あらすじ
古美術界に蔓延る「掘出し」の危険性を、北大路魯山人は「病気の元」と断言します。安易な利益追求に心が曇り、本来の芸術への探求心は失われてしまうのです。心身ともに健やかに、美術と向き合うことの大切さを説き、真の価値を見出すことの難しさ、そして、高価なものではなく、作者の精神が込められた「応える」作品を求める自身の変化を語ります。
 古美術界では、とかく掘出しが流行する。なんとか安く買って高く売りつけ、あわよくば千金、万金を一挙にせしめようという悪い傾向がある。
 掘出しというそのことに熱中してはいけない。ものそのものの芸術味に興味をもつことはよいが、利欲のための掘出しは既に不純なものがあって、身心の上にも害毒を流すものである。これを名付けて俗欲という。俗欲に耽ることは大いに警戒すべきである。
 この掘出し主義は、遂に人の持っているもの、愛玩しているものでも欲しくなり、これをなんとかして取り出すことに興味をもつようになる。そこには色々な無理も生じてくるのである。
 それよりも、世間並の相場で、堂々と物を買うという方が、どれだけよいか知れない。これは確かに身心のためにもよい。健康を欲する人は、この態度を失してはいけないと思う。
 掘出しにアクセクせず、縁あれば来り、縁なくば去って行くと思えば、身心の疲労はない。従って健康上いいわけである。たとえば、道具を見ていて、値段を聞かぬ前にそれを賞めると高くするとか、なんとかいう気苦労がない。そうすればしめたものである。実を言うと、十年位前までは、わたしもそうした掘出しに興味を覚えていたが今はもう昔語りである。
 物の欲は金の欲。損得がそれについているようで、どうもいやらしい。一万円のものは一万円出し、千円のものは千円で買うということは当然のことである。
 近ごろわたしの趣味はだんだん変って来て、唯古いばかりで無名のものでは満足出来ない。書でも絵でも古人の偉大なる人のものが応えてくる。仏教美術となると、また格別である。これは作者の銘などは問題でないが、一番応えてくるものである。いいものを持つに従って、仏教美術の世界が明るくわかってくる。偉大な人の作品には教えられるものが多く、それはもう友人でなく先生である。
(昭和十五年)

底本:「魯山人陶説」中公文庫、中央公論新社
   1992(平成4)年5月10日初版発行
   2008(平成20)年11月25日12刷発行
底本の親本:「魯山人陶説」東京書房社
   1975(昭和50)年3月
入力:門田裕志
校正:木下聡
2019年12月27日作成
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