主の出来ていることを考えても――いかに自分の価値を高く置こうとしても、
(未熟だ)
と、自分の粗質をばらばらに解して、その弱点や虚を多分に見出さずにいられない。
そういう未熟な――まだ出来あがっていない自分を押しすすめて行って、必殺の士を占めている多数の敵の中へ入ってゆくのだ。しかも勝とうというのだ。――兵法者たるものの根本的な本義として、いかによく戦っても、戦っただけではよい兵法者とはいわれない、飽くまで勝つ! 飽くまで天寿を全うするまで勝ち抜いて、この世に見事に生命の太い線を描いて見せなければ、兵法者として一人前に生きた者とはいわれないのである。
武蔵は、身ぶるいして、
「おれは勝つ!」
声を出して、神林をさけびながら歩き出した。
五十鈴川の上流へ向って――
磊々と重なっている岩のあいだを、彼は、原始人のように、這いすすんで行くのだった。斧を入れた例しのない太古の渓谷林には、音のしない滝がかかっていた。滝水も皆、氷柱になって凍っているのである。
いったい、どこへ、何を目的にして、武蔵はそんな努力を賭して行くのか。
裸で、神泉に浴した罰があたって、ほんとに気でも狂ったのではなかろうか。
「何を。何を」
鬼のような血相なのである。岩に攀じ、藤づるにつかまって、巨岩大石を、足の下に征服してゆく一歩一歩の努力というものは、到底、生やさしい意志でやれる仕事でない。それに大なる目的がかかっていなければ、正気の沙汰ということはできない。
五十鈴川の一之瀬から、約十五、六町の渓谷は、鮎すらも上れないといわれている岩石と奔湍である。それから先は、猿か天狗のほかは、行けそうもない断崖だった。
「ウム、あれだな鷲嶺は」
彼の精神状態のまえには、不可能という壁は見えないらしい。
大小や持物を、子等之館に置いて来たのはこの辺の用意であったとみえる。武蔵は断崖の藤づるへ取ッついた。一尺一尺と宙へよじ登ってゆくのであった。人間の力とは見えない。何か宇宙の引力が一箇の地上の物体を徐々と引き上げているように見える。
「ようしっ」
征服した断崖の上で、武蔵は大声を張っていった。五十鈴川の白いながれの末から二見ヶ浦の渚まで、もうそこからは遥かに下に見えたのだ。
きっと、彼が眼をやった前方には、夜気に煙っている疎林の中へ、嶮峻な鷲ヶ岳が裾をひいていた。――痛む足をかかえて寝ていた旅籠の一室から、毎日のように仰いでいた、気に喰わない鷲嶺のすがたへ、彼は今、こうして肉薄して来たのである。
(石舟斎だ、この山は)
武蔵は、そう思って、ここまで来た。――あの腫れ上がっている脚を立てて、勃然と、旅籠を飛び出し、神泉を浴びて、ここへ攀じて来た彼の目的は、初めてそのらんらんとした眼に明らかになっている。――要するに、彼のおそろしい負けん気の底には、いまだに、柳生石舟斎という巨人が、頭へ暈をかぶせられているようで、気になってならないらしいのである。
ために、この山のすがたが、なんとなく石舟斎のように見え、足の患いに悩んでいる自分を、毎日、嘲るかのように睥睨している山の容が、忌々しくて、
(気に喰わない山だ)
と、数日、思い積っていたので、その鬱憤をかかえて、一気に、頂へよじ登り、
(これでもか、石舟斎め)
と、土足にかけて、踏みにじってやったら、さだめし、さばさばするだろう。またそれくらいな、自信がつかめなければ、京都の土を踏んで、吉岡方との試合に、どうして勝目があるか。
踏み敷く草も木も氷も、武蔵の足にかかるもの、敵でない物はない。――勝つか負けるか! 一歩一歩が勝敗への呼吸であった。神泉の中で氷化した五体の血が、今は熱泉のように毛穴から湯気を立てていた。
行者ものぼらないという鷲ヶ岳の赤肌へ、武蔵は、抱きついていた。足がかりを捜して、足が岩へかかると、崩れてゆく砂岩が、ふもとの疎林の中で轟いた。
百尺――二百尺――三百尺――武蔵の影はだんだん空へ小さくなって行く。白雲が来てつつみ、白雲が去るたびに、その影は空のものとなっていた。
鷲嶺は巨人のように、彼のすることを冷然と視ていた。
蟹が岩へ抱きついたように、武蔵は山の九合目にしがみついていた。
その手でも足でもが、少しでも弛んだせつなには、彼の体は、崩れてゆく岩とともに、墜ちるところまで墜ちて行かなければ止まるまい。
「ふーッ……」
満身の毛穴が呼吸をする。ここまで来ると、心臓が口の外へ出てしまうかと思うほど苦しかった。少し登っては、すぐ休む。――そして思わず攀じのぼって来た脚下を見おろすのであった。
神苑の太古の森も、五十鈴川の白い帯水も、神路山、朝熊、前山の諸峰も、鳥羽の漁村も伊勢の大海ばらも、すべてが自分の下にあった。
「九合目だ!」
温い汗が、内ぶところからむっと顔へにおう。武蔵はふと、母の胸に首を突っ込んでいるような陶酔をおぼえた。この荒い山の肌と自分の肌との差別がつかなくなって、そのまま眠ってしまいたくなった。
ざざざと、足の拇指をかけている岩がくずれた。彼の生命がピクと脈を打って、無意識に、次の足がかりを捜す。――もう一息というところの苦しさは言語に絶したものだった。それはちょうど、斬るか斬られるか、力の互角している剣と剣との対峙に似ている。
「ここだ。寸前だ」
武蔵はまた、山を引っ掻くように、手足をすすめた。
ここでへたばるような弱い意力や体力であるとすれば、兵法者として、ゆくすえ何日か、他の兵法者のために、敗れを取るにきまっている。
「畜生」
汗が岩を濡らすのであった。自分の汗で幾たびも滑りかける程になる。武蔵の体は、一朶の雲みたいに、濛々と汗にけむっていた。
「石舟斎め」
呪文のようにいいつづける。
「――日観め、沢庵坊め」
一足一足、彼は日頃自分より高い人間であると思っている者の頭を踏み越すつもりで踏みのぼって行った。山と彼とはもう二つの物ではない。こういう人間にしがみつかれたことを山霊も驚いているにちがいない。――突然、大砂利や砂を飛ばして、ぴゅうっと、山がうなった。
手で口を塞がれたように、武蔵は息が止まった。岩につかまっていても体をズズズと持って行かれそうな風圧をおぼえた。……しばらく目をつぶったままじっと俯ッ伏していたのである。
しかし、彼の心には、凱歌がみちていた。俯ッ伏したせつなに、十方無限の天空を見たのである。しかも、うッすらと夜の白みかけた雲の海には、曙色が映していた。
「かッ、克った!」
頂上を踏んだと思う途端に、彼は意志の弦もぷつんと切れたように倒れてしまったのだ。山顛の風はたえまもなく彼の背へ小石を浴びせた。
――そうして刻々、無我無性のさかいに俯ッ伏しているうちに、武蔵は何ともいえない快感に全身がかるくなって来るのを覚えた。汗でビショ濡れになっている体は頂上の大地へ慥乎と貼りついていて、山の性と、人間の性とが、この黎明の大自然の間に、荘厳なる生殖をいとなんでいるかのように、彼はふしぎな恍惚に打たれていつまでも眠っていた。
はっと、頭を擡げてみると、頭は水晶のように透明な気がする。体を、小魚のようにピチピチと動かしてみたい。
「おおうっ、おれの上にはなにものもない。おれは鷲嶺を踏んでいる!」
鮮麗な朝陽が、彼と山頂を染めていた。彼の原始人のような太い両腕は空へ突ッ張っていた。そしてたしかにこの山頂を踏みしめているところのわが二つの足をじっと見た。
ふと気がついたのである。見ればその足の甲から、青い膿汁が一升もあふれ出ているではないか。それは、またこの清澄な天界に、異な人間のにおいと、噴っ切れた万鬱の香気とを放っていた。
子等之館に起き臥ししている妙齢の巫女たちは、もちろんみな清女であった。幼いのは十三、四歳から大きいのは二十歳ごろの処女もいた。
白絹の小袖に緋の袴は、神楽をする時の正装であって、平常、ここの館で勉強したり掃除をしている時は、大口に似た木綿の袴を穿き、袂の短い着物を着て、朝のお奉仕がすむと、めいめいが一冊ずつの書をかかえて、禰宜の荒木田様の学問所へ、国語や和歌のお稽古にゆくことが日課であった。
「あら、なんじゃろ?」
ぞろぞろと裏門から今、それへ出かけてゆく清女たちの群れの中で、一人が見つけ出したのである。
夜のうちに、武蔵がそこの蓑掛の釘へかけて行った大小と武者修行風呂敷。
「誰のやろ?」
「知らんがな」
「お侍さまの物や」
「それは分っているが、どこのお侍様やら?」
「きっと、泥棒が忘れて行ったのじゃろが」
「ま! さわらぬがよい」
まるい眼を瞠り合って、牛の皮をかぶった盗人の昼寝でも見つけたように、取り囲んで固唾をのむ。
そのうちに、一人が、
「お通様にいうて来よか」
と、奥へ走って行って、
「お師匠さまお師匠さま、たいへんですよ、来てごらんなさい」
欄の下から呼ぶと、寮舎の端にある一室から、お通は机へ筆をおいて、
「なんですか」
窓を開けて顔を出した。
小さい巫女は指さして、
「あそこへ、盗人が、刀と風呂敷を置いてゆきました」
「荒木田様へお届けしておいたらよいでしょう」
「だけど、みんな触るのを、怖がっているから、持って行かれません」
「まア、たいした騒ぎようですね。じゃあ後から私がお届けしに行きますから、皆さんは、そんなことに道草をしないで、はやく学問所へお出でなさい」
程経て、お通が外へ出て来たころには、もう誰もいなかった。炊事をする老婆と、病人の巫女が一室にしんと留守しているだけだった。
「お婆さん、これは誰の物か、心あたりがないのですか」
お通は、そう糺してみた上で、武者修行風呂敷でくくりつけてある大小を下ろしてみた。
うっかり持つと、手から落ちそうに重かった。どうしてこんな重量のあるものを男は平気で腰にさして歩かれるかと疑った。
「ちょっと、荒木田様まで、行って来ますから」
留守の婆やにいって彼女は、その重い物を両手にかかえて出て行った。
お通と城太郎の二人が、この伊勢の大神宮の社家へ身を寄せたのは、もう二月ほど前のことで、伊賀路、近江路、美濃路と、あれから後、武蔵のあとを捜しに捜しぬいた揚句、冬にかかると、さすがに女の山越えや雪の中の旅には耐えかねて、鳥羽の辺りで、れいの笛の指南をして逗留しているうち、禰宜の荒木田家で伝え聞いて、子等之館の清女たちへ、笛の手ほどきをしてくれまいかという話であった。
そこで指南することより、彼女はここに伝わっている古楽を知りたかったし、また、神林の中の清女たちと幾日でも暮してみることも好ましくて、乞わるるままに身を寄せたのであった。
その際、都合のわるいのは連れの城太郎であって、少年だからといってこの清女の寮に一緒に住むことは当然許されないので、やむなく彼は、昼間は神苑の庭掃きを命じられ、夜になると、荒木田様の薪小屋へ帰って眠っていた。
蕭々と、落葉樹の冬木立は、この世とも思えない、神苑のそよ風に鳴っていた。
一すじの煙が――その煙さえ何となく神代のもののように――疎林の中からあがっている。その煙の下には、竹箒を持っている城太郎の姿がすぐ聯想された。
お通は足を止めて、
(あそこで、働いている)
と思うた。そう思うだけでも、微笑みが頬へのぼって来るのである。
あの腕白が。
あの、きかん坊が。
この頃はよく素直に、自分のいうことをきき、また、遊びたい盛りを、ああやって働いてくれると思う。
パーン、パーンと木を折るような音が響いて来る。お通は、重い大小を両の手にかかえていたが、つい林の小道へ入って、
「城太さアーン」
すると、
やがて遥か彼方で、
「おおウいっ」
相変らず元気にみちた城太郎の返辞が聞え、間もあらずそれは駈けて来る跫音となって、
「お通さんか」
と、眼のまえに立った。
「まア、お掃除をしているのかと思ったら、その恰好は何ですか。――白丁を着ているくせに、木剣など持って」
「稽古をしていたんだよ。立木を相手に、剣術の独稽古を」
「お稽古は結構ですけれど、このお苑を、何と心得ているんですか。清浄と平和をあらわすためのわたくしたち日本の人々のこころのお苑ですよ。民くさの母とおまつり申しあげてある女神さまの神域です。――ですから、また、ごらんなさい。神苑のうちの樹木折るべからず、鳥獣殺生禁断のことという禁札が立ててあるではありませんか。その中で、お掃除役を奉仕する者が、木剣で木など折ってはいけないでしょう」
「知ってらい」
城太郎はそういって、お通のお談義へ、ばかにするなというような顔つきをした。
「知っているなら、なぜそんな物で、樹を折るんですか。荒木田様に見つかると、叱られますよ」
「だって、枯れている樹を打つならいいだろう。枯れ樹でもいけないかい?」
「いけません」
「何いってやがるんだい。――じゃあおれは、お通さんに聞きたいことがあるよ」
「なあに」
「そんなに、大切な苑ならば、なぜもっと、今の人たちが、みなして大事にしないのだい」
「恥ですね、ちょうど、それは自分たちのこころに、雑草を生やして置くのも同じですから」
「雑草ぐらいならよいが、雷で裂けた樹は裂かれたまま朽ちているし、暴風雨でふき仆された大木は、根を出したまま方々で枯れている。彼方此方のお社は、鳥が来て、屋根を突ッつくものだから、雨が漏っているようだし、廂の壊れているところだの、曲っている燈籠だの――どうしてこれがそんなに大切な所と見えるかい? え、お通さん、おれは聞きたいね――大坂城は摂津の海から見ても燦爛と光っているじゃないか。徳川家康は今、伏見城を始め諸国に十幾つも巨きな城を築かせているというじゃないか。京都、大坂、どこの大名や金持の邸をのぞいても、住居はぴかぴかしているし、庭は利休だの遠州だのって、塵一つさえ茶の味に触るなんていっているのに――ここがこんなでいいものかね。この広い神領に箒を持っているのは、おれと、白丁を着たつんぼの爺さまと、三、四人しかいないんだぜ」
お通は、くすりと白い顎を掬って、
「城太郎さん、それはお前、いつか荒木田様が仰っしゃった講義の時のおはなしと、そっくりじゃないの」
「あ、お通さんもあの時、聞いてた?」
「聞いていましたとも」
「じゃ駄目だ」
「そんな請売りは、通用しませんよ。――だけれど、荒木田様がそういって嘆くのはほんとだと思います。城太郎さんの請売りには感心しないけれど」
「まったくだ。……荒木田様にいわれてみると信長も、秀吉も、家康も、みんな偉くない気がしちまう。偉いには違いないんだろうけれどさ、天下を取っても、その天下で、自分だけが偉い頂上だと考えていることが、偉くないや」
「でも、まだまだ信長や秀吉は、ましな方なんです。世間と自分への言い訳だけにでも、京都の御所をしつらえたり、人民をよろこばしたりもしていますからね。――ところが足利氏の幕府だった永享から文明年間なんて、たいしたものでした」
「へ? どういう風に」
「その間には応仁の乱なんていう年があったでしょう」
「ウム」
「室町幕府が無能だったので、内乱ばかり起って、力のある者と力のある者とが、自分たちの権力ばかり通そうとし、人民たちは一日とて、安き日もなかったほどですから、国のことなんか、まじめに考えてみる人もありません」
「山名、細川なんかの喧嘩だろう」
「そうそう、戦を、自我のためにばかりしていました、手のつけられない私闘時代。――その頃、荒木田様の遠い先は、荒木田氏経といって、やはり代々、この伊勢の神主さまを勤めていたんですが、世の中の我利我利武者が、わたくしの喧嘩ばかりしているために、応仁の乱の頃からは、たれもこんな所をかえりみる者がなく、古式も御神事もすっかり廃れてしまったのです。それを前後二十七度も、政府に嘆願して、ここの荒廃をおこそうとしたのですが、朝廷には費用がなく、幕府には誠意がなく、我利我利武者は、自分たちの地盤争いに血まなこで、捨てて省みる者もなかったということです。――氏経様は、その中を、時の権力や貧苦とたたかい、諸人を説きあるいて、やっと明応の六年ころ、仮宮の御遷宮をすることができたというのです。――ずいぶん呆れるじゃありませんか。――だけど、考えてみると、私たちも、大きくなると、この体の中に、母の乳がながれて赤くなっていることは忘れてしまっていますからね」
すっかりお通に熱心に喋舌らせてしまってから、城太郎は手をたたいて飛び退き、
「アハハハ。あははの、あははだ。おれが黙って聞いていれば知らないと思って、お通さんのもみんな、請売りじゃないか」
「あら、知ってたの、――人が悪い!」
と打つ真似をしたが、両の手にかかえている大小の重さに、ただ一足追って、笑いながら睨んだ。
「オヤ」と、城太郎は寄って来て、
「お通さん、その刀誰のだい? ……」
「いけませんよ、手を出しても、これは他人の物ですから」
「奪りやしないから、見せてごらんよ。――重そうだね。大きな刀だね」
「それごらん、すぐほしそうな眼をするくせに」
ばたばたと小走りに草履の音が後ろへ来ていた。先刻、子等之館から出て行った稚い巫女の一人で、
「お師匠さま、お師匠さま。あちらで、禰宜様が呼んでいらっしゃいますよ。何か、お頼みがあるんですって」
と、お通へ呼びかけ、お通が振向くとすぐにまた、元のほうへ走って行った。
城太郎は、何か、びくっとしたように、四辺の樹々を見まわした。
冬の樹洩れ陽は、さざ波のように、戦ぐ梢から大地へこぼれていた。城太郎はその光の斑の中に、じっと、何か幻想でも描くような眼をしていた。
「――城太さん、どうしたんです。何をきょろきょろ見まわしているの」
「……なんでもない」
さびしげに城太郎は指を噛んだ、そしてこういった。
「今、あっちへ行った娘が、いきなりお師匠様と呼んだろう。……だから、おいらは、自分のお師匠さまかと思ってさ――。どきっとしたんだよ」
「武蔵さまのこと?」
「あ、あ」
唖のように、城太郎が空虚な返辞をすると、お通はさなきだに悲しくなってしまって、途端に、嗚咽したいようなものが、眼とも鼻ともわからない感情の線をつき上げて来るのだった。
――そんなこと、いい出してくれなければよいのに、と城太郎の無心にいったことばが辛くて恨めしくなってしまう。
一日として、武蔵をわすれ得ないことが、お通には苦しい重荷だった。なぜそんな重荷は捨ててしまわないのか――そして平和な郷で、よい女房になりよい子を生もうとしないのか――とあの無情な沢庵はいうが、お通の耳には、恋を知らない禅坊主を憐れむ心こそ起るが、抱きしめている今のものを、心から捨てたいなどとは夢にも思われないのである。
恋は、虫歯のように、どうにもならない傷みを持つ。ふとまぎれている間こそ、お通も何気なくしているが、思い出すと、矢もたてもなくなって、的がないまでも、諸国諸街道を足にまかせて捜し歩き、武蔵の胸へ顔を当てて泣きたい。
「……ああ」
お通は、黙って歩きだした。――何処に、何処に、何処に? ――およそ生きとし生ける者の数多な悩みのうちでも、焦れたくて、やるせなくて、どうにもならない悶えは、会えない人に会わんとする人間の焦躁であろう。
ポロリと、涙をこぼしながら、お通は自分の胸を抱きしめて、黙々と足を運んでいた。――その手とその胸との間には、汗くさい武者修行風呂敷と、柄糸の腐っているような重い大小がかかえられている。
だがお通は、知らなかった。
うす汚いその汗のにおいが、武蔵の体の物であるなどとどうして考えられようか。重いという感じのほか、お通は持っていることさえうっかりしていた。心のすべてを武蔵のことに占められて。
「……お通さん」
城太郎は、彼女の後から済まない顔して従いて来た。禰宜の荒木田様の門の内へ、彼女のさびしそうな背が隠れかけると、たもとへ飛びついて、
「怒ったの? 怒ったの?」
「……いいえ、なにも」
「ごめん。――お通さん、ごめんね」
「城太郎さんのせいじゃありませんよ、またわたしの泣きたい虫が起ったんでしょう。わたしは、荒木田様の御用を伺って来ますから、おまえは、あちらへ戻って、一生懸命にお掃除をなさいね」
荒木田氏富は、自分の邸を学之舎と名づけて、学校に当てていた。そこに集まる生徒は、ここの可愛らしい巫女のみに限らない。神領三郡のさまざまな階級の子が四、五十人ほど通って来る。
氏富は、今の社会ではあまりはやらない学問をここで幼い者たちに教えていた。それは文化のたかいという都会地ほど軽んじられている古学であった。
ここの子女が、その学問を知ることは、この伊勢の森がある郷土としても、ゆかりがあるし、国総体の上からも、今のように、武家の盛大が、国体の盛大かのように見えて、地方のさびれかたが、国のさびれとは誰も思わないような世の中に、せめて、神領の民の中にだけでもこころの苗を植えておけば、いつかは生々とこの森のように、精神の文化が茂る日もあろうか――という、これは彼の悲壮な孤業なのであった。
むつかしい古事記や、中華の経書なども、氏富は、子どもの耳になじむように、愛と根気をもって毎日話した。
氏富が、そんなふうに、十数年、倦むことなく、教育しているせいか、この伊勢では、豊臣秀吉が関白として天下を掌握しようが、徳川家康が征夷大将軍となって、威をふるって見せようが、世間一般のように、英雄星を太陽とまちがえるような錯誤は三歳の童児も持っていない。
――今、氏富は、その学之舎のひろい床から、すこし汗ばんだ顔をして出て来た。
生徒たちは、そこを出ると、蜂の子のように帰って行った。すると一人の巫女が、
「禰宜さま。お通さまが、あちらで待っておりますよ」
と告げた。
「そうそう」
氏富は思い出して、
「呼びにやっておきながら、すっかり、忘れていた。どこへ来ているか」
お通は、学問所の外に立って、あの大小をまだ抱えたまま、先刻から氏富が子供たちへ熱心にしている話を、そこで聞いていたのであった。
「――荒木田様、ここにおります。お通でございますが、何か、御用でございましょうか」
「お通さんか、待たせて済まなかったの。まあお上がり」
氏富は、自分の居間へ彼女を導いて行ったが、坐らぬ前に、
「なんじゃ?」
と、彼女の抱えている大小へ目をみはった。
今朝、子等之館の内塀の蓑掛に、持主の知れないこの大小がかけてあって、ほかの品物とちがい、巫女たちが気味悪がるので、自分が届けに持って来たのですと話すと、荒木田氏富も、
「ホ? ……」
白い眉を顰め、いぶかしげに眺めていたが、
「参拝人のものでもないのう」
「ただの参拝人が、あんなところへ入って来るわけはありません。それに、ゆうべは見えなかったのに、今朝がた稚児たちが見つけたのですから、塀の内へ入って来たのも夜半か夜明けらしいのです」
「ふウむ……」
嫌な顔して、氏富は、口のうちで呟いた。
「ことによるとわしへ思い当るように、神領郷士の者が、嫌がらせにした悪戯かも知れぬな」
「そんな悪戯をしそうな者のお心当りがあるのですか」
「ある! ……実はお汝に来てもろうたのもその相談じゃが」
「では何か、私に関りのあることで」
「気持を悪くなさるまいぞ――こういうわけじゃ。お汝の身を、あの子等之館へ置いておくのがよろしくないというて、わしの身を思うてくれるあまり、わしに喰ってかかる神領郷士の者がある」
「ま、私のために」
「なんの、お汝がそう済まん顔をする理由はちっともない。しかし、世間眼というもので見ると――怒りなさるなよ……お汝はもう男を知らぬ清女ではない――清女でもない女を子等之館へ置くのは神地を穢すものだと――まアこういうのじゃな」
氏富は淡々と話しているが、お通の眼のうちには、口惜しげな涙がいっぱいに光った。誰に向って怒りようもないそれは無念さだった。しかしまた、旅に馴れ、人に馴れ、そして垢のように年月古い恋を心につけて世間をさまよっている女を――世間がそう見るのは当り前かも知れないとも思う。だが、それにせよ、処女が処女でないといわれることは、忍び難い恥辱をあびたように身が顫くのだった。
氏富は、それほどの問題とは考えていないらしい。けれど、人の口がとかくうるさいし、もう数日のうちには初春ともなるのだから、この辺で、巫女たちの笛の指南は打切りにしてもらいたい――つまり子等之館を出てくれまいかという相談であった。
元より最初から長居をするつもりはないし――氏富にそういう迷惑がかかっていては猶さらのこととも考え、お通はすぐ承知して、ふた月余りの恩を謝して、今日にも先の旅へ立ちまする――と答えると、
「いや、そう急がいでもよいのじゃが」
氏富は、いい出したものの、薄々聞いていた彼女の身の上に、ひどく気の毒な心地もして、どう慰めたものかと案じるように、貧しげな手文庫を寄せて、何かつつんでいた。
お通の影のように、いつのまにか後ろの縁へ来ていた城太郎は、その時、そっと首を伸べて囁いた。
「お通さん、伊勢を立つの。おらも一緒に行こうね。――もうここの掃除は飽き飽きしていたところだ、ちょうどいいや、ネ……ちょうどいいよ、お通さん」
「わしの寸志じゃ……まことに薄謝だが、お通さん、路銀のたしに納めてくだされ」
手文庫の貧しい中から、氏富は、いくらかの金をつつんでそこへ出した。
お通は、滅相もないという顔つきで、手も触れない。子等之館の巫女たちへ笛を指南したといっても、自分もふた月ほどの間、多分なお世話になっている。謝礼をいただくくらいならばこちらからも宿料を置いてゆかねばなりませんと断ると、氏富は、
「いやその代りに、お通さんがこれから先、京都の方へ立ち廻られた時、ついでに頼み申したい用事もあるのじゃから、それも承知してもらったり、これも納めて置いてもらわねばならん」
「お頼みのことは、何でもいたしますが、これはお志だけでたくさんです」
強って、さし戻すと、氏富は彼女のうしろにいる城太郎を見つけて、
「オオこれ。それでは、これはお前にあげるから、道中、何ぞ買物でもするがいい」
「ありがとうございます」
城太郎はすぐ手を出して、自分の手に納めてしまって後、
「お通さん、もらって置いてもいい?」
と事後承諾を求めたので、お通もせんかたなく、
「すみませぬ」
と礼をいう。
氏富は満足して、さて、
「頼みというのは、お汝たちが、京都へ行った折に、これを堀川の烏丸光広卿のお手許まで届けてほしいのじゃが」
と、壁のちがい棚から、ふた巻の絵巻物を取り下ろして、
「おととしの頃、光広卿から頼まれて、ようようこのほど描きあげたわたしの拙い絵巻じゃが、詞書を光広卿が遊ばして、献上するお心と聞いておる。ただの使いや、飛脚の者の手に託しては、それゆえに、心もとないのじゃ。雨にもよごれぬよう、不浄なこともないように、お汝たちが、大事にとどけてくれまいか」
これはまた、思いがけない大役と、お通はちょっと当惑顔であった。しかし、否むわけにもゆかず承知すると、氏富は、べつに作って置いたらしい箱と油紙などを取り寄せ、それを包んで封にする前に、いささか自慢でもあり、また自分の作品を人手に渡す名残も惜しまれるらしく、
「どれ、ちょっと、お汝たちにも、見せてやろうかの」
と、二人の膝のまえに、その絵巻を繰り展げた。
「ま!」
思わずこうお通は声を放ってしまった。城太郎も大きな眼をして、絵の上へのしかかるように首をつき出した。
まだ詞書がついていないので、何の物語を絵にしたものかわからないが、そこに描かれてある平安朝の頃の風俗や生活が土佐流のこまかい筆と、華麗な絵具だの砂子に彩られて、次から次へと、眼も飽かさず展げられて行くのであった。
絵のわからない城太郎でさえ、
「ああ、この火はいいな。この火は、ほんとに燃え上がっているようだ……」
「手でさわらずに見ておいで」
息をひそめて、二人がそれへ心を奪われているところへ、庭口から廻って来た社家の雑掌が、何か、氏富へ向って話していた。
氏富は、雑掌のいうことを聞いて、うなずきながら、
「ム……そうか、疑わしい者ではあるまい。だが念のためじゃ、当人から一札取って渡してやるがよいぞ」
そういって、お通がさっきここへ抱えて来た大小と、汗くさい武者修行風呂敷とを、その雑掌の手へ持たせてやった。
笛の先生が急に旅立つと聞いて、子等之館の清女たちは、ひとしく寂しい顔をして、
「ほんと?」
「ほんと?」
お通の旅姿を取り巻き、
「もうここへは帰らないんですか」
と、姉に別れるように悲しんでいう。そこへ城太郎が、
「お通さん、支度出来たよ」
と裏の土塀の外で呶鳴る。
見れば、白丁を脱いで、いつもの裾の短い着物に、腰には木刀を横たえ、荒木田氏富から大事にといわれて、二重三重に包んだ例の絵巻物の入っている箱を風呂敷で背中へ斜めに背負いこんでいる。
「まあ、早いんですね」
お通が窓から答えると、
「早いさ。――お通さんはまだかい、女と歩くとお支度が長いからなあ」
そこの門から内へは、男と名のつく者は一歩も入れない規則なので、城太郎はしばしの間、陽なたぼっこをしながら、霞む神路山の方へ欠伸をしていた。
ちょっとの間でも、彼の溌剌とした神経は、すぐ退屈をおぼえるらしく、じっとしていられないらしい。
「――お通さん、まだ?」
館の内では、
「今すぐに行きますよ」
そのお通も、すっかり支度はすんでいたのであるが、わずかふた月でも起臥をともにして、しかもよい姉様のように親しんでいた人を、旅に奪われるとなると、生徒の巫女たちは、一抹の哀愁にとらわれて、なかなかお通を離さないのである。
「――また参りますからね、皆さんもご機嫌よう」
果たして、もういちど来る日があるだろうか、お通は、嘘をついている気がする。
巫女たちのうちには、すすり泣く者さえあって、一人が、五十鈴川の神橋のたもとまで送って行こうというと、一も二もなく気が揃って、お通を囲みながら外へ出て来た。
「あれ?」
見ると、あんなに急いていた城太郎がいないのである。小さい唇へ手をかざして、巫女たちが、
「城太さあん」
「城太さあん」
お通は、彼の習性をよく知っているので、そう心配はせず、
「きっと焦れったがって、神橋のほうへ、独りで先に行ってしまったんでしょう」
「意地悪ッ子ね」
そして一人が彼女の顔をのぞき上げながら、
「あの子、お師匠さまの子?」
と、訊いた。
お通は笑えなかった。思わず真面目になって、
「何ですって、あの城太さんが私の子かというんですか。私はまだ、初春を迎えて、やっと二十歳を一つ越すんです。そんなに年を老って見えますか」
「でも、誰かがいいましたよ」
お通は、氏富が話した世間の噂を思い出して、ふとまた腹が立った。けれど、世間のすべてがどういおうと、自分を信じてくれる者は一人でいい、あの人さえ信じてくれたらそれでいいと思う。
「ひどいや! ひどいや! お通さんは」
先へ行ったと思った城太郎が、その時、後ろのほうから駈けて来て、
「人を待たせておいて、黙って先へ行ってしまうなんて。ひどいじゃないか」
と、口を尖らす。
「だっていないんだもの」
「いなかったら、捜してくれる親切ぐらいあってもいいだろう。おれは、鳥羽街道のほうへ、武蔵様に似た人が行ったので、オヤッと思って、見に行ったんだ」
「えっ、武蔵様に似た人?」
「ところが、人違いさ、――並木まで出て、後ろ姿を見ると、遠方からでも分るほどな跛行と来ていやがる。……がっかりしちまッた」
こう二人が旅を歩いていれば、城太郎が今舐めたような苦い幻滅は、毎日経験することであって、ふと摺れちがう袂にも、もしや? と思い、後ろ姿が似ていると見ては前へ駈け抜けて振返り、町の二階家にチラと見た人影にも、先に出た渡舟のうちに見える似た人などにも――馬の上、駕の中の人間、およそすこしでも武蔵の姿をどこかで想わせる者を見れば、
(おやっ?)
と、動悸を打たせて、それを確かめるまでの努力と、はかない後の落胆に、さびしい顔を見あわせたことが、何十遍かわからない。
それゆえに、お通も今――城太郎がひどくがっかりしている程には、彼の話に執着を持たなかった。
殊に、跛行の侍と聞いたので、こともなげに笑ってしまい、
「それは、ご苦労様でしたね。旅の首途から機嫌わるくすると、しまいまで不機嫌がつづくというから、仲をよくして出かけましょう」
「この娘たちは?」
と、城太郎は、ぞろぞろ従いて来る巫女たちをぶしつけに見まわして、
「――何だって、一緒に来るんだろう」
「そんなことをいうものじゃありません、名残を惜しんで、五十鈴川の宇治橋まで、見送って下さるんです」
「それは、ご苦労でしたね」
お通の口真似をして、城太郎はみんなを笑わせる。
彼を加えてから、それまでは離愁につつまれて、しめッぽい顔して歩いていた巫女たちの群れも、急に華やいで、
「お通さま、お師匠さま、そっちへ曲がっては道がちがいますよ」
「いいえ」
お通は承知らしく、玉串御門のほうへ廻って、遥かな内宮正殿のほうへ向い、かしわ手を鳴らして、しばらく頭を下げていた。
それを見て、城太郎は、
「ア、なるほど、神さまへお暇乞いをしてゆくのか」
と、つぶやいたが、遠くから見ているだけなので、巫女たちは、彼の背中や肩を指で突いて、
「城太さんは、なぜ拝んで来ないの」
「いやだ、おれは」
「いやだなんて勿体ない、口が曲がりますよ」
「きまりが悪いや」
「神様を拝むのがなぜきまりが悪いんですか。町中にあるあだし神や流行り神とはちがって、自分たちの遠いお母さんも同じ神さまとおもえば何でもないではありませんか」
「分ってるよ、そんなこと」
「じゃあ、拝んでらっしゃい」
「いやだよ」
「強情ね」
「お茶ッぴい! お杓子! 黙ってろい」
「まあ!」
それにつれて、同じお下げ髪がみんな、眼をまろくして、
「まあ――」
「まあ――」
「ずいぶん怖い子ね」
そこへ、お通が、遥拝をすまして戻って来て、
「どうしたの? 皆さん」
問われるのを待ちかまえて、
「城太さんが、私たちをお杓子ですって。――そして、神様なんて拝むのは嫌なこッたっていうんですよ」
「いけませんね、城太さん」
「なにさ」
「いつかお前の話には、大和の般若野で、武蔵様が宝蔵院衆と戦いになろうとした時は、思わず、神様と大声をあげて空へ掌を合わせたというじゃありませんか。あそこへ行って拝んでいらっしゃい」
「だって……。みんなが見てるんだもの」
「じゃ皆さん、後ろを向いていてお上げなさい、私も、後ろを向いているから――」
と一列に揃って、城太郎のほうへ背中を向けた。
「……いいでしょう、これなら」
お通がいったが、返辞をしないので、そっと背の方をのぞいてみると、城太郎は駈け足で玉串御門の前まで行き、そこに立って、ぴょこんとお辞儀をしていた。
冬の海へ向って、つぼ焼やの縁台へ腰かけ、足拵えを直しているのは武蔵であった。
「旦那、島巡りの相客があるがのう、まだ二人ほど足らんのじゃ、乗ってくださらぬか」
と、船頭がそこへ突っ立ってすすめていた。
貝を入れた籠を腕にかけて、ふたりの海女も先刻から、
「旦那はん、お土産に、貝を持って行かしゃれ」
「貝を買うておくれなされ」
「…………」
武蔵は、血膿によごれた足のボロを解いていた。あれほど悩ませた患部は、すっかり熱も腫れもひいて、平べったくなっていた。白くふやけた皮に、ちりめん皺が寄っているだけだった。
「いらない、いらない」
手を振って、海女や船頭を退けながら、彼は、ふやけたその足で砂を踏みしめ、波打際へ行ってザブザブと潮の中へ足を浸した。
この日の朝から、彼は足の苦痛をほとんど忘れたばかりでなく、体についても、健康を考えないほど健康な気力に充ちていた。それに伴う心の据わり方が違って来たことももちろんであるが、彼自身は、一本の脚の苦熱が癒った事実よりも、今朝抱いている心境が、昨日よりたしかに一日育っていることのほうを、自分でも認め、また、自分へ対しての限りなき欣びとしていた。
つぼ焼やの娘に、革足袋を買わせにやり、新しい草鞋をつけ、彼は足で大地を踏みしめてみた。まだ跛行をひく癖がどこか、抜けないし、多少痛む気もするが、いうに足らない程度である。
「渡舟の者が、呶鳴っておりますがの。旦那は大湊へお越しになるのではございませぬか」
さざえを焼いている老爺に注意されて、
「そうだ。大湊へ渡れば、あれから津へ行く便船が出るはずだな」
「はあ、四日市へでも、桑名へでも」
「おやじ、今日はいったい、年暮の幾日であったかなあ」
「はははは、よいご身分でござらっしゃるの、年暮の日をお忘れか、きょうはもう師走の二十四日でござりますわい」
「まだそんなものか」
「お若い方はうらやましいことを仰っしゃる」
高城の浜の渡船場まで、武蔵は駈けるように歩いた、もっと駈けてみたい気がするのである。
すぐ対岸の大湊へ行く船はいっぱいだった。――その頃ちょうど、巫女たちに見送られて、お通と城太郎とは五十鈴川の宇治橋を、手を振り笠を振り、たがいに別れを惜しみつつ越えていたかも知れない。
その五十鈴川の水は、大湊の口へながれ入っているが、武蔵を乗せてゆく渡舟の櫓音は、ただ無心な諧音の波を漕いで行く。
大湊からすぐ便船に乗り換えるのだった。尾張まで行くその船には、旅客が大部分で、左手に古市や山田や松坂街道の並木を見ながら、やんわりと大きな帆が風をつつんで、伊勢の海のうちでも穏やかな海岸線を悠長にすすんでいた。
陸路をとって、同じ方角へ、街道を歩いているお通や城太郎の足どりと、どっちが早く、どっちが遅いともいえない。
松坂まで行けば、この伊勢の出身者で、近ごろの鬼才と称われる神子上典膳のいることは分っているが、武蔵は思い止まって、津で降りる。
この津の港で降りる時に、ふと前を歩いてゆく男の腰に、二尺ほどの棒が武蔵の眼についた。
鎖が巻きつけてあるのである。鎖の先には分銅がついている。そのほかに一本の革巻の野太刀を差し、年頃四十二、三はたしかなところ。武蔵にも劣らぬ色の黒さの上にあばたがあり、髪の毛は赤くてしかも縮れている。
「親方、親方」
後ろから彼をそう呼ぶ者がなければ、誰がどう見ても、野武士としか見えなかったが、船から一足おくれて追いついて来た者を見ると、十六、七歳の鍛冶屋の小僧で、鼻の両わきに煤をつけ、肩に、柄の長い鉄槌をかついでいた。
「待ッとくんなさい、親方」
「はやく来い」
「船へ、鉄槌を忘れちまったんで」
「商売道具を忘れたのか」
「かついで来ましたよ」
「あたり前だ、もし忘れなんぞしたら、頭の鉢を割ってやる」
「親方」
「うるせえな」
「今夜は、津へ泊るんじゃねえんですか」
「まだ、たっぷり陽があるから、泊らずに歩いちまおう」
「泊りてえな、旅仕事に出た時ぐらいは、楽をしたいな」
「ふざけるなよ」
船から町へ入る旅客の通り道に、ここでも抜け目なく宿引きや土産物屋が関を作っている。
鉄槌を担いでいる鍛冶屋の徒弟は、そこでまた、親方の姿を見失ってしまい、人混の中でキョロキョロしていたが、やがて親方はそこらの店で眼についた弄具の風車を買って来て彼の前に現われ、
「岩公」
「ヘイ」
「これを待って行け」
「風車ですね」
「手に持っていると、人にぶつかって壊されるから、襟くびに挿して歩け」
「おみやげですか」
「ム……」
子どもがあると見える。幾日かの旅仕事を終えてこれから帰る家に、何よりの楽しみが、その子どもの笑顔を見ることなのであろう。
岩公の襟くびで廻っている風車が心配と見え、親方は、時折それを振向いて先へ歩いて行った。
偶然にも、武蔵の行こうとする方角へ方角へと、同じ道を先へ踏んで行く。
(ははあ……)
そこで武蔵は頷くところがあった。――この男にちがいないと。
けれどまた、世間には、鍛冶屋も多いし、鎖鎌を帯びている者も少なくはないので、なお念のため、後になり先になりして、それとなく注意していると、道は、津の城下を横切って、鈴鹿の山街道へ次第にかかって行くし、断片的に耳に入る二人の会話でも、武蔵はもう疑いなしと思い、
「梅畑までお帰りか」
と、話しかけてみた。膠のない口吻で、
「あ。梅畑へ帰るが」
「ではもしや、宍戸梅軒殿ではないか」
「ふうむ……よく知っているのう。おれは梅軒だが、おめえは?」
鈴鹿を越えて水口から江州草津へ――この道筋は、京都に上るには当然な順路であるので、武蔵はつい先頃、通ったばかりのところであるが、年暮いっぱいに目的地へ着き、初春はそこで屠蘇も酌みたし――という気持もあって、真っ直に来たのであった。
この間、尋ねて行って、留守を食った宍戸梅軒には、他日の折があればとにかく、強いて出会おうという執着も失せていたが――ここで計らずも会ってみると、これはどうしても梅軒の鎖鎌なるものを一見する宿縁の深いものといわなければならない。
「よほど、ご縁があるとみえる。実は、過日お留守に、雲林院村の尊宅へうかがって御内儀とお会い申した――宮本武蔵という修行中の者ですが」
「ああそうか」
梅軒は、どういうわけか、心得顔で――
「山田の旅籠に泊って、おれと試合をしたいといっていた者か」
「お聞きですか」
「荒木田様の処へ、おれが行っているかと問い合せを出したろう」
「出しました」
「おれは、荒木田様の仕事で行ったには違いないが、荒木田様の家になどいるわけはない。神社町の仲間の仕事場を借りて、おれでなければ出来ない仕事を片づけていたのだ」
「あ……それで」
「山田の旅籠に泊っている武者修行が、おれをさがしているとは聞いたが、面倒くさいので抛っておいた――それはおめえだったのか」
「そうです。鎖鎌の達人とか、噂を聞いて」
「はははは、女房と会ったかい」
「御内儀が、ちょっと、八重垣流の仕型をお見せくだされたが」
「じゃあ、それでいいじゃないか。なにも、おれの後を追っかけて、試合してみるにも及ぶまい。おれがしてみせても、あの通りだ。――それ以上を見せてもいいが、見た途端に、おめえは冥途に行っていなければならねえしな」
留守をしていた女房もさる者であったが、この亭主も傲慢な天狗である。兵法と傲慢とは、どこへ行ってもつき物のように鼻につくが、それ程な自尊心もなくては、刃物と天狗の上に住んでいられない理由もある。
武蔵にしても、もうそういう梅軒を、心のすみでは呑んでいる気概が十分にある。けれど、彼には見境いのない鵜呑みは出来なかった。それは、人生への出発の第一歩に、世間には幾らも上手がいるぞという実例を、グワンと喰らわせてくれた沢庵の訓えがあるし、また、宝蔵院や小柳生城を踏んであるいた賜である。
気概と自尊心をもって、先ず相手を呑んでかかる前に武蔵は、細心な眼と、あらゆる角度から、相手の価値を計ってみる。時には臆病なほど、卑屈なほど、応対の態度には下段の構えをとっておいて、
(この人間はこのくらい)
と、見極めのついた後でなければ、滅多に、先の言葉や物腰の不遜に対して、自分の感情をみだすようなことはなかった。
「はい」
と、青年らしい下段の返辞をして、
「仰っしゃる通り、御内儀から拝見しただけで、十分、勉強にはなりましたなれど、なお、ここでお目にかかったご縁をもって、鎖鎌についてのご意見でも伺えれば、有難いとぞんじまするが」
「話か。――話だけならしてやってもいい。今夜は、関の宿へ泊るのか」
「そう思いましたが、おさしつかえなければ、ついでのことに、尊宅へ、もう一宿、お許しくださるまいか」
「旅籠じゃねえから、夜具はないぜ。そこの岩公と寝る気なら、泊ってゆくさ」
そこへ着いたのは夕刻。
紅い夕雲の下に、鈴鹿山の山ふところの部落は、湖のように明るく沈んでいた。
岩公が先へ駈け出して告げたので、鍛冶が家の軒端には、見覚えのあるいつぞやの女房が子を抱いて出て、父のみやげの風車を子とともに差し上げ、
「ほら、ほら、ほら。父が彼地から帰って見えた。父が見えたろ、父が――」
傲慢の化け物みたいな宍戸梅軒も遠くから子を見て、飴のように相好をくずし、
「ホイ、ホイ。――坊やか」
手をあげて、五本の指を踊らせて見せる。旅帰りだから仕方がないが、この夫婦は、やがて家の中に坐ると、その嬰ン坊と、べつな話で持ち切って、共に着いて今夜の一泊をたのんだ武蔵などは眼中にない。
やっと、飯時になって、
「そうそうあの武者修行にも、飯をやれ」
と梅軒は思い出したように、仕事場の土間にまだ草鞋も解かず、鞴の火にあたっている武蔵を見て、女房にいいつけた。
女房もまた、愛想がなく、
「あの衆は、この間も留守に来て、泊って行ったのだに」
「岩公と一緒に寝かせてやれ」
「いつぞやは、鞴のそばに、筵を敷いて寝てもろたのじゃ、今夜もそうしてもろたがいい」
「おい、若いの」
梅軒の向っている炉には、酒が暖めてあった。杯を、土間へ向けて、
「酒をのむか」
「嫌いではありません」
「一杯のめ」
「はい」
武蔵は、土間と部屋のさかいに腰かけ、
「頂戴いたします」
と、杯に礼をして唇へ入れた、酢みたいな地酒だった。
「ご返杯を」
「まあ、それは持っていねえ、おれはこっちの杯で飲むから――時に武者修行」
「はっ」
「幾歳だい、若いようだが」
「明けて、二十二歳を迎えます」
「故郷は」
「美作です」
――というと宍戸梅軒の外れていた眼が、武蔵の全姿をきびしく見直した。
「……さっき、なんとかいったな……名だ……名だ……おめえの名だ」
「宮本武蔵」
「武蔵とは」
「たけぞうと書きまする」
そこへ女房が、汁の椀、漬物、箸と飯茶碗を持って来て、
「おあがり」
と、筵の上へ直かに置く。
「そうか……」
宍戸梅軒は、ふた息も間を措いてから、独り語のように頷いて、
「さ、熱くなった」
と、武蔵の杯へ酌ぎ、唐突にこうたずねた。
「じゃあおめえは、たけぞうが幼名だったのか」
「そうです」
「十七歳頃にも、そう呼んでいたか」
「はい」
「十七の時に、おめえ、又八という男と、関ヶ原の戦へ出やしなかったか?」
武蔵は、ちょっと驚いて、
「御主人には、ようご存じでございますな」
「――知っているさ、おれも関ヶ原では働いた人間だ」
そう聞いてから、武蔵も親しみを覚え、梅軒も急に態度を変え、
「どこかで見たように思っていたが、じゃあ、戦場で会っているんだ」
と、いった。
「すると、御主人には、やはり浮田家の陣所に」
「おれはその頃、江州野洲川にいて、野洲川郷士の一まきと、御陣借をして合戦の先手になっていたのさ」
「そうですか、じゃあ、顔ぐらいは合せていたでしょう」
「おめえの連れの又八はどうしたい?」
「その後、会いません」
「その後とは、どこからのその後? ……」
「合戦の後、しばらく伊吹のある家に匿まわれて、傷の療治をしていましたが、その家で別れて以来のことです」
「……おい」
子を抱いて、もう寝床へ入っている女房へ、
「酒がなくなった」
「もう、おしまいでしょう」
「ほしい、もう今ほど」
「今夜にかぎって、どうしてそんなに」
「話が、だいぶおもしろくなって来たのだ」
「もうありません」
「岩公」
土間の隅へ向って呼ぶと、そこの板壁の向う側で、犬でも起きるようにガサカサ藁の音をさせ、
「親方、なんだえ」
と、潜って出られるほどな戸を押し開けて顔を出した。
「斧作んとこへ行って、酒一升借りて来う」
武蔵は、飯茶碗を持って、
「お先にいただきます」
すると、
「待ちねえ」
あわてて、梅軒は、箸を持っている彼の腕くびをつかんだ。
「せっかく、酒を取りにやったものを――」
「拙者のためなら、どうぞお止しください。これ以上は、飲めません」
「まあいいわさ」
と強いて、
「そうそう、鎖鎌について、おれに聞きたいといったが、おれの知る限りは、何なと話そう。それにしても、酒でも飲みながらでなくっちゃあ」
岩公はすぐ戻って来た。
壺から、銚子へ移して、炉の火にあたためながら、梅軒はもう自分の知識を傾けて、鎖鎌の戦に利のあることを力説していた。
――この鎖鎌を持って敵に当る場合、何より強味の多い点は、剣とちがって、敵に防禦の遑を与えないことである。また直接に敵へ当るまえに、敵の所持している武器を鎖で絡んで奪い飛ばしてしまう利もある。
「こう、左に鎌、右に分銅を持つとする――」
梅軒は、坐ったまま、型をして見せ、
「――来れば、鎌をもって受け、受けたせつなに、敵の面へ、分銅を返す。それも一手」
とまた、構えを違えて、
「こうなる場合――こう敵と自分と間をおいて立つ時は――相手の得物を巻き取るのがこっちの目的、太刀、槍、棒、何へ向ってもそれは出来る」
そんな話をしたりまた分銅の投げ方について、十幾通りの口伝のあることや、それによって、鎖が蛇のからだのように自由な線を描き、鎌と鎖と、こもごもに使って、敵を完全なる錯覚の光線に縛りつけ、敵の防ぎをもって、かえって敵の致命とさせてしまうところに、この武器の玄妙なところがあるなどともいった。
――武蔵は熱心に聞き入っていた。
こういう話を聞く時の彼は、全身を耳にし、全身を知識慾の袋にし、話す者のことばの中に自分を置き切っていた。
鎖と――鎌と――
双つの手。
先の話を聞きながら、彼は彼ひとりの考えをひろげて、
(剣は隻手、人間は両手)
胸の裡でつぶやいていた。
二度めの壺の酒も、いつの間にか底を干していた。梅軒も飲むには飲んだが、武蔵へ強いたほうが多かった。武蔵は自分の酒量を思わず越えて、例のないほど酔った。
「女房、おれたちは、奥へ寝よう。ここの夜具を客人にあげて、奥へ寝床を敷いてくれ」
彼の女房は、いつもここで眠る掟とみえ、梅軒と武蔵が飲んでいる間に、客に関わずすぐそばへ夜具をのべて、嬰児と共にもぐり込んでいた。
「客人も、つかれが出たらしい、早く寝むようにして上げねえか」
先刻から梅軒は客に対して急に親切に変っていたが、なぜ、ここへ武蔵を寝せて、自分たちの寝床は奥へしけというのか、女房は良人のいいつけが解きかねたし、また、折角足の暖まったところを起きるのが嫌さに、
「お客は、岩公と一緒に、道具小屋へ寝てもらうことになっているがな」
「ばか」
寝床からいう女房を睨んで、
「それは、客にもよりけりだ。黙って、奥へ支度して来い」
「…………」
寝衣すがたで、女房は奥へぷいと入って行った。梅軒は眠っている嬰児を抱き取って、
「お客、穢い夜具だが、ここなら炉もあるし、夜半に喉が渇けば、湯茶も沸いている。ゆっくりと、この蒲団へ手足をのばしたがいい」
彼が隠れるとしばらくして後、女房が来て枕を取り換えて行った。女房もその時はふくれ顔を改めて、
「良人のひとも、えろう酔うたし、旅づかれもあろうほどに、あしたの朝は寝坊するというておりますでの、あなたも悠々と眠って、朝立ちには、暖かい御飯など食べて行きなされ」
といってくれる。
「は。……どうも」
武蔵はそれしかいえなかった。草鞋を解いて上衣を脱る間さえもどかしいほど酔いが廻っていた。
「では、ご厄介になります」
いうや否、今までここの内儀と嬰ン坊の添寝していた夜具の中へもぐりこんだ。夜具の中には、母子の温みがまだあった。武蔵の体はしかしそれよりも熱かった。奥との境に立って、その様子をじっと眺めていた女房は、
「……おやすみ」
静かにいって、燈火を吹き消して行った。
しいんと頭のはちを鉄の輪でしめつけられるような悪酔がのぼって来る。こめかみの脈がずきずきと聞えるほど高く搏つ。
はてな、どうしておれは今夜に限って、こう量を超えて飲んでしまったのか? ――武蔵は苦しいので軽い悔いを胸先へ呼びおこした。――梅軒がしきりとすすめたからではないかと思う。だが、あの人を人とも思わない梅軒が急に酒を買い足したり、あの無愛想な女房がやさしくなったり、ここの暖かい寝場所を譲ってくれたり――何で急に態度が打って変ったのか?
武蔵はふと、おかしいと思ったが、思索のまとまらないうちに、昏睡のもやが頭にかかっていた。――そして瞼を重くあわせると、大きな息を二つほどして、夜具の襟を眼元までかぶった、こんどは少し、寒気がするらしく。
燃え残っている炉の薪が、時折小さい焔を立てて、武蔵の額に明滅した、深い寝息がその次に聞える。
「…………」
白い顔が、その頃まで、そこと奥との境に佇んでいた。梅軒の女房であった。びた、びた、と筵へ粘りつく跫音が、忍びやかに良人のいる部屋へ帰って行った。
武蔵は夢をみていた。夢の切れ端みたいな同じ夢を何遍もみた。夢というほど纒まっている夢ではないから、幼少の頃の記憶が、何かの作用で、眠っている脳細胞の上へ虫みたいにムズムズ這い出し、神経の足の足痕が、燐色に光る文字を脳膜へ描いているかのような幻覚だった。
……とにかく、こういう子守唄を、彼は夢の中で聞いている。
ねんねしょうとて
ねる子はかわい
起きてなく子は
つらやな
つらやな
母なかせ
この子守唄は、この前ここへ立ち寄った時、良人の留守をまもって添乳していた梅軒の妻が唄っていたものであるのに、その伊勢訛りのある節がそのまま、美作の国吉野郷の、武蔵の生れた故郷で聞える。ねる子はかわい
起きてなく子は
つらやな
つらやな
母なかせ
――そして。
武蔵はまだ嬰児で色の白い三十ぐらいな女の人に抱かれているのだった。――その女の人が自分の母であると嬰児の武蔵には分っていて、乳ぶさにすがりながらその人の白い顔をふところから幼い眼が見上げている――
つらやな
つらやな
母なかせ……
自分を揺りながら母は唄っているのである。面やつれしている品のよい母の顔は、梨の花みたいに仄青かった。長い石垣には、苔の花がポチポチ見え、土塀のうえの梢は黄昏れかけていて、邸のうちから燈火がもれている。つらやな
母なかせ……
母の二つの眸から、ぽろぽろと涙がこぼれ、その涙を、嬰児の武蔵は不思議そうに見ているのである。
――出てゆけっ。
――郷家へ帰れっ。
父の無二斎のきびしい声が家のうちからひびいて来るのだったが、その姿は見あたらない。ただ母はおろおろと、邸の長い石垣を逃げまわり、果ては英田川の河原へ出て、泣き泣き河の中へざぶざぶ歩いてゆく。
嬰児の武蔵が、
(あぶない、あぶない)
と、母にその危険を教えようとして、ふところで頻りにもがくのであったが、母はだんだん深い淵へ入って行き、暴れる児を、痛いほどひしと抱きしめて、濡れている頬をぺたりと児の頬へつけて、
(――たけぞう、たけぞう、お前はお父さんの子? お母さんの子?)
すると、岸のほうで、父の無二斎の怒る声がした。母はそれを聞くと、英田川の波紋の下に影をかくしてしまった。――嬰児の武蔵は石ころの多い河原に抛り出されていて、月見草の中でワンワン泣いている、ありッたけな声を出して泣いている。
「……あっ?」
夢と知って、武蔵は眼をさましたが、とろりとするとまた、母か他人か、その女の人の顔が、彼の夢をのぞいて、彼をさました。
武蔵は自分を産んだ人の顔を知らなかった。母は憶うが、母の面影は描けない、ただ他人の母を見て、自分の母もあんな人ではなかったろうかなどと思ってみるに過ぎない。
「……なぜ今夜は?」
酒もさめ、気も醒めて、武蔵はふと天井へ眼をひらいた。煤けた天井に、赤い光が明滅していた。――燃え残りの炉の焔がそこへ映って。
見ると、ちょうど彼の寝顔の上の辺りに、天井から吊るした風車が、宙にふわりと下がっていた。
子の土産にと、梅軒が買って来たあの風車だった。そればかりでなく、ふと気づくと、武蔵が顔までかぶっていた夜具の襟にも、母乳のにおいが深くしみこんでいたのである。――武蔵は気がついて、こういう周囲の物の気配に、思いもしなかった亡母の夢を見たのであろうと思った。そして、懐かしいものと会ったように、その風車へ見入っていた。
醒めてもいない、眠ってもいない、そうしたうつつの間に、うす眼を開いて、仰向いていると、武蔵はふと、そこに吊り下げてある風車に、不審を抱いた。
「……?」
風車が廻りだしたのである。
元々、廻るように出来ている風車が、廻り出したのだ、なんの不思議もないはずであるが、武蔵はギクとしたように、夜具の中から身を起しかけ、
「……はてな?」
耳を澄ました。
どこかで、そーと戸の辷る音がする、戸が閉まると、廻っていた風車は、翼をしずめて、またぴたと止まる。
この家の裏口を、先刻から頻りと人が出入りしていた。足の運びにも注意して、ミシリともせぬほど、それは密かなものだったが、戸の開け閉てに入って来るかすかな風は、暖簾をかけてある板の間を通って、ここの風車の糸へすぐひびき、鉋屑で出来ている五色の造花が、途端に蝶の感覚のように、揺れたり、顫いたり、廻ったり、止まったりするのであった。
――起しかけた頭をそっと枕へもどして、武蔵は、この家のうちの空気をじっと体で知ろうとした。一枚の木の葉をかぶって、天地の気象を、悉く知っている昆虫のように、澄み徹った神経が、武蔵の体に行きわたっていた。
自分が今――どういう危険の中にあるか、武蔵はほぼ分ってきた。――しかし、分らないのは、なんのために、自分の生命を他人が――ここの主の宍戸梅軒が、奪おうとしているのか、その理由が見つからない。
「盗賊の家か?」
最初は、そう考えた。
けれど、盗賊ならば、およそ人態と所持品の多寡を一見して知る明は持っているはずである。自分を害して、なんの所得があるか。
「恨みか?」
それも中らない。
武蔵は、結局、思い当たるものを得なかった。しかし自分の生命には刻々と或るものが迫って来つつあることが益皮膚に感じられた。――こうしてその或るものの到来を待っているのがよいか、逆に、機先を取って起ったほうがよいか、早速、ふたつに一つの策を選ぶ必要にまで、それはすぐ側まで来ているものと見做された。
武蔵は、土間へ手を下ろした――手の先が草鞋を探っている――その草鞋は片方ずつするすると夜具のすそへ入ってしまう。
――急に、風車が烈しく旋回し出した。明滅する炉の光をうけて、クルクルと魔法の花みたいに廻った。
明らかな跫音が、家の外にも家の奥にも聞えた。武蔵の寝床をつつんで、忍びやかにそれは一つの囲みを作っていた。――やがて、暖簾のすそから、ぬっと、二つの眼が光った。膝をついて這って来る男は抜刀を持ち、一人は素槍を持って、そっと壁を撫でながら蒲団のすそのほうへ廻った。
「…………」
寝息を聞き澄ますように、ふたりの男は、ふくれている夜具を見ていた。するとまた、暖簾の蔭から、煙のように一人の者が出て来て突っ立っていた。宍戸梅軒である。左の手に鎖鎌を持ち、右の手に分銅をつかんでいた。
「…………」
「…………」
「…………」
眼と、眼と、眼と。
三人が機微な息をあわせると、まず頭のほうにいた者が、ぽんと枕を蹴とばした、すそのほうにいた男はすぐ土間へとび降りて、槍を蒲団へ向けた。
「起きろっ、武蔵」
梅軒は、分銅の鎖と拳を、後ろへ引いていった。
――だが、蒲団は答えなかった。
鎖鎌でつめ寄っても、槍をしごいても、呶鳴っても、蒲団はあくまで蒲団であった。――その中に寝ているはずの武蔵はもういなかったのである。
槍で、それを剥くった男が、
「あっ……失せたっ」
狼狽の眼を、急に、あたりへ配ると、梅軒は、顔のまえで強くカラカラ廻っている風車に、初めて気づいて、
「どこかの戸が開いているぞ」
と、土間へ飛び降りた。
しまった――という声が、すぐもう一人の男の口から走っていた。その仕事場から土間づたいに裏の台所へ通じている露地出入りの戸が一枚――三尺ほど開け放しになっている。
月夜のように、戸外は霜が冴えていた。風車の急な旋舞は、そこから吹き込んで来る針のように身を刺す風だった。
「野郎、ここからだ」
「戸外の者は、何していたのか――戸外の者は」
梅軒は、あわてて、
「やいっ、やいっ」
呶鳴って、家の外を見まわすと、軒下や、そこらの物蔭に、黒い影が、のろりと膝でうごいて、
「……親方……親方うまく行きやしたか」
と、声を密ませる。
腹立たしげに、
「何をいッてやがるんだ、てめえ達は、なんのために、そこで眼を光らせていたんだ。野郎はもう、風を食らって、ここから外へ突っ走ッてしまった」
「えっ、逃げたって? ……いつの間に」
「人に訊く奴があるか」
「はてな」
「どじめッ」
梅軒は、そこの戸口を、踏み出したり、中へ戻ったり、じりじりしていたが、
「鈴鹿越えか、津の街道へ戻るか、道は二筋しかねえ、まだそう遠くへも行くめえ、追ッてみろ」
「どっちへ」
「鈴鹿のほうへは、おれが行ってみる、てめえたちは、下道へ急げ」
屋内の者と、戸外の者とが固まると、十人ほどの人数だった。中には、鉄砲を抱えている男もある。
風態は、一様でなかった。鉄砲を持っている男は猟師らしいし、野差刀を横たえているのは木樵と見てさしつかえない。その他の者もまず、大体そんな階級であるが、すべてが、宍戸梅軒の顎でうごいているところや、どこか兇猛な眼ざしを備えている点から見て、誰よりも、梅軒その者が第一、決して、凡の百姓鍛冶だけの男とは受け取れなかった。
ふた手になって、
「見つけたら、鉄砲をぶっ放すのだ、それを聞いたら、一所へ駈けて来い」
いきまいて追って行った。
しかし、その迅い足で、半刻も追うと、皆気が抜けてしまったらしい。やがて、がっかりした言葉を投げ合って、ぞろぞろと戻って来た。
親方の梅軒に罵られはしないかと恐れていたことも取り越し苦労に過ぎない。その梅軒がすでに皆より先に帰って、鍛冶小屋の土間に腰かけたまま、ぼんやり俯向いていたからである。
「だめだ、親方」
「惜しいことをした」
なぐさめ顔にいうと、梅軒は、
「しかたがねえ」
忌々しさの遣り場を見つけるように、そこの榾をつかんで、膝がしらでポキポキ折り、
「女房、酒はねえか、酒でも出せ」
炉の残り火を掻き立てて、自暴に薪を投げこんだ。
この夜半の騒々しさに、乳呑児も眼をさまして泣きぬいている。梅軒の女房がそこから寝たままで、酒はもうないと答えると、一人の男が、それなら自宅にあるのを取って来ようといって戸外へ出て行った。
皆、近所に住んでいるらしいのである。酒の来るのも早かった。暖める遑もなくそれを茶碗で酌み交わして、
「どうも、業腹でならねえ」
とか、
「忌々しい若造だぞ」
とか、
「命冥加な野郎だ」
などと、後のまつりに過ぎない繰り言を肴にして、
「親方、腹をすえておくんなさい、戸外を見張っていた奴がどじだったんで」
と、彼を酔わせて、先へ寝かすことにみな努めた。
「おれも悪かった」
梅軒は、そう他を咎めようとはしない。ただ酒は舌に苦い顔つきで――
「何も、あんな青二才一匹、皆の手を借りて大げさな構え立てをしなくても、おれ一人でやればよかったかも知れねえのだ。……だが、今から四年前、あいつが十七歳の時に、おれの兄貴の辻風典馬でさえ、打ち殺された相手だと考えると――下手に手出しは出来ねえと考えたものだから」
「だが親方、ほんとに今夜泊ったあの武者修行が、四年前に、伊吹のもぐさ屋のお甲の家に匿まわれていた小僧でしょうか」
「死んだ兄貴の典馬のひき合わせだろうよ――おれも初手はそんな気はみじんも抱いていなかったのだ。一、二杯酒をのんでいるうちになにかの話から、野郎はまさか、おれが辻風典馬の弟で、野洲川野武士の辻風黄平だとは知らねえもんだから、関ヶ原の役へ出たことから、そのころはたけぞうと呼んでいたが今では宮本武蔵と名乗っているなどと、問わず語りにしゃべってしまった。……年頃も、面だましいも、兄貴を木剣で打ち殺した、あの時のたけぞうに相違ねえ」
「返す返す、惜しいことをしたなあ」
「この頃は、世間が穏やかになり過ぎたんで、たとえ兄貴の典馬が生きていても、おれ同様、住居や飯にも困って、百姓鍛冶に化けるか山賊にでもなるよりほか途はなかったろうが――名もねえ関ヶ原くずれの足軽小僧に、木剣でたたき殺された兄貴の死にざまは、思い出すたびに、こう胸の元でむらむらとするのだ」
「あの時、たけぞうといった今夜の青二才のほかに、もう一人、若えのがいましたね」
「又八」
「そうそう、その又八ってえ方の野郎は、もぐさ屋のお甲と朱実を連れて、すぐあの晩、夜逃げしてしまった。……今頃、どうしていやがるか」
「兄貴の典馬は、お甲に迷わされていたので、一つは、あんな不覚の因になったのだ。これから先も、またいつどこで今夜のようにお甲を見かける折がないともいえねえから、てめえ達も、気をつけていてくれ」
酒がまわって来たらしく、梅軒は居坐ったまま、榾火へ向って、眠そうに首を垂れた。
「親方、横におなんなせえ」
「親方、寝たほうがいい」
武蔵が脱け出した蒲団の後へ、一同して親切にかかえ入れ、土間に落ちていた枕をひろって当てがってやると、途端に、宍戸梅軒は眼をあいている間の怨念を離れて大きな鼾をかいている。
「帰ろうぜ」
「寝ようぜ」
元は皆戦場かせぎの野武士を生業にして伊吹の辻風典馬や野洲川の辻風黄平の手下と、公らに名乗って働いていた人間たちの成れの果てなのである。時代に追われて百姓や猟師になっても、まだ人を咬む牙は決して抜かれていない。どこか鋭い眼を備えたのが、やがて、ぞろぞろと鍛冶小屋から霜の夜更けへ散って行った。
その後は何事もなかった夜のように、この家の中は、人の寝息と、野鼠の歯の音がどこかでするだけであった。
時折、まだ寝つかないらしい乳呑み子が、奥でクスクスむずかっていたが、それもいつか、寝ぐさい闇が暖まるに従って、やんでしまう。
すると。
台所と仕事場との土間つづきの隅に、薪が積んであって、そのわきには土泥竈があり、荒壁には、蓑や笠などがかけてあったが――その壁に寄った泥竈の蔭から、ごそりと蓑がうごいた。
蓑はひとりでに持ち上がってゆくように、元の釘へもどって壁にかけられ、その壁の中から煙のように出て来たかとも思える人影が、ぬっと立った。
武蔵なのである。
彼は、この家から外へ、一足も出ていなかった。
先刻、寝床を抜け出すとすぐ、そこの雨戸を開けておいてから、蓑をかぶって、薪と一緒に身を伏せていたのである。
「…………」
彼は土間を歩み出した。宍戸梅軒の寝息は天国を遊んでいた。梅軒はまた、鼻に病があるとみえて、その鼾声も凡ならぬものだった。――武蔵はすこしおかしくなったとみえ、闇の中で思わず苦笑をゆがめる。
「…………」
さて――と武蔵はその鼾声を聞きながら一考してみるのだった。
宍戸梅軒との試合はすでにおれが勝った。完全に勝ったと思う。
だが、先刻からの話を聞いていれば、この男の宍戸梅軒というのは後の名で、以前には野洲川の野武士で辻風黄平と称えていた者だとある。そして、自分がかつて打ち殺した辻風典馬とは、兄弟である関係からして、自分をこよい殺して兄の怨霊をなぐさめようという、野武士ずれの男としては、殊勝な心がけを持っている。
生かしておけば、この後もまた、折あるごとに、自分を死へ謀るにちがいない。一身の安全からいえば、殺してしまうに限るが、殺すほどの値打があるかどうか。
「……?」
それを武蔵は考えてみるのであったが、やがて決するところが着いたのであろう、彼は梅軒が寝ている裾のほうへ廻って、その壁の角掛から、一挺の鎖鎌を外して、手に取った。
――梅軒は醒めない。
顔をのぞいて、武蔵は、鎌の刃を、爪でひき出した。青じろい刃と柄が、鉤形になった。
武蔵はその刃へ、濡れ紙を巻いて、そして梅軒のちょうど首の輪のところへ鎌をそっと載せた。
(……よし!)
天井から下がっている風車も眠っていた。もし、鎌の刃に濡れ紙を巻かずにおいて、あしたの朝、この父親の首が枕から落ちていたりなどしたら、この風車は気が狂って廻るだろうと思う。
辻風典馬を殺したのは、殺す理由もあったし、こちらも戦あげくの血気一途でやったのである。しかし、宍戸梅軒の生命を奪っても何らの益はない。ないのみならず、この風車の因果がやがてまた、父のかたきと自分を呼んで、世に廻って来ることは怖ろしい。
さなきだに武蔵は今夜、なんだか死んだ母や父が憶い出されてならなかった。この家族たちの寝ぐさい闇に、甘い乳の香のただよっているのも羨ましくて、なんだか去るに忍びない気持すらするのであった。心のうちで、武蔵は、
(お世話になりました。……では、あしたの朝まで、ごゆっくりお寝みなさい)
そう祈りながら、静かに、雨戸を開けて、そっと閉めて、この家から先の旅へと、まだ明けぬ夜を出て行った。
旅も初めのうちの数日は清新だった。脚のつかれなど苦にもならない。
ゆうべおそく、関の追分で泊った二人なのに、その二人は今朝もまた、まだ朝靄のふかいうちに、筆捨山から四軒茶屋の前へかかり、やっとその頃、自分たちの背中から昇りかけた日の出を振向いて、
「ああ、きれい――」
しばし日輪の荘厳に衝たれて足を止めていた。
お通の顔も、紅く燃えて、その一瞬は晴れ晴れしていた。いや植物も生物も、一切のものが、自己の生命に充実と誇りをもって地上を飾っていた。
「まだ誰も登って来ないぜ、お通さん。今朝は、この街道では、おれたち二人が、一番先に通るんだ」
「おかしな自慢をするんですね。道なんか、先に通ったって、後から通ったって、同じことじゃありませんか」
「ちがうさ」
「じゃあ、早く通れば、十里の道が七里になる」
「そんな違いじゃないよ、歩く道でも、一番は気持がいいだろ。――馬のお尻や、雲助の後から行くよりも」
「それはそうだけれど、城太さんみたいに、威張って、自慢するのは変ですよ」
「でも、誰も通っていない街道を歩いていると、自分の領分を歩いているような気がするんだよ」
「じゃあ私が、お馬の先を、露ばらいしてあげるから、今のうちに、たくさん威張って歩くといい」
お通は、道に落ちていた竹をひろって、歌をうたうような気持で戯れた。
「下にいませエー。下にいませエー」
戸が閉まっているとばかり思っていた四軒茶屋から、人が顔を出したので、
「ま! いやだ」
お通は顔を赧くして駈け出した。
「お通さんお通さん」
追いかけて、
「殿様を置いて逃げちゃいけないよ、お手討だぞ」
「もうふざけては、嫌」
「自分がひとりでふざけているくせに」
「おまえにつり込まれてしまうんじゃありませんか。あら、四軒茶屋の人が、まだこっちを見ている。きっと気狂いだと思ったかもしれませんよ」
「あそこへ戻ろう」
「何しに」
「お腹が減ッちゃった」
「まあ、もう?」
「お昼のお握飯を、ここで半分喰べておこう」
「いいかげんにおしなさい。まだ二里とは歩いていないんですよ。城太さんと来たら黙っていると、日に五度ぐらい喰べるんですもの」
「そのかわりおらは、お通さんみたいに、山駕籠に乗ったり、駄ちん馬に乗ったりしないからね」
「きのうは、関へ泊ろうと思って、無理に暮れ方をいそいだからですよ。そんなこというなら、きょうはもう乗らない」
「きょうはおらが乗る番だ」
「子どものくせに、なアに」
「馬に乗ってみたいんだよ、ねえお通さんいいだろ」
「きょう限りですよ」
「四軒茶屋に、駄ちん馬がつないであったから、あれを借りて来よう」
「いけません、いけませんよ、まだ」
「嘘いったのかい」
「だって、くたびれもしないうちに馬に乗るなんて、贅沢すぎます」
「そんなこといったら、おらなんか、百日千里歩いても、くたびれることなんてないんだから、乗る時はありやしないぜ。……人がたくさん歩き出すとあぶないから、今のうちに乗せておくれよ」
これでは早立ちしても道程は捗るまい。お通がうなずきもせぬうちに、城太郎はもう通り越した四軒茶屋のほうへ、大元気で駈け戻っていた。
四軒茶屋というのは字義どおり四軒の茶屋をさす名であるが、その四軒が古着屋のように軒をならべているわけではない。筆捨、沓掛などの山坂へかけて四つの休み茶屋があるところから、この辺を総称して、地名的にそう呼ぶのである。
「おじさんっ――」
そこへ立って城太郎、
「馬、出しとくれ」
と、呶鳴った。
戸を開けたばかりのことである。茶屋のおやじは、この元気者にしぶい眼を醒まして、
「なんじゃあ、でかい声を出しくさって」
「馬だよ。はやく馬を出しておくれよ。水口までいくらだい。安ければ、草津まで乗ってやってもいいぞ」
「汝れ、どこの子だ」
「人間の子だ」
「かみなりの子かと思うた」
「かみなりは、おじさんのことだろう」
「よく口をたたく子だの」
「馬出しとくれよ」
「あの馬を、駄ちん馬と見たのけ。あれは駄ちん馬ではねえだによって、おん貸し申すことはできねえ」
「おん借り申すことはできないのけ?」
「こんつら小僧め」
饅頭を蒸かしていた泥竈の下から、おやじが、火のついている薪を一本抛りつけると、それは城太郎にはあたらないで、軒下につないであった老馬の脚にぶつかった。
馬の子と生れてからこの年になるまで、毎日、人間の生活の手つだいに、関の峠を俵だの味噌だのを背負って通いながら、不平もなく、睫毛に白髪を生やしかけているその年より馬は、久しぶりで驚いたようにいなないて、背で軒を打つほど暴れ出した。
「この野郎」
馬を叱るのか、城太郎を叱ったのか分らない。おやじは飛び出して来て、
「どうッ、どうッ」
手綱を解いて、家の横にある樹へ持って行こうとすると、
「おじさん、貸しとくれよ」
「いかねえってに」
「いいじゃないか」
「馬子がいねえだよ」
その時、お通も側へ来ていて、馬子がいなければ、駄ちんは先に払い、馬は水口からこっちへ帰る旅人か馬子に託してもよいからと頼むと、おやじはお通の物腰に信用を改めて、それなら水口の宿場まででも、草津まででもかまわないから、馬は、ついでのある土地の者に頼んでくれといって、手綱を彼女の手に渡した。
城太郎は舌うちして、
「ばかにしてやがら、お通さんが、きれいなもんだから」
「城太さん、おじいさんの悪口いうと、この馬が聞いているから、怒って、途中で振り落すかもしれませんよ」
「こんな耄碌馬に振り落されてたまるもんか」
「乗れますか」
「乗れるさ。……ただ、背がとどかねえや」
「そんなふうに、馬のお尻をかかえてもだめですよ」
「抱いて、乗せとくれよ」
「やっかい坊ね」
脇の下へ両手をさし入れて、彼女が馬の背へ乗せてやると、城太郎は、にわかに地上を睥睨してみたくなって、
「お通さん、歩いておくれよ」
「あぶない腰つき」
「だいじょうぶだよ」
「じゃあ、出かけますよ」
お通は手綱をとって、
「おじいさん、それでは」
と茶屋の軒へ、後ろ向きにいいながら歩み出した。
すると、百歩も行かないうちに、姿は見えないが朝靄の中から、オーイッと高く呼ばわって、忽ち追い着いて来そうな迅い跫音が聞えた。
「誰だろ」
「私たちのことかしら」
駒を止めてふり顧ると、煙のような白い靄のうちから、一個の人間がだんだんその影を濃くあらわし、やがて輪廓だの色だの、年頃や人態まで見えるほどに、距離を縮めて来た。
夜だったら近づかぬ間に、二人は逃げ足をおどらせたかも知れない。長い野太刀をこじり高に差し込み、鎖鎌を前差に帯びている眼の怖い男だった。
風がふいて来たようにその男の体から烈しい空気がうごいていた。いきなりお通のそばへ来て足を止めたのである。そしてお通の持っている手綱を咄嗟に引ッ奪くり、
「降りろっ」
顔は、城太郎へ向けて、命令するのだった。
かつ、かつ、かつ、と年より馬がまた脅えて後退りするので、城太郎は鬣にしがみつきながら、
「な、なにさ! 無茶なことすんないっ、……この馬、おらが借りてる馬だぞ」
「やかましい」
鎖鎌は、耳も貸さない。
「これ女」
「はい」
「おれは、関の宿からちょっと引っ込んだところの雲林院村にいる宍戸梅軒という者だが、すこしわけがあって、この街道を、今朝暗いうちに逃げていった宮本武蔵という者を追いかけて来たのだ。もう相手はとうに水口の宿場も越えているだろう、どうしても、江州口の野洲川あたりで彼奴を捕まえなければならねえ。……その馬を、おれに譲れ」
ことばの早いのみで、肋骨に波を打っていうのだった。靄が樹々のこずえに絡んで氷の花になるという寒さなのに、見れば梅軒の喉くびは、爬虫類の肌のように汗光りがして太い血管がさらにふくれている。
――立ち竦んだまま体の血液をみな大地へ吸いこまれてしまったように、お通の顔は見ているまに異様に白くなってしまった。もいちど、耳をよく欹てて聞き直したいように紫ばんだ唇がわななきかけたが、にわかに、ものもいえない面持ちなのである。
「……む、武蔵だって」
馬の背から城太郎はこう口走った。鬣にしがみついたまま、ぶるぶる手も脚もふるわしていた。
先を急ぐことに焦心りきっている梅軒の眼には、凡ではあり得なそうな二人の刹那の驚きも眼にはとまらないらしく、
「さ、小僧っ。――降りろ、降りろ。ぐずぐずしていると、ひっぱたくぞ」
手綱の端を鞭にして脅すと、城太郎は、つよく首を横に振って、
「嫌だっ!」
「イヤだと」
「おれの馬だ、この馬で、先へ行った人へ追いつこうたってそうはゆかない」
「女子供と思って理由をわけていうのに、童め、つけ上がって何をいうか」
「なあ、お通さん」
と、梅軒の頭越しに、
「この馬は、渡せないね、この馬を渡しちゃいけないね」
お通は、城太郎のそのことばを、健気と賞めてやりたかった。もとより、この馬はおろか、この人間をも、先へやってはならないと思って、
「そうです、そちらもお急ぎか知りませんが、私たちも先を急ぐ体です。もう少し経てば、峠がよいの馬も駕籠もいくらもありましょう。人の乗っているものを奪ってお出でになろうとしても、今もそこの子がいうとおり、理不尽です、そうはなりません」
「おれも、降りない。死んだって、この馬を離すものか」
二人は、しかと、気持を結び合って、梅軒の求めを突っ刎ねた。
お通と城太郎のふたりが心を協せて、敢然とそうした態度に出たのは、梅軒にもやや意外ではあったろうが、もとよりこの男の眼から見れば、そんな反抗は、おかしくなるくらいなものだった。
「じゃあどうしても、この馬はおれに譲らねえというのか」
「知れたことだ!」
城太郎の語気はまるで大人のいい草だった。
「野郎っ」と、梅軒が大人げなく喚いたのも、あながち無理ではない。
馬の背へとび上がって、鬣へしがみついている蚤みたいな城太郎を抓んで捨てようとしたのである。いきなり馬の腹にある彼の片足を引っ張った。
こんな時こそ抜くべき物である腰の木剣を城太郎はすっかり忘れているらしい。自分以上の強敵と分っている敵に、脚くびをつかまれると、ただ逆上してしまって、
「かッ! 畜生っ」
梅軒の顔へ向って、続けさまに唾を吐きつけた。
生涯の大変はいつ降って湧いてくるかわからない。たった今、日の出に向って、生きている歓びを思った生命が、真っ黒な戦慄に包まれているのである。お通はこんな所で、こんな男のために、怪我をするのは嫌だし、死ぬのはなお嫌だと思った。恐ろしさに口の中が酢くなって渇いてしまった。
――だが謝りを入れて、この男に、馬を渡す気にはどうしてもなれない。この男の凶暴な害意は、この道を先へ通って行ったという武蔵の背後へ迫るものである。何か大きな危険が、武蔵を追っていることにちがいないのである。この男を、一時ここで遅らせれば、武蔵は一時だけ先へ危険を遁れて行くことができる。
たといその距離は、折角、一すじの道にかかっている自分と武蔵との間をまた忽ち遠くしてしまうものであるにせよ――この男に奔馬の脚を与えることは断じて出来ないと、朱唇を噛んで意思するのであった。
「なにするんです!」
自分の勇気と無謀に驚きながらお通は、梅軒の胸を強く突いた。顔の唾をこすっているところへまた、弱いと思った女のその強い手だったので梅軒もちょっとたじろいだ恰好であった。それのみでなく、女の度胸というものは、いつも男の意表外に出るもので、梅軒の胸いたを突いたお通の手は、すぐ次の瞬間に、梅軒の帯びている野太刀のつかを握っていた。
「阿女ッ」
吠えて、その手くびを、梅軒が抑えようとして握ると、そこはもう鯉口を走りかけていた白刃の部分だったので、手を触れたとたんに、梅軒の右手の小指と薬指の二本が弾けるように斬れて血と共に地上へこぼれた。
「――ア痛!」
思わず後の指を抑えて飛び退いたので、自ら鞘を引いたことにもなって、お通の手には水もたまらぬような光が地を曳いてさッと後ろへかくされた。
いやしくも一道に達している宍戸梅軒として、これはゆうべの不覚以上な不覚であった。のッけから女子供と見て呑んでかかったことが重大な原因だったことはいうまでもない。
――しまったと自己の不覚を叱りながら、立直ろうとしたところへ、もうなにも怖くなくなっているお通の手から、野太刀が横へ撲って来たのであった。けれどそれは三尺に近いもので、いわゆる胴田貫という分厚い刃金である。一人前の男でも、そうたやすくは振れない物なので、梅軒に身を交わされると、当然、お通の手は波を描いて、自分の振った刀で自分の体を蹌かせてしまった。
――そして、ごつんと木を斬ったようなひびきを腕に感じると、赤黒い血しおが、顔へかぶって来るようにパッと見えて、彼女は眼が眩むような心地がした。城太郎のしがみついている馬の尻へ刃を入れてしまったのである。
驚き癖がついている馬である。そう深く入った刃ではないが、馬の悲鳴に似たいななきは非常なものであった。臀の傷口から血を撒いて暴れるのだった。
梅軒は、なにか意味の分らない大声をあげ、お通から自分の刀をぎ取ろうとして、彼女の手頸をつかまえかけたが、狂った馬の後脚は、その二人を刎ね飛ばして、竿立ちの姿勢になると、鼻をふるわしてまた高くいななき、そのまま弦をきって放ったように、風を起して驀しぐらに駈け出してしまう。
「わっ、や、やいっ」
馬の揚げてゆく砂塵へ向って、梅軒は突ンのめった。憤怒の勢いは駆りたてられたが、追いつけるはずは勿論ない。
そこで血眼となったすごい眸を、お通のほうへ振り向けたのであるが、お通のすがたも、途端にどこにも見あたらない。
「あっ?」
こうなると、梅軒の青すじはいよいよ、こめかみに膨れあがった。――見ると、自分の刀は道ばたの赤松の根かたに抛り出してある。飛びつくように拾いあげて、そこを覗くと、低い崖の下に農家の茅の屋根が見える。
馬に、刎ねとばされた機に、お通はそこへ転げ落ちたものと見える。もうその時は梅軒にも、彼女が武蔵と何らかの交渉のある人間に違いないということは考えられていた。武蔵を追う方にも気が急かれるが、お通を見のがして行くことも忌々しい。
崖を駈け下りて、
「どこへ?」
うめきながら、梅軒は、そこの百姓家のまわりを大股に廻って歩いた。
「どこへ失せやがったか」
縁の下をのぞいたり、納屋の戸を開けたりしている彼の狂人みたいな態を、せむしのような農家の老人が糸車の蔭から恐怖にすくんで見ているだけだった。
「ア! ……あんな方に」
やがて彼は見つけた。
ふかい檜の沢には、まだ谷の雪が残っている。その渓谷へ向ってお通は、檜林の急な傾斜を、雉みたいに逃げ下りていた。
「いたなッ」
梅軒が上からこういいかぶせると、お通は思わず振りかえった。土の崩れて行くよりも早く彼の姿は、お通のうしろへ接近していた。彼の右手には拾いあげた白刃がそのまま持たれていたが、相手をそれで斬り倒す意思はなかった。武蔵の道づれでもあれば、武蔵をつかまえる囮にもなろうし、武蔵の行く先を訊けるかとも考えたのであろう。
「阿女っ」
左の手をのばして、その指先は、お通の黒髪に触れた。
お通は身をすくめて、木の根にしがみついた。足をふみ辷らすと体は振子のように崖へ伸び、烈しく左右へ振り廻された。顔のうえ胸の中へ、土や小石がざらざらと崩れてくる。梅軒の巨きな眼と、白刃が絶えずその上にあった。
「ばか、ばか、逃げる気か。――もうそこから下は、渓川の絶壁だぞ」
ひょいと、前をのぞくと何丈か真下に、残雪の間を裂いて走っている水が青く見えるのだった。――お通はそれに救いを感じても恐い気はしなかった。ひらりとすぐ身をその宙へまかせる機を持っていた。
死を感じると、死の恐さよりもおそろしい速さで、彼女は、武蔵がどこにいるかを考えた。いや自分の記憶と想像力のおよぶかぎりの武蔵の幻像が、総毛立ッた頭脳のうちで、暴風雨の空の月みたいに描かれた。
「――親方ア、親方あ」
どこで呼ぶのか、谷間の谺が、その時、梅軒を、横へ反らせた。
崖の上に人間の顔が見えた。二、三人の男どもである。
「親方あ」
と、その顔が、てんでに呼ばわるのだった。
「なにをしてるんで。――はやく先へ急いでおくんなさい、今、四軒茶屋のおやじに訊くと、夜明け前の暗いうちに、そこで弁当をこさえさせて、甲賀谷のほうへ走って行った侍があったてえことですぜ」
「甲賀谷の方へ?」
「そうです、だが、甲賀谷へ抜けようが、土山を越えて水口へ出ようが、石部の宿場まで行きゃあ道はみな一つになるから、早く野洲川で手配しておけば、野郎はきっと捕まるはずだ」
遠方からのそういう声を、耳の裏で聞きながら、梅軒の眼は、眼の光で縛りつけているように、自分の前に立ち竦んでいるお通を睨みつづけていた。
「おウいっ、てめえ達も、ちょっとここへ降りて来い」
「降りて行くんですか」
「はやく来い」
「でも、愚図愚図しているうちに、武蔵のやつが、野洲川を通ってしまうと」
「いいから、降りて来い」
「へい」
梅軒と共にゆうべ無駄骨を折った彼の手輩なのである。山歩きには馴れきっているとみえ、猪のように真っ直に傾斜を駈け下りて来て、お通の姿に、そこで初めて気づいたらしく眼を見あわせた。
梅軒は早口にわけを話して、三人の手したにお通をあずけ、後から野洲川へ曳ッぱって来るように命じた。手下どもは合点して、お通のからだへ縄をまわしたが、縛るには痛々しい気もするらしく、頻りと、彼女のうつ向いている蒼白な横顔を、さもしい眼で偸み見ている。
「いいか、てめえ達も、おくれちゃならねえぞ」
いいすてて、梅軒は猿のように山の腹を横に駈け、やがてどこから降りて行ったものか、甲賀谷の渓流へ降りて、遥かからこちらの崖を振り向いていた。
その小さい影が彼方に立ちどまって、口元へ手をかざし、
「野洲川で落ち合うのだぞ、おれは間道を追ってゆくから、てめえ達は、街道のほうを、なお入念に、見てゆけよう」
こっちの手輩が、
「わかったあ」
と、谺を返すと、梅軒は、雪の斑な谷間を、雷鳥が歩くようにぴょいぴょいと岩間づたいに遠く去ってしまった。
よぼよぼな老馬といえども、死にもの狂いに狂い出すと、下手な手綱ではもう止まらない。
いわんや乗手は城太郎。
臀に松火をつけられているように、真っ赤な傷口を持っている例の奔馬は、あれから盲滅法に駈けだして、八百八谷という鈴鹿の山坂を、またたく間に駈け通し、蟹坂を突破し、土山の立場を突っ切り、松尾村から布引山のすそを横にして、まるで一陣のつむじ風が通って行くかのような勢いで止まるところを知らなかった。
よく落ちないでいるのはその背の上の城太郎で、
「あぶないっ、あぶないっ、あぶないっ」
を、呪文のように叫びつづけながら、もうたてがみへつかまっているのでは間に合わなくなって、馬の平頸へ、眼をつぶって、抱きついていた。
当然、馬の尻がおどる時は、彼のお尻も馬の背を離れて高くおどるので、その危険極まることは、乗っている彼よりも、それを見送った村や立場の人たちの方が遥かに胆を寒くした。
乗る術を知らない彼であるから降りる術ももとより知らないし、駒足を止めることなどは、なおさら思いもよらない。
「――あぶないよッ、あぶないよッ、あぶないッ」
かねてからお通にせがんで、いちど馬に乗ってみたい、馬に乗って思うさま飛んでみたいと、駄々をこねて宿望にしていた城太郎も、今日はすっかりたんのうしたことであろう。声はだんだん半泣きになって来て、呪文のききめも頼みなく見えて来た。
もう街道には往来の者がぼつぼつ通りはじめていたのである。誰か身を挺して、この盲滅法に走ってゆく馬と乗手を食い止めてやればよいのに、誰もいらざることに手を出して怪我でもしてはというように、
「なんだい、あれは?」
と、見送ったり、
「阿呆ッ」
と道ばたへかわして、城太郎のうしろへ、叱言を浴びせたりするものしかなかった。
またたく間に三雲村、夏身の立場。
斗雲に乗った孫悟空ならば、小手をかざして、そのあたりから見渡せる伊賀甲賀の峰々谷々の朝げしきを俯瞰し、布引の山や、横田川の絶景を賞しながら、はるか行く手にはまた、一面の鏡か、一朶の紫雲かとまごう琵琶の湖を見出していたろうに――迅さは斗雲に劣らないまでも、そんな他見などは、城太郎にはちっとも出来ない。
「――止めてくれッ、止めてくれッ、止めてくれえッ」
あぶないあぶないが、いつのまにか止めてくれに変っていた。そのうちに柑子坂の急勾配へ上からかかると、俄然、
「助けてくれえッ」
とまた変って、逆落しに駈けてゆく馬の背中で、彼の体は鞠みたいに弾み出し、いよいよここらで、大地へたたき捨てられてゆくのがオチであろうと思われた。
ところが、坂の七合目あたりに、崖の横から出ている椋か柏の木か、何しろ喬木の一枝が、わざと道の邪魔しているように横へ出ていた。その枝がバサッと顔へ触ると、城太郎は、この樹こそ自分の声が天に通じて手を伸ばしてくれた救いの神と思ったのか、途端に馬の背から蛙のように梢へかじりついてしまった。
馬は、空身になると、なおさら勢いを加えて坂の下へ素ッ飛んで行ってしまうし、城太郎は当然、梢に両手をかけて、宙にぶらんこをしているほかはない。
宙といっても、地面からものの一丈とはない空間であるから、すぐ手を離してしまえば、なんのこともなく地上へ帰れるのに、そこは人間が猿でない証拠である。愛すべきご愛嬌というもので、さすがの城太郎も頭脳がすこしどうかなっているにちがいない。落ちては生命がないように、必死になって、足をからんだり、しびれる手を持ちかえたり、自分の体をもてあましている。
そのうちに、ぽきッと生木が裂ける響きがしたので――彼は、しまったと思ったらしいが、難なく体は大地に坐っているので、城太郎はかえって、ぽかんとしてしまった。
「アふッ……」
馬はもう見えない。見えたって二度と乗る気もあるまい。
ややしばらく、そこで腰を抜かしていたが、抛り上げられたように、立ち上がって、
「――お通さアん?」
と、坂の上へ向って叫ぶ。
「お通さアん――」
道をもどって、急に駈け出した彼は、容易ならない大事へ駈けつけて行くかのような血相で、こんどは木剣をにぎりしめた。
「どうしたろう? お通さんは。――お通さあんっ、お通さあん!」
出会いがしらに柑子坂の上から降りてきた編笠の人があった。五倍子染の着物を着ており、羽織はまとわず、革袴に草履という身ごしらえ――もちろん大小は横たえている。
「これ、子供子供」
擦違いに、その五倍子染の小袖を着た男が手をあげ、小粒な城太郎を丁寧に足元から見上げて、
「どうかしたのか?」
と、たずねた。
城太郎は戻って来て、
「おじさん、彼方から来たんだろ?」
「いかにも」
「二十歳ぐらいなきれいな女の人を見なかったかい」
「ウム見かけた」
「え、どこで」
「この先の夏身の立場で若い女を縄つきにして歩いていた野武士がある。おれも不審に思ったが、糺す理由はないから黙って見過ごして来たが、おおかた鈴鹿谷へ部落を移した辻風黄平の仲間だろうと思うが」
「そ、それだ」
「待て」
駈け出そうとする城太郎をまたよび止めて、
「あれは、おまえの連れの者か」
「お通さんという人だ」
「下手なまねをすると、おまえの命がないぞ。それよりも、やがてあの連中がここを通るのは分りきっているのだから、おれに仔細を話してみないか。いい智恵をかしてやらないでもないぞ」
城太郎は、すぐその人間に信頼をおいた。今朝からの始末をつぶさに話して聞かせた。五倍子染の男は、編笠のうちで幾たびも頷いて、
「なるほど、よく分った。だが、あの宍戸梅軒と変名している辻風黄平の仲間をあいてにして、女子供のおまえ達が、いくら歯がみをしたところでとても無益だ。よし、おれがお通さんとやらをあの仲間からもらってやろう」
「くれる?」
「ただではくれないかも知れぬ。その時にはまた、考えがあるから、おまえは声を出さずに、そこらの藪の中へ沈んでおれ」
城太郎がかくれると、その男は坂の下へすたすたと行ってしまうのだ。あんなことをいって、人を欣ばせておきながら、逃げてしまうのではなかろうか。城太郎は、不安になって、藪の中から首を出した。
坂のうえから人声が聞えてきたので、彼はあわてて首をひっ込めた。――お通の声が耳へひびいて来る。両手をうしろに縛られて、三人の野武士にかこまれながら歩いて来る彼女のすがたも、やがて眼のまえに見えたのだった。
「何をキョロキョロしているのだ、はやく歩け」
「歩かねえかっ」
一人の男が、お通の肩を突いて罵った。お通は坂道を斜めによろめいて、
「わたしの連れをさがしているんです。あの子は、どうしたろ。城太さアン」
「やかましい」
お通の白い素足から血が出ていた。城太郎は、ここにいると呶鳴って飛び出そうと思ったが、その時、先刻の五倍子染の侍が、こんどは編笠をどこかへ拾てて、二十六、七歳かと見える色の浅黒い面ざしに、わき眼もふらない血相をたたえて、
「たいへんだっ――」
独り語をもらしながら坂の下から駈け上がって来た。耳にとめて、三名のほうは坂の途中で足をとめた。――御免といってすれちがって行く五倍子染をふりかえって、
「おいっ、渡辺の甥じゃないか。――なにが大変なのだ? なにが? ……」
渡辺の甥と呼ばれたところから想像すると、その五倍子染の小袖を着ている男は、この附近の伊賀谷や甲賀村で尊敬されている忍者の旧家渡辺半蔵の甥なのであろう。
「知らないのか」
と、彼がいう。
「知らぬが? ……」
と三名は寄って来る。
渡辺の甥は、指さして、
「この柑子坂の下で宮本武蔵という男が今物々しい身支度をして、太刀のさやを払い、往来に突っ立って、通行の者をいちいちすごい眼で調べている」
「えっ、武蔵が」
「おれが通るとおれの前へずかずか来て、名を訊くから、おれは伊賀者の渡辺半蔵の甥で、柘植三之丞という者だと答えると、急に詫びて、イヤ失礼いたした、鈴鹿谷の辻風黄平の手下でなければお通りくださいと落ちついていうのだ」
「ほ……」
「何かあるので? ――と、おれから今度は質問すると、されば、野洲川野武士の果てで、宍戸梅軒と化名している辻風黄平とその手下の者が、この道すじで、自分を殺害しようと企んでいることを往来の風聞によって知ったゆえ、その分なれば、むざむざ彼らの陥穽に落ちるよりも、この附近に足場をとり最期まで闘って、斬り死にする覚悟だといい放っていた」
「ほんとか、三之丞」
「誰が嘘をいおう、さもなくて、宮本武蔵などという旅の者をおれが知ろうはずはない」
明らかに三名の顔いろが動揺しはじめた。
どうしよう?
と謀り合うように臆した眸がお互いを見ている。
「――気をつけて行ったがいいぞ」
いいすてて、三之丞がすぐ去ろうとすると、
「渡辺の甥」
あわてて呼んだ。
「なんだ」
「弱ったなあ、あれは途方もなく強い奴だと、親方すらいっていた」
「かなり出来ている男にはちがいない。坂の下で、こう抜刀を提げて、ぐっと前へ寄って来られた時は、おれですら嫌な気持がしたからな」
「なんとしたものだろう? ……実は親方のいいつけで、野洲川までこの女をしょッ曳いてゆく途中だが」
「おれの知ったことか」
「そういわないで、手を貸してくれ」
「真っ平だ、お前たちの仕事に、腕を貸してやったなどと知れたら、伯父の半蔵から大叱言が出るにちがいない。――だが、智恵だけなら貸してやらないものでもない」
「聞かせてくれ、それだけでも有難い」
「縄付にして連れているその女を、どこかこの近くの藪の中に――そうだ木の根へでも一時縛りつけておいて――身軽になっておくことが先だ」
「ウム、そして」
「この坂は通れない。すこし廻りになるが、谷道をわたって、はやく野洲川へこのことを告げ、なるべく遠巻きにしておいてから手を下すのだな」
「なるほど」
「よほど、大事をとらないと、相手は死にもの狂いだ、ずいぶん死出の道づれが出来るだろう。そうしたくないものだな」
三名は、にわかに、
「そうだ、そうしよう」
お通の体を、藪へ引きずりこんで、木の根へくくりつけた上、一度去りかけたが、またもどって来て、彼女の顔へ猿ぐつわを噛ませ、
「これでよかろう」
「よしっ」
そのまま道のないところを歩いて、姿をかくしてしまった。
枯れ木や枯れ葉の保護色の中にじっと屈みこんでいた城太郎は、もうよい時分――と藪の中からそっと首を出して見まわした。
誰もいない――往来の者も――渡辺の甥の三之丞ももう見えない。
「お通さん」
城太郎は、藪の中を、おどって来た。彼女の縄目を解いてやると、その手を引っぱって、坂の途中へ、ころげ出した。
「逃げよう」
「城太郎さん……どうしておまえは、そんなところに」
「どうだっていいじゃないか。今のうちだ、はやく行こう」
「ま、待って」
みだれた黒髪や、襟もとや、腰紐などを直して、容姿をつくろっていると、城太郎は舌うちして、
「お洒落なんかしている時じゃないぜ、髪なんか後におしよ」
「……でも、この坂の下へ行けば武蔵様がいると、今ここを通った人がいったでしょう」
「だから、お洒落をするの」
「いいえ、いいえ」
お通は、おかしいほど真面目になって、それに対して弁明する。
「武蔵様にお会いできさえすれば、もう怖いものはないからですよ。私達の難儀もすでに去ったものと、安心して来たものだから……私は落着いているんです」
「だけど、この坂の下で、武蔵様に会ったというのは、ほんとのことかしら?」
「そういって、あの三人と、ここで話していたお方は、どこへ行ってしまったのでしょう」
「いないや」
見まわして――
「変な人だなあ」
と、城太郎はつぶやいた。
しかし、とにかく二人がこうして虎の口から助かったのは、あの渡辺の甥とかいう柘植三之丞のおかげであったことに間違いはない。
――この上でまた、武蔵に会えたならば、なんとその人へ礼をいってよいかなどと、お通の心はもうそんなことまで考える。
「さ、行きましょう」
「お洒落はもういいの」
「そんなことをいうものではありませんよ、城太さん」
「だって、うれしそうだもの」
「自分だって」
「それは、欣しいさ、欣しいからおれは、お通さんみたいに隠したりなんかしないさ。――大きな声でいってみようか、おらア欣しいっ!」
そして、手足を踊らせて、
「でも、もしかして、お師匠様がいなかったらつまらねえな。先へ行って見つけてみるよ、ネ、お通さん」
と駈け出した。
柑子坂を、お通は後から降りて行った。先へ駈けて行った城太郎以上に、心は坂の下へ飛んでいたが、かえって足が急がないのである。
(――こんな姿で)
お通は血の出ている自分の足へ眼を落し、土や木の葉によごれている袂をながめた。
その袂にたかっていた枯れ葉を取って、指先に弄びながら歩いてゆくと、葉に巻かれていた白い綿の中から、不気味な虫が出て来て手の甲を這った。
山の中で育ったくせに、お通は虫が嫌いだった。ぎょっとして手を振り払った。
「おいでようっ、はやく。――なにをのそのそ歩いているのさあ」
坂の下から城太郎の勢いのいい声だった。あの元気のいい声の様子では、さては、武蔵が見つかったものとみえる。――お通は彼の声占からすぐ察して、
「アア、とうとう」
きょうまで自分というものを、ふと心のうちでなぐさめ、遂に届いた一心に対して、我へともなく、神へともなく、誇りたかった。歓びに胸おどらさずにいられなかった。
――だが、それは、女性の自分だけが前奏している歓びにすぎないことをお通はよく知っている。会ったにせよ、武蔵が、自分の一心を、どの程度までうけ容れてくれるだろうか。彼女は、武蔵に会うよろこびとともに、武蔵に会ってのかなしみにも、胸が傷んで来るのであった。
坂の日蔭は土まで氷っていたが、柑子坂を降ると、冬でも蠅がいるほど陽あたりのよい立場茶屋が、山ふところの田圃へ向って、牛のわらじや、駄菓子などをひさいでいる。城太郎は、そこの前に立ってお通を待っていた。
お通が、
「武蔵様は」
と、訊ねながら、立場茶屋の前にがやがや群れている人々のほうを、じっと見ると、
「いないンだよ」
と、城太郎は、気抜けしたようにいい放って、
「どうしたんだろ?」
「え……」
お通は、信じないように、
「そんなこと、ないでしょう」
「だって、どこにも、いないもの。――立場茶屋の人に聞いても、そんなお侍は見かけないというし……きっとなにかの間違いだよ」
と城太郎は、そう落胆もしない顔つきなのである。
独りぎめに、思い過ごした歓びにはちがいないが、そう無造作に片づけられると、
お通は、
(何ていう子だろう)
と、城太郎の平気でいるのが、憎らしくなってくる。
「もっと彼方へ行ってみましたか」
「見たよ」
「そこの庚申塚の裏は」
「いない」
「立場茶屋の裏は」
「いないッてば」
城太郎が、うるさくなったようにそういうと、お通は、ふいと顔を横に向けてしまった。
「お通さん、泣いているね」
「……知らない」
「ずいぶん理のわからない人だなあ、お通さんはもっと賢い人かと思ったら、まるで嬰ンぼみたいなところもあるぜ。最初から、嘘だかほんとだか、的にはならないことだったんだろ。それを、独りで決めこんで、武蔵様がいないからって、ベソを掻いているなんて、どうかしてらあ」
一片の同情も持たないように、城太郎はかえってゲラゲラ笑うのだった。
お通は、そこへ坐ってしまいたくなった。急に世の中のすべてのものに光がなくなって、元のような――いや今までにない滅失に心が囚われた。笑っている城太郎の味噌ッ歯が、憎く見えて、腹が立って、こんな子をなんで自分が連れてあるいているのか、捨てられるものなら捨てて、たった独りぼっちで、泣いて歩いていたほうが遥かにましだと思ったりする。
考えてみると、同じ武蔵という人を捜している身の上であっても、城太郎のは、ただ師匠として慕っているのだし、彼女の求めているのは、生涯の生命として、武蔵をさがしているのである。そしてまた、こんな場合に際しても、城太郎はいつでもケロリとして、すぐ快活にかえってしまうし、お通はその反対に幾日も次の力を失ってしまう、それは、城太郎少年の心のどこかに、なアに、そのうちにきっとどこかで行き会えるにきまっていることだからという定義が据わっているからであって、お通には、そう楽天的に末を見とおしていられないのである。
(もう生涯、このまま、あの人とは、会うことも話すことも、出来ない運命なのではないかしら?)
と、悪いほうへも、やはり思い過ぎをしてしまう。
恋は相思を求めていながら、恋をする者はまた、ひどく孤独を愛したがる。それでなくても、お通には、生れながらの孤児性がある。他へ対して、他人を感じることに、どうしても人よりは鋭敏だった。
すこし拗ねて、怒ったふりを見せて、黙って先へぐんぐん歩き出して行くと、
「お通さん」
と、後ろで呼ぶ者があった。
城太郎が呼んだのではない。庚申塚の碑の裏から、枯れ草を踏みわけて来る人の大小の鞘が濡れて見えた。
それは柘植三之丞であった。
さっき、あのまま坂の上へ登って行ったものとのみ思っていたのにふいに――また、往来でもないところから出て来たのである。お通にも城太郎にも、不思議な行動に見えた。
それに馴々しく、お通さんなどと呼びかけるのも、変な男だ。城太郎は、すぐ突っかかって、
「おじさん、嘘いったね」
「なぜ」
「武蔵様がこの坂下で、刀をさげて待っているなんていって、どこに武蔵様がいるかい、嘘じゃないか」
「ばか」
三之丞は、叱って、
「その嘘のために、おまえの連れのお通さんは、あの三名から遁れたのではないか。理窟をこねる奴がどこにある、またおれに対しても、一言、礼ぐらいは申すのがほんとうではないか」
「じゃあ、あれは、おじさんがあの三人を計略に乗せるためにいったでたらめかい」
「知れたこと」
「なアんだ、だからおらもいわないことじゃないのに――」
と、お通へ向って、
「やっぱり、でたらめだとさ」
聞いてみれば城太郎へわがままに怒ったのはいいとしても、あかの他人の柘植三之丞へ怨み顔する理由は毛頭ないので、お通は幾重にも膝を折って、助けてもらった好意を感謝した。
三之丞は、満足のていで、
「野洲川の野武士といえば、あれでもこの頃は、ずいぶんおとなしくなった方だ。あれに狙われては、この山街道から無難に出ることは恐らくできまい。――だが、最前この小僧から話をきけば、おまえたちの案じている宮本武蔵という者、心得のある者らしいから、むざむざその網にかかるようなドジも踏むまい」
「この街道のほかに、まだ江州路へ出る道が、幾すじもありましょうか」
「あるとも」
三之丞は、真昼の空に澄んでいる冬山の嶺を仰ぎまわして、
「伊賀谷へ出れば、伊賀の上野から来る道へ。――また安濃谷へ行けば、桑名や四日市から来る道へ。――杣道や間道が、三つぐらいあるだろう。わしの考えでいえば、その宮本武蔵とかいう男は、逸はやく、道をかえて危難を脱していると思うが」
「それならば、安心でございますが」
「むしろ、あぶないのは、おまえ達二人のほうだ。折角、山犬の群れから救ってやったのに、この街道を、ぶらぶら歩いていれば、いやでも野洲川ですぐまた捕まってしまう。――すこし道は嶮しいがおれについて来るがいい、誰も知らぬ抜け道を案内してやろう」
三之丞は、それから甲賀村の上を通して、大津の瀬戸へ出る馬門峠の途中まで一緒に来て、つぶさに道を教え、
「ここまで来れば、もう安心なものだ。夜は早目に泊って、気をつけて行くがいい」
と、いった。
かさねて、礼をのべて、別れようとすると、
「お通さん、別れるのだぜ」
三之丞は、意味ありげに、改めて彼女をじっと見た。そして、やや怨み顔に、
「ここまで来る間に、今に訊いてくれるか、今に訊いてくれるかと思っていたが、とうとう、訊いてくれないな」
「なにをですか」
「おれの姓名を」
「でも、柑子坂で聞いておりましたもの」
「おぼえているか」
「渡辺半蔵様の甥、柘植三之丞さま」
「ありがたい。恩着せがましくいうのじゃないが、いつまでも、覚えていてくれるだろうな」
「ええ、ご恩は」
「そんなことじゃない、おれがまだ独り者だということをさ。……伯父の半蔵がやかまし屋でなければ、邸へ連れて行きたいところだが……まあいい、小さな旅籠がある、そこの主人も、おれのことはよく知っているから、おれの名を告げて泊るといい。……じゃあ、おさらば」
先の好意はわかるし、親切な人とも思いながら、その親切に少しも欣べないばかりか、親切を示されれば示されるほど、かえって厭わしくなる人間というものはよくある。
柘植三之丞に対するお通の気もちがそれだった。
(底のわからない人)
という最初の印象が妨げるせいか、わかれに臨んでも、狼から離れたように、ほっとはしたが、心から礼をいう気にもなれない。
かなり人みしりをしない城太郎さえが、その三之丞とわかれて峠を隔てると、
「いやな奴だね」
と、いった。
きょうの難儀を救われたてまえにも、そういう蔭口はいえない義理であったけれど、お通もつい、
「ほんとにね」
と頷いてしまい、
「いったいなんの意味なんでしょう、おれはまだ独り者だということを覚えていてくれなんて……」
「きっと、お通さんを今に、お嫁にもらいに行くよという謎なんだろ」
「オオいやだ」
それからの二人の旅は至って無事だった。ただ恨みは、近江の湖畔へ出ても、瀬田の唐橋を渡っても、また逢坂の関を越えても、とうとう武蔵の消息はわからないでしまったことである。
年暮の京都にはもう門松が立っていた。
待つ春の町飾りを見ると、お通は先に逸した機会をかなしむよりも、次の機会に希望をもった。
五条橋のたもと。
一月一日の朝。
もし、その朝でなければ、二日――三日――四日と七種までの朝ごとに。
あの人は必ずそこへ来ているというのである。城太郎からお通はそれを聞いている。ただ、それは武蔵が自分を待ってくれるためでないだけがさびしいといえばさびしい。しかし、なんであろうと、武蔵に会えることだけで、自分の希望は八分も九分も遂げられるようにお通は思うのだった。
(だけど、もしやそこへ?)
ふと彼女は、また、その希望を暗くするものに襲われた。本位田又八の影である。武蔵が、元日の朝から七日のあいだ、朝な朝なそこへ来ていようというのは、本位田又八を待つためなのだ。
城太郎に訊けば、その約束は、朱実に言伝けしてあるだけで、当人の、又八の耳には、入っているかいないかわからないという。
(どうか、又八が来ないで、武蔵様だけがいてくれればよいが――)
お通は、祈らずにいられなかった。そんなことばかり考えながら、蹴上から三条口の目まぐるしい年の瀬の雑鬧へ入ってゆくと、ふとそこらに、又八が歩いていそうな気がする。武蔵も歩いていそうな気がする。彼女にとっては誰よりも怖い気のする又八の母のお杉隠居も、うしろから来はしまいかなどと思う。
なんの屈託もないのは城太郎で、久しぶりに戻って見る都会の色や騒音が、無性に彼をはしゃがせてしまい、
「もう泊るの?」
「いえ、まだ」
「こんなに明るいうちから旅宿屋へついてもつまらないから、もっと歩こうよ。あっちへ行くと、市が立っているらしいよ」
「市よりも、大事な御用が先じゃありませんか」
「御用って、何の御用」
「城太さんは、伊勢から自分の背中につけて来たものを忘れたんですか」
「あ、これか」
「とにかく、烏丸光広様のお館へうかがって荒木田様からおあずかりの品をお届けしてしまわないうちは、身軽にはなれません」
「じゃあ今夜は、そこの家で泊ってもいいね」
「とんでもない――」
お通は、加茂川を見やりながら、笑った。
「やんごとない大納言様のお館、どうして虱たかりの城太さんなんど、泊めてくれるもんですか」
預かり中の病人が、寝床を藻抜けの空にして、紛失したとあっては、これは責任上、かなり驚いていい事件である。
けれど、住吉の浜の旅籠では、病人が病気を作った原因をうすうす知っていたし、無断で出て行った病人も二度と、海へ駈け込む惧れはないものとして、ただ一片の知らせを、京都の吉岡清十郎へ飛脚で出しておいたまま、追手のなんのと、いらざる苦労はしなかった。
――さて、そこで。
朱実は、籠から蒼空へ出た小禽のような自由を持ったが、なんといっても、いちど海で仮死の状態になった体である。そうぴちぴち飛んでも行けないし、殊には、憎い男性のために、処女のほこりに消えようもない烙印を与えられた傷手と――それに伴うて起るさまざまな精神的また生理上の動揺というものは、そう三日や四日で、易々と癒えるものではない。
「くやしい……」
朱実は、三十石船のうちでも、淀川の水をみな自分の涙としても足らないほど嘆いた。
その口惜しいはまた、単なる口惜しいではない。――この身体のうちに、べつな男性を恋しているがために――その人との永久の希望を、あの清十郎の暴力のために破壊されたと思うがために、――さらに複雑だった。
淀のながれには、門松の輪飾りや、初春のものを乗せた小舟が忙しげに棹さしていた。それを見ると、朱実は、
「……武蔵様に会っても?」
と、惑いの下から、ポロポロとなみだがこぼれてくる。
五条大橋のたもとに、武蔵が来て、本位田又八を待つという正月の朝を、朱実は、どんなに心待ちだったか知れないのである。
――あの人は何だか好きだ。
こう思い初めてから、朱実は、都会のどんな男性を見ても、心をうごかしたことはない。殊にいつも、養母のお甲と戯れていた又八と思い較べていただけに、思慕の糸が、この年月まで、切れもせずに胸につながって来た。
思慕というものを、糸にたとえれば、恋はだんだんそれを胸のうちで巻いてゆく鞠のようなものだ。何年も会わないでいても、独りで思慕の糸をつくり、遠い思い出も、近い人づての消息も、みな糸にして、鞠を巻いて大きくしてゆく。
朱実も、きのうまでは、そういう処女らしい情操では、伊吹山の下にいた頃から、可憐な野百合のにおいを持っていた。――だが今はもうそれも心のうちで、微塵に砕けている気がするのだった。
誰も知るはずのないことであるのに、世間の眼がみな自分に対して変った気がしてならない。
「おい、娘や、娘や」
こう誰かに呼ばれて、朱実は、たそがれかかる五条に近い寺町を冬の蝶のように、寒々と歩いている自分の影と、辺りの枯れ柳や塔を見出した。
「帯かい、紐かい、なんだか解けて引き摺って歩いているじゃあねえか。結んでやろうか」
ひどく下等なことばをつかうが、身なりは痩せても枯れても、二本差している牢人で、朱実は初めて見る男にちがいないが、盛り場や冬日の裏町を、何の用もなくよくぶらついている赤壁八十馬と名乗る人間。
すり切れたわら草履をばたつかせて、朱実のうしろへ寄って来た、そして地に曳き摺っていた彼女の帯紐の端をひろって、
「まさか娘やは、謡曲狂言によく出てくる狂女じゃあるめえ。……人が笑うわな。……美い顔をしているのに、髪だって、もすこしどうかして歩いたらどうだい」
うるさいと思うのであろう。朱実は耳がないような顔をして歩いてゆく。それを赤壁八十馬は、単に、若い女のはにかみと呑みこんで、
「娘やは、都ものらしいが、家出でもしたのか? それとも、主人の家でも飛び出して来たのか」
「…………」
「気をつけなよ。おめえみたいな容貌よしが、そんな……誰が見たって、事情のありそうな、ぼんやり顔でうろうろ歩いていてみな、今の都には、羅生門や大江山はないが、そのかわり、女とみたらすぐ喉を鳴らす野武士がいる、浮浪人がいる、人買がいるぜ……」
「…………」
ふんとも、すんとも、朱実は答えないのに八十馬は独りで喋って尾いて行きながら、
「まったく」
と、返辞まで自分でして、
「この頃、江戸の方へ盛んに京女がいい値で売られてゆくそうだ。むかし奥州の平泉に藤原三代の都が開かれた頃には、やはり京女がたくさんに奥州へ売られて行ったものだが、今ではそのはけ口が江戸表になっている。徳川の二代将軍秀忠が、江戸の開府に、今一生懸命のところだからな。――だから京女がぞくぞく江戸へ売られて、角町だの、伏見町だの、境町だの、住吉町だのと、こっちの色街の出店が二百里も先にできてしまった」
「…………」
「娘さんなぞは、誰にでもすぐ目につくから、そんなほうへ売り飛ばされないように、また変な野武士などに引ッかからねえようにずいぶん気をつけないと物騒だぜ」
「……叱っ!」
朱実はふいに、犬でも追うように、袂を肩へ振り上げて、後ろを睨めつけた。
「――叱っ、叱っ」
げらげらと八十馬は笑って、
「おや、こいつあ、ほんとのキ印だな」
「うるさい」
「……そうでもねえのか」
「お馬鹿」
「なんだと」
「おまえこそ気狂いだ」
「ハハハハ、これやあいよいよ間違いなしのキ印だ。かあいそうに」
「大きなお世話だよ」
つんとして――
「石をぶっつけるよ」
「おいおい」
八十馬は離れない。
「娘や、待ちな」
「知らない、犬っ、犬っ」
実は朱実は恐かったのである。そう罵ると、彼の手を払って、驀っしぐらに走ってしまった。そのむかし燈籠の大臣といわれた小松殿の館があった跡だという萱原を、彼女は、泳ぐように逃げてゆく。
「おういっ、娘や」
八十馬は、猟犬のように、萱の波を躍って追う。
裂けたる鬼女の口に似ている夕月が、ちょうど鳥部ノ山の辺りに見える。折から生憎、陽も落ちかけて、この辺りは人も通らない。もっとも、そこから二町ほど彼方を、一群れの人間が、とぼとぼ山の方から降りて来るのはあったが、朱実の悲鳴を聞いても、こっちへ救いに駈けつけて来ようとはしなかった。――なぜならばその人々は皆、白い裃を着、白い緒の編笠をかぶり、手に数珠を持って、まだ野辺の送りをすまして来た涙が干かないでいる人たちであったから。
背なかを、どんと、突きとばされたのだ。朱実は勢いよく、萱の中へ仆れてしまう。
「あっ、御免御免」
ふざけた男もある。自分で突きとばしておいて、八十馬はこう謝りながら、朱実の体へのしかかり、
「痛かったろ」
と、抱きすくめた。
その髯づらを、朱実は、くやしまぎれに平手で打った。ピシャピシャと二つも三つも打った。けれど八十馬は平気なものなのだ。かえって、この男はそれを歓ぶかのように、眼をほそめて打たれているのだから始末にこまる。
従って、彼女を抱きしめている手は離しッこない。執拗に、頬をこすりつけてくる。それが無数の針のように痛くて、朱実は顔を苦しめられた。
――息ができない。
朱実は、ただ爪を立てる。
その指の爪が、争ううちに、赤壁八十馬の鼻の穴を掻きむしった。鼻は獅子頭のそれみたいに朱に染まる。けれど八十馬は手を離さない。
鳥部ノ山の阿弥陀堂から、夕闇の鐘は諸行無常と告げわたっている。けれど、こうすさまじく生き過ぎている人間の耳には、色即是空の梵音も、馬の耳に念仏というものである。男女を埋めている枯れ萱の穂は、大きな波をゆり立てるばかりだった。
「おとなしくしな」
「…………」
「なにも、恐いことはないさ」
「…………」
「おれの女房にしてやろう。――いやじゃあるまい」
「……死にたいッ!」
さけんだ朱実の声の余りにも悲痛で強かったので、
「えっ?」
八十馬は、思わずいった。
「……どうして、どうして」
手と膝と胸とで、朱実は体を山茶花の蕾みたいに固くむすんでいた。八十馬はどうかしてこの筋肉の抵抗をことばで解させようとするのだった。この男はまた、こういうことに幾たびか経験をもっているらしい上に、こういう時間のあいだをも楽しむことにしているらしい。凄い面がまえにも似もやらず、捕まえた餌物をむしろ嬲るかのように気が長いのである。
「――泣くことはないじゃないか。何も、泣くことは」
そんなことを、耳へ唇をつけていってみたり、
「娘やは、男を知らないのか、嘘だろう、もうおめえぐらいな年頃で……」
朱実は、いつぞやの吉岡清十郎を思いだした。その時の苦しかった呼吸が考え出された。でも、あの時とは比較にならないほど、心のどこかに落着いたものがある。……あの時のせつなこそは、部屋のまわりの障子の桟も見えない心地がしたほどだったが――。
「待ってくださいッてば!」
蝸牛のようになったまま、朱実はいった。なんの意もなくいったのである。病後の体が火みたいだった。その熱すら、八十馬は病気の熱とは思っていない。
「待ってくれって? ……よしよし、待ってやるとも。……だが、逃げるとこんどは手荒になるぜ」
「――ちいッ」
肩をつよく振って、八十馬の執拗な手をふり退けた。やっと少し離れた彼の顔を、睨めつけながら起ち上がって、
「――何するんですっ」
「わかってるじゃねえか」
「女と思って、ばかにすると、わたしにだって、女のたましいというものがあるんだから……」
草の葉で切れた唇に血がにじんでいた。その唇を噛みしめると、ほろほろと涙がながれ、血といっしょに白い頤をこぼれた。
「ほ……おつなことをいうな。こいつはまんざらキ印でもねえとみえる」
「あたりまえさ!」
ふいに相手の胸いたを突くと、朱実は、そこを転び出して、見えるかぎり夕月にそよぐ萱の波へ、
「人殺しっ、人殺しイっ……」
その時の精神状態からいえば、朱実より八十馬のほうが、一時的ではあるが、完全な狂人であった。
昂ぶりきった彼は、もう、技巧をこらしてなどいられない。人間の皮をかなぐりすてて、情痴の獣になりきってしまう。
――たすけてえっ!
青い宵月の光を、十間とは走らないまに、朱実は獣に噛みつかれた。
白い脛が、無残にも闘い仆れ、自分の黒髪を自分の顔へ巻きつけて、朱実は頬を大地へこすった。
春が近いといっても、まだ花頂山から落ちてくる風は、蕭々と、この野を霜にするかと思われた。悲鳴に喘ぎたてる真白な胸が、乳ぶさが、露わに冬風に曝され、八十馬の眼を、さながら炎の窓にしてしまう。
するとその耳の辺りを、何者か突然、ごつんとおそろしく堅い物で撲った。
八十馬の血液は、そのため、一時五体の循環を休止して、打撃をうけた箇所へ集まり、神経の火がそこから噴いたように、
「――ア痛!」
とさけんだ。
さけびながらまた、後ろを向いたのもこの男の戸惑いである。その真っ向へまた、
「この馬鹿者っ」
ぴゅっ――と空気に鳴りながら、節のある尺八が、脳天を打ち下ろした。
これは痛くなかったろう、痛いと感じる間がなかったからである。八十馬は、へなへなと肩も眼じりも下げてしまい、張子の虎のように首を左右へぶるると振って後ろへ引っくりかえってしまった。
「他愛ないものだ」
尺八を手にぶら下げながら、撲った方の虚無僧は、八十馬の顔をのぞきこんでいる。――ぽかんと口を大きく開いて気絶しているのだ。打ったのが二度とも脳であったから、気がついてもこの男は痴呆性になるのではないかと考え、ひと思いに殺したよりも罪な業をしたものだと、つらつら眺め入っている。
「……?」
朱実はまた、その虚無僧の顔を、茫然と見ていた。唐蜀黍の毛をすこし植えたように、鼻の下にうす髭が生えている、尺八を持っているから虚無僧と人も見ようが、うす汚い着物に、一腰の太刀を帯び、乞食か侍か、よく見ないと判断のつかないような五十男である。
「もういい」
青木丹左衛門は、そういって、唇の下へブラ下がっている大きな前歯でわらった。
「――もう安心おし」
朱実は初めて、
「ありがとうございました」
髪のみだれや、着物のみだれを直して、まだ脅えている眼が、夜を見まわした。
「どこじゃの、おぬし」
「家ですか。……家はあの……家はあの……」
朱実は、にわかにすすり泣きして、両手で顔を蔽ってしまう。
わけを訊かれても、彼女は正直にみな話せなかった。半分は嘘をいい、半分はほんとのことをいい、そしてまたすすり泣いた。
母親がちがうことだの、その母親が自分の体を金に換えようとしたことだの――住吉からここまで逃げて来た途中であるということだの――その程度は打ち明けて、
「わたしもう、死んだって家へ帰らないつもりです。……ずいぶん我慢して来たんですもの。恥をいえば、小さい時には、戦の後の死骸から、剥盗りまでさせられたことがあるんです」
憎い清十郎よりも、さっきの赤壁八十馬より、朱実は、養母のお甲が憎くなった。急にその憎さが骨をふるわして来て、また、よよと両手の裡で泣くのだった。
ちょうど阿弥陀ヶ峰の真下にあたるところで、清水寺の鐘も近く聞え、歌ノ中山と鳥部ノ山にかこまれて、ここの小さい谷間は静かでもあり、またから風の当たる寒さもよほどちがう。
その小松谷まで来ると、
「――ここじゃよ、わしの仮住居は、なんと暢気なものだろうが」
青木丹左は、連れて来た朱実をふり顧って、うす髭の生えている上唇を剥いて、にやりと笑う。
「ここですか」
失礼とは思いながら、朱実はつい問い返した。
ひどく荒れている一宇の阿弥陀堂なのである。これが住居というならば、この附近には、堂塔伽藍の空家がずいぶん少なくない。この辺から黒谷や吉水のあたりは、念仏門発祥の地であるので、祖師親鸞の遺跡が多いし、念仏行者の法然房が讃岐へ流されるその前夜は、たしかこの小松谷の御堂とやらにあって、随身の諸弟子や帰依の公卿や善男女たちと、わかれの涙をしぼられたものである。
それは承元の昔の春だったが、今夜は、散る花もない冬の末、
「……おはいり」
丹左は先へ御堂の縁へ上がって、格子扉を押しあけ、そこから手招きをしたが朱実はためらって、彼の好意に従ったものか、ほかへ行って独りで寝場所をさがしたものか、迷っている様子に見える。
「この中は、思いのほか暖かいのだ。藁ござだが、敷物もあるしな……。それとも、このわしまで、さっきの悪者のように、恐い人間と、疑っているのか」
「…………」
朱実は顔を横に振った。
青木丹左が人のよい人間らしいことには、彼女も安心しているのである。それに年配も五十を越えているし――。だが、彼女がためらっているのは、彼の住居と称するお堂の汚なさと、彼の衣服や皮膚の垢からにおう不潔さであった。
――だが、ほかに泊るところのあてはないし、また、赤壁八十馬にでも見つかればこんどはどんな目にあうか知れないし――それになお朱実は、身体が熱ッぽくて、気懶くって、はやく横にでもなりたい気がしきりとするので、
「……いいんですか」
階段から上がりかけると、
「いいとも、幾十日住んでいようが、ここなら、誰も怒って来はせんのじゃ」
中は真っ暗である。蝙蝠でも飛びだして来はしまいかしらと思われるほど暗い。
「お待ち」
丹左は隅で、火打ち石をカチカチ磨ッているのだ。どこで拾って来たか、短檠に灯りがつく。
見れば、鍋、瀬戸物、木枕、筵など、ひと通りのものは拾い集められてある。湯を沸かして、これから蕎麦掻きを馳走してやろうといい、七輪の欠けたようなものへ木炭をつぎ、付火木をくべ、火だねを作ってフウフウと火を吹きはじめる。
(親切な人)
すこし落着いてくると、朱実は、不潔も気にならなくなり、彼の生活に、彼と同じ気安さが持てて来るのだった。
「そうそう熱があって、身体がだるいといっていたの、おおかた風邪だろう。蕎麦掻きのできる間、そこに寝ていさっしゃれ」
むしろだの、米俵だので、隅へ寝どこができている。朱実はそこにある木枕へ、自分の持っている紙を当てて、すぐ横になった。
上からかぶる衾のかわりに、それへ備えてあるのは、これもどこかで拾って来たものらしい、破れた紙衣蚊帳。
「じゃあ、お先に」
「さあ、さあ、なにも心配しないがいいぞよ」
「……すみません」
と、手をつかえる。そして、渋紙の蒲団を引き被ごうとすると、その下から、なにか電光のような眼をした生き物が飛びだし、自分の頭を越えたので、彼女は、きゃっといって俯伏した。
だが、驚いたのは、朱実よりは、むしろ青木丹左のほうで、鍋へ空けかけていた蕎麦粉の袋を取り落して、
「アッ、なんじゃっ?」
膝をまっ白にしてしまった。
朱実は打ち伏したまま、
「なにか――なんだか知れませんが、鼠より、もっと大きな獣が、隅から飛び出して……」
いうと、丹左は、
「栗鼠じゃろ」
と見廻して、
「栗鼠のやつめが、よう食い物を嗅いで来おるでな。……だが、どこにも、何もいはせぬが?」
朱実は、そうっと顔をあげ、
「あれっ、そこに」
「どこに」
浮き腰を巡らして丹左がふとうしろを見ると、なるほど一匹の動物が、仏具も本尊仏もない内陣の欄のうちに、ちょこなんと乗って、丹左の眼が向くと、びくとしたように尻をすくめる。
栗鼠ではない、小猿なのだ。
「……?」
丹左が不審顔すると、小猿は、この人間くみしやすしと見てとったか、内陣の朱の欄をするすると二、三度往復をしてからまた、元のところへ坐って、毛の生えた桃に似ている面がまえをケロリと上げ、パチパチ眼ばたきをしながら何か物でもいいたげな風情。
「こいつ……どこから入って来たのじゃろう、……ははあ、だいぶ飯つぶがこぼれていると思うたら、さては」
さては、ということばが、わかるように、小猿は彼が近づく先に逃げ出して、内陣の裡へぴょんと隠れてしまう。
「……はははは、とんだ愛嬌者じゃわ、たべ物でもくれてやれば、悪戯はすまい。放っとこう」
膝の白い粉をはたいて、鍋のまえに坐り直しながら、
「朱実、なにも怖いことはない。――おやすみ」
「だいじょうぶでしょうか」
「山猿ではない、どこかの飼猿が逃げて来たのじゃろ、なに心配があるものか。――夜具はそれで寒くはないか」
「……いいえ」
「寝たがよい、寝たがよい、風邪は静かに寝ていさえすれば、なおる」
鍋へ、粉を入れ、水を入れ、そしてぐるぐる箸の先で掻きまわす。
欠け七輪に、炭火はかっかっとおこっている。鍋をかけておいて、その間に、丹左は葱を刻みはじめた。
まな板は、この御堂にあった古机、庖丁は小柄の錆びたものらしい。刻んだ葱は、手も洗わずに木皿へうつし、その後を拭けばそのまま、次には膳にかわるのである。
クツクツと鍋の湯の沸る音が、だんだんこの中を暖めて来た。枯れ木のような膝をかかえ込み、丹左の飢えた眼が、湯の泡を見ていた。人間の至楽はこの鍋の中に尽きるといわないばかりに、その煮えるのが楽しみらしく見える。
いつもの晩のように、清水寺のほうで鐘が聞える。もう寒行はすんで初春もちかいが、師走が押しつまると、人の心の患いが多いとみえ、夜もすがら鰐口をふる音だの、お籠りをする者の詠歌のあわれな声が絶えない。
(……わしは、わし自身の科をうけ、こうして、罪障の償いをしているようなものだが、城太郎はどうしているかなあ? ……。子にはなんの科もないはず、親の罪は親にこそ酬え、南無かんぜおん菩薩、城太郎のうえに大慈の御眸ありたまえ)
――蕎麦掻きを焦げつかないように、そっと箸で浮かしながら、親と名のつく者の弱い心の底から祈りをこめていると、
「――嫌あッ!」
突然、寝ている朱実が縊め殺されでもするようにさけんで、
「ち、ち、ちくしょう……」
見れば、寝息のうちに眼をふさいでいながら、木枕に顔押しつけて、さめざめと泣いているのであった。
自分のうわ言に、朱実は、眼をさまして、
「おじさん、わたしいま、寝ているうちに何かいいましたか」
「びっくりしたわさ」
丹左は、枕元へ寄って来て、彼女の額を拭いてやりながら、
「熱のあるせいじゃろう、ひどい汗だ……」
「何を……いったでしょう」
「いろいろ」
「いろいろって?」
朱実は熱ッぽい顔をよけいに赧らめて恥じるように、紙蚊帳の衾を、その顔へかぶった。
「……朱実、おまえは、心で呪っている男があるのじゃな」
「そんなこと、いいまして」
「ウム。……どうしたのだ、男に捨てられたのか」
「いいえ」
「だまされたのか」
「いいえ」
「わかった」
丹左が独り合点すると、朱実は急に身を起して、
「おじさん、わ、わたし……どうしたらいいんでしょう」
人には話すまいと思って独り悩んでいた住吉での恥かしいことを、朱実のからだ中の怒りと悲しみは、どうしても、彼女の口からそれをいわせずにおかないのである。突然、丹左の膝にすがりつくと、まだうわ言の続きのように、嗚咽しながらあのことを喋ってしまった。
「……ふ、ム……」
丹左は熱い息を鼻の穴から洩らした。絶えてひさしい女性のにおいというものが、彼の鼻にも眼にも沁みる。このごろは、人間の灰汁というものが抜けきって、寒巌枯木にひとしい余生の肉体とばかり自分でも思っていた官能に、急に、熱い血でも注ぎこまれたような膨らみを覚え、自分の肋骨の下にも、肺と心臓がまだ生きていることをめずらしく思いだした。
「……ふーむ、吉岡清十郎というのは、そのような怪しからぬことをする奴かの」
問い返しながら、丹左も心のうちで、清十郎という人間を憎んでもあきたらぬ人間のように憎んだ。けれど、丹左の老いたる血を、それほど興奮させているものは義憤ばかりではなかった。ふしぎな嫉妬心のはたらきが、あたかも自分の娘が冒されでもしたかのように、彼の肩を怒らせるのだった。
朱実にはそれが、たのもしき人にみえ、この人ならもう何をいっても安心と思いこんで、
「おじさん、……わたし、死んでしまいたい、死んでしまいたい」
彼の膝へ、泣き顔を当ててもがくと、丹左は、あらぬ心地に、すこし当惑顔にさえなって、
「泣くな、泣くな、おまえが心からゆるしたわけではないから、おまえの心までは決して、けがされておりはせぬ。女性のいのちは、肉体よりは、心のものじゃろう。さすれば、貞操とは、心のことだ。体をまかせないまでも、心でほかの男を想うとすれば、その瞬間だけでも、女のみさおは穢らわしく汚れたものになっている」
朱実には、そんな観念的な気やすめに安心はしていられないらしく、丹左の衣を透すほど熱い涙をながしぬいて、なお、
(死にたい、死にたい)
をいいつづける。
「これ、泣くな、泣くな……」
丹左は、その背なかを撫でてやっていた。だが、白い頸のおののきを、同情しては見られなかった。このきめのいい肌の香も、もう他の男性に盗まれた後のものかとつい思うのだった。
さっきの小猿が、鍋の近くへいつのまにか来て、なにか食べ物をくわえて逃げた。その物音に、丹左は、朱実の顔を膝から落して、
「こいつめ!」
と、拳を振りあげた。
丹左にはやはり、食べ物の方が、女の涙よりは、重大に心を打つらしい。
夜が明けた。
朝になると、丹左は、
「町へ托鉢に行って来るでの、留守をたのむぞよ。――帰りには、そちの薬、暖かい食べもの、それから、油や米なども求めて来ねばならぬでな」
雑巾のような袈裟をかけ、尺八と笠をかかえて、阿弥陀堂から出て行った。
笠は、天蓋ではない、当りまえの竹の子笠である、尻切れ草履をびたびた摺って、雨さえ降らなければ、町へ行乞に出かけるのだった。案山子が歩いているように、鼻下の髭までがみすぼらしい。
殊に、今朝の丹左は、しょぼしょぼしていた。ゆうべは一晩じゅう、よく眠れなかったのである、あんなに悶えたり泣き悲しんでいた朱実のほうは、暖かい蕎麦湯をすすると、一汗かいて、深々と眠りに落ちてしまったが、丹左のほうは、明け方まで、まんじりともしなかった。
その眠れない原因が、今朝もまだ――うらうらと澄んでいる陽の下へ出て来ても――まだ頭のしんに残っていて、とつこうつ、それが心にこだわって離れない。
(ちょうど、お通ぐらいな年ごろだ……)
と、思う。
(お通とは、気だてがまるでちがうが、お通よりは、愛くるしい。お通には、気品があるが、冷たい美だ。朱実のは、泣いても、笑っても、怒っても、みんなそれが蠱惑になる……)
その蠱惑が強力な光線のように丹左のすがれた細胞をゆうべから活溌に若やがせているのだった。しかし、なんといっても争えないのは年齢である。寝返りを打つたびに、朱実の寝すがたを気にしながら、すぐべつな心が、
(あさましや、おれという人間はいったいどうしたものだ。池田家の譜代として、歴乎とした家禄のついていた家がらをつぶし、姫路の藩地からこのように流浪三界の落魄の身となり終ったのも、元はといえば、女のためではないか。お通という女に、ふと、今のような煩悩を起したのが因ではないか)
そう誡めて、みずから、
(まだ性懲りもつかないのか)
と叱ってみたり、また、
(ああ、尺八を持ち、袈裟はかけているが、まだまだ、おれは普化の澄明な悟道には遠いものだ。露身風体のさとりにはいつなれるのやら?)
慚愧の眼をつぶって、むりに眠ろうとして明け方にいたったのである。そのつかれが、彼の今朝の影に、よろよろとこびりついていた。
(――そんな邪心は捨てよう。
しかし、愛くるしい娘だ。また不愍な傷手を負っている。なぐさめてやろう。世間の男性は、そう色情の鬼ばかりでないことも知らせてやろう。
帰りには、薬と、何を求めて来てやろうか。きょう一日の行乞が、朱実のよろこびになると思えば、これは張合いのあることじゃ。――それ以上の慾望はつつしもう)
やっと、心がそこへ落着いて、いくらか顔いろがよくなった時である。彼の歩いていた崖の上で、ばたッと、大きく翼を搏って、一羽の鷹の影が、陽をかすめた。
「……?」
丹左が、顔を上げると、葉の落ちている櫟ばやしの梢から、その顔の上へ、灰色の小禽の毛が、綿を舞わしたように飛んで来た。
鷹は、捕えた小禽を爪にかけて、その時空へ真っすぐに揚がっていた――翼の裏を下へ見せて。
「あっ、捕ったっ」
と、どこかで、人声がひびき、つづいて、鷹の持主の口笛がながれた。
間もなく、延念寺の裏坂のほうから、ここへ降りて来る狩支度の二人づれが見える。
ひとりは、左の拳に放鷹を据え、獲物を入れる網ぶくろを、大小と反対のほうへ提げ、うしろに、敏こそうな茶いろの猟犬をつれていた。
四条道場の吉岡清十郎なのである。
もう一名は、清十郎よりずっと若くて、体つきはかえって剛健にできているが、派手やかな若衆小袖に、背なかへは、三尺余の大太刀を斜めに負い、髪は前髪だち――といえばもう、後は説明するまでもなくあの岸柳佐々木小次郎のほかの何人でもない。
「そうだ、この辺だった」
小次郎は、立ちどまって、あたりを眺めまわしながらいう。
「きのうの夕方、わしの小猿めが、その猟犬と争って、尻尾を咬みつかれ、それに懲りたか、この辺で隠れこんだまま、とうとう姿を見せなかったが……どこかそこらの木の上にでもいはせまいか」
「いるものか、猿にも脚がある」
と清十郎は、興のない顔つきで、
「いったい、放鷹をつかうのに、猿など連れて歩くという法はない」
と、その辺の石へ腰かける。
小次郎も、木の根にかけて、
「なにも連れて歩くわけではないが、あの小猿めが尾いて来るので仕方がない。けれど、なんとなく可愛い奴で、そばにいないと肌さびしいのです」
「猫だの狆だのという動物を愛撫するのは、女子か閑人だけだと思うていたら、おん身のような武者修行が、小猿を愛しているところを見ると、一概にいえないものだな」
毛馬堤で、実際に見ている小次郎の剣に対しては、十分、尊敬を払ってはいるが、ほかの趣味とか処世のほうとかにおいては、やはり乳くさい点が多分に見える小次郎だった。やはり年齢は年齢だけのものだという半面が、あれから後、たとえ三、四日の間でも一つ邸に住んでみるとよくわかった。
――で、清十郎は、彼に対して、人間的な尊敬は大して払わないかわりに、交際いは、かえって仕よい気持がして、この数日ですっかり親しみを加えていた。
「はははは」
小次郎は笑って、
「それは拙者がまだ、幼稚だからですよ、今に女のほうでも覚えれば、猿などは捨てて顧みなくなるでしょう」
といった。
それから小次郎が、暢気な雑談をはじめると、清十郎は反対に、なにか落着かない顔いろが濃くなってゆく。自分の拳にすえている放鷹の眼のように、たえず焦々するふうが眸の底に光るのである。
「なんだ、あの虚無僧めは。……さっきから、吾々のほうをじっと見て、立ちどまっておる」
ふいに、咎めるように清十郎がつぶやくので、小次郎も振り顧って見たのである。清十郎が、うさん臭い眼をやって睨めつけたのは、もちろん、その時まで、ぼんやりと彼方に佇んでいた青木丹左で、丹左はそれと共に、背を向けて、とぼとぼと向うへ歩き出していた。
「岸柳どの」
そういうと、清十郎は何を思いだしたのか、突然、腰をあげていった。
「帰ろう。――どう考えても鷹狩などしている場合でない。きょうはもう年暮の二十九日、帰ろう、道場へ」
しかし小次郎のほうは、その焦躁を、また始まったといわないばかり冷笑して、
「折角、鷹をすえて来たのに、まだ山鳩一羽に、つぐみ二、三羽しか獲っていない。もすこし、山へ登ってみようじゃないか」
「よそう、気のすすまぬ時には、鷹も思うように飛ばぬものだ。……それよりは、道場へもどって、稽古だ、稽古だ」
独り語のようにいい捨てた語尾には、ふだんの清十郎とは違った熱があった。小次郎がいやなら、自分ひとりでも先へ帰りそうな様子であった。
「帰るなら一緒に帰る」
小次郎も、共に歩みだしたが、愉快ではない顔いろだった。
「清十郎どの、むりにおすすめして、悪かったな」
「なにを」
「きのうも、きょうも、鷹狩をすすめてあなたを連れ出したのは、この小次郎ですから」
「いや……ご好意は、よく分っている。……だが年暮ではあるし、貴公にも話した如く、宮本武蔵というものとの大事な試合も、目睫のまに近づいている場合ゆえ」
「わたくしは、それゆえに、あなたへ、鷹でも放って、悠々と、気を養うことをおすすめ申したわけだが、あなたのご気質では、それができないとみえる」
「だんだん噂をきくと、武蔵というものは、そう見くびれない敵らしいのじゃ」
「しからば、なおさらこちらは、迫らず、慌てず、心を練っておかねばなりますまい」
「なにも慌てているわけではないが、敵を侮るということは、兵法のもっとも誡めるところだ。試合までに十分、練磨をしておくのは当然じゃと拙者は思う。その上で、万一にも、敗れを取るようなことがあったとすれば、これは、最善を尽しての負けだ、実力の差だ、どうも致し方はないが……」
小次郎は、清十郎の正直さには好意を持てるが、気宇の小さなところが同時に見え透いて、これではとても、吉岡拳法の名声と、あの大きな道場とを、永くうけ継いで行ける器量ではない――と秘かに気の毒に感じるのだった。
(まだ、弟の伝七郎のほうが、ずっと線が太い)
と、思う。
だが、その弟と来ては、これは手のつけられない放縦で、腕は兄の清十郎よりも強いそうであるが、家名もへちまもない、いわゆる責任なしの次男坊にでき上っている。
小次郎は、その弟にも紹介はされたが、てんで肌合がぴったりしないし、かえってお互いに最初から妙な反感さえ抱いてしまった。
(この人は、正直だ、だが小心だ、助けてやろう)
こう考えたから小次郎は、わざと、鷹を持ち出して、武蔵との試合などは、念頭から忘れるように、わざと側から仕向けているのに、当の清十郎の身になると、そう悠然とは、構えていられないらしいのである。
――これから帰って大いに練磨するのだという。その真面目さはいいが、いったい、武蔵と会うまでに、これから幾日その練磨ができるのかと、小次郎は、訊きたい気がする。
(しかし、性分だ……)
こういうことは、助太刀にならないことを小次郎は痛感した。――で、黙々と帰り途につきかけると、今し方まで足もとにいた茶色の狩犬がいつのまにか見えない。
――わん、わんっ、わんっ。
遠くのほうで猛々しい啼き声がしているのだった。
「ア、なにか獲物を知らせているらしい」
小次郎は、そういって、ひとみを輝かしたが、清十郎は、いらざる犬の働きといわないばかりに、
「捨ててゆこう、捨ててゆけば、後から追いかけて来るだろうから」
「でも……」
惜しむように、小次郎は、
「ちょっと見て参るから、あなたはそこで待っていて下さい」
犬の声を目あてに、小次郎は駈けて行った。――見ると、七間四面の古びた阿弥陀堂の縁がわへ、狩犬は駈け上がっているのだった。そして、破れ果てた窓口の蔀へ向って、吠えては飛びかかり、躍っては転げ落ちたりして、そのあたりの丹塗の柱や壁ぶちを、めちゃめちゃに爪で掻きたてているではないか。
なにを嗅ぎつけてこう吠えついているのだろうか。小次郎は、猟犬の飛びかかっている窓とはべつな入口へ立った。
御堂の格子扉へ、彼は顔をよせてみた。中は漆壺をのぞくようでなにも見えない。ガラリッと、彼の手から扉を引く音がひびくと、犬は、尾を振って、小次郎の足もとへ跳って来た。
「――叱っ」
蹴とばしたが、犬は、気が立っていて、怯みもしない。
彼が御堂の中へ入ると、さッと、袂をくぐって、先へ駈けこんで行った。
と――すぐに。
小次郎の耳へつんざいて来たのは、思いもうけてもいなかった女の叫びである。それも凡々ならぬ驚きかたであって、精いっぱいの金切り声が、いきり立つ犬の声と、途端に、すさまじい闘いを捲き起し、御堂の梁もために裂けるかのように、人獣ふたいろの音響が、ぐわんぐわんと籠って鳴る。
「やっ?」
小次郎は、駈け寄った。その一瞬に、犬の猛っている目標のなんであったかも分ったし、また、必死に声をもって拒闘している女性のすがたも眼に映った。
紙衣蚊帳をかぶって、朱実は今も寝ていたのである。そこへ、猟犬の眼に見つけられた小猿が、窓から飛びこんで来て彼女のうしろへ隠れた。
犬は、小猿を追いつめて来て、朱実へ咬みつきそうにした。
――きゃッ。
と朱実が仰向けに転んだのと、もっと強い獣の悲鳴が、小次郎の足の先から発したのと、殆ど一緒で、間髪の差もなかった。
「――痛いッ、痛いッ」
泣くように、朱実はもがいた。犬の口は、大きく開いて、彼女の左の二の腕を咥えていた。
「くッ、これかッ」
小次郎が、二度目の足で、また犬の脾腹を蹴とばした。けれども、犬は彼の初めの一蹴りでもう死んでいたのであって、さらにまた蹴っても、朱実の腕をくわえている大きな口は離れなかった。
「――離してっ、離してえっ」
もがいている彼女の体の下から、小猿がぴょいと飛び出した。小次郎は、犬の上顎と下顎へ両の手をかけて、
「こいつめ」
ばりっと、膠を剥ぐような音がした。犬の顔は、もう少しで二つになるところでぶらついていた。それを、ぶーんと扉口から外へ投げやって、
「もういい」
と、朱実のそばへ坐ったが、彼女の二の腕は、決して、もういいどころの状態ではなかった。
真っ白な腕が、緋牡丹みたいに血しおを噴いている。――その白さと紅さに、小次郎はぶるると自分にまで、痛みと慄えを感じた。
「酒はないか、傷を洗う酒は。……いや、あるまいな、こんなところに、あるはずはない。ハテ、どうしたもの」
ぎゅっと、彼女の腕を抑えていると、熱い液体が、自分の手頸へも、さらさらとあふれて来るのだった。
「もしかして、犬の歯の毒でも受けたら、気狂いになってしまう。この間うちから、気狂いじみていた犬だ」
咄嗟の処置に迷いながら、小次郎がそう呟くと、朱実は、痛そうに眉をしかめ、白い頸を、うつつに反らしながら、
「えっ、気狂いに。……いっそのこともう、気狂いになりたい、気狂いに」
「ば、ばかな」
小次郎はいきなり顔をよせて、彼女の二の腕の血を口ですすった。口の中へ血がいっぱいになると吐きすてて、また、白い肌を頬張った。
たそがれになると、青木丹左は一日の托鉢からとぼとぼ帰って来た。
もう薄暗くなっている阿弥陀堂の扉を開けて、
「朱実、さびしかったろう。今もどって来たぞよ」
途中で求めて来た彼女の薬だの食べ物だの、油の壺などを隅へおいて、
「お待ち、今、明りを灯けてやるからの……」
しかし……明りが燈ると、彼の心は暗くなった。
「おや? ……どこへ行ったのじゃ、朱実、朱実」
彼女の姿は見えないのであった。
冷たいものに拒まれた自分だけの情愛が、むっと、やりばのない憤りに変って、彼は、眼のまえも世の中も暗くなった。その怒りがさめると、なんともいえない淋しさにとらわれて、丹左は、この先とも若くなりようはないし、栄誉も野心も持てないと決まっている、わが老いの身一つを見出して、泣きたいように顔をしかめた。
「ひとに助けられた上、あんなに世話になっておきながら、黙って出てゆくとは……アアやっぱり、それが世間なのかなあ……今の若い女はそうなのかなあ。……それとも、わしをまだ疑って?」
丹左は、愚痴ッぽくつぶやいて、彼女の寝ていた後を、猜疑な眼で見まわした。――見るとそこに、帯の端でも裂いたような小布が捨ててあった。その布にはすこし血がついている。丹左はよけいに邪推が働いて、ふしぎな嫉妬に駆られるのであった。
忌々しげに、彼は、藁の寝床を蹴とばした。買って来た薬も外へ打ち捨ててしまう。そして一日の行乞に胃は飢えぬいているのであったが、晩の食べ物を作りにかかる気力も失せたように、尺八を持って、
「あ、あ」
阿弥陀堂の縁へ出てゆく。
それからおよそ半刻ぐらいの間というもの、取り止めもなく、彼のふく尺八は、彼の煩悩を虚空へ遊ばせていた。人間の情慾は、墓場に入ってしまうまでは、形を変えても人体のどこかに、燐のように元素的な潜在をもっていることを、丹左のふく尺八は、虚空へ自白していた。
(どうせ、他の男性に、勝手にされてしまうあの娘の宿命なら、なにも自分だけが、姑息な道徳の通念にしばられて、一晩じゅう、寝ぐるしい思いなどしている必要はなかったのだ)
後悔に似たものだの、それを自分でいやしむ気持だの、雑多な感情が、帰着するところなく、血管のなかを、いたずらに駈けまわっているのが、いわゆる煩悩なのである。――丹左のふく尺八は、ひたすら、その感情の濁りから澄もうとする必死な反省であるらしいが、よくよく業のふかいこの男の生れ性とみえて、彼がむきになってかかる程には、その吹禅の竹は澄んで来なかった。
「虚無僧さん、なにが面白くて、今夜は独りで尺八をふいているのだえ? 町で、もらいが多くあって、酒でも買って来たなら、わしにもすこし、酔わせておくれぬか」
御堂の床下から、首を出してこういったお菰がある、そのいざりのお菰は、常に床下に住んでいて、自分の上で暮している丹左の生活を、王侯のように下から見て、羨ましがっている人間だった。
「お……おまえは知っているじゃろう。わしがゆうべ、ここへ連れて来ておいた女子は、どこへ行った?」
「あんな玉を、逃すなんて法があるものか。今朝、おめえが出てゆくと、大きな刀を背に負った前髪の若衆が小猿といっしょに、女子まで肩にかけて、連れて行ったわ」
「え、あの前髪が?」
「悪くない男ぶりだもの。……おめえや、おれよりは」
床下のいざりは、なにがおかしいのか、ひとりで笑っていた。
四条道場へ帰るとすぐ、
「おい、これを鷹部屋の止り木へ架けておけ」
門人の手へ、鷹をわたして、清十郎は草鞋を解いた。
はっきりと不機嫌な顔つきである。剃刀のように、体から刃が立っている。
門人たちは、お笠を、洗足水をと、その神経へ気をつかいながら、
「ご一緒に行った小次郎殿は?」
「後から帰るだろう」
「野駈けのうちに、迷れておしまいになったので」
「ひとを待たせておいて、いつまでも戻って来ぬゆえ、わし一人で、先へ帰って来たまでのことだ」
衣服をかえて、清十郎は居間へ坐った。
その居間の中庭を隔てて宏大な道場はあった。年暮の二十五日を稽古仕舞として、春の道場開きまで、そこは閉っていた。
千人ぢかい門人が、年中、出入りしている道場なので、そこに木剣のひびきがきこえないと、急に空家になったような感じだった。
「まだ帰らんか」
清十郎は幾度も、居間の中から門人へたずねた。
「まだお帰りになりませぬが」
小次郎が戻って見えたら、きょうは彼を稽古台として、またやがて出会う武蔵とも見做して、みっちり鍛錬しておこう。――そう考えて、清十郎は待っていたが、夕方になっても、夜になっても、遂に小次郎は姿を見せなかった。
翌る日も帰らない。
年暮の日は、最後まで押しつまって来た。今年も、きょう一日しかないという大晦日の昼。
「どうしてくれるんだ」
吉岡家の表部屋へは、掛取が市をなして、押しかけていた。頭のひくい町人が、堪忍をやぶって、呶鳴っているのである。
「用人が留守だ、主人が留守だといえば、それで済むと思うてござるのか」
「何十遍、足を通わせるつもりなのだ」
「この半期の勘定だけなら、先代のごひいきもあったお屋敷ゆえ、黙っても退きさがろうが、この盆の勘定も、前の年の分も、この通りじゃわ」
と、帳面をたたいて突きつける男もある。
出入りの大工、左官、日用品の米屋、酒屋、呉服屋、それからあちこちと、清十郎が、遊興して歩きちらした茶屋小屋の勘定取。
そんなのは、まだまだ小口のほうで、弟の伝七郎が兄に計らず、勝手に現金で借りた利のたかい借財もあった。
「清十郎殿に会わせてもらいましょう。門人衆では、埒があかん」
坐りこんで、動かないものだけでも、四、五名はある。
平常、道場の会計や、また奥向きの経済のやりくりは、祇園藤次が用人役として、切り盛りしていたのであるが、そのかんじんな藤次は数日前に、旅先で寄せた金を持ったまま、「よもぎの寮」のお甲と逐電してしまった。
門人達にはどうしていいかわからない。
清十郎はただ、
「留守と申せ」
の一点張りで、奥にかくれたままでいるし、弟の伝七郎は、勿論、大晦日などという物騒な日に、家へ寄りつくはずもなかった。
どやどやと、そこへ六、七名の肩で風を切って歩く連中が入って来た。吉岡門の十傑と自称している植田良平やその門人達である。
掛取たちを睨めまわして、
「なんだ? おい」
良平が、そこへ突っ立って、頭からいうのである。
断りに当っていた門人が、説明するまでもない顔つきで、簡単にわけを告げると、
「なアんだ、借金取か。借金ならば、払えばよいのだろう。ご当家の都合のよろしくなる時まで待て。待てないやつは、おれが別に話の仕方があるから、道場のほうへ来い」
植田良平の乱暴ないいぐさに、掛取の町人も、むっと色をなした。
ご当家の都合よくなるまで待てとはなんだ。なおその上、待てない奴はべつに話をつけてやるから道場のほうへ来いとはなんだ。かりそめにも、室町将軍家の兵法所出仕という先代の信用があればこそ、頭を下げ、ご機嫌を取り、品物も貸し、何も貸し、あした参れといわれればヘイ、あさって来いといわれればヘイ、なんでもヘイヘイして、先はお屋敷と奉っていれば、つけ上がるにも程がある。そんな文句に恐れて、掛取が引き退がっていた日には、町人は生きてはゆかれない、町人がなくて、侍だけでこの世の中が持ってゆけるものなら持ってみろ、という反感が、当然、掛取たちの頭を燃やした。
良平は、がやがや首をあつめている町人たちを、木偶坊のように見て、
「さあ、帰れ帰れ、いつまでいても、無駄だぞ」
町人たちは、黙ったが、動こうとはしなかった。
すると、良平が、
「おい、つまみ出せ」
門人の一人へいったので、怺えていた掛取も、もう我慢ができないといったふうに、
「旦那、それじゃ余りひどいじゃありませんか」
「なにがひどい」
「なにがって、そんな無茶な」
「だれが無茶をいった」
「つまみ出せとはなんぼなんでも」
「しからば、なぜ神妙に帰らんか、きょうは大晦日だぞ」
「ですから、手前どもだって、年の瀬が越えられるかどうかっていうところで、一生懸命にお願い申しているんで」
「ご当家もいそがしい」
「そんな断り方があるものか」
「貴様、不服か」
「勘定をお下げくださりさえすれば、なにも文句はありません」
「ちょっと来い」
「ど、どこで」
「不埒なやつだ」
「そ、そんな馬鹿な」
「馬鹿といったな」
「旦那へいったわけじゃありません、無法だといったんで」
「だまれっ」
襟がみをつかんで良平は、その男を側玄関の外へ抛り出した。そこに立っていた掛取たちは、あわてて飛び退いたが、逃げおくれて、二人ほど折り重なって仆れた。
「誰だ、ほかに苦情のいいたい奴は。些細な勘定をたてにとり、吉岡家の表へ坐りこむなどとは沙汰の限り。おれがゆるさん、若先生が払うといっても、おれは払わさん。さ一人一人、頭を出せ」
町人たちは、彼の拳を見て、われがちに腰を上げた。しかし門の外へ逃げ出ると、腕に力を持たないだけに、口を極めて、罵った。
「今に――この門へ、売家の札が貼られたら、手をたたいて、嘲ってくれようぞ」
「遠くないうちだろうて」
「わしらの思いだけでも」
そんな怨嗟を、門の外に聞きながら、良平は屋敷の中で、腹をかかえて笑っていた。そして、他の連中と共に、奥の清十郎の居間へ入って行った。
清十郎は、沈湎として、独りで火桶をかかえていた。
「若先生、ひどくお静かですな。どうかいたしたので」
良平が訊ねると、
「いや、どうもせぬ」
股肱とたのむ門人中の門人が、六、七名もそろって来たので、清十郎はやや顔いろを直して、
「いよいよ、日が迫ったの」
「迫りました。その儀につき、一同して参りましたが、武蔵へいい渡す試合の場所、日時、あれは、どういうことに決めますかな」
「さよう? ……」
清十郎は考え込む。
かねて、武蔵から来ている書面には、試合の場所や日どりは、そちらに一任するから、その旨を、一月の初めまでに、五条大橋のほとりへ高札しておいてもらいたいとある。
「場所だな、まず」
清十郎はつぶやくようにいって――
「洛北の蓮台寺野はどうだろう」
と、一同へ計った。
「いいでしょう。して、日どりと時刻は」
「松の内か、松の内を過ぎてとするか……だが」
「はやいがよいと思います。武蔵めが、卑怯な策をめぐらさぬ間に」
「では、八日は」
「八日ですか。八日はよいでしょう。先師の御命日ですから」
「あ、父の命日になるか、それは止そう。……九日の朝――卯の下刻、そうきめる、そういたそう」
「では、その通りに、高札に認め、こよい除夜のうちに、五条大橋のたもとへ打ち立てますか」
「うむ……」
「お覚悟は、よろしゅうございましょうな」
「もとよりのこと」
そういわざるを得ない清十郎の立場となった。
だが、武蔵に負けようなどとは、思いもよらない。父拳法に手を取って教えこまれた幼少からの技倆は、ここにいる高弟の誰といつ試合っても、劣った例はない。ましてや、まだ駆け出しの田舎兵法者である武蔵如きに――と、彼は自負しているのであった。
――にも関わらず、なんとなく、先頃からふと怯みを感じたり、心の整いがつかないのは、自分が、兵法の研磨を怠っているためではなく、身辺の雑事に煩わされているためと、彼自身も解釈している。
朱実のことが、その一つの原因というよりは最も多く、あの後では、彼の気もちを不愉快にしていたし、武蔵からの挑戦状で、あわてて京都へ帰ってみれば、祇園藤次が逐電してしまうやら、また家政の癌はこの年暮へ来ていよいよ重体なもようとなり、日々、掛取に押しかけられるようで――清十郎の心は、心構えを持つ遑がない。
ひそかに、頼みにしていた佐々木小次郎も、ここへ来て、顔を見せなくなってしまった。弟の伝七郎も寄りつかないのである。彼は、もとより武蔵との試合に、自分以外の助太刀を必要とするほど敵を大きく見てはいないが、それにしても、今年の年暮はさびしい気がしないでいられなかった。
「ご覧ください。これでよかろうと思いますが」
植田良平たちが、別室から、新しく削った白木の板へ、高札に立てる文言を書いて来て、彼の前へ示した。――見ると、まだ水々と墨は濡れていて、
答示
一つ、望みに依り試合申す事
場所、洛北蓮台寺野
日時、正月九日卯の下刻
右神文にかけて誓約候事
万一、相手方の者、違えあるに於ては、世間へ向ってわらい申す可、当方に違えある時は、即ち、神罰をうくるものなり
慶長九年除夜
「ム、よかろう」一つ、望みに依り試合申す事
場所、洛北蓮台寺野
日時、正月九日卯の下刻
右神文にかけて誓約候事
万一、相手方の者、違えあるに於ては、世間へ向ってわらい申す可、当方に違えある時は、即ち、神罰をうくるものなり
慶長九年除夜
平安 吉岡拳法二代清十郎
作州牢人宮本武蔵殿初めて肚がすわったのであろう、清十郎は大きくうなずいた。
その高札を小脇に持って、植田良平は、二、三の者を後に連れ宵の大晦日を、五条大橋のほうへ、大股に歩いて行った。
吉田山の下である。ここらの横には小扶持を取って、生涯変哲もなく暮している公卿侍の住居が多かった。
ちまちました屋造りや、素朴な小門などが、外から見てもすぐそれと分るほど極めて保守的な階級色を持って、ただ無事に並んでいた。
武蔵は、
(ここでもない。ここでも……)
と次から次の家の門札の名を見てゆきながら、
(もう住んでいないのかもしれぬ?)
と、捜す力を失ったように佇んでしまった。
父の無二斎が死んだ時に会ったきりの叔母であるから、彼の記憶は少年の頃の遠いうろ覚えにすぎなかった。――でも、姉のお吟のほかに血縁といえば、その叔母ぐらいな者しかないので、きのうこの京都へ足を入れると、ふと思い出して訪ねてみたのである。
叔母の良人は、近衛家に勤めていて、禄のひくい小侍だと覚えている。吉田山の下ですぐ知れるかと思って来たところが、来てみると、同じような家構えがたくさんあって、家の小さい割にみな木立の奥に、蝸牛のように門を閉め、門札も出ている家もあり、ない家もあるという有様なので、知れ難いし、訊くにも訊き難い。
(もう、変っているに違いない。よそう)
武蔵は、あきらめて、町のほうへ戻りかけた。町の空には、夕靄がこめて、その靄が、年の市の灯りでうす赤く見えるのだった。
大晦日の夕ぐれである。どことなく騒音のある洛内だった、すこし人通りの多い往来へ出ると、人間の眼も、跫どりも、違っている。
「あ……?」
武蔵は、すれ違った一人の婦人へ振り顧っていた。もう七年も八年も見ない叔母であるが、たしかに、母方の播州佐用郷から都へ嫁づいたというその女にちがいない。
「似ている」
とはすぐ思ったが、でも念のため、しばらく後へ尾いて行きながら注意していると、四十ぢかい小がらなその婦人は、年の市の買物を胸にかかえ、先刻、武蔵がさんざん家をさがして歩いた淋しい横道へ曲ってゆく。
「叔母御」
武蔵が呼ぶと、その婦人は、怪訝な顔して、しばらく彼の顔やすがたをまじまじ眺めていたが、やがて非常な驚きを、常々の無事と小さな家計に狎れて年のわりに萎びているその眼もとへ現わし、
「あっ、そなたは、無二斎の子の武蔵じゃないか」
少年の頃から初めて会うこの叔母に、たけぞうと呼ばれないで武蔵といわれたのは、案外でもあったが、それよりはなにかしらさびしい気がして、
「はい、新免家のたけぞうでございます」
武蔵のほうからいうと、叔母は彼のそういう姿を、ながめ廻すだけで、まあ大きくなったことだとも、見ちがえるほど変ったとも、いわなかった。
ただ冷やかに、
「そして、そなたは、なにしにここへ来やったのか」
と、むしろ難詰るようなことばでいう。武蔵は、はやく別れた生みの母になんの記憶もなかった。だがこの叔母と、こうして話していると、自分の母も、生きていた頃は、このくらいな背丈の人であったろうか、こういう声の人であったろうか――と目もとや髪の先にまで、亡き母の面影をこころの裡で求めていた。
「べつに、なんの用事があってという次第ではございませぬが、京都へ参りましたことゆえ、ふとおなつかしゅう存じまして」
「うちを訪ねて来やったのか」
「はい、突然ながら」
すると叔母は、
「やめたがよい、もうここで会えば、用がすんだであろ。帰りゃ、帰りゃ」
と、手を振るのだった。
これが、何年ぶりかで会った叔母の、血につながる者へのことばか。
武蔵は、他人以上の冷たさを、心へ浴びた。亡母の次の人みたいに甘えて来た世間知らずが、はっと、悔いられるとともに、思わずいった。
「叔母御、それはまた、なぜですか。帰れとなら、帰りもしましょうが。道ばたで会った途端に、帰れとは、解せぬ仰せ。私に何かお叱りがあるならば、打ちつけにいって下さい」
そう突っ込まれると叔母は困ったように、
「では、ちょっと上がって、叔父様に会って行きゃれ。ただ……叔父様は、あのようなおひとゆえ、久しぶりに訪ねて来たそなたがまた、落胆しても折角と思うての老婆心じゃ。気を悪うしやんな」
そういわれると、武蔵はいくらか慰められ、叔母について、家へ入った。
ふすま越しに、やがて叔父の松尾要人の声がする。喘息病みらしい咳声と、感激のない呟きを聞くと、武蔵はまた、ここの家庭の持つ冷たい壁を感じて、隣の部屋でもじもじしていた。
「なに、無二斎の息子の武蔵が来たと? ……やれ、到頭来おッたか。……して、どうした、なんじゃ、上がっておると。なぜわしに黙って上へ通しなすったか、ふつつか者め」
武蔵は耐えかねて、叔母をよび、早々、暇を告げようとすると、
「そこにいるのか」
要人は、そこを開けて、閾ごしに眉をひそめた。畳の上へ牛の草鞋でも上げたように、穢い田舎者と、見ている眼だった。
「おまえ、なにしに来た」
「ついでがありましたゆえ、ご機嫌をうかがいに出ました」
「うそをいいなさい」
「え?」
「うそをいっても、こちらには、分っている。おまえは、郷里を荒らし抜いて、多くの人に恨みをうけ、家名にも、泥をぬって、逐電している身じゃろうが」
「…………」
「どの面下げて、親類などへ、のめのめと」
「恐れ入りました、今に、祖先へも郷土へも、詫びをするつもりではおりますなれど」
「……なれど、今さら、国許へも帰れぬのであろうが、悪因悪果というもの、無二斎どのも、地下で泣いておろうわい」
「……長座いたしました。叔母御、お暇いたします」
「待たぬか、これ」
要人は、叱って、
「この辺をうろうろしていると、おまえは飛んでもない目に遭うぞ。なぜなれば、あの本位田家の隠居――お杉とやらいう肯かぬ気の婆どのが――半年ほど前に一度見え、また、先頃からも度々やって来て、わしら夫婦へ、武蔵の居どころを教えろの、武蔵が訪ねて来たろうのと、恐ろしい権まくで坐りこむのじゃ」
「あっ、あの婆が、ここへも参りましたか」
「わしは、あの隠居から、すべてを聞いておる。血縁の者でなければ、ひッ縛って、婆の手へわたしてくれるのじゃが、それもなるまい。……わしら夫婦にまで、迷惑をかけぬよう、すこし足でも休めたら、こよいのうちに、立ったがよい」
心外である。この叔父叔母は、お杉の認識をそのままうけて自分を見ているのだ。武蔵は、いい知れない淋しさと、生来の口重い気質に暗くなって、ただうつ向いていた。
さすがに気の毒になったとみえ、叔母は、あちらの部屋へ行ってすこし休めという。それが最大な好意らしくあった。武蔵は黙ってそこを立ち、一間へ入ると、数日来のつかれもあるし、また、夜が明けてあしたの元日には――五条大橋の誓いもあるので、すぐごろりと横になって、刀を抱いた。――いや飽くまでこの世は自分の身ひとつと思う孤独を抱きしめている姿だった。
世辞もなく、わざと辛く、ずけずけとものをいうのも、血縁の叔母なればこそ叔父なればこそ――そう考えられぬこともない。
一時は、憤っとして、門に唾して去ろうとまで思ったが、武蔵は、そう解釈して、寝ころんでいた。かぞえても幾人もない親類である。努めて、その人達をば、善意に解して、他人よりも濃く血のつながっている縁者として、生涯、なんぞの時には、助けたり助けられたりして行きたいものと、彼のみは、思うのだった。
だが武蔵のそんな考え方は、実世間を知らない彼の感傷に過ぎない。若いというよりも、幼稚なほど彼はまだ、人間を観る目も、世の中を観る目も、そういう方にかけては、知ることの浅い青年に過ぎなかった。
彼のような考えは、彼が大いに名を成すか、富を得るかした後に考えるならば、少しも不当にはならないが、この寒空を、垢じみた旅着一枚で、しかも大晦日――辿りついた親戚の家で考えたりすることではない。
その考えの間違っていた反証はやがてすぐ現われた。
(すこし休んでゆけ)
と、叔母がいってくれたことばを力にして、彼は、空腹をかかえて待っていたが、宵から勝手元で煮物のにおいや器物の音がしていたにもかかわらず、彼の部屋にはなんの訪れもないのである。
火桶の中には、蛍ほどな火の気しかなかった。だが、飢えも寒さも第二のものだった。彼は手枕のまま二刻あまり、昏々と眠っていた。
「……あ、除夜の鐘だ」
無意識に、がばと身を起した時、数日来の疲れは洗われていて、彼の頭脳は冴え切っていた。
洛内洛外の寺院の鐘が、いんいんと、無明から有明のさかいへ鳴っていた。
諸行煩悩の百八つの鐘は、人をして一年のあらゆる諸行へ反省を呼び起させる。
――おれは正しかった。
――おれは為すことを為した。
――おれは悔いない。
そういう人間が何人あるだろうかと武蔵は思った。
一鐘の鳴るごとに、武蔵は、悔いのみを揺すぶられた。ひしひしと後悔されることばかりへ追憶がゆくのである。
今年ばかりではない。――去年、おととし、先おととし、いつの年自分自身で恥じない月日を一年送った例があるだろうか。悔いない一日があったろうか。
なにか、やるそばから、人間はすぐ悔いる者らしい。生涯の妻を持つことにおいてさえ、男の大多数は悔いて及ばない悔いを皆ひきずっている。女が悔いるのはまだ恕せる、ところが、女の愚痴はあまり聞えないが、男の愚痴がしばしば聞える。勇壮活溌なことばをもって、うちの女房を穿き捨て下駄のようにいうのである。泣いていうよりも悲壮で醜い。
まだ妻はないが、武蔵にも通有性の悔いがある、煩悩がある、彼はすでに、この家を訪ねて来たことを後悔するのだった。
(おれにはまだ、縁を恃む気持が失せない。自力だ、一人だと、常に誡めながら、ふと人に依りかかる。……馬鹿だ、浅慮だ、おれはまだ成っていない)
慚愧すると、その慚愧している自分のすがたがまた、いとど醜しく思われて、武蔵はよけいに自分への恥に打たれた。
「そうだ、書いておこう」
なにを思いついたか、彼は常住坐臥、肌身を離さずに持ち歩いている武者修行風呂敷を解きはじめた。
――その頃、この家の門の外に立って、ほとほとと、そこを叩いている旅扮装いの老婆があった。
半紙を四つ折にかさねて綴じた彼の雑記帖なのである。武蔵はそれを、旅包みの中から出して、早速、硯箱をひきよせた。
それには、彼が漂泊のあいだに拾った感想だの、禅語だの、地理の覚えだの、自誡のことばだの、また、ところどころには幼稚な写生画なども書いてあった。
「…………」
筆を持って、彼は余白を見つめていた。百八つの鐘はまだ遠く近く鳴りつづけている。
われ何事にも悔いまじ
武蔵は、そう書いた。自己の弱点を見出すごとに、彼は自誡のことばを一つ書いた。だが、書いただけではなんの意味もなさない。朝暮に経文のように唱えて胸へ刻みこむのでなければならない。従って、辞句も詩のように口で唱え易いことが必要であった。
そのためか、彼は、苦吟して、
われ何事にも……
という修辞を、
われ事において
と書き改めた。「われ事において悔いまじ――」
口のうちで呟いてみたが、武蔵は、まだ自分の心にぴったりしないものか、終りの文字もまた消してしまい、こう改めて、筆を投じた。
われ事において後悔せず
最初のは「悔いまじ」であったが、それではまだ弱いと考えられたのである。「――せず」でなければならない――われ事において後悔せず!
「よし」
武蔵は、満足した、そして胸に誓った。何事にも自分の為したことに後悔はしないというような高い境地へまで到達するには、まだまだこの身を、この心を、不断に鍛え抜かなければ及びもない望みとは思うのであったが、
(必ずそこまで行き着いてみせる)
と、彼は自分の胸の遠いところへ、理想の杭を打って、堅く信念するのだった。
――折ふし、うしろの障子が開いて、寒げな叔母の顔がそこを覗き、
「武蔵……」
と、歯の根で呟くようにふるえを帯びた声でいう。
「虫の知らせじゃ、なんとのう、そなたを止めておくのは気がかりと思うていたら、案のじょう、時も時、今、本位田家のお杉隠居が門をたたき、玄関に脱いであるそなたの草鞋を見つけて、武蔵が訪うて来たであろう、武蔵をこれへ出しやれといい猛って……オオここへも聞えてくるわ、あの通りな厳談じゃ。――武蔵、なんとしやるぞ」
「……え、お杉婆が」
耳を澄ますと、なるほど、いつも変らない切口上と、きかない気の隠居の皺がれ声が、木枯らしの洩るように響いてくる。
叔母は、もう除夜の鐘もすんで、これから若水でも汲もうという元日早々、もし忌わしい血でも見るようなことになってはと、いかにも迷惑そうな顔を、露骨に武蔵へ見せつけながら、
「逃げておくれ、武蔵、逃げるのがなにより無事。今――叔父様が応対して、左様な者は立ち寄った覚えはないと、ああして婆を阻んでおいでなさる程に、その間に、裏口からでも――」
追い立てて、彼の荷物や笠を自分で持ち、叔父の革足袋と、一そくの草鞋を裏口へ置いてくれた。
武蔵は、急かれるままに、それを穿いたが、いい難そうに、
「叔母御、まことにご無心ですが、茶漬を一膳食べさせてくれませんか。――実は、宵から空腹なので」
すると叔母は、
「何をいいやる、それどころの場合かいの、さ、さ、これでも持って早よう行きゃれ」
白紙にのせて持って来たのは、五つほどの切餅だった。武蔵は押しいただいて、
「ご機嫌よう……」
凍てついている氷の道を踏んで、もう元日ではあるが、まだ真っ暗な天地の中へ、毛をられた寒鳥のように、悄々と出て行った。
髪の毛も、指の爪も、みな凍ってしまうかと思われた。ただ自分の吐く息のみが白く見え、その息もまた、口のまわりの生ぶ毛にたかるとすぐ霜に化るかと疑われるほど冷たいのである。
「寒い」
彼は思わず口に出していった。八寒の地獄といえどもかほどではあるまいに、どうしてこう寒く感じるのか――今朝に限って。
(身よりも、心がさむいせいだろう)
武蔵は、自分の問に自分で答えてみる。
そしてなお思うには、
(そもそもおれは未練者だ。ともすると、人肌を恋う嬰児のような、乳くさい感傷に恋々と心を揺すられ、孤独をさびしがり、暖かそうな人の家庭の灯が羨ましくなる。なんたるさもしい心だろう。なぜ、自分に与えられたこの孤独と漂泊に、感謝を持ち、理想を持ち、誇りを持たないか)
痛いほど凍えていた彼の足は、指先まで熱くなっていた。闇に吐く白い息も、湯気のような迫力で寒さを押し退けている。
(――理想のない漂泊者、感謝のない孤独、それは乞食の生涯だ。西行法師と乞食とのちがいは、心にそれがあるかないかの違いでしかない)
みしっと、足の裏から白い光が走った。見ると、薄氷を踏んでいるのだった。いつの間にか、彼は河原に降り、加茂川の東岸を歩いていたのである。
水も空も、まだ暗澹として、夜明けの気ぶりも見えない。流れのふちだと気がつくと、急に足が出なくなった。今までは鼻を抓まれても分らないような厚ぼったい闇を、吉田山の下からここまでなんの苦もなく歩けて来たのであったが――
「そうだ、火でも焚いて」
堤の蔭へ寄って、武蔵は、そこらの枯れ枝や木片れや、燃えそうな物をあつめた。燧打石を磨って、小さな炎とするまでには、実に克明な丹精と辛抱が要るのだった。
やっと、枯れ草に炎がついた。その上へ、積木細工のように、大事に燃える物を組んでゆく。或る火力にまで達しると、急に育ち上がった炎は、こんどは風を呼び、火を作った人間へ向って、ぐわうっと顔でも焼きそうに背伸びしてかかってくる。
ふところから餅を出して、武蔵は、それを焚火であぶった。焦げて、ぷーと膨らむ餅を見ていると、またしても、彼は少年の頃の正月を思い出し、家なき子の感傷が、泡つぶみたいに、心のうえで明滅する。
「…………」
塩気もない、甘味もない、ただ餅だけの味だった。しかしこの餅の中に、彼は世間というものの味を噛みしめるのだった。
「……おれの正月だ」
焚火の炎に面を焼きながら、餅を頬張っている彼の顔には、何か急に独りでおかしくなったような笑靨が二つ浮いていた。
「いい正月だな、おれのような者にも、五つ切れの餅を授かったところを見ると、天は誰へも、正月だけはさせてくれるものとみえる。――屠蘇は満々と流れている加茂の水、門松は東山三十六峰。どれ、身を浄めて、初日の出を待とうか」
流れの瀬へ寄って、彼は帯を解いた。衣服も肌着も、すべて脱ぎすてて、どぼっと水の中へ体を沈め込んだのである。
水禽が暴れているように飛沫を立てて全身を洗い、やがて皮膚をぎゅっぎゅっと拭いているうちに、彼の背なかへ、雲を破った暁の光がかすかに映して来た。
――と、その時、河原に燃え残っている焚火の明りを見て、堤のうえに立った人影がある。これも、すがたこそ、年齢こそ、まるでちがうが、やはり輪廻にうごかされる旅の人、本位田家のお杉隠居であった。
いたわ、小僧めが。
お杉婆は、胸のうちで、こう高く喚いた。
欣しさやら、恐さやら、張りつめていた心がみだれて、
「おのれっ」
と、焦心りたがる気持と、がくがくわななく体力とが、とたんに一致を欠いてしまって、思わず堤の小松の蔭へ、ぺたっと坐ってしまったのである。
「欣しや、やっと巡り会うたぞやい。これも、つい先のころ、住吉の浦で不慮の死を遂げなされた権叔父の霊のひきあわせでがなあろう」
婆は、その権叔父の骨の一片と髪の毛とを、今も、腰に結いつけてある旅包みの中へ納め、常に肌身につけて歩きながら、
(権叔父よ、たといおぬしは死のうとも、わし一人とは思わぬぞよ、武蔵とお通を成敗せぬうちは、故郷の土は誓って踏まぬと、ともども、旅へ出た二人じゃほどにの。――おぬしは死んでも、おぬしの魂魄はこの婆の肩から離れはなさるまい。婆もまた、いつもおぬしと二人連れで歩いているものと思うて、きっと、武蔵を討たいでは措かぬから、見ていなされや、草葉の蔭から――)
婆は、朝念暮念、そのことばをいい暮して――といってもまだ――権叔父が骨になってから七日ほどにしかならないが、その一心を自分も骨になるまでは、失うことではないと胆に抉ぐって、さて、この数日というものを、まるで鬼子母神のような血相になり、遂に、武蔵のすがたを突き止めて来たのであった。
――ちらっと、最初に耳にした手がかりは、吉岡清十郎と武蔵との間に、近日、試合があるらしいという巷のうわさ。
次にはきのうの夕方――五条大橋の大晦日の人だかりのなかで、その吉岡門の者が、三、四名して打ち建てて去った高札の表である。
あの文字を、お杉は、どんなに興奮した眼をもって何度も読んだことか。
(大それた武蔵めがよ、身のほど知らずも、ここまで来ればよい愛嬌。吉岡に討たれることは知れているが、それでは、国許へ公言して出て来たこの婆が面目がないわいの。どうあろうと、吉岡に討たるる前に、武蔵は、婆が手にかけ、あの洟たれ首の髻つかんで、故郷の衆に見せにゃならぬ)
躍起となった。
心には祖先神仏の加護をいのり、身には権叔父の白骨を結いつけて、
(やわか草木を分けても捜し出さずにおこうか)
と、またぞろ、松尾要人の門を叩き、そこでさんざん毒づいたり詮議立てした結果が、却って、がっかりしたものを負わされて、今――この二条河原の堤まで戻りかけて来たところであった。
ボウと河原の下が明るいので、お菰が火でも焚いているのかと思いながら、なんの気もなく堤に立って見たのである。すると、燃え残っている焚火から十間ほど先の水際に、素裸の男が、この寒さも知らないように、水浴びから上がった。逞しい筋肉を拭いている。
(武蔵!)
と見極めると、婆は、腰をついたきりしばらく立てなかった。相手は今、素裸でいるのだ。駈け寄って行って斬りつけるにはまたとない機会であるのに、この老婆のしなびている心臓は、それをなし得ないで、年齢とともに複雑になっている感情の昂ぶりが先に立ち、もう武蔵の首でも取ったように、
「うれしや、神の御加護か、御仏のひきあわせか、ここで武蔵めに会うとは、よも凡事であろうはずはない。日頃の信心が通じて、婆の手で、神仏が仇を討たせてたもるのじゃ」
と、掌をあわせて、幾度も、空を拝しているというような、いとも悠々たる老婆らしいところも、この老婆にはあるのだった。
河原の石の一つ一つが、暁の光に濡れて浮きあがってくる。
沐浴した五体に、衣服を着、かたく締めた帯に、大小をたばさむと、武蔵は、膝まずいて、天地へ黙然と頭を下げていた。
お杉婆は、
「今っ」
と、気は逸ったが、武蔵がその時、河原の水溜りを跳びこえ、急にかなたへあゆみ出したため、遠方から声をかけては逃がすおそれがあると、あわてて同じ方角に向って堤の上を歩み出した。
白々と、元日の町の屋根や橋は、初霞の底から和やかな線をぼかしはじめたが、まだ空には星がよく見えるし、東山一帯のふところは、墨のような暁闇だった。
三条仮橋の下をくぐると、武蔵は河原から堤の上へ姿を現わし、大股に歩き出している。
婆は、
(武蔵待とう)
何度か、呼ぼうとしては、相手の隙とか、距離とか、さまざまな条件を老婆らしく緻密に考え、数町の間、引き摺られるように歩いてしまった。
武蔵は知っていた。
先ほどから疾くそれと知っていたので、彼はわざと振向かなかった。振向いて、眼と眼が、かち合ったら、その途端、お杉が選ぶ行動は分っているし、老婆とはいえ、切れ物と死に物狂いで来る以上、こちらが怪我をしない程度のあしらいは酬いなければならない。
(恐い相手だ)
と、武蔵は心から思うのだった。
村にいたころのたけぞうなら、すぐ撲り倒して撃退するか、血へどを吐かせて伸ばしてしまうであろう。だが今では、そういう気にはなれない。
恨みはこちらの方にこそあるので、婆が自分を七生までの仇かのように狙っているのは、まったく、感情と誤解のこぐらかりに因づくので、それを解けばわかるのだ。しかし、自分の口からいったのでは、百万遍説いたにせよ、
(そうか、そうじゃッたか)
と、あの婆が、あれほど瘤にして持っている宿怨をわすれて、水にながすはずはない。
――だが、いかなお杉婆でも、息子の又八自身の口から、関ヶ原へ出かけた前後の二人の事情と、すべてのいきさつを懇ろに諭されたら、それでもなお、自分を本位田家の仇とはよもいいきれまい、また息子の嫁を横奪りして逃げた曲者ともまさか怨むまい。
(よい折りだ、その又八に、会わせてやろう。――五条まで行けば、今朝は、彼が先へ来て待っているかも知れない)
武蔵は、自分の言伝てした約束が、彼に通じているものと信じていた。従って、五条大橋まで行けば、この老婆とあの息子とが会って、その間に誤解されている自分の立場も、そこで初めて、諄々と説いて氷解させることが出来ようと考えている。
その五条大橋のたもとは、もうすぐそこに近づいていた。小松殿の薔薇園だの平相国入道の館だのが甍をならべていた平家繁昌の頃から、このあたりは民家も人通りも多い中心で、戦国以後もその旧態を残しているが、まだどこの家も戸は開いていなかった。
大晦日の宵のうちに、きれいに掃いた箒目が、まだ眠っている家々の門口に、そのまま浮いて、ほのかに白んでくる元日の光を徐々に迎えている。
武蔵の大きな足痕を、お杉婆は後から見た。
足痕さえ憎かった。
もう橋の袂までは、一町か、半町。
「――武蔵っ!」
お杉はさけんだ。喉の痰を切ったような声である。両手に拳をこしらえて、首を前へ突き出しながら駈け寄って行った。
「そこへ行く人非人よッ、耳は持たぬのかっ」
当然、武蔵にそれが聞えていないわけはない。
老いさらぼうた老婆とはいえ、死を覚悟した跫音もすさまじい。
背を向けたまま、武蔵は歩いていたが、
(はて、困ったもの)
どうしたものかの思案が咄嗟に出なかったのである。
その間に、
「やれ、お待ちやれ」
婆は、武蔵の前へ廻った。
前へ廻ってからお杉婆は、尖った肩や薄い肋骨を波のように喘がせて、喘息でも起った時のように、しばらく、口に唾を溜めて息を休ませているのだった。
やむを得ない顔して、武蔵も遂にことばをかけた。
「おお、本位田のおばば殿か、めずらしいところで」
「ても、厚顔ましい。めずらしやとは、わしの方でいうことば。清水の三年坂では、まんまと、討ち洩らしたが、きょうこそ、その素首は、この婆がもろうたぞ」
軍鶏のように細ッこい皺首が、背の高い武蔵へ向って伸び上がっていうのだった。逞しい豪傑が憤怒するよりも、この婆が根の剥けている前歯を吹き飛ばしそうにして叫ぶ声のほうが、武蔵は、怖い気持がした。
その恐い気持のうちには、少年時分の先入主が多分にあった。又八も青洟を垂らし、武蔵もまだ八ツか九ツ頃の悪戯ざかりの当時、村の桑畑や本位田家の台所などで、この老婆に、
(童ッ)と一声呶鳴られると臍がもんどり打ったように、縮み上がって逃げたものである。
その雷声が、武蔵の頭のしんに今もどこかに沁みこんでいるらしいのである。もとより子供の頃から、好かない婆、つむじ曲りな婆、また、関ヶ原から村へ帰った後にうけた仕打の憎さは、いちいち骨髄に徹しているが、由来この婆には、勝てないものという幼い時からの癖がついているので、時経てば、あの時の無念さも、さほどではなくなっていた。
それに反して、お杉は、幼少の時から見ている悪戯小僧のたけぞうがどうしても頭から離れない。しらくも頭で洟垂れの畸形児みたいに手脚ばかりヒョロ長かった嬰児の時から知っている武蔵である。――自分が老いて、彼が成長した事実は認めても、昔から餓鬼あつかいに見ていた観念は毫も取れない。
その餓鬼に、こうされると思うと、お杉は、郷土の者に対する大義名分ばかりでなく、感情だけでも、このまま土に化ることはできなかった。武蔵を墓場へ抱きこんで行こうということは、生きている今の最大な望みとなった。
「もう、改めて、何もいうことはないぞえ。尋常に、首渡すか、婆が一念の刃を、受けてみるか、武蔵ッ、支度しやいっ」
婆は、そういって、手に唾するのか、左手の指を唇へちょっと当て、短い脇差の柄へその手をかけてつめ寄った。
龍車にむかう蟷螂の斧ということばがある。お杉隠居のように痩せこけているかまきりという秋の虫が、鎌に似た細い脛をカチャカチャ鳴らして、人間へ斬ってかかる態を嘲っていうことばなのである。
お杉の眼つきは、そのかまきりの血相に似ていた。いや、皮膚の色、姿までが、そっくりだった。
ぬっと突き立って、婆のつめ寄る足もとを、児戯のように見ている武蔵の肩や胸は、さながらそれを嘲う鉄の龍車といっていい。
おかしさを感じてくるところであるが、しかし武蔵は、笑えなかった。
ふと、愍れになったのである。かえって、この敵に、労りたいようないい知れぬ同情を持たせられて、
「おばば、おばば、まあ待ちなさい」
かろく隠居の肱を抑えた。
「な、なんじゃと」
お杉は、持った刀の柄を、唇の外へ出ている前歯とともに、わなわなさせて、
「ひ、卑怯者めが、この隠居は、おぬしなどより、四十もよけいに門松を迎えているのじゃぞ。青くさい口先で騙ろうとて、なんで騙られよう。むだ口は聞く要もない。討たれてしまやれ」
もう、婆の皮膚は、土気いろをして、語気に必死なものがこもっている。
武蔵は、うなずいて、
「わかる、わかる、おばばの気持はよくわかる。さすがは、新免宗貫の家中で重きをなした本位田家の後家殿だけのものはある」
「ひかえなされ、小伜。孫のようなおぬしなどからおだてられて、欣ぶ婆ではないわいの」
「そうひがむのが老婆の瑕、武蔵のことばもすこし聞いてほしい」
「遺言か」
「いや、いい訳じゃ」
「未練なっ」
燃えあがって、お杉は低い体をつま先で伸び出すように、
「聞かぬ聞かぬ、この期になって、いい訳など聞く耳は持たぬ」
「では、しばしの間、その刃を、武蔵にあずけておきなさい。さすれば、やがて五条大橋の袂へ、又八が来合わそうほどに、すべてのことも自らわかってまいろう」
「又八が? ……」
「されば、去年の春ごろから、又八へ言伝てがしてあるのです」
「何と? ――」
「今朝、ここで会おうと」
「嘘をいやいっ」
お杉は一喝して首を振った。又八とそんな約束があるくらいなら、当然、この間うち大坂表で彼と会った時に、自分へ話しておくはずである。又八は武蔵の言伝てなどを受けてはいない。お杉は、その一言だけで、武蔵のことばを皆嘘と決めてかかった。
「みぐるしいぞ、武蔵、おぬしも無二斎の子であろが、死ぬ時は、潔う死ぬものと、おぬしの父親は子に教えてはおかなんだか。ことば遊びは、無用。婆が一念、神仏も御加護の刃、受けらるるものなら受けてみやい」
肱をちぢめて、武蔵の手を外すと、お杉隠居は、ふいに、
「南無っ」
と、小太刀を抜いて両手に持ち、武蔵の胸もとへ向ってまっすぐに突いてきた。
武蔵が、空を与えて、
「おばば、落着け」
平手でかろく背を打つと、
「大慈、大悲」
お杉は、躍起となって、振向きざま、ふた声三声、
「南無、かんぜおん菩薩、南無、かんぜおん菩薩ッ」
烈しい太刀を打ち振った。
その手頸をつかんで、武蔵は、外身にひき寄せ、
「おばば、後でくたびれるぞ。……サ、すぐそこじゃ、五条大橋まで、ともかく、拙者に従いて歩いて来るがよい」
捻じ取られた自分の腕の肩ごしに、お杉は、きっと白い眼を武蔵に向けた。――そして唾でも吐くように口をすぼめたと思うと、
「ふッっ!」
と、頬に溜めていた息を鳴らした。
「あっ……」
武蔵は、婆の体を突き放し、片手を左の眼に当てて飛びのいた。
ひとみが何かで焼かれたように熱かった。火の塵でも入ったように痛むのである。
武蔵は、瞼の上を押えていた手を放してみた。手には血しおもついていない。――しかし、左の眼は、開くことも出来なかった。
お杉は、相手の身体にそうした乱れを見つけると、ひどく勝ち誇って、
「南無、かんぜおん菩薩」
と、隙かさず、ふた太刀、三太刀斬りつけて行った。
いささか慌て気味に、武蔵は身を避けて斜めに反った。その時、お杉の太刀が彼の袖裏を透して、二の腕の肱の辺をさっと掠めた。綻びた袂の白い裏地へ血しおが朱く滲んで見えた。
「討ったッ」
狂喜しながら、婆は小太刀をやたらに打ち揮った。根の生えている大木の幹でも伐っているようなつもりで、相手が活動しないでいることは考慮に入れないのである。一念にただ清水寺の観世音菩薩の名を地へ呼び下して、
「南無、南無」
と、うるさく唱えながら、武蔵の前後を駈け廻るのであった。
武蔵は、それに応じて、ただ体を移しているだけだった。しかし、片方の眼は、眼つぶしを食ったように烈しく痛むし、左の肱は、かすり傷ではあるが、そこから滴り落ちる血しおに袂が染まるほどだった。
(不覚!)
と気のついた時が、もうその不覚を身に受けていた時だったのである。彼として、こういう先手を先に取られて、手傷まで負った例は今までになかったことだろう。――けれど、これは勝負というものではない、なぜならば、武蔵には全然この老婆に対して闘志がないからである。最初から、勝つことも敗けることも考えていなかったに違いない。至って体も敏捷でないこの老婆の刃向いなどは、彼の意識にも入らないのが当然でもあった。
しかし、それがそもそも不覚というものではあるまいか。兵法の大乗的な見地から観れば、これは明らかに武蔵の敗れであり、武蔵の未熟さを、見事にお杉婆の信仰心と切っ先が、暴露して見せたものといって差しつかえなかろう。
自身、その不用意を、武蔵も、はっと気づいて、
(過った!)
同時に彼は全力を出して、なおも図に乗って来るお杉の肩を、とんと一つ、平手ではたいた。
「あっ」
四ツ這いになったお杉の手を離れて、刀は遠く飛んでいた。
武蔵は、それを拾って左の手に持ち、右の手で、起きかけている婆の体を横ざまに抱きあげた。
「ええ、口惜しい」
亀のように、お杉は、武蔵の脇の下で泳ぎながらさけんだ。
「神もないか、仏もないか。みすみす敵へ一太刀つけながら……。ええ、どうしよう、武蔵、この上は、恥を掻かせずに、首を討て、さあ、婆の首を討て」
武蔵は、口を結んだきり、ただ黙々と大股に歩き出した。
絞り出すようなしゃがれ声で、その間、お杉婆はいいつづけている。
「こうなることも、武運じゃ、天命じゃ、神のお旨を思えば、なんの未練があろうぞ。――権叔父も旅で死に、婆も返り討ちになったと聞けば、あの又八も、奮い起って、きっと、仇を討とうという気になるだろう。婆の死は、決して犬死にはならぬ。かえって、あの子のためにはよい薬じゃ。武蔵っ、はよう婆の命を奪れ。……どこへ行くのじゃ? ……死に恥掻かす気か、はよう首を討てっ」
武蔵は耳もかさなかった。
婆のからだを横に抱えて、五条大橋のそばまで来ると、
(どこへ置いたものか)
と、お杉の身の処置を考えるように、辺りを眺め廻していたが、
「そうだ……」
河原へ下りて、そこの橋杭に繋いであった河舟の底へ、お杉のからだをそっと卸し、
「おばば、ここで辛抱しておるがよい。――やがてそのうちに、又八がやって来るだろうから」
「な、なにするのじゃ」
隠居は、武蔵の手や、辺りの苫を刎ね退けて、
「又八など、ここへ来るはずはない。オオ、察するところ、われはこの婆を、ただ返り討ちにしただけでは腹がいえず、五条の人通りへ曝し物にし、わしへ生き恥掻かせてから殺す気じゃの」
「まあ、なんとでも、思うているがよい。そのうちにわかる」
「討てっ」
「ははははは」
「何がおかしいぞよ。この婆の細首一つ、ばさりと落すことが出来ぬのか」
「出来ない」
「なんじゃと」
婆は、武蔵の手へ咬みついた。やむを得ぬ手段として、武蔵が、婆の体を船桁へ縛りつけようとするからだった。
武蔵は自分の腕を、存分に婆の口へ咬ませておきながら、ゆるゆると婆の体を縛ってしまった。
抜刀のまま提げて来た脇差は、鞘へおさめて、婆の腰へ元のようにもどして与え、そして立ち去ろうとすると、
「――武蔵ッ、武蔵ッ、汝れは武士の道を知らぬのかッ、知らずば、教えてやろう。まいちど、ここへ寄って来うッ」
「――後で」
一顧したまま武蔵は、堤へ足をかけたが、まだうしろで、お杉が呶号して止まないので、戻って行って、婆の上へ何枚も苫をかぶせた。
ちょうどその時、東山の肩に、のっと大きな太陽が真っ赤な焔の環の端を見せていた。ことしの第一日の日輪だった。
「…………」
五条大橋の前に立って、武蔵は恍惚と見とれていた。あかあかと、腹の底まで陽の光が映しこむように思えた。
一年のうちの小我な狭い考えの中に湧く愚痴の虫は、この雄大な光の前に、影をひそめてただ清々しい。生きているという欣びだけでも武蔵は胸がいっぱいになった。
「しかも、おれは若い!」
五ツ切れの餅の力は、踵にまで充溢していた。彼は、踵をめぐらして、
「まだ来ていないようだな……又八は」
と、橋の上を見まわした。そしてふと、
「あ? ……」
と、呟いたが、そこに自分より先へ来て待っていたものは、又八でも他の人間でもなかった。
植田良平以下の吉岡門下が、きのうここに建てて去った例の高札である。
――場所は蓮台寺野。
――日は九日の卯の下刻
「…………」
武蔵は顔を寄せて、生々しいその新板と墨のにじみを凝視した。文字を読んでいるだけで、彼のからだは針鼠のように闘志と血に膨らんで丸くなった。
「……あ痛、ああ痛い」
武蔵は、またしても、左の眼の激痛に堪えかねて、思わず瞼へ手を当てたが、ふと俯向けた顎の下に、一本の針を見出してぎょっとした。よく見ると、針は、着物の襟や袂に、霜ばしらのように刺さっていて、きらきらと光るのが、四本も五本もすぐ眼にとまった。
「あ……これだ」
その一本の針を抜いて、武蔵はつぶさに検めてみた。針の寸法は、ふつうの縫針と変らないし、太さも同様な物であるが、この針には、糸をとおす針穴がない。そしてまた、針の身にも丸みがなくて、三角であった。
「おばば奴」
武蔵は、河原をのぞいて、こう慄然とつぶやいた。
「これは、話に聞いたことのある吹針というものではないか。あのおばばに、こんな隠し業があろうとは夢にも思わなかったが。……ああ、危ういことだった」
彼は、好奇心とつよい知識慾に燃えて、その針を一つ一つ手に納め、改めて、自分の襟の中へ、抜けないように刺し込んだ。
他日の研究の資料とするつもりなのであろう。彼のまだ狭い体験の範囲で聞いているところによると、一般の兵法者のあいだでも、吹針という技術があるという説と、ないと主張する説とがわかれていた。
あるという説をとる者の弁によると、それは非常に古い伝統を持っている一種の護身術で、漢土から帰化した織部の機女や縫工女たちが、戯れにしていた技法が進んで、武術にまで利用されるようになり、独立した武器とはならないが、攻撃法の前の奇手として、足利時代にまで、吹針というものは、たしかに用いられたものだと、勿体をつけていう。
ない――と反対する者は、
(ばかなことをいっては困る。武芸者が、そんな児戯に類したもののあるなしを論じるだけでも恥かしい)
と、兵法の正道論に拠って、
(漢土から来た織女や縫工女が、そんなことを遊戯にやったかどうかは知らんが、遊戯はどこまでも遊戯で、武術ではない。第一、人間の口中には、唾液というものがあって、熱い、冷たい、酢い、辛い、というような刺激は程よく飽和するが、針の先を、痛くないように含んでいることはできまい)
すると、一方は、
(ところが、それができるのだ。もちろん、修練の功だが、何本も唾液につつんで口にふくみ、それを、微妙な息と舌の先で、敵のひとみへ吹くことができる)
と主張する。
それに対して、反対者は、よしんば出来たところで、針の力である、人間の五体のうち、ただ、眼だけが攻撃の焦点ではないか、その眼へ針を吹いても、白眼の部分ではなんの効もない。眸の真ン中を刺したら、初めて、敵を盲目にすることが出来るだろうが、それにしても、致命的なものではない。そんな婦女子のする小技が、どうして発達するいわれがあろうと反駁する。
それに答えて、また一方は、
(だから、一般の武技のように、発達しているとは誰もいいはしない。けれど、そういう秘し技が、今も残っているのは事実だ)
という。
武蔵はかつてどこやらで、そんな論議をしているのを、そら耳に聞いたことはあったが、勿論、彼も、そんな小技は、武道と認めない一人であったし、実際にそういうことをする人間があろうとも思われなかった。
世間のどんなつまらない雑談のうちにも、聞く者の聞き方によっては、何か他日に役立つものが必ずあるものだということを武蔵は今、痛切に知った。
眼はしきりと痛むが、幸いに、ひとみを刺されたのではないらしい。眼がしらへ寄った白眼の一部がずきずき熱を持って涙をにじみ出すのだった。
武蔵は、身体をなで廻した。
涙を拭く布を裂こうとするのであったが、帯も裂けず、袂も裂けず……何を裂いたらと手が迷っていた。
すると。
うしろで誰か、ぴゅっと絹を裂く音をさせた者がある。振向くと、一人の女性が、彼の様子を見ていたらしく、自分の紅い下着の袂を一尺ほど歯で裂いて、それを持って彼のそばへ小走りに駈けて来たのであった。
朱実であった。
彼女の髪には、元日の化粧いもなかった。着物もみだれ、足も素はだしなのである。
「……あっ?」
眼をみはって、武蔵は、意味なくそう叫んだが、さて、誰なのか、覚えはあるが、急には思い出せなかった。
朱実は、そうでなかった。自分ほどではなくても、その何分の一でも、武蔵も自分を考えていてくれたことと信じている。いつの間にか、多年の間にそう自分だけで信じて来ている。
「わたしです……たけぞうさん……いいえ武蔵様」
下着の袖を裂いた紅い小布を手にしながら――怖々と寄って、
「……眼を、どうかなすったんですか。手でこすると、なお悪くするでしょう。これでお拭きなさいませ」
武蔵は黙って好意をうけた。紅い布で片眼を抑えると、また、朱実の顔をしげしげ見直した。
「お忘れですの?」
「…………」
「わたしを」
「…………」
「わたしを」
手応えのない相手の無表情な空ろへ向って、彼女の押詰めて来た切実な気持は不意なよろめきを感じた。傷だらけになった魂にも、これだけは確とつかんでいたつもりだったものも、自分だけで作っていた幻像に過ぎなかったことを、ふと覚ると、胸先へ、血のかたまりのようなものがこみ上げて来て、
しゅくっ……
と唇や鼻から突き出る嗚咽を、両手でおおって、肩をふるわせた。
「オオ……」
思い出したのである。
武蔵は、彼女の今の一瞬の姿に記憶をよび起した。その姿にはまだ、伊吹の麓で袂の鈴を鳴らしていた頃の、世間に傷つかない処女らしさが残っていたからであろう。
いきなり、逞ましい腕が、彼女の病後のような薄い肩を抱きしめた。
「朱実さんじゃないか。――そうだ、朱実さんだ。……どうしてこんなところへ来たのか。……どうして? どうして?」
たたみかけていう武蔵の問は、よけいに彼女のかなしみを揺すぶった。
「もう、伊吹の家にはいないのか、お養母さんはどうしている?」
お甲のことを訊ねると、武蔵は当然、お甲と又八の関係に思い及び、
「今も又八と一緒に住んでいるのか。――実は今朝ここへ又八が来るはずになっているのだが、おまえが代りに来たわけではあるまいな」
すべてが朱実の心を外れてゆく言葉のみであった。
武蔵の腕の中で、朱実はただ顔を横に振って泣いていた。
「又八は来ないのか。……一体どういうわけだ。わけをいえ、ただ泣いているだけでは分らないではないか」
「……来ません。……又八さんは、あの言伝てを聞いていないから、ここへは来ません」
やっと、それだけをいって、朱実は濡れた顔を、武蔵の胸へ押し当てたまま痙攣していた。
こういおう、ああいおう、と考えていたことは皆、泡のように、熱い血のなかで明滅しているに過ぎない。――まして、養母の手でむごい運命へ突きのめされた――あの住吉の浦から今日に至るまでのことなどは、どうしても口に出なかった。
もう橋の上には、うららかな初日影を浴びて、清水へ初詣りにゆく初春着の女たちや、廻礼にあるく素袍や直垂衣の人影が、ちらほら通っていた。
その中から、ひょっこり、年の暮も正月もない、河っ童あたまの城太郎が姿を見せた。橋の中ほどまで来て、武蔵と朱実のすがたを彼方に見つけ、
「あれ? ……お通さんかと思ったら、お通さんじゃないらしいぞ」
怪しい男女の行為でも見たように、城太郎は変な顔して足を止めた。
折ふし誰も見ているものがないからいいようなものの、往来の端で、胸と胸を寄せてじっと抱き合っているなんて――大人のくせに――男と女のくせに――と、城太郎はびっくりせずにいられない。
しかも、尊敬しているお師匠さまが。
女も女だと思う。
彼の童心は、わけもなく高い動悸を打ち、嫉ましい気もするし、悲しい気もする。――なにかこう焦々と腹が立って、石でも拾って打つけてやろうかとさえ思った。
「なんだ、あの奴は、いつか又八っていう人へ、お師匠様の言伝てをたのんだ朱実じゃないか。お茶屋の娘だからませているんだな。いつのまにかお師匠様とあんなに仲よくなったんだろ。お師匠様もお師匠様だ。……お通さんにいいつけてやろ」
そこから往来の彼方此方を見まわす。欄干から橋の下を覗いて見る。――だが、お通の姿は、まだここに見当らない。
「どうしたんだろ?」
先頃から泊っている烏丸家の邸内を出たのは、お通のほうが先に出かけているのである。
お通は今朝、武蔵とここであえるのを確信しているので、年暮のうちに、烏丸家の奥から戴いたという初春の小袖を着、ゆうべは髪を洗ったり結ったりして、今朝を楽しみに寝もやらない様子であったのだ。
そして、まだ未明のうちから、夜の白むのを待ち遠しがって、
(こうしている間に、祇園神社から清水堂へ初詣りをして、それから五条大橋へ行くとしよう)
といい出し、城太郎が、
(じゃあ、おいらも)
と、従いて行こうとすると、ふだんはいいが、恋には邪魔物に扱われて、
(いいえ、私は武蔵様に、少し二人きりで話したいことがあるのだから、城太さんは、夜が明けてから、なるべく悠っくり五条大橋に後からお出で。――だいじょうぶ、きっと、城太さんが来るまでは、武蔵様とあそこで待っていますから)
といって、一人で先へ出かけてしまったのである。
べつに僻んだり怒ったりはしないが、城太郎も決していい気持ではない。彼にも、明け暮れ共にいるお通の気持ぐらいは、もう解釈できない年頃ではない。男と女の持ち合う感動とはおよそどんなものかということは、彼自身も、柳生の庄の旅籠屋の小茶ちゃんと、馬糧小屋の藁の中でなんという理もわからずに悶掻き合った体験がある。
その体験から割り出しても、大人のお通が泣いたり沈んだりしている平常の様子は、彼にはただ不可解で、おかしくって、擽ぐったくて、理解も同情も持てなかったが、今、武蔵の胸へすがって泣いている者が、そのお通でなくて、朱実という案外な女性であったことを眼で見ると、城太郎の分別は、俄然、憤りに似たものを持って、
(なんだ、あんな女)
と、お通の肩をもち、
(お師匠様もお師匠様だ)
わがことのように腹を立てて、その結果が、
(お通さんは何してるんだろ。お通さんにいいつけてやるぞ)
という焦躁を帯びて来ると、急に橋の上下をキョロキョロし始めたものだった。
ところが、そのお通が見当らないので、城太郎が独りでやきもきしていると、彼方の男女は、往来の眼を憚るように、橋のたもとに近い欄干へ身の位置を移して、武蔵もその上に腕拱みを乗せ、朱実も並んで、河原の下へ面を俯向けている。
反対側の欄干に沿って、城太郎が通り抜けて行ったのも、男女の背中は気づかなかった。
「愚図だな、いつまで、観音様なんか拝んでるんだろ」
城太郎は呟きながら、五条坂の方へ背伸びをして、待ち焦れていた。
すると、彼の佇立んでいるところから十歩ほどの距離である、幹の太い四、五本の枯柳があった。よくこの柳には川魚を啄みに来る白鷺の群れを見かけるのであるが、きょうはその白鷺が一羽も影を見せていないかわりに、前髪に結った一人の若衆が、臥龍のように低く這っている老柳の幹へ倚りかかって、じっと、何ものかを見つめていた。
朱実と並びあって橋の欄へ肱を倚せていた武蔵は、朱実が懸命になって向ける囁きへ、いちいち微かに頷いてはいるけれど、彼女が女の羞恥もすてて、真実の二人になり切ろうと全能で脈搏しているほど、そのつよい低声が、武蔵の耳以上へ滲み徹っているか否かはわからなかった。
なぜならば、よく頷いてはいるくせに、彼の眸は、あらぬ方へ行っているからである。愛しあっている者同士が、ことばを奏であいながら眼を反らしているといったような――ああいう情景とはまるで違ったもので、ひと口にいえば、彼の今持っている眸は、無色無熱の火であった。そこから一角の焦点へ向って、かちっと烙きついたまま、眼じろぎもしないのである。
朱実には今、そういう相手の眼を怪しむ認識すら持てない。自分だけの感情の中で、独り問い答えながら突きつめては唇へ咽び出すのだった。
「……ああ、私はもう、これであなたにみんないうことをいってしまった。秘していることはなにもない」
と欄干へのせている胸を少しずつ寄せて来て、
「――関ヶ原の戦から、もう五年目になるでしょう。その五年のあいだに、私という者は、今すっかり話したように、境遇も、体も変ってしまったんです」
……よよと、啜り泣いて、
「けれど――いいえ――私はちっとも変っていない。あなたを思っているこの気持は、みじんも変って来てはおりません。そういいきれます。わかってくれる? ……武蔵様、その気持を……武蔵様」
「ムム」
「わかって下さいね。……恥もしのんで私はいいました。朱実は、あなたと初めて伊吹の下で会った時のように、もう穢れのない野の花ではありません。人間に涜されて凡の女になってしまったつまらない女です。……けれど貞操というものは体のものでしょうか。心のものでしょうか。体の上だけは清女でも、心がみだらな女だったら、それはもうきれいな処女とはいえないのではありませんか。……私は、私はもう名は……名はいえませんが或る者のために処女ではなくなりました。けれど、心は涜されてないつもりです。ちっとも穢されない心を今も持っているんですの……」
「ウム、ウム」
「かあいそうだと思ってくれます? ……。真実をささげている人へ、秘し事を抱いているのは辛いことです。……あなたに会ったらなんといおう。いうまいか、いおうか、同じことを幾晩も幾晩も考えぬきました。その上で、私が決心したことは、やはり貴方には、偽りを持たないということでしたの。……わかって下さる。むりもないと思って下さいますか、それとも厭わしいやつだと思いますか」
「ムム、ああ」
「ね……どっちです。考えると、わ、わたしは、く、くやしい」
欄の上へ顔を伏せて、
「ですから、もう私は、あなたに向って、愛してくださいなどということは、厚顔しゅうていえませんし……また、いえた義理でもない体ですの。――だけど武蔵様、今いったような心――処女ごころ――白珠のような初恋の心――それだけは失くしません。この後、どんな生活をしようとも、どんな男の巷を歩こうとも」
髪の毛の一すじ一すじがみな泣きふるえた。欄を濡らしている涙の下は、元日の明るい陽を燿々と乗せて、無限の希望へかがやいて行く若水のせせらぎであったが。
「む……うむ……」
もののあわれは頻りと武蔵の頷きを誘っている。――だが、あいかわらず異様な光をおびて、あらぬ方へ吸いつけられている彼の眸なのである。
――で、その視線の先を辿ってみると、橋の欄と川岸とのカギ形の二線へ対して、三角形を作り得る一線が真っ直に引けてゆく。
先刻から枯柳の幹に倚りかかって、じっと岸に立っている岸柳佐々木小次郎のすがたを、そこに見出すことが出来る。
父の無二斎から子供の時に、彼はこういわれたことがある。おまえはわしに似ていない、わしの眸はかくの如く黒いが、おまえの眸は茶色勝ちである。従祖父の平田将監様の眼は、焦茶色をしていて凄かったといういい伝えだから、おまえはおそらくお祖父さん似に生れたのであろう……と。
うらうらと、朝の陽を、斜面にうけているせいもあろう。それにしても武蔵の眸は、ヒビのない琥珀のように澄んでいて鋭かった。
(ははあ、この男だな)
かねて聞き及ぶところの宮本武蔵という人間を、佐々木小次郎は、いま見ていた。
武蔵もまた、
(はてな、あの男は)
と、注意を怠らない。
彼より射て来るものと、こっちから迫ってゆくものとが、橋の欄と、河べりの枯柳との間で、最前から無言の裡に、お互いの人間の深さを測り合っていたのである。
兵法の場合でいえば――相手の器量を、剣と剣の先でじっと観澄ましているような――阿の息をこらしている時にも似ている。
またさらに、武蔵のほうにも、小次郎のほうにも、べつな疑惑があった。
小次郎にすれば、
(小松谷の阿弥陀堂から連れて来て、自分が今、世話をしてやっている朱実と、あの武蔵と、どういう縁故があって、あんなに親しそうに私語を交わしているのか)
と思い、それに当然、
(いやな奴だ、女たらしかもしれぬ。朱実も朱実、おれに黙って、どこへ行くのかと思って後を尾行て来てみれば……あんな男に、泣いたりなどして)
こう不快な気もむらむらと生唾になって湧いて来る。
そのありありと眼に出ている反感や、武者修行同士が行きずりに持つ、自負心と自負心との反溌しあう妙な敵愾心など、武蔵のひとみに顕然と読まれるので、武蔵もおのずから、
(何者か?)
と、彼の存在を疑い、
(できるな、相当に)
と、押し測り、
(はて、あの眼の害意は?)
と、警戒して、
(油断のならない人間)
として、眼で見るのではなく、心で観つめているので、ふたりの眸は、今、火花を出しているといっても過言でない。
年齢は、武蔵が一つ二つ下か、小次郎のほうが下か、どっちにしても大差のない、お互いが、生意気ざかりで、兵法でも、社会のことでも、政治でも、すべてが分ったつもりでいる自負心の満々としている青年なのだ。
猛獣が猛獣を見ると、すぐ唸るように、小次郎も武蔵も、なんとなく、髪の毛のそそけ立つような印象を、この初対面にうけたのである。
――そのうちに、ふと、小次郎が先に眸を横へ反らした。
(ふふん……)
そういったような白い蔑みを、武蔵は彼の横顔に見たが、心のうちでは、自分の眼――意力が――彼を遂に圧伏したと思って、かるく愉快だった。
「朱実さん」
欄へ面を当てて泣いている彼女の背へ、武蔵は手を加えて、訊ねた。
「誰だ? おまえの知人だろう。あれにいる若衆すがたの武者修行は。……え、誰だ、いったい?」
「…………」
小次郎の姿を、その時初めて気づいた彼女は、泣き腫らした顔に、明らかな狼狽えを走らせて、
「ア……あの人が」
「あれは誰だ」
「あの……あの……」
と朱実は口籠った。
「見事な大太刀を背に負って、これ見よがしの伊達な装い、よほど兵法自慢の者らしいが……一体朱実さんとあの男とは、どういう仲の知りあいなのか」
「べつに……なにも深い知りあいじゃないんですけれど」
「知っていることはいる人なのだな」
「ええ」
武蔵に誤解されることを惧れるように、朱実は、はっきりいった。
「いつぞや、小松谷の阿弥陀堂で、どこかの猟犬に腕を咬まれた時、あまり血が出て止まらないので、あの方の泊っている宿へ行って医者を呼び、それからつい三、四日、お世話になっているんですの」
「では、ひとつ家に住んでいる者だったか」
「住んでいるといっても……べつに、なんでもないんですけど」
朱実は言葉を強めていう。
武蔵はべつに、なんでもあるような意味に訊いているわけではない。それを朱実は、ひとりでべつな意味にはきちがえているのだった。
「――なるほど、では詳しいことは知るまいが、あの者の姓名ぐらいは聞いておろうが」
「ええ……岸柳とも呼び、本名は佐々木小次郎とかいいました」
「岸柳」
これは初耳ではない、有名というほどではなくても、諸国の兵法者のあいだには相当知られている名である。もちろん実際の人間を見るのは今が初めてであるが、武蔵が聞き及んでいたり、また想像していた佐々木岸柳は、もっと年配の男のように考えていたのに、その案外にも若いのには彼は思いのほかな心地がした。
(……あれが、噂の)
改めて、その小次郎へ武蔵が眼を向けた時である。朱実と武蔵とがそうして囁いている様子を白い眼で見ながら、小次郎の頬へにたと笑靨が泛いた。
――武蔵もまた微笑を送った。
だが、この無言の雄弁は、釈尊と阿難が指に華を拈じながら微笑んだような平和な光も謎もない。
小次郎の笑靨には、複雑な皮肉と挑戦的な揶揄いがあった。
武蔵の笑みにも、それを感じて刎ね返している毅々しい争気があった。
そうした男性と男性のあいだに挟まって、朱実はなお、自分だけの気持を、訴えようとするのであったが、それをいわないうちに、武蔵がいった。
「では朱実さん、おまえはあの人と、ひとまず宿へ帰ったがよかろう。そのうちに会おう、……な、そのうちにまた」
「きっと来て下さいます?」
「あ、行くよ」
「宿を覚えていてください。六条御坊前の数珠屋の座敷にいますから」
「ウむ。……ウむ」
単純にうなずかれたのが、物足らなかったのだろう。朱実は欄のうえに置いている武蔵の手を奪って、いきなり自分の袂の蔭でぎゅっと握りしめながら眼に情熱をこめた。
「……きっと! え? ……きっと!」
突然、彼方で、腹を抱えるように哄笑した者がある。こっちへ、背を見せて歩き去って行く佐々木小次郎だった。
「あッはははは、わッはははは。アハハハ。アハハハ」
とんでもない馬鹿笑いをして行く者があるので、城太郎は、むっとしながら、橋の前の往来から小次郎を睨みつけていた。
――それにつけても彼は、お師匠様の武蔵がいまいましい。いつまで経っても来ないお通が癪にさわる。
「どしたんだろ?」
地だんだふむように、町のほうへ少し歩き出してゆくと、すぐそこの四ツ辻に横たわっている牛車の車の輪のあいだに、チラと、お通の白い顔が見えた。
「ア、いたッ」
鬼でも見つけたように城太郎はさけんで駈けだした。
牛車の蔭に、お通はしゃがみ込んでいた。
めずらしく今朝の彼女の髪や口紅には、ほのかではあるが――下手なお化粧ではあるが――匂わしいものがただよっていたし、小袖は烏丸家から戴いたという紅梅地に、白と緑の桃山刺繍が散っている初春らしい衣であった。
その白い襟や、紅梅色が、車の輪に透いて見えたので、城太郎は牛の鼻づらを摺ってそばへ飛びついて行った。
「なんだっ、こんな所に。お通さん、お通さん、なにしてんのさ」
胸を抱いてかがみ込んでいる彼女のうしろから、城太郎は、その髪やおしろいが台なしになるのもかまわず襟くびへ抱きついて、
「――何してんのさ、何してんのさ、おいら、ずいぶん待ってしまったぜ。はやくおいでよ」
「…………」
「はやくさ、お通さん」その肩を揺すぶって、
「――武蔵様も、あそこに来てるじゃないか。見えるだろ、ほら、ここからでも。――だけど、おいら、とても癪にさわってるんだ。――おいでよ! お通さんてば! はやく来なくちゃ駄目じゃないか」
こんどは、彼女の手くびを取って、抜けるほど引っ張り出したが、ふと、その手くびの濡れていることや、お通が顔を上げて見せないので不審を起し、
「……オヤ、……オヤ、お通さん。なにしていたのかと思ったら泣いていたのかい」
「城太さん」
「なにさ」
「武蔵様のほうから見えないように、お前も、蔭にかくれていてくださいよ。……ネ、ネ」
「なぜさ」
「なぜでも……」
「ちぇッ!」
城太郎はまた、ここでも腹が立って、その鬱憤のやり場がないように、
「だから女って奴は嫌ンなっちゃうぜ。こんなわけの分らねえことってあるだろか。――武蔵様に会いたい会いたいといってあんなに泣いたり捜したりしていたくせに、今朝になったら急に、こんな所へ隠れて、おいらにまで隠れていろって……。けッ、けッ、おかしくって、笑えもしねえや」
彼のことばを鞭のように浴びているお通であった。紅く腫れている眼をそっと上げて、
「城太さん、城太さん……そういわないでください。……たのむから、そんなにお前までわたしを虐めないで」
「どこへ、おいらが、お通さんを虐めてるかい」
「黙っていてね……じっと私と一緒に屈んでいてください」
「いやだい、牛の糞がそこにあるじゃないか。元日から泣いてなどいると、鴉が笑わあ」
「……なんでもいいの。もう……もうわたしは」
「笑ってやろう。先刻、彼方へ行った若衆のように、おいらも、初笑いに手をたたいて笑ってやるぜ。……いいかいお通さん」
「おわらい、たくさん」
「笑えねえや……」
鼻汁をこすりながら、むしろ彼は泣きたそうな顔をした。
「アア、わかった。お通さんは、あそこで武蔵様がよその女と、先刻からあんなことして話しているんで、嫉妬をやいているんだね」
「……そ、そうじゃない、そんなことじゃないけれど」
「そうだよ、そうだよ。……だからおいらも癪にさわってるんじゃないか、だからよけいに、お通さんが出て行かなければ駄目じゃないか。わからずやだなあ」
いくらお通が強情に屈みこんでいようとしても、城太郎の力で無理やりに手くびを引っ張るのにはかなわなかった。
「痛い。……城太さん、後生だからそんな酷いことをしないでよ。……私をわからずやだとおいいだけれど、城太さんこそ、私の気持なんかわからないのです」
「わかってるよ、嫉妬をやいてるんじゃないか」
「そんな……そんなことだけではありません……私の今の気持というものは」
「いいからお出でッてば」
牛車の蔭から、お通のからだはズルズル地を摺ってうごき出した。綱曳きでもするように踏んばりながら、城太郎はまた彼方へ伸び上がって、
「アッ、もういないよ、朱実はもう去ってしまった」
「朱実。――朱実って、誰のこと?」
「今、あそこで、武蔵様とならんでいた女さ。……あっ、武蔵様も歩き出した、早く来ないと、行ってしまう」
もう女などに関っていられないとばかりに、城太郎が走りかけると、
「待ってよ、城太さん」
お通も、自分で立った。
そこで彼女はもういちど、五条大橋の袂を見直した。朱実がまだその辺にいるかいないかを確かめるもののように細心な眼で見まわしているのだった。
怖ろしい敵の影が去ったように、お通は眉をひらいて、ほっとした様子をしてまた、慌てて牛車の蔭へ寄ると、泣き腫らした瞼を袖口で拭いたり、髪を撫でつけたりして、身じまいを整えていた。
城太郎は、急いて、
「早くしなよ、お通さん。――武蔵様は河原へ降りて行ったようだぜ、お洒落なんかしなくてもいいじゃないか」
「河原へ」
「あ、河原へ。――なにしに降りて行ったのだろう」
ふたりは、姿をそろえて、橋の袂へすぐ駈けて行った。
吉岡方で建てたそこの高札には、もう往来の者の首がたかっていた。声を出して読みあげている者がある。また、聞きつけない宮本武蔵という者を、何者であろうと、辺りの人々に訊ねている者がある。
「ア、ごめん」
城太郎は、その人々の体をかすめて、橋の欄から河原の下をのぞいた。
お通も武蔵のすがたを、すぐその下に見られるものとばかり思っていた。
実に、わずかな間であったが、武蔵はもうその辺にいなかったのである。
では何処に?
――というと、武蔵はたった今、朱実の手を振りきって、無理に彼女を追い返すと、もう本位田又八をこの橋上に待っていたところで来るはずもないし――吉岡方から掲示した高札の表も読んだし――ほかに待つべき用事もないので、ヒラリと堤を降りて、橋杭のそばの苫舟へ駈け寄っていた。
苫の下には、お杉隠居が、舟桁に身をしばられて先刻からもがいていたのである。
「おばば、残念だが、又八は来ないぞ。――わしもぜひそのうちにゆき会って、あの気の弱い男を励ましてくれるつもりだが、ばばも探し出して、親子、達者でお暮らしゃれ、――そのほうが、この武蔵の首を狙ったりすることより、どんなに、御先祖孝行かしれぬぞ」
小柄を持って、その手を苫の下へさし入れた。お杉の身を縛った縄目を切ったのである。
「ええ、耳うるさい、ませた口をきく小伜わいの。要らざるおせッかいをいうよりは、婆を討つか、討たれるか、武蔵っ、はよう埒をあけい」
顔じゅうに青すじを走らせて、お杉隠居が、苫の中から首を突き出した――その時ですらすでに、武蔵のすがたは、加茂の流れを横に突っ切って、鶺鴒でもとぶように洲や石のうえを拾って、対岸の堤へ駈け上がっていたのであった。
お通は見なかったが、ちらと、河向うの遠い人影を、城太郎は見たのであろう。
「アッ、お師匠様だ、お師匠さまあ――」
河原へ向って、跳び下りた。
もちろんお通も。
なぜこの際、すこし廻り道になっても、五条大橋の上を駈けて行かなかったか。お通は、城太郎の勢いにつり込まれたので仕方がないにしても、城太郎が一歩を誤った禍いは、決して、この時、彼女がまたしても武蔵と行き会えなかったという遺憾ばかりには止まらない。
城太郎の元気な足の前には、河も山もあったものではないが、春の晴着を装っているお通には、すぐ眼のまえに現われた幾条もの加茂の水に、はたと困った。
もう武蔵の影は、どこにも見えないのであったが、彼女は、跳べない流れを見ると思わず、死に別れた者が間際にさけぶように、
「武蔵さまあっ」
――すると、それへ向って、
「おうっ」
と答えた者がある。
小舟の苫をばらばらと払い退けて、そこに突っ立ったお杉隠居であった。
お通は、なんの気なく、それへ振向くと共に、
「――きゃっ!」
顔をおおって逃げ走った。
隠居の白い髪が風に立った。
「お通阿女っ」
次のことばは、老婆の極度に揚げた息のために、声が挫げて、
「用があるッ、待たっしゃれっ」
つんざくように水へ響いた。
お杉隠居の邪推からこの場合の結果を判断すれば、こういう風にはなはだしく悪くとったかも知れない。
武蔵が自分へ苫をかぶせたのは、お通とここで逢曳きする約束があったからにちがいない。その上の痴話が何かにこじれて、武蔵が女を振切って去ったので、お通阿女は泣き声をしぼって男を呼び返しているのだろう。
(そうだ)
と咄嗟に、自分の思うことをこの老婆は、すぐ自分だけで事実としてしまう。
(憎い阿女)
武蔵以上の憎しみを、お杉はお通へ抱くのであった。
まだ約束だけで家にも入れないうちから、息子の嫁は自分の嫁のように思い、息子が嫌われたことは、自分が嫌われたことのように憤ったり、怨みに思う老婆だった。
「待たぬかっ」
ふた声目のさけびが聞えた時は、この隠居が、さながら口を耳まで裂いたかと思われる形相で、風の中を走っている時だった。
おどろいた城太郎が、
「な、なんだ、この婆」
つかみかかると、
「邪魔なっ」
と、弾力はないが、怖ろしく固い力で刎ね退ける。
いったいこのお婆さんが何者なのか――なんのためにお通があんなに驚いて逃げたのか――城太郎にはまるでわからない。
わからないが、しかし事態の凡事でないことだけは感じる。それに、宮本武蔵の一の弟子、青木城太郎ともあるものが、老婆の細肱に刎ねとばされて引っ込んでいられたものではあるまい。
「ばばッ、やったな」
――もう二、三間も先へ行くお杉隠居のうしろから、いきなり跳びついてかかると、婆は孫の首根ッこをつかんで仕置する時のように、左の腕の中に城太郎の顎を引っかけ、三つ四つ、ぴしゃぴしゃ撲叩いて、
「餓鬼のくせに、邪魔だてするとこうだぞよ、こうだぞよ」
「カ、カ、カ……」
喉の骨を伸ばしたまま、城太郎は、木剣の柄を握ることだけは握っていた。
かなしいにせよ、辛いにせよ、人はどう見るか知れないが、お通自身にとれば、今の心の置き方は、またその生活は、決して不幸なものでなかった。
希望もあれば、その日その日の楽しさもある若い日の花園だった。もちろん辛いとか悲しいとかのことの多い中にではあるけれど、辛いこと、悲しいことを離れて、ただ楽しいだけの楽しさなどあろうとは、彼女には信じられない。
けれど今日ばかりは、彼女のそうして持ち堪えてきた心も亡んでしまいそうだった。今までの純真な心へ、ま二つの亀裂が走ったかと自分ですら悲しまれた。
――朱実と武蔵と。
あのふたりが五条の欄で人目もなく並んでいたのを遠くから見たせつな、お通は、足がふるえてしまった。あやうく、眩いがして倒れかけたので、牛車の蔭にかがみ込んでしまったのである。
――なぜ今朝、ここへ来たろうか。
悔いても泣いても及ばない程に思って、短い間に、すぐ死を考えてみたり、男性が嘘のかたまりに思われたり、憎しみと愛と、怒りと悲しみと、自分という人間にすら嫌厭がわいて、泣いたぐらいでは、心の慟哭がおさまらなかった。
でも。
武蔵のそばに、朱実のすがたがあるうちは、自分を主張できないお通であった。もの狂わしいほど、体じゅうの血しおが嫉妬の火と変じながら、なお理性の幾分かが、
――はしたない。
と、必死にたしなめて、
――冷たく、冷たく、冷たく。
と、自己の行為しようとする意思を、みなふだんの女の修養というものの下へじっと抑えつけてしまうのだった。
しかし、朱実が去ると、彼女はもうそういう怺えはかなぐり捨てた。武蔵へ向って、いうつもりであった。どういうことをいおうなどと考えている遑はもとよりなかったが、胸のうちのものをみんないうつもりであった。
人生の道はいつも、一歩が機微である。また、なにかの場合に、ふだんの常識さえあれば、分りきっていることを、ふと、心へ間違いを映しとってしまうためにその一歩が、十年のまちがいになったりする。
武蔵の影を見失ったために、お通は、お杉隠居に出会ってしまった。元日なのに、きょうはなんという凶い日か、彼女の花園には蛇ばかりが出た。
――夢中で彼女は三、四町ほど逃げた。ふだんでも、怖い夢を見たと思うと、その中にはきっと、お杉の顔があった。その顔が、夢でもなく、追って来るのである。
息がつづかなくなった。
お通は振向いてみた。
ほっとその途端に初めて呼吸が休んだのである。お杉隠居は、半町ほど後ろで、城太郎の首をしめて、立ちどまっている。城太郎はまた、必死になって、打たれても、振廻されても、しがみついて離さない。
今に城太郎が、腰の木剣を抜くかもしれない――必然やるだろう。そうすれば、隠居も刃を抜いて応じるにちがいない。
お通は、あの老婆の、物に仮借しない気質を、身に沁みて知っている。悪くすれば斬り捨てられる城太郎かも知れないと思う。
「アア、どうしよう」
ここはもう七条の河下である。堤のうえを仰いでも人は見えなかった。
城太郎は救いたいし、お杉隠居のそばへ寄るのは怖ろしいし、彼女はうろうろするよりほかなかった。
「くそ、くそばば」
城太郎は、木剣を抜いた。
木剣は抜いたがさて、自分の首根ッこは、隠居の腋の下へつよく抱え込まれ、これはいくらもがいても離れないのだ。いたずらに、地を蹴ってみたり、空を打ってみたり、暴れるほど、敵を誇らせるに過ぎないのである。
「この童が、なんの芸じゃ、蛙の真似事かよ」
隠居は、三つ唇のように見える長い前歯に、勝ち誇った強味をみせて、なお、ぐいぐいと河原を引き摺って前へ歩いて来たが、
(待てよ)
彼方に立ちどまっているお通の姿を見てから、急に、老婆らしい狡智を思いついて、胸のうちでそう呟いた。
隠居が思うには、これはどうもまずい。老婆の脚で追いかけたり、力ずくで争っているから埒があかないというものである。武蔵のような相手では、騙しも利かないが、この相手は甘やかせば甘やかせる女子供、舌の先でくるめておいて、後でいいように料理してしまうに如くはない。
で――隠居は遽に、
「お通よ、お通よ」
手をあげて、彼方の姿を、さしまねいた。
「――のう、お通阿女よ、なんで汝れは、ばばの姿を見るとそのように逃げるのじゃ。以前、三日月茶屋でもそうじゃったが、今も、わしを鬼かのように、すぐ逃げなさる。――その心得が、そもそも解せぬというもの。この婆の心底がわからぬかいの。そなたの思い違いじゃ、疑心暗鬼じゃ、ばばは決して、そなたなどに害意は持たぬ」
そう聞くと、彼方に立っているお通はまだ疑わしげな顔していたが、隠居の腋の下から城太郎が、
「ほんとかい、ほんとかい、おばば」
「オオ、あの娘は、この婆の心を、思い違えているらしい。……ただ怖い人間のように」
「じゃあ、おいらが、お通さんを呼んで来るから、この手を、離してくれ」
「おっと、そんなこというて手を離したら、この婆へ木剣をくれて、逃げる気であろうが」
「そんな卑怯なまね、するもんか。お互いに、思い違いで喧嘩しちゃ、つまらないからさ」
「では、お通阿女のそばへ行ってこういうて来う――本位田の隠居はの、旅先で、河原の権叔父とも死に分れ、白骨を腰に負うて、老い先ない身をこうして旅にまかせているが、今では、むかしと違うて、気も萎えた。一時は、お通の心も恨みと思うたが、今ではさらさらそんな気もない。……武蔵には知らぬこと、お通阿女は今も嫁のように思うているのじゃ。元の縁へ返ってくれとはいわぬが、せめては、このばばの過ぎ越し方の愚痴や、この先の相談事でも聞いておくれる気はないか。このばばを、あわれな者とは思っておくれぬかと……」
「おばば、そんなに文句が長いと、覚えきれないよ」
「それだけでよい」
「じゃ、離しておくれ」
「よう、いうのじゃぞ」
「わかった」
城太郎は、お通のそばへ、駈けて行った。そして、隠居のことばをそのまま、彼女に伝えているらしかった。
「…………」
お杉隠居は、わざと見ない振りをして、河原の岩に腰を下ろした。汀の浅瀬に、小さな魚の群れが、のどかな魚紋を描いている。
(来るか? 来ないか?)
と、お通の様子を、隠居は、その魚の影より迅い光で、横目に注意していた。
お通は、疑いぶかく、容易に近づいて来なかったが、城太郎が、頻りといったのであろう、やがて怖々お杉隠居のほうへ歩いて来た。
心のうちで、隠居は、
(もうこっちのもの)
と、思ったことであろう。長い前歯を唇にほころばせて、にたりと笑った。
「お通」
「……おばば様」
お通は、河原へかがみ込んで、老婆の足もとへ指をついた。
「ゆるして下さい……ゆるして下さい……もう今となっては、なにも、いい訳はいたしませぬ」
「なんのいのう」
お杉隠居のことばは、むかしのように優しく聞えた。
「元々、又八めが悪いのじゃ。いつまでもそなたの心変りを恨んでいようぞ。このばばも、一時は、憎い嫁とも思うたが、もう、心では水にながしている」
「では、かんにんして下さいますか。わたしのわがままを」
「……じゃが」
隠居は、ことばを濁して、彼女とともに、河原へしゃがみ込んだ。お通は、川砂を指でほじくっていた。冷たい砂の表面を掻き掘ると、その穴から、浸々と、温い春の水が湧いて出た。
「そのことは、母のわしから答えてもよいがの。ともあれ、又八という者と、いったんは許嫁であったそなた、いちど、伜に会うておくれぬか。元より、伜の好きで、おぬしをほかの女子に見替えたことじゃ。今さら、よりをもどせともいうまいし、いうたとて、このばばが、そのような得手勝手、承知することじゃないほどに」
「……え、え」
「どうじゃ、お通、会っておくれるか。そなたと、又八と並べておいて、このばばから、きっぱりと伜にいい渡そうではないか。――さすれば、意見の一つもいうて、このばばの、母としての役目もすむ。立場も立つ」
「はい……」
きれいな川砂の中から、蟹の子が這い出して、春の日を眩しげに石の蔭へかくれこんだ。
城太郎は、蟹をつまんで、お杉隠居のうしろへ廻り、隠居の小さい髷のうえに落した。
「……でも、ばば様、今となってはかえって、又八さんに会わないほうが」
「わしが側について会うのじゃ。会うて、きっぱりしておいた方が、そなたの後々のためにもよかろうが」
「……ですけれど」
「そうしやい。わしは、そなたの後のためも思うてすすめまする」
「それにしても、又八さんは、今どこにいるのか、分らないではございませぬか。おばば様は、居所をごぞんじなのでございますか」
「すぐ……わかる……わかるつもりじゃ。なぜならば、つい先頃、大坂表で会うているのじゃ。また、いつもの気ままが出て、わしを振捨てて住吉から去んでしもうたが、あの子も、後では悔いて、きっとこの京都あたりに、ばばの後を追うていると思いまする」
お通は、そう聞くと、急に、不気味な気もちに襲われた。それだけに、お杉隠居のすすめることばが、道理のように思われるし、また急に、この息子にめぐまれない老婆に、いとしさがこみあげて来て、
「おばば様、ではわたしもご一緒に、又八さんを捜しておあげいたしましょう」
お杉は、砂をいじっている彼女の冷たい手を握りしめ、
「ほんにかいの?」
「ええ。……ええ」
「では、ともあれ、わしの旅舎まで来ておくりゃれ。……ア、ア」
お杉隠居は、そういって起ちかけながら、襟くびへ手をやって、蟹をつかんだ。
「ええ、なんじゃと思えば、いやらしい」
隠居が身ぶるいしながら、指先へブラ下がった小蟹を振り飛ばした様子のおかしさに、城太郎は、お通のうしろで、クスリと口を抑えた。
隠居は、気づいて、
「汝か、悪戯したのは」
と、白い眼で、城太郎をねめつける。
「おいらじゃない。おいらのせいじゃないよ」
城太郎は、堤の上へ逃げた。
そして上から、
「お通さん――」
「なあに」
「お通さんは、おばばの旅舎へ一緒に行くの?」
お通が返辞をしないうちに、隠居がいった。
「そうじゃ、わしの旅舎はすぐそこの三年坂の下、いつも京都に来ればそこに定めてある。汝には、用もないから、何処へなと、帰るなら帰るがええ」
「アア、おいらは、烏丸のおやしきへ先へ帰っているぜ。お通さんも、用がすんだらはやく帰っておいで」
先へ走りかけると、お通は、急に心細くなったものか、
「お待ち、城太さん」
河原から上がって、彼を追うと、お杉隠居も、もしお通が逃げる心ではないかと狼狽だしたように、すぐ後ろから駈け上がってゆく。
そのわずかな間に、二人は、話し合った。
「ネ、城太さん、こんなわけになって、私はあのおばば様と、旅舎へ行きますけれど、暇を見て、ちょいちょい烏丸様の方へも帰りますから、お館の人たちにそういって、お前は当分、あそこのご厄介になって、私の用事の片づくのを待っていて下さい」
「アア、いつまでも、待っているよ」
「そして……その間に、私も心がけるけれど、武蔵様のいらっしゃる所をさがしてくれません? ……お願いだから」
「いやだぜ、さがし当てるとまた、牛車の蔭へかくれて出て来ないんじゃないか。……だから先刻、いわないこッちゃないんだ」
「わたしはお馬鹿ね」
お杉隠居は、すぐ後から来て、二人の間へ入ってしまった。隠居のことばを信じぬいているにしても、お通は、この老婆の側では、武蔵のうわさは、おくびに出しても悪いような気がして、自然に口をつぐんでしまう。
和やかに肩をならべて歩いても、お杉隠居の針のように細い眼は、絶えずお通へ油断のない光を配っていた。今では、姑とよぶ人でないまでも、お通は、窮屈な感じに身を締められた。――しかし、それ以上の複雑な老婆の狡智と、自分の前に横たわりかけている危ない運命を観ぬくことは出来ないらしい。
以前の五条大橋の畔まで戻ってくると、ここはもう元日の織るが如き人通りとなっていて、陽もうらうらと柳や梅の上に高い。
「武蔵、はてな」
「――武蔵などという兵法者がいるかしらて」
「聞いたこともないが」
「だが、吉岡を相手に、この通り、晴がましい試合をする程だから、相当な兵法者には違いない」
高札の前は、明け方にまさる人だかりだった。
お通は、ぎくとして、立ち竦んだ。
お杉隠居も、城太郎もそれをながめていた。魚の渦のように、群衆は武蔵武蔵という囁きをのこしながら、去っては来、来ては流れ去ってゆく。